未来・第46号


            未来第46号目次(2009年12月1日発行)

 1面  反安保の統一行動はじまる
     大阪港の軍事使用ゆるすな 11・20大阪

     「日の丸」常時掲揚の強制
     条例案提出へ 自民大阪 15日までの府議会に

 2面  アフガン本土へ自衛隊派兵
     ISAF参加ねらう民主

     強襲揚陸艦を使用
     鳩山「友愛ボート」は侵略派兵

     貨物検査法案の審議はじまる 11・20

 3面  アフガンは「オバマのベトナム」だ
     新戦略の破産と米外交官の辞任

     関西合同労組 職場闘争報告会
     グループ討議が白熱 11・23

 4面  【翻訳資料】 韓国労働社会研究所機関紙『労働社会』9月号
     民主労組運動の新しい展望を求めて

     本気でつぶす流れを
     医療観察法廃止 11・22全国集会

 5面  在日・滞日人民への襲撃ゆるすな
     「在特会」と対決する共同行動を

 6面  直撃インタビュー (第8弾)
     あの戦争をくり返すな 杖をついてでも闘う
     山本善偉さん(新空港反対東灘区住民の会代表、関実世話人)

     創刊2周年をむかえて

       

反安保の統一行動はじまる
大阪港の軍事使用ゆるすな 11・20 大阪

11月20日、午後6時半から大阪市役所前の中之島公園において、「大阪港の軍事利用の中止をもとめる11・20行動」集会がおこなわれた。全日建連帯労組関西地区生コン支部、全国金属機械労組港合同、管理職ユニオン・関西、関西合同労組、部落解放同盟全国連など7団体で構成する実行委員会が呼びかけたものだ。
集会後、約250人がデモに出発。淀屋橋から米領事館をぐるりと包囲、大阪・梅田の繁華街まで行進した。

労組の旗を林立させ米領事館を包囲デモ(11月20日)

市議会に陳情
集会に先立ち、7団体は正午から、大阪市役所前の淀屋橋一帯で、ビラまき、宣伝活動をおこなった。大阪港の軍事利用問題を大阪のど真ん中で訴えるのは初めてで、大きな注目を集めた。
午後2時から、7団体の代表が約10人で、会期中の大阪市議会にたいして、陳情をおこなった。
陳情の内容は――
@大阪市は、今後、米軍艦船・自衛隊艦船の大阪港への入港を許可しないこと。
A大阪市は、今後、自衛隊が大阪港・大阪市管轄の地域・海域を演習に使用することを拒否し、その中止を求めること。
B大阪市は、1960年以降、大阪港に入港した米軍艦船にかんして、以下について調査し、明らかにすること。
 @安保条約にもとづく事前協議が行われたのか否か。
 A核兵器の搭載の有無を問い合わせたのか否か。
――以上である。
これは、大阪市がくり返してきた入港許可の根拠を問い、安保条約の違憲性を鋭く突くものである。このような議会へのたたかいは初めてであり、大阪市当局への反撃が、ついに始まった。
これに対応する一般署名がいま各職場・地域でとりくまれている。今月7日に署名を提出、陳情の採択は24日、大阪市会建設港湾委員会でおこなわれる。

血塗られた米軍艦も入港
夕方の集会では、関西生コン支部の高副委員長から、「根をはった反戦運動をつくり、来年50年をむかえる日米安保条約の廃棄をかちとろう」「今日を始まりに継続して千人、2千人の運動をつくり、大阪港の軍事利用の中止を実現しよう」と決意が語られた。
基調報告は、大阪・港地区で長らく軍港化阻止のたたかいにとり組んできた港合同の中村副委員長からおこなわれた。
軍艦船の入港があたり前になり、反対運動が形骸化している現実に警鐘を乱打。
大阪港は、かつて侵略の出撃・兵站基地で、千人近い中国人の強制連行(うち86人が死亡)の歴史があり、そういう歴史ゆえに大阪大空襲(1945年3月〜8月)があった。
いま日米地位協定や港湾法をもってそのことが再びくり返され、イラク戦争の血塗られた米軍艦も入港している事実など、軍港化の現実への危機感が訴えられた。08年には日本国内の民間港に、のべ24隻の米艦船が入港し、大阪港も母港のようにされようとしている。隣の神戸港は、地元でのたたかいと非核方式で、米軍艦船の入港を阻止している。大阪のど真ん中で今日のたたかいを出発点に、軍事利用阻止の運動を大きくもりあげていこうと訴え、たたかいの方向が示された。
その後、実行委構成各団体、市民団体の発言がおこなわれ、最後に「大阪港軍事利用反対のたたかいを、全国の反安保・反基地のたたかいに連なり、連帯するたたかいとしてたたかい抜こう。大阪港軍事利用反対の一点で連帯し、共にたたかう」という集会決議を確認し、デモに出た。(労働者通信員K)  
大阪市役所(写真右上)の前で、軍事使用するなと訴え(11月20日)

安保改定にらみ運動の新たな軸

11・20行動の意義について、関西合同労組のMさんから話を聞いた。〔編集委員会〕

今回の行動は、春先から約半年間の準備のなかでとり組まれたものだ。
日本の政治と社会の基本骨格に「日米安保体制」「軍事同盟」がある。しかし、たたかいが後景化している。この現実を突破するために、労働組合の政治闘争の軸に反安保をすえようという論議が構成団体で深められた。
構成団体は、反弾圧、非正規雇用労働者解雇問題・派遣村運動、労働学校、国鉄闘争支援などの共闘を、このかん関西で積み重ねてきた労働組合諸団体。そして新崎盛暉さん沖縄講演会、内部学習会などを重ねて、地元の大きな安保問題として、大阪港の米軍・自衛隊による軍事利用問題のとり組みが確認されていった。

2010年安保改定
来年の安保改定50年をむけて、日米による安保再定義(改定)が策動されている。今年4月、米ミサイル駆逐艦(ジョン・S・マケイン)の大阪港入港(南港食品埠頭J岸壁)が強行され、10月、滋賀県あいば野での日米合同演習に続き、来年には海上自衛隊の大演習もうわさされている。こうした情勢をうけて行動への決起が呼びかけられた。
大阪市は米艦船・自衛隊艦船の入港許可を、日米安保条約第6条にもとづく日米地位協定や港湾法を根拠に出し続け、大阪市民の抗議申入れをはねつけている。運動側がこの壁を突破できていない現実がある。今回のとり組みは、この攻撃と壁に正面からのたたかいを挑み、中止まで追い込むことが目標だ。

反安保統一実
軍事利用反対の一点で大衆行動・議会への働きかけ・訴訟などあらゆる方法を駆使し、核密約問題の暴露やイラク訴訟での平和的生存権の確定などの情勢も活用してたたかう。そして、沖縄など米軍再編とのたたかいと結び、関西における反安保闘争の軸となって発展していくだろう。組織名称も正式に「反安保統一戦線実行委員会(反安保統一実)」と確認された。
貧困と戦争の時代に、戦闘的労働組合が中心となって、関西の地で新しく開始された意義あるたたかいだ。関西合同労組は、この運動を大きく発展させるためにたたかいたい。

「日の丸」常時掲揚の強制
条例案提出へ 自民大阪 15日までの府議会に

自民党大阪府議団が、府の全施設に「日の丸」を掲揚するよう、府議会に条例案を提出しようとしている。朝日新聞は「掲揚を義務づけられていない府立学校に、常に掲げるよう定めるねらいだ」と報じている。9月定例会は12月15日までだ。自民、公明、民主など各会派に圧力をかけ、条例制定を阻止しよう。

右からの巻き返し

自民党府議団の動きは、「日の丸・君が代」強制にたいする大阪府・門真三中の不起立闘争や、府立学校を中心にした広範な抵抗を圧殺しようとするものであり、鳩山政権が学力テストの抽出化や教員免許更新制廃止をうち出していることへの反動である。自公政権が推し進めた教育反動をもどさせまいとするものだ。
橋下知事は「条例制定という方法をとっていただけたら、国旗である以上、問題ない」と、これに賛意を表明している。広島県や京都市で常時掲揚されているが、条例化の例はない。

府議会闘争へ

府教委は、今春の卒・入学式で42人の府立学校教員にたいし不起立を理由に厳重注意処分を下し、攻撃を強めてきた。門真処分撤回の裁判闘争の開始と合わせて、来春の卒・入学式が大きな決戦になろうとしているが、今秋府議会がその前哨戦だ。会派構成は自民系が38+11人で、公明が賛成すれば過半数を越えてしまう。府民に訴え、議員に圧力をかけて条例化を阻止しよう。

2面

アフガン本土へ自衛隊派兵
ISAF参加ねらう民主

憲法解釈は内閣の独断で

11月4日、平野官房長官は記者会見で、「いままで政府の憲法解釈を国会で示してきた内閣法制局長官の過去の答弁に(民主党政権は)しばられない。憲法9条などの解釈は今後(内閣法制局ではなく)内閣が政治判断でおこなう」と述べた。
同日夜、鳩山首相も、「法制局長官の考え方を金科玉条にするのはおかしい」と同調した。
11月12日、民主党政治改革推進本部は国会改革案を了承。このうちの1項目で、「国会で答弁を認める政府特別補佐人(内閣法制局長官、人事院総裁、公正取引委員会委員長、公害等調整委員会委員長)から内閣法制局長官を除外」と明記。

内閣法制局長官を除外する意図

内閣法制局は、政府が国会に法案を提出する際に、閣議決定に先立ち、ほかの法律と矛盾していないか、表記上の問題点はないかなどを審査するとされている。
あくまで政府の一機関であり、中立の第三者ではない。いままでの自民党政権下でも、憲法9条をすりぬけて、自衛隊の海外派兵を推進した元凶のひとつだ。しかし、やりたい放題の違憲行為はさすがにできず、外国軍との共同作戦(「集団的自衛権の行使」)は、憲法に違反するという見解を維持してきた。「わが国は集団的自衛権を保有はしているが、行使はできない」とする解釈だ。
90〜91年の湾岸戦争で自衛隊派兵を果たせなかった日帝は、その後、カンボジアPKO、インド洋派兵、イラク侵略、ソマリア沖派兵と、海外派兵をくり返してきた。ソマリア沖派兵では、ついに陸海空3軍の派兵に踏み切った。
しかし、反戦闘争の高揚と、それに規定された内閣法制局の国会答弁が障壁となり、いまだ外国軍との共同作戦を公然とは実現できていない。憲法9条の改悪も簡単ではない。
さしあたり、憲法9条に手がかけられない状態では、憲法解釈を強引に変更したほうが早いというのが、民主党を主導する小沢の判断だ。国会での内閣法制局長官答弁を禁止し、憲法解釈は政府(民主党)が好き勝手にやるというわけだ。

小沢と内閣法制局との確執

湾岸戦争当時、小沢は政府与党の自民党幹事長だった。米国は日本に多国籍軍への協力を求めてきた。しかし、「集団的自衛権の行使は違憲」とする内閣法制局の憲法解釈が壁となり、派兵はできなかった。
小沢は、国連決議にもとづく協力なら自衛隊の派兵は可能と主張し、「国連平和協力法」を制定して派兵可能にしようとねらったが、従来の政府解釈との矛盾を指摘され廃案になった。

小沢の憲法解釈

92年小沢調査会答申
91年6月に、自民党総裁の諮問にもとづき小沢一郎幹事長(当時)を長として発足した「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」(通称、小沢調査会)は、92年2月に調査会としての答申案を取りまとめた。そこでは―
・国連を中心とする安全保障の考え方を「国際的安全保障」と呼び、その下での実力の行使は、国際紛争解決の手段としての戦争・武力行使ではないので、憲法に違反しない。
・憲法前文に示された積極的・能動的平和主義の理念に照らしてみると、国際協調の下でおこなわれる国際平和の維持・回復のための実力行使は否定すべきものとは考えられない。憲法第9条の条文解釈としても、国際協調の下でおこなわれる国際平和の維持・回復のための実力行使が禁止されているとは考えられない。
・国際平和の維持・回復のために国連がおこなう実力行使に日本が参加・協力することは「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する日本国民にとって当然のことであり、まさに憲法第9条の精神に沿ったものである。
―と断定されている。

『世界』(07年11月号)の小沢論文
同誌で小沢は、「国連の平和活動に参加することは、ISAFであれ何であれ、憲法に抵触しない。・・・国連決議による『国際治安支援部隊』(ISAF)への自衛隊派遣であるから違憲ではない。憲法の禁じている武力行使も武器使用も認められる。民主党が政権を取ったら積極的に参加する」と主張している。(注)
国連決議を口実にすれば、自衛隊がどこへ行こうが何をしようが、憲法にはしばられないというのである。

07年末の国会答弁
民主党は、与党(自公)のインド洋給油継続法案への対案として「アフガニスタン復興支援法案」を出した。その法案は、自衛隊のアフガニスタン本土への派兵、武器使用の基準緩和を主張したものだった。
法案審議で自民党から、従来の憲法解釈との矛盾を指摘されると、民主党の直嶋正行政調会長(当時)は、民主党が政権についたら(アフガニスタン本土への派兵、武器使用の基準緩和が可能となるような憲法解釈変更)作業に着手する旨の発言をした。

外堀うめるねらい

政府民主党は、現時点ではアフガニスタンへの自衛隊派兵は考えていないと言っているが、上記の動きをみると、まず外堀から埋めようとしていることは明白だ。
憲法解釈の変更による「集団的自衛権」行使=自衛隊の外国軍との共同作戦(侵略戦争)参加を阻止しよう。

(注)ISAFについては、本紙前号6面の「服部良一さん アフガニスタン報告」参照。

強襲揚陸艦を使用
鳩山「友愛ボート」は侵略派兵

11月14日、シンガポールでアジア太平洋経済協力会議(APEC)にあわせて開かれた最高経営責任者(CEO)サミットで講演した鳩山首相は、「友愛ボート」構想をうちだした。
「日本の自衛艦に、自衛隊のみならず、NGO(非政府組織)、アジアの多くの人たちが協力して乗り込んで、紛争があって人の命が危ないとなれば、その船が行って医療などの協力をおこなう」という。
ところが、アジア各国からは「紛争時、日本の自衛隊に介入されては困る」と難色を示された。そのため、鳩山は翌日には「平時から活動し、台風や地震などの災害地で救助をおこなうことが中心になる。紛争地域に乗り込んで医療活動をすることはない」と表向きは修整した。

強襲揚陸艦おおすみ

防衛省は、11月16日、この構想に海自輸送艦「おおすみ」を使用する検討を開始。
「おおすみ」は、「輸送艦」などと名乗っているが、貨物船をイメージしたら大まちがい。自衛隊内での略号はLST、すなわち「Landing Ship,Tank」=戦車揚陸艦だ。強襲揚陸艇(ホバークラフト)2隻、完全武装の隊員330人、90式戦車10両の輸送が可能。敵地に乗り込む際、海岸線に接近し、ホバークラフトを用いて部隊や兵器を強行揚陸する侵略突撃艦船だ。ホバークラフトを使用するため、世界の全海岸線の70パーセントで部隊上陸可能という能力をもつ。

強襲揚陸艦おおすみ(防衛省サイトより)
基準排水量8900t 主要兵装 高性能20ミリ機関砲×2 特殊装置 輸送用ホバークラフト×2

米軍と共同訓練も

11月17日、赤星海幕長は、「『パシフィック・パートナーシップ2010』は、来年5月から9月にかけておこなわれ、これへの参加を検討している」と表明。
パシフィック・パートナーシップとは、07年から東アジア地域で米軍が毎年おこなっているもので、米軍艦船を軸とした政府、軍、関係機関、NGOが一体となって「医療活動、文化活動」をおこなうというもので、実態は米軍・アジア各国政府・民間による準軍事活動だ。
「おおすみ」の侵略派兵訓練そのものである「友愛ボート」構想をたたきつぶそう。

貨物検査法案の審議はじまる 11・20

朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)に出入りする船舶を公海上で、軍事力を用いて臨検しようとねらう貨物検査法。この法案審議が衆院国土交通委員会で始まった。
今回の法案は、さきの麻生政権時に提出され廃案になった法案とほとんど同じ。相違点は2つだけ。正式名称の一部が変わったこと。もうひとつは、自衛隊が関与することを明記した条項が削除されたことだ。

法案に明記なくも自衛隊は出動

連立政府与党の社民党は、「任にあたるのが海上保安庁だと明確になった」(重野安正幹事長、10月22日)と評価し、国会への提出を了承したという。
しかし、この新法に「自衛隊の出動」が明記してあろうとなかろうと、自衛隊は、自衛隊法82条を根拠に出動する。いわゆる「海上警備行動」がそれだ。
先の国会で、浜田防衛相(当時)がそのことを答弁している。今回の審議でも榛葉防衛副大臣は、同じ趣旨の答弁をした。
もともと自衛隊が出動することは前提で、前の法案では、そのことをあえて確認的に明記しただけであり、今回の法案には明記してないというだけのことだ。公海上で臨検を強行しようとするかぎり、事態は同じだ。

臨検は戦争挑発行為

国際的に「世界最強の沿岸警備隊」と言われている海上保安庁と、自衛隊とが、共同でおこなう公海上での臨検は、戦争挑発行為だ。
対北朝鮮排外主義を許すな。今国会での成立を許さず、廃案においこもう。

3面

アフガンは「オバマのベトナム」だ
新戦略の破産と米外交官の辞任

12・1にオバマが増派演説

報道によれば、オバマ大統領が、アフガニスタンへの約3万4千人の増派計画をまとめ、1日夜(日本時間2日朝)に発表する。また「出口戦略」について言及するとも報道されている。
計画の中身は定かではないが、この間、アフガニスタン・パキスタン侵略をめぐってオバマ政権内の動揺と軋みがあらわになり、増派計画の発表が遅れてきた。
オバマは、当初から政権公約として、「対テロ戦争」の焦点をイラクからアフガニスタン・パキスタンに移すとしてきた。そして、今年3月には「AF・PAK戦略」(注)という新戦略を打ち出し、増派と戦線拡大をおこなってきた。それが深刻な行きづまりに陥っているのだ。

注・「AF・PAK戦略」
AFはアフガニスタン、PAKはパキスタン。アルカイダの粉砕を最大の目標にすえ、カブールの防衛からアフガニスタン全土へ、アフガニスタンからパキスタンへと戦線を拡大。また大規模な増派とともに民生部門にも力を入れ、アメとムチで反米反政府勢力の攻勢を押し返そうというもの。

掃討作戦の敗勢

オバマは就任後、新戦略の下、4万3千人を増派した(現在、米軍8万1千人、NATO軍3万5千人)。
4月末から、パキスタン北西部の部族地域で、パキスタン軍を前面に立てつつ、米軍もアフガニスタンから越境して無人機による空爆を展開し、大規模なタリバン掃討作戦を強行。多数の死傷者と大規模な破壊、数百万人の避難民という事態に。これにたいして、10月には、パキスタンの首都イスラマバード近郊で、反政府武装勢力が、パキスタン軍総司令部を襲撃し占拠する事件が起こるなど、首都イスラマバードが戦場化する危機を結果している。
また、アフガニスタンでは、「(タリバンの拠点である)南部へルマンド州での戦いが新戦略のカギを握る」(アフガン駐留米軍マクリスタル司令官)として、7月から海兵隊4千人を投入、ISAFも一体となり、大規模な掃討作戦を展開。しかし、アフガニスタン全土で米軍・外国軍が攻撃されるとともに、首都カブールにまでタリバンの攻撃が迫る事態になっている。

米兵死者1カ月で55人
米軍・ISAFの掃討作戦の敗勢は、兵士の死者が増大し続けていることに現れている。
10月のアフガニスタンでの米兵死者は55人。戦争開始以来1カ月としては最悪。英軍の死者は、すでにイラク戦争の死者・179人を上回っている。

不正と腐敗の大統領選

8月20日投票のアフガニスタン大統領選挙は、11月2日になってようやく現職カルザイの当選が発表された。
しかし7000の投票所のうち、約1000カ所が反政府勢力によって粉砕された上に、2500を超える投票所で、約10%の不正投票が発覚。カルザイの、大統領としての正当性を喪失する結果になった。アフガニスタン駐在のアイケンベリー米大使でさえ「アフガニスタン政権は腐敗しており、これ以上兵士を送らないでくれ」と伝えてきている。
オバマは、この選挙で政権の正当性を確保し、アフガニスタン戦局の転換をねらっていた。その思惑が外れ、一段と窮地に追い込まれている。

アフガン駐在外交官辞任の衝撃

新戦略の行きづまりを衝撃的に突きだしたのが、アフガニスタン駐在米外交官マシュー・ホーの辞任だ(9月10日付)。彼は、辞表で「戦争の目的が確信できなくなった」と述べている。
彼は、アフガニスタン南部ザブール州で、米国務省の上級代表として、今年3月から9月まで、「復興チーム」を統率。これまでも海兵隊大尉やイラク占領の指揮を歴任するなど筋金入りだ。
8年間のアフガニスタン戦争で、幹部外交官の辞任ははじめてという。米メディアは、この問題を大きく報道している。
辞表では、「人びとが望まない制度を押しつけ、腐敗した政府をテコ入れしている」「米軍もアフガニスタンの軍や警察も、パシュトゥン人にとっては占領者」といい、侵略であることを自認。「テロとの戦い」「平和・復興」といった「戦争の目的は見せかけに過ぎない」といい、「戦争の目的が確信できなくなった」と敗北と憔悴を吐露している。〔要約別掲〕
アフガニスタンと世界人民のたたかいによって、戦争目的の不正義性が暴き出されてきた。虚偽のイデオロギーと戦争に次ぐ戦争をもって世界支配と国民統合を貫徹してきたアメリカ帝国主義が、深刻なデッドロックにぶち当たった。まさにアフガニスタンは「オバマのベトナム」だ。

ISAF参戦ゆるすな

アフガニスタン・パキスタンで人民の血が大量に流されている。かつてイギリスもソ連もたたき出したアフガニスタン人民が、アメリカを追い詰めている。いまこそ連帯闘争に立ちあがろう。
アフガニスタン侵略8周年の10月7日、アメリカの反戦団体「ANSWER」などが呼びかけ、全米各地で反戦行動がおこなわれた。10月24日、ロンドンでは、「戦争阻止連合」などが呼びかける反戦行動に1万人が集まった。
日本の人民も、鳩山政権がねらうISAFへの自衛隊派兵を阻止しよう。

翻訳資料 マシュー・ホーの辞表
「戦争の目的が確信できなくなった」

アフガニスタン駐在米外交官マシュー・ホーが在パキスタン米大使に出した辞表の翻訳を、要約し掲載する。〔翻訳・見出し=編集委員会〕

パウエル大使様
5カ月の任務を遂行する中で、私はアフガニスタンにおけるアメリカの戦争の目的を確信できなくなった。戦争の戦略も疑問だが、私の辞任の理由は戦争の目的そのものにたいする疑問だ。

占領と支配
私たちは、現地の人びとが望みも理解もしないイデオロギーや制度を彼らに奨励し、また腐敗し崩壊している国家にテコ入れをしている。
米軍やNATO軍はもちろん、アフガニスタンの軍や警察も、非パシュトゥン人によって構成されているので、パシュトゥン人にとってはすべて占領軍であり、それにたいする反抗は正当化される。反政府勢力の大半が、タリバンの旗の下に集まっているというより、外国軍の存在と、自分たちを代表しないカブール政府に税金を徴収されることへの反抗なのだ。
米軍の存在こそが、パシュトゥン人の反政府活動に正当性を与えている。また、政府にたいする米軍の後ろ盾が、人びとを政府から遠ざけ続けている。
アフガニスタン政府の腐敗と崩壊は深刻かつ底なしだ。
・派手な汚職と公然たる不正利得。
・大統領の腹心や補佐官たちが麻薬組織の親玉や戦争犯罪人で構成され、法律や取り締まりをあざけっている。
・地域の支配権は地域ボスや利権屋に握られている。彼らがアメリカと同盟するのは政治的経済的な利益が目当て。
・最近の選挙では、不正の横行と低投票率で、敵に大きな得点を与えた。敵は、米政府が、このような政府を支持していることを、世界にむかって問題にするだろう。

戦争目的の破綻
私には、アメリカの南ベトナム介入が思い起こされて恐ろしい。
(「テロとの戦い」という)戦争の目的は見せかけに過ぎない。本気で、アルカイダを叩き、アフガニスタンを守るというなら、われわれは、さらに西パキスタン、ソマリア、スーダン、イエメンなどに侵攻し占領する必要が出てくる。アフガニスタンにおけるわれわれのプレゼンスは、むしろ核拡散の危険を抱えるパキスタンの不安定化と反政府活動の増大に寄与するだけだ。(本気で「テロとの戦い」を推進するなら)アフガニスタンではなく、パキスタンに駐屯すべきなのだ。
戦争が8年目に入ったが、われわれは、無期限・無計画となった紛争に引きずり込まれている。戦死した兵士の家族にたいして、戦争の大義を確信させることが私にはできなくなった。よって、私は辞表を提出する。

関西合同労組 職場闘争報告会
グループ討議が白熱 11・23

争議や団交、裁判などのたたかい方をめぐって真剣に討議(11月23日)

11月23日、関西合同労組は職場闘争報告会をおこなった。25人が参加した。
新年旗開き、春闘要求提出行動、定期大会、秋の職場闘争報告会以外では、組合員が公式行事として一同に会する機会は、そう多くなく、大切な議論の場となった。職場では少数でも地域の仲間がいざというとき応援に駆けつける地域ユニオンのメリット。他方、職場が違い、職種が違うことから、100人近い組合員の団結の形成のためには、意識的なとり組みが必要だ。
資料として準備された、30近い分会の〈職場実態・成果・課題等事例表〉は、たたかいの実績の集大成となった。

初めての試み

初めての試みとして、「不誠実団交・労働条件切り下げ」と「運輸・解雇争議」の2グループに分かれて、分科会で議論し、争議や団交について活発な議論を交わした。
「不誠実団交・労働条件切り下げ」分科会では、1人職場が多く、有給休暇すら取得できない実態や、文字どおり「ワーキングプア」の実態、労働条件を一方的に変えられた実態が報告され、不誠実団交や労働条件切り下げにたいし、どうたたかっていくか真剣な議論がなされた。
「運輸・解雇争議」分科会では、裁判闘争と運動をどう両立させていくか、マンネリを打破し実効ある打撃力をどう運動でつくっていくか、といったことが議論された。さらに、完全歩合や車のリース(雇用労働を一人親方に偽装する償却制)などの実態や、所定外・深夜・休日割増を歩合にぶっこむ賃金体系とどうたたかっていくかなどで議論が白熱した。
皆の前での意見発表はなかなか勇気がいるし、また、さしあたりスッキリした結論が導き出せたわけではないが、グループ討論で議論を積極的に引き出せたことは成功だった。

私だけじゃないという安心と不安

初めて参加した組合員の感想――
「今まで18年いた組合にはなかった初めての経験。非常に意義ある議論だった」「これからきっと、ここでの議論が生きると思う。がんばります」「孤独の中でたたかってきたが、私だけじゃないという安心と不安。いろいろ教えて欲しい」
交流会では、ビールやお茶を飲みながら団結を深めた。
関西合同労組は、この議論を踏まえ、新年旗開き、1・17被災地集会から2010年春闘に向けてたたかう決意をかためた。(関西合同労組K)

4面

【翻訳資料】
韓国労働社会研究所機関誌『労働社会』9月号
民主労組運動の新しい展望を求めて
オ・ドンジン(韓国労働社会研究所副所長)
翻訳=中村猛

本紙43号〜44号掲載の「翻訳資料」に続いて、韓国労働社会研究所機関誌『労働社会』9月号掲載の論文「民主労組運動の新しい展望を求めて」の翻訳を掲載する。訳者は日韓民主労働者連帯代表の中村猛さん〔編集委員会〕

20年間もの間、命を捧げて積み重ねてきた民主的権利と制度が、わずか1年6カ月で木っ端微塵に砕けた。ロウソクの灯りで、断食で、五体投地で、抵抗してみたが、少しも動かない政権に、怒りを越えて絶望まで感じる。どれだけ苦労して勝ち取った民主主義だったか。
80年の光州民衆の革命精神を受け継いだ労働活動家たちは、工場で、地域で、死と拘束を覚悟して活動した。現場で勤労基準法の話をするだけでもアカ呼ばわりされ、不穏な書籍を持っていたという理由だけで、国家保安法で拘束されなければならなかった。70年代、先輩たちはパク・チョンヒ維新独裁の中でも、秘密裏にすべての組合員に教育を受けさせ、闘いを組織したという。糞尿を浴びせられ、三清教育隊(訳注:チョン・ドゥファン政権が暴力団や路上生活者、民主化運動家らを逮捕し、過酷な訓練をさせた部隊)に連れて行かれてもあきらめないのが「民主労組」だ。以前、私たちの事業場(キョンドン産業)でも労働組合を作るために2人の同志がシンナーを被って焼身・自殺したのに、民主労組を結成するのにさらに5年を闘わなければならなかった。

血と汗でつくった民主労組 今なぜ苦しいのか

労働活動家たちは夜昼12時間交代で仕事をしても、社会変革のための学習と討論で夜を明かし、警察の目を盗んで地域と工業団地にビラを撒き、管理者に内緒で労働組合結成の小サークルを組織した。革命的な情熱と新しい社会に対する展望がなかったなら、不可能だっただろう。労働者の意識が変わり、数多くの労働者組織によって闘争力量も積み重なり、ついに全労協と民主労総が作られた。民主労組は労働者の血と汗の歴史だ。
苛酷な弾圧を突破して民主労組を作った80年代の活動と比較してみれば、現在の困難は労働運動が十分に克服できる問題だ。労働組合を作るのも、学習をするのも、ストライキと集会をするのも、楽になった。企業別労組が産別労組に発展し、以前にはとても夢にも見ることもできなかった進歩政党と、労働者出身の国会議員も作り出した。それなのに相変らず苦しいという。なぜそうなのか? 問題の核心は、労働運動の発展に責任を負っている労働活動家、幹部たちにあるだろう。そうならば何から始めなければならないか?

新しい活動戦略と包容力ある団結で

学習活動と現場討論
最初に、学習小サークルと現場討論によって労働運動の展望を見い出そう。世の中は変わったのに、労働活動家たちは変わっていない。新しい社会に対する展望も、社会を根本的に変えるための厳しい努力もない。政治組織と現場組織は執行部を掌握することよりも、労働運動の質的向上のための学習活動と現場実践に力を注がなければならない。経験ある幹部の再教育と若い幹部たちの組織的な現場活動によって、希望を見い出さなければならない。私たちの研究所も昨年から、講義式の教育よりは学習小サークルと討論式教育に集中している。

新しい活動のやり方
二番目に、新しい活動のやり方で組合員の参加を高めよう。組織も、集会も、闘争戦術も、新しいものが全くない。組織方針もなく、現実を無視したまま形だけにしがみついてじたばたしており、最もよく闘う労働者が闘争現場で見られない。集会とデモのプログラムはいつも同じで、ゼネストばかり叫ぶのにはうんざりしないか? 組合員たちが参加できる多様な闘争戦術を見い出さなければならない。ロウソク集会を見て、反省するという声は多かったが、労働者たちは依然として時代遅れである。

違い認め互いを尊重
三番目に、違いを認めてお互いを尊重して闘おう。「分裂は死で、団結は生命だ!」とは言わなかったか。大工場、事務職、正規職労働者たちを闘わないと非難する前に、各組織がキチンとできる実践活動を配置して、互いに励ましあって一緒に進もう。大産別という組織形態に首を絞められた組織方針も、内容あるものに発展させていかなければならない。執行部選挙だけに忙しい政治組織、現場組織は、社会変革の内容を持った上で、組合員の中で互いに競争して発展しなければならない。分派と覇権に染まった古い組織と指導部を追い出して、現場で献身する斬新な幹部たちの手で、民主労組をより一層強固にしよう。

来年の地方自治体選挙
四番目に、来年の地方自治体選挙では、選挙連合によって与党少数・野党多数の局面を作り出そう。私たちの社会には、保守集団がとうてい押さえきれない程のおびただしい民主・改革勢力が存在する。ロウソクを持って立ち上がった中・高生、天才的な奇抜さと才覚で武装したネット市民、1千を超える市民・地域団体がそうだ。闘いには「時」があるという。来年の地方自治体選挙は局面を転換できる良い機会だ。そして、民主労働党と進歩新党、民主党の候補が地域ごとにすべて出馬するとすれば? 労働者たちは生きるためにも、今から進歩大連合と選挙連合を準備しなければならない。候補単一化に同意する候補にだけ票を集め、税額控除にも協力し、反対する候補は現場に足を踏み入れられないようにしなければならない。

一緒に、一段高い理想を求めていく時

新しい社会の建設は、労働運動がどのように動くかにかかっている。労働活動家は今より一段階高い活動で、新しい時代を切り開かなければならない歴史的責任があることを肝に銘じよう。その責任を気持ちの真中に固く持って、労働運動の新しい展望を一緒に求めて行けば、独裁政権の下ですらくそ真面目にやってのけた、民主労組運動の未来が見えるだろう。

民主労総の全国労働者大会(11月8日 ソウル)民主労総サイトより

本気でつぶす流れを
医療観察法廃止 11・22全国集会

「差別と拘禁の医療観察法の廃止を!全国集会」が、11月22日、東京南部労政会館で、76人が参加しておこなわれた。「心神喪失者等医療観察法をなくす会」など4団体の主催。

集会には76人が参加(11月22日 東京)

医療観察法は「精神障害者」差別法

集会の司会は、「精神障害者」と精神科医療労働者の仲間。
まず「精神障害者」による基調報告。
医療観察法は「精神障害者」差別法だ。この法律によって「精神障害者」は危険で何をするか分からないというイメージが作られ拡大された。「本人のための医療を行なうから保安処分ではない」というが、この法のもとで13人が自殺している。10%の収容者は社会的入院になると厚労省も認めている。
2010年に法で定められた見直し時期がくるが、法に見直し規定があっても無視されることは今までもあった。民主党も医療観察法の見直しは言っていない。
「見直し」に向けての流れは4つある。@現状維持・拡大路線(厚労省など)、A保安処分法への純化路線(刑法学者・加藤久雄、精神科医・山上皓ら)、B現状維持・「改革」路線(日弁連医療観察法部会)、C保安処分反対・医療観察法廃止路線だ。
「目に見える」たたかいの展開で「本気で潰す」流れをつくり出そう。執拗な大衆運動の力で民主党政権に廃止を迫ろう。
弁護士の足立さん。
日弁連刑事法制委員会医療観察法部会の見解は、いい面を評価すべきという意見と、保安処分的側面をなくしたいという意見の妥協の産物だ。法を積極的に評価していると取られても仕方ない。内心じくじたるものがある。廃止されるようにがんばっていきたい。

「殺すな!」の声を

大阪、京都、青森、に続いて兵庫の「精神障害者」が発言。自殺者が13人も出ているのに、厚生労働省はなんらの対策もたてずに情報隠しばかりをしている。「精神障害者」の命はそんなに軽いのか。1970年代に「脳性まひ者」の全国青い芝の会が「殺すな」と声を上げた。「精神障害者」が、今こそ「殺すな!」と声を上げよう。

イタリアの取り組みに衝撃

全国精神医療労働組合協議会の有我さん。
対象となる人はたまたまそうなっただけで、他の患者と変わるところはない。13人の自殺者の数倍、数十倍の未遂者がいる。それなのに治安面のみに金が投入され、一般精神病院は下請け化されている。
イタリアのバザリア医師のとり組みに触れる機会があり、実際にイタリアに行って大きな衝撃を受けた。イタリア全土で強制入院を受け入れる単科の精神病院はなくなった。また全土で隔離室はなくなった。トリエステ地方では、「他害」(他人に危害を加えること)のために強制入院となることはない。力で押さえつけることはない。それを支える政治が密接にリンクしている。トリエステでは、事件を起こした患者を司法精神病院に送ることはなく、地域のネットワークでケアしている。司法精神病院の廃絶法も提出している。「やれば出来るさ」と希望を持って取り組んでいきたい。
さらに、DPI(障害者インターナショナル)日本会議の三澤代表から連帯のあいさつ。DPIは観察法に反対した。危険そうだということで人を隔離する法律だ。新政権の改革推進本部のもと、精神障害者の権利を作り変えることを優先する。
まとめとして、通常国会初日から国会行動を行なう、署名運動にとり組む―などの提起。
最後に、「差別と拘禁の医療観察法を廃止するぞ。予防拘禁法を廃止するぞ。医療観察法を廃止するまでたたかうぞ!」とシュプレヒコール。その後、銀座マリオン前に移動して約1時間、街頭演説と署名を行なった。

10・29院内集会

これに先立つ、10月29日には、国会院内集会が同じ主催者のもと開催され、9人の議員と18人の議員秘書が参加。全体では50人が参加。医療観察法廃止のための国会行動として、大きな関心を集めた。その中で、2人の議員が、「法の廃止」を明言した。(MT)

5面

在日・滞日人民への襲撃ゆるすな
「在特会」と対決する共同行動を

社会的閉塞感を外国人排斥にすりかえ

「外国人追放」を絶叫する「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が全国で街頭に進出し始めている。従来の右翼とはちがい、少人数が宣伝カーの大音響でがなり立てるという方法ではない。「外国人追放」を掲げて行動をよびかけ、集会・デモ・おしかけなどを行使して、在日・滞日人民を襲撃し、労働者人民の戦闘的たたかいを暴力的に破壊しようとする運動である。
こうした「在特会」の跳梁を軽視してはならない。ナチスが「ユダヤ人の撲滅」を掲げて排外主義とテロルで労働者人民を組織し、左翼を粉砕して権力を握っていった過程を忘れてはならない。

格差・貧困の拡大と一体
小泉構造改革は「格差と貧困」を拡大した。労働者人民が最低限の生活を維持する上で必要な諸制度、職場・地域において辛うじて維持されてきた人と人との繋がりを破壊・一掃した。不安定雇用、展望の見えない生活苦、こうしたことがすべて「自己責任」のイデオロギーをもって、当該個人の責任とされ、社会的孤立を余儀なくされてきた。とりわけ若年層の労働者人民がそういう状態を強いられている。
うっ積する不満や怒りは、本来、階級闘争に組織されるべきものだ。ところが、労働運動・左翼運動の停滞の中で、そのはけ口を、インターネットへの差別暴言の書き込み、路上生活者や「社会的弱者」へのいじめ・襲撃に求めるという疎外状況も生まれている。

直接行動で排外主義を煽動

このような状況に置かれた人びとを街頭に連れだし、「外国人追放」の扇動と直接行動で、排外主義的に組織しているのが在特会だ。
「在特会」の街頭デモの参加者は6月13日の京都では200人そこそこであったが、9月27日の秋葉原では700人、10月10日の大阪では300人を集めている。そのなかには、凝り固まった右翼思想の持ち主や組織的動員だけではなく、先に述べたような人びとも含まれていると言われている。
街頭で「外国人追放」「左翼粉砕」の気勢を上げることで、日々の生活の中で抑圧されうっ積する不満を解消し、自己を擬制的に「解放」しているのだ。9月27日の秋葉原では、歩道から抗議した人を警察権力の注視の中で袋だたきにした。
「在特会」は、インターネットで呼びかけて街頭デモに組織し、もう一方で、日本軍「慰安婦」問題をはじめとする各種の集会やイベントに押しかけ、あるいは在日朝鮮人の集住地域である生野区(大阪市)やウトロ(京都府宇治市)に押しかけ、「外国人は出て行け」と叫び、襲撃とも言える行動をおこなっている。
ウトロでは、隣接する自衛隊駐屯地に向かって、「あいつらを銃で撃ってください」などと叫んだ。こうした行為が、日本に住む外国人の生命と生活をどれだけ脅かし恐怖にさらしていることか。我々は激しい危機感を持たねばならない。「在特会」が行っているのは、関東大震災の時に起こった朝鮮人・中国人大虐殺の煽動と同じなのだ。
さらに「抗議行動」と称して自治体庁舎、議員事務所、国会議員会館などにも押しかけて圧力を加えている。
こうした街頭行動と、「抗議行動」と称した「標的」への襲撃行動をくりかえし、民衆を組織化するという手法はナチスを模倣したものだ。

外国人排斥のスローガンをかかげて行進する在特会(6月13日 京都市内)

自民党政権崩壊と在特会の台頭

日本帝国主義の戦後体制の支柱の一つをなしてきた自民党支配が労働者人民の反乱によって倒された。これは深刻な政治支配・階級支配の危機だ。支配階級は、さしあたり、労働者人民の反乱に乗って政権についた民主党を「現実路線」(帝国主義的路線)に引き戻すことで、危機を乗り切ろうとしているが、事態はもっと深刻だ。
自民党支配の崩壊は一政党の終焉にとどまらない。帝国主義総体の行きづまりと世界経済危機、基軸帝国主義アメリカの危機とその直撃を受けた日本帝国主義の危機、危機突破をかけた新自由主義政策の強行とその破綻。そういう危機の中で、日本帝国主義が戦前・戦後を通して形成してきた軍事的・政治的・経済的・社会的・イデオロギー的な支配構造の崩壊はもはや押しとどめることができない。そこにはプロレタリア革命の現実性が宿っている。
このことにたいする激しい危機感から、支配階級は、日本帝国主義の侵略と戦争の歴史を賛美し、日本社会に沈殿する朝鮮人(と外国人)にたいする差別意識を引き出し、もって支配の再確立をはかり、予防反革命と侵略戦争への動員を狙っているのだ。それが、田母神の暴言であり、『坂の上の雲』のキャンペーンであり、また、在特会の動きである。

開始された大衆的反撃と武装自衛

在特会の台頭にたいして、危機感が強まっている。労働者人民の反撃と、在特会の襲撃をはねかえす自衛武装のたたかいが始まっている。
6月13日の在特会の京都デモに対する反撃行動には350人。
10月10日、在特会の大阪デモにたいしては、2週間で314の団体・個人の賛同がよせられ、250人が反撃の緊急行動に立ちあがった。この日の集会では、「在特会のような外国人の排斥を呼びかける者たちにたいして、これを粉砕する権利がある。しかしあえて今回はこの権利を留保する。労働者市民に広範に呼びかけて、彼らを包囲し解体するたたかいを行う」という提起がなされた。この提起のもと、在特会のデモにたいして、毅然と対峙した街頭宣伝で包囲し、在特会の反動的な狙いを粉砕した。

在日・滞日人民とともに
在特会との攻防の重要性・緊急性を共有し、共通の敵から、在日・滞日人民と労働者人民の運動を防衛する観点で、党派や運動の違いを超えて連携を強めよう。排外主義の行きつくところが、侵略と戦争への動員であることを暴露しよう。格差・貧困の元凶が帝国主義にあることを粘り強く扇動しよう。
アジア人民、在日朝鮮・中国人民、滞日外国人への襲撃を許すな。
日本軍「慰安婦」問題解決の決議をさらに全国にひろげ、「真相究明・謝罪・国家賠償・責任者処罰・歴史教育実現」を政府に迫っていこう。 (近藤健二)

6面

あの戦争をくり返すな 杖をついてでも闘う
山本善偉さん
(新空港反対東灘区住民の会代表、
関実世話人)

68年前の1941年12月8日は、日米戦争開戦の日だ。その時代を生き、二度と戦争をくり返してはならないという思いから、その後、三里塚闘争や反戦闘争に立ちあがっていかれた山本善偉さん(89歳 三里塚決戦勝利関西実行委員会世話人、新空港反対東灘区住民の会代表)に、12・8を前にしてお話を聞いた。1943年10月21日、東京・神宮外苑で、「学徒出陣」壮行会がおこなわれたが、兵庫県の壮行会は、11月19日に神戸市東遊園地でおこなわれた。山本善偉さんは、その「出陣」学生の一人だった。〔11月18日、兵庫県西宮市の山本善偉さん宅/聞き手=編集委員会〕

「戦争をくり返す道を進んではならない」と語る山本さん。手前は壮行会で読んだ「答辞・宣誓文」

――89歳の今も元気に三里塚に行かれています。「学徒出陣」から66年の今日、あの時代をどう思い出されますか。

私は1920年生まれ。29年の世界恐慌のころに小学生。31年「満州事変」、37年7・7盧溝橋事件、40年日独伊三国同盟、41年日米開戦という時代に子ども時代、青年時代を生きた。
戦後、自分なりに歴史を勉強し、三里塚のたたかい、人権や反戦・平和の運動にかかわり、それがどういう時代だったか分かるようになったが、当時はまったく自覚はなかった。
むしろ日本の「満州」進出や、「強い日本」「国益興国」ということを誇りに思っていた。そういう教育をうけ、それが自然だった。
12月8日は中学生だった。よく憶えている。その日は、何か財産のことをめぐって、朝から親戚に苦情を言いに行く用意をしていた。そこへ朝の大ニュース。「やった。こんな大事な日に、自分は何という私事にかまけているのか」と、後悔したことを憶えている。

――1943年、山本善偉さんも「学徒出陣」されました。

その後、大学へすすみ、それまでも修業年限短縮で入隊という措置はあったが、43年の3年生のとき、10月に突然「文科系は大学におる必要はない。12月1日に軍に入れ」と通知がきた。
そして10月21日、東京・神宮外苑で「学徒出陣」壮行会。兵庫県では11月19日に、神戸市の東遊園地ラグビー場でおこなわれた。「出陣」と見送りの学生が整列、1万人くらい集まった。ぼくは関西学院におり、参加全校を代表し、答辞・宣誓が当てられた。
気恥ずかしくもあったが、誇らしくも思った。その宣誓文はとても人に見せるようなものではないけど、おいてある。いま読むと不思議なことに、誰に教えられたのでもなく、見せ合ったわけではないのに、文章、文言は神宮の答辞と瓜二つ。そういう言葉で教育され、誰もが同じで当たり前だった。「生らもとより生還を期せず。感奮興起、学業を捨て銃剣を執り軍務に就くの光栄を担う」。みな異口同音、自分で考えることをなくしていた。
※「生ら」とは「われら」の意。当時、「せいら」 と発声していた。
「壮行の辞に答え、関学大の山本善偉君が力強く決意」と1943年11月20日付の朝日新聞神戸版に掲載された写真

――その後の経過は。

大学3年の12月1日、姫路の野砲隊に入隊。村(神戸・旧本山村)をあげての壮行会だった。父はすでに亡く、母は50歳すぎ。ところが母は絶対に会場に行こうとしない。玄関で見送ってくれただけだった。
3カ月の教育が終わり、1泊の外泊休暇が許された。うれしくて飛ぶような気持ちで本山村まで帰って、びっくりした。黒々と美しかった母の髪が真っ白に。白髪が少しずつ伸びたのではない。3カ月で全部が白くなっていた。
いま思えば、「息子が戦争に行く」「生還を期せず」とはどんなに辛かったか。「元気で帰ってこい」などとは絶対に口に出せない。言わないけど髪に現れていた。国をあげて戦争へという時代。しかし、人びとの心の底はそうだった。
姫路の原隊にもどると、80人ほどの学徒兵、見習士官に毎晩命令がくる。参謀本部へ1人、南方へ3人、どこどこへ何人と。成績のいい者は師団司令部で、前線へは成績の悪い方から出される。私と4、5人は成績がいいのか悪いのか残ってしまった。前線に行った者は生きて帰らなかっただろう。

――実際にはどういうことをされ、また印象に残っていることは。

私は長野の教育隊に配属された。前線の悲惨には会わなかったが、もう若い兵士がおらず、30代半ばを過ぎた新兵を即席教育して、各地の部隊に配属する役目だった。30代半ばはみな家族持ちで、一家の柱の人たち。それを戦争に送り出す。暗澹たるものだった。
45年の8月初め、兵士を熊本の部隊に引率した。彼らはそこから前線に出される。列車の中は、何とも言えない暗い雰囲気。途中、大牟田で空襲をうけ、列車が止まった。待機していると、兵隊がブラインドを開け外を見ようとする。「見てはならん」と命令しても見る。爆撃の後の燃えた街で、死骸を積みあげ焼いている。うめくような重苦しい空気になったが、どう言いようもない。
帰りは、2、3日の休暇があり、それぞれ郷里に寄った。ところが1人帰ってこない。「脱走か」とみんなが青くなっていたら、数日後にやっと帰ってきた。ぼくは「よかった」と声をかけようとして声にならなかった。
顔が腫れあがり、手はただれ、皮がむけて垂れている。「何だ。どうしたんだ」と。彼は、それでも遅れたことを詫びた。彼の故郷は広島。原爆とは当時言われなかったが、「新型爆弾が落とされた」とは聞いていた。軍医に見てもらったが、見た目にも重症で助からなかっただろう。

――日本の戦争が侵略だったという認識をもたれた契機があったとお聞きしました。

戦後しばらく、ぼくは、これまでのことが意味があったのか、なかったのか、あきらめることもできず過ごしていたが、たまたま母校に呼ばれて教師になった。
1956年、32歳のときアメリカに2年間留学、アジアからの留学生といっしょになった。そのとき韓国からの留学生に、「3・1独立運動、日本の官憲の暴虐な弾圧を知っているか」と聞かれた。ぼくは、全然知らなかった。
あるとき米国各地にいるアジアからの留学生の親睦パーティーがあった。それぞれ自己紹介しながらにぎやかに話していたが、ぼくが「日本から来た」と言った途端、その場が凍りついた。
どうしたのか、誰も何も言わない。何分くらいたったか、突然フィリピンからきた女子学生が、「なぜ、みんな黙っているか分かるか」と立ちあがった。「父は牧師だったが、民兵をかくまったと、日本兵に目の前で銃剣で突き殺された」と彼女が言う。他のアジアからの留学生たちも、みんなそういう体験をもっていると。フィリピンのラバーヌ君という上級生が「ゼニー(善偉)が悪いのではない。日本がやったことだ」と、その場をとりなしてくれたが、誰も何も言わない。
ぼくも日本軍の一翼を担っていた。どう言えばいいのか。謝ってすむことではない。けっきょく黙ったまま、お開きになった。その体験は非常に大きな衝撃だった。

――その後、三里塚闘争に参加されました。

とても全部は語れないが、70年ころ結核で療養所に入った。入院の合間、新聞の切り抜きをしていたら、三里塚のあの強制代執行がおこなわれていた。この日本で、戦争の時代のようなことが起こっている。こんなことが許されるのか。以来、関西実行委員会のみなさんとともに、三里塚・反戦のたたかいをつづけてきた。
いま自衛隊の海外派兵、9条改憲、つくる会教科書、教育基本法改悪、在特会などの動きがある。真実が曲げられる教育にもどしてはならない。三里塚を見てほしい。国は暴虐の限りを尽くし、裁判所は自らの違法を合法とし、市東さんの農地を奪おうとしている。
いまはまだ声をあげることもできる。あの学徒動員の時代にもどし、戦争をくり返す道にすすんではならない。杖をついてでも、私はたたかう。

創刊2周年をむかえて

本紙は、08年1月に創刊以来2年を迎えます。
様々な現場からよせられた原稿・投稿に支えられ、また励ましと心配、叱咤に力をいただきながら、定期発行と6面化、紙面の充実をはかってきました。もちろん本当の飛躍はこれからだと思っています。
これからも是非、声をおよせください。1面記載の住所への郵送、またはウェブサイトからの投稿メールでお願いします。〔編集委員会〕