イスラエルは虐殺をやめろ パレスチナに連帯し行動を
空爆と戦車の砲火にさらされ、気力も体力も極限状況に置かれているパレスチナから、人民の叫びと闘いが全世界に伝えられている。この壮絶な現実から目をそらしてはならない。この闘いを見殺しにしてはならない。この闘いと全世界の労働者人民の闘いが結びついたとき、帝国主義をうち破ることができる。パレスチナ情報センターのサイトから、サファ・ジューデー氏の「5日ガザ発のレポート」を転載する。紙面の都合上、編集委員会が要約し、見出しをつけた。
3日、戦車と歩兵が侵入
こちらの時間で、午後9時15分、イスラエル軍は、3つの地点からガザ地区に入ってきた。F16が上空から援護する中、ガザ市の東、そして北部のジャバリヤとベイト・ラヒヤから、パレスチナの人びとが住む地域に戦車隊が進軍してきた。同じ時刻に、ガザ最南端のラファにも、東南から戦車と歩兵部隊が侵入した。ガザ市のミンタル地区には、戦車砲と大砲の砲弾が雨あられと襲いかかり、海からもガザ市に向かって戦艦からの一斉砲撃が起こった。ガザ地区全域が包囲され、ミサイルと大砲の猛烈な攻撃が続いた。
ガザ市は、この数日間、停電が続いていて、どの家のラジオも電池が切れかかっていた。すでに1週間以上、ガザ市のほぼ全住民が家に閉じ込められた状態で過ごし、開いている店など1軒もない。ニュースは口伝えで伝わってくる話に頼るしかない。
気力・体力とも極限状況
このうえなく厳しい、絶望的な状況に置かれた中で、武器など持っていない一般の人たちに、猛烈な爆撃が浴びせられている。地上戦に先立つ8日間、イスラエル軍は、完全に無防備な人びとを相手に、世界で最も進んだ軍事力を、システマティックに、思う存分ふるいつづけた。
気力・体力とも限界に達した状態で、住民たちは、途方もない喪失感と焦燥感にさいなまれながら必死に耐えている。言うまでもなく、18カ月に及ぶ封鎖でガザはすでに、これ以上持ちこたえるのもほとんど不可能な状態に追い込まれていた。
イギリス・ロンドンで10万人の行動(2009年1月10日) |
瓦礫の下から子どもたちが
この数日間で、私たちは10以上のモスク、聖なる礼拝の場所が爆撃を受けるのをまのあたりにした。ほとんどが、その中で人びとが祈りを捧げている時のことだった。
私たちは、瓦礫の下から子どもたちが引きずり出されるのをまのあたりにした。その小さな体の中で折れていない骨はただの1本もないように見えた。私たちは、血まみれの死体と最後の息を引き取る人たちであふれかえっている病院をまのあたりにした。空爆を受けた現場で懸命の蘇生処置を受けている友人たちの姿をTVで見た。何家族もの家族全員がミサイルの一撃で地面もろとも吹き飛ばされるのを見た。
私たちの街が、家が、近隣の地域一帯が、とてつもない破壊行為によって、何だったのかもわからない瓦礫の山に変じていくのをまのあたりにしてきた。
イスラエルは、私たちの家に入り込み、私たちの街で私たちを攻撃し、私たちに向けて全開の暴虐さを発揮しつづけている。
レジスタンスが勇気を与えてくれる
今、ガザでは、パレスチナのすべての派が一致団結し、持てる限りの戦闘能力を結集して敵に立ち向かっている。
その戦闘能力は、イスラエルの軍事力に比べられるようなものでは到底ない。それでも、彼らの闘いは、私たちに、かつてないほど強く、パレスチナの人びとは自分たちのものを守るために最後の最後まで闘うだろうという確信を与えてくれている。抵抗と勇気と愛がパレスチナ人のアイデンティティにとって不可欠のものなのだということを、そしてそれは、私たちが耐えている苦難がどれほどのものであろうと、決して変わることはないのだということを示してくれている。
彼らの闘いは、私たちの心に力を与えてくれた。私たちが最も必要とする時に、心を支えてくれるものが出現したのだ。
パレスチナ解放人民戦線(PFLP)のアブー・アリー・ムスタファ旅団、イスラーム聖戦運動のアル・クゥドス旅団、ハマースのイッズッディーン・アル・カッサーム旅団、民衆抵抗委員会(PRC)のサラーフッディーン旅団、ファタハのアル・アクサ殉教者旅団、このすべてが結束し、統合されたひとつの最前線部隊として、100%の危険が約束されている中、私たちの街を、私たちの家を守るために闘っている。
彼らは皆、みずからの死が、無力な子どもの死をひとつでも阻むことできるのなら、それなら自分は死んでもかまわないという覚悟ができている。
私たちはひとつだ。私たちはこれまで繰り返し繰り返し苛酷な運命を受け入れてきた。しかし、ガザの人たち(その80%は難民だ)は、決して皆殺しにされるつもりはない。圧政と強欲に導かれるままによそからやってきた連中に、今一度この地から追い立てられるつもりはない。
今こそレジスタンスの時だ
攻撃のただ中にあっては、現在の状況を正しく判断することも今後を予測するのも難しい。死んだ人、怪我をした人の数も、私たちが失ったものがどのくらいなのかも把握するのが困難になっている。食べ物や水や暖かさや陽の光といった、生きていくための最低限の必需品がいつのことだったのか、それを思い出すのさえ難しい。
今、この時点で機能しているのは、人間としての最低限の本能だけ。愛するものを守りたいという欲求、シェルターを確保したいという欲求、闘う本能、逃げようとする本能。
私たちは、もう長い間、逃げつづけてきた。ガザは、私たちの最後の避難所、今イスラエルと呼ばれているものに取って代わられてしまったのちの、私たちの最後の家だ。このすべてが60年前に起こった。
イスラエルは、これ以上、いったい何がほしいというのか。私たちにはもうどこにも行くところはない。イスラエルは、現在ある国際法の条項をことごとく無視してきた。
今こそ、私たち自身を守る時、レジスタンスの時だ。
東京・芝公園から六本木に向かうデモ行進(2009年1月10日) |
「派遣村」が集会(15日)
「やっぱり必要!派遣法抜本改正 派遣村からの大逆襲」と 題する集会が、15日、都内で、派遣村実行委などの主催で開かれた。会場からあふれる400人が集まった。
派遣村村長の湯浅誠さんは、「すべり台社会に、どん底からはいあがるための階段を作る必要がある。企業は、派遣を切って寮から追い出した。その寮は今はがらんどう。これは本当におかしい。企業に責任をとらせる必要がある」「派遣は例外だといわれたが、そうではなくなった。『労働者を、犬猫のように使うが、派遣法は継続してほしい』という話は通らない」「事態はもっと深刻になる。全国の自治体に働きかけてシェルターと相談窓口を作らせることだ」と提起した。
また小谷野全日建書記長は「派遣切りは、戦後最大の企業犯罪。大企業の責任を追及するのがわれわれ労働組合の仕事だ」と訴えた。
(お知らせ)
革共同再建協議会のウェブサイトを開設。
☆次号(2月3日発行)から、紙名が『未来』に変わります。
2面
市東さんの農地強奪ゆるすな 2月3日第1回裁判へ
昨年10月17日、成田空港会社は、成田空港二期(B滑走路)の用地内農家である市東孝雄さんの農地にたいして、明け渡し請求を提訴した。その第1回の裁判が、2月3日に千葉地裁で行なわれる。
決戦の到来
これは、市東さんの農地を強奪しようとする大攻撃である。土地収用法が失効して手詰まりになる中で、農地と耕作者の保護を謳った農地法を、その農地法の趣旨とは180度逆の使い方で、農地の強奪を狙うという前代未聞のやり方だ。
国家権力が、その暴力性・反動性をむき出しにして、反対同盟農民に襲いかかってきている。三里塚闘争は、重大な決戦局面を迎えた。
裁判闘争の重要性
反対同盟は、この提訴をめぐる裁判を、大闘争として構えている。この裁判闘争は、現地闘争と一体で、敵の攻撃をうち破る闘いであり、実力阻止の決戦態勢を作り上げていくものだ。
市東さんにかけられた攻撃はひとり市東さんだけの問題ではない。トヨタなど大資本の生き残りのために、全国の農民と農業を市場原理にたたき込んで切り捨てる攻撃そのものだ。侵略戦争にのめり込む中で、権力に歯向かう者を根絶し、戦後憲法体制を解体しようとするものだ。
だから市東さんにたいしてかけられた攻撃を見すごしてはならない。これは全人民の課題なのだ。
デタラメと違法
空港会社がかけてきたこの新たな農地強奪の攻撃は、デタラメと違法の連続だ。
@当該の畑は、市東家が開墾し、親子3代90年にわたって耕しつづけてきた命の畑なのだ。この事実には揺るがすことのできない正義がある。
A農地解放時の手続き不備で、名義の書き換えが行なわれなかったことは、なんら問題ではない。親子3代90年にわたる耕作という事実によって、市東さんは所有権に等しい権利をすでに獲得している。
B88年4〜5月の空港公団(当時。現空港会社の前身)による地主からの買収は、農業者ではない空港公団による農地の買収であり、農地法違反だった。
Cそれを15年以上も転用せずに保有し続けたことも同法違反の上塗りだ。
D耕作者である市東さんに隠して買収を行ったことは、さらに悪質な同法違反だ。
Eしかも、地主は、買収に応じたことを15年間も隠ぺいして、市東さんから地代をだまし取りつづけていた。
F県知事からの解約許可取り付けにあたって、空港会社は、88年に行なった上記の買収を、15年後の2003年に行なったかのように時期を偽り、農地法違反を隠し、知事の「許可決定」をだましとった。
Gしかも、手続きや提訴においては、市東さんの畑の位置を間違え、それを指摘されても居直る有様だ。
このように、空港公団(当時)および現空港会社の違法性・不当性は明らかだ。このことを徹底的に突きつけるとともに、この事実を全人民に暴露し、「市東さんの農地を守れ」の大運動をおこそう。
2月3日の第1回裁判への結集と注目を訴える。
《行動方針》
2月3日(火) ◎千葉地裁デモ 午前9時 千葉市中央公園集合(JR千葉駅から歩
10分 パルコ前)
◎傍聴闘争 午前10時 千葉地裁前集合(法廷は405号 開始は
11時)
市東孝雄さんの訴え
昨年10月5日の三里塚現地集会で訴える市東孝雄さん |
畑を作ることが実力闘争です。畑が私の闘争現場です。そして、この先、もし私の畑に空港会社が手をかけてくるなら、私は実力阻止の闘いをします。
白わくで囲んだ畑(ABC)が、市東さんが親子3代90年にわたって耕作してきた農地。AとCについて、空港会社は、「不法耕作地だ」とでっち上げてすでに提訴し、裁判が行なわれている。 今回、BとDを「契約地だが、解約した」として、新たに明け渡しを求めて提訴してきた。Dについては、市東家では一度も耕したことがない。 |
三浦五郎さん逝去
14日午前7時30分、反対同盟本部役員の 三浦五郎さんが逝去されました(享年96歳)。どんなに厳しいときでも、階級闘争を語り、社会主義を語って、全国の人民を鼓舞されてきました。遺志を引き継いで闘うことを決意します。
年越し派遣村に参加して
わたしたち関東「障害者」解放委員会の仲間は、1月2日、3日と派遣村に参加し、5日の国会請願デモにも参加しました。「視覚障害者」の仲間は、マッサージや鍼を行い、「健常者」の仲間は、記録の入力作業に協力してきました。
東京・日比谷公園の派遣村で行われた炊き出し(1月4日) |
日をおって増える労働者
日を追うごとに、苦境に立たされた労働者が集まってくるのを感じました。2日は、男性ばかりのような印象でしたが、3日に入ると女性の姿も増えてきました。ボランティア志願者は、登録のために列を作ります。
宿泊用に50張り以上のテントがあり、労働や生活や法律相談のテントもありました。医師による診察も行われ、ときどき、病院に搬送される人たちもいました。健康も蝕まれていることが痛感されます。
体も痛んでいる
マッサージは、大テントの一角で行いました。中はストーブがたかれていますが、上着をきていないとやはり寒いのです。風が強ければ吹き込んできます。だから、服の上から治療するのですが、腰や背骨が痛んでいるのが判ります。
ある人は、夕方5時から朝の5時まで、20キロ〜30キロの荷物を梱包し続けてきたとのことでした。1日に300個前後、多い時には500個こなしたと言います。60歳で、建設の日雇いをされてきた人もいます。昨年は非常に仕事が減って、朝行っても仕事がない日が多かった、と言います。自殺を考えた人もいました。
チョコ1枚で1週間
こんな話をしてくれた人もいます。「宅配便10年、タクシー10年、ホテルマン10年やってきて、この間2回日比谷公園で野宿した。ダンボールをしいて横になっただけで、眠ったら凍死するので必死で眠らないようにしていた。雨が降ったらおしまいだった。地下道に行けば風は防げるのだが、動く気力は無かった。チョコレート1枚で1週間生き延びることができた。親は91歳、兄は工場経営だが、不況でとても援助は頼めない。落ちる所まで落ちるしかない。」
こき使ったあげくにきりすて、命の危険にまで追い込む現代の資本主義社会に強い憤りを改めて感じます。この人たちを支え、この人たちと共に、この社会を根本から変革したいと心に誓いました。
国会へデモ
5日のデモには、いろいろな労組の旗がありました。ペルー、イラン、インドなどそれぞれの国の言葉でスローガンを掲げている労働者もいます。ペルーの人は、「みんな首にされた」と語っていました。こうした外国からの労働者も仲間として防衛し共に闘っていきたいと思います。そうであるがゆえに「国民の力で・・・」というシュプレヒコールには強い違和感を感じました。
国会では、野党と共に公明党の議員団が出てきています。自民党は全く姿を現しません。「公明党は帰れ!」デモ隊から激しい野次が飛びました。
ここに集まった人たちの生活の再建はこれからです。そして、失業の深刻さもさらに深まります。わたしたちの力がますます問われています。(関東「障害者」解放委員会 東 正治)
派遣村の取り組みを全国へ
派遣村の活動は、生存の危機にたたき込まれ、文字通り行き倒れ寸前の労働者を、ギリギリのところで支援・防衛する取り組みであった。同時に、それは、派遣労働と派遣切りの現実を社会に訴え、政府と資本家に突きつける闘いとして取り組まれた。
しかし、派遣村に来た500人はごく一部であり、まだ全国で膨大な労働者が生命の危機にさらされている。問題は何も解決していない。
・法的には、住居がないことで生活保護申請を拒否してはならないが、実際は全国で申請拒否が相次いでいる。これを突破して、申請を受理させた派遣村の闘いの地平を、全国に広げよう。住居をかちとろう。・派遣村に学び、全国で避難所・シェルターを開設しよう。自治体に要求し、かちとろう。・「ワークシェリング=大幅賃下げか、派遣切りか」という資本家の分断攻撃を許すな。大企業に内部留保をはき出させよう。・登録型派遣も、製造業への派遣も、労働者を生存の危機に陥れるものだ。派遣法を全廃させよう。・正規・非正規の雇用形態を問わず、すべての労働者の均等待遇を要求しよう。・失業対策事業を、政府・自治体から闘いとろう。・これらの取り組みを推しすすめるために、党派・労組の垣根を越えて、ネットワークを作ろう。
これらの闘いは、労働者階級が団結を回復し、闘う主体として立ちあがり、また、経験豊かな活動家層を形成し、資本主義・帝国主義を打ち倒す陣形を一歩一歩作り上げていく過程にほかならない。すべてのたたかう仲間は、この闘いに飛び込み、学び、ともに前進していこう。
3面
田母神問題と対決し憲法改悪をとめよう 2・1憲法集会へ
麻生政権は、末期的な危機にある。総選挙の敗北も必至である。そういう中で、消費税の増税と、海賊対策を名目とした海上自衛隊のソマリア沖派兵と集団的自衛権を行使するための政府解釈の見直しを打ち出した。麻生は、ブルジョアジーの反動的結集を図って生きのびようとしている。
派遣切り・大リストラと切り結ぶ09春闘と、反戦反基地闘争(沖縄・三里塚・岩国)とを両軸に、改憲阻止の大運動をつくりあげよう。
田母神問題は改憲の焦点
田母神問題は、自衛隊の侵略軍隊化の現れであり、これを改憲阻止闘争の焦点として闘う必要がある。
田母神の言動が、「驚くべきシロモノ」「与太話」であるとする反革命カクマル(『解放』2047号)は論外である。また、問題を自衛隊の一部幹部の特殊な言動ととらえるJRCLの諸君(『かけはし』2052号)のような平和主義は間違っている。その裏返しとして、田母神の主張が、あらかじめブルジョアジー全体の「階級意志そのもの」(『前進』2372号)となっているかのようにいう安田派のような敗北主義も、闘争の妨害物に過ぎない。
彼らに共通する問題性は、日帝の侵略と治安弾圧の最大の暴力装置である自衛隊を、危機と矛盾をはらんだダイナミックな階級闘争の対象(および主体)としてとらえることができない点にある。
改憲阻止闘争がすでに、自衛隊の存在そのものをめぐる攻防に突入しつつある。戦争と侵略が問題になるとき反戦・反軍闘争を闘わず、改憲が全面化してきたとき改憲阻止を主張しない、現代のカウツキー主義者の姿がここにある。
自衛隊の大変貌
自衛隊は、いま、世界規模の侵略戦争、世界戦争に対応しようとして、大変貌を遂げつつある。
防衛庁の省昇格(07年1月)をテコに、統合幕僚監部・情報本部・中央即応集団の設置、師団の改変と米軍との共同演習の強化などが、全世界規模の米軍トランスフォーメーションと一体で進められている。
そして、核兵器、本格空母、弾道ミサイル、原子力潜水艦の保有が狙われている。
また国民保護法、民衆と自治体の関係の再編(道州制)、警察・海上保安庁・消防・病院の動員、教育を基軸にした国家主義と天皇制イデオロギーの鼓吹、軍事大国化の基礎をなす軍需産業と素材産業の形成などが推進されている。
苦悩する自衛隊兵士との連帯
この中で自衛隊兵士は、侵略戦争や治安出動を命じられ、生死を問われ、その正義性に悩み苦しんでいる。 この苦悩する自衛隊兵士に応えることができるのか。労働者人民が自衛隊を政治的に包囲し、うまずたゆまず働きかけること。自衛隊兵士を内側から組織し、銃を持って労働者人民の隊列に合流すること。そのためにも侵略・治安出動する自衛隊との流血を辞さない闘いで兵営に階級闘争を持ちこむことである。
安田派のように、労働者がゼネストで包囲すれば自衛隊が消えてなくなるかのような平和主義は、労働者人民を大流血にさらす敗北主義であり、殺人機械としての役割を強制される自衛隊兵士の苦悩を共有することができない厭戦思想である。
田母神問題とは何か@―軍部の政治勢力化
田母神自身、「国内政治(これを“第2の戦場”と言う)でも自衛隊は強くあるべし」と称して、政治家・官庁に働きかけ、民間団体(軍需産業や「新しい歴史教科書をつくる会」派など)工作をしてきた。政治家・政党・マスコミにたいしては、「反自衛隊、反国家のマスコミや政治家が数多く存在する」「自分たちの地位向上のためには、この国をよその国に売り渡して平気なのか。国家国民のことよりも自分のことを優先するのか」などと攻撃している。
天皇主義的・農本主義的反乱を実行した2・26のクーデター(1936年)の将校気取りである。自民党国防族や防衛産業関係者などの中に、この田母神を支持し一体化する部分が出現している。
田母神問題とは何かA―軍部の自己運動化
田母神は、空自隊内誌『鵬友』で日頃から持論を展開し(公然と認めている)、統合幕僚学校(2佐、1佐クラスで年齢は40代前半が対象)長時代に「国家観、歴史観」講座をつくったりしている(テーマは、東京裁判、日本国憲法の問題点、「大東亜戦争」の評価など、講師は「新しい歴史教科書をつくる会」の反動イデオローグ)。
なによりも、空幕長としての地位を利用して部下隊員を扇動し、組織化しようとしたこと。田母神の指示で97人の自衛官が同内容の論文を執筆・応募し、そのうち62人が第6航空団(小松基地)の所属だった。
第6航空団は、朝鮮半島正面に位置する常時臨戦体制の戦闘機部隊である。そして日本海に大きく広がり、南北朝鮮の政権との領有権争いで緊張する「獨島(竹島)」に隣接する「G空域」を常時制圧下においている。この部隊のパイロットたちを対象に、排外主義と侵略思想で組織しようとしたのである。
田母神問題とは何かB―改憲の突撃部隊化
田母神は、参院参考人質疑でも公然と、自衛隊を軍と認めない日本国憲法は書き換えが必要とし、9条だけでなく、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」となっている前文の改正も必要だと主張した。
そして、自衛隊が命をかけて任務遂行にあたっているときに、(昨年4月の名古屋高裁判決のように)それが憲法違反と言われては、隊員達も立つ瀬がないと本音をさらけ出している。
さらに、改憲が困難である場合には、「何らかの形の政府の強いリーダーシップが必要である」と、クーデター的な強行策を提案している。
また、安倍政権が目指したように、首相のもとに日本版NSC(国家安全保障会議)を設置して、そこに(制服の)将官が入って首相を補佐することが望ましい、現在の安全保障会議は決定事項の追認機関に成り下がって形骸化しているから、NSCは防衛政策と外交政策の国家の司令塔になることを目指す常設機関となるべきだと主張する。
また「反自衛隊や反政府活動に対して、自衛隊はタフであるべきだ」として、スパイ防止法と機密保護法の必要性をわめいている。
核武装を扇動
田母神が、「防衛政策で見直すべき点」として主張している点に、改憲突撃隊としての本質が表れている。
第一に、「専守防衛」の破棄である。金がかかりすぎる、戦略として非効率、主導権を敵に奪われる、「攻撃こそ最大の防御」、敵地=「策源地(ミサイル基地や爆撃機等発進基地)」攻撃能力を持つべき、「集団自衛権」の行使ができるようにすべき、などと主張し、改憲を狙う政治・軍事勢力の結集を図ろうとしている。
第二は、「非核三原則」の破棄=「核保有論」である。
そのために、「日本が核攻撃を受けたのは核兵器を持っていなかったからだ」(サッチャー)などというデマゴギーを振りまき、核抑止のためには核保有が必要、核保有はしなくてもいつでも核保有する姿勢を示すことで大きな抑止力となるとして、米国と核兵器の発射ボタンを共有するニュークリアシェアリングに踏み込む必要があると主張している。
第三は、「武器輸出三原則」の見直しの主張である。
武器輸出禁止を解除して武器を大量に造れば兵器の値段も下がる、米依存の国防をやめて「国家として自立すべき」ということを根拠にして、自衛隊自身が防衛産業の育成をもっと強く打ち出さなければならないとしている。
拉致問題も軍事力で解決と主張
田母神は、軍事力で(をバックに)解決すべき問題として、「自衛隊が北朝鮮に乗りこんで拉致被害者を救出すべき」とし、「東シナ海(ママ)」の油田の問題、「竹島(トクト)」「尖閣列島(ティアオユタイ)」や「北方領土」の問題を挙げている。
文民統制の否定
改憲突撃隊としての田母神の主張で重要な点は、シビリアンコントロール(文民統制)の理解である。
彼は、「問題の解決に軍を使うか否かの決定」を政治が行うだけで、それ以外の「軍の細部に政治が介入することではない」と主張する。そして、「文民統制をこれ以上やると、自衛官が動けなくなる」(参院参考人質疑での発言)などと開き直っている。
田母神の教育観
また田母神は、教育観で正体をさらけ出す。彼は、「教育は強制だ」と主張する。「日の丸・君が代」について、「日教組が言うように子供の自主性とか個性に任せる」ことに反対する。そして、「自虐史観で国は守れない」「戦後教育による『日本は侵略国家』などという呪縛からは、精強な自衛隊も任務の遂行も困難」、等々と主張する。
さらに、田母神の差別・排外主義言辞は許せない。「沖縄では強姦事案やわいせつ事案が多く起こっているのだから、米軍兵士によるわいせつ事案のときだけ大騒ぎするな」などとは、絶対に吐かせてはならない。
2・1憲法集会へ
以上のように、田母神問題は、日本帝国主義が侵略戦争・世界戦争への踏みだし、自衛隊が侵略軍隊へと変貌を遂げつつある中で登場してきた問題だ。その過程で自衛隊の内外で生じる矛盾と軋轢を反動的に突破しようとする動きである。
田母神問題との対決を、改憲阻止闘争の大きな焦点にすえよう。そして、改憲阻止闘争の中で、自衛隊の存在を問い、自衛隊をその内と外の両方から解体し、兵士を人民の側に獲得する展望を切りひらこう。
2・1憲法集会が呼びかけられている。この集会は、日本が、アメリカの侵略戦争に参戦し、戦後憲法体制を転覆しようとしていることに対して、広範な人びとが連帯して、反撃を組織しようとする取り組みだ。この集会を大成功させよう。
(集会要項)
輝け憲法! 許すな「日の丸・君が代」強制! 2・1 大集会
日時:2月1日(日) 13時開場 13時半開会
場所:守口文化センター大ホール(大阪府守口市)(京阪電鉄「守口市」駅すぐそ
ば)
内容:講演(土井たか子さん/北村小夜さん)、門真三中報告、ライブ、ビデオ、他
主催:2・1 大集会実行委員会
4面
1984年の第四インターに対する軍事的せん滅戦にかんする自己批判 革命的共産主義者同盟再建協議会
(一)
革共同関西地方委員会は、昨年7月27日に行われた革共同政治集会において、先制的内戦戦略の第二段階(フェーズU)の厳格な総括を行うこと、とりわけ80年代後半の革命軍戦略の問題性を明らかにするとともに、84年の第四インターに対する軍事的せん滅戦を反省的に総括することを提起した。
この提起を受けて行われた組織的な討議に基づいて、革共同再建協議会は、われわれが84年に第四インターに対して行った軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであり、そのことによって階級闘争全体に少なからぬダメージを与えたことを率直に自己批判する立場を、昨年12月7日、大阪府下で開催されたKCM(関西共産主義運動)シンポジウムにおいて明らかにした。
(二)
革命軍は、84年1月9日、1月10日、7月5日、7月14日に第四インターに所属する8人に対してせん滅戦闘を行った。
われわれは、当時、三里塚芝山連合空港反対同盟の83年3・8分裂を転回点として、第四インターが、「日帝・空港公団の二期攻撃=反対同盟破壊攻撃の先兵」へと転落したと規定した。
そして、一連の軍事的せん滅戦を、「83年の5・29仙台と7・1大阪における第四インター白色行動隊による暴行と28名のわが同志の権力への売りわたし行為、11・20脱落派による岩山記念館破壊と当直員に対する殺人的襲撃、その他三里塚現地におけるわが同志たちへの脱落派の31件のテロ・リンチ行為に対する等価報復の権利」(『共産主義者』第60号「革命軍アピール」)の行使であるとした。
(三)
83年3・8分裂の直接の契機は、前年の年末に突如浮上した「一坪再共有化運動」であった。
当時、空港公団が成田空港二期工事の着工に向けて「一坪共有地」の買収を開始したことに対抗して、反対同盟は共有地の名義を同盟員に書きかえる活動を進めていた。
ところが、「一坪再共有化運動」は、これとは反対に、「一坪共有地」の共有権をさらに切り分けて、一口1万円で売却して総額1億5千万円を得ようとするものであった。これが、反対同盟の「農地死守・実力闘争」「二期阻止・空港廃港」という基本路線を否定し、「空港との共存」へと路線転換を意味することは明らかであった。
当然にもこのような「再共有化」にたいして、二期工事敷地内の反対同盟農民から、「共有地を不特定多数に売るな」という強い反対の声が上がった。
ところが、「再共有化」推進グループは、敷地内農民を支持する立場をとった北原鉱治事務局長を、「中核派に引き回されている」と誹謗中傷し、一方的に「解任」を決議した。そして、83年3月8日、「同盟総会」なるものをでっち上げて、反対同盟の分裂を強行したのである。
「3・8分裂」から26年が経過した今日、国家権力による二期工事敷地内・市東孝雄さんへの農地強奪攻撃の切迫に対して、反対同盟は、一歩もしりぞくことなく「農地死守・実力闘争」の旗を高く掲げて、日本帝国主義を揺るがす決戦に挑んでいる。
この事実が示すように、われわれが「一坪再共有化運動」に反対し、「農地死守・実力闘争」「二期阻止・空港廃港」という基本路線を、反対同盟とともに守り抜いてきたことの正義性は、ますます明らかになっている。
(四)
以上の経過を踏まえるからこそ、われわれは、第四インターせん滅戦が誤りであったことを明確にするものである。
なぜならば、「3・8分裂」という日帝・国家権力の全体重をかけた三里塚闘争圧殺攻撃を、日本階級闘争が真に乗り越えていく道は、労働者階級・人民大衆自らが反対同盟農民の闘いの正義性に依拠し、「一坪再共有化」推進グループによる三里塚闘争からの逃亡とその破壊を圧倒的な弾劾の声で包囲し、二期決戦に向けて敷地内反対同盟を先頭にした広汎かつ強固な大衆闘争陣形を形成するという闘い方をするべきであったのであり、それ以外にはなかったはずだからである。
われわれは、この労働者階級・人民大衆自身による壮大な事業を、「軍事的せん滅戦」によって代行しようとした誤りを率直に認めなければならない。このようなやり方は、労働者階級自身による政治と暴力の奪還を阻害することにしかならないのである。
当時われわれは、「先制的内戦戦略の第二段階の戦取」として「革命的武装闘争を基軸とする三里塚二期決戦を突破口に国家権力との対峙段階を戦取し、階級闘争全体の革命的転換をかちとる」(82年1・1政治局アピール)と主張していた。
これは、〈労働者階級の階級的決起を基礎にして国家権力を打倒する〉というのではなく、〈対国家権力の武装闘争に、労働者階級全体を巻き込んでいく〉という転倒した発想であった。こうした発想の中に、「革命党のたたかい」を優先させ、革命の主体としての労働者階級・人民大衆の存在とそのたたかいを軽視する傾向が色濃くにじみでていたのである。
(五)
もとよりわれわれは、カクマルのような民間反革命勢力との内戦に、労働者階級・人民大衆が立ち上がることや、反革命分子に対して赤色テロルを行使する権利を、断じて放棄するものではない。
しかし、84年第四インターせん滅戦は、労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線的対立を、相手を「反革命」とまで規定し、組織的な暴力を行使することによって、決着をつけようとするものだったのであり、そこには、われわれがいまだにスターリン主義の「粛正の論理」を真に乗りこえていないという問題が突き出されているのである。
本来、革共同の反スターリン主義の核心は、スターリン主義を「一国社会主義を本質とする国際共主義運動の疎外態」と規定し、それを打倒対象として措定しただけでなく、われわれ自身もふくめた党と共産主義運動が「専制と粛清」のスターリン主義的変質をきたす危険とたえず闘うことを明確にしてきたことにあったのである。
われわれは、その思想的核心を後退させ、空洞化させてきたということを痛苦の念をもって確認しなければならない。
(六)
われわれは、84年第四インターせん滅戦を総括し、その自己批判を明かにするまで、25年もの歳月を要したことを、反対同盟をはじめ、これまで三里塚闘争に心を寄せ、いまもたたかいを担っているすべてに人々に謝罪する。
われわれは、世界が新たな激動の時代を迎える中で、とりわけ三里塚闘争が、市東孝雄さんの農地強奪攻撃と対決して、歴史的な決戦に突入しているなかで、根底的な自己変革をかちとり、スターリン主義を乗りこえ、日本階級闘争の戦闘的革命的発展と国際共産主義運動の復権にむけて闘うことを決意する。
大震災のときよりひどい―14年めの被災地
「14年、よく生きてきたなー」と、95年の阪神淡路大地震から14年目の1月、被災地労働者企業組合の長谷川正夫さんが言う。
仕事場が焼けて、仕事がない。それなら自分たちで仕事をつくろう、助け合って生きていこうと、企業組合を立上げた。しかし賃金も十分に出せない。遅配、欠配でしのいできた。
「やっぱり自分たちがつくった仕事場という想い、お互いの信頼で、苦しいときを乗りこえてきた。それが団結ということじゃないか」と、理事長として引っ張ってきた長谷川正夫さん。
しかし、去年の秋から状況は悪くなる一方だ。材料費が2割も上がり、問屋は引き取り額を1割下げてくる。計3割。「もうどこも削りようがない」。
そして、この不況で、ケミカルの受注減は「例年の40〜50%減。震災のときより、ひどい」(『神戸新聞』11/27)。
「見える倒産じゃない。朝行ったら潰れていた。正月終わったらシャッターが開かない、というのが出るやろな」と聞いた翌日、「やっぱり1軒倒産したでー」と電話があった。靴の出荷用紙箱を作っていた中堅の印刷会社だという。ケミカルシューズ業界はお互いにつながっている。金型鉄工所から内職さんまで、暮らしに響く。
兵庫県神戸市長田区のワーカーズコープで、ナースシューズの縫製をするミシン仕事の現場(1月7日) |
震災14年めの生活実態
震災10年目の04年、被災者団体が共同して生活実態調査をおこない、復興住宅を対象に約2300通を回収した。
住居の再建が「完全に再建、概ね再建」35%、「ある程度、まだ途上」36%と半々、しかし「再建は不可能」が29%もある。家計収入の回復程度では「震災前と同じ」15%、「減少」53%、「回復不可能」30%ときびしい数字が並ぶ。
少し前の資料だが10年目でこの状態。その後4年で改善したとは思えない。
復興住宅に入っている何人かの知人に聞いた。
多くが70歳を過ぎ、単身者や、夫婦2人暮らしだ。最近の調査(復興住宅)でも「60歳以上」が60%。「一人暮らし」43%、「夫婦だけ」を加えると70%を超える。
収入は、年金がもっとも多く42%、年収200万円未満の世帯が60%近い。100万円未満20%。30%の世帯が預貯金ゼロ。
高齢化がすすむなか、孤独死は報道もされなくなった。
被災者支援法も適用されず
98年に被災者支援法が成立、07年に改正され、生活・住宅再建などに最高300万円が「給付」されることになったが、95年の阪神淡路大震災には遡及適用されない。
住専や銀行救済に兆単位の公的資金を投入しながら、「私有財産には補填できない」と住宅や生活再建は個人に責任を押しつけた。
多くの被災者が、生活資金貸付にすがった。その結果、兵庫県内の貸付総額は1309億円、約5万6千人。低金利時代に3%の利息までつく。昨年9月末で未償還額(返済できない)は218億円、1万5千人にのぼる。最高350万円を5年据置き5年延べ払い、年間約74万円、半期37万円の返済は被災者に返せる額ではない。負担は「連帯保証人」にもかぶる。
2010年には減免を全廃
国の利子負担や各種減免措置が次々に廃止され、2010年度ですべて打ち切られる。神戸市は、国の公営住宅法改悪に便乗し、今年4月から家賃を値上げし、減免制度を大幅に見直そうとしている。
これまで7割減免をうけてきた約1万4千世帯のうち64%の9千世帯、5割〜1割減免5千世帯のうち76%、3千8百世帯が値上げとなる。
他にも敬老パスの廃止・有料化、対象者約1800人の重度心身障害者介護手当(月1万円)を廃止した。
昨年10月から1か月で、神戸市では約4600件の中小企業融資相談があった。前年の1年分の件数になる。震災による借入金、借り替えなどの負担が終わらないところに、大不況が直撃している。
もともと神戸は失業率が高い。震災前90年の全国平均3・0%、神戸市3・9%、震災時95年は全国4・3%、神戸6・9%と2・6ポイント差に跳ね上った。5年後の2000年になっても、全国4・8%にたいして神戸は7・1%と、2・3ポイント差。05年全国4・4%、神戸4・9%の推移がつづく。昨年末の有効求人倍率は、全国0・76倍に比べ、兵庫0・69倍と低い。
「14年前の被災地の姿と重なる」
「国会に、労働者が出資し合う共同組合を支援する法案を出す、という報道があったが、簡単ではない。いま必要なのは失業対策だ」と長谷川さん。
関西合同労組・石田勝啓委員長は「09年は越年派遣村と、ガザへの空爆で始まった。寮から追い出された労働者、瓦礫のなかの遺体。人の命、尊厳が、かくも引き裂かれていいのか。14年前の被災地の姿と重なる。私たちは焼け跡から立ち上がり、全国の支援に助けられ生きぬいて団結してきた。いま、それを返すとき。全国で反撃のたたかいをつくろう」と呼びかけている。
(三木博史)
全国 | 神戸 | |
---|---|---|
90年 | 3・0% | 3・9 |
95年 | 4・3% | 6・9 |
00年 | 4・8% | 7・1 |
05年 | 4・4% | 4・9 |
全国 | 0.76倍 |
---|---|
神戸 | 0.69倍 |
5面
【甦る労働組合】と『鉄路に生きる!』を読みくらべて
安田派の感想文提出運動
現在、安田派内部で新たな思想統制が強まっている。中野洋氏が書いた『甦る労働組合』(08年10月刊)にたいする感想文提出運動である。安田派の09年首都圏新年総会の基調は、以下のように書かれている。
「本書は、基幹産業で革命の灯火を燃やし続けた筆者が、45年余りの集大成として、労働者階級の団結の書として、プロレタリア世界革命の導きの書として敢行(ママ)された。それは党の歴史そのものである。」
つまり、安田権力体制のもとで党の歴史は、『甦る労働組合』のとおりに整理された。全党員は、これを承認する義務がある”ということだ。この間の例によれば、「拒否するものは塩川派とみなす」となることは間違いない。スターリン派なみの「再登録運動」であり、組織暴力の極みといえる。
1997年動労千葉 第24回臨時大会
私は、これまで一貫して、動労千葉を支持し続けてきた。
中野洋氏が、個人の責任において何を書こうが自由だ。また、私は、彼ほどには労働運動の経験が豊富ではないので、本書の全面的検討はここではしない。
だが、『甦る労働組合』が、その核心部において、労働組合としての国鉄千葉動力車労働組合の総括とは別の内容であることを確認したいと考える。
ここでは、国鉄千葉動力車労働組合が、1999年3月13日に刊行した『鉄路に生きる! 動労千葉20年の軌跡』と対照することとする。
この本こそが、労働組合としての動労千葉の集大成ともいうべき本である。
清算事業団との和解
『鉄路に生きる』に書いてあるにもかかわらず『甦る労働組合』では抹殺されている重要な事実の第一は、1997年第24回臨時大会である。
『鉄路に生きる』197ページの年表では、次のように書かれている。
「1997年4月27日 第24回臨時大会(千葉市民会館)(第一波・第二波公労法解雇撤回ほか清算事業団との和解を確認)」
この件については、同書89ページに次のように書いてある。
「和解内容は、28名全員の解雇撤回、ただし和解時点で雇用関係の終了を確認し、この間の未払い賃金分を和解金で支払うとともに、第一波ストに対して国鉄当局が起こした三千数百万円のスト損賠訴訟も取り下げるというものであった。われわれは、これが国鉄時代の解雇事件であり、当事者が清算事業団で、事実上復帰する職場がないこと、被解雇者の年齢的条件、公労法による解雇の全員撤回は、国鉄労働運動の歴史の中で前例のない大きな勝利であること等を判断し、この和解受け入れを確認した。」
念のために言うが、私はこの和解に反対しているわけではない。動労千葉がいうとおり、当時の力関係のなかでは大きな前進であるし、粘り強い職場闘争の積み上げのうえにかちとった勝利だと思っている。今日問題になっている4者4団体との関係からいっても、職場闘争を基礎にかちとったこのような勝利的和解の実現を押し出して、「闘争団は屈辱的和解を拒否し、職場労働者と団結を強めて動労千葉のように勝利までたたかおう!」と呼び掛けるべきではないかとも考える。
党員にたいし事実を隠蔽
問題は、安田政治局員が安田派内部において動労千葉の二波ストライキ闘争のこの結末を意図的に党員にたいして隠すことにより、党内に発生している現象そのものにある。
現在、こうした和解の事実を知らない安田派青年同盟員の一部に、「動労千葉の国鉄分割・民営化反対ストライキのように非和解でたたかおう。労働委員会や裁判は体制内だから一切やらない。解雇撤回の交渉などという古参労働者党員は体制内的に歪んでいる」という労働組合運動についての著しい「勘違い」が発生している。
しかもこの二波ストライキ闘争その他の和解金で建設したDC会館ビルに集合しては、このような「絶対非和解の勘違い」を増幅させているのである。言葉通りに「一切の和解反対」ならば、そう信じる諸君はまずDC会館ビルに依存しないことが先決なのではないか。
安田政治局員は、公式には、この24回臨時大会への指導について一度も撤回したことはない。しかし、4者4団体との関係においても、青年労働者との関係においても、安田政治局員は、動労千葉で公式に決定されたこの事実をひた隠し、みずからを「非妥協的指導部」として演出しているのである。
こうした使い分けこそが、安田政治局員の本性なのだ。
三里塚ジェット闘争の抹殺
『甦る労働組合』では抹殺されている重要な事実の第二は、81年3月三里塚ジェット燃料貨車輸送阻止闘争である。
『鉄路に生きる』61ページでは以下のように書かれている。
「81・3(注:81年3月の意)闘争の意義はきわめて大きいものであった。
第一にそれは、動労千葉1300のたたかう団結を不動のものにしたことである。81・3闘争によって本部革マルの『地本再建』策動は最終的に粉砕され、この年6月には動労千葉最後の未結成支部であった銚子支部も結成大会をかちとった。
第二にそれは、公然化するに至っていた右翼労戦統一に向けた動き、そしてなによりもまもなく全面化する国鉄分割・民営化攻撃を前にした情勢に対して、労働運動が進むべき道すじについて確固とした自信と確信をもった。数年後の国鉄分割・民営化をめぐる決戦において、孤立を恐れず二波のストライキ闘争を打ちぬく力も、81・3闘争を通して形成されたといっても過言ではない。」
つまり、三里塚労農連帯のたたかいが、動労千葉がたたかいとった動労本部からの分離独立と国鉄分割・民営化阻止二波ストライキを準備した核心だということなのだ。
安田政治局員の「新自由主義との対決」という「時代認識と路線」が、単純にそのまま動労千葉組合員に浸透して、そこから単純に二波ストライキが準備されたのではない。この内容が『甦る労働組合』では抹殺されている。
しかも許せないことに、81・3闘争をこのように抹殺しておきながら、『甦る労働組合』の表紙および中表紙の写真は81・3ストライキの写真が説明無しでこっそり使われている。(『鉄路に生きる』の58ページと61ページの写真を参照)
新年総会を欠席した安田
紙面の都合で、ここでは以上2点のみとするが、これだけでも『甦る労働組合』の内容が、労働組合としての動労千葉の総括と大きく異なることがおわかりいただけると思う。
ところで、過日、行われた安田派の新年総会を、安田政治局員とその「後継者」とされている幹部が、同時に欠席するという異例の事態が発生した。
会場前方ひな段には、彼らが座るべき椅子が終日空席のまま、異様な雰囲気を演出していたそうだ。党員総会を招集しておきながら、自ら欠席するとはいったいどういうことか。これは、ダラ幹の体質だ。革共同の党風ではない。
われわれ古くから動労千葉を支援してきた労働者は、安田政治局員の「階級移行」について、これからも注意深く見まもっていきたいと考えている。 (安川洋一)
(映画案内フツーの仕事がしたい 土屋トカチ監督
過酷で低賃金の労働を強いられ、身も心もボロボロにされていくセメント運送運転手が、ついにユニオンに加盟して、生きるための闘いに立ちあがっていく。「震えるほどの怒りと、それ以上の感動」(雨宮処凛さん)のドキュメンタリー。
1月24日(土)〜30日(金) 12:50
第七芸術劇場(大阪・阪急十三駅から西へ3分)
06‐6302‐2073 一般1500円 学生1300円
6面
清水式・新自由主義亜段階論と動労千葉特化運動の破たん
【本紙21号・22号に掲載した掛川論文の続きです。10月下旬に届いていましたが、編集の都合、今号の掲載としました】
新自由主義政策とは
安田派は、この間、事実上、新自由主義政策を帝国主義の新たな段階論として措定し、これと唯一たたかってきたのが動労千葉で、運動は動労千葉に特化せよ、と叫んできた。
だが、資本の新自由主義政策とは、74―75年世界恐慌とベトナム敗戦に伴う米帝の世界支配の動揺という時代基調のなかで、米帝世界支配の巻き返しをかけた経済政策、恐慌対策という領域をなす問題である。これは政治・軍事面では、レーガン以来の対ソ核軍拡政策、すなわち対スタ対決・帝間争闘戦と一体をなすものとして推進された。この米帝の巻き返しは、特にソ連を崩壊にまで追いやることで一時的にせよ米帝の一極世界支配体制を成立させるにいたり、経済面では「規制緩和」で投機経済の綱渡りを長期継続させたことを基底にして、労働者階級に多大な負担を強いることにある程度成功した。
わが党はこの世界史的反動のなかで三里塚基軸論を掲げてたたかい抜き、今日的には多くの間違いや限界をはらんでいたとはいえ、三里塚空港反対同盟や動労千葉、部落解放同盟全国連など幾多のたたかう人民の拠点を防衛することに基本的に成功したと言える。
戦争と貧困とのたたかい
今日、恐慌勃発を最後の引き金として米帝世界支配がついに崩壊し始めたが、これは政治・軍事面では帝国主義が米英日VS独仏(とロシア)の2大ブロックに分裂する形で現れている。この世界戦争危機は統治形態の反動的転換を伴い、いよいよ「日帝の朝鮮・中国侵略戦争阻止」「改憲阻止」の政治決戦が本番を迎えることになる。また経済面では新自由主義政策の全面破綻すなわち統制経済への転換が進み、体制内労働運動すら認めない労組破壊の攻撃と社会保障制度全般の解体が行われ、これとのたたかいが切迫した課題となる。
安田派の虚構と誤り
安田派が捏造した「新自由主義段階と唯一たたかってきた動労千葉」なる虚構は、明らかに米帝世界支配の問題を経済面のほんの一部、それも単に労働組合政策の反動化のようなものとして捉え、あたかもこれが永続的なものであって、帝国主義の新しい段階が到来したかのように描き出そうとするものである。
彼らの致命的誤りは、世界恐慌とブロック化がすでに始まっているにもかかわらず、世界戦争危機について一言も触れることができない点に明らかである。安田派は「団結の強化」と「体制制内労働運動との決別」を一面的に強調しているが、彼らの現実の階級的役割は、恐慌と戦争の危機に直面した帝国主義があらゆる労働者組織を壊滅させようとしている時に、これに呼応して「左」の側から既存の労働者組織に襲いかかる点にある。
世界革命の時代
新自由主義すなわち米帝世界支配の巻き返し政策はついに破綻した。これは世界恐慌と世界戦争という新たな時代の幕開けを意味すると同時に、ついに世界革命の時代が到来したということである。国際労働運動と民族解放運動の爆発的発展の時代を、政治・経済・理論闘争のあらゆる領域でわが革共同再建協議会こそが先頭に立ち、世界革命に向かって前進しようではないか。 (掛川徹)
全世界で「虐殺やめろ」のパレスチナ連帯行動
アメリカ・ワシントンDCで2万人の抗議行動(1月10日) |
大阪・アメリカ領事館前の抗議行動(一斉行動の前日、9日) |
イスラエルによる虐殺弾劾・パレスチナ人民連帯の一斉行動が、10日、世界中で行なわれた。
ワシントン2万人をはじめ全米で10万人以上、ロンドン10万人、パリ10万人、ドイツ全土で4万人など。日本でも、東京1500人、大阪500人で始まった。
ギリシアでは、アメリカ製の武器をイスラエルに輸送中の船の出港を、ギリシャの活動家たちが、現在実力で阻止している。
行動しよう。行動を組織しよう。事実を入手し広めよう
マスコミは、イスラエルの犯罪行為を、「ハマスのロケット弾に対する自衛」とか、「ハマスとイスラエルの憎悪の応酬」などと歪曲し、免罪している。そこでは、150万人の人たちにたいして四方を封鎖して、世界最新鋭の兵器で殺戮している事実は隠蔽されている。このパレスチナの現実とパレスチナ人民の叫びはまったく抹殺されている。だからこの事実や声が、日本の労働者人民のほんの一部にしか届いていない。
ホロコーストや南京大虐殺にも匹敵する一方的な虐殺が、現在進行しているのにだ。
「知らなかった」「知らされなかった」という「後悔」や「言い訳」を、われわれもまたくり返すのだろうか。
事実を入手し、パレスチナ人民の声を聞き、それをなるべく急いで、広める必要がある。そして、どんなに小さな行動からでもはじめよう。
@事実を入手しよう
・パレスチナ情報センターのサイト
http://palestine-heiwa.org/
・イラク情勢ニュース・ガザを伝える写真
http://www.geocities.jp/
uruknewsjapan/2009_from_GAZA.html
・ガザのアブデルワーヘド教授から送られた写真
http://picasaweb.google.com/
tigrimpa/wLVhCF?feat=directlink
A広めよう
口コミ、メール、チラシ、看板、写真展、街頭宣伝など、可能な方法ではじめよう。写真をネットからダウンロードしてプリントし、それを拡大コピーすれば、即席の写真展もできる。
B行動しよう
抗議先は、イスラエル大使館、アメリカ大使館、アメリカ領事館などだ。頻繁に申し入れ行動や抗議行動が行なわれている。駆けつけよう。
また、バッチ、ゼッケン、メッセージボード、スカーフ、旗などで抗議と連帯の意志を表そう。デモ、ピースウォークに出よう。全国各地の行動の情報は、アル・カドで入手できる。
アル・カド http://d.hatena.ne.jp/al-ghad/
「諦めは取り返せない過ちを招くだけ この窮状救いたいよ」―沢田研二「我が窮状」
7時間近くの熱唱
2万人が京セラドーム大阪に集まった「ジュリー祭り」に行ってきました。あの一世を風靡した沢田研二も今年で還暦。一言で「やられた!」といえるコンサートでした。
3時から始まったのに、終わったのは9時50分。全80曲を数人のバックミュージシャンのみを従えて、たった一人で歌いきりました。これは日本の芸能史上初のことだそうです。
声はかすれるどころか、後半にいくほど艶がかかり甘くなっていきました。まさに驚愕の声帯。しかもほんとに60歳なのかとみまがうほど舞台を走り回るのに息は乱れないのです。さすがに歌詞は何回か忘れていたようですが。 さらに数日後には、東京ドームで平日に3万2千人を集めて同じコンサートを成功させました。ジュリー恐るべし!
窮状の歌
第二部の9番目は、『我が窮状』。文字通り9条が窮状に瀕しているという歌で、ジュリーの作詞です。「諦めは取り返せない過ちを招くだけ、この窮状(9条)救いたいよ」と歌っていました。
紛れもなく憲法9条を守れという気持ちを歌っており、発表されるや否や新聞などでも話題になっています。
彼は、昔、野球選手になりたかったのに野球の強い高校に入れず、仕方なく京都の有名進学校に入学したそうです。反戦高協にいたという噂もあります。中退して上京、第一期全盛期は1968年です。政治の季節真っ只中でした。
ジュリーとゼンガクレン
ジュリーと女性名がついて、楽譜通りに歌えないのに美貌だけで一躍スターになりました。彼が所属したザ・タイガースというグループは、長髪という理由で最後までNHKに出られなかったのをご存知ですか?当時長髪は抵抗の証でした。
子どもにも時代の空気はわかります。小学生だった私には、「大人に抵抗するジュリー」ファンなら、ゼンガクレンにシンパシーを持つのは当然なことでした。しかも時代の影響を受けてか、タイガースは多くの甘ったるい反戦の歌を歌っていました。ゼンガクレンが言っていることをジュリーが翻訳してくれているような・・・ゼンガクレンのヘルメットとジュリーは、幼かった私の中で同じものとして刷り込まれています。
でも、ソロになってナチスにしか見えない衣装を着た時点で、私の中のジュリーは完全に消え去りました。奇抜な衣装と美貌だけが売り物だと思っていたのに・・・売れなくなって、彼は、そのどちらも自ら捨て去り、自分の歌いたい歌にこだわりをもち、歌の精進に励んでいたのですね。
彼に敬意を表したい気持ちでいっぱいです。 (ジュリーがとまらない一読者)