新政権で継続するアベ政治
強い民主主義で対抗を
9月16日に発足した菅義偉内閣は、アベ政治を継承し、規制緩和と構造改革を強行しようとしている。コロナ禍の最中で「自助」を強調する菅の政治姿勢は、「弱肉強食」の新自由主義思想そのものだ。内閣発足直後の19日、兵庫県尼崎市内で関西大教授の高作正博さんが講演し、安倍政権8年間の政治的総括を提起した。講演の要旨を紹介する。(文責・見出しとも本紙編集委員会)
内閣総理大臣になった菅義偉は「安倍政治の継承です」と語ったが、安倍政治の「負の遺産」はどのように継承つもりなのか。「拉致問題」の進展は一切なかった。「北方領土」交渉は後退した。「憲法改正」もできなかった。そして「政治の私物化」の問題がある。モリ・カケ・桜、公文書管理はいったいどうするのか。これと向きあわなければ「新しい内閣」が誕生したとはいえない。安倍首相不在のアベ政治となるのは必至である。
主権の簒奪
安倍政権の8年間で法秩序は大転換した。13年12月の特定秘密保護法によって国家秘密が増大し、マスコミの取材や国民の知る権利が大きく制限された。14年には、武器輸出三原則を撤廃して防衛移転三原則を閣議決定した。憲法の平和主義に基づいた国の原則を一つの内閣が勝手に変更してしまった。
特に重大なのは安保法制の改悪である。歴代の内閣が憲法違反と判断してきた集団的自衛権の行使を突然、閣議決定によって「合憲」へと判断を変更した。憲法判断を内閣が一方的に変更するのは主権の簒奪そのものだ。
17年6月には共謀罪が導入された。これは実行行為がなくても犯罪として取り締まることを可能にする法律であり、刑事法制の大転換である。警察の情報収集活動や監視活動が強化され、市民生活を脅かすことになる。
少数派バッシング
こうした政治的行為と一体で、日本社会の変容が大きく進んだ。「弱肉強食」を容認する社会が生まれている。朝鮮学校への補助金の打ち切りなど、マイノリティーに対する差別や抑圧が強まっており、それが当たり前のような風潮が日本社会を覆っている。
そこでは主権者である個人が憲法によって国家権力を監視するという立憲主義的な考えが希薄になり、「国家=多数派」対「少数派」という対立構図に変わってきた。少数派に「非国民」というレッテルを貼り、バッシングする光景が社会のあらゆる場面で見られる。
どう対抗すべきか
安倍―菅政治にどう対抗するか。ひとつは選挙を通じた政権奪取だ。大事なのは選挙と選挙の間で、地域や地方の課題を堀りおこしていくことだ。それに成功したところは野党が選挙で勝っている。
もうひとつは「カウンターデモクラシー」である。監視、拒否権、そして判事としての、人民の権利の行使である。共生社会を再構築するためには、「孤人主義」や「私」にひきこもらずに、公共や政治に関心を持ち、差別・分断・排除に負けない強い民主主義をつくらなければならない。
設計変更は許されない
辺野古新基地 告示・縦覧始まる
キャンプ・シュワブゲート前で土砂投入に抗議する市民ら(9月17日) |
9月7日 沖縄県独自のコロナ感染対策「緊急事態宣言」が解除されたため、約1カ月ぶりに名護市米軍キャンプ・シュワブゲート前で座り込みが再開された。
オール沖縄会議は県の要請にこたえる形で、8月4日より9月6日まで座り込みの中止を決定した。しかし、辺野古新基地建設は続行しており、シュワブゲート前・塩川港・名護市安和の琉球セメント桟橋での監視行動は続けた。この間、米軍基地内でコロナ感染が拡大し、シュワブ基地内でも感染が出たのに工事は強行された。
この日、ゲート前には30人が座り込み、工事の中止を訴えた。
反対意見の集中を
8日 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設で、沖縄防衛局が4月に県に提出した設計変更申請書について、県は8日申請内容を公開し、県民ら工事で影響を受ける人から意見を募る「告示・縦覧」を開始した。期間は28日までの3週間。
集まった意見は、県が変更申請の可否を決める際の判断材料の一つとなる。県は今後、縦覧で寄せられた利害関係人からの意見に加え、関係市町村などから出された意見も踏まえて申請内容を判断していく。
玉城デニー知事は「われわれは厳しい精査をするということで臨む」と述べ、変更申請に応じない構えだ。その場合は国との法廷闘争に発展する。
海上抗議を再開
10日 沖縄防衛局は、台風で中断していた海上での工事を再開した。辺野古海上では海上行動隊が工事再開に抗議の声を上げた。ゲート前には市民70人が座り込み、工事再開に「違法工事止めろ」と抗議の声を上げた。
15日 コロナ感染防止のため中止していた、名護市安和の琉球セメント桟橋周辺の海上抗議行動が1カ月半ぶりに再開された。海上行動隊はカヌー9艇、ボート1隻で抗議行動を展開した。
名護市内で訴え
この日夕方、ヘリ基地反対協議会は、名護市内の交差点で、名護市辺野古の新基地建設をめぐる設計変更の承認申請書について、意見提出を呼びかける街宣行動をした。参加者はマイクを手に「防衛局が提出した申請書では環境にたいする影響は変更前と同程度かそれよりも小さいとしているがそれはおかしい」「辺野古に新基地を建設することで、子や孫の代まで負の財産を残さないよう、住民のひとりとして意見書を提出してほしい」と呼びかけた。
17日 キャンプ・シュワブゲート前で市民50人が座り込み抗議の声を上げた。この間ゲート前からの工事車両は、朝・昼・夕の3回に分けて、200台ぐらいが搬入している。辺野古海上では運搬船3隻(10tダンプ600台分くらい)が連日土砂を搬入している。(杉山)
戦争法成立5年で街宣
敵基地攻撃に反対
9月19日 大阪
大阪市廃止に反対の訴えも(9月19日、大阪市内) |
戦争法強行成立からまる5年になる9月19日を翌日に控えた18日、大阪市内でおおさか総がかり行動による街頭宣伝がおこなわれた。街宣は午後6時から1時間、環状線桃谷駅前で、「戦争法は廃止、いのちを守れ、改憲発議とめよう」「敵基地攻撃能力の保有に反対しよう」、あわせて「大阪市廃止=都構想に反対」も訴えた。
「都構想」反対のビラを見て話しかけてくる人や、自分から受け取りに来てくれる人など、「都構想」への関心の高さがうかがわれる街宣になった。
スピーカーは大阪憲法会議・共同センターの山田憲司事務局長、続いてインタビュー、形式で「しないさせない! 戦争協力」関西ネットワークの中北龍太郎弁護士が回答者に扮して、戦争法に対する詳しい説明と安倍政権を引き継ぐスガ政権を批判した。
どないする大阪の未来ネットの2人は掛け合いで「都構想」の問題点を明らかに。大阪府が大阪都になるわけでもなく4つの特別区というまったく別の、権限も財源も小さい自治体になってしまうこと、水道事業は府に移管するので、今は大阪府下で一番安い大阪市の水道料金は上がる。無料のゴミ回収も有料になる。途中で「がんばれよー」という大きな声援も。
続いて豊中市会議員木村真さんが森友問題をうやむやのまま終わらせないと発言。最後に、子どもたちに20人学級をプレゼントしたい市民の会が署名への協力を訴え街宣を終了した。
2面
「都構想」のごまかしを暴く
住民投票は政治的暴挙
大阪市を廃止して4つの特別区に分割する「大阪都構想」の住民投票が、11月1日におこなわれる。もしも賛成多数になれば、政令指定都市・大阪市が消滅する。投票を40日後に控えた9月21日、大阪市内で「ちょっとまていっ!住民投票 森裕之講演集会」が開かれた。森さんは立命館大教授。当日の講演要旨を掲載する。(文責・見出しとも本誌編集委員会)
ストップ住民投票を訴え梅田までデモ行進(9月21日) |
「大阪都構想」にはそもそも制度的欠陥があります。それから、新型コロナ感染症が拡大している中で住民投票をおこなうということは、政治的暴挙以外のなにものでもありません。コロナ禍で困窮する住民や事業者に支援をおこなうのは行政の義務です。大阪市は、来年度の税収の見込みが本年度に比べて500億円減少すると発表しました。勇気を持った職員がまだ市役所にいたのですね。大阪府の方は、いまだに来年度の税収見込みを発表していません。早く出すべきです。
コロナ禍の経済的な影響が出てくるのは来年からです。収入が減るだけでなく、コロナ対策に伴う支出は確実に増えます。一体どれだけお金が不足するのかはわかりませんから、いまは無駄なお金を使うわけにはいきません。この当たり前のことをなぜか大阪府・市はやらないのです。やらないどころか、不要不急の「都構想」にばく大なお金を投入しようとしているのです。「住民投票」は政治的暴挙です。
「都構想」の財政シミュレーションは、2016年の決算を基にしておこなわれています。いまやコロナ禍でその前提が崩れています。そこで8月11日に出してきた「見直し」では「税収が減っても、国が地方交付税などでカバーしてくれる」という。いったい何を言っているのでしょうか。本当に国がカバーしてくれるというのなら、全国の地方自治体はお金のことについて何の心配もいらないことになります。こんなことを言っているのは大阪だけです。
多くの自治体は自治体の貯金である財政調整基金を取り崩して、コロナ対策に充てていますが、大阪市はこれを一切使っていません。なぜか。万博とカジノをやるための資金として残しているのです。このままいけば住民サービスを削減せざるを得なくなります。
森裕之さん |
関西全体が衰退
都構想とは何か。第1に、政令指定都市である大阪市が消滅します。第2に、大阪市が4つの特別区に分割されます。特別区とは市町村と同じですから、大阪市が「淀川市」「北市」「中央市」「天王寺市」に分割されるとイメージしてもらったらよいと思います。
ではなぜ、「淀川区」でなければならないのか。「淀川市でええやん」と思われるかも知れませんが、ダメなんです。なぜか。市だと権限と財源が独立しているからです。一方、特別区は権限と財源のかなりの部分を大阪府に持っていかれます。つまり、政令指定都市として大阪府と対等な関係にあった大阪市が、大阪府の従属団体に成り下がってしまうのです。財源の3分の2が持っていかれます。また都市計画、港湾、交通、インフラ、産業政策、高等教育、観光・文化・スポーツ振興など都市が発展するために不可欠の権限・基盤がすべて奪われます。これで大阪市域は確実に衰退します。これは大阪全体、ひいては関西全体の衰退を引き起こします。なぜなら大阪市の経済活動が関西経済を支えているからです。
「都構想」にストップをかけるためには、一人でも多くの人が投票に行くこと。投票率を上げれば勝つチャンスがあります。みなさん、がんばりましょう。
歴史的に見たパンデミック
変革の大きなチャンス
9月11日、大阪市内で「なんとかならんかこの日本 歴史から考える新型コロナウイルス」講演集会がひらかれた。主催は集会実行委員会。連絡先は〈オール関西 平和と共生〉。講演は京大人文科学研究所准教授で日本の農業史研究者の藤原辰史さん。コロナ禍で社会的・経済的弱者がその生存を脅かされるという現状を打開することを目的にひらかれた。講師の藤原さんは、感染症の世界的なまん延という過去の歴史を検証し、コロナ感染拡大を防止するためになにをなすべきかについて鋭い分析と提言をおこなってきた。この4月には、岩波新書編集部のホームページで『パンデミックを生きる指針〜歴史的アプローチ』という論考を発表し、20日間で40万アクセスを超えるという大きな注目を浴びている。
コロナ終息後の世界
講演では「新型コロナウイルスが終息を迎えたあと、どのようなことが考えられなければならないのか」について言及した。
テレワークができない医療や福祉や保育、第1次産業にたずさわる労働者や外国人労働者がいなければ、テレワークの仕事は成り立たない。にもかかわらず、そうした労働者のほとんどが、賃金は低く福利厚生は貧しい。その労働環境は決して働きやすいものではなく、暮らしやすいものではとうていなかった。「いま世界各国でこうした問題について反省が迫られ、見直しが始まっている」と指摘。日本もまたこの議論から逃れることはできないのである。
新型コロナウイルス発生の原因は何か。それは動物のせいなのか。そうではなくて、人間による自然破壊によって、本来は別々であった動物と人間の生活世界が近づき過ぎた結果なのだ。藤原さんは「『見せかけのエコロジー』ではない思想が求められている。根源から経済を考え直そう」と聴衆によびかけた。「歴史は、個人個人の小さな積み重ねでしか動かない。今は旧態依然とした社会構造を根本から変革するすごく大きなチャンスが日本を含め世界各地に到来している」という言葉が参加者の胸に響いた。(詳細は次号掲載)
ポストコロナの日本政治 ケアの精神を重視する
9月12日、戦争をさせない1000人委員会・しが主催の活動報告会と学習会が大津市内でひらかれ40人が参加。京都大学名誉教授の伊藤公雄さんが講演した(写真)。
伊藤さんは女性リーダーの国はケアの精神でコロナ対応に成功したが、マッチョな男性リーダーの国は経済と生産を優先して破産していると指摘。安倍が辞任した原因は、河合夫妻の逮捕と1億5000万円の選挙資金問題、山口にある安倍自宅に火炎瓶が投げられた事件で逮捕された右翼分子が刑期を終えて出所すると、事件の背景が暴露されるおそれがあることなどをあげた。つまり「現職首相の逮捕を恐れて辞任した」と話した。
菅政権は身内から逮捕者を出さないことが最大の使命。政策は特にないが、警察官僚、内閣人事局、メディアを押さえていることが核心。安倍政権とは、経産省主導による「やってる感」政治だった。それを警察とメディアにバックアップさせて、長期政権の記録更新だけが目的の政権だった。
資本が全社会を支配
1970年代から新自由主義の下で、国家とグローバル資本が癒着した格差社会が生み出されてきた。これは資本の自己増殖のために人間が支配されているという資本主義の根本的問題である。70年代、イタリアのアントニオ・ネグリは、社会のあらゆる領域が資本の支配の下に入っていくと指摘したがその通りになっている。
これに対抗するのが資本主義批判であり、「人間と人間の共生」「人間と自然の共生」である。ケアの精神とデモクラシーの再生である。それが社会的連帯経済であり、ヨーロッパで広がっているミュニシパリズム(市民主体の地方自治)だ。
講演の最後に伊藤さんは「日本ゆっくり党宣言」を提案。日本はこのままでは「滅びの道」に向かう。「もっとゆっくり、もっと多様に、もっとじっくり」と呼びかけた。
感染下では原発止めろ
9月14日 仮処分第2回審尋
9月14日、大阪地裁で「コロナ下では、原発は止めておけ! 仮処分」の第2回審尋がおこなわれた(写真)。
申し立ての概要は「新型コロナウイルスが猛威をふるっている現状で原発事故が起きると、バスや車に乗り合わせての避難や避難所への避難は、人と人とが密接せざるを得ないことから不可能になり、住民は放射性物質から逃げることができない。そのため生命、身体、精神および生活の平穏、あるいは生活そのものに重大かつ深刻な被害を受ける危険がある」というもの。福井県、京都府、大阪府、兵庫県の住民6人が申立人となり、高浜原発1〜4号機、大飯原発3、4号機、美浜原発3号機の運転差し止めを求めている。
この日の審尋終了後、記者会見と報告集会がひらかれた。申立人のひとりである菅野みずえさん(福島県浪江町から兵庫県に避難)は、「政府や自治体はコロナを理由に居酒屋などの営業を自粛させているのに、なぜ原発は自粛させないのか」と疑問を呈した。
弁護団は「原発事故避難計画とコロナ対策は矛盾する。現状では避難計画に実効性はない。事故がおこれば、住民は安全に逃げることはできない。放射性物質を浴びる」と強調した。次回は12月21日。
3面
論考 コロナ禍と対抗運動の現状(上) 汐崎恭介
グローバリズムの破綻
国際通貨基金(IMF)は6月24日に発表した世界経済見通し(WEO)で、2020年の世界経済の成長はマイナス4・9%になるという予想を発表した。これは4月発表のマイナス3・0%からの大幅な下方修正である。4月のWEOでは、「今回の危機は類例を見ない」とした上で、1929年恐慌以来最悪の景気後退の可能性が高いと警鐘を鳴らしていた。世界は経験したことのない危機に直面している。この状況下で民衆の対抗運動はどのような形態を取り、どのような力を発揮できるのか。その可能性を探っていきたい。
世界経済の減速
コロナ禍以前の世界経済は、はたして順調だったのか。
昨年11月15日、発表のWEOによれば、2019年の世界経済の成長率は前年比3・0%で、18年の同3・6%から大幅に減速した。 これは世界的な景気後退の一歩手前といえるような低い伸びだった。IMFは減速の主要因として米中貿易戦争を背景とした先行き不透明感をあげていたが、今年に入って米中関係はさらに悪化している。一方でその改善が見られれば、経済成長の回復を「期待」できるのかといえば、そうでもない。
3・0%という数字は、08〜09年の世界金融危機(リーマン・ショック)以降で最も低い数字だった。金融危機直前、07年の世界経済の成長率は6・0%に迫っていた。 しかし金融危機以降は、3%台後半の数字で推移してきた。これは、欧米先進国が軒並み金融緩和策を取り続けてきたことによって辛うじて維持してきた数字である。
米国の中央銀行に当たる連邦準備制度理事会(FRB)は、08年以降、政策金利を0%に引き下げたうえで、08年から14年にかけて、3弾にわたる量的緩和政策(QE:FRBによる国債や証券等の買い入れ)を行ってきた。15年以降は景気過熱を懸念して、政策金利を段階的に引き上げてきたが、昨年7月、約10年半ぶりに利下げを実施した。
欧州中央銀行(ECB)は、14年6月にマイナス金利政策を導入し、翌15年3月には量的緩和政策を導入した。18年12月に量的緩和の終了を宣言したが、19年9月には早くも再開した。終了宣言から1年も持たなかったのである。またECBは、短期金利の指標となる主要政策金利を0%に据え置く一方で、中銀預金金利をマイナス0・5%に下げた。
1999年に日本は、日銀が初めてゼロ金利政策を実施、さらに01年には初めて量的緩和政策を実施した(06年3月に解除)。日本の金融緩和政策はすでに20年を経ている。第2次安倍政権のもとで日銀は13年4月から「物価上昇率2%」を目標とする「異次元の金融緩和(量的・質的緩和政策)」を実施し、18年末時点で400兆円近くを市場に供給した。 その「成果」はどうだったのか。IMF統計によれば、2018年の日本の実質国内総生産(GDP)成長率は0・81%だった。この数字は世界193カ国中で171位であった。まさに惨憺たる結果である。
2月17日発表の19年10〜12月期のGDP速報値は、実質で前期比マイナス1・6%、年率換算ではマイナス6・3%だった。安倍政権の政策的失敗によって日本経済はすでに深刻な景気後退に直面していたのだ。
ここ10年余りの米・欧・日の金融当局の対応を概観してみれば、先進国経済が金融危機のダメージからいまだに脱していなかったことがわかるだろう。そこにコロナ禍が襲いかかったのである。
中国、「負の遺産」の重圧
新型コロナウイルスは「世界経済の成長エンジン」といわれる中国で発生し、全世界に拡大した。中国は金融危機が直撃した08年、総額4兆元という大型景気対策の打ち出しでV字回復をとげ、世界経済の「救済者」として重要な役割を果たした。こうした役割を、今の中国に期待することができるだろうか。
6月のWEOでは、中国の今年の成長率はプラス1・0%と予想されており、コロナ禍のダメージから早くも立ち直りつつあるかにみえる。しかし、08年の大型景気対策は三つの負の遺産(製造業の過剰設備、企業債務、不動産在庫)として中国経済に重くのしかかっており、それは今も清算できていない。中国は金融危機の直前まで2桁の経済成長を誇っていたが、2010年以降は成長率が低下し、近年は6%台で推移していた。
中国の社会問題も深刻化している。高齢化社会の急速な進行、環境問題、エネルギー問題、そして都市部と農村部との中国社会の分裂という歴史的な問題である。習近平を首班とする北京政府は、こうした山積する諸問題を解決するために中国社会全般にわたる構造改革を断行しようとしてきた。習近平が掲げる「中華民族の偉大な復興」とは、構造改革に国民を動員するためのスローガンである。 その最初の大きな節目となるのが2022年に迫った中国共産党建党100周年である。台湾と香港にたいする北京政府の強硬姿勢は、「中華民族の偉大な復興」を国内に強く印象づけるためのものであったが、いまやそれは完全に裏目に出ている。中国経済もまた金融危機の「負の遺産」から逃れることができないまま、コロナ禍に突入したのである。
債務危機の進行
次に注目したいのは、金融危機以降、先進諸国が未曽有の金融緩和によって市場に供給しつづけた、膨大な資金のゆくえである。現在それは、巨大な債務となって世界経済にのしかかっている。昨年11月7日、IMFのゲオルギエワ専務理事は、世界で債務が膨張し、2018年末時点で188兆ドル(約2京5000兆円)となり、過去最高を更新したことを明らかにした。これは世界全体のGDP比で約230%に達しており、同理事は「経済と金融安定にリスクをもたらす」と警告を発している。
世界銀行(世銀)は昨年12月19日、新興・途上国の債務に関する報告書で2018年の公的部門と民間部門の債務残高が55兆ドル(約6000兆円)と過去最高を更新したと発表した。債務の規模や拡大ペースは「過去50年間で最も深刻」なものとして、金融危機リスクに警鐘を鳴らしている。 昨年10月の世銀の発表では、中・低所得国の一部では債務水準の悪化傾向にあり、債務の対GNI(国民総所得)比30%未満の国の割合が、10年前の40%から25%に低下したという。 デフォルト(債務不履行)の警戒水準は35%といわれているが、 中・低所得国の4分の3の国々が債務危機に直面していることになる。昨年1年間だけで、イラク、スーダン、エジプト、アルゼンチン、パプア・ニューギニアなどで大規模な民衆デモがおこなわれている。中米・メキシコでは「キャラバン」と呼ばれる難民の大集団がアメリカへの亡命を目指して、実力で国境の突破を図っている。こうした大規模な民衆反乱は、今後も世界各地で続いていくだろう。
巨大な債務によってその生活や生存が脅かされているのは、中・低所得諸国の住民だけではない。先進諸国の住民も決して例外ではないのだ。先進諸国の政府は、肥大化した公的債務を理由にして緊縮財政策をとり続けており、社会保障、医療、教育など住民の生活基盤にかかわる予算を削減する一方で、公共料金の値上げや大衆課税の実施などによる住民からの収奪を強化している。昨年10月、安倍政権によって強行された、消費税率の10%への引き上げはその典型である。(つづく)
4面
「黒い雨」訴訟、降雨被爆とは A
きのこ雲と残留放射線
江田 宏
原子爆弾投下、核爆発、巨大な熱と火災熱、上昇気流と汚染物質の拡散は、どのように広がったのか。今回は、「黒い雨」訴訟の証人・矢ケ崎克馬さん(琉球大名誉教授)の資料から、「黒い雨」の生成と降雨による被爆のメカニズムを見てみる。
原子爆弾
広島に投下された原子爆弾(ウラン型、長さ3m、直径0・7m)は、爆心地である島病院の上空580m(+−15m)で爆発した。ウラニウム235の原子核に高速中性子線を衝突させ、爆発的に核分裂反応を起こした。放出されたエネルギーはTNT火薬換算1万5千d分、内訳は爆風50%、熱線35%、放射線15%だった。火球の瞬間温度100万℃、0・1ミリ秒後に半径約14m、瞬時に直径280mに膨れ上った。0・3秒後に約7千℃の灼熱火球となり、爆心地周辺の地表面は3千〜4千℃に達した(太陽の表面温度約6千℃)。
原爆による放射線は、爆発後1分以内に放出される初期放射線と、その後の残留放射線がある。初期放射線はアルファ線、ベータ線、ガンマ線、中性子線の4種。そのうちガンマ線と中性子線が地表まで到達した。残留放射線は核分裂生成物、未分裂のまま飛散したウラン、爆弾器材や空中あるいは地上の物質で中性子線により放射化された放射線(誘導放射線)である。
原爆を構成したすべての物質は、一瞬に気体となり火球を形成した。火球内は高温のため、原子を構成できないプラズマ状態となった。火球が膨張する間に温度が下がり、原子核と電子が結合して原子が再構成され、ぶつかり合う原子が結合して分子が構成される。さらに分子同士が結合し放射性微粒子が構成された。放射性微粒子から放出される放射線により、周囲の原子は電子を飛ばされイオン化し、こうした放射性微粒子やイオン、湿った空気中の水分子が引き寄せられて水滴ができ、火球周辺に巨大な雲が形成される。
爆風と焦熱化
一方、原爆の熱線により地上が焦熱化され、建物等が直接発火(1次発火)したことに加え、爆風による建物崩壊に伴い間接発火(2次発火)したことで大規模な火災が発生した。爆風と火災によって灰になった総面積は13平方キロに及ぶ。
大火が発生すると空気が熱せられ急激に上昇し、四方から冷たい空気が中心部へと吹き込む現象(火事風)が起こり、さらに火災が増幅され誘導放射化された放射性物質が巻き上げられる。こうして目に見えない放射性微粒子に燃焼による炭素(黒色)=火災によるすすが加わった「きのこ雲」から、広範囲に降ったのが「黒い雨」である。原子爆弾の爆発で形成された火球は高温となり、上昇を続ける。火球は膨張するが中心軸から離れるに従って浮力は低下する。成層圏まで達すると、それより上は平衡温度が高くなるが、その下の対流圏では高度が増すにつれて気圧も温度も低下する。中心軸付近は成層圏に突入し、周辺部は浮力を失う。このとき中心軸付近の浮力により外周部にも及ぶが突入できず、水平方向に押しやられる。雲の高さは16キロとされ、水平原子雲の高さは8キロと読み取ることができる。この雲の半径は17〜21キロの範囲と判定される。(つづく)
連載
命をみつめて見えてきたもの?
死の農法こえ、生命の農法へ
有野 まるこ
連載Oで、私は佐々木隆治氏の著書『カール・マルクス』から引用してドイツの化学者・リービッヒを紹介した。彼は当時の近代農業を、土地を疲弊させ南米から肥料資源を奪う略奪的農業と厳しく批判。「人間を自然の一部」としたマルクスは、物質代謝(今でいう生態系)の概念を考察する上で、リービッヒから多くを学び、高く評価していた、という内容だ。
農薬多用の近代農法
前回紹介した梁瀬氏の本をたまたま手にとったのはその後。何とここに真逆の存在としてリービッヒが登場していたのだ。著者はリービッヒが化学肥料を提唱し、それが戦後の農薬多用の近代農法につながったと、こっぴどく批判。三里塚の市東さん・萩原さんの無農薬有機野菜を毎週おいしく頂いているのに何と勉強不足かと反省した。
梁瀬氏は1952年生家(五條市)の寺の敷地内で開業するが、この頃から盛んに使われるようになった化学肥料に疑問をもつようになる。大きく育つが篤農家の野菜とは味が違う。野菜を食べる必要性を説いていた彼は農法の研究を決意する。そして化学肥料が、物理的にも化学的にも微生物学的にも土壌を荒廃させ、育つ野菜は栄養価が低く、おいしくなく、生命力が弱く、病害虫にも侵されやすいこと。害虫を殺そうと毒性の強い農薬が使われ、地力はますます低下、害虫の天敵は滅ぶ、そのため化学肥料と農薬がますます多用されるという悪循環を明らかにする。誠に近代農法は「土を殺し、益虫を殺し、人を殺す」「死の農法」だとして、「生命の農法」への変革のため起ちあがる。
誰もが化学肥料・農薬を礼賛し、農薬が第2次大戦で使われた毒ガスの転用であるなど一般人が知る由もなかった時代。梁瀬氏は多くの患者が苦しむ症状と知見の研究から、農薬による慢性中毒だと確信、1959年世界で初めて「農薬の害」を発表する。猛烈な非難を浴び迫害されるが、無農薬農法を実現するためには化学肥料をやめて土を肥やすことに糸口があると確信していた彼は、すでに7年間の農法研究を積んでいた。何回も失敗し、「絶対ムリ」と嘲笑されながら。「生命の農法」の原理と技法はやがて確立する。
生命を殺す化学肥料
梁瀬氏は言う。リービッヒは植物を枯らし、焼いて灰にして分析し、窒素とリンとカリウムを発見、この三要素を与えれば植物は生育すると結論した。果たして植物は育った。この「植物無機栄養説」は世界を風靡し化学肥料が生まれた。「生きた植物」という「生命体」を「枯れた状態」(死骸)にし、分析した結果から生命体が解明できたと考えたのは滑稽なほど幼稚な着想だが、近代医学の欠点と極めて似ている。生きた植物は根を土中に張り、そこの数限りない生物と共存し、その産物を吸収して地上部に供給。地上部はこれを材料として太陽エネルギー、水、空気中の炭酸ガスなどを加えて一層複雑な有機質を合成して生育する。これが生命体たる植物の真の姿、土中の生態系は「生命のもと」。化学肥料はこれを滅ぼすのだ。リービッヒの伝記を調べた梁瀬氏は「こんな良い人が全世界の人に恐ろしい害を与える結果になるとは…。私はそれが余計残念だ」とも書き、ある人の言葉を付している。
「リービッヒ、彼はあまりにも化学者でありすぎて、あまりにも詩人でなさすぎた」。
19世紀、略奪的農業を厳しく批判したリービッヒが求めた出口が化学肥料であり、それが毒ガスから生まれた農薬を使う「死の農法」を結果した歴史は、「生命」と、その「生態学的存在」を顧みない、近代科学・近代医学の根本的欠落を教えている。(つづく)
(シネマ案内)
『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』
監督:太田隆文 2019年
今年8月15日で、「戦後75年」をむかえた。当時10歳の子どもは、すでに85歳を迎える。この時代のなかで、戦争体験者にとって「次世代にいかに伝えていくか」、戦後世代にとって「これをいかに受け継いでいくか」、このことがおおきなテーマになっている。
映画はブッダの引用からはじまる。この映画は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)総合研究所が平和学習のために視聴覚教材として製作したものだ。沖縄の試写会で、「市井の人が犠牲になることが理屈抜きでわかる映画」と評判になり、一般上映を求める声が多く寄せられ、本年7月より日本中の映画館で公開されることになった。
映画は、沖縄戦の体験者12人の証言と専門家たちの話を導きの糸にしながら、沖縄公文書館に保管されている米軍撮影の映像を織りこむことによって、沖縄戦の実相を説明していく。沖縄戦を取り扱ったドキュメント作品では、記憶に新しいところで「沖縄スパイ戦史」(三上智恵監督)などがある。しかし、沖縄戦をトータルに描いた映像作品は、意外に少ないらしい。
多くの沖縄県民が米軍基地に反対している根底には、沖縄戦の経験と教訓がある。
「沖縄戦の特徴」とはなにか。沖縄が日本の天皇制国家のなかに組み込まれて以降、中央政府は沖縄を国内植民地として差別してきた。日本軍にとって、沖縄戦は沖縄を守るためではなく、あくまでも本土決戦のための「捨て石」であった。
この差別構造のなかで、沖縄では皇民化教育がおこなわれ、住民は根こそぎ戦争に動員されていった。住民はスパイ扱いされ、その命は一切考慮されなかった。一方、アメリカはこの差別構造を知ったうえで、これを利用しながら、沖縄を軍事占領した。アメリカ軍がおこなったことも沖縄の住民のためではなかった。これは戦後も変わっていない。
日本軍は沖縄の住民を厄介者としてあつかい、戦闘の足手まといになるからとして、殺していった。このなかで、渡嘉敷島の「集団強制死」があり、チビチリガマでの悲劇があった。米軍は日本軍のような殺し方はしなかったが、それは米軍支配ための政治的配慮にすぎない。人道的だったわけではない。
戦争を語る場合、戦場にされた住民の視点が重要だ。住民は戦場のなかでいかなる事態に追い込まれていくのか。沖縄戦はこれを実証している。それは極めて今日的なテーマだ。支配者は「住民の生活を守るために」ときれいごとを言うが、国家は決して住民を守らない。
この映画では宮古・八重山諸島などの沖縄戦は扱われていない。また、もう少し突っ込んでもらいたいところもある。しかし、沖縄戦の本質がよく整理されている。証言者たちの貴重な声が映像として残されている。それが沖縄戦の学習教材として、この映画をすぐれた作品にしている。
5面
コモンを市民の手に
ミュニシパリズム研究会
9月11日、京都自治・ミュニシパリズム研究会の発足集会がおこなわれ、50人が参加した。欧州でミュニシパリズムの実践にかかわる岸本聡子さんが講演(写真上)。ミュニシパリズムとは地域の自治から社会を変えていこうとする運動。「これがミュニシパリズムだ」と言い切れるものはない。地域や時代に応じて変化しており、15年ほど前から南欧を中心に実践されてきた。地域の運動だが、世界と結びついた国際主義的な運動である。「京都では京都にあった運動をつくろう」と呼びかけた。
ミュニシパリズム発祥の地はスペインのバルセロナ。スペインでは2011年に15M 運動と呼ばれる「広場の占拠」が各地でおこった。これはグローバル資本が独占する公共財(コモン)を市民の手に取り戻す運動。この運動が政党に発展したのがポデモスだ。
こうした政党以外にも、各地で市民が政策をつくるプラットホームが生まれている。バルセロナには市民プラットホームのバルセロナコモンズがある。15年の市長選ではバルセロナコモンズが推すアダ・コラウ・バリャーヌが市長になった。アダ・コラウは居住の権利運動の女性活動家。昨年、市長に再選。
今年の6月フランスの地方選では、市民プラットホームの推す市長が8都市で誕生。10大都市の市長のうち6人は女性で、マクロン大統領の共和党前進が推した候補は全員落選。フランスでは410の市民プラットホームが生まれ、66のプラットホームが市議会で第1党になった。
「いまミュニシパリズムの運動が、世界で新自由主義やグローバル資本と対決する、新たな市民の政治を取り戻そうとしている。京都でも始めよう」という岸本さんの訴えは、参加者の心を揺さぶった。京都から日本のミュニシパリズムが始まろうとしている。
村田英雄同志を追悼する
ムッちんの跡を耕したい
江渡 績
8月27日、村田英雄さんが亡くなった。69歳だった。
5年生存率5%という膵臓がんと4年にわたり闘い、生きる執念を燃やし続けた村田同志に「よく頑張りましたね」と声をかけたかった。抗がん剤の投薬だけで、これだけ堪え抜いたのは村田同志の強い意志力、精神力だったと思う。痛みとつらさと不安にさいなまれながら精いっぱい生き抜いた、その最期は社会の変革を求め続けた者の矜持だったろう。「もう、いいよ。こんなに頑張ったんだから」と思うと、涙があふれてくる。
村田同志が加古川の「別荘」にやってきたのは04年ころだったろうか。当時、私は勤務先の加古川郵便局から徒歩20分ほどの所にアパートを借り活動拠点としていた。みんなは「別荘」と呼んでいた。彼が来て間もなく起こったのが「関トラ闘争」だった。
加古川郵便局の小包配達は委託会社が請け負っており、労働者は個人企業主と扱われ、労働者保護の法制や仕組みの蚊帳の外に置かれていた。労働時間も休憩時間もまったく関係なく「1個配達して約100円」だった。ひどいときは、時給300円ほど。この苛酷な労働条件に、「労働基準法を守れ、最賃制を守れ」と、ささやかな当然の要求を掲げ起ちあがった。05年3月、7人の労働者が会社に組合通告、直ちに関西合同労組に加入した。しかし、近畿支社の対応は驚くほど素早く苛酷なものだった。関トラとの委託契約を打ち切り、会社ごと加古川局から排除することを決断した。5月25日、会社は「6月30日で組合員の全員解雇」を通告、いわゆる「関トラ闘争」の始まりである。2波のストライキ、5波の就労闘争、2回の元旦闘争、地労委闘争、裁判闘争、本社前座り込みと、関西はもちろん関東まで知れわたる闘争となった。
始まりはツッチーことT分会長の「別荘」への出入りからだったが、発端から全過程を、そしてツッチーを懸命に支えたのが村田同志だった。「別荘」は関西合同労組の加古川支部のようになった。裁判闘争に勝利し組合員の復職をかちとったが、村田同志の献身的な支えがなければ勝利はできなかっただろう。
村田同志は、非公然活動から「浮上した」メンバーだった。私は、加古川局関係の労働者とうまくなじめるのかと心配したが、そんな心配はまったく無用だった。「別荘」に出入りする労働者は、みんな彼のことを「ムッちん」と呼ぶようになった。ツッチーを慕って集配課の若い郵メイト(非常勤)労働者も多く来るようになった。焼き肉をしたり鍋をつついたり遅くまで飲んだり、それはにぎやかな「別荘」となっていく。 私が「関西で『王将』をうたわせたら、右に出る人はいない」と紹介すると、彼はニヤニヤしながら聞いていた。たまに本気でうたうが、まったく似ていない。みんな笑い転げた。みんなが帰ったあと、彼は食べ散らかされた食器類の片付けを黙々とやっていた。関トラ闘争を共にたたかっていた、ムッちんの活々とした表情を、いまも鮮やかに思い出す。
関トラ分会の組合員は07年11月、他局で職場復帰を果たすが、交通費支給なし、1日6時間で時給800円、手当なしという「飼い殺し」状態だった。これら偽装請負の壁などを突破する体制と力が及ばなかった。痛恨の極みではある。
関トラ分会が地労委闘争に入って間もなくの06年、腐敗した政治局員を打倒した3・14≠ェたたかわれ、以降「再建協」の設立へ続く。村田同志はこのたたかいに身を投じていった。しかし、いま事態は大きく一回りし、再建協を名乗ったこと自体が正しかったのか否かが問われる局面を迎えている。
共産主義者の組織と運動は、どのようにあるべきなのか。彼が渾身の力で切り拓いた道を、われわれは誠実に耕していかなければならないと思う。ぜひ彼の意見を聞きたいと思う、この時期にいなくなってしまったのが無念でならない。合掌。
個に死して類に生きる
石毛 明
矢田貝(旧姓村田)英雄さんが亡くなる一週間前の8月20日、病床の矢田貝さんから私に電話があった。苦しそうで何を話しているのか聞き取れなかったが言葉にならなくても声を聞かせてくれてうれしかった。最後のお別れの言葉と感じたがやはりそうだった。
6月に電話したときはまだ元気だった。膵臓ガンはステージ4で使える抗がん剤はすべて使っていた。当時は農作業をし、草むしりをしていると答え、元気そうだった。しかし、わずか2カ月で容体は急変した。おつれあいからは「有り難うございます。最後の最後まで生きることに執着し旅立ちました」とのメールを転送でいただいた。
余命宣告を受けても自ら摂生して宣告よりずっと長く生きた。死を覚悟しながら共産主義者としての生きざまを貫き、決して心を乱したりはしなかった。料理が好きで食事も自分でつくっていると話していた。
矢田貝さんは誰からも愛される人だった。誰に対してもさん&tけで呼び、決して乱暴な口をきいたことはなかった。しかし、対カクマル戦はやるべきではなかったという意見がでてきたとき、対カクマル戦でたとえ自分が殺されても、自分の屍を乗り越えて人民が進み、階級闘争が爆発するなら死んでも悔いはないと遠くをみるように語っていた。それほど革命に命をかけている熱い革命家なのだと思った。個に死して類に生き、死をおそれない人だった。これが矢田貝さんの人となりである。また、何をするにも執念を燃やし物事を貫徹してきた。対カクマル戦や対権力戦の発展に大きく寄与した人だった。14年の8月6日、広島で私を見つけて、人懐っこそうに話しかけてくれた。
個に死して類に生きるという革命的共産主義者としての生き方を最後までつらぬいた矢田貝さんの遺志を継いでさらにたたかっていきたいと思う。
読者の声
『人新世の『資本論」』を読んで
兵庫 高見元博
精神障害者解放、人間解放の社会革命を熱望しているすべてのみなさん。
私は斎藤幸平の新著『人新世の「資本論」』の大部分について支持するものです。「脱成長コミュニズム」と定義される階級闘争とマルクス主義による、人間復興の試みのことです。「脱成長コミュニズム」とは、気候危機から人類を守る唯一の方法です。パリ協定や他の技術革新のプログラムやグリーン・ニューディール政策によっても気候危機を防げないことが具体的に検討されます。唯一の方法は帝国主義的な生活様式との決別です。この書では「グローバル・サウス」(南北問題の「南」の拡張概念)や「ブラック・ライブズ・マター」から学ぶ必要性が強調され、それがコミュニズム革命のてことなるのです。
「信頼と相互扶助」を基本とするのが「脱成長コミュニズム」です。従来「エコ社会主義」として提起されていた成長モデルを捨てて、脱成長こそが目指されるべきだと斎藤は言います。その実現のためには99%全体が動かずとも、人口の3・5%が動けば社会は変わってきたと提起されています。選挙によるトップダウンの政治改革だけでは資本主義を否定する運動はできません。ボトムアップの運動、すなわち労働組合や協同組合、社会運動こそが次代を開く運動であり、それらのものとして人口の3・5%が動けば社会は変えられるというのが斎藤が言うことです。
私もまた、「グローバル・サウス」の運動や「ブラック・ライブズ・マター」から大いに学ぶべきだと思います。そしてそれと似た運動が日本にもあったことを指摘したいと思います。一国主義的限界が色濃くあり、それを提起した革共同によっても歪曲されて実現されなかったとはいえ、国内外の「サウス」にあたるものに学ぼうという運動が一時期ありました。華青闘(華僑青年闘争委員会)という在日中国人運動の糾弾を受け止めて学ぼうとした国際主義に向かって開かれた「7・7自己批判運動」のことです。いま、それを「ブラック・ライブズ・マター」などとの国際主義的な連帯へ向けて開かれた思想的運動として発展させることが求められています。
私が進めている障害者の大フォーラム運動は、まさにその場所的・具体的実践です。障害者国際主義である『障害者権利条約』を日本国内に実現しようとしたものが、民主党政権下で障害者らによって作られた『骨格提言』です。その完全実現を求める大フォーラム運動は、場所的現在における国際主義そのものです。
多くのみなさんが、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』を読まれるとともに、10・23大フォーラムに参加されることを呼びかけます。
6面
「任命制」の研究―スターリン主義組織の本質(第3回)
対農民戦争としてのロシア革命
掛川 徹
ロシア共産党書記長に就任したスターリンは、1923年1月末の中央委員会に提出した書記局提案によって、スターリン体制としての「任命制」を成文化することに成功した。1930年代には、スターリンが管理するリスト(ノーメンクラトゥーラ)によって決定される人事制度は、全ソヴィエトの人事にまで適用された。こうしたスターリンによる個人独裁が成立した背景には、内戦下で強行された、農民からの苛烈な収奪があった。
大規模テロの行使
レーニンは内戦のあいだ、「われわれは極限的戦争状態にあるのだ。われわれは反革命派にたいし、全力をふりしぼって大規模テロルを行使しなければならない」といった内容の電報をひっきりなしに各方面に打電した。これを受けて凄惨な情景がロシア全土で繰り広げられた。
「[イルクーツクで]すべての家は略奪され、家畜は持ち去られ、いくつかの家族は皆殺しにされ、… 道端や村で『見せしめ』のために見分けがつかないほど傷つけられた農民の死体が放置され、これらの死体を片付けたり埋葬したりすることは厳禁された … 元市長、助役、治安判事、… 多数の活動家や商人の死体があった。政治部(チェー・カー)の中庭で … 1カ月以上毎日昼夜を問わず銃声が鳴り響いた。… 主教の死体は駅に向かう途中の広場に長いあいだ野ざらしにされた」(メリグリーノフ『ソヴィエト・ロシアにおける赤色テロル』)。村の子供から老人まで赤軍の人質とされ、「富農」や「上中流階級」は無差別に拷問、虐待、殺害の対象となった。村民が「匪賊」の居場所を明らかにするまで、目の前で人質が次々に銃殺された。エスエルやメンシェビキなどロシアからの亡命者が報告したショッキングなその内容は決してデマ宣伝ではなかった。
レーニンは自分がしていることを完全に自覚していた。「独特な『戦時共産主義』とは、農民から余剰全部を、また、ときとしては余剰どころか農民にとって必要な食糧の一部分までも、事実上とりあげたこと、軍隊と労働者の給養の費用をまかなうためにとりあげたことである。…荒廃した小農民的な国では、そうするほかに地主と資本家に勝利することはできなかった」(『全集』第4版32巻)。
レーニンの無慈悲さ
旧ツァーリ帝国の版図全域で血の川が流れたが、その中心にいたのはまぎれもなくレーニンで、スターリンは端役の一人にすぎなかった。むろん、レーニンからスターリン主義が自動的に派生したとは言えないが、革命権力を維持するためなら農民あるいは労働者の犠牲を辞さないレーニンの無慈悲さ、苛烈さをもっとも忠実に学んだのがスターリンであり、後の農業強制集団化にいたるロジックが「戦時共産主義」に内在した点を見れば、レーニンがスターリン体制の道を開いたことも今日では否定できない事実である。旧ソ連軍将校ヴォルコゴーノフは、「こんなことを書くのはつらい。…私は元スターリン主義者で、悩みぬいたあげくにボリシェビキの全体主義を全面的に否定するようになった。その私にとって、レーニン主義は、私の心の中で陥落すべき最後の砦であった」と書いたが、日本で「レーニン主義」を標榜した組織の一員として、その慨嘆は誰しも理解できるのではないだろうか。
革命は滅びるかもしれない、という緊迫した情勢でスターリンが党書記長に就任した。「われわれはこんなもののために戦ったのではない」という労働者党員の不満は、食糧不足への抗議ストに参加した労働者も、飢餓状態で食糧倉庫を襲った農民も、のきなみ「反革命」として銃殺される状況下では、まともにとりあげるべくもなかった。
クロンシュタット
1921年3月に勃発した有名な「クロンシュタットの反乱」は、このようなボリシェビキの容赦ない赤色テロルと対農民戦争≠背景に、起こるべくして起こった大規模な不服従事件だったのである。仮にこうした状況で労働者民主主義を実践すれば、たちまち党内は大混乱に陥り、人口の過半を占める農民反乱の洪水のなかでボリシェビキ権力は解体してしまう―このリアルな危機感こそ、21年第10回党大会が討論抜きで「分派禁止」を決定した背景であり、23年第12回大会がスターリンの恣意的な人事政策を容認した背景なのである。
「任命制」というスターリン主義組織論の本質に触れるや否や、かつてジノヴィエフとカーメネフが、「ボリシェビキは農村では少数派」で、ボリシェビキ単独政権を政治的テロで維持することを恐れて10月蜂起に反対した、そのリアリティーに立ち戻らざるを得ないのである。社会主義を実行する条件がない農業国家ロシアで、テロも辞さずに「プロレタリア独裁」を宣言したレーニンとボリシェビキの試みそのものが果たして正しかったのか、という次元の問題すら考えさせられる現実である。
内戦は必然だったか
ロイ・メドヴェージェフ『10月革命』(1998年)は、ロシア革命が不可避だったことは事実だが、テロと内戦が不可避だったわけではない点を指摘する。同書によれば、憲法制定議会選挙の実施を1年延期して名簿を新しいものにつくりかえれば、ボリシェビキと左派エスエルが議会多数派を得て安定した国内統治基盤ができたはずだという。
また、食糧の強制徴発を決めた18年5月の「食糧独裁令」ではなく、現物累進税と余剰穀物の自由取引―エスエルが要求し、その後ネップで採用した政策内容を当初から認めていれば、農民は農業経営に集中したはずだという。もしこれらが実現していれば、「憲法制定議会」という錦の御旗を白衛軍に渡すこともなく、農民が白衛軍を支持することもなく、ソヴィエト政権はテロ体制を必要とせず、その後の内戦で膨大な犠牲を払う必要もなかったというのである。それなりにリアルな当時の選択肢であり、レーニンもそういう選択があること自体は当時認識していたらしい。
しかし、こういう政策は、当時の常識からすれば「社会主義」とは見なされなかっただろうし、エスエルが多数を握る権力はレーニンが意図した「プロレタリア独裁」でもない。内戦回避よりドイツ革命と「社会主義建設」がボリシェビキの政策判断で優先された点は中野徹三『社会主義像の転回』(1995年)も指摘する。
合同反対派の限界
対農民戦争≠ニいうロシア革命の性格は合同反対派にも色濃くその影を落としている。フィッシャーも触れているが、反対派が党内闘争を自己規制し、絶えずボス交的に問題を処理しようとした最大の理由は、ソヴィエト政権と農民の利害が対立し、党内闘争が内戦の引き金を引くかもしれないという恐怖であった。
27〜28年の穀物危機を契機にスターリンは一転して性急な工業化政策に転じ、農民経済の穏健な発展を望むブハーリン右派と対立した。この時、トロツキーでさえも、農民の不満を背景にして反ソヴィエト軍事独裁が樹立されるのではないかと恐れ、スターリン支持を一時とはいえ提言している(ロイ・メドヴェージェフ『歴史の審判に向けて』2017年)。27年に除名された合同反対派は、そのほとんどが「スターリンの左旋回」を支持して自己批判・復党した。モスクワ裁判で殺されるまで彼らもまたスターリン賛歌を歌ったが、その間工業化の原資を得るために穀物が輸出され、500万とも800万とも言われる農村住民が飢死した。「農民、農家経営、農業は反対派の視野と関心に入っていなかった」(最高国民経済会議に在籍し、後に亡命したN・ヴァレンチノフ。前掲書)。
合同反対派とスターリンの間には農民との関係が緊張すれば消えてなくなる程の対立しかなかった、という現実は重い。メドヴェージェフが27年合同反対派のたたかいをささいなつまらないエピソードとして描くのもこのためである。旧反対派が銃殺されたことも、農民や知識人にリンチ、テロ、迫害を加えてきた報いだと冷たく突き放す意見が旧ソ連国内には根強くある(ソルジェニーツィンなど)。
反対派にまともな対案がなく、ロシア革命そのものがドグマだった、という点はマーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇』(1997年)も強調する。ボリシェビキがテロと内戦、粛清の道を突き進んだのは現実の要請というよりイデオロギー的な要請にもとづくとして、ボリシェビキの暴走をもたらした根源はそもそもマルクス主義のイデオロギーが間違っているからだ、という詳細な分析をメイリアは行っている。マルクス存命時に想定できなかった事態の展開をマルクスの責任にするわけにはいかないと思うが、ボリシェビキの「社会主義」認識の中身を問いなおす必要があることは事実だ。
梶川伸一『飢餓の革命』(名古屋大学出版会、1997年)他、梶川三部作は一時話題になったが、当時の雰囲気を生々しく伝える秘密書庫の膨大なデータをただ羅列しただけである。ロシア革命で農村がどういう位置にあったのかというロジックや全体像は、公開資料のみに依拠したカーの方が正確につかんでいる。梶川本は、農民に何の利益ももたらさなかったレーニンとロシア革命に意味があるのか、と新旧左翼の教条的姿勢を糾弾した以外、カーの分析に付け加えるほどの論点は特に示していないように思う。
ドイツ=ロシア革命
「戦時共産主義」から農業強制集団化、大テロルにいたる、ロシア革命の凄惨な現実をロシア一国の枠でみれば、レーニン悪玉論、当時のロシアで社会主義を構想したのがそもそもの間違いという絶望的な結論にしかならないが、事態はそれほど単純ではない。レーニンは「社会主義への移行を実現する決意」は述べたが、ロシアに社会主義的秩序は存在しないと18年5月段階で断定しており、その困難をはじめから知っていたとしか思えないからである。
革命権力の赤色テロル体制も、はじめから意図していたという訳でもない。17年10月の軍事クーデターの際、武装解除した軍官学校の生徒や士官たちは「労農権力に今後二度と抵抗しない」旨宣誓しただけでそのまま解放されている。後に人質を皆殺しにする残虐さに比べ、ロシア革命もはじめのうちは実に牧歌的だったのである。
残虐な政治テロルの恒常化は、憲法制定議会を解散し、食糧独裁令を実行したことで生じた摩擦と対立にたいして、条件反射的にテロ体制を固定化していった面が大きい。だから、なおのこと、利害がそもそも単純には一致するべくもない農民国家で労働者階級が独裁権力を握るという決断そのものが問われるのである。(つづく)