末期的危機の岸田政権
生活破壊・日米共同演習許すな
1カ月の間に3人の閣僚が辞任
岸田政権は9月安倍の国葬失敗以降、連月にわたり内閣支持率を下落させ、10月からは1カ月の間に3人の閣僚が辞任するという末期的危機が続いている。11月は全マスコミの支持率が30%台へ突入した。しかも山際経済再生大臣は統一教会問題、葉梨法務大臣は死刑で笑いをとる人権感覚ゼロの人物、さらに寺田総務大臣は政治資金規制を所轄する総務大臣(旧自治大臣)ながら政治資金規正法、公職選挙法(ポスター貼りに労賃提供など)に違反していたという、恐るべき低水準さが次々と露呈している。日本帝国主義政治委員会として機能不全前夜だが、そこは2025年まで国政選挙がないことをいいことに、開き直りを決め込んでいる。
これは、9・27安倍国葬で7・8安倍銃撃死を乗り切ろうしたことの失敗の結果で、人民の闘いがもたらしたものだ。しかし岸田政権は危機が深まるほど、原発再稼働・新増設・40年規制撤廃、戦争挑発・軍事予算の拡大、マイナンバーカード強制=国民総管理、物価高放置・人民の生活破壊を進めていく。こんな内閣は1日も早く人民の決起で打倒しなくてはならない。
軍事大国化すすめる岸田
岸田内閣は、軍事費2倍化、敵基地攻撃=先制攻撃容認に向けて、12月に安保関連3文書を改訂しようとしている。そのため11月段階で、公然・非公然で、反動的軍備増強論議を徹底的に強化している。11月21日の「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」の第4回会合(最終回)で、岸田は「必要となる防衛力の内容の検討、予算規模の把握、財源の検討を一体的かつ強力に進めていく」と述べた。
また防衛大綱に関して政府は、11月15日の有識者の第3回会合では、防衛力強化の「最優先は抑止力に直結する反撃能力」であるとする意見や、「軍民共用の研究開発や南西諸島の空港・港湾の利用が手つかず」の意見が出された。(日経、11・16)
またこの間の東アジアサミットなどの外交では、中国を名指しで批判したり、韓国大統領に「徴用工」問題の「解決」を要求するなど、攻撃的姿勢を強めている。
これと一体で、日米共同演習(キーン・ソード)が11月10日から19日まで、南西諸島(琉球弧)や全国を舞台に展開された。
今回の演習は自衛隊2・6万人、米軍1万人が参加する「今年度最大規模の演習」(浜田靖一防衛大臣)で、今回は訓練地に沖縄や鹿児島の離島を選んだ。
日本西南端の与那国島では、米軍とともに、戦車に近い砲身を持つ16式機動戦闘車(MCV)が空輸され、島民の抗議のなか県道を走行した。島民は「与那国での自衛隊配備に賛成した人たちは『米軍は来ない』と言っていたが、現実には来ている。戦争が起こるような状況ができている」と語り演習の中止を求めた。また他の住民は「自衛隊は町民を守る演習はしないのか。この演習は何のためか」と疑問を投げかけた。
これに対し自民党・公明党の第5回実務者会議の国民保護の論議では、離島は避難が困難なら、核攻撃を想定して宮古島・石垣島などには核攻撃用「シェルター」の整備を検討している(朝日、11・17)。核攻撃をシェルターで防げるわけがない。南西諸島住民は犠牲になれというとんでもない攻撃だ。
さらに2019年からミサイル基地が作られている宮古島では島全体が迷彩色に覆われ始めている。12月の安保関連3文書の改訂にあわせ、空自宮古分屯基地開設50周年にあわせ、ブルーインパルス記念飛行がおこなわれようとしている。自衛隊を認知させる復帰50年の締めくくりのイベントだ。
安倍の国葬に反対し御堂筋を北上するデモ隊400人 この力が岸田を追いつめている(9月27日、大阪市内) |
立憲民主党の裏切りを許さない
このように自民党・岸田政権の危機と反動的姿が露骨になっているとき、この政権を倒し労働者・市民の生活を第一とし、戦争への道を阻む政治を作るのではなく、これを救済する動きが野党第一党=立憲民主党から出ている。すなわち枝野幸男元代表の「選挙戦での消費税減税は誤り」という主張だ。これに対し蓮舫元民主党代表は沈黙し、塩村文夏衆議院議員は賛成表明。岡田克也幹事長が批判したものの、立憲民主党内に同調する動きがある。また野田佳彦元首相の安倍追悼演説をもちあげ、これへの批判は許さないという学者なども出始めている。人民の闘いの爆発を押さえ、国会内の維新との共闘を進め、自・公、立・維で政治の流れを決めようとする動きを許してはならない。特に枝野の裏切りは、3・11福島原発事故時の「ただちに人体に影響はない」をほうふつさせるもので、「金輪際信用してはならない」(タレントの松尾貴志)。
尼崎で維新惨敗「身を切る改革」沈没
そんな中、11月20日投開票の尼崎市長選で維新候補が無所属の前教育長に3万票近くの差をつけられて惨敗した。兵庫県東部は大阪に隣接し、維新支持者も多いが、21年4月の宝塚市長選、22年3月西宮市長選に続く3連敗である。
出来レースで新代表になった馬場伸幸は、3月西宮市長選を前に「兵庫での首長取り」を宣言し、これが「政党の支持拡大戦ではない」との批判を受けダブルスコアで敗北したのに懲りず、今回も吉村洋文大阪府知事、松井一郎大阪市長、東京の音喜多駿政調会長まで投入。よせばいいのに「身を切る改革」そっちのけで、大阪万博・カジノと関連付け、尼崎から4キロの夢洲とロープウエーで結ぶとし、失笑を買った。既に「改革政党」維新は色あせ、吉村人気は関西マスコミが作った虚像で、馬場代表は統一地方選敗北で退陣不可避だ。今こそ統一地方選で大阪・兵庫の維新を蹴散らしていこう。
反原発・狭山の闘いを
八方ふさがりの岸田政権が安倍や菅以上に極反動化を示しているのが、原発再稼働、40年規制撤廃の動きだ。電力不足を理由に経済産業省主導で原発全面推進にかじを切ってきた。委員長が交代した原子力規制委員会はますます原発推進委員会と化している。3・11福島原発事故などなかったかの如くふるまう、経産省・規制委・電力会社を許してはならない。12・4関西電力本店包囲闘争の高揚から、「3・11」12年の福島現地と全国をつなぐ闘い、来年前半の高浜・大飯・美浜現地住民と結びついた闘いを担っていこう。
狭山差別裁判第3次再審請求をめぐる闘いは3月までの今が正念場だ。10・31をめぐる闘いは各地で創意をこらして取り組まれ、署名も多数集まっている。ある種3月までが最後の闘いで、3月に向け市民団体のキャラバンもおこなわれようとしている。この闘いに呼応して、署名運動を担い、地域の運動を作り出していこう。
新自由主義と闘う
これらの戦闘的大衆闘争の構築と、安倍政権時代に社会の全分野で極限まで強められた新自由主義への徹底批判が求められている。物価高・生活苦、格差・貧困、社会的分断を進める岸田政権を打倒し、ヨーロッパで水道民営化を公営に戻したように、コモン=社会的公共財を取り戻す闘いを強めよう。気候変動や車社会と立ちむかい、地域からの創意で持続可能な社会を作り出していこう。
維新兵庫首長とり5連敗
尼崎 市民の力で撃退
市長選最終日、JR立花駅南で維新撃退にもりあがる尼崎市民(11月19日、午後7時59分) |
11月20日投開票の尼崎市長選は、前教育長の松本眞さんが維新の兵庫首長とり作戦を大差で打ち破り勝利した。これで維新の兵庫首長とりは、神崎川で大阪に隣接する阪神間で5連敗(宝塚2回、伊丹、西宮、尼崎)となった。
選挙戦は早朝から緑ジャンパーで駅前を制圧する維新に対し危機感が広がり、稲村現職市長の主導ながら政党的には呉越同舟ならぬ呉(自民)越(野党・市民)が別々に反維新統一戦線で闘った。両候補の訴えはともに子育て支援(かたや前教育長、こなた4保育所経営者)で争点にも決め手を欠き、一種予想のつかない靄のかかったような選挙だった。それでも松本候補者の力量・人柄が告示後に急速に広まり、最後は7万5253VS4万8114で圧勝。
特に維新候補が大阪万博・カジノ会場と尼崎をロープウェイでつなぐという思いつき政策は、「尼崎は大阪のバクチ場への入り口か」と怒り、「尼のことは尼で決める」という市民意識と繋がり、維新の大失点となった。
維新は全国政党化のため隣県兵庫の首長とりが至上命題で、馬場信幸代表や吉村洋文共同代表(大阪府知事)、松井一郎大阪市長らを連日投入したが、かつての橋下徹ほどの集客力もなく、支持網は広がらなかった。大阪に隣接の今回の尼崎市長選の惨敗は来年4月の統一地方選に黄信号がともった。馬場は、統一地方選で600議席取らなければ辞任と公言しているが、3月西宮市長選も馬場の「兵庫首長とり」発言が忌避され、今回も敗北。このままでは統一地方選敗北での辞任は必至だ。吉村は関西マスコミが作り上げてきた虚像に過ぎず、次の代表はどこにもおらず維新の落日は近い。
しかしながら共産党の若手議員辞任でおこなわれた補欠選挙(1議席)では、4万票で維新が当選。共産は1・5万(19年県議選にも及ばず、他野党は立候補者もいないのになぜか票を入れない)で5人立候補中4位で落選。立憲野党の弱体ぶりも大問題だ。
それでも維新を撃退し勝利したことは大きく、先ごろ完全な野党共闘で勝利した東京・杉並区長選の勝利引き継ぎ、市民自治・ミュニシパリズム(地域主義)を尼崎で根付かせていく闘いは、始まったばかりだ。
2面
MOX燃料搬入を強行
関西電力・高浜原発
11月22日
輸送船(パシフィック・イーグレット号)に抗議のシュプレヒコール(11月22日、福井県高浜町) |
11月22日早朝、関西電力は高浜原発へのMOX燃料搬入を強行した。未明から音海地区の物揚げ広場(高浜原発の北、福井県高浜町音海地区の最北端)に続々と抗議のために人々が集まってくる。対岸に高浜原発が見える。集まった人々が、怒りの声を上げるなか、輸送船は午前7時10分、高浜原発の専用港に着岸した。
MOX燃料を積んだ輸送船は、さる9月17日にフランスのシェルブール港を出航し、日本に向かい、約2カ月かけて到着。プルサーマル運転[注]をしている高浜3号機用の核燃料である。
原発対岸での抗議行動を終えた後、全体は車で音海展望台に移動。同所から関電高浜原発の北ゲートにむけてデモ。ゲート前で、抗議行動を展開した。
MOX燃料とは
専門家の木原壯林さん(若狭の原発を考える会)に聞いた。
MOXを燃料とする原発プルサーマル運転は、(通常の)ウラン燃料運転に比べて、格段に危険。
(1)酸化物であるMOX中のプルトニウムが核分裂すれば、酸素と結合し難い白金族元素が多く生成し、酸素が余り、余った酸素が燃料被覆管を腐食する。また、プルトニウムからは、核分裂生成物ガスとヘリウムガスであるアルファ線の放出が多く、燃料棒内の圧力が高くなり、被覆管の破損を招く。
(2)MOX燃料では、プルトニウムの高次化によって、中性子を吸収しやすいアメリシウムが生成し、原子炉の運転や停止を行う制御棒やホウ酸の効きが低下する。
(3)MOX中のプルトニウムが集まって核燃料が不均質化する(いわゆるプルトニウムスポットの生成)。
(4)MOX燃料では、中性子束(中性子密度)が大きく、高出力で、過渡時(すなわち出力の増減時)に原子炉の制御がより困難。
(5)使用済みMOX燃料の発熱量は下がり難く、(通常の)使用済みウラン燃料の4倍以上も長期にわたって燃料プール内で水冷保管しなければ、空冷保管が可能な状態にならない。
プルトニウムのプルと、サーマルリアクター(=軽水炉)を掛け合わせた造語。プルトニウムが混ざったMOX燃料で原発を運転すること。通常、軽水炉ではウラン濃縮燃料が使用されており、プルトニウムは混ざっていない。
米軍Xバンドレーダー基地撤去
「キーン・ソード23」即時中止 京都
日米共同演習に反対して力強くデモ行進(11月22日、京都市) |
11月12日、京都市内で、「岸田政権の軍拡・改憲に反対し、いまこそ東アジアの平和を!米軍Xバンドレーダー基地撤去11・12京都集会」がおこなわれ70人が参加した。主催は、米軍Xバンドレーダー基地反対・京都連絡会。
集会冒頭、9月に逝去された同会の山本純事務局長に対して黙祷をおこなった。
続いて、主催者あいさつがあり、@11月10日から始まった日米共同統合演習「キーン・ソード23」に強く抗議し、その即時中止を求める、A岸田政権のもとで進められようとしている戦争政策、日米安保体制の強化に反対する、B戦争政策を押し進めるための排外主義扇動を許さず、それに鮮明に反対する、Cこうした状況の中で、あらためて米軍Xバンドレーダー基地の撤去に向けた闘いの前進が求められている、と提起。
現地からの報告
京丹後現地から駆けつけた永井友昭さん(京丹後市議・京丹後宇川の風代表)がスライドを使用して現地報告。12月11日に京丹後市内で開催される「米軍基地いらんちゃフェスタ2022」への参加を呼びかけた。
さらに、最近、南西諸島(琉球弧)を訪問した団体メンバーから「進む琉球弧の軍事要塞化」について報告がおこなわれた。メッセージが、沖縄からと、韓国THAAD反対闘争現場(ソソン里)から寄せられ、紹介された。
連帯発言
NO BASE! 沖縄とつながる京都の会、若狭の原発を考える会、連帯労組関西生コン支部が連帯発言をした。
集会後、大型車に乗った右翼による大音響での妨害をはねのけ、繁華街=河原町通りをデモ行進し、多くの市民から注目を浴びた。
3面
沖縄日誌11月
「キーン・ソード23」に抗議
11月5日 名護市辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で6月以来5カ月ぶりに、第1土曜日の「県民大行動」が開催された。市民766人が参加。糸数慶子共同代表の「島全体が要塞化されていく、宮古、与那国、石垣など離島の日米訓練を止めよう。辺野古の埋め立てを止めよう」のあいさつに始まり、県選出の国会議員、県議、各島ぐるみ会議の市民が、「辺野古新基地建設反対」を訴えた。玉城デニー知事は、メッセージを寄せた。
6日 米軍は那覇軍港へオスプレイ3機を陸揚げした。普天間飛行場のオスプレイは6月に3機を那覇軍港から海外へ搬出した。今回の機体はその代わりとして、普天間飛行場へ駐留するとみられる。県は米軍に対し、これまでも沖縄の日本復帰に米軍基地の使用目的などを定めた日米合意(5・15メモ)に沿っていないとして、那覇軍港の使用をしないように求めてきた。那覇軍港には2021年11月、今年2月、6月にオスプレイが飛来している。
8日 沖縄(南西諸島全体)を含む全国各地で10〜19日の日程で実施される日米共同統合演習「キーン・ソード23」に向け、防衛省はチャーターした民間船舶で、中城湾港に車両などの装備と隊員などを運び込んだ。チャーター船は鹿児島港で隊員や車両などを搭載したとみられ、名瀬港を経て中城港に接岸した。そして、運び込まれた車両73台、隊員191名は国道58号など一般道を使い、陸自那覇駐屯地などへ移動する様子が確認された。
防衛省は、2021年11月14日、宮古島市城辺保良の陸上自衛隊保良訓練場に地対艦、地対空ミサイルなどの弾薬を搬入した。この時も平良港から市街地を20キロ通過して弾薬を運び入れた。今回も民間施設を使用し公道をわがもの顔で通過した。
この日、中城湾港のゲート前には多くの市民が集まり抗議行動を展開した。中城湾港の陸揚げなどは有事の際に民間施設を使用する予行演習とも言われ、有事に巻き込まれる懸念が強まる。市民はゲート前に座り込み「戦争につながる合同演習をやめろ」「沖縄を再び戦場にするな」と怒りの声を上げた。
9日 那覇軍港に船で陸揚げされ、駐留していた米海兵隊のオスプレイ3機が離陸し普天間飛行場に着陸した。米軍は県からの飛行中止要求をまたしても無視した。
この日、沖縄平和運動センターは、那覇市泉崎の県民広場で、日米共同統合演習「キーン・ソード23」に抗議する集会を開いた。130人が参加、「日米軍事演習やめろ」と拳を突き上げた。
10日 日米共同統合演習「キーン・ソード23」が始まった。沖縄では八重瀬町の陸上自衛隊南与座分屯地で地対艦ミサイルを利用した訓練が始まり、島しょ作戦演習が本格化した。
玉城知事は、米軍が陸上自衛隊与那国駐屯地などを共同使用することについて「なし崩し的に物事が進められている」と懸念した。また、「航空自衛隊ブルーインパルス12月11日下地島空港での展示(曲技)飛行」を宮古島市が県に要請していることに否定的見解を示した。(杉山)
金光男さんが講演
新たな反戦闘争を
11・6大阪
11月6日、大阪市内で「文政権退陣後の韓国は今」と「北朝鮮と統一教会」に関する金光男さんの講演会がおこなわれた(写真)。主催は〈戦争あかん! ロックアクション〉。 統一教会の関係は後日、フレーザー委員会報告とあわせて別途報告することにし、今回は「文政権退陣後の韓国は今」について報告したい。
朝鮮戦争以来の危機的事態
講師は今の状況について「いつ軍事衝突が起きるか分からない状況であり、軍事衝突がおきればどこまで拡大するかわからない非常に緊張した状況にある」と指摘した。
北はなぜミサイル発射をするのか
今、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)は過去に例のない頻度で多様なミサイルを発射しているが、それはなぜかと問う。
5月10日に尹錫悦氏が大統領に就任してから、文在寅政権のときには控えてきた米韓合同軍事演習が5月から10月までのわずか6か月の間に実に4回も強行された。
6月、米韓は横須賀から出撃した原子力空母ロナルド・レーガンと岩国から出撃したステルス戦闘機F35を投入した軍事訓練をおこなった。8月には朝鮮戦争を想定した合同軍事演習を規模を拡大して実施。9月と10月には同空母を投入した海上機動訓練をおこなった。北朝鮮は10月4日、青森上空を通過する中距離弾道ミサイルを発射した。これに対し、米韓合同軍は10月31日〜11月5日まで250機が参加するかつてない大規模な「ビジラント・ストーム」作戦をおこなった。
文在寅政権と金正恩委員長は、ピョンヤンで首脳会談を2018年におこなったとき偶発的軍事衝突を防止するための9・19南北合意を締結した。しかし今、この南北合意を北朝鮮も韓国も破る事態が生まれている。
北朝鮮は11月2日、ミサイルを韓国が一方的に設定した海上の38度線=北方限界線を越えて韓国側に意識的に打ち込んだ。南北分断以後、海上の38度線=北方限界線を越えて南側に着弾したのは初めてである。マスコミは一斉に報道した。
韓国空軍はただちに韓国軍戦闘機が北方限界線以北の海上に空対地ミサイル3発を撃ち込んだ。
尹政権の支持率急落
尹政権は政権発足以来、北朝鮮との軍事的対立を過去に例がないほど強めてきた。韓国では軍事的危機が高まると支持率は上昇するのが常である。しかし、政権発足後わずか2か月で支持と不支持が逆転したのだ(グラフ参照)。米韓軍事演習をおこなえばおこなうほど支持率は激減していった。支持が多いのは70代以上で、それ以外の全世代、とくに18〜29歳は70%、30代は72%、40代は実に79%が不支持なのだ。韓国ギャラップによると「平和的かつ外交的解決に向けた努力を続けるべきだ」が67%、「軍事的解決策が必要だ」がわずか25%だった。韓国の民衆は圧倒的に軍事的緊張拡大と戦争を望んでいないのだ。
共同通信の世論調査によると「敵基地攻撃能力賛成」が53・5%、反対が38・4%だった。
新たな反戦闘争を
「敵基地攻撃能力賛成」と闘い、「平和的かつ外交的解決」を求める韓国民衆と連帯していく新たな反戦闘争が死活的に求められている。講師はこの課題に挑戦するのはここにいるみなさんだ。ともに闘おうと結んだ。
4面
投稿
三人の若者が立候補表明
れいわキックオフ集会に参加して
中島淳
若い世代の3人が立候補表明 |
11月13日、大阪府吹田市でれいわ新選組の堀口こうすけさんの吹田市議に立候補するためのキックオフ集会が開催された。れいわ新選組からは大阪市淀川区から立候補予定の前島かずきさん、同市東淀川区から立候補予定のたかはしいちろうさんらも参加した。
堀口こうすけさん
堀口さんは1985年生まれの36歳。大阪産業大学卒業後、厨房器具メーカーに正社員として入社するも、あまりの強労働と劣悪な労働条件に1年ももたず退社。派遣会社に登録して低賃金と重労働かつ不安定な仕事の中でやりたいこともわからず、もがき、さまよう日々が10年も続いた。しかし、都構想の住民闘争や衆議院選挙を大石あきこ衆議院議員らといっしょに闘う中で、自分が抱えた不安や苦しさが自公政権や維新が推し進めてきた政策でもたらされたことを知る。堀口さんはれいわから吹田市議に立候補し、悲惨な労働実態の生の声を訴え、社会を変えていくことを決意している。公約として消費税廃止、最低賃金1500円、奨学金徳政令等のほか、辺野古新基地建設中止、原発即時禁止・被ばくさせない、をかかげている。
前島かずきさん
大阪市議に淀川区から立候補予定の前島かずきさんは1997年生まれの24歳。高校卒業後、冷凍庫企業に就職。冷凍倉庫という過酷な環境でフォークリフトの運転手として働いていたが、生産性を理由に働けば働くほど人を使い捨てにする現場の中で、ユーチューブで山本太郎の政見放送を目にし、「人間は生きているだけで価値がある」という主張に共感し、社会を変革することに希望を得たという。仕事が休みのときに大石あきこ事務所にボランティアとして通う中、今回、立候補を決意した。前島さんは、夜遅くまで働かざるをえない人たちに深夜の駅頭で訴える街宣にも取り組んでいる。
たかはしいちろうさん
たかはしいちろうさんは1977年生まれで45歳。創価大学法学部卒で学会3世。有事法や安保法に公明党が自民党と組んで成立させていくのを見たとき、たかはしさんは、公明党はもう平和の党ではなくなったと思ったとのこと。以来、学会批判、公明党批判を現役の学会員として続ける中、東淀川区で公明党のポスターの隣にたかはしさんのポスターを貼ってくれる学会員も生まれてきている。さらにほぼ毎朝、各駅頭で街宣をするなどエネルギッシュに活動。
若い人たちはいる
れいわの中には多くの若者たちがいる。れいわの中でいっしょに活動していく中で、なぜ彼らがれいわにひかれるのかが少しずつわかってくる。
派遣労働者のAさんは山本太郎の演説をたまたま聞いたとき「あっ、私のことを話している」と感じたという。すぐインターネットで山本太郎のユーチューブを探して聞き、今、ある地域でれいわの中心メンバーとして活動している。高校生だったBさんは、やはり、たまたま山本太郎の「自殺したくなるような社会を変えよう」という訴えを聞いたとき強く共感したという。それまで政治には関心がなかったが、以後、政治に関心を持つようになった。今、大学に入り、れいわの中心的な活動を担っている。
競争社会と真逆の主張
新自由主義は、会社(資本)の役に立たない人間は価値がないとして、人間をおとしめ、絶望をつくりだし、自殺したくなるような社会を生み出している。れいわの「人間は生きているだけで価値がある」というメッセージは新自由主義と真逆の主張だ。れいわと一緒に行動する中で、新自由主義と真逆のメッセージをさらに生み出していくことが必要だと強く実感している。
来春の統一地方選挙に全力をあげよう
今、岸田政権は支持率続落で危機に直面している。岸田首相は、来年5月の広島での先進7カ国サミットの議長として「成功」させ、総選挙に打ってでるといわれている。しかし、政権が来年5月まで持つのかという声も聞かれる。
選挙に大敗した立憲は野党共闘から逃げ出し、政権にすりよるため維新と急速に接近している。こういうなか、将来への不安にもがきながら低賃金と重労働、そして不安定な派遣で働くしかない労働者や、生産性を理由に過酷な労働を強制されている若い人たちや女性に働きかけていく候補者の当選をなんとしても実現していこう。
何もしないで統一地方選挙が終わった後に勝手に無責任に論評する「ミネルバのふくろう」になることを拒否しよう。闘ってこそ次の展望をつくる主体になれる。
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石川さんの無実を確信
狭山現地調査に参加して
河内次郎
部落解放同盟全国連合会と〈狭山事件の再審を実現する大運動〉の呼びかけによる10・30狭山現地調査に参加しました。
狭山の現地調査は一度行ったことがあるのですが、事件現場一帯は説明を聞かなければ思い出すこともできないほどの変わりようでした。入間川駅は狭山市駅になり、殺害現場とされた雑木林は駐車場に、隣接するOさんの畑は住宅になっているなど一変していました。
調査は警察によってつくられたでっち上げ「自白」コースの@狭山市(入間川)駅西口→A荷小屋跡→B荒神様(神社)→C出会い地点(X型十字路)→D殺害現場(駐車場)とOさんの畑(住宅)から石川さん宅(焼失復元)→神社→駅東口までの約2時間でした。
説明を聞いたり、疑問点を話し合ったりしながら歩いたので時間がかかりましたが、殺害現場を中心として半径5〜600メートルほどの意外と狭い範囲の出来事なのだと感じました。
・出会い地点に向かう途中の荒神様(三柱神社)は車10台のコインパーキングほどで本当に小さい社です。ここに露店が並び、のべ700〜800人の人出があり、レコードで演歌を流していたといいます。しかし「自白」で石川さんは演歌を聞いていませんし、歩いている石川さんを見た者も誰もいないなんて正直ありえないと実感しました。
・出会い地点(X字型十字路)では自転車に乗った被害者とすれちがいざまに荷台をおさえて止め、その後被害者が自転車を押し、並んで殺害現場の雑木林まで(300〜400メートル)歩いて行ったとされています。16歳の高校生(その日が誕生日)、クラス委員やソフトボールをする活発で「気の強い(父親の証言)」被害者が見知らぬ男性に声をかけられ、おとなしく自転車を押して殺害現場まで一緒に歩いていくのだろうか?走っている自転車をそんなに簡単に「押さえて」「止め」る事ができるのか? かなりの危険行為だと思われるが「自白」には全く臨場感がない、というのが多くの参加者の感想でした。
・殺害現場(雑木林)と農作業をしていたOさんの証言(悲鳴のようなものは聞いていない)について。雑木林は当時まばらに立木がある状態で、Oさんが農作業をしていた畑の桑の木も背丈は大人の腰くらいのものでした。両地点からは互いに見通せる関係です。Oさんが作業を終了(殺害時刻とされたころ)した地点は、雑木林から20メートルほどの距離。Oさんは直線距離で600メートルほどの荒神様のレコードの音を聞いているのに被害者の悲鳴は聞いていないと証言しています。
・カモイが復元されている現地事務所を訪れると入り口の横に椅子が置かれ、コロナで外出を控えている石川夫妻からのメッセージが添えられたミカンと飲み物を用意してくださっていました。
お勝手のカモイは(175・9センチ)、数字だけで判断すると一見高いところで見えにくいのではと思われるのですが、実際には“えっ”こんな所から発見されたの? と思うほどの身近なところです。手を伸ばせば身長+20〜30センチ程度上まで届くことを考えると想像できると思います。新しく狭山担当になった乙部検事(身長180センチ以上ありそう)なら手を伸ばさなくても見えるのではないかと思うほどです。
これまで判決を下した裁判官で現場に足を運んで検証したのは死刑判決を下した一審の内田裁判長だけです。彼は判決文で“右は、入り口の鴨居で、人目に触れるところであり、もし手を伸ばして探せば簡単に発見しうるところではあるけれども、そのため却って捜査の盲点となり看過されたのではないかと考えられる”と述べています。(判決文より)
“簡単に発見できるところだから、見落とした”とはどういうことだ! こんな理由(非科学・不合理・論理矛盾)で無実の人を虫けらのように扱い、人生を奪って良いのか! なにがなんでも石川さんを犯人にしなければならないという屁理屈には、怒りを覚えずにいられません。
現地調査を通して「事実調べをしてもらえば必ず無実は明らかになる」という石川さんの訴えを改めて確信することができました。事実調べ(現地調査、証拠・証人・鑑定人尋問)抜きの判決など絶対に許すことはできません。
11月末と言われている次の三者協議が最大の焦点です。検察が殺害現場のルミノール反応検査などの証拠開示を拒否して最終意見書を提出。これをうけて裁判所が石川さんの無実・無罪の証拠・証人の不採用を決めて審理を終結しかねない緊迫した事態を迎えています。署名・ハガキ・街頭アピール・要請行動など、できることはすべてやり切り東京高裁大野裁判長に「熱と光」の声を届けよう。
2022年度狭山キャラバンスタート集会
とき:12月17日(土)午後2時
ところ:釜ヶ崎ふるさとの家(阪堺線「今池」西)
5面
関生弾圧
Yさん解雇撤回裁判で勝訴
吉田生コン事件1審判決
大阪府警本部前での22年元旦闘争。23年にも元旦闘争が。(午前10時集合月) |
10月27日、連帯ユニオン関西地区生コン支部組合員のYさんが、「解雇無効」と「地位確認」を請求していた裁判で、奈良地裁(寺本佳子裁判長)は、Yさん勝訴の判決を出した。Yさんは、今年8月に60歳定年をむかえており、再雇用による職場復帰をめざす。
裁判長による判決の読み上げは1分程度で終わった。それは結論のみで、勝訴なのか、敗訴なのか、傍聴者にはよくわからなかった。
裁判終了後、弁護士の説明を聞いて、Yさんの完全勝利であることがわかった。やっと、支援者は歓声をあげた。Yさんは「弾圧の内容からいって当然の結果だが、勝利できてよかった。再雇用による職場復帰を求めて、明日から職場の門前にたつ。会社側はかならず控訴してくるだろうから、これからも闘っていく」と決意を述べた。
吉田生コン事件
株式会社吉田生コンクリート(吉田生コン)は奈良市内にあり、6人の関西生コン労組組合員がここで働いていた。2019年4月、経営者は組合員に組合脱退と自主退職を迫ってきた。「吉田生コン事件」とは、関西生コン労組組合員にたいする一連の解雇攻撃をさしている。この事件は関西生コン労組にたいする一連の弾圧のなかでおきた。弾圧は明らかに労働組合、関西生コン労組つぶしを目的としておこなわれたものだ。
Yさんは2017年10月から18年6月まで、加茂生コン(本社・京都府木津川市加茂町)で組合活動に従事していた。会社はこのことを「無断欠勤」とみなして、解雇通告をおこなってきた。吉田生コンと関西生コン労組のあいだには組合活動による不就労を認める労使協定があり、会社は組合用務届けを受理して、賃金を支払っていた。また、Fさんは些細なこと(子犬をミキサー車の助手席にのせた事など)を理由にして、解雇通告をうけた。
ふたりはこの通告を拒否した。経営者は2人を懲戒解雇にした。これがYさんにとって1度目の解雇事件になる。
2020年3月、ふたりは奈良地裁で解雇無効の仮処分決定をかちとった。これで、Fさんは職場復帰をした。しかし、Yさんは職場復帰をはたせなかった。解雇事件がおきてから2カ月後に、Yさんは京都の加茂生コン事件で、不当逮捕、起訴されていた。これを理由に、Yさんは会社から2度目の懲戒解雇を言い渡されたのだ。
二度目の解雇事件について、Yさんは解雇無効と地位確認を求めて、奈良地裁で闘ってきた。今回の判決は、2度目の懲戒解雇事件に関するものだ。
関西生コン労組弾圧
2018年夏から、警察権力による関西生コン労組にたいする弾圧がはじまった。労働組合のコンプライアンス活動やストライキが「威力業務妨害」にされ、非正規雇用労働者が正規雇用化を求めた事が「強要未遂」にされ、労働紛争による解決金を受け取ったことが「恐喝」にされた。このような弾圧を認めれば、労働組合は自らの力に依拠して闘うことができない。これは労働組合活動を禁止する国家権力による攻撃だ。関西生コン労組は真っ向からこの弾圧に抗して、反撃を開始した。
闘いはこれから
昨年12月、Yさんは加茂生コン事件控訴審判決でも、逆転無罪を勝ち取っている。今回の勝利は、関西生コン労組にとって、大きな反撃の手がかりになるだろう。弾圧にたいする関西生コン労組の闘いは、ますます正念場になってくる。Yさんの裁判についても、会社側はおそらく控訴するだろう。たたかいはこれからだ。
尼崎で維新をなぜ撃破できたのか
社会変革の道示し維新の衰退へ
連敗つづく兵庫首長選
尼崎市長選の勝利を神戸の仲間に報告すると、「市議補選では維新が当選。市長選では自民と全野党と現市長でやっと勝利。なぜ維新は強いのか」という質問が来た。昨年10月の総選挙では大阪の全選挙区で自民党に勝ち(公明党の選挙区は別)、兵庫でも得票数は第一党に。大阪隣接の尼崎などでは市議選でも最大得票。維新というだけで無内容な人物が高位で当選する。しかし今回の尼崎市長選、3月の西宮市長選、21年4月の宝塚市長選で維新は連敗。勢いはまだ衰えていないが、3市の経験から維新退潮の策を知りたいが質問の趣旨だろう。
1人の首長選と、20人〜30人規模の市議選は少し性格が違う。また大阪では稀代のデマゴーグ橋下徹が首長として勢いのある時に府議・市議を増やし、激しいノルマを課し組織網を作った。市役所出入り業者(土木・建設、電気・水道工事、解体業など)に利権を絡ませ、自民党を上回る組織力をつけ、国政選挙にも勝利した。大阪の基盤はまだ強固で、80人弱の府議会で、共産党は2(兵庫は5)、立憲系は2(兵庫は10超)の極小派だ。何とか兵庫から教訓を引きだしたい。
「現状変革の虚像」
維新がここまで伸張したのは、沈みゆく大阪で、停滞を打破する「社会変革の虚像」を見せたからだ。1990年のバブル崩壊以降も自民党は金権汚職体質のままで、改革マニフェストの民主党に09年に政権交代。これは日本の支配階級に痛撃で、彼らとアメリカは総力でこれを潰した。その後、民主党に代わる「現状変革の虚像」を示し維新が勢力を拡大した。
「虚像」の旗印は大阪都構想。次は「身を切る改革」。中身は1980年代のレーガンの労働組合敵視・賃下げの模倣だが、失われた10年、20年、30年の日本で、公務員の数が一定多かった大阪では、橋下の公務員・労働組合叩きは受けた。しかし全国政党化は石原や民主党右派と組み失敗。安倍・菅と裏で繋がるも、安倍が安定するや存在感は低下、安倍死後は急降下。この全国政党化に今もつまずいている。それでも大阪では首長選、自治体議員選に勝利し「維新政治の見える化」を実現し生き延びた。ただ組織論はデタラメで、運営は橋下・松井の独裁。維新塾はならず者(池田サウナ市長など無数)ばかりで、コロナ禍では死者数全国一(イソジン吉村、雨合羽松井)。23年松井引退後は次世代不在(吉村人気は関西マスコミの虚像)で、尼崎の敗北で最大の危機に直面した。
敗北の始まり=21年宝塚市長選
維新の第2期末期19年には現状変革・左派ポピュリズムの「れいわ新選組」が登場、22年には国会議員8人に。デタラメな組織論の参政党(富裕層に依拠の右派、中身は党首独裁)は組織戦略不在のれいわの横腹を突いた。「沈みゆく日本」において、現状打破気分は渦巻いており、既成野党がそれをすくい上げられず、維新、れいわ、参政党が登場。維新はれいわ・参政に左右から挟撃され、吸引力のない大阪万博・カジノ・「身を切る改革」は衰退の象徴となった。
負けパターンの始まりは21年の宝塚市長選。自民・維新・現職中川後継者が争うが、維新は野党3党共闘(社民、立憲、共産)と市民決起に僅差で敗北。22年3月の西宮市長選は、元民主党の現職、維新、元自民の争い。補欠選挙当選を目指した立憲と市民が大奮闘し、市長選は維新にダブルスコア、市議補選(定数2)は自民・立憲系が押さえ、3人落選の維新は完敗となった。
今回の尼崎は、前2回に懲りず馬場、吉村、松井と総力を投入したが敗北。政党的には自民とオール野党だが、宝塚と違い立憲は弱く、社民は不存在。共産は前回対抗馬を立て、今回も最後に支持。勝因は現職市長が連日つき、「県下最低の学力」を変革し、住みたい街ランキングに載る尼崎像を、現職市長と前教育長に求めた維新嫌いの市民だろう。
コモンを作る変革のプログラム
旧来の野党の低迷理由は、政権批判は熱心だが「憲法と民主主義守れ」の保守で、組織論もダメで、変革のモデルが示せないから。新自由主義批判は必要だが、将来社会像(昔は社会主義・革新自治体)が示せないと単なる批判派に終わる。その空隙をついて将来社会像を「コモン=公共財」として提起したのが斎藤幸平。水道民営化を公共財として取り戻した欧州のミュニシパリズムは、今年杉並区長選に全野党共闘で勝利した。今回の市長選は統一選対がないため、地域ごとに市会議員・運動家らが集会をもち候補者と接触。小さな会合は人柄・力量がよく判り、最終盤で支持が急速に拡大した。自民は弱体で野党も含め政党得票は4万弱だろう。
今後は新自由主義批判の共同闘争を持続させ、コモンを広げるこが必要だ。反維新気運にある地域民主主義(尼のことは尼で)の芽を、市長の政策(教育・子育ての専門家)と繋げるなら、維新の陣地は縮小する。筆者が候補者に言ったのは一言、「自転車で街の隅々まで回ったら」。そう、杉並新区長は自転車で通勤し、気候変動会議を設置したようだ。
維新を衰弱させる方法、それは変革のプログラムの具体化。3市の教訓から始めよう。
6面
ジェンダーの視点から安倍政治を斬る C
夫婦別姓で家族が壊れる?その逆ではないか
石川由子
2021年、自民党は選択的夫婦別姓ワーキングチームを立ち上げた。全員が60歳以上の男性。これから結婚・離婚を控えて自身の姓について真剣に考えている人たちには見えない。つまり自民党はこの問題についてまともに議論を進める気はなく、先送りを決め込んでいる。
今日、自民党は旧姓使用を拡大することでしのごうとしている。例えば「佐藤」さんと「田中」さんが法律婚し、「佐藤」姓になったとする。すると「田中」さんはこれまでの姓を放棄しなければならないので、それは困るだろうから「田中」の旧姓をそのまま使える機会を増やすと言っているのだ。銀行口座、各種資格、パスポートに至るまで通称使用を認めている。しかし、パスポートの通称使用は外国では通用しない。あくまでも本名を要求されるのは当然のことだ。通称使用は先延ばし戦術としか考えられない。
自民党の議員たちが強固に夫婦別姓に反対している理由はいくつかあるが、大きな共通点は次の4点だ。
@家族の姓が違っていたら、子どもがいじめられる
そもそも、親の姓が子どもと違うことでいじめが発生したのなら、いじめ自体が問題なのであって、姓が違うことが問題なのではない。さらに今の結婚事情に全くあっていない理由だ。現在、法律婚する人の三分の一が離婚する。一部の県においては離婚するカップルのほうが多いぐらいだ。当然のことだが新たに法律婚する人たちの四分の一は再婚、再再婚だ。つまり連れ子同士の人が結婚した場合、家族全員が同じ姓にするためにはどちらかの子どもは姓を変えないといけない。それが嫌なので親と姓の違う子どもはたくさんいる。子どもに姓を変えることを強制してまで家族全員が同じ姓を名乗ることに意義がないからだ。
A家族の絆が壊れる
女性差別を温存せよと言っているのだ。「家制度」のもとでは女性は「家」に従属することを強制された。戦前、家父長=戸主は家族の結婚の許諾、居住地の決定、財産権など家族に関わる決定権のすべてをもっていた。そのもとで自立できない女性たちは結婚以外の人生の選択肢を奪われ、結婚後は離婚の自由を奪われていた。つまり、家族の「絆」とは(正確に言えば夫婦の絆)とは女性たちの血と涙によって継続された擬制だったのである。もちろん今はすべての結婚がこのような結婚ではない。結婚しない自由も離婚する自由も戦前と比べれば行使しやすい。だからこそ支配層は危機感を持っているのだ。家制度による支配の根幹が崩れようとしているからだ。
Bファミリーネームが失われる
まさに家制度を守りたい本音が出たというべきだろう。そもそもファミリーネームとは何なのだ? 自民党の議員になるような「良家」の子孫はその名前がなくなるのは大変なことなのだろうが、労働者にとって先祖の姓を継ぐことに何か意義があるのか。家制度の中では「女三界に家無し」と言われ、女性はそもそもファミリーネームとは無縁だった。今も女性は結婚によって93%がそれまでのファミリーネームを捨てているのだから、法律婚する人のほぼ半数はファミリーネームなど関係ないのだ。
C墓は誰が守るのか?
日本のお墓は「○○家の墓」と書いてある。お墓は「家」の象徴だ。つまり違う姓の人がお墓に入ることを認めず、お墓を守ることもないということになっている。
自民党の女性議員がこう嘆いていた。「自分の父親は子どもが二人とも女性だったので自分自身のお墓を守ってくれる人がいないと考え、わざわざ自分と妻のお墓を買い、結婚して姓が変わった娘に自分のお墓を頼むと言って亡くなった。しかし、親戚たちは実の娘であっても姓が違う人間がお墓を守ることを許さず、泣く泣く叔父に頼んだ」という。
なぜそこまでお墓の姓にこだわるのか? お墓を守るとはどういう意味なのか? とは思うが、「家」の前に親子の愛情は断ち切られてしまっている。
次回は天皇制と戸籍制度について書いてみたい。(つづく)
宝島裁判 11月18日大阪地裁
請求棄却の不当判決
11月18日、大阪地裁(小川嘉基裁判長)は、原告の請求を棄却する不当判決を出した。
この裁判は、昨年2月に宝島新書『大阪ミナミの貧困女子』が発刊され、この本の内容と出版経過をめぐって著者のひとりである村上薫さんが、同書の絶版などを求めて昨年10月に提訴していたものである。
原告・村上薫さんによれば、当初、コロナ禍のミナミで働く人々の困難を訴えると同時にミナミの街の活性化のために出版に協力した。しかし、宝島社と担当編集者は、原稿を改ざんし、できあがった本は「コロナ禍で値崩れした女性を買って応援しよう」という差別的なものになっていた。さらに中国バッシングやセクシャルマイノリティの人権を無視するような内容も含まれているという。出版直前の1月24日にゲラを見て、村上さんが抗議したにもかかわらず、「出版が2月10日なので(もう)直せない」と言われ、「それでは出版から降りる」と要求すると、「著者として名前を使わせないならば損害賠償1000万円を要求する」と脅迫され、強引に出版された。
異常な訴訟指揮
適切な争点整理を裁判官がおこなわず、書面交換のみが漫然とおこなわれたため、「事実上の争点及び法律上の争点、及びそれらに対する見通し」について、当事者が把握できないまま結審を迎えた。
原告から証拠申し出(本人尋問及び証人尋問)がおこなわれているにもかかわらず、裁判官は理由をのべることなく一方的に申出を却下。
2022年9月15日に被告(宝島社)から準備書面が提出されたが、原告に反論の機会を与えることも、意見を聞くこともなく、翌16日の期日において結審を強行した。
原告代理人=仲岡しゅん弁護士によれば、このような訴訟指揮は、判決の内容を云々する以前の話で、こんなひどい裁判官はいままで見たことがないという。
控訴してたたかう
原告の村上さんは、「こんな判決は認められない。断固、控訴してたたかう」と決意を述べた。
編集者を訴えた第2訴訟
10月6日大阪地裁で宝島社の編集者・角田裕育を訴えた裁判の口頭弁論がおこなわれ、支援者多数が集まった。被告側は、本人も弁護士も出廷しなかった。村上薫さんは、なぜ併合にしなかったのか裁判長に問いただした。
裁判の後の報告集会で、上林惠理子弁護士からこの裁判の説明があった。『大阪ミナミの貧困女子』という差別を助長するような本が出版されたことに対し、宝島社に対しては出版差し止めを求めているが、編集者(角田)に対しては、本の出版に伴って村上薫さんが被った賠償を求める訴訟である。
3つの行為が不法行為であり違法だと主張している。1つは改ざん行為。村上さんの原稿を大幅に書き替えた行為。2つ目が虚偽記載行為。この本のコンセプトは、女性ライターが女性の目線で取材して書いたというはずだったのに、実際はほとんど被告が記事を書いている。3つ目が強要行為。村上さんが、途中から共著者になりたくない、「降りる」と言ったことに対して、1千万円の損害賠償が降ってくるからやり続けろと言った行為が強要。被告側はこれに対する答弁書を出しており、3点とも否定している。被告側の弁護士は、宝島裁判と同じで、今後も弁論には出席するつもりはないと言っているそうだ。
訃報 米澤鐡志さん
11月12日、米澤鐡志さんが亡くなりました。私たち革共同再建協議会は2007年の発足前後から大変お世話になりました。とりわけ2008年から8・6ヒロシマの継承を掲げて新たな運動に参加するに当たって、京都在住の被爆者で、社会運動の最前線に立ち続けられてきた米澤さんには、ひとかたならぬお世話になりました。心からお悔やみ申し上げます。
米澤さんは1945年8月6日、広島の電車の中で被爆。被爆の語りをおこないながら、毎年8月6日の広島では原水爆禁止の先頭に立ってきました。被爆70年の年、広島電鉄の好意により、米澤さんらの乗った被爆電車が運行され、米澤さんに案内をしていただきました。また名前の鐡は戦前共産党員だった父親が、スターリン=鋼鐡の人から取った鐵の志ということも深い印象に残っています。ご冥福をお祈りします。(大久保一彦)
略歴 1934年生まれ。45年8月広島にて爆心から750メートルで原子爆弾被爆。同年母親と妹が死亡。55年第1回原水爆禁止世界大会に構成詩で参加。以降毎年原水爆禁止世界大会に参加。58年立命館大学入学。以降京都で反戦平和の運動を担う。75年頃から、小学校、大学、病院、各種集会などで被爆体験講話をおこなっている。(『ぼくは満員電車で原爆を浴びた ―11歳の少年が生きぬいたヒロシマ』より)
7面
優生保護法問題の全面解決をめざす10・25全国集会
国は謝罪と補償をせよ
木々繁
列島をコロナ禍と厳しい寒波が覆う中、何重もの困難をのりこえ、全国から強制不妊・中絶手術の原告の方々と弁護団、支援団体が首都に総結集し、ユーチューブの視聴者を含む約2600人の参加者が国会、内閣に対して優生保護法問題の政治による全面解決を求める歴史的たたかいに立ち上がった。
原告のたたかいの足跡
この日を迎えるまでには、原告の方々の血のにじむような長い苦闘の道のりがあった。
約1万6千人とされる強制不妊手術の被害者(半数が女性)で1997年に最初に声を上げた飯塚淳子さん(仮名)が、そしてそれを継いで2018年全国で最初に提訴した佐藤由美さん(仮名)が国賠訴訟運動の血路を切り開きながら、しかし、その後のお二人を含む計25名の原告は計7地裁で「除斥期間」適用という理不尽によって連続敗訴の苦難に心身を削られながら、しかし決して諦めず闘ってこられた。
本年2月大阪・3月東京の両高裁における国賠命令判決は、これら原告の国家権力との不屈のたたかいがついに闘い取った、勝利に向かっての血みどろの橋頭堡であった。
こうした流れの中で5月10日、原告、弁護団、障がい者団体、など6人の共同代表による「優生保護法問題の全面解決をめざす全国連絡会」が発足、「10・25全国集会」が呼びかけられた。
他方、国連の障害者権利委員会が8月下旬、スイスで「障害者権利条約」(2006年国連で採択、日本は14年に批准)について、日本政府代表団と対面し日本の取り組みを審査、9月9日、政府への勧告を提示した。旧優生保護法下で不妊手術を強制された被害者への謝罪、申請期間を制限しない救済法などを求める勧告がなされた。
「優生保護法問題」をめぐる情勢は大きく動き始めたのである。そのなかで、新たに、西スミ子さんをはじめ1都2県6人の被害者が9月26日、全国3地裁に一斉提訴。原告は計31人(うち5人が死去)となり、互いに緊密に連携しつつ、「10・25全国集会」に立ち上がっていった。
こうして、「優生保護法問題の全面解決」の機運は、原告の方々の長年の苦闘によって大きくたぐり寄せられた。その現実的勝利への転化は、今や原告の高齢化による「待ったなし」の要請であるとともに、私たち労働者階級人民に課せられた責務となったのだ。
原告の自己解放的闘いは「全面解決」への突破口開いた
集会は11時半、垂れ込める曇天と寒気を振り払う「全面解決」への強固な意思が会場を包むなかで始まった。
優生保護法被害弁護団共同代表の西村武彦さんが開会の挨拶、つづいて、優生保護法問題の全面解決をめざす全国連絡会が紹介された。
全国各地の原告の叫びと訴え、メッセージ
(*参加形態を問わず、発言と原告について以下記す)
「国は私たちの幸せも不幸もすべて奪った」、「夫が手術され、子どもができないことがショックだった。毎日毎日泣いていました。亡くなった夫の遺志を継いでたたかいます」、「身体と人生を返してほしい」、「お金じゃないんだ、国に謝ってほしいだけなんだ。国は私たち被害者一人ひとりに謝ってほしい」、「このままでは、死んでも死にきれない。国に謝罪を求める」、「心身はもう限界です。私たちに残された時間は少ない」、「無念の思いで生きたくありません。国が悪かったと謝るまで諦めず、残りの人生を闘っていきます。」
▼札幌地裁:小島喜久夫さん(診断なく「精神疾患」を理由に不妊。初の顔・名前公表の提訴)/道央の夫妻(妻が知的障害を理由に中絶・不妊。夫は昨年死去)
▼仙台地裁:第1次提訴―佐藤由美さん(仮名。知的障害)の義姉・佐藤路子さん(仮名)がかわって発言。
第2次提訴―飯塚淳子さん(仮名。知的障害)
第3次提訴―東二郎さん(仮名、顔公表。知的障害)/男性原告のDさん(知的障害)は死去。
千葉利二さん(統合失調症と知的障害をもつ男性。本年9月実名公表し提訴)/知的障害の2人(本年9月提訴)
▼東京地裁:北三郎さん(仮名、顔公表。少年時「不良」の理由で)
西スミ子さん(脳性まひ者、子宮摘出。顔と名を公表し本年9月提訴)
▼静岡地裁:宮川さん(本庁。聴覚障害)、武藤千重子さん(浜松支部。視覚障害者として初提訴)
▼名古屋地裁:聴覚障害の夫妻(本年9月提訴)
▼大阪地裁:第1次提訴―空ひばりさん(仮名。知的障害)
第2次提訴―野村花子・太朗夫妻(仮名。聴覚障害)
第3次提訴―加山まい・とおる夫妻(聴覚障害)
▼神戸地裁:高尾辰夫・奈美恵夫妻(仮名。辰夫さんは聴覚障害者として初提訴、一昨年死去)、小林喜美子・寶二夫妻(聴覚障害。喜美子さんは昨年死去)、鈴木由美さん(脳性まひ。子宮摘出)
▼福岡地裁:朝倉典子さん夫妻(仮名。聴覚障害。夫の彰さんは死去)
▼熊本地裁:渡辺数美さん(幼少期の変形関節症と血尿を理由に強制不妊。提訴時に顔と実名公表)
川中ミキさん(仮名。第1子に障害があったことを理由に強制不妊・中絶)
▼片方司さん(旧法の母体保護法への改定後の2000年代に強制不妊手術)
▼森敏之さん(京都新聞社/滋賀県優生保護法被害者情報公開請求訴訟原告)
●連帯のあいさつに、浅野史郎(元宮城県知事)、尾辻かな子(一般社団法人LGBT情報センター代表理事)、雨宮処凛(作家)の各氏が立ち、議連を代表して福島瑞穂参院議員が来賓あいさつをおこなった。
●特別シンポジウム「優生保護法問題の全面解決にむけて」
藤井克徳さん(優生連)がコーディネーターとして、「全面解決にとってもっとも大事な問題は何か」など5点にわたって、4人のシンポジスト、新里宏二さん(優生保護法被害全国弁護団共同代表)、松浦恭子さん(優生保護法被害弁護団)、利光恵子さん(立命館大学客員研究員、生命倫理学)、藤原久美子さん(優生連、DPI女性障害者ネットワーク代表)と応答し、自己決定権奪回の闘いの大切さ、国の謝罪・補償の不可欠性、障害者団体と連携した被害実態の調査・検証の重要性などが確認された。
さらに、及川智さん・山本秀樹さん(優生連)が指名され発言。
次いで、優生連事務局次長の池澤美月さんが集会アピールを読み上げ参加者全員の拍手で確認、最後、優生連共同代表の大竹浩司さんの閉会あいさつで集会を終えた。
3時半からデモ行進。日比谷公園〜財務省官邸前〜衆参議員面会所〜国会図書館前のコースを 「旧優生保護法による強制不妊手術 国は謝罪と補償を!」の横断幕を先頭に「国は! 責任とれ!」、「いますぐに! 謝罪せよ!」、「わたしたちも! 生きている!」「同じ社会に! 生きている!」「いのちを分けない! 社会をつくろう!」、「優生保護法解決しよう!」の声を熱く高く首都のど真ん中に響かせた。
「10・25」の歴史的大成功を出発点に、原告の不屈の闘いを分厚く支え、年度内に迫る各地高裁における勝利判決かちとり、優生保護法問題の全面解決に向かって前進しよう。
投稿
兵庫優生保護法被害国賠訴訟(控訴審)の結審を傍聴して
草川けい子
11月15日、大阪高裁で兵庫優生保護法被害国賠訴訟の第1回口頭弁論がひらかれた。傍聴席は満席で、抽選に外れた方々もいた。この日で結審し、次回は判決で来年3月23日、午後3時。
法廷
昨年8月3日、神戸地裁において「棄却する」と不当判決が出された後、大阪高裁に控訴したのであり、最初に弁護側から神戸地裁の不当判決に対して「極めて非人道的である」とし、「適切な判断を求める」と訴えた。
被害者の小林寶二さん(聴覚障害者、90歳)、鈴木由美さん(脳性まひ)、高尾辰夫さん(聴覚障害者、2020年11月死去)の代理人の吉山裕弁護士が「被害者の苦しみを知ってほしい、正しい判断を出してほしい」と述べた。
最後に弁護団長の藤原精吾弁護士が「裁判の制度は社会に正義を実現するために設けられているのである。もう一度何が正義なのかを考える必要がある」と訴えた。
45分ほど控訴人からの意見陳述がおこなわれたが、国からの陳述はなかった。
報告集会
その後、場所を近くの会場に移して、〈優生保護法による被害者とともに歩む兵庫の会〉の司会で、報告集会がおこなわれた。
最初に弁護団長の藤原精吾弁護士が、優生保護法の全面解決をめざす10・25全国集会が東京・日比谷野音でおこなわれたことを報告し、大阪地裁9・22判決は逆戻りだと怒りを込めて弾劾。今日を新たなスタートにしようと訴えた。
小林寶二さん、鈴木由美さん、相原健吾弁護士が発言し、連帯の挨拶は、優生連共同代表・藤原久美子さん、大阪弁護士会の辻川圭乃さん、大阪聴力協会の副会長・磯野孝さん、愛知県聴覚障害者協会の方などが発言した。
8面
長期・読み切り連載 大庭伸介
先人たちの闘いの成功と失敗を学び現在に生かそう
怒涛の如き労働者の進撃
悔やまれる〈革命の逸機〉A
食糧獲得闘争の爆発的高揚と全国に広がる労働者の生産管理
長い間の戦争で田畑が荒廃する一方、復員兵や旧植民地からの引揚者で人口が一気に急増し、食糧は完全に底をついた。都市部では食糧の配給が1日1人1000カロリーに過ぎず、しかも平均5日も遅配が続いた。
田舎に生まれ育った私も、農家ではなかったので、1日3食イモばかりで、ヘタやツルまで食べたので手のひらが暗紫色になった記憶がある。
食糧獲得の大衆行動が、全国各地で激発した。敗戦の翌年1946年4月22日、「飯を食わせろ!」という民衆の怒りの前に、天皇から推挙された最後の首相幣原喜重郎内閣が総辞職に追い込まれた。女性が参政権を得た戦後初の総選挙が実施され、自由党が第1党になった。しかし農林大臣を引き受ける者がいなくて1カ月も組閣できず、政治的空白が続いた。
5月12日、東京世田谷区民のデモが赤旗をかかげて宮城内に突入し、天皇家の台所を暴いて世間を驚かした。
5月20日、最高司令官マッカーサーが声明を発し、食糧獲得を求める大衆行動を暴民デモと非難した。24日には天皇がラジオ放送で「乏しきを分かち、苦しみを共にする覚悟」を訴え、切り崩しをはかった。だが、食糧獲得をめざす大衆行動は6月に入っても燃え上がった。しかし、占領軍が備蓄していた食糧を大量に放出するに及んで、ようやく下火に向かった。
一方、労働者は自分たちの工場にある資材を使って、鍋や釜などの生活用品を自主生産した。2月1日、内務・厚生・商工・司法の4大臣が生産管理を違法とする共同声明を発した。生産管理を放置したら資本主義の秩序が崩壊すると恐怖し、弾圧を示唆したのだ。
共産党と総同盟(日本労働組合総同盟 社会党系労組の全国組織)は、厚生大臣に声明の撤回を申し入れた。職場では依然として生産管理がおこなわれて、5〜6月にはピークに達した。
GHQが介入した結果、厚生大臣と共産党・総同盟が「ストライキよりも生産管理の方が日本経済の復興に役立つ」という趣旨の共同声明を発し、妥協がはかられた。これ以降、生産管理闘争は下降線をたどることになる。
日本共産党こそ革命を裏切った犯罪者である
生産管理は深刻な生活苦の中で自然発生的に生まれた争議戦術であった。だが、これを発展させて工場に解放区を築き、それを基盤に労働者が国家権力を奪取する可能性を秘めていた。しかし残念なことに、共産党はそのような思想も戦略も持ち合わせていなかったのである。
敗戦によって、経営者、政府当局者がなかば喪心状態にあり、支配体制が大きく揺らぎ、1カ月以上も政治的空白が続くなかで、街頭では食糧獲得闘争が爆発的に高揚し、職場では労働者の自主的な生産管理が全国的に展開された。それにもかかわらず〈革命〉には至らなかった。
150年余の近代日本の歴史上唯一、革命的情勢が到来した絶好のチャンスが、みすみす見送られてしまったのである。
その頃、現場のリーダーはほとんど若き共産党員であった。彼らは文字どおり寝食を忘れて活動した。
それから半世紀以上も過ぎて、私は彼らに「その頃、本気で革命をやる気だったんですか」と尋ねた。彼らは異口同音に「社会全体が混沌としているなかで、ひたすら党を信じてガムシャラに活動していたにすぎなかった」と答えている。
共産党こそ革命を裏切った階級闘争の犯罪者である。現在に至るまで、彼らはそのことを全く反省していない。否、そもそも自らが犯した裏切りに無自覚なのである。
読売新聞従組の書記長から共産党の本部員に転じた増山太助は、私のヒアリングに「日本共産党員は共産党主義者であって共産主義者ではない」と語っている。まさに言い得て妙である。
共産党は革命を裏切った。しかし現場で生き闘う労働者たちは、〈革命の逸機〉にもかかわらず、つぎの新たな闘いに挑んでいくことになる。
(書評)
『コーカサスの金色の雲』
チェチェン民族の強制移住
三船二郎
『民族の問題とペレストロイカ』(1990年 平凡社 高橋清治)を読んでいるとき、チェチェン民族の強制移住問題をテーマにした小説『コーカサスの金色の雲』が大きな反響を呼んだと紹介されていたので、図書館で借りて読んでみた。
著者のプリスターフキンは1931年生まれで、第二次大戦中は妹と孤児院生活を送った。チェチェン民族の強制移住は1944年におこなわれたので、著者が14歳のときの出来事である。1980年、自らの体験をもとに書き上げたこの作品は、ソ連ではタブーとされてきたチェチェン民族の強制移住に触れていたため発表を許されなかった。しかし、原稿はチェチェンやイングーシで回し読まれ、瞬く間に隠れた読者層が広がった。なお、チェチェン人もイングーシ人も名前が違うだけで同一民族である。
イングーシ人の映画監督スラムベク・マミーロフも一晩だけの約束で借りて読み、ショックで眠れず、すぐ映画化を思い立ったという。しかし、同監督はすでにトルストイの小説「ハジ・ムラート」という19世紀にロシアからの独立を求めて民族闘争を指揮したチェチェン人の英雄の物語の映画化にとりかかっていた。周囲と相談したところ「トルストイは古典だから、これからもまだチャンスはあるが、ペレストロイカはいつ中断するかわからない。そうなれば再びチェチェンが悪者扱いされる」としてこの作品の映画化に踏み切った。第一次チェチェン戦争(1994〜96年)では、チェチェンのテレビ局はロシア軍の侵攻によって破壊されたテレビ回線を修理しながらこの映画を放映し続けた。
小説は孤児院にいるサーシカとコーリアという飢餓状態のクジミン兄弟の話から始まる。1944年、5百人の孤児たちはカザンからコーカサスに列車で移送されることになった。列車はウクライナの黒土地帯を通り、コーカサスに近い駅で停車したとき、プラム(すもも)を持つコーリアに格子がはまった貨車から「ヒーッ!ヒーッ!」という「奇妙な声があがり」、「生気がなかった貨車の中身が突然生き返り」「格子の中の子供たちの手や眼や口が次々はりつき、入れ替わり立ち代わりお互いに押しのけあって」いた。その時、武装した兵士が現れ「騒ぐな! チェチェンめ!」と車両を叩くと「死のような静けさが訪れた」。貨車に乗せられていたのは強制移住させられたチェチェン人の子どもたちだったのだ。
主人公のコーリアは飢餓状態の中、山中でチェチェン人の少年アルフズールに助けられる。アルフズールからパンはチェチェン語でベーピク、水はヒーッということを教えられる。貨車に押し込められていたチェチェン人の子どもたちは「水!水!」と叫んでいたのだ。
1944年2月、朝6時に広場に集められたチェチェン人はソ連軍に包囲され、貨車に積み込まれた。その数50万人。4分の3が途中で死亡したといわれる。ドイツに協力するかもしれないというそれだけの理由で、スターリンによって中央アジアに強制移住させられたのだ。スターリン死亡後の1957年、対独協力の容疑は破棄され名誉を回復されたが、チェチェン民族の生活は回復されることはなかった。
ソ連崩壊の時、もっとも激しくソ連解体を闘ったのがチェチェンだった。これを残虐に鎮圧してエリツィンから大統領の座を奪ったのがプーチンである。今、テレビに出てくる親プーチン勢力はチェチェン民族の裏切り者である。
この小説は、チェチェンを含めたコーカサス等の少数民族の中には反ロシアの地下水脈が滔々と流れていることを実感させる。一読を勧めたい。
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