戦争のハードルさげる貨物検査法
9日 衆院審議入りゆるすな
朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の地下核実験を口実に、日本政府は、北朝鮮に出入りする全船舶を対象に、公海上で貨物検査(臨検)をおこなうことを画策している。3日の衆院議員運営委員会理事会では、貨物検査特措法案を9日に本会議で趣旨説明、審議入りすることで合意した。与党は、10日から特別委員会で実質審議を開始し、14日には衆院通過を狙っている。
公海上での貨物検査(臨検)は戦争行為
日本の法律が適用されない公海上で、他国の船舶を強制的に停船させ、乗り込み、貨物を検査し、押収する行為は、戦争行為そのものだ。
日本にはすでに「船舶検査活動法(2000年成立)」が存在する。憲法9条のある日本に、なぜこのような法律があるのか。この法律は、90年代、有事立法攻撃のなかで制定された「周辺事態法」(99年成立)とセットで制定された有事法である。正式名を「周辺事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律」といい、周辺事態=日本周辺での戦争が前提になっている。
憲法違反の戦争法「周辺事態法」
「周辺事態法」は、「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等 我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」を「周辺事態」と規定している。
ひらたく言えば、戦争あるいは前哨戦が日本の周辺でおきた場合に、積極的にそれに加わるための、あるいは、日米が共同して朝鮮半島などで自ら侵略戦争をひきおこす際の手続きを定めた法律だ。憲法を無視して戦争をやることを、勝手に前提化した法律なのだ。
今年5月、日米印共同訓練で、不審船役の米艦「ブルーリッジ」に乗り込み、臨検訓練を行う海自隊員(5月1日 九州沖) |
戦争状態を意図的にひきおこす
戦争が起こっていないのに、公海上で北朝鮮関連船舶の臨検をおこなうということは、戦争状態を意図的に引き起こすことなのだ。
その戦争状態をひきおこすための国内法が、国会に上程されようとしている「貨物検査特措法案」だ。「船舶検査活動法(2000年成立)」では、現在の情勢に適用できないとして、もっとハードルを下げて、「周辺事態」でなくても、船舶検査=戦争挑発を可能にさせようという特措法なのだ。
与党プロジェクトチームの法案要旨(抜粋)
・貨物検査活動に関する情報収集(船舶追尾を含む)は自衛隊が実施
・貨物検査は法執行活動と位置づけ、海上保安庁が対応
・海上保安庁のみで対応できない場合、自衛隊法82条(海上警備行動)に基づき、自衛隊が所要の措置をとる
・公海上では、対象船舶の所属国と船長、日本領海では船長の同意を要件とする
・貨物の「提出命令」「保管」を実施し、押収や処分をおこなう
「法執行活動と位置づけ」などと勝手なことをいっているが、公海上で、他国籍の船舶にたいして、日本の法律を適用して、強制的な停船、乗り込み、検査、捜索、貨物の押収などできるわけがない。世界中で、各国がこんなことを勝手にやりだせば、即戦争だ。
「戦争前奏曲だ」と北朝鮮は指摘
労働党機関紙は、1日付け論評で、日本政府が特別措置法の早期成立をめざしていることをとりあげ、貨物検査は「重大な軍事的挑発になる」とし、実施した場合、「直ちにわが方(北朝鮮)の軍事的対応が伴う」と警告し、「軍事力使用の法的環境を整えるための政治的挑発行為」「朝鮮再侵略の道を開くための戦争前奏曲も同然」と指摘している。
戦争挑発につきすすむ日本
政府は、このかん対北朝鮮制裁を独自に強化しつづけてきた。貨客船「万景峰92」など北朝鮮籍船の入港禁止、日本との輸出入の全面禁止(医薬品、生活関連物資、食品なども含めた全品目)、金融封鎖などを強行した。
これに加え、海上封鎖・経済封鎖に突き進もうというのだ。
麻生は、6月7日、都内(JR吉祥寺駅前)で、北朝鮮に対し「われわれは戦うべきときは戦わなければならない。その覚悟だけは持たなければ、国の安全なんか守れるはずがない」と、憲法違反、戦争挑発の演説をおこなった。
民主党は法案成立に協力誓う
鳩山代表は6月13日、「法改正が必要ならば当然民主党も協力をする」と述べ、貨物検査特措法案への協力を表明した。
戦争挑発の「貨物検査特措法案」成立を阻止しよう。廃案に向け、国会闘争をはじめ、全国でたちあがろう。
〔6〜7面に関連記事〕
7・5三里塚 反対同盟が闘争宣言
デモの先頭にたつ反対同盟(5日) |
7月5日、三里塚芝山連合空港反対同盟が主催する「新誘導路の7月前倒し供用開始阻止! 市東さんの農地守れ! 7・5三里塚現地闘争」に、350人が結集した。集会は、暫定滑走路敷地内の「開拓道路」で行われた。
この集会の直前に成田空港会社は、新たな3本目の「誘導路」建設計画を発表した。これは反対同盟の市東孝雄さんの家屋と農地を、滑走路と誘導路で完全に包囲するというもの。滑走路の真ん中に農家を孤立させ、殺人的な騒音と事故の危険にさらすことで、屈服を迫ろうというのだ。
反対同盟はこの卑劣かつ非人間的な空港会社のやり方に対して闘争宣言を発した。集会で発言にたった市東孝雄さんは、いかなる攻撃にも断じて屈しないという決意を明らかにした。 〔詳報次号〕
改悪入管法 成立ゆるすな
6月19日、入管法・入管特例法・住民基本台帳法改悪案が衆院で可決され、参院に送られた。民主党は、特別永住者に対する「特別永住者証明書」常時携帯への罰則規定削除など、わずかな修正で採決に応じた。
歴史を逆戻りさせる大改悪
これまでの外登法による地方自治体での登録ではなく、入管局が在日・滞日外国人を直接一元管理するという根本問題は不問に付されたままだ。
非正規滞在者や難民申請者には「在留カード」は発行されず、就学などの自治体による行政サービスすら奪われる事態も変更されていない。
「配偶者の身分を有するものとしての活動」を継続して行っていなければ在留資格が取り消されたり、職場や住所の変更を2週間以内に届け出ることを刑事罰で義務づけ違反すれば在留資格を取り消すという非人間的管理もそのままだ。
外国人の在留状況の入管への報告を、職場や学校に義務づける「密告制度」も残されたままだ。特別永住者をのぞく一般永住者や中長期滞在者の「在留カード」の常時携帯制度と罰則制度も残された。
朝鮮籍の在日朝鮮人に対しては日本への再入国を認めないという、祖国との往来や親族との再会すら禁止する、非人道的措置もそのままだ。
30年に及ぶ指紋押捺拒否闘争・反外登法闘争が切り開いた成果をことごとく破壊し、50万人以上の人びとが「外登法違反」で逮捕・拘束された1950年代60年代に逆戻りさせるような改悪を絶対に許してはならない。
東西で行動
国会前では座り込みがくり返し続けられており、院内集会も波状的に持たれている。関西でも、3日、豪雨をものともせず、実行委員会の呼びかけで、大阪市役所前の公園に約300人の人びとが集まり、大阪駅前までのデモが闘われた。
国会審議の状況から、7日には参院での採決―成立がたくまれている。参院での採決を許さず、廃案に追い込むために全力で闘おう。
2面
「戦争と貧困」とたたかう
「憲法第9条改定を許さない
6・14全国集会」発言から @
6・14集会は、伊藤成彦・中央大学名誉教授の講演「憲法9条改定と国民投票をめぐる現状」(次号掲載)を中心に、派遣村報告(今号掲載 安部誠さん)非正規雇用労働の現場から(今号掲載 園良太さん)沖縄報告(次々号掲載)国労闘争団、「日の丸・君が代」強制とのたたかい、不戦兵士の会、東京大空襲訴訟、伊達判決50周年、重慶爆撃訴訟、安保条約無効確認訴訟、米原子力空母横須賀母港化とのたたかい、反原発、9条バンク運動、海賊対処法案に関する緊急提案、ピアノとスライドによる平和のメッセージなど、憲法、安保・沖縄、反戦平和、労働運動を網羅した内容だった。 〔見出しおよび文責は編集委員会〕
60年世代、70年世代から、派遣切りとたたかう青年まで、幅広く集まった(6月14日 都内) |
なぜ派遣村に取り組んだのか
全国ユニオン事務局長 安部誠さん
なぜ私たちが派遣村をとりくんだのか。小さなユニオンですけれども、なぜ全力をつくしたかということについて、お話をしたい。
ホットラインで驚き
昨年11月くらいから、派遣切りということが報道されはじめ、派遣切りが頻発してきましたので、11月29日と30日に「派遣切りホットライン」と題して2日間、電話相談をおこないました。2日間で472の相談がありました。
当初、派遣切りといっても「期間満了の雇い止め」というのが多いのではないかと思っていました。
ところが実際に相談がはじまってみたら、私たちの予想は大きく裏切られました。472のうち、約220件が「契約の中途解除」、つまり3月まで契約があるのに、「親会社の仕事がなくなったから来週で契約は打ち切りだ」と、そういうような類の相談が、全体の40%以上でした。われわれ日本の社会に住むものにとって、一番くびを切られたくない時期があるとすれば、それは多分年末だろうと思います。
この電話相談で、非常に驚いたことがあと二つあります。
ひとつは、相談数の約2割が、住居にかんする相談だということです。契約を切られて、もう住むところがない。私は労働組合の活動を25年やっておりますが、「住むところがなくなった」という相談が20%もあるという、こういう相談は生まれて初めてでした。このことで、私たちの認識は非常に甘かったということを痛感しました。
驚いたことが、あとひとつ。それは、これは、私が相談を受けた50代の男性のかたでしたが、ひとあたり相談が終わって、ところで、これからどうするんですかと私がたずねますと、「とりあえず、東京へ行く」と言うんですね。「東京に知り合いとかいるの? あてがあるの?」と聞くと、「いや、とくにあてはない。だけど、東京に行けば、ここにいるよりましなんではないかと」。相談活動が終わり、皆にそういう報告したら、「俺もそういう話を聞いた」という相談員が数多くいました。それで、「これは、地方で派遣切りにあった方々が、年末年始、東京に向かっている兆候ではないか」ということで、このかん派遣法改正運動やホワイトカラーエグゼンプションのたたかいをともに闘い抜いた仲間とともに語らって、これはなんとかしなければいけないとなりました。
ということで、12月16日に、「年末年始、日比谷公園で、派遣村をやろう」ということを有志で決めました。
派遣切りの現実を可視化
派遣村の目的というのは二つありました。
ひとつは、派遣切りにあって、東京に来ざるを得ない人たち、路頭に迷うしかない方々にたいする救援活動、食と住の相談です。
ふたつめは、そのような方々を、一カ所に集めて、派遣切りの現実を可視化して、世の中に発信するということです。
ところで、なぜ日比谷公園でやったのかということですが、ひとつはですね、新宿や池袋ですと、もう何年も前から炊き出し活動をやっている方々がいるので、そういう方々の「縄張り」を荒らしてしまうからです。
もっと大きな理由は、厚労省の目の前であるということです。派遣切り、期間工切りというのは政治による災害です。そういうことで、厚生労働省の前で、テント活動をおこないました。派遣村に入られた方は505人、ボランティアの方が1674人です。
12月31日、1月1日、最初のころは、とても大変でした。みんな殺伐としていた。自殺を思いとどまってきた方々もいました。
働かせ方の仕組みに問題
派遣村を私たちがやらざるをえなかった理由は、今の働かせ方の仕組みにあります。ですから、今日、この演壇のスローガンに、労働者派遣法撤廃と書いてあります。私も、賛成です。しかしながら、その第一歩として、労働者派遣法の抜本改正を勝ち取っていくということを突破口にしてですね、さきほど、憲法9条、25条というお話がありましたが、28条を加えるかたちで、安全安心な社会をつくりあげていくことが肝心だとおもいます。
派遣村は、そのような希望の、ほんの小さな希望ですけども、「われわれの手で、世の中を変えられる」ということを発信できたのではないかと思います。
貧困を戦争で解決するな
自由と生存のメーデー実行委員会 園良太さん
「貧困の運動」と「反戦の運動」は、もっと、改憲を止める運動と結びついていかなければいけないと思っています。その理由を3点ほどお話したい。
まず、堤未果さんが『ルポ 貧困大国アメリカ』でお書きになったように、アメリカでは、貧困層の若者や、社会保障を得られない人たちが、それらを得るために軍隊に入るという現状があります。その人たちがイラクやアフガンに行って、弱い人たちが、より弱い人たちを殺していくというシステムがある。日本でも、仕事がない人が自衛隊に入っていくという現実があり、まったくひとごとではない。
派兵容認する空気
もうひとつ。ソマリアに自衛隊を派兵したときに、日本の政治家は、堂々と、「日本の国益のためだ。シーレーンを確保しなければいけない」と言いました。それにたいして、無関心ということもあるんですが、この恐慌のなかで、自分たちが生き延びるためにしょうがないんだ、と容認する空気が拡がってきている。日本が戦前と同じように、経済的利益を確保するために、海外に進出していくというやり方をとり、さらに武器輸出を解禁して、経団連や政治家が新しいビジネスチャンスを見出していくという流れが、どっと向かってきている。それを変えなければいけない。そのためには、「貧困を戦争で解決するな」ということを言っていかなくてはいけない。
排外主義をとめねば
最後のひとつは、僕たちひとりひとりの意識の問題です。
これも戦前と一緒だと思うんですが、生活が貧しくなっていって、余裕がなくなっていくと、身近で、他人の足をひっぱったり、自分たちより弱い立場の者にむかって差別していくという動きが出てきます。在日朝鮮人のひとたちへの差別であったり、北朝鮮バッシングです。NHKへの(右翼からの)抗議とか、(4月の埼玉県)蕨市での(外国人排斥)デモとかというかたちで、街頭に出てきている。
自分たちが落としこめられている責任が政治家や財界にあるのではなくて、自分たちの身近な外国人にあるという、かなりでたらめな主張が、皆が行き詰ってしまっている意識をまきこみながらひろがっている。こういう排外主義がひろがっていくことを止めなければいけない。ひとりひとりの命や、尊厳が大事にされるべきという関心から、貧困問題への意識がひろがった思うので、戦争こそがそれ(命や尊厳)を破壊するものだと訴えれば、今ならまだ間に合うと思っています。
「生きている娘を死んだことにするのか」
「臓器移植法」改悪とのたたかい
衆院採決に講義の声(6月18日 国会前) |
6月18日、青い芝や怒りネットなどがビラまきを行う中、衆院本会議が始まった。そこで採決されたのは、「脳死」を一律に人の死とするA案であった。
怒りの記者会見には、「脳死」と診断されたお子さんと生活されてきたお母さん、人工呼吸器をつけた子の親の会、全国交通事故遺族の会、全国肝臓病患者連合、大本教、そして、DPI日本会議や「優生思想に基づく『産科医療補償制度』に抗議する障害当事者全国連合」などの「障害者」団体も駆けつけた。反対の声を上げ、国会行動を取り組んできた方々だ。
「娘は、『脳死』と診断されてから1年9ヶ月生きてきました。体は温かく、成長し、爪も髪も伸びました。そんな子を死んだことにしてしまう法律は心外です。わたしはこれからも『脳死』とされた子は死んでいないということを言い続けていきます。そういう子がどうどうと生きていける社会にしたい」
「人の死を期待する臓器移植という医療そのものが間違っているのではないか」
「『脳死者』を価値なき命としてきりすてることは許せない」
怒りと、参院段階で闘う決意が語られた。
翌週24日には、「臓器移植法改悪に反対する市民ネットワーク」主催の院内集会が行われ100人を超える人びとが集まった。30日には、上述の記者会見に参加した「障害者」関係5団体による参院の全議員を対象とした申し入れ説得行動が行われた。
全国から参議院議員に反対の意志を突きつけていただきたい。(関東「障害者」解放委員会 AS)
3面
生活系と労働系の結合を
派遣村シンポジウム(6月28日 都内)に参加して
労働系のユニオンと生活系のNPOがパネル討論(6月28日 都内) |
「『派遣村』全国シンポジウム―派遣村から見えてきたもの 今こそ労働者派遣法の抜本改正とセーフティネットの構築を」(主催 派遣村全国シンポジウム実行委員会)が、6月28日、浅草「すみだリバーサイドホール」で開かれ、全国から500人が集まった。
集会では、湯浅誠・派遣村村長から「派遣村活動の到達点と改革試案」と題した提案と、北海道から鹿児島まで全国各地で、反貧困、派遣村活動をとりくんできた多くの人たちから現場報告がおこなわれた。
当日参加した私の感想と、シンポで提起された課題をまとめてみたい。
まず命を支える
年末年始に日比谷公園でおこなわれた派遣村は「被害者の命を支えること」「被害実態の可視化を通して政治・社会への問題提起をすること」が目的だった。厳寒の中、各地から日比谷公園にたどりついた人たちは、首を切られ、住まいも失っていた。慣れない野宿で体は壊れ、所持金が底を尽き、何日も食事をしていない状況だった。
たどりついた人たちの命を支えることを、まず何よりも優先した。この命を支える派遣村の献身的な活動は、年末から年始過程、テレビで全国に放映され、日本社会の縮図である日比谷公園の現状は社会に衝撃を与えた。
実態の可視化
派遣村は被害実態の可視化を通して、派遣法が諸悪の根源であることをつきだした。そのなかで、子どもの貧困、高齢者の問題、働けない「障害者」や病気をかかえた人、あるいは働いても食べていけない母子世帯、そういうさまざまな問題も同時に可視化した。
私自身、「障害者」の問題、母子世帯の深刻な問題などについて認識を新たにした。
派遣切りや非正規切りにあうと、直ちに生存の危機におちいる。多くの人が、再び、「寮付き・日払い」のような派遣労働を選ばざるをえなくなる。いかに劣悪な労働条件であっても、当面生き延びるために、のまざるを得なくされている。「ウチは残業あるけど、残業代出ないよ」と面接でどうどうと言われるほどだ。今日明日を生き抜くために、「ノー」と言えない状態に追いつめられている。
「つなぎの空間」を
派遣村にたどり着いた人たちは、深刻な労働の問題を抱えていたが、しかし、その延長上に労働争議が立ち上がることにはならなかった。
それは、命を支え、生活を支えることがまず最優先されなければならなかっただけでない。労働争議を闘えない状態から闘える状態になるまでの「つなぎの空間」を、社会的につくれてこなかったからではないかと湯浅さんは指摘する。
派遣村が明らかにしたことは、生活を支え、争議をやりぬき、この社会を変えていくことが待ったなしに求められているということだ。これは生活相談グループだけでも、また労働組合グループだけでもできず、両者の連携が必要だということだ。
これまで両者は交わってこなかった。しかし、派遣村で初めて交わった。生活相談系と労働系の協同領域を発展させていくことが、生活を支え、争議をやりぬき、この社会を変えていく新たな可能性を作りだしていくのではないか、というのが提言の核心だったと思う。
「東京の派遣村は終了しますが、問題は何も終わっていない。私たちは今後も生きやすく暮らしやすい社会、人が捨てられて、なんのために生きているのかわからなくなるような社会、そういうものを変えていきたいと、それはみなさんといっしょにしかやれない仕事ですから」と湯浅さんは結んだ。
派遣村は、生活相談系のグループや山谷等で献身的に活動している人たちの活動があったからこそできた。彼らの活動にしっかり学んでいくことが必要である。
私は、95年阪神淡路大震災のとき、仲間たちとささやかながら、被災者の命を支えるところから始め、生活系のグループと労働系のグループを立ち上げてきた経験を思い起こした。この中から争議を闘う主体を作り出してきた。非正規雇用労働者が全社会的に急拡大する中で、阪神大震災のときの教訓はきっと生きてくると思う。
派遣法の抜本改正に全力を
派遣法の改正案が野党3党(民主、社民、国民新党)の共同提案として今国会に出された。この中には「登録型派遣の原則禁止」と「みなし規定」〔注〕が入っている。根本的解決にはまだまだたどりつかないが、派遣法撤廃にむけ、重要な一歩がふみだされた。国会傍聴闘争などを闘い、ネットワークを拡大し、さまざまな協同領域を発展させていこう。(T)
〔注〕みなし規定
偽装請負や派遣法に違反(派遣期限を越えるなど)した場合、「直接雇用したものとみなす」とする規定。
関西合同労組 第16回定期大会(6月21日)
正規・非正規、就労・失業の分断うちやぶれ
50人が参加して、活発な討議と交流(6月21日 兵庫県西宮市内) |
6月21日、西宮市立勤労会館で、組合員や来賓50人が参加して、関西合同労組第16回定期大会が開かれました。交流会もふくめて活発な議論が交わされました。
今大会の主なテーマは、第一に、昨年末からの大量派遣切りに際して、労働組合とは何か、地域ユニオンの役割は何なのかが問われたことです。
第二に、昨年の大阪旧3支部の分裂主義者との闘いと彼らの逃亡について総括し、それをのりこえて新たな支部建設・組織拡大の方針を確立することです。
第三に、分断・差別をのりこえ、あらゆる人びとと連携して、戦争と貧困、医療福祉の切捨てなどとどう闘うのかということです。
非正規雇用の労働条件向上を軸に
昨年末、東京・日比谷での派遣村の取り組みによって、首を切られ、寮を追い出され、死線をさまよう労働者仲間の現実が、全社会に映し出されました。
関西合同労組は、年末に「緊急相談」窓口を開設、炊き出しや相談会に全力で取り組みました。阪神淡路大震災の大失業に挑んだ、関西合同労組の原点ともいえる闘いです。この過程で、大阪支部の事務所を建設し、労働相談所を開設し、京都では、炊き出しを開始しました。
資本の「合理化」を飲み、パートや社外工などの非正規雇用の導入を許し、派遣法の成立と改悪を他人事のように無視してきた既存の労働組合。失業者・ワーキングプア・ホームレスの人びとを、労働者の仲間とせずに排除してきたこと。私たちを含め、労働組合自らが、労働者の分断を許してきた結果、大量派遣切りを防止できず、今では自分たちの権利も守れない事態すら引き起こしていると、総括しました。
そして、非正規と正規が共闘して争議を闘ったI分会や09春闘をストライキで闘ったU分会の闘いを教訓に、「非正規雇用の労働条件向上」を軸にして闘うこと、企業横断的団結を強化すること等が、全体の労働条件のアップにつながることを確認しました。
また、労働者全体の団結強化のために、不安定雇用労働者や失業労働者との団結が不可欠であり、「正規・非正規」や「就労者と失業者」の分断を許してきた労働運動のあり方を変革しなければ、結局労働者はバラバラにされ、資本家と国家の攻撃の前に、あらゆる権利を奪われ、戦争をも許してしまうと確認しました。
共闘を大切にして
港合同や関西生コン支部など関西で全国で闘う労働組合との共闘を大切にして、労働者階級全体の団結を目指す大事業を押し広げていかなければなりません。統一戦線の重視です。相談村・関西や、派遣法撤廃に向けた闘い、反弾圧の闘い、改憲反対闘争、また介護労働者や運輸労働者の統一要求などの具体的な課題で、共同の要求をかかげ闘います。(関西合同労組・E)
生活と自然を破壊する上関原発やめろ
中国電力本社(広島)前で座り込み 6月26日
「私たちは海を売っていません」「原発反対! いのちが大事」などのプラカードや「原発絶対反対」のはちまき姿で、住民、漁民が広島・中国電力本社前に座り込んだ。早朝からバスや車で、祝島(山口県)からかけつけた。支援を含め約150人。
株主総会が行なわれている中電本社前で講義。原発反対犬も。(6月26日 広島市内) |
1千回の抗議デモ
上関(山口県上関町)に、中国電力の原発計画が浮上したのは1982年。2基275万`ワットという巨大原発だ。以来30年近くにわたり、反対運動がつづいている。
「原発関連財源に依存したい」という賛成派もいるが、町長・町議選などではいまなお3〜4割の住民が反対。なかでも計画地の4キロ対岸にある祝島は、9割が強く反対している。県庁への抗議デモは1千回に達する。
祝島へのフィールドワークに参加した人が、「高度成長以前のような自然の海岸線がどこまでもつづく」と驚く、自然の宝庫だ。希少生物の宝庫でもある。
祝島はあきらめない
この日は中国電力の株主総会。抗議団は一部、株主として会場に入り、100人以上が本社前で抗議行動。チラシを配布し署名をおこなった。
上関北側の取水口と田ノ浦側の仮桟橋の工事が強行され、予定地埋め立てのブイ設置が7月にも始められるかという緊迫した状況。
「中電は、漁民・住民の生活と自然を破壊する原発をやめろ」「原爆のあと、焼け野原にたっていた中電本社を忘れたのか。被爆した中電こそ原発をやめるべきだ」と声をあげた。祝島の青年は「祝島はあきらめない。屈しない」とあいさつした。「原発反対犬の牧ちゃん」も、はちまきを締めて参加していた。(広島/I・K)
4面
〜『郵便屋の叛乱 反マル生と4・28』を読んで〜
4・28反処分闘争に学び現場の力ほりおこす闘いを
浅田洋二
厳しい職場で闘うために
私は、非正規雇用(時給制契約社員)の郵便労働者です。
私が働く郵便局では、営業成績が上位の者とゼロの者の名前が、目立つところに張り出されるようになりました。ゼロのなかには私が信頼している人たちが多く、そういう人たちは見せしめにされていることを気にすることもなく、むしろ誇らしげにしている人もいます。
それはそれで頼もしくもあるのですが、しかし他の時給制の労働者にはかなりのプレッシャーとなっています。ミーティングなどでも毎日のように成果主義が強調され、以前よりもギスギスした職場環境になりつつあるのを感じます。これはつい最近はじまったことではないと思いますが、JPUからJP労組になった去年の夏以降、よりひどくなってきているように感じます。
この間大きな問題となっている郵便不正事件も、民営化がとりざたされて以降加速してきたこうした状況の中で起こるべくして起こったもので、マスコミがあおっているような「旧態依然とした体質」が引き起こしたのでなく、全くその逆だ思います。
現在、このような困難な職場で闘っていくために、4・28連絡会によるこの闘いの記録から学ぶ意義は大きいと感じています。
「年賀を飛ばす」
反マル生闘争〔注1〕とは、「マル生は合理化と一体のものとして生産性の向上、徹底した能率向上政策、企業に忠実な労働者づくりであって、それは資本としての郵政省のもつ本質的なものであって、反マル生は、その意味で本質的な闘いである」(34頁)として、郵政省(当時)の攻撃を総体として打ち破っていこうと、78年11月、全逓の第70回中央委員会で位置づけられて突入した闘いでした。
それは、「年賀を飛ばす」(=年賀状の配達を止める)という全逓史上かつてない激しい闘いとして展開されます。それは、全逓本部への現場組合員の怒りの突き上げによって、本部も動かざるを得ない中で闘われたもので、最初から本部が強力に牽引するといったものではありませんでした。そして闘いは実際に、本部の想像を超えるものとなりました。
物ダメ闘争の解放感
78年11月16日以降のそのような闘いの経過が、被処分者のひとりの神矢さんが所属する全逓大崎支部(東京都品川区)の現場を中心に、雰囲気も含めて描かれています。
連日、会議や集会を持ち、きめ細かく戦術を練り上げ、また、互いに励ましあいながら徹底的な物ダメ闘争〔注2〕が展開されていく過程が、解放感あふれるものとして伝わってきます。
闘争報告書の集計から、約2カ月間の闘いで、大崎支部組合員に出された業務命令はのべ5500回、即決処分はのべ121人(処分を受けてない組合員は5人だけ)に及んだことが明らかにされていますが、このような現場で闘いを貫くのは実際大変なことだったと想像できます。
しかしそんな中でも「時には当時流行ったピンクレディの『透明人間』をもじって『業命人間あらわる』などと笑い飛ばして闘ってきた」(44頁)のです。「年賀繁忙期は一番の稼ぎどきだ。超勤手当、廃休(公休日が消えること)の休日出勤手当、繁忙手当、これらの手当はフイになった。しかし、この闘いは特別だった。職場は合理化攻撃、郵政マル生、組合分裂と全逓差別にさらされ、闘うべき組合も変質しつつある中、自ら立って闘う以外になかった。金に変えられない闘い」(47頁)として組合員一人一人が力を出しきって闘ったのです。
正月の闘争継続と支配階級の恐怖を報じる新聞(1978/12/28 朝日) |
このような反マル生闘争が、79年1月25日、第72回臨時中央委員会で「長期闘争」の名の下にこれ以降は実力闘争を方針とすることを投げ捨てる、そういう方向に闘いが収束されます。
大崎支部では支部長が、具体的なものは何も取れなかったが負けたわけではない、これからも何度でも闘うんだとの総括が積極的に提起されています。全国の多くの現場でもそうであったに違いないと思います。
しかし全逓本部は反マル生闘争の終結をもって路線転換を図っていくのです。
職場は自分たちの団結と力で守る
郵政省(当時)当局による79年4月28日にふりおろされた過酷な報復処分は、解雇3人、懲戒免職58人を含む総数8183人と、かつてない規模となりました。しかも、懲戒免職とされた58人の内の大半が、役員ではなく一般組合員、現場で戦闘的に闘った青年労働者でした。
「現場労働者の闘いのエネルギーそのものを解体の対象にしなければ職場支配はどうにもならないという危機感」(65頁)から現場労働者に首切り攻撃を集中したのです。
4・28を切り捨てる本部
これに対して全逓は即日、当然にも処分撤回目指して闘いぬく声明(60〜61頁)を発しますが、その後7月の第32回定期全国大会で早くも「4・28不当処分粉砕」のスローガンが消しさられ、10月には「全逓運動の歴史一切がっさいを否定する労使確認を組合員不在で結ん」(69頁)で、当局に路線転換を誓うまでになります。このような本部のもとで反処分闘争は、被免職者を軸にしないどころか、むしろ抑えこむものにされていきました。
しかしそんな中でも「4・28被免職者懇親会」がつくられ、軸になり、「懇親会ニュース」などで訴えることをとおして、またそれに応える多くの組合員によって、人事院や裁判所を大衆闘争の場へと押し上げて闘われていきます。現場にはまだまだ闘う意志が満ち溢れていたのです。
にもかかわらず90年8月、裁判取下げ・闘争終結を全逓の側から一方的に宣言するいわゆる「8・22文書」が出され、一切の民主的手続きを踏みにじって東京地本大会で決定されました。その内容が被免職者に示されたのは地本で決定された後でした。
本部にあい次ぐ 反対の声
この後、各地区大会、支部大会が開催されていきますが、神矢さんが所属する目黒・品川支部大会では反対意見が相次ぎ、決着つかず、休会、各総分会での意見取りまとめの後、続開大会となりました。大崎総分会では怒り、弾劾が集中し、満場で白紙撤回を決定、他の総分会でも温度差はあるもののそのまま賛成するところはない中、支部続開大会ではついに、支部方針を覆し、凍結を求めることを決めました。
「今回の4・28問題は4・28にとどまらず、組合のあり方、労働運動のあり方を鋭く問うものであった。幹部まかせでない、自らの職場は自分たちの団結と力で守っていこうとするものでもあった」(96頁)、そんな感動的な場面だったと思います。この頃に4・28連絡会が結成されます。
被免職者とともに闘う現場組合員
91年5月22日、「4・28終結」を唯一の議題とする第99回臨時中央委員会が開かれます。開催自体が現場段階におろされず、当日会場前では、100人を防衛隊として、傍聴を求める被免職者に対峙させ、さらにそのまわりに多数の警察権力が配置されるという、まさに「密室臨中」をもって闘争終結が決定されたのです。
さらにあくまで裁判取下げを拒否する被免職者にたいして、犠救適用打ち切り、組合員資格喪失を6月30日付で行うという通知を送りつけ、文字通り切り捨て。そして7月9日第45回全国大会、臨中決定承認をもって、ついに反処分闘争終結が最後的に機関決定されることになったのです。
この過程で、臨中の防衛隊を拒否して被免職者とともに座り込んだ組合員や、連絡会がよびかける署名にわずか2週間で6700人もの組合員が応えてくれたことなど、全逓本部の裏切りの対極で、組合員には闘う意志がまだまだ強く残っていることも明らかにされています。それゆえに全逓本部は本当に許しがたいと思います。
闘い続ける限り負けない
ここから闘いは、被免職者当該による自力・自闘として新たな出発を迎えます。
2007年3月、職場復帰を果たす完全勝利まで、当該局闘争、現場闘争にこだわりつづけ、裁判闘争もそれとして全力で闘い、当局が存在するところ、出かけていくところにもたえず登場して闘いつづけたことが数々のエピソードとともに記録されています。
なかでも、全逓大会には必ず登場して訴え、その中で昼休み多くの組合員が静かに耳を傾けるシーンは本当に感動的で、ここでも現場の組合員はともに闘う立場にいることがはっきり感じられます。他にも、現場、地域の労働者の支えにもよって闘いぬかれたことがよくわかります。
また、東京郵政局に対して団交を端緒的に勝ち取りつつあるとも言えるシーンもありますが、当局を直接対峙する場に引きずり出すところまで力をつけてきていることを示しました。仮に裁判で負けても現場で勝つ、そのような意気込みによって、結果として裁判にも勝利できたのだと感じました。
神矢さんは書いています。「解雇撤回闘争を運動上のアドバルーンにするのではなくて、実際に解雇撤回闘争を勝利させることを目的化して、裁判に限らず、郵政当局に処分撤回を迫る有効で打撃力ある闘いを追求していく。・・・裁判で負けても現場闘争で逆転勝利が実際可能なのか、そういう闘いにできるのか。その確信」(206頁)を求めて闘い続けたと。同じく被免職者である徳差(とくさし)さんは、「闘い続ければ必ず勝利できるのかと言われれば120%そうだとは言えない側面も確かにあると思います。しかし、闘い続けているかぎり私達はけっして『負ける』ことは無いのです」(225頁)と書いています。いずれも、自分たちがへこたれず闘い続けるかぎり、現場の仲間が必ず共に立ち上がってくれる、その信頼が土台にあると感じました。
4・28を引き継いで
全逓と全郵政との統合が強行され、全逓がJP労組ヘと変節をとげる過程は、逆に4・28反処分闘争を軸にそれを押し返そうとする過程でもあったと思います。
そして、勝利したこの記録を読んだ今、確実にあらゆる郵便局の現場で、JP労組によって制圧しきれない力がまだまだあることに確信が持てます。
兵庫の加古川局では、支部や分会までもが反対した地労委闘争に単独ででも決起する中で、多くの現場の仲間が支援、連帯の行動に立ち上がってきています。
私自身、自分の職場でそのような現場の力を掘り起せるような闘いに立ち上がることを決意して、この本の感想にしたいと思います。
〔注1〕:マル生とは、「マル生運動」の略称で、「生産性向上運動」のこと。生産の生をマルで囲んでそう呼んだ。
〔注2〕:郵便物がとどこおる状態をつくり出す闘争戦術。
<闘争年表>
1978年11月 全逓反マル生闘争開始(〜1月下旬)
1979年1月25日 全逓第72回臨時中央委員会 「長期闘争への移行」
1979年4月28日 不当処分発令
1986年8月 4・28処分取り消し裁判提訴
1990年8月22日 全逓本部「4・28闘争終結―8・22文書」
1991年1月 「4・28連絡会」結成
1991年5月22日 全逓99回臨時中央委員会 「反処分闘争終結」を決定
2007年2月 4・28裁判 最高裁で勝利決定
2007年3月 被免職者の処分撤回・現職復帰を実現
『郵便屋の叛乱 反マル生と4・28 国を相手に闘った28年の記録』 4・28連絡会 編 彩流社 発行 定価 本体2000円+税 |
5面
朝鮮侵略の最前線
小松基地で飛行差し止め訴訟
小松基地研究会
田母神を生み出した侵略最前線の基地
朝鮮を直接攻撃
田母神元航空幕僚長は小松基地司令時代(98〜99年)に、「小松基地は日本海側で大陸や朝鮮半島をにらむ、最前線の重要な基地」「F15は世界最高の性能を持ち・・・周辺国から見れば、日本にF15が配備されていることが相当のプレッシャーになっている」と発言している。このように、小松基地は朝鮮半島を直接攻撃する基地と位置づけられてきた。
小松基地は、米軍再編の中で、最も重視され、米軍はたびたび小松基地と周辺(病院など)を調査し、繰り返し日米共同演習をおこなってきた。
F15は、航続距離約4600km、最高速度マッハ25。小松基地から約20分で、北朝鮮の基地を攻撃できる |
田母神元航空幕僚長の懸賞論文(後述)の内容もさることながら、重大なことは、幹部自衛官の多く(97人)が同じような内容で懸賞論文に応募していることだ。それは、上官の顔色をうかがいながらであろうが、自らの意志に基づいたものであろうが、武装した軍隊の中に、戦前の侵略と植民地支配を美化する勢力が形成されていることを示している。
特に、朝鮮半島と対峙し、訓練をおこなっている小松基地から62人もの応募者があり、そのほとんどが田母神論文と大同小異のものだった。
まさに小松基地は装備上の強化にとどまらず、朝鮮、中国に対する敵愾心を形成し、かつての「日本鬼子」の精神世界を形成しはじめている。
自衛隊を戦争のできる軍隊に変えるために、思想教育を強化している。
デタラメな田母神論文
昨年以来、田母神元空幕長は、「日本が侵略国家というのは、まさに濡れ衣である」「日本は蒋介石によって日中戦争に巻き込まれた被害者だ」「日本政府と日本軍の努力で、現地の人々が過去の圧政から解放され、生活水準も格段に向上した」「我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り、現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している」「我が国は・・・穏健な植民地統治をした」「我が国は戦前、中国大陸や朝鮮半島を侵略したといわれるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものである」と、あきれる主張を繰り広げている。
これは日韓会談での久保田日本側主席代表の「日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったし、大蔵省は、当時、多い年で2000万円も持ち出していた」という日本政府の植民地支配美化論と同じである。
しかし、すぐにそのデマ性が明らかになる。
・「圧制から解放」→3・1独立運動で朝鮮人民7500人以上を虐殺。
・「穏健な植民地統治」→朝鮮総督府による軍事支配。
・「教育に力を入れた」→皇民化教育であり、民族抹殺政策。
・「条約に基づいた駐留」→日韓議定書も韓国併合も、軍隊を派兵して調印を強制。
・「道路などのインフラ整備→・・・資源略奪と兵員輸送のため。
・「日本は蒋介石による被害者」→数千万人も殺しておいて被害者とは!
韓国併合100年を迎える今こそ、私たちはこのようなデマにたいして、真実に基づいた歴史を語らねばならない。
小松基地のF15戦闘機 |
小松基地の隊員たちには自由にものを言う権利がない。
07年、三等空曹・Aさんへの人権侵害が明らかになった。@上司が同僚隊員にAさんとの会話を禁じ、A通常作業から外して、1日中、市販の英語の問題集の内容や英単語をパソコンで入力させ、Bホワイトボードに書かれたAさんの名前の上に、「戦力外・役立たず」のシールを貼ることによって、隊員間の相互監視・制裁を組織し、C「一生資料整理だぞ」と退職を強要した。
Aさんは小松市民病院に受診し、「適応障害(抑鬱状態)」と診断され、休職・退職を余儀なくされた。
自衛隊の強化は装備の強化にとどまらない。上官の命令に反抗させず、侵略戦争を賛美し、実際に敵を殺せる隊員(国軍)づくりのために自衛隊を再組織している。
隊員の生命軽視
小松基地は朝鮮半島攻撃の最前線として、厳しい訓練を強いられ、隊員たちの生命が危険にさらされている。
01年以降、訓練中に「緊急状態宣言」を発して、小松基地に緊急着陸した件数は43件にのぼる。とりわけ、07年3月13日には、「訓練中に、意図しない機体の動きを感じた。××系統の不具合と判断し・・・緊急状態を宣言し・・・BAC―12の拘束により停止した」と報告されている。「BAC―12」とは、着陸地点でフックをワイヤーにひっかけて止める方式で、失敗すれば滑走路の外に飛び出して大惨事になる。
隊員の生命よりも、戦闘機の方が大事とばかりに、コントロール不能のまま、小松基地に進入させたのである。
原告2227人が爆音訴訟
この朝鮮侵略の最前線基地で爆音訴訟がたたかわれている。住民の生活と安全を守る闘いだが、それは戦争を阻止する闘いだ。
5月29日、金沢地方裁判所で、航空自衛隊小松基地の戦闘機飛行差し止め第5、6次訴訟が始まった。原告数は過去最高の2227人である。
第1次訴訟は1975年に、12人の原告で始まり、連綿と闘い継がれ、今や2227人の闘いとして、小松基地を包囲し、戦闘機の飛行を止めようという声が渦巻いている。
傍聴席から法廷を見ると、向かって右側に国の担当者18人、左側に原告・代理人25人が向き合っている。マスコミによる法廷撮影が終わり、3人の原告が意見陳述をおこなった。
田母神論文を批判
最初に原告団長の出淵さんが、滑走路直下の騒音被害体験を話し、田母神論文を痛烈に批判した。第1次訴訟から35年間、原告として闘い続けている湯浅さんは「ショウ・ザ・フラッグ(憲法9条の旗)」と戦争反対を訴えた。本多さんは医療労働者として、騒音の身体被害
について訴えた。横田基地、岩国基地、厚木基地、普天間基地訴訟の各弁護団が応援陳述した後、弁護団事務局長の川本弁護士が訴状の要約を述べた。
自衛隊違憲を訴える
裁判後の報告集会で、岩淵弁護士は第5、6次訴訟の特徴として3点にまとめた。@1975年から37年間、騒音被害からの救済を求めて、3回も裁判を行わなければならない異常な裁判であること。A小松基地爆音訴訟は軍事基地を最初に提訴した裁判で、全国の裁判を牽引し、突破する責任のある裁判であること。B自衛隊が憲法9条に違反していることを正面から訴える唯一の裁判であること。
国の答弁書は1次から4次まで、すべての判決で被害が認定されているのに、「被害は受忍限度内」と主張し、三たび事実認定から始めようとしている。不誠実な態度である。自衛隊小松基地は周辺住民の生活を破壊し、隊員の権利と生命を踏みにじって、戦争の準備を進めている。(6月1日)
6〜7面
特別寄稿
制裁≠ナはなく 対話と交渉を
朝鮮民主主義人民共和国への制裁は戦争への道―船舶検査特措法を葬れ
森 正孝
朝鮮民主主義人民共和国を対象とした「船舶(貨物)検査特別措置法」の国会上程を目前にして、森正孝さんから寄稿をいただきました。
本稿の結論部分にある「米朝二国間交渉を再開させ『休戦協定』を『平和協定』にすることが、問題の根本解決である」という意見は、わたしたちの考え方と必ずしも一致するものでありませんが、今後の建設的な議論と船舶(貨物)検査法反対闘争の発展を期待して、全文掲載させていただきました。
ぜひ、読者のみなさんのご意見・ご感想を、編集委員会までお寄せください。〔編集委員会〕
戦争の危機を増大させた国連制裁決議
6月12日、国連安保理は朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮」と記す)の二回目の核実験に対し、船舶捜査(臨検)を含む“今までにない強い制裁”決議を採択した。当初から日韓が強硬に主張した武力行使をともなう“強制措置”は、かろうじて回避( 国連憲章7章42条・武力制裁は適用されないと)されたが、“制裁決議”を口実にして“加盟国”(とは言っても実際には米日韓の三国)が、朝鮮に対する軍事的挑発・敵対的戦争行動をとり始めた。
朝鮮半島に戦争危機をつくる米韓政権
国連決議後、間髪を入れず開かれた米韓首脳会談(6/16)は、“無法行為に対しては交渉と補償はせず、制裁と強圧で臨む”というブッシュ時代のネオコンの発想そのままの「米韓同盟未来ビジョン」を採択した。そこでは、米国の「同盟国である韓国」が核の攻撃を受けたら、米国本土が攻撃を受けた際と同等の水準で対処するという「核の傘」を含む「拡大抑止力」が初めて明文化された。
「拡大抑止力」は、“核の傘”と通常戦闘力の提供を骨子としているのであるが、この際改めて“明文化”した狙いは、次の二つが考えられる。一つは、北の核に触発されて韓国の一部(日本にも)に広がりつつある対北核武装論への“歯止め”=核拡散の制動、言い換えれば米国による核独占体制の維持を図るとともに、二つは、かつてイラク侵略戦争に突入する直前に出されたブッシュ・ドクトリン(02年の「国家安全保障戦略」)と同様の「先制攻撃論」つまり、いつ何時でも “朝鮮半島で合法的に戦争を挑発できるぞ!”という恫喝が含まれていることを見ておかねばならない。
すでに核実験の翌日(5/26)、李明博政権は米国ネオコン戦略の象徴=大量破壊兵器拡散防止構想(PSI)への参加を表明していたが、さらにこの国連決議は、このPSIに“国連決議による行動”というお墨付きを与えることにもなった。米韓はこれで、“国際的認知”の下で、大量破壊兵器が積まれていると一方的に判断した朝鮮の船舶や飛行機の臨検が可能になったのである。
朝鮮はこれに対し「南のPSI参加はわれわれに対する宣戦布告とみなす。即時に強力な軍事的打撃で対応する。朝鮮半島の休戦協定は効力を失った。PSI参加が武力衝突と全面戦争へとつながるのは時間の問題だ」と極めて厳しい警告を発している(『朝鮮中央通信』5・27)。6月26日現在も米軍艦が朝鮮籍の貨物船(カンナム号)を追尾・監視し、一触即発の状態が続いている。
「ブッシュの朝鮮政策からの脱却(チェンジ)」を標榜して登場したオバマ政権だが、実態はブッシュ政権よりもよりネオコン的であり、朝鮮半島に再び冷戦体制を強制しつつある。2000年6・15、07年10・4共同宣言以降、着実に進められてきた南北の和解・融和関係も、米韓権力者の手によって完全に踏みつぶされてしまった。
今、韓国では軍事独裁政権下と見まがう政治弾圧=戦争政策が吹き荒れている。
戦争する覚悟を≠ニ叫ぶ麻生
一方、わが麻生首相も、こうした米韓による軍事的挑発に “わが意を得たり”とばかり、ますます頭に乗った発言を繰り返している。人工衛星に対しては、荒唐無稽な“ミサイル迎撃態勢”で大騒ぎをしたあと、これまた荒唐無稽な「敵基地攻撃論」をブチ上げたかとおもうと、今度は「核爆弾を持ち、それを敵国の日本に撃つ意欲があると言っている。われわれは戦うべき時は戦うという覚悟を持たねばならない。自民党はその覚悟で、事を進めようとしている」(6月7日、都内での街頭演説)と “自民党は朝鮮と戦争する覚悟だ” と言い切った。
そして、浮上したのが「北朝鮮にかかわる船舶検査活動等に関する特別措置法」である。政府与党プロジェクトチーム原案の要点は「 海保中心に実施し、海保が対応できないなど『特別の必要がある場合』に、自衛隊法82条の海上警備行動に基づき海自が出動する。 貨物検査をする際は対象船舶が属する『旗国』だけでなく船長の承諾も必要。船長が承諾しない場合は回航命令を出して日本の港へ誘導する。命令に従わない場合の罰則規定を設ける。 米軍や韓国軍への後方支援を行うことができる。」というもので、今国会の7月あたまには提出し成立させたい、としている。
もし、これが法として成立、実行に移されたとき一体どういう事態が生起するのか、容易に想像がつく。安保理決議に対する朝鮮の「われわれは、制裁には報復で、対決には全面対決で断固立ち向かうことを明言する。アメリカとその追従勢力が北朝鮮の封鎖を試みた場合、それを戦争行為とみなし、断固とした軍事行動で対応する」(6/13朝鮮外務省声明)を見れば明らかだ。麻生のいう「われわれは戦うべき時は戦う、という覚悟をもて!」という文脈の中にこの法案があるとすれば、“紛れもない戦争法”であって、断じてこれを葬り去らねばならない。この間の一連の麻生の発言を見たとき、それの口車に乗せられるほど日本人民は愚かではない、と信じたいが、こと「北朝鮮」となると冷静な思考が閉ざされている今のこの日本社会である、状況はかなり厳しい。
米国(核大国)のダブル・スタンダードこそ問題
6月15日、韓国の民衆運動の中心団体「進歩連帯」は『対北朝鮮制裁決議案、典型的な強大国の横暴』と題して次のように表明した。「国連安保理の対北制裁決議は、アメリカの対北圧迫政策に手を挙げた典型的な強大国の横暴である。アメリカはこれ以上実効性のない対北朝鮮制裁よりは、韓米合同軍事訓練など軍事的敵対政策を廃棄しなければならない。核問題の平和的解決のために北朝鮮との政治軍事会談に出るべきである。また、今回の制裁決議=金融制裁と海上検索などは、事実上北に対する全面的な封鎖措置で、軍事的衝突に発展しうる危機だ」
核大国の横暴
今までも国連安保理は、きわめて不公正・横暴な核大国・米国の思うがままの裁定を下してきた。米国による核実験は、06年までに行われた全世界の2104回(その99%は、米英露仏中の常任理事国による)の、ほぼ半数にあたる1053回 (大気中実験215回、地下実験815回、臨界前実験23回)をしめ、ブッシュ政権下でも11回行っている。これに対して国連は、制裁どころか問題にすらせず、さらにNPT非加盟国イスラエルの核保有(80個の核爆弾を有していると言われている)は全く不問に付し、同じくNPT非加盟国のインド・バキスタンの計12回の核実験には、拘束力なしの「議長声明」(国連決議1172)だけで“お咎めなし”(制裁決議なし)という態度をとり続けてきた。まさに、今回の「北朝鮮制裁決議」とは比較にならない不公平な“強大国の横暴”がまかり通ってきたのである。
しかも米国は昨年、インドとの間に「米印核協定」を結び、自ら賛成した前記「議長声明」にある“核移転の防止、核保有国として不認”を反故にし、インドを核保有国として認めた上で核技術を輸出する、というNPT非加盟国への核拡散を率先してやっている。これに対しても国連は全く無力なのだ。その際、米国は「インドは安定した民主主義国家で、核を流出させたこともなく、協定によってインドを核不拡散体制に取り込むことができる」と言い放っている。核を拡散させておいて“核不拡散体制に取り込む”という屁理窟にもならない言訳をしているが、本音は二つ。1つは、インドとの関係を強化し、中国に対抗するという思惑。もう1つは、今後20年間で1000億ドルとも言われるインドの巨大な原子力市場への参入という産軍の欲求である。これを、米国一流の“狡猾な核廃棄政策”=ダブル・スタンダード(二重基準)と言わずして何と言おうか。まさに、PSIが必要なのは米国に対してである。
オバマの「核廃絶」演説の偽善
今、世界でもてはやされているオバマ大統領のプラハ核廃棄演説も、しかりである。この演説の舌の根も乾かぬ5月18日、オバマはイスラエルで次のような会談を行った。5月20日付けイスラエル紙『ハーレツ』によると、「『米、イスラエルの核保有黙認継続 オバマ氏が伝達と報道』(リード) オバマ米大統領はイスラエルのネタニヤフ首相と18日に行った会談で、事実上の核保有国であるイスラエルに核拡散防止条約(NPT)加盟への圧力をかけないという従来の政策を変えないことを伝えた。オバマ大統領は核廃絶構想を打ち出したが、中東で最大の同盟国イスラエルの核保有は黙認する方針を継続することを意味する。イスラエル当局者は『オバマ氏はイスラエルの安全保障を確約し、この分野に関する大統領としての深い理解を表明した』と述べた」(『共同』)とある。続いての6月16日の対朝鮮への「核の傘」宣言である。
例えはよくないが“自分がやれば恋愛、他人がやれば不倫”である。“「反米の核」はダメ、「同盟の核」は良し”という米国のダブル・スタンダードを、世界基準にしてはならない。まず、この二重基準を“廃棄”すること、そして何より自ら保有する膨大な核兵器を削減し(それは、NPT五大国による核独占体制を終わらせ、核完全廃絶へと突き進むきっかけとなる)、核による脅し・核による抑止力をただちにやめること、こうしたことを口先(演説)ではなく、本当に実行に移したとき、朝鮮も必ずや核廃棄へと進むことになるであろう。
米国のこうした狡猾な核政策=ダブル・スタンダードが続く限り、核開発や核実験(弾道ミサイルも含め)が、政治交渉の“有能かつ究極的対抗手段”として使われることは不可避である。核大国である米国こそまず(制裁や軍事的圧力の前に)、一方的な核削減と核実験の廃止、核廃絶へと自ら行動で進むべきである。
米朝二国間交渉を再開させ「休戦協定」を「平和協定」へ
オバマの登場によって朝鮮半島は安定と和解の方向へ前進するであろうとした大方の予想は“幻想”にすぎなかった。現実はそうした予想に反し、冷戦体制への逆行と戦争の危機が醸成されている。
その原因・背景は何か?! 日本のメディアは、朝鮮の「ミサイル発射」や核実験が一方的にもたらしたものだと言い、その原因を朝鮮の「国内の権力争い」や「瀬戸際外交」に求めている。断じてそうではない。近くの原因は、 米国オバマ政権(一体となった韓日の李・麻生ネンコン政権)の対北敵視政策であり、根本的原因・背景は、 半世紀以上続く歴史上最長の米朝間の休戦体制である。
米国オバマ政権の変わらない対北朝鮮政策
オバマの“演説”に惑わされることなく冷静に米国のこの間の対朝鮮行動を見れば事柄はハッキリしてくる。
今日の事態へ至る始まりは、すでに昨年12月の6者協議にあった。本来、第三段階(非核化の過程)で論議されるべき「検証問題=サンプル採取」問題と未申告施設への検証問題が、突然日米から持ち出されたことである。寧辺核施設の封印(第一段階)→無力化(今年1月には90%まで無力化=核燃料棒の抜き取りは進んでいた・第二段階)に対する計100万トンの重油提供・テロ支援国家リスト削除という「同時行動原則」が、良好に進んでいた矢先、日米は全体会議で論議もされたことのない検証問題を持ち出したのである。この進展を最も恐れた日本・麻生政権(拉致問題との“包括的解決”を理由に日本だけが20万トン提供義務を不履行)が、対北政策が未だ定まっていないオバマ次期政権に執拗に迫った結果だと言われている。これに対し朝鮮側は、「未だ米朝間の平和協定が結ばれていない段階、すなわち敵対的関係が続く中で、一方的に“裸になれ”と言っているような要求だ」としてこれを拒否、6者協議は破たんした。
その流れは政権発足直後の次のクリントン国務長官発言につながった。「核兵器を検証可能な方法で除去しない限り、正常化は不可能だ。北が核を放棄すれば、正常化はあり休戦協定を平和協定に転換する用意がある」(1/13上院外交委) 文字通り、6者協議初期の「先核放棄」論のむし返しである。自らの政策転換には触れず、朝鮮側の義務履行だけを要求するという、6者協議の最も核心的約束・「同時行動原則」の放棄であった。
そして、3月の対北先制攻撃演習「キー・リゾルブ/フォールイーグル」(韓米合同軍事演習)、4月の人工衛星打ち上げへの国連安保理の非難・制裁の議長声明と続いた。事前に「宇宙条約」と「宇宙物体登録条約」に加盟し、その上で国際社会に通告し打ち上げた人工衛星であった。自由な宇宙開発の権利(宇宙条約第一条)に対する “批難と制裁”に、朝鮮側の怒りは沸点に達していた。そして5月、朝鮮はオバマ政権を「ブッシュ前政権と何も変わるところがない」と断定、「対朝鮮敵視政策にはいささかの変化も見られない。そのような相手とは何も生まれない」(朝鮮外務省)と米国オバマ政権に見切りをつけたのである。
改めて言うまでもないが、オバマ大統領はブッシュ政権の国防長官・ロバート・ゲーツをそのまま留任させ、実権を握る国防副長官に世界一のミサイルメーカーのトップのウィリアム・リンを指名している。“世界一のミサイルメーカー”とは、米軍需産業トップのレイセオン社である。レイセオン社はミサイル防衛、精密機械攻撃、情報・偵察そして本土防衛関連の数多くの軍・政府系ミッションをすべて手がけており、リンはその上級副社長(政府担当)であり、ブッシュ政権下の昨年末まで政府相手に調達を働きかけるロビー活動をしていた人物である。こうした人事からも、軍産複合体の強大な影響力下にある米国政治が、いぜんとしてオバマ政権に連綿として続いていることが分かり、この間の対北政策に大きな影を落としているのだ。
米朝間の休戦体制を平和協定に
以上が直近の背景だとすれば、朝鮮核実験の根本的原因・背景は、間違いなく、半世紀以上(1953年の朝鮮戦争終結以降)の「休戦協定」(法律的には準戦時)という戦争状態にある。この間、経済制裁によって締め上げられ、軍事的脅迫にさらされ続けてきたという朝鮮の歴史状況にその根源がある。
朝鮮民主主義人民共和国という主権国家に対し、これを崩壊させることを意図した米韓合同の軍事訓練(25年間もの長きにわたり続いた“20万規模、連続60日〜90日間続く米韓国両軍による対北世界最大の軍事訓練”= チームスピリット、その再現とも言われた今年の「キー・リゾルブ/フォールイーグル」訓練)に苛まれ、文字通り脅威を強制され続けてき“小国”朝鮮にとっての「休戦」の二文字が、一体どういう“響き”をもって受けとめられてきたか、そのことを考えることなくして、今回の核実験強行という事態(今後も続くであろう対米強硬路線)を理解・認識することはできない。超大国アメリカにとっては、“蚊に刺されたほども感じない”「休戦」であっても、朝鮮にとってのそれの意味するところは、決定的に違うのだ。
米国がこの間、朝鮮を主権国家としてまともな外交交渉の相手にしてこなかったのは、その現れであるが、一方朝鮮は、「休戦協定」を「平和協定」に変えることを求めて、一貫して朝米二国間交渉を追求してきた。まさに対米ガチンコ対決によって、朝鮮は自国の民族自主権と安全保障の確保、ひいては米国の軍事・政治的不介入を担保として、南北朝鮮民族統一への道筋を探ろうとしてきたのである。
その外交を、メディアや識者たちは “瀬戸際外交”などと揶揄しているが、そのような場当たり的、受動的な外交姿勢ではない。少なくも94年危機以来の朝鮮の外交姿勢を見れば明らかだが、一貫して米国とのガチンコ対決を押し通しながら自国の存亡を賭けてきた。善悪の判断は別として今回の核実験もその一環であって“瀬戸際外交”などと皮相的な理解をしている限り、問題の解決は困難になるばかりであろう。
メディアも、政府による「北朝鮮の脅威」の宣伝をそのまま垂れ流し、対米緊張関係の中で起きる国内矛盾を何の論証も示さず敵意に満ちて流している。上記したような一貫した対米路線を「瀬戸際外交」などと揶揄し、朝鮮をして何ゆえ軍事的対抗措置をとらせるのか、その根源的・本質的な問題については一切触れることはない。
ジャパニーズ・ネオコン、安倍・麻生らの“朝鮮敵視・朝鮮脅威”を基軸にして突き進んできたこの国の急速な戦争国家への道も、朝鮮に対して重大な脅威を与えていることなどは、全く問題にもされない。「北朝鮮脅威」を扇動する中で、在日米軍の再編、自衛隊と米軍の一体化、集団的自衛権行使の公言、ミサイル防衛の加速化、イージス艦日本海配備、海外派兵恒久法案、改憲国民投票法、田母神論文、そして敵基地攻撃論、対北朝鮮経済制裁の強化等々が、朝鮮に一層の警戒感をつのらせる結果を生んでしまっていることを自覚すべきである。
筆者は、朝鮮の核実験を絶対に容認するものではない。容認できないからこそ、それをさせないためにその背景・原因を見きわめ、それを取り除くための努力をしなければならないと考える。繰り返しになるが、対朝鮮敵対政策、戦争挑発、制裁強化に断固として反対する。問題の根源である米朝の“休戦状態”の克服という課題に向けて、米朝対話を再開させること、日本政府はそのための全力で努力すること、敵視と制裁ではなく、対話と交渉によって、日本こそ東北アジアと朝鮮半島の軍事的緊張状態の緩和に進まなければならないと考える。
それこそが、日本国憲法前文と第九条の理念であり、今こそ、その出番である。 (6/29記す)
森正孝さんプロフィール
静岡大学非常勤講師(平和学)、イラク自衛隊派兵違憲訴訟静岡原告団事務局長、映画『語られなかった戦争』制作、著書『今伝えたい細菌戦のはなし ―隠された歴史を照らす』(明石書店)ほか
8面
「8・6ヒロシマ ―平和の夕べ―」を主催する
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8月6日、被爆地・広島で、青木忠(『瀬戸内の太平洋戦争―因島空襲』著者)、河野美代子(被爆2世、産婦人科医)、三浦翠(原発いらん! 山口ネットワーク)の三氏が呼びかけ、「被爆64周年―8・6平和の夕べ」が開催されます。発起人のお一人である河野美代子さんに、この集まりへの想いと趣旨をうかがいました。(6月25日、広島市内/三木博史)
河野さんは、産婦人科医として、毎日傷つき苦しむ患者さんに向き合っている。「患者さんを通して社会が見える。患者さんから社会を学ぶ」という。 河野さんのお話や著書には、命を守る、女性の心と体を大事にするという強い想いと、人間を傷つける社会にたいする深い憤りに貫かれている。そういう想いと反戦・反核への想いはつながっている。 |
―今回の「8・6平和の夕べ」が呼びかけられたきっかけ、その想いはどのようなものでしょうか。
被爆者も次々に亡くなったり、高齢になって、厳しいたたかいがなかなかできにくくなっています。なんとかしなければ、という想いがここのところずっとありました。
そんなとき、去年の3月、大学時代にいっしょにたたかった2人の元青年が、私が平和公園に座り込んでいる1枚の写真をもって訪ねてきたんよ。もう一度、何かやろうと。そして『因島の空襲』を書いた青木さん、山口で反原発をたたかう三浦さんが呼びかけに加わってくれた。八丁堀の電車内で被爆した米澤さん、広島2中の被爆死した生徒の弟さんにも会えた。
それぞれの時が過ぎ、全共闘運動であれだけのたたかいをやってきた人たちが、あっという間に60歳を過ぎた。だけどその力をいま、もう一度解き放つことはできると思うんよ。被爆2世、若い人たちとの合流を果たしたい、そういう想いよね。
被爆認定の問題、補償の問題は大事なことだけど、一方で核廃絶に向かって戦略をもって進んでいく必要がある。反戦・反核、改憲阻止とともに、たたかう被爆者運動を復権できないかなあ。被爆者運動と2世の運動を強めたい。具体的な展望があるとは、まだ言えないけど。私たちが呼びかけた今回の集まりも、「とにかくやってみようや」という段階だから。これからじゃね。
―70年安保・沖縄、大学闘争の過程で、被爆者青年同盟の結成(70年7月)に関わってこられました。
被爆者青年同盟の初代の結成メンバーだけど、あのとき、目標をたてたんよ。
一つは、自分たちの親の体験を聞こうと。沈黙している人がまだまだ多かったから。
二つ目は、私たちは堂々と子どもを生もうと。結婚差別とか、被爆者に対する差別もきつかった。そういう中で被爆者の血を絶やさず、被爆者の誇りをもって被爆2世、3世につないでいこうと。
三つ目は、すごくつらいことだったけど、親にたいして、あの侵略と戦争をなぜ止められなかったのか、つまり国民一人ひとりの戦争責任ね、これを親に対して聞こうと。これはすごくしんどい。親は被爆し、苦しい生活のなかで育ててくれた。その親に戦争責任を問うというのは。
―被爆と戦争責任、大変重いテーマですね。
やはり、戦争があって原爆投下、被爆があった。単純かも知れない。やっぱり戦争があっちゃあいけんのよ。戦争で原爆が使われた。そしてその戦争は侵略戦争だった、ということ。
だけど、日本が中国、朝鮮、アジアに侵略し殺した人たちと、原爆で殺された人たちは、戦争の被害者としては同じ被害者。国の戦争責任と、民衆一人ひとりの戦争責任は分けて考えなければ。私たちは、国の戦争責任をきちんと問い、明確にさせなければいけない。それが私たちの役割であり、戦争、原爆を繰り返させないことにつながる。
―全共闘運動と被爆者青年同盟の結成を前後して、そういうことが語られはじめたのは大きなことですね。
そう。あのとき、天皇と佐藤(当時の首相)の来広阻止をたたかいました。天皇の来広阻止(71年4月)はきつかった。被爆者の間でも意見は分かれた。「せっかく天皇が来てくれるというのに」という声があった。しかし、「戦争責任がある。それをちゃんと決着させないまま、やすやすと来られるのはいやだ」という思いだった。
だけどデモの許可がおりなかった。不当だから行政裁判に訴えたら勝利した。そしたら、ついに総理大臣の指揮権発動でデモが禁止された。ほんとに異例、異常な事態になった。新聞も1面トップ。そういうわけでデモはできなかったけど、ものすごく注目された。
それから佐藤のときは大荒れだった。(71年)8月6日、記念式典の会場の近くまでデモをしていき、突然、デモを解散し、バラバラになって会場に入り込んだ。そこでヘルメットをおいて、式典の参加者に肉声で呼びかけた。「みなさん、聞いて下さい」って。そしたら、次々と人びとが座って、式典に背を向けて私たちの訴えを聞いてくれて。うれしかった。
そうしてたら、式典が終わって佐藤が資料館にいったのね。私たちは資料館の下に集まって、出て行けとかやっていた。そしたら佐藤が資料館から降りてきたんよ。もうそのときはわーと押しかけて。佐藤にぶつかっていくわ、車に手とか体を入れて動けなくするわ。すごかった。
あとで聞いた話だけど、記者の一人が佐藤を広島駅まで追いかけて話を聞いたら、顔を真赤にして、「せっかく来てやったのにっ」と言ったんだって。私たちのたたかいがこたえたな、響いたなと思ったね。
―河野さんの発言や行動を拝見していて、被爆者であるお父様の戦争と原爆にたいする想いが大きいと感じます。
そうね、やはり父の教育はとても大きかったと思います。私の父は、広島2中の教師をしていました。生徒たちは、学徒動員で、毎日、工場や建物疎開にかり出されていた。あの日(45年8月6日)、父は受け持ちの生徒を、いまの平和公園の国際会議場がある川岸にすわらせて、自分は伝令のため、(3キロぐらい離れた)観音の三菱の工場に自転車で向かった。だから父は原爆が落とされたとき、まったく偶然に助かりました。しかし受け持ちの生徒たちは、姿さえ分からないほどに全滅してしまった。
父の日記を読むと、戦況が悪化するなか、「戦争には勝たなければ」と書いている。でも、同時に「命を大切に」ということも書いている。教師にとって教え子は自分の子どものように大切な存在。それを、自分が引率して全滅させてしまった。その痛みは、ずっとずっと続いていた。亡くなる前年まで毎年8月6日には平和公園の西、広島2中の慰霊祭にずっと出ていました。
父は、教え子を失って、価値観が180度変わったと言いました。そして、私に「戦争はいけん、原爆は三たび使ってはいけん」「憲法は守らなければ」と教えてくれた。「教え子を再び戦場に送るな」という日教組運動に加わり、署名などにも熱心にとりくんでいた。戦争への悔恨、反核、新しい憲法の大切さを話しつづけてくれました。
私は、それを忘れないし、継承していかなければ、と思います。
―オバマ演説、田母神発言、原発などの問題について、ご意見をお聞かせ下さい。
田母神は、「核兵器は使われることはない兵器だが、持つことによって発言力が高まる」と言っているが、それは違う。北朝鮮が核実験をしても、いまさら何発かの核を持ったとしても抑止力、国際社会での発言力が高まるわけがない。むしろ、どんな核でも持っていれば使われる可能性の方が現実になる。
オバマ大統領の演説がいろいろとりざたされているけど、彼ひとりで何かできるわけではない。核廃絶への行動計画はあらゆる世界の声、力を集め、実現にむけて一歩でも二歩でも前進させなければならない。彼ができるのではない。私たち民衆の声、何よりも被爆者が、それを押しすすめなければ。
電気エネルギーは大切なものだと思うが、原発にこだわるのはおかしい。地域や条件に合わせ、もっと地熱や風や波など、いまの技術を応用すれば危険な原発をつづける必要はない。そして日本はプルサーマルなど、核兵器材料のプルトニウムをもっとも生産しつづけていることに、きびしい眼をむけたい。山口・上関原発反対の住民のみなさんと、ともにたたかいたい。
―最後に、いまの改憲の動き、9条改憲阻止と反戦・反核運動についてお聞きします。
やむにやまれぬ気持ちで参議院選挙(07年)に出たのは、改憲の動きに強い危機感をもったから。いま、憲法審査会が動こうとし、国民投票法が実施されようとしている。私は、ひとりの被爆2世、全共闘世代のひとりとして、憲法を9条はもちろん前文、21条、24条、25条すべて変えさせない、触らないようにしたい。ある人は「1章がいけん」と言う。しかし1章に触れば、もっと悪くなる。いっさい手をつけるな、と強く言いたい。憲法に触れれば、かならず9条改憲に踏み込むのは明白。反戦・反核、改憲阻止の運動を大きく結び、阻止するたたかいをやりましょう。ぜひ、8・6ヒロシマの夕べにお集まりください。
河野美代子さんプロフィール
1947年広島市生まれ。被爆二世。原爆の廃墟が残る中で育つ。多くの被差別部落民や在日朝鮮人とともに中学時代を過ごす。66年広島大医学部に入学。67年10・8羽田闘争、全共闘運動・医学部闘争に参加、70年7月被爆者青年同盟を結成。現在、産婦人科医、河野産婦人科クリニック院長、河野セクシャリティ医学研究所所長、広島エイズダイヤル代表。07年7月、参院選広島比例区に立候補、19万9222票を獲得も次点。今年4月の宝塚市(兵庫県)の市長選では、友人である中川ともこさんの当選に尽力。
著書に『さらば、悲しみの性』(集英社文庫)、『いま〈生きる底力〉を子どもたちに!』(十月舎)など。
河野さんのリアルタイムのお話は、河野さんのブログで見ることができます。
「河野美代子のいろいろダイアリー」
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