安倍以上の専制・世襲政治
岸田反動政権と全面対決を
「G7広島サミットの成功」と称して支持率アップを図り、解散総選挙をもくろんだ岸田政権に暗雲が立ち込めている。首相公邸での忘年会=世襲政治批判の拡大であり、入管法改悪反対の拡大など人権最低国日本への国際的批判の広がりだ。自分の息子を権力中枢の秘書官にし、岸田家4代目を継がそうとして、一族での公邸大忘年会〜これほどの政治の私物化があろうか。
失われた30年でロスジェネ世代を先頭に人々が将来に希望が持てず塗炭の苦しみにあることなど眼中になく、「自分だけ」の政治に批判が集中し、サミット成功支持率アップは帳消し。さらに支持率が下がることは必至だ。
G7最低国=没落帝国主義
サミットの成功と称しているが、G7諸国・アウトリーチ8カ国など16カ国を集めたが「華やかな外交ショー」で実の成果は何もない。「中国包囲網」も何も進まなかった。それよりもG7を上回るインド・ブラジルなどグローバルサウスの存在感に圧倒され、もはやG7など何の決定力もないことが示された。
特にこの20年の日本帝国主義の没落は激しく、国民1人当たりのGDPは2000年G7サミット時はG7諸国中1位だったが、2023年は7位と群を抜く。東アジア・東南アジアでは、中国・インドは言うに及ばず、韓国、台湾、フィリピン、ベトナム、シンガポール、インドネシアなどかつては「発展途上国」と言っていた国に「1人当たりのGDP」で抜かれたり追い越される寸前にあり、ただただ差別・排外主義をあおり「優越感」に浸るしかなくなっている。それもこれも55年体制崩壊以降、「失われた30年」を招来させ放置した政治委員会の責任と言える。
広島サミットは各国首脳が平和公園・資料館を訪れ、核の悲惨さに核兵器廃絶への歩みが進むかと「期待」した人もいたが、これも破産し「大きな失敗」(サーロー節子さん)に終わった。広島でやった理由はただただ岸田の個人的名誉・支持率アップのためだった。しかし各国首脳・マスコミの前で、LGBTに冷たい国、入管法改悪=人権後進国をも世界に告知してしまった。
さらに続く日本の没落
この長期低落の日本経済・日本社会を、かつての「英国病」(「ゆりかごから墓場まで」)に倣い「日本病」と名付ける識者も出る始末。かつてのイギリスは衰退の原因が福祉とされたが、現在日本は衰退と低福祉・低賃金が一体で救いようがない。そしてその原因は「政治の貧困」につきる。
日本の長期失速の最大の原因は、少子高齢化・労働力不足と資本家は考えている。衰退するG7諸国はこの突破を外国人労働力の導入に求めるが、日本は一貫して否定的で、移民など認めない(自民党安倍派など岩盤右派が主導)。女性や高齢者は安価な労働力とされ、出生率の低下・人口高齢化に歯止めがかからない。
この過程で政権の取った政策は、日銀による金融緩和政策だけで、物価引きあげ目標も失敗。金融緩和と円安政策は、日本企業の技術革新力を喪失させ、2000年代までは上位シェアの半導体が急速に衰退し、今や韓国・台湾の足元にも及ばない。唯一世界的シェアを誇る自動車産業もトヨタの落日すらまぢかだ。
産業政策も社会保障政策も長期的計画性はなく、場当たりバラマキがあるだけだ。半導体の弱体化が指摘されれば、日本への工場誘致に補助金を出す。大学ランキングの低下には大学ファンド・研究補助金対応。デジタル人材不足にはリスキリング補助金。出生率低下には児童手当と場当たり対応だけで、「失われた30年」が経過してしまった。今一つは30年にわたり賃金が物価上昇に対応できず、実質賃金の伸び率はマイナスが続く。官製春闘で大手だけ賃上げなどしても転換にはならない。
そのうえで防衛費2倍化で世界第3位の軍事費など、破産に向かって突進など、もはや打つ手なしである。
凶暴化強める岸田
今次通常国会は野党の屈服で、GX法案など反動法案がいとも簡単に成立している。入管法のみ当事者と支援者の行動で立憲民主党などが反対し、終盤までもつれ込んでいる。次は先制攻撃=防衛費2倍化=大増税をめぐる本格論議だが、その前に解散・総選挙というのが岸田の目論見だ。
しかし岸田の解散戦略の前には、公明党との亀裂と、公邸忘年会=政治の私物化批判が大きく横たわっている。公明党は、戦後高度成長期に地方出身者の労組とは違う相互扶助組織として、平和と福祉をかかげ影響力を拡大した。バブル崩壊・55年体制の崩壊で当初的な意義を失い、「平和と福祉」を捻じ曲げ、自民党との連立で延命してきた。しかしここ15年その影響力は減退し、今次統一地方選で12人の落選という未曽有の危機が露呈した。ここを維新につかれ右往左往している。全国300の小選挙区で2万規模の票で自民をかさ上げしてきた公明党との連立の危機は、G7最貧国の政治支配の危機として小手先の妥協などありえなくなっている。
今一つの世襲政治=政治の私物化批判も底が深い。「失われた30年」の苦悩をよそに、100m走を50mからスタートする2世・3世など許されない。この国は封建世襲国家ではなく機会均等の民主国家なのだ。特権階級・上級国民への批判は一度火が付いたら革命にまで至るのはどの国の歴史でもそうだ。自民党総裁選で高市=安倍に勝ちながら、やることは政治の私物化、敵基地攻撃能力・防衛費2倍化・原発全面再稼働の安倍と全く変わらない。これへの批判は安倍の甥、「昭和の妖怪」岸信介のひ孫=岸信千代が4月補選で苦戦したことに既に現れている。世襲批判は爆発寸前だ。
『未来』の旗を掲げて進もう
この政治状況に対し野党はどうか。立憲・共産の後退と左派・リベラルの混迷が続いている。しかしそれを嘆いてどうする。我々は戦争反対と生活防衛を闘わない限り、生きていくこともできない渦中に既にいる。最新刊の雨宮処凛・白井聡著『失われた30年を取り戻す』の結論は「ロスジェネよ、今こそ怒りの爆発を」だ。
ネット右派・反フェミニズム、差別・排外主義の跳梁許さず、反軍拡・沖縄・原発闘争の全面再興と生きるための闘いを始めよう。入管闘争・狭山闘争など「人権」にかかわる課題は、「万人のため」一気に普遍化する。
分岐・分散過程の野党第1党の混迷、中央指令待ちの組織を乗り越え、翼賛化に進む労働組合を許さず、現場から大衆闘争・労働運動を再興しよう。東京・杉並で始まった反乱を全国に拡大し、市民自治を作り出そう。その先頭に『未来』の旗をかかげて闘いぬこう。
入管法は廃案だ
「強行採決許すな」と40人が抗議行動(6日、神戸市) |
5月連休明けから参議院法務委員会で審議が始まった改悪入管法はさらに問題が露呈し、法案の根拠を失い廃案しかなくなっている。一つは難民審査参与員の問題で、これには第3者機関の設置を法案に明記する以外ない。今一つは大阪入管で医師が飲酒診察していた問題だ。ウイシュマさん事件以降、法務省は「二度と起こさない」と宣言したが、実態は変わっていなかった。斉藤健法務大臣の問責決議が出されて当然だ。
法案強行採決かと言われた6日を前に、5日国会前では5500人が抗議。6日には各地で抗議が続き、次の採決日と言われる9日を前に断続的な抗議行動が各地で続いている。人権後進国の不備な改悪法案は廃案しかない。最後まで反対の声を上げよう。(6月7日)
2面
被爆地踏みにじったG7広島サミット
G7の世界支配は終焉
広島サミットには、G7に加え、いわゆるアウトリーチ国としてブラジル、インド、インドネシア、韓国、豪州等8カ国が参加、欧州連合(EU)も含め計16の国・地域と機関の首脳が一堂に会した。核軍縮に関する声明では、ロシアによる核の威嚇を非難し、自分たちの核兵器については「防衛目的」また「抑止目的」だと正当化した。核武装国とその「核抑止」に依存する国が、核軍縮の意志もないまま、米国・日本、及びNATOとの軍事連携の強化を意図して、広島に集まりヒロシマを政治利用した。核兵器を肯定する首脳らによって被爆地は踏みにじられた。
最大のアピールポイントであったG7首脳による原爆資料館の視察では、全面ガラス張りの資料館の壁はすべて白いシートで目張りされ、メディア取材はシャットアウト。首脳らは被爆の実相が展示された本館には入らず、並べる展示物も事前に米国側の注文によってより分けられた。
カナダから広島市に帰郷している被爆者サーロー節子さん「大変な失敗だった。首脳の声明からは体温や脈拍を感じなかった」、「(広島ビジョンは)広島まで来てこれだけと思うと胸がつぶれる」と失望感をあらわにした。
サミット反対をかかげ広島市内をデモ行進(5月19日) |
「広島ビジョン」
初日の5月19日、岸田首相にとってサミットの最も重要なテーマである核廃絶、核軍縮に関する共同文書「広島ビジョン」が発表された。
そこでは「核戦争に勝者はなく、また、核戦争は決して戦われてはならないことを確認する」と、2022年1月3日の5核兵器国首脳の共同声明を繰り返すが、「我々は、ロシアに対し、同声明に記載された諸原則に関して、言葉と行動で改めてコミットするよう求める。我々の安全保障政策は、核兵器は、それが存在する限りにおいて、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている。」などと「核抑止力」を正当化した。
岸田は「理想をいかに現実に近づけるか」と言い訳するが、今回の広島ビジョンは、核廃絶を目指すとの主張がいかに欺瞞に満ちているかを浮き彫りにしている。「核なき世界」と繰り返すが、日本政府は核兵器の廃絶を目指す「核兵器禁止条約」に反対し続け、ドイツのようなオブザーバー参加にすら否定的対応をしてきた。
「核の脅威」に関しては、中国、ロシア、朝鮮を敵視する内容しかない。
「グローバルサウス」取り込みに失敗
サミット拡大会合には、韓国とオーストラリアのほか、新興・開発途上国のインド、インドネシア、クック諸島、コモロ、ブラジル、ベトナムの6カ国を招待した。
これら6カ国は、経済成長が著しく国際政治でも発言力を強める「グローバルサウス」に属す。グローバルサウスには現在、世界人口の半数を上回る40億人が住み、100以上の国家が属する。
グローバルサウスはまとまりのある集団ではないが、共通点は多い。ウクライナ問題や台湾問題では日米の主張に与しない。米中対立でバイデン政権が強調してきた「民主か専制か」「アメリカか中国か」といった二元論的な立場ではなく、国益に基づく実利外交を追求する。米中対立を利用して、エネルギー、食料、気候変動問題などで米中双方から経済的支援を引き出すことを利益とみなす。
ゼレンスキー大統領がサミットに乗り込んだが、G7は、グローバルサウスを「対ロ、対中陣営」に引き込むことを狙っていた。
インドのモディ首相は、政治解決の必要を繰り返した。ロシア軍の即時撤退を求める内容は口にしなかった。「ゼレンスキー氏を待っていたが、同氏が約束の時間に現れず、会談できなかった」というブラジルのルラ大統領は「ウクライナとロシアの戦争の話をするためにG7に来たわけではない」と持論を展開した。
対中国対抗上の中心課題であった「グローバルサウス」の取り込みでも何ら見るべきものはなく、失敗したのだ。
G7による世界支配は崩壊
もはやG7に世界を支配する力などないことがあらわになった。
主要には米国の力の衰退がある。戦後、米国は圧倒的な国力で世界に君臨した。ドルが世界貿易を支配し、米は「世界の警察官」として振る舞った。しかし、その力は失われて既に久しい。
G7の凋落は、2008年のリーマンショックの際、新自由主義、金融資本主義が破綻したことで鮮明になった。かつてはG7の国々こそ世界を牽引していた国であった。しかし今は、経済においても政治においても、いわんや軍事、外交においても、世界を主導できない。その後のG7の凋落ぶりと、中国の台頭、戦争に前のめりになるロシアと日本、という新たな世界の現実が、一層際立ったのが今回の広島サミットだった。
G7帝国主義は深刻な危機に見舞われている。米帝史上初の政府債務不履行(デフォルト)が切迫し、バイデンはその対応に追われてサミット会議を途中で抜け出すという「G7の盟主」にあるまじき醜態をさらした。ウクライナ反戦闘争の高揚で国内支配の危機にあえぐ伊首相メローニは「洪水視察」を理由に途中で帰国した。
最大25000人の警官が全国から動員され、警察車両で道路を封鎖し、高速道路も一般道も封鎖、学校まで休校となった。広島史上最大の厳戒態勢を敷いたサミットはみるべき成果なく終わった。
軍拡、増税反対
今回の広島G7は戦時下のサミットだった、ウクライナ戦争においていかにロシアに打ち勝つかということがさかんに議論され、中国とロシアを敵対国とし、その敵対国と戦うべくウクライナに武器を輸出するということが議論された。
アメリカをはじめ多くの国々が、ロシアによるウクライナ侵略を口実にして軍事強化を図っている。とりわけ日本政府はまさにロシア・ウクライナ問題を口実にして軍事強化を進めている。去年の12月16日に、反撃の能力を含め、防衛力を根本的に強化する内容の安保関連3文書を改定した。「敵基地攻撃能力」を持つというのだ。
在日米軍基地の70・3%を押しつけられている沖縄への、米軍辺野古新基地建設に加え、石垣島、与那国島、宮古島など、琉球弧の島々に、自衛隊基地の建設やミサイル基地の増設などが急ピッチで進められている。ミサイル要塞化が強行されている。沖縄では、5月21日に県民集会が開かれ、「新たな沖縄戦」への危機感が吹き出している。沖縄はじめロシア、中国、朝鮮の人民と連帯して日本の戦争挑発、軍拡、増税を阻止しよう。
大軍拡反対のデモ
6月4日神戸
岸田大軍拡反対をかかげ進むデモ隊(6月4日、神戸) |
6月4日神戸市内で大軍拡に反対する市民のデモがおこなわれた。主催は「こわすな憲法! いのちとくらし! 市民デモHYOGO」と「憲法改悪反対兵庫県共同センター」。午前中に80人が集まっての沖縄学習会を終えた市民デモHYOGOの仲間をはじめ、県下各地から130人の仲間が集まった。
出発前の花時計前での集会では、木下智史関西大教授がミニスピーチ。木下さんはあらためて昨年末閣議決定された安保3文書を批判。そこでは軍拡財源確保法案など以外にも、敵とみなした衛星の撃墜、有事の際の食糧確保、国民すべての通信を傍受しての情報収集等、戦争遂行に必要な法案・計画がすべて書かれていると指摘。長距離ミサイルを持つ軍事国家になれば、東アジアの安全環境は良くなるのか、と問いかけた。集会は「抑止力の向上に代わる平和外交による緊張緩和を求めます」というアピールを採択し首相官邸に送付した。
デモ行進は市役所前から三宮センター街を経て元町駅前という神戸一の繁華街を進んだ。休日の昼間、多くの買い物客・観光客でにぎわう中、「大増税反対」の大きな幟旗を掲げたデモは大注目。市民は国会で本格増税論議をする前に解散・総選挙で勝利し信認を得たとする目論見への危惧や、この日も掲げられた「入管法改悪反対」のボードに手を振ったりスマホで写真をとったりして応えた。
3面
沖縄日誌5月 島々を戦場にするな
PAC3常駐配備の動き
5月1日 防衛省は、朝鮮民主主義人民共和国による人工衛星打ち上げに備えたPAC3の宮古島、石垣島、与那国島3島への配備を完了したと発表。3島に投入する車両130台、人員4百人を空自宮古島分屯基地、陸自石垣駐屯地、陸自与那国駐屯地に配備した。沖縄ではこれまで、2012年と2016年にも空自のPAC3が展開した。
政府は4月中に衛星打ち上げがあると準備を急いだが、衛星打ち上げの日時や、方角の予告はない。市民は「もともとPAC3の常駐配備に向けた地ならしではないか。展開が長期化すれば国の姿勢への疑念は大きくなる」と懸念を示した。
3日 憲法記念日に「2023年憲法講演会」が浦添市で開かれた。オンラインを含め6百人が斉加尚代さんの講演に耳を傾けた。また、うるま市の陸上自衛隊勝連分屯地への地対艦ミサイル部隊配備に反対する「ミサイル配備から命を守るうるま市民の会」から宮城英和さんが報告。
宮城さんは「勝連分屯地周辺には学校や民家、石油備蓄基地などがあり、ミサイルが配備されれば攻撃される場所になる、そこにミサイルが撃ち込まれれば大変な状況になる」と懸念を示し、うるま市はじめ南西諸島への「軍事要塞化」反対の声を上げようと呼びかけた。
9日 「辺野古新基地建設断念を求める国会請願署名」実行委員会は、4月末現在署名が22万筆に到達したと発表。実行委員長の稲嶺進さんは「目標の34万筆までもうひと踏ん張りである。19日の締め切りまで、ご協力をお願いしたい」と訴えた。6月上旬の国会提出を予定している。
13日 15日の本土復帰51年を前に、沖縄から反戦平和を発信する「第46回5・15平和行進(同実行委員会主催)」が「中部基地コース」に1200人。「南部戦跡コース」に750人が参加。辺野古新基地建設の断念や基地のない平和な島を訴えた。また、宮古島では14日80人が「島々を戦場にさせない」と行進した。石垣島では15日100人が「基地のない平和な沖縄をつくるぞ」と行進した。
14日 宜野湾市で県民大会が開催された。「平和行進」の労働者・市民1400人参加。沖縄で進む軍備増強を許さず、平和な島の実現を誓った。玉城デニー知事も来賓として参加。「平和で豊かな沖縄を世界に発信しよう」とアピールした。
15日 名護市辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、「平和行進」参加の市民はじめ3百人が「辺野古新基地建設許さないぞ」と抗議の声を上げた。
21日 「島々を戦場にするな! 沖縄を平和発信の場に! 5・21平和集会」(同集会実行委員会主催)が北谷町で開かれた。馬毛島から与那国島までの市民2千人が参加。若者の参加も目立った。また同日、石垣市でも「同、5・21平和集会in石垣」が開かれ、百人が参加。
北谷町の集会では、各地の団体や住民によるリレートークで報告があった。与那国や宮古のほか奄美や馬毛島、自衛隊の補給拠点予定地の沖縄市など反対の声を上げる市民がマイクを握った。若者代表は「私たちは子どもを育て社会を担う世代。平和な生活は行動で実現する。次の大会は若者が主体となる」と発言。会場から大きな拍手がわきおこった。(杉山)
琉球弧の軍事要塞化を許さない 元自衛官・小多基実夫さんが報告
各地で沖縄連帯の集会が(5月21日、大阪市内) |
6月3日大阪市内で「反戦自衛官に聞く 自衛隊南西シフト」をテーマとした学習集会がもたれた。講師は元反戦自衛官の小多基実夫さんで、主催は〈宮古島の要塞化に反対する会〉で、約50人が参加した。
この学習集会の獲得目標は「宮古島や石垣島に次々と配備される、陸上自衛隊ミサイル部隊…それが持つ意味と国家の意図を、元反戦自衛官から学ぼう」ということだ。司会の開会挨拶で始まり、直ちに小多さんの講演に入り、その後カンパアピールと沖縄の訴え、質疑応答と続き、最後に行動提起がなされた。
小多さんは講演内容で豊富な具体例を示しながら次の3点を強調した。
@日本政府=岸田政権は、前首相安倍の「台湾有事=日本有事」路線を継承し、自らのイニシアティブとヘゲモニーで対中国戦争を推進し、その後方支援にアメリカを巻き込もうとしているので、決してアメリカの対中国戦争に日本が巻き込まれるというものではないとして、いわゆる「巻き込まれ論」を批判。
A軍隊は「国家体制を守る」のであって、「住民を守らない」が本来任務であること、したがって戦争で犠牲になるのは我々民衆だということを確認。
B日本政府は対中国戦争の最前線として琉球弧にミサイル配備を基軸とする攻撃態勢を強化している。これは戦争になれば琉球が真っ先に戦場化して琉球の住民が犠牲になるということであって、かつての沖縄戦が「本土防衛の盾」となったように、厳然たる琉球差別が貫かれている。それ故、日本「本土」の民衆が琉球差別を乗り越えて琉球(沖縄)の民衆と連帯し、海外の民衆とも交流を深めながら、新たな沖縄戦を食い止める運動と闘いを大きくしていくことが必要と強調した。
カンパアピールと沖縄の訴えの後の質疑応答で特に注目を引いたのは、いわゆる「平和地域宣言」論に対する批判だった。
質疑応答の最中、司会から「宮古島の清水早子さんが、この集会に参加」と報告されると、会場は驚きの声。特別報告をお願いすると、清水さんは「大阪で所用があってさっき宮古から到着した。偶然ですがこの集会に参加したいと思い駆けつけた。この間、宮古島を巡って起きている自衛隊関連の事態について3点報告する。」「熊本の第8師団と宮古島駐屯地の幹部が乗ったヘリ墜落事故の本質的問題、PAC3配備とJアラートの問題、軍用車両が傍若無人に市街地を走り回る問題」について簡潔かつ具体的に報告した。そして、「今後もこうした自衛隊の問題を地元で粘り強く闘うので、皆さんのご支援とご協力を」との発言に会場いっぱいの拍手が送られた。
最後に行動提起として毎月の街宣への参加や現地行動と、「沖縄と共に戦争に反対する6・23平和の集い」への結集が呼びかけられた。
今回の学習集会は〈宮古島の要塞化に反対する会〉の運動と闘いを足がかりとして、闘う諸運動組織とも結びつき連帯し、新たな沖縄戦を絶対に許さない闘いの大きなうねりを作り出していくささやかな第1歩になったと思う。さらに次の1歩に向けて前進していこう。(島袋純二)
投稿
進む国会の大政翼賛会化
少数政党への言論封じ
衆議院本会議は6月1日、れいわ新選組のくしぶち万里衆議院議員に対し、5月18日の本会議での投票に際し壇上で「与党も野党も茶番」というプラカードを掲げたことを理由に登院停止10日間という除名処分に次ぐ重い懲罰を決定した。
「次は除名処分」という恫喝
国会議員に対する懲罰は憲法による以外にはできない。具体的には憲法58条2項に、懲罰事由としては「院内の秩序を乱した」ことのみ定めている。
懲罰の種類は国会法122条で次の4つ。@公開議場における戒告、A公開議場における陳謝、B一定期間の登院停止、C除名である。除名が決議されると当該議員は議席を失う。
しかし、衆院の懲罰委員会はプラカードを掲げただけのくしぶち衆議院議員に「戒告」でも「陳謝」でもなくいきなり2段階飛ばして「一定期間の登院停止」をかけてきた。「次は除名にするぞ」という恫喝である。
重要なことは最大野党のはずの立民が同議員を懲罰委員会にかけることに賛成したことである。立民の中には国政と闘うしっかりした議員もいるが、党としては維新にすり寄るなど転向の道を歩んでいる。今回の立民の行為は、少数政党の言論封じに立民自ら手を貸したということである。
自民こそ秩序を乱してきた最大勢力
2015年の戦争法は自民・公明が強行採決した。強行採決こそ「秩序を乱〔す〕」最大のものだ。戦争法案に反対するすべての政党や議員がプラカードを掲げて議長席に詰め寄った映像はニュースで多数流れていた。
また自民党も野党の時代にプラカードを掲げて議長席に詰め寄ることもしてきたのだ。自分たちがしてきたことを棚にあげて一枚のプラカードを掲げただけのくしぶち万里議員に対し、除名に次いで重い登院停止を要求する資格は自民、公明、維新、国民、立民にはない。
闘う野党の復活を
懲罰決定後、くしぶち議員は闘う野党の復活を訴えて東京の三鷹、調布、狛江で街宣をおこないツイッターにあげている。
「仲間はじめ、お店や会社の中から熱いエール、どれだけ勇気をいただいたか分かりません。涙が出ます。ありがとうございました! 決してひとりじゃない、闘う野党の復活を」
『未来』読者の皆さん、「くしぶち万里」で検索、ツイッターをフォローしてください。多くの人たちの生の声を聴くことができます。
反撃へ
私は今、大阪府東大阪市議選にむけての住民運動に関わっているが、日々手ごたえがある。「闘う野党」を求める人たちは確実に、しかも大勢いるのだ。この人たちとつながることが私たちの課題だ。岸田政権・大阪維新と闘う陣形をなんとしてもつくりだそう。(米村泰輔)
4面
外国人労働者を隔離・管理・追放
改悪入管法廃案・入管体制解体
伊藤十三
はじめに
この小論で、まず確認したいのは現在の入管法・入管体制は日本国憲法の国籍条項によりその枠外におかれた在日、滞日の人たち、とりわけ今日ではアジア・アフリカ諸国の労働者の人たちの生活の隅々まで監視・管理するものであり、その人たちの日々の苦しみを他人事としている日本国籍を有する私たちの歴史的、今日的な責任である。入管体制に対する異議申し立ては、私たちの義務であり、決して精神論ではない。在日、滞日する人たちの自己解放性、自己決定権にとことん肉迫することを心に刻み、入管問題に接近することは前提である。
入管法、入管体制のはじまり
明治政府が19世紀後半朝鮮半島への侵略の野望をいだき1894年東学農民戦争を奇貨として暴虐の限りを尽くし日清戦争を惹起させ、その「勝利」により天皇制のもとでの明治維新以来の念願であった国民国家が形成された。この侵略戦争で多額の賠償金として台湾の割譲―植民地化により、まず清の朝鮮半島での覇権を駆逐した。そして1904年2月から日露戦争において、朝鮮半島や中国東北部からロシアの軍事力を排除し権益を確保した。
しかし9万人近い戦病死者を出しながら賠償金も取れずサハリン南半分の割譲にとどまり日本民衆の憤激から日比谷暴動が起き都内の多くの教会が焼きうちにあった。その後帝国主義にのし上がり1905年日韓議定書の強要、1910年朝鮮半島を植民地にすることによりはじまる。
その後、日本帝国主義による土地調査事業と称する土地略奪で、土地を奪われた多くの朝鮮の農民たちが職を求めて日本に渡ってきた。その後「募集」「官斡旋」「国民徴用令」など強制連行を含め総数は230万人といわれる。旧内務省、特高警察主導のもと1940年協和会手帳が義務づけられた。1945年日本の敗戦後、国内の混乱の中1947年5月、最後の勅令として外国人登録令が出され外国人登録証の常時携帯義務が課せられた。その目的は在日朝鮮人に対する徹底的な治安管理、「密入国者」の摘発に貫かれていた。戦後一貫して法務省入管当局は在日朝鮮人に対して「同化か追放か」という政策を強いてきた。吉留路樹著『大村朝鮮人収容所:知られざる刑期なき獄舎』二月社刊に当時の収容所内でのことが詳しく書かれている。
「もう一度、廃案に」をかかげ扇町公園から都心・梅田にむかうデモ隊(5月20日、大阪) |
現在の入管法・入管体制
1969年から70年にかけ入管令を入管法に格上げするために何度も国会に提出を試みたが在日の人たちをはじめ広汎な人びとの阻止闘争によって頓挫した経験から難民条約を批准し、1981年難民認定法とペテン的にセットにして入管法は成立した。法務省入管当局ははなから難民を受け入れる意志はないと理解する以外ない。それは難民認定率の1%にも満たない極端な低さに表れている。
今回の改悪案では2年前廃案になったものと同様に難民申請は2回までとし3回目以上の人はいつでも強制送還できるものとしている。それは今では難民申請をしている間に送還できないということからきている。22年末現在4200人強の「送還忌避者」といわれる人たちが入管収容所に長期にわたり拘束されている。たとえ「仮放免」された人でも在留資格はなく、居住は制限され健康保険にも入れず仕事することさえも禁じられている。これでどうやって生活するのか。
この間何度も報道されているように「改正案」にはふたつの制度が付け加えられている。ひとつは「補完的保護対象者」の認定制度、もうひとつは「監理措置」制度の2点である。「補完的保護対象者」とは言葉を変えれば「準難民」制度。しかしその認定は法務省入管当局の恣意的な自由裁量のもとでおこなわれる。「監理措置」制度とは「全件収容」を改め、「監理人」にゆだねて監視させるというもの。例えば支援者が「監理人」になった場合、入官庁への報告義務があり、怠れば10万円以下の過料の罰則がある。支援と監理では180度立場が変わる。
一方で慢性的な労働力不足から低賃金若年労働者をアジア・アフリカから求めるために技能実習制度、特定技能制度の見直しを意図している。ご都合主義のきわみだ。現代の奴隷制と呼ばれる技能実習制度は廃止しかない。
改悪入管法は廃案に、入管法は廃止
以上述べてきたとおり戦後一貫して在日、滞日する人たちすべてを徹底的に管理し追放だけを主眼においてきた日本の入管制度。この間、国連の拷問禁止委員会、人権差別撤廃委員会、自由権規約委員会、子どもの権利委員会、恣意的拘禁作業部会などから改善勧告を受けている。国内では第三者委員会設置など人道的、人権的見地にたった抜本的法改正を求める声が強まっている。しかし法務大臣の自由裁量権を決して手放そうとしないならばこの入管法は私たち日本人の責務において廃止するしかない。
関東大震災
朝鮮人・中国人虐殺から100年
慎蒼宇さん(法政大教授)が講演
5月20日、都内で「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺から100年を問う!」と題する集会が開かれ250人の市民が集まった。主催は、関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会実行委員会(写真)。
官憲が流した流言蜚語
冒頭、実行委員会共同代表の田中宏さん(一橋大学名誉教授)が主催者あいさつ。「広島サミットの前にG7首脳に関東大震災についての書簡を送った。『震災直後の不祥事の責任をどう考えるか。流言飛語を官憲が流している』と」、「責任の所在ははっきりしている。外務省が世界の11の事例を調べて『(官憲等の)責任は免れない』として20万円の慰謝料を出すとされたが執行されていない。小泉政権の時に日弁連勧告も出されたが何もしていない」。
朝鮮人虐殺の背景
講演は、「関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史的背景」と題して慎蒼宇さん(法政大学教授)。慎教授は田中宏名誉教授のゼミの教え子だという。
慎教授の親族(祖父の兄弟)の慎昌範さんの証言が残っていて、東京・三河島周辺の自宅に群衆が押し寄せ、負傷しながら逃げて京成電車の鉄橋から飛び降りたという。入院先に朝鮮総督府の役人が来て「天災と思ってあきらめるように」と言われたとのこと。
「安江聖也(軍・行政の側からの視点で震災時の虐殺を研究している人物)は『震災の死者の中で虐殺によるものは数%でとるに足らない』と言っている」、「虐殺の背景は朝鮮半島の植民地での戦争の経験。在郷軍人の役割は大きい。彼らは朝鮮半島での(独立運動を鎮圧した)軍事経験がある」、「日本による植民地支配下で5百万人が流民・移民化した。そのうちの8割が農民。『国境をまたぐ農民層分解』(梶村秀樹氏の言葉)が起こった。窮乏した多くの朝鮮農民が日本に『流移民』した。炭鉱・紡績・ガラス・製紙から土木現場・港湾の荷物現場に流れた。都市周辺に集落が形成された。大半は貧困層で、日本社会の目に見える『他者』であり、蔑視の対象であった」
「関東大震災の1年前、1922年7月に新潟県中津川信越電力での朝鮮人労働者虐殺事件(※逃亡者を業者が殴打・射殺)が起こっていた」、「自由民権派の朝鮮観に問題があった。江華島事件に対する批判はなく、朝鮮への優越心・指導者意識があった。福澤諭吉は『脱亜論』を著した。民権派の新聞が強硬な朝鮮征伐論を唱えた。日露戦争期に、朝鮮社会が野蛮な落伍した社会であるという認識が日本の知識人の中で一般化した」、「殺しても構わないとされる『不逞鮮人』像がいつどのように形成されたのか日露戦争以降の経験が大きい」
「日本史の専門家はどうしても一国主義、大正デモクラシーとの経験で語る。姜徳相氏(滋賀県立大学名誉教授、2016年6月に死去)は日本の軍隊、警察、在郷軍人の朝鮮民族運動への弾圧経験が関東大震災時に戒厳令の下で発揮された、とする。矢沢康祐氏(専修大学元教授)も、自警団の中心にいた在郷軍人と軍隊兵士の朝鮮配属とシベリア戦争における民族独立運動への弾圧経験を指摘している」。
その他、極めて重要な内容が語られた。
5面
「5・18民主化運動43周年大阪記念式」に参加して
5月20日
5月20日、大阪市内で「5・18民主化運動43周年大阪記念式」が開催された。ウリ民主連合が主催し、在日本済州四・三犠牲者遺族会が後援。多くの人が訪れ、会場は満杯になった。
この集会は1980年5月の韓国・光州での民主化運動を記念して毎年開催されているものである。光州蜂起から43年になる今年、ミャンマーの民主化運動を闘うアウンミャッウインさん(写真)が「ミャンマーの民主化運動と人権」、立命館大学教授の鄭雅英さんが「光州5・18精神の現在」と題して講演した。
黙とう
開会あいさつのあと、5・18民主化運動犠牲者に対する黙とうがささげられた。その後、駐大阪大韓民国総領事の来賓あいさつがあった。
「イムのための行進曲」斉唱と献花
「イム」とは「あなた」という意味である。「イムのための行進曲」は光州蜂起の翌年の1981年、光州蜂起の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に亡くなった労働運動家パク・ギスンの追悼のためにつくられた。この歌は1980年代から闘争歌として韓国全土に広がり、1997年から公式行事となった5・18記念式典で斉唱されてきた。
2004年に初めて記念式典に出席したノ・ムヒョン大統領は犠牲者に敬意を表して起立して斉唱したが、2013年に出席したパク・クネ大統領は歌が始まっても座ったままで促されて起立したが歌わなかった。ムン・ジェイン大統領は公約通り2017年から斉唱を復活させて今日に至っている。
斉唱の後、全員で一本ずつ花を献花した。私も献花したが、もう43年経つのかと胸がいっぱいになった。光州蜂起のときにはまだ生まれていなかった若い学生もこの記念式に参加していた。
記念講演
「光州5・18精神の現在」と題する鄭雅英さんの講演は別の機会に譲り、今回はアウンミャッウィンさんの講演を紹介したい。
新しい民主国家を
アウンミャッウィンさんは冒頭、国名のミャンマーもビルマも人口の7割を占めるビルマ族を示す名前であり、個人としてはミャンマーでもなく、ビルマでもない新しい民主国家をつくりたいと述べた。
ミャンマーは1947年から世界一長い内戦が続いている国であり、1962年、1988年、そして今回の2021年と3回クーデターが国軍によって起こされている。今後何10年かかるかわからないが新しい民主国家をなんとしてもつくりたいとあらためて決意を述べた。
武器を持ってたたかう
1988年の民主化闘争のとき14歳だったアウンミャッウィンさんは以来、ミャンマーの民主化運動を闘い続けているが、2021年の若者と1988年の若者の違いを指摘した。2021年の若者たちは韓国の光州蜂起も中国の天安門事件も全部見てきている。無差別に銃撃され殺されている現実をみるとき、武器をもって戦わないと自分と家族、そして親戚などの命も財産も守れないと彼らは気づいたという。若者たちが武器を取るのは、そうしたいからではなく、そうしなくては自分たちを守れないからなのだ。
人権教育を
アウンミャッウィンさんは自分を含めて軍事政権の下では、一切、人権教育を受けたことがないという。そのため、ミャンマーでは宗教の違い、肌の違い、民族の違いで差別がおきており、たとえばロヒンギャに対する差別は正しいと思われているという。だからこそアウンミャッウィンさんは差別をなくすために人権教育に力を入れたいという思いを強くしている。アウンミャッウィンさんは民主派の国民統一政府(NUG)の教育省に街頭カンパで集まったお金を送っている。
独裁者を倒そう
韓国もそうだが、民主化運動に参加した学生や労働者、農民たちの多くの犠牲の上に初めてこれを打倒して民主国家をつくりだすことができるという。
質問に答えて
難民認定されているアウンミャッウィンさんは、日本の難民認定の在り方に関する質問に概略、以下のように答えた。
難民条約第1条は難民を「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができない者またはそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まない者」と定めている。
また同条約第31条は「生命あるいは自由が第1条の理由で脅威にさらされる恐れのある地域から直接避難した者」には、その滞在の不法性に対して刑罰を科してはならないことが明記され、第33条は「生命や自由が脅かされる危険がある地域に何人も追放してはならない」とされている。
日本も批准しているこのような難民条約に照らすと、難民申請は2回までで3回目からは強制送還の対象にするという入管法の改悪は明らかに難民条約に違反している。
強制送還は早朝5時頃におこなわれる。職員30〜50人が足音を響かせてきて、入所者を抵抗できないように毛布等でくるんで引きずりだすという。アウンミャッウィンさんは4回目の申請でも難民認定している入管の現実があることを指摘し、今回の入管法の改悪を批判した。(三船二郎)
石川一雄さんのオーラル・ヒストリー
黒川みどり著『被差別部落に生まれて』
岩波書店 2500円+税
狭山事件については、すでに多くのすぐれた書が出版されている。この新刊の本書が類書と異なるのは、石川一雄さんからの聞き取りをベースに書かれている点である。おつれあいの早智子さんや部落解放同盟役員の片岡明幸氏もヒアリングの対象に加わっている。そのため、石川さんの精神的内面が生き生きと描き出されて、読む者を包み込む力がある。
著者は静岡大学の教員として、多くの若者に接する日常を送っている。そのせいか、「犯人とされた石川一雄を無実だと確信しえている人は、今も必ずしも多いとはいえない」現実≠ふまえて、この事件を克明にフォローしている。
6畳1間に多人数の家族が住むなかで育ち、冬の到来に備えて下駄の歯が減らないように、裸足で小学校に通学する日々。「乞食」の生活よりも劣るくらい、その日の食事に事欠く程の貧困生活だった。「『無罪』判決が出たら、母ちゃんと父ちゃんの墓に、真っ先に報告に行くよ」と、今は墓参りを避けている石川さん。
小学校もほとんど行けなくて、教育がないばかりに冤罪に陥れられとしきりに自戒。
石川さんが「陰の恩人」と呼ぶ東京拘置所看守から「1日3万字書け」といわれて、夜1時2時まで字を書き続け、「私より勉強した人はいないとおもうよ」という。
生い立ちから今の声≠ワで、早智子さんとの出会いや結婚も含めて、率直に語り尽くされている。
狭山事件の裁判が重大局面を迎えようとしている今、この事件に詳しくない人はもちろん、精通していると自認している人にも、ぜひ一読を勧めたい。(一読者)
6面
引き下げアカン!大阪の会 第9回総会 5月21日
権利としての生活保護を広めよう
5月21日、大阪市内で生活保護基準引き下げ違憲訴訟をたたかう大阪の会第9回総会が開かれ、オンライン8人を含め53人が参加した(写真左)。小久保哲郎弁護士(いのちのとりで裁判全国アクション事務局長)が「いのちのとりで裁判の現状、到達点と課題」を提起した。小久保弁護士は2014年に提訴以来の9年間をわかりやすく振り返ったので紹介する。
この裁判は、670億円という史上最大の生活保護基準引き下げ(13年8月)に、全国29都道府県で千人を超える原告が立ち上がった。大阪では53人が提訴し、上告は34人(死亡などのため)。
この引き下げの際だった特異性は、670億円削減額のすべてが専門家による検討を全く経ないで導き出されたこと。
物価偽造を断罪
20年6月25日名古屋地裁判決は期待を裏切って最低最悪の判決だった。「自民党の政権公約の影響をうけた」と国でさえ認めていないことを認め「国民感情や財政事情を踏まえたもの」だから「考慮できる」とお墨付きを与える内容だった。
しかし翌年2月22日大阪地裁は、画期的な原告勝訴判決を出した。大阪地裁が違法とした「デフレ調整」とは、厚労省が独自に編み出した「生活扶助CPI(消費者物価指数)」が2008年から2011年にかけて「4・78%」下がったとし、その分可処分所得が増えたとして保護基準を引き下げたこと。しかし総務省の計算では2・35%の物価下落なのに、厚労省は2倍以上の下落率。それは物価偽装によるものだった。
判決のポイントは2点。第1に、物価下落が大きくなる計算方法を使ったらアカン。生活保護世帯があまり支出しない教養娯楽費を過大にし、物価下落を増幅した。第2に、物価高騰した年を起点にしたらアカン。石油・穀物価格が高騰した2008年を起点としたら下落率は大きくなる。ゆえに「統計等の客観的数値」や「専門的知見との整合性」を欠き違法とした。
福岡、京都、金沢の3地裁敗訴は、「NHK受診料」(正しくは受信料)という誤字やその前後が同じというコピペ判決であり、国会で最高裁長官代理の行政局長が遺憾の意を答弁する事態に。
相次ぐ勝訴で潮目が変わる
昨年5月熊本地裁勝訴判決以来、東京・横浜・宮崎・青森・和歌山・さいたま・奈良地裁と勝訴判決が相次ぎ、潮目が変わった。19判決のうち9勝10敗。東京地裁と大阪地裁には、行政訴訟だけを扱う専門部があり、そこで勝訴判決がでた重みがある。横浜地裁には、行政訴訟は全部そこにはかる集中部がある。
この裁判は、裁判官がまじめに考えさえすれば、そして勇気さえあれば勝つべき裁判である。勝訴判決の書き方のパターンもできてきた。大阪地裁が切り開いた違法性のポイント=デフレ調整(@物価下落が大きくなる計算方法、A2008年を起点)を、さいたま地裁以外はほぼ認めていて、これが勝訴判決の肝である。熊本地裁判決が初めて指摘した「専門家(基準部会)を無視したこと」も東京、横浜など7地裁が違法としている。
大阪高裁の逆転敗訴判決の問題点
今年4月14日大阪高裁敗訴判決は、名古屋地裁をはじめとする不当判決群への「先祖返り判決」である。判決の問題点は@「生活保護法は外部専門家による検証を要件としていない」と、厚労大臣自体に専門性が備わっているから、専門家機関の意見を聞かなくてもいいと主張。これは立法当初、厚労省の2〜3人の職員で基準を決めるのは大それたことなので外部の専門家の意見を聞いてやると国会で答弁し、過去に基準部会や専門委員会の意見を聞いてやってきた経緯に真っ向から反する。A「専門的知見との整合性」の審査について、違法となるのを「確立した専門的知見との矛盾が認められる場合」に限定し、個別論点では「一定の(それなりの)合理性」という薄弱な論拠で国の主張を丸飲みしている。Bデフレ調整にあたり「生活保護受給世帯の消費構造を考慮するか、どの程度考慮するかは、・・・厚労大臣の裁量」として一切審査していない。保護基準は「要保護者の最低限度の生活の需要」を満たすものでなければならないと生活保護法8条2項で厚労大臣の裁量に枠をはめている。これを全く考慮していない。また「多大な苦痛を感じていることは容易に理解できる」としながら「リーマンショック後の経済状況の悪化の中で・・・国民の多くが感じた苦痛と同質のもの」と切り捨てた。全体が下がったから下げていいのではない。ナショナルミニマム(国民的最低限)としての生活保護基準の意義を理解していない。
三権分立を根づかせていく
この国の三権分立が機能するのかが問われている裁判だ。もし大阪高裁が原告勝訴判決を出すと、なだれをうったように勝訴判決となり、国が断罪され国の根幹を覆すことになる。そのことに裁判官はおじけづいたのかもしれない。また主任裁判官は、東京の大手の国際渉外弁護士事務所(外国のビジネス法務案件を扱う)の出身で、国や大資本の側に立つ人だった。原発訴訟で昨年最高裁でひどい判決を書いた裁判官が退官して大手渉外事務所に就職している。裁判所と大手事務所の「癒着」や「判検交流」の問題があると指摘した。「判検交流」制度では、裁判官が国側訟務検事に出向し、裁判官に戻って国を被告とする事件を担当する。今回の生活保護裁判で、金沢の担当裁判官が、その前にさいたまの訴訟で国側訟務検事(国の代理人)だった人物とわかり、金沢で裁判官忌避を申し立てて認められた。このような裁判所のあり方を変えて三権分立を根づかせていくことも課題だ。理は私たちの側にあり、確信をもってたたかおうと訴えた。
次に、原告7人が発言し、大阪高裁判決への怒りと、失望を語り最高裁でたたかう決意を表明した。また「18年間生活保護世帯で育ち、うち6年間を児童養護施設で育った」という18才の青年が「高校2年の時から弁護士を志ざし、大阪の大学に入学し奨学金で暮らし来年の司法試験予備試験めざして勉強中。この訴訟は司法の判断次第では、今後の生活保護行政に極めて重要な影響を持つもの」だとこの闘争への参加を表明し、大いに勇気づけられた。
なお5月26日には千葉地裁で、30日には静岡地裁で勝訴判決があり、11勝10敗に更新した。
投稿
第54回釜ヶ崎メーデーに参加して
反省、メーデー・経済闘争を軽視
上田勝
メーデー前夜祭
今迄のメーデーは5月1日単独でのスケジュールだった。私よりも先輩の活動家の方にお聞きしたところ、昔はメーデー前夜祭をしていたらしい。しかし、何年くらい前から前夜祭をしなくなったのかを、私は聞き忘れた。実に情けない・・。
しかし、二日連続で開催するメーデーというのは、歴史的にも、国際的にも珍しいのではないだろうか。
前夜祭のメインは映画『オレの記念日』上映会だ。上映会に先立ち、釜ヶ崎日雇労働組合・役員の方から、闘いのメッセージがあった。
彼は釜ヶ崎メーデーと釜日労の闘い・戦いの歴史を語った。私は彼の「発言」「挨拶」は大好きだ。いわゆる新左翼活動家の演説とは雰囲気が全く違うのだ。実に味わい深い演説をする。例えば選挙運動でのメッセージの様な「激しさ」が全くない。まるで世間話でもするような口調で、坦々と語るのだ。しかし発言内容には、内に秘めた凄まじい激しさがある。
1970年からの、釜ヶ崎共闘会議(=釜共闘)の歴史を語った。総評・連合のメーデーからの追放と、総評・連合との闘い・戦いの歴史・・。
連合は「非正規雇用問題」を云々するが、全くインチキだ。連合は絶対に釜日労と共同歩調を取らない。そういう輩に「非正規雇用問題」を語る資格は無い。
第54回釜ヶ崎メーデー
メーデー当日は「萩小の森(将棋広場)」に集合して集会。釜日労・役員の方から基調演説。前夜祭で闘いのメッセージを発言された方とは違う。釜日労・役員には、とにかく演説の上手な方が多い。彼は釜ヶ崎春闘の歴史とその成果を報告した。
最後にメーデー終了後の、大阪府と大阪市へ要求行動を提起。集会終了後は、釜ヶ崎地域内でのデモ行進だ。
メーデー参加の感想
私は毎年、釜ヶ崎メーデーには可能な限り参加するようにしている。私は若い頃はメーデーに参加した経験が全く無いので、メーデーは「釜ヶ崎メーデー」しか知らない。何しろ1960年代後半から1970年代にかけての新左翼運動は、実力闘争と武装闘争の全盛期だったので、私はメーデーとか経済闘争を軽くみていた。2010年代になってもそれは変わらなかった。釜日労が主導する戦闘的メーデーだからこそ、参加するようになったのだ。
メーデー終了後、行政闘争
デモ終了後は、メーデー参加者全員で少し遅い朝食だ。残念ながら私は慢性腰痛で、要求行動参加を断念したが、大阪府と大阪市に対して、特別清掃事業を月13日以上働けるようにすること、55歳未満の不安定就労対策を拡充すること等を求め、さらに大阪市には、野宿に陥ることを防ぎうる生活保障の仕組みを作ること、あいりん貯蓄組合清算業務終了に伴い残存した預金を釜ヶ崎の労働者の生活保障に還元すること等を求める要望書を全体で提出した。(つづく)
7面
検証
GX脱炭素電源法は稀代の悪法
反原発運動の底力発揮しよう
津田保夫
5月31日、GX脱炭素電源法が国会で成立した。怒りをもって、これを弾劾する。岸田文雄政権は、今年2月にグリーン・トランスフォーメーション(GX)実現に向けた基本方針を閣議決定した。岸田は「GXは脱炭素社会へ移行を進めるために必要だ」といっている。つまり、岸田は非炭素エネルギーのなかに原発を加えることによって、原発を推進しようとしている。
GX脱炭素電源法は、@原子力基本法、A電気事業法、B原子炉等規制法、C再処理法、D再エネ特措法の改定法などを束ねたものだ。この法律が成立したことによって、原発の60年超運転が可能になった。また、原発運転期間の決定は、経産省所管の電気事業法に移されることで、政府が運転期間を自由に決定できるようになった。
原子力基本法を改悪
原子力基本法はそもそも原子力の平和利用、つまり原発建設をおこなうための法律だ。その原子力利用の目的(第一条)に、地球温暖化の防止を新たに加えた。ここで「原子力発電は地球温暖化を防止するために必要」と言っている。地球温暖化を口実に、原発を推進する。このために、この文言をわざわざ入れたのだ。
また、基本方針(第二条)に、国の責務(第二条の二)、原子力利用に関する基本的施策(第二条の三)、原子力事業者の責務(第二条の四)を新設した。
「国の責務(第二条の二)国は、エネルギーとしての原子力利用に当たっては、原子力発電を電源の選択肢の一つとして活用することによる電気の安定供給の確保、我が国における脱炭素社会の実現に向けた発電事業における非化石エネルギー源の利用の促進及びエネルギーの供給に係る自律性の向上に資することができるよう、必要な措置を講ずる責務を有する」
原子力発電を全力で推進する。このことが国の責務になっている。「責務」という言葉が入ることによって、原子力基本法は「国家原発推進法」になってしまった。
原子力利用に関する基本的施策(第二条の三)には、国の施策が新たに書き加えられた。国は使用済み燃料の再処理、廃炉の推進、最終処分場の確保などを責任をもっておこなう。また、原子力事業者が原発に投資をするために、国は事業環境を整備する。原発を推進するために、国は何でもする。この思惑がすけてみえる。
原子炉の管理(第十六条の二)も新設された。ここには「運転期間に係る規制は、原子力の安定的な利用を図る観点から措置する」とある。老朽原発の安全性はすっかり忘れられている。
電気事業法も改悪
今まで、原発の運転期間は原子炉等規制法で決められていた。これが経産省所管の電気事業法に移された。これによって、経産省が運転期間の延長を決めることができるようになった。経産省官僚のたくらみが露骨に現れている。
原発の運転期間は、原子炉等規制法(第四十三条の三の三十二)で「運転期間は40年とし、1回に限り、最長で20年間」と定められていた。これが電気事業法に移され、内容も変わる。電気事業法のなかに、原子力発電工作物である発電用原子炉の運転期間(第二十七条の二十九の二)が新設された。その条項はつぎのようになっている。
「(第二十七条の二十九の二)原子力発電事業者が、その発電事業の用に供する原子力発電工作物である発電用原子炉を運転できる期間は、当該発電用原子炉について最初に第四十九条第一項の検査に合格した日から起算して四十年とする。
2 原子力発電事業者は、その発電事業の用に供するため、前項の四十年を超えて発電用原子炉を運転しようとするときは、あらかじめ、経済産業大臣の認可を受けて、運転期間を延長することができる」
延長期間は最長20年以内とあるが、申請回数に定めはないため、何回でも延長することができる。60年超運転も可能なのだ。また、仮処分や予見しがたい理由で停止していた期間については、運転期間に含まれない。こんなペテン的な取り決めをおこなっている。このほか、送電線の整備等計画について、経産大臣が認定する制度が新設された。
原子炉等規制法も改悪
原発の運転期間に関する事項は電気事業法に移り、原子炉等規制法の条項(第四十三条の三の三十二)から削除された。この条項は、発電用原子炉施設の劣化の管理等に変わった。それは次のようになっている。
「発電用原子炉施設の劣化の管理等(第四十三条の三の三十二)発電用原子炉設置者は、その設置した発電用原子炉について最初に第四十三条の三の十一の第三項の確認を受けた日から起算して三十年を超えて当該発電用原子炉を運転しようとするときは、原子力規制委員会規則で定めるところにより、あらかじめ、当該三十年を超えて運転しようとする期間(十年以内に限る。)における当該発電用原子炉に係る発電用原子炉施設の劣化を管理するための計画を定め、原子力規制委員会の認可を受けなければならない」
運転期間が30年をこえれば、10年ごとに劣化状況を調べる。そのための検査が法令に書き加えられた。これは現在でも実施されており、新しいことではない。
再処理法も改悪
再処理法は、使用済み核燃料の再処理をおこなうための法令だ。このなかに、廃炉に関する条項がくわえられた。法律名が「原子力発電における使用済燃料の再処理等の実施に関する法律」 から、「原子力発電における使用済燃料の再処理等の実施及び廃炉の推進に関する法律」に変更した。また、使用済燃料再処理機構は使用済燃料再処理・廃炉推進機構に変わった。このため、定義に(第二条5)がくわえられ、第3章(第十一条から第十七条まで)が新設された。
「(第二条5)この法律において『廃炉』とは、発電用原子炉施設に係る実用発電用原子炉の廃止に伴う当該発電用原子炉施設の解体、核燃料物質による汚染の除去、核燃料物質によって汚染された物の廃棄その他の措置をいう」
原発の廃炉と使用済み核燃料の再処理は、根本的に異なる。原発を動かす限り、廃炉処分は必要だ。しかし、使用済み核燃料の再処理は必ずしも必要ではない。政府はあくまでも再処理(核燃料サイクル)にこだわっている。再処理はおこなうべきではない。
GX脱炭素電源法とは
岸田政権は南西諸島(琉球弧)の軍事要塞化にむけて、「専守防衛」をかなぐり捨て、軍事予算を大幅に拡大して、軍事大国化をすすめている。これと一体で、原発を遮二無二に推進している。どうして政府はここまで原発にこだわるのか。ここには支配者階級の潜在的核保有という思惑が隠されている。
政府は「原発は発電時にCO2を出さない」と言って、脱炭素エネルギーのなかに原発を入れている。また、「原発はGXの牽引役」とキャンペーンして、再生可能エネルギーではなく、原発を推し進めている。岸田政権はこれをGXでおこなおうとしている。GX推進法は経産省の所管であり、経産省出身の嶋田隆(政務秘書官)がこれを指揮している。
原発の新設はすぐにできない。だから、政府は老朽原発を動かすことによって、原子力発電を持続させようとしている。検査をパスすれば、60年を超えた老朽原発も運転可能になる。80年超運転も視野にいれている。その権限は、原子力規制委員会から経産省に移された。
さらに、電力会社は原発稼働率をあげるために、連続運転期間を延ばそうとしている。事業者検査(定期検査)に要する期間をできるかぎり短縮しようとしている。こんなことをすれば、かならず事故はおきる。原発はひとたび事故をおこせば、住民は生活できなくなってしまう。健康被害は数百年も続く。これが福島第一原発事故の教訓なのだ。
GX脱炭素電源法は、稀代の悪法だ。岸田政権の原発回帰を許してはならない。老朽原発は設計年度を超えた運転になるから、かならず事故を起こす。だから、事故をおこすまえに、老朽原発を止める必要があるのだ。老朽原発を廃炉にする闘いは、ますます重要になった。GX脱炭素電源法の施行を阻止し、怒りをもって闘っていこう。
(366号3面367号7面のつづき)
新たな沖縄戦を許すな!
日本帝国主義の対中国戦争政治を打ち砕こう(下)
島袋純二
日帝・岸田政権の対中国戦争政治が新たな沖縄戦を不可避とするような情勢が現在進行する中にあって、琉球(沖縄)の現地では肌身でもって危機感を感じ取り、不安が拡がり緊張が高まりつつある。
こうしたなかで「沖縄平和運動センター」・「ヘリ基地反対協議会」・「命どぅ宝! 琉球の自己決定権の会」・「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」など既成の運動体だけでなく、「ノーモア沖縄戦・命どぅ宝の会」・「『台湾有事』を起こさせない・沖縄対話プロジェクト」が新たに結成され、さらにはこれらの組織も含めた全琉球規模の運動体の形成に向かって準備が進められている。
重要なことは、このような琉球(沖縄)での動きと連帯したヤマトゥ(日本=「本土」)における運動体を琉球差別を打ち破るヤマトンチュウ(日本人=「本土」人)自身の人間的自己解放性をかけて組織して運動・闘いを展開し、拡大・強化・発展させていくことが問われているということである。昨年(2022年)結成された〈宮古島の要塞化に反対する会〉を一つの重要な足がかりにして真に大衆的な運動として拡大・強化・発展させ、他の様々な闘う運動体との共闘も追求していく必要がある。そのような闘いの担い手として自らを位置付けて、無理のない範囲で〈宮古島の要塞化に反対する会〉の活動に参加することを訴える。
8面
長期読み切り 連載
先人たちの成功と失敗を学び現在に生かそう
左翼労働運動が登場
全労働戦線を牽引して大活躍A
70年安保闘争の最中に、私は静岡県反戦青年委員会から浜松反戦で労働運動の話をしてほしいと頼まれて、1926年の日本楽器争議の話をした。10年以上も前に読んだ谷口善太郎の『日本労働組合評議会史』のおぼろげな記憶にもとづく話に、居合わせた全員が目を丸くして聞き入っていた。戦前日本の左翼労働運動の総力を結集した大ストライキ闘争が、同地方の戦闘的青年労働者たちに全く継承されていないことに私は驚いた。
この争議の直前に、1カ月にわたって鈴木織機(現・スズキ。従業員114人)で争議が展開された。浜松は当時も現在も、横浜と名古屋の間で最大の工業都市だが、これはこの地において労働組合という形をとった最初の争議であった。
労働時間を30分短縮せよとか、作業場の衛生設備を整備せよ(トイレはあったが手を洗う水道がなかった)などの要求にもとづく同争議は、労働者の勝利に終わった。
その勝因は、鈴木織機をはじめ同地方の資本家たちや警察が、労働争議に全く未経験であり、後手後手に回ったことによる。同争議に併行して、帝国製帽(現・帝帽)や日本形染、飯田織機、三立製菓などで評議会傘下の浜松合同労組(以下、浜松合同)に加入する労働者が相次いで地場資本の経営者たちを脅かし、早期解決を望む声が鈴木織機の経営者に譲歩を迫ったからである。
今ひとつの勝因は、この争議の全過程をつうじて指導した2人のオルガナイザーの存在である。1人は名古屋の総同盟で活躍した後、帰郷して鈴木織機に就職し、オルグに専念した島津寿平であり、彼と共に健闘した大阪地方評議会争議部長の安嶋高行であった。彼等は「向自的」労働者ではなく「即自的」労働者だったが、いずれもベテランのオルグで一般労働者と同じ目線に立って、地方都市の中小企業を相手に、その手腕を縦横に発揮したのである。
労働運動不在の地で争議に勝利したインパクトは強烈だった。鉄道省浜松工場と東洋紡浜松工場を除く14の地場資本の工場に、燎原の火の如き$ィいで浜松合同の組織が誕生し、それぞれ要求をかちとっていった。
浜松地方を席巻した評議会の旗
左翼労働運動の典型・日本楽器争議
連戦連勝の浜松合同の前に大きく立ちはだかったのが、世界一の楽器メーカー日本楽器(現・ヤマハ)であった。
鈴木織機争議の中途から派遣されていた大阪一般労働者組合委員長の松葉清継(本名・清次郎)は、改めて現地入りする際に評議会本部教育部長の鍋山貞親から「今度の相手は大きいから、まず組織的訓練と経験をつませることに努め、いきなり争議に突入する動きがあれば押さえてこい」と指示された。
日本楽器の労働者は相次いで浜松合同に加入し、4月中旬には150人、18日頃には800人と加速度的に増えていった。彼らは毎晩のように集まって話し合いを重ね、闘う気分はいやがうえにも高まった。自重を促す松葉の言葉は、かえって労働者たちのはやる気持に火に油を注ぐ′級ハになった。松葉自身が旧い形のストライキマンであり、後年、鍋山は私の取材に「松葉のように勇ましい男を派遣したのは失敗であった」と語っている。
4月21日、日本楽器の労働者代表と浜松合同委員長の島津たちが、工場長と面会してつぎのような要求を提出し、25日までに回答することを求めた。その要求は「便所ノ無イ所ヘ便所ヲ作ル事」「洗面所ノ無イ所ヘ洗面所ヲ作ル事」「会計袋ニ人工(1日の賃金)ヲ明細ニ記入スル事」や退職金、年齢別最低賃金など12項目にわたるものであった。
その直前の4月11〜13日に開かれた評議会第2回大会で、これからは要求を低く設定しようと決めたことを反映したものであった。
翌日の午後から怠業気分がみなぎり、労働者たちは一斉に機械の運転を止めて、終業時より早く退場した。
そこで同日、社長の天野千代丸は社員・準社員を集めて、評議会と関係がある限り要求は一切認めないと宣言した。
ここで日本楽器という会社の成り立ちと、争議当時の社長天野の特異性について述べておこう。
和歌山出身の山葉寅楠が県立浜松病院から医療器具の修理を依頼されて浜松に移住。市内に一つしかなかったオルガンの故障を修復したのを契機に、オルガンの自主生産に取組み、オルガンやピアノの国産第1号の製作に成功。高い技術力と人柄を評価され、浜松地方の有力な資本家たちが共同出資して1897年、山葉を社長に日本楽器製造株式会社を設立した。
同社の木工・塗料技術は高く評価され、帝国議会の議事堂や天皇の「お召し列車」の内装工事を一任される程であった。その過程で官界や財界とりわけ三井財閥との結びつきを深めた。そして第1次世界大戦で当時世界1を誇っていたドイツの楽器メーカーが凋落し、その隙をついて世界1の楽器メーカーに躍り出たのである。
争議当時の社長天野は地方内務官僚の出身で、静岡県浜名郡(現在は浜松市に吸収)の郡長であった。当時は市と名の付く地域は極めて少なく、郡長は道府県知事から任命されて独自の予算を執行し、人民支配の最先端を担っていた。したがって、強烈な天皇制イデオロギーの持ち主で有能な内務官僚が配置された。
浜名郡長としての実績を買われた天野は、山葉と県知事の懇請にしたがって副社長として入社し、山葉の死後、2代目社長に就任した。彼は熱心な軍国主義者で、アナーキスト大杉栄一家を虐殺した東京憲兵隊の甘粕大尉の助命嘆願を発起して署名運動に奔走したり、浜松連隊の将校たちを頻繁に自宅に招待したりしていた。陸軍の弾薬箱を作り、陸軍航空機用の木製プロペラ製造に着手したのも、彼の使命感にもとづくものであった。
天野は評議会の勢力が浜松の地に根付くことを阻止する決意のもとに、算盤を度外視してこの争議に立ち向かったのである。
4月26日、争議団の代表7人が社長と最後の交渉の場に臨んだ。しかし天野は「俺は軍隊でも警察でも自分の自由勝手に動かすことができるのだ! だからお前らのような者の言うことを聞く耳を持たぬ」と暴言を吐き、交渉は決裂した。
1300人余の労働者は、交渉の経過を見守って会社事務所前の広場を埋め尽くした。その時、半てんをまとい地下足袋をはいた松葉が、守衛の制止を振り切って鉄製の門扉の上にまたがりアジ演説をした。私が取材した争議団員の多くは、この光景を印象深く語っていた。
労働者たちは作業着のままで、衣類を入れた風呂敷包みを抱えて4列縦隊を組んだ。そして「労働者の生活を無視する社長を葬れ」「固き団結は最後の勝利也」などと大書したのぼり旗数本を押し立て、労働歌を高唱しつつ会社を出発し、ライオン館に向かって行進した。浜松合同の他支部の労働者も加わり、1600人の大行進は市民の目を引いた。
ライオン館に集まった争議団は満場一致でストライキを決議した。そして全員を14の班に分け、各班長と詰所を決めた。このとき、女性を除くすべてが血判を押した班もあった。ここに大ストライキ闘争の火ぶたが切って落とされたのである。
急を聞いた評議会本部では、組織部長で中部地方オルガナイザーの三田村四朗が夜行列車にとび乗り、浜松に急行した。評議会は書記長や事務局長を置かず、組織部長が実質的に最重要ポストであった。
一方、既に会社側と綿密に打ち合わせしていた県警察部は争議取締計画や内偵係勤務規定・内偵係勤務表にもとづき、ただちに配置に付いた。東海道線の浜松駅はもとより、天龍川・舞阪・弁天島の各駅に張り込み、来援者に備えた。このような素早い弾圧体制は、他の争議では見られないものであった。
かくして、105日間にわたって浜松全市を戒厳令下の如き状況にたたき込んだ壮烈な日々が始まったのである。(この項続く)
(カンパのお願い)
夏期カンパにご協力をお願いします
郵便振替
口座番号 00970―9―151298
加入者名 前進社関西支社
郵送 〒532―0002
大阪市淀川区東三国6―23―16
前進社関西支社