自由化で食と農が危機に
合意したのは日米FTA”だ
トランプ米大統領と安倍首相は、9月25日(日本時間26日未明)、日米貿易協定で最終合意し、確認文書に調印した。これによって日本は米国産農産物の関税を撤廃・削減する。この間の日米交渉について東京大学の鈴木宣弘教授は、「日米自由貿易協定(FTA)交渉そのものであり、ごまかしは許されない」ときびしく批判している。10月6日、市民団体などが呼びかけて、大阪市内に鈴木氏を招き日米FTAを批判する講演会が開かれた。
危険な規制緩和
鈴木氏は、日米FTA(自由貿易協定)交渉や昨年12月30日に発効したTPP11によって規制が大幅に緩和され、農薬やカビ防止剤が残留している農作物、牛肉、乳製品などが日本に輸入されると警鐘を鳴らした。
これは安倍が言う「ウィン・ウィン」の関係では決してない。日本が一方的に失うだけの関係が、戦後一貫して続いている。8月25日の日米FTA交渉でも「自動車に関税25%」という脅しに屈し、トウモロコシ275万トンの輸入をのまされた。政府は「害虫による食害対策として輸入する」としているが、「そんな害はない」と農林水産省の担当者が認めている。
そもそも食害が心配されているトウモロコシとアメリカから輸入するトウモロコシでは、用途が違うので代替できない。
余剰穀物の処分場
戦後、米国の日本占領政策の目的の一つが、日本を小麦、大豆、トウモロコシなどの米国の余剰穀物の最終処分場とすることだった。それが現在も続いている。しかも、米国産大豆、トウモロコシはほとんど遺伝子組み換えである。米国産小麦、大豆、トウモロコシには発がん性の除草剤が直接散布され、残留している。国産小麦使用のごく少数のブランドを除き全ての食パンから当該除草剤成分が検出されている(農民連分析センター)。
世界的にその除草剤への規制が強まる中で、日本だけが米国からの要請のまま、規制を緩和している。小麦6倍、トウモロコシ5倍、そば150倍である。
消える食品表示
農作物だけではなく、牛肉や乳製品などあらゆる分野で規制緩和が進む。札幌の医師の調査では、米国産牛肉からは成長ホルモンであるエストロゲンが600倍検出された。日本国内では禁止されているものだ。EUでは米国産牛肉の輸入を止めて7年で乳がん死亡率が45%減ったというデータがある。
今年5月17日にBSE(牛海綿状脳症)に対応した米国産牛の月齢制限を撤廃した。米国は一応BSEの清浄国になっているが、それは検査をしていないからだ。危険部位の除去もしていない。「遺伝子組み換えではない」の表示や、防カビ剤「イマザリル」の表示などが米国の要求によって消されようとしている。安全な食品を選ぶ権利が奪われることに、消費者として声をあげよう。
関西電力
ウラ金問題で緊急抗議
全ての原発をとめろ
原発マネーで私腹を肥やすな!関西電力高浜原発のゲートに向けて抗議デモ(10月8日 福井県高浜町) |
関西電力の八木誠会長や岩根茂樹社長らが、福井県高浜町の元助役から3億2千万円相当の金品を受け取っていた事件。これにたいする緊急抗議闘争が8日、高浜町でおこなわれた。「原発うごかすな! 実行委@関西・福井」の呼びかけで、70人が参加した。
福井県下および、関西や首都圏からの参加者らは、暴露された汚いカネの流れを生み出した原発に怒りを燃やして、高浜原発のすぐ近くにある展望所に集まった。そこから高浜原発に向かってデモ。原発のゲート前は、デモ隊の怒りで包囲された。ただちに関電が所有するすべての原発の即時停止と廃炉を申し入れた。
その後、高浜町役場に移動し、高浜町長にたいして「今回の問題は個人の問題ではない。原発はカネまみれの存在である。高浜町は関電による原発推進政策への同意を見直し、暴露された巨額の金品受領問題の事実を明らかにすること」を申し入れた。最後に、若狭の原発を考える会の木原壯林さんは「この事件で関電に原発を動かす資格などないことがはっきりした。今秋の老朽原発うごかすな! キャンペーンとリレーデモで、老朽原発再稼働を絶対止めよう」とまとめをおこない行動を終了した。
今回の問題は、原発マネーの氷山の一角が表に出たものである。八木会長の辞任で幕引きを図る関電を許さず、事実を明らかにし、原発廃炉を迫っていこう。
当り前の労働運動守れ
関生弾圧 大阪地裁前で座り込み集会
大阪地裁前の座り込み集会で発言する民主労総全北本部の代表(9月25日 ) |
「獄中の仲間を返せ」、「組合弾圧をやめろ」、早朝の大阪地裁前にシュプレヒコールが響き渡る。昨年から現在までに17次、のべ87人の逮捕者、獄中に未だに5人という異常な関西地区生コン支部弾圧事件。9月25日、公判に合わせて大阪地裁前の公園に、連帯労組を先頭に多くの労働組合、市民団体、そして韓国の民主労総全北本部の仲間9人を加え、およそ180人が参加して弾圧抗議の座り込み集会が終日たたかわれた。
公判傍聴参加者を送り出した後、集会が開かれた。京都滋賀の代表は、「関生という労働組合を絶滅する弾圧だという認識を持たなければならない。あらゆる市民団体もまきこんで広範な陣形でたたかおう」と訴えた。
愛知の代表は、あいちトリエンナーレの問題に触れて、「表現の自由を守ることと、弾圧に反対することは一体だ」と発言。兵庫から関西合同労組が「国家的な弾圧を許せば、次は市民団体が弾圧される。なんとしても打ち返そう」と訴えた。
そのあと朝鮮高級学校無償化を求める連絡会・大阪、辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動、若狭の原発を考える会などの発言が続いた。
韓国から来日した民主労総全北本部の代表は「韓国よりもきびしい弾圧だ。民主労総はともに力を合わせて、勝利を勝ち取るまでたたかう」と発言。
集会の最後に、関西地区生コン支部・武洋一書記長が「残る5人を一刻も早く奪還しよう。『声をあげよう!弾圧ゆるすな! 11・16全国集会』へ結集しよう」と呼びかけた。
大阪府警に抗議
大阪地裁前での座り込み集会の後、大阪府警本部へ弾圧抗議申入れ行動がおこなわれた。各地の平和フォーラム、平和センターの代表、〈労働組合つぶしの大弾圧を許さない実行委員会〉など100人が参加した。
先日保釈・出獄をかちとった関生支部・西山直洋執行委員もきびしい保釈条件のもとで参加し、人質司法による今回の弾圧を弾劾した。〈フォーラム平和・人権・環境〉藤本泰成共同代表と全港湾大阪支部・小林勝彦書記長ら3人が抗議の申し入れをおこなった。フォーラム平和・人権・環境は当日、大阪市内で幹事会を開き、沖縄平和センター議長山城博冶さんが参加。関生弾圧を打ち砕き、新たな運動をつくりだす11・16全国集会への大きなステップとなった。
2面
みんなの力で勝ち取った
不自由展£止から再開へ
あいちトリエンナーレ
あいちトリエンナーレ2019(以下あいトリ)の企画展「表現の不自由展・その後」(以下「不自由展」)が、10月8日再開された。8月3日、「テロ」予告まで含めた電凸とよばれる妨害電話、それを煽る極右政治家や政権の圧力によって中止に追い込まれてから2カ月余、10月14日の会期末まで残すところ1週間だった。
なぜ「その後」なのか
ここ10年、とりわけ第2次安倍政権以後、各地の美術館やギャラリーで、「慰安婦」問題、天皇制、戦争、植民地支配、原発、憲法、政権批判を理由として展示が不許可になるということが続いてきた。
記憶にあるだろうか。2012年、韓国人写真家安世鴻さんが東京と大阪のニコンサロンで中国に残された「慰安婦」被害女性の写真展を開く予定だったが、ニコン側が会場使用を取り消した事件である。安さんは、東京地裁に仮処分を申し立てた結果勝利し、東京での写真展は実現した。だが大阪のニコンサロンでの写真展はニコンから拒否されたため別のギャラリーで開催された。写真展の予告記事が出たとたん右翼による激しい妨害がおこり、ニコンがそれに屈服してしまったのだ。安世鴻さんはそれを「表現の自由」に対する侵害として東京地裁に提訴、安世鴻さんは勝利した。しかしニコンは謝罪していない。
14年には、さいたま市の公民館主催の俳句会で秀作とされた「梅雨空に『9条守れ』の女性デモ」という70代の女性の作品が市の広報の掲載から外される事件があった。通常、秀作は必ず掲載されてきた。市の言い分は「国論を二分する問題だからふさわしくない」といった。この裁判は一部勝訴というあいまいなものだった。右翼の妨害によって、あるいは「妨害があるかもしれないから」という理由で、美術館や公民館など公共、民間をとわず施設側が、戦争、植民地支配、原発、核、憲法・9条などをテーマにしたものを拒み、「表現の場」そのものが失われる事態が進行している。
15年1月、この流れに危機感を抱く人たちが、「知らないうちに表現の自由が次々と侵害されていることを可視化したい」と、妨害や拒絶された作品を集め、「なぜそうした不自由が起きるのかを一緒に考えよう」と東京のギャラリーで「表現の不自由展」を開催した。小さな会場の2週間の期間で2700人が来場したという。主催者は「『変だ』と感じている人がそれだけ多いということだと思った」 と当時の新聞で語っている。
その人たちが「あいトリ」の津田大介芸術監督の提案を受けて企画を練り、新たに不許可になった作品を加えて「その理由を一緒に考える」というコンセプトを作り上げた企画展「表現の不自由・その後」なのだ。
怒りが燃え広がった
今回の再開は、何よりも「表現の自由を守れ」と広範な人々が、それぞれの立場から抗議し、行動して勝ち取とった。「再開を求める愛知県民の会」(以下県民の会)は休館日以外の毎日、猛暑の中で会場前や繁華街でのスタンディングを続け、実行委員長の大村秀章愛知県知事と津田大介芸術監督には再開申し入れを、河村たかし名古屋市長には抗議をと全国によびかけた。
2度の屋外集会やデモを組織し、それに呼応して東京や各地でのシンポジウム、院内集会などが開かれた。「不自由展」に出品した作家たちはもちろん、本展出品の世界のアーティストたち、言論・表現に関わる個人・団体の抗議と再開を求めるアピールが出され、世論を喚起した。
9月に入って「不自由展」実行委員会6人は名古屋地裁に「再開を求める」仮処分を申請した(9月30日、主催者と和解成立)。県の「あいトリ」検証委員会は9月25日、中間報告を出し(それ自体は内容的には不十分さと様々な問題を含みつつ)「再開の方向」を打ち出した。30日、主催責任者の大村知事は再開を発表。10月8日の再開に至ったのだ。まさに激動の2カ月だった。
たたかいは続く
再開にあたって、「リスク回避」ということでさまざまな制限がつけられた。抽選による人数制限(8日は1300人が来場したが60人しか入場できなかった)、身分証の提示、金属探知機の設置など。「市民が自由に見てこそ『あいトリ』ではないか」と、県民の会は制限撤廃を求めている。一人でも多くの人が「自由」に観覧し、考え、話し合う場として成功させたいと、スタンディングや会場での見守りが続く。文化庁の「あいトリ」全体への補助金7800万円の不交付決定や、「不自由展」つぶしの先頭に立ってきた河村たかし名古屋市長、松井大阪市長、吉村大阪府知事の暴言も許してはならない。 「不自由展」問題は、「表現の自由」とは何か、誰の自由なのか、誰が決めるのかを改めて問いかけている。「平和の少女像」や天皇をテーマにした作品にたいする攻撃(しかもほとんどがデマゴギー)に表される歴史修正主義と差別・排外主義の根深さと暴力性を感じると同時に、私たちは反撃の力を持っているということを確信できた。これからさまざまな視点からの検証が必要だ。そして、「不自由展・その後」の「その後」をどう展開させるのか、私たち一人ひとりにかかっていることを胆に銘じたい。(岡村 光)
事故の危険性に向きあう
原発を止めた樋口元裁判長
10月5日
大飯原発3、4号機(福井県)の再稼働を認めない判決を2014年に出した元福井地裁裁判長の樋口英明さん(写真)の講演会が10月5日、京都府北部の与謝野町で開かれた。主催は原発ゼロをめざす宮津・与謝ネットワーク。
樋口さんは、原発を止めた2人の裁判官は、福島と原発の危険性に向き合っただけであり、当然の判決だった、と静かな口調で話した。福島事故が、当時の原子力安全委員会の近藤駿介委員長が予測した250キロ圏・4200万人の避難という東日本壊滅のシナリオを免れたのは「奇跡」だった。2000年以降だけでも、各原発が想定する規準地震動を超える地震が頻発していた。この事実だけでも、原発を止めることが必要だった。原告弁護団に対しては、「ややもすれば科学論争にとらわれていたのでは」と感想を述べた。
「伊方最高裁判決(1992年)」について、各裁判長が正当な判断ができないのは、極端な権威主義、頑迷な先例主義があり、そこから来るリアリティの欠如であり、科学者妄信主義であるという。かつて原発を推進した人びとよりも「3・11」を経験したわれわれのほうが責任が重い。「3・11」を経験したわれわれは問題を先送りすることは許されないと話した。
最後に南アフリカの黒人解放運動の指導者である、ネルソン・マンデラの「裁判とは心の強さが試されるたたかいであり、道義を守る力と道義にそむく力とのぶつかり合いなのだ」という言葉を引用して、道義は私たちにあることを強調した。
その後、若狭の原発を考える会の木原壯林さんが、11月23日から始まる高浜原発から関電本店までのリレーデモを呼びかけた。
法の理念に反する差別 朝鮮学校の幼保無償化排除
8月27日最高裁は、大阪と東京の「高校無償化」裁判上告審で、それぞれ上告を棄却した。それに続き、今度は幼保無償化からも朝鮮学校の幼稚班を含む、外国人学校の幼稚園を排除した。
10月1日から実施の幼保無償化を前にした9月18日、「『高校無償化裁判』最高裁上告棄却に断固抗議し、『幼保無償化制度』の差別なき適用を強く求める大阪緊急集会」が大阪市・東成区民センター大ホールでひらかれた(写真)。主催は、幼保無償化要求大阪緊急集会実行委員会。
集会では、幼保無償化を求める朝鮮幼稚園保護者連絡会代表の宋惠淑さんが基調報告で次のように訴えた。
排除ありき
そもそも「幼保無償化」とは「子ども・子育て支援法」成立を受けたものでその理念に、「すべての子どもが健やかに成長するように支援するものであって、良質、かつ、子どもの保護者の経済的負担の軽減について適切に配慮されたものでなければならない」と謳っている。ところが、幼保無償化の設計段階から、各種学校(外国人学校)の認可を受けている教育施設は除外ありきで話が進んでいた。政府はあらゆる手段を使って朝鮮学校への幼保無償化適用を妨害しようとしている。幼保無償化の財源は消費税増税分でありこれを適用しないのは差別的である。すべての子どもの健やかな成長のための制度であるならば、各種学校を除外することにはならないはずだ。
この日、大阪府・大阪市に要請文を提出した李起守さんが声を詰まらせながら報告。「僕たちのかわいい子どもたちにも同等の権利を与えてくださいと言って要請文を渡してきた。僕は幼稚園からウリハッキョに16年間通ってきた。通わせてくれた両親やソンセンニム(先生)たちに感謝しかない。僕が受けてきた教育を子どもたちに受け継がせるのはおかしいですか。何も特別なことではありません。子どもたちの明るい未来のために幼保無償化勝ち取りましょう」。
私は屈しません
幼稚班保護者の代表は、「2016年1月5日、府庁前で松井知事にビラを渡しながら、背負っていたこの子に『学ぶ権利はないのですか』と聞くと、『ない』と吐き捨てて行きました。その子がこの春から幼稚班に行っています。高校無償化からも除外され、補助金も打ち切られ、小さな幼稚園も除外されます。この国がどんなに差別をしようと、お金を切ろうと、あの手この手で私たちを消そうとしても私は屈しません。私は朝鮮人です。私の子どもたちも朝鮮人です。私たちを差別するならそれだけ強く生きていくだけです。朝鮮人として堂々とこの日本で生きていきましょう」と訴えた。
3面
寄稿 わたしたちの内なる優生思想を考える会 古井正代
いつかはあなた自身のことに
内なる優生思想
半世紀以上前から、私たち障害者は「おかわいそうに」、「役立たずで、お気の毒」という眼差しで見られ、社会では常にカッコつきで扱われる部外者でした。未だに、障害なんて自分とは関係ないし、かかわりたくもないと考える人がほとんどで、私たちの冊子の表題でもある「いつかはあなたのことに」という意識は、なかなか共有されにくいことのようです。
先の参議院選挙比例代表で、れいわ新選組から当選した木村さん、舩後さんに向けられた「利用されている」という言葉は、その昔は私たちに向けられていたものでした。1970年代、私は日本脳性マヒ者協会 青い芝の会の関西連合の代表を(関西青い芝を作って、解散させるまでの間)していたことがありました。その頃は、「養護学校は誰も行きたくない」、「地域から切り離された施設は人間が住む所ではない」、「そんなに良い所だと言うのなら、あなた方が入ればいい」と言って、さまざまな場面で抗議の直接行動をやったものです。その度に警察・機動隊が飽きもせず何回も出動したような時代でした。
彼らは「こんなことを脳性マヒが考えるわけがない。健常者が裏で動かして障害者を利用している」と言いました。だから、私の家や私たちの事務所に家宅捜索をして、裏で私たちを操っている健常者を逮捕したかったのが本音でしょう。もちろん、事実無根のそんな証拠も出るわけもなく、立件もされず、相手にもされませんでした。
半世紀近く経っても、障害者の人格も人権も無視するような世間の意識は今も変わりません。私が「戦争に向かう社会になれば私たち障害者の生きる空間はますますなくなる」との思いで、辺野古基地建設反対のビラまきをすると、私には直接言わないで周りの健常者に「あんなもんまで利用して汚い」と言う人があとをたちません。障害者は、上から目線で見下げる存在として「お可愛いそう」で、「大変」で、「お気の毒」のままであって欲しいと願う人びとにとって、私は目障りなのでしょう。
わかったつもり
すべての人が潜在的に障害者です。これは、生きとし生けるものとしての真実で、また、長い人生ではまぎれもない現実です。これから目を背けたいと思う心を、昔から、私たちは「内なる優生思想」と呼んできました。人間とは弱いものです。たとえ長年、障害者運動に身を置いて、障害者問題は解っているはずの人でも、他人事ではなくなるのです。「いざとなったら、自分が潜在的に障害者だ」という現実を忘れたふるまいをしてしまいます。立派な功績を残したと称えられ、尊敬されている人でも例外ではありません。健常者が中途障害になると、何もかもが変わるのです。何の準備も、心づもりもなしには乗り切れません。
70年代からの知り合いは、年を重ねて自身が障害を持ったら、今まで主張していた「どんな障害者でも地域でいっしょに暮す」を実行することもなく、施設や病院に入れられたまま死をむかえました。障害を持った自分を人前にさらすことに躊躇があったのでしょう。「健常者だった時が全て」の人生なら健常者に戻れなければ、周囲の判断で勝手に施設や病院をたらい回しにさせられるのも仕方がありません。障害と共に生きた事実を覆い隠すかのように、亡くなってからも「健常者だった時」の功績ばかりが称賛されるのです。総理大臣だった田中角栄のように。しかし、「障害者になったらおしまい」これは「障害者としての人生は無意味だ」と言うことです。極論すると「障害者はいらない」と言ったのと同じ事だと思うのです。障害者に関わる活動をしてきた人も、そうでない人も、障害者になってからの生き様でそれまで言っていたことが貫けたのか、目を背けずきちんと直視したいものです。それは、亡くなった人の額に唾するような、卑劣な行為とは全く別次元の問題です。なぜなら、先人が踏んだ轍から学べなければ、早晩自分も同じ道を辿ることになるのですから。
老いては障害者に学べ
私は障害児だと解った時、母親の「内なる優生思想」によって殺されかけました。その母親が70歳になった時に交通事故とがんで寝たきりの障害者になったのです。こういう時こそ私たちの生き様を教育する時です。私は母を引き取り「役立たず」で「お気の毒」のマイナスのイメージから解放しました。電動車椅子の乗り方やヘルパーへのやり取りをコーチしました。買い物に行って好きなものを選びお金を払うことで、障害者として生きる自信を持たせました。病院へもひとりで通院するように長時間かけて教育しました。母は電動車椅子で地下鉄やバスに乗って花見、花火大会、天神祭を楽しみました。可愛がっていた孫娘の卒業式に、飛行機に乗ってアメリカまで行きました。私といっしょに色んな所に出かけ、障害者としての第二の人生を亡くなるまでエンジョイしました。
健常者が年を重ねて障害者になったら、「別の人生がこれから始まる」「障害者としての生き方が初心者から出来る」と、ウキウキワクワクできる社会は実現不能な絵空事ではありません。今のままでは、あなたが障害を持つことになったら、私たち障害者と同じように人格や人権が無くなるのです。いつまでも、健常者の時のイメージを引きずっている様では、「内なる優生思想」から脱却出来ません。母のように、健常者もいつか障害者になる可能性、いや必然性があるのです。だからこそ、私たち障害者の堂々とした生き様を身近に見てもらって、自他ともに健常者だと思いこんでいる人びとの将来の不安を照らす一筋の光に・・・と願いつつ、私は今日も街中を出歩きながら、人々の視線のシャワーを浴び、目立って暮らし続けています。
理不尽への挑戦を楽しむ姿勢
どんな人も生きられる社会を目指すには、いらない命、捨てられる命はないということを、今回国会議員になった(舩後さん41歳で障害者としての人生を始めることになる)から学べます。舩後さんは、41歳まで自身が障害を持って生きることになるとは1秒たりとも思ってもいなかったでしょう。その彼が障害者の代表として国会に行くまでの20年間を想像してみてください。彼は業績の良い企業戦士として、人に称えられることはあったでしょうけど、意味もなく人権を無視されたり、上から目線で気の毒がられ、同情の渦の中にいたことなどなかったと思います。健常者としては順風満帆の人生を歩んでいたことでしょう。しかし、今は彼の動く所は目と口の中の噛みしめる所の筋肉しか動かないそうです。その彼が今や障害者の代表として国会議員になっているということは、障害者としての人生の今を目いっぱい生きようとしていることなのです。何しろ、健常者だった時の彼より、障害者で国会議員になった彼の方が世界初の人工呼吸器を装着した議員として注目を浴びているのは間違いないのですから。彼を紹介する時に「難病」と言う人が多いようです。しかし、確かにALSは国が難病指定した「難病」です。それも進行性ですから、当然のことながら「病気が治って」彼が健常者になることはありません。その意味で立派な障害者です。優生思想が浸透している、この社会で優秀な存在だった彼だからこそ、私達と同じように人格も人権もない扱いをされた時、人格・人権を奪われた怒りは、想像以上だったでしょう。そこで、人々は諦め障害者になった自分を憐れむのです。
そこを通過した彼は、今もその怒りが持続しているのです。しかも、障害を持った自身を悲観して後ろ向きになるのではなく、彼はギターを演奏してバンドも持って障害者の自分をエンジョイしてきたのです。舩後さんのこのような姿勢には、この国を明るく照らす光源となる素晴らしいポテンシャルを感じます。(KSKR積み木292号より転載)
「骨格提言」の完全実現を求める10・30 大フォーラム
とき:10月30日(水) 正午〜午後3時
ところ:日比谷野外音楽堂
主催:「骨格提言」の完全実現を求める大フォーラム実行委員会
子どもたちと食品添加物
アトピー、若年性がんの原因に
10月6日、「第21回、奈良からつながる市民の集い」が奈良市内でひらかれた。主催は、〈特定非営利活動法人市民ひろば なら小草〉。食品ジャーナリストの安部司さんが「食の本当の豊かさとは〜子どもたちと食品添加物〜」というテーマで講演した。
安部さんは『食品の裏側』(東洋経済新報社)という本を書いているが、この「裏側」の意味は、食品業界の裏側を知るとともに、食品包装紙の裏側に書かれている説明の内容を知ること。
たとえば、コンビニで買った食品の裏側をみれば、添加物として「調味料(アミノ酸)、PH調整剤、増粘多糖類、酸化防止剤、発色剤(亜硝酸Na)」などと書かれている。安部さんによれば、コンビニのサンドイッチやおむすびには10〜20種類の食品添加物が入っているとのことだ。
これらの添加物は、個別にはネズミ実験で「安全性」は確かめられている。しかし、人間が人工合成物を長年にわたり摂取しつづけて、なにも影響が出ないのだろうか。安倍さんによれば「子どものアトピー、若年性のがんなど、この添加物が影響している」可能性があると言う。
高度成長とともに、日本国内で加工食品の消費が急速に伸びはじめた。これらは@安いA便利B簡単CきれいD美味しいのが特徴だ。さまざまな食品添加物を加えることで、これが可能になった。安部さんは「みんなが便利さに魅せられて購買した。業界がもうかり、スーパー(コンビニ)がもうかった。なによりも主婦がいちばん喜んだ」と述べる。
日本人は「子どもの頃から化学調味料の味に慣れてしまい、これが青年期にスナック菓子の味を好むようになり、さらに成人になればインスタントラーメン(カップめん)の味を好むようになっていく」のだと、安部さんは言う。
今日では、食塩と化学調味料とたんぱく加水分解物(うまみ成分)、さまざまなエキス類(風味をつける)で、人工的に味をつくることができる。実例として、インスタントラーメンの粉スープは、これらを混ぜ合わせたもの。
安部さんは「これによって塩分、油分、糖分が〈とりすぎ3兄弟〉になる」と述べる。「濃厚な味にするために、食塩が多量につかわれている。さまざまな添加物により、食塩のしょっぱさが消されてしまい、塩味を感じなくさせている。コーヒー・フレッシュは牛乳からは作られるのではなく、植物油に乳化剤を入れてつくっている。このように油が姿をかえてさまざまなところで使われている。清涼飲料水などには、甘さを出すためにブドウ糖・果糖溶液が多量に使われている」と実情を詳しく説明し、注意を喚起した。
4面
請求権協定と8億ドル≠フゆくえ 第2回 請戸 耕市
外交文書に見る植民地正当論
連載第1回では次の2点について指摘をした。@日韓会談での日本政府の最大の眼目は、〈植民地支配は正当・合法〉の立場を押し通すことだった。A日本政府は、植民地支配にたいする告発と賠償請求の噴出を恐れ、その封殺に躍起になった。以上の2点について、実際の外交文書で確認しよう。
講和会議に臨む日本の態度
まず、サンフランシスコ講和会議(1951年)を前後する外交文書。
「植民地支配は合法・正当」「近代化に貢献」(1949年12月 日本政府文書)
「割譲地の経済的財政的事項の処理に関する陳述」
「これら地域はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され、世界各国とも久しく日本領として承認していたものであって、日本としてはこれら地域の放棄に異存はないが、過去におけるこれら地域の取得、保有をもって国際的犯罪視し、懲罰的意図を背景として、これら地域の分離に関連する諸問題解決の指導原則とされることは、承服し得ない」
「…植民地に対する搾取政治と認められるべきではないことである。逆にこれらの地域は日本領有になった当時はいずれも最もアンダー・デヴェロップト(発展途上)な地域であって、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもっぱら日本側の貢献によるものである…」
この文書は、日本が連合国にたいしておこなった表明。
まず、表題の「割譲地」。「割譲」とは、〈国家間の合意によって領土主権を譲渡する〉の意。日本が侵略・支配した地域を、敗戦を機に連合国の支配に譲渡するとしている。したがって植民地支配からの解放ではないと主張している。
しかも、「国際法、国際慣例上普通と認められていた方式」「世界各国とも久しく日本領として承認」とあるように、「植民地支配は正当・合法」という認識が、ストレートに表明されている。そして、後進地域の「近代化への貢献」であって、非難されるいわれはないと主張している。
「韓国併合は適法」「独立は分離」(1949年3月 外務省内部文書)
「日本による朝鮮の併合は、日本と当時の朝鮮政府との間の併合条約に基づいて適法に行はれたもの…(であるがゆえに)…朝鮮独立は国際法上に謂う分離」
ここでは、1910年「韓国併合」が「適法」だったと主張している。その立場からすれば、48年の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の樹立は、「国際法上に謂う分離」であって、植民地支配からの解放ではないとなる。
「単なる財産・債務の継承関係」(1952年 外務省・内部文書)
上の立場から、請求権に関して、次のような主張が導き出されている。
「今回の桑港条約(サ条約)による朝鮮の独立承認については、朝鮮は日本とは戦争関係になかったのであるから、もとより賠償問題の生ずる余地はなく、従って両国間の請求権問題は単なる領土分離の際の国の財産及び債務の継承関係として取り扱われるべきものである」
請求権の問題を、〈植民地支配責任を問わない単なる領土分離に伴う民事的な債権・債務の処理〉という問題に切り縮める考え方が示されている。
久保田発言と会談決裂
日韓会談の場(1953年10月)で、日本側代表(久保田外務省参与)が、上の主張を韓国側代表にぶつけ、以下のような応酬となった(日本側・韓国側会議録・要旨)。
【韓国代表】「本来なら、韓国は、36年間の日本支配の被害にたいして、補償を要求する権利を持っているが、それは差し控え、純粋に法律的な請求権のみとした。日本も、韓国にたいする請求権主張を撤回してほしい」
【日本代表】「(韓国が日本支配の被害補償を言う)ならば日本側も補償を要求する権利を持つ。なぜなら、日本は36年間に、禿山を緑の山に変えたとか、鉄道を敷いたとか、水田を増やしたとかで多くの利益を韓国人に与えたからだ」
【韓国代表】「日本に占領されなかったら、韓国は独自の力で近代国家を築いていただろう」
【日本代表】「日本が進出してなかったら、韓国は中国かロシアに占領され、もっとミゼラブルな状態に置かれただろう」
議論は請求権を巡るものだが、ここでは日本側が韓国にたいする請求権を主張しており、その撤回を韓国側が求めている。
日本が韓国に請求権を主張するとはどういうことか。解放まで朝鮮に居住した約70万人の日本人の資産、日本の支配と独占によって蓄積された資産であり、日本敗戦後は米占領軍が接収・管理していたのだが、韓国にたいしてそれを返還しろというのだ。盗人猛々しいにも程がある。
日本側の対韓請求権主張の狙いは、直接には韓国の対日請求権を相殺することだが、何よりも、植民地支配からの解放と独立をかちとった立場で会談に臨む韓国政府の態度が「思いあがった、国際社会の通念のレベルに降りてこない」(久保田・内部文書)態度だから叩き潰したいということだった。
久保田発言のために会談は決裂し5年間も中断するが、久保田発言はもちろん個人的な見解や、でまかせではなく、上の外交文書にもある日本政府の公式見解であり、後日、国会にも岡崎外相から報告されているもの。
「反日・李承晩打倒」まで主張
しかも、会談決裂自体が予め意図されたものだった。久保田は事前に、「李大統領の反日的態度」の下で会談を急いでまとめる必要はないとして「李が没落すれば、知日派が台頭する可能性あり」という内部文書を作成し政府内の意思統一を図っていた。
さらに決裂直後の内部文書では、「朝鮮人は…あたかも日本に対して戦勝国であり陳謝を要求すべきであるかの如き錯覚を今尚持っている」「我々としては李打倒の努力を開始すべきである」と、植民地支配者の態度で、解放と独立を勝ち取った韓国民衆の力を憎み、親米反共で独裁的だが独立運動家であった李承晩の打倒を言うまでに至っている。
その後、58年の会談再開時はまだ李承晩政権が続いていたが、60年4・19革命で李承晩政権が倒れ、さらに5・16クーデターで満州国人脈の朴正煕が登場することで、図らずも久保田の見立てた方向に展開していった。
「完全かつ最終的な解決」の意図と詐術
日韓会談の最終盤、協定の条文案作成に携わった日本の官僚(佐藤外務大臣官房審議官)の証言が記録されている(1965年 外務省文書・要旨)。
「賠償請求はいちゃもん」
「第2条の審議で、一体請求権とは何だという話になった。財産、権利、利益は国内法上エスタブリッシュ(確立)されたもので、請求権がそれ以外のものだというならば、一種の『いちゃもんをつける権利』ではないかとなった。そこで処分の対象になるのは、そのいちゃもん権ではなくて、むしろ財産、権利、利益の実体的な権利の方だと、だんだん考えがはっきりしてきた。それでもなお請求権は残るのではないか、損害賠償請求権が発生していないけれども文句は言っているというものまでつぶしておかないといけないから、あとに『請求権』という字句を条文に入れたわけだ」
「いちゃもん」とは不当な言いがかりという意味だ。つまり、日本の植民地支配にたいする賠償請求は「いちゃもん」である。「いちゃもん」は除外し、財産・権利・利益などの〈債権・債務の処理〉は国内法で確立したものを、協定の解決対象にする。その上で、「いちゃもん」を「つぶす」ために、「請求権」という文言も入れて、まとめて「解決した」として封殺する。
ここに「完全かつ最終的な解決」の意図と詐術が明け透けに語られている。
「犬殺し」
「韓国側が終始いっていたことは、日本の案は森に逃げ込んだ犬を殺すために森を全部焼いてしまう考え方だ。そうではなく犬をひっぱり出して、それを殺せばいい(というのが韓国側の主張だったが、最終的な)韓国案を見ると、我が方の犬殺しの考え方が3項に出てきているので、これでできたと思った」
ここで言われている「犬」とは、植民地支配にたいする賠償請求である。それを「殺す」と表現している。しかも、日本側の「犬殺しの考え方」は「森を全部焼いてしまう」、つまり、広い意味での請求権にかかる一切を断ち切り、もって植民地支配にたいする賠償請求を封殺するという方針だった。そして、協定2条3項に「請求権…に関しては、いかなる主張もすることができない」という文言が入って、完全封殺できたと述懐している。この時点の韓国側・朴正煕政権は、「犬殺し」の共犯である。
戦後日本の土台
以上の言説は過去の話でも、一部の反動分子の偏った考えでもない。日本政府の一貫した公式見解であり、現在の日本を規定する考え方だ。安倍政権やメディアが主張し、巷間の議論でも言われている内容そのものだ。
つまり、戦前から継承された植民地主義が戦後日本国家の土台として存在しており、それがいま噴出しているということだ。
だから〈反動的な政府の主張であって、民衆は違う〉と単純にはならない。〈日本〉という枠に規定されている以上、逃れようのないわれわれ自身の問題である。このことに正面から向き合い、対決する必要がある。それが、日韓民衆の連帯の土台である。
本稿ではまだ、植民地主義的な歴史認識・朝鮮観の主張を列挙したに過ぎない。これを徹底批判することが急務である。というのも、「植民地支配は正当」「近代化に貢献」という主張に韓国側から呼応した著作『反日種族主義』(イ・ヨンフン元ソウル大教授)が韓国でベストセラーになり、日本語版が年内に文芸春秋社から出版されるからだ。
もっとも、こういう問題が争点となっていること自体が前進である。「平和」や「民主主義」で偽装され隠蔽されてきた戦後日本の反動的な土台が引きずり出され、ようやく裁きにかけられるからである。(つづく)
5面
兵庫県伊丹市
大阪空港を米軍が自由使用
政府指針を先取りする市長
オスプレイ緊急着陸
今年4月1日、米海兵隊普天間飛行場所属のオスプレイ1機が大阪国際空港(伊丹空港)に緊急着陸する事件が起こった。伊丹空港は市街地中央に位置する都市型空港で特別の安全が求められているにもかかわらず、何の予告もなしに米軍ヘリ・オスプレイの着陸が認められたことは由々しき問題である。
これにたいし、周辺自治体の複数の首長から抗議の声が上がり、これを受けて大阪国際空港周辺都市対策協議会(10市協)の会長名(兵庫県伊丹市長)で、国土交通省、防衛省、関西エアポート株式会社に抗議がおこなわれたが、誠実な回答は無かった。周辺自治体の議員たちは近畿中部防衛局に申し入れをし、周辺住民らは大阪米総領事館に抗議行動をおこなった。6月伊丹市議会でも質問が出されたが、内容ある回答はなかった。結局オスプレイは、どこからどこに向かって飛行していて、いかなる理由で大阪国際空港に緊急着陸したのかは不明のままであった。
G20で56回離発着
これに続き6月28〜29日のG20大阪サミットでは、各国首脳は関西国際空港(大阪府泉佐野市)を使用したが、米大統領専用機や大統領車両運搬機だけは連続的に大阪国際空港を使用した。大統領や側近の車両などを運搬するヘリなどを含めて合計56回も離発着した。また自衛隊機も12回使用していたことが判明した。夜9時以降は離発着が禁止されているにもかかわらず、午後11時前後に2機が離陸し、周辺住民は就寝時の爆音に驚いた。この件に対しても周辺自治体議員から疑問の声が出されたが、10市協から口頭で国土交通省などへ申し入れしただけだ。
これは首都圏では米国首脳が来日時に米軍横田基地を使用しているのと同じように、関西では大阪国際空港(伊丹空港)を米軍基地同様に自由使用する権利を米国が持っている(日米地位協定)からに他ならない。
市民の安全を無視
伊丹市や川西市をはじめとする大阪国際空港周辺住民は、長く空港の騒音や夜間飛行などに悩まされ、また都市型空港から来る危険性とたたかい、夜9時以降の飛行差し止めをはじめ、各種安全策をかちとってきた。
しかしながら、米軍・米国政府の伊丹空港自由使用とそこから来る危険性にたいし、行政は市民の安全を守る十分な措置を取る必要があるにもかかわらず、それを怠っているのが伊丹市政だ。
さらに藤原保幸伊丹市長は官邸―総務省の意向を先取りした施策を次々おこなっている。
@伊丹市は「安心・安全の町」と称し、いち早く監視カメラを1000台規模で設置。「安心・安全」は費用対効果も含め十分検証されてないが、「日本一安心の町」の宣伝グッズだけが氾濫。
A2017年秋、伊丹市は国の幼児教育無償化に先んじて幼稚園・保育所の統廃合案を提示。短期日の性急な審議に抗議して2万3000筆の反対署名が集まったが、これを無視して18年3月に付帯決議をつけ再議を強行した。付帯決議の内容は翌19年9月議会で、無視されたことが判明した。
B市政全般でも市民の声を聞かず、短期日で伊丹市役所建て替え計画をすすめ、公共施設(女性・児童センター、中央公民館など)の統廃合・移転を次々と強行している。
C19年4月には入管難民法の改悪を機に、これまでの市民自治と結合した外国人市民との共生事業を一方的に切り捨て、再編しようとした。
D高度急性期医療病院の建設を理由に、伊丹市民病院と近畿中央病院(公立学校共済組合立)の統廃合をおこなおうとしている。あわせて859床の病院を統廃合し500〜600床の新病院に移行すれば、回復期や慢性期の病床が大幅に削減され、市民の身近な医療が削られる。ここでも形ばかりの審議会やシンポジウムを開くだけで、市民の声は聞こうとしない。
伊丹市は、米軍や米政府の航空機が大阪国際空港(伊丹空港)を自由使用していることには形ばかりの抗議しかしない。他方、幼児教育、医療、外国人との共生施策については、市民の願いを踏みにじって官邸・総務省の指針を先取りする。国土交通省出身の藤原市長に大きな疑問の声が出ている。(安藤陽一)
米軍、防衛省は約束守れ
9月27日 京丹後市に申し入れ
京丹後市当局と地元住民が交渉 |
9月27日、米軍X バンドレーダー基地反対京都連絡会は、京丹後市当局との話し会いをおこなった。これは、6月18日付と9月12日付で同市に提出していた申し入れ書とその回答をめぐるもの。
話し合いには〈米軍基地建設を憂う宇川有志の会〉永井友昭事務局長と増田光夫代表も出席。京丹後市側は基地対策室の下戸室長と松本主幹が出席。
申し入れ書への回答は、梅田副市長の発言内容をなぞるだけのもの。米軍や防衛省が、当初の安全・安心対策連絡会(安安連)で確認した約束を破り、米軍人・軍属の交通事故の詳細を昨年2月から公表しなくなったことや、今年3月の安安連から事故件数のみの公表になったことについて、梅田副市長が安安連で「理解できる」と言い、市議会では「容認はしていない」と言っている。基地対策室としては、情報の詳細をできる限り求めるという。
その他、防衛省との確認として、「現時点では鋼鉄製シェルターや監視塔を建てる予定はなく、防御壁のみ建設予定である」、「二期工事で三角地のゲート建設の予定はない」、「自衛隊PAC3の配備予定はない」ことなどが報告された。「約束違反の土曜工事」については、京都府が防衛省に抗議の申し入れをおこなっているが、それよりも後退した梅田副市長の発言を確認するだけだった。
京都連絡会は、この話し合いの場に梅田副市長が出てくるよう要請した。また安安連や交通事故の報告など、他府県の米軍基地所在地にはない実績を京丹後市の住民が勝ち取っていることを指摘し、京丹後市がこれを守り全国に広めるよう要請して、2時間にわたる話し合いを終了した。この日は丹後地域へのポスティングや米軍Xバンドレーダー基地への抗議行動などをあわせておこなった。(米原幹男)
狭山事件の再審を!関西キャラバンスタート
しんどい仲間たちとの連帯を求めて
9月23日、釜ヶ崎ふるさとの家で、「狭山事件の再審を! 関西キャラバンスタート集会」が開かれ、〈釜ヶ崎住民の会〉をはじめ、関西各地の狭山再審を求める住民の会ら74人が参加。熱気に満ちた報告と討論がおこなわれた(写真)。
開会あいさつで、ふるさとの家神父/狭山事件の再審を求める釜ヶ崎住民の会共同代表の本田哲郎さんは、「情報も知識も持っている裁判官が何故動かないのか」と問いかけ、「それは視座が間違っているから」と提起。水平社宣言の「人を労わるかのごとき運動がかえって多くのきょうだいを堕落させた」との言葉を引き、支援者は「石川さんを助けましょう」ではなく、「石川さんの悔しさ、怒りに連帯しよう」とよびかけ、「キャラバンは集会などに来にくい人たちに届くような取り組みをやっていく」と、関西キャラバンの意義を提起した。
再審闘争の現状
部落解放同盟狭山中央闘争本部の安田聡さんは「狭山第三次再審請求審の現状」を報告。下山第2鑑定に対する反論を出すと言いながら1年以上にわたって引き延ばしている検察を厳しく批判した上で、「キャラバンで何を訴えるべきか」を提起。安田さんが特に強調したのは、筆跡の違いおよび差別見込み捜査。
警察は1963年5月11日に、スコップを発見。翌日には「スコップの所有者が判明」との記事が出た。警察が「スコップの所有者」と発表したのは、部落出身で養豚場を経営していたIさん。ところが、埼玉県警鑑識課が「スコップはIさん経営の養豚場にあったもの」との鑑定を出したのは、ずっと後のこと。鑑定してから発表するのではなく、はじめから「Iさんのもの」と決めつけた上で、結論に合うように鑑定を操作している。順序が逆なのだ。
埼玉県警の鑑定は「スコップには豚のエサに交じる油が付着していたからIさんのものだ」というが、当時の狭山市で豚を買っていた家は2百軒をくだらない。それを全部調べたのか。全く調べていない。スコップに付着していた土が同じだというが、狭山市の土を掘れば、全部同じ土が出る。スコップはIさんのものだとする埼玉県警の鑑定には何の根拠もない。
重要なことは、スコップの発見が被差別部落の青年の筆跡や血液型を片端から調べる差別的見込み捜査の引き金にされたこと。部落に対する差別と偏見が、石川さんをえん罪に陥れた。これが狭山差別裁判の原点だ。
世代を超えて
会場討論と交流会では、ある女性から「被差別部落への見込み捜査が始まったとたんに、それまで捜査協力を拒否していた婦人会が、率先して炊き出しをおこなうなどして捜査に協力していった。私は、狭山にかかわる時に、自分の差別性を問わずにはかかわれない」と話した。
また、別の女性は「今回のキャラバンは動員でおこなわれるものではなく、狭山再審のために何かをしたいという一人一人を主人公に、キャラバン隊が彼ら彼女らの行動を助けようというものだ。キャラバンの一環としておこなわれるTシャツ・短歌コンテストを通して、狭山を世代を超えて広めていこう」とよびかけた。
集会は、予定の時間を1時間超過し、4時間半の報告と討論を行い、「差別裁判うち砕こう」の大合唱で締めくくられた。
キャラバンルートは、「狭山事件の再審を実現しよう市民のつどいin関西 公式ホームページ」(sayamakansai.com)に掲載され、随時更新が予定されている。狭山を身近に広めていく絶好の機会として、近隣によびかけ、関西各地でキャラバンに合流していこう。(深谷耕三)
6面
近代知識人の朝鮮観
蔑視論から征韓論へ
9月30日、大阪市内で仲尾宏さん(京都造形芸術大学・客員教授)が、「近代知識人の朝鮮観―蔑視論から征韓論へ」というテーマで講演した。仲尾宏さんの講演要旨は以下のとおり。
皇国史観と朝鮮蔑視
1764年の第11回を最後に朝鮮通信使は途絶えてしまった。1811年、第12回は対馬で差し止めになった。朝鮮通信使が途絶えた直接的な理由は、幕府の財政難であった。この頃、すでに知識人の間に朝鮮蔑視論が現れている。
林羅山(1583―1667)は、著書に『朝鮮通信来貢記』(1617年)がある。すでに従属関係を示す「来貢」という言葉がつかわれているのだ。
新井白石(1657―1725)はりっぱな学者で、彼は朝鮮通信使にたいして手厚くもてなした。しかし、彼の思想は「神功皇后三韓を征し給ひ」とあるように皇国史観であった。また、「朝鮮の事長く隣好を結ばるべき国に非ず」(「朝鮮聘使後議」)とも記している。彼の朝鮮蔑視論は、皇国史観からきている。このように、江戸時代の知識人は『古事記』や『日本書紀』などの古典から多くを学びとっていたため、その知識が思想の基盤をなしており、皇国史観から自由ではなかった。
佐藤信淵(1769―1850)にいたっては、完全に日本中心史観になっている。1832年に、佐藤は「今に当て、世界万国の中に於て皇国よりして攻め取り易き土地は支那国の満州より取り易きは無し」(『垂統秘録』)と述べ、対外侵略思想を展開している。幕末になると、この排外思想は吉田松陰(1830―1859)に受け継がれるのだ。
山田方谷(1803―1877)は、1863年に「朝鮮を征伐するべし」と述べている。これ以降、知識人の間で征韓論が広がっていく。この頃、木戸孝允も征韓論者であったが、岩倉使節団でヨーロッパを見学してから、彼は征韓論をひっこめている。
西郷隆盛(1828―1877)は、世のなかでは征韓論者と言われているが、じつは征韓論者ではなかった。西郷は「韓国に兵を出すのは愚策である。話し合うために、まず自分が朝鮮に行きたい。もし自分が殺されることにでもなれば、軍を出す口実ができるではないか」と述べていた。
江戸時代の知識人は、朝鮮蔑視論者ばかりではなかった。人数は少ないが、征韓論を批判し、反戦・平和論を述べていた人もいた。
貝原益軒(1630―1714)は、儒学思想から「人の国をむさぼりて、人を多く殺す武といふべからず」と記している。
雨森芳洲(1668―1755)は、「誠信と申し候ハ実意と申す事ニて、お互いに不欺不争、真実を以て交り候を、誠信とは申し候」(『交隣酲醒』)と述べている。
乳井貢(1712―1792)は、あまり知られていない人だが、弘前藩に仕えた武士だ。「太閤は異国に押し入り人の妻子家僕を暴殺し家国を乱奪して吾が有とせんとす」(『志学幼弁』)と記し、秀吉の朝鮮侵略をはげしく弾劾している。
安藤昌益(生年月日は未詳、18世紀後半)は、八戸で医者をしていた人で、彼は『自然真営道』のなかで秀吉の朝鮮侵略を批判している。
このように、幕末になるにつれて対外侵略思想が強くなり、朝鮮蔑視論から征韓論が登場するに至った。朝鮮通信使の交流がなくなったことが直接の原因ではないが、この事がなんらかの影響をおよぼしたことは確かだろう。(津田保夫)
本の紹介
歴史修正主義との対決 正念場
『歴史戦と思想戦〜歴史問題の読み解き方』
(山崎雅弘著 集英社新書 19年5月刊・本体920円+税)
産経新聞出版が2014年に出版した『歴史戦』で、「韓国が『(慰安婦問題中心に)歴史を武器にした戦争=歴史戦』を挑んできた以上、日本もこれに正面から反撃する『戦争』を行なう必要がある」と、ぶちあげたことが始まり。それは、第1次大戦直後の1920年代から日本軍部が着目し、中国侵略戦争の開始翌年から政府が国策として展開した「思想戦」と瓜二つであり、その焼き直しだという。
戦前うけつぐ「思想戦」論法
筆者は、以下のようなトリックを指摘する。@南京虐殺の本質的な論議を「人数の問題」にすり替える。数字の信憑性を問題にし、数字への疑問を「慰安婦」問題全体の信憑性への疑問に結びつける心理誘導のテクニックだ。「誤った2分法」と呼ばれる詭弁論法の典型である。つまり、多面的に検証すべき問題を本来比較の対象になり得ない次元の異なるAかBかという2項対立にすり替え、Aの信憑性を否定すれば自動的にBが正しいと立証されたかのように錯覚させる手法だ。A「議論が分かれている」という事実を利用したトリックでは、「歴史研究者の間でも議論が分かれ」ていること、被害者の人数や事情が「不確か」であることを理由に、特定の過去の出来事を「事実である」ことを保留する手法である。
「いつまで日本はアジアに対して戦争の謝罪を続けなければならないのか」という「嘆き」をよく聞くが、筆者はドイツと日本の違いを鮮明にする。ドイツにはナチス政権によるユダヤ人虐殺行為のあった、ダッハウやザクセンハウンゼンの強制収容所を博物館とする施設が数多くあり、ドイツ政府は、批判と反省を内外に向けて総括している。虐殺が「なかった」と否認する行為は、犯罪行為として取締りの対象にすらなっている。かつてドイツの侵略を受け、国内のユダヤ人が虐殺された周辺諸国が現在のドイツを声高に非難するような光景はみられない。
たいする日本に、アジアの人々に対する虐殺や非人道的行為を批判と反省の文脈で展示する博物館や施設がどれだけあるか。ほとんどない。逆にいまなお、南京虐殺のような行為を「なかった」と国会議員や首長らが公然と主張することがまかり通っている。それが、アジア諸国の人々を不安と怒りに陥れる。
戦争への謝罪、「謝罪、反省」の本当の意味は、平和を突き崩す権力の暴走を監視、制御するたたかいだから、本質的にエンドレスだ。
「表現の不自由展」での平和の少女像で、中止に追い込んだ急先鋒の河村たかし名古屋市長は2012年、姉妹都市の南京市の訪問団と会談した後の記者会見で「一般市民の虐殺行為はなかった」と述べ、これを支持する意見広告の賛同人に安倍晋三総理大臣が名を連ねている。
「歴史修正主義」とのたたかいは、いよいよ正念場を迎えている。本書を学ぶ必要を痛感した。(村)
読者の声
「向こう側が追いつめられている証拠だ」
10月8日、静岡県三島市で「関西生コン労組への大弾圧を許さないぞ! 静岡県東部集会」が開かれた。主催は新社会党静岡県本部。元国鉄闘争団の故野田紀章氏のお連れ合いをはじめ、40人近くの仲間が結集した。
菊池全日建中央執行委員長から、すさまじい弾圧の内容を中心に、基調報告がなされた。質疑・討論では、郵政ユニオンや国労組合員、環境問題に取り組んでいる人、沼津市の高校教員など数人が、それぞれの体験をまじえて相次いで発言した。
なかでも全日建OBによる「この弾圧は向こう側が追いつめられている何よりの証拠だ」という発言が印象的であった。
「かんなま勝手連・しが一同」から「9月7日に滋賀県内の警察署・拘置所から38人の仲間全ての釈放を勝ちとった」というメッセージが読み上げられ、大いに盛り上がった。
なお1万円札を寄せられた人をはじめ、多額の会場カンパが集まった。
最後に全員で「関生を弾圧から守りぬくために全力でたたかうぞ!」と、力強くシュプレヒコールを三唱して散会した。(S)