未来・第302号


            未来第302号目次(2020年9月17日発行)

 1面   老朽原発廃炉へ大集会
     関西各地1600人が参加
     9月6日 大阪

     大阪市解体を許さない
     「都構想」住民投票 市民ら連日の反対宣伝

     成田空港反対闘争
     請求異議裁判が大詰め
     農地守れ、9・27集会へ

 2面  ストライキは犯罪ではない
     関生弾圧 10月8日判決
     地裁前で座り込み集会

     主張
     安倍改憲に引導を
     モリ、カケ、桜、徹底追及へ

 3面  検証
     関西電力「原発マネー」不正還流
     原発推進の癒着構造
     津田 保夫      

     投稿
     病院ぐるみで患者虐待
     兵庫 見元博     

 4面  私が原発を止めた理由―樋口英明さん
     自国に向けられた核兵器

     〈寄稿〉
     65歳で障害者の人権奪うな
     脳性まひ者の生活と健康を考える会 古井正代

 5面  「黒い雨」訴訟、降雨被爆とは @
     原告の悲願ふみにじり?控訴
     江田 宏

     連載
     命をみつめて見えてきたもの?
     生命の医・農を求めて
     有野 まるこ

 6面  「任命制」の研究―スターリン主義組織の本質(第2回)
     スターリンへの権力の集中
     掛川 徹

       

老朽原発廃炉へ大集会
関西各地1600人が参加
9月6日 大阪

「老朽原発うごかすな!」のスローガンをかかげる参加者たち(6日、大阪市内)

9月6日、「老朽原発うごかすな! 大集会in おおさか」が、大阪市内(うつぼ公園)でおこなわれた。主催は同実行委員会。関西電力は来年にも美浜3号機(1月)と高浜1号機(3月)の再稼動を画策している。福島原発事故を反省することなく、40年超え老朽原発の再稼動は許せない。この日は関西各地から1600人が参加。1000を超える団体・個人が賛同した。 中嶌哲演さん(福井県小浜市明通寺住職)が主催者あいさつ。「本日の集会が盛大におこなわれるに至ったことは、若狭現地の住民として感慨無量だ。二度とフクシマの惨禍を繰り返させないために、老朽原発を廃炉にし、原発のない社会をつくろう」と述べた。 木原壯林さんが、実行委員会を代表して「老朽原発廃炉を突破口に原発全廃を勝ち取ろう」という基調提起をおこなった。木原さんは次のように述べた。「原発が老朽化すれば、事故の危険性が急増する。高温、高圧、高放射線にさらされている配管などは脆化、腐食、減肉が進んでいる。加圧水型原発では、蒸気発生器がアキレス腱だ。昨年高浜4号機で、今年には3号機でも伝熱管の損傷がみつかっている。これが破損すれば、圧力容器が空焚きになる。このように、原発はきわめて危険な状態で動いている。コロナウイルスがまん延するなか、脱原発運動はさまざまな制約を受けている。制約されたぶん以上の行動を、地域や職場で勇気をもって展開し、老朽原発を廃炉に追い込もう」。 現在、関西電力の老朽原発を廃炉にする裁判は、名古屋地裁と大津地裁でたたかわれている。この2団体から発言があった。福井原発訴訟(滋賀)の弁護団長・井戸謙一さんは、「現在、ふたつの安全神話が跋扈している。新しい原発安全神話と放射能安全神話だ。200人を超える子どもが甲状腺がんになっているにもかかわらず、放射能の影響ではない≠ニいっている。福島原発事故は、いまなお進行中なのだ」と語った。 その後、老朽原発の地元・福井県高浜町、美浜町の住民からメッセージ、東海第二原発の地元から〈東海第二原発の再稼働を止める会〉が発言した。さらに脱原発をたたかう団体や関西の市民団体、労働組合からアピールがおこなわれた。 〈関電の原発マネー還流を告発する会〉は「第3者委員会の報告で、関電の役員ら75人、3億6000万円の金を受け取っていることが明らかになった。真相を解明することが必要だ。検察はまだ告発を受理していないが、この検察を動かすのは市民の声だ」。〈原発賠償関西訴訟原告団〉は「東電と政府は、タンクに貯蔵されているトリチウム汚染水をうすめて、海洋に放出することをねらっている。こんなごまかしを許してはならない」とそれぞれ発言した。 集会後、御堂筋を南下し、難波までデモをおこなった。コロナ禍で久しぶりの大きなデモに、参加者は「40年超え老朽原発を動かすな」と大きく叫び、市民にアピールした。老朽原発を廃炉にするたたかいはこれからだ。

大阪市解体を許さない
「都構想」住民投票 市民ら連日の反対宣伝

大阪・梅田で「ストップ!住民投票」の横断幕をかかげる市民(5日)

大阪市を廃止して4特別区を新設する制度案が3日、大阪市議会で可決された。8月28日には大阪府議会でも可決されており、2015年5月以来、2度目となる住民投票の実施が決定した。もし賛成が多数となれば、2025年1月1日に人口約270万人の大阪市は解体される。1956年に制度化された政令指定都市が初めて廃止される、常軌を逸した事態となる。 大阪市選挙管理委員会は7日、10月12日告示、11月1日投開票とする日程を正式に決定した。投票用紙に「大阪市を廃止」するとの文言を明記することも確認した。10月中に衆院解散・総選挙があれば、同日実施とも。 いよいよ大阪市廃止か、大阪維新の終焉かという激闘が始まった。 連日反対行動がたたかわれている。「大阪市の廃止を許すな」を合言葉に結集する大阪・市民交流会(平松邦夫・中野雅司共同代表)の各団体は、市議会議決前の2日、市内数十カ所で駅頭街宣。3日には各区役所前でのスタンディング。議会開催中の大阪市役所前に市民団体が結集し、声をあげた。 4日は中央区で「なぜ急ぐ!? 大阪市つぶし コロナ対策やる気なし 大阪どうする?ミーティング」がおんなこどもをなめんなよ! の会主催で開かれた。世論調査では賛成4割、反対3割、わからない3割となっている。「運動の積み上げで勝てる、勝とう」と訴えた。5日は此花区で2区・市民の会主催の学習会がおこなわれ、桜田照雄阪南大学教授が講演。桜田さんは「住民投票は地域住民の意思を表明するためのもの。ところが今回は、行政の意志に従うかを問うもので、制度のそもそもの前提を逸している。維新支持の本丸はIR推進100社会など利権にうごめく財界だ」と話した。同5日、北区では若者中心の「梅田解放区」で「ストップ住民投票」の横断幕が登場。「松井も吉村もやめろ」のコールが響いた。

成田空港反対闘争
請求異議裁判が大詰め
農地守れ、9・27集会へ

裁判終了後、報告会で発言する市東孝雄さん(2日、都内)

コロナ禍で中断されてきた三里塚裁判が、次々と再開されている。7月16日に再開された新やぐら裁判(一審千葉地裁)では、8月24日に反動判決。判決文はわずか8ページ。さすがに「やぐらなど撤去」の仮執行をつけることはできなかった。弁護団は控訴へ。 9月2日、東京高裁では請求異議裁判(市東孝雄さんの農地法裁判確定判決の執行停止を求める裁判)の第3回口頭弁論が再開された。午前中は、弁護団から市東さんの農地強制強奪の不当・不法性に加え、コロナ禍のなかで強制執行の必要性・緊急性のないことをより明確にした。また経済学者の鎌倉孝夫さんが証言。 午後は、成田市東峰在住の平野靖識さんがシンポ・円卓会議(1991〜94年)で「用地取得のために、今後あらゆる意味で強制手段を用いない」との確約を、NAAが「民事訴訟に訴えることやその判決に基づいて強制執行することは問題ない」などとねじまげているとした。 市東孝雄さんは、農民として生きる喜び・誇りを語り、この農民としての尊厳を踏みにじるNAAの所業を厳しく批判し、「天神峰の地で農業を続ける」と締めくくった。裁判の最後に裁判長はNAAに「反論」の提出を命じた。次回期日は10月22日で、最終弁論の予定。結審となる。 進行する空港危機 市東さんの農地裁判、関連裁判が節目を迎えるなかで、三里塚反対同盟は9・27三里塚全国総決起集会を呼びかけている。 ここ数年、観光バブル、航空バブルに乗って、成田空港の拡張や機能強化計画が進められてきた。爆音で生活環境を破壊し、農地を奪い、豊かな地域を次々とコンクリートで固め、過疎化・廃村化を加速してきた。 しかしコロナ禍により旅客は激減、成田空港はB滑走路の運用停止に追い込まれた。全日空・日航など航空会社も4〜6月期でおのおの1000億円の赤字、1年後には1兆円を超える借金を抱え込むといわれている。観光立国や東京五輪バブルで野放図に進められてきた空港計画が行き詰まっている今こそ根本的見直しへの転換点としなければならない。9・27全国総決起集会(正午、成田市赤坂公園)に参加しよう。

2面

ストライキは犯罪ではない
関生弾圧 10月8日判決
地裁前で座り込み集会

大阪地裁前の座り込み集会(2019年9月25日)

10月8日、全日建連帯労組関西地区生コン支部(関生支部)の産別スト弾圧事件の判決が大阪地裁で出される。ここ3年にわたる警察・検察権力、裁判所との攻防は、大きな節目を迎える。裁判闘争の過程では、敵の弾圧のねらいとその不当性が明らかとなった。有罪判決を許してはならない。判決当日は大阪地裁を包囲する座り込み集会が呼びかけられている。 生存権をかけたスト 警察・検察権力は、2017年12月、関生支部が実施した産別ゼネラルストライキを「威力業務妨害」として、18年9月から11月にかけて、3回にわたる逮捕をおこなった。この弾圧で関生支部の武建一委員長をはじめとする28人の組合役員および組合員を逮捕し、15人が起訴された。この裁判の判決が10月8日に言い渡される。 この裁判は、ストライキの現場にいた者(1次)と現場にはいなかった者(2次)とを分離する不当な訴訟指揮がおこなわれていた。今回、判決を迎えるのは2次のグループ。検察官は6月12日、執行委員、ほか1人に懲役2年6月を求刑している。 今回の判決を迎える産別スト弾圧は、、逮捕89人、起訴71人という一連の関生大弾圧裁判のなかで、コンプライアンス(法令順守)活動弾圧とならんで攻防の焦点となってきた。問題となった17年12月の産別ストは、業界と労働組合との間でかわされた運賃引き上げ実施の労働協約を履行しなかった大阪広域協組にたいして関生支部が、「運賃引き上げの約束を守れ」と要求して実施したもの。 このストは産別運動の生命線にかかわるものであり、まさに産別労組の〈生存権〉をかけたたたかいだった。労働協約を履行しなかった大阪広域協組こそ、司法によって裁かれるべきなのである。 正当性明らか 裁判では、当初弾圧を手引きしたヘイト集団や大阪広域協同組合が傍聴席を占拠するために動員をかけたため、これとの攻防が続いた。しかし、毎回の公判で、労組、市民の支援の粘り強い取り組みの広がりによって、傍聴席をめぐる攻防に勝ち抜いた。また公判においても弁護側立証の中で組合の行動は「出荷・入構妨害」ではなく、スト参加をよびかける説得活動であったことが明らかになった。 むしろ会社側が弾圧を呼び込むためにのみ「出荷計画」を作り、事前にプラカードを用意し、その映像を撮影する準備をしていた事などが暴露された。また、組合は直前までストライキを回避するために経営者に働きかけを続けていたことも立証された。
産別ストを否認 こうしてスト弾圧の違憲性、違法性がうきぼりになる中で、検察官が持ち出したのが「労使関係がないところでのストライキ行為」論である。 検察官が論告のなかで「ストライキと称して労働組合の正当な活動であるかのように装って、労使関係がなく争議行為の対象となり得ない業者の出荷業務を妨害した、威力業務妨害罪」と主張した。 つまり、団体交渉の対象や争議行為が正当化されるのは雇用関係が存在する企業との間だけであり、「輸送運賃の値上げは争議行為の正当な目的となり得ない」というのだ。そして関生支部の「ストと称する威力業務妨害行為」の目的は、関生支部の要求に「堂々と抵抗する広域協組執行部に敵意や危機感を募らせ」たというのだ。 これは業界全体を対象とした労働協約の効力を、労働組合と直接労使関係のある企業だけに限定するというものだ。賃上げや、その前提となる運賃引き上げの要求の正当性は企業別労使関係においてのみ認められるという暴論だ。こんな理屈がまかり通れば、業界団体と労働組合との間で労働協約をかわす意味がなくなってしまう。まさに組合活動の範囲を企業別労使関係だけに限定するものであり、産別労働運動を否定する論理である。 実はこれが関生大弾圧の核心なのだ。関生支部が職場のたたかい、労働法、協同組合法、中小企業法なども駆使して築いてきた運動、すなわち、日本の労働運動のなかでは類い希な存在である産業別運動の壊滅である。 指揮、共謀? 今回の求刑では、スト現場にいなかった組合執行部にたいして「威力業務妨害を指揮、共謀した」として犯罪にしようとしている。公判では事前共謀か現場共謀かは明確にできていないが、電話記録などによって本人が「執行部である」あるいは「その地位にある」ことがわかればよいというのである。 これは暴力団への弾圧の際に、組長や幹部を「使用者」として有罪にしてきた手法をそのまま労働組合活動に適用するものだ。まさに憲法28条で保障された労働組合の権利を否認し、組合活動に共謀罪を適用しようとしているのだ。 検察・警察がねらっているのは、これは前例として市民運動など広範な社会運動にもこうした弾圧を拡大することであろう。その点でも今回の検察の論告は許されない。 無罪を主張 これにたいし「被告」と弁護団は、生コン業界の再建と民主化へ向け、関生支部と大阪広域生コン協組が協力関係を築いてきた歴史を説き明し、独占資本に対する労働組合と中小企業の大同団結の実現によって生コン価格の適正化を進展させ、運賃引き上げを約束する労働協約を締結した経過を明らかにした。 そしてこのような活動は欧米先進諸国では一般的なものであることも指摘した。 以上を踏まえて、17年12月の関生支部による産別ストはまったく正当なものであり、これを弾圧した検察・警察の違法性を徹底的に弾劾して、堂々と無罪を主張した。 10月8日の判決当日は、午前8時から大阪地裁を取り囲んで、ビラまき、座込みを実施する。「有罪判決許すな・無罪獲得」へ全国からの結集をお願いしたい。 なお、武委員長は分離裁判で、大津事件(コンプライアンス活動)に併合されているため、論告・弁論も別におこなわれる。こういう恣意的な分離公判は許されない。(森川数馬)

主張
安倍改憲に引導を
モリ、カケ、桜、徹底追及へ

どん詰まり改憲攻撃 8月28日安倍首相の辞任表明で、その改憲攻撃はどん詰まりに追い込まれている。 毎日新聞が8月22日に実施した世論調査で、安倍内閣の支持率は34%、不支持率は59%であった。新型コロナウイルス感染症への政権の対応については、「評価する」は20%で、「評価しない」の63%を大幅に下回る。コロナ禍について無為無策で、わずかばかりの給付金も籠脱け利権が目についた。 そのコロナ禍の中で、生活保護費の引き下げ違憲訴訟にたいする名古屋地裁の反動判決が出た。憲法25条の「健康で文化的生活」を国の責任として真っ向から争った裁判であった。にもかかわらず、6月25日の名古屋地裁の判決は、従来の「国家無答責」論(国は責任を問われない)を超えて、「自民党の決定」だから違法ではないとまで言い切り、その理由を「国民感情」に求めた。新自由主義が生み出した貧困層をコロナ危機が直撃し、感染を拡大していることに対し、感染者への差別をあおるのと同根の反動論法である。 安倍政治の継続 最大の問題は、「敵基地攻撃能力」の保有論である。イージス・アショアの導入失敗を開き直って、名称も「相手領域内で阻止する能力」とエスカレートさせて自民党が打ちだした。また自民党や維新などの日本会議系の中にはコロナ危機を利用して、憲法に緊急事態条項を明記することを強硬に主張する動きが継続している。 加害責任に触れず 安倍首相自身、8月15日の戦没者追悼式での式辞で、アジア諸国への加害責任については8年連続で触れず、代わりに違憲の「積極的平和主義」を初めて盛り込んだ。 臨時国会召集せず 野党側が衆院議員131人(定数の約28%)の署名とともに「臨時国会召集要求書」を衆院議長に提出した。憲法53条では「いずれかの議院の4分の1以上の要求があれば」、内閣が召集しなければならない。しかし安倍政権は召集に応じる気配はない。無為無策のコロナ対策を追及されたくないうえに、モリ・カケ・桜から、検察庁法改悪、河井克行前法相問題や秋元司元衆院議員のカジノ疑惑での再逮捕など、安倍首相自身の刑事責任が問われている。政府・国会・関係官庁・利権に群がる縁故資本家どもがすべて共犯である。 真正改憲勢力・維新 安倍首相の重病説や病気退任説が駆け巡る中で、改憲動向に突出するのが日本維新の会である。先の通常国会では、馬場伸幸幹事長を先頭に、コロナ対応のための緊急事態条項を加える改憲とそのための憲法審査会を動かすことを一番熱心に主張したのが維新である その維新はいま「大阪都構想」という大阪市廃止のための住民投票の実施にのめり込んでいる。住民自治を破壊し、特別区という名の権限のない4つの「区」をつくる住民投票を、今年の11月1日に何が何でも実施するというのが維新だ。 大阪モデルの破綻 吉村洋文大阪府知事は、8月21日大阪モデルで非常事態を意味する「赤信号」が点灯しても、予定通り11月1日に住民投票を実施したいと述べた。8月19日の1日あたりの新規感染者は大阪府が187人で、東京都の186人を超える状況であるにもかかわらずである。沖縄と並んで実質的に医療崩壊が一番危険な状態に陥り、唯一の「成長戦略」としてきたカジノ=IR誘致が世界的コロナ不況でほぼ破綻になり、財政的にも「二重行政」の廃止という名の行政リストラがコロナ危機、住民サービス危機をもたらしている。住民自治、生存権など、憲法の核心を踏みにじる維新政治を打ち破ろう。(落合 薫)

3面

検証
関西電力「原発マネー」不正還流
原発推進の癒着構造
津田 保夫

16年1月再稼働に向け急ピッチの高浜原発3号機(15年夏、撮影)

昨年9月27日、メディアは「関電原発マネー不正還流」を報じた。今年3月に出た「第三者委報告書」によれば、森山栄治・高浜町元助役から関電幹部75人が約3億6000万円の金品を受け取ったとしている。しかし、これは氷山の一角。原発の構造的な問題なのだ。原発がこの世に存在するかぎり、この構造は解消されない。「関電原発マネー不正還流」問題を徹底的に追及するとともに、原発をなくす運動につなげていこう。 原発マネーの還流 日本の原子力政策は「国策民営」でおこなわれてきた。電力会社は原発をうごかすために、原発に反対する住民運動をつぶすために、現地にさまざまな形で「きたない金」をばらまいてきた。また、原発の建設や定期検査などで、土木建設関連業者に多額の工事費を流している。国は「電源三法交付金」というかたちで原発立地自治体に税金をつぎこんでいる。この利権構造に大中小の企業が群がる。 関電は、原発推進のために森山栄治をフィクサーとして利用してきた。吉田開発は森山が関係する地元の土木建設会社だ。関電はこの吉田開発に水増し発注をおこない、吉田開発から森山に裏金が流れ、さらに森山は関電役員に裏金をわたしていた。この間、この還流構造が見えてきた。 どうして発覚したか 2018年1月。金沢国税局が吉田開発に強制調査をおこなった。吉田開発は、森山に約3億円の手数料を支払っていた。この件で、金沢国税局は森山宅と関西電力に強制調査をおこなっている。豊松秀己・元副社長ら4人はこの事実を認め、修正申告に応じている。また、所得税の追徴分などの納付もしている。 この年7月頃から、関電はこっそり社内調査をはじめ、9月に調査報告書をまとめている。しかし、これは取締役会にも報告されないで、事実は隠蔽されたままになっていた。 19年6月、関電に関する「内部告発文書」がメディアなどに送られてきた。差出人は「関西電力良くし隊」という団体名。その文書に書かれている内容は、かなり内部事情を知っている者でしか書けないものだ。9月27日の朝刊で、各メディアはこの事実を一斉に報じた。こうして、「関電原発マネー不正還流」事件が社会的に明らかになった。 フィクサー森山栄治 ここに登場する森山栄治は、1969年に高浜町職員になっている。77年から87年まで、助役をつとめた。退職後、森山は関電子会社「関電プラント」の顧問に就任するとともに、吉田開発の「顧問」もしている。このように、森山は発注側にも受注側にも、その双方にかかわって動いている。 関西電力高浜原発では、3・4号機建設が78年からはじまり、85年に営業運転を開始している。当時、高浜町長の浜田倫三は原発導入を積極的に推進していた。3・4号機の建設をめぐって、増設に反対する声がまきおこっている。78年、浜田5選を阻止するために、町長選挙がはげしく戦われた。僅差で5選阻止は実現しなかったが、このとき、森山は関電から要請をうけて原発推進で動きまわった。 04年、関電美浜原発で大事故がおきた。11人の死傷者(5人死亡)がでる事態に、地元では原発にたいする不信感がおおきくなった。地元対策が必要になり、関電は05年に原子力事業本部を大阪市内から福井県美浜町に移している。関電は「地元重視」を深めていった。こうして、原発建設をめぐる関電と森山との癒着は、ますます強まっていった。 3・11福島原発事故以後、関電はこの事故を教訓化することなく、これまでの原発依存路線を変えなかった。12年には、関電はいち早く大飯原発を再稼働させた。こうして、関電利益追求のために、「原発再稼働」を積極的に進めていった。 関電は原発依存の体質になっていた。総発電量にしめる原発の割合は51%(10年)に達しており、原発なしで経営が成り立たなくなっていた。関電は大飯原発についで高浜原発の再稼働を急いだ。この時、関電が投じた安全対策費用は高浜原発だけでも5400億円におよぶ。関電は森山関連企業に214億円という多額の工事を発注している。これに呼応して、森山からのマネー還流は2014年以降大幅に増加した。 また、関電は住民運動をつぶすために、森山に「地元対策」をおこなわせている。ある地元住民は、「助役の時には、原発推進派として反対派を説得するために積極的に反対派と向き合っていた印象がある。町長よりも表に出て、町民と向き合っていた」(朝日新聞)と述べている。特に3・11福島原発事故以降、高浜原発再稼働をめぐって、関電と森山の持ちつ持たれつ≠フ関係は、ますます深まっていった。 還流の構造 原発マネーの還流資金はどこから生まれたのだろうか。関電は土木建設会社に工事を発注する段階で、工事費を水増しして、不当高価発注をおこなっていた。あらかじめ、この工事費のなかに還流資金は繰り込まれているのだ。これは原発にかぎらず構造的におこなわれている。 今回、次のような構図が鮮明に浮かび上がってきた。関電は吉田開発に「特命発注」をおこなっている。吉田開発は「工事受注手数料」として森山に裏金をわたしている。森山は原子力対策本部の役員など、広範囲の人々にその裏金の一部をばらまいている。明らかにはなっていないが、大手ゼネコンも同じ事をおこなっている。 関電原発マネー還流の解明は、3・11以降に限られている。だが、関電と森山のあしき関係は、高浜3・4号機増設計画とともにはじまっている。これは森山が高浜町助役になった時期と一致する。関電は原発を動かすために森山を利用したのであり、原発によって膨大な利益を得たのは関電なのだ。 役員報酬をヤミ補填 3・11以降、関電は電気料金を2回(13年と15年)にわたって値上げしている。原発が停止し、経営赤字に陥ったからだ。このとき、関電は役員報酬をカットするなどして経営努力をしたかのようにふるまった。その裏で、カットされた役員報酬は補填されていた。このことが第三者委の報告書で明らかになった。関電は消費者を愚弄し、あざむいていた。 最近、関電コンプライアンス委員会の報告などで、この詳細が明らかになっている。補填は巧妙におこなわれていた。この補填は森詳介会長(当時)が主導して、隠蔽を前提に計画された。退職した後に嘱託として任用されたときに、その報酬に上積みするかたちで「穴埋め」していた。18人にたいして16年から補填がはじまり、その額は2億5900万円に達している。 こういう行為が社会的に罰せられることなく、なにもなかったことにされているのだ。昨年12月と今年6月に、「関電の原発マネー不正還流を告発する会」は刑事告発をおこなった。関電の原発マネー不正還流を許さない闘いは、原発をなくすために決定的に重要なたたかいだ。徹底的に関電を追及していきたい。

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病院ぐるみで患者虐待
兵庫 見元博

兵庫県神戸市西区にある精神科の神出病院で、看護師らによる患者虐待が10年くらい前からおこなわれていました。昨年末には警察が把握し加害者らが逮捕され、新聞が報道したのは今年3月に入ってからでした。 「男性患者同士にキスをさせた」「無理やり性器をなめさせた」「檻付きのベッド(重さ106キロ)を逆さまにして患者を閉じ込めた」「トイレで裸にしてホースで水をかけた」という非人間的行為がおこなわれていました。 加害者は看護助手や看護師6人。20代から40代。勤続歴は3〜6年。容疑は「準強制わいせつ」「暴力行為処罰法違反」など。被害者は分かっているだけでも患者3人。加害者のスマホにはもっと多くの虐待動画がありました。今回の事件は、加害者が別件の強制わいせつ容疑で逮捕されて、スマホに虐待の様子が録画されていたため事件になりました。 悪徳病院で有名 神出病院は悪徳病院として知られていました。兵庫県精神障害者連絡会は事件報道の直後に、神戸市保健課と神戸市精神医療審査会に動いてほしいと求めました。神戸市は「事件後、調査に入り指導をして、その指導に従わない時は初めて処分する」という返答。神戸市精神医療審査会は「患者からの通報が無かったから」と動きませんでした。神戸市は被害者を含む患者からの事情聴取を拒否して、病院側としか話をしていません。これだけの事件が発生し病院ぐるみの犯罪であったことが裁判を通して明らかになっているのにもかかわらず病院が処罰を受けることはないのです。その理由は、「精神障害者は危険な者であり社会に野放しにしてはならず、精神科病院に閉じ込めておかねばならない。人権など適用対象外だ」という差別観念が神戸市にも、それを許す社会にも根強く存在しているからではないでしょうか。 裁判では加害者は「患者の反応が面白かった」「芸人のようで面白かった」「悪ふざけに参加したかった」などと言っていました。捜査段階では「看護師長らが率先してひどいことをしていたので、そういう人が出世するところなのだと思った」と供述していたとのことです。加害者3人は執行猶予が付いて放免されました。主犯の裁判はこれからです。 行政の怠慢 神戸市精神医療審査会も神戸市保健課も怠慢すぎます。しかし精神保健福祉法に違反しているのではありません。病院を罰せられない現行法制がだめなのです。障害者虐待防止法が精神科病院と学校は適用対象外となっていることも問題です。 兵庫県精神障害者連絡会には匿名の精神障害者家族から友人の目撃として「認知症の入院者が頭にコブを作り、体にタバコの火を押しつけられた跡や内出血があった。50代の患者が暴行を受けた直後に死亡した。暴れたら『お仕置き部屋』というところに入れられていた」という情報が寄せられました。 大フォーラム実行委員会はこの問題で厚労省交渉をおこないます。精神科病院解体!

4面

私が原発を止めた理由―樋口英明さん
自国に向けられた核兵器

私が大飯原発3、4号機差し止め判決を出したのは14年5月。裁判というのは、判決内容を事前に知っている者は3人の裁判官と書記官1人だけ。私は、訴訟の当初から原告・住民にも被告の関西電力にも厳しい態度で臨んだ。判決当日、原告側も勝つかどうかわからない。それでも代理人・原告、傍聴者は詰めかけた。他方、関電側は1人も法廷に来なかった。彼らは負けるとわかっていた。  「危険なら止める」 私は当初から、「大飯原発が危険だと思ったら止める、危険でなければ止めない」と宣言し、訴訟を進めてきた。関電側は「危険かどうかで決められたら、勝てない」と思っていた。みなさんは、原発裁判は、原発が危険かどうかで判断されると思っている。ところが実際、多くはそれで決めていない。私は、「危険であれば止める」とした。止めたか止めないか、裁判官の違いはそこにある。 危険とは何か。お母さんが子どもに、「そこの交差点は見通しが悪く危ないから気をつけてね」と言う。見通しが悪く事故発生率が高いから、危ない。「自転車に乗るとき、危ないからヘルメットを被ってね」。被っても被らなくても、事故発生確率は変わらない。お母さんは、頭を打って大けがをすることを心配している。ここで危ないは被害の大きさ。一般的に危険というのは事故発生確率と被害の大きさ。両方を言うこともあるし、一方だけの場合もある。 9割以上の人が原発は危険だと答える。しかし、それは発生確率のことか被害の大きさのことか。被害の大きさだけ考えている人が案外に多い。 燃料の毒性が桁違い 大方の人が、被害の大きさは福島事故でわかったと思っているが、実はそうではない。 福島事故はどのような事故だったのか。2011年3月11日、午後2時46分に三陸沖約130キロでマグニチュード(M)9の地震が発生した。Mは地震の大きさの単位。大きな地震でも、離れていれば震度は弱くなる。福島第1原発は150キロ離れており、震度6強だったが、その地震で外部電源が断たれうえに、地震で発生した津波によって非常用電源が断たれたため、事故になった。 原発は非常に単純な構造で、ウラン燃料を燃やした熱で水を蒸気に変えて、タービンを回し発電する。蒸気は海水で冷やして水に戻し、モーターで循環させるという繰り返しだ。石炭、石油を燃やす火力発電と仕組みは同じだが、燃料の毒性に違いがある。核燃料が入っている圧力容器には、広島型原爆の約千発分の「死の灰」が溜まる。 もう一つの違いは、火力発電は大地震があると火を止める。すると沸騰が止まる。ところが原発は制御棒を入れ核反応を止めても、エネルギー量が大き過ぎ沸騰が続く。冷やすために水を循環させなければならない。送電鉄塔が倒れるなどして電源が断たれると、循環用のモーターが回せない。福島の場合、非常用電源も津波に襲われた。そのため原子炉を冷却することができず、大事故になった。 原発には「止める、冷やす、閉じ込める」という安全3原則がある。制御棒を入れ止めることはできたが、冷やし続けることができなかった。そして閉じ込められなかった。冷やし続けるためには電気と水が必要だ。火力発電所、普通の工場、みなさんの家でも火を止めれば、断水してもかまわない。原発は電気が遮断されただけで、あの大事故になった。 格納容器内に水蒸気と水素ガスが溜まり、爆発の危険があった。当時の吉田所長は水蒸気と水素ガスを抜くベントを人力でやろうとした。ベントをおこなえば放射能が大気中に出る。格納容器が爆発して全部出るよりまし。しかし、強い放射線のため作業することができなかった。15日になり、2号機の圧力が限度になってきたが、なぜか抜けた。4号機は運転休止中で燃料が抜かれ、プールに貯蔵されていた。プールの水が減ってきたが隣のプールの隔壁がずれ、水が入ってきた。もし2号機が爆発したら、あるいは4号機のプールの核燃料がメルトダウンしたら、首都圏を含む東日本は壊滅していた。 電気断たれると原爆 つまり原発は、ずっと電気と水が必要だ。1955年に原子力基本法を作った故中曽根元首相は「原子力はかつて猛獣だったが、今は家畜になっておる。日本国民は、まだこれを猛獣だと誤解している」と言ったが、猛獣というような可愛いいものではない。核兵器、原爆はウラン、プルトニュウム燃料を10万、100万分の1秒という一瞬にエネルギーを解放する。原発はそのエネルギーを水と電気でコントロールしながら1年余をかけ、ゆっくりと解放する。水と電気を与えなければ、原爆と同じ。核兵器は倫理にも理性にも反するが、最後のボタンを押すかどうかは人間が判断する。原発は、水か電気のどちらかが断たれれば「爆発」する。その原因は戦争、地震などいくらでもある。 核の「平和時」利用 核の平和利用と言われるが、水と電気が安定的に供給される「核の平和時」の利用に過ぎない。原発は自国に向けられた核兵器である。そんな危険なものなら、それなりに安全に造られていると思われるかもしれないが、そうではない。事故発生確率と被害の大きさは一般的に反比例する。新幹線と広島の路面電車では、発生確率では路面の方が高い。新幹線が車と衝突する確率はゼロ。だけど被害の大きさが違うから、新幹線は発生確率を抑える設計、運行になっている。自然界にM9の地震はめったにないが、M5程度はよくある。推進勢力は、「原発の敷地に限っては、将来にわたって震度6、7の地震は起こらない」と言う。信用できますか。地震学者は、地震学の3重苦として「観察不可、実験不可、資料なし」と言っている。全国に地震計を配置したのは、阪神淡路の後から。せいぜい20年くらいの資料しかない。地下30キロの震源の観察はできない。それでなぜ、多くの裁判長は原発を止めないのか。700ガルが震度6なのか7なのかを裁判官は知らないし、過去に何回起きたかも知らない。実際に起きている地震にたいして原発の耐震性が高いか低いかを重視していない。 止めるべき理由は簡単だ。事故のもたらす被害は甚大、地震大国日本では高度の安全性ということは、高度の耐震性ということ。54基もつくり、しかも耐震性は極めて低い。3・11を経験した私たちは、どうするべきか。死の灰は科学的に処理できないことが明確になった。原発事故はめったに起きない、起きても30キロ範囲の影響というのも違った。原発は、それなりに丈夫。しかし阪神淡路の後の資料で見ても、見当はずれの低い耐震性で造られている。私たちの世代で解決しなければならない。私たちは、知ってしまったのだから。 (8・6ヒロシマ平和の夕べ/講演要旨、文責・見出しとも本紙編集委員会)

〈寄稿〉
65歳で障害者の人権奪うな
脳性まひ者の生活と健康を考える会 古井正代

私たち障害者は、介護がなくては生きていけない。だから私たち障害者の生きる権利としての介護は、人権なのです。障害者の人権として障害者総合支援法は、長い時間をかけて勝ち取ってきたものです。それでも、まだまだ十分ではありませんが、生きる権利の介護を国に補償させてきたのです。それは、国が私たち障害者の存在を、不十分ながら認めざるを得なくなってきた証拠です。 その人権とは、個々の障害を理解し、慣れている介護者は複数24時間介護に入って生活することです。それを保証させたのが障害者総合支援法です。ところが、重度訪問介護が働く場で認められていないため、れいわ新選組の国会議員舩後靖彦さんや木村英子さんの介護者が国会に付き添えないことが問題になりました。 障害者が生活の場所から外へ出て、一般社会の一員として働くことや、学校で学ぶことを拒否しているのが今の社会の現状です。 私たち障害者を65歳で入れようとする介護保険は、健全者をモデルにした施策です。介護保険での自立とは健全者になることを意味しています。生まれてこの方、一度も「健全者」であったことのない私たち障害者にとっての自立は、障害者のままで一般社会の中で生きることです。 多数重視の市場主義が根本にある介護保険は、利用者や当事者の主体性や社会参加への考えはなく、専門家と行政主導で運営しています。つまり、障害者のままで、当事者主導で生きることは、介護保険の考えの中に入っていません。 それなのに、障害者総合支援法が65歳でうち切られて、介護保険に切り替えるようにという行政からの圧力で、それを拒否できないような雰囲気が醸し出されています。65歳で私たち障害者が障害者でなくなるような介護保険を私たちに押しつけることは、私たち障害者の人権をはく奪することです。 厚生労働省は介護保険に切り替えるのは強制ではないと言っていることから、私は大阪で介護保険加入を拒否した第一号です。しかし何年も裁判でたたかった末にやっと拒否できた仲間もいます。 実際には多くの市町村で、65歳の誕生日月の前に障害者総合支援法を勝手にうち切ったうえに、障害者の仲間たちに圧力をかけ、拒否できないような雰囲気が作り出されています。 介護保険に入れてしまおうとする時のお決まりの言葉が「障害者総合支援法と併用して今までと変わらない状況になりますから」です。変わらないのであれば介護保険に入れる必要はまったくないはずです。なのになぜ、介護保険に入れてしまうことを前提とした制度化を強固に進める必要があるのか。それは介護保険に入れてしまえば、併用している障害者総合支援法は外せるからです。 私たち障害者には、障害者総合支援法を充実させて生きるいがいに人権はありません。 今は、健全者だと思っている人も、長い人生の中で障害と共に生きることもあります。だから、政府は介護保険を作ったのでしょう。ところが、その介護保険では障害当事者になった時に自分の生き方を全うすることはできません。自分の身体に合った車椅子も選択できません。家のバリアフリーも最高で20万円(手すりが5〜6本設置できる程度)。本人と介護ヘルパーの間にケアマネージャーが入ってすべてを判断して決める。人に判断された主体性のない生き方では、楽しんで生きられないでしょう。 これから障害と共に生きる方も、十把ひとからげの考えの介護保険をやめて、私たち障害者が長年かけて手にした障害者総合支援法を使って生きることをおすすめします。 介護保険の、他人任せの生き方より当事者主導の生き方を障害当事者としての自覚と誇りを持って、一人一人の人権をつかみ取ってもらいたい。今は健全者でもいつ障害者になるかわからない健全者たちにも自身の人権問題として考えるべき問題だと思います。

5面

「黒い雨」訴訟、降雨被爆とは @
原告の悲願ふみにじり?控訴
江田 宏

「黒い雨」訴訟とは原爆が投下された直後に、放射性物質を含むいわゆる「黒い雨」を浴びて健康被害を受けたと住民たちが訴えた裁判である。被告の広島市・県は、国と協議した結果、「全員を被爆者」と認めた広島地裁の判決を受け入れず控訴した。原告の悲願を踏みにじり、内部被爆の影響を認めた判決を受け入れないという政治的な控訴だ。 広がる抗議の声 原告団長の高野正明さん(82)は、「国は、科学的根拠という言葉で判決を批判しているが、結論ありきの逃げの姿勢であり許すことができない」と怒りを表明。弁護団は「被爆者援護行政の転換がなされ、黒い雨を浴びた全ての人たちが救済されるよう」と声明を発表した。 長崎で、国の指定する地域外にいて被爆者と認められていない「被爆体験者」の訴訟を支援する被爆者の川野浩一さん(80、長崎県長与町)は「控訴でさらに時間がかかり、原告らは亡くなってしまうかもしれない」と語った(共同)。広島県被団協の箕牧智之理事長代行も「原告の皆さんのことを考えると控訴は容認できない。被爆者団体としても腹立たしい」と市と県の対応を批判した。 控訴断念を申し入れていた各団体、個人からも抗議の声明が次々と。福島原発事故の避難者、反原発団体も全国的な規模での声明を発出しようとしている。 国の動きと控訴審 国は「援護区域の拡大も視野に入れる」と救済を匂わせ、控訴断念を求める広島県と広島市を抑え込み、控訴に踏み切らせた。今後の焦点は、政府による再検証に移る。加藤厚労相(以下、政府職名は8月当時)は「対象の方々の高齢化もかなり進んでおり、スピード感をもって検証作業をしていきたい」と語ったが、その詳細はほとんど決まっていない。厚労省の担当者は「専門家の力を借りなければならない」とし、有識者をメンバーとする検証組織をつくると示唆。広島県や広島市から区域拡大の要望があったことから、援護対象の区域外でも被爆による健康被害があったかどうかなどを検証するとみられる。だが、検証の開始時期や結論の時期などは「今の時点で申し上げる状況にはない」と回答を繰り返している。 厚労省は検証の手法についても「蓄積されてきたデータの活用、AIなどを使うとしつつ、具体的にどのようなデータを使うかなどは明言していない。広島県と広島市に控訴を納得させるための『見切り発車』だった感はぬぐえない」(朝日)。 菅官房長官に至っては、「被爆から75年もたっているのに、まだこのような裁判がおこなわれていること自体が驚きだ」と、人としても政治家としても失格ともいえる発言である。高齢化する原告に残された時間はない。控訴審においても勝利しなければならない。 同時に「黒い雨」に関する全国的な関心はいまだ低く、小説や映画で見聞きしただけという人も多い。事実や科学的認識は十分とはいえない。あるニュースキャスターが、広島市・広島県が国の控訴の要請を受け入れたことに、「広島の人々は怒りの声を上げ、市と県に控訴を取り下げさせるべき。香港の人なら、そうしただろう」とコメントした。「黒い雨」訴訟について全面勝訴までは報道もわずかにしかなく、勝訴の翌日から連日多くの人たち、団体が控訴断念を申し入れ、市や県、厚労省に要請をしたことも、ほとんど報道されなかった。これが、どれだけ「黒い雨」被爆に迫った言葉か。 国は、広島地裁判決を「科学的な知見がない」と批判した。原告側が提出した意見書を中心に原爆、きのこ雲、「黒い雨」被爆者援護制度について、基本的なことがらから学んでいきたい。(つづく)

連載
命をみつめて見えてきたもの?
生命の医・農を求めて
有野 まるこ

最近、本棚に眠っていた『生命の医と生命の農を求めて』に気づいた。著者は1920年(大正9)五條市で寺の三男として生まれた医師・梁瀬義亮氏。42年前の出版。その内容は私の記憶からはすっ飛んでいたので新鮮で、彼の医と農の営み、人柄、生きざまにすっかり引き込まれた。今回と次回はこの本をもとにしている。 生命へのこだわり 医学部一回生のころ、教授の真ん前に陣取って講義を聴き終えた梁瀬に教授が尋ねた。「君は熱心に僕の話を聞いていたが、何だか腑に落ちん顔をしている。わからんことがあるのかね」「いや先生、僕はお話中考えていたのです。心臓が動いているから人間が生きているのか、人間が生きているから心臓が動いているのか。これが決定しなれば治療方針が決まらぬはずです。心臓が動くから人間が生きているのだったら、心臓の手当だけすればいいでしょう。しかし人間が生きているから心臓が動いているのだったら、心臓の手当と共に人間の生命の手当をしければならぬことになりますが…」「うーむ」、教授はにやりと笑って言った。「うむ、君は医学部をやめて哲学科へ行ったらどうだね」。どっと学生が笑い、彼も笑って、それで終わった。しかしこの問題は、その後もずっと頭に残りつづけた。 教授は「生命力」を軽んじてきた近代医学の師ならではの言葉を、冗談まじりに返したのだろう。しかし梁瀬氏の生命へのこだわりは、一臨床医として患者さんの生死・生活と向き合うことを通して生涯深まっていく。 桂子さんの死 梁瀬氏は1947年兵庫県立尼崎病院で住み込みの青年医師となる。いつも急性扁桃腺炎で受診する桂子さんという患者がいた。持参する貴重なペニシリンのおかげで毎回劇的に治癒、皆がそのすぐれた効き目に驚嘆した。ところが翌年春、薬は効かず高熱が続く。苦しみの中で救いを求める桂子さんに何もできず心で泣いた。間もなく17歳の生涯を閉じる。ブドウ状球菌による敗血症だった。両親の慟哭、救えなかった痛恨。暗い心で病院の窓辺に腰かけて物思いをつづけた彼の心に突然ひらめいた。 生命!! 生命力!! 生命の医学!! かつて細菌学の教授が言った言葉を思いだした。「人間の世界にバイキンがいるのではない。バイキンの世界に人間が住んでおる」。微生物、気候の変化など等、人間はいつも病気の原因の中にいる。しかも病気にならずに健康でいられる力、そうだ、それが「生命力」。体内には「自然治癒力」というお医者がいて病を治してくれているのだ。「生命力の弱り」これこそ病気の根本原因ではないか。生命力の弱りから起こった病気を化学薬品で治しても生命力を回復させることはできない。逆に生命力を弱めて、病気はより重く、頻繁に現れてくる。彼は悟り、決意する。結局、現代医学は応急処置的なすばらしい長所と同時に「病気を治して病人をつくる」という結果ももたらす。弱った生命力の回復の方法こそ「生命の医学」ではないか。これを何としても追求しよう。 農薬の害を告発 彼は五條市に帰り、開業医をしながら研究を重ね、1959年、世界に先がけて「農薬の害」発表した。同時に農薬と化学肥料を使った近代農法を変えようと、農法研究を重ね、完全無農薬有機農法の原理と技法を確立していく。69年、強毒性の農薬は禁止されたが農業はどんどん利益追求型へと変わり、低毒性の農薬や新たな化学肥料が広まっていく。1970年、彼は決意も新たに、生産者・消費者とともに「慈光会」を設立。農薬の害の啓蒙運動と無農薬有機農法の研究と実践、協力農家の育成、専属農場の建設など活動を発展させ、やがて全国、世界へとつながっていく。ちなみに彼は1955年森永ヒ素ミルク事件が公表される以前に、中毒症状の原因を突きとめ、森永乳業本社を告発していた。(つづく)

6面

「任命制」の研究―スターリン主義組織の本質(第2回)
スターリンへの権力の集中
掛川 徹

ロシア革命(1917年)に勝利したボリシェビキ(ロシア共産党)が、スターリン主義組織へと変質していく結節点となったのが「任命制」である。革命直後から勃発したロシア国内の内戦にともなって、ロシア共産党の中央集権化が進行する。それはクロンシュタットの反乱の鎮圧、党内の分派活動の禁止、書記局における任命制の拡大、統制委員会による党員の粛清(除名)、ゲーペーウー(国家保安局)による党員の恒常的監視・点検体制を生み出した。書記長となったスターリンは自らの下にさまざまな権力機構を統合していく。 「任命制」を成文化 1923年1月末の中央委員会で、スターリンは『機能分化についての書記局提案』という覚書を提案、これによって書記局は「県レベルより高くない」あらゆる党職―県党委員会の書記以下のあらゆる党職の任命権を与えられることになった。それより上級の党職の任命は組織局に提出され、組織局決定人事には政治局が異議を唱えることができるとされた。さまざまな制約がつきまとっているとはいえ、スターリンはここで、必要な党員配置の調整を地方組織に指示する従来の任命制から一転し、地方組織の幹部団を私的利害にもとづいて全面的にすげ替えるスターリン体制としての任命制を成文化したのである。 その後、ウチラスプレッド(「調査配給局」)は24年にオルグラスプレッドへと編制替えとなったが、これらの組織が任命した党人事の数は上の表のようなものだった。 この表からも、スターリン書記長就任以降の人事が「責任ある職員」すなわち幹部層の任命に重心を移していることが見てとれる。「組織局は党の活動家を選抜し、配置する … 県、州、地方の党組織の書記や主要役員をそうする … そのことがやがて党大会での多数票をスターリンに保障するし、そのことが権力獲得のための主要な条件であるからだ」(バジャーノフ『スターリンの元秘書の回想』)。 スターリンが管理するリスト(「ノメンクラトゥーラ」)にもとづいて党の役職を割り振るこの制度は、30年代になると党内人事にとどまらず全ソヴィエトの人事政策で適用され、任命された特権幹部層が「ノメンクラトゥーラ」と呼ばれるようになる。
レーニン「最後の闘争」 ちなみにレーニンは、22年4月にスターリンが書記長に就任してほぼ2ヶ月後の5月末に最初の発作で倒れ、「活動に戻るとすぐに … 弟子たちが独裁を濫用し、相手かまわず行使」する現実、党員の「無責任かつ権威主義的な官僚への堕落」に驚き、これが「レーニン最後の闘争」の契機となった(スヴァーリン『スターリン』)。 しかし、中央統制委員会に労働者出身メンバーを増やして官僚主義を制御するという彼の勧告は、逆にスターリンの任命人事を増やしてスターリン一派を強化しただけに終わった。そもそも1921年の段階で、党役職のすべてを公開選挙に付すよう要求した「労働者反対派」の除名を要求したのはレーニンその人だった。「任命制」はスターリンが登場する以前の段階ですでに自己運動化しつつあり、レーニンもその土俵の上で「任命制の公正な運用」を求めたにすぎなかったのである。 党組織が下から選出した役員をスターリンが上から任命した私兵集団で置き換えていく過程が一挙に進行したことで、ロシア党内で「任命制」がはじめて焦点化した。機関組織の幹部がまるごと入れ替えられる、という在り方は、従来の「任命制」にその萌芽的な面があったとはいえ、その規模において明らかに従来の「任命制」から異質な転換を遂げつつあった。これが第12回党大会では党内闘争の重大な焦点となった。23年4月の時点では地方委員会書記の3分の1が上から任命されたメンバーだったので、単純に代議員構成だけを考えれば、第12回党大会までは大会多数決でスターリン派を解任できる可能性が存在した。 しかし、党内民主主義をもっとも強く主張していた「労働者反対派」は第12回大会までに主要メンバーがすでに除名されていた。彼らは会場で無記名のパンフレットを配布しただけだった。個別に反対派メンバーが「任命制」の乱用を弾劾したが、スターリン・ジノヴィエフ・カーメネフの3頭目(「トロイカ」)が支配する大会のすう勢を変えることはできなかった。12回大会は結局「任命制」を追認し、「中央および地方の党の審査配置機関を拡大する措置をとるように指令する」ことを決議、むしろ逆に任命制強化の方向を確認した。 大会の確認にもとづき、1923年7月中央委では、ウチラスプレッドが任命すべき国家・経済機関のポスト3500、ウチラスプレッドに届け出が必要なポスト1500のリストを決定するとともに、「地方機関の活動家の任命および解任についての中央委員会と各部門党組織および各地方党組織とのあいだの協定の形態にかんする規則がウチラスプレッドにより作成された」。23年11月党中央委員会決議もこれを追認し、経済機関、農村、赤軍の各ポストへの任命が最も重要であることを確認している。 遅かったトロツキーの決起 大会後も粛々と人事の入れ替えが進んだ。12回大会で沈黙を守ったトロツキーも、遅ればせながら1923年10月に「任命制」批判の口火を切った。「戦時共産主義のもっとも過酷な日々にあってさえ党内での任命制は現在の10分の1の規模でもおこなわれていなかった。地方の委員会の書記を任命する習慣は現在では常習となっている。…反対や批判や抗議が起こると書記は中央の助けをかりてその反対者を容易に配置がえすることができる。… 上から下へと組織された書記機構はすべての糸をみずからの手の中に¥Wめつつあり、そのやり方はますます恣意的になっていく」「党機構の官僚主義化は書記の選抜の方法の適用を通じて前代未聞の大きさに達した」(トロツキーの中央委員会宛10月8日付書簡)。 その直後に公表された「四六人声明」は「上から任命された職業的党職員と共同生活に参加しない党員大衆とのあいだに」生じつつある党の分裂を指摘、「党の書記ヒエラルヒーがますます大きな程度で協議会や大会のメンバーを補充し、それらがますます大きな程度でこのヒエラルヒーの執行会議となりつつある」といって官僚独裁を批判した。しかし、トロツキーが決起した時はすでに地方組織幹部の多数派がスターリン派で、大会多数決をとる展望はほとんどなくなっていた。スターリン派は、黙々と人事のすげかえを遂行して多数派を確保した後に「反トロツキー」キャンペーンを開始した。 「白が黒に見える」 「それが党にとって必要、もしくは重要であるなら、われわれはこれまで何年も抱いてきた思想を意志の力によって24時間以内に自分の頭から消し去ることができるでしょう … たとえ自分が見たものは白だったと思っても、いまだに白に見えるような気がしても、それを黒と思います。なぜなら、私にとって党以外の生活、あるいは党の見解と一致しない生活はありえないからです」(ピャタコフ、1928年)。白が黒に見えるという、「任命制」組織人のメンタリティをあますところなく表現した一文である。 「反トロツキー」キャンペーンが始まって以降、ロシア共産党ではこういう代議員が反対派に罵声や怒号を浴びせるだけで、理性的な党内議論はもはや成立しなくなった。党内反対派を粛清し、任命制権力が肥大化する一方的な過程がその後に続いた。 農民にたいする戦争 こうして「任命制」導入にいたる経緯、これをスターリンが個人独裁体制の道具としていった過程を概括すると、ソヴィエト民主主義が形骸化し、住民の大多数を占める農民の意志が「プロレタリア独裁」下の赤色テロルでねじふせられていく当時のロシアで、党内の民主制度は空論でしかなかった、という問題に突き当たる。 さまざまな研究が今日あらためて焦点をあてているが、ロシアの革命権力は、ロシア国内という限定した範囲でみれば、限られた食糧と資源を農民から収奪する一方の、農民を犠牲にしてかろうじて成り立つ少数派都市住民による独裁権力体制、という側面を否定しようがない。 近代総力戦争の重みに耐えられずロシア帝政は軍隊の瓦解を決定的な要因として崩壊したが、これを引き継いだボリシェビキ政権も社会システムを再構築できないまま、ロシア社会の解体状況は内戦を通じて劇的に悪化した。旧体制の復興をもくろむ旧地主勢力とソヴィエト政権の闘いを一方の軸としながら、もう一方ではわずかな食糧をめぐって農村と都市が生死をかけて奪い合う「飢餓の革命」が展開した。農民家族が餓死するのもかまわず穀物を略奪する労働者の武装徴発隊にたいして農民が村ごと反乱を起こし、赤軍、白軍、緑軍(農民反乱軍)三つ巴の壮絶なテロの応酬が続いた。14年当時の人口1億7000万(8割が農民、都市労働者はわずか300万)のうち、第1次大戦に1100万が動員されて300万が戦死。飢饉による死者も含め、続く内戦で一説によれば1000万人がさらに死亡したと言われる。半分以下に激減した都市住民は、工場から盗んだ物資を闇市場で穀物と交換して食いつないだ。先細る一方の食糧と資材すべてを赤軍に集中することでボリシェビキはかろうじて白軍との戦争に勝利したが、後には経済も人心も荒廃しきったロシアが残された。          (つづく) 【参考文献】 E・H・カー『ボリシェビキ革命』第1巻(みすず書房、1967年)、『同』第2巻(1967年)、『同』第3巻(1971年)、『一国社会主義 政治』(みすず書房、1987年)、『一国社会主義 経済』(1977年) ボリス・スヴァーリン『スターリン ボリシェビキ党概史』上下巻(教育社、1989年) 藤井一行訳『トロツキー新路線』(柘植書房、1987年) 文中の「任命制」に関するデータはほとんどカーの上記著作によっている。すでに50年も前からスターリンの組織体制についてこれだけ詳細な内容が紹介されていた事実は、自らを振り返ってもショックだった。