安倍・菅以上のコロナ無策
人命軽視・医療放棄の岸田政権
コロナ感染症第6波の感染爆発が止まらない。連日10万人規模の感染で、医療も検査もおいつかない状況だ。分科会の尾身会長ですら「今後も高止まりか増加」と言うほどで、岸田政権のコロナ対策では第6波の感染爆発を止められない。昨年10月政権成立以降、医療も検査も怠ってきた結果が感染爆発をきたしたのだ。
1月段階では「濃厚接触者」の2週間隔離が言われたが、その後「感染者の自宅待機」が激増し、「みなし陽性(検査をしない)」が広まり、今では自宅での「陽陽介護」すら始まっている。
当初、オミクロン株は弱毒性と言ってきたが、感染者激増にあわせ重症者・中等症患者が増え、医療体制が追いつかず、救急車も入院の手配もできない。その上保健所業務がパンクし、検査も追いつかず、発症者数の実数もつかめない。全国最悪の大阪で吉村洋文知事は、軽症・中等症病床の使用率が103・5%となったため、2月8日、「医療非常事態宣言」を発出した。その上保健所職員の告発によると、大阪市は保健所職員不足(270万都市に1カ所、40人+応援が40人)で、検査が追いつかないばかりか、感染者の基礎的データの入力の遅れが万単位となっている。つまり現在発表数をはるかに上回る感染者が発生しているということだ。
ミャンマー国軍を支援する日本政府を追及(2月1日、東京) |
第6波を軽視
医療・検査・ワクチンで後手後手
それもこれも昨年末にオミクロン株の発生が報告されて以降、「先手、先手」と言いながら、検疫をおざなりにし、沖縄・岩国などの米軍基地からの感染拡大を防止せず、医療・検査部門の充実を放棄した岸田政権の責任に他ならない。ワクチン接種は遅れに遅れ先進国では最低で、いまだに900万人/7・2%(2月8日現在)にすぎない。菅政権でも東京五輪開催のため「1日100万件」を号令したが、岸田政権ではそれも早くて2月下旬と言われている。接種を希望する高齢者間では「(感染が終息するであろう)3月に入ってから」と吐き捨てるような会話がなされている。
感染拡大は保育所・高齢者施設という社会的弱者に集中する。職員が感染すると他の職員に負担となるため、無症状の陽性者は感染拡大の可能性があっても出勤する。こうして子どもの感染が広まり、子どもから家族(父母・祖父母)に広がり、高齢者施設のクラスターで感染者が激増し、高齢者の重症化と死亡がどんどん増える悪循環だ。これに対し岸田政権・厚労省は全く無責任で、各自治体・保健所もお手上げ状態が2月10日の現状だ。
政府と東京・大阪などの自治体との連携もできず、小池や吉村らはテレビ・マスコミ受けばかりを狙い、岸田政権は7月参議院選を前に「緊急事態宣言を出さないこと」が唯一のコロナ対策という始末だ。第6波の感染爆発はこれまで以上に政治の責任が大きく、「コロナ感染は人災」という段階だ。
その上に「敵基地攻撃論」を容認した岸田政権は、高市早苗を先頭とする極右分子の圧力や維新の会の改憲攻撃にもに呼応し、対中国・アジア敵視外交を推進している。佐渡鉱山世界遺産登録問題や、小泉・鳩山元首相らの脱原発の動きに圧力をかけ、ミャンマーではクーデターの国軍を背後で支えている。この一連の動きにさすがに批判が集まり、支持率は低下した。
2月5日 連帯ユニオン議員ネットが総会
弾圧粉砕・維新打倒へ
湯川委員長中心に会員らが記念撮影(2月5日、大阪市内) |
2月5日午後から夜間、大阪市内の学働館・関生4階ホールで、連帯ユニオン議員ネット第17回大会が、自治体議員・元議員・国政候補など15人と、関生支部組合員・一般市民ら50人の結集で勝ち取られた。
連帯ユニオン議員ネットは2005年2月、連帯ユニオンと共闘し、地域住民の生活・労働条件の向上のために結成された。毎年2月に大会を開き、会員の運動経験、情報の交換・交流と社会運動の発展のため連携を強めてきた。
17回大会は司会を副代表の木村真豊中市議が務め、総括的報告を戸田ひさよし前門真市議がおこない、垣沼陽輔連帯ユニオン近畿地本委員長から来賓あいさつがあった。その上で3つの特別決議の提案・採択、湯川裕司関生支部委員長の記念講演、記念撮影、6つの活動報告、軽食懇談会と盛りだくさんの充実した内容だった。特に全体として昨年「躍進」した維新とどう闘うかがほとんどすべての報告者から語られ、さながら維新批判大会となった。
戸田さんはこれまで議員ネットの活動は主に自治体議員の連携が中心だったが、昨年は衆議院選挙で関生弾圧に反対する3人の候補者(大石あきこ=れいわ、大椿ゆうこ=社民、つじ恵=れいわ)を応援し闘い、比例復活ながら初めて国会議員を誕生させた。自公・維新と闘い、連帯労組への弾圧に反対する運動を作っていこうと報告した。
つづいて、馬毛島基地等の軍備拡大と米軍拠点化に反対する決議がコロナ禍で出席がかなわなかった和田かおり・前西之表市議(鹿児島県)の案文が提案され、また反ヘイトクライムの特別決議案が池田幸代駒ケ根市議(長野県)から提案され、さらに「大阪カジノを葬ろう」の特別決議提案がれいわ新選組のやはた愛・参議院大阪選挙区予定候補からなされ、それぞれ採択された。
湯川裕司委員長が講演
第1部の最後に、連帯労組関生支部の委員長に昨年秋に就任した 湯川裕司委員長が特別講演をおこなった。湯川さんは関生支部は50年にわたり産業別労働運動を闘い抜いてきて生コン労働者の生活を守ってきた。2017年にはスト権を確立し闘いぬいたが、これに対し空前の弾圧が襲いかかってきた。現在も厳しい闘いが続いているが、20人の執行委員を先頭に関生支部の今までの在り方を変え、労働運動つぶし=権力弾圧を跳ね返していくと、力強く述べた。
6時間にわたり熱い報告・討論が(2月5日、大阪市内) |
維新との闘い、朝鮮学校・反原発の決議
第2部の活動報告の最初は、昨年衆議院選を兵庫8区(尼崎市)で闘ったつじ恵さん。つじさんは1993年細川内閣の成立、2009年政権交代の意義を踏まえ、民主党の裏切りをのりこえ新たに政権交代を起こさないと、この国は沈没し、人々の生活は破壊されてしまう。今夏参議院選と次の衆議院選が勝負だと、参議院選にかける熱い思いを語った。
ついで30歳代前半のやはた愛さんは、2011年福島第一原発事故で目覚め、大阪都構想と闘うなかで議員になる決意をしたと報告。いま松井大阪市長・吉村大阪府知事が進めているカジノ計画に反対し、維新の暴走を止めようとアピールした。
3つ目の報告は社民党大阪府連代表の長崎由美子さん。「朝鮮学校差別から見える日本の民主主義のゆがみ」が報告された。特に大阪の橋下知事(当時)は、朝鮮学校を訪れ理解があるかのようなポーズをとりながら、同じ保守でも愛知の大村知事はしていない補助金カットをおこない、子どもの教育権を奪ったと弾劾し、「日本政府と地方自治体による朝鮮学校差別を許さずともに闘う決議」を提案し採択された。
次いで「危険な老朽原発再稼働に反対する決議」が、コロナ禍で出席できなかったけしば誠一・東京杉並区議(反原発自治体議員市民連盟事務局次長)に代わり、反原発自治体議員市民連盟・関西ブロックの高木りゅうた高槻市議から提案され採択された。
闘いの報告として中西とも子箕面市議は、病院・保育所など公共施設・公共事業の統廃合や、観光振興として坂道の多い箕面駅前を大型観光バスが使えるように改造し、住宅街に渋滞が起こっていると、維新市政の弊害・生活破壊を具体的に暴露した。
また大阪9区(茨木市、池田市、箕面市、豊能郡)で昨年の衆議院選を闘い抜いた大椿ゆうこさんは、維新の暴言男=足立康史のデマと暴言の数々が事実に基づかず、最後は関生と関係があるという情報操作であると暴露し、こんなものに負けるわけにはいかないと訴えた。
別の用で参加できなかった、よつや薫・西宮市議からは3月27日に迫った西宮市長選で維新候補に負けるわけにはいかないとの詳しい報告や、出席した山下けいき茨木市議らのレポート、欠席の北上あきひと兵庫県議(猪名川町、川西市、無所属)、松平要東大阪市議(新社会党)などのメッセージも配布された。
つづいて第3部の軽食交流会では、生コン支部の行政コンプライアンスの報告や、ゼネラル支部からの報告があった。またそれぞれ席の近いところで意見交換や、維新粉砕をいかにして進めるかが、大学生や若い世代も参加して盛り上がり、予定時間をオーバーして遅くまで続けられた。
連帯ユニオン関生支部が裁判において無罪判決をとり始め「反転攻勢」が強まるなか、連帯ユニオン議員ネットワークもこれと連携し闘う決意を固め、また維新との闘いの先頭に立つことを実感させる充実した大会であった。
2面
皇統教育を唱える維新候補
西宮に維新市長は要らない
3月27日投開票の西宮市長選に対し、候補者擁立を発表した日本維新の会・馬場信幸共同代表は、1月兵庫維新塾で西宮市長選を「兵庫攻略の第一歩」と宣言した。昨年総選挙で「躍進」した維新は兵庫では比例復活8を入れて9議席、得票数は自民党を上回る79万票を獲得した。しかし昨年7月知事選で自民党との共同候補で勝利したものの、いまだ単独推薦の首長を持たず、「ふわーとした支持層」でしかない兵庫県内の支持者を、大阪型の首長=第一会派市議団に直結した鉄板型の支持基盤にするために、3月西宮市、10月川西市、11月尼崎市長選と続く最初の勝負を西宮にかけてきたのである。
野党と市民の共闘で勝利の宝塚市長選(21年4月) |
選挙を通じての独裁
菅直人元首相からそのデマゴーグぶりを「ヒットラー」になぞらえられた維新創業者の橋下徹は、選挙戦での勝利を全面信任とみなし、「文句があれば次の選挙で落とせばいい」「その間は独裁」と常々宣言してきた。タレント弁護士時代に「2万%出馬はない」と言いながら二重行政・公務員批判で大阪府知事になったが、石原慎太郎らとの離合集散を繰り返し、大阪都構想住民投票に敗北し大阪市長辞任に追い込まれた。その「敗北の総括」をかけて評論家に転身し、テレビでは「公人でない」ことを盾に責任を取らず、維新賛美をくり返している。
維新の会は、自民党のように動揺する新自由主義ではなく、ブレない新自由主義とノルマ強制の組織選挙で21年総選挙で議席回復した。選挙戦は徹底したノルマ・ドブ板選挙で大阪府下239人の自治体議員を酷使し、不平分子はいつでも取り換えられる「コンビニ店長」で成り立ってきた。またそれが雇うアルバイトは選挙違反をくり返し、維新の不祥事を次々更新している。「躍進」とはいえ全国展開には程遠く、関西制圧の突破口として大阪に隣接する兵庫県東部の首長取を位置づけたのである。
最低・最悪の大阪コロナ対策
維新とその支持者は「身を切る改革」の成功モデルとして大阪をあげるが、この10数年大阪の地盤沈下が止まったわけではない。「二重行政」と称して府と市の医療・検査・福祉部門を次々削減していった結果、コロナ禍では第5波で全国一の死者数となった。第6波でも沖縄のように米軍という感染源もないのに、人口比の感染者数では全国一。広大な敷地を持ち「野戦病院」型のコロナ専門病院が可能だった大阪市の住吉市民病院を橋下時代に売却し、保健所は270万都市大阪市に1カ所しかない。不必要な雨合羽を集めたり(松井市長)、イソジンが効くと記者会見(吉村府知事)、現場の声を聴くより職務放棄と言われるほどテレビ出まくりで、最後は国に責任を転嫁する無責任ぶり。これが維新の正体なのだ。
維新落選しろ(21年4月、宝塚) |
皇統教育を唱える
3月西宮市長選に出馬予定の維新候補の政策は、すべて大阪維新の丸写しでしかない。行政の効率アップや公共施設の統廃合や民間企業との交流を言うが、大阪で起こっていることは区役所窓口を民営化し、それを竹中平蔵の率いるパソナが低価格で落札し、そこの職員は低賃金で、不正が発生している。教育の無償化と言うが、公立の衰退(一部は超エリート校化)と、制服や修学旅行費用などは旧来のままで、かえって子どもの間に格差・選別を生んでいる。松井市長下での教育介入はさらに続き、組合弾圧の上に学校管理が朝令暮改で、学校の正常な運営に支障をきたし、校長・管理職クラスの反乱も底流にあり、児童、保護者に負担をかけている。
これを知ってか知らずか、西宮市長選の維新予定候補は「給食費の段階的無償化」「塾・習い事に使える1万円のクーポン券」「夏休みを25日に短縮」と小手先の「改革」を並べるが、結局弱い者を切り捨てる新自由主義=弱肉強食型の大阪の教育が良くなったわけではない。
そのうえで聞きなれない「皇統を正しく学ぶ」教育を提唱する。皇統とは言うまでもなく 「天皇の系統」に他ならない。主権在民の現代社会において、天皇の系統を学ぶことが教育力UPという感性・思想は、「高市的国家観」以上の極右でしかなく、戦前型の修身教育・皇民化教育思想の持主であることを暴露している。一見子どもの教育環境を改善するかの装いをとりながら、歴史を80年も100年も昔に戻す、これが維新の考えていることなのだ。
維新市長は不要
これ以外にも維新候補は、西宮市の人口が減っている、子育て環境が良くない、財政にゆとりがないなどと言って、大阪維新型の医療・福祉の破壊、芸術・文化振興の否定、教育格差の拡大、公共施設の統廃合、高齢者福祉の削減などを実行しようとしている。大阪での維新の政策の破綻がコロナ失策で露呈し始めている中、大阪型の行政施策は西宮には要らない。また皇統教育など、差別・排外主義・ヘイト体質の維新の衣の下の鎧が見えるもので(かつて橋下徹の友人の中原大阪府教育長は、教職員の「君が代」斉唱口元チェックをした)、絶対に認めるわけにはいかない。
維新の市長・議員は、丸山穂高のような暴言議員、市長室にサウナ持ち込みの大阪府池田市長をはじめ、公費不正使用などスキャンダルには枚挙にいとまがない。「改革の名で市民生活を破壊する市長は要らない」の声を大きくしていこう。
3月12日に開かれる「西宮に維新市長は要らない」講演会(西宮勤労会館)に集まり、「維新市長は要らない」の大ムーブメントを起こしていこう。
3面
原発事故から11年 福島の現状
3・11事故反省せず原発推進
福島第一原発事故がおきてから、この3月11日で11年目をむかえる。帰還困難区域のなかにつくられた「復興拠点」では、住民を早期に帰還させる動きもはじまっている。3・11以降の反原発運動を闘っていくうえで、フクシマの現実から身を避けてはならない。原発事故の現状について、以下4点について報告する。
ボロボロに破壊しつくされた福島第一原発3号機(2021年撮影、東電ホールディングHPより) |
(1)福島第一原発の廃炉作業
事故をおこした4基の原発では、「福島第一原発1〜4号機の廃止措置等に向けた中長期ロードマップ」にそって廃炉作業がおこなわれている。事故から10年目で、やっと2〜4号機の使用済み燃料棒を取り出した。現在、1号機の使用済み燃料棒を取り出すための準備作業がはじまっている。
この第一原発敷地内で、平日には約4千人の労働者が作業をしている。最近、被ばく事故が多発している。1月6日には、雨水タンクカバーを修理していた作業員1人が内部被ばくする事故がおきた。これらは作業員の経験不足によるものではなく、工事企業のずさんな安全確認によっておきている。被ばく作業が続いていくなかで、作業員が安全に働ける環境にはなっていない。労働者が被ばくを強要されているのだ。
廃炉にするためには、約130万立米の汚染水を処分し、熔け落ちた燃料デブリ(約880トン)を回収しなければならない。いずれも放射性廃棄物による被ばくが廃炉作業を困難にしている。燃料デブリの状況は、今日においてもわかっていない。
昨年9月に、原子炉格納容器の真上にあるふた(シールドプラグ)の内側が1・2シーベルト/時という高濃度に汚染していることがわかった。熔けたセシウムなどが格納容器内に飛び散っているのだろう。ここでも廃炉工程の見直しが不可避になっている。
小出裕章さんは「燃料デブリを取り出すことはできない。廃炉にすることは不可能で、チェルノブイリ原発と同じように石棺にするしかない」と言っている。おそらく、小出さんの指摘が正しい。
汚染水の処理について、政府はもっとも安易な方法を選択し、昨年の4月13日に「海洋放出」する方針を発表した。この方針たいして、すべての漁業関係者は猛反対をしている。しかし、政府の方針を受け、東京電力は海底トンネルを掘って、沖合1キロメートルに海洋放出する計画を発表し(8月25日)、原子力規制委の承認なしに11月27日から海底調査をはじめた。東京電力と政府による「海洋放出」を許してはならない。
(2)小児甲状腺がんと健康被害
事故当時18歳以下だった約38万人について、福島県民健康調査がおこなわれている。昨年10月15日の報告では、266人(がん登録などで把握された集計外の患者をあわせると少なくとも293人)が甲状腺がんやその疑い例として診断されている。しかし、検討委員会は原発事故との因果関係について「現時点で因果関係は認められない」としている。
「治療の必要がないがんまで見つけてしまう〈過剰診断〉がおきている」から、「調査を縮小するべきだ」という意見が委員のなかに根強くある。昨年3月に、国連科学委員会(UNSCEAR)は「甲状腺がんは被ばく問題とは考えにくい」との報告書をだした。これを根拠に、政府は「調査をやめたい」と思っているのだ。
今年1月27日、福島に住んでいる男女6人が、「甲状腺がんの発症は原発事故による被ばくが原因だ」として、東京電力に損害賠償をもとめる裁判をおこした。原告の女性(26)は、「声をあげられない他の患者のためにも、因果関係を明らかにしたい」と語っている。当事者による集団訴訟ははじめてのことだ。原発事故による因果関係があるかどうか、これがこの裁判で争われる。
昨年10月22日、反原発集会で発言してきた飯舘村の長谷川健一さん(68)が甲状腺がんで亡くなった。原発事故から10年以上がたち、福島県内では胃がんなどで亡くなる人が多発している。疫学的調査が必要なのだ。政府は「原発事故による健康被害はおきていない」として、原発事故を消し去ろうとしている。「地域健康法にもとづき、実態調査をせよ」と、政府にたいして声をあげていくことが重要だ。
(3)避難者をめぐる状況
昨年11月2日、福島原発刑事裁判の控訴審が東京高裁ではじまった。2月9日に、第2回公判がひらかれる。ここで、原発敷地などの現場検証と、3人の専門家の証人尋問について、裁判長が採否の判断を示す事になっており、今後の裁判の行方を決定づける重要な局面にきている。
東京地裁判決(19年9月)では、3人全員を無罪にした。その理由として、地震調査推進本部(以下、推本)が示した地震予測「長期評価」(02年7月)は信頼できないとしている。しかし、この10年間の過去の地震調査研究などの実証研究によって、学問的にも「長期評価」の信頼性は高まっている。控訴審が重要になっている。
いっぽう、避難者集団訴訟は全国で約30件争われており、原告は総計で1万2千人以上に及んでいる。昨年7月30日、浪江・津島原発訴訟(住民640人)の判決は、国と東京電力の責任を認めた。判決は、推本が示した「長期評価」にもとづき、国は同年までに敷地高を超える津波を予見できたし、06年には第一原発の脆弱性を認識できた、と述べている。この判決で、裁判長は「長期評価」が正しかったことを認めている。昨年9月23日、原発賠償愛媛訴訟の控訴審判決(高松高裁)でも、国と東電の責任を認めた。現在までに、国と東電を相手どった原発集団訴訟は21件(17地裁、4高裁)で判断が出されており、12件で国の責任を認めている。
避難指示が解除された地域への帰還率は30パーセント程度で、住民はほとんど戻っていない。そのうえ、この地域についても、政府は原発事故避難者にたいする医療や介護の保険料を免除する特例措置を2023年度にも縮小する方針を検討している。
区域外避難者(自主避難者)は、避難生活が10年以上にもおよび、ますます困難を強いられている。国や福島県は、避難者を住みなれた公営住宅から追い出そうとしている。こうして、避難者は裁判に訴えられたり、2倍の家賃を請求されたりしているのだ。
また、森松明希子さんは、憲法に保障された基本的人権のひとつとして「避難の権利」を主張し、原発賠償関西訴訟をたたかっている。原爆や原発、そして被ばく労働にたいして、われわれは「被ばくをしない」「被ばくを拒否できる権利」を確立していく必要があるのだ。さまざまな闘いをとおして、この権利を勝ち取っていこう。
(4)イノベーション・コースト構想
政府は、「放射能汚染は少なく、住んでも安全」というキャンペーンをおこない、住民を帰還させようとしている。いっぽうで、政府は「イノベーション・コースト構想」を打ち出し、莫大な国家資金を使って新住民を福島によび寄せようとしている。ここで「福島の産業を回復するための国家プロジェクト」とうたっているように、この「構想」は金と夢をばらまいて企業を誘致しようとするものなのだ。そこでは「ロボット、エネルギー、廃炉技術、農林水産の分野で、新技術の開発や人材育成をおこなう」と言っている。
見逃してはならないのは、原発事故をなかったことにするために、福島を水素エネルギーや再生可能エネルギーなどの新技術開発の拠点にしていることだ。これは官僚が頭のなかで描いた「構想」にすぎない。こんな未来構想にだまされてはいけない。
福島住民の未来は、こんな「イノベーション・コースト構想」にあるのではなく、福島原発事故を教訓にして、この日本から原発をなくすことにある。政府は、3・11原発事故を反省することなく、今日でも原発を推進している。そのために、岸田政権は40年超え原発の再稼働をおこない、小型モジュール炉や高速炉の開発を促進している。この岸田政権に怒りをもってたちむかい、われわれは原発のない、人びとが自然とともに豊かに暮らしていける社会をつくっていこう。
4面
(寄稿)
寄稿 兵庫優生保護法被害国賠訴訟の判決に思う(下)
国が「あってはならない存在」と言い放つ
脳性まひ者の生活と健康を考える会 古井正代
8月3日の判決に怒りの記者会見の原告たち(神戸市内) |
なのに鈴木由美さんに除斥期間がどうして適用されたのか? 不思議でなりません! 社会から30年間も隔離を余儀なくされ、障害を持っている自分が悪いと思わされ、病歴も無い子宮を摘出されても何をされたかも知らされない状況が長く続いていたのです。彼女のような惨い環境でなくても、私達脳性マヒ者は脳の一部の組織が死んでいるので、その後遺症としてほとんどの仲間は、顔、言語手足、全身に渡って残っています。健全者からははるか遠い存在として、隔離教育の中でも常に人格を否定されて育ってきたのです。優生保護法が放った優生思想は広く深く蔓延し、今現在も私達を取り巻いている状況はなにも変わりありません。親になる人は私の仲間は産みたくなく、余裕をもって育てられる環境もなく、出生前診断で障害を持っている可能性があると診断されると殆どが殺してしまうのが現実です。だからこそ、いまだに多くの仲間は一般の社会に出ていけていません。
文化でもある手話を禁止されていた仲間
旧優生保護法の前、戦前には国民優生法がありました。すべての女性に兵士になる子どもを産み育てることが求められていた社会でした。そんな時代に生まれた、現在80歳代後半の聴覚障害のある小林さんご夫婦の意見陳述です。
原告の方たちが生まれた時代には、国策として手話を認めていなかったのです。だから、親と手話で話すことはなく、当然手話通訳もなく、誰とも共感することもなく、孤独な寂しいだけの幼少期だったそうです。
男の方にはご兄弟の内、何人か聴覚障害の方がおられ、親は聴覚障害の子どもには一度も笑ったりしたことはなく、いつも殴ったり、つねったり、叩いたり、親は子どもには笑わないものだと思っていたそうです。
しかし、障害のない兄弟には笑って楽しそうにしていたので、いつも辛くて寂しくて悲しかった思い出しかなかったそうです。こうした分断によって家庭内でさえも、どれだけ深く傷ついて育ったことか。聾学校に行けば、授業は一般のスピードで普通に教師は喋って、その口の動きから言葉を読み取らなければなりません。しかし、生まれてから音や声を聞いたことのない原告には、想像すらできません。その上、手話はいっさい禁止されて、何も解らない状態で、全ての授業が終わっていったそうです。
聾学校の中でも、友達どうしで手話をしているのが見つかろうものなら、教師からひどく叩かれたり、食事をもらえなかったりしたそうです。手話で友達と話すのも隠れまわらなければならなかったと手話で話されていました。聾学校の校長自身が「子孫を増やさないように」と親たちに言っていたそうです。
これらの事から、国、社会、教師、親から文化(手話)・人権・子孫さえも拒否された「聴覚障害者としての人生」が見えます。
社会に出て仕事に行けば、仕事の内容を理解しているかの確認もなく、説明もないので、見よう見真似で仕事を覚えるしかなかったそうです。人並み以上に努力して他の人より仕事ができるようになっても、給料には凄く健全者との差があって当たり前だった。自分の方が多く仕事ができるので、おかしいと言ってもとりあってもらえなかったり、置いてやっているのに、ありがたいと思わないなら辞めろと言われ、意見を言っても仕方がない、言えば言う程悪いようになる、「意見は言わない方が良い」と、この時改めて思ったと意見陳述されていました。
子どもの頃から、「要らない存在」として育ち、何か主張をするとかえって酷い仕打ちを受け、まともにとりあってもらった経験がないまま、人生を長く過ごされてきたのです。
疎外感と絶望と諦めしかない、誰からも大事にされたことがない聴覚障害のご夫婦が、長年おふたりがおふたりだけで泣き寝入りしていたことと同じ思いをした人が、仙台で原告となって裁判をしているのを知って、初めて国が作った優生保護法という法律があったことを知ることになったのです。その法を知ることによって、何も知ることのないまま半世紀以上、自分達にどうして第二子が出来ないのかの疑問や悲しみ、苦しみの謎が解けていったのです。
凄く楽しみにしていた、第一子の我が子を知らない間に堕胎させられ、そのうえ不妊手術まで闇の内にされていました。このように何もかも知らない間に無理やりされてしまうような、人権も何もないような社会のまま時が過ぎて行ったのも、優生保護法が蔓延した結果なのです。 優生保護法国賠訴訟の裁判に兵庫県で初めて原告になられ、残念ながら判決まで生き抜くことが出来なかった聴覚障害の80歳代のご夫妻の男の方の心の底から叫びです。今までの長い人生何かある度にずっと使ってきた手話のサインがあり、それは、肩から斜めに手を振り下ろす手話で、その語源は「切り捨て御免」なのだそうです。「自分たちの立場、人生そのものだ」と、そして手話になると「仕方がない」となり、いつも「仕方がない」「仕方がない」と諦めさせられることが多かったと語っておられた表情が悔しそうでした。彼もまた、結婚する前に親が一切説明せず病院に連れて行って避妊手術をさせられていたのです。
長年のあいだ放置されてきた自分たちの苦しみの元凶もわかって「言ってもいいんだ」とやっとこの度、原告になられた皆さんが重い口を開いて強制不妊手術の被害者として訴えられたのです。
子どもの時代の暴力・虐待がどうして起こったのか、どのようにして、何が根拠にあって幼少期、成長期の大事な時期の人権が奪われたのか。その結果、自分の「意見を出せなくなるほどの境遇」を強要させられてきたのか。
今も優生保護法が発信され続けています
国民優生法・旧優生保護法が親や人々、私達の深いところに植え付けてきた優生思想は今日まで連綿と続いてきて、その浸透の深さは80年以上たっても衰えるどころではありません。暴力や虐待が社会正義の名のもとに現在もおこなわれていることの罪深さと被害者の傷の大きさ・深さとを考えるとき、時効などあるはずもないのです。私達障害者は今も「あってはならない」存在のまま、母体血検査によって仲間たちの血は現在も、前にもまして多く流され続けているのですから。
繰り返しますが、一審の判決では20年の除斥期間を理由に、このような原告の心の底からの訴えをいとも簡単に退けたのです。機械的な除斥の判断だけで、今も続く優生思想の闇には全く触れない判決文は、今後も私たち障害者を「あってはならない」存在とみなし続けるという公の弁明にしか聞こえず、絶対に許せません。(おわり)
5面
重信房子さんから新年メッセージ
生ある限り世の中の変革を
あの「9・11」を画期として21世紀は「反テロ」の名による侵略戦争が常態化し、「民主主義」の名によって、イラクからアフガニスタンに至るまで、中東はズタズタに破壊されてきました。今もその残骸に苦しめられているのは無辜の人々です。21世紀は「戦争と難民の世紀」と化し、加えて「コロナ禍」に示された新たな挑戦を受け続けています。それなのに、人間社会の「99%」ではなく、「1%」の人びとが護られる世界が続き、格差は縮まるどころか拡大し、差別を肯定する強権的な政権が広がっています。
日本もまた、その間、憲法は骨抜きにされ、「集団的自衛権」は、既に様々な理由で自明のように機能し、防衛費増額、「敵地攻撃能力」が当然のように語られています。
その一方、計画が既に破産している「辺野古移転」が強権的に進められているところに、日本の未来の姿が示されています。日本語を愚弄するような美辞麗句のレトリックで強権が用心深く社会内部に侵入しているように思います。獄から眺める日本社会は、「人権」に鈍感な古い体質の一方で、コロナ対応に示されたように即応できず、世界に伍す独占企業への政策優遇や援護に尽くし、福祉から農業に至るまで、それらの独占企業の犠牲を負わしめる社会構造にあることは、はっきりしたと思います。その中で、人びとは平穏と幸せを求めて精一杯正直に生きています。
そんな風に私には映る日本、2022年はどんな年になるでしょう。22年は「沖縄復帰」50年を迎えます。50年前の5月15日、沖縄は「基地のない沖縄」の日本への復帰を求め続けましたが、「基地のない沖縄」どころか、基地を集中させられて、沖縄県民の苦労は続き、昔より露骨な「アメとムチ」の政策に脅かされ続けています。そしてまた、「連合赤軍事件」から50年目の2022年です。「世の中を変革したい」と多くの若者、市民たちが諦めずに反戦平和を求め、野党も政府に肉薄し、革新知事が主要都道府県で住民に選ばれた時代を思い返しています。なぜなら、私が革命を求めていたのは、そんな時代だったからです。連合赤軍事件は、党派政治の否定的姿を曝し、社会変革の希望や意義を逆流させるに余りある過ちと敗北を生み出しました。アラブに居たとはいえ、私もまた、その関係の一角に在ったこと、衝撃と反省と自責の念に突き動かされた一人でした。そしてまた、22年はPFLPの指揮下で闘われたリッダ闘争から50年目に当たります。50年を経ても、よく闘ったと戦士たちへの感慨を新たに2022年を迎えるでしょう。
新年を見はるかせば、様々な感慨が浮かびます。世界は「民主」を求め「人権」を求め「気候正義」を求め、新しい秩序への胎動が感じられます。社会は、「9・11」以降、パレスチナでもアラブでも日本でも悪化し、コロナ禍が胎動を促しているように感じられます。私にとって、50年前の政治的意義―過ちも教訓も振り返る2022年になるでしょう。
私の出所を考える時、一方で岡本同志を始め、かって共に闘った仲間たちに対する「国際手配」は続き、獄生活を強いられたままの友人たちが居ることを忘れることはできません。新しい胎動を望みつつ、私にできることは時間的にも能力的にもほとんどありません。それでも生ある限り、これまで歩んできたように世の中をより良く変えたいという志は持ち続けたいと心に誓っています。世の中も変わり、IT技術の変化、スマホや、ネットと高速化していく社会の中で、人として価値ある生き方を探しながら、まずは心身のリハビリ、学習を通じて、一歩一歩好奇心で楽しみつつ、また生きて行こうと思っています。そこから世界の希望と足元の連帯が生まれるかもしれません。今、皆様の友情、義理、心情に心震わせながら、年を越えた再会を夢見ているところです。良い新年を共に!
獄中20年、5月末に出所する重信房子さんには『未来』を届けています。新年メッセージをお願いすると、多忙もあり『オリーブの樹』から転載をということで、仲介者に纏めてもらったアピールを掲載します。 (本紙編集委員会)
〈投稿〉
『中国共産党100年の歴史決議』を読んでみた(中)
佐藤隆
「V」は、改革開放・社会主義現代化建設についてである。1978年12月、ケ小平を代表とする党は11期3中全会で、「階級闘争をカナメとする」方針を断固として廃止し、党と国家の活動の中心の戦略的転換をなし遂げ、改革開放と社会主義現代化建設の新時期をスタートさせ、新中国成立以来の党の歴史において深遠な意義をもつ転換を実現し、「文化大革命」を根本から否定する政策決定を行い、40余年来、党はこの路線・方針・政策を終始変えることなく堅持している、としている。
1987年13期4中全会以降については、江沢民を代表とする党は、極めて複雑化している国内外の情勢や世界の社会主義の大きな挫折という厳しい試練を前にして、党は中国の特色ある社会主義を守り抜き、社会主義の初級段階における、公有制を主体として多種類の所有制経済をともに発展させるという基本的経済制度と、労働に応じた分配を主体として多様な分配形態が並存する分配制度を確立し、全面的な改革開放の新局面を切り開き、中国の特色ある社会主義を成功裏に21世紀へと推し進めた、対外開放を基本国策として、深?などの経済特区の開設、上海浦東の開発・開放、沿江・沿海・沿辺・沿線地区と内陸部中心都市の対外開放の推進から世界貿易機関(WTO)加盟まで不断に開放を進め、外資誘致から海外展開まで、国際・国内の二つの市場、二つの資源を十分に活用した、とする。そして、1980年代末から90年代の初めにかけて、ソ連が解体し、東欧が激変した、海外の反共・反社会主義の敵対勢力の支援と扇動に加え、国内外情勢のあおりを受けて、1989年の春から夏への変わり目にわが国でゆゆしき政治的風波が起きた(6・4天安門事件のこと)、党と政府は人民に依拠し旗幟鮮明に動乱に反対し、社会主義の国家政権と人民の根本的利益を守り抜いた、と続く。
「W」は、習近平が総書記となった 2012年第18回党大会―第18期1中全会以降、「中国の特色ある社会主義」について、『歴史決議』の半分のスペースを割いてその成果と正当性を述べている。
他方で、「外部環境の変化によって数多くの新たなリスクや試練がもたらされ、国内の改革・発展・安定は長年解決しえなかった、深層部に潜む多くの矛盾や問題と一部新たに生じた矛盾や問題に直面し、一時的なあまい党管理・党内統治で党内の消極腐敗現象が蔓延し、政治生態が悪化し、党と大衆、幹部と大衆の関係が損なわれ、党の創造力、結集力、戦闘力が弱まり、党の治国理政が厳しい試練にさらされている」ことが表明されている。
「(一)党の全面的指導の堅持について」と「(二)全面的な厳しい党内統治について」では、党の集権的な強化が強調されるとともに、「縁故者だけを任用し、異分子を排除し、徒党を組み、派閥をつくる者、密告し、デマを流す者、人心を買収し、不正な票集めをする者、『君にあのポストを』などと約束したり、『あいつが昇格したから次は自分だ』などと前祝いしたりする者、自分のやりたいようにやり、面従腹背する者、上からの統率が効かないほどの勢力を拡大し、中央の方針について妄議する者もある」として、「腐敗は党の長期的政権基盤にとって最大の脅威であり、反腐敗は、負けることが許されない重要な政治闘争であり、何百何千の腐敗分子の機嫌をとれば、14億の人民の怒りを買うことになるため、権力を制度というオリに閉じ込め、規律・法律に基づいて権力を設定・規範化・制約・監督しなければならない」としている。
「(三)経済建設について」「(四)改革開放の全面的深化について」では、改革開放・社会主義現代化の成果を強調するとともに、「一部の地方と部門の速度・規模への一面的追求や粗放型の発展パターンなどの問題に加えて、国際金融危機後、世界経済の伸び悩みが続いた影響で、経済の体制的・構造的な矛盾が長期にわたって蓄積され、発展の不均衡・不調和・持続不可能といった問題が大いに際立っている。党中央は、わが国の経済発展が新常態に入り、高速成長の段階から質の高い発展を目指す段階へと切り替わり、成長速度の変換期・構造調整の陣痛期・過去の刺激策の消化期という三期重複の複雑な情勢に直面しており、従来の発展パターンの継続はもはや困難である」と指摘している。他方、「改革開放にも終わりはないのである。開放は進歩をもたらし、閉鎖は遅れた国になるという意識から、わが国の発展が優位を占め、主導権を握り、未来を切り開くには、経済グローバル化に順応し、わが国の超大規模の市場の優位性を拠り所とし、より積極的かつ能動的な開放戦略を実施しなければならない」として、あくまでも「改革・開放」路線を推進することを謳っている。
「(五)政治建設について」「(六)全面的な法に基づく国家統治について」に続く、「(七)文化建設について」では、「党中央は、ネット世論にしっかりと対応できなければ、長期的執政がありえないと明確に指摘した。党はイデオロギー闘争における主陣地、主戦場、最前線としてのインターネットを高度に重視して、インターネットに対する指導・管理体制を整備し、法に基づいてインターネットの管理・ガバナンスを堅持し、清朗なサイバースペースを築き上げた。」としている。(つづく)
6面
クーデター一周年で集会
私たちは仲間 決して負けない
2月1日尼崎
犠牲者のバラをあしらった横断幕をかかげ追悼の集会とアピールがなされた(2月1日、尼崎) |
2月1日、兵庫県尼崎市内でミャンマー緊急集会が開催された。
最初にミャンマーの現状を知ってもらうために3本のビデオ上映がおこなわれた。いずれもユーチューブで今もみることができる。今回発言したイン・スエさんが登場する「ミャンマー、母国を思い、日本で暮らす人たちの今」、救急隊員に激しく暴行するショッキングな「ミャンマーで続く流血の事態『監視カメラに暴行の瞬間』」、「ミャンマー情勢、命をかけて伝えるジャーナリストたち」である。
ミャンマーではクーデターに抗議する市民を国軍が実弾を使って頭部を狙って弾圧している。国軍によって殺された人たちは1500人を超える。会場では犠牲者に対する追悼曲がフルートとピアノで演奏され、黙とうをささげた。
実名を出し訴える3人のミャンマー人 |
どんな犠牲を払っても勝つ
3人のミャンマー人青年男女が壇上にあがった。3人とも名前も顔も出して訴えることを決断している。最初に発言したイン・スエさんは村に国軍が入ってきておじいさんも90代のおばあさんも住めなくなり森の中に逃げていること、村の男性は首を切られ、子どもたちも殺された。ミャンマーのチョーモートン国連大使は「どんな犠牲を払っても勝つことが必要だ」という。私も同じだ。母親にデモに出ていることを知らせると母親は頑張れと応援してくれた。次の世代に軍人政治を残したくない。
ラインさんは特定技能で北海道の釧路で働き2カ月前に大阪にきた。クーデターによって私たちの将来は破壊された。国軍は選挙で負けたのにクーデターを起こすなんて許せない。ウェインさんは国軍に国際的圧力をかけることを訴えた。
最後に、1988年の民主化闘争のときに歌われた抵抗の歌『カバー・マ・チェブー』を3人が歌った。ネットで簡単に検索できるので聴いてほしい。「私たちは仲間、一緒に戦おう、決して負けないで」という歌詞である。♪我らの血が刻んできた歴史、革命という名の、民主化運動で命を落とした勇者たちよ。殉難者が宿るわが国家、カバー・マ・チェブ。たとえ、どんなに離れていても、いつだって、みんなの心はひとつ、いっしょに戦おう、私たちは仲間、たとえ、どんなに離れていても、いつだって、みんなの心はひとつ、いっしょに戦おう、私たちは仲間、決して負けないで一緒に戦おう♪
日本の問題
在日ミャンマー人の多くが日本の非人間的な入管政策によって不安定な立場を強制されている。国軍を支えているのは日本である。多くの人たちと日本に対する行動を起こしていこう。
留学生としての在留資格だと学校を卒業して就職できなければ帰国するしかない。帰国は即、国軍による弾圧につながる。特定技能の資格で介護施設等で働いても最長5年まで。その後は帰国を強制される。しかし国家資格があれば期間の制限なく働ける在留資格「介護」が認められる。名前も顔も出してミャンマーの現実を訴える。(三船二郎)
ミャンマークーデター1年
日本から「国軍の資金」を断て
官邸前
「国軍を支える最大勢力は日本企業」と、首相官邸前で行動(2月1日) |
2月1日、ミャンマー国軍によるクーデターからちょうど1年が経過した。東京では2月1日の昼間にシンポジウムが開かれ、夜には「#ミャンマー国軍の資金源を断て クーデターから1年 ミャンマー0201ツイッター×官邸前アクション」が取り組まれた。官邸前には60人が集まりアピールに耳を傾けた。「本当はやりたくなかったが、日本政府の姿勢に何の変化もない」「どの省庁へ行っても毎回『考えている』を繰り返すばかり」「外務大臣がキレイごとの談話を発表したが、この1年日本は何をしてきたのか」。手をこまねいている間にも、国軍による虐殺等の被害者や難民は増え続けている。今、国軍を経済的に支えている最大勢力は日本企業なのだ。ひいては我々自身の責任であることをしっかり自覚して臨もうと全体で再確認することとなった。
第42回世直し研 松村徳子さんが講演
戦争と女性〜奈良RRセンターが問いかけるもの
1月24日、第42回世直し研究会が大阪市内でおこなわれた。松村徳子さん(奈良女性史研究会)が、「戦争と女性〜奈良RRセンターが問いかけるもの」というテーマで講演した。
奈良RRセンターとは
本紙の読者で、「奈良RRセンター」の存在を知っている人は少ないのではないだろうか。1945年8月、敗戦直後に、日本政府によって「特殊慰安施設協会(R・A・A)」がつくられたことはよく知られている。連合軍がやってくる状況で、政府は「日本女性の貞操を守る」必要があると考え、「愛国心のある女性」を募集し、連合軍むけの慰安所を設立した。こんな対応をしたのは、占領下の中国で、日本軍が同じことをおこなってきた「経験」があったからだろう。ここで留意しておきたいのは、「貞操を守るべき女性」と「連合軍の性の相手をする女性」を二分しており、政府自身が後者の女性を差別して、支配階級を守るために動員していることだ。
奈良RRセンターは、この延長線上にある。1950年に朝鮮戦争が始まるとともに、米軍は日本の米軍基地周辺に兵士のための休養施設をつくった。戦場に動員された米兵が1週間の休養期間をすごすために、日本にやってきた。こうして、1952年5月に、「Nara Rest and Recuperation Center(奈良RRセンター)」がつくられたのだ。この施設はあくまでも休養のための娯楽施設なのだが、民間業者は米軍相手に金儲けをするために、周辺に歓楽街(カフェ、バー、キャバレー、ギフトショップなど)を建てていった。同時に、全国から「性的サービス」を提供する女性が集められた。その数は2500〜3千人ともいわれている。周辺住民の反対によって、奈良RRセンターは1年4カ月ほど使われただけで、神戸に移転していった。しかし、今日でも米軍基地のある場所とくに沖縄においては、同じような状況になっている。
戦争と性病
松村さんは、講演で「戦争と性病は一体です」と指摘した。戦争によって、多くの人間が傷つき殺されるとともに、生き残った兵士も心が病んでいく。同時に、兵士の性の相手のために、さまざまな女性が戦争に動員されていく。こうして必然的に性病が蔓延するようになる。「戦争が存在する限り、仕方ないもの」として、この事実を容認してしまうことはできない。
いっぽう、奈良RRセンター周辺で、住民たちは差別的な眼で売春婦たちをみている。彼女たちの存在によって社会の風紀が乱されている、住民はこのように考えているのだ。しかし、悪いのは彼女たちの存在ではなく、このような制度が存在することなのだ。
売春婦の存在にたいして、われわれはどのような態度をとればよいのだろうか。松村さんの講演を聞きながら、このことが頭に残った。権力者は彼女たちを差別的にみながら、差別的に動員している。働く者が真に人間的に生きることができる社会を実現するために、彼女たちとともに闘う必要がある。
今日では、奈良RRセンターの存在は、歴史の闇に消し去られようとしている。だからこそ、この歴史を掘り起こし、民衆の歴史として、これを教訓にしていく必要がある。松村さんの講演を聞きながら、このことの重要性を痛感した。(鹿田研三)
7面
憲法闘争の新たな課題
ジェンダーとケアが重要
岡野八代講演会から
1月22日、兵庫県川西市で〈安倍9条改憲NO! 全国市民アクション川西実行委員会〉主催で、岡野八代同志社大学教授のリモート講演があり、百人余りが参加(写真)。
「何のため、誰のための政治か」と題された演題のもと、岡野さんは「ジェンダーとケア労働、と民主主義」について以下のように講演した。
初めに、コロナ禍で明らかになった日本の姿として、日本の行政組織は突発的で臨機応変な対応を得意としていない、それゆえ集権的リーダーシップに期待されるが、それは机上の空論に陥りがちだったと話した。
次にジェンダーとは何か、なぜジェンダー平等が大切かについて、「ジェンダーとは社会的文化的性差と一般的には定義されているが、現在の政治状況のなかで、ジェンダーとは個々人に強い力で強制される政治的性差であると考えたほうがよい」と2013年以来考えてきたとした。戦前の女性の扱いや、現在の女性の貧困・働く環境の悪さ・保育・教育・ケアへの公的支援のなさを見ればよく分かる。個々人の意識の多くは政治が決定している構造=ジェンダー構造によって決定されている。その政治性をあたかも自然のようにみせるのがジェンダー規範である、とした。
続いてケアと民主主義についてでは、ケアが私事化されていることで、大切なことに時間がさけなくなっている社会がある。学校に通う子がいる親たちは学校にいる時間と労働時間にズレがあることを痛感している。子どもたちは帰宅してから、親が仕事から帰ってくる間の時間がもっとも不安で、トラブルに巻き込まれやすい。この点で学校の時間をどのように改善すべきかを、私たちが見つけ出すことができるか考えてみてください。本当に重要なことにお金を使わなくなった社会=人を育てることに無関心・人任せな政治がある。事実、主要国の対GDP比の公的支出で日本は6年連続最下位であるとした。
最後に憲法とケアと憲法9条と24条の関係からとして、コロナ大感染は多くの国で、このケアのなさが継続していることを明るみに出したかもしれない。パンデミックが襲ってくるという以前からの警告を軽視し、むしろ遠くの実際には存在しない脅威に対して膨大な軍備を無駄に費やしてきた。日本も防衛費が6兆円を突破した。改憲勢力の本丸は9条だが、24条も攻撃されてきた。24条を敵視する権力者は、個の多様性に我慢がならない。24条は性別役割分業を強要し、人間関係に男女・長幼といった階層的関係を埋め込むことに対する抵抗権である。私たちはどこまで「個」を豊かに構想できるかを、ケア実践を通じて、個の尊厳を養い続けることが重要と話した。
私はケアについて余り勉強してなかったので岡野さんの話は大いに参考になった。特にケアが必要になるのは老人になってからだと思っていたが、私も子どもの時は誰かにケアされてきたし、そのほとんどは母や女性に多大な無償のケアを受けて来たことがよく分かった。これからの社会はケアを誰もが関わる協同作業にする必要があると思った。(大北健三)
憲法審査会開催策動に抗議
1月27日に開催が目論まれた憲法審査会、この流れに抗する国会行動が取り組まれた。
改憲勢力が国会をのっとり、毎週の開催さえ狙う中で「原則的には開催賛成」と言う立憲民主党は許されないが、市民の側の危機感も薄い。労働組合弾圧等の様々な取り組みの報告が続き、明文改憲と実質改憲をないまぜにして襲いかかってくる状況を打破しようとの決意が共有された(写真上)。
第6回口頭弁論集会が衆議院第2議員会館で開かれた(2月4日) |
マルクス『資本論』に学ぶ(4−上)
銀行資本の中身を見てみよう
松崎 五郎
『資本論』V巻29章の見出しは「銀行資本の諸成分」で、貨幣資本の架空性と銀行資本(信用)の架空性について展開しています。われわれ民衆にはなじみのない話なので、どうしても抜粋が多くなります。資本主義を理解するためには避けて通れない箇所なので、つき合って下さい。マルクスが「幻想」や「架空」と指摘しているところは「だから要らない」をつけ加えて読んで下さい。
銀行資本の構成物
29章冒頭で「銀行資本は何から成り立つか詳しく吟味」すると述べ、「銀行資本は、?現金たる金または銀行券と、?有価証券から成り立つ。有価証券をさらに二つの部分に…商業証券たる手形―その割引こそは銀行業者の本来の業務をなす―と、公的有価証券…、あらゆる種類の株式、要するに利子生み証券―手形とは本質的に異なる利子生み証券―とである。これらの諸成分から成り立つ資本は、銀行業者自身の投下資本と、借り受け資本をなす預金とに分割される。発券銀行のばあいには、さらに銀行券がつけ加わる。」 と、銀行資本の構成・分類を明示しています。有価証券の二つの部分、手形(商業信用)と利子生み証券(銀行信用)との「本質的に異なる」区別、つまり産業資本の循環の内部か外部かの区別を押さえて下さい(未来326号参照)。外部は観念であって要らないのです。
資本還元(擬制・架空資本の形成)
次いで、資本還元(擬制資本・架空資本)を説明しています。
「利子生み資本の形態は、一定した常則的な貨幣収入が資本の利子として現象するということを伴う。貨幣収入が利子に転形され、ついで利子とともに、その源泉たる資本なるものが現れる[資本還元]。同様に、利子生み資本とともに、あらゆる価値額は、収入として支出されない場合には資本として、すなわち…元金として現象する。その源泉が移譲されうる場合をのぞけば、純粋に幻想的な表象であり…。
実例として国債を見よう。債権者が所有するものは債務証券であって…、解約告知はできず、ただ請求権(請求権所有名義)を売りうるだけで、資本そのものは国家によって食いつくされ…もはや実存しない。債務証券を売る可能性は…元金の可能的還流を代表する。[国債を買った]資本は利子生み資本として投下されている。この架空資本は、それ独自の運動をなす[市場で売買されるということ]。
架空資本の形成は資本化[資本還元]と呼ばれる。規則正しく反復される収入は、平均利子歩合にしたがって…資本化[資本還元]される。かくして、資本の現実的増殖過程との一切の関連が最後の痕跡にいたるまで消えうせて、資本とは自己自身によって自己を増殖する自動機構だという考えが確立する。」
幻想的資本価値
そして、株式などの債務証券が示す資本が現実資本から乖離した観念的・幻想的=架空なものでしかないことを明らかにしています。
「債務証券の資本価値は純粋に幻想的なもの…。資本は、二重に、一度は所有名義たる株式の資本価値として、もう一度は諸企業に現実に投下された資本として、実存するのではない。それは後者の形態でのみ実存するのであって、[前者]株式は剰余価値にたいする按分比例的な所有名義にほかならない。
この所有名義は、現実資本の価値の変動とは無関係に、独自の運動と定まり方をする価格をもつ商品となる。[だから]請求権のほかに、現実の資本を形成するかのような仮象を確定する。…この証券の市場価値は、期待される収入によって規定されているから、部分的には投機的なものである[上場されている株式は、ほとんどが投機の対象です]。…この有価証券の価格は、利子歩合と逆に騰落する。
これらの証券の価値減少または価値増大が、現実資本の価値運動と無関係である限り、一国民の富は、この価値減少または価値増大の前後ともにまったく同じ大いさである。資本制的生産諸国においては、膨大量の利子生み資本または貨幣資本が、こうした形態で現存する。そして貨幣資本の蓄積なるものは、大部分はこれらの請求権の蓄積・これらの請求権の市場価格─幻想的資本価値─の蓄積いがいの何ものとも解すべきではない。」
ここでは、産業資本の循環の内部か外部かの対立(区別)を、現実資本と貨幣資本の対立、 つまり現実資本と架空の貨幣資本の対立として鮮明にしています。利子や配当は、剰余価値の配分として実存しますが、その元金(元本)である資本還元された擬制資本・架空資本は「純粋に幻想的な表象にすぎない」ということです。貨幣の3つの規定(流通手段、貨幣資本、架空の貨幣資本)を再確認して下さい。(つづく)
8面
辺野古新基地建設は許さない
防衛省に連続行動
防衛相前で抗議行動(1月31日) |
1月31日
1月31日夕方、防衛省前で「台湾有事を口実にして、沖縄を戦場にする『日米共同作戦計画』を直ちに撤回しろ!! 防衛省緊急抗議行動」がおこなわれ、緊急の呼びかけであったが多数の労働者・市民が集まった。主催は、〈沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック〉。
主催者が「1月7日『2+2』で南西諸島の『要塞化』が言われた。戦場化するということ。台湾有事を利用して沖縄を戦争の前面に立たせることだ」、「辺野古の闘いと一緒に日米共同演習に反対する」と呼び掛けた。
沖縄現地から山城博治さんが電話で発言。「名護市長選では政府の公的な買収によって敗退した。15億円の金で基地を受け入れろと言うこと。普天間は基地が存続し、名護は米軍再編交付金が10年で消える。われわれがコロナで行動を自粛している中で、向こうは(埋め立てで河口がふさがれる)美謝川の水路変更工事をしている」「南西諸島での戦争を許さない県民の会を本日立ち上げ、25名で発足した。会の名称は『ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会』」。その後南西諸島(琉球弧)での日米共同演習の中止を求めて防衛省に申し入れがおこなわれた。
2月7日
2月7日、東京・防衛省前で「辺野古新基地建設を許さない!防衛省抗議・申し入れ行動」(主催・辺野古への基地建設を許さない実行委員会)がおこなわれ、1週間前の緊急抗議行動に続いて多数の労働者・市民が集まった。
主催の辺野古実がアピール
「米軍の感染対策について、9月以降は検査なしで入国していた。海兵隊は移動があるから、岩国から広島・山口にコロナが拡大している」「辺野古は工事が加速している。搬入される土砂が増えている。1月31日、美謝川の切り替え工事を開始した。知事は基地の設計変更を認めないから中止しろと言ったが防衛施設庁はやめようとしない」「〈ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会〉を山城さんが呼び掛けた。日米共同作戦計画で沖縄が戦場になる」
平和を作り出す宗教者ネットが発言
「台湾有事で沖縄に戦争を押しつけるな、という思いで参加した」「糸満市の戦跡で土砂を採取しようとしている業者が、遺骨の有無を関係機関と連携して確認することを求める沖縄県の措置命令に不服申し立てをした。国の公害等調査委員会に公正審査を求めるFAXを集中してほしい」
沖縄現地から、上間芳子さん(沖縄平和市民連絡会)が電話でアピール。「名護市長選では負けたが、それは名護市民が基地を認めたということではない。報道されている通り、世論調査では6割以上の名護市民が移設に反対している」「海兵隊が明日から(※8日から13日まで)那覇軍港にオスプレイが降り立つ訓練をする。沖縄防衛局にも連絡がなかった。返還予定なのに、11月から訓練をやっている」「八重山も宮古も、自衛隊の基地を米軍が使う。共同使用があたり前になる」「自衛隊、海上保安庁、警察の合同訓練がおこなわれている。沖縄の高校生が失明した問題は、警官のストレスがたまっているということ。機動隊がその対応に行ったから、辺野古では機動隊がいなくて工事が止まっている」。
沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックは、2月20日の晩に渋谷区立勤労福祉会館で崎浜盛喜さんを講師に迎えておこなわれる講演会「関西の沖縄人運動」への参加を訴えた。
新宿で沖縄連帯行動
1月29日(土)13時新宿アルタ前に集合し、「辺野古埋め立て不承認支持―政府は直ちに工事を止めろ! 新宿デモ」が取り組まれた。主催は〈辺野古の海を土砂で埋めるな! 首都圏連絡会〉。新宿駅前で、沖縄への基地の集中の問題性・米兵によるコロナ持ち込みへの岸田の無為無策・技術的に基地建設が不可能などを道行く人々へ訴えた。14時からデモに出発し、辺野古埋め立て不承認支持―政府は直ちに工事を止めろと訴え、途中工事を請け負う大成建設前での抗議と150人でデモをやり抜いた。
2・5辺野古 新宿スタンディング
2・5辺野古 新宿スタンディング
政府はただちに工事をやめろ!辺野古「ブルーアクション」に呼応しよう!新宿スタンディングが2月5日(土)11時から12時まで、新宿駅・南口で、80人の参加でおこなわれた。(写真上) |
連載 住民の会 結成50周年を迎えて(3)
三里塚反対同盟と共にさらに前進を
東灘区住民の会事務局長 松原康彦
杖をつきながもデモ行進に参加する山本善偉さん |
その後、弱られた足をかばうために、反対同盟の鈴木幸司(故人)さんが作ってくれた竹の杖を突きながら、どこへでも出かけられていました。亡くなられる2年前の2016年3月の三里塚全国集会が、三里塚を訪れた最後になりましたが、演壇に立って話し始められた時、時間が余れば私が話すつもりで横に立ったのですが、なんと10分経っても終わらず、私は先生の聞こえない耳に口を寄せて「終わってください」とお願いする始末でした。
また、沖縄への想いを大切にしておられながら、知花さんの「日の丸」裁判をはじめ、ことがあるたびに行かれるものの、沖縄全体を自分の気持ちに納めておきたいと、突然、2015年春に「沖縄に連れていけ」と私に命じられたのには驚き、狼狽えました。何しろ95歳でしたから。知花さんのヌーガーヤーに泊めていただいて、5日間、フルに南から北の辺野古、高江まで回ることが出来ました。そのうち横で眠るだろうと思う私の願いを無視して、助手席に座り、目を見開き、ずっと話しかけてこられたその気力には改めて驚かされるとともに、沖縄・三里塚への善偉さんの想いの深さを知らされました。
亡くなられた日も、臨終を前にして面会謝絶であるにもかかわらず、若狭の行動を終えて帰ってきた私を、「松原さんなら」とご家族が善偉さんに報告する機会を与えてくださり、善偉さんは一生懸命に聞いておられました。その時には、すでに肺の力が弱りすぎて言葉にならない善偉さんの「声」を数分、お聞きして、帰りました。その2時間後に亡くなられたとの知らせをお孫さんから伝えられました。最後に善偉さんが、何を私に語ろうとされたのか、本当に残念です。傍におられたご家族が「お父さん、文字盤を使ったら」と呼びかけられましたが、善偉さんは、明確に拒否し、話し続けられたのです。
代表になられてから43年、最後の最後まで、闘いの中におられた善偉さん。この善偉さんの凄まじいともいえる43年が、私たち住民の会の50年を支えた最大の力でした。ありがとうございました。
三里塚との出会い
すでに善偉さんのこととして三里塚との出会いを語っておりますが、住民の会が不屈に50年を闘い抜いてこれたもう一つが、住民の会として三里塚と出会え、共に歩めてこれたことです。すでに闘いが55年を超えた三里塚闘争の、もっとも激しかった1971年前後の闘いは、私たちは「知らなかった」としか言いようがありません。しかし、1974年、私が闘いとして三里塚に取り組み、1976年の先述した家族連れの取り組み、そして鉄塔決戦を経て、住民の会は常に関実の主力団体の一つとして三里塚の闘いの現場に4人、6人と善偉さんを先頭に参加しました。1983年の「3・8分裂」を契機とした闘いの危機についての検討は別の機会に譲るとして、私たちは北原派の一員として関実の闘いを中心の一翼となって担いながら、三里塚闘争に関わり、今に至っています。
その闘いの最大のポイントは、私と萩原進さんとの1984年の出会いでした。3・8分裂で北原派に合流しましたが、当時の反対同盟の事務局次長はすべて他方の熱田派に行きました。北原派で新たに事務局次長になった進さんを現地の皆さんから紹介され、話し合いました。
進さんの素晴らしい闘いに向けた情熱、それを生み出した様々な三里塚農民としての恨みつらみは進さんの著書である『農地収奪を阻む』に示されていますが、ともすれば新左翼党派の利害に左右されがちな闘いを、それまで闘い抜いてこられた想いのすべてをかけて事務局次長として引っ張り抜かれていました。(つづく)
(カンパのお礼)
冬期カンパへのご協力ありがとうございました