未来・第305号


            未来第305号目次(2020年11月5日発行)

 1面  沖縄は不屈、基地阻止に展望
     玉城知事「民意無視は容認できない」

     再稼働の請願に抗議
     地元の美浜町、高浜町で

     市東さんの農地裁判
     高裁は強制執行認めるな
     判決は12月17日に

 2面  大阪市の廃止には反対
     たち上がる市民、続々と

     学校に自由と人権
     香山リカさんが講演
     10月25日 東京

     変えよう世界と日本
     京都で集会とデモ
     10月18日

     労働運動が重大局面に
     関生弾圧

 3面   学術会議 任命拒否の撤回を
     理由説明せず強権手法      

     菅政権で進む改憲攻撃
     年内に自民党が成案     

     「非正規」格差是正を求めた裁判
     労契法20条 相次ぎ最高裁判決

 4面  人から鬼へ 鬼から人へ
     「撫順の奇蹟」の講演を聞いて
     三船 二郎

     84歳の独り言―出会った人びと@
     白鳥良香さんとキム・ヒロ事件
     大庭 伸介



 5面  尹美香氏「在宅起訴」問題をめぐって
     すべては日本政府が真の解決を遅らせていることにある
     水島 良

     川内原発このまま廃炉へ
     薩摩川内市の集会に200人
     10月11日

     伊方原発差し止め広島裁判
     水蒸気爆発は起きないのか

 6面  投稿
     三里塚農民の地平の考察として
     リービッヒ、フラースとマルクス
     兵庫 見 元博

     連載
     命をみつめて見えてきたもの?
     三位一体でナチスの戦争を推進
     有野 まるこ

     本の紹介
     なぜ若者たちは闘うのか
     小川善照『香港デモ戦記』
     集英社新書2020年 860円+税

       

沖縄は不屈、基地阻止に展望
玉城知事「民意無視は容認できない」

8か月ぶりにおこなわれた、米軍キャンプシュワブゲート前の県民大行動に700人が参加。玉城知事もメッセージを寄せた(10月3日、名護市内)

10月3日、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前で、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため中止されていた毎月第1土曜日の「県民大行動」が2月以来、8カ月ぶりに開かれた。市民ら700人が参加し、新基地建設反対への決意を新たにした。
集会では、県選出の国会議員や県議がマイクを握り、コロナ禍での新基地建設の強行や、日本学術会議が推薦した新会員のうち6人の任命を菅義偉首相が拒否したことなどを挙げ、政府の対応を厳しく批判した。玉城デニー知事はメッセージを寄せ「辺野古埋め立て工事の設計変更承認申請に関する意見書は約1万5000件に上った。これは県内外の多くの方々がこの問題に関心を持っていただいた結果。民意を顧みず工事を強行する政府の姿は断じて容認できるものではない。今後も新基地建設阻止に全力で取り組んでいく」と固い決意を表明した。

意見書提出が成功

土木技師の北上田毅さんは「意見書提出運動は大きな成功を収め、新基地建設を阻止できる展望が具体的に目の前に出てきた。県と話し合いながらこれからも全力で取り組もう」と。沖縄平和運動センターの山城博治議長は「コロナ禍で思うように活動ができない中、全国から多くの意見書が集まった。県民の意見は揺るぎないことを引き続き発信しよう。新内閣が強権を振るおうとも沖縄は不屈だ」と力を込めた。
県は9日、辺野古埋め立て工事の設計変更承認申請に関する意見書が速報値で1万8904件と発表した。13年に埋め立て承認申請が公開されたときの意見書は約3000件だったが、今回はその6倍にふくれ上がった。
県は今後、集まった意見書の内容を確認する作業に入る。その後、名護市などの関係団体・機関の意見も照会する予定。新基地建設阻止を掲げる玉城デニー知事は承認申請に応じない構えだ。最終的な判断は、年明け以降とみられ、年度をまたぐ可能性もある。
19日にはキャンプ・シュワブゲート前の座り込みに、野党超党派の国会議員でつくる、沖縄等米軍基地問題懇談会(会長・近藤昭一衆院議員)が参加した。議員らは辺野古海上の軟弱地盤のある建設予定地なども視察した。
この日、ゲート前からは218台の工事車両が搬入され、そのうち生コン車が111台を占めた。生コンは護岸の上部構造物をつくっており、すでにK2護岸の上部はコンクリートのブロックができている。さらに外側を覆う消波ブロックも積み上げられている。(杉山)

再稼働の請願に抗議
地元の美浜町、高浜町で

高浜町の全員協議会に抗議の声をあげる市民ら(10月23日)

関西電力は、9月末で老朽原発(美浜3号機、高浜1号機)の安全対策工事が終了したとして、来年1月に美浜3号機、3月に高浜1号機を動かすという日程を発表し、各自治体に報告した。関電は、安全対策工事の内容と老朽原発の必要性を説明する名目で、現地を戸別訪問しており、地元の原発推進派から町議会に再稼働推進の請願が出されている。
高浜町では、9月議会に老朽原発の再稼働を進める請願が出されたが、紛糾したため、原子力対策特別委員会での継続審査になった。
美浜町でも地元賛成派から、再稼働推進の請願が出されたが、委員会審議をせずに10月19日の臨時町議会で請願を採択しようとしたのである。
老朽原発うごかすな! 実行委員会が緊急抗議闘争を呼びかけ、福井や関西から50人が美浜町役場前にかけつけた。この日の本会議では、請願採択を強行することはできず、原子力発電所特別委員会で継続審査となった。
10月23日には、高浜町議会で全員協議会がひらかれ、継続審査になっていた請願の取り扱いについて協議。実行委員会の先発隊が、早朝から高浜町役場前で町職員や、住民に「老朽原発うごかすな」と訴えた。全員協議会では11月6日委員会審査、11月12日臨時議会開催が決まった。関電や推進派は、来年の再稼働に向けて突っ走っている。この動きに負けてはならない。11月23日関電本店前から12月9日原子力事業本部(美浜町)までの200キロリレーデモで再稼働反対の声をひろげよう。11月23日、午後1時、関電本店前出発集会に集まろう。

市東さんの農地裁判
高裁は強制執行認めるな
判決は12月17日に

東京高裁へ要望書の提出にのぞむ三里塚空港反対同盟(10月22日)

市東さんの農地の強制的収用を止めさせるための請求異議裁判・控訴審が10月22日東京高裁で開かれた。裁判に先だって高裁近くの日比谷公園霞門前で小集会・デモが行われ、また高裁に強制執行を認めないよう求める「要望書」が提出された。結審が予定されていることもあり、張りつめた雰囲気のなかでの行動であり、裁判となった。またコロナ禍を口実として100人の傍聴席もわずか22席に限定、大多数の参加者が傍聴から締めだされることとなった。
裁判では、最初に市東孝雄さんの意見陳述が行われた。「私は皆さんが喜んでくださる無農薬・有機の農作物を作ってきた。その私の農地と農業を当人に知らせもせずに違法な手続きで無理やり取りあげようとしている」「この農地は生きている、命を生み出している。この農地を取ることは俺の仕事を奪うことだ」と心底からの訴えをおこない、強制執行を認めない判決を求めた。
さらに石原健二補佐人(農業経済学)は、市東さんの農地と農業にこそ公共的価値があることを証言。内藤博光さん(憲法学者)は、「強制的手段は取らない」とした社会的公約にも反する権利乱用だと証言した。
そして弁護団から342頁にわたる膨大な陳述書が提出され、葉山弁護団長はじめ8名の弁護士から、その要約の弁論が行われた。一審地裁判決を全面的に批判するとともに、今回のコロナ禍で航空バブルがはじけ、強制執行の根拠が消滅したことを明らかにした。今回もこの弁論に対しNAAは反証もしない、できないという態度に終始した。
そして菅野裁判長は裁判の終結を宣言、判決を12月17日(木)午後2時と指定した。この弁論からわずか2カ月足らず、これでまっとうな判決文が書けるのか! と傍聴席から怒りの声があがった。
裁判後、弁護士会館ロビーで、傍聴に参加できなかった仲間も含め報告会が行われた。市東さんのあいさつに続いて弁護団各氏から、今日の弁論は多くの三里塚裁判のなかでももっとも力を込めて論じ切った弁論だと解説、判決はどうであれやれることはやり切ったと話した。
12月17日、判決に注目し、可能な人は傍聴へ行こう。

2面

大阪市の廃止には反対
たち上がる市民、続々と

都構想いらないと大阪市内でデモ(10月11日)

維新と公明党による金と権力を使った宣伝を凌駕する行動が巻き起こっている。
堺市民は〈堺からのアピール〉などの呼びかけにこたえて、毎週土、日に大阪市西成区で街頭宣伝をおこなっている。当初4チームで出発したが12チームにまで膨れ上がった。20代の女性は友人とともに参加しマイクアピールをおこなった。住民との会話も進み、シール投票では賛成に貼った人が、その場で話しこみ、反対に貼り替えることも。ある市営住宅では「市営住宅はなくなりません」と書いてある維新のビラに、「市がなくなるのにそれはないやろ。ここまでウソをつくのか、みんなで反対投票に行く」と怒りの声があがった。
〈大阪・市民交流会〉の呼びかけで行動する人も多い。市外の市民連合も続々と大阪市に入り、路地裏では反対チームどうしがエールを交換する場面もたびたび見られた。

学会員の反乱

公明党は維新のどう喝に屈し賛成に転じたが、許せないという創価学会員が多い。
反対派の宣伝隊には公明党のポスターが貼ってある家に話しかけに行く人もいる。すると「二重行政の無駄なんてない。私は反対」とか、「脅しに負けて山口(公明党代表)は大阪に来たが彼の話で賛成になった人は、私の周りではいない」との答え。れいわ新選組の大石あきこさんとともに実名を出して「都構想反対」をマイクアピールする人もあらわれた。宣伝カーを運転していた人が、車上からマイクで、「学会員です」と自己紹介することも。公明党の転向に怒りが渦巻いている。
こうした動きに「吉村人気」で勝てると考えていた維新も慌てだした。松井や吉村は公務をほっぽりだして、維新お得意の全面ガラス張りの宣伝カーで市内を回りだした。
期日前投票の会場=区役所前に維新の宣伝隊が張り付きだした。反対街宣をしようという場所に維新が街宣予定がなくても場所取りをしていることにも出くわす。練り歩きが維新の宣伝隊ととぶつかることも多い。しかし維新の宣伝は「反対派の言ってることはデマ」と言うだけでまったく中身がない。
当初賛成が圧倒していた世論調査も最後の日曜日の10月25日には複数の調査で反対が上回った。決して楽観することはできないが、今回の市民の行動は住民投票後の、維新打倒のたたかいの大きな財産になるだろう。

学校に自由と人権
香山リカさんが講演
10月25日 東京

10月25日、東京・日比谷図書文化館で「学校に自由と人権を!10・25集会」が開かれた。主催は10・23通達関連裁判全都原告団を構成する10団体。148人が参加した。
集会では、〈「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会〉近藤徹さんが開会のあいさつ。「都教委が10・23通達を出して17年。述べ430人が処分された。小池都政はコロナで校歌斉唱を中止しても『君が代』は歌わせている。生徒の命より『君が代』が大事だということ」と話した。
続いて日本学術会議の会員に推薦されながら菅に任命拒否された早稲田大学教授の岡田正則さんが発言。「任命拒否は学問の自由とは関係ないと言っているが、こんなことが許されるのか」と怒りを表明し「集会の自由は人権であって私権ではない。『パブリック』は『私』の意味だ」と指摘し、明治時代に仏・英の民法を排除してドイツ民法が導入されて以来、権利についての無理解がこの国を覆っていると述べた。
都立高校教員で東京「君が代」裁判第5次訴訟原告予定者の鈴木毅さんと川村佐和さんが特別報告。休憩をはさんで、精神科医で立教大教授の香山リカさんが講演し、次のように話した。

憲法の精神を伝えて

安倍の辞任で少し安心していたが、菅政権の登場で学問・教育の正念場が来てしまった。任命拒否に至る「動線」はあった。2017年に『科学研究費の闇』という記事を産経新聞が出した。「日本のためにならない研究に税金が」と言って切り込んだのが杉田水脈。そうした言説に共感する人はいる。こうしたキャンペーンが2年以上続いた。「すぐに役立つ研究がよい研究なのだ」と言う声が大きくなっている。
ヒトラーが笑顔で少女を抱き上げている写真に「ヒトラーにも人の心があった」というツイッターの投稿に、1万3000件近くの『いいね』がついたという記事を10月24日付の日経電子版が伝えている。これが本質を見ない教育が実現しようとしたものだ。
「権力者に都合のよい研究」「すぐに役立つ学問」は失敗している。「中国『千人計画』で日本の技術が盗まれる/参加の東大名誉教授が告白『中国は楽園』」というデイリー新潮の記事は、「学術会議は中国とつながっている」と描き出そうとしたものだが、逆に日本の現状が浮き彫りになっている。すぐに「成果」の出る研究でなければカネが出ない日本とちがい、中国政府は「タケノコに付くダニの研究」のような研究でも資金を出して自由にやらせているというのだ。記事の最後には「見えてきたのは日本の学術研究の目を覆いたくなる惨状だった」とある。
最近、自殺者が増えている。7月までは前年同月比で減っていた。若い女性の自殺が増えている。自分には生産性がないのではないか、と悩む人がいる。「生産性」を価値の基準に据えるのは国が進めてきたこと。
憲法の精神を子どもたちに教えるのは喫緊の課題。当たり前のことをやっていることに自信を持ちましょう。

変えよう世界と日本
京都で集会とデモ
10月18日

八坂神社からデモに出発(10月18日)

14回目となる反戦・反貧困・反差別共同行動 in 京都が、10月18日、京都市内の円山公園音楽堂でひらかれた。今年のテーマは、「ポストコロナ、ポストトランプ・安倍〜われわれは、どのような社会をめざすのか〜」。430人が参加。沖縄選出の参議院議員の伊波洋一さんと京都精華大学教員の白井聡さんが講演。〈戦争あかん!基地いらん! 関西のつどい〉の中北龍太郎さん、連帯労組関西地区生コン支部の西山直洋さん、社会民主党の服部良一さん、大椿ゆうこさんが発言した。

労働運動が重大局面に
関生弾圧

「2017年12月、連帯労組関生支部が実施したストライキ」を「威力業務妨害」として起訴した事件の判決が10月8日、大阪地裁で出された(前号既報)。判決には労働者や市民250人以上がかけつけた。西山直洋執行委員とYさんのふたりに「懲役2年6月執行猶予5年」の判決の一報が届くと、地裁前の公園に集まった仲間たちは、「裁判所は大阪広域協組や警察のいいなりになった」「憲法28条を無視するのか」と怒りの声を上げた。ふたりは即日控訴。
刑法の「威力業務妨害」とされたのは17年12月12日の宇部三菱KK大阪港サービスステーション(SS)でのストライキ行動。この弾圧は9カ月後の18年9月から始まり、計20人が逮捕され、10人が起訴された。そのうち現場にいなかった執行部を対象にした大阪第2事件(3人起訴)の2人にたいする判決である。
これは生コン5労組(関生支部、全港湾大阪支部など)と経営者会(広域協)が交わした春闘協定書(15〜17年)の「価格適正化が実現したら生コンとバラセメントの輸送運賃を引き上げる」という約束の履行を求めて、事前に催告や説得を重ねた上で実施したものである。当日も入場・出荷労働者へのビラまきや説得工作を中心とした行動だったことが、法廷の証言や映像で明らかになっている。運輸会社植田組は事前にスト破りの動員やプラカードなどを用意して、ストに対抗しようした事実も明らかにされた。また当日の「出荷」についても、本当に注文あったのかどうかさえ疑問がある。当日の宇部三菱大阪港SS前には、関生支部の組合員の数を大きく上回る輸送会社の管理職や社員、宇部三菱の社員、SSに隣接する生コン工場・関西宇部(宇部興産の100%子会社)の社員たちが動員された。バラ車の前に立ちはだかっていたのは彼らだった。約束を守らず、組合に挑発をくりかえす企業に怒りの声を上げるのは当然だ。
また、当日は大量の警察官が動員されていたが、現場逮捕はなかった。現場では迂回しての入出場やストライキ行為に応じての断念もあり、すべては刑事免責の範囲だった。刑法上の威力業務妨害はありえない。これが裁判で明らかになった事実である。

ストライキを違法視

ところが判決要旨では、「くり返し」「大声で乱暴な言動」で「物理的心理的に妨害」したと決めつけて、ビラまきや説得行為を違法とした。その上に、「実質的労使関係がない」「争議行為の相手方となる使用者ではない」という理屈を使い有罪にしたのである。この宇部三菱KKSSは広域協の中心人物である地神秀治の強い影響にある。そこにストライキ行為を設定するのは当然である。そうしてこそストライキは効果を発揮し、不誠実な経営の譲歩を引き出すことも可能になる。これを憲法と労組法は容認している。判決は全金など戦後労働運動が血と汗で築いてきた産別労働協約や使用者責任拡大の流れを否定し逆転させるものだ。
現場にいなかったにもかかわらず「執行部の共謀」とされた西山執行委員にたいして、判決は「争議対策部長である」「現場にいた組合員からの複数回の通話記録が残っている」ことが「共謀」の証拠とした。Yさんは、事前に大阪兵庫生コン経営者会責任者の地神とスト回避のための「交渉」をおこなったことが共謀とされた。これは共謀罪の労働組合活動への適用に道を開くものだ。
判決要旨には憲法28条や労働組合法の刑事免責についての言及がまったくない。企業の御用組合以外の労働組合をすべて否定するための布石とさえ感じる。この不当判決で、労働運動は重大局面をむかえている。次の判決となる京都関係の12月17日京都地裁での判決、来年の大阪地裁での武委員長の裁判や大阪第1次事件(現場ストライキ組合員弾圧)の無罪獲得へたたかいを強化しよう。(森川数馬)

3面

学術会議?任命拒否の撤回を
理由説明せず強権手法

9月菅政権が成立し、10月26日から臨時国会が始まった。菅は所信表明演説で日本学術会議問題には一切触れなかった。任命拒否問題は菅政権の本質が、安倍政権以上の強権政治であることを刻印した。
日本学術会議は、戦前の治安弾圧や国家権力による学問の自由の侵害の歴史、学者・研究者の戦争協力にたいする反省から設立された。学問の自由は、憲法19条/思想と良心の自由、20条/信教の自由、21条/集会・結社・表現の自由などと一体で、基本的人権の骨格をなす。そのため国の責任で、独立した機関として日本学術会議が設立されたのだ。
会員の選出方法は、当初の選挙制などを経て、2000人の関連会員の推薦で210人が選ばれ、首相が任命する形になった。1983年の中曽根内閣は、「政府がおこなうのは形式的任命にすぎない。学問の自由、独立はあくまで保証される」と答弁している。つまり、国会で選出された内閣総理大臣の任命を天皇が拒否することができないのと同じように、首相が日本学術会議の会員の任命を拒否することはできないのだ。菅首相は任命拒否の理由を「国家公務員の任命権は首相にある。前例にとらわれず、総合的、俯瞰的に判断した」と話した。これでは何の説明にもなっていない。
日本学術会議は2017年3月、「軍事的安全保障研究に関する声明」を発表し、「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」とした1950年の声明を継承するとした。これが任命拒否の直接の理由であることはあきらかだ。
この声明は、安倍政権が武器輸出三原則を廃止し、翌15年に発足させた防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」によって軍学共同に拍車がかかることへの懸念を示したものであった。菅首相による任命拒否は、「科学者の戦争協力反対」を理念としてきた日本学術会議の人事に介入し、政治的な圧力を加えることでその理念の放棄を迫るものである。先の戦争の反省に立って行動することじたいが「悪しき前例主義」であり、攻撃の対象となるということだ。

マスコミ支配も

安部政権時、モリ・カケ・桜で明らかになった公文書改ざん・廃棄問題は終わってない。政府に都合の良いように法令を解釈変更し、不都合な事実は公文書を改ざんして隠蔽する。こうしたアベ政治を菅政権はそのまま引き継いでいる。
今回の任命拒否問題では、下村博文自民党政調会長や、河野太郎行革担当相、甘利明元経産相など幹部が論点すりかえと、学術会議にかんしてありもしない事実をねつ造している。マスコミにおいても、フジテレビ上席解説委員の平井文夫が「学術会議会員は学士院会員となり年間250万の年金が生涯もらえる。私たちの税金から」など根も葉もないデマを流した。
またテレビのコメンテーターの言動はすべて元警察官僚で内閣官房副長官の杉田和博のもとに集中されており、「政府に批判的な発言」をした人物のリストが作られている。こうしてマスコミを意のままに操ろうとしているのだ。
今回の任命拒否に、歴史学研究会はじめ500を超える学会、大学の教授会、日弁連、映画人、宗教団体などが抗議を表明している。6人の任命拒否を撤回させなければならない。(岸本耕志)

菅政権で進む改憲攻撃
年内に自民党が成案

「安倍政権の継承」をかかげた菅政権に、民主主義を期待する人はいない。早速、学術会議の会員任命に、独裁姿勢をむき出しにした。菅官邸は日本学術会議が推薦した新会員105人のうち、6人の任命を拒否。加藤官房長官は「首相のもとの行政機関であり、(人事を)おこなうのは当然だ」とし、説明を迫られた菅首相は「前例を打破…総合的、俯瞰的に判断した」と述べた。任命拒否の理由を言わない理由は明白である。6人の研究者が、安保関連法や共謀罪法に異議、異論を表明したから。科学を国に従わせるためだ。「官邸に意見を言う官僚は異動させる」に同じ。「前例打破」とは、法解釈は政権の都合で変更するということである。
集団的自衛権の行使容認について法どころか、閣議により憲法解釈すら変更し、安保法(戦争法)を強行したのが安倍政権。今年1月、官邸お気に入りの東京高検黒川検事長の定年延長を閣議決定し、検察庁法にもとづく定年を「国家公務員法が適用される」と解釈し、抱き合わせ改正案を持ち出した。そういう手法を「しっかり継承」しているのが菅政権だ。
前首相は辞任に際し異例の談話で「(北朝鮮=ママ)は弾道ミサイルを数百発、核兵器の弾頭化を実現、わが国を攻撃する能力を保有している…。防衛しうる迎撃能力確保を、次の内閣でしっかり議論してほしい」と、停止したイージス・アショア対応を「年内にまとめるよう」促した。菅政権は、米軍駐留費(思いやり予算)などの負担増を迫られる。前政権から防衛費は毎年増加し、20年度当初予算は5兆3133億円に。防衛省は21年度概算要求を過去最大の5兆4000億円と計上する予定だ。

挙党態勢を指示

10月13日に自民党憲法改正推進本部が、改憲原案起草委員会の初会合を開いた。衛藤征士郎・本部長は「(菅総裁から)挙党態勢で精力的にとりくんでほしいと言われた」と述べ、これまでの「素案」から年内に成案とする方針を決めた。18年に自民党がまとめた素案は、@9条2項に自衛隊を明記、A緊急事態条項新設、B参院合区解消、C教育の無償化の4項目。もちろん@が眼目だが、Aは「災害対応は現行法で十分にできる」(永井幸寿・弁護士)どころか、政府・自民はコロナ禍最中の通常国会を早々と閉じ、野党の開会要求を無視し続けた。BCも法律で対処できる。Cは現憲法26条に既に明記されており、改憲に誘導しようという意図が明白である。(俊)

安倍政権7年8カ月の主な改憲動向

12年12月 自民が政権に復帰。安倍首相「96条
     (国会議員  賛成条項)改正」を明言)
13年12月 国家安全保障会議(NSC)発足
       特定秘密保護法が成立
14年 7月 集団的自衛権の限定行使を認める閣議決定
15年 4月  日米軍事協力のガイドライン改定(18年ぶり)
    9月 安全保障関連法(戦争法)成立
16年 7月 参院選、自公改憲勢力が   
17年 5月 首相「9条改憲、自衛隊明記」を表明
18年 3月 自民党大会「改憲4項目」をまとめる
   7月 与党提出の国民投票法改正案、衆院憲
      法審で審議入り以後、継続審議
12月 辺野古新基地沿岸部に土砂投入を開始 
   ―第1次政権― 
06年12月 教育基本法改悪
07年 5月 憲法国民投票法が成立

「非正規」格差是正を求めた裁判
労契法20条 相次ぎ最高裁判決

旧労働契約法20条は、「有期雇用による不合理な格差」を禁じている。しかし、「業務の内容及び当該業務に伴う責任の程度(職務の内容)、職務の内容及び配置変更の範囲、その他の事情を考慮し不合理と認められるものであってはならない」と、不合理性の判断にあたり「考慮すべき事情」が設定されている。資本側はこれに依拠し「長期雇用のインセンティブ論」を主張、格差の不合理性を否定してきた。

最高裁、反動判決

10月13日、最高裁第3小法廷は、@大阪医科大事件とAメトロコマース事件について、退職金・賞与の非正規格差を不合理と認めず、その支払いを命じた2審判決を覆す不当判決を下した。結局、長期雇用のインセンティブ論の正当化だ。
@は、事務のアルバイト職員の訴えに、高裁が「(賞与支給基準が)正社員の6割未満は不合理」としたことに、最高裁は「正職員の人材を確保する目的で支給、職務も違う。不合理な格差に当たらない」と引っくり返した。Aは、高裁が「(退職金を)正社員の4分の1すら支給しないのは不合理」とした。これも「正社員とは業務内容が違う。正社員への登用制度があった」と差別を容認した。
Aの事件では5人の裁判官のうち、1人が反対意見を述べたが、@の事件では5人が一致し、新聞等は「経営側の裁量を広く認定。格差解消への筋道、司法示さず。同一労働同一賃金指針に不備」と報じた。メトロコマース支部を擁する全国一般東京東部労働組合執行委員会は、「格差容認などという生やさしい言葉で表せない。差別の扇動というほかない。何百回でも立ち上がる」と、即日コメントを発表した。
18年6月に判決の長澤運輸事件では、高齢者雇用安定法に基づく嘱託再雇用を旧労契法20条の「その他の事情」に当たるとし、賞与の不支給を「不合理ではない」と容認。同日のハマキョウレックス事件は、この点(賞与、退職金の不支給)を判断せず高裁に差し戻す判決。最高裁は一貫して使用者負担の大きい賞与、退職金の不支給という大きな格差を「賃金の総額を比較することのみによるのではなく、当該賃金項目の趣旨を個別に考慮すべき」という理由で是正しない。
旧労働契約法20条は「パートタイム・有期雇用労働法」8条(20年4月施行)に引き継がれたが、2100万人超の非正規雇用労働者の不安定な状況を打ち破るには、さらにたたかいが必要である。

日本郵便判決

10月15日には、最高裁第1小法廷(山口厚裁判長)が日本郵便の3つの上告審(原告は東京3人、大阪8人、佐賀1人)について、@扶養手当、A有給の病気休暇、B年末年始勤務手当、C年始の祝日給、D夏休み・冬休み(有給)(E住居手当は会社の上告を受理せず確定)の6項目の手当・休暇についての格差が不合理である(旧法20条違反)と認定、損害賠償を認める判決を出した。一方で夏季・年末手当(一時金)の大幅な格差については労働者の上告を受理せず、東京・大阪両高裁の不当判決を是正しなかった。しかし、これは非正規雇用労働者の待遇改善への道を大きく一歩進める成果だ。
争点の一つ、扶養手当について大阪地裁ではいったん認められたが、大阪高裁は「長期雇用を前提とした生活手当」として認めなかった。最高裁では、「契約社員も扶養親族があり、相応に継続的な職務が見込まれる」と扶養手当の支払いを命じ二転三転した。 18年10月、日本郵便は東京・大阪両高裁の「住居手当・年末年始勤務手当の格差は違法」との判決受け、正社員の住居手当廃止を強行した。また年末年始手当を「年始手当」に一本化、期間雇用社員・アソシエイト社員も対象に加えた。「差別が違法」とされたことに正社員の待遇を下げ非正規に合わせるというのは卑劣そのものだが、「時代の扉が動いた」のは確実である。郵政産業ユニオンの6年におよぶたたかいに敬意と連帯を表明する。(関西合同労働組合/石田勝啓)

4面

人から鬼へ 鬼から人へ
「撫順の奇蹟」の講演を聞いて
三船 二郎

10月3日、南京の記憶をつなぐ2020プレ企画が大阪市内でひらかれ「人から鬼へ 鬼から人へ 撫順の奇蹟とはなにか―中国におけるBC級戦犯裁判について―」と題して、姫田光義中央大学名誉教授が講演。銘心会南京の松岡環さんが特別報告をおこなった。会場は満杯になった。 以下はこれらの報告を聞いた私の感想である。

「撫順の奇蹟」とはなにか

シベリア抑留のことは反共主義の立場からこれまでマスコミ等で大々的に宣伝されてきたが、「撫順の奇蹟」のことは我々のなかでもその内容はなかなか知られていない。私自身、恥ずべきことに「撫順の奇蹟」という言葉は知っていてもその詳細は知らなかった。
しかし、『三光―日本人の中国における戦争犯罪の告白』や『侵略』という書籍は反戦闘争や入管闘争を闘ってきた人であれば一度は手にとり読んだことがあるはずである。私も獄中でこれらを読み日本軍の残虐さに戦慄した一人である。
これらの手記を書いた人たちが「撫順の奇蹟」を体験した人たちなのである。彼らは1956年に帰還すると中国帰還者連絡会(中帰連)をつくり、翌1957年には自ら綴った手記の中から15編を選び、15枚の写真を掲載して光文社から前掲『三光―日本人の中国における戦争犯罪の告白』を出版した。わずか20日間で初版5万部が売れ6版を重ねベストセラーとなった。しかし、右翼が書店を襲い、日本刀を抜いて出版社を脅迫した。しかし、中帰連は一歩もひかず手記と写真をさらに追加して翌1958年に再版を発行した(書名は『侵略』)。
1982年、教科書検定で「侵略」を「進出」とする問題がでてきたとき、中帰連は侵略戦争の実態を訴えるため『新編三光』を出版した。2002年、中帰連は高齢化のため解散したが、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」を結成し若い世代を組織して現在も闘い続けている。

「撫順の奇蹟」の根底には革命中国の息吹が

1949年12月、内戦に勝利した毛沢東と周恩来はスターリンと会談し、日本人戦犯を中国に引き渡すことを決めた。スターリンは更生の見込みがないという見解だったが、中国は戦犯を獲得するという立場に立っていた。この立場から「戦犯の人格を尊重し、侮辱したり殴ってはならない。一人の死亡者も出してはいけない」という方針が生れていった。
なぜこのような違いが生れたのか。ソ連は1917年の革命精神を忘れ、農民や党員の大虐殺をおこない大きく変質していたが、中国は今まさに革命の息吹が満ち溢れ、人間の人間的解放が息づいていたからである。 日本鬼子となっていた戦犯はこの革命中国の息吹に触れるなかで人間性を取りもどしていったのである。

人間性を取りもどす過程は中国共産党が

戦犯たちが収容された撫順戦犯管理所の看守は全員、八路軍の「中隊長、小隊長クラス以上の将校」(金源『撫順戦犯管理所長の回想』73p)によって構成されていた。
しかし、長征をやりぬき辛酸をなめつくしてきた古参の党員は「我々の同胞を数え切れないほど殺した日本鬼子をどうして生かしておくのか」と抗議し任務の変更を強く要求した。また自分の家族を目の前で殺した戦犯を同管理所で発見した看守もおり、日本鬼子に対する怒りは激しいものがあった。金源所長も看守も日本帝国主義に侵略され略奪されてきた貧農たちであったため怒りは激しいものがあった。
しかし、当時の中国共産党は「戦争犯罪の原因は個人的なものではなく歴史的社会的なものである」「死刑ではなく彼らをして平和を愛する人たちに生まれ変わらせることが根本的な解決方法である」「それ故、中国は日本人戦犯を一人たりとも死刑にせず、彼らを教育して更生させる方針を決めた」(同書104p)等々と説明し、議論の結果、拒絶していた党員も戦犯の人間性を取りもどす任務に積極的に就いていった。
姫田名誉教授は「撫順の奇蹟」は平頂山村での虐殺と一体だと説明し両方合わせて世界記憶遺産にすべきという意見を述べていた。これは撫順近くの平頂山村での3千人を超える虐殺のなかで「撫順の奇蹟」がおこなわれたことの重要性を指している。看守となった人たちのなかには平頂山事件で家族を殺され八路軍に身を投じた人も少なからずいたから恩讐を越えるというのは並大抵のことではなかった。しかし、これを乗り越えた力は新生中国に満ちていた革命的息吹と八路軍の精神的高さであった。

処罰主義や処刑は何も生まない

「撫順の奇蹟」の根底には姫田名誉教授が指摘するように八路軍・新四軍が実践した「日本軍捕虜」に対する人間的政策があった。
革命中国の息吹を受けるなかで人間性を取りもどしていった戦犯たちの思いが付け焼刃ではなかったことは中帰連の闘いが示すとおりである。
「管理所職員の熱心な教育や助力によって、ついに彼らは心を動かされ、悔恨の涙を流したのである」「身をもって誤りを知った以上、どうして再び身を誤りに投じることができるでしょうか。私たちは戦争に絶対反対します。そして再び戦争へと人々を追いやる軍国主義に絶対反対します」と戦犯たちは決意するに至った。
八路軍の看守と戦犯たちとの一体となった人間性回復の感動的過程はとうていここでは言い尽せない。ぜひ前掲書等を読んでみてほしい。

文革で否定される

しかし、「撫順の奇蹟」をおこなった戦犯管理所の金源所長は文革時、日本鬼子を擁護したとして130回も「自己批判」を要求され、ついには農村に下放された。その他の看守たちも同様の運命をたどった。
この背景には「撫順の奇蹟」の後、映画『死霊魂』にあるとおり1957年からの「反右派闘争」という名の革命の否定により革命中国の息吹が血の海に沈められていったことも要因としてある。

日本人に何を問いかけているか

「撫順の奇蹟」を客観主義的に礼賛するだけであってはならない。主体的にとらえていかなくてはならない。「撫順の奇蹟」で革命中国が目指したものは戦争の根絶である。では戦争の根絶はどうやったらできるのか。そのために帝国主義本国たる日本にいるわれわれは中国、朝鮮を含めたアジアの民衆との真の連帯をどうしたら実現していけるのかということもこの闘いのなかで考えていかなくてはならないのではないだろうか。「撫順の奇蹟」は実に多くのことを我々に示唆している。

84歳の独り言―出会った人びと@
白鳥良香さんとキム・ヒロ事件
大庭 伸介

白鳥良香さんは静岡における浜岡原発反対闘争のリーダーであり、零細商工業者の立場に立ってイトーヨーカドーの出店阻止闘争の先頭で頑張ったり、行動の人である。
私が白鳥さんと親しくお付き合いするようになったのは、オウムに対する破壊活動防止法団体適用阻止の闘い以来である。
1951年、静岡高校を卒業して間もない5月、白鳥さんは静岡市の浅間神社前の宮ヶ崎交番に火炎瓶を投げ込んで、逮捕・勾留された。その前年に勃発した朝鮮戦争に反対する共産党の行動の一環だった。白鳥さんは党員(兼・民青県委員長。常任。のち1962年に脱党・除名)として、任務を忠実に実行したのである。 静岡刑務所に拘置されているとき、隣の房に暴力事件で逮捕された1人の在日朝鮮人が入所してきた。金嬉老である。白鳥さんは運動場で顔を合わせたキム・ヒロに「あんたの祖国で戦争が起きて大変なことになっているのに、つまらない暴力事件なんか起こして駄目じゃないか」と叱りつけた。キムが「じゃあ、どうしたらいいんだ。教えてくれ」と尋ねたので、白鳥さんは「世の中がどうなっているのか勉強しろ」と言って、恋人(のちのお連れ合い)に『共産党宣言』など数冊の書を、キム宛に差入れてもらった。キムはそれらの書を読んで立ち所に理解したので、社会科学の素養もないのに頭のいい人間だと感心した。
それからしばらくして、千葉刑務所に在監中の面識のない共産党員から、白鳥さん宛に手紙が届いた。「キム・ヒロという朝鮮人がマルクスの言葉を使って係官をやり込めている。誰に教わったのかと尋ねたら君の名前を言うので、真偽を確かめたい」という内容である。キムは共産主義者にはならなかったが、彼なりに反権力闘争≠実践していたのである。
1968年、有名な金嬉老事件が起きた。その1年程前にキムは何か相談したいことがあって、その頃実家のある井川村(現・静岡市の最北端)で働いていた白鳥さんを訪ねようとした。ところが途中で乗っていたスクーターがエンストを起こしたので、通りがかりの車にその旨を白鳥さんに伝えてくれと頼んで引き返した。
その1年後、キムは清水のキャバレーで殺人事件を起こし、大井川上流の寸又峡温泉の旅館に立て籠もった。この事件は朝鮮人に対する差別と偏見が何をもたらすかを、日本につきつけたものである。しかし日本国家は殺人・監禁・爆発物取締罰則違反等の単なる刑事事件として処理し、事件の持つ本質的な意味を抹殺した。
ベトナム戦争の反戦脱走米兵を支援したフランス文学者の鈴木道彦らが、キム・ヒロ支援に立ち上がった。彼をはじめ数人の支援者が裁判の終わるまで、白鳥さん宅に宿泊した。白鳥さんが証言台に立ってキムを支援する証言をおこなったことは、言うまでもない。(つづく)

(おおば・しんすけ)
1936年静岡県生まれ。静岡大学文理学部中退。総評地方オルグとして愛知県・化学産業を担当。静岡県評書記、全日建連帯労組静岡県セメント生コン支部副委員長、静岡ふれあいユニオン副委員長を歴任。主な著書に『浜松・日本楽器争議の研究』(五月社、1980年)、『レフト―資本主義と対決する労働者たち』(私家版、2012年)。

5面

尹美香氏「在宅起訴」問題をめぐって
すべては日本政府が真の解決を遅らせていることにある
水島 良

韓国検察は、9月14日、正義連前理事長、現国会議員尹美香さんと正義連職員1人を在宅起訴した。正義連と尹美香さんは直ちに強く抗議し、裁判闘争を堂々とたたかうと表明した。
9月27日、神戸市内で「そこが知りたい! 尹美香・正義連バッシングの真相〜日本軍『慰安婦』問題の解決のために」集会が開かれた。講師は、日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表の梁澄子さん。 梁さんの話をもとに、尹美香氏「起訴」の内容と問題を考えたい。

「疑惑」は不起訴

保守系メディアを中心に尹美香さんが、挺対協・正義連の資金を「個人的に横領」し、正義連が「補助金等の不正使用、虚偽報告、背任」があったと大々的に報道され、保守系団体から告発されていた17件について、検察はすべて不起訴にした。ソウル西部地検発表資料によれば、「適正な支出であり、横領の根拠無し。小さい手続き的ミスはあるが容疑とはならない」とその理由も詳細につけている。
例えば、もっとも騒がれた「団体資金を流用させて娘の米国留学費用を出した」件について、「資金は尹美香夫婦、親族の資金、夫の刑事保証金で大部分充当されたと確認された」(夫はかつて「政治犯」とされたが、やり直し裁判で冤罪とされ賠償金を受け取っている)。
また「正義連は3年間の寄付金収入約22億ウォンのうち被害者支援には9億しか使わず残りは他に流用していた業務上横領」事件について、「正義連の事業は被害者に対する直接支援事業だけではなく、追悼、教育、海外広報、奨学金等、多様であるため、寄付金を他の事業にも使用できるので横領ではない」と明快に判断している。

起訴ありき

にもかかわらず6件の容疑で在宅起訴にした。「被害者の海外旅行経費などを尹美香個人名義で支出し、のち法人から領収書なしで支出させた」、「国の補助金から出ている職員の人件費を、その職員から団体に寄付させた」などで、とにかく「起訴ありき」なのである。さらに「17年11月、認知症を患う被害者(吉元玉ハルモニをさすと思われる)をだまして正義連(当時は正義記憶財団)に寄付させた凖詐欺容疑」に至ってはとても許せないものだ。筆者自身、その後何度か来日された(最後は19年7月)ハルモニの姿や言葉に直接接している。たしかに体調不良のご様子だったがその意志は明確だった。「当該ハルモニの精神的・肉体的主体性を無視したものであり、『慰安婦』被害者を再び侮辱するもの」(尹美香さん)である。

悪質な日本メディア

日本メディアについてやはり弾劾しなければならない。「前理事長を在宅起訴 元慰安婦支援団体、補助金不正か」(9月15日付朝日など大きく報じているが、検察自身が「大騒ぎ」した容疑を不起訴にしたことはほとんど伝えていない。さらに正義連が5月以来、保守系メディアの歪曲、ねつ造記事について言論仲裁委員会に調停を求め、5、6月の2カ月だけでも11件のうち6件が調停成立(記事削除、訂正報道、正義連の反論掲載)となり、5件に強制訂正命令(訂正報道、反論掲載、タイトル訂正等)が出ていることも報じていない。また運営主体の宗教組織の不正が明るみに出た「ナヌムの家」問題と同列に論じて「慰安婦」運動全体を貶める論調である。

梁さんは、以上を踏まえて「尹美香さんへのバッシング報道は、5月7日の李容洙ハルモニの記者会見が発端ではなく、尹さんの3月20日の韓国総選挙への与党からの立候補表明が出されたときにすでに始まっていた。5月以後の攻撃はハルモニの記者会見の一部を利用し歪曲したのだ。
これらの動きの核になっているのは韓国社会の旧秩序を維持し、既得権を守りたい、キャンドル革命を否定し、直接には文在寅政権に反対する勢力だ。その意味では、「慰安婦」問題のみならず、韓国社会のあり方がかかっている問題だと指摘した。
今、コロナ下の条件に制約されながらソウルの水曜デモは続けられ、若者の姿が絶えることがない。尹美香さんや水曜デモを一度は批判した李容洙ハルモニも、再度正義連とともにたたかうとメッセージを発している。
ベルリン市ミッテ区の公立公園に立てられた「少女像」を日本政府が撤去させようとしたのに対し、世界的な市民の声で行政を動かし存続の可能性が開かれている。
今年は11月に挺対協発足30年を迎え、12月には2000年女性国際戦犯法廷から20年となる。問題は何よりも日本政府が解決を遅らせていることにある。

川内原発このまま廃炉へ
薩摩川内市の集会に200人
10月11日

10月11日、「川内原発 このまま廃炉! 20年延長絶対反対! 10・11集会が九州電力川内原発(写真下)がある薩摩川内市内でひらかれ200人が参加した。主催はストップ・川内原発3・11鹿児島実行委員会。毎年3月にひらかれていた集会が、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、2度にわたる延期の末、ようやくこの日の開催となった。
集会で発言した薩摩川内市議の井上勝啓さんは「原発をほぼ40年間にわたって経営してきた九州電力は工業団地開発のための土砂に25億円をつけて川内市に渡した。九電はまた港湾開発地帯と久見崎を結ぶ道路をつくり、現在は県道43号線を改修する資金も出し、コンベンション・ホールを建設し、古くなった文化ホールの解体費用まで九電が持っている」と「まるで九電が薩摩川内市を買い取る勢いだ」と話した。
電源協力金や電源立地交付金は原子力ムラの利権。地元の商店街はシャッター街なのに! とあきれる。 「鹿児島県内に住む納税者の収入の1%を反原発のために使えば、あらゆる交付金以上の資金はできる。一日も早く原発をやめさせよう」と主催者のひとり向原祥隆さんが中締め。集会後、JR薩摩川内駅前でスタンディング・デモをした。

原発で衰退する地元

薩摩川内市は「ここでは原発反対などといったら村八分にされる。工場関連の仕事ももらえなくなる」と地元の住民が語るとおり、九電によって市の経済が牛耳られている。10月18日告示の薩摩川内市議会選挙(25日投開票)にあわせて「原発のない薩摩川内市を創る会」がおこなった市議選立候補者へのアンケートの集約結果の記者会見に市庁舎を使用を許可しなかった。
九電は市内の開発造成事業を一手に引き受けて、多額の資金をばらまいているが、それは市の「発展」にはつながっていない。薩摩川内市は、04年に川内市と周辺の4町4村が合併して県内最大の面積を有する市として発足した。ところがこの間、人口は1万人近く減少している。地元に仕事がなく、放射能漏れの危険性や自衛隊や米軍が海や空を行き交う環境に嫌気が差した若者たちが、鹿児島市や県外へと出ていっている。
集会場で、地方紙の記者が私に「原発のあるところは、貧しいところですね」と話しかけてきた。「貧困が青年を戦争に巻き込みがちですね。また伝染病を広げているのも軍隊という歴史もあります」としばし彼女と語り合った。(鹿児島 南方史郎)

伊方原発差し止め広島裁判
水蒸気爆発は起きないのか

広島弁護士会館での報告集会(10月14日)

10月14日、伊方原発3号機の運転差し止めを求める伊方原発広島裁判本訴(大森直哉裁判長)、第20回口頭弁論期日がとりくまれた。広島地裁前には、「水蒸気爆発は起きないという決心がないと、水は張れない」(更田豊志原子力規制委員会委員〔当時〕の発言)と大書された横断幕がかかげられた。弁護団、原告団、応援団、支援者らが乗り込み行進、広島地裁に入り第7陣原告提訴をおこなった。
口頭弁論では弁護団から、準備書面32(水蒸気爆発とセレナプロジェクト)が提出され、広島市のキリスト教会牧師、井上豊さんが原告意見陳述をおこなった。井上さんは札幌、横浜で暮らし広島に移り住み、瀬戸内海の豊かな自然に触れた。同時に教会員の被爆二世夫婦らとの交流から、「直接被爆に加え内部被爆の深刻な影響を実感した。以前からかかわっていた反原発の思いがさらに強い確信になった」と述べ、伊方原発を止めるべきだと訴えた。
その後、広島弁護士会館で記者会見・報告会が開催され、弁護団による準備書面の説明、原告意見陳述の読み上げ、「黒い雨」訴訟控訴に対する抗議声明発出の報告などがおこなわれた。リモート参加の福島原発事故避難者、森松明希子さん、大賀あや子さんらが「共に闘いたい」と訴えた。
10月30日には新規仮処分の第2回審尋があり、来年1月20日に本訴第1回口頭弁論期日が、12月24日には山口仮処分異議審の第1回審尋が広島高裁で予定されている。(江田 宏)

6面

投稿
三里塚農民の地平の考察として
リービッヒ、フラースとマルクス
兵庫 見 元博

『未来』303号の有野まるこさんの記事を興味深く読ませていただきました。「人間を自然の一部」としたマルクスは物質代謝を考察する上でリービッヒから多くを学び、高く評価していたけれども、「リービッヒが化学肥料を提唱し、それが戦後の農薬多用の近代農法につながった」と批判している本に出会い勉強不足を反省したとあります。
有野さんは三里塚の有機無農薬農法を高く評価しており化学肥料を否定するという点でもまったく同意です。しかし、僕としては、マルクスが一時期リービッヒを絶賛していたが、後に批判的になったこと、リービッヒの「物質代謝論」を超えるべく研究を深めていたという事実を書いた本を読んでいたので、その点だけを指摘しておく方が良いのではないかと思いました。その本は斎藤幸平の『大洪水の前に』です。以下、引用は同書から。
『農芸化学』第7版(1862年)においてリービッヒは「掠奪農業」を批判しています。リービッヒは「イングランドの多くの都市における水洗トイレの導入が350万人の食物の再生産のための条件を無駄にしている」とし、「中国や日本の伝統的農業が人間や家畜の糞尿を丹念に集め堆肥を肥料としてもどしていくことを持続可能な農業の在り方として高く評価していた」(185頁)のです。また、土地を疲弊させ、また南米から鳥の糞や死骸の堆積物である「グアノ」という肥料やヨーロッパ各地の古戦場から人間の死骸の骨粉を略奪していた「掠奪農業」の批判を展開しました。しかし、リービッヒは化学肥料の発明者であり、資本家としては化学肥料工場主でしたし、土地から略奪したものは化学肥料としてもどすことを主張しました。

フラースを高く評価したマルクス

マルクスは『資本論』第一版ではリービッヒを絶賛していましたが、第二版以降ではひかえめな表現に変更しています。それはフラースの物質代謝論との出会いがきっかけになっています。マルクスは1867年にフラースの『農業危機とその治癒手段』(1866年)についてのメモを残しています。マルクスはフラースの理論に「無意識な社会主義的傾向」を見出し高く評価しました。「フラースによれば、化学肥料は万能薬ではなく気候条件の補正に過ぎない。持続可能な農業は、既に存在している自然的物質代謝の力を用いることでしか可能にならないのであり、その方が化学肥料よりも効率的だという。」(235頁)。
マルクスの関心は、フラースらの「自然学派」とリービッヒらの「化学学派」の対立に移っていきました。「フラースによれば(それまで対立していた化学学派内の)窒素説と鉱物説は土壌内の特定の物質の不足が土壌の疲弊をひき起こすことばかりを警告し、コストの高い化学肥料を繰り返し大量投入するという前提そのものを疑うことはなかった。それに対しフラースの沖積理論は人間と自然の物質代謝の管理についての第三の道を提示した(沖積理論とは河の流れや氾濫によって上流の堆積物質を下流に補給して、自然の内に地力を回復させるというもの)。化学肥料に過度に依存しない自然の力を有効活用した、持続可能な農業経営を提起した。そのビジョンこそがマルクスにとって画期的な意義を持っていたのである。」(P226)
僕にしたら化学肥料も少しは使うのかという中途半端さが気になるところです。マルクスはフラースを読んだ後にも様々な自然科学の文献を研究し、リービッヒの「掠奪農業」批判を超える、人間と自然の物質代謝の攪乱の問題を理論的に発展させようとしていました。「人間の自然からの疎外を克服し、『人間が自然との物質代謝を合理的に制御する』」アソシエーションを目指したのがマルクスでした。化学肥料による自然と人間の破壊とは相容れないことは明らかです。
僕は斎藤幸平によって発掘された晩年のマルクスの実像、その書いた物には、マルクス主義者の多くが陥ってきた偏りを正す意味合いがあると思っています。三里塚農民の有機無農薬農法の現代的な意義と革命的な地平を明らかにするものとして、マルクスを読むことができるのは痛快事ではありませんか。

連載
命をみつめて見えてきたもの?
三位一体でナチスの戦争を推進
有野 まるこ

IGファーベン 20世紀初め、アメリカで近代医学の乗っ取りに成功したロックフェラー財閥は、次にはヨーロッパに触手を伸ばす。1925年、バイエル、ヘキスト、BASFほか8社が合併し、IGファーベンという化学製薬関連企業の強大な独占体がドイツに出現した。IGファーベンは市場拡大の野望をもってナチスと結びつく。1933年2月ヘルマン・シュミッツ会長はヒットラーに、ナチズムに対する政治的財政的支持「4カ年計画」を約束した。ナチスに占領されたオーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスなどの石油重化学・製薬会社はすべてIGファーベン傘下に入れられ、400社を擁する巨大な「IGファーベン帝国」が誕生する。戦争に必要な爆薬と合成ガソリンはすべてIGファーベンの工場から調達され、強制収容所の収容者は労働力としても酷使された。アウシュビッツでユダヤ人虐殺に使った「チクロンB」という毒ガスは、元はIGファーベンの特許殺虫剤だった。IGファーベンは自社の特許製薬を世界に広めるため、強制収容所で人体実験を行ったのだ。

ロックフェラー

冒頭に話を戻すと、ロックフェラー財閥は金融資本モルガングループの協力を得て最大の資金提供者になった。IGファーベンの筆頭株主は、ロックフェラー財閥のスタンダード・オイルだった。またスタンダード・オイル社の筆頭株主はロックフェラーファミリーを除けば、IGファーベンだった。ロックフェラーとモルガンはIGファーベンを通して、ナチスの戦争遂行と虐殺を支えたのだ。第二次大戦が終わるとIGファーベンの株はロックフェラーとJPモルガンに移譲される。米空軍は敵国最大の企業・IGファーベンの建物を無傷で、残す。のち、そこはCIA本部となる。第二次大戦の戦争犯罪を裁くためのニュールンベルク裁判で、米政府調査団は「IGファーベンがなかったら第二次大戦の遂行は不可能であった」と結論。役員および幹部24名が有罪となった(51年までには全員が釈放されドイツ企業に返り咲く)。またIGファーベンはバイエル社・ヘキスト社・BASF社に分割されたが、それぞれが巨大な製薬化学企業へと成長をとげていく。その頂点に鎮座しているのがロックフェラーであり、西ドイツはいわばロックフェラーのための製薬輸出国となったのだ。

三位一体で

ロックフェラーは国連、世界保健機関、世界貿易機関などを使い、アメリカでやったように、特許医薬品を中心とした近代医療を国際スタンダードとするシステムをつくりあげていく。製薬・石油・銀行が三位一体となって戦争を推進し、戦後はそれと国際機関が表裏一体となって、莫大な利潤吸上げのための支配網を国際的に形成してきたわけだ。2003年時点でも、巨大製薬企業の双璧といわれるファイザーにはJPモルガンチェースの役員がふたり、エクソン・モービルの役員がふたり就き、メルクにはJPモルガンチェースの役員がふたり就いている。このグローバル資本の利権は石油、製薬に留まらない。農薬、除草剤、遺伝子組換え作物など、地球規模で食料支配と人体破壊、貧困を拡大し、更にそれを餌食にした産業と市場を形成してきたのだ。(つづく)

本の紹介
なぜ若者たちは闘うのか
小川善照『香港デモ戦記』
集英社新書2020年 860円+税

2019年、世界で最も注目を集めた事件の一つは、まちがいなく香港の大規模デモであろう。逃亡犯条例改正に反対するデモ隊の中心にいたのは香港の若者たちである。10代から20代の若者たちは、警官隊の激しい暴力行使に怯むことなく街頭でのたたかいを繰り広げた。6月15日、デモに参加していた若者が警官隊との激突の最中、ビルから転落死するという痛ましい事件が起きた。このとき香港中が怒りと悲しみに包まれた。翌16日には、200万人の香港市民が街頭にあふれ出た。香港ではこのデモを「200万人+1人」と呼ぶ。前日に命を落とした若者を加えて、200万人と1人によるデモなのである。
その後も香港の若者たちは、涙を振り払って街頭に立ち続けた。彼らを命がけのたたかいへと突き動かしているものは何か。その一端を本書からうかがうことができる。

雨傘運動

著者が香港における取材を本格的に始めたのは2014年の雨傘運動からである。雨傘運動の発端は2014年8月31日、北京政府の全人代常務委員会が香港市民に提示した2017年の香港行政長官選挙の内容だった。それは選挙委員会があらかじめ候補者を選定した上でおこなわれる選挙だった。そこに民主派候補が出馬することは不可能だった。香港市民が求めていた民主的な普通選挙とは余りにもかけはなれたものだった。香港市民は「我要真普選」を掲げて抗議行動を開始し、それが大規模な街頭占拠闘争、すなわち雨傘運動へと発展する。運動が大規模化した背景には、大陸中国の圧力によって、香港の政治的、経済的、文化的アイデンティティーが押しつぶされようとしていることがある。そのことに最も敏感に反応したのが香港のティーンエージャーたちだった。
占拠現場の路上に張られたテントに中に「自修室」と書かれた大型のテントがあった。中では高校生たちが熱心に勉強している。彼女たちは「香港と自分たちの未来を考えて、このオキュパイの現場に来ているんです」と語る。
雨傘運動は79日間で終息。そこで深い挫折を味わった若者たちが2019年に再び立ち上がったときには、彼らは5年前の敗北の総括を共有していた。そのことを象徴する合言葉が「一緒に行って、一緒に帰ろう」だった。それは雨傘運動が抗議者同士の分裂から失敗したという反省から導き出されたものだ。
2019年7月1日、香港の立法会に突入した際、死を覚悟して現場に残ると必死に抵抗する若者たちがいた。一緒に突入した仲間たちはみんなで彼らを担ぎ上げて撤収した。「一緒に行って、一緒に帰ろう」とは、「絶対に仲間を見捨てない」ということなのだ。
民主化活動家の周庭は「一つになって団結する。お互いを尊重するということ。それが2019年の運動で学んだことです。香港は、今やっとそういう形になりました」と語る。
6月303日、北京政府は香港国家安全維持法を施行した。これによって香港における民主派の運動は著しく困難な状況におかれている。しかし、香港は決してあきらめないだろう。それはなぜか。その答えを本書からぜひ読み取ってほしい。(葉月 碧)