未来・第271号


            未来第271号目次(2019年6月6日発行)

 1面  新基地ノー、 埋立てやめろ
     抗議の声5千人 国会を包囲
     5月25日

     辺野古反対、民意は屈せず
     土砂搬入に連日の抗議

     老朽原発を動かすな
     関電本店前で全国集会
     5月19日

 2面  関生スト弾圧公判始まる
     地裁前で終日の抗議行動
     5月15日 大阪

     琉球遺骨返還請求裁判
     盗掘は差別、京大は謝罪を

     なぜ遺骨は奪われたのか
     学知の植民地主義を糾す

 3面  強制不妊問題
     被害者の無視・排除を許さない
     国と国会は謝罪と補償を      

     強制不妊国賠訴訟
     仙台地裁が不当判決
     5月28日     

 4面  4回連載 三船 二郎
     マルクス革命論をあらためて学ぶ(第1回

     ロスジェネの気持ち
     「あの頃に戻ってほしくない」
     37歳男性との討論から

 5面  直撃インタビュー第39弾
     分断、差別、同化、追放 日本の在日・外国人政策
     「在日」を貫く李相泰さんに聞く(中)

 6面  中野晃一・福島みずほさんが対談
     分断許さぬ市民の声を
     憲法フェスタ

     朝鮮通信使の果した役割
     200年に12回の信頼・信義

     読者の声
     腹立たしい天皇代替わり
     「より添い」キャンペーン

     (短信)
     原発 「特定技能者」    雇用方針を凍結

       

新基地ノー、 埋立てやめろ
抗議の声5千人 国会を包囲
5月25日

「辺野古新基地建設反対、安倍政権の暴走をとめよう」国会を5千人が取り囲んだ(5月25日)

5月25日、国会を取り囲んで、「『示そう 辺野古NO! の民意を』全国総行動-止めよう 辺野古新基地建設 9条改憲 安倍政権の暴走を! 5・25国会包囲行動」が開かれた。この日の東京は最高気温が32度の猛暑となったが5000人が集まった。主催は、基地の県内移設に反対する県民会議、「止めよう! 辺野古埋立て」国会包囲実行員会、戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会の三者。
川口真由美さんのオープニングライブに続いて午後2時から始まった集会では、「止めよう! 辺野古埋め立て」国会包囲実行委員会の野平晋作さんの主催者あいさつで、この日、32都道府県、38カ所で同趣旨の行動が取り組まれていることが報告された。発言は、作家の落合恵子さん、ヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さん。玉城デニー沖縄県知事からのアピールの紹介。カンパアピールを挟んで各政党の代表があいさつ。続いて沖縄県民投票の結果を尊重せよという市議会決議をあげた武蔵野市の市議会議員・内山さと子さんと、総がかり行動実行委員会・藤本泰成さんが発言した。アピール文の採択、高田健さんのあいさつで第1部を終えた。
安次富さんは「沖縄は、昨年辺野古新基地反対を掲げる玉城デニー知事を当選させました。2月の県民投票においても、43万票余りの圧倒的票数で私たちの民意を示しました。ところが、安倍政権は、この沖縄の意思を一顧だにもしません。なんという政府でしょうか。なんという民主主義国家でしょうか。これからの沖縄の道は私たちで切り開く。ですから、辺野古の埋め立てが強行されても、座り込み、海上抗議行動を展開しています。私たちの合言葉は『けっしてあきらめない』です。東京の皆さん、全国の皆さんもこれを合言葉にたたかいを続けてほしいと思います」と運動のさらなる強化を訴えた。
2部では、リレートークがおこなわれ、各団体から辺野古の海への土砂投入にたいする抗議の意志や新基地建設を許さないという決意が語られた。最後に、国会を包囲するヒューマンチェーンをおこない、行動を終えた。

辺野古反対、民意は屈せず
土砂搬入に連日の抗議

キャンプ・シュワブゲート前で土砂投入に抗議する市民ら(5月27日 名護市内)

5月11日 名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前で、毎月の土曜日県民大行動が開かれ、市民500人が参加。衆議院沖縄3区補選で民意が示された後も、工事を強行する政府に怒りの声が上がった。補選で当選した屋良朝博衆議院議員は「辺野古反対の民意を政府に浸透させる」と決意を述べた。 17日 日本復帰から47年を迎えた沖縄で、「第42回5・15平和行進」(主催・同実行委員会/沖縄平和運動センター)が中北部基地コース、南部戦跡コースで始まった。中北部基地コースは、辺野古のキャンプ・シュワブゲート前に県内外から350人が参加。3日間の平和行進に出発した。

宜野湾で県民大会

19日 宜野湾市の宜野湾海浜公園野外劇場で「平和とくらしを守る県民大会」が開かれ、2000人が参加。実行委員長の山城博治さんは「この大会で、沖縄の今を発信する。沖縄の怒りと県民の思いを全国で共有しよう」と訴えた。
21日 沖縄防衛局は、埋め立て土砂の搬出のために本部港塩川地区を再使用した。塩川からの搬出は4月25日以来、約1カ月間なかった。沖縄防衛局は、民間警備員を委託し、岸壁から70メートルにわたってフェンスなどを設置し車両の進入路を造った。「フェンスは市民を排除するもので、条例で定められたものではない」と抗議の声があがった。
この日、本部港塩川地区から搬出された土砂は10トンダンプ181台分で、名護市安和の琉球セメント桟橋からの搬出(通常10トンダンプ500台)に比べて効率が悪い。沖縄防衛局は本部港塩川地区を使うことで工事加速の印象をつくろうとしている。

造成進むK8護岸

24日 沖縄防衛局は辺野古崎東側に位置する「K8護岸」の造成作業を進めている。この日は計画されている長さ250メートルのうち200メートルほどが完成しているのが確認された。
「K8護岸」は「K9護岸」と同じように土砂搬入の「桟橋」として使用される。これが完成すると土砂搬入が加速する。
本部港塩川でも土砂搬出がおこなわれた。塩川では沖縄防衛局の委託を受けた民間警備員が網を使い市民の行動を封じた。市民は、民間人が民間人を包囲するという事態に、県北部土木事務所や県庁に、指導を申し入れた。
27日 キャンプ・シュワブゲート前には早朝から市民が座り込み。9時半ころ工事車両が到着、市民はスクラムを組みゴボウ抜きに備える。スクラムの市民は機動隊の排除攻撃にも果敢にたたかう。車両搬入時には、「県民投票で反対の民意は示された」「美ら海を守れ」など怒りの声を上げた。(杉山)

老朽原発を動かすな
関電本店前で全国集会
5月19日

御堂筋をデモ行進(5月19日 大阪市内)

5月19日、「老朽原発うごかすな! 関電包囲全国集会」が、大阪市北区の関電本店前でおこなわれ、全国から750人が参加した。主催は〈原発うごかすな! 実行委員会@関西・福井〉。
集会は〈若狭の原発を考える会〉木原壯林さんが主催者あいさつ。発言者は以下の通り。40年超え運転を規制委員会が認可した東海第2原発再稼動差し止め訴訟・原告団、なくそう原発・核燃あおもりネットワーク、原発いらない福島の女たち、たんぽぽ舎、浜岡原発を考える静岡ネットワーク、脱原発アクションin香川、ストップ川内原発! 3・11鹿児島実行委員会、名古屋の40年廃炉訴訟市民の会、原発賠償京都訴訟・原告団、高浜原発の地元高浜町で原発反対を掲げ町議選で再選を勝ちとった渡辺孝さん、福井県労働組合総連合、福井県平和センター、放射線副読本を回収させた野洲市会議員の田中陽介さん、ストップ・ザ・もんじゅ、原発ゼロの会・大阪、さよなら原発神戸アクション、さよなら原発なら県ネット、脳性まひ者の生活と健康を考える会。労働組合から全日建連帯労組関生支部、釜ヶ崎日雇労働組合、フォーラム平和・関西ブロック、全労連・近畿ブロック。集会決議を採択し、オール福井反原発連絡会・林広員さんが閉会のあいさつ。その後、御堂筋を難波までデモ行進した。

画期的な陣型

5・19関電包囲全国集会は旧来の枠を突破する1000を超える個人・団体の賛同を得て成功した。大阪の反原発運動では統一行動がむずかしかったが、今回は「老朽原発うごかすな!」一点で多くの組織、個人が結集した。この夏から秋、来年と、「老朽原発うごかすな!」の声を大きくしていこう。40年超え老朽原発の再稼動を止めよう。(仰木 明)

2面

関生スト弾圧公判始まる
地裁前で終日の抗議行動
5月15日 大阪

大阪地裁前の公園で抗議のシュプレヒコール(5月15日 )

5月15日、大阪地裁で、連帯ユニオン関西地区生コン支部のストライキを「威力業務妨害」とした弾圧の第2回公判が開かれた。この日は地裁前で終日、抗議の座り込み闘争がおこなわれた。これは2月1日の大阪地裁での第1回公判やその後の大津地裁での公判で、国家権力や独占資本の意を受けた大阪広域生コンクリート協同組合が動員をかけて法廷の傍聴席を占拠し、組合員に暴言を吐くなどしてきたことへの反撃だ。労働組合つぶしの大弾圧を許さない実行委員会の呼びかけに応え、平日にもかかわらず、終日150人を超える労働者や市民がすわり込みに参加した。

傍聴席制圧を許さず

15日は午前8時から裁判所前の公園で集会を開き、9時過ぎからの傍聴券の確保へ。傍聴席全体の3分2を確保し、広域協組による「傍聴制圧」を許さなかった。傍聴闘争と呼応して裁判所前では座り込みと抗議集会。関生支部組合員、支援の労組・市民団体が炎天の中で歌あり、パフォーマンスあり、シュプレヒコールありの解放感あふれる空間が大阪地裁前につくりだされた。裁判終了後は、被弾圧者があいさつし、弁護団が裁判について報告した。
15日の公判で検察官は「ストライキと称した威力業務妨害」をくり返し、過去の関生事件の判決を取り上げて、あたかも「一連の行為」であるかのような予断を裁判官に植え付けようとしたことに、弁護団は断固として抗議。証拠として提出された2017年12月12日の宇部三菱の関連会社・植田組と大阪中央生コンのストライキの様子を写した画像は、組合の行動はスト破りへの説得活動であり、そこになんら違法行為がないことがかえって明白となるものだった。

会社が「自作自演」

22日の第3回公判の証人は、ストライキの現場で前面に立っていた植田組の江袋総務部長。その尋問で、会社が「ストライキによる業務妨害」を演出するために、注文や発注がないにもかかわらず、生コンやバラセメントの出庫や入庫を終日おこなっていたことが明らかにされた。「威力業務妨害」は会社の自作自演だったのだ。
27日には、第2次弾圧の初公判が開かれた。公判は武委員長、西山執行委員と柳元副委員長の3人が「共謀」して17年12月のストで「威力業務妨害」をおこなったとされた事件。まさに「共謀罪」適用と言うべき弾圧だ。「『共謀』というが、誰と・いつ・どこで・どのように『謀議』したのか明らかにせよ」「『威力業務妨害』の概念を明らかにせよ」と追及する弁護団に、 裁判官が「今の段階で釈明は必要なし」と検察を擁護。意見陳述で3人は労働組合の正当な活動を犯罪とする弾圧を弾劾し、関生支部の54年間にわたる産別労働運動の歴史を堂々と述べた。セメント、ゼネコンの大手独占支配によって搾取される中小零細の生コン業界で働く労働者の生活と雇用を守ってきたという陳述に、傍聴席から拍手がわき起こった。

無罪判決獲得へ

5月の大阪地裁のたたかいは、滋賀・大津地裁のたたかいとともに多くの傍聴者が駆けつけ関生大弾圧反対の広がりをつくりだしている。6月5日、19日公判に合わせ滋賀県警、大阪府警、各裁判所への署名提出や記者会見が準備されている。
このたたかいは労働三権(憲法28条)をなきものにする攻撃を許さず、国家権力による社会運動つぶしを阻止するたたかいだ。すでに一年近くも獄中に囚われている仲間を奪還し、無罪をかちとるために緊急署名と緊急カンパの要請に応えよう。



琉球遺骨返還請求裁判
盗掘は差別、京大は謝罪を

裁判後の報告集会で発言する玉城毅さん(5月17日 京都市内)

5月17日、京都地裁で琉球遺骨返還請求訴訟の第2回口頭弁論が開かれた。
この日は原告の代理人が、被告京都大学の答弁書に反論した。
戦前、京都帝大助教授の金関丈夫が遺骨を盗掘した今帰仁村百按司墓の「祭祀承継者が絶えていた」という京大側の主張にたいして、「今帰仁上り」と呼ばれる聖地巡礼が子孫たちによって現在もおこなわれていること。その主要な巡礼地の一つが百按司墓であり、「祭祀承継者」は絶えていないことを明らかにした。
京大にたいする求釈明として、盗掘ではないと主張するのなら、金関が具体的にどのような手続きを取って遺骨を収集したのか明らかにすること。また原告の松島泰勝龍谷大教授の遺骨の閲覧許可申請を不許可にした根拠を具体的に明らかにすること。さらに京大が保管している遺骨を開示することなどを求めた。

「盗人同然」

続いて原告の玉城毅さんが意見陳述をおこなった。玉城さんは百按司墓の遺骨が盗まれていたことを2年前に初めて知ったことに触れ、「今まで、祖先のお骨がないお墓に向かって手を合わせていたのです。必ず取り戻したいと強く思っています」と述べた。また「天皇の墓は開けることはしないが、琉球の王室や貴族の墓は開けて盗んでも良いということは、琉球差別です」と批判。さらに京大が遺骨を返還しようしないことに「盗人と同じです。罪深い、常軌を逸した行為」と厳しく断罪した。最後に「京大は謝罪をすることで、琉球と日本は相互の尊厳を守ることができると思います」と締め括った。

京大で連続学習会

第2回口頭弁論に先立つ5月9日、京都大学文学部で「人骨問題を考える連続学習会@京都大学」の第1回が開かれた。松島泰勝さんが京都大学による遺骨盗掘の経緯と遺骨返還訴訟の意義について講演した。松島さんは、遺骨返還運動は子孫としての権利であり義務であると同時に、琉球人のアイデンティティーを土台とした脱植民地化運動であると述べた。
講演を受けて、京都大学文学部教授の松田素二さんと同志社大学教授の冨山一郎さんが応答した。松田さんは、台湾の琉球遺骨はすべて沖縄県に返還されており、先住民族から奪った遺骨は返還すべきというのが世界的なトレンドになっていると話し、京大の対応の異常さを強調した。冨山さんは、こうした京大の対応は、もはや「遺骨を返還すればよい」というレベルを超えた深刻な問題をはらんでいると指摘。京大はこうした異常な対応をとることになった経緯をすべて明らかにし謝罪すべきだと話した。

なぜ遺骨は奪われたのか 学知の植民地主義を糾す

5月12日、「琉球人遺骨返還を求める奈良県会議」の2019年総会が、奈良市内であった。集会では松島泰勝さん(龍谷大学教授)が「奪われた骨と琉球の自己決定権」と題して講演した。
松島さんは、はじめに琉球人遺骨返還訴訟について話した。

先祖の魂

この裁判で、原告(4人)は京都大学に「盗掘した遺骨を返還せよ」と主張している。琉球人は遺骨に先祖の魂がこもると考え、遺骨を骨神として大切にしている。1928〜29年、金関丈夫(当時・京都帝大助教授)はみずからの人類学研究のために百按司墓から遺骨を持ち出したが、門中(父系血縁によって結びついた親族集団)や地域住民の了解を得ていない。これは盗掘であり、犯罪にあたる。遺骨を保有する京都大学に遺骨の返還を求めている。
被告の京都大学は、あくまでも学問研究のためであり、犯罪にあたらないとし、返還する必要はないと反論している。大学研究者にとって、遺骨は学問の発展に資する貴重な研究資料にすぎない。

学問の犯罪性

ここでの問題は、観念論と唯物論による対立ではない。大学研究者が、琉球人の墓から勝手に遺骨を持ち出すことは許されるのかという問題だ。京都大学当局は許されると考えているのだが、松島さんはこれを「学知の植民地主義」だと主張する。
琉球人遺骨訴訟に関して、京都大学当局は「いっさい対応しない」という方針で貫かれている。公判にも京都大学関係者は来ていない。研究機関としての良心や誠意はまったく見られない。このことについて、松島さんは次のように語った。

民族差別

「2017年11月、わたしはアイヌ民族の清水裕二さん(コタンの会代表)と岡本晃明さん(京都新聞論説委員)と3人でアイヌ、琉球人の遺骨について問い合わせをするために京都大学に行った。訪問の意志は事前に伝えていた。大学に行き、遺骨担当部署である総務課に連絡したが、担当職員は現れなかった。しかたなく電話で、清水氏は『アイヌ人骨保管状況等調査ワーキング報告書』の閲覧を求めた。しかし、これに応じなかった。清水氏は名刺を渡したいと言ったが、『その必要はない』と拒否した。これは大学による民族差別ではないか」
京都大学当局の対応は、辺野古埋め立て工事にたいする国の対応を想起させる。松島さんは「京都大学は、どうしてこれほどまでに傲慢なのだろうか。京都大学には世界中の遺骨が保存されている。琉球人の遺骨を返還することになれば、すべての国から返還要求が出てくるだろう。京都大学(国)は、このことを恐れているのではないか」と話した。

3面

強制不妊問題
被害者の無視・排除を許さない
国と国会は謝罪と補償を

「旧優生保護法一時金支給法」は、衆院を4月11日に通過、参院で同24日成立した。いずれも全会一致で、同法は成立即施行となった。 しかし、同法をめぐる国会審議と「首相の談話」は、いずれも被害当事者の声を無視し、排除した点で際立つものであった。同法の内容上の問題性とともに、徹底的に批判され弾劾されなければならない。

被害当事者を無視・排除した国会と安倍晋三を許さない

旧法の違憲性および優生手術の違法性を認めない。そのために、責任主体を正体不明の「我々」として国の法的責任を認めない。それゆえ、謝罪を拒否し「おわび」に、補償ではなく「320万円の一時金」に、等々。
甚大な被害とまったく不均衡な法律の問題性とともに、否それをも超える重大問題が法案の形成および国会審議の過程における被害当事者の差別的排除であった。国会は、2014年に批准した「障害者権利条約」の魂である「私たち抜きに私たちのことを決めるな」をみずから踏みにじったのだ。
他方、欧州訪問中の安倍晋三は本法の成立直後に、「首相の談話」なる1枚のペーパーを出した。閣議決定にもとづく「首相談話」でさえない、個人的談話である。中身は、政府関係者さえ「救済法をなぞっただけ」と言う通りの空っぽな代物だ。安倍は、1月28日の「施政方針演説」でもその後の国会でもこの問題に言及したことは皆無だった。ところが今回、被害当事者と向き合うことから逃げ回りながら、国外から「首相の談話」なるものを出してきたのだ。
飯塚淳子さんは「私たちの前で首相や大臣たちは謝ってほしい」と訴えた。
安倍は、原告の方々の叫びと要求に恐怖し、被害当事者の声を無視し差別的に排除する姿勢を国としていっそうあからさまにしたのである。

原告・家族、弁護団、
障害者団体の怒りと訴え

● 飯塚淳子さん(活動名。宮城県の70代女性。知的障がいを理由に16歳で強制不妊手術を受けた。全国の被害者に先駆けて1997年から二十余年、国に謝罪と補償を求めてきた。仙台地裁に提訴。昨年12月、「優生手術被害者・家族の会」共同代表に) 「苦労は無駄じゃなかった。でも、この法律はまだまだ不十分。本当は国会で意見を述べたかった。数十年の月日が、ただ過ぎ去ってしまった。法律ができても私の人生は返ってこない。本当に前に進んでいけるのか不安。国は誠意をもって謝罪してほしい」 「私の闘いはあまりにも長すぎた。裁判所には一刻も早く国の責任を認めてほしい」(3月20日の結審で)

● 佐藤路子さん(仮名。15歳の時、知的障がいを理由に不妊手術を強制され、昨年1月 に全国初の国賠訴訟を仙台地裁に起こした佐藤由美さん〔仮名。60代〕の義姉) 「救済法で終わりじゃない。国は法的な責任を認めていないし、正式な謝罪もしていない。裁判で闘うしかありません。国の責任が認められるまで闘う」、「障がいがあっても差別されない社会になってほしい。中途半端な反省と救済は将来に生きない」

● 北三郎さん(活動名。70代。宮城県の施設にいた1957年に、何も知らされないまま不妊手術を強制された。東京地裁に提訴。昨年12月、救済基本案が国の責任をごまかしていると憤り、「正面から国と闘わなければ」と顔を出して闘うと決意。飯塚さんとともに「被害者・家族の会」共同代表) 北さんは、妻が亡くなる直前まで打ち明けられなかった思いや国に求めることをA4版4枚につづって、国会で意見を述べる機会に備えた。だが、その機会は与えられなかった。 「私たちの声を聞いたうえで(法律を)検討してほしかった。私たちと向き合わず、納得のできない法律が勝手にできあがったことを残念に思う。私たちの声を聞き、法律をもっとよくしてほしい」 「法律で『我々』がおわびをするとあるが、ごまかされているように思う。国の謝罪をはっきり書いてほしい。国が謝ることで苦しみから解放され、救われる人たちもいるはずだ」

● 小島喜久夫さん(76歳。養父母とうまくいかず荒れていた19歳ごろ、突然警察官に病院に連行された。診察もなく「精神分裂病」とされ、体にメスを入れられた。札幌地裁に提訴。本件国賠訴訟の原告として、初めて実名と顔を公表して闘っている) 今までの訴えが無視されたと憤る。「これでは、苦しかった60年にけじめがつけられない。絶対に裁判で勝たなければ」、「自分と同じような人を、もう一人も出したくない」、「国に謝罪してほしい。皆さんも応援してください」

● 東二郎さん(仮名。70代。宮城県の知的障がい者の施設にいた18歳の時に「脱腸の手術」との虚偽の説明で、断種手術を強いられた。4月18日の仙台地裁での第2回口頭弁論後の記者会見で初めて顔を公表) 法律に国の謝罪が明記されなかったことや、一時金の低額について憤りをあらわに、「人権侵害にたいする怒りと悲しみを社会に訴えていきたい」と語った。 「私の顔を見て、施設で一緒に手術を受けた仲間にも名乗り出てほしい」

● 高尾辰夫さん(仮名。兵庫県の70代男性。聴覚障がいを理由に約50年前に断種手術を強制された。聴覚障がいをもつ妻・奈美恵さん〔仮名70代〕とともに昨年9月に神戸地裁に提訴。小林さん夫妻と合わせ、計4人は聴覚障がい者として初の提訴) 「被害者の意見を聞かずに(法律が)決められた。腹立たしい思いだ。一時金の額は、子どもをつくる夢を奪われた苦しみに見合っていない。(手術を受けていない)妻も一緒につらい思いをしており、夫婦ともに補償すべきだ」

● 小林喜美子さん(86歳、兵庫県明石市。27歳のときに聴覚障がいを理由に不妊手術と中絶手術を強制された。聴覚障がいをもつ夫の小林宝二さん〔87歳〕とともに、昨年9月神戸地裁に提訴)。 夫妻は次のように手話で訴えた。 「子どもができず、つらい思いを抱えてきたことをわずか320万円で片づけるのは、考えられない」。救済対象に配偶者が含まれなかった点について「夫婦でつらい思いをしてきたのに、手術を受けた本人(妻)しか補償されないのはおかしい」

● 渡辺数美さん(74歳。幼少期に変形性関節症を患い、10歳のころ血尿が出たことで病院に連れて行かれ、何も知らされずに断種手術を強制された。手術の影響で骨がもろいのに今も身長が伸び続ける「後遺障害」に苦しむ。骨粗しょう症の進行で定期的に肩や膝に埋め込んだ人工関節を交換、手術は1回につき1か月以上の入院が必要で、そのたびに過酷なリハビリと数十万円の医療費がのしかかる。昨年6月、熊本地裁に提訴) 「一生を台無しにされた代償が320万円とは、かえってバカにされているようです」、「結婚できず、子どもも持てませんでした。治療の痛み、病院への支払い、これら四重苦、五重苦を、どうか分かってください」 昨年10月10日の第1回口頭弁論の冒頭、渡辺さんは裁判官に呼び掛けた。「私の体を見てください」。ホルモンバランスの崩れで身長が2メートル近くにまで伸び続け、胸も膨らんでいる。不妊手術をしたと打ち明けた母親につらく当たった後悔の気持ちを口にし、「不妊手術は私の人生も母親の人生も台無しにした」と憤った。〔『毎日新聞』の記事より〕

● 全国優生保護法被害弁護団共同代表・新里宏二弁護士 「被害者の声が国会を動かした。だが、誰もが十分なものとは思っていない」、「『私たちのことを私たち抜きに決めないで』との被害当事者の声が無視されたまま、法制定となったことは非常に残念だ」、「国としての謝罪や、補償の金額には不満がある。今後の裁判に勝って法改正を求めていきたい」

● 藤井克徳さん(69歳。日本障害者協議会代表) 当事者が国会の場で意見を述べる機会が得られなかったことについて、「71年前に全会一致で成立した旧法について、立法府で犯した過ちは立法府で取り戻すべきであったが、今回また『当事者不在の全会一致』が繰り返されてしまった」、「そもそも、当事者不在の非公開の場で法案を作った立法過程がおかしい。障害者権利条約でうたわれた当事者参加の考え方に反し、障がい者施策の水準を下げてしまった」 「おわびの主体を『我々』とあいまいにせず、国の責任や憲法違反を認めるべきだ。交通事故で生殖機能を失うと自賠責保険で1000万円以上が支払われるのに、強制不妊手術の被害者への一時金が320万円とは、障がい者差別に等しい」、「首相の談話も遅すぎた上に形式的で空疎に感じた」

被害当事者の声にこそ真実がある。それは心身に受けた甚大な被害を生々しく証言している。そして、それは旧法とそれにもとづく強制不妊手術が障がい者抹殺を図る「人道に対する罪」にほかならないことを告発している。 被害当事者の叫びと訴えを受け止め、一人でも多くの人びとに知らせ、支援の輪を広げよう。 5月28日、仙台地裁で国賠訴訟の初判決が出た。不当判決である。国と国会の謝罪と正当な補償が被害者の尊厳の回復の不可欠な第一歩だ。差別的排除を許さず、原告・被害者・家族のたたかいを広範な民衆の力で支え、さらに大きく発展させよう。被害実態の全容を調査・解明し、優生思想を乗りこえる共生社会をともに創ろう。(山本一郎)

強制不妊国賠訴訟
仙台地裁が不当判決
5月28日

旧優生保護法下で不妊手術を強制されたのは違法だとして国に損害賠償を求める裁判で5月28日、仙台地裁で初の判決が言い渡された。
原告は知的障害を理由に不妊手術を強制された宮城県内の60代と70代の女性。中島基至裁判長は法律が憲法に違反していたと判断しつつ、手術から20年の「除斥期間」を過ぎて損害賠償を請求する権利が消滅したと判断。国会が、賠償するための法律を作らなかったことについての責任も認めず、原告の請求を棄却した。
最高裁判例では除斥期間は事情に応じ弾力的に適用される。形式的適用で原告の願いを踏みにじった裁判所の態度は許されない。ハンセン病患者の隔離政策を違憲とし、国に賠償を命じた01年の熊本地裁判決に比べ、はるかに後退した不当判決だ。
原告の姉の女性は「法律を違憲だと認めながら、国には救済の責任がないなんて納得がいかない。前例がないならそれを作るのが裁判所の役割ではないか」と怒りをあらわにした。新里宏二弁護団長は「承服しがたい判決だ。事実を積み上げ、勝訴に向けて努力していく」と話した。

4面

4回連載 三船 二郎
マルクス革命論をあらためて学ぶ(第1回)

連載にあたって

現在の日本は貧しい者はますます貧しく、富める者はますます富んでいきつつある。とりわけ就職氷河期以後、最下層に落とされたものたちは自己責任という歪んだ論理によって追いつめられ、生きることさえ否定されている。 しかし「生きていいんだ!」という自己肯定、さらには「互いに蹴落とし合うのではなく、苦しみの原因は資本にある」としてともに立ち上がっていく論理、怒りを解き放つ論理がマルクスの革命論(以下、マルクス革命論)にはある。それだけではない。全てを否定されたものたちが自己肯定から闘う主体へと飛躍していく自己解放の思想がそこにある。貧困と格差拡大の矛盾が激しく蓄積していっている今、人々が立ち上がっていく論理と思想をマルクスからあらためて学ぶことは死活的ではないだろうか。こういう実践的観点をもって4回連載していきたい。

「社会的殺人」

ショッキングな事例を紹介したい。非正規雇用を転々とし保険証もなく、生活保護も追い返された40代の男性は半年前から体調が悪化して仕事ができなくなり実家に戻っていたが、咳がひどくなり2カ月ほど前から歩けなくなり、2週間前から布団から出ることもできなくなった。近くの医療機関からは保険証がなければいったん全額払ってもらうといわれ、相談を受けた民医連の医療機関は「では救急車できてください」と伝えた。来院したときの男性の体重は40kgを切っていた。CTをとると肺の4分の3が溶けていた。男性は重傷の肺結核だったのだ。ただちに専門の医療機関に移送し生活保護の手続きをしたが数日で死亡した。 非正規雇用が今のように拡大する前の大多数の雇用形態は正社員であり、したがって当然健康保険の被保険者となり、保険による必要な治療が受けられ、結核で命を落とすことはなかったのだ。 しかし、非正規雇用の拡大、労働法制の改悪、社会保障の切り捨ては40代の若さで必要な治療すら受けられず死にいたる事態を引き起こしているのだ。これは氷山の一角であり、けっして例外ではない。かつてエンゲルスは『イギリスの労働者階級の状態』を19世紀に著したが、彼は資本による労働者の殺人を「社会的殺人」と呼んだ。19世紀のイギリスのような資本による「社会的殺人」が21世紀の日本で今まさに起きているのだ。

「アンダークラス」の急増

「アンダークラス」とは正規雇用労働者の下に位置する非正規雇用労働者等のことをいう(橋本健二『アンダークラス―新たな下層階級の出現』ちくま新書)。派遣法や労働法制の度重なる改悪等によって「被雇用者の内部にも、巨大な格差が形成され」(同書)、「アンダークラス」と呼ばれる非正規雇用労働者の数は「およそ930万人で、就業人口の15%ほどを占め、急速に拡大しつつある」(同書)という。前述した資本による「社会的殺人」はまさにこの「アンダークラス」で起こっているのだ。

「アンダークラス」とともに

橋本は次のようにも指摘する。「アンダークラス」ないし貧困層は政治的には反自民だが、支持政党は公明が5・2%、維新が5・0%、民主が4・4%、共産が3・5%。全部あわせると自民支持よりも多いが支持政党が割れており、支持政党なしが57・3%を占めているという(橋本健二『新・日本の階級社会』講談社現代新書38p)。 ところでわれわれはこの「アンダークラス」ないし貧困層の中にどこまで入り支持を広げているのだろうか。公明党にも維新にも共産党にもはるかに及ばず、ほとんどゼロであるのが現実である。革命的共産主義者同盟再建協議会が革命党だと名乗るなら、この「アンダークラス」等の中に階級政党をつくることに挑戦することは必要不可欠である。われわれがどこまでできるかは別として、その挑戦は断固として実行していかなくてはならないのだ。そして、われわれがこれに挑戦していくなら、その度合いに応じて彼らとともに世界を変えることもできていくだろう。

橋本健二が引用する永山則夫

橋本は、前掲書『アンダークラス』の冒頭で永山則夫を引用している。1971年に出版された永山則夫の『無知の涙』は読んだ人も多いと思う。永山に「無知の涙」を流させたのは「師マルクス」(『無知の涙』125p)だった。

永山をして「師マルクス」と呼ばしめた核心は何か

永山はほぼ1年という短期間のうちに一気に『資本論』全巻、『ドイツ・イデオロギー』『哲学の貧困』『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』等を読み、『共産党宣言』は刑場にまでもっていくと表明した。 永山は『資本論』『共産党宣言』等を読むことによって以下のことを認識したのである。自分が賃金奴隷とされているがゆえに貧乏のどん底につき落とされ、塗炭の苦しみを受けてきたこと、プロレタリアートの賃金奴隷からの解放こそが共産主義だとつかんだのである。永山の認識は「人間は労働をして食物を得るということが生存原理であるが故に、プロレタリア独裁ということは必然の理であるのだ」(同212p)という結論にまで至る。さらに「師マルクスは私の胸の中に生きている」「師マルクスを知ることによって自信と確認を得た」(同191p)、「プロレタリアの独裁は全体主義の見本となるものである云々とほざく輩があるが、このような連中は、資本家の手先と烙印を押せる日和見的無関心主義の破廉恥漢的臆病者である」(同212p)とまで断じる。さらに永山は「プロレタリアの青年よ」「汝、マルクスを知れ!」(同224p)という。 永山は自分が貧乏に苦しめられたのは自分の責任ではなく資本に原因があることを知り、賃金奴隷からの解放のためにたたかうべきだというマルクスを「師マルクス」と呼ぶに至ったのである。さらに『共産党宣言』を刑場にまでもっていくということは「実践的唯物論者すなわち共産主義者」(『ドイツ・イデオロギー』)として刑場の露となろうとも闘いぬくという意思表示である。 中学も夜間高校もまともにいけなかった永山が示していることはマルクスを知るには学歴は関係ないということである。そして、この連載は「アンダークラス」等で苦吟するまだ見ぬ同志たちへのメッセージでもある。

今、理論に求められているものは何か

橋本は「アンダークラス」の「隣人」として「失業者・無業者」をあげているが、「アンダークラス」のさらに下に位置する存在がある。それは生活保護利用者であり、たとえば全国で首切りが強行されている就労継続支援A型(注)などの劣悪な労働環境で働く「障がい者」や同じく劣悪な中にいるシングルマザー等々である。 「労働者階級の状態とは、現代のあらゆる社会運動の実際上の基盤であり、出発点である」(エンゲルス『イギリスの労働者階級の状態』岩波文庫(上)19p)。またエンゲルスは共産主義は、この「労働者階級の状態から生み出され」るとも指摘している。 「アンダークラス」だけでなくその下に位置する人たちに響く言葉と行動が理論として求められている。私はこれらの人たちに響くものがマルクス革命論だと考えている。今後の連載についてはこれを明らかにしながらアソシエ論批判も当然理論的におこなっていく。事実にふまえた理論闘争はかならず新たな理論領域を切り開くだろう。(つづく)

(注)就労継続支援A型 障害者総合支援法による「障がい者」に対する支援事業。A型は労基法が適用され最低賃金等の規制がある。他方B型は労基法の適用がなく工賃はきわめて低い。

ロスジェネの気持ち
「あの頃に戻ってほしくない」
37歳男性との討論から

「大阪維新の会」の支持者や「維新」の地方議員に、30〜40歳代が多いことに関連して、いわゆるロスジェネについて、当該世代の労働者 (37歳男性/1981年生/00年定時制高校卒)と話す機会があった。参考までに紹介したい。

社会から弾かれて

俺ら、ロスジェネと言われる世代。高卒が2000年で就職がない。大卒に仕事がないのに、俺ら、定時制卒なんかにあるわけがなかった。
まったく先が見えなかった。将来のこととか、考えようもない。バイト、バイト、派遣、派遣で、ただその日のことだけ。
バイト先では、40代ぐらいの歳上ばかりで同世代はいなかった。しかもみんな暗い顔をしていて。そういうところだから、仕事のスキルとか、仲間をつくるとか、そういうことも全くなかった。毎日、ただ、その日のことだけを考えてきた。だから、遊びも飲みも刹那的。そのとき楽しければいい。希望がまったく見えないから。
社会に入っていこうにも、入り口で断られた感じ。時代を恨んだ。それから、結婚とか、普通の家に住むとか、そういうことができた上の世代を恨んだ。
同期の連中に、ニートになったヤツがたくさんいる。もともと明るかったヤツとか、結構、勢いのあったヤツが、就職ができなくて、社会から弾かれて、ニートになっている。 いま、少し景気も良くなっているよね。あの頃に比べれば。だから、悪くなってほしくない。元に戻ってほしくない。

【若干の解説】

社会から弾かれ、将来について考えようもない不安感、孤立感、絶望感。この世代の抱えてきた心境が端的に語られている。グローバル化・新自由主義の実相を、骨身で体感している世代である。この気持ちに向き合う必要がある。
この世代にとって、「維新」の「大阪の成長を止めるな」というスローガンは、「あの頃に戻ってほしくない」という恐れのような気持ちに、ある面で響いている。そのスローガンが虚構であることが、見え見えであってもだ。
ところが、「護憲」的なスローガンで運動する世代の多くは、こういうロスジェネの気持ちに、思いを致す感覚が希薄ではなかろうか。そのために、ロスジェネから見て、「恨む」対象になってしまう。「護憲」的な運動世代のあり方が、政治運動でも労働運動でも、ロスジェネをみすみす「維新」的なものへ追いやってきたという側面すらあるように思われる。
それは、グローバル化批判・新自由主義批判の切れ味の悪さとも関連している。グローバル化・新自由主義による労働のあり方の劇的な再編、社会の破壊、労働の破壊という事態、その直撃を受けたロスジェネの感覚に届く批判になっていないということだ。彼らの感覚に、今さらではあるが、学ぶ必要がある。彼らの体感している全面的な否定性は、資本主義の根底的な批判に転化しうるものだからだ。(請戸)

5面

直撃インタビュー第39弾
分断、差別、同化、追放 日本の在日・外国人政策
「在日」を貫く李相泰さんに聞く(中)

李相泰さん

日本の差別構造

ぼくは小さいときから湊川(高校)に行くまで、「韓国人やから差別される」と思っていた。しかし、湊川で知ったのは、違うんや。日本の社会構造が差別を生んでいる。日本人も立場の弱い人間は差別されている。部落解放運動をやっている先生に呼ばれ、「差別されているんだから、解放同盟に入れ」と言われた。違うんや、おれは朝鮮人や。部落民の差別と違う。しかし番町の人は「朝鮮は怖いで」と言い、朝鮮人は「番町へ行ったらあかん」と言う。湊川にくるような生徒は小さいときから差別構造を植え付けられ、そういう社会経験を持っている。差別されている側は「差別するな」と声をあげ、社会を変える運動をやらんといかん。
人間関係をつくるとき、自分が何者か、どういう考えか語れなかったら信頼されない、関係ができない。日本名を使う在日韓国、朝鮮人は、とくにそうだ。日本人は、自分の生い立ちや歴史をあまり出さない。日本では、あまり家や内輪のことは知られたくない。日本の社会構造が、そうなっているようだ。朝鮮、韓国では、人がきたら「上がれ、メシ食べよう」だよ。
日本はずっと「分断、差別、同化、追放」という4つの政策で在日同胞(外国人)を管理、差別してきた。ニューカマーの時代になっても、「差別されたくなければ帰化せよ」と同化を強要し、帰化の条件を満たさなければ「嫌なら帰れ」と言う。そういう差別、追放政策が繰り返されている。だからヘイト・スピーチ運動も生まれる。今年4月から、34万人の外国人労働者を受け入れることになったが、すでに外国人留学生や研修生への人権侵害が横行している。

韓日基本条約

1965年12月に韓日基本条約が結ばれ、66年1月に韓日法的地位協定が発効する。それがいま日本が言う「過去の問題は清算ずみ」という根拠になっている。誰と誰がやったことか。日本政府と朴正煕・軍事独裁政権が、政権を維持するために結んだ条約だ。それと対峙したのが金大中・元大統領や、いまの文在寅・大統領だった。
それを考えると、いまの韓国と日本のぎくしゃくした関係が理解できる。民主派といわれる人たちには「韓日条約は不平等条約、認められない条約だ」という基本的な考えがある。韓国と朝鮮が統一に向かうなら、その朝鮮と日本が条約を結ばなければならない。韓国は必ず条約の見直しを迫るだろう。
韓日条約が結ばれ、66年8月から9月に大韓民国居留民団(民団)の母国訪問で韓国に行くことになった。自分の国へ帰るのに、パスポートも手続きもややこしかった。兵庫から100人くらいの学生が行った。京都の訪問団の引率に徐勝氏がおり、いろいろ教えられた。
そのとき在日同胞の友だちができ、「在日の青年同盟をつくろう」ということになった。60年4・19革命のときにでき、兵庫にもあったが活動はしていなかったから。帰ってきてから在日韓国青年同盟(韓青は民団の青年組織)を兵庫で再建した。
日本の敗戦のあと建国青年団というのができたが、その後に在日本朝鮮人連盟(朝連)が分裂し、民団や在日本朝鮮人総連合会(総連)がつくられた。韓国政府ができたときに大韓青年団となり、4・19革命後に在日韓国青年同盟になった。綱領は、「世界平和、祖国の統一、真の独立、権益擁護」となっている。建国青年団は新しい国をつくろうという、いわば帰国指向。権益擁護は、建国青年団や大韓青年団のときはなかった。
韓青は在日、日本の社会で暮らす権利や生活をも考えなければと、「権益擁護」を加えた。4・19革命は「反独裁・反外勢・反封建・反買弁」の「4反理念」があり、韓青にも引き継がれた。

国籍選択で踏み絵

そのころから、韓国、朝鮮による勢力争いが始まる。在日には韓国籍もいたが大半は分断前の朝鮮籍であり、外国人登録は朝鮮という名称だった。「お前は韓国か、朝鮮か」と踏み絵を踏まされる。踏み絵は永住許可。韓国籍でなかったら永住許可が出ない。「戦前からいる1世、2世、3世には永住権がある」と言われるが、それは違う。「永住許可」なんだ。権利じゃなく許可だから、いつでも取り消せる。
ぼくらは統一運動をやっている。それをやめろ、「韓国籍、朝鮮籍どっちを選ぶのか」と迫られる。分断を促進しようとする。民団というのは、南北分断より前にアメリカが在日を分断するためにつくらせたからね。「それなら民団の民主化を進めていこう、そのためには一歩譲ってもやろう」ということになった。南北が理解し合っていく環境をつくるためには、韓国を民主主義の国に変えなければいけないと運動してきた。

永住を決断

ケミカル・シューズにおったけど、電気会社に変わろうとした。そのころ、親父が「しばらくアジア旅行に出るから、会社の仕事を見ておいてくれ」と言う。親孝行のつもりで引き受け、その1週間後に父親は亡くなった。けっきょく会社の整理と、韓青の運動の二股だった。
1972年に「南北共同声明」が発表され、兵庫で2000人の支持集会を朝鮮青年同盟といっしょに開いた。それで民団から(ぼくはまだ青年で民団に入っていなかったのに)「除名」処分。「勝手なことしたら除名するぞ」という見せしめ。私は10人兄弟、連れ合いの親族も含め、100人くらいが領事館からパスポート発行停止、公民権剥奪や。「南北共同声明」は、両方の政府が政権延命のためにおこなった。「声明どおりやる気はない」ものだったが、内容は正しかった。それでも韓青は、進めていこうと運動した。
75年まで韓青で活動。76年6月に結婚、生活、経済活動もしなければ生きていけない。寿司店の見習いを3年。79年9月に寿司店を開店し数年やったが、景気も悪く妻の子育てと家事、店の仕事と重なり84年に閉店した。87年1月から88年5月まで神戸の「餃子の王将」が寿司の和食をやるというので応募。くるくる寿司の最初をぼくがつくった。
その後、建設の基礎工事の監督をやった。土木とか、建築の仕事は全然知らん。用語もわからんのに1カ月無給で監督の下につき、すぐに独立した。88年の10月15日に離婚。91年3月、ビルガー病という難病を発症した。進行すると手の指、足の小指も腐って取れる。原因がわからない、薬もないような病気だ。けっきょく日本で治療しないといけない。ぼくは、日本に定住する決断をした。

92年、朝鮮を訪問

韓青の運動が停滞していたこともあり、民族運動の必要性を感じた。昔の韓青の仲間が集まり、兵庫に「韓国人三民会」という団体をつくった。「民族・民主・民衆」「1世・2世・3世」「北・南・海外」の3つをかかげ、野遊会やオリニ(子ども)キャンプ、スキー講習、長田マダン(90年から)、神戸電鉄の問題(注)など活動してきた。
1992年8月、10日ほど朝鮮(北)を訪問した。「汎民族大会」という、北と南と海外の同胞が集まり統一をやろうという会議に参加した。当時、金日成が翌年に南を訪問しようという情勢もあった。そういう流れになるなら、北の実態を見ておきたかった。私は、韓国のパスポートは取れないから、日本の再入国許可証で訪問した。高校生のとき南へ、このとき北へ、両方に行った。息子はまだ韓青にも入ってなかったが、2人分の飛行機枠が取れ、いっしょに行った。「ぼくは、こんな国には戻りたくない」というのが、息子の感想だった。それはそれでいい。見ておくことが大事だから。(つづく)

(注)神戸電鉄敷設工事に多くの朝鮮人労働者が動員され、過酷な労働と事故などで亡くなった。その朝鮮人労働者の実態を調査し、慰霊碑を建立した運動。毎年10月第3日曜日に、神戸市兵庫区会下山の慰霊碑で慰霊祭が開催されている。

私と天皇制D 「人間天皇」への早変わりと京大天皇事件

中国侵略に始まるアジア太平洋戦争に敗北した翌年から、昭和天皇裕仁は全国各地を巡行した。裕仁が行くところ大勢の人びとが彼を歓迎し、野次ひとつ飛ばなかったとメディアは伝えている。
裕仁は地下何百メートルという炭鉱の採炭現場にまで足を踏み入れた。当時石炭が最大のエネルギー源であり、経済復興のカギを握っていたからである。
最も戦闘的であった炭労(日本石炭労働組合)の幹部は、整列し最敬礼で裕仁を迎えた。国鉄(現JR)の施設を訪問したとき、国労の幹部も同様の姿勢で歓迎している。
このようにして裕仁は、「皇軍」(戦前、大元帥陛下・天皇が統率した陸海軍の総称)の最高司令官から、「人間天皇」への早変わりを演じた。
私も中学1年生のとき校長に引率されて、鈍行しか停車しない田舎の駅のホームに整列し、アッという間に通過する裕仁が乗った「お召し列車」を、最敬礼で見送った記憶がある。
唯一の例外は京大天皇事件である。私が中学3年生だった1951年11月、裕仁は京都大学を視察訪問した。そのとき京大学生自治会・同学会を中心に、時計台前で全京都学生決起集会が開かれた。後に映画監督になった大島渚が府学連委員長だった。
大勢の学生と職員が「平和の歌」を歌って裕仁の車を取り囲み、公開質問状を手渡そうとした。その内容は裕仁の退位と天皇制廃止を問うものであった。
前年に勃発した朝鮮戦争の真最中で、東西冷戦の片方の国々との単独講和と再軍備の是非を巡って、国論が2分されていた。「岩波文化人」と言われた東京大学をはじめとする有名な大学の教授や作家などが、盛んに反対の論陣を張り、全国各地で講演会を開いたりしていた。
警官隊が学内に導入され、同学会は解散させられ、中央委員8人が無期停学になった。首謀者とみなされた松浦玲は、内閣総理大臣吉田茂の名で放学処分にされた。このような処分は戦前・戦後をつうじて他に例がない。
裕仁の下血騒ぎが始まったとき、私は天皇制について俄勉強をして、いくつかの労働組合や活動家グループに働きかけ、天皇制批判の学習会を開いた。そのときに読み漁った天皇制批判の群書の中で、松浦玲の『日本人にとって天皇とは何であったか』(正・続/辺境社)が歴史的事実の跡に自らの身をおき、最も説得力があった。(Q生)

6面

中野晃一・福島みずほさんが対談
分断許さぬ市民の声を
憲法フェスタ

大舞台で川口真由美さんの歌とエイサー

5月11日、兵庫県伊丹市内でおこなわれた憲法フェスタは420人が熱心に参加し、安倍改憲・独裁政治への抵抗の戦線を広げた。
司会・進行は昨年の集会にパネラーとして参加し、今年伊丹市議選にトップ当選した高橋あこさん。映画『デニーが勝った』は昨年の沖縄県知事選の模様を克明にたどり、安倍政権の小泉進次郎投入や菅官房長官の利益誘導演説にも負けず、玉城デニーさんを選択していくさまが映し出された。つづいて川口真由美さんの歌や「月桃の花」歌舞団のエイサーでもりあがった。アピールは若狭の原発を考える会の橋田秀美さんと兵庫ピープルファーストの住田理恵さんから、憲法下での原発再稼働や強制不妊問題が訴えられた。

嘘が支配する日本

木下達雄共同代表から、2月に逝去した原発の危険性を考える宝塚の会・中川慶子さんの追悼と安倍改憲許さない主催者挨拶。
メイン企画は中野晃一上智大教授と福島みずほ参議院議員の対談「嘘が支配する日本2019」。
安倍政権は民主主義・熟議とは無縁の、支配・弾圧と服従・忖度の政治をおこなっている。戦争法を平和安全法制といい、戦争を事変と言った戦前政治を「取り戻そう」としている。「オキナワに寄り添う」と言いながら「基地負担」を増大させている。一定支持されているかに見えるが、安倍や麻生といった「名家」の2世3世が政治を私物化しているのは、「他に選択肢がないから」だ。市民運動は、野党がだらしないという前に、普通の市民ができることを積み重ね、沖縄のように諦めず分断を許さず、参議院選挙で改憲に必要な3分の2の議席を与えないようにすることが必要だ、と結んだ。
アピールは全港湾大阪支部の小林勝彦書記長から、オスプレイ伊丹空港離着陸への抗議と関生弾圧への決起の訴え。ねりき恵子県会議員(宝塚)は、自衛隊の中学生への入隊勧誘ハガキや職場体験の問題と、野党共闘の重要性を訴えた。櫻井周衆議院議員は、安倍政治と草の根から対決し、参議院選での勝利が必要とした。最後に川口さんにあわせて全員で合唱し、集会を閉じた。(久保井健二)

朝鮮通信使の果した役割
200年に12回の信頼・信義

5月20日、第27回世直し研究会がおこなわれた。仲尾宏さん(京都造形芸術大学客員教授)が、3回にわたって朝鮮通信使について講演する。第1回は〈朝鮮通信使の果たした役割〉というテーマで講演した。
最初に、仲尾さんは「今日、日朝関係の悪化が言われているが、わたしはそんなに心配していない。なぜなら、民衆には朝鮮通信使の経験があるからだ」と述べた。
江戸時代の対外的な交易関係について、仲尾さんは「江戸時代は鎖国政策をとっており、外国との交易はなかったと言われていたが、今日ではこれは間違いになっている。薩摩藩は琉球を従属下において交易していたし、幕府は長崎奉行を通じてオランダ、対馬藩を介して朝鮮、松前藩はアイヌと差別的な交易をしていた。徳川幕府の目的は、@キリスト教の禁止とA海外貿易の独占だった」と述べた。
朝鮮通信使は、双方の国にとってどのような意味と意義があったのだろうか。それには1592年から98年まで7年にわたり、豊臣秀吉が朝鮮を侵略した歴史を忘れてはならない。これは壬申・丁酉倭乱(文禄、慶長の役)と呼ばれている。秀吉は朝鮮、中国、東南アジアを侵略する構想を描いていた。秀吉は傲慢な態度でこれらの国と接している。
秀吉の死によって、戦争は終わった。とりわけ戦場となった朝鮮半島では、おおきな傷痕を残した。侵略された国からみれば名目のない戦争であった。双方ともに、もう戦争はしたくなかった。
戦争の記憶がまだ残る1607年、第1回の朝鮮通信使が日本に派遣されている。1811年で最後になるが、この200年間に12回にわたり、交流をかさねてきた。仲尾さんは、「1605年に朝鮮代表の松雲大師惟政と徳川家康との会見が京都でおこなわれ、秀吉の朝鮮侵略について家康が形のうえでも謝罪した。こうして、双方が誠意を持って対等な関係で交流をおこなった。朝鮮通信使の通信は、信頼・信義の信という意味だ」と語った。
「朝鮮は400人〜500人の派遣団をおくりだした。朝鮮側の目的の一つとして、日本民衆の生活をじかに知ることにあった。再び日本が朝鮮に攻めてくることはないのか、朝鮮は支配者や民衆の意識を直接に観察しようとした。文化の交流がたがいの信頼と理解を深めていった。このような関係のなかで、対等な交易もおこなわれた。江戸時代のこの経験を今日に生かすことが重要だ」。
朝鮮通信使がいた時代に、日朝交流をつらぬいた理念は「対等な交隣関係」にあった。われわれは、このことをけっして忘れてはいけない。(津田保夫)

読者の声
腹立たしい天皇代替わり
「より添い」キャンペーン

『未来』読者のみなさん、5月「地獄の10連休」はいかがでしたでしょうか。私の働く介護現場では、経営者が優雅に10連休にふけっている間、現場では食事、入浴、排泄、洗濯、掃除と人が足りないなか、休み無くフル回転でした。終わったときはくたくたでした。
そんななか、利用者さんのお宅でひたすらテレビから流される、天皇代替わりの「より添い」キャンペーン! ほんとうに腹が立ちます。いったい誰が現場で障がい者や高齢者に寄り添っているのか。ひとりの介護ヘルパーとして、この「より添い」キャンペーンに抗議をしたい。
修羅場になっている被災地に、テレビカメラ班を引き連れ貴重な駐車場を占拠し、自治体職員やボランティアスタッフを引き回し、天皇アキヒトが「より添う」姿をカメラにおさめるために、避難所の運営スケジュールをねじまげるなど、まさに国家的なめいわく行為≠ナす。
「より添う」ことを仕事とするヘルパーの立場から、天皇アキヒトの行為は「より添い」でもなんでもないと断言できます。被災者をはじめ、障がい者、高齢者の方たちに「より添う」ということは、自分の都合で現場に押しかけ、勝手に自分がニコニコすることではありません。
不安を抱えている方々が笑顔になれるように、食事、入浴、排泄、洗濯、掃除などなどについて支援者自らが手を汚して汗をかき、ご本人の生活を少しでも安定させ、その姿に支援された方々も安心できるようになって、はじめて「より添われている」と感じることができるのです。押しかけた側が自分から「より添った」というのは本末転倒もはなはだしい。
逆に言えば、天皇アキヒトには「より添い」くらいしか翼賛ネタがないと言えます。天皇ヒロヒトの場合はヒトラーやムッソリーニと並ぶ第2次世界大戦の戦犯であるにもかかわらず、戦後の「経済復興」をキャンペーンのネタにできました。
天皇アキヒトの場合89年即位のあと91年バブル崩壊、08年リーマンショック、さらに続く格差の拡大と、とても「経済的繁栄」とはいえない30年。「より添い」キャンペーンは日本資本主義の行き詰まりを示してます。
最後に、私の事業所ではこれまで伝票は「平成」を使っていたのですが、煩雑さのため5月1日から西暦になりました。
(小柳太郎/兵庫・介護ヘルパー)

(短信)
原発 「特定技能者」    雇用方針を凍結

4月1日施行の改悪入管法に盛り込まれている新たな在留資格「特定技能」で外国人労働者を福島第一原発で働かせるとした東電HDの方針が大きな批判を浴び、凍結に追い込まれた(5月22日)。
しかし、法律上はこの資格で原発労働は可能であり、あくまで東電の判断でいったん取りやめたということに過ぎない。被ばく労働を外国人労働者にやらせ、被ばく累積後は国外追放する奴隷労働使い捨ては許されない。