未来・第265号


            未来第265号目次(2019年3月7日発行)

 1面  埋立て反対≠ェ圧倒
     辺野古新基地は断念を

     沖縄は猛威に屈しない
     県民投票で若者が奮闘

     ただちに工事を中止せよ
     「本土から声をあげよう」
     2月19日 国会前

 2面  再審実現へ、願いが一つに
     狭山、袴田事件の無罪判決を

     天皇制とオリンピック
     福島原発事故を隠ぺい
     2月11日 大阪

     米国の意向≠ニいうウソ
     猿田佐世さんが大津市で講演

 3面   〈寄稿〉避難の権利の確立へ(上)森松 明希子
     被災者を顧みない国とは      

     辺野古「市民投票」に3700票
     「反対」86%、「賛成」6・2%
     兵庫     

     投稿
     『放射線のホント』って本当?
     兵庫県 蒲牟田 宏

     投稿
     アイヌ抜きの領土交渉
     東京都 日高兼一

 4面  論考 19年1月ドイツ革命の敗北 山田和夫
     なぜグレーナーは義勇軍を組織できたか

 5面  書評
     消された精神障害者
     「私宅監置」の闇を照らす犠牲者の眼差し

     原 義和〈編著〉

     シリーズ
     原発問題を理解するために 第4回
     発電のしくみについて
     江田 恵

     Xバンドレーダー基地反対
     関西全体で交流深める

     私と天皇制A
     女性国際戦犯法廷の放映に介入した安倍晋三

 6面  長期連載―変革構想の研究 第13回 アソシエーション(3)
     プロレタリア独裁か、拘束的委任制か
     請戸 耕市

       

埋立て反対≠ェ圧倒
辺野古新基地は断念を

全県統一行動で「反対に○」を訴える市民ら(2月16日)

2月24日、沖縄県が実施した「辺野古米軍基地建設のための埋立の賛否を問う」県民投票で、「埋立て反対」が43万4273票(72・2%)に達した。辺野古新基地建設反対の圧倒的な民意が示された。玉城デニー沖縄県知事は、条例に基づいて投票結果を日米両政府に通知した。安倍首相は「結果を真摯に受け止める」といいながら、埋め立て工事を続行している。これ以上、民意を踏みにじることは許されない。工事はただちに中止すべきだ。

2019沖縄県民投票

ドキュメント(2月2日〜24日)

2月2日 名護市辺野古キャンプ・シュワブゲート前で、土曜大行動がおこなわれ、市民1200人が参加。24日の県民投票で「反対に〇を」と声を上げた。
6日 辺野古新基地建設に関し、大規模な改良工事を要する軟弱地盤が大浦湾一帯に存在する問題で、最も厚い軟弱な層は水深90メートルにまで達していることが分かった。これまで水深70メートルとされていたが、防衛局が追加調査したところ更に20メートル深い層が見つかった。
専門家は、「水深90メートルまでの地盤改良工事は知る限り例がない。国内にある作業船では難しいのではないか」「工事が可能な最大深度は水深70メートルで、改良深度20メートル程足りない分、未改良の軟弱地盤が下層に残り、長期間にわたる地盤沈下が発生するだろう」と指摘した。
8日 政府は、大浦湾一帯の改良工事のために浅瀬でも杭を打ち込む予定。深海部と合わせ、杭は約7万7千本に。砂杭は約65ヘクタールの地盤を改良する。防衛局は、地盤改良工事は3年8か月で完了とするが、他に事例のない大工事のため長期化は避けられない。
14日 午前11時よりキャンプ・シュワブゲート前で、新基地建設反対県民投票の会の出発式が200人でおこなわれた。県庁広場集会には300人が参加。国会議員、県議、オール沖縄会議の共同代表などが「反対に〇を」と訴えた。
16日 県民投票連絡会は、全県統一行動を午後5時各地一斉におこなうことを訴えた。北部連絡会は名護市内で開催。名護の市民は午後4時より5時の集会場まで1時間ねり歩き。午後5時からの集会は320人に。多くの若者も参加し、大学生がマイクを手に県民投票の成功を訴えた。
一方、県民投票期間中も新基地建設工事は続けられ、市民は安和桟橋、シュワブゲート前、海上行動と連日抗議行動に決起している。この日は海上大行動がおこなわれ、抗議船7隻、カヌー42艇で「N4護岸」建設現場や「K9護岸」で、「埋め立てを許さないぞ」「工事をやめろ」など抗議の声を上げた。
24日 県民投票が投開票された。県民は投票締め切りまで各地で「投票に行こう」と訴えた。投票率は52・48%で半数を上回った。投票総数の約72%が「反対」票で、43万4273票を獲得した。県民投票条例で「結果を尊重し」、首相と米国大統領への通知を義務付けた有権者数の4分の1(28万8398票)を大きく上回った。「反対票」は知事選で玉城知事が得票した39万6632票をも上回った。共同通信の出口調査では、自民党支持者の48%、公明党支持者の54・8%が「反対」に投票した。無党派層の82・8%も「反対」に投票。
玉城知事は「辺野古埋め立てに絞った民意が明確に示されたのは初めて。極めて重要な意義がある」「投票結果を尊重するとともに、速やかに首相と米国大統領に通知する。できるだけ早い時期に上京して結果を伝えたい」と述べた。(杉山)

沖縄は猛威に屈しない
県民投票で若者が奮闘

山城博治さん(2月18日 都内)

2月18日、東京・文京シビックセンターで「緊急! 山城博治さんは訴える―安倍政権の辺野古基地建設強行の猛威に屈しない沖縄の闘いの現状―」が開かれた。主催は沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック。 「若者たちが県民投票で入ってこられたのは素晴らしい。多くの若者が玉城陣営に入って、県民投票を推進している。状況が変わった。凄まじい緊張が走っている。どこに行っても熱を感じる。赤土を投入する映像で世論が変わってきている。 世論調査では半数以上が辺野古移転反対になっている。大きな盛り上がりができている。安倍内閣は止めたいだろうが報道を止められない。搬出される土砂はほとんど赤土。基地建設をこえて、ほとんど利権の世界だ。辺野古からは『県民投票をしろ』とは言っていない。『基地建設を撤回しろ』と言っている。県民投票の力で撤回させたい。 政府は県民投票の結果を無視するだろう。3月25日に第2工区を着工すると言っている。今ならまだ取り返しができるが、全部埋めてしまったら大変なことになる。ここまできたら負けるわけにはいかない。勇気をもって立ち向かっていきましょう」と話した。

ただちに工事を中止せよ
「本土から声をあげよう」
2月19日 国会前

2月19日午後6時半から国会正門前を中心に今年二度目の19日行動がおこなわれた。雨の中、3千人を超える人たちが集まった(写真)。主催は、戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会、安倍9条改憲NO! 全国市民アクション、「止めよう! 辺野古埋め立て」国会包囲実行委員会の三者。今回は「辺野古新基地建設は断念を! 土砂投入即時中止! 普天間基地即時返還! 県民投票勝利!」をタイトルに掲げ、安倍政権の埋立て強行に対する怒りの行動となった。 主催者あいさつ・国会議員の連帯あいさつに続いて発言に立った辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議事務局長の山本隆司さんは「安倍政権が仲井真元知事と約束した普天間基地の5年以内の運用停止の期限が過ぎました。これに対する抗議を、さきほど防衛省・外務省・内閣府におこなってきました。これまで沖縄県民は国政選挙すべてと二度の知事選挙で『辺野古新基地NO』の判断を下しました。安倍政権は沖縄の民意を無視し続けています。2月24日の県民投票を受けて、3月16日に那覇市内で大規模な県民大会を開きます。昨日は国地方係争処理委員会が(沖縄県からの審査申し出を)茶番劇で門前払いしました。また法廷闘争が始まります。沖縄の問題は日本の社会の矛盾を表しています。最後まであきらめずにたたかっていきたいと思っています」と本土(ヤマト)でのたたかいの強化を訴えた。 「止めよう! 辺野古埋め立て」国会包囲実行委員会の野平晋作さんは「沖縄の民意はこれまで、さまざまな形で示されてきました。24日の県民投票でも、県民の堅い意志が示されるのではないでしょうか。これ以上沖縄県民に民意を問い続けることをしてはなりません。今こそ沖縄の民意にこたえて、日本本土の市民が声を上げるときだと思います。県民大会に連帯して3月16日首相官邸前に集まり、辺野古新基地建設を許さないという私たちの民意を示しましょう」と呼びかけた。 最後に行動提起を受け国会に向けて抗議のシュプレヒコールをおこない、行動を終えた。

2面

再審実現へ、願いが一つに
狭山、袴田事件の無罪判決を

再審棄却の動きに「そうはいくかよ!!」のメッセージボードを全員でかかげた(2月17日 大阪市内)

2月17日、「闇から希望をつなげて―狭山事件と清水(袴田)事件トーク&ライブ」(第3回狭山事件の再審を実現しよう市民のつどいin関西)が大阪市内でおこなわれ、600人を超える人々が集まった。主催は集会実行委員会。集会では石川一雄さん・早智子さん、袴田秀子さん(巌さんの姉)がアピールした。また、小室等さんがライブ演奏をおこなった。 この日は関西圏をこえる地域からも多数参加しており、石川さん、袴田さんの再審実現をかちとるために、発言者と参加者の決意と願いが一つになり、集会は熱気につつまれた。

当事者の叫び

本田哲郎さん(釜ヶ崎ふるさとの家・代表)が、「釜ヶ崎からみた狭山事件」というテーマで記念講演をおこなった。本田さんは「真理は人を自由にする」という聖書の言葉を引用しつつ、「多数の支持を得ているかどうかに関係なく真実は存在する。そのためには、当事者の叫びをしっかりと受けとめることだ」と述べた。その上で、つぎの2点を訴えた。@もっとも弱い立場にある人々の視座に立たなければ、真実を見いだす事はできない。A「相手の立場に立って考えよう」とよく言われるが、これは不可能だ。相手を理解する(under-stand)ことは、対等に立つのではなく、相手の下に立つことではじめて可能なのだ。相手の立場に立つことに限界があることをわかったうえで、これに迫っていきたい。本田さんの言葉は釜ヶ崎の活動から得た含蓄あるものだった。 袴田秀子さんは「巌は今も自分の世界に閉じこもったまま。(獄中から)出てきて5年経つが、精神状態はほとんど変わっていない。(獄中)48年間は長いとは思わなかったが、出てきてからのほうが長く感じる」「ともかく、巌は自由の身になった。よくぞ生きて帰ってきてくれた。元気でいてくれることがなによりもうれしい」と語った。

今度こそ再審を

発言する袴田秀子さん(右)と石川一雄・早智子さん(左)

石川一雄さんは「証拠上は無罪。あとは裁判官の判断を待つだけだ」「無罪を勝ち取った時に、私の新たな人生が始まる」と決意をのべた。 石川早智子さんは1審浦和地裁での論告求刑と判決を引用して次のように述べた。「貧しい事、学校に行けなかったことを個人の責任にしている。傲慢で差別に満ちた判決だ。ここに狭山差別裁判の一切がこめられている」「もう残された時間がない。狭山裁判は最終場面にきている。今度こそは、再審を実現したい」と語った。 小室等さんは「死んだ男の残したものは」と「誰かが風のなかで」(「木枯し紋次郎」テーマソング)などを披露。これらの歌には1970年代の自由な雰囲気と抵抗の意志が込められている。 一日も早くふたりの再審を実現するため、国家に強制する民衆による力ある運動がもとめられている。この集会をバネにして、ひとり一人が声をあげ、行動をおこしていこう。(津田保夫)

天皇制とオリンピック
福島原発事故を隠ぺい
2月11日 大阪

鵜飼哲さんが講演

2月11日、「建国記念の日」に反対し、「日の丸・君が代」処分の撤回を求める「『戦争する国』も『神の国』もゴメンだ!」集会が大阪市内で開かれ350人が参加した。主催は、「日の丸・君が代」強制反対・不起立処分を撤回させる大阪ネットワーク。鵜飼哲さん(一橋大学教員)が「21世紀の天皇制とその批判の論理」というテーマで講演した。以下、講演要旨。

天皇とオリンピック

「建国記念の日」が制定されたのは1966年。いったいどんな時代だったのだろうか。64年に東京オリンピックがあり、65年には日韓条約が結ばれた。東京オリンピックでは天皇ヒロヒトが開会宣言をした。戦争犯罪への責任が重い天皇が国際舞台に復帰した。 現在、わたしは2020年東京オリンピックに反対する運動にかかわっている。その理由は、このオリンピックは福島原発事故を隠蔽するためにおこなわれるからだ。その前年(19年)に天皇の代替わりがおこなわれる。ナルヒトが天皇として国際舞台でお披露目する場として、オリンピックは設定されている。オリンピックと天皇制は密接に関係している。 われわれが天皇制を考える場合、皇室・皇族政治(外交)全体をみていく必要がある。このなかに野党政治も組み込まれている。こういうことを含めて、21世紀の天皇制を見ていく必要がある。

「祝賀資本主義」

84年ロサンゼルス大会以降、オリンピックは完全に商業主義におちいっている。同時に、オリンピックは民主主義を破壊するためにおこなわれる。19年の「生前退位」は、「祝賀資本主義」のなかにリンクされている。何よりも資本の利益が追求されるのだ。 天皇制について以下を指摘しておきたい。

@「人間宣言」の虚構

46年1月1日の天皇詔書は、「人間宣言」ではなかった。このとき、天皇は戦犯として連合国に訴追される可能性があった。いっぽう、GHQは天皇の神格化を否定しようとした。天皇はこの詔書によって、神格化の否定を曖昧にして、象徴天皇制下での民主主義の展開と秩序維持を強調した。天皇の神格化は受け継がれている。

A天皇制とキリスト教

この両者には密接な関係がある。キリスト教における「政治神学」では、〈君主は人にして神〉なのだ。天皇制はこれを取り入れ、象徴の中に神聖が組み込まれている。

B憲法1条と10条

現憲法には戦前の天皇制を救済する部分が書き込まれている。とりわけ1条と10条が問題だ。1条では「日本国の象徴」というのが問題だ。わたしには「万世一系」が入っているように読める。10条はGHQの草案にはなかった。大日本帝国憲法の18条をそのまま復活させた。52年4月法務省民事局「通達」で、旧植民地出身者の国籍を奪った。日本人が臣民から国民になったとき、これらの人たちを排除した。平和主義は外国人とどう向き合うかという問題であり、外国人の排除は平和主義と矛盾する。

福島の記憶を消す

20年の東京オリンピックは福島から聖火リレーがはじまる。震災と原発事故で亡くなった人たちを記憶から消し去ろうとしているのだ。こんなオリンピックと天皇制に反対するため、皆さんとともにたたっていきたい。(文責、小見出しとも本紙編集委員会)

米国の意向≠ニいうウソ 猿田佐世さんが大津市で講演

2月11日、「これでいいのか日本!2019滋賀県集会」が、大津市内でおこなわれ、170人が参加した(写真)。主催は、同実行委員会。
〈新外交イニシアティブ〉代表で弁護士の猿田佐世さんが講演した。参加者は、猿田さんの講演で、米国の意向と称する、日本の世論に対する攻撃の黒幕は日本政府であるという、ワシントン拡声器という構図を衝撃を持って受けとめた。国会前で、「日本政府は米国の言いなりになるな!」と叫ぶのは間違いで主犯は日本政府であり、日本の官僚であることを明らかにした。以下、講演要旨。

ワシントンの日本人

09年、日本で民主党政権が誕生した時、ワシントンに留学していた私は、「これで辺野古の埋め立てはなくなる」と思ったが、ワシントンの日本人社会の受け止めは違っていた。そのメンバーは、日本大使館の職員を中心に大企業の出張所や大手マスコミの駐在員等200人ほど。この人たちは全員、「日本政府が検討してきた辺野古案以外に方法はない。それを止めるのはとんでもない。民主党政権なんかすぐつぶれる」と吹聴していた。そのため、これが日本人の意見だとワシントンでは思われていた。 日本では、アーミテージ・ナイ報告が米政府の対日政策だとされている。しかしこれは、正式には米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)の報告書である。CSISに日本政府は1億円以上の資金を提供している。実際にアーミテージと個人的に話したら、「辺野古でなくてもよいのでは」と平気で言っていた。 ワシントンで開かれる対日政策の講演会に参加しているのは日本人が200人ほどにすぎない。先ほど述べた日本人社会のメンバーたちだ。米国人の日本にたいする関心は低い。そんな講演会の参加者アンケートの結果が「米国の世論」として日本で報じられている。アンケートに答えているのはほとんど日本人なのに。

辺野古は日本の方針

辺野古新基地建設をめぐって日本政府は、「米国の方針は絶対に変わらないから辺野古以外は無理だ」と言う。そんなことはない。TPP離脱に見られるように、米国が方針転換するのは珍しくない。 「米海兵隊は多くの犠牲を払って占領した沖縄を手放さない」と言っているのも日本政府だ。海兵隊OBの政治家と何人も会ったがそんなことを言っている人はいない。 米国がイラクのフセイン政権を打倒した後、イラクの新政府は米国との地位協定でその裁判権を渡さなかった。そうすると米軍は撤収した。米国に地位協定の改定を求めてないのは日本だけだ。本気で改定を求めたら米国は応じる。辺野古にこだわっているのは日本政府なのだ。

3面

〈寄稿〉避難の権利の確立へ(上)

森松 明希子

被災者を顧みない国とは

講演する森松明希子さん(1月13日 神戸市)

「生きる権利を求めて」と開かれた阪神・淡路大震災24周年の集会で、森松明希子さん(東日本大震災避難者の会/Thanks & Dream代表)が講演した。「生きる権利、被ばくからの自由という基本的人権を確立したい」という森松さんに、講演をもとに寄稿してもらった。(本紙編集委員会)

高齢者を追い出す

阪神淡路大震災の激甚被災地、神戸・長田での集まりに参加しました。6434人が亡くなり、全半壊焼失約25万棟という大災害から24年のいまなお、生きる権利が奪われています。80代になった高齢の被災者が「借り上げ復興住宅」から20年を区切りに神戸市や西宮市から退去を求められ、「被告」とされ裁判に訴えられています。 福島避難者への住宅支援は17年3月、6年で打ち切られました。この国は、災害から住民を守るのではなく、いかに早く放り出すかを阪神・淡路大震災から教訓にしています。放射線とは違いますが、震災時や解体、復旧時のアスベスト吸引による被害もこれから出ると言われています。 私は東日本大震災、福島原発事故のあとの5月に0歳と3歳の子どもを抱え、関西に母子避難してきました。原発事故直後、放射能汚染が広範囲に広がりましたが、人々には情報が知らされず無用な被ばくを重ねました。特に強制避難区域外の避難者にはほとんど公的支援がなく、信頼できる正確な情報、被ばく防護策もなく被災者・避難者は苦闘を強いられています。 最近も熊本、北海道、大阪と大きな地震が続いています。いつ、どこで起こるかわかりません。「子どもが小さいから待って」とも言えません。その上、地震や災害では何とか助かったのに再び命、暮らしがないがしろにされています。阪神・淡路で教訓にするべきことが、そこにあったのに。私は、この国は人々の「生きる権利」を顧みない国、行政であることを痛感します。同時に、阪神・淡路を体験し「生きる権利」を訴え、要求し続けてきたみなさんに励まされます。 私たちは、どんなにバッシングを受けてもめげずに、原発被害、原発避難者の要求をかかげ「生きる、命を大切にする社会」をめざしていきます。「生きる」こと、それは人の命にかかわる権利、基本的人権です。人権は肌の色、生まれ、性別、人種、国、大人・子どもと違っても、人すべてに等しく平等に与えられている権利です。

誰のための復興か

阪神・淡路、福島も「復興、復興した」と言われます。長田の集まりでも「防災は必要。同時に、起こった災害からどれだけ命を守り、元の暮らしに戻すことができるかが大事」を聞きました。備えは大切、放射線も含め災害、被害への知識も大切です。しかし、その後の生きる権利、人間らしい暮らしの復旧。憲法にも「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と明記されています。 阪神・淡路24年のいま、行政が率先して高齢の被災者を復興住宅から追い出すとは。国や行政は、何のためにあるのか。国家があって人がいるのか、人々がいて、その暮らしを支えるのが国や行政であろうと、私はずっと考えてきました。それが憲法にある国民主権、主権者あっての「国や行政」でしょう。戦後74年、いま憲法が取り沙汰されていますが、私たちは大災害を通して国家観をも問われているのではないでしょうか。 阪神・淡路は直下型の激震に見舞われました。東日本は巨大なプレートが動き、津波により1万8千人を超える人が亡くなり、その後、放射線事故の国際基準でもっとも過酷とされるレベル7という原発事故に襲われました。仮設住宅などでは阪神・淡路の経験が生かされ、コミュニティごとの入居が試みられました。しかし一方、原発避難者には「復興、早期帰還」の名のもとに、早々と住宅支援を打ち切りました。「衣食住、生きる権利」の理解、実践の本質が問われているのが、この国の現状です。

阪神・淡路を逆教訓

24年の後に、借り上げ復興住宅から追い出される人たち。福島は、年間被ばく許容量1ミリシーベルトの法律があるにもかかわらず20ミリシーベルトとされました。山形に避難している人たちがいます。「原発事故は終息していないから、もう少しここに住みたい」という、その人たちを「もう安全、わがままだ」と切り捨てようとしています。国や行政は、阪神・淡路で20数年かかったことを6、7年でやろうとしています。そういう国、行政って何ですか。もし、「それはマイノリティ(少数者)のことだから仕方がない」というなら、憲法25条は空文です。権力の側から、被災者を訴え裁判にしている。そんな恐ろしい事態がおこなわれているのがこの国です。 それでよしとする歴史を刻んではならないと思います。私たちの「生きる権利」が侵害されていると気づいた人は当事者であろうと、そうでない人であろうと声をあげなければ。  原発事故後、放射能汚染の情報が人々に知らされず、無用な被ばくを重ねました。いまも、防護策もないなか被災者、避難者は苦闘しています。放射線被ばくから免れ健康を享受する権利(被ばくからの自由、避難の権利)が、特に子どもに全く確立されていません。「保養」はボランティア任せ、「避難」は自己責任という。国、行政による保護義務の放棄です。避難者数は政策立案の基本となる重要なものですが、その実態把握もお粗末です。復興庁はもちろん、受け入れ先の自治体は被災者・避難者の声に耳を傾け、正確な実態を把握し、基本的人権にもとづく保護義務をおこなうべきです。(つづく)

辺野古「市民投票」に3700票
「反対」86%、「賛成」6・2%
兵庫

2月24日の沖縄県民投票に合わせ、沖縄と同じ投票用紙、投票箱方式による「辺野古米軍基地建設のための埋立の賛否を問う市民投票」がおこなわれた(写真)。実施は市民デモHYOGOほかで、場所は神戸、丹波、加古川、姫路、西宮、尼崎。神戸は21日〜24日と期日前も含め、不在投票は封筒に入れ封印し持ち込んでもらった。結果は、投票総数3710票、賛成228票(6・2%)、反対3174票(86%)、どちらでもない298票(8%)、無効10票(0・2%)だった。 多くの「反対」票が投じられた。実施にあたって、「(反対運動をやっているのに)投票に意味があるの?」などの議論があったが、「運動を広げるために」「きちんとした投票を」と意見がまとまった。始まると、神戸市三宮の場合、初日で約250票(1時間半)。その後も連日多くの人が投票し若いカップル、高校生たちも多かった。最終日には投票箱が一杯になり押し込んでも入らない状態に。関心は高く、積極的な賛成は票数どおり「少ない」と実感した。 3700票という数には、単に「反対派」の投票ではなく広範な人々の意見、意志が反映されている。 「県民投票は圧倒的な民意を示した。深さ90メートルの軟弱を埋立てる技術、工事船はない。辺野古新基地中止を全国のたたかいに発展させよう。問われるのはヤマトの側ですよ」(安次富浩さん)。本土から、安倍政権を辺野古断念に追い込む行動を拡げたい。(博)

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『放射線のホント』って本当?
兵庫県 蒲牟田 宏

4回目を迎える宝塚保養キャンプに向けた学習会が開かれ、30人が参加した(1月20日、宝塚市内)。これまでも春、夏休みキャンプの前に学習会をおこなってきたが、今回は振津かつみさん(内科医)を招き、復興庁の小冊子「『放射線のホント』って本当?」と話してもらった。

国、東電は謝罪を

日本では、『放射線のホント』を全国に配布(福島県内外のイベント、PTA大会等で2万部)し、放射線の問題は「ほとんど無いもの」として扱っている。しかも、福島原発事故被災地住民への「差別」や「偏見」を取り除くためにという、人権に配慮するような打ち出しで書かれている。
冊子の冒頭で「放射線はふだんから身の回りにある」と強調され、「ふだん身の回りにあるから、福島原発事故で浴びた放射線は問題ない」と宣伝している。「ふだん身の回りにある放射線」ならば政府の言う「風評」や「差別」は起こらない。原発事故によってまき散らされた放射性物質と、不当な被曝による健康被害が問題なのだ。
避けられたはずの被曝を避ける努力をしていなかった責任を国や東電が認め、全ての被害者に謝罪し補償をおこない、国の責任で長期にわたる放射能モニタリングや被曝防護、被曝を強いられた人々への生涯にわたる健康管理、必要な生活支援などをおこなうことが、本当の意味で「差別・偏見」を無くしていくことにつながる。『放射線のホント』の撤回を求めよう。原発の廃止を求めよう。

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アイヌ抜きの領土交渉
東京都 日高兼一

「北方領土の日」反対!「アイヌ新法」実現! 全国実行委員会(ピリカ全国実)関東グループの主催による「2・3『北方領土の日』反対! 関東集会」(東京・渋谷区勤労福祉会館)に参加しました。「NPO法人アイヌモシリチノミの会」代表の木幡寛さんの講演を聴きました。
「私は沙流郡で生まれ育って札幌に住んでいる。地元は8割がたアイヌの同族で、親戚が4割。『北方領土』問題は日露間の交渉をわれわれ抜きでやっている。アイヌ協会は『島を返せ、ただしわれわれも入れて』と主張してきたが、口数が減った。『何を2国間で勝手にやっているんだ』と国連に提訴してほしい」「『アイヌ新法』は天皇代替わり式典の邪魔にならないように適当に作った法律。行政の言うことを聞かなければ、また書類を出さなければ遺骨も返さないというのはどういうことか」

4面

論考 19年1月ドイツ革命の敗北 山田和夫
なぜグレーナーは義勇軍を組織できたか

本紙251号の八代秀一氏の指摘によると、スパルタクス蜂起は、スパルタクス団が仕掛けたものではなくて、ドイツ社会民主党(SPD)と残存した軍部の連合が仕掛けた挑発に、エーベルトに異議を抱いていたオップロイテ(注)、スパルタクス団を支持する労働者大衆が怒りにまかせて突っ走ってしまったことに起因するという。そこで、「なぜ19年1月にグレーナーは義勇軍を組織することができたのか」について所見を述べたい。

十分な準備もないスパルタクス団とその支持者が、SPDのノスケと参謀次長グレーナーが組織した義勇軍の軍事力の前に敗北し、壊滅させられてしまった、挑発に引っかかってしまったという点については、多くの指摘があり、事実関係として間違いないと考える。
八代氏の指摘によれば、1918年12月16日〜21日の、レーテ(労兵評議会)全国大会において、エーベルトのSPDが権力を握った時点で勝負がついた、ということだが、SPDとグレーナーも革命勢力を一掃する軍事力を必ずしも初めから準備できていたわけではない。スパルタクス団及びオップロイテは、政治的に劣勢になってしまった時点において、軍事的にも不利な状況に追い込まれはした。
しかし、以下で引用するハフナーの指摘「どのような革命においても、事を決するのは軍隊の態度である…」のように、情勢は18年12月、というより、19年1月の初頭においてもまだ流動的だった。エーベルトは、身の安全のためベルリンから脱出することを考えていたという。

帝国軍隊の解体

林健太郎によれば、「参謀次長グレーナーは、前線から帰還した軍隊をベルリンに送ったが、それは首府に入るとその空気に感染してほとんど無力になってしまった。したがって当時のベルリンには政府の信頼できる軍隊はなく、かえって政府にとって危険な二つの武装兵団があった。その一つは北海岸から送られてきた水兵の一団であって、彼らは『人民海兵団』と称して旧王宮に駐屯していた。いま一つは新政府のもとで警視総監に任ぜられたアイヒホルンが創設した『保安隊』である。ところが、アイヒホルンは独立社会民主党員であったから、この保安隊はまったく独立派の集まりであった。従前からあったベルリン軍司令官の地位にはSPDのオットー・ウェルズが任命されたが、彼の下には信頼すべき軍隊がなかった」という。(『ワイマル共和国―ヒトラーを出現させたもの』中公新書31ページ)
ドイツ帝国は、第1次世界大戦に敗北し、皇帝は亡命、帝政は崩壊した。ドイツ帝国軍隊は、解体の危機に瀕し、部隊は次々に離散していった。エーベルトが、左派勢力を鎮圧しようと期待していた部隊について、セバスチャン・ハフナーは次のように述べている。 「帰還野戦部隊は、12月10日予定とおりベルリンに入城した。エーベルトは、ブランデンブルグ門で部隊を出迎え、おおげさな演説をした。しかし、あいさつの直後、兵士は解散し始めてしまった。もうすぐクリスマスだった。もはや彼らを引きとめることはできなかった。入城した日の晩、宿舎に戻った時にはもう、彼らは全員揃っていなかった。翌日にはさらに数が減っていた。14日後、10個師団に残っていたのは、わずか800名だった」(『裏切られたドイツ革命』平凡社186ページ)
「どのような革命においても、事を決するのは軍隊の態度である。1918年の最後の数週を曖昧模糊にしたのは、SPDの『人民委員』の表裏ある態度だけではなく、とりわけ、軍隊がどこにあるのか、更には、どのような構成なのか、週ごとに、それどころか日ごとに、誰にもわからなくなったためだった。(中略)休戦とともに、無秩序で手に負えない武装解除が始まっていた前線兵士は、四散してしまい、残っていたのは将校だけだった―そして兵の間では、進んで軍隊に入った連中だけが残った。だが、革命を起こしていたのは、いやいや軍隊に入った兵たちだった。」(同194ページ)
「かように、ドイツ帝国軍隊は、崩壊しかけていた。しかし、同時に、兵士の多くは、革命の側にも立たなかった。1月6日ベルリンの諸部隊は、革命に賛成すると共に安寧と秩序にも賛成した。いずれにしても、わが身を犠牲にする気はなかった。人民海兵団でさえ、『中立』を宣言した。ベルリンの諸部隊は、政府=エーベルトにとっても、政府の敵にとっても頼りにできないようであった。
ベルリン郊外の演習場で、義勇軍が編成されつつあった。(ノスケは)ツォッセンでメルカー将軍直属の新設の狙撃兵義勇軍を視察し喜び驚嘆していた。」(同223ページ)

前線からの帰還兵

なぜ、兵士の多くは、離散したにもかかわらず、義勇軍が編成されたのか? 反革命の目的を明確にした部隊の編成が可能になったのか。では、スパルタクス・ブンドのベルリン蜂起を鎮圧した「義勇軍」とは、何者だったのだろう。
林健太郎は前出の『ワイマル共和国』で義勇軍に関して次のように述べている。
「そもそも革命によって、国内にあった軍隊は事実上解体したが、前線にあった軍隊は秩序を維持し、ヒンデンブルグとグレーナーの統率する参謀本部が依然それを掌握していた。それらの軍隊も本国に帰るとともに革命の波に洗われて多くは四散してしまったけれども、なお将校の指揮下に立つ若干の軍隊が各地に駐屯し、参謀本部はそれらの上に立って一つの勢力を形成していた。これらの軍隊や参謀本部自身にも兵士協議会ができていたが、軍隊組織と参謀本部の権威は変化することなく共和国の中に存続したのである。グレーナーはエーベルトに軍の共和国支持を約し、進んで共和国守護の役割を演じようとしたけれども、将校の中には帝政支持の心を持つものが少なくなかった。しかし、それにしても革命直後、彼らの間には−少数の冒険的分子を除いて―この共和国を転覆しようとするような力はなかったのである。
(中略)軍は極左派と戦うために兵力が不足であることを知り、新たに一般から義勇軍を募る方針を立て、それは特に12月24日の敗北(人民海兵団事件。政府は人民海兵団を鎮圧しようとベルリン近郊の軍隊を呼び寄せ海兵団に攻撃を加えたが、戦闘休止の間に周囲に集まっていた群衆が軍隊に近づいて、軍隊を武装解除してしまった。)以来、急速に推し進められた。これらの義勇軍に応募したのは、前線から帰還したが職のない兵士たちであって、彼らはあるいは変わり果てた祖国の姿に痛憤し、あるいはまた、多年の戦場生活に気分が荒廃して戦闘の中に生甲斐を見出そうとした。戦争の異常な空気の中に青春を送った大学生も多数これに参加した。これらの人々にはすでに共和国の擁護という意識はなく、ただスパルタクス団への憎悪に燃え、あるいはただ闘いのための闘いを欲した。これらの人々がひとたび公然たる武力行使を許されたときに、異常な残虐行為に出たのはあやしむにたりなかったのである。
(中略)SPDは義勇軍という魔物の鎖を解き放つことによって、以後逆にこの魔物に引きづられることになった。」(44〜46ページ)義勇軍はやがて、ナチスを生み出していく。

軍隊の態度

ロシア革命においては、17年11月革命の武装蜂起の時点で、ケレンスキーは「ドイツ義勇軍」のような反革命軍事力を手にすることができなかった。ケレンスキーを支持していた軍事力は士官学校生徒等の脆弱な部分に過ぎず、軍隊の大半は崩壊し、霧散してしまったか、「中立」を決め込み政府の命令には従わなくなっていた。しかし19年1月、ドイツ国防軍は戦争に敗北し、兵士は戦意を喪失して軍隊は崩壊しつつあったにもかかわらず、決定的瞬間に革命に激しい敵意を持つ軍事力を「義勇軍」という形で組織化することができた。 「どのような革命においても、事を決するのは軍隊の態度である」とは、あらゆる革命と反革命において当てはまる。インドネシアで共産党員への大虐殺がおこなわれた1965年9月30日のスハルトによるクーデターしかり、チリのアジェンデ政権を崩壊させた1973年9月11日のピノチェトのクーデターしかりだ。 しかし、革命党が軍隊内における工作をきちんとやっていたか否かの結果、というように単純に問題を立てることはできない。ロシア革命において、ボルシェビキの方針・実践は正しく、ドイツにおいては否定的であったとは言い切れない。1918年11月9日のドイツ帝政の崩壊を引きずり出したのは、11月4日のキール軍港における水兵の反乱であった。帝政ドイツは、革命化した大衆を鎮圧する武力を、その時点ではもはや持っていなかった。誰もが崩壊するなどとは疑っていなかった帝政が崩壊した。 「どのような革命においても、事を決するのは軍隊の態度である」という命題は、100年前の過去の問題ではない。それは現在の自衛隊に対して、我々は何をなすべきか、として立てられている問題である。

(注)オップロイテ ベルリン金属労働組合に所属し、組合幹部に反対して革命を目指した人々。エミール・バルト、リヒャルト・ミュラーが代表的人物。

5面

書評
消された精神障害者
「私宅監置」の闇を照らす犠牲者の眼差し
原 義和〈編著〉

『消された精神障害者』は精神しょうがい者問題に関心のある人、沖縄問題に関心のある人など、差別を許さない人すべてに読んでもらいたい本です。2018年6月にNHKで放送された同名の番組を制作したフリーのディレクターが、沖縄での精神しょうがい者の私宅監置の状況を詳しく書いています。

私宅監置が義務化

沖縄では1972年5月15日の「復帰」まで、明治時代からの私宅監置を義務化した日本の法律とその後の米軍政下での私宅監置を容認した法律が有効でした。判明しただけでも「復帰」時に200人以上が自宅の庭などで小さな檻に監禁されていました。当時の沖縄の精神しょうがい者の総数は8千人とされています。檻と鎖で繋がれた一人一人に名前と物語がありました。それをわかる限りたどっていきます。 監置小屋で現存するものが一つだけあるそうです。どこにあるのかは本島北部とだけ書かれています。本では監禁される側に寄り添う立場が明確です。地域の差別感情と家族の差別への加担、被害にあう精神しょうがい者の絶望が描かれていきます。 最近、明治時代に私宅監置されていた精神しょうがい者を精神病院に収容し直した呉秀三がもてはやされています。しかし私宅監置よりも精神科病院の方がましとどうして言えるでしょうか。地域に戻すことを目的としない監禁という点では同じことです。治療無き監禁であった私宅監置より、投薬もある精神科病院の方がましという人がいるかもしれませんが、私宅監置の家族的関係にたいして、冷たい支配―隷属関係である精神科病院という比較もできます。

襲撃と差別煽動

精神しょうがい者のすべてが監禁されていたわけではないようですが、確認された200人よりは多く私宅監置されていたようです。当時の沖縄の精神科病床はごくわずかで精神科医療もありませんでした。どこが監禁の境目だったのか。この本によれば「暴力」があると監禁されていたらしいです。地域社会が監禁を要請する。だから家族が監禁するということだったらしいのです。 最近マスメディアで持ち上げられている蔭山正子の議論(『精神しょうがい者の家族への暴力というSOS 家族・支援者のためのガイドブック』明石書店)を思わせます。その手口は、「大声を上げる」のも暴力だと精神しょうがい者の「暴力性」を扇動する。「暴力精神しょうがい者と困っている家族」という対立構造をつくりあげる。そのうえで、わずか600件にも満たない偏った家族会へのアンケートで「6割の家族が精神しょうがい者の暴力にあっている」という「ショッキングな事実」を演出する。その結論は「地域医療の充実のためにコメディカル(医療従事者)に活躍の場を」というものです。これは医療観察法のそれに似た「地域処遇」の全精神しょうがい者への拡大(地域内・社会内保安処分)が必要だというものです。しょうがい者襲撃的な差別扇動です。蔭山の目指す医療観察法的な地域処遇(社会内保安処分)にたいする根底的な批判が必要だと思います。 私宅監置の不衛生と早死にする精神しょうがい者が多かったことには因果関係があるでしょう。監禁が非人間的であることは言うまでもありません。問題はそれに対置するものが非人間的な精神科病院への収容や医療観察法的な地域処遇の全面化(地域内、社会内保安処分)であって良いのかということです。 蔭山の議論のように家族と精神しょうがい者という二項対立ではなく、共に目指すのは、監禁でも精神科病院でも医療観察法的な地域処遇(社会内保安処分)でもない共生社会ではないでしょうか。

「三重の不幸」

『消された精神障害者』は共に考えるべき大きな問題を提起していると思います。72年まで続いた私宅監置は、呉秀三の言う「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」に加えて「沖縄に生まれたるの三重の不幸を重ねるもの」です。 1952年4月28日サンフランシスコ講和条約を許し、沖縄にたいする差別的な分断のもとでの「高度経済成長」という「繁栄」を謳歌してきた本土人民として、またペテン的な「返還」後も基地の島ゆえの犠牲を許し、いま辺野古新基地建設を阻止し得ていない本土人民としてこの「三重の不幸」を直視することは、どうしても必要な行程だと思います。
高見元博(兵庫県精神障害者連絡会代表)

シリーズ
原発問題を理解するために 第4回
発電のしくみについて
江田 恵

そもそも「原子力発電」とは何でしょうか。モーターは電流を流すことで回転します。この逆に何らかの力でモーターを回せば電流が発生します。タイヤの回転で回る発電機を考えてください。コイル(電線を巻いたもの)の中で磁石を動かすと電流が発生する(電磁誘導)法則を使って発電しています。磁石を動かす際に回転させるのが最も効率が良いので、タイヤの回転を利用してコイルの中で磁石を回転させています。これを大規模にしたのが発電所です。
水の力で水車を回すのが水力発電、石炭や石油などの化石燃料を燃やした熱でお湯を沸騰させ、水蒸気でタービン(羽根車)を回して発電するのが火力発電(汽力発電)です。風力発電は風の力でプロペラを回して発電しています。発光ダイオード(LED)に電流を流すと発光します。その逆に半導体に光を照射すると電流を発生するという「光電効果」を利用したのが太陽光発電です。
原子力発電は火力と同じ汽力発電、ただし放射能あり。
それでは原子力発電とは何か。原発稼働は仕方がないと思っている人たちの中には、核分裂の過程でいきなり電気がつくられると思っている人が案外多いようです。原発は簡単に動かしたり止められると、北海道のブラックアウトのときに「すぐに泊原発を動かせ」と言ったりします。原子力発電は火力と同じ汽力発電、ただし放射能あり。
原発は、核分裂の膨大なエネルギー(高熱)で熱湯をつくり、その蒸気でタービンを回して電気をつくるのですが、火力発電と大きく違うのは、核分裂によって膨大な放射能=「死の灰」を発生させることです。そして原子炉の中の熱湯も蒸気も大量の放射能で汚染されています。(つづく)

訂正 前号見出し
(誤)火力を…
(正)原発を…



Xバンドレーダー基地反対 関西全体で交流深める

2月2日、米軍Xバンドレーダー基地反対京都連絡会の総会、つづいて近畿連絡会旗開きが京都市内でおこなわれた(写真)
Xバンドレーダー基地の地元・京丹後市から〈米軍基地建設を憂う宇川有志の会〉永井友昭事務局長が、総会の最初から旗開きの最後まで参加し、連帯の思いを強く感じることができた。総会は今年のたたかいの方向を全体で確認した。旗開きでは今年も関西全体の交流を深めた。(多賀信介)

私と天皇制A
女性国際戦犯法廷の放映に介入した安倍晋三

今年は朝鮮の「3・1運動」100周年に当たる。1919年3月1日、朝鮮の民衆が日本の植民地支配からの独立を宣言した。朝鮮全土で1年余にわたって、200万人以上の人びとが決起した。それ以前に日本は「土地調査事業」と称して、朝鮮の人びとから土地を奪った。土地を失った朝鮮の人びとは生き延びる道を求めて、玄界灘を渡った。これこそが「在日」朝鮮人のルーツである。
日本は1908年、東洋拓殖株式会社(東拓)を設立して、朝鮮最大の地主経営を行った。東拓の筆頭株主は日本の皇室で、朝鮮人は一株も持てなかった。
かつて天皇明仁は訪日した韓国の大統領に、「貴国とは昔から縁が深い」とリップサービスした。平安京を開いた桓武天皇の生母・高野新笠が百済の武寧王の子孫であるという朝廷が編纂した『続日本紀』を踏まえた発言である。しかし彼は東拓による収奪や暴虐を極めた憲兵政治には一切言及せず、謝罪もしなかった。
2000年、私の畏友・女性史研究者の鈴木裕子さんの先行的研究を土台に「日本軍性奴隷を裁く女性国際戦犯法廷」が開かれ、日本軍の最高司令官天皇裕仁に有罪判決を下した。かつて日本軍が支配したアジア太平洋地域の元日本軍性奴隷を原告とし、同問題の研究者や前インド最高裁長官らの専門家多数が参加した本格的裁判であった。
NHKの教育テレビがこの問題を放映しようとしたら、当時一代議士であった安倍晋三らがクレームをつけた。その結果、天皇裕仁の有罪判決≠ェ削除され、見るも無残に改ざんされた番組になった。
明仁や美智子が日本軍性奴隷とされたオモニたちに、「おやさしいお言葉」をかけたことなど一度もない。彼らも安倍と同じ穴のムジナなのだ。(Q生)

6面

長期連載―変革構想の研究 第13回 アソシエーション(3)
プロレタリア独裁か、拘束的委任制か
請戸 耕市

アソシエーションとの関連で、プロレタリアート独裁について考えたい。
まず、マルクス、レーニン他の言及を見てみよう。(傍線引用者)
【エンゲルス】 A「革命的な臨時秩序の本質は、まさに権力の分立が臨時的に廃止されている点にある、立法権力機関が執行権力を、あるいは執行権力機関が立法権力を、一時的に自分の手に奪取する点にある」(1848)(注2)
【マルクス】
B「すべての革命のあとに続く臨時的な国家秩序は、独裁を、しかも精力的な独裁を必要とする」「すべて未構成の秩序のもとでは、あれこれの原理ではなくて、もっぱらsalut public公安ということだけが基準になる」(1848)(注3)
【エンゲルス】
C「革命は、住民の一部が他の部分にたいして、銃や銃剣や大砲を手段として…自分の意志を押しつける行為である。そして、勝利した党派が自己の闘争をむだに終わらせたくないならば、彼らは、その武器が反動家達に引き起こす恐怖によってこの支配を維持しなければならない」(1872)(注4)
【レーニン】
D「独裁という科学的概念は、なにものにも制限されない、どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力に依拠する権力以外のなにものも意味しない」(1906)(注5)
E「独裁の欠くことのできない標識、独裁の必須の条件は、階級としての搾取者を暴力的に抑圧すること」(1918)(注6)
F「ブルジョア国家の形態は多種多様であるが、その本質は一つである。これらの国家はみな、形態はどうあろうとも、結局のところ、かならずブルジョアジーの独裁なのである。資本主義から共産主義への移行は、もちろん、きわめて多種多様な政治形態をもたらさざるをえないが、しかしそのさい、本質は不可避的にただ一つ、プロレタリアートの独裁であろう」(1918)(注7)
【スターリン】
G「レーニンはこう言っている、…『小規模生産は…資本主義とブルジョアジーとをたえず…大量にうみだしている…』『階級を絶滅することは、地主や資本家を駆逐することだけではない…、小商品生産者を絶滅することを意味する…』(注8)…だから、プロレタリアートの独裁…は、…ほんの瞬間的な時期とみるべきではなく…歴史上の一個の時代と見なければならない」(1924)(注9)

プロ独論の変遷

AB臨時性と全権掌握

マルクス・エンゲルスが、1848年3月ドイツ革命を評論して独裁に言及している。ただし、この独裁はブルジョア独裁。
特徴は、フランス革命史研究に踏まえ、独裁の臨時性、全権力の特定機関による掌握、法律の停止―を標識とする、ジャコバン独裁いらいの独裁概念を踏襲している点。

C主体は党派恐怖で支配

エンゲルスがパリ・コミューンの総括の中で独裁に言及、コミューン戦士の不徹底を論難したもの。
特徴は、独裁の主体は「勝利した党派」、独裁の内容は「反動家を武器の恐怖で支配する」という点。マルクスと同じで臨時的。

D何物にも束縛されない暴力

1903年、ロシア社会民主労働党が、プレハーノフ起草の綱領でプロ独を掲げときは、実はレーニンは批判的な意見を述べていたが、1905年の蜂起敗北後、レーニンもプロ独の概念を提示。
特徴は、「独裁はいっさいの法律・規則に拘束されない」と規定した点。

E必須条件は暴力的抑圧

干渉戦・内戦とカウツキーなどとの論争の渦中で示された実践としてのプロ独。ここでレーニンは、以前の超法律・超規範という規定の上に、プロ独の暴力的抑圧の契機を強調した。それは、拘束のない赤色テロリズムの発動であった。

F独裁があらゆる国家の本質

Eと同時期、レーニンは独裁論で踏み込みをおこなう。
マルクスもエンゲルスも、独裁を臨時的と限定していたが、レーニンは、ここで限定を取り払い、すべての国家に貫通する本質として独裁を一般化した。独裁の一般規定はレーニンに始まる。

G小商品生産者を絶滅する時代

レーニン独裁概念を復唱しながら、それを物質化に努めたのがスターリン。
商品関係が厳然と支配する社会にあって、それを権力の力で絶滅していく政策の要がプロ独。そしてその期間は「時代」という長さで続くと言明。

レーニンとスターリン

マルクス

マルクスの(エンゲルスも)独裁は基本的に臨時的な措置だった。
マルクスが独裁の内容を語ったのはブルジョア独裁についてだけ。プロ独の内容は全く語っていない。そもそも、マルクスがプロ独という用語を使ったのは、全著作中(演説・共同声明も含む)わずかに7回。しかもいずれもごく簡単な言説。
マルクスの独裁概念は、ブルジョア独裁の概念をプロ独に横滑りさせたという怨みが強い。マルクスにとってプロ独はキー概念とはいえない。

マルクス主義の欠陥

独裁概念が大きな意味を持つのはレーニン以降、とりわけロシア革命以降。
レーニンのD「法律にも規則にも束縛されない直接暴力に依拠する権力」は画期をなす。超法規・超規範の規定は、権力の本質を言い当てていると言えるが、思想問題も凝縮している(後述)。
とはいえ、Dの時点は実践以前の理論上の論議だが、E F Gは実践の最中で打ち出されたものとして重みが違う。そこには〈権力の力で資本主義を廃絶する〉というロシア革命の基本路線があり、小商品生産者に対する残酷な絶滅戦の強行がある。スターリン主義の発生点の一つ。そしてマルクス主義の基本路線の欠陥が実践的に逢着した地点である。 独裁概念について、マルクスのわずかな言説をもって説明するのは無理がある。実践の中で打ち出されたレーニン・スターリンの規定を中心にすえるべきだ。
さらに、スターリンだけを切り離して議論するのも恣意的で不当だ。マルクス主義の基本路線を忠実に実践し物質化し、プロ独の実際を体現したスターリンを外しては論じられない。

近代のダークサイド

たしかに、革命権力は、旧来の法律をうち破ったが、新しい法律をまだ制定していない状態の権力、憲法制定権力。法律がないのだから超法規的。
しかし、超規範なのか。革命権力は、変革と建設の要求・規範・目標・政策に厳しく縛られるはずだ。だから、レーニンも「(プロ独は)下からの人民大衆の直接の発意に、直接に基礎をおく」といった一句を入れたりするが、全く実質がなく拘束のない理念的確認。

シュミットとレーニン

権力の本質を、このような超規範、ないし規範自体を決める存在だ、と論じた者がいた。C・シュミット(注10)は、「例外状態」「主権独裁」などを論じ、法秩序の中立性や普遍性を装うリベラリズムの思想に対して、その仮面を引きはがし、その背後にある価値的な判断を引きずり出した。
行論との関係で敷衍すれば―秩序は反秩序があって規定される。そして秩序・反秩序の上に立って、そもそも何が秩序で反秩序なのかの価値基準を決めるのが主権者=権力。反秩序の否定をもって社会を秩序づけるのが権力。この権力は具体的人格として現象するが、前回の議論に沿えば、他者化した権力である。
これはリベラリズムの法秩序思想の欺瞞性を突いた批判。しかし、他者化した権力を、労働する諸個人の意志として自覚的に取り戻すという方向で議論しているのではない。欺瞞の仮面を剥いで、あからさまに特定の権力者に諸個人の力を集中させることで、近代の欺瞞を露見させる、ということを主張した。だから、シュミットの主張はナチスの実践を支えるものともなった。
このように、近代の法秩序のダークサイドを右から暴いたのがシュミットであるとすれば、同じ趣旨を左の側から突き出したのがレーニンのプロ独論といえる。どちらも法秩序のダークサイドに権力の本質を見ている。同時にどちらも近代の限界を究極的に突き詰めたが、しかし、それを越える思想ではなかった。
プロ独国家とは、そういう意味で、プロレタリアートを冠しているが、近代国家の究極の姿であり、止揚すべき他者である。

拘束的委任制

プロ独のようには光は当たらなかったが、その対照をなすものとして、拘束的委任制という考え方がある。
1848年革命時の共産主義者同盟、チャーチスト運動、国際労働者協会、パリ・コミューンなどにおいて採用された拘束的委任制。諸個人(選挙者)が派遣委員を選出、その派遣委員が、選挙者に対する拘束的委任の受任者として、選挙者の指示に服する。コミューンの編成原則。
拘束的委任制では、選挙者の決定に対して派遣委員が背いたり、履行しなかったりすれば、解任される。そういう形で、各級のコミューンから中央まで、拘束的に委任された派遣委員によって下から厳しく統制される。同時に諸個人の自覚と責任が問われる。その下で、要求・規範・目標・政策などが決定され執行される。レーニンの言う超法規超規範とは真逆で、どんな議会制民主主義よりも、厳しく諸個人に拘束される権力ならざる権力、中央ならざる中央。こうして、他者化した権力を、労働する諸個人の意志として自覚的に取り戻し、国家に吸収されていた自らの力を、コミューンの下に再吸収していく。

近代国家の代表制

近代国家の編成原則は代表制。「国民主権」を謳いつつ、議員に代表委任(白紙委任)する。議員は選挙者の拘束を受けない。議員は選挙者を代意代行し、他者化した意志を発現する。拘束的委任制とは対照的。
レーニンの考えは、議会制は廃棄だが、代表制は保持。ソヴィエトで代表制が定着し、代意と代行が蔓延した。(つづく)

(注2)A「7月4日の協定議会の会議」『全集』D
(注3)B「危機と反革命」『全集』D
(注4)C「権威について」『全集』Q
(注5)D『カデットの勝利と労働者党の任務』『全集』I
(注6)E『背教者カウツキー』『全集』
(注7)Fレーニン『国家と革命』第2版・第2章第3節
(注8)「共産主義内の左翼空論主義」『全集』
(注9)G「レーニン主義の基礎について」『スターリン全集』E
(注10)1888〜1985年。ドイツの政治学者。ナチス党員でもあった。
【参考文献】
大藪龍介『国家と民主主義』、「代表制と派遣制」(『マルクス・カテゴリー事典』所収)
仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』