安倍改憲にとどめを
自民党案の国会提示許すな
オール沖縄 那覇市長選も圧勝
10月24日、臨時国会の開会にたいして全国各地で集会やデモがおこなわれた。国会前では、「自民党改憲案国会提出反対! 辺野古新基地建設は断念を! 共謀罪法廃止!」をかかげて1200人が声を上げた。安倍政権は今国会で改憲案の提示をめざしている。断じて許してはならない。全国各地から「9条守れ」の運動をまき起こそう。
自民党が改憲シフト
24日、安倍首相は所信表明演説のなかで「憲法審査会において、政党が具体的な改正案を示すことで、国民の理解を深める努力を重ねていく」と述べ、今国会中に自民党の改憲案を提示するという自らの意思を明らかにした。しかし、現実には自民党内部でも改憲案はまとまっておらず、ましてや連立を組む公明党との間でも、何らの合意も取れていない。
このような状況で安倍が「改憲案提示」にこだわるのは、改憲勢力が衆参両院で3分の2以上を占めている「今を逃せば改憲のチャンスがなくなる」という焦りに駆られているからだ。それは自民党の人事にもはっきりと表れている。
改憲案を取りまとめる総務会長には安倍の側近である加藤勝信を就任させ、総務会のメンバーから石破派を一掃し、完全な「イエスマン体制」にした。その一方で、自民党の衆院憲法審査会の幹事を総入れ替えした。与野党協調路線を取る中谷元と船田元を退任させ、安倍側近の新藤義孝と下村博文を就任させた。下村は自民党憲法改正推進本部長だ。この人事によって安倍は、「野党第1党の合意のもとに国会発議をおこなう」というこれまでの憲法審のコンセンサスを反故にし、「与党単独でも発議を強行する」というメッセージを発しているのだ。
安倍がこうした強硬姿勢を取っているのは政権が盤石であるからではない。その逆だ。
揺らぐ政権基盤
第4次安倍改造内閣は発足当初から問題が噴出している。片山さつき地方創生相の「口利き」問題、工藤彰三国交政務官の政治資金規正法違反、柴山昌彦文科相の「教育勅語」評価発言。そしてなによりも森友学園事件をめぐる決裁文書改ざんなど一連の不祥事を不問に付して、麻生を財務相として続投させたことである。民衆の怒りは高まっている。
先月、朝日新聞がおこなった世論調査では、内閣改造を「評価する」は、わずか22%で、内閣支持率も上がっていない。このままいけば、来年夏の参院選で3分の2議席を確保できる見込みはない。だからこそ安倍は来年の通常国会が改憲発議のタイムリミットと見て、勝負をかけてきているのだ。
こうした安倍政権にたいして最も鋭く対決しているのが沖縄である。沖縄県知事選における玉城デニー氏の勝利に続いて、「オール沖縄」は豊見城市長選、那覇市長選と3連勝した。那覇市ではダブルスコアの圧勝だ。こうした民意を無視して、政府は先月17日、「埋め立て承認撤回」の効力停止を求める法的手続きを開始した。しかし、こうした強権的手法によってたたかいを押さえつけることはもはや不可能だ。今こそ沖縄のたたかいと固く結びついて、安倍改憲にとどめを刺すときである。
戦争法で民間人が標的に
10月15日 違憲・差止訴訟で証言
東京地裁
10月15日、東京地裁で安保法制違憲・差止訴訟の第8回口頭弁論が開かれた。この日は、原告側から7人が証言に立った。
空襲体験者の金田マリ子さんは、学童疎開で苦労した経験や空襲で家族が皆亡くなり孤児として苦労したことなどを証言。戦争孤児の体験を聞き取り調査するなかで新安保法制に対して強い危機感を覚えると訴えた。
ピアニストの崔善愛さんは、排外主義が激化するなかで、新安保法制によって朝鮮半島で戦闘が起こった場合に自分が「敵国人」と見なされることを恐れていると証言した。
船員の竹中正陽さんは、新安保法制で有事の際に民間船舶が輸送船として駆り出される。登録された船の乗員が予備自衛官とされる。第2次大戦末期、非武装の民間船舶が輸送船として動員され、連合軍の格好の標的とされ、戦艦以上の高率で沈められたと証言。
山口宏弥さんは航空機の元機長。この新安保法制によって2016年11月30日、チャーターされた日航機が南スーダンに飛んでいる。日本の民間機が「報復テロ」の標的になることを恐れている。世界一の航空会社だったパンアメリカン航空は1980年代に複数回の攻撃を受け、多数の犠牲者を出して倒産に追い込まれたと述べた。
横須賀で反基地運動を続ける市川平さん。これまで基地を監視しながら米兵や自衛官との対話を求めてきた。新安保法制によってそれが妨害されている。米軍艦船は、監視行動中の民間船を航行不能にする目的で、破壊行為に及んでいる。防衛施設庁は謝罪したが米軍からは何の返答もないと証言した。
ジャーナリストの志葉玲さんは、日本がイラク戦争に協力したことや新安保法制を成立させたことによって、日本人ジャーナリストが中東では敵とみなされ、危険な状態になっていることを訴えた。
元原発技術者の小倉志郎さんは、原発は武力攻撃を受けることを前提に作られてはいない。攻撃されたら破局的な事故になる。日本が戦争に加担することは国土を壊滅させることを意味する。新安保法制がその危機を増大させていると訴えた。
農地は命 金では売らない
三里塚反対同盟が全国集会
10月14日 成田市
反対同盟所有地で開かれた全国決起集会(10月14日 成田市内) |
「市東さんの農地を守ろう! 空港機能強化粉砕! 改憲阻止・安倍政権打倒! 10・14三里塚全国闘争総決起集会」が千葉県成田市の反対同盟員所有の畑で開かれ、680人が参加した。
基調報告をおこなった三里塚芝山連合空反対同盟の萩原富夫さんは「請求異議裁判が9月27日最終弁論をもって結審した。反対同盟と顧問弁護団、そして全国の仲間の力で、2年にわたって強制執行を許さなかったことは大きな勝利だ。勝利するためには、12月20日の判決日までの2か月間が勝負。『強制執行ゆるすな』の声で千葉地裁を包囲しよう」と訴えた。
また「空港周辺住民の不安や怒りを共有し、空港機能強化をやめさせよう。第3滑走路建設を阻止し、軍事空港建設を阻止しよう」と訴えた。
基調報告の最後に、今年亡くなった三里塚関西実行委員会世話人で新空港反対東灘区住民の会代表の山本善偉さんと、『週刊三里塚』編集者の小山衛一さんを偲んで献歌した。
連帯のあいさつは、動労千葉、関西新空港反対住民・関実の松原康彦さん。関西地区生コン支部からのメッセージが代読された。
反対同盟の市東孝雄さんは、「裁判闘争を全力でたたかう。いくら札束を積まれても農地は命、絶対に農地を売らない」という固い決意を述べた。
反対同盟顧問弁護団は、「裁判の早期結審を打ち破った。大木よねさんのたたかいを教訓に、強制執行来るなら来いという構えをもってたたかう。NAAは市東さんの農地を何に使うのか答えることができない。強制執行は必要ない。」と発言した。
「福島からの訴え」は椎名千恵子さん。沖縄から参加した名護市会議員の川野純治さんは、「今回の沖縄知事選は本当に苦しいたたかいだった。大差で勝利することができたのは辺野古に新基地をつくらせないという県民の思いと全国からの支援のおかげだ。新基地建設阻止はこれからが本番だ」と訴えた。
このあと若狭の原発を考える会のメッセージが代読され、部落解放運動、「障害者」解放運動など各団体がアピールした。(野里 豊)
2面
新基地は絶対にできない
沖縄から稲嶺進さんが報告
10月21日 京都
発言者を先頭に祇園から四条大橋をわたるデモ隊。安倍やめろ!の横断幕が、通行人・観光客の目を引いた |
10月21日、第12回反戦・反貧困・反差別共同行動in京都「変えよう! 日本と世界」が秋晴れの円山音楽堂でひらかれ650人が集まった。
「主催者あいさつと集会基調」は集会実行委員会・代表世話人の仲尾宏さん。9月30日の沖縄県知事選挙勝利と韓国ろうそく革命から東アジアの市民・民衆の連帯を訴え、またグローバリズムが跋扈し資本主義の腐朽の極みの安倍政権との対決を訴えた。
雨宮処凛さんが訴え
「アベノミクスの失敗と貧困」と題して、雨宮処凛さんと、司会者との講演トーク。 雨宮さんは「団塊ジュニア」で、就職氷河期のロストジェネレーション世代。2006年から若者の生きづらさや貧困について発信してきた。リーマンショック回復後の「いいとこ取り」がアベノミクス。若い人は「今より就職が悪くなるのは嫌だから、安倍さんがいい」となっている。自分のような「単身・フリーランス・女性」は、マンションの入居審査に落ちないためには、保証会社に月7000円が必要。「一億総活躍」「女性活躍」というなら「底」を上げる必要があるのに、「底」を見ていない。みんなが「輝ける」わけはない。提示されているのは女性が仕事、家事、育児の負担で大変になるモデルだけだ。
片山さつき地方創生大臣のような、男社会の中で「活躍」してきた「名誉男性」を使い、「敵」をつくり分断し本当の敵にはゆきつかせない。「頑張れば報われる社会」にしたいが、「どうがんばっても報われない社会」である。政治が自分の人生をデザインするツールになっていない。しかし朝鮮半島情勢については感動して見ている。課題は深刻で、「希望」は当面はないが、アジアの人々との交流に希望が見える、と結んだ。
沖縄から報告
前名護市長の稲嶺進さんは、2月の自らが敗北した選挙について振り返るとともに、玉城デニー知事誕生を喜んだ。だが10月17日、政府が行政不服審査法による審査請求と執行停止申し立てをおこなったことを強く弾劾。そして「安倍政権は早く海の底に沈めないといけない。大浦湾はダメですよ」と笑いをとった。新基地建設予定地の軟弱地盤や活断層の存在、長島の海中鍾乳洞(国内唯一)の発見、滑走路周辺地域の「高さ制限」をめぐるダブルスタンダードなどを指摘し、「辺野古新基地は絶対にできない」と話した。
沖縄・名護ヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さんは、翁長前知事による「埋め立て承認」の撤回によって、8月31日に工事が止まったことを報告。10月17日、政府は行政不服審査法による「撤回」取り消しの手続きをおこなった。2週間ほどで審査結果がでるだろう。知事と現場の連携を密にした運動で迎え撃つ。横田基地へのオスプレイCV―22配備を受け、「全国で日本からオスプレイを追い出す運動をつくろう」と提起した。
集会後のデモは外国人観光客などでごった返す祇園〜四条河原町〜市役所のコース。「安倍やめろ!」の横断幕が一段と映えた。
臨時国会に改憲案を出すな
沖縄と連帯し集会、デモ
10月20日 神戸
「改憲案を国会に出すな!」 10月24日からの臨時国会にむけ神戸市内では三宮・花時計前で集会、その後デモをおこなった(写真上)。「こわすな憲法!いのちとくらし!」市民デモHYOGOによる「10月行動」だ。NHK問題を考える会(兵庫)共催、兵庫県平和委員会も協賛、約110人が参加した。
麻生財務相の居座り、片山さつき・地方創生相、甘利・元経済再生相の党要職への復帰など、誰も納得できない安倍政権と自民党政治だ。国会内外から、市民の声を集中しよう。
I女性会議が司会、NHK問題を考える会、弁護士9条の会・羽柴修さん、辺野古の海に基地をつくらせない神戸行動ほかからアピール。「教育勅語を現代的にアレンジすると発言した文科相。教育勅語は、国民はすべて天皇と国家に命をささげよ、という趣旨。何がアレンジか」「集団的自衛権を手にし、各方面隊全体を指揮する陸上総隊を新設。南西諸島配備を強化しているのが、いまの自衛隊。9条に書き込めばどうなるか明らか。発議、国民投票を阻止する」「玉城さんは圧勝した。民意は明らか。それなのに防衛局は、沖縄県による撤回の効力停止を申し立てた。本土のテレビは、まったく伝えない。デニーさんは、普天間は原点に戻るべきと。普天間は返還、新基地は県外に。私たちは玉城デニーさんを支える」などの発言が続いた。
集会後、元町まで「憲法改悪ハンタイ!」「麻生はやめてよ!」「デニーさんといっしょに、がんばろう!」と商店街を行く人たちにデモで訴えた。
投稿
なくせ官製ワーキングプア
絶望的格差から希望の労働へ
10月13日、「なくそう! 官製ワーキングプア 大阪集会Vol・6」が大阪市内で開かれ、久しぶりに参加しました(写真左)。今回のテーマは『公共サービスのあり方と担い手を考える』〜絶望的格差から希望の労働へ〜」です。
午前中は分科会、午後は全体集会のスケジュール。私は午後からの参加です。
「法のはざま」
「法のはざま」の言葉に象徴される公務の非常勤労働者。雇い主は自治体で「任命」という雇用形態。数年前までは労働基準法も適用除外という不安定な職場環境でした。その上、有期雇用という雇用年限があり、毎年、雇い止めになるかもしれないと不安がいっぱいです。このような立場の仲間たちが手作りで立ち上げた会も、今年で10回を迎えました。大阪での開催は6度目です。集会は、全国各地で「法」を打ち破るたたかいの報告がありました。
非常勤職員の自死
そして、私たちをとりまく現在の状況、法律・条令の学習、活動報告も行われ、内容満載の集会でした。
特に去年、北九州市で起こった非常勤職員の自死事件の経過報告。それをきっかけにした、集会実行委員会の様々な取り組み。それらの実施が総務省の重い腰を上げさせ、全国への条令の一部見直しという「通達」(注)を引き出したという成果も報告されました。
けれど、失われた命は戻って来ません。
このようなことを二度と起こしてはならないと思いました。パワハラや長時間労働を許さない職場作りが、一人一人に求められています。それが職場環境を良くし、住みやすい地域作りに結び付くことも実感しました。
集会の副題にもなっている「絶望的格差から希望の労働へ」というテーマの意味を再度考えながら明日からのエネルギーをもらった集会でした。(な)
(注)総務省の通達とは本人(非常勤労働者)並びに遺族からの請求権を認めていない「条令・施行規則」があり、労災申請が認められていなかったが、今回の事件を受け、「臨時・非常勤職員等の安全衛生調査」をワーキングプア研究会がおこない、その報告・制度の不備、不当性を参議院議員会館で訴えた。その後、総務省自治局は「議会の議員その他非常勤の職員の公務災害補償等に関する条令施行規則」(案)の一部改正(案)について」という通達を出し、被災職員や遺族等からの申請ができるように自治体に規則改正をうながした。
3面
〈寄稿〉オキナワと安倍9条改憲(中) 関西大学教授 高作正博
憲法を無視した新基地建設
(三)辺野古埋め立て強行と「法治主義」の破壊
辺野古をめぐり翁長さんが実際に行なってきたこと、起こった問題を振り返ってみる。まず、埋立て承認の撤回という動きまで。埋立て承認の「取消」と「撤回」は、法律学上は違う概念になる。しかし法律上はどちらも「取消」と書かれている。条文を使うときはどちらも「取消」と表現するが、行為としては「取消」と「撤回」は違う。最高裁の判決で沖縄県が敗れたのが「取消」、いまの局面が「撤回」。まったく違う行為だった。
仲井眞・元知事は二つの行為を行なった。一つは「埋立承認」。じつは、それだけでは工事はできない。もう一つが「岩礁破砕許可」。土砂で埋立てると、海底にある岩礁が破壊される。この「破砕」には県知事の許可が必要。そのため仲井眞さんは許可を出し、埋立て実施へ局面が変わった。彼は知事選に出たとき「県外移設をめざす」と公約に掲げていた。ところが「県内容認」に変わり、次の知事選で翁長さんに敗れた。
埋立承認の取消
そこで翁長さんがやったのが、「埋立承認の取消処分」だった。政府側はすぐに、それを止める行為に出て、さらに国が県を訴えるという裁判を起こした。それに対し沖縄県が政府を訴えるという裁判闘争になった。住民側と国が争うというのはあるが、この場合、沖縄県と国家が争う展開だった。
福岡高裁(那覇支部)は、いったん和解を提案した。本来、例えば個人と個人の場合は自分の意志、見解にもとづき和解はあり得る。しかし公的機関の場合は法律にもとづいた提訴であり、法律によって決着させるのが法治主義のあり方となる。裁判所自体がそれを破って和解させ、訴訟を取り下げさせた。それが16年3月4日。
その後、あらためて政府が「埋立承認の取消処分を取り消さない沖縄県の行為(不作為)が違法」との確認を求める不作為違法確認訴訟を提訴した。福岡高裁那覇支部は16年9月、政府の主張を全面的に認める判決を下した。同年12月、最高裁も原審と同旨の判決、すなわち「取消処分は違法」の判決が確定した。
これを受け、翁長さんは「埋立承認の取消処分を取り消す」ことになった。例えると仲井眞さんがスイッチを入れ、翁長さんが切った。最高裁判決により、翁長さんは仕方なく再びスイッチを入れたという経過になった。
そこから「取消処分では負けたが、まだ方法ある」という局面に向かう。17年は、その議論、とりくみを模索する過程になった。「反対の民意、県政の立場」は一貫している。一つは「埋立承認」に対する撤回。「取消」というのは、「最初から瑕疵、欠陥があるので取り消す」という行為のこと。つまり「仲井眞さんの判断が間違った」ということ。それが認められなかったのが最高裁判決。もう一つは、「もともと欠陥なく成立した法律関係が、その後の事情によりそれを存続させることが妥当でないことが生じた」というとき。適法だったが、その後の事情で変わった。だから取り消すという、これを「撤回」という。二つは、まったく別の概念である。
高作正博さんの講演(9月22日 神戸) |
岩礁破砕許可
さらに17年3月31日、岩礁破砕許可の期限が切れ、新たに許可しないと埋立てができない状況になった。ところが現在に至るまで県知事による岩礁破砕許可は出ていない。出ていないまま埋立てが強行されてきた。
「許可がないままやっているのがおかしい」と工事差止め裁判を提訴した。先行したのは、「許可のない埋立ての差止めを求める」裁判だった。期限の切れる前の17年3月16日、翁長さんは「3月14日付け水産庁長官の書面は、これまでの政府見解、水産庁自らが行なってきたことに整合性がない。これまでの政府見解と、10年に一度の漁業一斉切替えの際に水産庁が示してきた助言があり、行政実例が積み重ねられてきた。今回の水産庁文書は、長年示されてきた見解が辺野古案件のために恣意的に変更されたとしか受け止められない内容。政府が常々述べている法治国家とはほど遠く、辺野古唯一という視点しかない、国の強硬な姿勢が浮き彫りになったと考える。過去の例でも漁業権の一部放棄をもって許可不要取り扱いは行なっていない。那覇空港の事例でも、新たな許可申請が行なわれており、今回の防衛局対応は二重規準となっている」(要旨)とコメントした。
何が言われているのか。全国で埋立て事業が行なわれるが、すべてに県の許可がいる。本件の場合、17年3月31日で許可期限が切れる、その直前14日に水産庁長官が突然「漁業組合が漁業権を放棄したことによって許可は不要になった」という見解を沖縄県に送ってきた。
きわめて異常なこと。全国、ずっと許可を得て埋立て事業がおこなわれてきた。それを、辺野古については「許可はいらなくなった」と通告し、現在に至るまで許可なく工事が続けられてきた。翁長さんは、このことを「法治国家とはほど遠い」と述べた。
したがって沖縄県による岩礁破砕許可のない埋立差止訴訟は、法治国家の回復を求めた行為である。今年3月13日に那覇地裁の判決が出された。残念ながら(公的機関と公的機関による訴訟は)「不適法であり却下(訴訟では扱わない)」という門前払いになった。先ほどの、日本政府が沖縄県を訴えたケースは地方自治法による特別の規定があった。そういう規定に当たらない場合、司法権では扱えないという判決が蓄積されており、これを崩す法律論は難しい。つまり「岩礁破砕許可のない埋立差止」を裁判で争うのはなかなか難しい。
承認撤回へ
そこで、いよいよ「撤回」ということになる。18年8月31日に、沖縄県は沖縄防衛局に「公有水面埋立承認取消(撤回)」通知書を出した。内容は「撤回」である。謝花副知事が示した書面は「沖縄防衛局に聴聞を実施した。本件は、留意事項に基づく事前協議を行なわずに工事を開始したという違反行為があり行政指導を重ねても是正しない。軟弱地盤、活断層、高さ制限などが承認後に判明したこと…などから、承認要件を充足しない…と認められ、公有水面埋立承認取消通知書を発出した」「命を削り(新基地建設阻止に)とり組んできた翁長知事の強く熱い思いを受け止め判断した」(要旨/全文は沖縄県HP参照)と示した。
留意事項というのは、仲井眞・元知事が承認した際「どういう方法、手順で工事をするか県側と事前協議する」など、いくつか指摘していた。県側は、違法行為があると再三にわたり行政指導をしてきた。ところが、国はそれらいっさい無視して工事を進めた。さらに軟弱地盤、高さ制限に抵触する建築物、活断層があるなどが承認後に明らかになった。活断層については、工事が始まる前後から「活断層があるのでは」と指摘されていた。地質学者の調査研究により、あることがわかった。これらは承認の後で生じた変化であり、撤回する十分な理由となる。海底に、堤防の重さに耐えられない軟弱地盤があることがわかった。近くにある国立高専の建物、辺野古弾薬庫の高さ制限(アメリカの規準)を満たしていないことも発覚した。
返還条件については、稲田・元防衛大臣が「緊急時における民間施設の使用の改善を含む返還条件が満たされる必要がある」(18年6月6日、参院外交防衛委員会)と答弁した。ということは、「この調整がつかなければ、辺野古を造っても普天間は返還されない」ことになる。前提条件がまったく違ってくる。
これに対する政府の対応は、取消の際と同じパターンとなると思われる。撤回処分の執行停止、一時的に止める。続いて「この承認の撤回を取消さないと違法状態である」という裁判に出てくる。
もう一つ、「辺野古新基地、賛成、反対」を直接に県民投票で問う運動が行なわれている。知事選など選挙ではさまざま争点があり、政権側は新基地を争点から外そうとしてきた。これに対し、辺野古新基地をめぐり直接に住民、県民投票で民意を問い直すという方法である。知事選が前倒しになったため、先送りされたが、実施の動きは確実である。
新基地を強行する側は民主主義を押しのけ、法治主義、立憲主義も破壊して進めている。軍事を進めようとし、これら憲法上の重要な原則を押しのけているのが安倍政権であると言わざるを得ない。(小見出しは本紙編集委員会 つづく)
目次
(一)安保法制で破壊された「立憲主義」
(二)辺野古埋め立て強行と「民主主義」の破壊(前号に掲載)
(三)辺野古埋め立て強行と「法治主義」の破壊(今号)
(四)軍事の論理の突出と安倍壊憲(次号に掲載)
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安倍の秋葉原演説に思う
東京 田中 和夫
安倍が東京の秋葉原で自民党総裁選挙の最後を飾ろうとしていた9月19日の午後5時頃、秋葉原駅前には異様な光景が広がっていた。広場の周囲は鉄柵で取り囲まれ、あたり一帯に機動隊が配置されていた。そして機動隊と鉄柵に守られた自民党の関係者とおぼしき者たちが、監視の眼を光らせていたのだ。
そのとき秋葉原駅前には、総裁選の演説会とは無関係の人びとが大勢いた。秋葉原の街は、観光客や買い物客などで賑わっていた。
そんな中から「安倍やめろ!」の声が響いていた。
大勢のマスコミがテレビカメラを設置して安倍の最後の演説に向けて舞台の準備は万全であった。それは半世紀前の1968年10月21日の新宿駅周辺のような雰囲気を醸し出していた。あの「新宿騒乱」である。そこには「何かが起こる」というただならぬ空気が流れていた。張り巡らされた鉄柵の周辺で演説会の模様を見守っていた群衆は、そう感じていたではないか。
鉄柵の内側には、胸に「自民党関係者」と書かれたワッペンを付けた高齢者グループがいくつも見られた。正確な人数は定かではないが、ざっと見回したところ数百人。
また企業関係とおぼしき人物や、若い背広姿のサラリーマン風の人物たちが、数人連れで互いにあいさつを交わす光景があちこちで見られた。後でネットで見たところ、安倍の「盟友」、下村博文がさまざまな企業に「安倍の街頭演説会を秋葉原でやるから出欠票を出せ」と声をかけまくり、それによって駆り出された連中のようだ。
このとき秋葉原に登場した反安倍グループは、たぶん数十人程度だったのではないだろうか。それでも「安倍やめろ!」の叫び声は響きわたっていた。
もちろんそれ以上の状況にはならなかったのであるが、何かの拍子で「新宿騒乱」のように警察が収拾できない状況が起きても不思議ではない雰囲気だったのである。
4面
在日朝鮮人の根源を否定
高校無償化で逆転不当判決
大阪高裁
9月27日、1時過ぎ、大阪高裁前にチマチョゴリを着た朝鮮高校生をはじめ、保護者、支援者が続々と集まってきた。「すべての意志ある高校生たちの学ぶ権利、『高校無償化』適用に向かって最後までたたかい抜く」と書かれた横断幕を先頭に入廷行進、傍聴券を求めて300人以上が集まった。
3時開廷を待って傍聴券抽選に外れた支援者が、今か今かと待っている裁判所正門前に弁護士が走ってきた。厳しい表情で広げた旗には「不当判決」「子どもたちを司法が見捨てた」。逆転敗訴だ(写真)。
即座に抗議の声が上がる。オモニたちを中心に「どれだけ叫べばいいのだろう。奪われ続けた声がある。今また怒りが声となる。声よ集まれ 歌となれ」の歌が響く。「子どもたちの学ぶ権利を保障せよ」とシュプレヒコールが続く。
法廷内では、裁判長は、傍聴席の最前列で判決を待っていたチマチョゴリ姿の朝高生の方を見ることもなく、「原判決を取り消す」と主文を読み上げると、逃げるように法廷を去っていった。「良心はないのか」とオモニや支援する人びとの怒りの声が沸き起こった。
「学ぶ権利」を無視
夕方6時半から大阪市内で開かれた報告集会には600人が参加。
初めに、朝鮮学校誕生から今日までの歴史、民族教育を守り抜いた同胞たちのたたかい、「学ぶ権利」を求める学生たちの声を無視し、差別政策を打ち出した現政権とのたたかいの様子を描いた、韓国のチェ・アラム監督制作の映像「私たちの声が届いたならば」が上映された。
弁護団の代表は「子どもたちの学ぶ権利には一切触れず、総連との関係のみで判断した不当判決。先に国を勝たせると決めた判決だ」とその不当性を明らかにした。
「いつか陽は昇る」
登壇した朝高3年生の女生徒は、「約12年間学んできたウリハッキョ、民族教育で学んできたこと、在日朝鮮人として生きていく根源を否定されたようで、悔しくてたまらない。たくさんの人に支えられてウリハッキョに通ってきた。朝鮮人というだけで学ぶ権利を奪われるのか。4・24教育闘争から70年。第二の4・24と言われる今の時代、勝利するその日まであきらめず前を向いて堂々と生きていく」と話した。
韓国から「ウリハッキョと子どもたちを守る市民の会」共同代表が連帯の力強いアピール。韓国「モンダンヨンピル」の金明俊監督は裁判費用のカンパを持って支援に駆けつけ、共にたたかう決意を明らかにした。
日本軍「慰安婦」被害者の金福童・吉元玉ハルモ二も、今回の台風被害が大きかった朝鮮学校への見舞金をもって駆けつけた。93歳とは思えぬ力強い声で、「10数年の間、日本政府とたたかっているけど、日本政府は一つも動かない。しかしいつか勝利する日が来る。生徒の皆さん決してくじけないで。いつか陽はまた昇ると信じています。挫折してはいけない。ファイティン」と励ました。
丹羽雅雄弁護団長は、「日本が敗戦時に、植民地支配の精算としてまずやるべきだったのは、民族教育を国家として全面的にバックアップすることだった。やっと無償化法ができたというのに、朝鮮学校の子どもだけ排除するという。これほど歴史を侮辱した行為はない。断じて許さない。この不当判決は加害の責任を負う日本人として絶対許さない。最後までたたかいぬく」と怒りを込めて発言した。
最後に火曜日行動の歌「勝利のその日まで」を全員で合唱して、子どもたちが安心して学校に通い学べるその日まで、あきらめないでたたかいぬくことを確認して終了した。
朝鮮学校を訪問
金福童・吉元玉ハルモニは、翌日、特に台風21号の被害の大きかった城北朝鮮初級学校を訪れ、被害状況を見て、講堂でカンパを手渡し、子どもたちと声を交わした。午後からは朝鮮高級学校を訪問し、子どもたちを激励した。(佐野裕子)
草の根の本気で流れ変えよう
10月14日 生かそう憲法 東大阪の集い
第3回「止めよう戦争への道。生かそう平和憲法!」東大阪の集いが、10月14日開かれ150人が参加した。「憲法改悪反対と国民投票について」をテーマに、『新聞うずみ火』代表の矢野宏さんが講演。後半は河内亭九里丸こと東大阪市議の松平要さん、桂文福さん、趙博さんの演芸で盛り上がった(写真上)。
矢野さんは、今回の安倍内閣は改憲シフト内閣だと指摘し次のように話した。
自民党の憲法改正推進本部長を慎重派の船田元から下村博文に、自民党の改憲案をまとめる総務会の会長を竹下亘から安倍側近の加藤勝信に変えた。下村が自民党案をまとめ、加藤が総務会で採決するという構図である。9条に自衛隊が明記されれば、「戦力をもたない、武力を行使しない」という9条の大切な内容が死んでしまう。何としても阻止しなければならない。
国民投票の問題点のひとつは、若者の自民党支持率が高いことである。去年の衆議院選挙(比例区)でNHKが行った出口調査では18〜19歳の自民党支持率は47%、20〜29歳は実に50%だ。若い世代がなぜ自民党を支持するのか。自民党政権に変わってから就職活動が安定していて若い世代の全てではないが、目先の就職活動しか見えていない若者が多くいることも現実。
もう一つは広告に規制がないこと。2012年11月、米カリフォルニア州で遺伝子組み換え作物の表示を義務化するかどうかを問う住民投票がおこなわれた。2カ月前は表示義務化賛成は6割を超え、反対は3割にも満たなかった。しかし、大企業が46億円を投じてテレビで義務化反対をキャンペーンした後、賛成44%、反対55%と逆転した。賛成派が集めた資金は反対派の58分の1の8000万円にすぎなかった。今、15秒のスポットCMは500万円する。改憲派はぼう大な資金を投入し、放送枠と交渉権を一手に握る広告最大手の電通がゴールデンタイムを押さえるといわれている。その中で有名タレントを使って「私は改憲に賛成です」と言わせるのである。
元海軍兵の瀧本邦慶さんは3人に2人が死んだミッドウェイ海戦を生き抜き、さらに2万人が餓死したトラック島に送られたが奇跡的に生き延びた。国にだまされていたことに気づいた龍本さんは「だまっていたらだめだ。気づいたら声をあげよう」と訴えている。草の根の本気の反対で改憲の流れを押し返そう。(三船二郎)
大石誠之助が名誉市民に
新宮市で大逆事件サミット
10月6日〜7日に第4回大逆事件サミットが、和歌山県新宮市で開催され、240人が参加した。これまでサミットは、2012年の四万十市中村(幸徳秋水)での第1回開催いらい、第2回は福岡みやこ町(堺利彦ら)、第3回は大阪(菅野スガ)と、大逆事件ゆかりの地で開催されてきたが、第4回は大石誠之助ら6人の犠牲者を出した和歌山県熊野地方の新宮で開催。集会には全国の大逆事件関係地の運動団体や市民が一堂に介した(写真左)。
石川啄木と大逆事件
6日の集会では国際啄木学会の伊藤和則さんが「石川啄木と大逆事件」をテーマに講演。
当時朝日新聞に勤めていた石川啄木は、1910年の幸徳秋水らの逮捕から11年1月24日の刑死まで、大逆事件に鋭い関心を示していた。啄木は、貧困の中でアナーキズムに惹かれ、その日記や書簡に彼の思想や思いを書き綴っている。
啄木は1910年8月29日の韓国併合にたいし『時代閉塞の現状』を著すが、朝日新聞には掲載不能と判断された。それは12月の『一握の砂』の「はたらけど はたらけど」や、「地図の上 朝鮮国に黒々と」という貧困や植民地主義を告発する短歌となった。しかしその1か月もたたないうちに幸徳らは刑死。翌年4月、啄木も貧困の中で幸徳らの後を追うように死去する。この模様を伊藤さんは克明にたどった。
名誉市民実現まで
新宮市は、大逆事件犠牲者26人のうち6人という最多の犠牲者を出した地である。アメリカ留学ののち開業医となった大石誠之助は、患者から金をとらず毒をとる「ドクトル」として親しまれていた。この大石や僧侶・高木顕明らの日露戦争への非戦と差別反対と文化振興の集まりと、幸徳がこの地に2週間ほど滞在したことを、「謀議をなし、明治天皇の暗殺を企てた」として一網打尽にしたのである。
逮捕者とその家族は、国家反逆の徒とその一類として長く苦難の道を歩む。1945年の敗戦を機に秋水の縁者らが声を上げ、1960年代には坂本清馬が再審を請求し、事件の復権を目指す運動が始まる。和歌山でも事件50年の1960年に追悼記念行事がおこなわれ、82年には『大石誠之助全集』が発行され市長が復権を誓う。2000年の90周年行事で本格的に顕彰事業が始まり、01年に市議会で名誉回復と顕彰が決議、03年には顕彰碑「志を継ぐ」の除幕式が。こののち名誉市民の顕彰を求めるが、11年には不採択。その後も粘り強い活動ののち、17年末に名誉市民決議がなされ、18年1月24日に107年を経て大石誠之助に名誉市民が授与されたのである。
この間の事情を、提案した上田勝之市議と辻本雄一・佐藤春夫記念館館長が語った。
2年後の再会約す
このあと各地の団体から報告を受け、新宮市の〈顕彰する会〉会長・二河通夫さんの閉会あいさつで集会を閉じた。夜は作家・田中伸尚さんの出版記念会と交流会がもたれた。交流会には今年4月神戸で開催した集会のようすも報告された。高知県で生まれ、神戸で逮捕されて無期懲役となった小松丑治と岡林寅松を顕彰する事業計画が話された。
翌日は新宮市役所近くの公園にある「志を継ぐ」碑の前で、新たに建てられた記念木柱塔(写真)の除幕式がおこなわれた。参加者は2年後のサミットでの再会を約して散会した。(岸本耕志)
5面
沖縄県知事選を闘って(中)青木 守
「誇りある 豊かな島」
名護市港区公民館での集会。照屋義実さんが涙ながらに訴えた(9月25日) |
8月29日に玉城デニー氏が正式な立候補表明に漕ぎつけたのは、佐喜真氏に2週間遅れだった。その時、「翁長知事の遺志を引き継ぎ、辺野古基地建設阻止を貫徹する」と述べた。デニー氏は、以降ぶれることなく主張を貫き通した。デニー氏の仁王立ちが「オール沖縄」の危機を救った。デニー氏を後継者と指名した翁長氏の眼力は本当に確かだった。
流れを変えた県民集会
しかし、選挙戦は相手候補の圧倒的な物量作戦の前に次第に苦戦を強いられていく。陣営カラーも緑と橙とにわかれ、一つにまとまらなかった。この選挙戦の流れを転換させたのが、9月22日に那覇新都心公園で開かれた「玉城デニーうまんちゅ大集会」だった。雨の中8000人が集まったこの集会で、涙ながらに訴えた樹子夫人の言葉は、佐喜真陣営への火を吐くような怒りの言葉だった。選挙期間中、夫人がマイクを握ったのはこの時だけだったが、後に朝日新聞は「樹子さんが初めてマイクを握った。聴衆は沸き、会場は拍手、指笛、涙につつまれた。この集会をきっかけに停滞していた運動が盛り上がったと陣営関係者は振り返る」と、報じている。佐喜真陣営の選対本部長は、この集会に対し「逝去の影響はすごく大きかった。弔い合戦の雰囲気が醸し出され、誰と闘っているのか見えない、非常に難しい選挙戦だったと振り返った」と報じた(10月1日付、琉球新報)。夫人の発言は「ひやみかちうまんちゅの会」(起ちあがろうすべての人の意)ニュースbSの裏面に、「県民を愚弄する政府に負けるわけにはいかない」の見出しで掲載された。
9月22日、沖縄9・22集会に連帯し「沖縄・憲法」集会が神戸市内で開かれた。講師の高作正博・関大教授の提起はとても鮮明だった。「辺野古新基地建設には軍事の論理が貫かれており、民主主義の破壊、法治主義の破壊と一体となって進められている。勝利の鍵は市民運動の力。その発展のためにも、ぜひデニーさんに勝ってほしい」と結んだ。私たち一行は最良の内容で決意を固めさせてもらい、翌日に沖縄へ向かった。
デニーさんに託す
名護現地での具体的な行動は本紙前々号(大林さん報告)の通りだが、9月25日夜の「大東ひやみかちうまんちゅの会決起集会」(港区公民館)に参加して、沖縄のたたかいへの認識を新たにした。特に印象に残ったのは、照屋義実・元県商工会連合会会長の発言だった。照屋さんは「今日が翁長さんの49日」と言い、翁長さんと行動を共にした日々を涙ながらに語った。そして沖縄戦の教訓として、「基地があれば、そこが戦場になる。軍隊は県民を守らない。沖縄戦の延長としての基地の島、その現実は未だに変わっていない」と述べた。
基地の島・沖縄に強制されたモノカルチャー経済の克服、見返り交付金に頼らない「誇りある豊かな島」をめざして翁長さんは懸命に動いた。中国へ、台湾へ、香港、シンガポールへ、また米国議会へ、国連へ。こんなに東奔西走した知事はいないという。県として初めて子どもの貧困調査をおこない、こども未来基金や給付奨学金創設、通学バス定期券援助、未就学児童医療費の無料化、離島高校生用の寮建設等々。
さらに付け加えるならば、日米地位協定の見直しを求めて、県としてドイツ、イタリアへ現地調査をおこない、全国知事会に報告書を提出。それを受けて7月に全国知事会として初めて、政府に抜本的見直しの申し入れを行なった。辺野古を巡る政府との重圧の中で、またヘリ墜落や部品落下など米軍基地問題が噴き出すなかで、翁長さんの功績を振り返り、翁長さんが後を託したデニーさんへの支持を訴えた。(つづく)
政府は余りにひどい
私は譲りたくはない
翁長樹子さん
9月22日、那覇市内で開かれたうまんちゅ大集会での翁長樹子さんの発言全文。
泣かずにしゃべれる自信がありません。翁長雄志の家内の樹子でございます。本当にたくさんの方に支えていただいて必死に頑張ったんですけど、8月8日に急逝いたしました。ひと月半になります。
正直、翁長が亡くなった、頭の中では理解しているつもりなのに、心がなかなか追いつきません。洗濯物を畳んでいるときだとか、ご飯を出しているときに突然、「あっそうだパパ」って顔をあげちゃうんですよね。
そしたら遺影の翁長がいつも笑っているの。「ばかだなあ君は」って言って。翁長が恋しいです。あの笑顔がもう一度見たい。笑い声がもう一度、聞きたい。でもかなわないから。
この選挙は、正直言って翁長がいつも言っていたように、みんな同じウチナーンチュだから、みんな一生懸命考えて、みんなが出した結論はもうそのことなんだということで、私は今回、本当は静かにみなさん県民の一人ひとりの方が出す結論を待とうと思っていました。
ところが、日本政府の方のなさることがあまりにもひどいから、たった140万の沖縄県民に、オールジャパンと称して政府の権力を全て行使して、私たち沖縄県民をまるで愚弄するように押しつぶそうとする。民意を押しつぶそうとする。何なんですか、これは。こんなふうに出てくるというのは正直、とても躊躇しました。
でももう、何だか翁長が「もうしようがないな、みんなで頑張らないといけないから君も一緒になって頑張って」と言ってくれたような気がして、今日はこの場に立っております。
この沖縄は翁長が心の底から愛して、140万県民を本当に命がけで守ろとした沖縄です。県民の心に1ミリも寄り添おうとしない相手の方に悪いけど、申し訳ないけど、私は譲りたくはありません。
いまデニーさんの話を聞いて、よかった。うちの人の心をデニーさんが継いでくれるんだと思ったら涙がととまりません。残り1週間です。簡単には勝てない、それでも簡単には負けない。
翁長がずっと言っていた、私たちウチナーンチュの心の中をすべてさらけ出してでも、マグマを噴き出させてでも、必ず勝利を勝ち取りましょう。みなさん。頑張りましょうね。ぬちかじり。ぬちかじりですよ。頑張りましょうね。よろしくお願いします。
京大は琉球人遺骨を返せ
今日も続く植民地主義
奈良
「琉球人遺骨返還を求める奈良県会議」結成集会が、10月21日に奈良市内でひらかれた。集会は「辺野古新基地建設を阻止し、琉球人遺骨返還を求める10・21奈良県集会」としておこなわれた。主催は奈良―沖縄連帯委員会、沖縄の高江・辺野古につながる奈良の会、多文化共生フォーラム奈良の3団体。
1928〜29年、金関文夫・京都帝大助教授(当時)は沖縄県今帰仁村百按司墓の遺骨を門中関係者や地域住民の了解もなく、自らの研究のために発掘した。30年に、金関は「琉球人における人類学的研究」で博士号を取った。その後、遺骨を京都帝大に26体、台北帝大(現・台湾大学)に33体寄贈しており、今日に至っている。現在、松島泰勝さん(龍谷大学教授)らは京都大学に琉球人遺骨の返還を求めている。
京都大学当局は、話合いに応じようとしていない。17年に照屋寛徳さんが国会でも問題にしているが、政府は「お答えすることは困難」と応え、この問題に向き合う姿勢はない。松島さんは琉球人の遺骨を保持している京都大学に対して、琉球人遺骨返還請求の集団訴訟を準備している。過去にアイヌ民族の遺骨返還訴訟はあるが、琉球人遺骨では初めてだ。
集会では、崎浜盛喜さん(奈良―沖縄連帯委員会・代表)が、「沖縄の現状報告と問題提起」をおこなった。崎浜さんは「琉球人にとって、遺骨は亡くなった人の魂を宿している。京都大学は遺骨を単に研究対象として扱っているが、琉球人にとって遺骨は信仰、生活、慣習にとって不可欠なものだ。これは@植民地支配の問題であり、A今日も継続している植民地主義だ。沖縄知事選挙の勝利をうけて、奈良においても裁判を支援する運動をやっていきたい」と述べた。
その後、〈多文化共生フォーラム奈良〉事務局が「日本の植民地主義と琉球人遺骨返還問題」というテーマで基調講演をおこなった。講演では、継続する植民地主義について実証的に語られた。ここでは、北大人骨事件を紹介する。95年7月26日、段ボール箱に詰められ頭蓋骨6体が、北海道大学文学部古河記念講堂資料倉庫で発見された。その1体には「韓国東学党 首魁者ノ首級ナリト云フ 佐藤政次郎氏ヨリ」と書かれていた。日清戦争において最大の犠牲者は東学党農民軍であった。日本軍は虐殺した朝鮮人の頭蓋骨を持ち帰ったのだ。
作家の目取真俊さんは、「(沖縄の米軍基地問題の)根本にあるのは、沖縄に米軍基地の過重な負担を負わせている日本の政治であり、それを変えきれない大多数の日本人の責任である」(『世界』18年10月号)と述べている。
植民地主義は、今日も継続している。これとのたたかいは日本人民の課題である。この集会をもって、〈琉球人遺骨返還を求める奈良県会議〉が結成された。(津田保夫)
6面
長期連載―変革構想の研究 第9回 疎外論(上)
疎外、物象化、物神崇拝
請戸 耕市
連載第6回(第242号)「エンゲルスの体系とマルクス主義」で、マルクスとエンゲルス(および「マルクス主義」)との理論上の違いを指摘し、その核心点として「概念的把握」と「疎外された労働」を挙げた。そして「概念的把握」について第7回、8回で概説した(第244号、245号)。さらに「疎外」についてである。疎外という言葉は比較的知られているが、論争が絶えない概念でもある。ここでは通説・論争とともに本稿の見解を示したい。
疎外の通説
まず、「疎外」という言葉を辞書(例えば『デジタル大辞泉』)で引いてみる。
【疎外】
@嫌ってのけものにすること。「新参者を疎外する」
A人間がみずから作り出した事物や社会関係・思想などが、逆に人間を支配するような疎遠な力として現出すること。また、その中での、人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態。
B⇒自己疎外
@ ヘーゲル哲学で、ある存在が自己の本質を本来的自己の外に出し、自己にとって疎遠な他者となること。疎外。
A 初期におけるマルクスの哲学で、資本主義のもとでの人間の非本来的状態をいう。疎外。(傍線は引用者)
@は日常語。問題はAとB。よくある解説で通説に従っているといえるが、マルクスの疎外論の解説としては問題がある。2点指摘する。
第一に、Aの前半の「人間がみずから作り出した…」の下線部分。これは「物象化」ないし「物神性」を解説していると読めるが、マルクスの疎外論としては部分的である。
第二に、Aの後半およびBのA)の下線部分。「人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態」「…人間の非本来的状態」とある。「非人間的状態」「非本来的状態」を問題にする前提には、〈本来あるべき状態〉という基準が理念的に措定されていることを意味する。つまり、〈本来あるべき状態〉→〈疎外された状態〉→〈本来あるべき状態の回復〉という図式で疎外論が理解されている。
たしかに通説では概ねこういう図式だ。しかし、これはマルクスの疎外論ではない。
疎外論は、その是非や理論全体の中での扱いをめぐって長い論争が続けられてきたのだが、問題なのは、その論争が、マルクスの主張ではない通説を共通の前提にしてその是非を論争してきたことである。論争については後で触れよう。
疎外=自己矛盾
それではマルクスの疎外論はどういう内容か。簡潔に述べておこう。
マルクスにおいて疎外とは矛盾とほぼ同義であり、しかも自己矛盾であり、その矛盾を通して存立する存在のあり方ないし存在の把握の仕方である。
生きた存在―労働する諸個人、あるいは商品、貨幣、資本など―は矛盾を抱えており、その矛盾によって、自己と対象の両極に分裂し、自己と対象が互いに疎遠になって対立している。生きた存在の自己矛盾を解決するために、産出された疎外態が、自己に対立する対象である。ひとまず、この対立をとらえたのが狭義の疎外。
しかしまた、自己に対立した対象は、自己に疎遠な自立性となり、物象という主体となって(これが「物象化」)、逆に自己を支配する。
さらにまた、自己に対立した対象が物象として自立化・主体化すると、自己の認識においては、物象があたかもそれ自身で能動的な力をもっているように見える、という認識の転倒が生じる(これが「物神性」「物神崇拝」)。
さらに、自己の認識においては、このように、対象が自己に対立し、物象が自己を支配し、物象が能動的な力を持っているように見えているが、しかし、自己の認識の背後では、生きた存在として矛盾しながら統一しているのである。
このように生きた存在が、対立と統一の矛盾論的統一として、矛盾を通して存立している存在のあり方、あるいはそういう存在の把握の仕方が、疎外論の概括的な内容である。
悟性”か概念”か
上で見た通説との対比でいえば、通説は、〈疎外された状態〉を捉えるために、〈本来あるべき状態〉という基準を措定しているが、それは存在の外側に措定された〈あるべき〉という理念である。存在を理念で批判するという方法である。
これに対して、マルクスは、存在そのものの生きた矛盾をとらえて、その自己矛盾の展開としてとらえている。さらに、矛盾する両極を、対立していると同時に統一しているものとしてとらえている。
つまり、マルクスの方法が概念的把握であるのに対して、通説は悟性的把握なのだ。悟性的把握とは、矛盾を対立と統一においてとらえられない方法であった(連載第7回、8回参照)。
なお、Aの前半の説明を部分的と指摘したが、疎外と物象化と物神性(物神崇拝)の三つの概念の関係は、上で見たように、疎外がより包括的で、疎外⊃物象化⊃物神性となる。
三つ巴の論争
では論争を概観しておこう。およそ次の三つの立場になる。
一つは、〈疎外論はマルクスがマルクス主義者になる以前の未熟なマルクスの理論で、後期の成熟したマルクスにおいては克服された〉とする立場。「マルクス主義」の正統派であり、スターリン主義に親和的な潮流である。
二つは、正統派に対する形で、通説的理解の疎外論を称揚し、それをもって〈疎外論こそ、本来のマルクスの理論である〉として、その復権を主張する立場。マルクーゼ、ルカーチなどに始まり、スターリン主義に対して批判的な潮流である。
三つは、二つ目の疎外論復権の主張に反発し、〈疎外論は、マルクスの中にあるヘーゲル主義の悪しき残滓である〉として、疎外論を追放する立場。アルチュセール、廣松渉など、構造主義や関係主義に連なる潮流である。
ところで、疎外論を説明する場合、『経済学・哲学草稿』の「疎外された労働」で説明するのが通例だが、それだけだと実はマルクスの論旨をつかみきれない。この時期のマルクスのもう一つの重要な著作として、一般にはもちろん研究者の間でも正当に評価されることが少ない『ヘーゲル国法論批判』がある。
マルクスは、『経哲』に先だって『国法論批判』で、ヘーゲル批判を通して、矛盾論を中核とする社会システム把握の方法を確立した。その方法にもとづいて、『経哲』において、「市民社会の解剖学」を経済学批判に求め、かつその基礎に、矛盾としての「疎外された労働」を置いた。そして、「疎外された労働」をキーワードに、現存の社会システムの矛盾したあり方と新しい社会のあり方を明らかにした。『経済学批判要綱』、『資本論』は、そういう経済学批判の作業の成果である。
つまり、『国法論批判』と『経哲』でつかまれた自己矛盾論=疎外論こそ、マルクスの理論の一貫した核心的な概念である。
核心の解体
ところがこの核心的概念をめぐって三つ巴の論争となった。
論争となる背景には、たしかに次のような事情も手伝っている。『国法論批判』の執筆が1843年、『経哲』が1844年だが、一般に公開されたのは前者が1927年、後者は1932年。つまり、マルクス没後、エンゲルスやその後継者たちによってマルクスの理論が「マルクス主義」として整理・解説されて行く過程に、『国法論批判』『経哲』はなかった。そして公開されたのはスターリン主義支配のただ中であった。しかもスターリン主義にとって疎外論は極めて都合の悪い概念であった。これらの事情は確かに小さくないだろう。
しかしそもそもの問題は、エンゲルスも、後継者たちも、その後の論者たちも共通して、上で指摘したように、近代知の悟性主義的な限界を超えられなかったことだ。
そして、疎外論を切り捨てる側からも称揚・復権を主張する側からも誤謬が拡大され、「マルクス主義」の体系は、その方法の原理のレベルにおいて修正不可能な偏向を来してきたのある。(つづく)
追悼 闘う弁護士・塚本誠一さん
たたかう労働者人民や被抑圧・被差別人民の信頼が厚かった塚本誠一弁護士が亡くなった。天皇制日本の敗戦の日、8月15日であった。心から哀悼の意を表します。
塚本誠一さんは1944年生まれ。74歳だった。70年代はじめに弁護士を開業するや、革命的左翼や冤罪者、被差別の労働者人民の多くの裁判を手掛けた。2003年、京都弁護士会会長に就く。7年前、肝臓がんを発症。闘病中も弁護活動や社会運動の援助を続けた。彼はまた、多くの良心的なたたかう弁護士を育てた。
私は自らの経験を通して、彼をあえて「革命家」と呼びたい。彼は、キリスト者であり、反戦平和と被差別・被抑圧人民への限りない共感の持ち主であった。彼は徹底した平和主義者であったが、他方、国家権力を激しく弾劾し、戦争法反対・9条改憲阻止、沖縄基地撤去・沖縄の自決・自己決定権支持、反原発・再稼働反対など数々のたたかいを支え、自ら先頭に立ってたたかった。
塚本さんは、70年代から90年代の1世代にわたって、わが革命的共産主義運動のたたかいにおいて、でっち上げの刑事弾圧裁判で3件、4人の無罪判決を勝ち取った。起訴されると99%以上が有罪になる日本の刑事裁判において、これ以上の功績はない。
75年の大阪市大での戦闘に関する弾圧では、殺人罪起訴された2人の同志の無罪を勝ち取った。デッチあげ逮捕と起訴、長期投獄という国家権力の大弾圧は粉砕された。
93年4月、90年天皇決戦の最後を飾る京都の天皇関係寺社6カ所同時攻撃にたいして、京都府警は私・橋本利昭をでっち上げ放火罪で逮捕した。「犬の臭気選別」によって焼け残りと私の靴から採取した臭気の同一性が確認されたというのである。01年9月まで1審、2審の8年に及ぶ裁判過程で一貫して主任弁護人として、でっち上げを暴き、勝利=無罪を勝ち取ったのは塚本さんの力であった。
09年12月4日の在特会による京都朝鮮初級学校襲撃事件に際しては、民事訴訟で弁護団長をつとめ、民族差別を厳しく糾弾する裁判勝利を原告とともに勝ち取った。また、「民族差別・外国人排斥に反対し、多民族共生社会をつくりだそう 朝鮮学校への攻撃を許さない!」共同アピール(10年3月28日)の呼びかけ人となった。報告集会での「法廷を埋めつくし、ヘイトクライムや民族教育否定を許さない法廷に」とのアピールは今も人びとの記憶に残っている。(橋本利昭)