カジノつぶして維新を倒そう
大阪のコロナ対策は最低・最悪
カジノ(IR)とは
元大阪府知事の橋下徹が知事時代の2008年に打ち出したのがカジノ(IR)構想である。IRとは統合型リゾート施設(integrated resort)の略である。カジノ単独では刑法で禁じられた賭博の違法性を突破できないため、統合型リゾート施設(以下、IR)を隠れ蓑にして、カジノはその一部にすぎないと強弁しカジノを合法化するものである。しかし、IRの一部だからといっても賭博を合法化することはできない。だから、どうしても特別法でカジノを合法化する必要があったのだ。
維新は2013年1月、維新単独で「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案」(以下、カジノ推進法)を国会に提出したが、一度も審議されず、維新は法案の撤回に追い込まれた。しかし、同年10月、政権復帰した第二次安倍政権は改憲勢力としての維新を取り込むためにカジノ推進法を維新と共同で提案し、16年12月、カジノ推進法は維新と自民党の賛成多数で成立した。この頃から、官房長官だった菅義偉と維新の松井一郎は蜜月関係になっていった。
カジノの利益とは射幸心をあおり、あおられた人たちの「不幸」を財源にしている。こんなものに我々の未来を託すことはできない。
維新はカジノをバラ色に描きカジノで経済成長できると主張しているが、賭博で社会がバラ色になるはずがない。カジノは刑法が禁ずる賭博であり、賭博が「成長戦略」などになるはずがない。
来場予定数のウソ
年間2000万人の来訪を見込むという。しかし、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)でも入場者数は最高で年間1500万人といわれている。これを500万人も上回ることを想定することは空論だ。もともとカジノ誘致は、日本を観光する外国人の増大(いわゆるインバウンド需要)を前提にしたものである。しかし、コロナ禍で大阪への外国人観光客は激減しており、回復のメドはまったく立っていない。
建設予定地の大阪市此花区の夢洲は大阪市から出たゴミで埋め立てられている。そこから有毒のヒ素やフッ素などが基準値を大幅に超えて見つかっている。また、夢洲は淀川を浚渫した泥を埋め立てに使っているため、地震が来たら液状化することは明らかだ。
土壌対策に巨額
松井大阪市長は、反対意見を封じるためにカジノ建設には市税は一円も投入しないと豪語してきた。しかし、土壌調査をしたカジノ業者のMGMとその提携先であるオリックス(竹中平蔵は社外取締役)から有毒物質の除去や液状化対策などの土壌改良を要求された松井市長はその姿勢を180度変えて、大阪市の負担で土壌改良をすると言い出した。その額は790億円という巨額で、用地整備費用1240億円と合わせると2000億円を超す。大阪市の年間税収が7500億円であることを考えるとあまりにも巨額である。松井市長はただちにカジノ建設をやめろ。
毎日新聞(1/15)は、大阪市の土壌対策費の試算が甘く、昨年6月時点の試算から120億円も増加していると報道した。夢洲がゴミで埋め立てられていることを考えると土壌対策費はどこまで膨らむかわからない。
カジノはマネーロンダリング(資金洗浄)の温床で、巨額の闇の資金を「洗浄」することに使われていることは周知の事実。カジノは政治家への巨額のわいろの提供にも使われており腐敗した政治の温床なのだ。
コロナ対策は失敗の連続
他方で大阪維新のコロナ対策の失敗が第6波の爆発的拡大で今一度浮き彫りとなった。吉村府知事・松井市長はコロナ対策では失敗ばかりだ。そもそも医療・検査機関を二重行政として削減し、270万都市大阪には保健所は1か所で、十三市民病院や松井雨合羽、吉村イソジンと失敗の連続だ。第5波では医療崩壊をきたし全国一の死者数に。第6波を前に余裕をかましていたが爆発的感染となった。吉村テレビ出演と「やってる感」だけは日本一の維新をこれ以上許してはならない。
維新に代わる勢力を
都構想の住民投票に2度にわたって敗北した維新は、カジノで危機を突破しようとしている。一昨年の住民投票で敗北したとき吉村知事は涙目となり、松井市長は23年4月の政界引退を表明した。カジノをつぶすことで、維新に代わる政治勢力をつくりだそう。
我々の武器はカジノ反対署名である。署名用紙を持って住民の中にくまなく入っていこう。かつて公明党はカジノ推進法について自主投票としたが、公明党には賛否両論が存在し、実は山口奈津男代表は国会で反対票を投じた。維新支持者や自民党支持者だけでなく公明党支持者も揺さぶり、その中で地域に根差した大きなカジノ反対運動をつくろう。
2月には大阪市議会、3月には大阪府議会で「同意」決議をあげようとしている。多数の署名を突きつけ、大阪市議会、府議会の議員を揺さぶっていこう。
米軍基地を封鎖せよ
1月23日大阪 米領事館に抗議
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アメリカ領事館前で60人が抗議行動(1月23日、大阪市内) |
正月には全国で100人程度まで衰えていたコロナの第6派感染拡大が止まらない。連日5万人規模。沖縄・山口・広島から感染が拡大し、1月9日からこの3県でまん延防止措置がとられ、27日からは全国34都道府県に。
水際防止と言いながら、沖縄・岩国などの米軍基地では軍人・軍属などはフリーパス。米軍基地に隣接する3県から拡大し、東京・大阪の大都市に移り、全国に感染拡大。今回はその勢いたるやこれまでの数倍の規模だ。
米軍基地からの感染拡大は当初から危惧されていたが、日米地位協定に遠慮し岸田政権は規制もしなかった。その間にまたたく間に感染が拡大したのである。
これに対し1月23日、大阪市北区にあるアメリカ領事館へ市民団体の呼びかけで緊急行動抗議がおこなわれた。御堂筋を挟む対面には2980円のPCR検査を求める長蛇の列の前で60人が抗議行動。米軍基地を封鎖せよ、日米地位協定の抜本見直し・廃棄のシュプレヒコール。労働組合からは連帯労組関生支部や大阪全労協が、米軍基地からのコロナ感染拡大に手を打たない岸田政権を弾劾。京都のXバンドレーダ基地に反対する市民団体はじめ、大阪・兵庫の市民・団体からは、沖縄を戦場にしようとする陸上自衛隊の南西諸島への配備を弾劾する発言も続いた。
この日は名護市長選の投開票日で、午後の自衛隊の南西諸島配備に反対する集会と一体で、御堂筋対面の市民にも訴えが届く効果的な行動となった。
2面
岸田政権の全反動と対決
国会開会日に行動
1月17日国会前
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国会開会日に多数の市民がかけつけた(1月17日) |
1月17日昼、衆院第2議員会館前を中心に「改憲発議反対! 辺野古新基地建設中止! 敵基地攻撃能力保有反対! 防衛予算拡大するな! いのちと暮らしと営業を守れ! 1・17国会開会日行動」が〈戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会〉などの主催でおこなわれ、多数の労働者・市民が結集した。
司会は憲法会議事務局長の高橋信一さん。
▼主催者を代表して、戦争をさせない1000人委員会の勝島一博さんが挨拶。「まずオミクロン株の問題で、沖縄・山口・広島は米軍基地から広がった。日本政府に危機感の欠如がある。日米地位協定の改定を含め、抜本的な対策を」「自民党内の議論すらせず、改憲を自己目的化している」「安倍の元で憲法違反の法律が次々強行成立してきた。自衛隊の空母・ミサイル・ステルス戦闘機配備は『専守防衛』と真逆。岸田政権に対して改憲阻止で闘うことはもちろん、平和主義を取り戻そう」
立憲民主党・石垣のりこ参院議員、沖縄の風・伊波洋一参院議員、社民党・福島瑞穂参院議員、共産党・田村智子参院議員が岸田政権のコロナ対策と改憲策動を批判した。
▼辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会首都圏グループ・毛利孝雄さんの発言。「辺野古不承認支持ブルーアクションを皆さんにお願いした。皆さんの街宣の写真240枚を送ってもらって、オール沖縄会議のHPに掲載。工夫を凝らした街宣が各地で取り組まれた。不承認支持の声をさらに大きくしよう」「具志堅隆松さんの呼びかける遺骨の眠る南部戦跡の土砂使用反対決議は全国の自治体の1割で上がろうとしている。『復帰50年』の通常国会開会にあたり改めて沖縄戦後史を学び直し、沖縄との連帯を結び直す年にしたい」
▼改憲問題対策法律家6団体・飯島滋明名古屋学院大学教授。「岸田は『今年こそ憲法を改正する』と言っている。自民党・公明党・維新の会・国民民主党の『改正草案』は全く国民のためにならない。国民民主党は『緊急事態条項を入れろ』、『デジタル基本権も入れろ』と言っている。法律で対処すればよい話。公明党は『環境権』『国会の機能の維持』をと言っている。維新の会が主張する『統治機構の改革』『憲法裁判所の設置』、確かに今の裁判所はひどいが『憲法裁判所』にしたら政府に対する忖度判決があふれるだろう。改憲手続き法は、国民の声を聴こうと思ったらCM規制・インターネット規制が必要。インターネットのデマ規制もできていない、こういった手続きで憲法改正国民投票は絶対にあってはならない」
▼市民と野党をつなぐ会@東京・鈴木国夫共同代表。「(衆院選で野党共闘の)成果はあった。東京23区の1人区で通った野党勢力は、14年は長妻さん1人。17年は4人、今回は8人。都議会選挙の1人区2人区は2議席しかなかったのが9議席になった。野党共闘恐るべしと支配階級は考えている」
▼共謀罪NO! 実行委員会・角田富夫さん。「岸田政権は前の二つの政権と違うようなことが言われるがとんでもない。その枠組みの中で改憲等をやろうとしている」「(公共交通機関等に)監視カメラの設置が進んでいる。恐るべきプライバシー侵害。国交省が(鉄道客車の)全車両に導入しようとしている」
▼最後に総がかり行動実行委員会・高田健共同代表。「維新が憲法審査会を毎週開けと言っている。毎週やっている委員会はない。附則4条にある施行から3年後の見直しをすっ飛ばしている」
1・23大阪集会
辺野古新基地建設反対
琉球弧へ自衛隊配備を許さない
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山城博治さんのリモート講演に熱心に聞き入った(1月23日、大阪市内) |
1月23日、辺野古新基地建設反対! 琉球弧への自衛隊配備を許さない集会&デモが大阪市内でおこなわれた。
リモート参加の山城博冶さんの講演では、主に辺野古反対運動の現状と「南西諸島」軍事化、「有事勃発」の攻撃について述べた。概略を報告する。
昨年、コロナで運動が休止を余儀なくされ、12月に行動再開。12月第1回のブルーアクションでは800人が参加。しかしこれは2回やってすぐ休止。
11月25日、デニー知事は国の辺野古埋め立ての設計変更不承認とする判断を出した。これに対して国は動いた。沖縄防衛局は12月7日、国交相に審査請求を出している。今まで国交相が取り消しする前に執行停止をおこなって、即座に工事再開で、くやしかった。今回は執行停止できない。よって国は審査請求した上で沖縄県の裁決取り消し、是正公告を出すまで事態は動かない。ダンプで運んで土砂をため込んで再開を待っている。焦っているのは政府の側だ。承認されねば大浦湾側に手を出せない。
また、この間の動きとして、名護市長の権限に関わる美謝川の流れの変更について名護市長側から何のコメントもなく、12月から工事が始まった。名護市は国の工事強行を黙認している。
名護市長選とコロナ
名護市長に誰がなるのか。4年前の選挙で渡具知の公約は米軍基地再編交付金を活用して市民の生活向上に資するとしたが、今回も通じるのか。交付金は名護市予算の3〜4%程度で、いかようにもねん出できる。稲嶺さんはそうやってきた。3%のために危険な基地を持ちこまないのは極めて現実的。
今年初め、沖縄のオミクロン株の感染が全国一。この発生源は米兵米軍から8千人出ている。大半がキャンプ・ハンセン。このままでは医療崩壊が迫っている。米軍から派生しているコロナ感染。基地ができたら兵士が万単位になる。爆音や基地被害など軍事基地は特段に市民の生活を潤すものではない。
「台湾有事」煽るな
20年4月、バイデンが菅を呼び出して日米会談で台湾有事は重要となった。3月の「2+2」会談では台湾有事には日米共同で対処すると確認された。「台湾有事は日本有事」と安倍が言っている。なぜ中国の問題にアメリカ、日本が一体になって介入するのか。トランプの頃から米中対立は激しく、台湾有事の時、在沖米軍から軍隊・艦船が出ていく米軍介入が予想される。安保法制によって自衛隊が参戦していく。当然、琉球弧が戦争の矢面に立つ。ここに疑問がある。一歩下がって米中の問題に日本が、「戦争しない」国是の明文憲法としてもつ国が戦争をしかけるのは理解できない。
だから政府は中国の脅威を扇動している。「対抗する抑止力」という論点。岸田は「防衛費GDP比2パーセント」と「敵基地攻撃論」まで言い出した。残念ながら安保法制によって憲法があっても戦争が起きる。無理難題が通ってしまうのを危惧している。
自衛隊配備
沖縄本島だけでなく、宮古島ではミサイル基地や保良弾薬庫ができた。抗議したが大型輸送艦(軽空母)でミサイルが宮古に搬入された。石垣島にも2024年に自衛隊のミサイル基地ができる。(馬毛島も狙われている。)の明文憲法としてもつ国が戦争をしかけるのは理解できない。
私は辺野古・高江に張り付いていたが島々の軍事化に対して与那国・宮古・石垣へ行って反対した。辺野古新基地は大きな基地で南西諸島軍事化の一大ステーション。海兵隊が辺野古に配備され、自衛隊も一緒に実弾演習をやる。
与那国島と台湾は110キロ。「台湾有事となるなら戦場とならないはずはない」と岸防衛大臣は言う。今年、復帰50年という節目に、再び沖縄が戦場になる悲哀。ダグラス・ラミスさんは、今、政府は沖縄の島々を限定的に戦場に仕立てようとしていると言う。沖縄の島々の人々の犠牲を仕方がないという世論を作ろうとしている。国会議論でも沖縄を再び犠牲にするなという話は出ない。中国への宣戦布告になれば、戦場は限定されない。これは限定的な沖縄戦ではなく、全面的な戦争になると山城さんは強調する。沖縄のみが戦場でなく、全国が戦場になることを全国に訴えていく。
辺野古に強い運動体が作られているが、南西諸島全域の軍事化に対する意識が作られていない。辺野古も大事だが島々全体を戦場にさせない運動体をつくりたい。今月立ちあげ、全国に会員呼びかける。5万〜10万という規模にしてメッセージを発する。アメリカにも中国にも出向いて市民との交流を通じ、日米がどう計略しようと反対する。国連にも行く。
ネットでは南西諸島軍事化反対への罵詈雑言がある。大半は政府の謀略。これに対して私たちは本物の世論を作っていく。戦争になれば人も島もなくなる。日本も無傷ではおれない。沖縄の中でオール沖縄があり、デニ―知事を支える存在はあるが、政府の有事の煽動にコメントできてない。全国からも声をあげて県民の世論もつくれる。引き続き沖縄に支援をお願いします。
質疑、各団体の発言と行動提起をもって集会を終え、梅田までデモをおこなった。
3面
防衛3文書の策定狙う岸田
「沖縄戦」の再現を許すな
落合 薫
防衛3文書とは次の3文書を指す。
国家安全保障戦略――2013年12月に初めて策定(25安保戦略)
防衛計画の大綱(大綱)――前回は2018年12月に策定(30大綱)
中期防衛力整備計画(中期防)――前回は2018年12月に策定(31中期防)
岸田首相はこの3文書を、「おおむね1年をかけて、策定します」と述べた(昨年12月6日、臨時国会での所信表明演説以降、繰り返している)。
国家安全保障戦略は、1957年に策定された「国防の基本方針」に替えて、安倍政権の下で初めて策定された。1時代の「防衛戦略」の基本方針を定めたものとされる。大綱は10年ごと、中期防は5年ごとに見なおすとされてきた。この3文書を同時に改定することは画歴史的なことである。岸田首相は、安倍元首相以上に軍事・外交に日帝の独自の「強力な」方針を打ち出そうとしている。
では、どの点を変えようとしているのか?ここで自衛隊の高級幹部の研究会などで検討されている問題点を挙げる。岸田首相は自衛隊幹部の提言にのっかっていると考えられるからである。
第1に、戦略の前提となる「敵」を明確にせよと言うことである。「全方位外交」といった「ふやけた」ものでは戦えないという。分かりやすく言えば、中国を「仮想敵国」として明記せよということである。
第2は「防衛対象」を明らかにせよということである。具体的には台湾防衛である。彼らは、日本とか、沖縄とか、まして「尖閣列島」などさえ防衛対象として挙げない(前提にしていると釈明するであろうが)。
第3に、「米国の安全保障戦略との整合性」をもって、武器・装備や防衛予算の規模も決めるべきだという。GDP比2%という2倍化案もこれに基づく。これは米国の要求に従属するためではなく、軍事を自律的に考えた結果と称する。
敵基地攻撃論誘導
岸田首相は、所信表明演説、施政方針演説で明示的に、「敵基地攻撃能力」の取得について述べている。その背景となる自衛隊幹部の論理を取り上げる。
第1に、敵基地攻撃能力が必要な理由は、敵国の核ミサイルの迎撃の穴、ないし不可能性を挙げる。PAC―3は大気圏で迎撃するため、チャンスが少なく、高速に対応できない。またイージスシステムを利用して迎撃するSM―3は、核弾頭と通常弾頭を区別できず、飽和攻撃に対応できない(8方向以上から同時攻撃されるとお手上げ)、潜水艦発射SLBMは対象にできない、等々を挙げる。
では何が必要か?1956年鳩山一郎内閣の時に、「坐して自滅を待たぬ」という答弁によって歴代の内閣は法的にはすでに「敵基地攻撃能力」の保有は合憲としてきた。今までの大綱等では、スタンドオフ防衛能力は提起されているが、敵の目標を発見し、目標設定し(ターゲッティング)、正確に当てる(キルチェーン)能力が必要として、F―35艦載化と「いずも」の「空母化」改修。さらに目標に、長期間隠れて接近できる原子力潜水艦の保有まで挙げている。
「沖縄戦」の再現
このような立場から現実の戦争がどうなるだろうか? 日米とも中国を、「第1列島線」(九州―沖縄―台湾―フィリピン―ボルネオ島を結ぶ線)で封じ込める戦略では一致している。そこから先の戦闘配置は日米で異なる。自衛隊は与那国島から宮古島、沖縄島を経て、奄美諸島から馬毛島まで陸自を中心に配備し始めている。ミサイル防衛なら空自、海上阻止なら海自が中心になるべきなのに陸自が中心の配置は、中国が「第1列島線」を突破しようとするとき、地上戦を構えて阻止するためである。対して米軍は「エア・シー・バトル」(海空戦闘)戦略のもと、海軍と空軍を中心に対応することになっている。
中国軍が「第1列島線」突破の兆候を見せたとき、米軍の最大の戦略部隊である嘉手納基地にある米空軍の全航空機は戦闘圏外に退避することになっている。そこで闘うのは琉球諸島に配備された陸上自衛隊と台湾軍である。「第1列島線」上にある島々がすべて戦場となる。後方に下がった米軍(空軍と横須賀を母港とする空母打撃群)が出動するのは、自衛隊と台湾軍が壊滅したあと、中国人民解放軍も相当の打撃をこうむったと判断できる状況においてである。
ちなみに台湾軍には陸軍予備役部隊が140〜150万人おり、空軍と海軍が壊滅したときには、これが上陸する人民解放軍と徹底的に闘うならば、撃退することは十分可能であると言われている。対して琉球諸島に配備された自衛隊は、そのような予備兵力を持たない。結局第2次大戦末期にそうであったように、住民を盾に戦うことになる。「沖縄戦」のもっと悲惨な再現である。
ちなみに、第1列島線で、人民解放軍が突破を試みるチョークポイント(海上の戦略ポイント)は宮古水道になる可能性が高い。宮古島と沖縄島の間にあるこの海峡は幅230qあり、領海に入らずに外洋に出ることができるもっとも広い国際公海である。それに対して、台湾とフィリピンの間のバシー海峡には両国に属する群島が多数存在し、さらに南のインドネシアとマレーシアにまたがるマラッカ海峡やロンボク海峡は幅が20qそこそこしかなく大型タンカーさえ通り抜けることが困難と言われている。
結局、最大の戦場は宮古水道を巡って沖縄島と宮古島に配備された部隊が担うことになる。ミサイル発射基地を叩くなら、配備された島々の基地がすべて攻撃対象となる。
いかに闘うのか
われわれが直面している事態は、米中の戦争に日本が「参戦」する「巻き込まれ戦争」論ではとらえることができない。自衛隊が戦闘主力として登場しようとしている。また琉球諸島に配備されている自衛隊の部隊は、「尖閣」防衛でも、「台湾防衛」でもなく、まして「沖縄防衛」でも「日本防衛」でもありえない。先の日中戦争においていわゆる「暴支膺懲」(乱暴な中国を懲らしめる)といって中国侵略戦争に向かったあの教訓を2度と忘れてはならない。コロナ禍の過重な負担が沖縄人民にのしかかっている現状に対し、米軍とその基地に対する怒りを今度は自衛隊・岸田政権にも向けなければならない。個々の自衛隊員には、「住民を犠牲にする戦争を拒否せよ」、「中国との戦争の『捨て石』になるな」と説得し、米軍基地と自衛隊基地を撤去させよう。
名護市長選最後まで奮闘
岸本氏 基地容認派に及ばず
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1月23日 任期満了に伴う名護市長選が投開票された。市長選には、現職の渡具知武豊氏(自民、公明推薦)と前市議の岸本ようへい氏(立民、共産、社民、れいわ、社大、にぬふぁぶし推薦)が立候補し一騎打ちとなった。午後10時過ぎ結果が明らかになった。岸本ようへい氏は「辺野古移設反対」を掲げ健闘したが、及ばなかった。
今回の選挙は、コロナウイルス感染拡大で「まん延防止等重点措置」適用の中でおこなわれ、選挙運動に制約を受けた。投票率は68・32%で前回より8・6ポイント下回った。
選挙は、16日告示された。岸本ようへい氏は、事務所近くの国道交差点で出発式。本来なら総動員(前回は1000人)の出発式のはずだったが、コロナ感染が拡大しており、密集を避けるため各地域でおこなった。第一声を発した交差点には160人が結集。他の地域にも各々数十人が結集した。出発式には、玉城デニー知事、稲嶺進前市長、県選出の国会議員などが駆けつけ、市長選必勝を訴えた(写真上)。
辺野古には午後に到着、島袋文子さんはじめ辺野古住民が、ようへい候補を迎えた。ようへい氏は、辺野古の家並みが見渡せる平和の塔公園で辺野古住民に「辺野古新基地を止めよう」と訴えた。辺野古新基地が目の前に広がる場所での訴えでは、緊張気味に真剣さが前面に出る気迫のこもった決意を示した。
選挙戦前半、各報道の世論調査で「渡具知氏やや先行岸本氏猛追」の記事が載った。岸本陣営は、基地問題を前面に出す方針をとった。岸本陣営のビラには「米軍由来のコロナから命、くらしを守る!」「辺野古新基地建設を止め、平和を守る!」のスローガンが前面に。
岸本事務所には、翁長雄志前知事のおつれあいの樹子さんが連日駆けつけ、朝立ち、夕立に参加し手伝いの市民を激励。事務所では感染対策がとられ、大声での会話はなされておらず、静かな雰囲気ではあるが、熱気に満ちていた。終盤にさしかかり市民の関心も熱を帯びてきた。
20日 三日攻防に入った。(沖縄では最終日までの3日間で勝負が決まるといわれている)この日、ようへい氏は「ツールドようへい」と称して、自転車で市内を巡回。各所で演説をおこない、若さや行動力をアピール。この日の夕立ちの市役所前にようへい氏が現れると、待っていた市民から大きな拍手が。ようへい氏はここでも力強い訴えをおこなった。出発式の時の緊張と違い、自信に満ちた姿であった。
22日 打ち上げ式が市内の青山前で。交差点の4隅を名護市民はじめ820人が埋めつくした。車上にようへい氏と玉城デニー知事が登壇すると、市民から大きな拍手が。デニー知事が「今、横一線です。明日追いつきニューリーダーを誕生させましょう」と訴えると大きな拍手と指笛が鳴り響いた。ようへい氏は「平和で豊かな名護市を築く。辺野古に基地はいらない」と訴え、力強く拳を握りしめた。(杉山)
4面
寄稿 兵庫優生保護法被害国賠訴訟の判決に思う(上)
国が「あってはならない存在」と言い放つ
脳性まひ者の生活と健康を考える会 古井正代
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神戸地方裁判所は司法の役割を放棄し、障害者の人権を否定する判決を出した(2021年8月3日) |
昨年8月3日、兵庫優生保護法被害国賠訴訟の判決があり、神戸地裁(小池明善裁判長)は、時間の経過によって国に賠償を求める権利は消滅しているとして訴えを退けた。
この判決について、脳性まひ者の生活と健康を考える会・古井正代さんから寄稿いただいたので掲載します(本紙編集委員会)。
脳性マヒの場合
脳性マヒの私たちが、子孫を作るなど誰も想像すらしていなかった1950年〜70年代に、兵庫優生保護法国賠訴訟の原告で、全国でも唯一の脳性マヒで原告になった鈴木由美さんは、学校すら行かされず、就学免除にされていました。たまにお婆さんが散歩に出してくれる事以外、外界との接触もなかったのですが、それも心ない差別的な暴言を浴びせ掛けられ、彼女を連れて家から出かけること事態をお婆さんが止めたことで、一段と社会との接触を奪われた生活を余儀なくされていました。
12歳になった時、その彼女に「病院に行くから」と言うだけで何のために病院に連れて行かされるのか説明もされないまま、親つまり介護者の都合の良い方法で生理の処理が始まる前に、子宮摘出の手術をされました。
脳性マヒ以外の障害者に対する不妊手術は、子孫を根絶やしにさせようとする目的のため、国が行うように仕向けた手術は、パイプカットや卵管結紮(卵子と精子の通り道である卵管を縛ったり、切ったりする手術)で、充分目的が果たせるのです。
しかし、脳性マヒのように自分でトイレに行くことの出来ない「厄介者」の場合、介護する側からすれば生理の始末など「邪魔で余計なもの」「無くしたいもの」でしかないので手術を強制するのです。その場合は、子宮摘出か、放射線を当てて機能を無くす方法が用いられたのです。
そして、何の病歴もない子宮を取られたり、子宮の機能を無くした私の仲間たちは、ホルモンのバランスを崩して、何もできない状態になり、一生薬付けになって苦しむことになったのです。
この様な人権侵害は、なかなか一般の人は経験しないでしょう。国が健全者だけのスムーズな生活と効率的な社会のため優生保護法を作り拡散させてしまった結果、私達は人々の快適な生活の邪魔物とされてきたのです。
基本的人権から外された私達
何しろ国が基本的人権を憲法に入れたその2年後に、優生保護法を成立させたのです。これによって、初めから基本的人権の対象には私たち障害者を含まないことを当時の国会は全会一致で決め、日本の民主主義は始まっていったのです。
一般には娘に生理が始まると成長の証として、親は赤飯を炊いて祝ったものでした。しかし、優生保護法により私たちは、この社会に「あってはならない存在」として位置付けられました。親は私たち障害児を産んだだけで恥、人の世話になるようなものはもっと絶えがたい恥の上塗りと考えてしまいました。だから、親は非人道的なことを、正当な選択としておこなうのです。
国が「あってはならない存在」と言い放った子どもだからこそ、親は障害児、者を殺す。そして殺した親には、「あんな子を産んで苦労して可哀そう」にとマスコミも煽って同情が集まり、殺人者の汚名にさらされないようにと仲間としての親に共感して減刑嘆願運動が始まっていったのです。
そのことに対して、殺される側の私たち脳性マヒが「私達を殺しても良いのか?」と異論を訴えるまで、同じ命の価値があるとは誰も想像すらしてこなかったのです。当時のこの抗議活動が『さようならCP』という映画になって社会で話題になっていったおかげで、私は「命の価値に重軽はない」という当たり前のことに気づかされました。それほど、私達自身も同じ価値があるのだと思えないような環境で育ってきたのです。
このように私たち障害者は、殺されても殺され損、存在そのものを否定する優生保護法が社会の隅々のどのような所にも蔓延し、排除のための根拠として機能していったのです。
障害を理由に教育権を奪われた鈴木由美さんは、優生保護法により生殖器も奪われたことによってホルモンのバランスが崩れ、そのことにより脳性マヒ特有の緊張が、体全身に入って、強張ったと言います。そうなると私たち緊張の強い脳性マヒは、自分で緊張をどうすることもできない、元々脳と身体のコントロールが出来にくいのが一段と脳にコントロールが届かない酷い状態になり、自身を動かすことがいっそう難しい状態が続き、彼女は30歳までお婆さんの家のベッドの上で寝たきりで過ごしていたそうです。
この時点で、すでに手術をされてから、およそ20年は過ぎています。
私達の育った環境
一般的に私達の産まれて育った環境は、脳性マヒと診断された時点で姑、舅から母親が「こんなもんが出来たのは誰の血や、嫁の持って来たどうしようもない悪い血や」と罵しられ、母親も『私達のありのままの存在』を否定して、自身の救いを求めて宗教に走るか、医者に「健全児を夢見てどの様なことをされても良い」と一筆書いてまでも「任せ」ていました。その為、ロボトミーと言う脳の手術をされ、全身緊張してしまい動けなくなった仲間や早く亡くなった仲間もたくさんいた時代でした。
私も養護学校に健診に来た医師にロボトミーを勧められましたが、幸いなことに私は祖母がきっぱりと「何の根拠もないものを、大事な孫にするなどとんでもない」と、怒って断わりました。しかし、私の家庭のような環境は聞いたことがないほど珍しいのです。社会全体が健全なものを求め、私達の存在を否定する仕組みが出来上がっているのです。しかし今現在、健全だと思っている人も思わぬことで障害を持ったり、年を重ねると自身の思うように心身を動かせなくなったりするものです。親も家族も社会全体が私達を同じ社会の構成員と思ってこなかった、優生保護法自体は分断・排除の論理をまとった医学モデルそのものとも言えます。
障害者権利条約にある合理的配慮とは
ここで言う医学モデルとは、生後何カ月になるとこれが出来るようになる。何歳になるとこれぐらいになると言うような、一般の健全児の定型発達をモデルにして、それが出来て当たり前、そのモデルに合わなければ不愚者、障害者という考え方です。出来るのが当たり前、出来ないのは出来ない個人が悪いことになるのです。
医学モデルが蔓延して、まかり通る時代だから私達自身もそれがすべてだと思わされて来ました。鈴木由美さんのように義務教育の権利も無くされたり、私のように一般の義務教育を受けていたのに養護学校の隔離教育に移されたり、この様な事は障害児だから「当たり前」「仕方がない」と思い込まされてきたのです。
そのうえ、養護学校の教育も「他人に迷惑をかけることは駄目だ」という暗黙の了解による押さえつけが刷り込まれていったのです。そんな中だからこそ、一般社会より隔離された環境の下での優生差別はかえって酷かったのです。医学モデルの基準で健全児から最もかけ離れた脳性マヒ者には、一段といじめが強いものになっていたのも不思議はありません。私は養護学校時代、私が歩いている頃の話ですが、手を上げてぴょんこぴょっと歩くと脳性マヒ以外の仲間から「ドCP」とか「タコ踊り」と言われてみんなで手拍子されていました。寮生活の初日には、同じ部屋で隣りになった先輩から「あなたは私と友達になれると思わない方が良いわよ。友達になろうなんておこがましい。自分の立場を知りなさい、脳性マヒで私達の足を引っ張るだけの立場でしょう!」と言われていました。だから、脱走するのも脳性マヒです。
この様な環境下では、鈴木由美さんのように就学免除された人は言うに及ばず、隔離教育の中でも医学モデルが徹底的に貫かれ、他の障害児より一層低い位置にされたおかげで、私達脳性マヒの仲間の中には「言っても仕方がない」と、自分自身が受けさせられた手術の内容すら理解していない人も多いのが現実です。
抑圧にさらされ、自身も否定するような環境で育って、どうして私達の存在を肯定出来る「社会モデル」のような価値観にたどり着くことが出来たでしょうか?(社会モデルというのは医学モデルとは対極的な考えで、2014年に日本が批准国となった国連の障害者権利条約〔2017年の時点で175カ国が批准〕の中を貫く考えです)それは「障害は個人にあるのではなく、社会にある」と言っているのです。わかりやすく言うと、「聞こえない、動けない」個人が障害を持っているのが悪いと思い込まされてきましたが、「聞こえない、動けないこと」が障壁になる社会に問題があり、やりたい事が出来ない社会の方に障害があるとはっきり書いてあるのです。(つづく)
5面
石川一雄さんの新年メッセージ
今年こそ再審開始へ
事実調べが不可欠
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2月20日阿倍野区民センターホールでひらかれる集会に集まろう(6面に関連記事) |
今年こそ再審開始を勝ち取るぞという期待感を強く秘めて自分なりに精力的にとりくんで参りましたが、望みも絶たれ、溜息まじりで新しい年をこれまで何度迎えたことか、指折り数えるといやになってしまうほど長い年月でありましたが、今年は弁護団も鑑定人尋問、証人調べの請求をすることにしています。私も、再審開始のためには事実調べが不可欠でありますから、全力で訴え活動に邁進して参る決意をしております。
一昨年、昨年と新型コロナウイルスが猛威を揮っていた関係で、私自身も集会等への参加を自粛せざるをえませんでしたが、支援者皆様にはその間も、決して闘いを止めないと、創意工夫した闘いが続けられていたことに、元気も勇気も希望も頂きました。
改めまして新年おめでとうございます。
この間、私自身が大いに疑問を持ち、納得できないのは、裁判における裁判官の自由心証主義であります。物事を判断するのに、恣意的に自由心証主義を振りかざされては、被疑者、被告人にとって、たまったものではありません。偏見や、思い込み、警察、検察、先輩裁判官への忖度等あってはなりません。
憲法には「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、憲法及び法律のみに拘束される」とあります。
裁判官は証拠に基づいて判断されるべきでありますが、その証拠も、検察が自分たちに都合のいい証拠だけを出し、都合の悪い証拠は隠されるということがあるならば判断は間違ってしまいます。このような検察の証拠隠し、不当、不正義に、えん罪者は苦しみ、長い裁判となっています。早急な再審法改正が求められます。
私の人生のこの58年間は,正に櫛風沐雨でありましたし、不幸極みの虐げ鞭でありました。再審無罪を実現しなければ、この先も、先行き不透明な不安と苦しみを払拭できないまま、月日を過ごすことになります。
振り返れば、私を犯人にデッチ上げ、辛苦の拘禁生活を余儀なくした三人の取調官を断じて許せないと仮出獄の当初まで不倶戴天の敵との強い意志を持ち、復讐しようと考えていたのは事実であります。しかし、そうなれば、支援者皆様方が何のために社会復帰に尽力してくださったのか、再び刑務所に戻されてしまうことを考え、思いとどまったのでした。
自白を強要され、32年間も無実の罪で受刑生活を強いられていたことは無念であり、承服できませんが、今は兎に角、裁判官に私の無実を知ってもらうことが先決と自分に言い聞かせ、訴え活動に全力で取り組んで参る所存であります。
第3次再審請求では、弁護団のご尽力によって、福江鑑定、下山第2鑑定等、科学的な新証拠が多数、裁判所に提出されております。
全国の支援者皆様方も裁判官に対し、鑑定人尋問、証拠調べ、再審開始を行うよう働きかけて頂きたく心から願っております。
私は常々申し上げているように、今の第3次再審裁判以外にないと思っており、絶対に第3次再審で勝利するとの強い信念の下で、一人でも多くの方々に狭山事件、私の無実をご理解して頂くべく全精力を傾けて闘って参りますので、皆様方も最大限のご協力を下さいますよう年頭に当たり私の決意とさらなるお力添えをお願い申し上げて失礼いたします。
2022年1月
石川 一雄
全国の狭山支援者各位
「櫛風沐雨」
風雨にさらされながら、苦労して働くこと。世の中のさまざまな辛苦にさらされることのたとえ。
「不倶戴天」
同じ世界で一緒にいられない、どうしても生かしてはおけないと思うほどに深く恨むこと。
(部落解放同盟中央本部ウェブサイトより転載/見出しは本紙編集委員会)
〈投稿〉
『中国共産党100年の歴史決議』を読んでみた(上)
佐藤 隆
2021年 11月16日新華社は、中国共産党第19期中央委員会第6回全体会議で採択された『党の百年奮闘の重要な成果と歴史的経験に関する中共中央の決議』(以下、『歴史決議』)の全文を公表した。様々なところで論評されている文書でもあり、一読してみた(日本語A4で30数ページ)。
1、『歴史決議』の内容について
以下、紹介する。 『歴史決議』はその序文で、「中国共産党は1921年創立以来、終始一貫して中国人民の幸福の追求、中華民族の復興の追求を自らの初心・使命とし、終始一貫して共産主義の理想と社会主義の信念を堅持し、・・・新民主主義革命の偉大な成果を収め、自力更生して富強化に努め、社会主義革命と社会主義建設の偉大な成果を収めた。また、思想を解放し鋭意邁進し、改革開放と社会主義現代化建設の偉大な成果を収め、新時代の中国の特色ある社会主義の偉大な成果を収めた。」としている。
「T」は、1949年中華人民共和国の建国までを「新民主主義革命の時期」としている。そして、1840年のアヘン戦争以降、西側列強(帝国主義)の侵入と封建的支配に対して、民族の独立と人民の解放をかち取り、中華民族の偉大な復興を実現することが党の任務であった、とする。
ロシア革命の影響の下、1921年7月中国共産党が誕生、1927年4月国民党内反動派によるクーデタでの敗北(陳独秀の右翼日和見主義)、27年8月朱徳らの南昌蜂起を経て土地革命と武装蜂起を断行するという方針の確定、秋収蜂起と広州蜂起など蜂起の多くが失敗する中、活動の軸足を大都市への進攻から農村への進出に移し、毛沢東が井岡山で最初の農村革命根拠地をうち立て、王明による「左」翼教条主義の誤った指導の下で中央革命根拠地の反「包囲討伐」作戦が敗北した後、赤軍は長征を経て陝西省北部に転戦したと振り返る。
1931年九・一八事変後、中日民族対立が次第に国内の階級対立を超えて主要な矛盾となったとし、抗日救国運動を広く展開するとともに、1935年1月遵義会議で毛沢東の指導的地位が確立、翌年西安事変の平和的解決を促して、国共両党の二度目の合作を果たし、1937年七・七事変後、党は抗日民族統一戦線政策、持久戦、人民戦争の戦略・戦術をうち出し、実行に移し、広大な敵後方戦場と抗日根拠地を切り開き、勝利をかち取ったとする。そしてこれは世界反ファシズム戦争の勝利の重要な構成部分でもあった、とする。
1946年からの解放戦争期において、国民党反動派が全面的な内戦を引き起したのに対し、積極的防衛から戦略的進攻に転じ、国民党反動派の800万人の部隊をせん滅したことで国民党反動政府を打倒し、1949年10月1日に中華人民共和国の成立を宣言、民族の独立と人民の解放が実現し、旧中国の半植民地・半封建社会と旧中国の四分五裂の状態、及び広範な勤労人民がごく少数の搾取者に支配された歴史に終止符が打たれ、列強が中国に押しつけた不平等条約と中国における帝国主義のすべての特権が廃止された、とする。
「U」は、「社会主義革命を完成し社会主義建設を推進する」として、「改革開放」までの時期を取り上げている。1956年第8回党大会は、生産手段の私有制に対する社会主義的改造が基本的に成し遂げられ、生産手段の公有制と労働に応じた分配が基本的に実現し、社会主義経済制度が確立したとし、国内の主要な矛盾はもはや労働者階級とブルジョアジーとの間の矛盾ではなく、経済、文化の急速な発展に対する人民の需要と当面の経済、文化が人民のこの需要を満たしえないという現状との間の矛盾に変わったとする。そして、党は平和共存の五原則を提唱・堅持し、国家の独立、主権、尊厳を断固守り抜き、世界の被抑圧民族の解放事業や新興独立諸国の建設事業、各国人民の正義の闘争を支持し、援助を行い、帝国主義、覇権主義、植民地主義、人種差別主義に反対して、旧中国の屈辱的な外交に終止符を打った、とする。
1966年からの文化大革命については、毛沢東は当時のわが国の階級的情勢および党と国家の政治状況について、まったく誤った判断を下したことで「文化大革命」を引き起こしてこれを指導した、一方で、林彪反革命集団と江青反革命集団は毛沢東の誤りにつけこみ、国と人民に災いをもたらす大量の犯罪行為を働き、十年に及ぶ内乱を招いて、党と国家と人民に新中国成立以来の最も大きな挫折と損失を来し、その教訓は非常に痛ましいものであった、1976年10月、中央政治局は党と人民の意志を体して、「四人組」を断固粉砕し、「文化大革命」という災難に終止符を打った、としている。(つづく)
6面
『左翼エス・エル戦闘史』読後感想あるいは「ロシア革命正史」(4)
高見元博
フェイク・ヒストリーだった「ロシア革命史」
この本を読んでいままで語られてきた「ロシア革命史」が「ボリシェヴィキの歴史」にすぎないことがつくづく感じられる。それはスターリンによって偽造されたフェイク・ヒストリーだ。十月革命のもう一つの立役者だった『左翼エス・エル』から見た歴史を示されると、僕たちが知ってきた「歴史的常識」がまったくの嘘だったと分かる。
この本は『左翼エス・エル』の側から書かれており、自分たちを正当化する意図もあったということを割り引いたとしても、そう真実から遠くはないだろう。なお、この本では共産主義をボリシェヴィズムと等置して批判しているがそれは賛成できない。また僕たちが「スターリン主義」時代の特徴だと考えて反対してきたことは、レーニンの特徴でもあった。レーニンの時代にすでに農民にたいする独裁は始まっており、ボリシェヴィズム以外のあらゆる社会主義は否定され、それらの社会主義者は牢獄と精神科病院に送られ、銃殺刑に処されていた。プロレタリアート独裁とはボリシェヴィキによる独裁のことだった。スターリンは社会主義者やアナーキスト、労働組合主義者たちへの弾圧を拡大し「ボリシェヴィキ」自身にも適用し、規模を大きくしただけだった。
ロシア労農革命の立役者にして全ロシアソビエト連立内閣の連立の相手でありながら、その後のボリシェヴィキ中心史観によって闇に葬り去られていた『左翼エス・エル』の歴史。それはマルクス主義の党ではないが、マルクス主義というもの自体がロシアではマルクスの遺志を継いでいない。マルクス存命中はロシアでのナロードニキによる革命に期待していた。ナロードニキがマルクス主義者ではないのはあきらだが、マルクスは親しくつきあっていた。
ロシアで出版された『共産党宣言』の序文のなかでマルクスはロシアで革命がおきれば西欧に波及すると希望を込めて書いている。これは後に『マルクス=レーニン主義』者が捻じ曲げて「一国社会主義」論の論拠としたような労働者革命のことではなくて、ナロードニキによる革命のことだった。マルクスの希望通りにロシア革命が西欧の革命に繋がらなかったのは、マルクスがポーランドについて書いているように、またアイルランドについて書いているように、イギリスやドイツのプロレタリアートに重く存在した民族排外主義、差別主義によって、「辺境」であるロシア帝国の革命の意義に彼らが共感を持てなかったからかもしれない。ドイツでの1918年から19年にいたる革命の中で、ドイツ労働者階級は『レーテ(評議会)』に権力を獲得し皇帝を打倒するところまで革命を成功させていた。反動派は『ドイツ社会民主党』を入閣させて『レーテ』の主導権を社会民主党に握らせることで労働者革命を鎮圧しようとした。ドイツ労働者階級は社会民主党を支持したものが多く、革命的な『スパルタクス団』は蜂起を躊躇した結果、蜂起したときには少数の支持しか得られず、反革命の社会民主党らが組織した『ドイツ義勇軍』によって鎮圧されてしまった、と言われている。この時になぜ『レーテ』に権力を獲得していたドイツ労働者階級が資本主義体制の存続を意味した社会民主党を支持してしまったのかははっきりと解明されたものを読んだことがない。
ドイツ1919年革命敗北の総括
なぜ、当時の世界革命が敗北したのかという問題は今日的な世界革命戦略の問題だ。ブレスト・リトフスク条約をめぐる行きちがいはあったにせよ、19年のドイツ革命が成功していたら歴史は変わっていた。その敗北は『マルクス=レーニン主義』者が言ってきたように「社民が悪い」と言ってみたところで何の総括にもなっていない。
当時のドイツ労働者階級がなぜ社民を支持し革命派を敵視したのかを、ロシアにおける革命がドイツ労働者階級を鼓舞し、共感をえて『レーテ』革命=労働者権力を成功させたにもかかわらず、資本主義打倒の『スパルクス団』蜂起が支持を得られなかったのはなぜかを解明する必要がある。この問題を解決しないとドイツ革命敗北=世界革命敗北の総括たりえない。ドイツ革命が勝利していたらレーニンも尊敬すると言っていたスピリドーノワが銃殺されるような歴史の進展はなかった。「社民が悪い」というのでは主体的総括ではない。なおのことこれをこんにちの「社民」批判の論拠にしているのは、どういう思考回路なのか理解不能だ。「ドイツ労働者階級の主体的総括」をするために、小説だが『ベルリン1919赤い水兵』(クラウス・コルドン著)を読み始めている。
「考えてのちに跳べ」だ。(おわり)
読者の声
内部崩壊・市民離散寸前
立憲民主党内反動派を許さない
立憲民主党員・K
立憲民主党の衆議院選敗北をマスコミ的には「複雑骨折」の評あるが、近畿圏での敗北、とくに兵庫7区での敗北とその後の無責任ぶりは「内部崩壊・支援市民離散」の様を呈している。
昨年末の総括会議は『未来』333号に投稿されているが、私は1月22日の2度目の模様を報告する。この種の投稿に対し「敵を利する」「他党の事」という意見もあるが、立憲民主党兵庫県連から明確な態度が示されない以上、野党第一党として支援してくれた市民に事実を明らかにすることが、立憲と野党の再生につながると思いあえて公表する。というのも県連桜井周代表は、12月の総括会議で栗山県連幹事長への批判噴出を、当初は「問題ない」としてきたが、会議の動画を見て、謝罪のための会議の招集を要請してきたからである。
第2回総括会議では選対責任者・小柳久嗣さん(元社会党・社民党尼崎市議8期、現在立憲民主党員)から12点の総括提起。主なものは「党公認候補を当選させるための選挙体制が取られなかった。地元県議の栗山県連幹事長は、個人的争いごとを理由に責任を放棄し事前も選挙期間中も一度たりとも事務所に来ず、支持取り付けも朝立ち・夕立など一切やらず無責任。これは県連代表の責任でもある。この事実に対し党外の活動家に心からのお詫びが必要だ。これを放置すると立憲と市民の信頼関係は崩壊する。崩壊を止めるには、謝罪と幹事長職から解任で、責任ある政党としての姿を見せることだ」
無党派の西宮市会議員をはじめ20人余が参加の中、桜井代表の謝罪と答弁は「県連と言っても個人商店の集まりで組織がない。私自身自分の選挙で精一杯。規律委員会で取り上げるのは敵陣営を応援するなどの明確な違反行為のみ」と相変わらず言い訳に終始。他の立憲県連役員は無言。
参加者から「党外なので黙っていようと思ったが、今後の西宮のことを思い参加した。野党第一党として責任感を持って反省すべきだ」「ポスター掲示をせずウソの報告をする。こんな幹事長を選んだのは人選ミス。選んだ人も責任が」「こんな選対は初めてだ。立憲民主党の幹部が居ない中、他党の人が必死で頑張っていた」などの発言が続いた。他に数人が総括案賛成で意見を述べた。ただ一人立憲民主党の川崎西宮市議が「栗山幹事長がいない場では欠席裁判になる」。川崎議員は闘うふりをしながら絶えずセーブをかけており、立憲内での「栗山の狗」との評価が的を得てると納得した。
3月末の西宮市長選や補欠選が迫る中で、国会議員になるには他人の当選は邪魔とする栗山のような裏切り者がいては選挙は闘えない。一般党員と党外の市民の声で小柳総括案を県連幹事会に提起することを承認したが、このことを放置する立憲民主党は市民から見放されるだろう。
狭山キャラバン始まる
2・20集会へ各地で
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1月23日、狭山再審関西キャラバンが、北阪神・北摂地域でおこなわれた。午前10時の宝塚に続き、12時からは阪急「川西能勢口」駅南のアステ2階デッキで、神戸・大阪からの市民と、地元阪神地域の仲間15人が結集し、ビラまき・アピールをおこなった。通行人の反応は良く、その中には参加の元教職員が顔見知りの元教員もいて、数年ぶりの再会が狭山街宣の場というのは、改めて狭山闘争が、市民の人権意識の広範な基盤になっていることを実感させられた。(写真)
前回は川西の議員や市民が多数参加したが、この日は午後からの憲法集会の準備で参加できなかったが、2・20集会への賛同・参加は約束してくれている。狭山キャラバンはこのあと20日の集会まで各地でおこなわれます。
今後のキャラバン予定
2月5日(土) 京都方面ルート
10時 JR草津駅前
12時 三条大橋(三条京阪)
14時半 阪急高槻市駅・歩道橋上
16時 阪急茨木市駅前
2月12日(土) 神戸方面ルート
10時 JR立花駅前
11時半 JR芦屋駅前
13時 JR西宮駅前
14時半 JR三宮・マルイ前
2月17日(木) 大阪南部
10時 天王寺・歩道橋
11時半 近鉄・矢田駅前 など
2月18日(金) 環状線ルート@
10時 天王寺・歩道橋
11時半 鶴橋駅前 など
2月19日(土) 環状線ルートA
10時 JR西九条駅前
11時半 大正駅前 など
7面
廃炉へ 正念場迎えた島根原発(下)
続く周辺住民の闘い
松上慎二
住民投票請求
2号機の再稼働の是非を問う住民投票の実現を目指し、境港市の市民団体が12月23日、3233人分の署名簿を市選管に提出した。条例制定の請求には有権者の50分の1以上が必要だが、11・4%と大きく上回り、目標の3千人以上も達成した。
12月24日には、米子市の市民団体が、直接請求するために必要な法定署名数の5倍以上、1万3842人分の署名を集め、米子市選管に提出した。
島根県側でも、1月4日には松江市で、必要な約3300人の3倍を超える約1万2000人分が提出された。出雲市では、1月11日から署名集めが始まった。
それぞれ署名提出以来20日以内に、市選管が署名が有効か無効かを審査し、有効であれば市長に条例制定の請求をする。市長は受理から20日以内に市議会を招集し、意見を付して議会に付議することになる。
推進派も動きを強めており、松江市議会は昨年12月に2号機の早期再稼働を求める陳情などを採択している。
2号機再稼働阻止
1号機はすでに廃炉作業をおこなっており、2号機の再稼働を阻止すれば島根原発すべての廃炉に向かって大きく進むことになる。3号機は2012年に運転開始の予定だったが、最終段階で、原発の心臓部ともいえる制御棒駆動機構の故障が発生し、1年近く「原因究明」に費やしたいわくつきの原発。ほぼ完成し燃料も構内に運びこまれているが、対策を講じている間に福島原発事故が起こり、運転できなくなっている。万が一にも2号機の再稼働を許すようなことがあれば、3号機は福島事故以来初めての新規建設原発ということになりかねない。
2号機の再稼働を絶対に阻止しよう。(おわり)
5・29原発のない明日を 老朽原発廃炉大集会へ
1月22日 実行委員会を開催
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多くの参加者で盛りあがった実行委(1月22日) |
本年10月に予定されている関西電力美浜3号機の再稼働を阻止し、そのまま廃炉に追いこむため、これまでより一回り大きな闘争陣形を作る実行委員会が1月22日大阪市内で開催された。
昨年12月5日には1600人が大阪うつぼ公園に集まり大集会を開催。しかしながら本来衆議院選の最大の焦点になるべき課題がスルーされてしまった。この規模を数倍にするため改めて多くの団体に呼びかけ50人規模の集会実行委を目指そうと、中嶌哲演さん、木原壯林さんらが関西一円の政党・労組・団体をオルグ回りした。
1月22日の実行委員会にはこれまでの25人規模から、新たに共産党・社民党・新社会党の元国会議員・役員や生協などの役員が参加し、総計50人を超える実行委員会となった。
実行委の論議では、岸田政権や関西電力の原発にしがみつく姿勢を弾劾し、参議院選挙前の5月29日に大阪市内で大集会をし、参議院選挙の争点にすることを決定。名称は「原発のない明日を 老朽原発このまま廃炉! 大集会inおおさか」で、会場は後日決まる。この実行委員会を起点に、40年超えの老朽原発の廃炉の実現から、原発のない社会を作り出していこう。
伊方原発広島裁判 第26回口頭弁論
福島からの避難者が意見陳述
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1月19日、広島地裁民事第二部(大森直哉裁判長)において伊方原発運転差止広島裁判の第26回口頭弁論期日の取り組みがおこなわれました。コロナ禍の中で広島裁判原告団・応援団らは、リモート参加を中心とする取り組みに変更して万全の対策で臨みました。
午後1時40分、原告らは地裁前で記録撮影をおこない、口頭弁論開始を待ちました。午後2時30分からの口頭弁論で、原告弁護団からは準備書面として「沿岸活断層:要約版」「火山についての主張:要約版」「水蒸気爆発:要約版」「シビアアクシデント対策:要約版」「『避難計画』の要約版」が提出されました。
避難者が意見陳述
続いて京都府在住で福島第一原発事故避難者である第7陣原告の福島敦子さんが原告意見陳述をおこないました。福島さんは過酷な非難の状況を詳細に語り「もう、私たち避難者のような体験をする人を万が一にも出してはいけないのです」と、切々と訴えました。
記者会見・報告会
午後3時からは広島弁護士会館2階大会議室で、多数のリモート参加者も含めて記者会見・報告会が開催されました。まず弁護団から今回提出した準備書面の解説がおこなわれ、福島敦子さんは意見陳述を読み上げ、「被爆地ヒロシマが被曝を拒否する」という伊方原発広島裁判のスローガンに大いに共感し、原告の一員として闘う決意をしたと表明しました(写真右)。
新規仮処分申立却下に即時抗告
これに先立って1月7日には、昨年11月4日の伊方新規仮処分申し立て却下の不当極まりない決定にたいして、抗告人らから即時抗告の抗告理由書が、広島高裁に提出されました。
午後1時からは広島弁護士会館3階大ホールにおいてリモート併用で記者会見が開催され、弁護団による1・19伊方原発広島裁判抗告理由書の解説と、伊方原発広島裁判事務局の「広島高裁吉岡決定に関する声明〜広島高裁抗告理由書提出に寄せて」が発表されました。
伊方原発広島裁判本訴第27回口頭弁論期日は3月14日です。3月16日には福島第一原発事故からの広島への避難者らによる福島原発ひろしま訴訟の期日も広島地裁で予定されています。
反原発の運動を今こそ広範に巻き起こしましょう。
東電刑事裁判控訴審
現場検証を求める署名提出
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2月9日、東電刑事裁判控訴審第2回公判が開かれる(第1回公判の報告は本紙330号を参照)。検察官役の指定弁護士が要求している現場検証と証人採用については、この日に裁判所の判断が示されることになっている。まともな結論を引き出すために民衆の意思を示そうと、1月15日「東京高裁に証人尋問と現場検証を求める集会」が開かれた。また、21日には3回目となる「現場検証を求める署名 提出行動」が約百人の参加をもって東京高裁前で取り組まれた。(写真上)提出された署名は合計1万筆を超えた。
8面
三里塚空港反対同盟旗開き
福島・沖縄・三里塚を一体で
1月7日
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市東さん宅までデモ行進(1月9日) |
1月9日、三里塚芝山連合空港反対同盟の旗開きが成田市天神峰でおこなわれた。12時半、南台の市東さんの畑に集合、市東さん宅前までデモ。終了後、市東さん宅の中庭で婦人行動隊の宮本麻子さんの司会で旗開き。
伊藤信晴さんが挨拶
「2021年は三里塚闘争にとって大事な年だった。芝山町の会場貸し出し拒否の違法性を裁判で認めさせた」「市東さんの農地強奪を、中部・福岡の空港の滑走路増設の動きがあるのになぜやるのか。空港側は記者会見で『第三滑走路を何故作るのか』と問われ、『有事の際には(米軍や自衛隊の)基地の負担を減らす必要がある』と答えた」「沖縄・福島の闘いの中で市東さんの農地を守る闘いがある。戦争をやるために取りあげられるわけにはいかない」
反対同盟が闘争宣言
萩原富雄さんが反対同盟の闘争宣言を読み上げ。動労千葉の関委員長が挨拶。「異議審上告棄却以降、農地の取り上げを阻止してきたことに心より敬意を表します。防衛費が過去最大となり、岸田自身が敵基地攻撃能力を言い出した。三里塚50年の闘いが輝きを放つ時代になった。三里塚と並んで車の両輪として闘う」「JR東日本は職名(運転士・車掌等)を全て廃止し、何でも屋を作る。ローカル線でワンマン運転が始まっているが成田―佐原間でも3月ダイ改から導入しようとしている。昨日の動労千葉旗開きでこれを阻止するためのストライキ宣言を発した」
関西実/関生
関実の松原康彦さん「今年の闘争宣言を支持する。成田空港は当初富里案として計画が俎上に乗せられた。農業破壊(政策)の流れの中で(関東有数の農業地帯の)富里を選んだのが自民党の姿勢を表している。1961年(※農業基本法施行・公共用地の取得に関する特別措置法制定)以来の流れをひっくり返さなければならない。(現在の農政で多くの農民が)米も畑作もあきらめざるをえない。安倍政権以来の攻撃が続いている。三里塚農民と共に打ち砕かなければならない。関西実行委員会は77年以来、反対同盟と共に闘い抜いている」
連帯ユニオン関西生コン支部・西山直洋さんは「市東さんの農地の強制収用を許さない闘いが農地を守り抜いている。闘う仲間への弾圧と闘わなければ生活が維持できないということをもっと広める必要がある。関生弾圧裁判は12月に入って、いい判決が出ている。京丹後市のXバンドレーダー基地反対闘争弾圧裁判で勝利した。元旦闘争を大阪府警前で、400人で闘った。2月3日に国賠訴訟の口頭弁論が和歌山地裁で開かれる。傍聴をお願いします」
反対同盟弁護団
葉山岳夫弁護士は「2004年1月から空港会社が農地を売り渡せと言ってきて裁判が闘われた。一坪の土地も売り渡すことなく闘ってきた。新やぐら裁判の公判に鎌倉孝夫さんの陳述で反論する。市東東市さんの書面の偽造の問題もある。二つの裁判で決着しなければ収用できない。空港会社は倒産の危機にある。コロナ禍でテナントがどんどん撤収している。岸田政権を打倒するほかない。沖縄の先島・本島の闘いと連帯して闘う」
一瀬敬一郎弁護士は「今年は大事な年。2日前に日米2+2会議が開かれた。台湾への(日米の)軍事介入の危機が高まっている。三里塚の闘いはますます重要。新やぐら裁判で4人の証人を出して22年の突破口にする」
市東孝雄さんが挨拶
「昨年の最高裁判決で頭を悩ませたが、結果はどうあれ今まで通りやっていく。幅広く全国の皆さんとつながる。福島・沖縄・三里塚を一体で闘う。地元が力強く闘わないと広がらない。支援をよろしくお願いします」
市東さんの農地取り上げに反対する会・内田博紀柏市議は「市東さんの農地を取り上げさせないために福島・沖縄・反貧困と結びつく。上告棄却されても農地を取らせない。反対する会へのご入会・更新を」。さらに共に闘う団体からの挨拶が続き、参加者には豚汁がふるまわれた。
連載 住民の会 結成50周年を迎えて(2)
三里塚反対同盟と共にさらに前進を
東灘区住民の会事務局長 松原康彦
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三里塚の大地にそびえ立つ岩山大鉄塔 |
当時、関西学院高等部教頭として、学校では大学闘争の影響を受けた学内の問題に苦闘しておられた善偉さんは、甲南教会の長老として私たちと教会の保守的な老人たちとの間に立って、というかその人たちの矢面に立たされて私たちと対立していました。私など「そんなことをやっていたら病気になるよ」と忠告をしていたほどでした。(当時、すでに、善偉さんのお宅に伺えば、大いに呑み、語る呑み仲間でした。酔っぱらった善偉さんから、「今日は横に寝ろ」と何度も泊まることを強要されました。)
「案の定」と言うべきか、懸念していた通り、善偉さんは、1970年、結核で1年間の療養を余儀なくされました。退院される直前が、1971年9月、三里塚の大決戦でした。「戦争が始まっている」と直感した善偉さんは、入院しているみなさんから新聞を集め、「三里塚のファイル」を作られました。後に見せていただいて大いに参考にさせていただきました。しかし、退院してからも、一つの新聞を読み終わるのに一日かかるという状態がしばらく続き、復職してから、話すことも困難で、英語の教師ですから大変だったようです。
1974年、ほぼ平常に教会の活動を含めて日常の教職活動を続けられているのを見て、1975年夏、私にとって念願の「住民の会の代表」に就いてほしいとお願いしました。当時、狭山差別裁判を始め、同和問題に全力を投入して、関西学院高等部の授業の中に「差別問題」をどう織り込んでいくかに苦慮されておられた善偉さんは、しばらく躊躇されましたが「同和問題を優先する」という条件をつけて、代表就任を引き受けてくださいました。
決定的だったのが、1976年夏、白石さんの家族、私の家族(二女はまだおしめをしていました)7人を引き連れて、善偉さんが、三里塚に6日間行かれたことでした。「援農」に行ったつもりでしたが、連日のどしゃ降りの雨。最初に泊まった「闘争会館」が凄い雨漏りで布団をもって逃げ回ったことも今では楽しい思い出です。善偉さんと私たち家族は、それから木の根の小川源さんのお宅にお世話になりました。源さんと善偉さんは底なしの酒飲み。最初の晩は、寝る時間も惜しいという状態で、呑みながら源さんの話を聞き、それを克明にノートにとられたのです。(善偉さんが亡くなられる前、その34年後に家探しして探しましたが、見つからず、非常に残念でした。)そのノートは、それ以降の善偉さんのバイブルのようなものになったことは言うまでもありません。三里塚農民の戦中の兵隊生活、それから解放されての開拓の苦労。ようやく農業が軌道に乗りかけた1966年、突然の成田空港建設の政府決定。それ以降の糞尿爆弾に象徴される源さんの闘い。こうしたことへの感動と、療養中の1971年の三里塚のファイルが一緒になって、善偉さんを捉え、亡くなられる2018年まで、片時も三里塚を忘れないという善偉さんの43年にわたる「最後の人生」が始まったのです。それはその翌年、1977年、岩山大鉄塔の死守を掲げて三里塚決戦勝利関西実行委員会(略称・関実)が結成され、永井満さん、加邉永吉さん(故人)、中島昭八さん(故人)3人の牧師と共に関実の世話人になられたことで、ますます固まりました。
その直後の芝山農協前での抗議集会を、機動隊が包囲し、ガス銃を水平に構えて、私たち座りこんで集会に参加している者に打ち込んできたのには、善偉さんを守ろうとするのですが、2人で地面に伏せながら、「ヘルメットいるなぁ」と話していたことが思い出です。その騒ぎの中で、野戦病院を防衛していた東山薫さんが、機動隊のガス銃を直近から撃たれ虐殺されたことも忘れることができません。
(新空港反対東灘区住民の会『おしらせ』21年11月18日号から転載/つづく)
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