革共同通信・第13号

2008年7月15日発行

7/5〜9 G8サミット粉砕への道

5日 札幌に世界から5千人

札幌・大通公園。気温30度。暑い。ついにサミット闘争の本番にたどり着いた。「1万人ピースウォーク」の会場に続々と人が集まってくる。
われわれは、早速、大横断幕をひろげ、G8粉砕をアピールする和英対訳の『革共同通信』号外を手渡していった。
北海道の教組や自治労の隊列、全国のユニオンや合同労組の旗も多数ある。全労協、東水労もあった。農民団体も数を出している。「反貧困」の黒旗の下に集まる青年たちの元気がいい。
海外ゲストは、デモ出発が近づくにつれて急に増えてきた。判っただけでも、韓国、台湾、香港、フィリピン、インドネシア、インド、スリランカ、バングラデシュなどのアジア勢。ベナン、ウガンダ、ザンビア、カメルーンなどのアフリカ勢。フランス、イタリア、ドイツ、イギリス、スペイン・バスク、ギリシアなどの欧州勢。それにオーストラリア、ブラジル、アメリカなどだ。黒服のアナキストたちが目を引く。
集会発言者の10人中7人が海外ゲストだ。飢餓と貧困を告発し、グローバリズムを断罪する発言が相次いだ。

サウンド・デモ

いくつかの集団のあとに、サウンド・デモの隊列が出発した。トラックの荷台に大型スピーカーを積み、大音量でデスメタルやヒップホップを流し、DJがシャウトする。ビートに促されてデモ隊は規制をこえて4車線一杯にひろがる。たちまち交通が遮断された。
「デモに許可がいるの? なんで? 権利でしょ?」(アメリカ人ゲスト談)。これが“世界標準”だ。この感覚で押していくから、警官がいくら叫んでもまったく無力だ。
99年シアトルや01年ジェノバにははるかに及ばないが、その道がはじまった。

不当逮捕

警察が突如、2人のDJを拉致・逮捕した。さらにサウンド・システムを積んだトラックにも襲いかかった。窓ガラスをたたき割り、運転者を引きずり出すという暴挙だ。規制線を突破され敗北した警察の報復であり、洞爺湖現地にサウンド・デモが登場することを阻もうとする弾圧だ。日本の警察の蛮行は、ただちに全世界に配信され、世界中から抗議がよせられている。

6日 現地キャンプに布陣

3つのキャンプが、サミット会場を挟撃するように配置された。07年ドイツ・ロストックのたたかいをモデルにしたものだ。われわれは、サミット会場から直線で15キロの地点にある豊浦町のキャンプ地に布陣した。
日本と世界の反G8活動家約200人がつどった。海外ゲストが半数近くを占めている。食事、医療、防衛など、キャンプの運営を全員で分担した。

夜更けまで徹底討論

夜9時半頃、100人ぐらいが集会室に集まった。7日の行動方針やキャンプの運営方針を討議するためだ。
サミット初日をどうたたかうか。許可条件どおりのデモでいいのか。他のキャンプと合流できないのか。弾圧問題をもっとアピールできないのか。様々な意見が出された。どの意見も、G8を粉砕したいという思いを共有していた。
討論の流れは、一旦は、7日のデモをやめようという方向に傾きかけた。スタッフが頑張った。1年間かけて準備し、数カ月間警察と闘争してかちとったコースだ。これをやり抜こうという訴えが響いた。
夜更けの3時過ぎまで討議し、結局、予定通りデモに出る部隊と、海外ゲストを中心に別の戦術を追求する部分とが、各々の行動にでることになった。

7日 7キロのデモ

明け方から、雨脚が強まっていた。デモに何人が集まるか。不安だった。8時前、ゲート前に三々五々集まってくる。みな緊張した面持ちだ。日本の活動家を中心に、約60人がデモに立ちあがった。
マスコミが注目する中、G8への怒りに満ちたデモが出発した。
反貧困の旗を掲げる青年たちが先頭に立つ。わが大横断幕は、最後尾についた。シュプレヒコールが絶えることなく続けられる。60人だがそんな数とは思えない迫力で、終始雨模様の中、大岸駅まで行進した。
海外ゲストは、12時半過ぎから、サミット会場にむかって、独自の「遠足」デモに出たが、「無届デモだ」という警察の妨害を受け、引き返してきた。
この7キロデモが、海外ゲストの活動家たちを動かした。前夜の討論では、デモへのこだわりが理解されなかったが、7日のデモの本気さ、怒り、ラジカルさを見て、8日のデモは共同でやるという方針になっていった。林道を進み、サミット会場4キロまで迫るデモが決まった。

8日 24キロの長征デモ 〜会場まで4キロに迫る

8日は、朝9時に出発した。150人、ほぼ全員の参加だ。
しかし、24キロ、しかも勾配のある林道だ。本当に中国革命の長征のようだ。
警察や行政は、われわれを見くびっていた。どうせ途中でやめるだろうと見ていた。地元の人も無謀だと心配していた。
しかし、ひとりも脱落しないばかりか、各所で地元住民と交流し、中にはデモに加わる人も出た。真剣な行動が、敵の思惑をうち破った。そして、サミット会場4キロの地点にまで迫った。
それにしても、デモ終了は16時頃、途中の休憩もあるが、7時間に及ぶド根性のデモだった。これを見守っていた地元住民は涙を流して出迎えてくれた。

日本の反G8闘争が始まった

日本の反G8闘争が、本格的に始まった。サミット粉砕への道を前進しはじめた。
5日の5千人、7〜9日の3カ所のキャンプ地の設置、そこを拠点とする7波にわたるデモ、とりわけ、8日の24キロにおよぶデモ。
スタッフの人たちの1年にわたる準備、キャンプ設置とデモ申請をめぐる数カ月間の警察や行政との闘争。07年ドイツ・ロストックのたたかいに学び、日本に適用した試み。労働者人民の実力でG8を粉砕するという情熱と執念。その集大成が24キロデモだった。
サミット会場まであと4キロ。もしも、5日の札幌の5千人がキャンプに合流しデモにでたら。それが1万人になり、10万人になるなら、どんなことになるか。
“あと4キロ”が日本の運動の現段階である。しかし、“あと4キロ”を踏破するための課題も見えてきた。

労組の参加

労働組合がサミット闘争に取り組んだ。新自由主義とグローバリズムとG8が、労働組合運動のレベルでテーマになった。これは大きな前進である。まだ札幌のデモにとどまったが、この労組の隊列が、 洞爺湖現地に登場するようになったとき、運動が大飛躍することは間違いない。

権力の弾圧とのたたかい

海外ゲストが異口同音に日本の警察の弾圧に驚き、怒っている。
「日本において表現の自由が、名目だけを残して事実上、禁止された」「日本はポリス・ステイトだ」「日本の情況は特殊例外ではなく、グローバル・ガバナンス(国際社会の統治)の最前線だ」。
警察は空前の全国動員によって厳戒態勢を敷き、自衛隊までがサミット防衛の作戦に出てきた。
これを押し返してデモをかちとった。しかしまだまだである。数の問題もある。しかし数だけではない。警察による人民の権利の侵害にたいして、それを防衛し拡大する闘いである。これをないがしろにしてはいないか。このことが、とくに左翼にとわれている。

国際的な共同行動の本格的な始まり

8年前の沖縄サミット闘争と比べても、歴然としている。
世界中から集まったマルキスト、戦闘的トロツキスト、アナキスト、労組活動家、農民活動家などが一堂に会して、交流し、討論し、ともにたたかった。 討論のやり方に学んだ。多数の言語、もちろん初対面、運動も文化も歴史も違う。あきらかに意見の隔たりもある。それを、全体の討論で一つ一つ丁寧にかたづけていく。時間がかかる。しかしそれに誰もいら立たない。相手の意見を一方的に罵倒するような発言は、だれもしない。
民主主義の底深さを感じた。翻って、われわれは、党派闘争を口実に大衆討議のあり方を歪めてきた。歪みを当然としてきた。左翼運動に色濃く染みつく狭さだ。これが大衆運動の発展を著しく阻害している。これを払拭することが急務だ。
しかし、日本の運動の課題が浮き彫りになっただけではない。G8に対峙し、それを粉砕するという情熱と執念が、日本の活動家においてもっとも強く感じられたのも事実である。それが、7日のデモから8日の24キロデモを牽引した。
7・5〜9の反G8サミット闘争は、日本革命運動の向こう10年を決めるようなたたかいとなった。日本階級闘争の現状をうち破っていく新たな運動が始まった。そして、そのリーダーたちの登場が始まった。
われわれは、革命的左翼の再生と脱皮と飛躍をかけて、この一翼を担うことができたことを喜びたい。この道を突き進もう。すでにイタリアへの進撃が始まっている。改憲阻止から09年G8粉砕へ。

ANSWER(Act Now to Stop War and End Racism)の7/6札幌集会での発言要旨

米日帝国主義が戦争協力を強めている今、米日の反戦運動の関係が重要になっている。われわれは、在日米軍基地撤去の要求を、私たちのスローガンに加えないといけない。
11月の大統領選で大きな変化を期待できるか? 民主党が過半数を占める議会は、イラク・アフガニスタン戦争継続の予算を可決した。その結果、イラクの人民は100万人が死に、600万人以上が難民になった。その“債務”を私たちは負っている。11月の大統領選がどのような結果になろうとも、戦争と占領は継続する。戦争は、米国の働く人びとの利益ではない。
ANSWERは、選挙ではなく、海外での戦争と国内での抑圧とたたかう大衆運動を通してこそ、変革が実現されると考える。G8サミット反対! 戦争犯罪人ブッシュを逮捕しろ! 在日米軍基地撤去! 帝国主義に反対してたたかうすべての民衆運動万歳!

2〜3面

7・27革共同政治集会へ(特集・第2弾) 新たな革共同を創ろう

JR総連カクマルの策謀と安田派の変質

改憲決戦の展望とJR総連カクマル打倒

日本階級闘争は改憲をめぐる階級決戦のただ中にある。この改憲決戦の帰趨は、労働者階級が決戦の主力として登場できるか否かにかかっている。
しかし、日本の労働運動の現状は依然として厳しい。問題は、端的に言えば、80年代国鉄分割・民営化決戦の総括にある。とりわけ「国家が総力で襲いかかってきたら必ず敗ける」という敗北主義を払拭することである。
80年代の国鉄分割・民営化は、日本の労働運動の重大な転機であった。国鉄分割・民営化は、国労を解体し、もって総評を解散させ、社会党を消滅させ、改憲に向けて戦後的な階級関係の転覆をねらったものであった。まさに国家が総力をあげた大攻撃であった。
しかし、国家が総力をあげたから、国鉄分割・民営化が強行されたのではない。中曽根「戦後政治の総決算」攻撃と対決する広範な大衆闘争の戦闘的発展との結合の問題、さらに、民間を中心とした74〜75年恐慌以降の賃下げ・合理化・非正規雇用化の始まりにたいする闘いの立ち後れの問題が、労働者階級の側にあった。
いまひとつは、動労カクマルが労働運動の内部でその先兵になったことである。動労カクマルの裏切りによってはじめて国鉄分割・民営化が可能となったのだ。

JR総連の策謀

ところがいま、JR総連カクマルのどす黒い策謀が浮かびあがってきている。JR総連を軸に、連合労働運動を再編しようという策謀である。
日本帝国主義の改憲と新自由主義攻撃にたいして、労働者人民の反乱が開始され、連合の支配が破産の危機に直面している。まさにそのとき、JR総連カクマルが、改憲と新自由主義攻撃のファシスト的先兵となって、労働者階級の決起を圧殺しようとしているのだ。JR総連カクマルの策謀を粉砕せずして、改憲決戦の爆発はない。JR総連の策謀を粉砕し、労働者階級の戦闘的革命的な登場をかちとっていこう。

JR総連カクマルによる連合労働運動の再編の策謀

JR総連カクマルによる連合労働運動の再編の策謀は、次のような形で進められている。
・JR総連副委員長の四茂野が、「世界社会フォーラム」などに参加するとともに、『「帝国」に立ち向かう動労〜JR総連』(03年刊)、『「甦れ!労働組合「もうひとつの世界」を求めて』(05年刊)を出版している。国鉄分割・民営化にたいするカクマルの階級的大裏切りをもみ消し、反グローバリズムなどを語りながら新自由主義の先兵となっている。
・松崎が、『松崎明 秘録』(08年4月刊)で、「新旧左翼のみなさんも、共産党を含めて、このままじゃあダメだという認識は共有できる気がします。・・・ものすごく大きな変化が起こっているかもしれない」と語って、JR総連を軸とした労働運動の再編の構想をうちあけている。
・これらに呼応して、『情況』1・2月合併号で、樋口篤三氏、戸塚秀夫氏、山崎耕一郎氏(元社青同委員長)、松田健二氏(社会評論社社長)らが、「JR総連カクマル応援団」として登場してきた。
なかでも、『情況』の「山崎メモ」は、JR総連カクマルの狙いを端的に代弁している。 (1)JR総連の「ニアリー・イコールの労使関係」論は、これからの連合運動を強化するために、有効な考え方ではないか。
(2)動労の方針転換は、当時の条件下でのひとつの「進路(戦術)選択」であった。「戦術の選択」は「裏切り」ではない。
(3)1047名採用差別の問題が決着した後、JR労働運動の統一が課題になる。(そのときJR総連との)共闘は可能である。

JR総連カクマルの策謀にさおさす安田派
06年2月シンポジムについての疑問

06年2月18日、あるシンポジウムが行なわれた。「国際労働研究センター」が主催し、戸塚氏がコーディネーターとなり、「国鉄1047名解雇撤回闘争の到達点と今後の課題―潮流を越えて議論する」と題するものだ。
ここには、国労、全動労などともに、動労千葉の田中委員長も参加している。
このシンポに、戸塚氏が、JR総連・四茂野を参加させようとしたこと、しかし、シンポ当日の朝に、同センター共同代表の高須裕彦氏がクレームをつけ、四茂野の出席が取りやめになったことの経緯が、戸塚氏からあきらかにされている。
ここから、次のような疑問がわいてくる。
・四茂野出席問題にたいして、動労千葉はどういう態度をとったのだろうか、という疑問である。すくなくとも、「戸塚文書」からは見えてこない。
・戸塚氏の意図は明白である。国労と動労千葉と、そして、JR総連とを、「和解」させようという意図である。そして、JR総連カクマルは、渡りに船とこれに乗ってきたのである。
問題は安田派である。『前進』2344号と『共産主義者』157号が、『情況』掲載の一連の論文にあれこれ論及しながら、このシンポをめぐる事態についてはひと言もない。これは、いったい、どういうことかという疑問である。

JR総連カクマルの策謀に怒りなし

そもそも、『前進』2344号および『共産主義者』157号は、JR総連カクマルの一連の策謀にたいして、「こうした反動的策動は、今や本質的には問題にもならない」(『前進』2344号)、「こうした反動策動は一笑に付すべきもの」(『共産主義者』157号)としている。
国労闘争団に「体制内派」のレッテルを張ることに血道をあげながら、JR総連カクマルの策謀については、「一笑」ですませるとはまったく不可解である。
JR総連は、現在も6万人以上の組合員を擁し、JR労働運動を二分する一大勢力である。このJR総連こそが、ファシスト・カクマルの本体であり、ファシスト労働運動にほかならない。そして、このJR総連が連合労働運動の再編という大反革命を策謀しているのである。
ところが、安田派は、これにたいする怒りや危機感を、まったく表明しようとしないのだ。

動労千葉の取り込みをねらう松崎

「中野洋君たちが千葉動労を創ってやっていくときに、それ以前の大会やなんかで、やっぱり粉砕しちゃったものね。・・・俺なんかいい気になってましたね・・・そういう対立する相手の意見をちゃんと聞くというような冷静さというのは、当時の私にはなかったですね」(『松崎明 秘録』)
ここで明らかに松崎は、動労千葉をJR総連のもとに取り込むことを狙っている。
一方、この間、安田派は、5・27国労臨大闘争弾圧裁判における弁護団解任問題や三里塚闘争の原点である「農地死守」を否定など、劇的な変質をとげている。
われわれは、JR総連カクマルの反革命的策謀に呼応しかねないほどに、安田派が変質をとげていることを決して見すごすことはできない。

改憲阻止と労働運動再生は一体

JR総連カクマルの反革命的な策謀は、改憲をめぐる階級決戦が本格的にはじまったことを示している。いいかえれば、改憲阻止を階級決戦へと発展させるためには、JR総連カクマルの策謀を断固として粉砕しなければならないということである。また改憲阻止の戦闘的大衆的発展ときりはなされたところで、戦闘的労働運動の再生・創造はありえない。これこそが、職場、地域、学園、街頭のすべての場面におけるわれわれの実践の指標である。

織田(全学連委員長)の3・30集会発言を弾劾する

三里塚闘争の原点は、「農地死守・実力闘争」である。今、その真価が発揮される局面をむかえている。
「暫定滑走路北延伸粉砕・市東さんの農地を守ろう・新誘導路建設を阻止しよう」の反対同盟のスローガンのもと、10・5全国総決起集会にむかって、夏・秋の現地攻防をたたかうとともに、三里塚大衆運動の組織化をすすめよう。

織田発言に怒り

この決戦のただ中で、三里塚闘争の原点を清算する思想が、運動の内部から発生してきた。3・30三里塚集会での、織田全学連委員長の発言である。
「三里塚のこの不様な空港の姿を見てください。これは日本の労働者階級とその革命的労働者党としての革共同がつくりあげた地平です。動労千葉を先頭として国鉄分割・民営化と20年間闘い、改憲攻撃をぶっ止めてきたその地平です」
「軍事空港なんて言ってますけどもね、教育労働者がたたかったら、そんなもの何の意味もないんですよ。教育労働者が団結して、学生がストライキをやったら、誰が戦場に行くんですか? 軍事空港から。誰も行かないんですよ。国鉄労働者と運輸労働者が団結したら、誰が成田空港にたどり着けるんですか? 誰もたどり着けないんですよ」(3・30織田発言)

反対同盟の存在を無視 「農地死守」の原点を否定

革共同だけが三里塚をたたかってきたとする傲慢さはあえて見ないとしよう。だとしても、43年の三里塚闘争の歴史からも、今日の情勢からも、反対同盟農民の存在とたたかいが、織田発言ではまったく無視・抹殺されている。「農地死守」こそ三里塚闘争の原点であり、それをつらぬく反対同盟農民こそ、三里塚闘争の主体ではないのか。それを認めない「三里塚闘争」などというものがあるのか。

「農地死守」とは

@三里塚の土を手にしたとき誰しもその色艶や触感に驚く。「ビロードの大地」とも形容される。しかし、三里塚の土が最初から肥沃であったのではない。市東さんは、3代にわたって、昼夜を分かたぬ耕作で、荒れ地を「ビロードの大地」につくりかえきた。農民にとって農地とは、いわば切ったら血が流れる体の一部なのだ。
ところが66年7月4日、突如、三里塚への空港建設が閣議決定された。帝国主義のデタラメな農政に振り回されながら、労苦をかさねて土をつくり上げてきたと思いきや、その農地を差し出せという。虫けら同然の扱いだ。このときの怒りと悔しさこそが「農地死守」の原点だ。個別の利害であっても、それ自身が正義である。
Aしかし、三里塚闘争はそこにとどまらなかった。70年安保・沖縄闘争の中で、三里塚闘争は、農民を殺すような国家こそ死すべきだという地平にまで到達した。もはや三里塚闘争における農地は、完全に個別の利害をこえ、労働者階級の武器となり、帝国主義を追いつめる内乱の根拠地となった。強制代執行と対決した大木よねさんのたたかいと思想である【本紙11号参照】。
こうして三里塚闘争は、70年安保・沖縄闘争を引き継いで、労働者人民が続々と結集する大運動に発展してきた。労働運動も三里塚闘争との連帯をとおして、帝国主義と非和解に対決する質を獲得していった。

市東さんに体現

このたたかいの歴史と思想が、「私は1億8千万円で心は売らない。お金より労働者との連帯が大事だ」といいきる市東さんに体現されている。
いま帝国主義が全体重をかけて市東さんの農地強奪に向かってきている。まさにそのときに織田発言は、反対同盟農民の主体を抹殺し、三里塚闘争の原点を否定した。農地強奪に加担する階級的犯罪である。

完全空港化の攻撃に全面屈服する織田

織田発言のどこを探しても、激しく襲いかかる暫定滑走路北延伸の攻撃も、農地強奪攻撃も出てこない。それどころか、織田は、あたかも、成田空港がすでに完全空港化し、軍事空港化してしまっているかのごとく語る。
とんでもない話だ。暫定滑走路北延伸をめぐる熾烈な攻防があり、しかし、完全空港化と軍事空港化を、仁王立ちする反対同盟農民のたたかいが阻んでいる。
織田は、この攻防から目をそらしたところで、「学生がストライキにたてば」とか、「労働者が団結したら」などと、「たら」「れば」の話にすりかえている。熾烈な攻防からの逃避にほかならない。
この攻撃に真っ向から「農地死守」を貫く市東さん、萩原さん、反対同盟農民の存在とたたかいをしっかりと見すえるべきだ。

空港を廃港へ

反対同盟農民は、確信を持って、三里塚闘争の新たな発展と勝利の展望を示している。 現地闘争と裁判闘争をとおして、政府・空港会社の不正義を暴き、労働者・農民・学生の結集を呼びかけている。
とりわけ、すさまじい勢いで進行する農業破壊にたいして、全国で農民反乱がはじまっている中で、その先頭に立って、労働者階級全体の課題として、FTA・EPA・新自由主義と対決している。 ここに、日本階級闘争の現状を突きやぶる展望がある。三里塚闘争が、70年代・80年代をこえる大衆的実力闘争をもって、成田空港を廃港にたたきこむ現実性がある。

「階級的労働運動路線」と「7月テーゼ」が問題

織田発言の核心は、決戦重圧への屈服と逃亡である。そしてそれを合理化するものが、安田の「階級的労働運動路線」と「7月テーゼ」である。

屈服をごまかす逆説

「階級的労働運動路線」の核心には、《解雇されても撤回をかちとるのは無理だ》という帝国主義への屈服がある。ところがそれを、《解雇撤回を求めるのは体制内思想だ》という、逆説的な言い回しで欺瞞する。ここに、たたかいに行きづまった者を取り込むトリックがある。
労働者人民の切実で具体的な要求に、真剣に向き合おうとしない。それが帝国主義を打ち倒すにまで至るような力を持つことへの確信もないのである。

帝国主義論の解体

帝国主義は、労働者階級にたいする支配を軸にしながら、同時に、農民などの非プロレタリアート人民へ矛盾の転嫁・犠牲の集中を強める。それゆえ、労働者階級のみならず、あらゆるところから反乱はまきおこる。
問題は、どこからどういう形で反乱が始まっても、それを革命の戦略的課題としてつかむ綱領を、革命党がもっているかどうかである。それが帝国主義論である。
ところが「階級的労働運動路線」と「7月テーゼ」は、この帝国主義論を解体した。
安田による帝国主義論解体の核心は、《世界恐慌が、農業問題や民族問題、差別問題などをきれいに洗い流して、一切を賃労働と資本の関係に単純化してくれる》というところにある。安田は、《賃労働・資本関係への単純化》を願望し、それがほとんど《革命》になってしまっているのだ。
しかし、新自由主義とグローバリズムは、《賃労働と資本関係への単純化》などでは全くない。それは、帝国主義の美化である。
新自由主義とグローバリズムの下でも、賃労働・資本関係は極限的に貫徹されている。だがそれは、侵略戦争の恒常的な発動、戦後階級関係の上からの破壊、民族抑圧の激化と再度の植民地化といった、政治・軍事的な攻撃に支えられている。投機と略奪に依存した末期的な形態であるということが重要なのだ。
労働者も、農民や被抑圧人民も、このような支配の中から、具体的で死活的な要求を掲げてたたかいに立ちあがっている。
しかし、安田は、このような力強い決起を見すえ、受けとめることができない。安田は、切実な要求をかかげる労働者のたたかいにたいして、《体制内労働運動と決別していない》と切り捨てる。死活的な要求をかかげる農民や被抑圧人民のたたかいにたいしては、《プロレタリア性を強制・刻印する》といって圧殺してまわるのだ。 
反対同盟農民の抹殺と「農地死守」への敵対は、このような「路線」によって導かれているのだ。

「イラク石油労組」を賛美する安田派の反動的ねらい

安田派は、最近、イラク反戦闘争を「イラク石油労働組合との連帯」にすりかえはじめた(『コミューン』2008年7月号)。
イラクの石油労働者が、石油法(むこう35年間、イラクでの新規開発油田権益の70%を米英資本に引き渡す法律)に反対してストライキに立ちあがることは、圧倒的正義である。これにたいする米軍とマリキ・カイライ政権の弾圧に、われわれは断固反対する。

民族解放闘争に敵対する安田派

しかし、安田派が賛美するイラク全石油労働組合(GUOE)は、占領開始時点では、アメリカ帝国主義がイラクから石油を盗み出すことに協力し、そのおこぼれにあずかってきた。メジャーの全面介入に直面して初めて、占領反対、民営化反対などを掲げ始めたのだ。
しかもイラク石油労働組合は、イラク人民・アラブ人民の武装闘争にたいして、「部族主義」「宗派主義」「テロリズム」として反対している。
アメリカでこれに連帯している「全米反戦労組連合」(USLAW)は、あくまでAFL―CIOの枠内にとどまり、また、「UFPJ」(United for Peace and Justice)に加入している。UFPJの主張は、「イラクの武装レジスタンスを支持すれば米兵虐殺賛成になる」というものである。イラク人民の武装闘争を支持する「ANSWER」(Act Now to Stop War and End Racism)は、これと一線を画している。
ここに安田派の正体がよくあらわれている。安田派の「階級的労働運動路線」は、イラク人民の民族解放闘争に敵対するものだ。イラク人民の民族解放闘争が、武装闘争としてたたかわれていることに反対なのだ。
核心は、自国帝国主義の侵略と占領にたいしてたたかわないことにある。それをごまかすために、イラク石油労働組合をしきりに持ち上げているに過ぎない。それをもって国際連帯のアリバイにしようとしているのだ。

アメリカとイラクは単なる「交戦国」?

安田派は、イラクとアメリカの労働者・労働組合が連帯して立ちあがることを「交戦国の労働者を先頭にして、団結して世界革命に向かう決起」とか、「労働者階級は世界的に単一の存在であることを示す」としている。
しかし、イラクとアメリカは一般的な「交戦国」ではない。一方のアメリカは、侵略し、占領し、軍事的な植民地化を進めている国である。他方のイラクは、侵略者にたいして、全民族的に武器をもって立ちあがっている国である。
両者をたんに「交戦国」などということは、マルクス主義・レーニン主義の否定である。
イラク人民・アラブ人民、総体として被抑圧民族人民の民族解放・革命戦争を「テロリズム」と否定する立場と、安田派の主張とは、数ミリの差しかない。

7・27革共同政治集会 要綱

◆7月27日(日) 12時半開場 13時半開会 17時閉会
◆尼崎市立労働福祉会館(阪神尼崎駅下車 北へ徒歩10分)
◎主な発言
 ・基調報告(関西地方委員会)
 ・特別報告(革共同再建協議会)
 ・労働戦線、差別・抑圧とたたかう戦線、青年労働者
 ・首都圏および各地方代表
 ・各界からの連帯の挨拶
◎スローガン
 ・自衛隊海外派兵恒久法を粉砕しよう! 戦争国家化攻撃を粉砕し、改憲を阻止しよう!
 ・自衛隊のイラク・アフガニスタンからの即時撤兵を!
 ・貧困と格差社会をうちやぶる戦闘的労働運動をつくりだそう!
 ・後期高齢者医療制度、「障害者」自立支援法の撤廃を!
 ・差別主義・排外主義に転落し、あらゆる大衆闘争と統一戦線を破壊する安田・清水体制を打倒しよう!
 ・革共同の歴史的総括をやりぬき、反帝・反スターリン主義世界革命党を建設しよう!

4面

声なき者のネットワーク NO VOX声明(要旨)

デモの自由の規制に抗議する。日本政府は、デモ参加者に3mの幅しか許可せず、私たちが横断幕を広げることすら認めなかった。警察によって、表現の自由が根こそぎにされようとしている。これは、日本が特殊だからではない。日本はグローバル・ガバナンスの最前線にある。他の「民主主義」国家は、日本に続こうとしている。G8は、表現の自由を、市場経済を妨害しない程度でしか認めない。こうした中で、7月5日の札幌のデモは、規制線を越えて、表現の自由を許可範囲の2倍にまで広げた。これにたいして、3人が逮捕され、車とスピーカーは押収された。逮捕された仲間の即時釈放を要求する。3人の逮捕は、表現の自由が、名目だけを残して、事実上禁止されたことを意味する。また、韓国の労働組合員にたいする入国拒否、ケニヤの民衆運動メンバーへのビザ発行の遅滞による集会参加の妨害に抗議する。日本で起きていることを、他の「民主主義」国家の模範例にさせないためにも、表現の自由のために闘う仲間たちと連帯する。08年7月7日

G8サミット反対 韓国民衆闘争団の入国不許可糾弾記者会見(7/9 ソウル)

北海道の新千歳空港で4日に入国を拒否された、韓国民衆闘争団(全国農民会総連盟、全国民主労働組合総連盟、全国女性農民会総連盟、全国女性連帯、社会進歩連帯、韓国進歩連帯)が、9日、ソウルの日本大使館の前で記者会見を開いた。彼らは、新自由主義とG8に反対する声を伝えるため来日したが、理由なく入国を拒否され、さらに民主労総の幹部1人が不当逮捕(後に無嫌疑で釈放)された。記者会見で、入国拒否の理由とする「入国目的と滞留期日がはっきりしない」という点に「滞留期間中に行なう具体的な日程はもちろん、帰る飛行機のチケットまで提示した」と反論、この入国拒否は「政治的弾圧であり、予防検束にほかならない」と厳しく批判した。また、「韓国民衆闘争団をあたかもテロ犯であるかのように取り扱った」とし、侮辱的で不当だと強く抗議した。国際的な連帯で日本政府に抗議するとともに、国家行政訴訟など法的な対応をすると発表した。

「在日」雑感 FS生  帰国運動から半世紀(1)

1959年から始まる在日朝鮮人の「帰国運動」は、「資本主義から社会主義への民族大移動」「居住・移動の自由という人道主義の実践」などという賛辞と肯定的評価で語られてきた。確かに、植民地支配と南北分断という厳しい歴史的試練を経て、「朝鮮革命の輝ける聖地・民族統一のための民主基地」としての朝鮮民主主義人民共和国の威信と評価は、共産主義者のみならず全ての民主的・進歩的勢力の認知するところとなった。日本の地で「外国人」という身分に貶められ、社会保障や教育・福祉などいっさいの基本的人権を奪われた<在日>が惨めであればあるほど、社会主義祖国への憧れが反比例して高まっていったことは予想に難くない。「衣食住に困らない」「大学まで無償で行ける」―そんな生活レベルの期待感だけではなく「社会主義建設と民族統一に直接参加しよう!」と革命的人間観も大いに鼓舞された。生活困窮者のみならず、日本での就職差別に泣かされ苦労していた多くの研究者・技術者・芸術家・医師たちも新天地での生活を求めて、率先して北朝鮮へ渡っていった。「帰国運動」は60年代から70年代前半にピークをむかえ、80年代初頭まで続く。「帰国者総数」は在日朝鮮人約9万人、日本人約6千人(大多数は日本人妻)、そして、若干の中国人なども含まれる。
誤解してならないのは、在日朝鮮人の出身地は<北>ではなく、大多数が全羅道(済州島も含むむ)、慶尚道など<南>であるということだ。「帰国」とは「朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮半島における唯一の合法政府である」という了解に基づく用語であって、文字通り「元々住んでいた国に帰る」という意味では決してない。しかし、「北朝鮮で生活したいという人がいるならその願いを叶えてやるのは望ましいことではないか」というムードも手伝って「帰国運動」という概念と用語が定着するにいたる。1958年11月に結成された「在日朝鮮人帰国協力会」呼びかけ人には、鳩山一郎、宮本顕治、帆足計、小泉純也(純一郎の父)など、左右を問わず有力政治家達が名を連ねた。
しかし、この「帰国運動」のシナリオにはとんでもない思惑と策略があった。日本政府の「朝鮮人追い出し作戦」がいかに「人道帰国」へと変化していったのか、最近の研究成果に依拠しつつその内容を簡潔に紹介しながら、数回にわたって読者諸氏に報告したい。

投稿 ソウル・5月

5月下旬に初めて韓国を旅行しました。ナヌムの家を訪問し、あわせて水曜集会に参加するという二点だけを押さえた2泊3日の観光の予定でしたが、ソウルでキャンドル集会とデモに加わる機会に恵まれました。言語力の不足ゆえに、外面的な印象しか語れませんが、ご容赦ください。
ナヌムの家は、午後の訪問、それも物品を分配する時間帯であったためハルモニたちへの挨拶はほとんどかなわなかったのですが、ハルモニたちの日常の一瞬は垣間見れたようです。水曜集会は、日本大使館前で16年も続けられているとのことですが、その日はソウル在住のハルモニとナヌムの家のハルモニのお二人を囲んで行われました。アトラクションのテーマはやはり2MBでした。(2はイと発音され、2MBでイミョンバクをさし、また彼の容量が2MBしかないことも皮肉っている)。集会では「パウィチョロム」とともに「テハンミンググン・ミンジュコンガグギダ」で始まるノリのよい『憲法第1条』が歌われていました。歌詞は「大韓民国は民主共和国である。大韓民国のすべての権力は国民から出ている」というものです。憲法の条文を歌という形で国家権力との闘いの日常的な武器にしてしまっている韓国の大衆運動に脱帽。
その夜のキャンドル(チョップル)集会は、清渓広場で開かれました。9時頃から会場に行きましたが、広場のみならず清渓川沿いにまで人々があふれていました。会場のあちこちに、赤ないし緑の地に白抜きのスローガンを記したA4ないしB5のカードとビラ・機関紙などがダンボール箱に積んであり、みな自由に取っていました。マイクで語られる言葉は当然理解できませんが、呼びかけへの掛け声、歓声に集会の熱気を体感しました。カードのスローガンは、「ヒョプジョンムヒョ(協定無効)」、「イミョンバク・テジャン(退場)」「イミョンバク・アウト」でした。デモの出発は10時をまわっていたでしょうか。シュプレヒコールは「ヒョプサンムヒョ(協商無効)」に対して「コーシチョルフェ(告示撤回)」、「イミョンバク」に対して「ムルロガーラ(辞めろ)」と隊列のなかで自然に掛け合いの形で唱和するものです。すべてが漢字四文字ではないにしても、簡潔で誰もの口にのぼる、そんなシュプレヒコールでした。デモは道路一杯にひろがり、停車中のバスの乗客にもカードが手渡されていきます。11時過ぎにデモが止まり隊列が後退しかけると、すかさず「カジマ(行くな)」の叫びが飛び交う。警察と対峙する最前列へは周囲から「イギョラ(勝て)、イギョラ」の大合唱。プラカードには、「連行者を即刻釈放せよ!」とありました。0時をまわっても対峙は続いています。そして、その夜およそ30名が連行されました。(Y・K)