軍拡・増税阻止 統一地方選勝利で岸田政権打倒
LGBT差別・子育て無策
年の失政の責任とれ
岸田政権の大軍拡・大増税、原発全面推進に怒りが拡大している。子育て無策の「愚か者」発言(丸川珠代)の暴露や、G7最低の人権を呈した首相秘書官のLGBT差別発言。北九州市長選では自民候補が敗退。山口・下関では安倍派市議が激減した。軍拡・増税、統一教会擁護の岸田政権打倒の春季攻勢を強めよう。
1月23日の岸田文雄首相の施政方針演説は「敵基地攻撃能力の保有」「5年間で43兆円の防衛力強化」を掲げ、憲法9条を完全に投げ捨て日本を戦争国家にする宣言だ。
憲法9条の破壊
「防衛力の抜本的強化」を第1とし、「相手に攻撃を思いとどまらせるための反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有」を掲げ、中国や朝鮮民主主義人民共和国に届く射程、千〜3千キロのスタンド・オフ・ミサイルを装備・開発する。これを岸田は、「憲法・国際法の範囲内であり、専守防衛を変えるものではない」とウソを言っている。
1972年10月田中角栄首相答弁は「専守防衛ないし専守防御とは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛をおこなうということであり、これはわが国防衛の基本的な方針だ」。
憲法9条により、集団的自衛権の行使など海外での武力行使を禁止し、自国が攻撃された場合でも「その武力攻撃を排除するために」必要な最小限度の武力行使しかしないとしてきた。装備についても大陸間弾道弾や長距離爆撃機のような相手国領土への攻撃を目的とするものは、持てないとしてきた。これが他国の軍隊との決定的な違いであった。15年の戦争法(集団的自衛権行使を容認)に次いで、「敵基地攻撃能力の保有」は憲法9条の最後の歯止めをはずすことを意味する。
「安全保障関係が変わった」「中国は20倍も軍拡した」というが、軍拡の理由にはならない。元空自の幹部は「今が最大の危機であるという認識は作られたものではないかと思っている」(2・3朝日新聞)と言っている。自民党は、ロシアによるウクライナ戦争で不安になっている人心につけ込んで、危機を煽っているのだ。
岸田政権は「専守防衛」を完全に破って、攻撃兵器を持つ戦争準備を始めている。中国を敵視し「台湾有事」を煽って琉球弧(南西諸島)にミサイル部隊・電子戦部隊を配備し軍事拠点化、陸・海・空自に常設の統合司令部を創設、日米の施設の共同使用、日米統合ミサイル防衛、サイバー・宇宙部隊。敵基地攻撃能力を保有して戦争をすれば、自国がミサイル攻撃をうけ大惨事になること明らかだ。沖縄・琉球弧(南西諸島)が再び戦場化すれば逃げ場はない。
しかも、日本は国の借金が1255兆円になり、GDPの263%にもなる世界第2位の借金大国だ。1位ベネズエラが307%。多くの人が貧困と物価高に苦しみ自死も増えている。こういう中で軍事費を5年で43兆円・2倍にすることは、戦前の軍国主義日本のように無謀で、人民を貧困に突き落とすものだ。防衛費に国債を発行するのは戦後禁じてきたのに発行し始め、いずれ国家財政破綻を招く。増税は不可避であり、法人税・所得税・たばこ税の増税をうちだしている。軍拡予算をかき集めるために、東日本大震災の復興特別所得税や医療のための積立金746億円を軍事転用するという凶悪さだ。
原発大転換とマイナンバー推進
新しいのぼりを立てて街宣(神戸) |
「新しい資本主義」の「投資と改革」では、GX(グリーントランスフォーメーション)とDX(デジタルトランスフォーメーション)をあげている。
GXは、福島第一原発事故による被ばく・被害や放射性物質という原発の危険性を隠蔽して、脱炭素というインチキで原発推進に大転換するものだ。「廃炉となる原発の次世代改革炉への建て替えや原発の運転期間の一定期間の延長を進める」。原発の運転は原則40年を超えて60年超を可能にする。
DXでは、マイナンバーカードは「デジタル社会のパスポート」と言って、取得は任意であるにも関わらず、あの手この手で強引に持たせようとしている。政府は、カードの普及率を自治体への交付金額に反映させるという不正な手法をとり、岡山県備前市は給食費などを無償化する対象を、世帯全員がマイナンバーカードを取得した児童に限定し、反対運動が起こっている。
マイナンバー制度は、あらゆる個人情報を国家が一元管理し、徴兵や徴用、徴税、社会保障費や医療費の削減、思想・人権弾圧に使われる。「24年秋に紙の健康保険証を廃止」と宣言したが、医療現場はマイナ保険証にメリットはない、カード読取りでエラー等が4割も発生し使えないと反対している。停電すれば使えない。診察に行くたびにマイナカードによる顔認証は人権侵害だ。
デジタル法にはプライバシー権の中核をなす「自己情報のコントロール権」がない。デジタル改革の狙いは、民間企業による個人情報の利用拡大であり、行政機関の持つ個人情報の民間企業への提供だ。大阪万博のスーパーシティ=情報技術とビッグデータを地域単位で連携させた未来都市は、データ連携基盤による情報の収集と提供をおこなう。データ連携基盤は、全ての人の情報をプロファイリング(人物像を仮想的につくりだす)するための実験なのだ。
格差を拡大
最初は「所得倍増」と掲げておきながら「資産所得倍増プラン」に変えた。「貯蓄から投資へ」の流れで「成長と資産所得の好循環を実現」と投資を推奨。金融資本の手先だ。「成長も分配も」もなくなった。NISA(少額投資非課税制度)を拡充・恒久化し少額でも投資させ、高齢者の老後貯金さえ金融資本の食い物に。韓国では住宅バブルが崩壊し、投資でお金を失った人たちが悲鳴をあげている。働いたらゆとりある生活ができるよう勤労所得倍増が本筋だ。 22年12月の与党税制改正大綱は、金持ち優遇策。@「1億円の壁」問題。総所得が1億円を境に、所得が増えるほど税負担が下がるのは、株式の売却益や配当といった金融所得の税率は、一律20%(地方税を含む)と低いため、金融所得が多い富裕層ほど税負担が軽くなるためだ。この対策は、所得が約30億円を超える超富裕層にだけ25年から所得税の追加負担を求めるとした。対象は2百〜3百人程度、A子や孫への教育資金を一括贈与する場合、1500万円までは非課税になる特例も3年間延長、B子ども1人あたり10万円分の給付を柱とする新たな子育て支援策は、年1千億円ほどなのに、軍事予算を優先し先送りした。
30年間の自民党の失政が露呈
昨年の出生数が80万人を切り、その危機感から岸田首相は「異次元の少子化対策」を唱えた。1月25日に茂木自民党幹事長が「児童手当の所得制限撤廃」を首相に提案した。かつて旧民主党政権下で所得制限のない「子ども手当」を創設したが、自民党は「子育ては一義的には親、家族が担うもの」の考えで、丸川珠代などが「愚か者め」「バラマキ」と強固に反対し、2年後には自民主導で所得制限付きの児童手当を復活させていたことが判明。民主党は「子どもを社会全体で育てる」とし、家庭の所得によらない制度にしていた。30年に及ぶ小子化対策の失敗が露呈し所得制限撤廃に方向転換する。
1989年に合計特殊出生率(以下出生率)が過去最低を下回り「1・57ショック」と言われた。90年から小子化対策をしたが効果はなく、21年には1・3にまで落ち込んだ。日本の子育てに関わる公的支出はGDPの1・6%で、スウェーデン(3・4%)、仏(2・9%)の半分程度。公的支出は現物給付と現金給付があるが、日本は現金給付の割合が低く0・65%。英2・12%、仏1・42%、スウェーデンは1・24%(17年OECDの調査)。国立社会保障・人口問題研究所の調査によると、夫婦で理想とする数の子どもを持たない理由は、「子育てや教育にお金がかかりすぎる」という回答が最多だ(02〜21年の5回の調査でいずれも)。また婚姻率(千人当たりの婚姻件数)は、89年5・8から21年は4・1に低下。パートやアルバイトの男性で配偶者がいる割合は正規雇用の4分の1程度と低い。出生率が低下した原因は、低賃金の非正規雇用が4割にも増え若者が貧困化したことや、子育てや教育にお金がかかることだ。
子育てへの現金給付を増やし、保育所から大学までの教育費の無償化が必要だ。軍事費2倍化をやめて、子育てや教育に税金を使う事が待ったなしだ。派遣や非正規雇用ではなく正規雇用労働者にし賃金を上げることだ。
同性婚の法制化を
2月3日、荒井勝喜首相秘書官が、オフレコ取材で性的少数者や同性婚について「見るのも嫌だ」「隣に住むのも嫌」「同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」と偏見に満ちた差別発言をし更迭された。更迭は6人目だ。「LGBTには生産性がない」「女性差別は存在していない」発言の杉田水脈といい、こんな差別者を任命した岸田首相が問題だ。
2月1日、衆院予算委で立憲・西村智奈美代表が同性婚法制化を求めたのに対し、岸田首相は「社会が変わってしまう」と否定した。また「育休中の人たちのリスキリング(学びなおし)を後押し」と答弁し育児の実態への無知にネットが炎上した。社会では同性婚を認める人が65%になり、250以上の自治体が同性パートナーシップを公証する制度を持つ。しかし日本のジェンダーギャップ(男女の違いにより発生する社会的・文化的な差)指数は、先進国中最低で、156カ国中120位(21年)。政治分野では144位で深刻だ。
憲法9条を破棄し日本を戦争国家に変える岸田凶悪政権を倒し、命と暮らしを大切にする社会をつくろう。
2面
北九州市や各地で自民後退
下関市でれいわ当選
2月5日
昨年末の宮崎知事選以来、自民党候補の苦戦・落選が続いている。2月5日投開票の北九州市長選では自民・公明・立憲推薦候補が落選し、舞鶴市長選でも自民現職が落選した。奈良県、徳島県知事選でも保守分裂・自民危機が強まっている。
さらに2月5日に投開票の安倍の牙城だった山口県下関市では、れいわ新選組・竹村かつしさん(50歳)が1789票を得て、45候補者中23位(定員34)で当選。下関は安倍の選挙区で、自民党林系は微増したが安倍系は9→5と後退。反自民では、共産党(4→3)、立憲、社民、れいわ、無所属左派で7人が当選した。また参政党も落選した。
竹村さんは京都府城陽市出身。大阪芸大中退後、1997年プロレスラーとしてデビュー。試合中に大ケガを負い、下関市に移住し2015年に介護事業と飲食店を独立開業。今回関西などからも応援に入り安倍の牙城を切り崩した。
3面
安倍継承岸田政権の軍事的突出
―日・露が世界戦争の点火者に(下)
落合薫
日米安保が戦争の導火線に
米国とNATOとの関係の転換と同時に、日本と安保条約との関係も転換しつつある。日米安保条約・体制が、いまや日本がアメリカの戦争に巻き込まれる装置から、日本の戦争にアメリカを巻き込む水路に変わり始めているのである。
この間、安倍=勝共体制の下で、インド太平洋戦略や日・米・豪・印のクワッド体制など中国包囲の戦争挑発体制はすべて日本側が発案し、お膳立てし、米帝・米軍を引きずり込んでいる。また米側が、バイデン米大統領の国連総会演説やASEAN関係会議で一貫して、「1つの中国政策を変更しない」、「台湾独立を支持しない」と発言しているのに対し、日本側は日中平和条約で確認したこの点をあいまいにしている。また米側が「台湾海峡危機」と言っているのに、日本側はことあるごとに「台湾危機」と述べている。台湾海峡は国際公海であり、どの国も、戦艦を含めて無害通航権を持っているから、それが危険にさらされることについて懸念を表明することは何の問題もないし、中国もその点については反論をしていない。しかし中国にとって「台湾危機」ということは「内政干渉」である。民進党政権も表明していない「台湾独立」を支持することは戦争を挑発する以外のなにものでもない。釣魚諸島を巡って、人民解放軍の指揮下にある中国海警局の公船が「我が国領海に侵入している」と繰り返し言っているが、現に領土問題が係争になっている地域について「我が国固有の領土」などと一方的にいうこと自体が問題である。この領域に登場する中国海警船は標準的な4隻編成のうち1隻が30ミリ機関砲を装備しているだけなのに対し、日本の海上保安庁の巡視船は40/30ミリ機関砲、20ミリバルカン砲、12・7ミリガトリング砲を装備している。しかも中国当局はこの数年、この領域に出漁しないよう漁船に厳しく言い渡して衝突を回避する処置を採っている。対中国の軍事的包囲、戦争挑発をおこない、事あればそれに米帝・米軍を引きずり込もうとしているのは安倍=勝共体制を継承している岸田政権である。
第U部 米・中はともに覇権を握れず
米・中の「世界支配」?
現状では、米国と中国はおのおの単独で、または両者が互いに分割して、世界支配することはできない。その意味で、現在は米ソ冷戦時代とも、米国1極支配の時代とも異なる。そこに日・露が、疑似世界戦略をもって登場する余地がある。プーチン・ロシアにとってそれは「ユーラシア主義」であり、安倍=勝共体制にとってそれは「インド太平洋戦略」である。地理的概念から言っても、それはグローバルな「世界戦略」たりえない。そのうえ、ロシアはユーラシアで、日本はインド・太平洋で覇権を握るには程遠い。ただ米・中がまともな世界戦略を出しえないなかで、「帝国(主義)的」な世界像をもって対抗する、または割り込む余地があるのである。
米国は中国を、「国際秩序を変える意思と能力を併せ持つ唯一の競争相手」ととらえている(2022年10月12日に発表された「米国国家安全保障戦略」)。中国は、自国の位置と役割について、「発展途上国との団結と協力を強め、途上国の共同利益を擁護する」と規定している(2022年10月16日、中国共産党第20回党大会の開会にあたっての習近平総書記の演説)。相手を「競争相手」と規定したり、自らも「途上国」と規定するなど、両者ともここでは大国主義や強国意識をむき出しにしていない。
米国の「世界戦略」の中での中国
米国は、ロシアのウクライナ侵略戦争、および中国の人権問題(香港、ウイグル)や台湾問題では強硬な言説を連ねているが、国内の激しい分断もあって、政治的・軍事的に激しい策は取れない。昨年8月のペロシ下院議長の台湾訪問にあたっても、事前に中国政権当局と双方がどこまで軍事的示威行動をやるか打ち合わせてやっている。そのため中国は早期警戒管制機や空母など、空中戦に必要な兵器は登場させていない。台湾周辺での演習を連発させたが、着上陸作戦や封鎖などとりえない規模であった。米側も、「第1列島線」以内に空母打撃群などを入れる様子も見せなかった。大騒ぎしたのは日本の政府とマスメディアのみで、台湾や米国内では平静であった。
経済的にも、トランプの対中国強硬策を引き継いでいるが、国内産業に打撃を与えることをむしろ警戒している。対中国の貿易・通商政策で、先端半導体など限定した重要技術の保護は徹底的におこなうが、それ以外の経済関係は維持する方針である。民主・共和両党からの賛成多数で8月9日に成立した「CHIPS・科学法」では、「安全保障に不可欠な製造業の国内回帰を進めるために520億ドルの公的資金を投入する」政策が支持されている。経済的に中国に追いつかれないことに必死の米国にとって、輸出・輸入ともに中国が最大の相手である日本などに口を挟む余地はない。
中国の「世界戦略」
習近平体制の中国は、上海協力機構(SCO)という協力枠組みを持っている。中央アジア諸国に加えて、ロシアとインドをメンバーとし、トルコ・イランも加盟させようとしている。欧・米・日に迎合しない諸国を束ねた緩やかな機構である。政治・経済的には「一帯一路」を提唱し、主に周辺国から経済協力と投資によって協力関係を築こうとしている。今回の共産党大会で「習近平思想」として打ちだされたのは、「グローバル安全保障イニシアチブ」「と「グローバル発展イニシアチブ」で、いずれも、非常に緩やかなものである。最近では中国が軍事的意味のある土地や港湾などを買い占めているのではないかという疑いや、いわゆる「投資のワナ」から中国への従属化を図っているのではないかといった懸念から齟齬が起こっている。しかし、「グローバル・サウス」戦略の名の下に、自らも「発展途上国」と位置づける現在の中国を、対米・対日対抗の視点だけでとらえるべきではない。他方における、大中華ナショナリズムや、大国化・強国化を公然と謳う習近平体制は、社会主義とも共産主義とも言えない。しかしプーチンのロシアと同じものとは言えない。経済的、世界政策的にまだまだ穏歩前進を図る方針であり、台湾政策も対米・対日政策も「熟柿」路線(※)で目的を達する余裕を持っている。世界政策、対外政策と国内体制、労働者人民の動向は別途検討する必要がある。(おわり)
※「熟柿」路線
柿が熟して自然に落ちるのを待つように、時機の到来を気長に待つ考え方、その路線のこと。
沖縄日誌 1月
浮かんだ舟は進む
1月4日 2023年沖縄のたたかいは、糸満市米須の慰霊碑「魂魄の塔」前集会から始まった。沖縄戦戦没者遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんの呼びかけに市民150人が参加。糸満市米須の鉱山から土砂を採掘する計画について、昨年12月、県は業者からの再提出を受理した。業者は3月ごろには採掘を開始したいとのべた。この日集まった市民からは「戦後77年たっても遺族の痛みは消えず続いている」「家族が眠る場からの採掘は絶対に許されない」と計画阻止を訴えた。
7日 名護市辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、毎月土曜日の「県民大行動」に624人が参加。新基地建設阻止へ決意を新たにした。この日は「辺野古新基地建設の断念を求める国会請願署名実行委員会結成集会」として3月17日まで署名を集め、新年度に衆参両院議長へ提出する予定。目標は34万筆。実行委員長に稲嶺進元名護市長が就いた。稲嶺氏は「わたしたちは、これ以上の軍事基地はいらないと訴えてきた。しかし、民主主義が踏みにじられてきた、この現状を国会に届けよう」と訴えた。
12日 防衛省は、鹿児島県西之表市の馬毛島で、自衛隊基地の本格工事を始めた。日米両政府は南西地域の防衛力強化の一環として馬毛島基地を訓練や補給の「重要拠点」と位置付けた。
19日 米軍嘉手納基地周辺8市町村の住民3万5566人が「第4次嘉手納爆音訴訟」を那覇地裁沖縄支部(足立堅太裁判長)に訴えた。この日第1回口頭弁論が。原告数は全国の基地騒音訴訟で最多。原告は騒音に脅かされない平穏な日常環境を求めた。
20日 〈ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会〉などが呼びかけた戦争に反対する全組織の立ち上げの準備委員会は2月26日午後2時から県庁前で1000人規模の抗議集会を決定。集会名は「島々を戦場にするな 沖縄を平和の発信の場に」に決定。
21日 那覇市で実施された弾道ミサイル飛来を想定した住民避難訓練に、〈那覇市の国民保護訓練に反対する会〉20人が「訓練より対話を」「沖縄からミサイル撤去を」と訴えた。同会の北上田毅さんは「訓練をすることで防衛費増や自衛隊増強は必要だという国の世論づくりに利用される」と懸念を示した。
25日 沖縄市の陸自補給拠点建設をめぐり、〈自衛隊弾薬庫建設反対沖縄市実行委員会〉が沖縄市内で200人参加の集会。昨年発表された安保3文書のうち、防衛力整備計画では南西地域に陸自の「補給拠点」をもうける計画で12月22日に嘉手納基地に隣接する陸自沖縄訓練場を「兵站拠点」とすると発表された。
また安保3文書では、与那国島へ地対艦ミサイル部隊を配置し敷地を拡張する方針。与那国に駐留する自衛隊は170人から210人となる見通し。
さらに、陸自勝連分屯地へのミサイル基地化を発表。地域住民は〈ミサイル配備から命を守るうるま市民の会〉を結成。12月23日に95人の市民が集会を開き抗議の声を上げた。(杉山)
4面
ミャンマーに平和を!
語りと祈りの夕べに参加して
三船二郎
1月31日「ミャンマーに平和を! 語りと祈りの夕べ」が兵庫県尼崎市内で開かれた。
第1部では、ミャンマー現地の映像を上映し、ミャンマーでの犠牲者を悼むシルク製の赤い花びらを参加者が一枚一枚、横断幕いっぱいに貼りつけた。
第2部はミャンマーの人々からの訴え。
イン・スエさん
大阪の介護施設の職員として働いているイン・スエさんの報告は残された家族との関係で名前も顔も秘匿せざるをえない人が多い中、「人はいつか死ぬのだから顔も名前も出します」と訴えている。お母さんは「こちらのことは大丈夫だから自分の信念にしたがって行動しなさい」と言っている。クーデター以後、2901人が国軍によって殺されたといわれているが実際はその何倍もの人たちが殺されている。国軍は村を燃やしている。燃やされていない村の人が燃やされた村の人に食料をわけるなどして助けている。故郷のザガイン管区は国軍と激戦が闘われており「多くの地域で地元の武装勢力といっしょに革命を起こしている状態だ」と報告。
クーデター以後、インターネットの環境が悪く、親と連絡が取れたのは昨年11月が最後だという。ザガイン管区では国軍は目的を言わず人口調査の名目で村に何人いるのかを調べている。ミャンマーではクーデターがおこなわれた2月1日に朝10時から15時まで家の外に出ない「沈黙のスト」をおこなう。
Aさん(女性)
ミャンマーで大学を卒業し薬局で仕事をしていたが、友達と4人で来日した。来日するのに90万円かかった。5年くらい働いて帰国する予定だったが、日本に来て4カ月後にクーデタが起きた。ニュースを見たら涙がでた。ミャンマーの市民は民族のために闘うことを選んでいる。その中には自分の親戚も友達もいる。いとこのおじさんは軍に殺され家も焼かれた。友達もたくさんケガをしたり、戦死したりしている。私もミャンマーに帰って国軍に対する革命に参加したいけど、日本にいて必要なものを送ってほしいといわれた。なので私はできる限り、ふるさとの友達に必要なものを送り支えようと決めた。私たちの一番の願いはミャンマーに平和が戻ってくること。平和なミャンマーに帰って薬局を開き、家族とともに生活し、英語や日本語を子どもたちにボランティアで教えたい。
Bさん(男性)
大阪のホテルで働いているBさんは、ミャンマーでは日本の会社や工場が動いている。日本政府が国民統一政府(NUG)を承認しないのはおかしい。日本政府から国軍にお金が流れている。日本の工場を止めて少しでも国軍の経済が弱くなるようにしてほしい。
Cさん(女性)
日本にきて2年のCさんは専門学校に通いながら回転すしのスシローとコンビニで働いている。希望はミャンマーに平和が戻ってくること、それがないと帰国できない。このまま帰国したら殺されるかもしれない。
Dさん(男性)
18年4月に来日して大阪で働いているDさんは、「日本政府はODAという形で国軍にお金を流している。これを止めてほしい」。
コープこうべ第1地区本部長のMさん
21年2月のコロナ真っただ中のとき、神戸市から相談が。当時コロナで外食産業が全部閉店。ミャンマー人のシェアハウスに行くと寄贈されたカップ麺はあったが野菜がなく、体調不良の人も。農園で留学生の人たちに援農ボランティアをしてもらい野菜を持ち帰ってもらおうとした。しかしシェアハウスでコロナが出たためこちらの職員が留学生たちに野菜を届ける支援をしてきた。さらにコープこうべが窓口になって尼崎市の市営住宅を提供してもらうこともしている。
尼崎市小田地域課長のSさん
コープこうべ等と尼崎市が目的外使用契約を結び、耐震基準に合わず建て替えが決まった市営住宅を住宅に困っている留学生やDV被害者等への住居提供を報告。以下は神戸新聞による。尼崎市内の介護職場が市営住宅を社宅として借り受け、同職場で働くミャンマー人のEさんに安価に提供。Eさんの母親は2年前神戸の語学学校に入学したが、来日直前に父親が急死。クーデターで小学校教師だった姉は失職。アルバイトで稼いだ10万円の半分を仕送りしていたが、来日を希望する弟の渡航費なども必要で生活は苦しい。
在日外国人支援の新たなかたち
こういう取り組みは全国的に珍しく、自治体側に「問題に取り組む姿勢」があればできることだ。生協と行政が手を組めば、政治的運動だけでなく、入管体制の中で不安定な生活を余儀なくされている人たちの生活を支える仕組みをつくることもできる。
この集会は〈ミャンマー語りと祈りの夕べ実行委員会〉が主催だが、尼崎市小田地域課とコープこうべ第1地区本部が共催・協力した。学ぶべき重要な取り組みである。
外務省大阪分室に申し入れ
日本政府は独裁軍政 認めるな
1月31日
今年一番の冷え込みの中、関西在住の民主化をもとめるミャンマー人と支援の日本人や在日朝鮮人等20人余りが1月31日午後、外務省大阪分室(大阪市中央区)に対し申し入れ(写真左)をおこなった。
外務省大阪分室が入る大阪合同庁舎4号館前には多くの横断幕やプラカードが掲げられた。赤地に金色の戦うクジャクが大きく描かれた横断幕には「ミャンマーをたすけてください」「日本政府はミャンマー独裁軍政を認めるな」と大書されていたり、ミャンマー語で白地に赤色で書かれた横断幕や「WE STAND WITH OUR LEADER(我々はリーダーとともに立ち上がる)」と書かれたプラカードを掲げたり、獄中に囚われているアウンサンスーチ―国家顧問とウィンミン大統領の写真が掲げられ、付近一帯は在日ミャンマー人と支援のアピールであふれた。
申し入れ行動に先立っておこなわれた各発言の司会は、アウンミャッウィンさんがおこなった。ウィンさんは1988年の民主化闘争を中学生として闘った人で、身に危険が迫ったため日本に逃れ、入管施設に収容されながらも難民認定をかちとった人だ。そのほか大阪市内で技能実習等で来日しているミャンマーの青年たちの相談もひきうけている。
ウィンさんは、ウクライナのニュースは毎日流れるがミャンマーのことはほとんど流れない、ミャンマー国軍にもっと圧力をかけ、今年こそミャンマーの民主化を実現させたいと訴えた。さらに、今、ミャンマーでは青年が武器をもって国軍と闘っていることを紹介した。しかし、ミャンマーで武器をもって闘っている青年たちはけっして武器を取りたいのではなく、ミャンマーでの平和な生活を取り戻したいだけだとも話した。仕事を休んで参加したミャンマー人女性は「今、ミャンマーでは多くの人々が殺され拘束されています。多くの人たちにミャンマーの現状を知ってもらいたいのです。そして支援をお願いしたいのです」と訴えた。
日本人の側からは、今もミャンマーでは国軍が民衆を虐殺しており、この国軍を支える最大の実体が日本政府で、難民認定についても今以上にきびしくするという日本政府のあり方を弾劾する発言があった。
在日朝鮮人ライターの李信恵さんは、ミャンマークーデターと韓国の光州事件は重なり自分たちの祖国のことを思いだす。いっしょにがんばりましょうと訴えた。
その後、シュプレヒコールがミャンマー語、英語、日本語でおこなわれた。
・ウィンミン大統領を早く釈放せよ!
・軍事クーデター反対!
・民主主義を守れ!
・日本はミャンマーをたすけて!
・日本は国民統一政府(NUG)を認めろ!
・ミャンマー独裁軍政を認めるな!
・ミャンマーへのODAをやめろ!
・全政治犯を釈放せよ!
集会後、アウンサンスーチー国家顧問とウィン・ミン大統領の写真とミャンマー語で書かれた横断幕を背景にしてウィンさんが別掲の要請文を外務省大阪分室の職員に内容を説明しながら手渡した(写真上)。
日本の皆様へ
要請文
現在ミャンマー(ビルマ)で2021年2月1日から国軍により軍事クーデターされました。
私達の国ミャンマーを助けて欲しいです。
日本の政治家達はミャンマー軍事政権に対して強く求めて欲しい内容は、
@ミャンマー国軍はミャンマーの大統領と国家顧問を含む全ての政治家達、関係者を釈放すること。
Aミャンマー国軍に圧力をかけること。
Bミャンマー国軍は国民の民意を尊重すること。さらに、私達が日本政府と都道府県にお願いしたいことは、
@ミャンマーに日本のODAの支援は行わないこと。
Aミャンマーと経済協力はしないこと。
Bミャンマーの軍事政権をミャンマー国の政府として認めないこと。
Cミャンマー国軍の幹部達と家族を含む関係者達の入国を禁止すること。
D日本にいるミャンマー人難民達を含むミャンマー国民を助けること。
Eミャンマー難民を難民として認めること。
F国民統一政府NUGをミャンマー国の政府として認めること。
日本の皆様のご支援とご協力を求めます。
宜しくお願い申し上げます。
関西在住ミャンマー民主化活動家達
5面
岸田政権の原子力政策批判(下)
GX基本方針を弾劾する
寺田理
岸田政権は、原発を全面的に推進している。昨年12月22日に、グリーン・トランスフォーメーション(GX)実行会議において、「GX実現に向けた基本方針」を策定した。このなかで、原発について、@安全最優先で再稼働を進める、A次世代革新炉の開発・建設、B原発の運転期間に関する新たな仕組みを整備、などをあげている。
GX実行会議では、原発を「グリーン・トランスフォーメーションにおける牽引役」として位置づけている。気候変動(CO2)問題のなかに原発を組み入れて、原発を脱炭素エネルギーと称して推進しているのだ。原子力はクリーンなエネルギーではない。原発は発電時に二酸化炭素は出さないが、放射性物質を大量に放出する。原発問題を考えるとき、このことが最大の問題である。
(1)原発再稼働
日本の原発は、新規制基準になって以降、10基が再稼働した(2月5日現在、稼働中は8基)。そのほか、7基が設置変更許可を取得しており、10基が審査中だ。また、9基が未申請になっている。また、原発4基(高浜3、4号機、美浜3号機、東海第2原発)が、40年超え運転の認可をえている。一昨年、美浜3号機が40年超え運転を日本ではじめておこなった。
東京電力は柏崎刈羽原子力発電所6、7号機を再稼働させようとしている。この原発は福島第一原発事故から12年間停止している。また2007年の新潟県中越沖地震で被害を受けている。柏崎刈羽原発はとりわけ安全性に問題があり、再稼働させてはならない。
(2)次世代革新炉
「エネルギー基本計画」(2021年10月)では、「原発の新増設やリプレースは想定しない」としている。今回、岸田政権はこれを反故にして、新たに原発を建設する方針を打ち出した。その次世代革新炉に、@革新軽水炉、A小型モジュール炉(SMR)、B高速炉、C高温ガス炉、D核融合をあげている。「次世代」とか「革新」という言葉がおどっているが、「原子力の夢」の寄せ集めにすぎない。この5つのなかで、50年代までに実現可能とされるのは革新軽水炉だけ。
@「革新軽水炉」は、現在使っている軽水炉の改良型にほかならない。炉心溶融事故にそなえて、コアキャッチャー(炉心溶融事故を起こしたとき、溶融物を捕捉して、閉じ込める設備)やガス捕集装置などをつけている。しかし、ひとたび炉心溶融事故がおきれば、こんなものをつけていても意味がない。
A「小型モジュール炉」は、出力の小さなモジュール炉(30万kW以下)を直列につないで発電する。発電原理は軽水炉と同じ。この原子炉は原子力潜水艦用に開発されたもので、これを原発に利用するものだ。モジュール炉を工場で一括生産するから割安になると言っているが、大量生産をするわけではない。圧力容器がたくさん必要になるため、かえって建設費が割高になってしまう。推進側は個々のモジュールの出力が小さいから、「事故も小さくなる」といっているが、これもウソだ。一つ事故をおこせば、すべて使えなくなってしまう。
B「高速炉開発」はもんじゅで失敗している。このように、政府が高速炉開発に執着しているのは、核兵器の材料になる高純度のプルトニウムをつくりたいからだ。高速炉では、冷却材に金属ナトリウムを使用する。この液体ナトリウムを制御する技術は、いまだに確立していない。
C「高温ガス炉」は、冷却材にヘリウムガスを使う。1000度Cのヘリウムガスを使って、製鉄や水素製造をおこなうというもの。しかし、1000度Cの気体を入れられる耐熱材料は存在しない。これが開発のネックになっている。
D「核融合」は核融合反応によって、水素からヘリウムをつくる。太陽でおきている反応を人の力で制御して、発電に利用しようとするもの。しかし技術的には確立されてなく、まだ実験段階だ。
GX批判の学習会が開かれた(1月29日 京都) |
(3)運転期間の新たな仕組み
ひとつは、40年超え運転を可能にしようとしている。現在、原子炉等規制法(12年6月改訂)では、「運転することができる期間は40年とする」「原子力規制委員会の許可を受けて、1回に限り延長することができる」「延長する期間は、20年を超えない期間」と定められている。国会で「40年で廃炉」を決定したことには意味がある。福島第一原発事故を反省したうえで、国会論議でこの方針を決定した。そもそも、原発は40年を想定して設計と建設がおこなわれている。簡単に40年運転を変更してはならない。
岸田政権は原子炉等規正法を改悪しようとしている。ここで、経産省と規制委委員長がつるんでいる。規制委は経産省の僕になっている。60年超え運転、さらに80年超え運転をもねらっている。これは動かなくなる(事故がおきる)まで、原発を動かそうとするものだ。ちなみに、世界では現在4基の原発が最長運転をしており、運転期間は53年間だ。これらの原発は、日本と違って地震や津波の心配がない地域に建っている。
もうひとつは、定期検査(事業者検査)の連続運転期間の延長である。現在は13カ月ごとの定期検査を18カ月あるいは24カ月ごとに延長しようとしている。また定期検査の検査日数を大幅に縮小し、原子炉を動かしたまま検査する「運転中保全」検査を導入している。こうして、電力会社は「原発の稼働率90%をめざす」と言っている。
(4)使用済み核燃料と再処理
原発を動かせば、放射性物質がつくられる。半減期が長い「死の灰」が大量にできる。原発はこの放射性物質を出す事が最大の問題である。この処分方法は確立されていない。ひとつは再処理について、もうひとつは放射性物質の最終処分場ができていないこと。推進勢力はこの問題を無視している。原発でできた使用済み燃料を再処理する事によって、プルトニウムを取り出す。この再処理工場が停止したままなのだ。日本原燃はごまかしているが、ガラスに封じ込める(ガラス固化体)技術は確立されていない。また、取り出されたプルトニウムは原爆の材料になるため、これが国際的な問題になっている。このプルトニウムを減らすために、電力会社は原発設計時に想定されていないプルトニウムを無理に燃やしている(プルサーマル運転)。こんなことをしているのは日本だけだ。大間原発はフルMOXの原発として建設途中で、この原発を運転させてはならない。高レベル放射性廃棄物の最終処分場は日本になく、この問題の解決なしに原発を動かしてはならない。
(5)岸田政権の原発政策を粉砕しよう
岸田政権の原発推進政策は、「原発回帰」などというレベルではない。原発を積極的に推進する、全面的な路線転換なのだ。まさに暴走というほかない。岸田政権は「電力が逼迫している」と言うが実際には電気は足りている。物価高で苦しむ人びとの生活は見向きもしないで、軍事費のための増税と原発再稼働の岸田政権は打倒するしかない。(おわり)
菅野哲さんの訴え(上)
12月チェルノブイリ集会で
昨年12月18日、「チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西 発足31年の集い」(主催:チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西)が、大阪市内でひらかれた。集会では、事務局の振津かつみさんがこの1年間の取り組みを報告した後、菅野哲さん(飯舘村原発事故被害者訴訟・原告団長)が、〈「全村避難」を生きる〉と題して講演した。
菅野哲さんの講演要旨
(1)飯舘村での生活
親父は戦後開拓農民として飯舘村で農業を始め、私はその2世としてそこで生まれました。私は35年間、飯舘村役場の職員として働き、11年3・11に原発事故がおきたとき役場を定年退職して、第二の人生として農業を始めたばかりでした。
原発事故以前、飯舘村には1700世帯、約6200人が住んでいました。飯舘村の80パーセントが山林です。3年に1度は冷害の自然条件がきびしい所です。しかし、人びとは自然からの恵みで生きていけました。山菜やきのこに恵まれ、これらを食べて、半年間は生活できたのです。
3〜4世帯が1軒の家で寄り添って生活しており、また人と人とのコミュニティーのつながりのある生活で、楽しく生きていけたのです。原発事故によって、これができなくなりました。私たちは生活の場とふるさとをなくしました。今後百年以上、山菜やきのこは食べられず、失ったものは補償金で解決できるものではありません。
(2)強制避難のこと
11年3月12日に、原発が爆発しました。3月15日の朝、西から吹いていた風が東からの風に変わり、放射能プルームが飯舘村に押し寄せました。16日には、飯舘村で44・7マイクロシーベルト/時を記録。しかし、この事実を村長が上からの方針で公表しないように指示していたのです。
3月15日に、飯舘村の住民はいったん避難しています。21日に、飲料水が配られるという事で、村民は家に戻りました。長崎大学の高村昇が飯舘村にきて、「放射線被害について、何も心配する必要はない」と。これで安心して、村民は自宅に戻りました。
原発事故からすでに1カ月以上が過ぎて、4月22日に「強制避難」の指示を受けました。この間、飯舘村住民は高線量のなかで被ばくしています。行政もこのことはわかっているのです。しかし、飯舘村の住民は線量検査を受けていません。これはどうしてなのか、今でもわかりません。
村民の70%は借り上げ住宅に若い世代が避難。7〜8月頃、仮設住宅ができ、老人世帯(避難者の30%)がここに避難。生活環境がまったく変わり、交流がなくなって孤立し、日々の仕事をなくし、うつ病を発症する人もでました。原発事故において、その避難は10年〜20年という長いスパンで考えていく必要があります。簡単には戻れません。私がこのことを言うと、仮設住宅に出入り禁止にされてしまいました。(つづく)
6面
熊本地裁 1月23日 強制不妊 三たび国賠命令
一審で初 「除斥期間」適用せず
強烈な人権侵害 国が差別・偏見を助長
旧優生保護法(以下、旧法。1948〜96年)下で不妊手術を強制したのは憲法違反として、熊本県の渡辺数美さん(78歳、18年6月提訴)と川中ミキさん(76歳、仮名、19年1月提訴)が国にそれぞれ3300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、熊本地裁(中辻雄一朗裁判長)は1月23日、訴えを認め、旧法は差別的な思想にもとづくもので憲法違反だと判断、国に対し渡辺さんに1500万円、川中さんに700万円を支払うよう命じた。今次判決は内容上も、昨年2月大阪と3月東京の両高裁判決を引き継ぎ、かつそれらを大きく超える画期的なものである。両原告の人間的尊厳をかけた叫びと闘い、全国被害者で最初に声を上げた飯塚淳子さん(宮城県の70代女性、仮名)をはじめとした全国の原告の方々、弁護団の長年の言葉に尽くせぬ苦闘が闘いとった大きな到達点である。
なお、強制不妊国賠訴訟は、全国10地裁・支部で起こされ、これまで5地裁の計7件の判決はすべて請求を棄却していた。
判決は、「旧法の優生条項の目的は差別的な思想に基づき、子孫を残すという根源的営みを否定する極めて非人道的なものだ」と断じ、違憲(13条の個人の尊厳の尊重、自己決定権を侵害し、14条1項の法の下の平等に違反)と判断、地裁として初の国賠命令を下した。昨年の大阪・東京両高裁判決に続く3例目である。また、違憲判決は地裁では6件目となり、両高裁のそれと併せると総計8件の違憲判決が積み上った。
判決は、何よりも「除斥期間」について、両原告とも不法行為(=手術)から賠償請求権が消滅する20年を経過したと認めつつも、「原告が被った身体的・精神的被害は甚大で、大規模かつ長期にわたる人権侵害よりも法的安定性(「除斥期間」の趣旨)を優先させなければならない理由は見出しがたい」と指摘し、「除斥期間」を適用しなかった。事実上、「除斥期間」適用を否定すると言明したに等しい。これまでの多くの地裁判決における「除斥期間」経過を理由とした請求棄却の悪しき流れに「待った」の声を上げ、立ちはだかった判決だ。
さらに、「除斥期間」の適用を制限した両高裁の判断をも大きく踏み越え、その結果救済範囲をさらに拡大した。まさに画期的判決である。
賠償額も、渡辺さんが一時金支給法(以下、支給法)の320万円の4倍強、川中さんが倍近くを命じ、支給法の不当性を浮き彫りにした。
もうひとつ。国は一連の訴訟が始まった18年(宮城県の佐藤由美さん〔仮名〕による全国初の提訴)以前に救済制度を設ける検討すらしておらず、手術に関する資料を散逸するままに放置してきたと指弾した上で、こうした怠慢によって差別や偏見を正当化・固定化してきたと非難した。判決は、これらの諸事実を挙げて国には被害者との間で「民法の信義則に照らしても重大な問題がある」と断じて「除斥適用」を退けた。新たな視点の提起であり、注目される。
さらに、司法は今回、原告とその心情に正面から向き合い、「優生手術を受けさせられ深い羞恥、後悔や自責の念、負い目ないし怖れを内心に抱えていた者が、損害賠償請求権を行使することが長期にわたって事実上不可能であったのは無理からぬことで、原告らには権利行使が極めて困難な客観的事情があったと言える。『除斥期間』の適用は著しく正義・公平の理念に反する特段の事情があるというべきである」と述べた。
これまでの地裁と両高裁における総計8件の違憲判決の積み上がり。両高裁の「除斥期間」適用を制限する判決。さらに両高裁および22年大阪と今次熊本の両地裁における「権利行使が極めて困難な特段の事情」、「正義・公平の理念に反する」、「国が差別・偏見を正当化し助長してきた」の判断の連続と積み上がり。・・・これらの蓄積の上に、今次熊本地裁判決が「除斥期間適用せず」の画期的判断を打ち出したということである。
今や、潮目はハッキリと変わりつつある。原告を先頭に、労働者階級人民の底力を解き放って、堰を切った歴史的流れをさらに前に進めよう。
言葉に尽くせぬ人生被害―国家犯罪の責任を徹底的に問い続けよう
渡辺さんは、小島喜久夫さん(81歳、札幌地裁一審で敗訴するも高裁で係争中)と並んで、提訴時(18年6月)から顔と名前を公表し、類例を見ない人間的尊厳のじゅうりんと筆舌に尽くせない人生被害とたたかい、はね返し、強制不妊の国家犯罪を告発し、闘い続けてきた。
提訴した翌日の18年6月19日付「熊本日日新聞」は、「実名公表 堂々と闘う」の見出しで要旨次のように報じた。「『親族らに迷惑をかけたくない』と渡辺さんはこれまで匿名で取材に応じてきた。しかし、『裁判は後ろめたいことではない』と今朝、家を出る時に実名の公表を決めたという。(中略)旧法下の強制不妊が1万6千余件もおこなわれたのに、国は96年の同法廃止後、被害者の救済をしていない。『国は私たちが死ぬのを待っていたんじゃないのか。悔しい思いをしてきた全国の被害者に、泣き寝入りしてほしくない』と、全国で被害者の提訴が増えることを期待する。
提訴後、会見した渡辺さんは『長い間、恥ずかしく苦しい思いをしてきたが、今日は晴れ晴れとした生まれ変わったような気分だ。一人でも多くの被害者と共に闘いたい』 (中略)最後に、『生殖機能を失わせる行為は、いくら国の政策であっても絶対に許されない人権侵害だ。このままでは死んでも死にきれない。国には潔く誤りを認めて謝罪を求める』との声明を読み上げ、裁判闘争に向かう決意を新たにした」。
さらに同紙は、渡辺さんの第1回口頭弁論(18年10月10日)の状況を当時次のように報じた。
「渡辺さんは弁護士に身体を支えられ、文書を両手に持ち、杖をついて証言台の前に立ち、陳述書を静かに読み上げた。冒頭、『私の身体を見てください』と裁判官に語りかけた。ホルモンバランスの崩れで身長が伸び続け、胸も膨らんでいる。不妊手術を打ち明けた母親につらく当たった後悔の気持ちを口にし、『不妊手術は私の人生も母の人生も台なしにした』と語った。結婚を諦め、交際相手と別れた後、自殺しようとした過去にも触れ、『自分の人生は何だったのだろうか。残念な一生でした』。渡辺さんの悲痛な訴えに、涙ぐむ傍聴者も。『この裁判でいや応なしに手術するという国の傲慢さを追及したい。優秀な人間だけ残していくような考え方はいかん。国に対しすみませんでした≠ニひとこと謝ってほしい』と迫った。
閉廷後の記者会見。『このまま死んだら悔いが残る。やっと国に思いを訴えることができた』。ただ、国側の争う姿勢には『障害者も、健常者と同様に生きる権利がある。こんな仕打ちができる国は、血も涙もない』と涙ながらに訴えた」。
渡辺さんは、報道の取材にこれまでの半生をふり返り、次のように述懐している〜変形性関節症を患った幼少期に父を亡くした。1955年の10〜11歳の頃、血尿が出たと母に話すと病院に連れて行かれ、何も知らされないまま睾丸を摘出された。中学生の時、体つきが男友達と違うため母に問うと、「優生保護法で手術された。国に従わないといけなかった」と言われた。絶望から母に対して暴力や暴言に走ってしまった。
中学卒業後、住み込みで義肢製作の仕事に就き、20代と40代のころ、好意を持った女性と交際した時期があったが、結婚して子どもができないと女性も非難されると思い悩んでいずれも断念した。「このまま一生、自分には幸せがないのか」と将来を悲観し、一度は自殺を決意した。麻縄を手に山に向かったが、かつて手を上げてしまった母を思い、「これ以上の親不幸はできない」と何とか思いとどまった。手術によるホルモンバランスの崩れで、身長の伸びにも悩まされてきた。成人時の約170cmから、還暦を過ぎても伸びが止まらず、現在も190cmを超えてまだ伸びている。今は、骨粗しょう症で骨密度が低く、骨がすり減る。人工関節を入れたが、定期的に入れ替えが必要で、車イス生活を余儀なくされている。「もうぼろぼろ。毎日が地獄」と、心身を襲う痛みと懸命にたたかう日々だ。
母は「お前には悪いことをした」と言い残し、10年ほど前に亡くなった。「一人で育ててくれて、今は感謝しかない。判決に「おふくろも安心すると思う」。
渡辺さんは、過酷な人生を闘い続けてきたその生き様そのもので、全国の原告を励まし、鼓舞し、すべての被害者に「私を見てください。あなたは声を上げていいんですよ」と呼びかけ、私たち一人ひとりにほんとうにかけがえのないものは何かを語ってくれている。
優生保護法の罪〈医師をナチスの医師に、親も家族も差別者に〉
優生政策を推し進めた者たちに罰を! 優生思想とのたたかいはこれからだ。
川中ミキさんは20代半ばで第2子を妊娠した際、産婦人科医から「第1子の長女に言葉の遅れなどの障害がある。(第2子も)まともに育たない」などと中絶を勧められた。迷った末、中絶を決心すると、「簡単な手術だから」と不妊手術も勧めてきた。産みたい気持ちは変わらなかったが、相談した夫はまったくの無理解、母親にも「面倒を見切れない。世間に恥ずかしい」と反対された。四面楚歌の中、1971年頃、中絶手術と卵管を縛る(結紮)不妊手術を受けた。
事前に胎児の異常の有無を調べる検査は一切なかった。川中さん自身は障害があると診断されたことはなく、長女の障害を理由に「親族に遺伝性の障害者がいる場合は医師の認定で優生手術ができる」と規定した旧法第3条(医師の認定による優生手術)第1項第1号を恣意的に運用した手術だったと考えられる。心に傷を負った川中さんは「今も親子連れを見るたび『産んでいればよかった』と、後悔の念が湧き上がるという。国は私の人生を返してほしい。国には恨みを超えた気持ちだ」と19年1月の提訴以来口頭弁論で訴え続けてきた。
原告・弁護団・支援者の声
渡辺数美さん
「生きてきて良かったなと思ったのが一番の気持ち。今まで悔し涙をいっぱい流し、拳で机を叩いた人生だったが、今日を迎えられて感謝の気持ちでいっぱい。(亡くなった母に)一人で育ててくれて、今は感謝しかない。判決を知っておふくろも安心すると思う。
(これまでの対応に憤り)国は人の道に外れている。国には控訴しないでもらいたい」。
川中ミキさん
「(中絶と不妊手術で)家族が持てず悔しい思いをしてきたが、請求が認められたことは大変うれしい。家族がいればご飯をつくって食べさせてあげたかった。国は控訴しないでほしい」。
弁護団
・声明「国は判決に真摯に目を向け、控訴を断念するよう求める」
・三角恒弁護士「除斥は適用しないと宣言した。高裁よりもさらに進んだ判決だ」
・徳田靖之弁護士 「これまでよりも救済の範囲を広げており画期的だ」
・上田祐輔弁護士「今回の判決は声を上げられない人の後押しになる。金額も一時金より高かった。より実効性のある救済策が求められているということだ」
支援の人びと
(原告側の主張の多くを汲み取った判決に)「非常に気持ちのいい判決」、「満点の判決だ」
この判決に対し、国は上告した。許されないことだ。不屈に闘う原告とともに3・16札幌(予定)、3・23兵庫訴訟大阪控訴審、6・1仙台の各高裁判決、および全国各地の地裁判決の全面的勝利へ前進しよう。(木々繁)
転載 市東さんの農地、作業場破壊許すな
天神峰現地で闘おう
市東孝雄さんの天神峰と南台の農地、そして天神峰に隣接する「中庭」などにある離れや作業場、機械置場、やぐら、大看板などを、空港会社NAAは、裁判所の判決を根拠に強奪、破壊しようとしています。それらは成田空港の運用に何の影響もなく、判決の根拠とされた理由は最早ありません。このNAAによる暴挙は、現在の三里塚闘争の柱ともいうべき市東孝雄さんの存在を抹殺しようとする、ただそのことを目的とした許し難いものです。
私は、この攻撃が開始された昨年の11月24日以来、昨年すでに2度にわたって4日ずつ市東さんの離れに泊まり込み、現地での座り込み行動に参加し、今年に入ってこの1月16日から19日、3度目の座り込みに参加しました。現場では、全学連の若い学生さんたちを中心に、現地支援連党派が24時間態勢の座り込みで、NAAのこの悪辣な企みを阻止し続けています。
現場の正面、数百メートルの所に建つ機動隊官舎の屋上からは、24時間態勢でこの行動への監視が行われ、機動隊による突入のすきを虎視眈々と狙っています。見えやすくするために昨年末には、その間にあった林を伐採、撤去し、今また、機動隊官舎の反対側で連日の工事が行われているのも、突入のために空港の中から機動隊を導入するためのものと思われます。事態は非常に緊迫しています。
この市東さんへの攻撃は、岸田政権による沖縄南西諸島のミサイル基地化を軸とした戦争準備に対応したものです。成田空港の軍事使用のために、「軍事空港粉砕」を掲げた三里塚闘争の解体を直接的に目指したものです。56年間にわたって、日本の軍事大国化を基本のところで阻止し続けてきた三里塚闘争が、彼らにとって目障りであり、許せないものとなっているからです。
2・5天神峰現地闘争(成田市内/反対同盟ホームページから) |
成田市天神峰現地に駆けつけよう
言葉を換えれば、この国の戦争への道を阻止し、反動化を極める岸田政権打倒への道筋を、三里塚闘争の勝利こそが指し示しているのです。現場は、天神峰の畑が県道に面し、非常に守りにくい構造になっています。現状の10人程度の座り込み、監視の行動では不十分なことは明らかです。戦争への道を阻止する基軸的な「市東さんの農地を守る」この闘いのために、多くの皆さんが、長期にわたって現地に駆けつけ、市東さんの農地などを守る闘いへの結集を訴えます。
私自身、1月26日から4度目になりますが、現地に入ります。皆さん。市東さんのところに行こう!(松原康彦)
※三里塚関西実行委員会ニュース184号から転載
米軍基地いらんちゃフェスタ2022(下)
米軍Xバンドレーダー基地を撤去せよ
米軍基地いらんちゃフェスタ(22年12月11日) |
(承前)11月13日、ドライバー本人と基地関係の責任者と通訳が来て、謝罪。保険で全て保証しますとのこと。
14日、近畿中部防衛局現地連絡所と京丹後市基地対策室へ「人身事故だ」と伝えるが、連絡所は「何も聞いていない」、対策室は「物損事故と聞いています」との返答。
28日、近畿中部防衛局より市へ「人身事故でした」との報告。30日、「安安連」(防衛省の米軍経ケ岬通信所安全・安心対策連絡会)で市長が(米軍人、軍属の交通事故はすみやかに市に連絡するという)約束を無視されたと抗議、近畿中部防衛局は、「対応が受け身であった」と謝罪。
つまり、米軍、京丹後警察は当初から人身事故とわかっていながらそれを物損事故として処理しようとした。近畿中部防衛局と京丹後市基地対策室は、14日時点で「人身事故ではないか」という市民からの情報を得ながらそれを放置したという大問題である。
(2)特別注視区域に指定か
市長が国へ「土地利用規制法」について、米軍Xバンドレーダー基地や空自経ヶ岬分屯基地とのかかわりで説明を求めたが拒否され、基本方針を修正する意見書を出したがそれも無視された。京丹後の米軍Xバンドレーダー基地および隣接する空自経ヶ岬分屯基地が「特別注視区域」に指定されることはまちがいなく、住民の不安はとても強い。
(3)他、略。
協賛団体あいさつ
〈米軍基地いらない京都府民の会〉、〈米軍Xバンドレーダー基地反対・近畿連絡会/京都連絡会〉、〈止めよう! 経ヶ岬の米軍レーダー・危険な戦争準備を許さない緊急京都府民の会〉が発言した。
基地ゲート前抗議行動
集会に先立ち、正午から京都連絡会は、米軍Xバンドレーダー基地と空自経ヶ岬分屯基地に対してゲート前での抗議行動をおこなった。あわせて、フィールドワークも実施。数年ぶりに来た参加者らは両基地の重武装化、変貌ぶりに驚いていた。(おわり)
広島で連続して反原発の裁判
原発なくなる日来る
1月27日、伊方原発運転差止広島裁判新規仮処分の抗告審第1回審尋期日において、午後2時から債権者(原告住民側)と債務者(被告四国電力側)の双方がプレゼンテーションをおこない、広島高裁(脇由紀裁判長)は審尋をこの1回で終結し、3月24日午後に決定を交付すると言い渡しました。
伊方新規仮処分3月に決定交付
仮処分の審尋は原則非公開のため審尋に参加しない支援者らとリモート参加者は隣接する広島弁護士会館に移動し、駆け付けた元裁判官の樋口英明さんが債権者側のプレゼンテーションの解説をおこない、四国電力の「地震対策は万全」という嘘を徹底的に批判しました(写真上)。
審尋終結後、弁護士会館に申立人、弁護団らが合流して記者会見・報告会質疑応答があり、活発な意見交換がおこなわれました。仮処分弁護団長の河合弘之弁護士は「すべての原発が無くなる日は必ず来る。一刻も早く原発のない世界を実現しなければならない」「3月24日の広島高裁の決定に注目して欲しい」と訴えました。
また、3月8日には伊方原発運転差止広島裁判本訴の第31回口頭弁論期日も予定されています。
福島原発事故避難者の訴訟も佳境に
この日に先立って1月25日には福島第一原発事故からの避難者による福島原発ひろしま訴訟の口頭弁論期日があり、いよいよ原告らの本人尋問の日程が決まりました。5月23日、24日、25日の午前10時から終日、3日間連続で9人の原告の本人尋問がおこなわれます。また、3月14日には福島原発おかやま訴訟の判決も予定されています。 避難者を守り、支え抜き、共にたたかいましょう。(松田 忍)
8面
長期・読み切り連載 大庭伸介
先人たちの闘いの成功と失敗を学び現在に生かそう
資本の横暴に抗う女性たち
「泣きの涙」から闘う主体へ B―上
大恐慌下で展開された洋モス争議
女性労働者たちが暴力団を撃退
1929年、ニューヨークのウォール街から起こった世界大恐慌は、27年の金融恐慌から立ち直れないでいた日本経済に深刻な打撃を与えた。とくに海外輸出に依存する繊維産業は甚大なダメージを受けた。資本家たちは工場閉鎖や大量解雇で、難局を切り抜けようとした。
東京府南葛飾郡(現・東京都墨田区)亀戸町に本社と主力工場をおく、東洋モスリン(以下、洋モス。モスリンは薄手の毛織物)には、最盛期4500人の労働者が働いていた。労働者の大部分は中間派の全国労働組合同盟(全労)傘下の日本紡績労働組合洋モス支部に加入していた。他に右派の日本労働総同盟・紡績労働組合が男工51人で存在。さらに第二工場の寮長の指導のもとに日本共産党の細胞がつくられ、左派の日本労働組合全国協議会(全協)の洋モス分会が全労内に「革命的反対派」を形成していた。
会社は1930年2月に490人の首切りをおこない(第1次整理)、さらに9月24日、488人の首切りを宣告した(第2次整理)。
最初、組合幹部はストライキで闘うことをためらっていた。しかし女性労働者たち(賃金は男性労働者の半分以下)の突き上げで、26日従業員2482人(うち女性2062人)全員がストに突入した。
当時、恐慌の影響で農村は疲弊の極にあり、小学校教員の賃金を払えず学校閉鎖が続出するほどであった。洋モスの労働者は農村出身者がほとんどであった。彼女たちは争議開始直後の従業員大会で、こもごも立って「郷里に帰っても親兄弟が食えないでいる。それを承知で何で帰ることができようか」と絶叫した。
赤い布を腕に巻いた女性労働者たちは、工場の要所要所を固めて占拠した。工場内の柱や壁・ドアには「婦人労働者の強さを見よ!」「解放は闘争に在り!」などと大書した畳1枚ほどの大きなビラが張り巡らされた。彼女たちは工場の内外でおこなわれた集会で気炎をあげ、数隊の楽隊を編成して労働歌を高唱しながらデモを繰り広げた。
会社は争議団との交渉を、1924年の大阪市電争議の調停を買って出た大日本正義団主監の酒井米蔵に一任した。27日早朝、イタリアのファシスト党を真似た黒シャツの制服姿の正義団員200人が、警備と称して工場内になだれ込み労働者に暴力的に挑んできた。争議団側は男工を先頭に15、6歳のいたいけな少女たちが正義団員にむしゃぶりつき、双方に負傷者を出す騒ぎになった。
この事件をキッカケに警察が前面に出て、翌日の早朝から数十人の警官が寄宿舎に土足のまま踏み込み、凶器所持の有無を調べると言う口実で、寝ている最中の女性労働者の身体検査をした。
会社は27日の乱闘を口実にして、交渉を打ち切った。
翌28日夜、長期戦の覚悟を決めた争議団員は亀戸の街に繰り出し、デモ行進をおこなった。
この辺り一帯は渡辺政之輔(共産党の労働者党員第1号)らの南葛労働協会以来、闘う労働者の歴史的伝統を引き継いでいた。1923年の関東大震災では13人の戦闘的労働者が軍隊に銃殺された地でもあり、争議団に心を寄せる町民が多く、たちまち1万人に近い大行進になった。驚いた警官隊が検束を始めたが、町民の反感をかい、町民と警官隊との衝突の様相を呈した。
翌29日、白鉢巻に赤だすきの女性労働者2000人が4列縦隊でスクラムを組み、太鼓を打ち鳴らしメーデー歌を歌いながら工場内を練り歩いた。阻止しようとした警官隊は、たちまちサーベルや帽子をはねあげられ、なかには胴上げされる警官もいた。検束された者は仲間たちが全員奪還した。
翌日からは午前と午後の2回の工場内デモが日課となり、会社は水道のホースで水を浴びせかけて対抗した。彼女たちの奮闘とそれを支持する町民の前にひるんだ正義団員は、10月1日から引き揚げてしまった。
そこで会社は同一資本系統の入山炭鉱から多数の人夫を呼び寄せた。彼らは深夜寄宿舎を襲い懐中電灯で照らしながら1枚1枚ふとんをめくり、女性労働者の頭を殴ったりした。
不退転の姿勢を固めた会社は、女性労働者たちを保護者に引き渡すことに本腰を入れた。「若い男女が昼夜の別なく自由に接触した結果、風紀を乱す者が増え、争議解決後には妊娠者300人を下らないだろうという噂まで生じている。上京して娘さんに付き添って郷里に連れ戻してほしい」という趣旨の夥しい数の手紙を、保護者に郵送した。
女性労働者たちは本人の知らないうちに、前借金をエサに会社と父親の間で結ばれた年季契約にもとづいて就職していた。つまり退職も自分の意思とかかわりなく決定されるシステムのもとにおかれていたのである。家父長専制が支配的であった社会を前提に、労働者支配が成り立っていたのだ。
会社から往復の旅費をもらった父親が続々上京した。1人の少女を引く抜くために25人の警察官が取り囲み、組合員が近づくと暴力団が来て、短刀をちらつかせながら襲いかかった。女性労働者たちは自ら「弾丸隊」と名付けた自衛団をつくり、眼つぶしや竹槍を使い、暴力団の通り道に糞尿をふりまいて対抗した。
しかし、会社の切り崩しが功を奏して帰郷する者が徐々に増えていき、10月16日までに492人に達した。
南葛一帯を揺るがした“市街戦”
2000余の労働者・町民が大行進
このような状況のなかで10月24日夜、亀戸一帯を震撼させた市街戦≠ェ実行された。この年、南葛地方には大小の争議が頻発し、洋モス争議を契機に、デモに明けデモに暮れるなかで、争議団の間で労働者の交流が始まっていた。
こうした情況をふまえて、全労幹部は洋モス争議を核に地域ゼネストを構想し、その延長上に市街戦≠ェおこなわれたのである。
まず10月7日、全労東京地方連合会の呼びかけで、東京市内外の115工場の労働者代表を集めて第1回工場代表者会議が開かれ、洋モス争議支援の決議を上げた。それにもとづいて「部分的闘争を全面的闘争に、経済闘争を政治闘争に発展」させることを目的とし、各工場内に前衛隊をおくこと、壁新聞や闘争ニュース・ポスターなどで闘争の情況を未組織労働者に宣伝すること、官憲の暴圧にたいして監視組織をつくること、および広範な人びとに呼びかけて救援委員会を設置することを決めた。そして21日の各組合代表者会議で、「24日夜亀戸全町に大衆動員をして市街戦≠決行する」ことを決議した。
こうして地域ゼネストの態勢が十分に整わないうちに、市街戦≠フ日を迎えた。亀戸一帯に「洋モスの全労働者は市街戦をまきおこすぞ」「市民諸君は生きた争議を見に来い」「全学生は盟休して亀戸におしかけろ」などのビラが張り巡らされた。
24日夜、雨が降るなか、争議団の呼びかけで民家が消灯した漆黒の街に、争議団員や応援の労働者・町民2000人余が結集し、物情騒然とした雰囲気に包まれて洋モスに向かって前進した。待機していた警官隊と乱闘の結果、騒じょう罪が適用されて全労幹部をはじめ197人が検束され、20数人の重傷者を出した。争議団幹部や活動家が一網打尽に検挙された結果、争議団の態勢は急速に弱まった。
なお、この市街戦≠ナは女性労働者は寄宿舎におしとどめられ、労働歌を高唱し太鼓を打ち鳴らしてデモ隊を鼓舞する役割であった。それでも検挙者のなかに4人の女性労働者が含まれていた。
市街戦≠決行した組合幹部に、必ずしも勝算があったわけではなかった。強引に親元に連れ帰される女性労働者が続出するなかで争議団員の士気を奮い立たせることと、調停者を引き出して争議を有利な条件で解決しようというのが本意であった。(つづく)