米軍による司令官殺害
民衆の怒り、中東を揺がす
海自派兵を中止せよ
米軍による親イラン組織への空爆(12月27日、29日)に続き、1月3日、米軍が、イラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を無人機で殺害した。これは国家テロである。トランプは、「イランによる米大使館への攻撃計画があった」からとして殺害を正当化しようとしたが、「脅威が差し迫っていたのか?」という問いに答えられず、「それはどうでもいいことだ」とはぐらかした。攻撃の根拠がフェイクであることは明らかだ。
ソレイマニ司令官は、イランの防衛相にも相当し、イランの対外政策・中東戦略における中心人物だ。この日は外交のためにレバノンからイラクに入国したところだった。ブッシュ(子)政権も、オバマ政権も、ソレイマニ司令官の殺害を検討していたという。米国にとって邪魔な者は手段を選ばず暗殺する。これが「自由と正義」を振りかざす米国の正体だ。
今回のトランプの作戦発令は、何の大義も戦略もない場当たり的なものだ。米軍幹部は、複数の選択肢を並べ、最も非現実的な選択肢も含めて示すことで、最終的に現実的な選択肢に誘導するつもりだったが、トランプがまさかの選択をしてしまったという。政権の中枢も、トランプの予測不能な判断に振り回されている。
殺害命令の直接の契機は、米軍の空爆に抗議する民衆が、バグダッドの米大使館に押しかけたことだ。トランプの関心が中東にあるわけではない。劣勢の大統領選の挽回とウクライナ疑惑での弾劾逃れの材料が欲しいというだけだ。こんな事情のために国家テロを発動し戦争を弄ぶ男が米国の大統領なのだ。
これに対して、イランは自制的に対応しているが、民間旅客機の誤射という深刻な誤りも犯している。
米中東支配の終焉
イラク議会は1月5日、駐留米軍に撤退を求める決議をおこなった(議員の大半がシーア派。クルド人とスンニ派は欠席)。この決議に政府を拘束する力はないが、これまで公式には米軍駐留に反対してこなかったイラク議会が、初めて米軍撤退を求めたことの意味は大きい。
米国は、91年湾岸戦争、03年イラク戦争、イラク占領から駐留(11年撤退、14年再駐留)と、イラク・中東における大規模な侵略と戦争(=「終わりなき戦争」)を継続している。諸悪の元凶はここにある。その米国の中東支配が後退と終焉の趨勢にあるのだ。
それに応じてイランを中心とするイスラム・シーア派勢力が、レバノン、シリア、イラク、イエメンなどで影響力を拡大してきた。今や約5千のイラク駐留米軍が―3千5百人の増派が発表されたが―、反米の声に包囲されている。ソレイマニ司令官殺害は火に油を注いだ。早晩、より強力な米軍撤退要求が突き付けられるだろう。
では、イランを中心とするシーア派勢力に大義はあるのか。イラクでは戦争による破壊と混乱の中、激しい宗派対立、汚職・腐敗と縁故主義、36%もの若年層の失業率、電気や水道などの公共サービスの不全などで、民衆は苦しめられている。またイラクとシリアを挟んで近接するレバノンでも、政府の腐敗と経済危機が深刻化している。また、イランでは、米国の経済制裁によって経済が疲弊、民衆が生活苦に陥っている。民衆の怒りと不満が、各地で反政府運動として噴き出し、それを政府や民兵組織が激しく弾圧している。
その原因は米国がもたらした破壊と混乱に他ならない。しかし、イランを中心とするシーア派勢力の運動も、民衆の要求に根差したものとは言いがたい。それは宗教指導者や政党による政治的軍事的な支配圏の拡大を目的としたものであり、民衆の自主的な運動に対しては抑圧的なものであった。このようなシーア派勢力の支配もまた限界にきている。
アラブの春の再来
イラク、レバノン、イランの民衆による反政府運動は、〈アラブの春〉の再来を予感させる。イラクでは、昨年10月来、反政府デモが数百万人規模に膨れ上がっている。しかも、それは「宗派など出自の違いを超えた、初めての、本格的な国民的運動の広がり」と評されており、従来とは異なる様相を見せている。デモの掲げる要求は、高い失業率の改善と汚職の撲滅。そして、デモの特徴は、@宗派を超えた運動、A反イラン、B政党(与野党問わず)の介入の拒否、C自由と解放の中の秩序などだ。
いま中東で生起している事態は、「米国とイランの報復の連鎖」「世界戦争の危機」といった表層的な言葉でくくれるものではない。米国の中東支配が破綻する中で、その「権力の空白」を埋めようと、さまざまな宗派勢力や政治勢力が介入し支配を試みてきたが、その限界も明らかになった。そういう中から、民衆の自主的な運動がアラブ・中東の解放に向かって発展しようとしているのである。これが事態の本質である。
そういう中で、安倍政権は、防衛省設置法の「調査・研究」を名目に、国会審議を経ずに、中東への派兵を閣議決定した。護衛艦「たかなみ」とソマリア沖で活動中のP3C哨戒機2機、隊員計260人を派兵する。一体何のために。「日本の石油需要の9割が中東に依存している」からか。しかし護衛艦1隻と哨戒機2機で何をどう守るというのか。大義も戦略もないトランプに追随するだけの日本による派兵は、事態を悪化させるだけだ。
ニューヨーク、ワシントンD.C.、イギリス・ロンドン、カナダ・トロントなどで、反戦の行動が広がっている。「大統領の終わりなき戦争に怒っている」「イランと戦争をするな」「米軍は中東から撤退しろ」と。
カジノあかん! 新春街宣
市民と野党が共同で
大阪 なんば
大阪の街に新春を告げる「えべっさん」の1月11日、繁華街ナンバで維新政治とたたかうカジノ反対市民8団体と立憲野党で「カジノあかん! 夢洲あぶない!」野党共同街宣がおこなわれ、市民など80人が参加した。
12時半から署名とリーフレット配布を始め、13日時からは宣伝カーを使って街頭演説。メッセージボードでの訴え。街頭からは次々と「バクチはあかん」と言う声と100筆を超える署名が寄せられ、シール投票でも反対の声が圧倒的に集まった(写真)。
「都構想」に反撃
街頭演説会では、あかん! カジノ女性アピールの川本幹子さん、大阪カジノに反対する市民の会代表西澤信善さん、各党から国会議員などがIR疑獄を取り上げ、「カジノ法成立過程が疑惑」「維新の下地議員も関わっている、直ちにやめろ」「カジノ絶対あかん」と訴えた。行動の最後に、「アカン アカン カジノはあかん」「カジノで大阪こわさんといて」など、参加者全員でコールをおこなった。こうした市民の共同と野党の共闘行動がつくられたことは2月のカジノ事業者選定への大きな反撃であり、11月に予定される大阪市廃止構想(都構想)住民投票へのたたかいのステップとなった。 1
2面
関生弾圧
労働組合つぶしの大弾圧をやめろ
元旦に大阪府警を包囲
大阪府警本部を一周する抗議デモに400人が参加(1月1日) |
元旦、大阪城公園教育塔前広場で関西生コンへの弾圧許さない集会と大阪府警へのグルグルデモが400人近い労働者、市民が集まって開かれた。
集会の司会は連帯ユニオンの労働者。開会あいさつで、労働組合つぶしの大弾圧を許さない大阪実行委員会の樋口万浩委員長(全港湾大阪支部委員長)が「昨年より参加者が増えている。メディア、インターネットなどを使って発信し、われわれの力を2倍、3倍にしていこう。実行委員会としてこの1年でたたかいを大きくしていきたい」とあいさつ。
残る2人の奪還を
関生支部副委員長の坂田冬樹さんは「理不尽な弾圧が続いているが絶対に許されない。今年は何としても反撃の一年にしていこう。獄中に残る2人を一日も早く奪還し、しっかりと地に足の着いた運動をおこなっていきたい。私たちのことだけではなく、辺野古や原発、憲法改悪の問題などに対して微力ではあるが私たちは皆さんと共にたたかっていきたい。私たちの運動は、労働者の権利を守り、工事現場で安全・安心をつくりだし企業の社会的責任を求めてたたかっていくことである。このかん公判過程で、この運動が大企業にとって都合の悪いものであったことが明らかになっている。私たちがやってきたストライキでたたかうあたり前の労働運動は間違っていない。組合員、家族がしっかりと団結してたたかっていきたい」と発言。
京都・滋賀実行委員会の稲村守さんは「滋賀、京都の警察署への抗議行動を取り組んできた。京都地裁における公判闘争にむけて1月21日に渋谷有可弁護士を招いた学習会、2月18日にドキュメンタリー映画『棘』の上映と立命館大学・労働法学者吉田美喜夫先生の講演会を予定している。ぜひ参加してほしい」とアピール。
各地で取り組み
東海の会は「たたかいを広げるために今春、安田浩一さんを呼んだ学習会を予定している。共に頑張っていこう」と発言。若狭の原発を考える会・木原壯林さんは「関西生コンへの弾圧を許さないたたかいと老朽原発の再稼働を阻止して、人が人間らしく生きていけるためにたたかおう」と呼びかけた。大阪府豊中市議・木村真さんは「去年の11月自治体議員124人で声明を出しマスコミでも大きく報道され、その後、労働法学者の声明も出された。関西生コンに学んでまともな労働組合をつくっていこう」と訴えた。前門真市議・戸田ひさよしさん、兵庫県伊丹市議・大津留求さん、カンパ要請、戦争あかん!ロックアクション、全労協が発言。また年配者による歌唱指導と合唱もおこなわれた。
安倍打倒と一体で
港合同中村吉政委員長は「敵に屈することなくたたかってきた関西生コン支部の仲間に敬意を表したい。何としても負けるわけにはいかない。大阪では住民投票が秋にも予定されている。多くの疑惑があるカジノを作ろうとしている。これらを安倍政権にたいするたたかいとして取り組んでいこう」と力強く発言。最後に反弾圧実行委員会事務局の小林勝彦さんが「今日300人の仲間、市民が集まった。昨年を倍する結集だ。年配者の合唱、歌声によってパワーをもらった。たたかいはみんなが楽しく、継続できるように取り組んでいく必要がある。まだ、1年半勾留されている仲間もいる。みんなで勝利を喜びあえるような報告集会を開きたい。そのためにも各地方で実行委員会をつくりたい。この1年、共に勝ち抜いていこう」とまとめた。
このあと、「関西生コンへの弾圧をやめろ」「仲間をかえせ」のコールにあわせて、ボードを掲げて抗議行動。「大阪府警グルグルデモ」に出発した。
デモ終了後、実行委員会がこの日の集会とデモに400人近くが参加し、当初予定の倍以上の仲間が集まったことを報告。「全国で反弾圧のたたかいが広がっている。残る2人を早期奪還し、反転攻勢に入ろう。関西生コン支部の組合員、家族と連帯してがんばろう」と訴えた。
困難のりこえ決意固く
広がる支援、若い世代も
関生支部旗開き
1月11日、「弾圧をはね返し、反転攻勢へ2020新春旗開き」(全日建連帯労組近畿地本・4支部共催)が関西生コン支部事務所と隣接する学働館・関生のホールでひらかれた(写真)。
1年以上にわたってのべで約90人が逮捕されるという戦後最大規模の労働組合弾圧で、委員長と副委員長が獄中に奪われたまま。条件付きで保釈された執行委員は、組合の会合に出席ができないという困難をのりこえての旗開きとなった。近畿全域から組合員、共闘、市民団体、各政党、議員、業界団体など約180人が参加。
司会は関生支部・坂田冬樹副委員長。主催者あいさつを近畿地本・垣沼陽輔委員長、関生支部・武洋一書記長が支援へのお礼と現状報告と今年の決意。労組を代表して全港湾関西地本・大野委員長、大阪平和人権センター・米田理事長、大阪労働者弁護団(関生弾圧弁護団の中心)、韓統連大阪代表などのあいさつがあった。鏡割り、朝鮮総連の仲間が乾杯の音頭。その後、歌あり抽選会ありとにぎやかな交歓会となった。最後に近畿地区トラック支部の広瀬委員長が、弾圧粉砕への熱烈な決意を述べた。
この2年越し弾圧の攻防はきびしいが、新しい仲間、若い世代が結集し、また支援の共闘が広がってきた。反転攻勢の2020年にしよう。500日に及ぶ不当勾留の2人を取り戻し、生コン労働者雇用保障を取り返す。そして裁判・労働委員会闘争に勝利しようという発言が相次いだ。元旦大阪府警包囲闘争に続く力強いたたかいを記した。
(短信)
●核のゴミ拒否条例制定全会一致で 白浜町
和歌山県白浜町は、12月18日の町議会で、原発などの「核燃料や使用済み核燃料」の同町への「持ち込み、貯蔵、処分施設を町内に建設すること」を拒否する条例を全会一致で可決した。
1976年に、日置川町(2006年、白浜町と合併)内に原発建設を前提として、関電が土地を購入した。町民の猛反対にあい、原発建設は頓挫。しかし関電が土地を保有し続けている。
関電の使用済み核燃料をめぐって、福井県が県外搬出を要求し、関電が2018年中に新たな中間貯蔵施設の候補地を決定すると約束。その過程で白浜町が話題になり、反対の声が上がっていた。
●使用済みMOX燃料取り出し 愛媛・伊方3号機 国内初
1月13日、伊方原発3号機で使用済みになったMOX(プルトニウム・ウラン混合酸化物)を含む核燃料の取り出し作業が始まった。MOXはウラン燃料に比べ発熱量も高く、冷却にも膨大な年月がかかり管理上の困難さがある。取り出した後の行き先も、処分方法も決まっておらず、そのまま敷地内に置かれることになる。
3面
(直撃インタビュー)
第40弾
琉球併合、沖縄、戦後をたどる
沖縄・本土を見つめる 富樫守さんに聞く(上)
とがし・まもる |
戦前に両親が沖縄から「本土」に移住。富樫守さんは、1942年神戸に生まれ、育った。学生のころ「本土復帰」運動が始まった。その過程を本土で過ごし、後に単身沖縄に戻る。「本土、沖縄」に横たわる波浪や壁に身をおいてきた。琉球・沖縄の歴史、文化、民俗にくわしい。今回、インタビューをお願いし、辺野古、安和の座り込みに忙しい時間を割いてもらった。(昨年11月、読谷村。聞き手・文責/本紙編集委員会)
――ご両親が沖縄から本土へ、戦前ですね
私の両親は戦前いったん台湾に働きに行き、それからすぐに本土に渡った。当時は、奨励もあり沖縄から台湾に行く人が多かった。親戚には、居住していた所からいまも台中、台北という屋号がある。父親の長兄は朝鮮に行ったため、屋号は朝鮮となっている。
父親は台湾の人に、どういう意味だったのか「本土に行った方がいいよ」と言われた。当時、台湾では一等国民は日本本土の人、続いて沖縄人(琉球人)、台湾人という序列扱いがあった。父は台湾人と親しくしていたため、そうアドバイスを受けたらしい。旧制中学校卒だったから、もっと勉強したいという思いもあったようだ。それで職を捜しに本土に渡り、転々としたあげく神戸の製粉会社に就職できた。私は、その神戸市で生まれた。その後、一家は空襲で焼け出され、父親が川崎航空機に徴用されていたため、社宅があった藤江(明石市)で育った。
小学校に入ったころ、名前を渡嘉敷から富樫に変えたと父親から告げられた。本当の理由は後からわかるのだが、とかく県人会には距離をおいていたことからも父親の位相がわかる。後になってからだけど、私は改姓した名前に隠れいじめから逃れていたと、そう思う。
復帰運動の沖縄へ
1960年代半ば、大学4年になったころから沖縄の「本土」復帰が耳に入るようになり、親戚訪問をかねて2度ほど沖縄を訪れた。もちろんパスポートが要ったが、その時はムッとしたくらい。60年代後半はベトナム戦争が激化、ベ平連にも参加しており政治には関心があったけど、まだ沖縄のことは他人事。日本に復帰したいという気持ちがわからなかった。こんな日本に?という気持ちがあった。
卒業後、神戸で私学高校の教員になったが、復帰が迫り復帰運動について友人たちからもいろいろ聞かれた。独立が良いのか、復帰が良いのかという質問に応えきれなく、あいまいな返事をした記憶が残っている。復帰運動をやるなら、沖縄という場で同じ時代の空気を吸いたい。それで沖縄に戻ることにした。71年2月ころだった。
親戚の家に寝泊まりし、活動の場を琉球大においた。方言学、民俗学を教室や部室で学び、八重山民謡の学生とも親しく付き合った。柳田国男の影響もあり、差別の根源の一つは文化の違いに無理解から来ると思っていた。当時、雑誌などに「民衆の論理」という言葉がよく載っており、それらも意識したかもしれない。
――「南の方、アネッタイ」、山之口獏の詩から…
「会話」という戦前の詩だけど、「お国は?」と女が問いかけ、男は「ずっとむかふ。南の方、亜熱帯」と答える。「アネッタイ!」…。そういう詩がある。差別、偏見が強かった我が父親の時代にフィットする詩ですね。我が家のように名前を変え、差別から逃げる。われわれにも通じる詩だと思う。その後いろんな努力があり、ずいぶん沖縄にたいする偏見は少なくなった。
そんな時代に、大阪から派遣されてきた若い機動隊員が米軍のヘリパッド基地に反対する市民に、土人発言をした。びっくりしたけど、あまり憤慨はしなかったね。「われわれは土人ですが、それでどうかしました?」くらいの対応だった。
「みなさんが、踏んでいる島」
県民投票のときかな、芥川賞作家の大城立裕さんが「沖縄は強くなった、政府と対等にたたかえるほどになった」と語っていたのが、新聞の1面に載っていた。私たちは、強くなりましたよ。
いま山之口獏の詩「会話」の続きを書くとすれば、「アネッタイなのだが、その海に森に軍事基地が造られている島なんだ。ずーっと『痛み』を抱えてきて、喜屋武真栄(71年〜参院議員)が『小指の痛みは、全身の痛み』と国会で訴えた島なんだ」となる。もちろん皮肉のつもり。「みなさんが、足を踏んでいる島なのですよ」。
――火災、お見舞い申し上げます、沖縄にとっての首里城とは
宮古、八重山、奄美・徳之島も含む島から見た場合、首里城はどう見えただろうか。琉球王国としての王城だったはずだ。県民の「心の糧」というのは、日本に併合されて以後、後から付けられた思いだろう。もし琉球国が併合されなかったら、民衆にはどういう国だったか。王国から共和国になっただろうか。何らかの民主化の過程があり、首里城は民衆のものになっていたか。歴史を見れば「琉球処分」がおこなわれ、民主化の機会を潰されたのは事実だから、本来は各県にあるお城や、外国のクレムリン宮殿、天安門などと同じように「人民がとり戻した城」になっていたはず。そう考えると、いまは首里城を心の糧と考えるのもありですね。
琉球併合を見てきた龍柱
燃えさかる正殿の前に2柱立っていた龍柱が奇跡的に炎に耐え抜いた。明治12年の廃藩置県のとき、政府が鎮圧のため派遣した分遣隊の隊長が自分の郷里に持ち帰ろうとした。『琉球新報』(1940年1月)によれば廃藩後、分遣隊の士官が「こんな支那臭い(ママ)龍柱など倒してしまへ」と兵士に引き抜かせた。さすがに、師団長が「元通りにせよ」とたしなめ残ったが、石が破損し短くなったという。戦前、首里城は荒廃し、龍柱は沖縄戦の戦火で焼かれた。
政府は辺野古の問題で後ろめたさを感じているから、首里城再建を国主導でと前のめりになっている。県民が主体になり再建ができるか、そこは注目点だね。
――島田叡・最後の官選知事のことを話されました
私は県立兵庫高校卒、昔は県立2中で島田叡さんとは同窓になる。それで兵庫、神戸の人たちには話が通りやすいと思い、話したことがある。
その際、島田知事と懇意だった大田海軍中将が最後に、45年6月12日に打電した電文。「…沖縄県民、斯く戦へり。後世、特別の御高配を賜らんことを」は、島田知事の言葉として捉えるべきと言いました。その上で「斯く」の中味である、「米軍と戦う県民の涙ぐましい姿」を紹介し、「後世、特別のご高配はなされたのか」を検証してみた。結果は「御高配」の真逆の行為が行なわれ、いまの辺野古埋め立てまで続いていると説明した。
島田知事は45年1月末に赴任した。島田知事の「偉さ」として、「死ぬことが想定され、誰もが行きたがらなかった沖縄」に、自分が断ったら誰かが犠牲になると引き受けたという「男気」が、よく讃えられる。しかし、そこに焦点を当てると、ちょっと引っかかるね。では、死ぬとわかりながら、その地に住み続けた県民はどうなの、ということ。
「ご高配」には、すがらない
わずか5か月、島田知事が民政に尽力したことは確かだと思うが、当時の他の官選知事は民政を尽くさなかったのかな。島田知事は、最後に32軍が首里城地下壕を撤退するとき、「県民をまき込むことになる撤退を批判した」と伝え聞いている。県行政を解散する際には、職員に「生きろ」と言ったとのこと。最後の最後だから、軍を批判しても、生きろと言ってももう遅い。軍事訓練に手を貸してきた沖縄1中の教師たちでさえ、最後は生徒たちに「生きろ」と言っている。それほど沖縄戦、戦争の状況は酷かった。
島田知事を評価するなら、大田中将からの最後の電文が知事の遺言として、その後に日本政府に対して「物が言える道」を開いてくれたことだろう。だから戦後、県民は「基地のない平和な島」を「ご高配」として政府に迫り続けることができてきた。本来なら、県民が「ご高配」にすがるのではなく、政府が沖縄戦のことをおもんばかり、償いとしても基地のない沖縄へ努力するのは当たり前だ。辺野古に新基地を造るとは、罪の上塗りという他はない。(つづく)
腐敗招く特定秘密
官僚が説明責任放棄
1月6日 大阪
1月6日、今年最初のロックアクションが大阪市内で開催された(写真)。共同代表・山下けいきさんが「香港では数十万の人々が怒りの声を上げている。私たちの行動を広げ、安倍を倒そう」とあいさつ。続いて「秘密法反対全国ネットワーク交流会・再び」について服部良一さんが報告。「12月7と8日、名古屋で交流合宿が開かれ、名古屋大学の本秀紀教授とイギリスエセックス大学の藤田早苗さんから報告があった。『特定秘密を取り扱うことができる者』の数は2017年末時点で行政機関職員で12万1501人、民間人は3013人。そのうち防衛省が官民合わせて11万3986人。三菱重工業など武器開発に当たっている人たちだろう。内閣官房は2036人。そのうち1237人が民間というのは違和感がある。特定秘密の存在によって官僚たちが『隠してしまえば説明責任はとらなくてよい』と横着な対応を取っている。これが今日の政治腐敗につながっているのでは。秘密を作ることがどのように国を誤った方向に導いていくのか、動向を見守っていきたい」と話した。
続いて「戦争法」違憲訴訟の会・事務局の岡本さん、関電の原発マネー不正還流を告発する会の末田さん、カジノ・万博・都構想どないする大阪の未来ネットの寺本さんが発言。集会終了後、大阪の中心街デモに出発した。(池内慶子)
4面
論考 ナショナリズムと主体性(下)請戸耕市
未成年”日本の課題
【U】歴史問題と主体性
以上は、まだ客体的な側面に過ぎない。民衆の主体の側の問題こそが重要である。なぜ天皇制に敗北し戦争に加担したのか? なぜ敗戦時に総括・清算できなかったのか?
(一)なぜ敗北?なぜ加担?
戦争体験者の言葉が重い問題を突き出している。
渡部良三(日本帝国陸軍二等兵)「(『わだつみ』を読んで)自分の向こう側には、自分以上の傷みや悲しみを、自分を含む日本民族によって与えられた被侵略国の何億もの民族が存在する事が思い致されていない。自分の傷みや苦しみは縷々限りなく綴るが、侵略を受けている人びとへの立場がゼロなのだ」
色川大吉(学徒出陣で海軍航空隊へ入隊)「(『わだつみ』を読んで)天皇とか天皇制に対する批判や疑問、 … 国家そのものに対する言及がまずほとんどない」
近藤一(中国戦線で戦争犯罪。戦後、「不戦兵士の会」)「小学校の時から『中国人はチャンコロで豚以下だ』という教育を受けていたから、相手が人間だという感情をもたないようになっていた。こうした差別意識が戦争を起こす元だ」
〔『わだつみ』:学徒出陣兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』1949〕
ここから以下のことが言えるだろう。
第一に、日本の民衆は、被害者・犠牲者となることで、同時に、アジアの人びとに対して加害者となったという認識が欠落している。
第二に、その環である国家、天皇制という問題を対象化し対峙することが欠落。
第三に、差別・排外主義が、民衆を殺人機械に仕立て上げた。
福沢諭吉の文章に、「チャンチャン(ママ)…皆殺しにするは造作もないこと」「支那(ママ)兵のごとき…豚狩のつもり」といった、許しがたい言辞が随所にあるが、これが明治の精神≠ナあり、日本のナショナリズムの実像に他ならない。
ナショナリズムの推進構造を考える上で、トニ・モリスン(アフリカ系アメリカ人の作家 『「他者」の起源』)が示すアメリカの例解が示唆的である。
〈アメリカの黒人〉とは、そもそも、アフリカ大陸の黒人とは区別される。それは、アメリカの支配層の白人とその社会によって、歴史的に創造されてきた存在。
白人が人間性を定義するとき、黒人を必要とする。偽りの黒人像〈野蛮、怠惰、鈍重、不潔。キリスト教と文明の光を通さない暗黒。要するに非人間〉を立てて 他者を生み出し、その反対物として〈立派な人間性〉が定義される。
このように、白人の領有する〈アメリカらしさ〉は、〈アメリカの黒人〉があって成り立つ。黒人にたいして無数のリンチ・虐殺・レイプがおこなわれてきたが、その一つ一つの行為が、〈アメリカの白人〉を〈アメリカ人〉らしくさせ、〈アメリカ〉に同一化させていった。その〈アメリカらしさ〉の支配は、黒人にとっての抑圧であるばかりなく、白人の精神をも荒廃させた。
従順と没我
以上がモリスンの論旨だが、日本のナショナリズムも同じである。天皇制によるナショナリズムが、例外的であるかのように見るのは間違いである。日本の民衆は、朝鮮・中国への蔑視とそれに対する自己の優越意識で天皇制国家に同一化していったのである。
その日本の優越性とされる「万世一系」とは〈社会秩序は絶対不変〉だ。つまり、上へのひたすらの従順と、自己主張や主体性を否定した没我が〈日本の美徳〉とされ、支配する。そして、天皇の前で従順と没我に徹する日本民衆が、蔑視している朝鮮・中国の民衆の前では俄然、「臣民」として尊大・傲岸・残忍になり、「相手も人間であるという感情をもたない」虐殺機械となるという構造がここにある。
こうして見ると、差別・排外主義の問題は、倫理や意識の問題ではないし、個別的な問題でもない。このナショナリズムの構造が問題であり、それを自覚し突き破る必要がある。
優越意識と対をなす朝鮮・中国への蔑視がカギだ。服属を拒否し、文明化に抵抗する運動をどう見るかである。その中に、むしろ、日本という国家の破綻点、文明という価値の限界点を見出し、国家や文明の枠組みを超えていく展望を見ることができるかどうかだ。
自己が創出した他者の存在と告発に向き合うことこそが、ナショナリズムの構造を突き破るカギだということだ。そして、自己と他者が再会し再結合する中に、国家を超える真の普遍が生成される。
だから、国家の形成・維持を自明視する限り、ナショナリズムと同じ土俵に引き込まれる。国民国家の賞味期限が切れつつある21世紀の現在においてはなおさらである。
(二)天皇免責と戦後民主主義
次に、なぜ敗戦時に総括・清算できなかったのか? そのことが、民衆に何をもたらしたのか?
まず、敗戦直後の世論調査の数字を示す。
1946年5月毎日新聞 憲法改正案(=現行憲法)の天皇条項を支持:85%
1948年8月読売新聞 天皇制はあった方がよい:90・3%
敗戦と占領という事態があっても、朝鮮の人びとのたたかいがあり、労働運動の高揚があっても、大多数の民衆の意識において、天皇制は揺るがなかった。直視すべき事実である。
だから、米国は対日占領政策の柱に、「天皇の利用」をすえた。それは、敗戦後の動乱と革命を阻止するためだった。その核心は、「天皇も民衆も軍国主義の被害者」とし、戦争責任を「軍国主義」という曖昧模糊としたものに転嫁することだった。こうして、最高責任者である天皇も、統治機構の各レベルも、民衆も免責されるということになる。
天皇の戦争責任・植民地支配責任追及は、民衆自身が、日本の侵略戦争と植民地支配の問題を総括する主体として主体性を回復する上で不可欠であり、戦後革命の核心問題だったのだ。
しかし、民衆は、被害者意識に押しとどめられ、革命の主体としての確立が決定的に阻害された。そして、占領軍の進める民主化に乗り移り、それに同調することが戦争責任・植民地支配責任の克服・清算に自動的につながると幻想した。
戦後民主主義の欺瞞
戦後民主主義は、戦争責任・植民地支配責任を不問に付すことの上に成立した。そのことによって、戦後民主主義は、それを担う主体性を欠いている。
政治・社会に関わることを政治家・行政・専門家任せにするお任せ民主主義である。その下で、民衆は私的生活の向上と防衛に閉じ込められた。平等や幸福が経済主義的なレベルで理解され、労働運動もそれに規定された。だから、経済の拡大が失速すると、たちまち助け合いではなく、蹴落とし合いに転化する。他人任せの土壌が自己責任論を一気に広げた。
「平和憲法を守れ」という護憲運動の欺瞞である。〈「天皇制民主主義」を守る〉、さらには〈「天皇制民主主義」によって、平和を守ってもらう〉というお任せ意識である。そこでは、「平和憲法」がよって立つ前提(歴史問題、朝鮮問題・分断問題、沖縄問題)への認識が希薄ないし欠落している。
「未成年状態」とは、まさに、戦後民主主義下の民衆のあり方の問題である。戦後日本の運動を総括したとき、幾多の重大な闘争や決戦がたたかわれてきたことは間違いないが、主体性を欠いた「未成年状態」が桎梏となって、決定的な勝利に至らなかったのではないだろうか。
【V】日韓の超国家的連帯
以上から、韓国民衆の歴史問題の追及は決定的であり、それは、他者と再会し、向き合い、日本の民衆が、主体として飛躍するチャンスなのである。日本に歴史問題の解決を求める韓国の運動の「超国家的意義」はまさにここにある。
日本軍「慰安婦」とされた女性たち、強制動員被害者(元徴用工)の人びとが要求しているのは、国家の謝罪である。その加害が国家の強制によって行われた事実を国家が確認し、その責任を認めることである。
歴史問題の解決は、朝鮮民衆が植民地支配からの解放時点以来の強い要求だったが、戦後世界の米国による支配の中で、歴史問題の解決要求は、力で圧殺・封印されてきた。
しかし、ソ連崩壊からグローバリズムという展開の反面で、軍事独裁にたいする民主化闘争から積弊にたいするろうそく革命があり、被害者たちの告発と追及のたたかいが広がった。「植民地支配とその下での強制徴用は不法」という断罪を確定させた大法院判決は、こういう流れの中でかちとられた。
グローバリズムと国民国家
GSOMIA問題は、歴史問題が安保問題に発展したものであり、歴史問題を未解決のままの軍事同盟はありえないことを突き出した。同時に、米国のプレゼンスを前提としない韓国民衆の自主・自立なあり方の追求である。グローバリズムの進展の中で、一方で、資本のグローバルな展開が、国民国家の枠組みと世界秩序を揺るがしているが、他方で、韓国の民衆運動もまた、国民国家の枠を超え、19世紀末から20世紀を経て蓄積した歴史問題の全面的な解決を通して、東アジア全体の枠組みの再編を展望している。
グローバリズムの中で、日本の没落と孤立が進行している。他方で、韓国民衆の運動が、日本に歴史問題の解決を迫っている。
戦後民主主義の土台の瓦解であり、戦後に継続されてきた国体の危機である。安倍政治とは、日本国家の存立の危機への対応であり、国体の護持の動きである。日本の没落と戦後民主主義の瓦解は、一方で、格差・分断と新たな黄昏のナショナリズムの台頭を見せているが、他方で、戦後民主主義下の「未成年状態」を突き破って覚醒・成長する大きな条件をつくり出している。
ここで、歴史問題をめぐって日韓の運動が「超国家的」に連帯していくならば、日本という国家を、天皇制ともども清算・解体することも可能になる。
韓国の運動の「超国家」性
「対案社会」という言葉が、韓国の民主労組運動の中にある。それは運動の目標であるが、革命後の彼岸ではなく、現実の階級闘争の中の存在である。労働者のストライキ、テント籠城、医療や福祉の運動、社会的連帯経済や協同組合の運動の中で、日々実践的に追求されている。
ろうそく革命はインターネットなしにはあり得なかった。ネット・コミュニティを韓国では「カフェ」と呼ぶが、同窓会や地域など、様々なカフェが構成されており、ネット上での関係と現実の人間関係とが日本よりも強く関連している。労働組合や市民団体という既存の枠に組織されていない膨大な人びとが、このカフェでのつながりと論議を通して、政治意識を高め、行動に踏み出している。さながら集団的知性の形成である。それは、端緒的だが、中央集権的なあり方ではなく、分散しつつ人と人がつながり協働するシステムの可能性を示している。
最後に、私たちの運動も「未成年状態」と無縁ではあるまい。いまこそ克服のときである。(了)
5面
〈連載〉まっちゃん、これでええかな(2)
誰が「可哀相」とか決めんねん!
脳性まひ者の生活と健康を考える会
元関西青い芝の会連合会会長 古井正代さん
「不幸な子どもが生まれない対策室」
元々、大阪青い芝をつくった当初から、まっちゃん(松本孝信さん)おったわけやないの。ちょこっとは顔出したことあったけど、ほとんど来てなかった。なんでまっちゃんが青い芝に足入れてドボドボといってしまったかというと。
兵庫県に「不幸な子どもの生まれない対策室」いうのがあったん。それが何でできたかというと、兵庫県の知事が滋賀県の知事と、知事の一日交換というのがあって、その時に滋賀県のびわこ学園いうて、脳性マヒ児ばっかりいる施設があって〜その施設、元をただせば、戦後孤児がいっぱい出て、孤児のための所やったんやけど〜孤児がだんだん大きくなったら、次は入ってこんよね。そんで建物が空いたから障害児を放り込むことにした。
これがびわこ学園のもとで、そこへ一日交換で兵庫県の金井元彦という知事が行きよった。私みたいな脳性マヒの子どもを見てその知事が何を言ったかというと、「こんな、笑うことも、這うことも出来ないようなもん、生きてること自体が不幸な子どもは予防せなあかん」。予防するて、どうするかわかる? 産まれてくる前に始末しようということ。これが兵庫県の「不幸な子どもの生まれない対策室」のもとやったわけ。
県知事と会う
1966年に始めたん。私は1965年にその知事と会うことになって。何でかというと、その頃私は絵を描いとって、姫路の障害者の中で有名人やったの。それで姫路にあるデパートで個展を開くことになって、私はそこに出展して、その時にしょうもない知事が文章を書きおって、それに御礼せなあかんというので御礼しに行って、握手してその時の写真(上)がマスコミにも出たんや。その知事が一年後に、「脳性マヒなくそう!」というキャンペーンをしたんやから。私と握手した時には、「こんなもんおらんほうがいい」と思いながら握手したんでしょうよ。
「不幸な子どもの生まれない対策室」いうのは、具体的にはどんなことしたかというと、県がお金出して、県立こども病院で出生前診断、今でいう羊水チェックをするようにしたんや。
医療関係者の組合の人が、「青い芝の会」に言うてきたんや。「こんなことしてるけど、おたく何とも思いませんか」と。ほいで、そのことまっちゃんに言うと、「誰が可哀相やとそんなこと決めんねん!」不幸な子どもを生まない対策ということは、不幸と決めつけとるわけでしょ? 誰が決めるの?
たとえば、ここに金持ちがおってね、ものすごいジャラジャラと装飾品つけてても、その人が不幸やと思ったら不幸なわけでしょ?ちゃいます?
「行くぞ〜!」
その話をまっちゃんに電話で言うたの、「明日から私ら抗議に行くんやけどな」と言うたら、あのちいちゃな目が輝いたらしいの。「行くぞ〜!!」言うて、それから出てくるようになってん。
もとは人のこと勝手に不幸やと決めつけて、亡き者にしてるというのが原点やねん。だから、まっちゃんよう言うとった。「お前がなぁ、あの時電話してきてなぁ、あんなこと言うたから、わしは『青い芝の会』の運動にドボッとはまってしもうた」と。 (つづく)
(前号で筆者肩書き「関西青い芝の会」を「関西青芝の会」と誤記しました。おわびし訂正します)
連載 命をみつめて見えてきたもの D
呼吸の大切さ
有野 まるこ
低酸素・低体温
つまりガンは《低酸素・低体温》という過酷な状態の中でも生き延びようとして、無酸素の世界で分裂をくり返し生きていた太古の、不老不死の状態へと先祖がえりした細胞というわけだ。
この生命体の本質を理解すればガンは「敵=やっつける」という発想ではなく、過酷な環境から脱してガンを予防することが大事。そして逆の環境を作ってガンを自然退縮させることもできる。これが免疫学者・安保徹さんの説明だ。
ガンの捉え方、根本にある生命への向き合い方が現代医学とは大きく異なる。ちなみに、安保さんは講演で山中伸弥氏らのiPS細胞の臨床研究をやんわりと批判していた。数十億という単位のときが刻み込まれた細胞の遺伝子を人為的に操作しようとは何と傲岸不遜で浅はかな行為か、という想いを込めていたと思う。
確かに人間は科学・医学の名において、実は踏みこんではならない領域を侵し始めた、ウランを掘りおこして人類と共存できない核を手にしたのと同質の大罪ではないか、そんな気がしてならない。
私も《低酸素・低体温》に気づいてなかった。病気が悪化して初めて普段の呼吸が浅く短いことに気づいた。そういえば時間に追われ緊張状態が続いていてもため息さえ出てこなかった。人と握手すると必ず自分の手の方がとても冷たかった。
《低酸素・低体温》状態を改善し自然治癒力を引き出すために提唱されているのが食事・睡眠の改善、過酷な労働からの解放、悩みの解決、有酸素運動、気功・呼吸法・ヨガなど等。簡単な呼吸法やヨガをやってようやく心と体で呼吸の大切さを実感できるようになってきた。
深呼吸とため息
呼吸について、『気功への道』(津村喬著・創元社)に分かりやすい説明が載っていたので要約引用する。「ふつう心臓の鼓動や胃のぜん動の動きを変えたりすることはできないが、呼吸は誰でもある程度は早くしたり遅くしたり、浅くしたり深くすることができる。呼吸は意識が内部生命の自動運動に介入することができる、極めて例外的な機会を意味してもいるのだ。」「人間の肺には7億5千万の肺胞があるそうだ。ところが普通の場合、一生かかってもそのうち1億5千万くらいしか使わず、残りは墓場へもっていくわけでもったいない限りだ。それに対応して、ふだんの呼吸では肺の5から6分の1程度の表層しか換気されないという。いくら部屋の換気に気をつかっても、それではずいぶん不健康だ」「横隔膜を使った複式呼吸をすると、この状況はまったく変わる」
ちなみに深呼吸は「吸って吐く」ではなく「吐ききってから吸う」の順番が大事。まずは普段の呼吸を意識してみる、そして一日何回か深いため息をつく―それも悪くないと思う。(つづく)
川崎市で「差別根絶条例」(下)
差別に初めて刑事規制
深津 利樹
ヘイトデモに抗議する市民(16年6月5日 川崎市内) |
「何人も、人種、国籍、民族、信条、年齢、性別、性的指向、性自認、出身、障害その他の事由を理由とする不当な差別的取扱いをしてはならない。」(第5条)とはなっていますが、この条例の第1の目的は、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消」(第1条)にあります。
「ヘイトスピーチを3回繰り返した者・団体に50万円以下の罰金を科す。表現行為を過度に制限しないよう、規制対象の差別的言動を明確化。市内の道路や公園など公共の場所で拡声器やプラカードなどを使用した言動で、居住する地域から退去させることを扇動、告知。生命・身体・自由・名誉・財産に危害を加えることを扇動、告知。人以外のものにたとえるなど著しく侮辱すること。それらの違反行為に対して、市長はやめるよう勧告・命令を出し(3回)、それでもやめない場合は氏名・団体名を公表。捜査機関に刑事告発する。
その際には有識者による審査会の意見を聴くこと」などとなっています。警察など捜査機関がその場で判断するのではなく、市が専門家による審査会での判断によるとして、権力による不当な乱用を防いでいます。
しかし、今回はネット上でのヘイト行為については刑事罰の対象とはなっていないなど、まだまだ問題は残されていると感じます。
市民運動の力が
押し上げた
この「差別根絶条例」の成立にむけては、いつも先頭に立った在日当事者を支え、川崎市内外から多くの市民が参加・行動しました。自民・公明などだけで過半数の議席となってしまう川崎市議会の状況では、この条例の成立にとって市民運動の支えが重要だったと思います。
毎回のヘイトへのカウンター、そして「市民ネットワーク」の行動や集会、署名やパブコメへの参加など、それを支える市民の行動や、市内でのそれぞれの市民運動の盛り上がりもありました。ストップ9条改憲、脱原発、沖縄、日本軍「慰安婦」問題と、それぞれを取り組む市民が支えてきました。
たまたま、「あいちトリエンナーレ」での「(慰安婦)少女像」問題がおこり、神奈川県知事の「愛知と同じことが起こったら神奈川でも認めない」との発言、また川崎市内での「しんゆり映画祭」での映画『主戦場』上映への市長の「懸念」表明。これら公人による「慰安婦」問題を否定する発言にたいして大きな反発の声が高まりました。
10月には、日本軍「慰安婦」問題で川崎映画会が開かれ、その会場に韓国から「慰安婦」被害当事者のイ・オクソンさんが急きょ来られたのでした。オクソンさんは今の日本の現状に「いてもたってもいられない」との強い想いを訴えられました。93歳、まさに命がけの来訪でした。会場は超満員でした。こうした市民運動のうねりも確かにこの条例の成立を押し上げたと感じます。
条例は成立しましたが、もちろんこれからが重要です。ヘイトグループは「日本人を差別する条例だ」と騒ぎ立て、条例に賛成した自民党もそれに押されているのが現状です。私たち市民はこの条例を大きな武器に鍛えあげ、さらに取り組みを強めていかなくてはなりません。(おわり)
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6面
被害者が求める正義とは
山形地裁の不当判決に抗議する
原発賠償関西訴訟原告団代表 森松明希子
福島県から山形県に避難した734人(201世帯)が東電と国を相手に損害賠償を求めた裁判の判決が昨年12月17日、山形地裁であった。貝原信之裁判長はわずか5人に計44万円を支払うよう東電に命じたのみで、国の責任については認めなかった。この判決は「あまりにも不当なもの」であり、「同じ事故による被害の回復を求めて全国で裁判を起こしている者として、到底これを看過することができません」と、原発損害賠償関西訴訟原告団が抗議声明を発表した。一部を抜粋して紹介する。(文責は本紙編集委員会)
山形地方裁判所は、本年(19年)12月17日、福島第一原発事故によって避難を強いられた被害者らを原告とする訴訟に対して、判決を言い渡しました。
その内容は、以下のとおりあまりにも不当なものであり、私たち「原発賠償関西訴訟原告団」は、同じ事故による被害の回復を求めて全国で裁判を提起している者として、到底これを看過することができません。
判決は、国の責任に関し、津波の予見可能性や結果回避可能性を認めながら、その予見の程度や回避措置の対応などを理由にして、国が規制権限を行使しなかったことは裁量の著しい逸脱とは言えないものとして、免罪してしまいました。
(中略)
もう1つの重大な問題は、東京電力が指針に基づいて支払った金額を超える損害はないとして、被害の回復を放棄したことです。判決は、被害者の受けている被害の実相を見極めようとせず、被害者を切り捨てようとしています。
(中略)
今回裁判は、避難元の被害も避難先での被害の両面を見ることなく、ひいては今なお続く原発事故被害を何ら正面から直視していない判決といえます。
なぜ声をあげるのか
現在、全国30近い裁判所で救済を求める集団訴訟が起こされており、原告の数は1万2000名を上回ります。これらの原告は、誰しもすすんで訴訟をしたかったわけではありません。国が自ら率先して十分な救済を行う、あるいは国会が十分な手当てを取る、そういったことがあれば、裁判を起こす必要はありませんでした。
(中略)
浜通りにお住まいの高齢の原告は、「いまさら健康被害と言われても、もうこの年齢なのでね。ただ、ここには孫が年に何回か遊びに来て、一緒に山に入ったり、山菜を取ったりしてきた。でも、いまは山に入れないし、孫も遊びに来てくれない。そうしたささやかな幸せが奪われてしまった。国や東電はたいした被害ではないと言うかもしれない。しかし、長年、地域で生きてきた者として、次の世代にこうした現状の福島を引き継がざるを得なくなった者として、何ができるのかということを考えたとき、原告となることだった」と語っています。
また、中通りにお住まいの若いお母さんは、「事故直後は断水だったので、寒いなか何時間も給水の列に並びました。小さい子どもを家に置いていくわけにもいかず、片手にポリタンク、片手に子どもを抱きながら待っていました。その時期は、上空を放射性プルームが覆っていたときでした。私はそのことを知りませんでした。知っていたら、そんなことは決してしませんでした。もしこの子に何かあったら、私は国や東電を、そして自分を絶対に許すことができません」と語っています。こうした様々な想いをもった方々が、全国の裁判で原告になっています。そうした想いを束ねたのが、被害者の裁判なのです。
山形に避難した山形訴訟の原告の方々も同じだということを私たちは誰よりも知っています。山形訴訟原告の方々もまた、被害を蒙った被害者の方たちですが、被害者のままでは終わろうとはしなかった人たちです。語りづらさがあるなか、沈黙せず、自らの尊厳と損害の救済を求め、次の世代や原告とはならなかった人たちのためにも正義を求めている人たちなのです。
想像力欠く不当判決
避難指示が出された地域ではないところからの避難者は「自主避難者」と称されることがあります。また、福島の食品や農作物の被害について、「風評被害」と称されることもあります。そうした地域からの避難者は、好んで避難したわけではありません。避難を余儀なくされたのです。また、農家は本当であれば、「美味しいものが出来たから食べてくれ」と言いたいに決まっていますが、いまは「未検出だから」と断りを入れなければならなくなっています。誰が農家にこんな言葉を言わせているのでしょう。農作物からは、いまも根からも葉からも放射性物質は出ています。「風評」ではなく「実害」なのです。「自主避難」、「風評被害」――こうした言葉は、私たち被害当事者の口からは決して出てこない言葉です。
被害者に対する救済が、より実態に見合うものとなるためにも、司法の役割は大きなものがあります。しかしながら、今回の判決は、原発事故が起きたならばどうなるのか、声をあげざるを得なかった被害者の想いに応えることもなく、住み慣れた故郷から避難するという決断をせざるを得なかった原告のこれまでの苦労に報いることもなく、まるで想像力を欠いた不当な判決であったといえます。
以上のとおり、この判決は不当なものであり、私達はこれを許すことが出来ません。避難した者、とどまった者、全ての原発事故被害者の訴える被害事実から目を逸らし、実質的に被害者が訴える被害についての判断を避けた、不当判決以外のなにものでもありません。私たちは、この誤った判決に対して強く抗議いたします。
(中略)
そして、このような不当判決が繰り返されることのないよう、公正な判決を下す使命のある裁判所が司法の役割をきちんと全うするよう、よりいっそう連携・団結の意思を固め、この不当判決に対し一丸となって抗議の意思を表明いたします。
(2019年12月17日)
画家たちの戦争責任
北村小夜さんが講演
1月12日 大阪
1月12日、大阪市内で「奥野・山口『君が代』不起立処分撤回闘争8周年記念集会」がひらかれ、北村小夜さんが「心も身体も国に取り込まれ…」と題して講演した。
北村小夜さんは1925年に生まれ、現在94歳。42年に、高等女学校を卒業し、日本赤十字社で看護師になる。満洲国・鉄嶺陸軍病院で敗戦。その後1年間、八路軍に参加後、46年に帰国した。昨年、北村さんは藤田嗣治の戦争責任を追及し、『画家たちの戦争責任』(梨の木舎)を出版した。昨今の情勢が、ますます戦争に近づいているという危機感からだ。北村さんは藤田嗣治の戦争画『アッツ島玉砕』(1943年制作)を戦争中に見た時、「今度、わたしがこの仇を討ってやる」と決意したと語る。
『アッツ島玉砕』は、茶褐色の色彩だけで日本兵がアメリカ兵を殺すところを描いている。手前には、アメリカ兵の屍が幾重にも重なっている。日本軍圧勝の構図で描かれている。しかしこの絵を見る者は日本軍がほぼ全滅したことを知っている。だから「仇を討ってやる」という感情をよび起こすのだ。
加藤周一への批判
この絵は戦意高揚のために描かれている。制作直後に、藤田は「戦争画制作の要点」という表題で、次のように述べている。「今日の情勢に於いては、戦争完遂以外には何物もない。我々は、少くとも国民が挙つてこの国難を排除して最後の勝利に邁進する時に、我々画家も、戦闘を念頭から去つた平和時代の気持で作画をする事も、又作品を見る人をして戦争を忘れしめる様な時期でもない。国民を鞭ち、国民を奮起させる絵画又は彫刻でなくてはならぬ。」(『美術』1944年5月号)
戦後、加藤周一はこの絵について「その画面には戦争賛美も、軍人の英雄化も、戦意昂揚の気配さえもない。―藤田は確かに軍部に協力して描いたが、戦争を描いたのではなく、戦場の極端な悲惨さを、まさに迫真的に描き出したのである。そこから戦争についてどういう結論を導きだすかは、画家の仕事ではないと考えていた」(朝日新聞「夕陽妄語」2006年5月24日付)と述べた。このような受けとめに北村さんは、加藤とおなじ時代に生き、戦争に流されていった者として、自らの戦争責任を問うからこそ、この加藤の主張をきびしく批判するのである。