万博破産、斎藤で危機の維新
物価高・生活苦に人民の総反乱を
支配の危機さらけだす石破政権
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「3・11」から14年、さよなら原発関西アクション(3月9日 大阪市) |
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被災者とともに〜脱原発兵庫ネットワークが集会・デモ(3月9日神戸市) |
超短命政権かと思われていた石破少数与党政権は、2月日米会談を「成功」させ、国民民主党と日本維新の会を両天秤にかけて政局運営をおこなってきた。25年度予算をめぐっては、国民民主党の要求をけり、維新と組んで「教育費無償化」で予算案を通過させた。しかしながら高額療養費支援削減をめぐっては激しい反対運動がまき起こり、衆議院は通過したものの参議院を通過できず先送りとなった(5面参照)。
他方で軍事費・原発依存については深々とその道にのめりこんでいる。「裏金問題」は依然無視のままで、さらに法務省から認定された極悪差別者・杉田水脈を7月参議院選で公認したことへの批判も噴出し、支持率を下落させている。
人民の生活は困窮の一方で、2倍化・3倍化したコメの値段は下がることはない。白菜など野菜の値段も下がらず庶民の怒りは高まっている。大船渡の山火事には打つ手なく、埼玉の水道管陥没などは人災で、全国どこでいつ起こるか判らない。この中で「103万円の壁突破、手取りを増やせ」「失われた30年を取り戻す」という国民民主党・れいわ新選組の支持率が上がっている。さらに物価高・生活苦に対しては、「財務省解体」など現状批判の動きも高まっている。
自民党の別動隊=維新が全面危機に
この中で国会での議席では政権危機を救うかにみえた「日本維新の会」は、全国各地でおよそ一つの党とは言えないガバナンス不全を起こしている。特にその本家本元の大阪(19の全小選挙区で当選、府・市の首長、府・市の議員の過半数を持つ)で、4月13日開幕の大阪・関西万博の破産が万力のごとく維新を締め上げている。いくら吉村大阪府知事が笛吹けど市民は踊らず、石破首相に直接談判しても何の効果もない。これまで維新の提灯もちだった吉本系の芸人からも「だれが万博に行くねん!」の声があがっている。無償で万博宣伝の先頭に立っていたダウンタウンの松本は「女性献上」で沈没し、相方の浜田も過労で当面休業。4月13日以降、夢洲に閑古鳥が鳴くのは不可避だ。結果大幅赤字は不可避となり、その責任をめぐり維新=大阪府・大阪市と関西財界などの暗闘が始まる。
斎藤県政問題で危機露呈
維新の今一つの危機は、兵庫県斎藤知事問題だ。斎藤元彦知事は2021年まで大阪府財務課長で、ゴリゴリの新自由主義者・維新そのものなのだ。それを維新と自民党内の親維新派が擁立し、維新は2023年統一地選で県議を3議席から21議席に激増させ、斎藤与党主力となった。そして県庁内外を維新系で制圧せんとする際に、かつての橋下大阪のように合法的に条例整備で制圧ではなく、直接人事やパワハラ・タカリでおこなったことが斎藤兵庫県政問題として噴出したのだ。
西播磨県民局長告発と兵庫県議会に百条委員会設置、9月不信任決議、11月知事選で最も悪質に立ち回ったのは維新の増山県議(西宮)、岸口県議(明石)であった。片山副知事ら「牛タン4人組」と連携し、押収した情報を維新系県議と共有し、知事選を前にN国党の立花に流して2馬力選挙をやった黒幕・張本人が増山・岸口だということが完全に判明した。兵庫県政混乱の黒幕は維新と判明し、8〜9月の時以上に維新は信用・支持率を急落させているのである。
万博・兵庫斎藤問題という二重の危機に、維新創業者である橋下徹は危機感を燃やし、増山らの排除と、斎藤に対し「権力者として失格」と吉村大阪府知事・維新代表が言えないことを言って、事態の突破を狙っている。しかしこの2重の危機の突破に失敗すれば、維新は崩壊の坂を転げ落ち、連立相手の石破政権も危機に陥ることは間違いない。
密集せる反動粉砕し3・22兵庫県民大会へ
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斎藤・維新と一体の立花を弾劾する人々(3月1日 兵庫県西宮市) |
いまや万博・斎藤問題で分断と生活苦にある兵庫・大阪の人民の間には怒りが充満している。
3月5日の百条委員会の最終報告=事実認定を「一つの見解」として無視し、さらに公益通報者=西播磨県民局長を侮辱した斎藤に新たな怒りが巻き起こっている。3月4日石破内閣はこの斎藤の無法を前に、公益通報者保護(告発者探しは違法)の新法案を閣議決定した。政治的無能をさらけだす斎藤にはプーチン型の独裁者の道しかないが、ロシアと違いこの国の人民の決起はまだ鎮圧されていないのだ。
3月5日の県議会本会議には、11月選挙の最前線に立った40歳代〜60歳代の同じような服装をした女性たち(某宗教勢力と思われる)が傍聴にきて増山反対演説に拍手した。県議会でも孤立しているのは斎藤・増山(新しい会派は斎藤の選挙スローガンを取って「躍動の会」)らなのだ。
増山を参議院選N国に擁立せんとする立花孝志は千葉県知事選を兵庫で展開しているが、各地で「帰れコール」を浴び、みじめに警察に救出を求めた。9日には千葉に舞い戻り統一教会の集会に参加した。斎藤・増山・立花を支えるのは統一教会であることも明らかになっている。この密集した反動を許してはならない。民主主義と人権を取り戻す3・22兵庫県民大会に結集し、斎藤知事退陣へ頑張ろう。
狭山闘争の戦士
石川一雄さん逝去
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日比谷野外音楽堂で訴える石川一雄さん、早智子さん(2023年10月31日) |
狭山事件の石川一雄さんが3月11日20時、病院で亡くなった。いつまでも元気で、今年こそ必ず再審を勝ち取ると闘ってきたのに、逝去されたことは痛恨の極みである。
「俺はやっていない」と声をあげて60年。袴田さんの再審に続こうとしてきたすべての人々は悲しみにうちひしがれている。とともに第3次再審請求の門を閉ざし続けてきた東京高裁への怒りを押さえることはできない。家令裁判長らを徹底弾劾するとともに、早智子さんらご家族と一体となって再審・無罪を勝ち取ることを誓う。
2面
戦争止めよう 沖縄・西日本ネットワーク結成
沖縄・九州・西日本の反基地闘争が一堂に
2月22日鹿児島
津田保夫
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西日本各地から鹿児島に集まり沖縄・西日本ネットワークを結成(2月22日 鹿児島市) |
2月22日、「戦争止めよう! 沖縄・西日本ネットワーク結成集会」が、鹿児島市内「よかセンター鹿児島」でおこなわれた。主催は〈戦争とめよう! 沖縄・西日本準備会〉。2023年11月23日、「沖縄を再び戦場にさせない沖縄県民集会」を契機に、このネットワーク創りがはじまった。昨年、4月愛媛集会、8月沖縄集会、9月呉集会、11月大分集会をおこないながら、この日の結成に至った。集会には500人(会場300人、ズーム200人)が参加した。
集会は2部構成でおこなわれ、第1部では、地元で自衛隊基地に反対している住民団体が報告した。
まず、池田年宏さん(大分敷戸ミサイル弾薬庫を考える市民の会)が、「沖縄・西日本で進む軍事強化」について、具体的情況をまとめた。その後、@「馬毛島の巨大基地建設」について、長野広美さん(馬毛島への米軍施設に反対する市民団体連絡会)、A「奄美の自衛隊基地と米軍」について、城村典文さん(戦争のための自衛隊配備に反対する奄美ネット)、B「さつま町の弾薬庫」について、武さとみさん(さつま町の弾薬庫問題を考える会)が、それぞれ報告した。
第2部は結成総会。高井弘之さんが基調提案をし、事務局が「沖縄・西日本ネットワークの結成提案」をおこなった。
共同代表は、具志堅隆松さん(ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会)、海北由希子さん(平和を求め軍拡を許さない女たちの会・熊本)、高井弘之さん(ノーモア沖縄戦・えひめの会)、呉羽真弓さん(京都・祝園ミサイル弾薬庫問題を考える住民ネットワーク)の4人。また、11人の運営委員が決まった。
具志堅隆松さんは次のように述べた。「わたしたちは国に従わせられる存在ではない。われわれが主権者なのであり、われわれが戦争を止めることができる。私たちが国の方向を決めるのだ」。
こうして「沖縄・西日本ネットワーク」が結成された。「知り・つながり・止める」を合言葉に、各地で行動がはじまる。6月には東京行動(6・6〜8)がおこなわれる。
馬毛島に自衛隊基地
2011年、政府は馬毛島の大部分を160億円超(評価額は約20億円)で民間業者から買収した。馬毛島は種子島の西にある小さな島で、かつて住民が暮らしていた。2023年1月から、自衛隊基地建設がはじまった。馬毛島の小高い岡は削られ、全体が航空母艦のようになっており、滑走路が造られている。
ここで米空母艦載機離発着訓練(FCLP)がおこなわれるだけでなく、自衛隊はF35の訓練をおこなう。また、桟橋がつくられており、有事の際に後方支援(補給)基地になる。
長野広美さんは次のように述べた。「基地建設の仕事で、種子島の経済はバブルになっています。いっぽう、島民の暮らしはこの恩恵をうけず、将来に不安をかかえて過ごしています」。
奄美群島(7島)/島内でおこなわれている生地訓練
2019年、奄美大島に陸自奄美駐屯地と瀬戸内分屯地ができた。ここで、オスプレイ訓練をおこなっている。徳之島と沖永良部島では、日米の軍事訓練がおこなわれており、生地訓練(市街地訓練のこと)で、自衛隊は「なまち訓練」と呼ぶ。自衛隊の水陸機動団と米海兵隊が、いっしょに上陸訓練をおこなっている。キーン・ソード25では、徳之島の37カ所が訓練に使われた。沖永良部島では野戦訓練がおこなわれている。このような訓練が、日本中に拡大されようとしている。
城村典文さんは「奄美大島は軍事色に染まり、自衛隊依存が強まっています。住民はこの光景に慣れてしまい、驚かなくなりました。奄美大島は自然の豊かな島であり、人間同士が殺し合う島にしてはなりません。皆さんといっしょに闘います」と述べた。
さつま町にミサイル弾薬庫
さつま町は鹿児島県の中部、霧島高原の西側にある。この地域はのどかな高原地帯で、鹿児島県の種モミを作っている。中岳は、さつま町の東部の薩摩地区にある。ここにミサイル弾薬庫がつくられる。
2023年12月、南日本新聞の報道によって、住民はこの計画をはじめて知る。24年1月、住民有志が〈さつま町の弾薬庫問題を考える会〉を立ち上げた。2024年3月、薩摩地区住民を対象にした説明会がおこなわれた。
情報公開請求によって、次のようなことがわかった。2017年、個人(地元の土建業者)が「防衛施設誘致陳情書」を町議会に提出。18年、さつま町商工会が防衛施設誘致請願書を町議会に提出し、議会はこれを全会一致で採択した。
こうして、2018〜23年に、さつま町は10回にわたって防衛省などに請願書を提出している。町と商工会が一体になって、軍事施設を誘致した。だから、町会議員はみんな町長についている。町長は住民の命と生活を守るのではなく、土建業者の利益を追求している。いくつかの候補地があったが、2023年12月、政府は中岳に弾薬庫建設を決定した。
武さとみさんは次のように述べた。「中岳は地元の水源になっています。弾薬庫ができれば、水が汚染され、米ができるのかという声もおきています。この計画は、町長や一部の業者の利権だけで決められようとしています。負けてたまるか≠アの決意で、わたしたちは頑張っています」。
高井弘之さんが基調提案
高井弘之さんは、4点にわたって提起した。
「@日米はどのような軍事行動をおこなおうとしているのか。日米が中国に戦争をするために、台湾有事を扇動している。この点をしっかり暴いていくことが重要だ。Aこの戦争は、誰のための何のためのものなのか。かつての歴史と同じように、帝国主義列強が戦争をやろうとしている。日本政府は、すでに戦争を決断している。B戦争をどうやって止めるのか。それは、自衛隊を加担させないことだ。わたしたちの力で、この戦争を止めていく。C具体的に、どうするのか。各地の住民団体が連携して闘うこと。国は国家の総力をあげてやってきている。われわれも、全国的な共同の闘いをおこなっていく。このために、全国の住民団体がつながっていこう」。
さつま町中岳フィールドワーク
2月23日、さつま町にできるミサイル弾薬庫について、フィールドワークがおこなわれた。参加者は、約70人。鹿児島市を車で出発し、さつま町に向かう。さつま町は鹿児島市から北に直線距離で約40q(車で約70q)の位置にある。
中岳は標高654mの山で、山の周辺地域が国有地になっている。防衛省は用地を取得しやすいため、ここにミサイル弾薬庫を造ろうとしている。現在、土質検査がおこなわれている。また、環境調査にもとりかかる。来年度から、防衛省は弾薬庫の設計にはいる予定。
防衛省は「火薬庫」と言っているが、火薬を貯蔵するだけではない。内部文書では、地対艦ミサイルの弾薬が貯蔵されることになっている。防衛省は火薬類取締法を根拠にして、規制基準を示している。しかし、火薬類取締法が対象にする火薬とミサイルの弾薬は、区別されなければない。
「日本に攻め込まれたらどうするのか」
さつま町住民との交流会で、次のような意見がでた。「日本がウクライナのように攻められたら、どうするのか。備えあれば憂いなし≠ニいわれると、正しいように思ってしまうのだが」。これにたいして、会場からさまざまな意見が述べられた。
◇「自衛隊はすでに地下化工事をおこなっている。自衛隊は攻撃されることを想定している。自分たちは生き延びるが、市民の命のことはまったく考えていない」。
◇「日本に攻め込まれても、軍事では対抗しない。政府にたいして非協力をつらぬく。とかく攻められることを考えがちだが、日本政府が他国を攻めることも考える必要がある。その確率は一緒だ。われわれはあらゆる軍事力に反対する。中国の軍事力増強にも反対するべきだ」。
◇「沖縄戦の教訓から、攻められても、わたしたちは戦わない。防衛力を強化すれば、ますます戦争がおきやすくなる。備えあれば憂うる≠アとになる」。
◇「歴史的にも日本政府が侵略戦争をおこなってきた。自衛隊の仕事は『国家を守る』ことだと、防衛省は公言している。国家の安全と市民の安全は同じではない。市民は国家の論理に取り込まれてはいけない」。
◇「わたしたちは、あくまでも日本政府に抗っていくために行動をするべきだ。排外主義に取り込まれないように注意していく必要がある」。
集会後、参加者は車で薩摩総合支所に移動した。支所前の交差点を囲んで、1時間程度スタンディングをおこない、弾薬庫建設に抗議をおこなった。中岳を背景に記念写真をとって、この日の行動を終えた。
3面
狭山事件の再審を実現しよう市民のつどいin関西
垣根を越えてつながろう 次は狭山だ
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会場から新今宮までデモにくりだす集会参加者(2月24日 大阪市) |
「第9回狭山事件の再審を実現しよう市民のつどいin関西」が2月24日、大阪市内で開催され、オンラインを含めて450人が参加しました。この集会は関西各地で狭山事件の再審実現に取り組む13の市民団体の呼びかけに、12の労働組合と解放運動団体の協賛、99個人と26団体による多くの賛同によって実現しました。
今年のテーマは「つながろう つなげよう次は狭山だ」で、昨年の「垣根を越えて」の取り組みが袴田事件の再審・無罪の勝利をとおして一回り大きなうねりとなりました。集会内容もオープニングのカオリンズ・アカリトバリにはじまり、部落解放同盟大阪府連合会の地元あいさつ、記念講演「部落問題の現在からみる狭山事件」(上川多実『〈寝た子〉なんているの?』の著者)とトークセッション。冤罪を打ち破って勝利した袴田ひで子(清水こがね味噌事件被害者家族)青木恵子(東住吉事件冤罪被害者)西山美香(湖東記念病院事件冤罪被害者)さんのアピール。そして今も冤罪とたたかう狭山事件の石川一雄・早智子さん、和歌山カレー事件・林眞須美さん長男のビデオメッセージ。特別アピール「狭山事件と菊池事件〜冤罪としての共通の構造を探る〜」(徳田靖之弁護士)。議員アピールの大石あきこ(れいわ新選組)、大椿ゆうこ(社民党)と盛沢山すぎるとの声が上がるほど多様性に富んだものとなり、世代をこえ・つなぐ可能性を実感するものとなりました。
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袴田ひで子さん |
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徳田靖之弁護士 |
再審法改正して狭山再審へ
狭山再審を実現する道は、冤罪(権力犯罪)の温床となっている「再審法」を改正することと一体のものです。大崎事件の弁護団事務局長の鴨志田祐美さんは、再審制度の欠陥を2点指摘しています。一つは検察官の証拠隠しを許し、裁判官の当たりはずれによって証拠が出たりでなかったりする「再審格差」。もう一つが裁判所によって再審決定がだされても検察が抗告して何度でも振り出しに戻すことを許す検察官の「再審妨害」です。ゆえに「証拠開示の義務付け」と「検察による抗告の禁止」を明記した法の整備を求めています。
日弁連は2022年に「再審法改正実現本部」をたちあげて以来とりくみを強化しています。国会でも超党派の「再審法改正議員連盟(370人)」が2月26日に総会を開いて、今国会での成立を目指し条文をつくる作業に入っています。さらに狭山事件の地元埼玉県議会は2月19日、国に対して再審法の改正を「強く求める」意見書を全会一致で可決しています。
昨年9月の袴田再審・無罪の判決で「捜査機関による証拠捏造」が裁判所によって公然と指摘されたことが大きく社会を揺るがしています。同10月には福井女子中学生殺害事件の再審開始も決定されています。「ラクダが針の穴を通るほど難しい」と言われている再審が続いたことは「捜査機関による証拠のでっち上げ」の事実を個々の裁判官たちも無視することができなくなっていることを示しています。一人一人の裁判官が、袴田さんを今なお「有罪視」して居直る畝本検事総長とともに心中するのかどうかの選択が迫られています。潮目が変わりつつあるといえます。この流れを力強く推し進めよう。
「次は狭山」が待ったなしに
@石川さんはこの1月14日、86歳の誕生日を迎えました。昨年大晦日、早智子さんの徳島の実家で41度の高熱を出し救急搬送され「あと少し遅れていたら、命が危なかった」と医師が言ったほど一時は深刻な状態だった(「徳島新聞」)。直後の石川さんの短歌は「肺炎で倒れし救急車で病院も 不死の吾 元気に生還」と詠んでいます。早智子さんは「何としても生き抜く、今は死ねない」という強い意思が打ち勝った、とブログに記しています。逮捕時24歳の青年であった石川一雄さんは62年間も冤罪(権力犯罪)によって苦しめ続けられているのです。もはや一刻たりとも許しておくことはできません。
A3月4日におこなわれた第3次再審請求・第64回三者協議はわずか10分で終了。この日、弁護側が新証拠に関する鑑定と証人への尋問事項に関する書類を提出。そのあと検察が万年筆のインクとスコップの鑑定に対する反論を5月半ばまでに提出するとしましたが、家令裁判長は次回三者協議を4月上旬と決めて協議を終了しました。家令裁判長が来春の退官から逆算して自らの手によって判断しようとしていることは明らかです。石川一雄さんは「事実を調べてくれれば私の無実は明らかになる」と訴え、私たちも「家令裁判長は、事実と証拠を調べ、逃げずに判断をすること」を求めてきました。いよいよ決着をつける時が来たということです。正念場をむかえた今、決して油断はできません。2審寺尾裁判長に煮え湯を飲まされたことを思い起こし、一瞬たりとも気をゆるめずに攻勢をとって闘いぬきましょう。
フェイスブックの呼びかけに応え再審を実現し、石川さんの無実をはらそう。
次回4月上旬、次々回6月の三者協議に向けてどうたたかうのかが一人一人に求められています。フェイスブックに投稿されている呼びかけを紹介します。
@街頭での情宣活動に取り組み、一筆でも多くの署名を集めよう。
A三者協議の前に、東京高裁前で必ずおこなわれる東京都連女性部主催のアピール行動に、全国から結集しよう。
B3月13日、13時松本治一郎記念館で開催される拡大狭山闘争活動者会議に参加し、今後の取り組みについてみんなで論議しよう。
C埼玉県議会での可決に続き全国の地方議会での意見書採択に取り組み、今国会での再審法改正の議員立法をかちとろう。
ベトナム戦争に反対し、狭山・三里塚・沖縄をたたかった世代のすべての人々、そして自らの解放をかけて社会を変えようとする若者も、なすべきこと、できることを考えて力の限り闘いぬきましょう。(平井康三)
一坪反戦地主会関東ブロック
性暴力と沖縄の軍事化許さない
3月9日、都内で、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック2025年総会がひらかれ、記念講演(一般参加可能)がおこなわれた。講師は〈米兵による少女暴行事件に対する抗議と再発防止を求める沖縄県民大会〉実行委員会共同代表で沖縄大学人文学部教授の良沙哉さん。「相次ぐ米兵による性暴力事件と沖縄の軍事化」と題して講演。
他者の人権、自分達の人権
「PFASが米軍基地から出ていることがわかっても地位協定で基地内に立ち入れない。石破さんは『地位協定改定を求めますか』と問われても『トランプ大統領と信頼関係ができてから』としか言わない。米兵による少女誘拐・性的暴行事件が起こってから半年間隠され、記者が裁判の期日を調べてわかってやっと県が把握した。
その間に与那国島への米軍高官らの視察、岸田首相の米国訪問、6月「沖縄慰霊の日」岸田首相の式典出席、沖縄県議会選挙があった。国家賠償を求めた慰安婦関連の裁判では法律の壁があったから敗訴になっただけで被害事実や日本軍の関与は認定されている。河野談話でも甘言や強圧、軍の関与・官憲の加担が認められ、2006年の安倍首相の答弁でも『狭義の強制性』『広義の強制性』があったことを認めている。慰安婦問題に向き合うことで『外』での性暴力の問題にも向き合える。兵士の強姦等を防ぐために慰安所が必要と言う主張があるが、慰安所があっても被害は減っていない。講義で扱ったら学生が『いままで授業で習ってこなかった。韓国に行くから、知らないで行ったら恥をかくところだった』と言っていた。慰安婦は売春婦だったという主張があるが、売春婦だったら強制的に相手をさせるなどしてもいいのか。売春婦かどうかが論点ではない。米軍専用の慰安所があることによって外での性暴力も容認された。慰安所の存在は地域での性犯罪をなくすことに繋がらない。軍隊にとって、強姦と売買春の境界線は曖昧。沖縄の中でも危険を感じている人と感じていない人の違いがある。他者の人権を守れないことで自分達の人権も脅かされる」
今後の予定
関東ブロックからは4月6日14時45分から東京・新宿歴史博物館ホールでおこなわれる『取い戻さな! 我した琉球先祖ぬ骨神』(とぅいむどぅさな! わしたルーチューうやふぁーふじぬふにしん)』出版記念講演会、4月10日14時から衆議院第2議員会館1階多目的ホールでおこなわれる「奄美からの土砂搬出・『代執行』下の辺野古工事を問う署名提出&政府(防衛省)交渉&院内集会」、続けておこなわれる「辺野古『代執行』の現状と今後、私たちの課題」と題する北上田毅さんの講演集会、詳細未定だが5月17日に予定されている新宿行動への参加が呼び掛けられた。
4面
第7次エネルギー基本計画を批判する
原発回帰、依存社会への暴走
(1)
政府は、昨年12月、第7次エネルギー基本計画(原案)を発表、その後パブリックコメントを経て、本年2月18日閣議決定を強行した。
パブリックコメントには、過去最多の4万1421件の意見が寄せられた。原発回帰や、使用済み核燃料の処理に関する懸念に対し、「原子力の安全性やバックエンドの進捗に関する懸念の声があることを真摯に受け止める必要がある」と追記したが、内容的になんら計画を見直すことはしていない。そうして、政府案そのまま、第7次エネルギー基本計画が閣議決定されたのである。
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関電原子力事業本部前で老朽原発うごかすなの訴え(2024年3月31日) |
(2)
そもそも、日本のエネルギー政策は破産、失敗の連続である。
2011年3・11を経験した段階で、きっぱり再生可能エネルギーへの転換を決断せず、「原発依存度を可能な限り低減する」としながら、その実、原発再稼働を推進し、40年超え老朽原発も再稼働してきたのである。2011年3・11を受けて、ドイツなどは、脱原発の道にふみきった。日本においてもそれは可能な選択であったにもかかわらず、日本政府は再生可能エネルギーへの転換の流れを阻害・妨害してきた。そして原発に固執し、しがみついた結果、世界的な、再生可能エネルギーの流れに遅れてしまったのである。11年段階で、再生可能エネルギーの道を選択し、舵を切っていれば、原発再稼働にかけた膨大な財政ももっと有効に活用されたのであり、もっと生き生きとした社会を展望できたであろう。完全に3・11以降の歴代の政権による政策の失敗であり失政である。
振り返ってみても、2011年段階で原発から再生可能エネルギーへの転換はまったく可能であった。社会的にも、3・11の事態の衝撃のなかで、それまでの「オール電化」のTVコマーシャルが消え、電気使いほうだいに対して、省エネが対置され、見直されてきたのだ。謳歌されてきた「人間の幸福」というものがいかにまやかしであり、腐敗したものであったのか根底から問い直された。原発立地地元と消費地元の関係、原発建設がいかに住民同士の分断・対立を作り出し、共同体を破壊してきたか、また原発はますます地域社会を破壊し、共同体を破壊しているのかということを突き出した。そのとき、時の政権がどういう選択肢を選ぶことができるのかということである。日本は、完全に失敗した。ドイツなどは100%逆の選択をおこなったのである。
(3)
第7次エネルギー基本計画の最大の特徴は、これまでの基本計画においては、曲がりなりにも「原発依存の低減」を打ち出していたが、第7次エネルギー基本計画ではそれを180度覆し「原発の最大限活用」をうち出したことである。これはたんに「低減」の言葉が消えただけではなく、原発回帰、原発依存社会へ突進することを石破政権として選択し実行に移すことを宣言したものである。
その根拠として、ウクライナ戦争以後エネルギー資源をめぐる情勢のきびしさをあげ、またデータセンター建設にともない電力需要が増加し、2040年度にはいまの1・2倍になると予想している。
しかしこれは架空の根拠であり、そのことが一人歩きしているのだ。かりに、大型の半導体工場や、データセンター建設計画が進むとしても、その場その場で省エネ化が追求されるのであり、また技術革新も当然進むのである。
このように、第7次エネルギー基本計画は、なんら合理的な代物ではなく、原発回帰、原発依存社会に向かっての突進宣言である。
(4)
第7次エネルギー基本計画の内容を簡単に見ていこう。
12月に発表された第7次エネルギー基本計画(原案)にそってみていく。2月18日閣議決定されたものと基本的に同じである。
40年度の電源比率は、再生可能エネルギー4〜5割、原発2割、火力2割〜3割とし、特定の電源に依存しない「バランスの取れた構成」をめざすとする。原発2割というのは、建設中を含め36基ある原発をフルに稼働して達成できる数字である。再エネと原発は最大限活用するとしている。
第6次エネルギー基本計画以降、ウクライナ戦争をあげて、世界のエネルギー情勢は一変したとし、GX(グリーントランスフォーメーション)やDX(デジタルトランスフォーメーション)の進展により、電力需要が増加するとしている。これまで、人口減少や、節電や省エネで電力需要は減少するとしていたが、経済成長、データセンターや半導体工場の新増設などにより、電力需要は増加するとして、再生可能エネルギーと原発を活用するとしている。
再生可能エネルギーについては、特に洋上風力発電をあげ、「我が国の再生可能エネルギーの主力電源化に向けての切り札」としている。また、「事業規模が大きく、産業の裾野も広いことから経済波及効果が期待される」と述べている。そして、2030年までに10GW[注]、2040年までに浮体式も含む30GW〜45GWをめざすとしている。
原子力については別途のべる。
火力発電について、LNG火力を進めるとのべ、水素、アンモニア、CCUS(二酸化炭素の回収・利用・貯留)等を活用した脱炭素化を進めていくとしている。水素は、カーボンニュートラル実現に向けた鍵と位置づけ、財政的支援を含めて全面的に推進するとしている。
(5)
原子力発電について
原子力発電の項目の冒頭、「福島第一原発事故への真摯な反省は決して忘れてはならない原子力政策の原点である。安全性の確保が大前提であり、安全神話に二度と陥らないとの教訓をきもにめいじなければならない」と白々しくものべている。その上で「各事項について、国は前面に立って責務を果たす」といっている。国がやってきたこと、またやろうとしていることとは真逆である。基本計画の冒頭でも東電福島第一原発事故にふれている。立地地域との共生・国民各階層との対話を充実していくとしているが、国・電力会社がやっていることは、180度違う。住民に秘密裏にどんどん進めているのである。
「13年が経過したいまもなお、国民の原子力や行政・事業者に対する不信・不安は払拭できておらず、幅広い層を対象として理解醸成に向けた取り組みを強化する」といっているが、今回のエネルギー基本計画に対するパブコメへの対応一つ見てもウソとデタラメは明らかである。
すでに破産している核燃料サイクルをこれからも「推進する」と述べている。青森県六ヶ所村の再処理工場について、「必ず成し遂げる」といっているが、完成する展望も、また延期されている問題、その解決方法について一言も語っていない。
使用済み核燃料については、中間貯蔵施設や乾式貯蔵施設の建設を促進するとしているが、具体的方針は一切ない。既設炉の最大限活用をうたっており、原子力発電の重要性は高くその活用を進めるとしている。そして、「再稼働加速タスクフォース」の下に連携し、泊、東通、大間、女川、柏崎刈羽、東海第2、志賀、浜岡、敦賀、島根において、適切に対応、現場技術力の維持・向上を言っている。3・11以降稼働していない原発では、現場技術力が極端に衰えている。たとえば、12月に再稼働した島根原発2号機では、機器のメーターを読み間違えるという信じられないトラブルが発生している。60年運転についてもGX束ね法により新たに導入される、運転停止していた期間を運転期間のカウントから除外することで、60年を超えても運転可能とした。
リプレースについて、積極的に推進するとしている。これまでの同一原発内でのリプレースは認められていたが、同じ電力会社内でのリプレースを認めるとしている。たとえば大飯原発は1、2号機が廃炉決定しているが、大飯原発敷地内に美浜原発や高浜原発で、廃炉になるものをリプレースできるということである。九電玄海原発1、2号機を九電川内原発内にリプレースすることを狙っているということ。川内原発は川内3号機の計画が3・11以降止まっており、川内原発の敷地には余裕がある。規制をどんどん低くして、リプレースを進めようとしているのである。そして、次世代革新炉の開発・設置が強調されている。しかし、具体論は展開されていない。
このように、原発回帰、依存社会への暴走を進めようという意図に貫かれているのである。絶対許してはならない。
(6)
第7次エネルギー基本計画は、これまでとは一変した内容に貫かれている。あけすけに原発回帰、依存社会への暴走を宣言するものである。
しかし、使用済み核燃料の解決方法はなく、使用済み核燃料の行き場はないのである。青森県六ヶ所村の再処理工場は完成しない。さらに今後ますます老朽原発が増えていき、老朽化にともなう危険性は高まっていく。
人類と原発は共存できない。いまこそ原発全廃を勝ち取とろう。
[注]GW(ギガワット)1000メガワットのこと。
(仰木明)
5面
高額療養費制度の負担上限額引き上げ全面撤回を(上)
「命奪うな!」の声が石破追いつめる
雪雲茜
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霞が関の厚生労働省(東京) |
高額療養費制度とは
高額療養費制度とは、同一月(1日から月末まで)にかかった医療費の自己負担額が高額になった場合、一定の金額(自己負担限度額)を超えた分が、あとで払い戻される制度。月をまたいだ場合は月ごとにそれぞれ自己負担額を計算する。
負担上限額の引き上げ
この負担上限額を「8月に引き上げる」方針を、石破は表明した。ただでさえ生活が苦しいのに、これでは医者にも行けないと全国から撤回を求める声があがり、石破はいったん「引き上げ凍結」を表明した。しかし、人々は「凍結ではなく、全面撤回」を求め、さらに声を上げている。
そもそも、引き上げでなく、引き下げが必要だ。
政府原案はこうだ。
引き上げに例外はない。年収135万円以下の非課税の人も9百円引き上げて3万6千3百円にするという。(現行3万5千4百円)
考えてみてほしい。月に約11万円以下の乏しい収入から3万6千3百円が出せるだろうか。ちなみに私は9万円だが、その中から3万6千3百円などとても出せない。
年収200万円あれば、1万2千3百円引き上げて6万9千9百円にするという。(現行5万7千6百円)
考えてみてほしい。月に16万7千円の収入から6万9千9百円が出せるだろうか。
税金や保険料が引かれて、手元に残るのはここに書いた収入よりずっと少ないのだ。子どものいる世帯もある。とても収入の枠内でやりくりができるとは思えない数字だ。今でさえそうなのだ。つまり入院するには蓄えがなかったらできないのだ。
そもそも2割の世帯が貯金ゼロであり、1千万円以上貯金がある世帯は2割〜3割にすぎない。ちなみに借入金のある世帯は3割ある。
今日、一生の間に癌にかかる人は2人に1人だとも言われる。今回の引き上げの数字が、私たち民衆に対してどんなにひどい仕打ちかが分かる。
患者の抗議
がん患者である水戸部ゆうこさん(50歳)は「治療費用は現在でも大きな負担になり、精神的にも追いつめられています。それがさらに引き上げられるなんて『生きることを諦めろ』と言われているようで絶望的な気持ちです」と述べられている。
「がんサロンのある参加者が『貯金がなくなったら自分の人生は終わり』といっていたのがとても切なく弱い立場の人を追い込むような国の方針に怒りを感じます」とも。
政府は当該の患者さんたちの意見を聞かないで「専門家の審議会」で検討したと言う。
今、全国がん患者団体連合会、日本難病・疾病団体協議会、慢性骨髄性白血病患者・家族の会「いずみの会」が、政府に高額療養費の引き上げの凍結を申し入れ、署名を提出した。立憲民主党や共産党も引き上げの凍結・撤回を求めている。
しかしその中で政府は長期療養の4カ月目からだけの引き上げ凍結しか認めない方針だ。また、25年度の引き上げは強行すると言う。「あまりにも大きい引き上げだ」と患者側はあくまで引き上げ案全体の凍結を求めている。
〈受診抑制〉の計画
生活保護をのぞく、最後のセーフティネットといわれる高額療養費の負担上限額の大幅引き上げは、患者の命綱を断ち切る残酷なものだ。
そして実際、厚労省はそれを「受診抑制効果」といって試算している。
全国保険医団体連合会の質問に厚労省は「今回の引き上げで見込む5330億円の削減のうち2270億円は『受診抑制効果』だ」と答えたという。医者に行けず、治療を止める患者の絶望や苦しみを百も承知で、いくら浮くかソロバンをはじいているのだ。その計算式があるようで、「年収200万円以上の後期高齢者の自己負担2割化の時も『受診抑制効果』を予想した」とまで言っている。
医療を昔のように人民の手のとどかぬ『高値の花』にして死に追いやることを念頭にした上限引き上げ案なのだ。
3千万人が無保険の戦後
歴史をさかのぼれば、戦後、被雇用者保険に入っている人以外、全人口の1−3である3千万人が、公的医療保険に未加入だった。例えば、私のまたいとこは幼い頃に結核菌に足を冒され入院したが、商売をしていた彼の両親は「家の一軒が建つくらいのお金を使った」という。医療費の全額を現金で支払わなければならなかったのだ。
こんな中で、特に高齢者は医者にかかるのは、死ぬ時以外は、よっぽどの苦痛を伴う時だけだったという。
患者と医療労働者の闘い
その頃、入院患者の多くは戦争傷病者と結核患者だった。そして彼らを中心として日本患者同盟が結成され、1957年の朝日訴訟などを闘いぬいていった。
医療従事者の運動も、戦争協力者の職場からの追放を経て発展していった。とりわけ封建的な全寮制の下、夜勤交替制など過酷な労働条件で働く看護師たちは、1960年の全国一斉ストライキに立ちあがった。
「私達も人間です。無賃(ナイチン)ガールよ、さあ闘わん」「全寮制反対、格子なきロウゴク」などのビラが賃上げ要求とともに出たという。
そして1968年からの複数夜勤と月に6夜勤日(勝ちとったのは8夜勤日まで)を要求する「2・8闘争」を果敢に闘い抜いた。
戦後、開業医の住み込み看護師は、洗濯など家事もやらされるという状態でもあったが、運動の中で看護師の社会的地位は向上していった。
国民皆保険制度と無料医療制度はじまる
1955年、農村地域は無医村が広がっていたが、岩手県は国保病院を中心に地域活動を繰り広げ、全国にさきがけて皆保険制度を実現していた。そうした中で1958年、国会で国民健康保険法が制定され、61年、国民皆保険制度がやっとはじまった。しかし、本人も家族も5割負担であった。
岩手県沢内村では、1960年、65歳以上の高齢者には無料の医療制度を実現させ、1961年にはこれをさらに60歳にまで引き下げ、乳幼児も無料にした。これは全国住民の医療無料化運動として広がり、1969年には東京で美濃部知事が高齢者への無料医療制度を実施した。
ちなみに医療運動の先頭に立った人々は、改悪の危惧のある保険制度を要求したのではなく、全額公費による無料医療制度を要求していたのだ。
高額療養費制度の開始
1963年に老人福祉法が制定され、社会保障として老人の生活を保障することが打ちだされた。
1973年、それまで3割だった国民健康保険の自己負担が、70歳以上の高齢者については無料になった。被雇用者健康保険の本人は自己負担は定額でも、家族の自己負担は5割だった。それが3割になった。
そしてこの年、政府は自己負担の上限を1カ月に3万円とする高額療養費支給制度を開始したのだ。
新自由主義による自己負担増の反動
しかしその後、80年代の中曽根第2臨調から小泉構造改革へと至る新自由主義政治は、戦後の社会保障を解体し、医療費の自己負担増を重ねていった。
82年、「医療費の適正化」をうたった老人保健法が制定された。翌年の83年、国民健康保険の70歳以上の高齢者の自己負担無料制度は廃止となった。01年に70歳以上の高齢者は無料から1割負担になった。
さらに08年には、75歳以上は後期高齢者医療保険になり1割負担、70歳から74歳までの高齢者は2割負担になった。そして23年、後期高齢者も年収200万円あれば2割負担となった。
被雇用者医療保険本人の自己負担は84年に1割に、97年に2割に、さらに03年には3割になった。
この中で不十分ながらもこの高額療養費制度が最後の命綱と言われるようになっていったのだ。
介護保険制度の新設
2000年、政府は国の負担が大きい医療保険制度から介護を分離して介護保険制度を作った。「措置から契約へ」と銘打った介護保険制度こそ、憲法25条にもとづく公的責任を国が放棄する介護の民営化だ。もはや介護事業は福祉ではなくなった。
ほとんどの人民が必要となれば無料でヘルパーが派遣されてきたが、新たに介護保険料なるものが年金から天引きで徴収され、1割の利用料という自己負担がかかるようになった。
他方、それまで福祉の枠外であった1割の高額所得者も介護保険を利用できるようになった。お手伝いさんがいる豪邸に派遣されることに対して、ヘルパーは違和感を抱いてきた。
今よく言われる「所得制限撤廃」は、社会保障思想の解体の言葉でもある。
訪問介護の報酬引下げで倒産、廃・休業最高に
政府は、特に高齢者を医療費のかかる入院治療より在宅療養へと誘導してきた。しかし介護保険制度もまた改悪を重ねた。在宅療養を支える訪問介護は崩壊の危機にある。
昨年4月の介護報酬改定で、訪問介護の基本報酬が引き下げられた。2024年、訪問介護事業所の倒産は過去最高の81件となり、休・廃業は448件となった。
厚労省は「大手の訪問介護事業所が黒字だから」というが、ヘルパーの移動時間が報酬の対象にならない介護保険の理不尽さの中では、一軒一軒高齢者宅を回る介護事業所の多くがもともと赤字なのだ。「1週間に7日働き、職員もギリギリまで働いているが赤字なんです」と事業所の代表は言う。
国会では野党が「介護緊急支援法案」を提出している。(つづく)
6面
歴史歪曲と女性差別は一直線上にある
フジテレビと中居正広の性暴力許すな
岡田恵子
フジテレビと中居正広の性暴力事件
1月27日、威圧的な高齢男性ばかりがずらりと並んだ記者会見がひらかれた。中居正広の性暴力事件に関するフジテレビの「謝罪会見」である。なぜ会社を代表する人物たちが男性ばかりなのか。この世代では男性長期終身雇用制、女性短期若年定年制の結果、多くの女性は労働現場から追い出されていたからだろう。その後の世代で何とか生き延びても女性たちは様々なハラスメントで勤続することができなかったり、出産を理由に仕事との両立ができないでやめていったのだろう。だから、当然会社の役員は男性ばかりになる。
私はこうした謝罪会見があるたびに泣く泣く会社を辞めていった女性たちの怨嗟と怒りが男たちのバックに渦巻いているように見えるのだ。
性暴力事件が大問題に
2024年6月に中居正広が同局の女性アナウンサーに性暴力をふるったことが女性週刊誌で暴露されたことが発端。被害者はすぐに会社に被害を訴えたがこれといった対策はなく、PTSDで体の自由が利かなくなって出社すらできなくなってしまったと訴えている。いつか番組に復活するために上司にすがりついて裏切られた絶望はいかばかりかと想像される。その後、彼女は退社せざるを得なかった。
中居の個人的な問題行動だけではなく、局全体の組織的体質に問題があったことが明らかになってきている。フジテレビは「女性のプライバシーを守るために」という驚くべき理由で何もなかったかのように中居をそのまま起用し続け、コンプライアンス室にも相談しなかった。
これに対しフジテレビは2025年1月17日に「記者会」に登録されている会社の記者のみを対象とした記者会見をひらいた。よりによって阪神淡路大震災30年の当日に記者会見をぶつけるその感覚が、報道機関としての人権感覚が問題にされた。さらにその後、前述の時間制限なしの記者会見をしたが、これは焦点をぼやけさせる戦略ではなかったかと言われている。多くのCMが消え今期の収益は90%減と言われている。
3月には第三者委員会の報告、6月には株主総会が注目される。
フジテレビの女性差別性
フジテレビは1957年、NHK、日本テレビ、TBSの次にラジオの日本放送、文化放送を親会社として設立された。「母と子のテレビ」をテーマに硬派の内容を避ける番組構成だったが、1980年代「楽しくなければテレビじゃない」を打ちだしたバラエティー番組を次々と成功させてきた。代表的な番組「夕焼けニャンニャン」では若い女性の素人っぽさを売り物にし、さらには「セーラー服を脱がさないで」と今では考えられない少女に対する性的な内容の歌、大量の女性を出演させ各人の技量を無視、一人一人にナンバーをつけるという個性を殺させる内容だった。1985年の男女雇用機会均等法に至るまで女性アナウンサーは二年更新の非正規採用だった。更新は二回まで。つまり最長6年という短期雇用、25歳定年制だったのだ。長期勤続の女性がいないのは当然である。「男性アナウンサー」に対して「女子アナ」という言葉を作り出したのもフジだといわれている。「女子」つまり子どもに使う言葉をわざわざ持ち出し、「アナ」と短縮させる。これは差別的な意識が背景にある言葉である。さらに「○○パン」という言葉を作って女性アナウンサーのタレント化を図った。この「○○パン」という言葉は初代が「千野」さんだったため、「チノパンツ」というズボンを「チノパン」と呼ぶので彼女の愛称が「チノパン」だったからと言われている。定かではないが、これがフジの女性アナウンサーのアイドル化を進め、写真集、歌、バラエティへの起用が増えるに至った。女性アナウンサーは本来の仕事である報道の仕事よりも、若さ、美しさ、タレントよりもそつなく番組を回す裏方的役割を強要されるようになった。勿論こうした傾向は他社にもあるわけだが、フジは突出している。
先日辞任した、バラエティ番組路線をけん引した港元社長、日枝フジサンケイグループ代表は女性を性的に扱う番組を多く作ってきたわけだが、社内でも女性を性的に扱ってきた。港元社長は「港会」という飲食会を頻繁に開催し、表向きは親睦を目的としているように見えるが、裏では芸能人やアスリートと女性アナウンサーの「自由恋愛」を促そうとしていたといわれている。権力勾配がある中で女性が参加を拒否できないことを知ってのことであると思われる。
最近ではフジテレビの女性アナウンサーの体調不良者続出が問題になっていた。「松本人志問題」の放送後、生放送中に失神した女性、レギュラー番組を長期に休んだ女性、そして今回のPTSDによる退社までフジテレビの女性アナウンサーたちの労働環境が問題になっていた矢先だった。
歴史歪曲の先兵、フジサンケイグループ
フジテレビは設立時より自民党の広告塔として、労組嫌い・反共主義を公然と打ち出して組合活動を妨害し、子会社を作っては正社員を減らしていた。10年後、フジテレビと産経新聞が提携してフジサンケイグループが結成された。その中心になっているのはフジテレビであるが、現在注目すべきはフジテレビ系の扶桑社、その子会社の育鵬社だ。
90年代、自民党内の当時若手と言われた中川昭一、安倍晋三による自民党の「歴史・検討委員会」がつくられた。それを実現する「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、扶桑社による「つくる会教科書」につながった。しかしこの歴史歪曲教科書は学校現場、親、市民の激しい反対にあい、採択率は非常に低かったこともあって、つくる会は空中分解した。第一次安倍政権下、2006年12月教育基本法改悪、教育改悪3法案が強行採決された。安倍の教育改悪を体現すべく、積極的につくる会分裂を促進したのはフジテレビ。扶桑社が百パーセント出資し育鵬社を設立。育鵬社版歴史歪曲教科書を出版した。日本軍「慰安婦」問題を否定し、侵略戦争を賛美する安倍政権の強力なバックアップの元、育鵬社教科書は2011年、2015年強制的にいくつかの地域で採択された。しかし2020年の採択では育鵬社教科書の採択は激減。2024年の採択ではさらに減少し、消滅の一歩手前に。教育改悪への功労等により日枝久フジサンケイグループ代表は、2013年「旭日大綬章」を授賞した。
政治家の子弟が多数入社するフジテレビ
テレビ局には政治家や有力者の子弟が多数入社していることは有名な話だが、ここでもフジは突出している。安倍晋三の甥で岸信夫元防衛相の長男・信千世現衆議院議員はフジテレビ社員だった。中川昭一元財務相の長女、さらには中曽根康弘の孫(長女の息子)もフジに入社している。こうして子女採用によって、権力との関係を強化し、すり寄っていくのである
。
また、かつてのジャニーズ副社長の喜多川メリー泰子氏の娘、喜多川ジュリー景子氏はフジテレビの秘書室に在籍し、芸能界ににらみをきかせる前線基地にしていた。
テレビ黄金時代の終焉
フジサンケイグループは政治権力に密着した報道機関だが、その中心にあるフジテレビは、「テレビ時代の終焉」とともに腐敗を深めているのである。
7面
関生弾圧 京都3事件
湯川委員長に無罪判決
2月26日京都地裁
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裁判所前に集まった全国の支援者(2月26日 京都市) |
この日、京都地裁には、〈ベストライナー・近畿生コン・加茂生コン〉京都3事件の判決があり、全国の支援300人、韓国オプティカルハイテクの仲間が駆けつけて早朝より集会をおこなった。経営側も250人が傍聴抽選に並ぶ。10時に開廷した法廷では、懲役10年の求刑を受けていた湯川裕司委員長に3事件すべてで無罪の判決があり、2時間に渡って判決が読み上げられた。
ベストライナー事件は、2014年からの生コン輸送会社の解散争議で、労働組合が経営者団体である京都生コン協同組合に1億5000万円の解決金を支払わせたことが恐喝とされた事件だ。
近畿生コン事件は、近畿生コンの廃業に伴い、協同組合が労働組合に6000万円の清算金を支払ったことが恐喝とされた事件だ。 加茂生コン事件は、@就労証明書の発行、あるいはA廃業に当たってプラントの解体とミキサー車の引き渡しを求めたことの共謀が問われた事件。いずれも元々、犯罪とされる筋合いのない「事件」だ。
ストライキ通告は恐喝には当たらない
判決は、生コン業界では過当競争の抑制が必要とされ、通産省も共販を奨励していて、京都協同組合でもアウト業者による廉売対策が課題であったという背景を認定、他方、関生支部のストライキは、時に就労してない者も動員し、車両の前に立ちはだかる等して出荷を止めるようなこともあったが、事業者側が出荷を自粛する、あるいはアウト対策としてコンプライアンス活動を行う等というものでもあったと認定した。
そして、京都3事件以前の10年間は直接出荷を止めるようなストライキがない等、生コンの価格維持に共同して取り組んでいた京都協組と関生支部の具体的関係に踏まえ、検察の「関生支部が京都協組を畏怖させ、思いのままに支配していた」という主張を退けて、恐喝行為であると認定しなかった。
「争議行為が生産の一定の阻害を想定している」ことからして、労働問題の解決を目的にした関生支部のベストライナー事件におけるストライキの通告を「害悪の告知」による脅迫とすることはできないとした。また、京都協組側が争議の金銭解決を提案し、関生支部側がそれに加えて7人の組合員の雇用保障を求めたという組合側の主張を信用できるとした。
近畿生コン事件においては、京都協組内の人事交替で労働組合と協調路線に転換しており、アウト業者に転売されないよう労組がプラントを占拠した費用を京都協組が負担したことに恐喝は存在しないと認定した。
加茂生コン事件では現場の概要の認識はあっても、現場での詳細なやり取りにまで被告たちが関与したとは言えず、あるいは、プラントの解体要求は労組以上に協組の利益となるものであり、協組の独自の利害から出た言動と考えられるとした。
弁護士会館で湯川委員長と5人の弁護士による報告集会
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弁護士会館で報告集会(2月26日 京都市) |
報告集会には100人の支援者が参加、湯川委員長からは支援へのお礼が述べられ、「弾圧以降は最悪の事態を想定した組織運営をしてきたが、今日は裁判官の顔が穏やかで、もしや、無罪かと解った。2019年に当時大津事件で勾留されていたが、京都事件で京都に移送され、その後、3回逮捕された。それから6年、労働法学者先生の証言が採用され、私たちの産別運動が労働組合活動として認められたのが嬉しい。権力と一体化した使用者側には運動で返していく。今日は仲間と労をねぎらいながら飯を食べるのが楽しみです」と喜びを語った。その後、事件を担当した5人の弁護士から判決の解説があり控訴、保釈請求の準備をしたこと等のエピソードも語られた。
闘いが報われた日
2018年以来、81名の組合員が逮捕され、湯川委員長(写真)は644日も勾留された「戦後最大の刑事弾圧」(労働法学者声明)だ。その中でも最後に最も重い罪に問われた京都事件で無罪判決が出されたことは、関生弾圧が不当弾圧であったことを白日の下に明らかにしたものだ。
関生支部は京都事件について、京都、名古屋、東京、沖縄などでシンポジウムを開催、大手メディアが沈黙する中、良心的なジャーナリストたちの力を借りつつ地道な発信を続けてきた。これからも困難な闘いの日々が続くが、この日は大勝利の1日となった。
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裁判を終え拘束されることなくあいさつする湯川委員長(2月26日 京都市) |
京都事件弁護団声明
2025年2月26日
本日2月26日、京都地方裁判所第2刑事部は、関生支部の武前委員長・湯川現委員長に対して、ベスト・ライナー事件(企業閉鎖に伴う解決金要求が恐喝)、近畿生コン事件(企業倒産の際の工場占拠に関する費用要求が恐喝)、加茂生コン第1事件(就労証明書交付要求が強要未遂)、同第2事件(企業閉鎖に伴うプラント解体やミキサー車1台譲渡要求が強要未遂・恐喝未遂)のすべてについて、無罪を言い渡した。
判決の無罪理由は、加茂生コン第1事件について会社事務所で抗議等した組合員(4月17日に差戻控訴審判決予定)に脅迫行為があったかどうかを問うまでもなく、組合員の具体的な言動について共謀が認められないとした以外は、すべて、生コン産業の実態、京都地区における生コン業界の状況、関生支部の活動、関生支部と協同組合との交渉経緯や協調関係等を適確に踏まえた上で、被告人らに脅迫に当たる実行行為そのものがないとしたものである。
検察官は、関生支部が「ストライキや威力を背景に自らの要求に応じさせるスキーム」を確立していたとして恐喝罪の成立を主張したが、判決は「そもそも、ストライキをはじめとする争議行為は、その性質上、労働組合が使用者に一定の圧力をかけ、その主張を貫徹することを目的とする行為であって、業務の正常な運営を阻害することはもともと当然に予定されているものであるし、そうした意味で使用者側がストライキを避けたいと考えることは当然の前提になっている。」と判示し、検察官の主張を排斥した。判決には憲法や労働組合法という言葉はないが、争議権の趣旨を明確に摘示して労働組合として当然の行為についてそもそも脅迫に当たり得ないと判示しており、その意義は大きい。
一方、弁護人は、本件は労働組合つぶしを目的とした違法な起訴だったと主張したが、判決は、3事件とも無罪だからそれ以上の判断は必要がないとして、判断を示さなかった。しかし、判決は、検察官と弁護人いずれの側も大筋で争いのない事実を認定したうえで、被告人らにはそもそも犯罪に当たる行為がなかったと判示している。この点において、判決は事実上、検察官の起訴の誤りを示したものといえる。
関西一円の警察がゼネコンや大阪広域協と連携し、労働組合つぶしを企図して行った一連の弾圧は、実に18次のべ89人の逮捕と大阪・大津・和歌山・京都の各地裁への起訴が繰り返された。京都事件は一連の弾圧の最後に位置するものであり、検察官は懲役10年を求刑していた。
本判決の内容が示すとおり、そもそも本件起訴自体が誤っていたのである。検察・警察には猛省を促すとともに、控訴することなく早期に本判決を確定させるよう強く求める。
以上
(連帯労組のネットニュースなどを元に再構成しました。本紙編集委員会)
8面
本多延嘉追悼50年の集いに際して(下)
破防法弾圧うち破った闘い受け継ぐ
大久保一彦(『未来』編集長)
本多延嘉書記長の政治的業績については著作選(全7巻)をもとに簡単に記させてもらった。ここでは私なりの本多像を少しばかり記させてもらう。とはいえ筆者は1970年の大学入学で、本多さんの演説や講演を聞くことはあっても直接接したことはなく、著作選の他の分野や、『討論・70年をどうする』(田園書房)、小嵐九八郎『蜂起には至らず―新左翼死人列伝』(講談社)などを参照し記させてもらう。
真摯な共同闘争の積み上げ
『70年をどうする』は、70年安保闘争の幕あけとしての1969年の4・28闘争を前にして「反日共系革命諸派の思想と戦略」を、本多延嘉(革共同書記長)、いいだもも(共労党書記長)、さらぎ徳二(共産同議長)、鈴木迪夫(ML同盟議長)、水戸巌(核物理学者)、小長井良浩(弁護士)らが、文字通り「70年をどうする」を巡って激しく議論した記録である。1月東大安田砦攻防を闘い、70年日米安保の改定を阻止するため「反日共各派」が沖縄・大学を主戦場に統一行動を強めるために各派責任者が一堂に会して徹底討論を14時間やった。その後3月には5派共同声明が出され、4・28を前に30団体共同声明となり、本多さんは4・28闘争の前夜、破壊活動防止法の適用で事前拘束され、その後2年弱獄中生活をおくる。この共同行動の討論には、中核・ブント・MLとは少し潮流が違うそれまで構造改革派といわれていた共労党(いいだもも)が参加している。解放派らも誘ったようだが事情で参加できなかったと編者がまとめている。しかし構造改革派でベ平連に影響のあった共労党が参加したことは70年に向かう共闘に弾みをつけ、6・15共同行動は東京日比谷公園周辺に指名手配中の山本義隆東大全共闘議長も参加し人があふれ、9月5日の全国全共闘結成過程では8派共闘に広がり、11月佐藤訪米阻止闘争へ繋がっていく。その論議は紹介しないが、70年に向かって各派各様に意見は違ったが、「別個に進んでともに撃つ」という段階から5派共同声明や8派共闘という恒常的共闘につながった点では、いつも各派抗争が激しい中では画期的事態であった。
激しい討論の中で、本多さんは60年安保闘争過程で共産同の「戦旗」編集長就任を断り、一人「革共同」の旗を背負っていたことで革共同絶対と思われていたが、思想に対する厳格さと階級に対する信頼はあっても、党は絶対とはしなかったことが随所に現れている。
破防法がかけられた69年4・28闘争は歴史の分岐点となり、その後ブントの中に軍事路線を志向する赤軍派が生まれ、また「左に流れる共労党」やフロントも党内闘争を展開しながら左傾化・分裂していく。また革共同は対カクマル戦に突入し、討論の4人の指導者もそれぞれ数奇な運命をたどる。聞くところによると、ブントのさらぎ議長はこの討論の意義を高く評価し、71年8月の本多さんの結婚式に参加した交誼をあとあとまで語っていたという。意見は違えど、共同討論に至る準備過程も含め共同討議を積み上げていく作風は極めて大切であると考える。
歴史に対する該博な知識
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本多延嘉著作選全7巻 「未来」編集部でも扱います |
1967年2月11日、戦前の紀元節を引き継ぎ「建国記念日」が創設された。当時田舎の高校1年生で新聞部に属していた筆者は、この暴挙に対して論考を初めて書いた。16歳の歴史好きの少年が岩波新書などを読み、寄せ集めの知識でいっぱしの「論文」を書いてみたのだ。しかし後々になって考えるにこの日は歴史の転換点で、本多さんはこの日を「亡国の記念日」と捉えることを彼の政治主張の中に据えていた。のちにこのことを知った筆者は「同じ思想」を感じたものだ。
早稲田大国史学科に在学した本多さんは革命運動全般の指導の中に、絶えず日本の歴史の中で民衆がどのように歩んできたか、それを70年当時の革命運動でどうとらえ返すべきかという考えがあったと思う。維新の西郷隆盛像や明治の自由民権運動を独特の観点から捉えた。「天皇制ボナパルティズム」論以外には歴史学者的な論文を書くことはなかったが、歴史に対する該博な知識からくる卓見と弁証法的思考は、運動指導上での人物像評価として、論文以上の見識を示し人々に示唆を与えたと思う。
小嵐九八郎の著作の最後に、「演歌、とりわけ美空ひばりが好きで」学習会の途中にひばりの声が流れると「天下の大歌手の歌だ、聞いて敬意を表そう」と中断したとある。ひばりは敗戦直後の日本の復興のシンボルとしてブギの笠木シズ子を超え国民的歌手となった。当時は「悲しい酒」と「リンゴ追分」。70年時は「真っ赤な太陽」、そして「人生一路」「愛燦々」。最後は「川の流れのように」で早世した。まさに復興期、高度成長期、バブル崩壊前に、時代とともにあった「天下の大歌手」であった。分野は違え、第一級の人物を見る目を養おうとしたのではと思う。生きていれば「人生一路」や「川の流れのように」をめぐり口角泡を飛ばす論議をしたのでは。
本多著作選には挫けそうになった筆者がいつも励まされたフレーズがある。「革命は、胸のすくような進撃と、耐えがたいまでの閉塞との息づまるような転移の過程であり、それを生きぬくことは人間的能力を極限までしぼりだすことをとおしてもなお困難なものがある。…現代人は歴史のヒドラと格闘し、これを人間の生命力の前に組み伏せる以外は、それから身を避ける方法は何もないのである」(「70年安保闘争と革命的左翼の任務」)
本多さんの死から50年。何事がなしえたのかの思いはあるが、2006年までは普通の一現場活動家であった私が、いま編集長として引き継げるものがある。それは「来る人は拒まず、去る人は追わず」の精神で、政治局員の戦線離脱を厳しく批判しても除名はしなかった本多さんのありようだ。このことを誓い50年の言葉とする。