イージスアショア
政府が配備計画を撤回
「敵基地攻撃」へ見直しか
寄稿 元航空自衛官 小多基実夫
勝利判決後、広島弁護士会館で記者会見、質疑応答(1月17日) |
6月15日、河野太郎防衛大臣は「秋田・山口両県への配備計画を進めてきたイージス・アショアの配備プロセス(手続き)を停止する」と発表。25日に計画の撤回を表明した。理由は、同システムのSM―3ミサイルを発射した場合、ブースター(第1段目のロケット)を発射場内に落下させることが困難だからというもの。住民への被害を考慮して配備を中止したかのようにアピールしているが騙されてはならない。 すでに明らかになっているようにイージス・アショアを秋田県と山口県に配備しようとしたのは、米軍拠点のハワイとグアムへ向かう弾道ミサイルの飛行コースの真下に位置するからである。しかし日本の上空を通過する時のミサイルの高度(600キロ以上)にはSM―3(約300キロ)は届かないため発射する機会がなく、当然ブースターが落下する心配もない。この位置に設置する意義は、ハワイ、グアムへ向かう弾道ミサイルのレーダー追跡のデータを米軍に提供するため以外にない。今回、これを「停止」して、それよりも敵基地攻撃能力を保持するという方向に切り替えたと判断しなければならない。 今回の問題を契機にして、「ブースター落下の危険性」が強調されだした。確かに重量200キロのSM―3のブースターが高度2000〜3000メートルから落下してくれば大惨事である。しかし自衛隊では迎撃ミサイルの発射に際して、弾頭の破片やブースターの市街地などへの落下は当然視されてきた。 私が所属していた垂直発射式のナイキミサイルは、ブースターだけで4・5トンあり、燃え尽きた空筒は鋼鉄製のため1トンの重量があるといわれた。これが3000メートル上空から落下するのだ。その下敷きになれば基地は壊滅する。そのため発射台は90度の垂直でなく87・5度または85度に設定するようにされていた。つまり近隣に海があれば海に、なければ市街地に落下させるのが前提なのである。住民の安全は犠牲にして軍事拠点を守るという沖縄戦の皇軍と同じ論理に貫かれているのである。 ナイキの後継ミサイル、PAC―3も同様だ。これは300キロと小型のため分離・落下させるブースターはないが、迎撃に成功すれば攻撃ミサイルもろとも、弾頭やミサイル本体がバラバラになって落下する。命中しなかった場合は自爆したミサイルが降り注ぐ。 東京では防衛省(市ヶ谷)にPAC―3を常駐させているが、もし発射されれば、新宿・中央・文京・千代田・渋谷・世田谷・港・豊島などの市街地が犠牲になる。河野が言うように住民の安全に配慮しているのならば、真っ先にPAC―3ミサイルを都心の市ヶ谷から撤去しなくてはならない。 国内で発射訓練ゼロ こういう兵器だから自衛隊は半世紀以上にわたって国内の演習で1発も発射していない。毎年米国ニューメキシコの演習場まで運んで実射しているのだ。 現在のミサイルでは、ブースターが分離されて落下するもの、ブースターが燃え尽きても切り離さないもの、そもそもブースターが付いていないものと様々である。それは各ミサイルの飛翔の特性に応じて決まる。だから、軍事基地に反対する理由は「ブースターが落ちてきて危険だから」ということよりも、「ミサイル攻撃の目標にされるから」の方が重要である。最低でも市街地の近隣から軍事基地を一掃しなければならない。 先制攻撃を検討 安倍政権は、年内にも「国家安全保障戦略(NSS)」を改定し、国家安全保障会議(NSC) でイージス・アショアに変わる新たなミサイル防衛体制や「敵基地攻撃能力」の保有を議論し、「防衛計画の大綱」や「中期防衛力整備計画」を見直し・決定すると言われている。中国(ロシア、朝鮮)のミサイル基地に対して先制攻撃をおこなう「敵基地攻撃能力」を有する基地は、相手国から先制攻撃を受ける対象となる。 今回の「停止」は、山口、秋田の地元住民のたたかいが安倍政権の軍事政策を変更させたもの。辺野古、宮古島、石垣をはじめ全国で自衛隊と米軍の基地撤去に立ち上がろう。
関西電力
株主代表訴訟始まる
現旧経営陣ら22人を提訴
キャンプ・シュワブゲート前に座り込んで抗議する市民ら(1月27日 名護市内) |
6月23日、関電株主代表訴訟があらたに始まった。関電の個人株主49人が約92億円の損害賠償を求めて、大阪地裁に提訴した。被告は関電の現旧役員ら経営陣と監査役を含めて計22人。提訴に先だち、大阪地裁前で集会。井戸謙一弁護士(写真)は「会社が赤字で経営難に落ちいったとき、関電役員だけ補填してもらっていた。社会的に許されない」と述べ、河合弘之弁護士は「目的は日本から原発をなくすこと。関電は旧経営陣5人を提訴したが、内容的にあまい。厳しく責任を追及する」と話した。
新型コロナ
感染リスク、政権の対応は
自粛社会≠ニ人権問題
1月20日、議員会館前で国会開会日行動 |
「新型コロナウイルス問題から学ぶ」勉強会が開かれた。講師は、高作正博・関西大教授(6月20日、神戸市内、「高作先生と学ぶ会」)。 高作さんは、はじめに感染症のリスクと教訓について「グローバル時代、人口増大や自然破壊で動物由来の新型感染症の出現リスクが増大、国や地域を越え拡大する。ヒトの移動や食材・食品の輸出入の飛躍的拡大は、従来の検疫により防ぐという考え方が機能しなくなった」と、感染症への政治の対応の重要さを話した。 法的根拠なし 今回のコロナウイルス禍で「安倍政権は、当初、在外日本人と国内発生時への対応は議論したが、国際協力の視点を欠いた。とくに国民に信頼されうる正確な情報の発信すること、迅速・的確な判断と対応があったのか大いに疑問だ。2月25日以降、感染拡大を防ぐ基本方針と要請がされたが、軽症なら自宅療養、集団発生時には施設の休業やイベント自粛、学校の臨時休校要請など、いずれも法的根拠もない」。 安倍首相のリーダーシップについて、「利己主義ではなく利他主義、謙虚さ、他者からの信頼、難局への対処する決断・行動力が求められる。『責任は私にある』と繰り返しながら、具体的責任は一言も言わない。憲法や法解釈の恣意的な変更にも及ぶ」「政権批判への回避からの政治判断であり、感染拡大への対処ではない」と指摘した。 店名公表の問題性 休業「指示」と、従わない事業者名の公表の問題性。「指示、要請には法的拘束力はないが、横並び意識の強い日本では事実上の義務に転化する可能性もある。一方、パチンコ店の例では、休業せず店名を公表した所に逆に集中してしまう結果も出た。新型インフル等特措法第45条は、『要請、指示には、その旨を公表しなければならない』とされる。要請・指示の公表であり、店名までは解釈できない。自分に感染するかもという恐怖のなかでは、単に情報提供するだけでも責任は生じる。制裁・処分としてなら当事者からの意見聴取、法制手続きが必要だ」。 自粛社会の課題 新型コロナ時代の人権問題は重要だ。移動の制限について「今回は自粛にとどまった。禁止・命令への変化なら、感染症法の適用、責任の所在は明確になる。しかし、人権制限の程度は厳しい。強制隔離政策の違憲性は明らかであり、罰則をともなう場合はなお厳格な規制を要する。 自粛社会≠ヘ、元に戻りにくい。メルケル・ドイツ首相の開かれた民主主義の下では、政治で下される決定の透明性を確保し、説明を尽くす、という誠意あるテレビ演説は、安倍政権の態度とは比較にならないほど民主主義の本質に沿っている」と評価した。 「治療の際の順番、条件、ワクチンの接種順など命の選別、いわゆるトリアージ≠熄dい課題だ。また感染情報は、従来は個人情報を含まず感染者数の把握だった。公衆衛生上とはいえ、個人情報の収集にも及ぶ監視システムを安易に認めてはならない」とした。
2面
大阪市廃止・解体構想
住民投票へ突進する維新
9月議会で採決阻止を
市東孝雄さんらを先頭に東京高裁へデモ(1月16日) |
6月11日、大阪市を解体する制度案を作る第34回法定協議会が大阪市役所で4カ月ぶりに開催された。コロナ下で中断されていたが、19日の採決のため強行スケジュールとして開催された。市民への説明会は開催しないままだ。大阪府・大阪市は、「反対意見は聞かない」と言っていた出前協議会も開かなかった。出前協議会で実施予定だった「各会派からの意見表明」を動画で撮影してアップすることで説明会の代わりにした。だがそのユーチューブの視聴も、260万人の市民に対してわずか700人にも届いていない。これで「やった」ということにしたが、説明責任を全うしているとは到底言い難い。 82件の間違い 午後1時に開催された法定協では、「82件にわたる間違い」や「十全なコロナ対策のため延期を」求める発言が自民党、共産党の市会議員から出された。 「82件にわたる間違い」とは、大阪市の副首都推進局のホームページに詳細が掲載されている、「『大都市制度(総合区設置及び特別区設置)の経済効果に関する調査検討業務』の調査結果に係る報告書」、つまり維新が「都構想の経済効果額を算出した」といっている嘉悦学園の報告書に、またまちがいがあったというもの。2月には大阪市公正職務審査委員会が「複数の記載誤りと思われる箇所が確認されることから、本件報告書の内容を市の取り組みとして取り扱う場合は、必要な確認を行い、適切な対処をとったうえで取り扱われたい」と指摘され、22カ所に誤記があったとして修正している。今回は制度移行によって得られる10年間の経済効果額について、これまでの最大1兆506億円から1兆373億円に減額するなど、記述や図表を含め計60カ所を訂正した。計算誤りなどが主な原因だが、もうこのような報告書は信頼できない。住民投票の際の市民への説明にも使うべきではない。しかし松井市長は、「都構想の経済効果が否定されたものではない」と再検討を拒否した。 この法定協に報告された「都構想」制度案に対する市民意見(5月末締め切り)は、意見者総数888人、意見件数2376件で、中でも「コロナ感染禍の時に都構想論議は中止せよ」が596件あった。都構想の進め方に対して反対の意見が集中された。 市民は、今回のコロナ禍で、苦しい状況に置かれている。これから多くの倒産や失業が懸念されている。インバウンドによる経済成長も、もはや期待することができない。新型コロナ感染症の「第2波」に備えた検査や医療・介護・教育の体制も、これから整備しなければならない。 大阪府・市の今年度の予算にはカジノ・万博関連の「不要不急」な予算がある。 淀川左岸線の2期工事というのは、カジノ・万博に間に合わせるために国にわざわざ頼んで前倒ししたもの。 職員不足が深刻 大阪市の定額給付金担当職員は18人しかいない。申請書が届いていない家がまだかなりある。松井が6月28日支給日と発表したため現場は大混乱している。休業要請支援金・休業要請外支援金については書類審査に毎日100人近くの職員が動員されているが、申請窓口は目詰まり、給付の目途さえ示されていない。大阪府では介護現場でのクラスター発生時の人材確保策の予算化ができていない。介護など必要な事業に職員を配置するなど至急の対応が必要だ。 市民は明日の特別区設置などより今日の生活を求めている。また、コロナによる経済的ダメージは大きくこれまでの議論の前提が根本から変わっている。住民投票の強行はゆるされない。 11日の法定協に対し、「カジノ問題を考える大阪ネットワーク」「STOP! カジノ大阪」など、9団体で構成する「大阪カジノに反対する9団体懇談会」による「大阪市廃止構想」法定協議会への市民アピールがおこなわれた。雨の中、約100人が抗議のアピールに参加した。 市役所南側では服部良一さんや大石あきこさんらがアピール。大石さんは自らも府職員だった経歴に踏まえ、現在府・市で働く労働者が首長の思いつきや「やってる感」演出に振り回され混乱の中にありながらも、コロナウイルスとの対峙を必死でおこなっていることに感謝の意も込めて発言した。副首都推進局に府市計84人とカジノ誘致のIR推進局に府市計43人の職員が働いているが、他の部署からはコロナ対策に回されても、ここからは人は出されない。「いま、府・市ではカジノ・都構想を進めるための作業が優先されている。このことに悔しい思いをしている労働者がたくさんいる。生活に苦しんでいる市民のためにその労働を回せ」と訴えた。 カジノも万博も破綻 カジノ・万博も破綻している。府市が大阪湾の人工島=夢洲に誘致するIRの公募に応じたのは、オリックスとの共同事業体で事業を計画する米国カジノ大手、MGMリゾーツ・インターナショナルのみ。しかも新型コロナウイルスの影響で業界では財務が悪化。発言に立った〈カジノ問題を考える大阪ネットワーク〉代表の桜田照雄・阪南大教授はMGMについて、「投資ファンドからの巨額の借金を返さないといけない。夢洲へ1兆円の投資ができるのか」と、同社の営業状況や財務諸表を分析してカジノの破産を明らかにした。 しかし協議会では、来る19日の協議会で協定書案を採決するとの方針が強行された。 そして6月19日、「大阪市廃止構想」の第35回の法定協議会が開催された。20人の委員の内、会長(維新)を除き、賛成16人(維新・公明・自民府議)、反対3人(自民市議2、共産1)となり、自民府議2人は態度を変えて賛成にまわった。 この日も12時から市役所南側と淀屋橋の北側で抗議行動がおこなわれた。「9月初旬の府議会・市議会での採決をさせない運動を盛り上げよう。コロナ被害対策・第2次感染防止対策に全力を。大阪市廃止構想を中止せよ」と市民団体が共同でアピールした。さらに9月議会での採決阻止に向けて一層の共同・連携を確認して一連の抗議行動を締めくくった。(剛田 力)
能勢ナイキ
反対闘争勝利から50年
住民が基地建設を阻んだ
6月19日、大阪市内で「能勢ナイキ基地建設反対闘争勝利50年記念集会」がひらかれた。主催は「戦争をさせない1000人委員会・大阪」で、おおさか総がかり行動実行委員会が協賛。集会には100人を越える人々が参加した。 反対闘争の始まり 能勢ナイキ基地建設反対闘争は、今から50年前の1970年6月22日に新聞報道で「大阪北部能勢町にナイキ基地建設か」という報道なされたのを契機に、地元能勢町を先頭に周辺自治体や、全関西で「ナイキ基地建設反対」の運動が高揚し、地道な反対運動の結果、77年3月に三原防衛庁長官(当時)が、正式に能勢ナイキ基地設置の取りやめを表明し、基地建設反対闘争に勝利した稀有のたたかいである。当時の第三次防衛力整備計画の柱であったナイキJミサイル(核搭載可能なナイキ・ハーキュリーミサイルの日本版)の基地建設を阻止したのだ。 当時、全学連・反戦青年委員会は、「能勢ナイキ基地反対全学連・反戦現地闘争本部」を立ち上げ、70年8月に予定地とされた能勢町天王地区に、地元住民の協力によって現地闘争本部を構え、地元天王地区の「ナイキ基地建設設置反対全住民期成同盟」や、能勢町在住の若者を中心とした「ナイキを考える会」、「ナイキ基地建設反対住民連絡会議」など地元住民のたたかいを支え、一心となってたたかってきた。 民有地を軍事基地に また、能勢ナイキ基地反対闘争は、民有地を新たな軍事基地にしようとする攻撃でもあった。実際にナイキJの配備が計画された候補地は、自衛隊基地や演習場であった。能勢の場合は、純粋の民有地であり、そこに新たに軍事基地を建設するという一歩踏み込んだ攻撃でもあり、軍事基地のためには、どこであろうと全国で必要であれば軍事基地として使用するという攻撃でもあった。能勢のたたかいはこの攻撃をも頓挫させたのだ。 集会では、元総評豊中地区センター事務局次長の一丸雅和さんが「能勢ナイキ基地反対闘争の経過と教訓」を提起、ジャーナリストの前田哲男さんが「『朝鮮戦争70年 安保60年』と『基地日本』の現況」と題して講演した。また本集会には、「能勢町ナイキ基地設置反対住民連絡会議」事務局長・阪根俊夫さん、イージスアショア配備に反対してたたかっている秋田などから連帯のメッセージが寄せられた。
京都でも人種差別に抗議
参加者は千人超える
6月21日
6月21日、京都市内で人種差別への抗議デモがおこなわれ、参加者は1000人をこえた(写真)。円山公園には、大勢の外国人の若者が集まった。もちろん日本人やアジア系の若者も参加している。主催者の女性は、この間、白人警察官に殺された黒人の名前を数十名読み上げ、これは報道された人だけで、この背後に数千人がいると訴えた。そしてジョージ・フロイドさんが首に膝を押しつけられた8分46秒黙祷し、京都市役所前まで、デモ行進。沿道から何人もが「ブラック・ライブズ・マター」のコールに呼応して拳をふり上げた。
3面
狭山―つながりをちからに
第4回・狭山事件の再審を実現しよう
市民のつどいin関西のよびかけ
私たちは、関西各地の「狭山事件の再審を求める住民の会」が共同でよびかける年に一度の集会実行委員会です。一口に「住民の会」と言っても、第二次再審闘争以来、長年にわたって活動を続けてきたグループあり、第三次再審闘争で証拠開示が始まって以降新たに発足したグループあり、性格も経緯は様々ですが、これら新旧のグループがフェイスブック等を通して知り合い、石川一雄さんの今を広く市民に知ってもらおうと年1回、市民のつどいを開催してきました。
もう先延ばしできない
狭山事件の第三次再審請求は2006年に提訴され、09年9月に裁判所、検察、弁護団の三者による協議がスタート。同年12月には東京高裁が証拠開示勧告をおこない、現在まで200点余りの未開示証拠が開示されてきました。特に一昨年8月に提出された万年筆のインクに関する下山第2鑑定は、石川さん宅から発見された万年筆が被害者のものではなく、ねつ造された証拠であることを科学的に証明した画期的な新証拠です。しかしながら、検察は、1年半以上にもわたって下山鑑定に対する反論を引き延ばし、裁判所の鑑定人尋問・再審決定は先延ばしにされています。石川一雄さんは今年81歳。再審裁判のこれ以上の遅延は許されません。
関西でキャラバン
こうしたことから、私たち市民のつどい実行委員会は、昨年9月23日に釜ヶ崎ふるさとの家で開かれたスタート集会以来、狭山事件の再審を訴える関西キャラバンをおこなってきました。
兵庫、大阪、奈良の駅頭をまわり、それぞれの地元の仲間と合流しながらチラシを撒いたり、署名を集めたり、各地のイベントでアピールや紙芝居をさせてもらったり、映画『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』の小規模上映会を開いたりしています。
奈良県宇陀市では、地元の市民団体が「私たちは狭山を知らない。だから知りたい」と上映会を開いてくださいました。茨木市の地域ユニオンの事務所で開かれた上映会では、「狭山は石川さんの仮釈放で終わったと思っていた。でも、終わっていなかったんだ」と言ってくださった方もおいでになりました。
関西キャラバンの試みを通して、私たちは、まだまだ石川さんの今を伝えきれていないこと、そして、まだまだ伝えられることを学びました(キャラバンの詳細については市民のつどいホームページをご参照ください)。
2月24日に集会
2月24日、大阪天満橋のエルおおさかで第4回狭山事件の再審を実現しよう市民のつどいin関西が開かれます。今回のつどいでは、「つながりをちからに」をテーマに、石川一雄さん夫妻、袴田ひで子さんと並んで、昨年前代未聞の最高裁での再審取り消し決定を受けた大崎事件弁護団事務局長の鴨志田裕美さん、元全国同和教育推進協議会副会長でハンセン病家族訴訟原告団長の林力さんをお迎えします。
狭山事件では差別と冤罪は切り離すことができません。部落差別によるえん罪が狭山差別裁判であり、部落差別によるえん罪をただすことを通して石川一雄さんの再審・無罪をかちとることが狭山再審のたたかいです。第4回市民のつどいの場で、司法の壁に立ち向かうえん罪被害者の団結の輪、差別と闘うもの同士の連帯の輪を心から支持し、広げていく中から、狭山事件の再審実現の展望をつかみとっていければと思っています。
狭山事件は終わってはいません。石川一雄さんは今日も東京高裁の前に立って、無実を叫び、再審の門をたたき続けています。56年間におよぶ狭山差別裁判に終止符を打つべく、皆様の第4回市民のつどいへのご参加・ご協力を心よりお願いいたします。
第4回・狭山事件の再審を実現しよう市民のつどいin関西 開催要項
とき:2月24日(月休)
午後0時半 開場
午後1時 開会
ところ:エルおおさか・エルシアター(地下鉄谷町線「天満橋」駅 西300メートル)
主催:狭山事件の再審を実現しよう市民のつどいin関西実行委員会
読者の声
「ぼくが生きる道」
あの日、あの時の糟谷君
兵庫県 石束 隆
1月13日、大阪で小さな集会が開かれた。『権力犯罪を許さない、忘れない、糟谷孝幸君追悼50周年集会』という集会には東は千葉・三里塚から、南は沖縄・石垣島までおよそ140人が集まった。
糟谷孝幸君といっても、知らない人が多いだろう。70年安保闘争の渦中、69年11月13日、大阪扇町公園で開かれた佐藤訪米阻止闘争。その最中、機動隊の暴力によって虐殺された岡山大学の学生、当時21歳だった。糟谷君は日記に、こう書き記して参加したという。「…ぜひ、11・13に佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではない。それが、僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」。
あの日あの時の扇町公園。総評系官公労の労働組合、民主団体、およそ2万人の労働者、市民による集会に私も一反戦派労働者として参加していた。
集会の終わりごろワッという声が上がった。公園南側車道はデモ隊の投げた火炎瓶によって一面に燃え上がっていた。炎の向こうに、機動隊の黒い壁ができていた。その黒い壁に向かって50人ほどの学生の一団が、炎の河を渡って突入していった。その中に糟谷君がいた。糟谷君は機動隊の警棒で乱打され、逮捕された警察署で「黙秘します」と一言だけ言って意識を失い、そのまま亡くなったという。
その後、糟谷君の死因について、権力犯罪を立証するべく裁判が続けられたが敗訴に終わった。それから50年、糟谷君の墓参りは岡山大や大阪のグループなどによって毎年途切れることなく続けられ、50回忌をむかえた。
今回の集会は、糟谷君を記憶に残すためのものだ。
1960年代の最後の数年間は、日本だけでなく世界が燃え上がっていた。67年1月、ベトナムの米軍は50万人に。6月、第3次中東戦争。7月、デトロイトで黒人暴動。10月、佐藤首相訪米阻止羽田闘争で山ア博昭君が機動隊によって殺される。同じ時、「二つ、三つのベトナムを」と檄を飛ばし、ボリビア山中のゲリラ闘争の最中、チェ・ゲバラが倒れた。11月、米空母イントレピッドから脱走した反戦米兵4人が国外へ。68年4月米軍王子野戦病院建設反対闘争。5月、パリの学生たちのカルチェラタン闘争。
69年1月、東大安田講堂の攻防。その後、各大学の封鎖解除が続く。4月28日沖縄デー。銀座、有楽町占拠、国電ストップ。6月、新宿西口フォーク・ゲリラ7千人集会。11月13日の扇町闘争、16日、17日、佐藤訪米阻止闘争…。
思えば60年安保闘争、樺美智子さんが亡くなった時、私は高校を卒業して働き始めたころだった。樺さんの死を聞いて、「樺さんの仇は俺が討つぞ」という大それた想いを持った。その時そう思ったのは、私一人だけではなく全国に何十人何百人もいたと思う。
あれから60余年、山ア博昭君よ、糟谷孝幸君よ。たたかいは続き、70代半ばを過ぎた私の旅も、まだ終わっていない。
読者の声
ギグ・エコノミー
巧妙化する労働者の搾取形態
東京都 鈴木一郎
最近、ウーバーの労働者が一方的に給与の引き下げを通知され、それにウーバーの労働組合が抗議したニュースが流れた。巷では「ギグ・エコノミー」が「空いた暇な時間に自由に稼ぐことができる」とても合理的なウィンウィンな仕組みと、もてはやされている。通常の会社に雇用される形は取らず、個人がアマゾン、ウーバーなどの企業と「対等」な事業者として契約を結んで仕事を請け負う、という謳い文句である。
しかし、それは実際には職を求める労働者に対して、正規、非正規の労働者としては雇用しないが、あなたが個人事業者として契約を結べば仕事を提供し、対価を支払う、というものである。かくして、企業は通常であれば必要な労働者にたいするあらゆる責任を回避し、にもかかわらず過酷なペナルティーは一方的に押し付けるという、とんでもない形態である。
ごく一部の金儲けに長けたもの、うまい立場に立った者が不必要な非生産的な業界で「高い生産性を持つ」としてろくに働きもしないのに高い報酬を得る。その一方で、社会を本当に支えている運送、建設、介護、清掃、保育、ガードマン等々の仕事は「AIで消滅する、機械に置き換えられる単純作業、誰もが嫌がるが誰にも感動を与えない誰にもできる下等な仕事」(実際には正反対で人間にしかできないからいつまでも機械に置き換えることはできない)として不当に低賃金で過酷な労働環境を強要されている。
その流れの一環として外国人労働者を技能実習生制度等として無権利で低賃金の労働を強要している。それと並行して正規雇用を最小化する方向としてギグ・エコノミーが進められつつある。心ない多くのマスコミ等は、ギグ・エコノミーをさもAIの成果、ITの成果であるように喧伝している。確かにアマゾン、グーグルには労働者をこき使う問題点はあるものの、以前は容易に入手できなかった貴重な資料を入手できるようになったなどそれなりにメリットもある。しかしAIの成果を謳う大半のIT企業は、ウーバーやウィワークのように労働者をいかに低賃金・無権利に追いやるかの工夫を本質とするハレンチで詐欺的なものでしかない。
最近、封切りされたケン・ローチ監督のイギリス映画『家族を想うとき』がその苛酷な実情を描いている。町山智浩氏のラジオでの紹介はその背景をよく説明している。町山氏の説明を参照されるとともに、映画『家族を想うとき』を是非見てもらいたい。
最近はアマゾンの配送でも通常の宅配業者ではなく、私服のおじさん、おばさんが配っているのをよく見かけるようになってきた。今、日本においても徐々に進みつつあるギグ・エコノミーがいかに卑劣なものであるかを共有することを訴える。
4面
直撃インタビュー(第40弾)
復帰運動、沖縄と憲法、辺野古
沖縄・本土を見つめる 富樫守さんに聞く(下)
――復帰運動では「憲法のもとに」。沖縄と憲法とは
本土復帰運動を説得するために、「日本国憲法の保護下に生活できるのだ」と宣伝された。私は復帰運動の最終場面に帰ってきたものだから、それは後から聞いた。占領下の沖縄の人は、憲法を真剣に読んだという。私は、そのころあまり読んだことがなく、後から読むと「こんな大切なものだったのか」目が覚めたような思いだった。沖縄にずっといた人たちと、私のように本土で育ち、憲法の恩恵を知らずにどっぷり漬かっていた者とは、かなり認識やのん気さが違ったと思うよ。
沖縄の歴史を知り、辺野古をたたかうなか、いっそう憲法の大切さがわかるようになってきた。そうすると「沖縄には憲法が適用されているのか」という疑問、「憲法を超える問題が沖縄にはいっぱいあるじゃないか」と気がつく。沖縄の基地のことは、日米合同委員会の防衛相・外相による「2+2」で決められる場合が多い。憲法よりもそっちが上じゃないか。新聞を読んでも、「2+2が力を持っているんだなー」と、ますます感じる。
今回の参院選では、沖縄は憲法研究者の高良鉄美さんを国会に送った。名護市議会は早速高良さんを講師に学習し、「憲法95条違反」(注)として政府に意見書を送ることになった(12月に送付)。
憲法を、可視化したい
辺野古、高江に来て「国家権力や、民主主義が見えた」という人たちがいる。権力や民主主義が見える、わかるのは、なにも高江や辺野古の場だけではない。たたかう現場に身をおくと、やっぱり憲法にせよ人権にせよ物事が見え、問題を感じられるよ。
高江のとき、全国から機動隊を送り込んできた。「県の公安委員会が各県の公安委員会に要請したのか」と聞くと、政府は「派遣は各都府県公安委員会の判断の下、適切におこなわれた」と答えた。うそである。警察庁から各県警本部あてに「沖縄県警察への特別派遣について(通知)」という文書が出されていた。政府のうそが堂々とまかり通り、県の公安委員会はお飾りにすぎないようになっている。権力分立の原理などおこなわれていないとわかってきた。沖縄は琉銀の会長が委員長だったから、抗議のために預金引き出し運動もやった。任命したのは知事だけど、県の公安委員会は形式だけだよ。そういうことが見えてくる。
(注)憲法95条 一つの地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会はこれを制定することができない。
――「最低でも県外」とは、何だったでしょうか
鳩山・元首相が「最低でも県外」と言い、それがまた振り出しに戻った。彼は沖縄県庁にきて謝罪したが、そのときの県民の怒りは大きかった。なぜ、そうなったか。彼は「いかにアメリカと結んだ官僚や政治家がうそを言っていたか」を語り、そういう報道があった。辺野古の現場にも何回も謝りに来ている。はじめはみんな怒ったけど、3回目くらいだったか現場は(謝罪を)受け入れた。
それは現場に根差した発想、判断ですよ。現場の攻防には苦しさもある。現場だけでは止められない。だから政治の場面で動いてもらいたい思いがある。本気でたたかっている側は寛容性を持つ、ということでしょう。たたかい方に優劣はなく、できる範囲でたたかう人も仲間に入れてもらえる、そういう寛容性だね。
沖縄のことは沖縄が決める
沖縄というか、琉球王国ではなく琉球国だが、併合された後の流れを認める視点と、いや認められないという視点がある。どちらにしても翁長さんの「沖縄のことは沖縄が決める」「自己決定権」という表現が、共通の認識がある。その「自己決定権」の延長線の選択の一つに、私はユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン、それぞれの日本の地域が自立性を持つという方向性を考える。経済、政治、文化においても自立性を持つ。しかし、ユナイテッド。自主県、自治州、そうなっていきたいね。「独立」という権利はあるが、辺野古のたたかいからは本土との連帯を強く感じている。「行使」は、まだまだ早い。
――沖縄の民意と、安倍政権の「民主主義」は…
(沖縄の)民意、民主主義を考えるとき、翁長さんは「品位ある民主主義を」と訴えた。多数決ということがあるんだけど、少数意見を大事にするということだと思う。その当たり前のことがおこなわれていない。沖縄の人口は全国比1%ほど。だから、知事はそう訴えた。多数決で「沖縄だけの特別の事情」と思われては、永久に通らない。「欠陥のある民主主義」という言葉も聞く。かつて「民主主義の欠陥」を力で埋めようというゲバルトも用いられたが、その展望を得ることはできなかったと思う。
沖縄県読谷村にある不戦宣言の碑 |
回り道かもしれないが
権力が見えてくるのは、いまなら香港を見ればわかるような気がする。力では国の力が圧倒的に強い。しかも、国の権力側は挑発する。力と力の関係に持ち込めば、しめたと思っている。だから私たちは、「法」も使ってたたかう。辺野古埋め立ての土砂は、安和の琉球セメント桟橋からダンプで運び込まれてくる。ここで阻止行動をするのだけど、いまは「1回の青信号に1台しか入れない」という、「合法的」阻止活動で搬入を遅らせている。遅らせている間に、状況の変化を待つ。
辺野古ゲート前も、抵抗はするが機動隊員1人ひとりと憎しみをぶっつけ合っても仕方がない。荒っぽく排除されれば、怒鳴り合いもするが、スタンスはそういうところ。ゲート前の敵は防衛局だ。そこから、大勢に伝わることを意識して抗議をしている。かつてのさまざまな闘争、学生運動からも学んだ。
内容と力ある大衆運動を目指しているけど、埋め立てられて行く光景、状況を見ていると気持ちは穏やかではない。そこを堪え、「変化を待ち、求める」。それをくみとってほしい。
――辺野古のいま、これからをどう考えられますか
辺野古の現場のたたかいは、大勢のときも少ないときもあるが、毎日続いている。これが大事。それがあるから、全国から来てもらうことができる。来られなくても「沖縄だけでなく、本土の問題だ」と、それぞれの地域で声を上げ「地域、国、国会」と働きかけてほしい。辺野古は、これからだ。軟弱地盤、活断層、サンゴの群生などを含め、勝負どころはいっぱい。
たたかいには高齢者が多いと言われるけど、それはむしろ心強い。利害や損得を超えて立ち上がっているからね。戦争体験者もおり、多くはその戦争体験を聞いて育ってきた世代だ。政治のごまかしやメディアのキャンペーンに、うそを見抜く力も持っている。簡単に屈しない。
秋田の人たちがイージスアショアを拒否し、参院選で野党候補を当選させた。自分のところに問題が起これば、みんな立ち上がるよ。マスコミがしっかりしてほしいけど、ミニコミもあるしSNSもある。捨てたもんじゃない。それらを駆使し、状況を見れば辺野古を理解できる。そういう人々、地域がきっと多くなっていく。
屈しない、揺るがない
自己中心にならずに、さまざま工夫し手をとり合えば、翁長さんが言った「誇りある豊かさ」はできないことじゃない。「いまだけ、金だけ、自分だけ」という人たちもいるが、人間はむしろ分かち合ったり、助け合ったりして生きてきた歴史がある。辺野古に座り込む人たちは、そんな気持ちの人たち。金銭で来ている人は1人もいないね。屈しない、負けないという気持ちは揺るがない。
辺野古は人間の歴史、生き方、権力とはどういうものか、いろんな問題をもう一度われわれに教えてくれる学びの場でもあるよ。ぜひ、来てほしいですね。(おわり)
5面
〈連載〉まっちゃん、これでええかな(3)
脳性マヒ者へのいじめ
脳性まひ者の生活と健康を考える会
元関西青い芝の会連合会会長 古井正代さん
藤田君の自殺
そのまっちゃん(松本孝信さん)が次に腹を立てたのが、さっき上映した「二つの地平線」の映画に出て来た和歌山の藤田君という脳性マヒ者が自殺したという話。それは何で腹立てたかというと、施設の中でね、脳性マヒの連中は結構いじめられるのよ。要するにちょっとでも健全者に近い方が、ランクが上に上がる。手のかからない方が施設ではありがたい。
脳性マヒは言語障害もあり、顔もゆがみいの、どこをとっても健全者に近いとこが無いわけ。脳性マヒいうのは、脳の組織が死んでんねん。脳性マヒになった時点で、脳に酸素がいかなかったとか。外国は知らんけど、日本の厚生省が決めた枠組みでは、2歳までに脳が死ぬと脳性マヒの枠組みに入るらしい。「青い芝」も、もともと出来たのは戦時中にね、東京に光明養護学校が出来て、その養護学校の中で脳性マヒ者だけが就職もでけへんねん、特に戦時中やからお国のためにならん役立たずのレッテルを貼られて、そこで脳性マヒ者が自分たちの会をつくった。それが青い芝の元やった。
施設の中では障害者はいじめられる。自殺した藤田君は、言葉はほとんど分かりにくくて、文字盤を使って、歩くのも杖使ってやっと進めるような状態やから、授産施設では特にいじめられるわね。どことっても職業訓練にならへんもん。健全者主体の考え方の中ではね。
それでいじめられて、挙句の果てに施設の中で文字盤隠されたり、松葉杖を隠されたり、無視されたり、隔離された中での障害者どうしの差別は想像以上に酷いんよ、私なんか養護学校時代にあだ名が付けられとって、手を上げてくにゃくにゃしていたので、私の行くとこ行くとこみんなで手をたたいて「タコ踊りタコ踊り」と囃し立てられていてん。他の障害者は、役立たずの脳性マヒを差別するんや。「お前ら私らの足を引っ張るな」そんな状態で彼は絶望して自殺した。それでまっちゃん腹立ったんや。
機動隊による排除 |
機動隊が出動
今皆で歌った「およげたいやきくん」。あれがまっちゃんが唯一歌える歌や。それを歌いながら、福島から応援で駆け付けてくれた白石さんや橋本さんと一緒に、「施設のあり方を問うぞ! 施設なんかぶっつぶせ!」、なんか言うて座り込みに行って。その時に何と日本で初めて障害者排除に警察が出てきた。それも機動隊や。ジュラルミンの盾持ってズラ〜っと並びよってん。何でかいうと、機動隊は中にいるのが、寝たきり脳性マヒ者がほとんどと思ってなかった。知らなかった。要請かかったから、その当時学生運動も下火やったけどまだしてたでしょ。ジュラルミンの盾をズラ〜っと並べて、どんどんどんどん前へ進んできて。おもろかったで〜その光景は!
その光景を見てまっちゃん、もう生き生きして、立てこもっとった施設の一室の入口に、そのあたりにあった机とかイスとか積み重ねて、抵抗やっとって。ものすごいおもろかったな、あれは。
いじめとかそういう優生思想に関しては、まっちゃん生き生きとして、飛びかかっていく人やったんや。(つづく)
連載 命をみつめて見えてきたもの E
ガンの自然退縮
有野 まるこ
ガンの自然退縮とは、組織学的に診断の確定したガンが現代西洋医学で有効とされる治療がないにもかかわらず縮小したり消失したりする現象。安保理論はこれを説明するひとつの学説だが、実際にも体験者はいる。当事者の体験談、医師が著した臨床例、そうした事実から有用な方法や知見を導きだそうとするものなど、多くの本や記事が書かれている。こうしたものを読み、当事者や医師から直接話を聞いて感じたのは、《ガンの自然退縮》はとても魅力的で示唆に富む現象だということ。でも実践的には容易ではなく、副作用もなく万人に有効な治療方法はいまだない。
ガンの自然退縮に触れるのは「三大療法は絶対ダメ」とか「こうすればガンは治る」ということを主張するためではない。ガンの自然退縮という希望に満ちた事実との向き合い方の中に、病・命・現代社会・自然・地球・宇宙をどうとらえ関わっていくべきなのかという人類史的テーマと触れあう部分があると感じるからだ。
新自由主義的発展の末にあらわとなった気候変動、生態系の破壊、富の偏在と貧困、核戦争、日本も含む超大国の宇宙戦争戦略など、待ったなしの危機が深まっている。「共産主義革命」をめざした私たちの思想と実践が根底から問われていると痛感する中で気づきを与えてくれた本の中から、『がんが自然に治る生き方』(2014年・日本語訳はプレジデント社)を紹介する。
著者はアメリカの腫瘍内科学領域の研究者であるケリー・ターナー博士。ハーバード大学時代に代替医療(中国医学・インド医学など近代西洋医学に替わるさまざまな医療・療法)に関心をもって学ぶ。ガンの小児病棟でのボランティアを通して、ガン患者のカウンセリングを学ぼうとカリフォルニア大学大学院にすすむ。そこでアンドルー・ワイル博士(西洋医学と代替医療を統合して治療にあたる医療=統合医療の第一人者)の解く「自発的治癒」という現象に興味をもち、「医学的には不可能だとみられた状態からガンを克服した人々はいったい何をしていたのか。その探求に生涯をささげる決意」をしていく。(つづく)
第11期沖縄意見広告運動始まる
完成のメドない辺野古新基地
1月17日、第11期沖縄意見広告運動スタート集会が大阪市内で開催され、150人が参加した(写真)。全国代表世話人のひとりの武建一さん(連帯労組関生支部委員長)が不当逮捕され2度目の冬を迎えた。弾圧をのり越え沖縄との思いを一つにする意見広告運動が今年も始まった。
集会は全国世話人で辺野古へカヌーを贈る会代表の山口千春さんが、30隻近くのカヌーを贈り海上行動を支えてきたと力強いあいさつ。ヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さんは、「座り込みは2000日をこえ、最近ではゲート前と本部の2カ所で連日行動している。きびしい局面ではあるが工事を遅らせてきた。あと9年はかかる。工事費用も当初の3500億円から9300億円にふくれ上がった。完成の見込みは立っていない。何としても建設を阻止する」と決意をのべた。
今年も、「意見広告全国キャラバン」をおこなう小林勝彦さん(全港湾大阪支部書記長)が「全国各地の運動とつながりを強めていきたい」とアピール。会場カンパが6万円以上集まった。
6月までに昨年を上回る2万件以上の賛同を集めることを参加者全員で確認して、この日のスタート集会を終えた。
(次号で安次富さんと伊波さんの発言要旨を掲載します)
(冬期カンパのお願い)
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6面
三・一独立運動100周年が日本人に問いかけるもの(上)
米村泰輔
▼ 旧「満洲」=間島等を訪問して
2019年10月15日から23日まで「金学鉄を辿る旅−朝鮮独立運動100周年記念・尹東柱・金史良をめぐって」という企画で旧「満洲」南部の中国吉林省延辺(エンペン)の朝鮮族自治区と北京・盧溝橋、天安門、河北省石家荘市を訪ねてきた。今回の企画のメインの一つである金学鉄(キム・ハクチョル1916年〜2001年)は10代で義烈団(ウィヨルッタン)という赤色テロルを含む武装闘争で朝鮮の独立を目指した組織に加入し、その後中国共産党に入党するが毛沢東全盛のときに真っ向から毛沢東を批判して10年も投獄された気骨の人である。また毛沢東を批判した『20世紀の神話』も上梓している。詳細は『抗路』第9号(抗路舎2019年9月)に掲載されているので参照されたい。金学鉄については別途機会があれば報告することにして、今回は三・一独立運動を中心にして報告したい。
▼ 三・一独立運動について
▽新たな発見
2019年は三・一独立運動から100年になる。三・一独立運動に関するこれまでのわれわれの認識は1919年2月8日、東京で朝鮮人留学生が集まって独立宣言を発表し、同年3月1日、ソウルで独立宣言が行われ、数千人が独立万歳を叫び、それをきっかけに燎原(りょうげん)の火のように朝鮮全土に広がったというものではないだろうか。 しかし、最近の研究によれば東京での独立宣言に先だって旧「満洲」南部の吉林省で同年2月1日、独立運動家39人が連署した大韓独立宣言書が発表され、これがその後の運動の原点になったことがわかってきた。韓国・中央日報(19年2月1日付))によれば同宣言書を作成したのは著名な趙素昴(チョ・ソアン)で、「満洲と中国本土、ロシア、沿海州(筆者注:ウラジオストック周辺)、米国の独立運動家39人の名義」で発表された。この宣言書は今、ソウルの独立記念館に保存されている。同宣言書は大韓民国臨時政府建国綱領や光復軍布告文などの基礎にもなっている。また趙素昴は東京に行き留学生の2・8独立宣言の支援も行った。つまり吉林省で発表された独立宣言書は三・一独立運動全体の「導火線」の役割を果たしたのである。 さらに注目すべきは署名した39人の独立運動家たちである。その中にはアメリカに亡命していた李承晩(リ・スンマン)(大韓民国初代大統領)、後に高麗共産党を創設する李東輝(リ・ドンフィ)、青山里(チョサンリ)戦闘を指揮して日本軍に勝利した金佐鎮(キム・ジャジン)、『朝鮮独立運動の血史』を書いた朴殷植(パク・ウンシク)、日本で獄死させられた詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)の伯父で吉林省の明東(ミョンドン)学校の創設者の一人である金躍淵(キム・ヤギョン)の名前もある。後述するが明東村および明東学校は間島(カンド)の抗日運動の拠点の一つでもあった。
▽吉林省で発表された宣言書の内容
同宣言書は「日帝による合併が無効であることを堂々と宣言」(中央日報)し、「肉弾血戦で独立を完遂することを決意した」という。さらに「立ち上がれ、独立軍!力を合わせろ、独立軍!」という言葉もみえる。これは「武装独立運動を本格化するという宣言」であり、朝鮮民衆に今こそ「立ちあがろうという決起文」なのである。
▽三・一独立運動を準備したもの
1910年、「韓国併合」により朝鮮は日本によって独立を奪われた。その翌々年の1912年から土地調査事業が開始され1918(大正7)年に完了した。同事業によって朝鮮の国土の多くが日本に奪われた。土地を失ったぼう大な朝鮮人は流浪の民となるほかなかった。そのため「間島移住者は大正7年度は前年度に比し七倍強に達した」(『現代史資料(25)三・一運動(一)』みすず書房)という。
こういうなか、独立運動をどうやっておこなうのかが独立運動家の間でさまざまに議論された。その中心に位置したのは上海である。アメリカからは李承晩、ロシアからはソ連の影響を受けた李東輝、北京で活動していた申采浩(シン・チェホ)等々が立場の違いを超えて集まり、上記の独立宣言書を発表するに至るのである。最近の研究では上海の独立運動の中心にいたのは呂運亨(ヨ・ウニョン)だったといわれている。しかし残念ながら呂運亨は1947年、白色テロルに斃れた。
▽個々分散した運動ではなかった三・一独立運動
三・一独立運動はその後、次第に行動を強め激化していく。独立運動の「導火線」となった宣言書に署名した独立運動家たちは1919年4月、上海に大韓民国臨時政府を設立し李承晩が首班となり、内務総長になった安昌浩(アン・チャンホ)が連通制(朝鮮内地との秘密連絡網)の組織化や機関紙『独立新聞』の発行を行ったといわれる。また甲午農民戦争(1894年)の中心を担った東学党の後身である天道教徒たちも合流してきた。
官憲側の資料という制約はあるが前掲『現代史資料(25)』をみると民衆の側の行動として、4000名の群衆が日本憲兵を打ち破ったり(同379〜380頁)、線路に石を置いたり(同238頁、384頁)、橋への放火(同381頁)、日本の手先となった朝鮮人面長宅の放火(同362頁、370頁)、日本人宅への放火(同383頁)、日本領事館への放火(同222頁)、斎藤実総督への爆弾の投擲(同278頁)なども行われた。また激化する独立運動によって日本警察の駐在所がいくつも撤収(377頁)に追い込まれたことも記録されている。もちろん、これ以外にぼう大な民衆の行動が同書には記録されている。
前述した明東学校については前掲書に以下のような記述がある。「明東学校ニテ鮮人(ママ)教師主謀トナリ決死隊員募集銃器蒐集中ニシテ十日頃迄ニハ一〇〇名ニ達シ銃器一二〇挺ヲ隠匿シアリト、然シテ支那(ママ)官憲ハ此ノ内情ヲ黙許シアルヤの説アリ」(同174頁)という状況も生まれるに至っている。また安重根たちが射撃練習をしたのが明東村付近だといわれており、李東輝が朝鮮国内から脱出しておちついた先が明東村だった(姜徳相『朝鮮独立運動の群像』36頁)という。さらに間島という地名も前掲書に頻出している。
▼ 間島について
ここで間島について説明しておきたい。間島とは文字通り「間の島=中州」のことである。しかし、実際の中州を指すのではない。間島とは狭い意味で現在の中国吉林省の南部で朝鮮民主主義人民共和国との国境地帯を指す。清朝を興した満洲族は間島を「清の太祖発祥の地」として満洲族以外の他民族が鴨緑江(アムノクカン)や豆満江(トマンガン)を越えて入ることを「越江罪」として死刑をもって禁じた地域である。
しかし、間島は肥沃な土地であるため古くから朝鮮人は禁を犯して清の領地(中国領)に行き密かに農業を営んでいた。中国との国境を形成する鴨緑江や豆満江を越えることは死を意味するため「中州=間島に行く」と称して清の領地(中国領)に入っていたのである。
その後「越江罪」は廃止されたが、日本帝国主義に土地を奪われたぼう大な朝鮮人が中国領である間島に移住してきた。当然、間島に移住した朝鮮人のなかからさまざまな抗日運動が起こってきた。しかし、間島は中国領であるため日帝はここには手を出すことができなかった。そのため間島は次第に抗日運動の拠点となっていったのである。
▼ 発展していった三・一独立運動
日帝に追われた朝鮮人たちは遠くシベリアやウラジオストック等にもぼう大に移住していった。朝鮮国内を日帝が「制圧」しても三・一独立運動で火がついた民族解放運動は間島、さらにはシベリア、ウラジオストック等での抗日武装闘争、共産主義と結びついた抗日パルチザン闘争として激しく燃え広がっていくのである。
それだけでない。たとえば金学鉄は朝鮮義勇軍として中国の八路軍と一体となって河北省の石家荘で日帝の朝鮮・中国侵略と闘っていくのである。
▼ 植民地支配の軍事基地としての日本領事館
日帝は間島を支配するため1907年、吉林省の龍井(ヨンジョン)市に「統監府間島臨時派出所」を設置し警察網やスパイ網を構築していった。さらに1909年、同派出所を日本領事館に格上げした。日本領事館跡は今、抗日記念館になっている。同領事館の地下には監獄や拷問をおこなう取り調べ室がある。さらに警察本部や憲兵隊本部、法廷まで同じ敷地内にあり高い塀で囲われている。一種の軍事基地である。警察や憲兵隊は次々と朝鮮民衆を捕らえここで拷問していたため、日本領事館は朝鮮人の憎悪の的となっていった。
▼ 最大の激突
ソウル・パゴダ公園での三・一独立宣言から12日後の3月13日、中華民国政府の許可の下、龍井市の日本領事館にむけて3万人のデモが行われた。龍井市の人口が数千人にすぎないことを考えるといかにぼう大な人数かがわかる。前掲『現代史資料(25)』をみてもそれ以前のデモの規模は最大でも1万人である。実にその3倍の規模のデモがおこなわれたのである。
3万人が押し寄せたらどうなるのか、恐怖した日本領事館は中華民国政府に激しい圧力をかけ、中華民国の警官がデモ隊に発砲し14人が死亡した。
(つづく)