袴田再審決定 次は狭山だ
3・21集会・デモ 戦闘的高揚
集会を終えて全員でメッセージボードを提示(3月21日 大阪市内) |
袴田事件の勝利に続こう! 狭山事件の再審を勝ち取ろう! 西成区民センターホールを一杯にしてつどう人々の想いは一つ、熱い想いと光が感じられる集会でした。
第一部 冒頭、現在公開中の布川事件・桜井昌司さんを追ったドキュメント「オレの記念日」(金聖雄監督)の試写の後、地元あいさつの袈裟丸朝子さん(部落解放同盟大阪府連合会書記次長)が狭山のたたかいにおいても昨年9月から開始された「狭山事件の第3次再審請求において事実調べ(鑑定人尋問・鑑定)を行うことを求める署名」が49万筆を突破、再審開始への機運が大きく前進していることを報告。記念講演として夜間中学の普及にも取り組む噺家の露の新治さんの「お笑い人権高座」。大阪人らしいユーモアを交えた差別の構造と解決への問題提起はわかりやすく、核心を突いたものでした。
つづいて狭山再審弁護団の弁護士から@袴田事件再審勝利・検察の特別抗告を断念させたのは市民の力であること、Aそもそも捜査機関(警察・検察)が正義で、間違いは侵さない、だから誤らない・正さないという固定観念が根本的に間違っていること、B今回の袴田再審を認めた東京高裁の決定は、「捜査機関が証拠をねつ造するはずがない」というウソを真正面から打ち砕いたもので、捜査官のミスで袴田さんが犯人にされたのではなく捏造の積み重ねで犯人にされたこと。論理的に捏造は捜査機関しかありえないことを明らかにしたと指摘。狭山事件も同じように捜査機関の証拠の捏造を明らかにするものとして万年筆をはじめとした11点の証拠、証人の事実しらべと鑑定の意義をわかりやすく解説。さらに大きな市民の声と行動を作り上げようと訴え、名古屋入管に虐殺されたスリランカ人のウイシュマさんの事件や関西テレビで放映された冤罪事件を扱ったエルピスの放映などを通して若者や市民の中にも当局の人権侵害や腐敗に対する怒りと関心が高まっていることを紹介。あきらめずに闘うことで必ず裁判所を動かすことができるとの強い決意がありました。
第一部の最後に、政治の世界(議員・政党)からのアクションとして大椿ゆうこさん(社民党副党首)からのメッセージ、大石あきこ(れいわ新選組・衆院議員)さん、森山浩行(立憲民主党・衆院議員)さんの発言があり会場から熱い視線が寄せられていました。
10分間の休憩をはさんで第2部の冒頭は、ビデオメッセージによる再審アピール。狭山事件の石川一雄さんは袴田さんの再審勝利を万感の思いで祝福するとともに、コロナと体調不良で直接支援者の元にかけつけて訴えることができないことの口惜しさのなかで、冤罪が晴れればいつ死んでもいいから第三次再審で何としても終結したいと切々と訴え、大野裁判長に証拠調べをするよう声を届けてほしいとアピール。早智子さんからは袴田ひで子さん(巌さんの姉・90歳)のあふれるばかりの笑顔をともにするとともに狭山も袴田事件と同じく証拠の捏造によるもの。裁判官も検察官もたくさん寄せられた署名は無視できないはず。凍りついた司法の扉をこじ開け冤罪を晴らすための人生に幕を閉じるためにもう一息力を貸してほしいとの訴えがありました。
袴田ひで子さんからは、57年間このために闘ってきた。ちょっと肩の荷が下りたとしつつ、これで終わらせることはできない。巌だけでなく石川さんがあとにつづいて再審開始を勝ち取り、すべての冤罪にされた人の無罪をかちとるまで命の続く限り、それを見届けるまで頑張っていきたいとの熱い呼びかけが寄せられました。
金聖雄(映画監督)コーディネートによるトークセッションは青木恵子さん(東住吉事件冤罪被害者)、西山美香さん(湖東記念病院事件冤罪被害者)の二人の獄友とノジマミカさん(フェイスブック狭山事件の再審を実現しよう)の4人それぞれのえん罪事件に取り組む思いが紡がれたものでした。金監督は布川事件の桜井昌司さんが獄中生活を「不運ではあるが不幸ではない」と表現していることに対する新鮮な驚きと興味がえん罪シリーズの制作に向かわせたと投げかけ、青木さんと西山さんが和歌山刑務所での出会いと交流。青木さんは西山さんが事あるごとに自分が無実であることを刑務官に訴えては懲罰に連れていかれるのを案じて、刑務官が敵ではないこと、裁判で冤罪を晴らすためにここ(刑務所)の生活を大事にしようとし、また西山さんが青木さんの弁護団が無実を証明するための燃焼実験を報道した記事を読んで「よかったね」と声をかけてくれたことでお互いの信頼ときずなが深まったこと。ノジマミカさんは東京高検が袴田再審決定に対する特別抗告の準備に入ったとの情報を受け取るや否やフェイスブックで高検への抗議を一心不乱に呼びかけたことを明かし再審開始を共に喜びました。
発言者を先頭にデモ行進(3月21日 大阪市内) |
2面
国会議員会館前行動 3月19日
大江さんらの志つぎ大軍拡反対
3月19日、国会前で「軍拡やめろ! 軍事費(防衛費)増やすな!暮らしをまもれ! 入管法改悪反対! 3・19国会議員会館前行動」がおこなわれ、千人が集まった(写真)。主催は、〈戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会〉と〈9条改憲NO! 全国市民アクション〉。
司会の菱山南帆子さん
「大江健三郎さんが亡くなったことを報道で知った。反戦・反原発を共に闘ってきた。今年、たくさんの大切な方々が亡くなった。西山太吉さんも。先輩たちの思いを継いで、同じ過ちは繰り返さない」「戦争の記憶を消し去ろうという動きがある。広島県教委が『はだしのゲン』を平和学習教材からはずした」「オスプレイの飛行が増えている。有事に備えた自衛隊の『基地強化計画』で4兆円使うと言っている」「タモリ氏が『徹子の部屋』に出演して『二〇二三年はどんな年になるか』と問われて『新しい戦前になるのでは』と答えた。若い人たちの中に危機感がある。『平和、いのち、くらしを壊す大軍拡、大増税に反対する請願署名』を集める中で対話を広げよう」
大軍拡、入管法改悪など
社民党の服部良一幹事長、日本共産党の吉良よし子参院議員が発言に立って安保関連法と岸田内閣の軍拡を徹底批判した。また、立憲民主党の近藤昭一衆院議員、〈沖縄の風〉伊波洋一参院議員のメッセージも読み上げられた。
在日ビルマ市民労働組合のミン・スイさんがアピール。
「戦争は要りません。防衛費の拡大は全て反対」「軍のクーデターから2年以上経っているが、ミャンマーに対する日本政府の外交は変わっていない。自民党にも反対の声を上げなければならない。今月21日、自民党本部前でミャンマー人の声を上げる」
入管法改悪と闘う市民の方から、7日に閣議決定された入管法改悪案が一昨年廃案になったものとほとんど同じであること、難民認定申請中でも送還可能であること、クルド人はこれまで1件しか難民認定されなかったこと、日本で生まれ育った子どものいる家族も強制送還される恐れがあることが訴えられた。
戦争をさせない1000人委員会の田中直樹さんが行動提起。(以下、一部を紹介)4月13日午後6時から新宿駅東南口で総がかり行動の街宣、4月19日午後6時半から国会議員会館前行動、5月3日、有明防災公園で「あらたな戦前にさせない! 守ろう平和といのちとくらし2023憲法大集会」。ご参集を。
3面
三里塚 芝山現地闘争 3月26日
市東さん「耕す土地はある」
市東孝雄さんを先頭に芝山町をデモ行進(3月26日) |
3月26日、千葉県山武郡芝山町の芝山文化センターで「空港機能強化粉砕! 騒音拡大を許すな! 3・26芝山現地闘争」がおこなわれ、330人が参加した。主催は、三里塚芝山連合空港反対同盟。
集会冒頭、2月15日に強行された市東孝雄さんの作業小屋・看板等の強制撤去とそれに対する闘いの記録映像を上映。
伊藤信晴さんの呼びかけで3月10日に亡くなった反対同盟弁護団事務局長・葉山岳夫弁護士に参加者全員で黙祷を捧げた。
司会は宮本麻子さんで、反対同盟を代表して萩原富夫さんがあいさつした。「本日の集会は『空港機能強化反対』とテーマを設定していたが、『強制執行の後の闘い』になった」「(強制執行の際に機動隊によって現場への道が封鎖されて)この状況を打開しなければ、と思って『蛇腹』(機動隊が持ってきた伸縮式バリケード)の上に登って機動隊の上にダイビングした」「大衆的にみんなで力を合わせて体を張って闘う姿を見せることができた」「(芝山町での空港拡張反対運動で必ずしも反対同盟と連動していないものがあることについて)いろんな闘いがあっていい。住民はそれぞれの立場で闘っているので同盟としては協力するところは協力する。芝山町民の皆さんとがんばっていきたい」
住民団体の発言の後、市東さんが発言。「最高裁判決から6年、全国の皆さんの反対の声と泊まり込み等の行動で圧力がかかっていたので強制執行できなかったのではないか。まだ残っている土地はある。まだ耕し続ける。動労千葉、関西生コン、港合同と共に、市民・学生との団結で、様々な闘いをしている人々と共に闘う。三里塚・辺野古・福島を一つの闘いとして闘い抜く。闘魂ますます盛んなり」
芝山町の住民が、空港拡張について「説明を求めたら空港会社や役人が説明に来て『ご意見は承ります』と言うが、持って帰らず会場から出たらその辺に捨てるだけ。『暖簾に腕押し』ですらない」として、3月31日に千葉地裁に差し止めを求めて提訴すると報告した。
集会終了後、会場周囲の芝山町中心部を、雨の中約40分かけてデモ行進した。
入管法廃案全国キャラバン
改悪案の問題点訴える
2年前、国会に提出したものの、大きな反対の声があがり、廃案に追い込まれた入管法改悪案。岸田政権は、それとほとんど同じ内容の改悪案を今国会で成立させようとしている。政府は3月7日、改悪案を閣議決定し、同日、国会に提出した。
〈入管法改悪に反対する近畿の弁護士有志の会〉は、同法案の廃案にむけてキャラバン&デモをスタート。
初日の3月26日は、夕方からJR高槻駅南口でスタンディングとビラまき(写真)。降り続く雨のなか、弁護士、大阪府議、高槻市議、茨木市議、市民など30人が参加し、行き交う乗降客に入管法改悪案の廃案を訴えた。この日を皮切りに大阪市、神戸市、奈良県、京都市、滋賀県大津市、和歌山県と回り、最終日は大阪市内で大集会とデモをおこなう予定。
改悪案の問題点
そもそも現行入管法自体が問題だらけの法律であるが、その改悪はいっそう大問題である。
(1)現状では難民申請中は強制送還されないが、それを変更し、難民申請者を強制送還する仕組みを作る
(2)自国に戻れば身の危険があるなど、さまざまな理由で帰国できない人に帰国を命じ、従わなければ刑罰を科す。帰国できない人を犯罪者にしたてあげる。
(3)在留資格のない外国人に対する無期限・長期収容する現行制度を維持する
(4)監理措置制度を創設し、収容から解放された人について、原則として就労を処罰対象とし、監視を強める。
(5)在留資格が無い人への、在留特別許可による救済を狭める。
流れは変わった
生活保護基準裁判 4月14日 大阪高裁へ
3月24日、青森地裁と和歌山地裁で原告が連続して勝訴した。青森地裁は「原油や穀物の世界的な価格高騰を考慮せず、物価の下落のみを反映」し「受給世帯の消費構造と大きく乖離する」もので違法、和歌山地裁は「客観的数値との合理的な関連性を欠き、厚生労働大臣の裁量権の逸脱や濫用にあたる」と同じく違法と判断した。
流れが変わる
これまで同裁判では敗訴が多かったが、昨年の熊本地裁から流れが変わってきて6勝1敗だ。とりわけ東京、大阪、横浜の大きな地裁で勝訴しているのが大きい。いずれの判決も国が物価下落を意図的に大きくする計算方法を採用したことを違法としている。今後予定される高裁レベルの判断でもこの点が大きな争点となっていく。
連続する地裁判決
今後、埼玉(3月29日)、奈良(4月11日)、大津(4月13日)、千葉(4月14日)、静岡(5月30日)と5つの地裁で判決が出る。
第二次安倍政権による生活保護基準引き下げ強行に抗して8年、全国で千人を超える生活保護利用者が原告となって闘ってきた「いのちのとりで」裁判が今春、次々と一審段階の判決をむかえる。
高齢者が多く、これまでに何人もの原告が亡くなっている。まさに命がけの闘いになっている。原告が勝訴した宮崎地裁では裁判長が「提訴から長い時間が経過し原告1人が亡くなったことは一裁判官として遺憾」と異例の意見を述べている。
原告たちは自分たちだけの利害ではなく、保護基準引き下げが社会全体に大きな影響を与えること、格差貧困に苦しむすべての人たちの生きる権利のために闘っている。
原告交流会と署名提出
3月21日、大阪の原告交流会がズーム参加をふくめて48人でおこなわれた(写真上)。
冒頭、8年間の経過を映像で振り返った。映像には昨年12月に亡くなった堰立夫さんが横断幕を持つ場面が多く出てきた。新垣さんは「堰さんの映像をみると涙が出てきた。4月14日の高裁判決は負ける気はしない。ともに闘いましょう」とあいさつした。
重度障害者の山内さんは「この間の物価高、とくに電気・ガス等の値上がりがひどい。障害者は寒さに弱く毎日の入浴が欠かせないのに週2回に減らさざるをえない。他方で防衛費増額は許せない。障害者の思いをつらぬいて闘っていきたい」と決意を語った。
提訴から1回も欠かさず法廷に出ている87歳の原告は「高裁で勝利して米寿をいっしょに祝いたい」と述べた。
原告共同代表の小寺アイ子さんは「4月14日の大阪高裁判決は多くの人たちの生活がかかっており何としても勝っていきたい」と決意を述べた。さらに3月6日、大阪高裁に「公正な審理を求める署名」1万5868筆を提出したことも報告された。
4月14日15時から、高裁レベルでは全国初となる大阪高裁判決がある。14時20分集合。
4面
超危険な老朽原発うごかすな
関電本店〜高浜原発リレーデモに出発
集会を終え力強くデモに出発(3月21日) |
3月21日、「リレーデモスタート! 関電包囲大集会」が、大阪市中之島の関西電力本店前で開かれ、雨のなか380人が集まった。主催は〈老朽原発うごかすな! 実行委員会〉。「超危険 老朽原発うごかすな」を掲げて、関電本店〜高浜原発リレーデモがこの日から開始される。4月2日、福井県高浜町にある関西電力・高浜原発に到達する230キロメートルのリレーデモだ。
歯切れの良い司会は、大阪の学生。さらに「小雨が降っているようですが、かえって元気になる変なおばさん」と自称する大阪市民が関電本店に向かってコール、「老朽原発 きわめて危険・・・40年の法律守れ、福島事故は終わっていない・・」などの大合唱となって、数分間圧倒的に響き渡った。
岸田打倒、人の命と尊厳が守られる社会を
主催者あいさつは、実行委員会を代表して木原壯林さん。はじめに、原発全廃の運動に駆けつけてくれた皆様に感謝いたしますと口火を切り、岸田政権は原子炉の安全対策、システム・材料、放射性廃棄物の処理処分などの科学・技術が急に進歩することがないどころか、原発依存へ復帰し、福島原発事故の犠牲と教訓を軽んじている。日本は、太陽光にも水にも風にも地熱にも恵まれており、先見の明のある政権であったなら、原発に費やされた膨大な税金や電気料金を自然エネルギーを利用する電源、省エネ技術や蓄電器の開発に振り向け、核燃料や化石燃料の必要のない社会を実現し、世界をリードしてきたでしょう。岸田政権の失政と電力業界の暴走を弾劾し、この政権を打倒して、安全に人の命と尊厳の守られる来るべき社会へのうねりを創りましょう。今こそ目に見える行動に立ち上がりましょう。
原発立地の地元からメッセージ
次は、原発立地の福井県美浜町に住む町会議員の河本猛さんのメッセージを(美浜町に隣接する)若狭町の石地優さんが代読。沈黙させられているかのような美浜町民として、原発に関するアンケートやポスティングされるチラシなど、おおいにありがたく思って、政治活動に生かしている。町長は二期目で、原発誘致による市財政の安定を主眼にしているが、こうした上層部は政府に原発推進を要請する推進派ですが、反対派のわれわれが意見を届かせるよう精いっぱい努力しており、それは国民の命を守るという大義から。リレーデモなどの行動に感謝し、応援している、と伝えられた。
次は、高浜町民の東山幸弘さんのメッセージを〈オール福井反原発連絡会〉林広員さんが代読。1月30日に発生した高浜4号機の制御棒落下の一部始終を開示し、それが60年代の設計図のままであったことを伝え、修繕改良がなされていなかった老朽劣化の典型で、関電の管理・検査能力のなさを告発。老朽美浜3号、高浜1、2号、もうすぐ40年を迎える高浜3、4号の稼働は許されないと結んだ。
次は、若狭湾原発群の風下=名古屋でたたかう〈老朽原発40年廃炉訴訟市民の会〉草地妙子さん。40年期限を厳守すれば、順当に原発はなくなっていく。政府は60年まで延長しようとしている。規制委員会の判断に任されているが、真に規制する誠意ある検査をせず、書類審査ですませている。とことん司法闘争で闘って行く決意を表明した。
各地からの発言
東海第二原発の再稼働を止める会・披田信一郎さんなど、原発賠償京都訴訟原告団、大阪平和人権センター、全労連近畿ブロック、おおさかユニオンネットワーク、原発ゼロ・奈良の集い実行委員会、原発をなくし自然エネルギーを推進する兵庫の会、原発ゼロの会・大阪、釜ヶ崎日雇労働組合、リレーデモ北摂実行委員会、使い捨て時代を考える会、原発のない社会へ2023びわこ集会実行委員会事務局、オール福井反原発連絡会と続いた。
発言の最後に、リレーデモ出発宣言(案)が読み上げられ、拍手で採択された。
集会後、大阪駅前の繁華街までデモ行進。沿道の注目を浴びた。
さようなら原発全国集
東京代々木公園に4700人
3月21日、東京代々木公園で「岸田政権の新たな原発推進政策反対! フクシマを忘れない! 再稼働を許さない! 3・21さようなら原発全国集会」が開かれ、4700人が集まった。主催は、〈「さようなら原発」一千万署名 市民の会〉。
岸田政権は原発政策の反動的大転換を狙って、再稼働にとどまらず、原発の運転期限60年を事実上撤廃し、さらに新・増設まで公然と打ち出している。まるで、福島事故などなかったかのように原発推進に暴走している。何としてもこの岸田政権の動きをくいとめ、原発の廃止に向け運動を強めなければならない。
一日も早く原発をなくす
オープニングライブのあと、集会開始。
鎌田慧さん・澤地久江さんが主催者あいさつ。
福島からの発言の最初に、〈これ以上海を汚すな! 市民会議〉共同代表の佐藤和良さんが、岸田政権の原発回帰政策を弾劾したうえで二つのことをお願いしたいとして、「一つ目は、汚染水を流させないということです。…薄めて流すと言っていますが(放射線の)量は変わらないんです。7月にも流すと言っています。これに対して5月16日に日比谷野音で集会をします」「もう一つは東電の三悪人が起訴された刑事裁判です。東京高裁はこれを免罪しました。これを許さないために上告しています。こちらの応援もよろしくお願いします」と訴えた。
避難の協同センター代表世話人・熊本美彌子さんの発言に続いて、〈311甲状腺がん子ども支援ネットワーク〉阿部ゆりかさん、青森県大間からあさこハウスの熊谷厚子さん、落合恵子さん、福島連帯キャラバン、元静岡県湖西市長の三上元さん、柏崎刈羽原発再稼働おことわりグループが発言。
原子力資料情報室事務局長の松久保肇さんは「政府は昨年GX実現に向けた基本方針を策定し、これに基づいたいくつかの法律を今国会に提出しています。これにはいくつもの問題があります。原発の新増設には長期間かかり電力ひっ迫や脱炭素にはまったく効果はありません。第2には福島事故の教訓を忘れるものです。第3に基本方針策定過程でほとんど国民の声を聴いていません。第4に、私たちは原発に関する負担をずっと強いられているということです」「原発産業は衰退の一途をたどっています。一日も早く原発をなくすために頑張っていきましょう」と原発廃止に向けた思いを語った。
行動提起、シュプレヒコールをおこない、2コースに分かれてデモ行進。反原発を訴えた。
5面
3・11から12年 大阪で集会・デモ
甲状腺がん患者の現実訴える
3月5日、「さよなら原発2023関西アクション」(主催:同実行委員会)が大阪市のエル・シアターでおこなわれ450人が参加した(写真)。
小児甲状腺がん
この3月、福島原発事故から12年目をむかえた。福島県における小児甲状腺がん患者は300人を超えている。白石草さん(Our Planet-TV代表)は、この当事者を長く取材してきた。がん患者がどのような思いで裁判に訴えたのか。白石さんは、「誰にも言えなかった甲状腺がん患者の現実」というテーマで講演した。
小児甲状腺がん患者の存在と実態は、あまり知られていない。メディアは、このテーマについて報道をしないし、当事者は差別をおそれて家族以外には隠している。だから、「福島原発事故はチェルノブイリ原発事故より被ばく線量が少ないから、甲状腺がんは発生しない」という政府のウソが、まことしやかに世の中でまかり通っている。国連科学委員会(UNSCEAR)がこれを後押ししている。白石さんは、「裁判で原告が発する言葉に耳を傾け、この裁判のことをまわりに広めてもらいたい」と強調した。
ここで、「311子ども甲状腺がん裁判」について確認しておく。「3・11」以降、小児甲状腺がんになった若者(6人)が東京電力に損害賠償をもとめて2022年1月東京地裁に提訴した。その後、原告に1人が加わり、現在18〜26歳の若者7人(男性2人、女性5人)になっている。福島県民健康調査でがんが見つかり、福島県立医大で手術をしている。
福島には、がん患者の治療をするアイソトープ治療施設(ふくしま国際科学医療センター)が2012年に構想されて、2016年10月に完成した。がん患者の母親は次のように言っている。「こんな施設を早急につくるということは、国はがんが多発する事をすでに知っていたのだね」。これは正鵠を射ている。
原発事故をなかったことにする政府
森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)が、「甲状腺がん患者が顔を出せない状況をどう思われるでしょうか」と訴えた。森松さんは、子ども2人と関西に避難。子どもはすでに12歳と15歳に。森松さんは、原発事故をなかったことにする政府にたいし、怒りをもって闘っていく決意を述べた。
再処理工場の危険性
澤井正子さん(元・原子力資料情報室)が「超危険な六ヶ所再処理工場」というテーマで語った。再処理工場では、原発に比較して放射性物質の放出量は桁違いに多い。再処理工場は巨大な化学工場でもあり、危険な高レベル放射性廃液が発生する。外国では、再処理施設は原爆をつくるために軍事施設としてつくられている。そのうえで、澤井さんは、「日本原燃は2024年に稼働するといっているが、これは絶対にあり得ない」「日本国内で、最終処分場がつくれる場所はどこにもない。すでにある高レベル廃棄物をどうするのか、考えていく必要がある」と述べた。
集会終了後、扇町公園までデモをおこない、岸田政権の「原発回帰」を弾劾し、「反原発」を訴えた。
上関原発反対で大集会 3月18日山口
岸田政権の原発回帰許さない
3月18日、山口市の維新百年記念公園野外音楽堂で「上関原発を建てさせない山口大集会」が800人を集めて開催されました(写真左上)。
オープニングの宇部太鼓の演奏に続いて、午前10時から主催者を代表して上関原発を建てさせない山口県民連絡会共同代表の清水敏保さんと内山新吾さんが開会のあいさつ。
特別報告として〈「避難の権利」を求める全国避難者の会〉大賀あや子さんが「百年、2百年、3百年後も安心して暮らせる世界を残すために、原発も戦争も無くすために頑張りましょう」と訴えました。
続いて中国電力が海上ボーリング調査を妨害しないようにと漁民らを相手に妨害予防請求訴訟を起こしたことについて、中村覚弁護士が、「漁民らの漁業権を妨害しているのは中国電力のほうだ」と裁判勝利の決意を述べました。
次に登壇した上関原発を建てさせない祝島島民の会青年部の皆さんは今後も意気軒高と闘う決意を語りました。バンド演奏をはさんで県外参加団体の紹介があり、上関原発に反対している統一地方選の立候補予定者も紹介されました。
集会宣言採択ののち「命の海」と書かれた紙を全参加者が掲げるパフォーマンスをおこなって集会を終えました。岸田政権の原発回帰の攻撃を許さず、共に闘いましょう。(松田忍)
原発ゼロ・被災者支援奈良のつどい
あきらめないことが大切
東日本大震災・福島原発事故から12年目。この3月11日に、「3・11原発ゼロ・被災者支援奈良のつどい」が、JR奈良駅前でひらかれた(写真左上)。主催は同実行委員会。通行人を含めて約5百人が参加した。集会では、守田敏也さん(ジャーナリスト)が講演した。
守田さんは、原発の危険性について、つぎのように話した。「福島第一原発事故で、東日本が壊滅する危険性があった。3つの偶然がかさなって、これを免れることができた。この12年間、民衆の力で原発を止めてきた。原発事故避難者が、放射能の危険性を訴えてきた。広島と長崎の原爆においても、政府は内部被ばくを過少評価してきた。原爆も原発も、放射能の危険性では同じ。民衆には力があるのだ。あきらめないことが大切だ」。
集会終了後、デモをおこなった。三条通りの商店街を歩き、高天交差点を左折して、JR奈良駅前に戻った。
菅野哲(ひろし)さんの訴え(下)
12月チェルノブイリ集会で
(3)原発事故は終わらない
原発事故は今も続いています。事故は終わっていません。政府は「除染したから戻れる」と言うが、そんなことはない。除染した地域は20%程度で、除染しても放射線量は事故前の何百倍のレベルです。仮設住宅をおいだされ、老人は仕方なく自宅に戻っていますが、若い世帯は戻りません。帰還者は20%程度で、理由は以前の暮らしができない、生業が戻らないからです。
現在、行政は移住政策をしています。補助金を出し新住民を受け入れてますが、これは旧住民との分断を生むだけです。「復興」と言って「箱もの」を造るが、人が戻らないのに物を作ってどうするのか。住民が望んでいるのは生活基盤の復興です。
(4)実害の現実について
政府は「福島は復興した」とし、原発事故の事実を消し去ろうとしています。そのために大手広告代理店「電通」を事業委託で使い「風評被害」としています。しかし、飯館村にきてみればわかりますが、今でも、事故前の数百倍もの放射線量があります。「風評被害」はあり得ない、責任をとろうとしないのです。
飯舘村民は大地に根を張って生きてきました。原発の恐ろしさ、簡単に避難できないことを知りました。私たちはこのことを全国の人々に訴えたいのです。暮らしの場を失うことは、自然環境が壊されるとは、コミュニティーが壊されるとはどういうことなのか。いかに過酷な事故だったのか。全国の人々に分ってもらいたいのです。
(5)裁判闘争
われわれは裁判外紛争解決手続き(ADR)に訴えました。生業を失う事、生きる場を失う事が、交通事故と同等の補償でしょうか。原賠審の立脚点が間違っています。東電は和解案を拒否したので、21年3月に飯舘村村民29人が国と東電を相手に裁判をおこした。私たちは初期被ばくと故郷喪失の2点に絞り損害賠償を請求しています。国と東電に責任を取らせたいのです。
(6)飯館村の今
今、飯舘村にはメガソーラーがつくられ、風力発電機のプロペラがまわっています。これが復興の景観なのか。住民は昔の自然に戻してもらいたいのです。岸田政権は「60年超を容認し、再稼働をすすめ、新規原発を開発する」と言っています。福島県民の前で、こんなことが言えるのでしょうか。
(7)世の中を変える
国家とは何なのか。人々が幸せに生活できるように政治をすべきです。地球に住むすべての人々にとって、平和を望まないものはいません。日本は戦争に負けて、人々は侵略戦争をしないことを誓ったのです。増税して、軍事費を増やす必要がありますか。軍事で世界は平和になりません。この社会を変えるために、一人ひとりが行動をおこすべきです。
お詫び 360号(2月16日付発行〈上〉)の続きです。紙面の都合で掲載が遅れたことをお詫びします。
6面
(書評)
『私がつかんだコモンと民主主義』
グローバルな視点と遅れた日本
岸本聡子著 晶文社 22年7月発行 1760円(税込)
昨年6月、東京都杉並区長選で現職を僅差で破って初当選した岸本聡子さんの著作。岸本さん(公共政策研究者)の考え方には随所で共感したが、水道民営化反対の運動で勝利の経験をしていることはすばらしい。
「水の権利と正義」を求める運動
岸本さんは、オランダ・アムステルダムの国際政策NGO・トランスナショナル研究所(TNI)で、「水の正義」プロジェクトを2003年から立ち上げ、水道民営化反対運動を支援してきた。命の水から利益をあげてはならない。「安全な水を全ての人に」届けるためには、民主的で機能的な公水道が必要だと考え、運動に関わる人たちと繋がりを作り、世界22カ国の実践者が書いた『世界の水道民営に対する闘いやビジョンから学び、公共の水を取り戻す』というネットで無料で読める本を刊行。また、各地の反対運動の情報や戦略を集め、教訓を話し合い、政策提言につなげ、信頼と共有のネットワークを作っていった。
「コチャバンバの水戦争」の勝利はとても感動的だ。1990年後半ボリビアでも、他国と同様、国際開発銀行からの融資条件として、水道民営化が押しつけられ、水道料金は跳ね上がり、井戸や水源の利用が禁止され、住民の自治的な権利が奪われた。これに対して2001年コチャバンバでは労働者のストライキ、住民の蜂起を何週間も続け、政府に米企業・ベクテルとの水道民営化契約を破棄させた。弾圧に屈せず17人の犠牲のうえに勝ちとられた勝利は、世界の人々に勇気を与え水の正義のための国際運動が生まれていく。
運動は各地で勝利し、2010年国連総会は「水の権利」は人権であると採択。イタリアでは、国民的な運動で「水は人権であり、そこから利益を上げてはいけない」という原則を憲法改正に反映させた。水道再公営化は、現在では世界で345件に上るという。
岸本さんはもと気候活動家であり、1998年ジュネーブで開催された世界貿易機関の第2回閣僚会議への環境活動家たちの対抗運動に参加し、「投資の自由化・投資家保護」を狙うMAI(多国間投資協定)に反対し頓挫させた。しかしその後、「投資家と国の間の紛争解決(ISDS)」条項として生き残り、闘いは続いている。
岸本さんのパートナーはオランダ人で、01年に赤ちゃんと共にアムステルダムに移住する。そこで給料が少なくても生活できたのは、生活保障が日本と違うからだ。「収入のない人への生活保障=無職手当」があり、「同一労働同一賃金の原則」がある。パートタイム制は、同じ仕事をしていれば同じ賃金であり、給料・手当・社会保障もフルタイムと同じ。「ライフステージに合わせて、労働時間を変えるのも決めるのも労働者の権利」という考え方なのだ。空いた建物をスクオット(占拠)して住むことができるのも面白い。
女性解放の視点
1994年大学に入学しレポートで選んだテーマは「夫婦別姓」。現在、夫婦同姓を強制している国は日本だけ。家父長制と関係する戸籍制度は世界中で日本、台湾、韓国(2008年廃止)にしかなく、戸籍制度は廃止の立場だ。教育費も個々の家族に押しつけるのではなく「社会全体の使命であり責任」だと言う。
政治家は女性に向いた仕事。「政治家に一番大切な資質は、自分とは違う立場の人たちをどこまで想像できるか。当事者から学び続ける謙虚さ」だと言う。「政治のフェミナイゼーション(女性化)」にも取り組み、登壇者の過半数は女性にするという内部的ルールで欧州議会内で討論会をおこなったり、TNIでもそれを内部的ルールとしている。
ミュニシパリズム
地域の主権を大切にするスペインなどから広がった新しい政治運動を紹介している。スペインのミュニシパリズムは、2011年政府とEUの厳しい緊縮財政に怒り、広場に集まった若者たちの「怒れる人々」運動に端を発している。マドリードやバルセロナで百万人以上、スペイン全土60都市で大規模な抗議に発展。この運動は、国政政党「ポデモス」を誕生させ、ポデモスと緩やかに繋がる市民政党が各地で生まれた。市民政党は2015年の統一地方選挙に候補者を立て、主要都市部でも市政の一翼を担うほどの勢力に。
バルセロナでは「水は命」「電力は主権」「住宅は権利」のためにたたかってきた市民グループが連合して、バルセロナ・コモンズを編成して選挙に出て、いきなり11議席を獲得し市政の第1党となった。ミュニシパリズムは、利潤と市場の法則よりも、市民、公益、コモンズ(公共財)を優先し、政治課題の中心におく。岸本さんも、日本で公共財と草の根の民主主義を創ろうとしている。現在は「同時多発的な市民運動の時代」であり変革の時だと訴えている。(花本香)
私がつかんだコモンと民主主義
目次
一部
日本からの移民イン・ヨーロッパ
日本人、ヨーロッパの政策NGOで働く
外国人として、移民として、女性として生きる
グローバルな対抗運動の芽生え
二部
ロストジェネレーションの連帯
ロスジェネ世代と呼ばれて
私の環境運動は気候変動から始まった
水の正義とエネルギーの民主化
三部
フェミニズムを生きる
それは夫婦別姓から始まった
結婚と家族と言語の事情
作ること、食べること、生きること
私たちはケアし、ケアされている
同時多発的な市民運動の時代に
日本学術会議法の改悪
今国会で成立ねらう
寺田理
日本学術会議法の改悪が、今国会でおこなわれようとしている。昨年12月6日、内閣府は「日本学術会議の在り方についての方針」という文書を出した。ここで次のように言っている。「政策判断を担う政府等に対して科学的知見を提供することが期待されている日本学術会議には、政府等と問題意識や時間軸等を共有しつつ、中長期・俯瞰的分野横断的な課題に関する質の高い科学的助言を適時適切に発出することが求められている」。
ここで「政府等と問題意識や時間軸等を共有」がキーワードだ。この文言が何回も繰り返されている。そのうえで、政府は次のような改正案を提案しているのだ。今までは現会員が次期候補者を推薦してきた方式を変えて、「選考諮問委員会」のような第三者委員会を設置して会員を選ぶようにする。
選考諮問委員はだれがなるのか。政府の方針に「理解」のある委員を任命して、ここで会員を選別する。市民の反対が弱いことをみこして、国会で強引に押し通そうとしている。この政府の策動を許してはならない。
日本学術会議の対応
これにたいして、日本学術会議は総会(昨年12月21日)で、政府に「再考を求める」方針を決定した。総会で採択された「声明」では、懸念される事項について次のように提示している。
(1)そもそも、すでに学術会議が独自に改革を進めているもとで、法改正を必要とすることの理由(立法事実)が示されていない点。
(2) 会員選考のルールや過程への第三者委員会の関与が提起されており、学術会議の自律的かつ独立した会員選考への介入のおそれのある点。
(3)また、第三者委員会による会員選考への関与は、任命拒否の正当化につながりかねない点。
(4)現在、説明責任を果たしつつ厳正におこなうことを旨とした新たな方式により会員 選考が進められているにもかかわらず、改正法による会員選考をおこなうこととされ、そのために現会員の任期調整が提示されている。
(5)現行の三部制に代えて四部制が唐突に提起されたが、これは学問の体系に即した内発的論理によらない政治的・行政的判断による組織編成の提案であり、学術会議の独立性が侵害されるおそれが多分にあることを示した点。
(6)政府等との協力の必要性は重要な事項であるが、同時に、学術には政治や経済とは異なる固有の論理があり、「政府等と問題意識や時間軸等を共有」できない場合があることが考慮されていない点。
同じように、この政府文書にたいして、さまざまな学会が反対ないし再考を求める声明を出している。しかし、メディアはこの問題をとりあげていない。
学術会議問題とは
2020年10月、菅義偉首相(当時)は学術会議の新会員候補者105人のうち6人を任命しなかった。杉田和博内閣官房副長官がこれにかかわった。この事は、開示文書からも明らかになっている。この問題をごまかして、学術会議の組織に問題があるかのようにすり替えて、学術会議を政府の方針に従う団体に変えようとしているのだ。
岸田政権に対決を
安倍政権がメディア支配をどのようにおこなったのか。今回、放送法にかんする「行政文書」が明らかになって、鮮明に浮かびあがってきた。放送法は、かつての侵略戦争にたいする反省のうえに制定された。日本学術会議は、政府のおこなう戦争に加担した事を反省して、1948年に結成された。軍事研究に反対する声明が、過去3回にわたって出されているように、その原点は「軍事研究をしない」ことなのだ。
安倍政権以降、戦争にたいする歯止めがつぎつぎに壊されている。政府は、学術会議が戦争に反対していることが気にくわないのだ。時の政府の方針に従う団体に変えようとしている。学術会議の組織改変問題は、他人事ではない。
7面
強制不妊 3月16日 札幌高裁が国賠命令
二審で3件目 除斥期間適用せず
国はただちに国賠命令へのすべての上告・控訴を取り下げ、判決を確定させよ
国と国会はすみやかに謝罪を表明し、「優生保護法問題の早期全面解決」に踏み出せ
旧優生保護法(以下、旧法。1948〜96年)下で不妊手術を強制されたとして、札幌市の小島喜久夫さん(81)が国に3300万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、札幌高裁(大竹優子裁判長)は3月16日、「旧法=違憲」の判断を示した上で、不法行為(=不妊手術)から20年で損害賠償請求権が消滅する「除斥期間」を理由に請求を棄却した1審札幌地裁判決(21年1月)を取り消し、国に1650万円の賠償を命じた。22年2月大阪・3月東京の両高裁判決に続く原告の逆転勝訴である。国賠命令は、高裁では両高裁に次いで3件目、今年1月熊本・2月静岡・3月仙台の3地裁を含めると計6件目。
小島さん夫妻の喜びの声
喜久夫さん(81)「感無量です。(判決が)どうなるのかと、昨晩は寝られなかった。これまで私は本当に不幸な人間だと思ってきたが、今は一番幸せです。(28日に東京で開かれる「優生保護法問題の早期・全面解決を求める集会」で)岸田首相に謝罪を求め、二度と国がこのようなことをしないように訴えたい」
妻・麗子さん(80)「夫婦で頑張ってきた。今日の判決を聞きうれしい」
判決は、旧法について、「個人の尊重を基本原理とする憲法下で許容しがたい、極めて非人道的な目的で立法された」と批判。手術は子どもをもうけるか否かの意思決定をする自由を侵害しているとして、幸福追求権を保証した憲法13条、法の下の平等を定めた14条、「家族に関する個人の尊厳」について規定した24条に反すると判断した(*)。違憲判決は高裁では両高裁に次いで3件目、地裁での計8件と合算すると計11件に積み上がった。
(*)「24条違反」は一審における初判断だったが、それを踏襲した。
「除斥期間」について、裁判長は、起算点を手術の実施時としつつ、次のように指摘した。
「旧法は96年改正まで48年間効力を有し、多数の優生手術が実施された。国は学校教育でも優生思想を国民に広めており、19年に一時金支給法が成立するまで、優生手術が適法である旨の見解を表明し続け、被害救済の措置を取らなかった。それゆえ、国は優生思想を定着させ、障害者への根深い社会的な差別や偏見を正当化・固定化・助長していたと言える。こうした差別・偏見は、原告が損害賠償請求権を行使するために必要な情報を得ることを阻害した。このような場合、20年が経つと請求権が消滅する「除斥期間」の適用を認めることは、著しく正義・公平の理念に反する」。
その上で、必要な情報を得てから6カ月は適用が制限されるとし、19年1月の初提訴(* 仙台の佐藤由美さん〔仮名〕の提訴)を知り、同年5月に提訴した小島さんの請求権は有効だと判断した。 大阪・東京・札幌の3高裁が、「除斥期間」適用とそれに基づく請求却下の一審判決をことごとく覆した意義はきわめて大きい。
また、本年1月熊本、2月静岡、3月仙台の3地裁が連続して国の「除斥期間適用とそれに基づく請求却下を」の主張に「著しく正義公平の理念に反する」を対置してそれらをすべて退けた意義も、それに劣らず大きい。
優生保護法―そのリアル
小島さんの半生―ご本人の述懐と弁護団等の談話によれば・・・。
小島さんは生後すぐ、家庭の事情から北海道石狩市の農家に預けられた。養父母ははじめ可愛がってくれたが、二人に子どもができると冷たくされ、反目が深まる中で荒れ、非行に走った。1961年の19歳の頃、帰宅すると、養父が警察に通報、手錠をかけられ札幌市の精神科病院に連行された。「精神分裂病」(当時の病名。のち統合失調症と改称)と言われ、精管切除手術を強制的に受けさせられた。
その後病院から脱走、タクシー運転手として働き、20代で結婚したが、子どもができないことが原因で離婚。30代で麗子さんと再婚したが、麗子さんが自分が原因だと思わないよう気づかい、不妊は「若い頃おたふくかぜにかかったせい」と隠し続けた。
大竹裁判長は、小島さんの過酷な人生被害に向き合い、その苦悩を受けとめ、判決文を書いた。「原告は、優生手術を受けた女性(*19年に全国で初提訴した宮城県の佐藤由美さん〔仮名〕)が裁判を起こしたことを知るまで約57年間にわたり、配偶者を含め、誰にも打ち明けることができないまま、悩み続けた。・・・」)
19年1月30日、佐藤さんの提訴をニュースで知った小島さんは初めて、「国が私の人生をめちゃめちゃにしたんだ」と気付いた。「オレも手術を受けたんだ」。翌2月1日夜、初めて麗子さんに打ち明けた。思いがけない告白に麗子さんは大きな衝撃を受けたが、その思いを受け止め、ともに闘う決意を固めた。19年5月17日提訴し、熊本の原告・渡辺数美さん(81。18年6月提訴し、本年1月の熊本地裁判決で勝訴)と並んで、被害者で初めて実名と素顔を出してメディアの取材に応じた。実名公表ゆえ「カネが欲しいのか」などの中傷電話が絶えなかったが、麗子さんは「自分の子どもがされたらどう思いますか」と問い返し、動じなかった。
小島さんは語る―「2歳のとき小児マヒになり右脚に障害が残った。19歳の頃、警官に精神病院に連行され『精神分裂病』と言われ、病棟に入れられた(*)。女性看護師らからは「あんたらみたいのが子どもをつくったら大変だから」の言葉を浴びた。
(*)病棟には、精神疾患とは関係なく「素行不良だから」と入院させられた同年代の青少年が多く、小島さんもその一人だった)
「『小島さんの番ですよ』と言われ、『オレ、そんなんじゃない。そんなことイヤだよ』と必死で争ったけど、無理やり手術台に上げられて股広げられて、注射打たれて手術された」(19年4月23日の報ステでの証言)
―1950〜60年代、優生保護法と精神衛生法(1950年施行)等の国策のもと、優生思想×社会防衛イデオロギーが浸透する中、手術実施件数全国最多の北海道、第2位の宮城県をはじめ全国で、犬や猫への不妊手術と何ひとつ変わらない人間存在を根こそぎ冒涜する医学犯罪と言って決して誇張ではないような数々の非道、信じがたい医療上の無責任、杜撰が横行し、常態化していた。その真の実態の調査・解明・検証はこれからの重大課題だ。
国と国会は「優生保護法問題の全面解決」へ、ただちに取り組みを開始せよ
法改正直後の97年最初に声を上げた飯塚淳子さん(仮名)、それに続いた19年1月の佐藤由美さん(仮名)の全国初の提訴以来、各地訴訟における小島喜久夫さんをはじめとした原告の方々による、旧法と不妊手術の強度の人権侵害、非人道性、差別・偏見のもとで声を上げることの極度の困難性をめぐる懸命の訴えと告発が、司法において被害実態に関する認識の着実な蓄積と深化を形成し、両高裁判決以来の連続的な原告勝訴の画期的情勢を引き寄せている。旧法と強制不妊をめぐる国賠訴訟運動は、いまや「優生保護法問題の早期全面解決」を切り開くべき新たな段階に突入したと言える。
国と国会の責任の明確化と謝罪、被害を償うに十分な賠償・補償の実施、第三者機関による被害実態の調査・検証、優生思想・障がい者差別の克服、共生社会創造のための施策・立法措置等の目標実現に向け、原告・被害者の闘いに学び連帯し、勝利に向かってともに前進しよう。
木々繁
強制不妊 救済範囲を拡大
大阪高裁原告逆転勝利 3月23日
3月23日、優生保護法被害兵庫訴訟の控訴審において、大阪高裁(中垣内健治裁判長)は、優生保護法被害者である5人全員に総額4950万円の賠償を命じる判決を言い渡した(写真)。判決は、国が優生保護法に基づいておこなった不妊手術や人工妊娠中絶は、憲法13条(個人の尊重、幸福追求権)、14条1項(法の下に平等)に明らかに違反するものであり、国会議員の立法行為が違反であったと認めた。そして、このような立法をおこなった国が「除斥期間」の適用により賠償責任を免れることは、個人の尊厳を基本原理とする憲法が容認していないことは明らかであると断じた。
国が立法行為の違法性を争い、除斥期間の適用を主張し、責任を否定してきたことを厳しく批判。焦点の「除斥期間」の適用については「国が優生条項を憲法違反と認めた時、又は優生条項が憲法違反であると最高裁の判決により確定した時のいずれか早い時期から6カ月が過ぎるまでは、除斥期間を適用しない」とする初めての判断を示し、大幅に救済範囲を広げた。「全ての被害者を救済できる判断で、画期的な判決だ」(藤原精吾弁護士)。提訴から5年、兵庫の原告5人中2人が、勝訴判決を聞かずに亡くなっている。
優生保護法被害訴訟の高裁判決は大阪、東京、札幌に続く4例目の逆転勝訴であり、地裁でも熊本、静岡、仙台と勝訴している。司法判断の流れは定まったといえる。
8面
長期・読み切り連載 大庭伸介
先人たちの闘いの成功と失敗を学び現在に生かそう
ストライキ時代が到来
日本経済の心臓部に闘いの炎@
「熔鉱炉の火は消えたり!」
2人の若者が1万5千人を組織
福岡の田舎に住んでいた親戚のお婆さんが、浅原健三のことをよく口にしていた。労働運動に格別関心を持っていないのに、天下の八幡製鉄を向こうに回して奮闘した人物として、畏敬の念を込めて話していたのを記憶している。
第1次世界大戦(1914〜18年)が終わると、日本経済は戦後不況に襲われた。
一方、1918年の米騒動で被差別部落の人たちを先頭に人民大衆の不満と怒りが爆発し、これを契機にあらゆる社会運動が一斉に花開いた。労働者の闘いも本格的に開始された。日本帝国主義は危機の時代を迎えたのである。
こうしたなかで1920年、八幡製鉄(現・日本製鉄)で大争議が勃発した。
八幡製鉄は1901年、海軍艦船の建造をはじめ鉄鋼需要の急迫に対し、これまでの輸入依存を克服するために設立された日本最初の国営製鉄所で、国内最大の工場であった。火入れ式には内閣総理大臣伊藤博文が招かれ、長官は天皇が直接任命する勅任官であった。国内の銑鉄や鋼材の7〜8割を生産し、「鉄は産業の米なり」と称されるなかで、全産業の基幹を担っていた。
一方、そこで働く労働者は退社時には身体検査を受け、休憩時間に新聞を読むことも禁じられ読めば賃金をカットされた。高熱のなかで12時間働かされたうえ、12時間の居残り、そしてまた翌日には12時間の勤務、計36時間も拘束されることが珍しくなかった。若い労働者でさえ、帰宅途中に路上で何度もへたりこむような有り様であった。
こうしたなかで1919年10月、23歳の浅原健三と25歳の西田健太郎が中心になって日本労友会を結成した(会長浅原、副会長西田)。
浅原は筑豊の小炭鉱の鉱夫の3男で、上京して日本大学に学ぶかたわら、社会主義者と交わってアナルコ・サンジカリズム(急進的労働組合主義)の影響を受け、帰郷後は八幡で労働問題の演説会を開催したりしていた。西田は元八幡製鉄の労働者で、浅原を訪ねてたちまち意気投合した。2人のオルグが功を奏し、労友会はわずか半年で八幡製鉄のなかで6000人を超える労働者を組織した。
同年12月、製鉄所は翌年2月から残業を規制すると発表した。低賃金のもとで残業を頼りに、外米とたくあんのしっぽの弁当で重労働に耐えていた労働者にとっては、収入が大幅にダウンする残業規制は絶対に受け入れられなかった。
20年1月上旬、浅原は単身上京して滞京中の長官白仁武を訪ね、労働者の窮状を訴えた。しかし長官はまともに耳を傾けようとしなかった。浅原はすぐに暗号電報で「開戦準備」を指令し、夜行列車で八幡に引き返した。労友会はただちに戦闘準備に入り1月25日、戦時手当の本給繰り入れ・8時間労働制などの要求書を提出した。
2月1日、不穏な兆候を察知した製鉄所は、中心人物8人を解雇した。
2月5日未明、西田は蓑笠をかぶり頬被りし草履脚絆で身を固めて人夫に変装し、折柄のみぞれをついて製鉄所構内に潜り込んだ。午前6時すぎ、鍛鋼工場の一角に350人余の労働者が集まり数隊に分かれて、「本事務所前で演説がある」と叫び工場内をかけまわった。総数2万輌といわれた構内の貨車を停め、各工場から労働者が喚声をあげてとびだし本事務所前の広場に集まった。阻止しようとした職制は容赦なくなぐられた。
50のボイラーが並ぶ中央汽缶場は全工場に蒸気を送る心臓部だったが、突入した労働者がハンマーで分厚いガラス管をこわし、工場内は白煙につつまれた。電源が断たれ、全工場のモーターが止まり、電灯も消えた。
本事務所前の広場は1万数千の労働者で埋め尽くされ、総指揮の西田が演説を始めると声援がわきおこった。労働者は彼にならって続々と演説した。
4人の交渉委員が次長に面談して、7日夕刻までに回答する約束をとりつけ、群衆の前で報告した。労働者たちは喚声をあげて、製鉄所を一望できる豊山公園までデモ行進した。普段は天を覆う380本の煙突の煙も、かすかに余燼を残すだけであった。設立以来はじめて熔鉱炉の火が消えたのである。まさに日本労働運動史上に輝く圧巻のシーンであった。
この事態に驚いた警察は、八幡だけでなく門司、若松、福岡からも駆け付け、小倉の憲兵隊も出動した。主謀者の検挙が始まり、浅原は八幡署に拘引され、西田をはじめ労友会幹部はことごとく検挙されてしまった。
支配階級の心肝を寒からしめ
ストライキ時代開始の号砲が鳴る
労友会はかねてから、18年に結成されていた友愛会(のちに大日本労働総同盟と改称)八幡支部と連携していたが、これを境に友愛会が中心になって争議を指導することになった。
製鉄所では職制が復旧に努め、休止していた熔鉱炉もつぎつぎに回復していった。製鉄所は7日、長官の名で8日まで臨時休業とし、賃金や手当の改善については予算を国会に提出中であるという諭告を発した。臨時休業が終わった9日、300人の労働者が検挙され、入構した労働者は8割に及んだ。
争議団の舞台は東京に移り、友愛会会長の鈴木文治をはじめ幹部たちが政府や国会工作に当たった。しかし、事態は一向に進展しないままに国会の会期が終了した。
23日、労友会は再びストに突入することを決議した。24日朝、中央汽缶場に50人ほどの労働者がなだれこんでスト参加を呼びかけ、阻止しようとする役付き工をなぐった。労働者は各工場の現場事務所などに投石して窓ガラスを破り、喚声をあげて本事務所におしかけた。全工場は作業を停止した。
急を聞いて駆け付けた警官隊は、労働者が投げつける石や鉄片に妨げられて本事務所に近づくことさえできなかった。
「豊山公園に集合!」の声がかかり、1万5000人の労働者は警戒線を突破して市内に溢れ出た。豊山公園に結集した労働者の頭上には、労友会と友愛会の会旗がはためき、その周りを警官隊と憲兵隊がとりまいた。
25日、製鉄所は無期休業を発表した。その結果、その日暮らしの労働者は不安に脅え、浅原、西田なきあとの指導部も狼狽の色を隠せなかった。製鉄所側との交渉は続けられたが、一向にラチがあかなかった。
市内で開かれた争議団の演説会はいずれも超満員であった。しかし休業による労働者の不安は拭えず、なかでも社外工の職夫や運搬人夫は生活難に陥り、組合への敵意を強めた。労友会は彼らの供給人・請負人の多くが会員であった大日本国粋会の斡旋を受け入れ、無条件で就業することを決めた。かくして3月2日、争議は惨敗に終わったのである。
第1回目のストで浅原・西田以下10人はほとんどが治安警察法違反、第2回目のストでは60人が騒じょう罪で起訴され、29人が有罪になった。馘首者は250人。
4月上旬、製鉄所は実働8時間制を発表し、7月には臨時給与を大幅に増額し、事実上労働者側の要求を実施した。
はなばなしく登場した日本労友会は、激烈に闘い、弾圧され、翌21年4月に壊滅した。
しかし、八幡製鉄所大争議は文字どおり資本家階級と政府当局者の心肝を寒からしめた。そして翌1921年の大ストライキ時代の幕開けを告げる号砲となったのである。
(読者への手紙)
拙稿の長期連載「先人たちの闘いの成功と失敗を学び現在に生かそう」を熱心に読まれている仲間が増えているとか。大いに励まされています。
つぎの2点につき、訂正とお詫びいたします。
1、本紙359号8面、上から3段目、4行目の「65度以上」について・・・これは摂氏ではなく華氏によるものです。『女工哀史』の記述をそのまま、解説を付さずに記したので、「それでは死んでしまう」という読者の反応は無理もありません。不十分な記述で申し訳ありませんでした。なお同書では、そのあとに続けて、職場によっては90度以上の環境で働いていたというデータが紹介されています。摂氏と華氏の換算方式は・・・
摂氏=(華氏−32)÷1・8です。
2、本紙360号8面、上から1段目、15行目の「墨田区」は誤りで、正しくは「江東区」です。
今後は改めて慎重を期しますが、お気付きの点など忌憚なくご指摘ください。
大庭伸介