未来・第414号


            未来第414号目次(2025年5月14日発行)

 1面  軍事大国化・改憲阻止
生活破壊の石破政権打倒
憲法集会各地で開催

       2面  第96回中之島メーデー 5月1日大阪
関生細野書記長 熱い戦闘宣言

       3面  緊急シンポジウム
「台湾」有事に突き進む日米同盟

       4面  朝鮮戦争下の清水港・山猫スト(上)
『レッド』出版記念会の講演要旨
全国の港湾で無期限ストへ

       5面  日本の軍拡と軍産学複合体(下) 栗原瞳
武器輸出三原則撤廃と大学の軍事研究

     (映画評)
『ノー・アザー・ランド−故郷は他にない』
監督:バーセル・アドラー、ユヴァル・アブラハーム、ハムダーン・バラール、ラヘル・ショール(2024年)

 6面  国家責任を追及する被爆者のたたかい
村田三郎医師が講演
4月20日大阪

核汚染水を海に流すな
4月26日大阪

 7面  〈投稿〉
巨星堕つ 斉間淳子さんを偲ぶ
伊方から原発をなくす会 秦左子

     治安維持法100年を問うC
「共産主義者」を名乗る人たちの〈非転向〉の実態

 8面  違法状態続く斎藤県政
再び斎藤救済狙う立花

                 

軍事大国化・改憲阻止
生活破壊の石破政権打倒
憲法集会各地で開催

扇町公園で福島みずほさんら各政党代表も護憲と核廃絶を訴えた(5月3日 大阪市)
5・3中央憲法集会は3万8000人が結集(東京)

大阪憲法集会 核廃絶を

「輝け憲法!平和といのちと人権を」5・3おおさか総がかり憲法集会は、大阪市北区の扇町公園に3500人が集まり、集会とデモをおこなった。
オープニングは和太鼓演奏。開会あいさつで米田彰男さん(1000人委員会大阪)は、「憲法がはたしてきた役割は大きい。日本は明治以降侵略戦争を繰り返してきた。1945年敗戦で終結。それから80年、日本は戦争しなかった。平和がつづいた。しかし、世界はロシアのウクライナ侵略戦争、ガザでのイスラエルによる虐殺。ところが国際社会は止めることができない。日本が平和憲法を世界に発していく。毎日新聞の記事で自民党の船田元は少数与党であるが、再び2/3議席とれば必ず憲法改正すると言っている。若い人に今日のような運動を広げていこう」と述べた。

世界は核軍拡に

メインスピーチでは、中村桂子さん(長崎大学核兵器廃絶研究センター)が、「被爆80年、核のタブーの原点に立ち返る」として発言した。以下、要約する。
核兵器廃絶運動ですが昨年、被団協がノーベル賞を受けた。これに胸を熱くされたと思う。長崎では、せめてあと10年早ければもっと多くの人と喜びを分かち合えたと悔しい思いもある。世界に動きが認められた。このタイミングは世界がいかに核の危険なところにあるかの裏返しでもある。核兵器への世界の動きはかつてない逆境。
核の使用は許されない。しかし、他の国からの脅威を理由に核武装を正当化する、こういう考え方が世界で強まっている。核の総数は冷戦以降、減っているが、使える核兵器=現役核弾頭数は増えている。今、世界は核軍拡に進んでいる。彼らの頭の中は冷戦時と変わってない。新しい核兵器やより使いやすい核兵器が日々、新しく作られている。
若い人がなぜ広島、長崎をしっかり学ぶべきか。核が使われたらどれほどの苦しみと悲しみを長期間及ぼすことになるのか、想像できる人を世界に1人でも多くつくっていくこと。その責任は大きい。
核のタブーの崩壊は国レベルだけではない。多くの人の心の中でウクライナ戦争ぼっ発以後、子どもや若者の間でも少し、受け止めが変わってきている。自分たちの安全への不信感。ウクライナやガザを見て、「昨日のウクライナは今日の東アジアかもしれない」と。不安の中で軍事力に依存することが唯一の方法と考える。どう対応していくべきか。核廃絶をどうやって行くべきか。「核はもってもいいのでは」という子どもの中には被爆の話を聞いている子もいる。しかし、必ず「でも」「しかし」がついてくる。「でも、しかし」の壁は、広島、長崎にかぎった話ではない。世界や日本のリーダーにもある。
核廃絶の理想がある。他方で、核抑止力に守られている現実がある。引き裂かれている今の状況。ここで問い直し、理想と現実の二項対立の前提が間違っていたらどうか。核抑止がかえって危険を呼ぶとしたらどうか。「核抑止は安全」という大前提がくずれたらどうか。

「核の傘」は幻想

前提を根本から問い直す動きがある。2017年核兵器禁止条約が採択。核を作ることも、持つことも、使うことも禁止。この核兵器禁止条約の運動に核保有国は入ってないし、日本も背を向けている。彼らは「理想は立派だが現実に役にたたない」という。第3回締約国会議に参加してきた。そこで見たものは「でも、しかし」の壁を破ろうとする締約国の熱意・取り組みだった。
核抑止依存が実は不安定・不確実なリスクをはらんでいることを科学的・客観的に明らかにしようとしている。「核の傘」は幻想にすぎない。「核兵器を(持っていても)使わなければいい」という議論も間違いだ。核があるだけでどれほど多くの問題をもたらしているか。世界で2千回以上おこなわれてる核実験の歴史と被害を見れば明らかだ。核抑止は不安定だ。こんな薄氷の上にいる世界のありかたこそおかしい。ただ人々の頭の中を変えていくのは大変。被団協の結成宣言で「かつて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救うという決意を誓いあったのであります」と被爆後11年目に確認した。対話を進め、核廃絶という信念は揺らいでいない。苦しい、長い闘いだ。改めて被爆80年・戦後80年、私たちの力強い一歩を共有し、ともに歩みたい。

その後、市民スピーチとして、〈関西ガザ緊急アクション〉と〈京都祝園ミサイル弾薬庫問題を考える住民ネットワーク〉が発言。
各政党アピールと、ポテッカーアクションをおこない、丹羽徹さん(大阪憲法会議)の閉会あいさつで集会をおわり、2コースでデモに出発した。

兵庫憲法集会に3500人

暑い日ざしの中3500人が集まった(5月3日 神戸市)

5月3日、神戸みなとのもり公園にて兵庫憲法集会が好天の下、兵庫県下各地の労働組合・市民団体などから3500人の参加で開催された。「目標10000人」を公表していた割にはやや残念な結果だが、例年並みで、斎藤県政問題を憲法・人権の危機として正面から課題化し積極的に訴えれば、もっと多くの人が集まったのではと思えた(実際、市民デモHYOGOをはじめとする人々や、神戸市以外の市民運動側もかなり分散していた)。川口真由美さんと島田篤さんのミニコンサートから始まり、参議院選挙に立候補予定の、井坂信彦さん(立憲民主党)、金田峰生さん(共産党)、米村明美さん(れいわ新選組)の護憲派3人の来賓挨拶がおこなわれた。
その後畠山澄子さん(ピースボート、サンデーモーニングのコメンテーター)のメインスピーチ、シュプレヒコール、高校生平和大使2人のアピール、閉会挨拶・団結ガンバローと進み、3コースのパレードに移った。
発言の中ではピースボートの畠山澄子さんの話が共感を呼んだ。高校生の時から若い感性で一歩一歩信念を形作り、パレスチナ・ガザに対する熱い思いが述べられ、ぶれない信念で社会の動きを深く思考し行動し発信していることが感銘を与えた。最後の、「自分がやっている小さな行動が、平和な社会を作っていく運動につながっている」との言葉にも共感が寄せられた。

2面

第96回中之島メーデー 5月1日大阪
関生細野書記長 熱い戦闘宣言

全参加者で労働基準法解体反対のポテッカーアクション(5月1日 大阪市)

晴天にめぐまれた5月1日、大阪市内の剣先ひろばで第96回中之島メーデーが開催された。全港湾大阪支部が司会、開会あいさつを全労協議長の南守さんがおこなった。
大阪労働者弁護団による連帯あいさつの後、各政党がアピールした。
山下けいき茨木市議、社民党・長崎由美子さん、木村真豊中市議、高木りゅうた高槻市議、野々上愛大阪府議、佐々木希絵・河南町議、さこ田けいいち尼崎市議、れいわ新選組の大石あきこ衆議員議員らがアピール。大石議員は、関生弾圧にふれながら、都構想、万博、カジノ、この3つを全部失敗させて維新を大阪から追い出しましょうと訴えた。

韓国オプティカルハイテック労組が現地からアピール

火事で焼けた工場の屋上で高空籠城中の韓国オプティカルハイテック労働者のパク・チョンヘさんが電話でアピール。中之島メーデー会場側では通訳が同時通訳し、演壇には3メートルの争議バナーが掲げられ、籠城中の労働者の実物大パネル(顔)が掲げられ、参加者は聞き入った。
パクさんは「私たちは3年以上、雇用承継を要求して韓国で闘い続けています。高空籠城は480日目をむかえています。日本では多くの仲間が日東電工の本社前で抗議行動をして私たちの問題をたくさんの市民に知らせてくれています。同志のみなさんがいっしょに行動してくれているので、私たちも力強く闘うことができています。韓国で、そして日本で労働者が団結して連帯するならば、この闘争はかならず勝利すると信じています。労働者に対する差別をなくし、平等な世の中、労働者が尊重される世の中のためにともに闘いましょう」と力強いアピールがあった。
中之島メーデー側からは、韓国で闘うパク・チョンヘさんたちに「勝利のその日まであきらめず連帯してがんばろう」と会場全体に響く大きな声で連帯のあいさつを送った。

争議団アピール

大阪全労協ケアワーカーズユニオンが山紀会との闘いを報告。全日建運輸連帯労組関西ゼネラル支部はワールドリンクという会社での争議報告をした。関生支部大浜資材分会は行政訴訟が全部勝利していることを報告。なお、大浜資材分会の闘いは『労働判例』(2025年3月15日No.1323号)に詳しく紹介されている。
全港湾大阪支部の争議分会が壇上にあがり、大和運輸分会、梅南鋼材分会が報告。全国一般ユニオンおおさかは外国人労働者をふくめて40人の団結を実現していると報告。外国人労働者が急増している日本の現状をみるとき、この取り組みは非常に重要である。なかまユニオンは、介護施設での2千万円にものぼるサービス残業代要求闘争と分会長への65歳での雇止めとの闘いを報告した。
関生支部の細野書記長が2月の京都地裁での完全無罪判決と4月の一部無罪、一部有罪とされた最高裁から大阪高裁に差し戻された加茂生コン判決を弾劾した。湯川委員長に懲役10年を求刑してきたベストライナー事件について京都地裁は事実認定をしっかりして公正な判断をしただけでなく、ストライキについて「そもそもストライキというのは経営側に圧力をかけて業務の正常な運営を阻害することをいう」と労働関係調整法第7条の規定を引用して判決文に明示してくれた。これは関生支部だけでなく、ここに結集したすべての労組に適用される画期的な判決だと訴えた。
しかし、最高裁から差し戻された加茂生コン事件では吉田組合員が無罪になったのはよかったが、安井執行委員に懲役6月、執行猶予3年という有罪判決は許せないと激しく弾劾した。就労証明書を出してくれと言う当たり前の要求に、会社は12月7日にしっかり回答するというので組合は会社に行ったが、期待した回答がまったくなく、すべて弁護士に任せているというきわめて不誠実な回答だった。この不誠実な会社の対応に組合が強く抗議をしたのはあたりまえなのに、これが暴力の行使にあたるという判決は許せない。これがなんで暴力の行使なのか。これが暴力になるのならここにいる組合はすべて活動できなくなる。私たちは上告して最高裁で公正な判断を求める闘いを続けていくと決意表明した。
25春闘では、勝ち取った物価高騰手当を基準内賃金に入れさせた。これは残業代にはねかえるのでわずかだが、一定の成果をかちとったと報告。

『苦いコーヒーと甘いデーツ』

川口真由美さんが『苦いコーヒーと甘いデーツ』を歌った。 ガザでは多くの子どもたちがイスラエルによって殺されている。ガザの親たちは子どもの手足に名前を書くという。イスラエルの爆撃で子どもの手足が散らばったとき、せめて手足だけでも拾いたいという親の切実な願いが込められている。パレスチナでは葬儀のとき、苦いコーヒーと甘いデーツが配られるという。川口さんは『苦いコーヒーと甘いデーツ』という曲でこの状況を歌にした。心を締め付けられるような思いとともに、しかし、パレスチナ解放にむけての強い思いが曲に込められていた。(米村泰輔)

MAYDAYあまがさき
県職労阪神支部などが発言

改装された中央公園でメーデー(5月1日 尼崎市)

尼崎地区労などよびかけのMAYDAYあまがさきは5月1日、18時半から改装なった尼崎中央公園に100人が集まって開催された。
スローガンとして「腐った政治をまともな政治に」と掲げられるとともに、関生弾圧以降の労働基準法改悪に反対する行動として闘い取られた。
酒井浩二尼崎地区労議長の発言のあと、兵庫県職労阪神支部の仲間が、斎藤県政下でさらに強まる労働者支配の強化に反撃するとの発言がおこなわれた。関西生コン支部からも昨今の勝利判決を拡大しようの訴えがなされた。また争議分会としての三田屋分会から、さらに6月尼崎市議選を闘うJP労組からもアピールがなされ、出屋敷までデモ行進をおこなった。

3面

緊急シンポジウム
「台湾」有事に突き進む日米同盟

議員会館内で集会(5月2日)

5月2日、衆議院第一議員会館で「緊急シンポジウム『戦争ができる国』から『戦争をする国』へ −『台湾』有事に突き進む日米同盟」が開かれ、平日だが百を超える市民が集まった。主催は一之瀬法律事務所を連絡先とする〈沖縄問題を考える会〉。
冒頭、主催者を代表して、村山首相談話の会・理事長の藤田高景さん(社民党元職員)があいさつ。「安倍政権の時、米側は『台湾有事では米軍でなく自衛隊が血を流す』と言っていた。これで騒ぎにならない日本はおかしい」。

元沖縄平和運動センター議長の山城博治さん

「台湾有事が問題になった時に〈ノーモア沖縄戦命どぅ宝の会〉を作って(本日の講師の)石井さんを呼んだ。講演内容をパンフにしたら飛ぶように売れた。自衛隊が参戦するシステムができている。日本の若者が米国のために倒れることがないようにしたい」。

共同通信編集委員石井暁さんが講演

「私は1961年8月15日生まれ。94年に防衛庁担当になり、30年くらい防衛庁・省に出入りした。軍事オタクではなく、平和のために日々取材・執筆している。2020年くらいから米4軍から『2027年までに台湾に中国が軍事侵攻するのではないか』という報告がなされ、CIA長官からも『習近平が準備の指示をした』との情報が流れてきた。どうすれば侵攻もさせない・米軍が攻めないことができるのか、日本が参戦しないためにどうするのかを考えたい。私が書いて配信した2021年12月24日記事『南西諸島に攻撃拠点 米軍、台湾有事で展開』、昨年2月5日の記事『日米、仮想敵国「中国」明示 共同演習で初 台湾有事想定』がある。
米下院議長ペロシが台湾に訪問して、中国が2022年8月に台湾周辺で軍事演習した。習は『武力行使の選択肢は放棄しない』と言っている。台湾の頼清徳総統が『中華民国と中華人民共和国は互いに隷属しない』と言っているのは(侵攻を招かない)ギリギリの発言。独立宣言なんかしたら100%侵攻される。昨年9月25日、44年ぶりに中国がICBMを太平洋公海に飛ばした。同日、海自護衛艦さざなみが台湾海峡を通過した。中国は『(台湾海峡の)管理権がある』と言っている。さざなみ艦内では隊員が緊張していたとのこと。(当時行き詰まっていた)岸田首相の決断。2021年、蔡英文総統が軍事訓練目的での米軍の駐屯を認めた。これまでもいただろうが、公然とは認めてこなかった。昨年6月、『中国が台湾に侵攻した場合には数千の無人兵器を使って地獄絵図にする』とハワイの米インド太平洋軍司令官が言っている。
今年3月、元統合幕僚長の岩崎茂氏が台湾行政院政務顧問になった。岩崎氏とは連絡が取れなくなった。安倍政権がやったことは憲法解釈を変えて『集団的自衛権行使はできる』として、『存立危機事態』だから台湾有事への参戦を『法的に』可能にしたこと。次の菅総理は安全保障に興味を示さなかった。先島諸島住民は開戦時には避難させるとしているが、沖縄本島住民には『屋内避難』を求めている。その違いについて合理的説明はない。住民の避難計画というのもいい加減。23年11月、米海兵隊に海兵沿岸連隊(MLR)が発足した。数十人の小部隊に分かれて展開し、攻撃して反撃される前に次々に移動して戦う(※本格的な戦闘開始時には米軍主力は最前線からは退くので使い捨てになる部隊)。昨年4月、米軍艦船・航空機の大規模補修に日本企業が従事することになった。防衛省幹部は『戦争準備だ』と説明している。米空軍戦闘機は各基地をローテーションで配備しているが、昨年7月、嘉手納に新型のF15が固定配備になった。横浜市東神奈川の米陸軍小型揚陸艇部隊が新編され、運用開始された。戦争準備を始めた象徴。『馬毛島は自衛隊・米軍のワンダーランドになる』と自衛隊幹部が言っている。
日英伊で戦闘機の共同開発をしている。『烈風』という愛称をつけようとしている。終戦で実戦配備に間に合わなかった幻の艦上戦闘機。統合作戦司令部設立は戦争準備そのもの。防衛省の正門・薬王寺門に小銃を持った自衛官が付くようになり、4WDの車が近くに停まっていて何かあったら突っ込めるようになった。在日米軍司令部には指揮権がない。ハワイのインド太平洋司令部にもともと指揮権があった。日本側から要求して、『在日米軍統合司令部を作ってハワイの指揮権の一部を移す』ことになった。その機能の一部を六本木に持って来る。初の防衛大以外の一般大学(東大)出身統合幕僚長・吉田が『日米共同計画は特定秘密』と言っている。国家安全保障局で私が書いた記事(台湾有事関連)が問題になった。石井と会ったか、どんな話をしたかと問う調査票が回った。政府関係者は公用・私用デバイス(PCも携帯等も)提出させられた。図上演習では実際の場所や国をぼかして地形や方角を変えたり『X国Y国』とかの名前でおこなうが、昨年2月の日米共同指揮所演習『キーン・エッジ』では実際の地図を使い、中国の名を出した。
昨年2月、対中作戦にあたって米軍が南西諸島から退く構想について、吉田統幕長と米インド太平洋軍アキリーノ司令官と激論になった。『フィリピン軍が脆弱だから守らなくてはいけない』とアキリーノが主張、吉田が折れた。戦争を回避する妙案があるわけではないが、私のアイディアを説明する。キーワードとして『一つの中国』をもう一回考える。これは日米の対中政策の基本(的な立場)。日米間の事前協議制も重要。これで日本側の合意がないと米軍は確実に負ける。『事態認定』も重要。『台湾を見捨てるのか』と言い出す人がいるが、ではウクライナの戦争に自衛隊が参戦するのが正しいのかという問題。一国の平和を守れない者が世界の平和を守れるのか。『安保関連法で米の戦争に巻き込まれることはない』と政府与党は言っていたが、『台湾有事は日本の有事』という話になっていることについて安倍に聞きたかった。日本国憲法の平和思想をもう一度考える必要がある」。

纐纈厚さん(山口大学名誉教授)発言

「1996年に『暴走する自衛隊』という本を書いた。今は『逆走する自衛隊』を書かなければいけない。台湾では民進党より国民党が多くの議席を持っている。議会は国民党52、民進党51、中道左派8。台湾の人からは戦争の危機云々について『ほっといてくれ』と言われる。経済的には中国本土と結びついていて、独立派は2割もいない。米が戦争を持ち込もうとしている。日英同盟で日本が対露戦争をけしかけられたのと同じ構図」。

特別報告「安倍国葬裁判について」

藤田高景さんが再度マイクを取って安倍国葬裁判について特別報告した。
「全国から900人が憲法違反で訴える原告になってもらった。裁判はほとんど終わっているが、最大の山場が5月9日の第10回口頭弁論(日体大教授の清水雅彦さん、纐纈厚さん、元名護市議会議員の川野純二さんが弁論に立つ)、30日の第11回口頭弁論(いずれも東京地裁13時半から)。戦後政治を最低最悪にしたのは安倍。最も国葬にふさわしくない男」。

一瀬敬一郎弁護士が閉会あいさつ

「沖縄の現実をもっと学ばねば、と現地の人と交流してきた。今年3月には辺野古の座り込みをした。6月には重慶爆撃や731部隊の被害を訴える人々、計20名を沖縄に呼んで発言してもらう。重慶に行って、金城さんに空襲犠牲者を悼む平和の像を作ってもらう」。

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4面

朝鮮戦争下の清水港・山猫スト(上)
『レッド』出版記念会の講演要旨
全国の港湾で無期限ストへ

2・26関生判決を前に大阪で出版記念会(2月23日 大阪)

以下の文章は大庭伸介著『レッド』出版記念会(東京2024・12・14。大阪2025・2・23)における講演テープをおこしたものの要約である。掲載に当たって若干の訂正を加えた。

職場の労働者が自らの闘い方を創り出す発想と力を持とう

本題に入る前に、〈新たな戦前〉下の今、私が一番主張したいことを述べてみよう。
『レッド』のなかでは、〈継承性の欠落〉が、今日の労働運動の停滞を招いたと強調している。しかし根本的には、労働運動に限らず社会運動全般について、現場で働き、生き、生活している労働者民衆が、お互いの話し合いのなかから、闘い方を考え運動を下≠ゥら創り上げていく、これこそ最も大切なことである。
日本の労働運動は上≠ゥら方針が降りてきて下部の大衆がそれを受けとめる、というかたちで運動がすすめられてきた。これが今日の労働運動のなさけない体たらくを招いた最大の理由ではないだろうか。

朝鮮戦争が勃発したとき 労働運動はいかに対応したか

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。このとき日本は参戦している。海上保安庁の掃海艇に乗込んだ旧日本帝国海軍の軍人たちは仁川や元山などの朝鮮半島沿岸で、機雷の除去作業に当たり、戦死者が出ている。憲法9条のお陰で日本は戦後一貫して戦争をしてこなかった、というのは史実と異なる。
朝鮮戦争が始まったとき、日本の労働者はいかに対応したのか。当時、日本の労働戦線はドン底の状態にあった。敗戦後しばらくの間、日本の労働運動をリードしてきた産別会議(全日本産業別労働会議)は、一方における権力の弾圧もあったが、それよりも共産党の引回しに影響されて組合員の要望に耳を貸さず、信頼を失っていき、凋落の一途をたどっていた。だから朝鮮戦争の開始に伴う労働強化にたいして、「特別手当を増やしてくれ」という経済要求を掲げることぐらいしかできなかった。
その一方で、新しいナショナルセンターが登場した。朝鮮戦争の開戦直後に結成された総評(日本労働組合総評議会)である。普通の労働運動史の本では、アメリカ占領軍と日本の資本家階級の庇護の下に総評が作られたと書いてあるが、これは事実の一面でしかないし、労働者の主体性を視ようとしないものである。
一般の職場の労働者は、消極的な支援ではあったが、産別会議より総評の方が少なくとも自分たちの声を聴いてくれるとして、総評に結集したわけである。
その総評は結成大会で「北朝鮮の軍事侵略反対、国連軍の警察行動支持」という方針を掲げた。そうしなければ結成大会を開くことさえできなかったのだと思う。
労働者の政党と自任する共産党はどうであったか。朝鮮戦争が始まった1950年の1月、コミンフォルムというスターリン支配下の国際的指導組織から、日本共産党の「アメリカの占領下でも平和のうちに革命が達成できる」という方針にたいして、「マルクス・レーニン主義と縁もゆかりもない帝国主義美化論である」と批判された。
これをどう受けとめるかをめぐって、日本共産党は大分裂した。機関を握っていた主流派は、朝鮮戦争にたいして、「朝鮮半島における内戦だから一切かかわるな、そうすることは日本国内の階級闘争をないがしろにすることになるから、一切タッチしてはいけない」という方針を掲げた。プロレタリア国際主義とは真逆の方針である。
一方の反主流派は朝鮮戦争反対の立場を打ち出した。しかし機関を握っていないので、大衆運動をほとんど組織できなかった。

パラシュートの布に針で穴をあけ オシャカを出して抵抗

こうしたなかで、労働運動のなかの意識的な活動家はどうしたのか。
たとえば、九州のある工場で米軍のパラシュートを作っている労働者が、カービン銃を肩にかけた米兵が四六時中、職場を徘徊して監視しているなかで、パラシュート用の布に針で穴をあける、つまりオシャカを出す、そういう抵抗をやっている。
全国的にいくつかの職場で、そういう抵抗闘争をやっている。斎藤一郎の『戦後労働運動史』(社会評論社刊)に、その具体例がいくつか紹介されている。かなり勇気を伴う行動ではあるが、個人的なレジスタンスの域を出ないものであった。

港湾労働者の無期限ストが大阪を皮切りに全国へ波及

こうしたなかで唯一、組織的に労働組合としてストライキをもって闘ったのが全港湾(全国港湾労働組合)であった。
港湾荷役は朝鮮戦争が始まると同時に、ムチャクチャな労働強化のるつぼと化した。24時間労働、36時間労働が当たり前で、労働災害が激増し、なかでも労災死や生涯にわたる重大な労災が急増した。監視の米兵が少しでも気にくわないと労働者を蹴飛ばしたり、ぶん殴ったり、海に突き落としたりする行為が日常的におこなわれるようになった。当然、港で働く労働者のなかに、朝鮮戦争反対の気運が高まり、米兵の横暴にたいする不満がうっ積していった。
このとき全港湾労組大阪地本の委員長をしていたのが、平井重太郎という人である。平井さんは1925年、荒畑寒村にオルグされて再建途上の日本共産党に入ったオールド・ボルシェビキである。私は平井さんがお亡くなりになるまで親しくお付き合いさせていただいたが、非常に誠実な人柄であった。
平井さんは敗戦と同時に全港湾労組の結成にたずさわり、中央本部の書記長を2期2年努めたあと大阪に戻り、大阪地方本部の委員長に就任した。1950年の年明け早々、コミンフォルムの批判より少し前に、日本共産党を脱党している。それは路線上の対立ではなく、平井さんから聞いた話によれば、「当時の大阪の共産党組織があまりにもデタラメで、とてもこんな連中と付き合ってはおれなかったから」だそうである。しかし共産党を脱けても筋金入りの共産主義者であることには変わりなかった。朝鮮戦争が始まったとき、大阪地本の委員長として、何かコトが起きたとき、それをキッカケにして無期限ストをやろうと、心ひそかに決意していた。
はからずもコトが起きた。1951年3月4日、大阪港で朝鮮向けの軍用米を運んでいた労働者が、使用を禁止されていた手カギを使ったとして、監視中の米兵からカービン銃で滅多打ちされたのである。銃身を握って銃床で顔や頭を滅多打ちされたのである。遠心力が働いてものすごい打撃力となり、血しぶきが飛んだ。そのとき甲板やハッチにいたすべての労働者が同様の目に会い、あたり一面が血の海と化す大惨事になった。
平井さんは、この事件を最大限に生かそうと、自らの責任と決断によって、全港湾大阪地本傘下の全分会を無期限ストライキに突入させる指令を発した。
ちょうどそのころは年度替わりで、労働協約の改定とか賃上げを要求して、分会ごとにストを打ったりしていたが、全分会が足並みをそろえて無期限ストに入ることになったのである。
そのときに発した闘争宣言には、「この闘いは単なる生活防衛の闘いではない。国際帝国主義者どもの新たな植民地獲得のたくらみを粉砕する闘いである」と明記されている。この闘争宣言は全港湾の全国の各地本・支部、大阪を中心にした関西の各労働組合、当時「民主団体」といっていた市民運動の各グループにも配られた。
これは直ちに、隣の神戸港に波及した。そして名古屋港、さらに東京や横浜、関門、北海道と、全国ほとんどの港に無期限ストが広がっていった。
しかし、清水港だけはスルーした。

1社独占の特異な港湾・清水港だけストに不参加

全港湾清水支部は完全な御用組合だったからである。平井さんが全港湾中央本部書記長として、全国の支部をオルグに回って清水港を訪れたとき、「これが俺たちの組織なのか」とびっくりしたそうである。
清水港は、いわゆる10大港の次に位置するぐらいの規模の港である。小さな漁港は別にして、輸出入を営むような港では、少なくとも数社、10数社、ところによっては数10社の港湾荷役業者が存在するが、清水港は例外中の例外で「鈴与」という会社が1社独占していた。鈴与という社名は鈴木与平という社長の「鈴」と「与」をとったもので、戦国時代の大坂夏の陣のとき、徳川家康の軍勢の武器・弾薬・食料を運んだ歴史を誇る港湾荷役業者である。
同族会社で、男系の後継者が途絶えたときの女社長も代々続いていた鈴木与平という通名を名乗っていた。同族会社の常で株を上場していないために全国区ではない。しかし静岡県中部の物流を中心にした第3次産業の超大手企業である。最近のデータを紹介すると、昨年の段階で資本金10億円、売上高1598億円、営業利益54億円、従業員千人以上である。
幕末のころ清水次郎長には4人のパトロンがいたそうだが、そのうちの最大のものだった。朝鮮戦争のころには次郎長一家は消滅していたが、新しい暴力団と組んで清水港を完全に支配下においていた。(つづく)

5面

日本の軍拡と軍産学複合体(下) 栗原瞳
武器輸出三原則撤廃と大学の軍事研究

(6)兵器産業育成と武器輸出推進

@2023年6月防衛生産基盤強化法を制定。

立憲・維新・国民も賛成した。武器工場の設備増強や武器輸出に税金を投入するという悪法である。背景に日本軍需企業の危機がある。コマツや島津製作所などの大手をはじめ、この20年で約100社が撤退した。市場が国内に限られ、利益率も低い。
同法は、製造工程を効率化したり、サイバーセキュリティを強化したり、サプライチェーンつまり部品供給のリスク対応などに充てる経費に税金を投入する。武器輸出の促進を狙い、一部の経費を税金でまかなう。性能を落として(ダウングレード)輸出する場合の経費を全額補助する。
そのために「防衛装備移転円滑化基金」を新設し23、24年度4百億円ずつ計上し計8百億円。しかし輸出が内定したのはインドへの艦船用アンテナの1件(15億円)だけ。さらに25年度予算で4百億円つけた。使い道のない予算を確保し、膨大な無駄である。
軍需企業が事業継続困難になった場合、工場や設備を国有化することや、別の企業に委託する仕組みも盛り込まれている。また現在5つの分野(救難・輸送・警戒・監視・掃海)に限られている輸出項目を広げようとしている。

A2023年4月外務省が「同志国」軍に武器を無償でプレゼントする「政府安全保障能力強化支援」(OSA)を創設した。

外務省は、25年度のOSA予算に24年度より約30億円多い81億円を計上し、パプアニューギニアなど最大9カ国を支援対象とする予定だ。OSAによる供与は、24年にフィリピンへの警戒管制レーダー関連機材(16億円)やマレーシアへの警戒監視機材供与を決めている。25年1月石破首相がインドネシアを訪問しOSAによる高速警備艇供与で合意し、4月ベトナム訪問ではOSA初適用で大筋合意した。日本は「中国脅威」を煽って、中国包囲網をつくろうとしている。

B殺傷武器の輸出解禁

空自F2戦闘機の後継となる次期戦闘機を、英(BAEシステムズ)、日(三菱重工)、伊(レオナルド)が共同開発する。2035年の導入を目途。この共同開発した戦闘機の第三国への輸出を24年3月閣議決定だけで認めた。殺傷武器の輸出解禁という大転換。
「対象を次期戦闘機に限る」「輸出先は日本が装備移転の協定を結んでいる国に限る」「戦闘がおこなわれていない国に限る」として、いずれも閣議決定が必要なだけ。協定を結んでいる国は15カ国。米、英、仏、独、伊、スウェーデン、豪、印、シンガポール、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ベトナム、タイ、UAE(アラブ首長国連邦)。
戦闘機のエンジンを日本のIHIと英ロールスロイスが手がける。IHIが2018年高い出力のXF 9−1エンジンの開発を成功させた。IHIは防衛省の技術研究本部と共に研究を進めていた。

C24年7月28日ライセンス元国への初輸出として、米国へのパトリオットミサイル(PAC2、PAC3)の輸出決定を発表。約30億円分の輸出契約。

(7)学術会議を解体し、軍産学複合体を企む

「安保3文書」を具体化した2023年度の軍事費は、対前年度比で26%増の6兆8219億円。研究開発費(他分野も含め)は、3・1倍の8968億円。これは軍事費の13%にあたる。米国でレーガンの時、軍事研究開発費が10%に上昇したことからすると、日本は米国並みになったといえる。三菱重工の契約額は4・6倍の1兆6800億円、米国からの武器購入費は4倍の1兆4千億円超。
2024年2月19日「防衛力の抜本的強化に関する有識者会議」に、三菱重工の宮永俊一会長、NTTの澤田純会長や読売新聞本社の山口寿一社長が委員として参加、軍拡を推進している。
石破政権は3月7日、日本学術会議の法人化法案を国会に提出した。3月13日この法案は学術会議の解体をめざすものだとして撤回を求める声明が17団体から出された。学術会議を国の機関から外して特殊法人とする。首相が任命する監事や評価委員会が活動状況を確認するなどと規定し、学術会議を政府の統制下に置こうという内容だ。 4月15日学術会議の総会は、法人化法案について、独立性への懸念から修正を求める決議を賛成多数で承認した。同時に「法案は受け入れられない」とする法学者有志の決議案は6割以上の賛成を獲得した。また52学会が続々と声明を出し「学問の自由に対する重大な脅威」だとして修正・廃案を求めている。
戦争する国造り、兵器産業育成、武器輸出のためには、科学者の軍事研究が不可欠である。石破政権は学術会議を解体し科学者を戦争に協力させ、日本における軍産学複合体をつくろうとしている。極めて危険な状況にある。
戦争のための学術会議解体法案を撤回させよう。日本を戦争と死の商人国家にしないために、断固として闘おう。(おわり)

〈参考文献〉

『学術の動向 2017・7』の「安全保障問題と軍産複合体−デュアルユース(軍民両用技術)を考える」 西川純子論文
『軍産複合体〜自衛隊と防衛産業のリアル〜』桜林美佐著新潮新書24・9発行
『米国の科学と軍産学複合体〜米ソ冷戦下のMITとスタンフォード〜』スチュアート・W・レスリー著 豊島耕一・三好永作訳 緑風出版 2021・2発行 他

(映画評)
『ノー・アザー・ランド−故郷は他にない』
監督:バーセル・アドラー、ユヴァル・アブラハーム、ハムダーン・バラール、ラヘル・ショール(2024年)

ヨルダン川西岸地区の最南端、マサーフェル・ヤッタ村。ここには20の小さな集落がある。青年バーゼル(1996年生まれ)は、この村に生まれ、ここで生活している。この村では、イスラエル軍と闘うことが日常生活の一つになっている。イスラエルは入植地を拡大するために、この村を破壊し、暴力で村民を追い出している。村民は、イスラエル軍と対峙し、示威行動をおこない、抵抗している。
この闘いの一環として、バーゼルはイスラエル軍の破壊行為を撮影して、この現実をSNSで世界に発信してきた。2019年から23年まで、バーゼルが撮影した映像が編集されて、ドキュメンタリー作品にまとめられている。

マサーフェル・ヤッタ村

マサーフェル・ヤッタ村は、オスロ合意(1993年)でC地区(治安も行政もイスラエルがおこなう地域で、全体の60%)に指定されている。
イスラエル軍がブルドーザーでパレスチナ人の住む家屋を破壊する。村民が家を再建すれば、イスラエル軍がまた破壊をおこなう。この繰り返しだ。パレスチナ人にとって、この地に住み続けることが闘いなのだ。村民たちは自分たちの手で学校を作り上げる。イスラエル軍は学校までも破壊する。

イスラエルによる入植政策

1967年、イスラエルが西岸地区を占領した。これ以降、イスラエルは入植地を増やしてきた。1993年、入植者数は10万5千人に達した。
ソ連邦が崩壊して以降、ロシアからの移民が増加し、イスラエル政府は補助金をだして入植を進めた。同時に、パレスチナ人が住んでいた村は破壊されていった。その結果、2001年に入植者は25万人に増加している。2002年には、イスラエルは「分離壁」を建設した。
ヨルダン川西岸地区では、パレスチナ人が差別されている。車のナンバーはイスラエル人(黄色)とパレスチナ人(緑色)に分けられており、イスラエル人は自由に通行できるが、パレスチナ人は西岸地区から外に出ることはできない。これがイスラエルによる「入植植民地」の実態だ。こんなことをする権利はイスラエルにはない。

『ノー・アザー・ランド』について

バーゼルの住む村に、イスラエル人のジャーナリスト=ヤーバースがやってくる。このドキュメンタリーは2人の友情についても描いている。『ノー・アザー・ランド』は、このふたりを含むパレスチナ人(2人)とイスラエル人(2人)、双方の協力によって制作・編集されている。イスラエルの中にも、占領・植民地政策に批判的な人たちは存在している。
「アルアクサ洪水作戦」(2023年10月)の決起以降、ヨルダン川西岸地区でもイスラエルとの関係が厳しくなった。この村でも、イスラエル人入植者が村民を銃で撃ち殺す事件がおきた。村から出ていく住民も出ている。バーゼルは、今までのように撮影できなくなってしまった。
パレスチナ(ガザ、ヨルダン川西岸)の情況は厳しい。しかし、イスラエルによるパレスチナ占領政策が続く限り、パレスチナ人は闘っていく。いかなる軍事力によっても、パレスチナ人の抵抗を止めることはできない。

6面

国家責任を追及する被爆者のたたかい
村田三郎医師が講演
4月20日大阪

4月20日、「チェルノブイリ原発事故39年の集い」(主催:チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西)の集会で、村田三郎(阪南中央病院医師)が「ヒバクシャの治療に携わって想うこと」というテーマで講演した。講演要旨は以下のとおり。

わたしが内科医として歩みはじめて、もう50年になる。この間、わたしは多くの被ばく者と係りをもってきた。わたしは被ばく者と向き合い、被ばく者から学んできた。今日は、このことを中心に報告したい。

原爆被爆者実態調査

1957年、「大阪府原爆被害者の会」がつくられた。大阪府内に、被爆者がたくさん住んでおり、約11万人(1980年)もいた。1978年、私は阪南中央病院に入り、被爆者運動にかかわってきた。阪南中央病院で被爆45周年に向けた取り組みとして、原爆被爆者の実態調査をおこなった。被害者団体の協力をえながら、約1200人の聞き取り調査をおこなった。大阪府内だけでなく、広島と長崎まで出かけていった。この実態調査は病院全体でとりくみ、運動としておこなった。その結果、次のようなことが分かった。
放射線は遺伝子を破壊する。だから、被爆者は急性白血病(血液のがん)などのがんになることが多い。被爆から60〜70年たっても、原爆によるがんが発症している。がん以外にも、被爆者はさまざまな疾患を抱えている。
「原爆ぶらぶら病」は、そのひとつだ。この症状は成長期に被爆した人におおく、とくに「黒い雨」を受けた人に多かった。「原爆ぶらぶら病」は「原爆症」として考えるべきだ。被爆者に特有な自覚症状が見受けられた。免疫機能の低下、感染にたいする抵抗力の低下、循環器系の機能低下、皮膚症状、止血機能の低下などがみられた。
被爆者の女性には、流産や死産を経験した人が多く、一般の人の1・5倍になっていた。これは被爆距離に関係なく、急性症状を示した人に多かった。
実態調査は問診と自覚症状だけの情報によるから、その限界もある。科学的に裏打ちされたデータではないと、研究者から批判されたりもした。しかし、最近の研究論文をみていると、問診によって患者にじかに接したデータのほうが説得力をもっている。
当初、原爆症の認定基準はきびしく、被爆時に爆心地から2q以内(250mSv)に住んでいた人に限られていた。この基準では、申請者の1%程度しか認められなかった。被爆者は「もっと多くの人を認定しろ」と要求して闘った。
新しい認定方針では2・5q以内(1mSv)になった。これで認定率が50%程度になった。しかし、あくまでも社会保障の範囲であり、国家補償ではない。また、医療を必要としない人にたいする補償はなされなかった。
放射線被ばく線量に応じて、染色体異常の割合が大きくなる。現在、このようなことが明白になっている。国は科学的な認定基準を作るべきだ。

在日朝鮮人被爆者

朝鮮人被爆者の存在は、日本人・日本政府がおこなった戦争責任を考えるうえで、きわめて重要だ。朝鮮人被爆者は植民地支配による差別、被爆による差別、帰国後の差別、日本人被爆者との差別など、二重三重の差別を受けてきた。
阪南中央病院では、1992年10月から2011年2月まで渡日治療を受け入れてきた。郭貴勲さんは「被爆者はどこにいても被爆者」と訴えて裁判に勝利した。李在錫さんは「日本を出国しても認定被爆者の地位にある」ことを確認させ、「未払い分と今後生涯にわたって支給すること」を裁判で認めさせた。

被ばく労働者

私が研修医時代、岩佐嘉寿幸さんに出会った。政府は被曝による労災を認めようとしなかった。国は組織をあげて岩佐さんの闘いをつぶそうとした。岩佐さんは、ほんとうに命がけで闘った。阪大医学部は国の側についた。放射線皮膚炎(田代医師の診断)を否定し、岩佐さんの症状を血栓性静脈炎と診断した。これは水俣病の場合と同じ構図だ。
現在、原発被ばく労働者は、被爆者の数に匹敵している。東電福島第一原発事故によって労働者被ばくは急増している。双葉地方原発反対同盟から依頼されて、私は101人の聞き取り調査と数10人の診断をおこなった。その健康実態は、原爆被爆者の場合ときわめて類似していた。がんが多発しており、慢性疾患に悩まされていた。「原爆ぶらぶら病」に似た症状が40〜50代の労働者に多くみられた。
国は被ばく労働者に健康手帳を交付したうえで、国と東電の責任で健康管理と被曝線量の低減をおこなうべきだ。被曝との関係が否定できない患者についても、国と東電の責任のもとに補償をおこなうべきだ。

責任を明確に

政府は放射線被ばくを過小評価してきた。内部被ばくは無視された。こうして、被ばくにたいする国家責任を放棄し、被ばく者を切り捨ててきた。その理由は核開発・原子力の「平和利用」推進に支障をきたすからだ。
被爆者は怒っている。国の方針によって戦争に協力した。その結果、原爆で被害を受けた。しかし、国は補償をしない。このことにたいする怒りなのだ。被爆者は、二度と自分たちのような被害者を作り出さないことを国に要求している。
だから、日本被団協は国の「受忍論」に反対し、あくまでも国に責任を認めさせ、国家による補償を求めてきた。公害裁判は和解を求める訴訟になる傾向にあるが、被爆者は国家補償にこだわっている。被爆者、被害者に向き合い、現場の実態から学ぶこと。未来に原爆の実相を伝えて、国に戦争を二度とおこさせない。今後とも、このことをおこない、伝えていきたい。

核汚染水を海に流すな
4月26日大阪

東京電力は、開始以来12回目となる核汚染水の海洋投棄を4月10日に開始した。28日までで約7800トンを投棄する計画。この暴挙に対し、毎回とりくまれている抗議のスタンディングが大阪駅前でおこなわれた(写真) 。主催は、〈汚染水を海に流すな! 関西ネットワーク〉。
2011年「3・11」によって生み出され、今も日々増え続けている東電福島第一原発の核汚染水。核汚染水の海洋投棄という暴挙は23年8月に始まり、今回は2025年度第1回目の投棄。
ALPS(多核種除去設備)で核を一定除去したとし「処理水」と強弁し、マスコミなどに対して「核汚染水」と呼ぶことを事実上禁止し、あたかも放射能が取り除かれた処理水であるなどと言いつのっている。
しかし、メルトダウンした核燃料に直接触れた核汚染水を海に投棄している国は日本だけである。トリチウムが取り除けないことは東電もしぶしぶ認めているが、問題はそれだけではない。トリチウム以外にもストロンチウム90、カドミウム113m、ヨウ素129、ルテニウム106、テクネチウム99、セシウム137、プルトニウム239、炭素14などの放射性物質が残留している。
いまある分の処分(海洋投棄)だけでも30年かかるといわれているが、汚染水自体は溶け落ちたデブリに地下水が流れ込むかぎりいつまでも発生し続ける。
核汚染水をこれ以上増やさない対策もとらず、地上保管で放射能を低減する措置もとらず海に捨てて「解決」とする発想だ。こういうことを平気でおこなう企業に原発などを扱う資格はない。世界中の海を核汚染にさらす東電=日本政府を許すな。海洋投棄をやめさせよう。

(本の紹介)
『テクノ封建制』
ヤニス・バルファキス著
斎藤幸平 解説/関美和 訳 集英社刊

テクノロジーと科学という問題提起は、もうだれも「問題」としない時代に突入しているかのようである。テクノロジーは、原理的な基礎的普遍性を凝視せず、ただ権力の迫力と資本の増強のためにまい進する走狗であることを恥じない。倫理は倫理として、あなたの最愛の妻や子どもが、簡単に殺されていくことに耐えられるのか。思い切って、大げさな話をすれば、アインシュタインの原爆のすすめは、ヒトラーのユダヤ人へのホロコーストへの怒りに基づいていた。
この本は、きわめてシンプルなポスト・モダンの世界の現状報告でもある。ただ奇妙なのは、資本主義批判が、来たるべき新しい時代を全く展望できないという「閉塞状況」の打破という未来性への焦燥感も現状批判ももたず、「新しい」テクノロジーが、テクノロジーの「領土」の専有者によって、その消費者がイノセントな農奴になっていることを、端的に告知しているにすぎないという語り口への驚き。
欲望という名の電車であろうと勤勉な労働者の通勤の義務としての電車であろうと、国境を超えねば生きられない亡命者の電車であろうと、家族以外のひとびとと会う電車は楽しい。出版社に勤めていた私は、日経新聞を読んで会社に向かうのか、朝日新聞をもって会社に向かうのか、電車で人間観察するのは、楽しみだった。東京などでは、ラッシュの電車では、そんなスペースはあまりなかったが、ある日から人々は、スマホしか持たなくなった。『日経』か『朝日』はみえなくなり、スマホで、ゲームを楽しんでいた。
あなたがたは、プロレタリアートではなかったのか。この現状を改変しなければ生きられないという危機感に満ちた人々ではなかったのか。
このとき、ヤニス・バルファキスは、「私たちみんなが使っている、スクリーンごしにクラウドにつながったデバイス、つまりどこにでもあるラップトップやスマートフォンを通して私たちの身の上にすでに起きたことについての本であり、それと並行して2008年からずっと各国の中央銀行と中央政府がおこなってきたことについての本です」と自著を語っている。
アテネ生まれの政治家は、「失われたあの数十年」を描き切ってくれている。そしてかれは、こうした時代をこうつぶやいている。「君はもう死んでいる。君? 資本主義のことだよ」(南方史郎)

7面

〈投稿〉
巨星堕つ 斉間淳子さんを偲ぶ
伊方から原発をなくす会 秦左子

伊方原発反対闘争を貫いた斉間淳子さんの逝去を、お知らせしなければなりません。しかし私は伊方から離れてしばらくたっており、これは秦さんにお願いするしかないと、東京から何年か後にかけつけた小生より、伊方でその初めから原発反対運動に一緒に参加された秦さんに、ご報告いただきたく懇請いたしました。(須藤光郎)

4月12日、斉間淳子さんの訃報の連絡を受けました。あれから2週間になろうとしている今でさえ、未だ信じられない思いです。いや私の脆弱な心が彼女の不在を認められずに、悲しみの涙さえもなくしています。
2011年3月11日のフクシマ第一原発事故時に、淳子さんと私は四国電力松山営業所の前で抗議しました。「伊方訴訟で私たちが言っていたことが起きたじゃないか!」「事故は他所事ではない!原発を推進してきたあなたたちが起こしたのだ!」など、彼女と別々に持ったハンドマイクで同時に怒鳴り続けました。電力への怒りと事故が起こる前に原発を止められなかった悔しさで泣きながら叫び続ける私たちは、後にエキセントリックと評されました。
私が淳子さんに出会ったのは、1988年1月25日、四国電力本社前で行った2号炉出力調整実験抗議行動のときでした。チェルノブイリ事故と同じことが伊方で起きると知って、これは大変と避難半分で参加した私は、闘う女たちの行動に感動しました。愛媛県でその中心にいたのが斉間淳子さんでした。
数々の抗議の声が大音量で響くなかで、伊方原発から10キロ圏内に住む斉間淳子の声は、真っ直ぐに私の耳に飛び込んできました。彼女の原発に対する怒りや恐怖の声が私に突き刺さり、心を大きく揺さぶり続けます。震えるほどの衝撃でした。そして私は斉間淳子に惚れました。
当時の愛媛県では、合成洗剤追放運動の『石けんを広める愛媛県連絡会』、有機農業運動の『愛媛有機農産生協』などが設立され活動が行われていました。その仲間たちが、各地で反原発市民運動を立ち上げ、『原発さよなら愛媛ネットワーク』を結成したのです。斉間淳子さんは田舎ではよくある『どこを切っても金太郎飴』で、この三団体全てに所属され活躍されていました。
淳子さんは、愛媛有機農産生協が共生社会を創造し、石けん運動が自然環境を守ると諭し、伊方原発を私たちの声で止めて、子どもたちの未来と生命を守り、子どもたちが夢と希望を持てる社会を一緒に創っていこうと、私に語りました。若かった私は淳子さんに認められたことが嬉しくて、この三団体に即入会しました。
反原発運動でも石けん運動でも生協活動でも、抗議行動も教宣活動も講演会企画も一緒にしたし、色々なことをたくさんのことを教えてもらいました。私は知らず知らずのうちに運動だけでなく生き方も教えてもらっていました。いま思えば『未だマシ』で『未だ余裕があった』時代でした。
伊方では抗議行動、講演会、情宣チラシ配布など行ってはいたし、訴訟もしていました。しかし、私たちはフクイチの事故を起こしてしまったのです。あのとき、子どもたちが脅迫され、カミソリなどを送り付けるというようなヤクザ小説さながらの脅迫を何度も受けながら反対運動を行ない、過酷な本人訴訟で伊方裁判を維持した夫を亡くし、四国電力の社員であった実兄は閑職に追い立てられた淳子さんは何を思ったのでしょうか。あのとき、私は「反原発運動は原発を止めること」と改めて確信し、淳子さんが代表する現地運動〈八幡浜・原発から子どもを守る女の会〉と連帯して、伊方原発現地で活動することを決めました。知人と私は、計り知れない絶望のなかでも凛と立つ淳子さんの闘争の場を伊方原発ゲート前とし、毎月11日に伊方原発ゲート前座込抗議を決め、6月11日より3人での抗議行動を開始しました。この行動は全国から様々な人たちに集結してもらい力を頂きました。一時期の盛り上がりには欠けますが現在も持続しています。
斉間淳子は、お世話好きでお節介だけどちょっと怖くて、信念は岩盤の如く固いのだけど間違いを指摘すると意外なほど簡単に認めてしまう力量もある人で、とにかく暑苦しいほどの愛情に溢れた人でした。だから、そんな淳子さんが、何故ひとりで逝ってしまうのか私には分かりません。「淳子さん、どうしてなの? だって一緒に伊方原発を止めようって言ったじゃないですか」と立ちすくむ私に、鬼の淳子の声が聞こえてきます。「仲間と一緒に自然と生命を大切にする社会を目指して歩を進めなさい」と。私はいつもの条件反射で「了解です」と応えてしまいます。でも淳子さん、私は冥福なんて祈らないし安住の地にあなたを逝かせはしないからね。淳子さん、私たちと共に伊方原発ゲート前に座り込んで伊方原発を止めよう。あなたが言う『叡智の羅針盤』がかつての私たちの歩みの方向を示しているのなら、いまからの私たちの反原発は、斉間淳子という羅針盤の指す未来に向って歩を進めていくんだからね。
淳子! 全国の仲間と一緒に世界中の生命が健やかにその生を生きる社会を創造しよう!

治安維持法100年を問うC
「共産主義者」を名乗る人たちの〈非転向〉の実態

本紙前号で治安維持法の被告たちの転向について述べた。1945年10月に日本共産党の徳田球一や志賀義雄が「非転向」のままに釈放された。彼らは戦時中戦争反対を貫いた英雄として迎えられ、再建された共産党のトップの座についた。彼らの共著『獄中十八年』はベストセラーとなった。
彼らは取調べ中に党の歴史や理論・組織などを詳細に語っている。その書のなかには、「転向者たちがデタラメな自白をしているのが分かったので、それを正すために真実を語った」という趣旨の記述がある。
松尾尊充は『現代史資料・社会主義沿革』(みすず書房)の解説のなかで、この記述が事実と異ることを明らかにしている。つまり、徳田や志賀は率先して国家権力に秘ずべき党の内実を告白しているのである。
戦前は現在とは違い、黙秘権が法的に認められていなかった。さらに左翼陣営には官憲の取調べにどう対応するか、明確な方針がなかった。アナーキストの大杉栄は「ああいうところでは『知らない』『忘れた』で押し通せ」と、後輩たちに指示していた。
共産党最高幹部のひとり三田村四朗の連れ合いの九津見房子は、3・15事件やゾルゲ事件(次号に述べる)で逮捕されたとき、若いころ大杉から聞いていたとおりに対応して、白紙同然の調書しか作らせず非転向を貫いた。
治安維持法の共産党の被告のなかで完璧に非転向を貫いたのは、戦後数十年にわたって党のドンであり続けた宮本顕治ひとりであったとする説が、まことしやかに伝えられている。例えば青木書店の『日本社会運動人名辞典』には「白紙の調書のままで起訴された」と記してある。
1933年12月、宮本が治安維持法違反とスパイ査問事件で逮捕されたとき、すでに左翼の弁護士は逮捕されるか転向していて、ひとりも存在しなかった。リベラリストの栗林敏夫が、「青年の客気」で宮本の弁護に当たった。
私は三田村について調べるために、九津見の娘・大竹一燈子の紹介で栗林を取材した。栗林は敗戦直後、出所してきた共産党幹部の衣食を世話したり、焼け残った飯田橋の自宅兼事務所を党再建の場に提供していた。三田村も一時期そこに同居していたからである。
そのとき栗林から、つぎのような話を聞いた。「立花隆が『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載し始めたとき、宮本君が深夜ひとりで訪ねてきて、『立花が取材を申し込んできたら応じないでほしい。裁判資料は絶対に見せないでくれ』と懇願した。私は『取材には応じるが、弁護士の矜持にかけて裁判資料は見せないから安心したまえ』と答えた」と。
宮本の裁判資料には、明るみにされるとマズイ何かが隠されているとしか考えられない。(つづく)(大庭伸介)

8面

違法状態続く斎藤県政
再び斎藤救済狙う立花

兵庫知事選最終日の斎藤派。全国動員でみなスマホをさざす。車上にはメルチュの折田も(24年11月16日 神戸市)

斎藤兵庫県政打倒闘争は、5月1日にN国党の立花孝志が7月参議院選に兵庫選挙区から立候補を表明し、全く新たな情勢に入った。
言わずもがな、立花孝志こそは昨年11月兵庫県知事選を2馬力選挙で斎藤元彦を逆転勝利させた張本人。その後斎藤陣営や立花の選挙違反が大問題となり、斎藤県政はいまだ市民的承認が得られていない。数々の選挙違反の刑事告発は受理されており、県警・地検の捜査が待たれている。
その上に斎藤県政は3月5日に百条委員会最終報告が県議会本会議で採択され、さらに3月19日には第三者委員会の最終報告で、パワハラと内部告発に対する斎藤知事の態度は違法であることが認定された。兵庫県は消費者庁の見解・法令解釈が通用しない「独立王国」(違法地帯)であることがまかりとおっているのだ。パワハラについては5月連休明けには衆人環視の中で知事・県幹部ら200人が研修をおこなう。そこで知事は自らの非を認め、自らに処分を課すのであろうか。
かかる情勢で、斎藤知事に対する引き続きの追及をかわすために再度登場したのがN国党党首・立花孝志である。立花は当初7月参議院選は全国区=比例で立候補しようとしていたが、斎藤追及闘争が6月県議会を含め再度高揚しようとしているのを見計らい、これを「選挙=言論の自由」を最大限駆使し破壊するために、自己の最後の政治生命を7月兵庫県での立候補にかけてきたわけである。
当初から立花らは6月尼崎市議選での複数候補の立候補をそのステップに、尼崎・兵庫をウソとデマで蹂躙せんとしていたが、その後も本選として7月20日まで兵庫に全力投入することを宣言したのだ。この立花の斎藤救済・兵庫でのさらなる民主主義と人権の蹂躙を許してはならない。

立花の2馬力選挙が斎藤逆転勝利をもたらした

昨年11月兵庫県知事選は、立花の2馬力選挙なしに斎藤の勝利はなかった。9月県議会での全会一致の不信任で斎藤元彦知事は失職し立候補するも、当初当選の可能性はは絶望的であった。これを救ったのは、斎藤自身の「お詫び行脚=駅頭お辞儀」(=斎藤さんはかわいそう)と、立花らの百条委員会攻撃(改革派=斎藤追放のクーデタ、黒幕は奥谷・竹内・丸尾、西播磨県民局長は10年で10人と不倫など)の二人三脚での世論転換である。告示直前に立花は維新百条委員の岸口・増山から、百条委内部のウソ情報を提供され、このウソとデマを選挙での選挙公報・街頭演説・ネット情報を20日近く使い拡散しまくった。演説も同一会場・隣接時間に斎藤のあとに立花が、立花のあとに斎藤がおこなった。公選法は拡声器の複数使用を厳禁しているが、斎藤・孝志は2個の拡声器を使いまくって斎藤の当選を図ったのである。
この強力な援助者と、明石の西村康稔元経産相をトップとする自民党反動分子・維新反動分子や、統一教会ら宗教勢力、メルチュに指導された勢力が一体となってSNS世界を蹂躙し、最後は街頭への大量動員・スマホでの大量同時中継・拡散で稲村派を圧倒したのである。

連続した市民の決起

会場あふれた真相究明集会(24年12月22日)

選挙4日後にメルチュ・折田楓のnoteが公開され、選挙戦略全体を広報会社メルチュが「総合格闘技」として、「種まき・養分・刈り取り」で兵庫県知事選が操作されたことが判明した。立花に百条委員会内の情報を提供したのは当初から岸口・増山と言われ、この選挙違反だらけの知事選に市民の怒りが拡大した。
極めて残念なことに稲村陣営からはアカウント破壊の刑事告発はなされたが、立花犬笛などを恐れ、立憲民主党などの政党も選挙戦全体を問題にはしなかった。この中で市民運動の内部から12月22日に「真相究明県民集会」が開催され、SNS勢力の協力もあり、急遽第三会場まで用意したが(定員500人)それをはるかに上回る1800人が結集した。
市民の運動はその後も2月、3月に各地で開催され、県庁包囲行動から3・22県民大会へと昇り詰める。
しかしながら2月〜3月、一方では斎藤知事の鉄面皮・無表情の記者会見の連続=居直りに、運動側は斎藤打倒の決定打を欠き、百条委員会・第三者委員会との連携で斎藤を追い詰めることに必ずしも成功をおさめず、膠着状態が続いてきたのである。この中で再度の人権蹂躙・民主主義破壊を立花は狙っているのだ。

立花・斎藤らでなく大学生らを逮捕・起訴した県警・地検

5月1日今一つ重大事が起こった。4月に県庁2号館6階に不法侵入のかどで逮捕されていた学生Aさんが5月1日に起訴された。もう1人の学生は略式起訴、事後逮捕の大阪市の方はまだ処分が決まってない。
今回の起訴は極めて反動的・犯罪的な代物だ。学生らは県庁・知事室に、「意見書」をもって請願したのであり、実際現場では逮捕されていない。県庁から500mほど坂を下りたJR元町西口周辺で「現行犯逮捕」されたという代物だ。これでは県庁2号館に入った市民はいつ何時逮捕されるか判らない。県庁はヒューマンチェーンなどでトイレや食事のため2号館に入ることは多々あり(記者会見場も2号館にある)、これでは危なくて県庁に近寄ることすらできなくなる。要するに運動の委縮を狙ったものだ。
その上で県警・地検は、立花らの奥谷謙一百条委員会委員長(当時)の自宅・事務所に100人単位で押しかけ、脅迫の限りを尽くし、「自殺したらあかんので、今日はこれくらいでやめたる」という言動の映像が残っているのに、いまだ立花を逮捕していない。Aさんの不当逮捕・起訴を弾劾し、1日も早く釈放させる必要がある。

立花犬笛許さず、参院選立候補断念へ

立花追及で起ち上がる市民(25年3月1日 西宮市)

立花は千葉県知事選のさなかに財務省前で襲撃されたのと、「みんつく党」ボランティアが立花の犬笛(ネット上に住所をアップした)で自殺した責任で消沈していたが、5月1日をもって活動再開した。兵庫を選んだのはより話題性と、兵庫の民主主義をトコトン破壊し尽くすためであることは間違いない。断固受けて立ち、ごく少数得票で落選させる必要がある。
7月参議院選に先立ち6月15日投開票の尼崎市議選があり、N国から複数立候補と言われている。これに対抗する『「NHKを国民から守る党」とは何だったのか?』の著作を持つ選挙ウオッチャーちだい(石渡智大)さんの講演会に対しても、会場への激しい妨害活動がおこなわれた。
千葉県知事選を兵庫各地でおこなった立花は、3月2日尼崎で多くの批判者に囲まれ、「ヤジで演説が聞こえない、選挙妨害」だと110番電話したが、警察は取り合わず、すごすごと退散した。尼崎メーデーにはN国、犬笛を弾劾するプラカードを持った人たちが参加した。
当面尼崎・兵庫から目が離せない。新人5人も含め15人規模のリベラル・左派+共産候補が立候補する6・15尼崎市議選勝利から立花立候補断念へ闘おう。(岸本耕志)