強権政治の正体あらわ
日本学術会議任命拒否問題 軍学共同の加速ねらい
菅義偉首相が日本学術会議の会員6人の任命を拒否した問題で、各界から抗議の声が上がっている。任命拒否された学者らは安倍政権下で強行された戦争法(安全保障関連法)、特定秘密保護法、共謀罪の新設に反対意見を表明していた。それが任命拒否の理由となったのは明らかだ。任命拒否の背景には軍学共同を加速したいという政権の思惑がある。
2017年3月、日本学術会議は「軍事的安全保障研究に関する声明」を発表し、「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」とした1950年の声明を継承することを明らかにした。これは安倍政権が14年、武器輸出三原則を廃止し、翌15年に発足させた防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」によって急増してきた大学における軍学共同に拍車がかかることへの懸念を示したものであった。
今回の菅首相による任命拒否は、「科学者の戦争協力反対」を理念としてきた日本学術会議の人事に介入し、政治的な圧力を加えることでその理念の放棄を迫るものである。それは、先の戦争の反省に立って行動することじたいが、菅の言う「悪しき前例主義」であり、攻撃の対象となるということだ。その背後には、海外への武器輸出の拡大を求めている三菱重工、川崎重工、IHI、NECなどの軍需企業の存在がある。
疑惑の究明を
しかし、菅政権の強権的な姿勢は、決してその強さの表れではない。森友学園、加計学園、桜を見る会、河井元法相夫妻の選挙違反など、安倍政権下で生み出された疑惑は何一つ晴らされていない。菅は「縦割り行政、既得権益、悪しき前例主義を打ち破って規制改革を進める」と強調するが、それは安倍の「岩盤規制にドリルで穴を開ける」と何一つ変わりがない。そこでできたのが国家戦略特区だ。これが新たな利権を次々と生み出した。その最たるものが加計学園の獣医学部新設問題だった。
このようなアベ政治が通用したのは「選挙に強い」からだった。しかし、その裏では巨額の税金を投入した桜を見る会を使って選挙民を買収するという前代未聞の選挙違反がおこなわれていた。もし検察が本気で追及すれば安倍政権の関係者はことごとく逮捕・勾留されてもおかしくはない。菅の強権的な姿勢は、それによって逃げ切りを図ろうということでもある。
菅政権によるモリ・カケ・サクラの幕引きと、日本学術会議6人の任命拒否を許してはならない。
生業と地域を返せ″トび勝訴
2011年3月11日の東京電力福島第一原発事故で被害を受けた福島県と近隣県の住民約3600人が、国と東京電力を相手に居住地の環境の原状回復と損害賠償を求めた集団訴訟で、仙台高裁は国と東電が同等の責任を負うと判断。「ふるさと喪失損害」を認め、賠償額を大幅に上積み。避難指示対象区域外の住民も一審より広く賠償を認めた。
急浮上の敵基地攻撃能力
踏み越えられる専守防衛
安倍政権下で決まった防衛計画の大綱・中期防衛力整備計画(19年〜23年度)、安保法制下で進む「先制攻撃できる自衛隊」について、半田滋さんが「政府は、多次元統合防衛力に必要な措置を講じるとして、いずも型護衛艦の空母化、F35B戦闘機の大量購入など先制攻撃できる自衛隊に変貌しつつある。イージス・アショア停止からいっきょに敵基地攻撃能力への議論に進もうとしている」と話した。(はんだ・しげる/元東京新聞論説兼編集委員。9月26日、兵庫県弁護士9条の会主催「憲法公開講座」、神戸市内)
半田さんは、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が保有する弾道ミサイルの脅威を強調した9月11日の安倍退任談話に触れ、「なぜ北朝鮮がミサイル、核開発を進めたのか。リビア、イラクへの米の攻撃で、リビアは核をやめたがカダフィは殺された。イラクも大量破壊兵器がなかったのに攻撃された。日本に届くミサイルがあるのと、攻撃する必要があるかは別問題」と批判。
「安倍首相は17年2月、就任直後のトランプ大統領と会談し、5日後の参院本会議で米国製の武器追加購入を表明した。翌3月にミサイル防衛強化を表明、防衛省がイージス・アショア導入を固め8月予算要求し、小野寺防衛相が米政府に導入を伝えた。もともとイージス護衛艦8隻体制を進めていたのにである。その上、グーグル・アースを読み間違って決定した。問題のブースター落下の制御困難は初めからわかっていたこと」と、安倍一強のもと自民、防衛官僚が「導入ありき」で進めた政治案件と話した。
イージス・アショアとは米にとっては金のなる木。初期費用だけで4774億円。ミサイルは別だから8000億円以上となる。さらにF35戦闘機、オスプレイ、無人機グローバル・ホーク(しかも旧型)なども。米政府への兵器ローンは「20年度時点の残高は1兆6069億円(民主党政権時代は500〜1000億円)」である。19年度防衛費はイージス・アショア2基の取得費など1757億円、米に支払い済みが196億円となった。停止により支払い済みは没収、違約金も生じる。
半田さんは「コストが問題なら、工事費が3倍に膨れ上がった辺野古新基地は見直さないのか」とも。
「日米間には安保条約があり、米は日本防衛義務を負っている(日本は、それに対する基地使用、負担義務)。これまで日本は日米役割分担を理由に、敵基地攻撃能力保有を否定してきた。何をもって攻撃着手を判断するのか。誤れば国際法違反の先制攻撃となる。そもそも北朝鮮が日本に弾道ミサイルを発射する場面は、韓国・在韓米軍との間で戦争になっている可能性が高い。それが安保関連法による存立危機事態に該当すれば、日本も参戦可能となる。自衛隊は総動員し攻撃参加となるのか。朝鮮半島に限らない。自民党が提言した敵基地攻撃能力の保有は、地域を選ばない攻撃能力の保有につながるのではないか」「日本を戦争国家から引き戻す政治が求められる」と結んだ。(要約文責/本紙編集委員会)
(注)「北朝鮮」の表記は講演のままとした。
関生弾圧 大阪スト事件で不当判決 産別運動を司法が敵視
不当判決にたいし、200人以上の労働者、市民が大阪地裁に抗議した(10月8日、大阪市内) |
8日、大阪地裁刑事11部は、大阪ストライキ事件(第2次弾圧)で連帯ユニオン関西地区生コン支部の西山直洋執行委員ほか1人に懲役2年6月、執行猶予5年の有罪判決を下した。判決は、産別運動の成果である「労使協定」を敵視する内容。まさに極悪というべき判決だ。2人は即日控訴した。(詳報次号)
2面
11月1日住民投票
大阪市の廃止を許さない
市内全域で反対アピール
「大阪市廃止に反対」をかかげて市役所前をデモ(10日、大阪市内) |
菅政権の下で弱肉強食の新自由主義を進めるのか、脱新自由主義か。大阪市廃止の住民投票は、その前哨戦となった。
投開票の11月1日に向かって、大阪市内全域で反維新の市民運動、学者、労働運動、政党、運動グループが「大阪市廃止の住民投票で反対の投票を!」の一点で共同した取り組みを始めた。応援に駆け付けたれいわ新選組の山本太郎代表は「橋下(徹)さんが2011年に言っていた『大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る』という考え方自体がまちがっている。ただのカツアゲですよ」と訴えた。
「大阪・市民交流会」や「どないする大阪の未来ネット」は10月3日には4回目の土曜行動を上本町6丁目で実施。4日には「『豊かな大阪をつくる』学者の会」がシンポジウムを開催。市民の中での行動も活発だ。
住民説明会は詐欺
5年前の住民投票では説明会は39回だった。今回の住民説明会はようやく9月26日にはじまり、市内8カ所で約3000人が参加。質問者は制限され、質疑応答の時間は縮小された。参加した市民からは「メリットが一方的に語られるだけでマルチ商法の説明会のようだった」との感想が。事前に「副首都推進局」が作成した広報動画は、大阪市の特別参与からさえも「かなり偏った内容」と懸念を示された。これに推進局の広報・調整担当課長は「賛成に誘導するため」とその意図をあけすけに語った。
こうした説明会に対して毎回多くの市民団体や政党が抗議行動を実施。
「5%差」の逆転へ
9月29日の朝日新聞の世論調査では「都構想」賛成が42%、反対は37%でその差は5%。
逆転勝利をめざして、街中には「大阪市をなくすな」「反対の1票を」と呼びかけるポスターが貼り出されている。駅前、スーパー、商店街で街宣や練り歩きも。介護、医療、住宅、水道などの住民サービスがどう変わるのか、市民の関心が高まっている。「都構想」を否決した5年前の住民投票は「浪速の市民革命」と呼ばれたが、その第2幕の幕開けである。
市外からも続々と
堺市の市民団体は、「大阪市が廃止されたら、次は住民投票なしで堺市が解体され、まるごと『特別区』にされる」と危機感を強めている。4日にはフリージャーナリスト西谷文和さんの「雨ガッパ松井とイソジン吉村、そして安倍亜流スガ」と題したトークをメインに、「コロナ対策もできん維新・スガは退場!」と銘打った集会を開催。200人を超える参加があった。今月10日から毎土・日の午前10時から「南海天下茶屋駅」に集まって、大阪市西成区の路地裏、スーパー前、商店街などで市民と対話する行動をはじめる。参加登録者は150人を超えた。
「市民連合・豊中」、「市民連合高槻・島本」は、東淀川区で行動をはじめた。「茨木市総がかり行動」なども行動を計画している。
1人からでも運動を
1人でも運動はできる。文書図画の頒布、ポスターなどの制限はない。電話、インターネットでも運動は自由。自分でチラシやポスターを作製し、貼る。拡声器での宣伝や練り歩きも、投票所前の宣伝もできる。投票日の午後8時まで運動は可能。最後の瞬間まで力の限りたたかおう。
福井県美浜町
関電取締役会に抗議
老朽原発うごかすな
関西電力原子力事業本部前で抗議する市民ら(9月28日、福井県美浜町内) |
関西電力は9月18日、老朽原発である美浜3号機、高浜1号機について、再稼働の前提となる「安全対策工事」が完了したと発表した。同日、関電は美浜町、高浜町、福井県に報告した。美浜3号機は来年1月、高浜1号機は来年3月にも再稼働するとしている。
あわせて、美浜町にある関電原子力事業本部で、9月28日に取締役会をおこなうと公表した。事業本部での取締役会は初めて。その表向きの理由として、このかんの不正還流問題を反省し、現場との意思疎通をはかり、信頼を回復するためとしているが、この時期に美浜の原子力事業本部で初めて取締役会を開催するというのは、老朽原発をあくまで再稼働するという意思の表明であり、大きくもりあがった「老朽原発うごかすな」という声にたいする挑戦である。
この挑戦にたいし、老朽原発うごかすな!実行委員会(「9・6老朽原発うごかすな! 大集会inおおさか実行委員会」を改称)は、緊急抗議闘争に立つことを決定した。
原子力本部に抗議
9月28日、取締役会の当日、午前10時30分、緊急抗議闘争の呼びかけに応え、関西、福井から30人が、原子力事業本部前にあつまった。「老朽原発うごかすな!」の大横断幕や各団体の旗、のぼりが原子力事業本部前にひるがえる。参加者ひとりひとりのリレートークや、コールが原子力事業本部にひびきわたった。代表団が関電にたいして申し入れをおこなった。
その後、老朽原発美浜3号機の再稼働反対を訴えて町内をデモ行進。解散地点の町役場前で、ひときわ大きな声で、「美浜町は地元同意するな」と訴えこの日の行動を終了した。
リレーデモを決定
いよいよ正念場に入る。老朽原発うごかすな! 実行委員会は、11月下旬から、12月初旬にかけて、「老朽原発うごかすな!関電本店〜美浜町リレーデモ」を敢行することを決定、その準備にはいった。あわせて、10月1日からリレーデモ出発前日までを、「老朽原発うごかすな!キャンペーン」として、各地で集会、行動、申し入れ行動などをおこなうことを決めた。
老朽原発美浜3号機、高浜1号機の再稼働を絶対阻止しよう。当該町長、県知事にたして「美浜町、高浜町、福井県は再稼働に同意するな」の声を、要請はがき、電話、FAXなどで集中しよう。創意工夫をこらしたたたかいで、なんとしても老朽原発再稼働を阻止しよう。(仰木 明)
「都構想反対」で市内デモ 10月6日 ロックアクション
10月6日、コロナ禍で中断していた〈戦争あかん! ロックアクション〉の集会とデモがおこなわれた(写真)。
ロックアクション共同代表の服部良一さんは「今日のデモで大阪市廃止反対を訴えよう」とあいさつ。同じ共同代表の難波希美子さんが能勢町の補欠選挙に出馬することを紹介した。「同日おこなわれる能勢町長選にも維新が対立候補を出すので負けられない」と支援を訴えた。
労働組合つぶしの大弾圧を許さない実行委員会の井出窪啓一さんは、たたかいの現状と10月8日の関生弾圧裁判の判決日におこなわれる大阪地裁前の座り込み集会への参加を呼びかけた。関生弾圧では全員が保釈されたが、保釈条件がきびしく、組合員と会えないなど形を変えた組合つぶしが続いている。
育鵬社教科書が激減
〈子どもたちに渡すな! あぶない教科書 大阪の会〉の伊賀正浩さんは危険な教科書を激減させたたたかいを報告した。
「今年は中学校の採択の年だった。全国で育鵬社の歴史教科書は5分の1、公民教科書は10分の1に激減した。私たちはこの運動を01年から続けてきた。育鵬社の教科書は何らかの政治的介入がなければ採択できないようなしろもの。私たちは維新などの政治介入を阻止することを大きな目標にして情報公開請求など続けてきた。今後は公民教科書を採択した泉佐野市を焦点化し、大阪から育鵬社を追放したい」。
未来を託せない
続いて大阪・市民交流会事務局長の前川武志さんが大阪市廃止をストップさせようと訴えた。「4つの区に分けるということだけはっきりしているのが『都構想』。その後のことは何も明らかにされていない。分からんもんに未来を託すことができますか?」と参加者に問いかけた。介護保険が一部事務組合に移るなどの問題点を指摘した。すべての発言の後、元気よくにぎやかに御堂筋デモをおこなった。(池内慶子)
3面
なんとかならんかこの日本!?(9月11日大阪市内で開催)講演より
歴史から考える新型コロナ
京大人文研准教授 藤原 辰史さん
9月11日、大阪市内で開催された「なんとかならんかこの日本」の講演集会で「歴史から考える新型コロナウイルス」と題して、京都大学人文科学研究所准教授の藤原辰史さんが講演した。以下はその講演要旨。(文責・見出しとも本紙編集委員会)
今、私たちは何十年か後の歴史の教科書に出てくるような出来事の真最中にいる。私たちがどのような行動をとったのか、どういう発言をしたのかがすべて検証される。
歴史を学ぶのは、過去から現在を見て未来を見渡すためだ。感染症を振り返ると、人類が農耕社会へと発展し、都市を形成するようになってから感染症が多発するようになった。都市はウイルスに弱く、人類はウイルスから逃れられない。また14世紀のペストとユダヤ人虐殺にみられるように差別と密接な関係を持つ。南米の文明が滅ぼされ植民地主義が始まったのはヨーロッパから天然痘をもたらしたからだ。現在を見ると、ヨーロッパにおけるパンデミックの震源地がイタリア北部ロンバルディアであったように、新自由主義によって痛めつけられていたところが、一番死者が多い。
スパニッシュ・インフルエンザ
検証するのはスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)。第一次世界大戦の最後の年、1918年からアメリカ発のインフルエンザが世界中に蔓延していった。統計では、4000万から1億ほどの人がスパニッシュ・インフルエンザによって亡くなったといわれている。特徴を、今の新型コロナウイルスの状況と比べると、いくつか類似点がある。
一つ目、一番重要な類似点は、人の移動が非常に激しいこと。スパニッシュ・インフルエンザのときには、第一次世界大戦でアメリカが参戦して、ヨーロッパ大陸に行く大きな輸送船に若い兵士たちを積み込んだ。換気が悪く、密度の濃い大型船の中でクラスターが発生し、兵士が感染して亡くなっていく。また中国から大勢の「苦力」がヨーロッパに上陸して、労働力として雇われていた。イギリスやフランスの植民地から兵士やあるいは労働力としてたくさんの人がヨーロッパに行っていた。その人たちの移動の激しさが、このスパニッシュ・インフルエンザの世界的拡大をもたらした。では、いまはどうなのか。今のオーバー・ツーリズム。膨大な人々の移動、人の往来の激しさという意味では、とても状況は似ている。
二つ目は、初動の誤り。オリンピックという大きなイベントが7月に控えていた。他方で、100年前の初動の後れは、戦争中だったことと関係する。例えば隔離とか、それから情報をみんなに伝えるとかいろいろなやるべきことはあったはずだが、大きな出来事があると、最初の段階で対応を誤る。右往左往する中でどんどん広まっている。
情報が限られることによって、スペイン発祥ではないにもかかわらず「スパニッシュ」というふうに名前が変わってしまう。情報が統制されるがゆえの問題。しかし、今は情報社会になったのにきっちり情報が伝わっていない。各政府がちゃんと情報を出して、その情報をもとに検討してやっているか、そこを見ていく必要がある。
あれだけの非戦闘員の方が戦争中に亡くなったというのは初めてだ。非戦闘員にとっても過酷だった。戦争によってかき回された病原菌やウイルス、そして、飢餓。戦争によってイギリスが中立国からの食料をドイツに行き渡らせないように船で封鎖し、それでドイツで76万人の餓死者が生まれたという悲劇に端的に表れている。
新型コロナウイルスでも、食糧の在庫の偏りによって各国で飢餓が発生しやすい状況になる。すでにそういう事例も報道されている。
問題なのは、スペイン風邪というのは、戦争で情報が隠され、結局記憶としてはあまり残っていないことだ。
これから起こりうること
第一には、弱い立場にある人々のさらなる生活の危機。スパニッシュ・インフルエンザでは、まず兵士。アメリカの兵営で感染した兵士たちが、輸送船に乗ってヨーロッパ大陸に渡り、感染を広めたが、密集した船内で食事し会話し眠る兵士たちは、そうではない上官たちよりもリスクが高かったことは言うまでもない。それから炭坑や鉱山の労働者。50万人の黒人労働者が死亡したベルギー領コンゴの鉱山群は、閉山に追い込まれ、ペルーの銅山も同様の状態になった。日本でも、三菱鉱山の労働者死亡数は、普段でも月平均50人が亡くなっているが、流行期の1918年の秋にはその6倍以上に跳ね上がっている。日本内地よりも樺太、朝鮮、台湾のほうがはるかに死亡率が高かった。
現在でも、アメリカの食肉処理場で労働者が次々に亡くなったり、世界中の貧困層がさらに困窮を深めたりしており、厳しい労働条件・生活条件にさらされている場所での感染拡大が、世界各地で報道されている。これまで仕事の価値の高さにもかかわらず値切りされ続け、あろうことか蔑視のまなざしさえ向けられてきた人びとが、きちんと威厳を持って生きていける社会を作らねばならない。
第二に、スパニッシュ・インフルエンザは、3回も波があった。第2波、第3波の方が第1波よりも死亡者が多かったことでは日本でも共通していた。この波の「はざま」という、比較的動きやすいときに次の感染に備え、とりわけ医療現場の物資の充実と、医療従事者のケアの充実を優先すべきだ。学者も政治家も、ピークは一度だと言いたがっているが、何度もぶり返す、変異するかもしれない、そういう事実から逃げてはならない。
第三に、私が一番恐れているのは「複合災害」。第一次世界大戦のときには戦争とインフルエンザ。今は水害、地震という日本列島が毎年何回も直面する自然災害と、もしも今回の新型コロナウイルスが混ざったときに、もう太刀打ちできない、避難所は感染源になる。行政が後手後手になっている。当時、政治の変革や抵抗運動が相次いで起こった。立ち上がった人びとは、大戦中栄養不足で病気にかかりやすい状態だったが、その危険性よりも、戦争や政治で自分たちの生命を危機に陥れる政府の存在を、より危険視した。革命運動が盛んだった。ドイツ、オーストリア=ハンガリーでは王家が打倒された。朝鮮半島の蜂起、日本でも「米騒動」がたたかわれた。
現在、新たな抗議の季節が始まっている。世界で抗議活動が暮らしの延長として取り組まれている。ベラルーシではお祭りの形をとったデモがおこなわれている。ブラック・ライブズ・マター運動は2000万人を超える米国史上最大の規模になった。デモをすることは3密だとか言われながらも、何らかの形での異議申し立てというのが世界各地で出てきた。抑えがたい民衆の怒りが次々と各地で噴出してきたのだ。
ポストコロナの思想
新型コロナウイルスが終息を迎えたあと、どのようなことが考えられなければならないのか。テレワークができない医療や福祉や保育、あるいは一次産業にたずさわる労働者や外国人労働者がいなければ、テレワークの仕事は成り立たないこと。にもかかわらず、そういったほとんどの労働者にとって、賃金や福利厚生は、働きやすく、暮らしやすいものでは到底なかった。いま各国でこの点の反省が迫られ、見直しが始まっている。日本もまたこうした議論から逃れることはできない。
新型コロナウイルスの発生は、動物のせいなのか。自然破壊で動物と人間の生活世界が近づき過ぎたのだ。「見せかけのエコロジー」ではない思想が求められている。根源から経済を考え直そう。
歴史は、個人個人の小さな積み重ねでしか動かない。今、旧態依然とした社会構造を根本から変革するすごく大きなチャンスが日本を含め世界各地に到来している。そういう変革というのは、私たち一人一人が政治に働きかけていく中で、おのずから生じてくる。
(短信)
●大阪地検、告発状受理 原発マネー不正還流で
大阪地検は5日、〈関電の原発マネー不正還流を告発する会〉が提出していた関電元役員らに対する告発状を受理した。同会は、昨年12月、関電役員12人に特別背任罪(会社法)、背任罪(刑法)、贈収賄罪(会社法)、所得税法違反の疑いがあるとして、告発状を大阪地検に提出していた。告発人は最終的に3371人。その後、関電第三者委員会が明らかにした役員報酬等の闇補填問題で、今年6月には、森元会長、八木前会長、岩根前社長を業務上横領と特別背任で追加告発していた。告発人は最終的に2193人。このかん同会は、「地検はただちに捜査を開始せよ」と告発状の受理を訴えて、毎月1回、大阪地検前でアピール行動を繰り返してきた。原発をめぐる関電の闇は深い。巨大な不正をおこなわなければ、建設も維持もできない原発は全廃しかない。
4面
論考 コロナ禍と対抗運動の現状(下) 汐崎恭介
ネットワークと直接民主主義
世界経済はコロナ禍以前から後退局面に入っていた。グローバリゼーションの行き詰まりのなかで、先進諸国における右派的なポピュリズムの台頭である。一方で直接民主主義的な運動が2011年以降、世界各地で登場してきた。
グローバリゼーションと世界経済の減速
金融危機以降の欧米諸国においては、ポピュリズムの台頭が重大な社会問題となった。米トランプ政権の登場(17年)やEU離脱を決めたイギリスの国民投票(16年)は、世界に激震を走らせた。ポピュリストが掲げるスローガンは、「反EU」「反移民」「反イスラム」「反緊縮」、「反エリート」「保護主義」など雑多である。極右勢力がこの運動の中で伸長しているため、「リベラルデモクラシーの危機」という文脈でポピュリズムに対する批判が展開されることが多いが、それが問題の本質をとらえているとは言い難い。
イタリアの政治学者、マルコ・レヴェッリはトランプ支持者のメンタリティを「はく奪された者たちの報復」であると分析している 。彼らは「男性としての優位性」、「収入の一部」、「社会的地位」等々を奪われたと感じている。それらを奪ったのは、「エリート、金融界 ・・・ ゲイ、レズビアン、ハリウッドスター、ヒスパニック、黒人、イスラム教徒」たちだと彼らは思い込んでいるのだ。彼らの「はく奪された」という直観は、グローバリゼーションの本質を突いている(翻訳は中村勝己)。
20世紀の最後の四半期から登場してきたグローバリゼーションは、世界を単一の金融市場の下に統合しようとする架空資本(国債や株式などの証券等)の運動である。それは国家によって保護されてきた国民経済(政治・経済・社会制度)の解体的再編と統合のことである。戦後の福祉国家政策をその生存条件として生きてきた住民たちにとってそれは、国家や労働組合という保護膜をはく奪され、丸裸で荒野に投げ出されることに等しい。だからこそ人びとは、グローバリゼーションの脅威に対して、国境という壁を高々と築き上げて自らを守ろうとするのである。保護主義的傾向が強まっているのは、人間としての「正常な反応」なのである。それでは国民国家を再建することが問題の解決になるのか。そうではない。問題は、人びとが過度に国家に依存することで、その政治的・経済的自律性(自立性)をはく奪されてきたことの方にある。ポピュリズムが権威主義的傾向(反民主主義的傾向)を帯びる原因もそこにある。したがって、人びとが再建し、創造しなければならないのは住民による自律的(自立的)な経済圏であり、それを基盤とした政治的共同体であり、それらによるグローバルなネットワークである。
グローバリゼーションがはく奪しているのは、人びとの現在の生活だけではない。むしろ重視すべきことは、それが人びとの未来の生活、その生存条件を奪い取っていることであろう。それは架空資本の運動の本質にかかわる問題である。
架空資本とは、様々な債権、証券、金融商品のことであり、それはいまだ実在していない将来の生産、すなわち未来に対する価値請求権である。その運動は現実資本(産業資本)や社会資本(社会的インフラ)の裏付けによって制限されてきた。この段階では、産業資本と銀行資本の融合によって成立した金融寡頭制(金融資本)を通して社会的な生産と労働の分配が遂行されていた。これが帝国主義段階である。
ところが70年代に入り、金融工学の急速な発達によって架空資本と現実資本の関係を限りなく希薄化する債権の再証券化が可能になった。また同時期に新自由主義イデオロギーの台頭によって「資本移動の規制」という国際社会のコンセンサスが後退したこと。こうした事情が相まって架空資本の運動にたいする制限が取り払われてしまった。いまや現在の社会的な生産と労働の分配をつかさどっているのは、単一の金融市場の形成へまい進する架空資本の運動である。これが今日の資本主義体制の核心である。問題はこの運動が現実資本と完全に切り離されているわけではないということだ。どこかでデフォルトに陥ると、それが巨額の損失を発生させるリスクを抱え込んでいる。実際にほぼ10年周期で金融危機が引き起こされてきた。その度に各国政府は巨額の財政出動によってこの金融システムの崩壊を食い止めてきたわけだが、そこで積み増しされた膨大な債務が架空資本の運動をより一層強化し、次の破局に向かって突き進むという悪循環に陥っている。現在、世界各地で「気候変動問題」を通してティーンエージャーたちが抗議行動に立ち上がっているが、彼らは自分たちの未来をはく奪しているのは資本主義体制そのものだと直観しているのだ。
インダストリー4・0と新たな民衆運動
インダストリー4・0(第4次産業革命)とは、5G(次世代通信技術)、IoT(モノのインターネット)、AI(人工知能)、機械の自動化などのICT(情報通信技術)におけるイノベーションである。これはGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)に象徴されるプラットフォーム・ビジネスに万能の権力を与え、グローバリゼーションの略奪性をより一層強化することになるのか。それとも、水平的に拡大するネットワークによって結合した人びとによる新たな生産様式、新たな政治形態の創造へと発展するのか。
さまざまな都市で引き起こされている民衆の反乱は、そのことをめぐって争われている現在進行中の革命である。それは「グローバル・シティ」の出現と深く関係している。グローバリゼーションによって経済活動が地理的に分散し、金融業の再編が進行するにつれて、企業の中枢は支配力や管理能力の強化が必要となる。経済活動の地理的分散と資本の集中が同時に発生する。集中が起きている場がグローバル・シティである。グローバル・シティに集中した企業経営者と種々の高度専門職たちのコミュニティーは、日々生み出される巨大な富を独占している。その一方で、超巨大化した都市機能を維持するために膨大な労働者群が、長時間・低賃金労働に従事させられている。こうしてグローバル・シティの内部に極端な格差と矛盾が生み出される 。そこでつぎのような根本的な問いが投げかけられる。「都市は誰のものなのか!」と。
新たな革命がその姿を現したのは2011年の大規模な民衆反乱だった。チュニジアから始まり、「アラブの春」と呼ばれた中東の民主化闘争。マドリードの大規模な占拠闘争、そしてニューヨークのオキュパイ・ウォールストリートから拡散した、全米の主要都市における占拠闘争。2012年、東京の首相官邸前で繰り広げられた反原発デモ、2013年の台北のひまわり学生運動、2014年の香港の雨傘運動、2016年から2017年にかけて空前の民衆決起となったソウルのろうそく革命。2018年、パリの黄色いベスト。そして昨年6月からはじまった香港の大規模な抗議闘争である。
デヴィッド・グレーバーは、2011年以降の「出来事」の特徴を、「水平的でリーダーを置かない直接民主主義的な構造」が「政治生活の基本的前提となっている」 と指摘しているが、この構造は、この8年間ほどで急速な進化を遂げ、ソウルや香港では100万人から200万人という規模で大衆行動を組織するまでになった。
香港ではSNSを通じて、デモ戦術は進化し、若者の『集合知』の津波が形成された。香港の若者たちは「一国二制度」のもとで、「未来永劫とらわれの身」でありつづけるという運命に抗して命がけで立ち上がっている。注目すべきはSNSを通じて形成された「集合知」が、100万人単位の大衆行動を組織する力を発揮していることである。香港で見られた一連の現象は、「民衆権力の登場」と呼ぶべきであろう。それは、「水平的でリーダーを置かない直接民主主義的な権力」である。ネットワークの運動が示しているのは「権力の否定」ではなくて、まさに「権力そのもの」なのである。それはレーニンが「国家と革命」で描きだした多数者による最も民主主義的な権力、すなわち「プロレタリアートの独裁」といっていいのかもしれない。
現代革命の構造を次のように見ることができるだろう。すなわち、それは中央集権的な国家に依拠した資本の権力と水平的なネットワークに依拠した、民衆の権力との間の闘争として進行している。革命的主体は日々成長をとげており、その革命もまた日々生成と発展を繰り返しているのだ。(おわり)
5面
農地守り、成田拡張撤回へ
三里塚全国集会開かれる
9月27日
(反対同HPより) |
9月27日、成田市赤坂公園で三里塚全国集会が開催された。昨年秋は台風、今春はコロナ禍で、中止を余儀なくされた。成田空港B滑走路は一時的に閉鎖され、再開後も航空便、旅客が戻るめどはない。空港と航空業界は倒産、大リストラの危機を深めている。
観光立国と東京オリンピックのバブル下で進められた空港機能強化(第3滑走路計画ほか)など論外の状況だ。空港運用に何の障害もない市東さんの農地の取り上げは不要不急の最たるものである。
集会は、宮本麻子さん、太郎良陽一さんの司会、伊藤信晴さんの主催者あいさつで始まった。基調報告に立った萩原富夫さんは、成田空港をめぐる破産的現状を報告、また市東さんの農地裁判など裁判の現状を報告、そして全国のたたかいと共闘連携し、「空港よりも農業を」と訴え、「静かな空、静かな夜、きれいな空気、穏やかな故郷を取り戻すべくたたかっていきます」と締めくくった。
10・22請求異議裁判
動労千葉、三里塚関西実行委員会の連帯あいさつに続き、市東孝雄さんは裁判への支援の御礼を述べ、「なぜ私が訴えられないといけないのか」「NAA(成田空港会社)は(裁判でも)何も言わない」「挙句は偽造文書まで出してくる」と怒りを込め、「これからも三里塚の地でたたかっていく」と変わらぬ決意を語った。
さらに顧問弁護団から裁判の報告、市東さんの農地取り上げに反対する会から報告がおこなわれ、とりわけ最終弁論(結審)となる10・22請求異議裁判控訴審への参加が訴えられた。そして国策とたたかう福島・沖縄から連帯のあいさつ、諸団体・共闘団体からのあいさつと決意表明がおこなわれた。最後に、司会から集会宣言が読み上げられ、行動提起、ガンバローのあと、市中デモに移った。
連載 命をみつめて見えてきたもの?
巨大資本による医療支配
有野 まるこ
以前、近代医学と戦争の結びつき、日本ではそれを明治政府が「医療一元主義」のもと、「富国強兵」政策の一環として導入してきたことを書いた。より根本的には、近代医学は資本主義の枠内で、近代科学をベースに、資本の利潤追求のために生み出された体系のひとつと言えるのはないか。ア谷博征医師は『医療ビジネスの闇病気産生≠ノよる経済支配の実態』(学研パブリッシング発行/2012年)の中で、アメリカの巨大資本が「近代医療」という手法で国内の医療を独占・コントロールし、第二次大戦ではナチスの大量虐殺で大儲けをし、戦後は「国際機関」の設立と活用で、莫大な利潤を吸い上げるシステムを世界中にはりめぐらせてきた歴史を分析している。
連載Qで、19世紀から20世紀にかけてアメリカで米医師会が近代医療によって代替医療を駆逐した歴史に触れたが、前著によると、状況が一変したのは1910年。その頃ロックフェラー財閥は世界中の石油利権の大半を手中に収めていたが、次に目をつけたのが「人体」だった。
過酷・劣悪な環境におかれた労働者が健康を害し、短命になると生産効率がわるい。「科学的な手法」で労働者の健康を向上させ、「再生可能な労働資源」として活用しようと考えたのだ。その戦略は石油産業から派生した製薬業を近代医療の中心にし、特許権に保護された独占的市場を形成することだった。
そこで重視したのが、医学関係者に影響力を行使すること。ロックフェラー財団理事長は1910年、兄弟であるロックフェラー医学研究所(のちロックフェラー大学医学部)所長・フレクスナーにあるリポートを作成させる(「フレクスナー・リポート」)。資金は、その関与を隠すために、実質的な支配下にあったカーネギー財団を迂回して提供。
リポートは全米69の医学校を調査し、独自の尺度で格付けしたものだった。目的は代替医療をおこなう医学校を「信用のおけないマヤカシの学校」と非難し、排除すること。代替医療は過剰な投薬を批判し、薬は用いない、もしくは自然由来の極微量の薬によって自然治癒力に活力を与える療法。他方、石油由来の医薬品は症状をおさえる対症療法。真逆なのだ。
代替医療はロックフェラーにとって新たな医薬品戦略を妨害する敵対物そのものだった。1910年以降、実際に25の医学校が閉鎖に追い込まれ、意にかなった学校には潤沢な資金が提供されていった。さらに医薬品を使用する医師を確保するために米医師会に潤沢な資金を提供して後押した。医学教育、医師免許、治療法、治療費などは医師会の寡占状態となった。民間の助産婦や検眼士は排除され、病院での出産や検査が義務づけられるようになっていった。
こうして1910年「フレクスナー・リポート」は、ロックフェラー・シンジケートが近代医学の乗っ取りに成功したターニングポイントとなった。今日、医療費が高騰しつづけているのも、ここに由来しているという。(つづく)
「黒い雨」訴訟、降雨被爆とは B
水平原子雲と放射性粒子
江田 宏
広島・長崎に投下された原爆の原子雲の特徴は、水平に広がる「水平原子雲」である。黒い雨に関する専門家会議は、原子雲頭部から乾燥した放射性微粒子が放出されるという「砂漠モデル」に依拠しストークスの法則を使いシミュレーションしている。湿度が極端に低い砂漠での核実験と異なり、川や海がある広島や長崎のような湿潤な空気の中では、放射線は水分子の凝結を招き、放射性微粒子は水滴の核になり水滴とともに運動し、ストークスの法則とは異なる別の運動をした。
放射能を多量に含む水平原子雲は半径約18キロ(直径36キロ)ほどに及んだ。その下方空間には「黒い雨」が降り、また降雨にかかわりなく放射能空間が出現した。黒い雨の雨域はおよそ直径約3キロ、ほぼ水平原子雲活動の強い区域と重なっている。この地域は、雨に打たれたか否かにかかわりなく放射能環境の下で放射線にさらされた。水平原子雲は自然の風により移動したりするが、それに伴って黒い雨の雨域も移動した。
黒い雨の雨域
黒い雨の雨域は増田雨域、あるいは大瀧雨域で示される。雨は雲の下に降るものである。雨域は、ほぼ半径約18キロ(写真解読から)の水平原子雲を北北西風下に10キロほど平行移動した、原爆投下後1時間後の円形域と推察できる。この平行移動は風速毎秒3〜4mの自然風によって流されたことで理解できる。激しく降った雨域と長時間降った雨域は、原子雲のほぼ中心部分が風と共に北北西方向に移動していくことによってもたらされた。放射性微粒子がストークスの方式に従うとしてのシミュレーション(国の黒い雨専門家会議、その他による)は根本的に誤っている。
内部被爆
原爆で作り出された放射性原子は、セシウム137、ストロンチウム90、その他多くの種類がある。原爆の材料となったウラン235やプルトニウム239で核分裂しなかった部分も放射性原子であり、いったん超高温になってから冷えていく過程で放射性原子は他の原子と混じり放射性微粒子となる。
放射性微粒子は水に溶ける(可溶性)微粒子と水に溶けない(不溶性)があり、不溶性微粒子は体内に入って1カ所にとどまり、周囲の非常に狭い範囲に多大な被害を与える。これが発がんの元となる(黒い雨を経験した女性の肺がん組織内でウランがアルファ線を放出している画像が確認されている)。水溶性の場合は血液やリンパ液に溶け原子が1個1個バラバラの状態になって体中を回り、あらゆる病気を作り出す。
控訴に5団体が抗議
7月29日、広島地裁における「黒い雨訴訟」原告団の全面勝訴判決の後、政府はすぐに「科学的知見がない」と控訴の姿勢を示し、控訴の断念を求める原告、弁護団、市民団体の要請を無視し、広島市・広島県に強い圧力をかけ、8月12日に控訴させた。これにたいし9月29日、原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)、伊方原発運転差止広島裁判原告団など5団体が抗議声明を発し、被告である広島市と訴訟参加の厚労省に手渡した。10月2日には広島県に手渡した。(おわり)
(筆者注/矢ケ崎克馬・琉大名誉教授の資料を参照した)
イタリア新左翼運動から学ぶ
21世紀革命の変革主体とは
9月28日、第35回世直し研究会が大阪市内でおこなわれた。講師の伊藤公雄さん(京都大学名誉教授)が、「イタリアの新左翼運動の歴史と21世紀革命の変革主体」について次のように話した。
1956年のフルシチョフのスターリン批判、ハンガリー事件を契機にして、60年代に新左翼運動がおきてくる。オペライズモ(労働者主義)は、雑誌運動を中心に展開していく。この流れから、アウトノミア(自立/自律)運動がうまれる(73年)。アウトノミア運動は、資本からの自立、中央集権的な組織の解体、自立した自発的自己組織的な労働運動をめざした。このなかで、「社会的工場」、「社会的労働者」という概念を生み出していった。これが社会センター運動につながっていく。
今日では、若者文化の創造・享受の場として、社会センター運動が拡大。70年代からひろがり、全国に100カ所以上存続している。空き家や空き工場を占拠して、政治活動をする。また、自主管理による自由空間の創造が文化運動としておこなわれている。
さて、21世紀革命の革命主体はどこにもとめられるか。資本は自己の利害を追求するためのブロックを形成している。左翼運動は資本にたいする対抗としてブロックをつくり、一定程度の政治的影響力を確保する必要がある。新自由主義の流れに抗して、資本の支配から「人間と人間の共生」「人間と自然との共生」を求める運動が重要になってくる。
6面
「任命制」の研究―スターリン主義組織の本質 (第4回)
ドイツ=ロシア革命の構想
掛川 徹
「戦時共産主義」から農業強制集団化、大テロルにいたるロシア革命の凄惨な現実は最初から意図されたものではなかった。レーニンはロシア革命とドイツ革命を不可分の一体のものとして考えていた。しかし、肝心のドイツ革命が敗北し、ロシア革命も変質していく。
もともとロシア革命のモデルはフランス大革命で、「ツァーリ専制打倒のブルジョア革命をロシアでやる」というのがロシア社会民主党の共通認識だった。自由主義ブルジョアジーの役割を重視するメンシェビキに反対し、「ロシアのブルジョアジーは臆病なのでプロレタリアートが革命の先頭に立つしかない」というのがボリシェビキ派の立場だったのである。レーニンの1917年「4月テーゼ」はこういう認識を覆し、ロシア革命の性格を事実上社会主義革命と規定したことで衝撃をもって迎えられた。その理論的根拠が『帝国主義論』である。
ロシア農民の苦難の原因は大土地所有と結びついた銀行資本にあるという認識で、レーニンにとってロシアの「後進性」はドイツの「先進性」とワンセット、2つで1つの「世界システム」だったのである。1917年の10月蜂起をめぐる白熱したボリシェビキの会議の場で、レーニンは繰り返しドイツ情勢をとりあげ、「国際情勢は武装蜂起を日程に上らせている」「リープクネヒトの勝利はわれわれがおかすであろう一連の愚行を帳消しにしてくれる」と論じていた。
ドイツ革命への期待
ロシアの社会主義は農村の社会化抜きにありえず、農村の社会化にはトラクターが必要で、トラクターはドイツ革命がなければ入手できない―こういう状況でボリシェビキは農民が餓死することもいとわず、権力を維持するだけのために農村から暴力的な食糧徴発を続けた。その確信犯的な在り方は、ロシア国内だけに限定してこれを考えると、「大殺人者」「人類全体を裏切った男」「キリストの敵」「赤い独裁者」(当時レーニンは海外でそう呼ばれた)にしかならない。チェカや食糧徴発部隊の非人道的な政策を担当した職員のなかからは、かなり大勢の精神病者が出たとも言われる。
今日振り返るなら、理想集団であり、それなりに合理的集団だったボリシェビキがこうした「逸脱」をかろうじて容認しえたのは、ドイツ革命が起きるまで手段を選ばず権力を維持すれば、本来の理想主義的な在り方に立ち戻ることが可能だと信じていた、という以外に考えられないが、フィッシャーもこの点を裏書きしている。木製の鋤を使う文字の読めない農民が1億5000万もいるロシアで、トラクターを生産する能力をまだ持たないわずか300万の都市労働者が社会主義権力を宣言するという決断は、ドイツ革命を前提にしなければとうてい理解できないのである。
レーニンとローザ
実はこういうレーニンの認識はローザ・ルクセンブルクも共有していた。彼女は、ロシア革命の困難が「ロシアの未成熟ということではなく、…ドイツ・プロレタリアートの未成熟」にあるという立場から、「身をもって世界プロレタリアートの先頭に立った」ボリシェビキの「不朽の歴史的功績」を讃える一方、「レーニンは方法論を完全に間違っている」という予言的な批判をおこなっている(ローザ・ルクセンブルク『ロシア革命論』)。
ボリシェビキは「無賠償無併合の講和」を宣伝すれば三ヶ月でヨーロッパ革命が起きると信じており、トロツキーのカレンダー修正も「ドイツ革命には数年かかる」という程度だった。だからこそドイツ革命が十年単位で遅れるとわかった時に彼らが受けた衝撃は深刻で、ここからロシアの歪んだ現実を合理化する「一国社会主義」論も登場した。
真の悲劇は、レーニンがここまでドイツ革命に依拠する一方、スパルタクス団を指導するローザは「戦争を内乱へ」という革命戦略を否定していた点にある。敗戦で帝政は吹き飛んだものの、国防軍や生産組織など資本主義社会の頑強な骨格が崩れなかったドイツ革命のその後の展開は、ローザの正しさをある面で示していた。レーニンとローザの非和解的対立はロシアとドイツの現実に深く根ざしていたが、両者の溝が埋まることはとうとうなかった。
コミンテルン大会
フィッシャーが描く22年11月第4回コミンテルン大会の情景は示唆的である。ロシア内戦の論理がコミンテルンに波及し、「反ボリシェビキ」のドイツ党左派を粛清するよう求められた時、レーニン自らきっぱりと「レーニン主義」を否定してドイツ党左派を擁護し、参加者を驚かせたのである。ドイツ革命の異なる要素を統合しようとしたレーニンは、ロシアと違ってドイツ党には強権的な手法をいっさい求めなかった。あまりにロシア的なやり方をコミンテルンに持ち込んだのは間違いで、「われわれが自分で今後の成功への道を断ってしまったという印象を受けた」と述懐した彼は、ロシア革命の経験がドイツで役に立たないことを理解していたように思えるが、権力維持が自己目的化する革命ロシアの現実を制御できないまま病に倒れた。
毛沢東、チャウシェスク、ポルポト、金正恩―ロシア革命後の国際共産主義運動を一瞥すれば、「レーニン主義」の決算がマイナスであることは確かである。しかしロシアを軸にとるかドイツを軸にとるかでその結論は180度違ってくる。レーニン革命論の核にあるドイツ革命を一方の基軸にすえてそのプラスマイナスを決算することが必要なのである。ロシア革命勝利の方程式が肝心のドイツ革命を絞殺するというレーニン革命論の内的ロジックこそ今日究明されるべきテーマではないだろうか。
歴史の「もし」を語るなら、27年に合同反対派が蜂起してスターリン主義官僚を一斉逮捕し、ドイツ党左派を基準点にコミンテルンとロシア党を民主的に再編できたなら、工業ドイツと農業ロシアが国境を超えて結合し、豊かな民主的社会主義が実現する可能性は確かにあったのだ、という気がしてならない。そういう客観条件を活かすことができなかった当時の思想的・運動的・組織的な枠組みを再検討すべきだと思うし、その内容こそ現代のわれわれが社会主義に至る道を照らすと思うのである。(おわり)
【補遺】
ドイツ革命の難題
当時ドイツで問われた最大のテーマは、マルクスが想定したようなブルジョアジーとプロレタリアの階級的二極化が実現せず、従来構想された革命論が通用しなかったことである。
ドイツ労働組合総連合の中心的な層は、金属や炭鉱などの下層労働者に比べれば「貴族的なほど」の高給取りで年金や医療保険も保証されていた。当時ベルンシュタインが唱えた修正主義―革命ではなく永続的な改良を―は、社民党役員とその支持基盤の本音を正直に表明したにすぎず、カウツキーら幹部層が「修正主義」に反対したのは、資本家への恫喝と取引に役立つ「革命」理論を建前だけでも掲げておく必要があったからにすぎない。社民党員で労組幹部の一人イグナツ・アウワーはベルンシュタインに「お前の言うことは全部正しい。がしかし正しいことだからと云ってそれを全部口に出してしまってはならないのだ」と書き送った(河合前掲書)。社民党の変質は、指導者が資本に買収されたからというだけではなく、労働者全体の生活の変化を反映していた。ロベルト・ミヘルス『政党の社会学』(1911年、邦訳1973年)はドイツ社民党の実態を詳述し、1911年トリポリ戦争に反対するゼネストが兵器廠労働組合の猛反対で頓挫したり、メーデーすらこれを「祝って休める」人々と「深刻な生活難」のために働かざるを得ない人々が対立した事実を伝えている。当時の業種間格差も大きく、1892年の党員集会でヴィルヘルム・リープクネヒトが「ザクセン地方の鉱山労働者、シュレージェンの職工は、あなた方のとっている給料を、大富豪の収入とみるでありましょう」と語ったほどである。
労働者階級の分裂
ドイツ労兵評議会第1回大会の評決が示したように、ドイツ労働者の主流はドイツ皇帝退位とワイマール共和国に満足し、それ以上の変革を望まなかった。彼らがはっきりと第2革命を志向したのは1923年のインフレーションで老後の年金生活が吹き飛んだ時だけである。その革命的機運もインフレ収拾策が導入された23年8月には霧散し、ドイツでいつ武装蜂起を実行すべきかモスクワが盛り上がっていた23年10月の時点で社民党支持層の生活は元に戻っていた。年金支給で老後生活を保証してくれる社会システムを打倒したいと思う人はいないのである。
労働者は放っておいたら労働組合的改良しか望まないので革命的理論を外部から注入しなくてはならない、というレーニンの理論も、その土台となる認識はベルンシュタインと同じで、労働者が「脱プロレタリア化」した事実を前提にしている。レーニン革命論は、あるがままの労働者は革命を望まないという根底的不信感をベースにしていたと言える。
しかし、他方では失うものをもたない本来の「プロレタリア」たるドイツの金属労働者や炭鉱労働者はロシア革命型の徹底的な変革を望み、モスクワの支援を受ける彼らの孤立した武装決起は社民党員で構成された警察部隊や国防軍の弾圧によってことごとく粉砕された。彼らはその後社民党と袂を分かってドイツ共産党を構成し、自分たちの要望を体現した民主主義的な組織を手探りしたが、スターリンが導入した「任命制」によって粛清・再編されてしまう。
ローザの死
ドイツ革命の課題と困難性を知悉するローザは、深い憂慮を抱いてリープクネヒトと革命的オプロイテの孤立と暴走をいさめたが、自らの意思ではない19年1月闘争に巻き込まれる形で国防軍に殺されてしまう。亡くなる直前、「周囲の人々にも、彼女が心中苦しんでいることが感じられた。彼女は言葉少なくなり、うちとけぬようになった」「毎日、強烈な脱力感の発作に襲われ」、「政策を矛盾なく一貫してたてていくことは、すでに彼女にはできなくなっていた」という(P・フレーリッヒ『ローザ・ルクセンブルクの生涯』)。ドイツ労働者階級の分裂そのものを体現した彼女の姿に胸が痛むが、フレーリッヒの報告を読むと、彼女の死はある種の必然性を帯びていたように思える。