未来・第369号


            未来第369号目次(2023年7月5日発行)

 1面  沖縄・原発・生活防衛で岸田倒せ
     支持率急降下 解散できず
     軍拡・増税・世襲許すな

     増税反対デモ高揚
     6月18日大阪

     関電高浜1・2号機動かすな
     関西電力への闘い強めよう

 2面  ロシア軍は即時撤兵せよ
     ウクライナ反戦でシンポ
     6月25日大阪

 3面  マイナトラブルは岸田の命とり
     マイナ保険証は廃止しよう      

     許すな!「戦時社会」への転換
     アジアとの連帯を
     6・18 的場昭弘講演会     

 4面  5月〜6月入管闘争
     入管法改悪に連日決起
     たたかいはこれからだ

     これからの闘いに向けて
     入管闘争市民連合が全国集会

 5面  戦争しかけるのは日本”
     米軍Xバンドレーダー基地撤去
     6月10日京丹後市

     本の紹介
     『3・11大津波の対策を邪魔した男たち』を読む
     島崎邦彦著 青志社 1400円+税

     尼崎で映画と講演会
     6月17日

 6面  長期・読み切り連載 大庭伸介
     先人たちの闘いの成功と失敗を学び現在に生かそう

     左翼労働運動が登場
     全労働戦線を牽引して大活躍B

 7面  優生保護法被害裁判 6月1日仙台高裁判決
     国の賠償責任転覆する超反動判決
     関東「障害者」解放委員会 妹尾明憲

     投稿
     第54回釜ヶ崎メーデーに参加して(中)
     反省、メーデー・経済闘争を軽視
     上田勝

 8面  投稿
     動くぞ狭山 動かせ狭山
     12月までに事実調べ・再審を

     (カンパのお願い)

                 

沖縄・原発・生活防衛で岸田倒せ
支持率急降下 解散できず
軍拡・増税・世襲許すな

6月中下旬、岸田政権の支持率が急降下し、7月解散・総選挙戦略が破産した。ゼレンスキーまで呼んだG7外交ショーでの支持率アップもつかの間、息子・親族の公邸忘年会=政治の私物化と、公明党との亀裂の拡大で解散戦略はついえた。逆に大義のない求心力アップを狙った解散風あおりが露呈し「オオカミ少年」と批判され、さらにはマイナンバー不備で各紙とも5〜10%支持率が下落し、再び不支持率が支持率を上回った。
国会論戦はハナから破産が見えていた「立憲・維新共闘」に助けられたが、軍拡・増税、原発再稼働などの法案は成立したとはいえ、実質すべて先送りだ。マイナ不備は「消えた年金」を想起させ、物価高・増税・生活苦には、「もう限界」の声が充満し、街頭デモが始まった。
沖縄・南西諸島(琉球弧)への自衛隊・ミサイル配備は、鹿児島県馬毛島から、台湾直近の与那国島までの全域基地化であることが現実化した。馬毛島などでは基地建設ラッシュで人件費が高騰、地域経済破壊が始まっている。この中で迎えた6月23日の「慰霊の日」は、「戦争になれば逃げ場のない沖縄で犠牲になるのは住民」がリアルに迫り、「琉球弧を再び戦場にするな!」の声が急速に拡大した。「戦場化」に反対する集会が各地で開かれ始めた(6月23日の大阪集会は次号報道)。
ロシア・プーチンの始めたウクライナ侵略戦争も新たな局面を迎えた。ウクライナ人民の「反転攻勢」と前後し、ロシア軍の亀裂が拡大。プーチンの私兵・ワグネルの反乱は、プーチンの戦争の不正義性と敗北性を世界に刻印した。ワグネルこそヒトラーの愛したワーグナーから名前を取ったネオナチそのもので、プーチンの言う「ネオナチからウクライナを解放」は100%のウソが証明された。
ロシア軍は直ちに撤兵せよ。台湾有事をあおり軍備増強・対中国戦争準備の岸田と自衛隊幹部を許すな。今夏・今秋、沖縄・原発・生活防衛の闘いを爆発させ、人民の闘いで岸田政権を打倒しよう。

増税反対デモ高揚
6月18日大阪

山本太郎代表先頭に650人が御堂筋デモ

難波近くに来たデモに多くの市民が合流(6月18日 大阪市内)

6月18日、れいわ新選組大石あきこ事務所が呼びかけて「増税反対! 国会を揺らそう。大阪デモ」がおこなわれた。会場の公園は参加者であふれ、心斎橋を通過する頃から歩道からデモに参加する人たちが急増し、難波の解散地点では参加者は650人を超えた。全日建関生支部のサウンドカーが全体を盛り上げ、デモの最後尾は関生支部、全港湾大阪支部等がかためた。
デモの呼びかけは、紙媒体ではなくメール、ライン、インスタグラム等でおこなわれ、各フォロワーは万単位となり、知らせを受けて関東、名古屋、京都、奈良、和歌山、兵庫、大阪から多くの人たちがかけつけた。
初めての参加や若い世代が多く、デモ終了後のお疲れ様会では「楽しかった」という感想が多くだされた。「いじめられ続け、死にたいと思った時、YouTubeを見てれいわを知り、生き方を変えた。腐った世の中を変えましょう」と訴える若い男性。虐待を受け続け死の淵から生き延びた女性や、和歌山の農家も参加し、関生支部からも「労働現場から社会を変えていきたい」という発言があった。
〈大石あきこ 増税反対〉でグーグル検索するとYouTubeデモの様子が見られる。「楽しかった」という実感が映像からわかる。
この30年間、資本や自公、維新等による新自由主義で破壊され続けてきた日本社会の中で、生きることを否定されてきた人たちが「ただ人間の完全な再獲得によってのみ自分自身を獲得することができる一領域」(マルクス)として立ち上がり始めた瞬間だった。

関電高浜1・2号機動かすな
関西電力への闘い強めよう

町内デモに出発(6月7日 高浜町)

関電の高浜1号機は48年超え、2号機は47年超えの老朽原発だ。関電は今年6月から順次両機の再稼働を画策していたが、火災防護対策の不備が発覚し、再稼働は延期となった。防護対策が必要なケーブルの長さは1号機で2200m、2号機で2300mとされる。基準どおりの工事をするとちょっとやそっとで完了するようなものではない。いままでの手口のように、適当な工事でその場をしのぎ、それを原子力規制委員会が追認する可能性もあり、油断できない。いまこそ、1号機、2号機をうごかすな、の声を大きくあげていこう。

高浜町長に「再稼働同意の撤回」を求める

老朽原発うごかすな! 実行委員会がよびかけた高浜現地行動が6月7日おこなわれ、関西一円、福井県内から50人が集まった。
正午過ぎ、JR若狭高浜駅前に集合。短時間の集会の後、すぐ町内デモに出発,b>(写真)。町内を練り歩き、老朽原発=高浜1・2号の危険性をアピール。「うごかすな」の声を上げた。
デモ終点は高浜町役場。役場前集会では、小浜市の中嶌哲演さん(明通寺住職)、高浜町住民、福島第一原発事故で滋賀県に避難している方が発言。
代表団5人が申し入れ。町長が不在ということで、防災安全課課長が対応。庁舎前で申入書を読み上げ、手交した。
高浜町は21年2月1日、当時の野瀬豊町長が老朽原発高浜1・2号の再稼働に同意したが、それ以降でも高浜原発では、原発トラブル、不祥事が続発。こんな現状で再稼働などできるのか。再稼働同意は取り消すべきだと訴えた。
申入れ終了後、全参加者は町内全域に散り、ポスティング活動をおこなった。

舞鶴市役所に申し入れ行動(6月16日 京都府舞鶴市)

舞鶴市長に「再稼働容認」の撤回を求める

高浜原発のある福井県高浜町は福井県の西端に位置し、原発は高浜町の西側に建っている。そのため高浜町の西側に隣接する京都府舞鶴市は行政区分こそ京都府であるが、地理的には高浜原発の立地自治体に等しい。
高浜原発から30キロ圏内のUPZ(緊急防護措置区域)に舞鶴市はすっぽり入っている。人口は約8万人で、高浜原発で事故がおこれば被害人口は高浜町より多い。立地自治体ではないため再稼働に対する同意権がない。にもかかわらず、舞鶴市議会は20年12月に「高浜原発1・2号の再稼働容認」を決議し、21年4月には多々見良三市長(当時)が「再稼働容認」を経産省に伝えた。
6月7日の高浜現地行動に続き、16日、老朽原発うごかすな! 実行委員会は、再稼働容認を撤回するよう舞鶴市長に申し入れをおこなった。
昼休み、舞鶴市役所に福井県、関西一円から40人が集まった。庁舎玄関前で集会をおこないながら、同時並行で、庁舎内で申入れがおこなわれた。舞鶴市民3人を含む代表団6人が庁舎内に入り、市長あて申入れをおこなった。防災安全課課長と市長公室危機管理室危機管理・防災課長の2人が対応した。
申入れ後、代表団が玄関前の集会に合流し、報告会。〈原発ゼロ 舞鶴の会〉Kさん、〈オール福井反原発連絡会〉山本雅彦さんが発言した。山本さんは「現場の労働者は『いつ事故がおこるか不安だ』と言っている」と現場の声を紹介した。
その後、市内デモに出発。JR東舞鶴駅まで行進した。デモ後は市内に散り、全員でポスティングをおこなった。ポスティングでは各所で激励の言葉をかけられた。

2面

ロシア軍は即時撤兵せよ
ウクライナ反戦でシンポ
6月25日大阪

70人の参加者が3時間半、熱心に討論(6月25日 大阪市内)

6月25日、大阪市内でシンポジウム「ウクライナ戦争と現代世界」がひらかれた。 ちょうど、ロシアの民間軍事会社ワグネルを率いるプリゴジンの反乱が勃発する中(ベラルーシのルカシェンコの仲介でモスクワ進軍から反転し、反乱は収束)での今回の集会はそれぞれの意見を交える場となった。
呼びかけ人の岩田吾郎さんは、ウクライナ戦争をめぐって言いっぱなし、書きっぱなしで論議・論戦がない。今集会は情勢分析の一致を目指すものではなく、果てしなき論議かもしれないが、その末に向上していくべきだ。新左翼は街頭行動主義から言論左翼になっている。ウクライナの支援・連帯をやるべきだと挨拶した。
4人のパネリスト(原隆、橋本利昭、高原浩之、横山茂彦)の各氏からそれぞれの要旨が述べられた。一部紹介する。

▼原 「代理戦争」論や「帝国主義間戦争」論、「どっちもどっち」論は民族自決権を否定するもの。マルクス主義にとって民族問題がアキレス腱になっている。プーチン主義の侵略を増長させてきた米日欧のG7にも責任はある。ニュージーランドの学者の論考を紹介し、日本の文化人・左翼の加害者と被害者をあいまいにする態度・声明を批判した。ウクライナと共にあることを示すために行動することを述べた。

▼橋本 戦争の目的として、プーチンの大ロシア主義、スラブ主義、ユーラシア主義の3つのイデオロギーをあげた。ウクライナのNATO加盟阻止や「親ロシア系」住民保護が目的ではないこと。ウクライナ戦争は、ナチスのやり方よりひどい。ウクライナ人民の政治形態・戦闘形態を無条件に支持する。経済的没落と「地政学的孤立」から日本とロシアが世界危機、世界戦争の点火者となっている現状を指摘。誰が対中国戦争を煽っているのか? として、ウクライナ反戦と一体で安倍―岸田の対中国戦争挑発を弾劾し、日本が主導した新たな沖縄戦を阻止しようと提起。

▼高原 @なぜ、ウクライナ戦争を代理戦争というのか、Aなぜ、ウクライナ支持をためらうのか、Bソ連崩壊は「社会主義の崩壊」か。
ロシア革命、中国革命・民族解放闘争が社会主義へと達せず、開発独裁や官僚制国家資本主義へ転換し桎梏になってしまったこと。20世紀はブルジョア革命と資本主義化で終わった。21世紀は反米闘争から反覇権闘争の時代。グローバルサウスの資本主義の発展がプロレタリアート階級を作り出すと展望した。

▼横山 この間の論争を紹介したうえで、ウクライナ戦争と日中戦争、15年戦争の共通性を検証し、その意味を掘り下げた。そして、問題提起として、侵略に対する態度において、民族自決の思想的根源が問われている。社会主義万能論や世界革命論を問い直すことを提起した。最後に、実践的に東京で取り組んでいるウクライナ連帯闘争を訴えた。

▼質疑応答

質疑応答では、次のような問題提起がなされた。
@ワグネルの反乱は、ロシア正規軍の指揮下に入れと言うことへの回答の一つ。ウクライナでは国家総動員法で男性の出国禁止があり、ウクライナ社会運動がウクライナ軍の指揮の外で闘いをやれば弾圧される、という中でウクライナ社会運動との連帯をどうするかが問われている。指揮権をとって革命に勝利したのは中国の抗日戦争などごくわずかだと問題提起。
Aレーニンの民族自決論についての見解をふりかえって、左翼がどうして基本的間違いをおかすのかとして、他の問題も含めて人倫水準を向上させていかないと左翼が社会の迷惑集団になりかねないと提起。
Bジャーナリストの小林哲夫さんは、ウクライナ戦争、気候変動や外国人労働者・難民―入管問題、性暴力反対、高校無償化や学生生活改善を求める運動、社会科学・現代思想などの社会運動への高校生・大学生の取り組みに注目すべきとの指摘があった。
C社会民主党・協会派系の動向・論議などの発言があった。
さらに、武器供与をどう考えるのかについて論議があり、ウクライナ人民の自己決定権を尊重したい。その上で、日本においては憲法9条がブルジョアジーの手を縛っている。ウクライナからの武器援助の要請を奇貨として、日本の戦後憲法体制を破壊しようとする策動に反対するべきなどの意見があった。
ウクライナ戦争をテコにして、日米帝が中国脅威を煽り、南西諸島(琉球弧)の軍事要塞化をすすめている現状に断固反対し、基地撤去を求める闘いを進め、沖縄とヤマト(本土)の課題として取り組むべしという意見があった。
安倍・岸田が「敵基地攻撃能力」の保持を公言し、ミサイル基地を次々と琉球弧に配備しているのは、敵基地攻撃=日本への反撃を招くものであり、ことは沖縄と日本の問題だ。
台湾はどうか。「一つの中国」であるが、自決権を尊重すべきとの意見もあった。
また、ウクライナの民族自決権支持というだけでなく、戦後も見据えてその中のどの政治集団を支持するべきかを考えるべきだという指摘もあった。
まとめとして、ウクライナ戦争を奇貨とした日本の軍事力強化、琉球弧の軍事要塞化に反対する取り組み強化、「ウクライナ社会運動」との連帯、ウクライナ人民支援の具体的取り組みを東西で進めようとされた。

STOP!ロシアの侵略 ウクライナに連帯を!7・16シンポジウム
とき:7月16日(日)午後1時半開場  
ところ:渋谷区勤労福祉会館2F・第1洋室
◇パネリスト
青山 正(チェチェン連絡会議)
加藤直樹(ウクライナ社会運動への連帯基金)
杉原浩司(武器取引反対ネットワーク)
原 隆(ウクライナ連帯ネットワーク)
◇コーディネーター
林克明(ジャーナリスト)
主催:ウクライナ連帯ネットワーク(090−1429−9485)



3面

マイナトラブルは岸田の命とり
マイナ保険証は廃止しよう

マイナカードでトラブル続出

マイナンバーカードは「便利」どころか、あってはならないトラブルが続出し、私たちの個人情報は危険にさらされ、医療機関などで甚大な被害・大混乱がおきている。
「消えた年金」事件以来の重大事態なのに、マイナカードを中止もせず強引に推進する岸田政権に怒りの声が噴出し、マイナカード返納運動がおこり、24年秋健康保険証廃止は「延期・撤回」が72・1%だ。
21年にも3万5千件の誤登録があったが、今回は誤登録を今年2月頃には把握しながら放置していた。@「マイナ保険証」に別人の情報を誤登録7372件(5/22時点)、Aコンビニ交付サービスで他人の証明書を誤交付14件、B別人のマイナンバーに公金受取口座を誤登録748件、Cマイナポイントを別人に誤付与172件、Dマイナ保険証で「無効・資格なし」と表示され医療費を10割負担させられた。推計1291件、E公金受け取り口座で本人ではない家族名義の口座を登録13万件。これは0才児や小学生であろうと本人名義の口座が必要ということだが、全く不用なことだ。F別人のマイナンバーに年金情報を誤登録、マイナポータルで他人の年金記録が閲覧できる状態になっていた170件、G障害者手帳の情報が他人のマイナンバーにひもづけられた(静岡県)62件、さらにHマイナ保険証に本人の同意なく利用登録されたのが5件あった。
医師や歯科医師でつくる全国保険医団体連合会の調査によると、41都道府県の8437医療機関のうち5493機関(65・1%)がマイナ保険証が「無効」「資格情報なし」と表示されている。全国には約16・8万の病院や診療所があり、これは氷山の一角だ。また、顔認証付きカードリーダーで、マイナ保険証とは別人の顔で認証されたケースが3件あった。顔認証に正確さはないのだ。病院では、顔認証をとりやめたり保険証持参を呼びかけている。
高齢者施設では、認知症の高齢者が多く、マイナカード申請の意思確認ができず、カードの申請はできない。また、保険証を預かっているが、暗証番号とマイナカードになれば預かることができなくなる。マイナ保険証に統一すれば、保険料を払っていても高齢者などに無保険者が必ず生まれる。マイナカードを取得してない人には「資格確認書」が交付されるが、1年ごとに申請しなければならない。マイナ保険証は皆保険制度を解体するものだ。
この騒動の最中に、6月2日マイナンバー法など関連法改悪案を参院本会議で強行採決し成立させた。断じて許されない。改悪法は、24年秋に健康保険証廃止。「社会保障・税・災害対策」の3分野以外に、年金受給者の預金口座や運転免許証、教員免許などの国家資格、在留カードをひもづける。マイナンバーを利用できる事務は法律で定められているが「準ずる事務」であれば法改正なしでも可能にした。

共通番号制は危険

マイナンバー=共通番号制の危険性はすでに世界で実証されている。ドイツではナチスによるユダヤ人虐殺の教訓から共通番号制度はなく、英、仏にもない。英国では、2008年に労働党政権が「国民IDカード制」を導入したが、2010年政権交代で「国家は必要以上の国民の個人情報を収集しない。国民の人権を踏みにじる制度」として廃止した。
米国は、1936年から社会保障番号(共通番号)があるが、共通番号を悪用した所得税の還付金詐欺などの「なりすまし」犯罪が横行し、2006年〜2008年で被害者が1170万件、損害額は約173億ドルにのぼる。その対策から、2012年国防総省は共通番号から離脱し軍務に独自の分野別番号へ一斉転換した。連邦課税庁(国税庁)も11年から一部分野別番号採用へ転換し、高齢者医療保険(メディケア)も分野別番号へ転換する方向だ。共通番号制をとるスウェーデンでもなりすまし被害者は年間約6万5千人。ノルウェーやデンマークでも同様で、「なりすまし詐欺保険」を提供する会社も登場している。「情報通信技術全盛の今日では、犯罪対策からパスワードはできるだけ頻繁に変えるように求められる。生涯不変の共通番号は時代遅れ」と石村耕治さん(白鴎大学名誉教授)は言う。
「官民による利活用」を掲げるマイナンバーカードは、成長戦略であり、政府にとっては監視手段になり、IT企業や大資本には儲けの手段となるものだ。マイナ保険証は、多目的利用の入り口となる。24年秋、健康保険証廃止を阻止することは重要であり可能だ。マイナカードを返納し、廃止しよう。(花本香)

許すな!「戦時社会」への転換
アジアとの連帯を
6・18 的場昭弘講演会

6月18日大阪市内で「許すな!『戦時社会』への転換 6・18講演集会」が実行委員会主催で開かれ、百人が参加した(写真)。集会後「南西諸島へのミサイル配備反対」「軍拡大増税反対」を訴えて梅田までデモ行進した。
最初に「ミサイル配備が進む南西諸島の現地報告」を〈南西諸島への自衛隊配備に反対する大阪の会〉がおこなった。
続いて、的場昭弘さん(哲学者・経済学博士)が「世界資本主義の危機と運動側の視座〜世界の新しい変化の中で、私たちは今後どうしたらいいのか」と題して講演した。的場さんはマルクス『資本論』の研究者で、資本主義批判を根底に据え、世界が大きく変化していることを話した。以下、要旨を紹介する。

政府寄りの報道

大手の新聞、テレビの報道は全くダメになった。この30年でデジタル革命がおこり、世界の構造を一気に変えた。大手の企業はネット広告になり、新聞、テレビは収入源をたたれ、収入源を求めて政府に近づき、補助金を得て政府寄りの報道を流している。日本だけでなくヨーロッパも同じ。今私たちは報道というものが信用できない。左翼運動はYouTubeを使わないとダメ。自分で立ち上げて放送をした方がいい。

欧米支配体制の崩壊

自分が生きているうちにこんな世界が来るとは思っていなかった。今世界の基軸が大きく変わって、アジア・アフリカと言われている地域がGDPや政治的発言力がG7(先進国)よりも強くなった。毎年の経済成長がすごい。世界の国の4分の3、地理的にも4分の3以上、人口的には10分の9がアジア・アフリカ地域。今までは、G7の軍事力・経済力が強かったが、その価値基準が変わりつつある。

世界史

世界史という概念はヨーロッパがつけた。ヨーロッパが文明の先進国で、ヨーロッパのような文化、民主主義、人権を全ての国が踏襲していく。これをしないときには徹底的に教育していく。私たちの教科書は、ヨーロッパのような国にならなければいけないとされている。よその国は徹底してこれに抗戦した。だからこそ植民地になった。
マルクスも弊害を受けている。マルクスはヘーゲルの影響を受けて世界史は普遍史である。その普遍史はヨーロッパに体現されていると思っていた。唯物史観の原始共産制から始まる図式はヨーロッパの歴史で、他の地域では古代奴隷制とかはない。しかし、マルクスはこのモデルがおかしいことに1867年資本論1巻を書いた後に気づいた。資本論の改訂版に、私の資本論で対象にしたのは、西ヨーロッパだけだと書いている。さすがです。東ヨーロッパ及びアジアについてはもう1回書き直そうと思っていたが病気などでできなかった。

デジタル革命

1991年「社会主義」が崩壊し、世界が全て資本主義市場に包摂された。先進資本主義国はグローバリズムと称して、世界市場に資本をどんどん投下する。自由化によって、資本が逃避し海外へ工場を移転。韓国、中国には日本のパーツ工場が移転し、中国を世界の工場にした。グローバリズムは、先進国による過剰生産と経済停滞を阻止する手段であったが、これが旧植民地の経済を搾取されるだけの国から、新たな経済発展を生み出す可能性を生み出した。
デジタル革命は、最も遅れた地域が最も進んだ国になるというどんでん返しになる。タイ、ルーマニア、アフリカはデジタル化が激しく進んでいる。

アジアとの連帯を

世界の工場ができて先進国が金融資本化し、日本も世界に膨大なお金を貸し付けていて、その上がり利益で稼いでいる。先進国のGDPの産業部分が占める割合は30%くらい。中国は40〜45%。モノづくりを後進諸国に依存している。
しかし、新しい諸国BRICSがどんどん成長。最近はBRICSプラス、エジプト、トルコ、サウジアラビアなど。NATOは収縮して人口も減少。今までリードしてきた欧州軍、米軍、英軍が世界の主軸ではなくなり、世界基準ではなくなった。これらの国の中に私たちはとどまって、それ以外の国を悪と言い、戦争するというのは成り立たない。
ヨーロッパの人権や民主主義というものは、200年に渡ってアジア・アフリカでやってきた蛮行、植民地支配によって徹底して収奪してきた資金によって成り立つ。資本主義では、民主主義や人権というものは、抑圧する国を前提にしなければ成り立たない。そして、私たちはアジアに帰るべき。その為には過去の侵略の歴史を反省し、アジアと連帯していくことが重要だ。

4面

5月〜6月入管闘争
入管法改悪に連日決起
たたかいはこれからだ

今国会で改悪入管法が成立したが、闘いは2年前の時以上に広がり、入管体制の終わりの始まりを刻印した。首都圏の仲間のレポートを掲載する。(本紙編集委員会)

参議院議員会館前で訴えるミョーチョーチョーさん(6月9日)

6月9日 国会前

6月9日昼、入管法改悪法案が参議院で可決成立した。本会議では無内容「賛成討論」の後で野党議員による必死の反対討論が終わるやいなや「はい採決」という具合だった。傍聴席には入管当局によって死に追いやられたウィシュマさんのご遺族も。こんな状況を見てほんとうにどう思われたのか? まったく恥ずかしいこの国の実態だ。
参議院会館前では〈移住連〉が呼び掛けた連日行動「入管法改悪反対アクション国会前シットイン」が、この日もおこなわれていた。移住連の鳥井一平さんは「日本はこの30年移民の人々を人間としてではなく、文字通りの労働力としてしか扱ってこなかった。労働力としてしか見ないから人権侵害が起きるんだ」と。確かに、入管当局は国際的な基準をまったく無視しての外国人管理。その実態がこの参院審議の途中で明らかになってきた。
「採決するな!」「改悪反対」と次々とアピールが続いていた。とりわけ先頭で取り組んできた大学2年の男性は「大学でクルドからの難民に出会った。政府はそういう人たちとの関係を引き裂こうとしている。この法案を可決しようとしている議員は、この法が人の命を奪うものだということを自覚してほしい」と怒りを表明。またTVでおなじみの安田菜津紀さんは「在日コリアンに向けられてきた治安の維持や排除の方針が今、ほかの人々にも向けられてきた。これを差別と言わないで何なのか。しかし今、街のなかで、SNSで、多くの人たちが声をあげている。私たちができることをやっていきましょう」と力強くアピール。
そして、反貧困ネットワークのミョーチョーチョーさん。ミャンマーで民主化運動をたたかい、拷問され日本に逃れてきたロヒンギャのまさに難民の方。前日8日に国会前で入管の官僚を見つけて「難民はいないって、どういうこと?」と詰め寄った。「委員会で可決された昨日は落ち込んでいた」と言うミョーチョーチョーさんは、「昨日はごめんなさい。給料をもらったから買ってきた。みなさんで食べて」と袋から菓子を出して私たちみんなに配っていた。そうした声をもまったく無視しての「入管法改悪」の採決・可決成立だった。絶対に認めることはできない!
この入管法改悪反対の行動は、若手がひきいてきた行動だった。このミョーチョーチョーさんに寄り添ってきた川崎市多摩区の大学生が、5月27日にたった1人で「川崎デモ」を計画した。

5月7日 高円寺デモ

土砂降りの雨の中、ウイシュマさんを忘れないと訴え(5月7日 高円寺)

500人が集まっていた。土砂降りのなかで「すごく寒かったけれどすごく熱かった」とのFBが流れた。
企画した瀬戸大作さんは、「私たちが言いたいことは、ただ一つ『仲間を殺すな!』」

5月27日 川崎デモ

川崎在住の女子大学生が1人で呼びかけた川崎デモ。「帰れば殺される」と訴えるミャンマーのロヒンギャ難民ミョーチョーチョーさんの切実な声を聞いて「川崎でも声を上げたい」と思い立ったと。
400人が参加。多くのジャーナリストやミョーチョーチョーさんらも参加。

1人の女子大学生の呼びかけで400人がデモ(5月27日 川崎市)

6月5日 国会正門前5500人

6月5日19時から国会正門前で「在留資格のない難民・移民に在留資格を! 入管法改悪反対大行動」は21時過ぎまで続いた。
18時ごろから正門前には人が集まり始め20時ごろにはもう動きがとれないほどになった。若い人が多く、勤務や学校が終わってから駆け付けてきたとのこと。最後の方でスピーチをした中央大学法学部という男性「今から3カ月前、この活動を開始した。いろんなところに行って見て今の(入管体制)の状況がわかってきた。こんな状況は許されない。さらなる改悪をさせてはならない」と。「今、東京ばかりでなく全国で100以上、この行動が取り組まれています。絶対にあきらめない」と続けていた。

6月7日 国会正門前

熱い訴え続く国会前(6月7日)

集会開催が決まったのが1日前、そんな急でも4000人が集まっていた。若い方々の素早さに感動! この日は「総がかり行動実行委」も共催。
立憲民主党がこの日(7日)斎藤法相への問責決議案を出したため、7日の採決が見送られての集会だった。がんばった牧山弘恵議員が集会の終了時到着、大きな拍手。
この問責決議提出は明らかに5日の国会前行動に5500人もの市民が集まり、そして全国で百を超える行動があったからだ。ようやくメディアも取りあげるようになった。
「入管法・改悪・反対!」「強行採決・絶対反対!」「難民・移民を政治で殺すな!」「制度で殺すな!」「野党はがんばれ!」コールが続いた。
国会議員も立憲・共産・沖縄・れいわ・社民の発言とメッセージもしっかりとありました。
当事者の必死のアピール、19歳の当事者の女性が「生まれてからずっと在留資格がなかった。どれだけ苦しんだかわからない。私をどれだけ苦しめたら気が済むんですか!」と悲痛な叫びだった。在留不許可とされた方を入管当局が数人がかりで手と足をもって「制圧」し、すさまじい暴力で文字通り「強制送還」していく。その先の国で死を待つしかないのか。
当事者をパートナーとする方「夫が強制送還されたらどうなるか」「別れ別れ、子どもはどうなるのか?」と。そして在日コリアン3世は「私たち在日もまた入管体制の下にあり、まだあのマクリーン判決のもとに存在している。在留不許可の可能性だってある。在日の立場からこのたたかいに連帯していく」とアピール、大きな拍手だった。(F)

これからの闘いに向けて
入管闘争市民連合が全国集会

6月24日、〈入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合(略称:入管闘争市民連合)〉が「これからの闘いに向けた全国集会」を開催。仙台、東京、大阪、広島の4カ所とZOOMにて全国を結んで220人が参加した。

入管の終わりの始まり

冒頭、「国会審議の振り返りと評価」を指宿昭一弁護士、鎌田さゆり衆院議員が提起。 指宿弁護士は「入管法改悪は強行採決・成立してしまったが、2年前の廃案に追い込んだ時と比べても、大きな市民の立ち上がりがあった。全国150カ所を超える所でアクションがあり、1月27日から毎週国会前でスタンディング、2月9日からは自民党本部前で行動。6月5日には国会前に5500人が集まり、6月7日には4千人。さらに5月7日、杉並で嵐のなかを5千人がデモ、5月21日は渋谷に7千人が集まった。これ以外にも全国さまざまな地域で無数の闘いがあった。闘いはいよいよこれから。これは入管の終わりの始まりだ」と発言。

今後の取組

入管闘争市民連合が「今後の取組について」3点、@ウィシュマさん国家賠償請求訴訟に勝利すること、関係者の起訴(刑事訴追)を実現すること、A未成年者の在留特別許可を獲得すること、B難民審査参与員(柳瀬房子氏)問題の追及、を提起。
さらに、「国会議員との連携」として、送還ノルマの存在を暴露し、撤廃を要求する闘い、難民申請者が裁判を受ける権利を実現すること、難民問題に関する議員懇談会・野党ヒアリングなどへの情報提供をあげた。
全国の世論作りとして、@ドキュメンタリー映画『ワタシタチハニンゲンダ』国内外での上映運動、A仮放免者の子どもの絵、作文展示会、Bアクション、学習会などの企画の開催、C衆院選への取組、を提起した。
さらに、ウィシュマさん事件についての報告、大村入国管理センターでの死亡(見殺し)事件についての報告、質疑応答、来賓あいさつと続き、閉会した。

5面

戦争しかけるのは日本”
米軍Xバンドレーダー基地撤去
6月10日京丹後市

6月10日、「米軍Xバンドレーダー基地撤去! 京丹後現地集会」が京都府京丹後市内でひらかれ、近畿各地から百人が参加した(写真)。主催は、米軍Xバンドレーダー基地反対・近畿連絡会。

米軍基地ゲート前で集会

同連絡会が主催する京丹後現地集会は、毎年初夏におこなわれてきたが、新型コロナ感染症の流行がはじまったことにより、2019年を最後に、以降開催できなかった。今年は4年ぶりの開催となった。
今までは、米軍基地から西へ2キロメートルのところにある公民館を使用してきたが、今回初めて、米軍基地の目の前での開催となった。

日本が仕掛ける戦争

冒頭、主催者あいさつにたった大湾宗則さん(共同代表)は「日本が米国の戦争にまきこまれるという議論があるが、まきこまれるから反対するのではない。戦争をしかけているのは日本である。かつて日本が朝鮮や中国を植民地化し同化した。この体制は今も変わっていない。いま日本政府が加害の戦争をやろうとしている。私たちはこれに反対する。日米安保が世界中を戦争に巻き込む渦になっている。この日米安保を粉砕しよう。アジアや沖縄の人々が頑張っている。国際連帯のためにも、米軍Xバンドレーダー基地撤去の勝利にむけて闘っていきたい」。

日米地位協定の実態

京丹後現地から〈米軍基地建設を憂う宇川有志の会〉永井友昭さんが発言。「米軍が昨年11月8日、人身事故を市内で起こした。この事故を近畿中部防衛局は『軽微な物損事故』と虚偽の報告で隠蔽しようとした。米軍情報がきちんと公開されることはない。これが日米地位協定の実態だ。さらなる闘いが必要だ。土地規制法が施行され、この5月に第2次指定があった。ここはまだ指定されていないが、時間の問題だ。岸田政権は日本を世界第3位の軍事大国にしようとしている。いったい憲法9条はどうなったのか。」

連帯メッセージ

本集会に届いた3本のメッセージのうち「韓国ソソン里からのメッセージ」が読み上げられ、「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会・共同代表・清水早子さん」「沖縄戦と朝鮮人強制連行を記録する会・辺野古カヌー隊・金治明さん」からのメッセージはそれぞれ、デモ終了後の基地前での抗議行動の際に読み上げられた。

空自基地、米軍基地への抗議行動

デモは空自基地と米軍基地にはさまれた穴文殊(清涼山九品寺)が終点。境内で、永井友昭さんから現状報告を受け、その後、航空自衛隊経ヶ岬分屯基地、米軍Xバンドレーダー基地(経ヶ岬通信所)前で抗議行動をおこない、この日の行動を終了した。

本の紹介
『3・11大津波の対策を邪魔した男たち』を読む
島崎邦彦著 青志社 1400円+税

東京地裁2022年7月13日、民事第8部で、東電役員らに13兆円あまりの賠償命令判決が下された。とりあえず、司法判断としての東電役員の責任は、国内外に明示された。『東電役員に13兆円の支払いを命ず! 東電株主代表訴訟判決』というドキュメントがすでに刊行されている。(2022年10月25日 初版1刷発行)。民事であってみれば、賠償は金で済んでいるかのごとき。しかし、『3・11大津波の対策を邪魔した男たち』というそれほど大きくない書籍(本文244頁)。大事故を食い止めることのサボタージュによって事故被害の救いがたい大きさ、深刻さを招来した真因として地震学者の協議によって想定した津波の高さを知りつつ、東電は設営をさぼったことを明らかにしている。前掲の裁判を勝利に導く論拠はこの『長期評価』にもあった。
著者は、地震学の泰斗で、彼が座長となってまとめた、2002年7月の「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」を謙虚に受け止め、事故前に修正し、防御壁を増設していれば、津波と洪水で電源喪失、冷却水の喪失による核爆発などの深刻な事態は発生しなかったという痛憤の告発書でもあり、なぜ建造できなかったのかを追及し、その経緯を白日の下にさらしている書でもある。
しかし科学者の文体は、読んでエキサイトする調子はなく事実を坦々と描いているが、40ページも進むころには、「原子力ムラ」「電力会社」「東電」というような言葉が各所に出てくる。書籍の最初に「主な登場人物」と39人が肩書付きで実名で登場する。しかし、原子力村の核心的人物は5人にすぎない。前に書いた民事裁判の責任者は4人だったが、この書籍の読後の絶望は、地震学などの専門的知識の難解さによるものではなく、専門家集団の研究成果の報告を判読するときの視点が、ただひとつ、防災対策コストとそのねん出のための業務のサボタージュそして責任逃れの詐術の悪辣さ、電事連と官僚でされる非公開のロビイングにおける、議事進行の陰謀工作であり、専門家集団はただの権威付けの傀儡であることを納得することのやりきれなさ、対処不能の怒りにほかならない。
「まさに電力会社の立場を考えておこなわれたのが、2011年3月3日の秘密会合だ。事務局は、まだ発表されていない『長期評価』第2版を電力会社に説明し、意見を聞いた。そして東京電力の頼みを聞いて第2版を書き換える。このため、地震調査委員会の承認は後回しとなった。海岸から離れた場所まで襲う津波の警告は、翌4月の議題とされた。そして警告を発する前に、3・11大津波が東日本の太平洋を襲い、多数の方々が犠牲になり、福島第一原発の重大事故が起きたのである」(P228)。ここに、岸田政権のGX、DXイノベーションの危険への警鐘がある。岸田政権が、国民大多数の生命、安全、財産、個々の人生の人格の尊厳などかえりみてくれるわけがないのは、この書物を読めばはっきりする。

尼崎で映画と講演会
6月17日

改悪入管法の強行に対し、神戸ではデモと、強行当日のスタンディングがされたが、法案成立後の6月17日に兵庫県尼崎市では、「映画と講演の集い」が開かれた。主催は入管法改悪に危機感を持つ北田万寿夫事務局長ら事務局員4人の小さな実行委。3週間という短期日ながら、高原周治さん(小児科医)をはじめ50人を超える人が賛同し、会場一杯の60人が参加した(写真)
まずは映画『ワタシタチハニンゲンダ!』の上映。戦後入管令の発布から、主要には在日朝鮮人を迫害(=差別・強制退去)し、冷戦崩壊後も朝鮮高校・民族学校への差別が続く。その後日系人の来日、アジア諸国の青年を技能生・実習生として低賃金でこき使いながら、決して人権を保障し定住させることをさせない政策の要として入管法が運用されてきたことが、判りやすく映し出された。
後半はこのかん関西で難民救援・入管法反対の運動を取り組んできた弘川欣絵弁護士(尼崎市在住)の話。弘川さんは長年難民救援に取り組んできたが、法務省・入管局の対応は人権無視のまま。2年前とほとんど同じ改悪案を強行成立させたことの非道さを弾劾した。ただ今回、法案通過後もこのように声が上がっていることに希望、と結んだ。
この日参加のおおつる求伊丹市議はこの訴えに応えて、7月17日、午前と午後、いたみホールで、弘川さんを講師に映画と講演会をおこなう。映画を観ていない人はぜひ参加を。

6面

長期・読み切り連載 大庭伸介
先人たちの闘いの成功と失敗を学び現在に生かそう

左翼労働運動が登場
全労働戦線を牽引して大活躍B

評議会が直接指導した日本楽器争議
日本初のシュプレヒコールでデモ

大庭伸介著『浜松・日本楽器争議の研究』

1926年4月26日、浜松の日本楽器でストライキが始まった。ただちに評議会本部から組織部長の三田村四朗が現地に急行し、関東金属労組委員長で本部争議部長の本沢兼次も浜松入り。28日には本部教育出版部長の鍋山貞親が加わり、司令部を構成。以後、日本楽器争議は評議会の直接指導のもとに闘われることになる。
三田村はこの争議に勝利して静岡地方評議会をつくり、大阪に評議会本部のある関西と関東を結ぶ一大拠点を築く構想を抱いていた。彼は空席だった浜松合同の委員長も兼任し、全面的指導に乗り出した。
司令部は争議が長期化するという想定のもとに、まず争議団の教育とメーデーの準備に取組んだ。29日、30人以上の宣伝隊が自転車で八方にとび各工場に通勤する労働者にビラを配り、別動隊は全戸にビラ入れした。夜は劇場や映画館、寄席など人通りが多い場所で参加を呼びかけ、合計数万枚のビラを配布。
メーデーの前日、850人余の労働者が百人を1梯団とし、労働歌を高唱しつつ市内を行進した。夜は第1回目の演説会を開催した。地元紙は「定刻前から熱狂した市民がひしひしと会場めがけて押し寄せ、定員を300人も超え、場外に溢れる者その数を知らず」と報じた。
メーデー当日、会場の竜禅寺境内には3千を超える労働者が集まった。石垣の上に登った総指揮者三田村のメーデーについての演説を皮切りに、争議団長らの挨拶の後、鍋山を先頭にデモに移った。「日本労働組合評議会浜松合同労働組合」と染め抜いた赤旗をはじめ、「横暴なる資本家を膺懲せよ」などと筆太に書いた数本の幟を掲げ、市内の目抜き通りを約5キロにわたって行進した。
若い女性労働者のなかには、労働祭ということでお祭りを連想したのか、髪を桃割れに結って盛装して来た人もいた。このデモでは、日本最初のシュプレヒコールが叫ばれた。これは中国で「5・30事件」[注]が起きたとき、三田村が名乗り出て上海に密航し、中国人労働者の反帝闘争に参加して学んできたものである。

[注]1925年2月、上海の日本人経営の紡績工場で野蛮な労務管理に反対してストライキが起き、5月30日労働者・学生の大反日デモに発展。武力弾圧で死者4人、重傷者6人を出し、商工業者も含む反帝ゼネストが3カ月間闘われた。

警察は150人の増援を受け、署長の指揮のもと警戒体制を布いたが、隊伍堂々たる行進の前に一指も触れることができなかった。沿道には見物人が黒山を築き、市民は数カ所で水の接待をして歓迎した。静岡県下初の屋外メーデーの大成功は、争議団に大きな自信を与え、世論対策としても100%の効果を上げた。

ユニークで徹底した争議団の訓練
全市ゼネストを前に一斉大弾圧

東京市電自治会、三重や香川の農民組合など、評議会系以外の労組を含むあらゆる労農団体や水平社の闘士が全国から浜松に馳せ参じた。彼らは会社を包囲するかたちで設けられた各班の詰所に配置され、教育を担当した。教育は山川均が作ったパンフレットなど、各人が自由にテキストを決めておこなわれた。
特別なチューターとして、東京帝大に入学したばかりの竪山利忠が新人会から派遣され、本部が実施した労働講座の責任講師になった。竪山は黒板に即興的な漫画を描いて、労働者と資本家の関係、資本主義社会の仕組みなどを分かり易く解説した。この学習会には各班から集まった争議団員で、いつも満員であった。
もっとくだけて、各班の詰所では「男に生まれてよかったか女の方がよかったか」とか「犬と猫とどっちが利口か」などと質問し、全員に答えさせて討論を組織した。大勢の前で自分の意見を発表する訓練である。
あるいは各自の選んだテーマで「5分間演説」を自分の班のなかで、つぎに他の班に出掛けてやらせ、自信をつけたうえで、一般市民相手の演説会の弁士として登壇させた。10代半ばの少年工や女性労働者の壇上での奮闘は、つめかけた満座の人たちを感激させた。
「少なくとも評議会時代の争議のなかで、あんなにキチンと教育活動をした例は他にない」と、争議のほぼ全過程を現地で活躍した大阪地方評議会組織部長の斎藤民之助は語っている。
会社は早くも4月29日から、争議団員の家庭を訪問し切り崩し工作を始めた。それがいかに悪辣なものであったか、『東京日日新聞』(現・『毎日新聞』)が「遠州版」のトップ記事で暴露したほどである。
5月に入ると、日本主義労農同志会を名乗る右翼団体が登場した。中心人物は社長の長男で、のち33年に神兵隊事件(斎藤実内閣打倒をめざしたクーデター未遂事件)の首謀者になった人物である。彼は東京から青年国本社など札付きの右翼を呼び寄せ、街の与太者を5円の日当を払ってかき集めて、会社の正門前に事務所を構えた。そして数台の自動車の上から抜き身をふりかざしてビラを撒き、争議団を威嚇する演説をがなり立てた。
青年国本社の親組織・国本社の浜松支部長には市長の渡辺が、評議員には市議会議長で日本楽器の監査役小竹が名を列ねていた。
会社は地回りで自警団を組織し、青年団や在郷軍人会、さらに警察と一体になって、社長宅や監査役宅などを昼夜の別なく警戒した。こうした警戒体制は次第にエスカレートし、地元紙は「戒厳令が布かれたような浜松市」と報じた。
会社は相愛会という内務省お抱えの在日朝鮮人団体も使った。彼らは争議の応援者のなかに朝鮮人闘士全虎岩(通名・立花春吉)がいるのは「日鮮融和上面白くない」として、「立花を出せ」と争議団本部に押し掛けた。大乱闘の末、ガラス障子をメチャメチャに壊し、三田村ら数人に傷を負わせて引き揚げた。彼らの車に同乗していた巡査部長をはじめとする警官たちは拱手傍観し、何ら制止しようとしなかった。この日相愛会を率いたのは社長の次男であった。
これにたいして、在日本朝鮮人労働総同盟は直ちに代表を浜松に派遣して現地調査し、相愛会の正体を暴露したビラを市内に配布。
会社は5月7日から『争議日報』を発行し、争議団側のビラや演説内容への誹謗中傷を中心に、ほぼ毎日配った。さらに「労農ロシアの手先評議会は浜松から去れ」などという趣旨の畳半分もある大きなビラを何回も配布した。戦前・戦後の争議をつうじて、会社側がこれほど宣伝に力を入れた例は珍しい。
もちろん労働者側はそれを上回るビラを、何回も市内に配布した。浜松市内は各種のビラが入り乱れ、ビラ合戦の様相を呈した。
労働者側のビラは従来のような堅苦しい文字で埋め尽くしたものではなく、簡潔で分かり易かったので市民によく読まれ、評議会の組織のなかでも好評を博した。
司令部のある本部では、毎晩6時から1時間ほど会議が開かれた。応援者全員が集まり、会社側の動きや争議団内部の状況をめぐって討議した。各班の班長は毎日、争議団員の出欠状況や欠席者の欠席理由などを克明にまとめて司令部に報告していた。こういうことができたのは、評議会が関与した争議のなかで、このときだけであった。
5月5日、浜松合同は6月6日を期して全市ゼネストを実施することを申し合せた。その頃から、浜松以外の市や町や村、さらに他の府県でも争議真相報告・官憲糾弾の演説会が頻繁に開かれ、いずれも超満員で、20銭の入場料は争議の活動資金として役立った。
5月16日、2人の少年工が深夜司令部から帰宅途中4人の警官に路上に押し倒され、靴で顔面を蹴られて重傷を負った。この頃このような事件が頻発した。
17日の夜、浜松合同の活動家を含む4百人ほどが、市内の秋葉神社に集合してデモを始めようとして警官隊と激突し、31人が検束された。この事件以降、警察は一切の屋外行動を禁止した。
23日には、市内15カ所で演説会が同時開催された。うち3会場では中途から市民大会に切り換え、争議の早期解決を求める決議をおこなって、翌日社長と市長に決議文を手交。
27日、浜松合同傘下の日本楽器を除く13工場で、1400人の労働者がそれぞれ休憩時間に大会を開いて争議支援を決議し、翌日決議文を会社側に手交。
一方、5月7日、市内の主要工場の代表者が警察署に集められ、市長同席のもとで全市ゼネスト対策を協議した。9日、陸軍第18連隊浜松第3大隊が、下士官以下の外出を禁じ万一に備えた。21日には愛知県の豊橋憲兵分隊を浜松に移し、全県下の警官1200人の半数を浜松に集中した。24日、静岡地裁の検事正が司法省から呼び出され急遽上京して協議し、同日、警察はビラの配布を禁止した。
そして5月29日、鍋山以下96人が一網打尽に検挙された。当局は治安維持法違反をデッチアゲしようとしたが失敗し、鍋山ら6人が出版法違反、争議団員20人が暴力威迫で起訴・収監された。それ以外の人は3日後釈放され、応援者は浜松から追放された。
一斉検挙の翌日、来浜した名古屋法曹団の弁護士に、警察署長は「署長個人としての取締りじゃない。内務大臣の許にある取締りだ」とうそぶいた。日本楽器争議は、ここから本番を迎えることになる。(この項続く)

7面

優生保護法被害裁判 6月1日仙台高裁判決
国の賠償責任転覆する超反動判決
関東「障害者」解放委員会 妹尾明憲

優生保護法被害裁判を、全国で最初に開始した佐藤由美さん(仮名)と飯塚淳子さん(仮名)に対する仙台高裁での判決が6月1日にあった。

控訴棄却

開廷するや否や、石栗正子裁判長は、「控訴人らの本件控訴をいずれも棄却する」とだけ言い捨て、法廷を立ち去った。自らの書いた判決のひどさを、自覚しての所業だろう。
判決は、優生保護法を憲法違反としつつ、国が被害を与えてから20年の除斥期間を過ぎているから、国には損害賠償をする責任はない、というものだ。憲法第17条の「公務員の不法行為による損害の賠償」の有効期間を、民法によって制限するという運用をおこなっている日本の裁判所の運用の問題がある。しかしすでに、大阪高裁や東京高裁をはじめとして、優生保護法被害者の置かれた状況を考慮し、国の損害賠償を認める判決が続いてきた。この流れをひっくり返そうとする石栗らの論理は、およそ良識を欠いたものである。

不妊手術が起算点

この判決では、原告の飯塚さん、佐藤さんが、不妊手術を受けた時を、除斥期間20年の起算点としている。飯塚さんは1963年、16歳の時に不妊手術を強制された。その約半年後に、両親の会話を聞き、受けさせられた手術が不妊手術だったことを知る。優生保護法による被害であったことを知るのは、97年の父親からの手紙によってだ。佐藤さんは、72年、15歳の時に、不妊手術を強制された。数年後に、佐藤さんの母親が義姉に、不妊手術であったことを伝えたとのことだが、この義姉も優生保護法による被害であることを知ったのは、飯塚さんの社会への訴えを報道により知った2017年になってからだ。
しかし、石栗らの裁判体は、未成年であった飯塚さんや佐藤さんに、「原告らが権利行使することが客観的におよそ不可能であり又はその行使の機会がなかったとまではいえない」と判決文に書き込んだ。飯塚さん、佐藤さんの両親は、行政や福祉関係者の圧力の下で、不妊手術の承認をさせられていたのだ。どうして損害賠償の権利が行使できるのか。
しかも宮城県は、63年から72年にかけて、優生手術の件数で、日本一となっている。62年に県議会で、社会党も含めて、優生手術の増加を求める質問がおこなわれ、宮城県衛生部長は、「十分使命を果たしたい」と応じて、こうした事態を引き起こしていたのだ。こんな中で、国の犯罪であったことを知らない市民、とりわけ、当時未成年だったふたりに何ができたと言うのか。
しかも、石栗らは、この主張のでたらめさを意識して、判決後に報道関係者に渡した判決文では、この表現の部分にマスキング処理を施していたのだ。
さらに、この判決文では、優生保護法を廃止した96年前後に、この問題を指摘する社会的な動きがあったのだから、もっと早く訴えることができたはずだ、などと書いている。優生手術を受けた時を、除斥期間20年間の起算点としているのだから、ここは、原告をあざけるために書いているとしか考えられない。

謝罪を求める会

飯塚さんは、98年に結成された〈優生手術に対する謝罪を求める会〉(以下、求める会)に連絡を取るとともに、自分に関する優生保護審査会の決定書類や優生保護台帳の開示を、宮城県に対して求めてきた。宮城県からは、99年に、飯塚さんが優生手術を受けた63年度の分だけ廃棄されている、との回答があった。これらの書類は、永久に保存しておかないといけないものなのである。県のこの公文書毀棄罪にもあたる行為によって、飯塚さんの裁判提訴は大幅に遅れる。日弁連も含めて、飯塚さんが相談したどの法律家も、証拠がないと裁判はできない、と判断していた。飯塚さんは、求める会とともに、厚生省交渉もおこなった。彼女の被害を聞いた官僚からは、当時は合法であり、実態を調査するつもりもない、との趣旨の言葉が投げつけられた。こうした状況の中で、飯塚さんがどれだけ精神的に追い詰められていったことか。

日弁連に人権救済を申し立て

2015年6月、飯塚さんは日弁連に人権救済を申し立てた。17年2月に、日弁連は国に、実態調査や補償を求める意見書を出す。これをきっかけに、飯塚さんの訴えが報道され、この報道を知った佐藤さんが、被害を名乗り出る。佐藤さんの優生手術についての記録は宮城県に保存されており、18年1月、全国で初めての優生保護法被害の損害賠償裁判を起こすことができた。その後、宮城県は、飯塚さんが持っていた優生手術が必要という判定記録をもとに、飯塚さんに手術したことを認めた。そこでようやく、18年5月から、飯塚さんは裁判に加わることができたのだ。
こんな経過は、原告側からの主張や証拠により、裁判官たちは知っていたはずだ。

人生被害をないものとする判決

判決は次のように言う。「国会議員や厚生省及び文部省による優生政策の推進は、旧優生保護法による優生手術の実施を促進し、不良とされた者に対する差別の意識を誘発し、助長するものであったといわざるを得ないが、本件優生手術の実施と直接の因果関係を有する行為であったということはでき」ない。「本件優生手術後の立法不作為は、社会一般に対し、不良であるとされた者に対する差別の意識を誘発し、助長するものであったというべきであるが、本件優生手術の実施と直接の因果関係を有するものではな」い。
だから、賠償請求とは関係がない、とする。国が引き起こした社会的偏見の元に、不妊手術を強制された本人、親族に対して、一生に及ぶ被害が起こり続けることは当然ではないか。佐藤さんには結婚の話があったが、子どもが産めないということで、その話はなくなってしまった。飯塚さんは、夫の親族から祝福された結婚も、子どもが産めないことを告白したため、夫が去り、親族からも家から出て行くように要請され、別の県に引っ越さざるを得なかった。こうしたことを、原告の訴えも含めて聞いていた裁判官たちは無視したのだ。

先駆者の闘いを妨害

飯塚さん、佐藤さんの闘いを知る中で、その後の優生保護法による被害者が名乗り出て、裁判が全国で起こされるようになった。こうした先駆者の闘いを妨害するために、石栗正子、鈴木綱平、竹下慶の3人の裁判官は、国の損害賠償責任を否定するために行動した。そのためには、どれほど無茶な判決を書いても、政府によって司法官僚として重用されるとでも思っているのか。わたしたち「障害者」、そして連帯する市民は、こいつらのような司法官僚を、日本の裁判制度の中にのさばらせておくことはできない。

投稿
第54回釜ヶ崎メーデーに参加して(中)
反省、メーデー・経済闘争を軽視
上田勝

メーデーの歴史

連合メーデーはもちろん、全労協その他のメーデーであっても、私はいくら誘われても参加する気は、微塵もない。だが、今年の「釜ヶ崎メーデー」に参加するにあたり、ネットで少し調べてみた。
メーデーは1886年5月1日に、合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟、AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求の統一ストライキをおこなったのが起源だ。日本では、1905年(明治38年)平民社の主催で開かれた茶話会がメーデーの先駆けと言われている。
引き続き1906年に横浜曙会の吉田只次・村木源次郎・金子新太郎らがメーデーを記念し街頭演説、ロシア二月革命後の1917年5月7日に在京社会主義者約30人がメーデー記念の集いを開催した。

血のメーデー

血のメーデーから約2月後に私は誕生した。
GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(=皇居前広場)の開放」を決議していた。
この年のメーデーは1952年、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約が発効した直後のメーデーで、両条約反対のデモ隊が使用不許可となっていた人民広場に入り、警官隊と衝突した。広場は戦後メーデーの復活以来メーデー会場となり、他の多くの集会も開催されて、人民広場とよばれていたが、1951年のメーデーに際し、アメリカ占領軍は同広場での開催を禁止し、1952年のメーデーでは東京地裁が不許可処分取消判決を下していたにもかかわらず、政府の措置で開催を妨げられていた。警察は催涙ガスを使用し、また武器を持たないデモ参加者に向けて銃を発砲したため、その年のメーデーは流血の惨事となり、多くの死傷者が出た。
憲法に保障された形の政治的表現を行使していたデモ参加者に対して、警察が殺傷力のある武器を使用したのは、戦後日本で初めてのことだった。3度の排除攻撃、衝突で拳銃弾70発、催涙ガス弾73発が発射された。デモ隊側は死者1人、重軽傷者約200人(主催者発表では死者2人、重軽傷者千数百人)、警察側は負傷者832人(うち重傷者71人)を出す流血の惨事となった。その後、デモを統制するための警察の手続きは変更された。警察はデモを監視する際には銃を持たず、1960年安保闘争まで催涙ガスが再び使用されることはなかった。当日は警察予備隊(現在の陸上自衛隊)の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾したため、出動を命じるには至らなかった。(つづく)

8面

投稿
動くぞ狭山!! 動かせ狭山!!
12月までに事実調べ・再審を

検察は、自己保身と二枚舌をはじよ

6月8日開かれた狭山事件の第三次再審請求第55回三者協議において、検察官は弁護側が求めた「すべての鑑定人尋問の必要性はない」「インク資料の鑑定も必要ない」と主張しました。これに対し石川早智子さんは「想定されていたこととはいえ、怒り心頭です」と書いています(『冤罪・狭山事件』より)
『検察の理念』に刻印された「無実の者を罰し、あるいは、真犯人を逃がして処罰を免れさせることにならないよう、知力を尽くして、事案の真相解明に取り組む」という理念はどこへ行ったのか。1990年女児殺害の足利事件(冤罪被害者・菅家利和さん)と厚生労働省の村木厚子さんでっち上げ・証拠の改竄という警察検察による犯罪を契機に作成された「検察の再生及び国民の信頼回復のための・・改革」の理念は何だったのか?
足利事件の被害者遺族から「私からすれば、真犯人の共犯者は警察ではないかと思います」とまで指弾されたことをもう忘れてしまったのか? 菅家さんの「私は刑事たちを許す気になれません。それは検察や裁判官も同じです。全員実名を挙げて、私の前で土下座させてやりたいです」という怒りの声がまだ届いていないのか。「無実の菅家さんを起訴して長年にわたって服役させ、苦痛をあたえたことについて大変申し訳なく思います。検察を代表し、心から謝罪します」と検事正(宇都宮地検)の幕田英雄が述べたことは自己保身と社会を欺くためのペテンに過ぎなかったのか? 検察に「社会正義」や「人の心」を求めるということはないものねだりに過ぎないのか? 検察官は「菅家さんが無実であるなら、早く軌道修正をして欲しい。捜査が誤っているなら、謝るべきです。捜査は誰が考えたっておかしいでしょう。ごめんなさいが言えなくてどうするの」という被害者遺族である母親のあたかも幼稚園児をさとすような訴えを思い起こしてほしい。検察の社会正義、倫理観、人間としての資質そのものが問われているのです。
まだ間に合います、無実の者を生贄にして自己保身をはかり、二枚舌をつかってペテンにかけることをやめ、隠し持つ証拠をすべて明らかにしてすべての冤罪事件の事実調べと再審への道を開くこと以外に「検察の再生」はありません。

大野裁判長は、袴田事件の裁判官に続き司法の正義と独立を示そう

袴田事件の一審(1968年 静岡地裁)において、袴田さんの無実を確信しながら合議によって死刑判決を書いたのは熊本典道判事でした。無罪の判決文を携え合議に出席した熊本氏は、袴田有罪(死刑)を強硬に主張して譲ろうとしない一人の判事に対して「そんなに言うならお前が(判決文を)書け!」と怒鳴って、自分が書いてきた判決文を破り捨ててその判事に投げつけたと言います。
2014年に再審開始と死刑・拘置の停止を決めた村山浩昭裁判長は「これ以上拘置するのは耐えがたいほど正義に反する」「後にどんな批判を受けようとも、釈放するしかないという結論になった」「1年たって味噌の中から血染めの衣類が偶然出てくることはありえない。(捏造するなら)真犯人か捜査機関だが、真犯人が危険なところに近づくはずがないと常識論で考えた」「無罪らしいのにどうして出られないのか、という疑問が根本にあった。捜査機関による捏造の疑いが高い証拠で有罪になっていいのか」(中日新聞5/20)と言っています。
さらにこの3月検察の即時抗告(2014年の再審開始決定にたいする)を棄却した大善裁判長は、検察が「酸素濃度が低い環境では長期間味噌漬けされた血痕に赤みが残る」と主張しておこなっている実験現場に出向き、その目で「低酸素状態」「赤みが出やすい白熱電球」などのインチキを確かめて、弁護側実験が正しいことを認めています。

狭山の大野裁判長は、この袴田事件の裁判官につづいて自らの目で万年筆のインクの鑑定、発見現場のカモイなど11点の証拠調べを、ただちにおこなうことを求めます。

吾が黄泉は遠方にあり悟れども 冤罪はれず天に逝けずや

石川さんの命を削る訴えに応えよう。大崎事件の再審棄却をみても検察には、「我が国の司法制度が崩れる」(毎日2/8)ことに対する恐怖と逆流が渦巻いています。どこから、いつ来るかの方針を待つことなく、大野裁判長退官の12月までに事実調べ・再審の扉をこじあける攻勢に打って出よう。
フェイスブックには「記者会見を開く」「3万人くらいの大きな集会を開く」「石川無実の公開審理(裁判)を開く」などさまざまな意見が見られます。
『被差別部落に生まれて』の著者、黒川みどりさんが石川夫妻をまねいて立教大学で学生と狭山の授業をおこなっています。毎日新聞の隈元記者(埼玉版)はなぜ日弁連や国民救援会が狭山の支援に取り組まないのか疑問をあげて「無実を訴える石川さんは84歳を迎えた。残された時間は少ない。政治的イデオロギーの問題ではなく、人権問題であるという一点で一致をみることはできないのだろうか。誠に残念なことだ」(「記者の一言」)と問題を提起しています。(6/19)
狭山大運動がよびかける「狭山事件の再審を実現する7・17関西集会」に参加しよう。
平井健三郎

狭山再審闘争勝利のためのパンフレットの紹介


『短歌に託して』
第7回狭山事件の再審を実現しよう市民の集いin関西 報告集
































狭山事件の再審を実現する7・17関西集会
とき:7月17日(月休)午後1時半
ところ:エルおおさか・6階・大会議室
主催:狭山事件の再審を実現する大運動



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