沖縄の民意 玉城さん当選
知事選 新基地反対、激戦を制す
9月30日投開票がおこなわれた沖縄県知事選挙(投票率63・24%)は、辺野古新基地反対を掲げる玉城デニー氏が39万6632票を獲得して当選した。事実上の一騎打ちとなった佐喜真淳氏を8万票の大差で退けた。玉城氏の39万超の得票は、沖縄県知事選では過去最多である。「日本政府から、アメリカから沖縄をウチナーンチュの手に取り戻そう」という玉城氏の訴えは、沖縄県民の思いを結集し、歴史的な勝利をかちとった。(3面に関連記事)
市民の声援に手を振って笑顔でこたえる玉城デニーさん(9月20日 名護市内) |
「翁長雄志知事の遺志を引き継ぎ、辺野古新基地建設を阻止する」これが県知事選において、玉城氏が県民に訴えた主張の柱であった。そこには、「国の振興策目当てに基地を認めるようなことを続けていくことで、沖縄の自立した発展が望めるのか。それがほんとうに県民のしあわせにつながるのか」という思いが貫かれている。
経済政策は、アジア経済戦略構想の前進を打ち出す。これは「日本ではなくアジアの中に沖縄としての戦略を立てるべきだ」として構想されたもの。翁長知事の信念であった「アジアのダイナミズムを取り入れ、沖縄を日本とアジアの平和の架け橋へ」を具体化する。こうした確固とした構想をもとに、沖縄の経済的な自立と発展を促進し、それを土台に、政治的な自決権の行使をめざす。普天間飛行場の閉鎖撤去、米軍への航空法適用除外の廃止や、県内の貧困対策、子育て支援などの緊急課題から中長期的な経済施策も実行できる。
ドキュメント
沖縄県知事選挙(9月13〜22日)
稲嶺進さん(左)が応援演説(9月20日) |
9月13日 翁長雄志知事の死去にともなう第13回沖縄県知事選が告示された。辺野古新基地建設を最大の争点に、玉城デニー候補と佐喜真淳候補の一騎打ちとなった。
玉城デニー候補は、母親の故郷である伊江島で第一声を上げた。「『イデオロギーよりアイデンティティーを大事にしよう』という翁長雄志知事の遺志をしっかり受け継ぎ、辺野古に新しい基地を造らせない意思を明確にして選挙戦をたたかっていこう」と訴えた。
その後、名護市内で支援を訴えた。名護市内では、母子家庭で育った経験から福祉政策の重要さについて人一倍の思い入れを語った。その決意の表れとして、第一声を母の故郷でおこなったことを明らかにした。さらに、自身の体験から誰でも平等に生きられる「格差のない社会の実現」を強調した。結集した市民は、デニーさんの一言一言にうなずき大きな拍手でこたえた。
さらに、多くの市民が待つ、辺野古のキャンプ・シュワブゲート前では、市民一人一人と握手し「デニー」コールに笑顔で応えた。そして「沖縄の海と陸に二度と戦に使うための基地を造らせてない。子どもたちに過重な基地負担を押し付けるわけにはいかない」と訴えた。市民は指笛を鳴らし、三線を奏で、カチャーシーを踊り、デニー候補の勝利までたたかう決意を表した。
今回の知事選により、新基地建設問題は新たな局面を迎える。政府は選挙に関係なく工事を進める意向だが、結果次第では、建設の行方に大きな影響を与えるのは必至だ。デニー候補は建設を阻止する考えを示しているが、佐喜真候補は新基地建設の是非を明言していない。
20日 選挙戦中盤、沖縄各地で訴えをおこなっているデニー候補がこの日、県北部(やんばる)での訴えをおこなった。名護市内では、多くの市民は、黒く日焼けし元気な笑顔のデニー候補を力強い拍手で迎えた。午後6時から「やんばる総決起大会」。会場からあふれる市民が結集した。デニー候補は「私に対する誹謗中傷がネットにあふれている。ネガティブキャンペーンには負けない」と決意を表明した。
私たちは、デニー候補必勝に向け、告示日前から「やんばる勝手連」を立ち上げ名護市内に事務所を開いた。(市議選と同じ事務所)朝立ちから始めた。告示日に、名前の入っているノボリを持ち手ふりをしていると、警察が「違反だ」と警告。私たちは「知事の遺志を引き継ごう」のノボリに変えた。ほかでは、名前入りのノボリに警告がない。
22日 那覇新都心公園で開催されたデニー必勝をめざす「うまんちゅ大集会」に8000人余の市民が参加した。故・翁長雄志知事の連れ合いの樹子さんの「翁長の心をデニーさんが継いでくれる」「必ず勝利を勝ち取りましょう」の訴えにみんなが胸を熱くした。そして、デニー候補の決意に共感の拍手と指笛が鳴り響いた。(杉山)
戦争法強行成立から3年
安倍倒し まともな政治を
9月19日 東京
”安倍9条改憲NO!”かかげ4800人が参加(9月19日 都内) |
戦争法強行成立から3年を経た9月19日、総がかりなど3団体主催の「戦争法から3年、安倍9条改憲NO! 沖縄・辺野古新基地建設阻止! 9・19日比谷野音集会」が都内で開かれた。集会には会場からあふれる4800人が集まった。壇上には「この政治をチェンジする」と大書された横断幕が掲げられ、開会時には入場制限がかかるほどの盛況だった。
戦争法は、「国民の理解は進んでいない」と安倍が自身で認めながら、「日本海を対象とした限定的なものだから違憲ではない」という理屈で強行された。しかし現在、東中国海で海上自衛隊の潜水艦が展開し、国連軍派遣が見送られたシナイ半島への陸自派兵がもくろまれている。モリカケ疑惑、自衛隊日報隠し、国会虚偽答弁など安倍政権による民主政治の崩壊が進行し、あらゆる分野でモラルが低下している。
集会では「立憲主義、民主主義、まっとうな政治を取り戻そう」「軍事ではなく、外交で解決するのが日本のあり方であり、相手が中国であれ、他の国であれ、それを揺るがせにしてはならない。安倍の妨害を許さず、朝鮮半島から進んでいるアジアの平和を推進しよう」などの発言が続いた。
沖縄から山城博治さんが登壇。野党・市民の総結集に感謝の意を表明し、「『戦死』した翁長さんの意志を引き継ぎ無念を晴らす」と知事選必勝の決意を述べた。また、「交付金につられた連中に負けるわけにはいかない。安倍にしっぽを振ることなど絶対にない。基地建設阻止までたたかい続ける」と宣言した。
「安倍9条改憲NO!憲法を生かす全国統一署名」(3000万人署名)が1350万人を突破したことが報告され、来年の参議院選や統一地方選をにらみながらたたかいを進めようと呼びかけられた。集会後参加者は、「これ以上、安倍に好き勝手なことはやらせない」という決意も新たに、銀座デモに出発した。(北浦和夫)
2面
関生支部に大弾圧
空前の労組つぶしに抗議
労働者、市民が緊急集会
8月、9月で全日建連帯労組関西地区生コン支部の委員長、支部役員5人を含め20人が滋賀県警、大阪府警に逮捕された(本紙前号に一部既報)。その逮捕者数、強制捜索回数12回(昨年9月以来)などは一労組への弾圧としては異常な規模であり、今後も警察はその拡大を公言している。
9月22日、大阪市内で「労働組合つぶしの大弾圧に抗議する緊急集会」がひらかれた(写真)。実行委員会構成の労組・諸団体の発言者12人が壇上に並び、各団体旗も立ち、被弾圧当該・発言者を取り囲む設定で集会は開始された。関生だけへの弾圧ではない、許さんぞという集会意思が明確だ。急ぎ設定された集会だったが予想を超え会場は満杯になり、弾圧への怒り、危機感、熱い連帯の発言があふれ「関生弾圧はわれわれへの弾圧だ」という一点で弾圧粉砕を決意する集会となった。集会は全港湾大阪支部が中心となり労組・市民団体で緊急結集した実行委員会によっておこなわれた。
産業民主化への弾圧
全港湾大阪支部委員長は開会宣言で、「関生の運動や武委員長を『悪の枢軸』とした労働組合運動弾圧を許すな。『労働組合ここにあり』と全国から本日結集した」と発言。
「何がおこっているのか」と題して武洋一関生支部書記長が経過を報告した。80年代から生コンクリート業界で大独占の支配とたたかうために労働組合と協同組合が協力して産業の民主化を進めてきた。これに幾多の弾圧があったが、大阪では100%の協同組合支配で安定してきた。そこで一部悪質幹部が利益を独り占めするためにヘイト・元在特会の右翼と結んで関生支部をつぶそうとしてきたが、これも裁判で彼らが敗北するなかで、ゼネコンの意図も受け今回の大弾圧に政府中枢が踏み切ったものである。それは関生の産業民主化のたたかいが関西から全国に広がり、労働運動の一つの潮流になることをつぶそうというものである。組合オルグ、団交、ストライキや争議和解解決金という労働組合の権利行使が威力業務妨害、恐喝・強要罪だとされている、このような攻撃は関生支部だけの問題ではない。弾圧で労働組合をつぶすことはできない。この弾圧には負けられない。沖縄のたたかいと連帯してたたかいぬくと締めくくった。
全日建トラック支部が、1年9カ月のストをたたかうMK運輸の闘争報告。この弾圧には一歩も引かないと決意表明。
「反社会的集団」
永嶋靖久弁護士が「一連の弾圧の狙いは何か」と題して報告。建設業界ゼネコン・セメント大独占のボロもうけ構造とたたかうために、中小経営も組織した産業政策・産業民主化が業界を揺るがしていることへの全面的攻撃にでてきたものである。さらにこれは来年のG20大阪サミットを前に反政府運動つぶしに出てきたものだ。「企業の外で活動する組合は許さん」とか、品質無視の安売りや労基法違反などの不正摘発のコンプライアンス活動を「犯罪」視することを取り調べで公言している。その点で弾圧の質が違う。暴力団対策の「組織犯罪対策課」がこの弾圧の中心で各県警が連携してきている。労働組合運動、反戦・沖縄連帯闘争を反社会的集団としてこの一連の弾圧が襲いかかっている。この攻撃は2年はつづく。労働運動全体への攻撃として大きな声を上げていこうと訴えた。
労働運動の命運が
つづいて実行委員会を構成する全日建近畿、近畿コンクリート圧送労組、港合同、大阪全労協、管理職ユニオン関西、釜ヶ崎日雇労働組合、関西合同労働組合、なかまユニオン、北大阪合同労働組合、全交、連帯ユニオン議員ネットから「全ての労働組合のたたかいだ」「これを許せば大阪の労働運動は終わる」「労働者はこんな弾圧に負けない」「関生支部と共にたたかってきて多大な支援を受けてきた。ストが威力業務妨害、団体交渉や団交要求が強要なら組合は成立しない」といずれも関生弾圧は自分たちへの弾圧だとの発言が続いた。会場の発言希望者の中から人民新聞弾圧、8・6ヒロシマ弾圧。そして教育合同の委員長から「受けた支援は支援で返す」「憲法28条にけんかを売ってきた。潮流をこえて立ち上がろう」と発言があった。その後、全港湾徳島支部(四国)から5人の仲間が登壇して各労組発言者とエールをかわし、委員長が「2010年に徳島県教組は在特会から襲撃を受け立ち上がった。人ごとではない、駆けつけた。絶対最後までたたかう」と述べ、最後にシュプレヒコールを呼びかけ、大きな声が会場に響き渡った。
潮流をこえた団結を
多額の会場カンパが報告された。川口真由美さんの「歌と連帯メッセージ」で会場が決意に包まれる。
集会まとめを全港湾大阪支部副委員長がおこない、「今日はスタート。逮捕された20人が帰ってくるまでたたかいをさらに広げる。われわれの事だ頑張ろう」と締めくくった。
集会では、広範なたたかいを作り出すために『大弾圧との闘いの呼びかけ』(別掲)が発出され、毎週土曜日に滋賀県警と大阪府警への抗議行動を展開することが提起された。
大逆事件
この一連の弾圧とのたたかいに何が問われているのか。「平成の大逆事件」(愛知連帯ユニオンの声明)という受けとめが求められている。大逆事件当時、この大弾圧に日本の社会運動が恐怖し、屈服したことがその後の運動のゆくえを決めたのではないだろうか。この弾圧は連帯ユニオンの組合機能を停止に追い込み、労働組合活動の実質禁止を狙う。そのことで、このかん労働運動の停滞を打ち破る苦闘のなかから生まれつつあった産業別・職種別運動、社会運動的ユニオニズム、連帯経済運動を「組織犯罪」「反社会的」として芽のうちに摘み取ろうとするものである。「関生だから」とか、人ごとと考えるならば、労働運動、社会運動の死を意味するし、活動家として終わりである。9・22集会は労組などが壁をこえて集い、反撃の考え方、陣型でのまさにスタート集会となった。この弾圧とのたたかいはここ2年つづくたたかいとなる。広範で粘り強くたたかうことが求められている。「呼びかけ」に応えよう。
(森川数馬)
連帯ユニオン関西生コン支部への大弾圧との闘いの呼びかけ
労働組合つぶしの大弾圧に抗議する9・22緊急集会実行委員会
関西生コン支部へ、かってない弾圧が拡大しています。滋賀県警刑事部組織犯罪対策課による8月9日、8月28日の弾圧に続き、9月18日には大阪府警が16名もの支部役員・組合員を逮捕しました。逮捕者は武建一執行委員長以下20名に及んでいます。労働組合を機能停止に追い込もうと関西の他府県警も弾圧拡大に動いています。権力・資本の意を受け、買収された排外主義者・ヘイト集団の襲撃も続いています。
この弾圧は悪質資本への抗議行動や組合への組織拡大活動など、労働組合としての正当行為を恐喝未遂、威力業務妨害、強要未遂という刑事犯罪、更には「組織犯罪」にデッチ上げ禁圧しようとするものです。これがまかり通れば、いずれ他の闘いへと波及します。憲法28条(団結権、団体交渉権、団体行動権)は無きものとされ、労働組合活動は非合法・禁止という事態になりかねません。私たちは強い危機感をもって9・22緊急集会をもちました。
関西生コン支部は労働運動の停滞の中、生コン業界を切り口に本格的な業種別労働運動の先進的地平を開き、反戦平和・沖縄連帯運動を力強く闘ってきました。だからこそ権力・資本はここに未曽有の大弾圧を集中してきています。反弾圧の闘いは改憲・独裁を進める安倍政権との闘いでもあります。弾圧をはね返すために、今、大同団結して闘うことが求められています。多くの労働組合・諸団体の皆さまに連帯を呼びかけます。
弾圧との闘いを更に拡大し強化するために、以下の取り組みをよろしくお願い致します。
1 団体または個人として9・22実行委員会の趣旨および活動に賛同する。
2 弾圧への抗議声明を出す。
3 当該・府県警察本部へ抗議文を送る。
4 9・22実行委員会へ参加する。
問合せ連絡先 全港湾関西地方大阪支部
(電話)
06―6575―3131
(FAX)
06―6575―3134
3面
今年3回目の南北首脳会談
実質的な終戦宣言≠ノ合意
韓国の文在寅大統領と朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の金正恩国務委員長は、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の平壌市内で、9月18日から19日にかけて首脳会談をおこない、「平壌共同宣言」と「歴史的な『板門店宣言』履行のための軍事分野合意書」(「軍事分野合意書」)に署名した。2日間にわたる会談を終えた南北の首脳は、平壌5・1競技場でおこなわれたマスゲームと芸術公演をそろって観覧し、そこで文大統領は15万人の平壌市民を前にして歴史的な演説をおこなった(写真左)。
文大統領は演説の中で、「朝鮮半島における戦争の恐怖と武力衝突の危険性を完全に排除するための具体的措置に合意」し、「白頭山から(済州島の)漢拏山まで、朝鮮半島を核兵器と核の脅威のない平和の基盤として、子孫に引き渡そうと確約した」ことを明らかにした。4月の「板門店宣言」では明示されなかった、南北首脳による朝鮮半島非核化に向けた合意を、南の大統領が北の市民を前にして明らかにしたことは重要である。それは朝鮮政府が自国民に対して、核放棄が不可逆の方針として公式化したことを意味するからである。
米国がなすべきこと
「平壌宣言」で南北首脳が確認したのは次のとおり。
@朝鮮半島全域での実質的な戦争の危険の除去、A南北の交流・協力の増大と民族経済の均衡発展、B離散家族、親戚問題解決のための人道的協力の強化、C南北間のさまざまな分野における協力と交流の積極推進、D朝鮮半島を核兵器と核の脅威のない平和の基盤とするために実質的な進展を早急に成し遂げる、E金国務委員長が近いうちにソウルを訪問する。
非核化については、「北は東倉里発動機試験場とロケット発射台を、関連国の専門家による監視のもと、永久的に廃棄する」、「米国が6月の朝米共同声明に基づいて相応の措置をとれば、寧辺核施設の永久的廃棄などの追加的措置をとる用意がある」という2点を具体的に明らかにした。
「平壌宣言」にたいして米日両政府の内部から「すべての核施設のリストの申告」と「非核化の工程表提出」がおこなわれていないことをもって朝鮮政府の非核化の意思を疑問視する声があがっている。しかしこれはまったくの見当違いと言うほかない。なぜなら、朝鮮が核を完全に廃棄するための大前提は「朝鮮戦争の終結」だからだ。これについて米国が具体的な措置を早急に取ることが求められているのである。
東アジアの平和へ
朝鮮半島における平和をいかにして実現するのかという観点から、「平壌宣言」を検討すると、その内容が実に合理的なものであることがよくわかる。
第一に、南北間の戦争危機を完全に除去することである。これは「平壌宣言」と同時に署名された「軍事分野合意書」で具体的な措置が詳細に取り決められた。そこでは「地・海・空における一切の敵対行為の全面中止」、「非武装地帯の平和地帯化のための対策」、「西海北方限界線一帯における平和水域の形成」、「南北交流協力のための軍事的保障対策の研究」「南北の軍事的な信頼構築のための措置の研究」などの具体策が盛り込まれている。
これは、韓国政府の尹永燦主席秘書官が一連の合意を「実質的な終戦宣言」と評価するほどの踏み込んだ内容となっている。この軍事分野合意の内容について韓国政府は米国に事前に詳細を知らせずに、自ら主導して進めたと言われている。
第二に、北の経済的安定と南北間の経済格差の縮小である。韓国の統計庁は昨年12月15日、韓国の国民総所得(GNI)が朝鮮の45倍に上ると発表した。また貿易総額は、韓国が朝鮮の138倍で、両国の差が極めて大きいことが明らかになっている。こうした巨大な経済格差は軍事的な緊張とならぶ、朝鮮半島の不安定要因となっている。格差解消のために朝鮮半島両岸の鉄道や道路の連結、開城工業地区と金剛山観光の再開などで合意した。
第三に、南北人民の交流と団結の促進のための多分野における施策の実行である。
このようにして南北朝鮮人民は、「最後の冷戦」といわれる朝鮮戦争を自らの意志と力によって終結させ、その悲願である南北の和解と統一に向けて力強く前進している。そして朝鮮の核放棄のみならず、朝鮮半島全体の非核化をはっきりと掲げることによって、東アジアにおける国籍や民族の相違を超えた人びとの平和と友好に歴史的な貢献を成し遂げようとしているのである。
このような情勢の下で安倍政権は日本国憲法の平和原則をないがしろにし、9条改悪を実行しようとしているのである。これが東アジアの平和の流れに逆行するものであることは誰の目にも明らかであろう。(汐崎恭介)
憲法・沖縄・市民のちから
知事選勝利へ 神戸で集会
9月22日
9月22日、「憲法・沖縄・市民のちから9・22兵庫県集会」が神戸市内で開かれ、170人が参加した。講演は高作正博関西大教授。30日に投開票が迫った沖縄県知事選への連帯と、3選した安倍9条改憲に反対する集会である。集会は、〈こわすな憲法! いのちとくらし! 市民デモHYOGO〉が2015年の戦争法強行成立3周年として企画した。
開会に先立って、憲法と沖縄の歌と演奏が披露された。集会は、市民デモHYOGOの久一千春さんの司会ではじまった。開会あいさつでは市民デモHYOGO世話人の中村伸夫さんが、戦争法成立から3年目の今日、憲法と沖縄をたたかう意義を語った。
高作さんは沖縄のこの20年の名護市辺野古の新基地建設をめぐる攻防をつぎのように話した(写真上)。
「15年の安保法制の制定で立憲主義が破壊された。その後は立憲主義破壊、民主主義破壊、法治主義破壊の政治が続いている。これは、これまで沖縄にかけられてきた攻撃と同じである。
発端は95年の米軍による少女暴行事件と10万人の県民大会。その後、SACO合意・普天間基地の返還となるが、それがなぜか『辺野古移設』となってしまった。『移設』の是非や工法をめぐり、住民投票や名護市長選が繰り返された。当初は『ヘリ基地』と言われ今もヘリ基地反対協が運動の主体。10年の名護市長選で稲嶺進市長が誕生し名護市の民意は確定した。
この過程で政府は海上基地建設に向けて、ボーリング調査などを強行。現場ではカヌー隊の海上抗議行動や座り込みが続き、工事を阻んできた。仲井真知事の公有水面埋め立て承認も14年に翁長雄志知事が誕生し破綻。
ここで国が出てきて裁判になった。最終的に翁長知事は大浦湾の活断層の存在やマヨネーズ状といわれる軟弱地盤などによって当初計画を変更しなければ工事が不可能という事態が生じていることを踏まえて、土砂搬入を前に最後の力を振り絞り、埋め立て承認を撤回した。これが今回の県知事選の意味だ。 この20年の運動を支えてきたのは、政党・政治家ではなく、現場の住民運動・市民運動だった。翁長さんは那覇市長のとき、沖縄の全自治体の議会・首長が名を連ね、オスプレイ配備と辺野古新基地建設に反対する『建白書』を政府に提出するため上京した。これに右翼団体などが、『売国奴』という罵声を浴びせた。この事件によって翁長さんは県知事選に立候補することを決意した」
高作さんの講演のあと、辺野古で海上抗議行動をしている〈辺野古ブルー兵庫〉と、毎週土曜日街頭宣伝をする〈辺野古の海に基地をつくらせない神戸行動〉が県知事選勝利にむけた決意を表明。〈憲法を生かす会兵庫ネット〉と、〈市民の手で社会を変えよう連続市民講座〉が地域の運動の広がりによって憲法改悪を阻止しようと訴えた。最後に主催者が、「高作さんの講演で沖縄のたたかいがつぶされたら、憲法が変えられてしまうことがよくわかった。3年間の蓄積の上に、安倍改憲阻止にむけ10・20デモ、11・17憲法講演会、湯浅誠さんの12・15反貧困講演会に取り組もう」とまとめた。
投稿
大接戦の沖縄知事選へ
仲間達と玉城さんを応援
神戸市 大林ェ治
9月23日から26日まで4日間、仲間3人と玉城デニー候補の選挙応援に行ってきました。23日昼過ぎ、名護市内の玉城デニー勝手連事務所に。佐喜真陣営は保守組織を総動員した期日前投票で、誰に投票したかの確認までしているとのこと。夕方から交差点で手ふり行動。市民の反応は良く、車から手を振る人や、「入れたよ」と言う人も。
24日も朝7時半から手ふり行動。ついで近隣地区にポスティング。昼は辺野古周辺を案内してもらい、護岸がブロックで囲われていることに怒りが倍加。工事は現在ストップしており、キャンプシュワブ・ゲート前の座り込みはありませんでした。
夕方は、この日合流した市民デモHYOGOの13人が加わって、手ふり行動と道じゅね(写真右)。人数が多く盛り上がりました。夜は沖縄料理を舌鼓をうちながら交流。選対の方から、玉城デニーさんは若者と女性に人気があり、佐喜真候補とは十分勝負ができるとのこと。
25日は雨模様でしたが、人が増えたので朝立ちは2カ所で実施。その後、車4台に分乗して新しいチラシを配布。夜は市役所の近くで開かれた集会に参加。関西から来た川口真由美さんと地元の大城さんのギター演奏も。前名護市長の稲嶺進さんはじめ200人が参加。デニーさんを必ず当選させようと熱い決意が語られました。地元経済人の「基地より生活を」という発言が印象的でした。
26日は那覇市の玉城デニー事務所へ。「兵庫から来ました」というと歓待されました。知事選の勝利を祈念して岐路につきました。
4面
原発のない国へ 私達の手で
福島事故 政府、東電は責任をとれ
9月17日 東京
”フクシマと共に”8000人が参加した、さようなら原発全国集会(9月17日 都内) |
9月17日、東京・代々木公園で、「いのちをつなぎ くらしを守れ フクシマと共に9・17さようなら原発全国集会」が開かれ8000人が参加した。主催は〈「さようなら原発」一千万署名市民の会〉。戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会が協力した。
集会は木内みどりさんの司会で始まった。冒頭、呼びかけ人のルポライター鎌田慧さんが「原発をなぜ続けようとするのか、それは原発によってもうけたい一部の人たちがいるから。日本の政権は安くもない安全でもないものを続けている。こんな不道徳なことを続けさせてはならない」と怒りをこめて主催者あいさつ。
同じく主催者で作家の澤地久枝さんは「この国の政府はあろうことか、自分の国の中で始末のできない原発を外国に売ろうとしている。福島の問題を一つも解決しようとせず切り捨てようとしている。原発のない、憲法に沿った国にしていこう」と訴えた。
自殺者100人超
福島原発かながわ訴訟原告団の村田弘さんは「福島原発の事故以来7年7カ月になるが、自殺者は100人を超えている。オリンピックに向けて復興が進んでいるかのように報道されているが、国が定めた帰還困難区域住民2万数千世帯への住宅提供を、福島県知事が再来年3月で打ち切ると発表した。帰ることができない4万人近くの避難者への住宅提供が打ち切られようとしている。残る避難者は双葉町、大熊町の1661世帯しかいないと、2020年3月、世界に宣言しようとしている。全国で30近い集団訴訟をたたかっているが、現時点で国と東京電力の責任を認めた判決が3つある。神奈川では来年2月20日、千葉・愛媛でも同3月に判決が出る。この判決で、国・東電の責任を明確にさせなければならない。そのために座り込み、署名活動などあらゆることに取り組む」という報告と決意を語った。
「想定外」はウソ
福島原発刑事訴訟支援団の佐藤和良さんは「今年の1月から9月7日まで25回の公判の中で、隠されていたさまざまなことが明らかになった。津波の後の原発事故2日後の記者会見で、当時の東電清水社長は想定外で予測できなかったから事故の法的責任はないと言った。
ところが保安院から耐震設計の再審査(バックチェック)を2009年の6月までに提出するように、国の命令として受けていたことが明らかになった。07年時点で、文科省の長期評価で、三陸沖から房総沖までの日本海溝沿いで地震が起こるという評価が出され、08年には地震対策を東電の常務会で正式決定していた。沖合に防潮堤を作ると数百億かかるということで、やめてしまった。
当時、柏崎刈羽原発は中越沖地震で火災事故を起こして止まっていた。住民の安全・安心ではなく、東電の経営のためには、全国どこの津波対策もやらないということを決めたのだ。福島原発事故で、東電も、官僚も、政治家も誰一人として責任を取っていない。いまだに10万余の人びとが県内外に避難している。刑事裁判で有罪を勝ち取ることが必要。年度内には地裁の結審を迎え、4月30日の前に一審判決が出る可能性がある。正念場を迎えている裁判闘争、厳正な判決を求める署名にも協力してほしい。全世界が注目している裁判、頑張っていこう」と訴えると共に、支援を求めた。
40年ルールを骨抜き
東海第二原発運転差止訴訟原告団の大石光伸さんが「規制委員会は今月27日にも東海第二原発に再稼働の許可を下し、40年目を迎える11月末にはさらに20年の延長を認めようとしている。都心からわずか110キロ。周囲30キロ圏内でさえ96万人。首都圏には数千万人の住民がいる地域の原発を動かすには、国にとってもリスクがあるはずだ。40年ルールを骨抜きにし、既成事実化する突破口にしようとしている。こちらはその口をふさぎ出鼻をくじく必要がある。
福島原発事故から7年半、独占によってその電気を使わされてきたが、都市住民はまさに地元の原発である東海第二をつぶすことが福島の人たちと連帯する道だと思う。
日本原電は国策民営化の先兵として生まれたが、2010年には既に事実上破綻していた。その日本原電に対して、東海第二の再稼働のための1740億円を、加害企業である東電が支援するという。東電の責任を改めて問い直す必要がある。かつての戦争を反省して、戦争の放棄、国民主権を宣言した憲法を作ったのと同じように、国民災禍だった福島原発事故の責任を明らかにして、原発を放棄しよう」と訴えた。
城南信用金庫顧問で原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟の吉原毅さんは「日本の世論でも7割の人が主義主張に関わらず原発はいらないと言う。原発は、大手建設会社基準の戸建て住宅の耐震基準と比べても10分の1の強度しかないということが明らかになっている。地震に耐えられない原発をやめさせよう」と訴えた。
閉会あいさつは呼びかけ人で作家の落合恵子さん。「すべての原発は廃炉に。それが今を生きる大人の責任。私たちに必要なのは防衛ではなく防災なのだ。そのための一歩を今から踏み出していきましょう」と締めくくった。
韓国の核問題と米朝会談の行方
「朝鮮半島の分断が影響 川瀬俊治さん」
9月10日、「第23回予直し研究会」がおこなわれた。川瀬俊治さん(ジャーナリスト)が「韓国の核問題と米朝会談の行方」というテーマで講演した。
今、朝鮮半島情勢は大きく動いている。朝鮮半島統一は南北人民の願いだ。この講演で、川瀬さんは「韓国の原発問題においても朝鮮半島の分断が大きく影響している」と述べている。日本の植民地支配が南北分断の遠因であり、日本は分断に加担してきた。韓国の原発問題は、われわれにとって他人事では済まされない。まずは、その事実を知ることだ。以下に、講演要旨を掲載する。
16年地震の衝撃
文在寅政権は新規の原発は造らないと言っているが、建設中の原発については工事が進められている。文政権は従来の原発輸出政策について変更していない。このように、文政権の原発政策は二面性を持って進められている。
2016年9月に、慶州で地震がおきた。韓国で、これは衝撃的事態だった。「地震は起きないもの」として、原発が造られてきたからだ。しかし、最近の調査によれば、韓国でもマグニチュード7・5クラスの地震が過去におきていることがわかった。この地震問題が大きな課題になっている。
8つの特徴
韓国の原発問題については、以下の8点にまとめられるだろう。
@1965年、朴正煕政権が国策として原発推進を決めた。朴政権は「漢江の奇跡」といわれる経済成長を実現したが、不足する電力問題を打開するために原発導入を打ち出した。1978年、古里原発1号機が韓国で初めて稼働した。現在、原発は25基稼働しているが、これらは4つの地域に集中している。また、人口密集地の近くに造られているのも特徴だ。
A1987年の民主抗争で反原発運動が全国化していった。このときは、おもに核廃棄物処分場反対運動だった。3・11福島原発事故以降に、原発立地地域住民による反対運動がたたかわれるようになった。
Bアジア経済危機によるIMF(国際通貨基金)管理以後、韓国は原発産業の構造改編(2001年)をおこない、原発産業の民営化が進行している。労働現場では、非正規雇用労働者が増えている。
C従来の保守政権は原発輸出立国を進めてきた。2009年、李明博政権はアラブ首長国連邦(UAE)と4基の輸出契約を結び、2010年には80基の原発輸出計画を打ち出している。韓国はフランスのやり方を学び、安全保障をセットにして輸出交渉をしている。
D3・11福島原発事故後、韓国は、世界でもっとも早く、原発推進政策を打ち出している。韓国はアジアで日本とともに原発輸出国をねらっている。文政権になっても、このことは変わっていない。
E朝鮮半島の南北分断の影が、韓国の原発政策に大きく影響している。1948年の南北分断によって、南側には総発電量の4%しか残らなかったのだ。その結果、エネルギー資源がない韓国に、原発が集中する結果となった。また、朴正煕政権時代に、韓国は核武装を追求していた。
F輸出で成り立つ韓国経済において、原子力産業がGDP(国内総生産)で1・6%を占めている。
G原子力協定にもとづき国際原子力機関(IAEA)に管理されており、米国の核支配の影響力が非常に強くなっている。これは軍事的結びつきと一体だ。
セウォル号沈没事故
韓国は30年で近代化を達成し、経済は1966年から11年間で所得倍増を成し遂げた。このため、安全にたいする歪みが蓄積している。
セウォル号沈没事故はその象徴的事件だ(写真右)。文在寅政権を生んだ「ろうそくデモ」のなかで、その遺家族が先頭にたってたたかっていたのが印象的だった。韓国民衆は「国家は国民の安全と生存を保障する」(大韓民国憲法)とうたう「安全社会」を求めており、脱原発はその大きな要求になっている。
しかし、文政権はいまだ原発輸出政策との矛盾を乗り越えられていない。脱原発に向けた民衆のたたかいはさらに押し進められていくだろう。(津田保夫)
5面
日韓民主労働連帯・中村猛さんに聞く
受け継がれる全泰壱精神(下)
韓国ソウル市内でおこなわれた全泰壱通りまつりのようす。中央は全泰壱氏の銅像(2017年10月14日) |
労働者は一つに
李小仙オモニは、体は小さいけど、ものすごく大きな人だった。そして、マイクを持つと必ず言っていたのが、「ノドンジャガ ハナテヨ」「労働者は一つになって、3日間、家で寝てろ。3日たったら世の中変わっているから」。世の中を変える方法は簡単。労働者が一つになればいい。それぐらい労働者が一つになるって大事なことなんだということを何回も何回も言っていた。
10年ほど前になるか、韓国労総が初めて、11月13日の全泰壱さんの命日に墓地に来た。民主労総と韓国労総の両委員長が並んだ。そのときオモニは、マイクもって、「今日は韓国労総が来た、民主労総が来た」ってえらい喜んで、両委員長に、「お前たち、労働者は何万人いるんだ」、当時、韓国では1千万労働者っていってたから、「一つに団結できたら、何で選挙で負ける。何で一つになれないんだ」「労働者が一つになる以上にどんな価値があるんだ。まず団結だろうが。一つになることを阻害するどんな思想もいらない」「何でお前たちが分かれなければいけないんだ。分かれようとしている理由はなんだ。述べてみよ」。オモニの前で、誰も反論できない。ひたすら、「オモニ、すいません」
僕は、そこが大事だと思う。自分の主義主張はあるが、オモニに、「なんで一つになっていないんだ」って言われたら、大幹部が「すいません。一つになれなくて申し訳ありません」って。ということは一つになれなかったことに何か責任を感じている。だからみんな「すいません」。オモニの前では、「なんで一つになっていない」、「一つになれなくてすいません」ということを確認させられ続ける。そういう人がいるってことがすごい。オモニの前では、「コイツとここが違うんだ」なんて絶対に言えない。だから、オモニは、労働者がたたかっている現場には、どんな現場にでも出て行って、「ノドンジャガ ハナテヨ」と訴え続けた。
全泰壱氏の焼身
なぜ全泰壱さんは最後に死を選んだのか?このことをどう受け止めたらいいのか?大事な話だ。僕もそのことは何度も考えた。
【解説】全泰壱氏は、「平和市場」で裁断士として働く中で、劣悪な労働環境を改善するための取り組みを始める。あるとき、全泰壱氏は、「勤労基準法」という法律が存在することを知って驚く。さらに、その後、その法律が存在するのに、監督する官庁が、劣悪な労働環境を黙認している事実を目の当たりにして再び衝撃を受ける。そして、抗議集会を計画するも、警察や事業主らに潰される。全泰壱氏は、役に立っていない「勤労基準法」を火刑にするとともに、自らの身体をも炎に包んで抗議した。「われわれは機械ではない!勤労基準法を遵守せよ」と叫び、火だるまになりながら数十メートル歩いた。そして「僕の死を無駄にするな」という言葉を残した。(1970年11月13日 享年22)
自分が死んだら、後の人たちが目覚めて、団結して、世の中を変えてくれる。そして、自分が死んだ後の40年後、50年後にろうそく革命が起こって、政権が代わっている。そういう保証があったら…。でも、あの時点で、そういう未来が見えていたわけではないだろう。だから、やはり、全泰壱さんの行動は、止むに止まれぬ、それ以外の方法が見つからなかったためのものだった、という他ない。
その後、焼身する人がずっと続く。労働者がたくさん死ぬという年があった。全国労働者大会に行ったら、舞台は背景が黒で、「これ以上死ぬな」って書いてある。これ以上の犠牲を出したくないという悲鳴に近い労働者大会だった。
僕も、知っている人が死んで、全北にいたので挨拶を求められたとき、僕が言ったのは、「とにかく、死ぬのはやめよう」と「生きてたたかおう」。周りにいた人も涙を流して、「とにかく死なずに生きてたたかおう」と。
でも、それからしばらくして、僕は間違ったことを言っちゃったなと思った。
双竜自動車の事件で大量解雇(2009年)が起きた。そのときに、「解雇は殺人だ」というスローガンが出てきた。やっぱり解雇は殺人なんだと。資本家が労働者を搾取するというのは殺人なんだ。死ぬという方法がいい方法でないことは、みんな分かっている。だから僕の怒りは、正しく階級的に資本家に向けられるべきであった。「これ以上殺すな」と言うべきであったし、「解雇は殺人だ」「お前、殺人者だ」と言うべきだった。「死なずに生きてたたかおう」なんて、誰が死にたいか。でもそんなことを言ってしまった。ということを痛切に感じたときがあった。
だから全泰壱さんの死もそういうことだったと考えた。やっぱり彼は殺されたんだ。全泰壱さんは時の権力、時の資本、あるいは彼がおかれた状況の中で殺された。というのが正しいのではないかと今は思っている。
恨を解く
殺された全泰壱さんの恨、全泰壱さんがやろうとしていたもの、目指したものに向かって、生きている僕たちが進んでいく。だから全泰壱さんの恨を解く道は労働者解放しかない。それは、「恨みを晴らす」のではなく、「恨を解く」という意味。恨みを晴らすではだめなんだ。よく、同じ漢字を使うもんだから「韓国は恨みの国だ」というけれども、全く違う。全泰壱さんの恨を解くというのが、僕たちの仕事なんだ。
全泰壱精神とはどういうことか、とくにその死の問題をどう受け止めるのか。彼が為そうとして為せなかったことを引き継ぐことが恨を解くことになる。だからろうそく革命は、そういう大きな動きだった。全泰壱精神の延長線上にろうそく革命があったんだと。やっぱり主導したのは労働者だから。
だから素晴らしいということだ。これを日本でもやりたいね。(おわり)
反戦と「病者」解放をつらぬいた南徹夫同志を悼む
福島 正夫
反戦と「障害者」差別糾弾を貫いた南徹夫同志が去る8月5日療養中の病院で逝去した。70歳だった。
彼は1948年箕面市に生れ、高校卒業後まもなくベトナム反戦運動に参加。69年首相佐藤訪米阻止闘争で逮捕され、多くの仲間と共に被告団としてたたかった。
同時に地元豊能でナイキ基地建設計画反対に決起した。現地に移住しミサイル基地反対を訴えて能勢一帯を駆け回った。当時、反戦反安保闘争が全国に拡大拡散していったが、彼はひとり最後まで現闘本部に残り、地域の人びとと共に能勢ナイキ基地建設中止を実現した。
だが闘争本部を死守する孤独なたたかいの中で彼は厳しい抑うつにみまわれ、実家に戻り生涯にわたる闘病生活に入った。通院先の七山病院で患者仲間との交流、治安と抑圧の精神医療を告発するK医師との出会いを通して、たたかう「精神病者」集団・虹の会を結成。
そして76年大阪拘置所での鈴木国男君虐殺糾弾にたちあがった。「病者」解放の叫びをあげた鈴木君は厳寒の独房内で再発を放置され凍死した。御母堂を原告とする国賠訴訟を南同志は鈴木君の主治医のK医師と共に支え勝利判決をかちとった。
そして彼は名古屋に事務所があった全国「精神病」者集団に参加し、さらに「障害者」差別によって死刑囚とされた無実の赤堀政夫さん奪還闘争に決起していく。赤堀中央闘争委員会が結成され、再審裁判の地である静岡に闘争本部が設けられるなか、名古屋さらに静岡に常駐し、決死のハンスト闘争を貫徹する。
三里塚、天皇代替わり、保安処分粉砕の激闘激論のさなか、さまざまな論争や離反は赤堀差別裁判糾弾をめぐっても起きた。そのなかで彼は赤堀中闘委の現闘を単身でも維持し、さらに地元の大阪赤堀さんと共に闘う会を担った。赤堀さんは89年ついに再審無罪判決をかちとり、奪還された。
それはじつに大きな勝利だったが、その間の南同志への心身の負担もじつに大きかった。実家に戻った彼は以前にも増して、うつ症状を迎え、さらにいくつもの内臓疾患がつぎつぎと彼をむしばんだ。革命党と人民、とくに私自身のたちおくれが彼を孤立の中での活動と闘病に追いやったことは慚愧に堪えない。
彼は自分の半生を通してくぐってきたうつ状態を述懐して、「底のない中に落ちていく、出口は見えない。そういう自分を自分でさげすみ、それに耐えに耐えて、人間を取り戻す。そのためにわが身を捧げる決意がある」と語っていた。そして事実、反戦と差別糾弾のたたかいに不屈にたちあがっていった。
特に芦屋郵便局の「精神病者」差別にもとづく不当免職を許さぬ高見元博さんの決起が、南同志のたたかいの魂を呼びさました。たたかう労働者が労働の場での発病と「精神障害者」差別を糾弾してたちあがった。それまでの「病者」運動のわくを打ち破って、すべての人民が当該者である、本物のたたかいだと。
南同志は高見さんと共にいままた決起していた。この数年来は肺炎での入退院を余儀なくされ、今春以降、腎機能が急速に悪化した。
ご家族によれば、彼は子どもの頃からあまりにも心やさしい人だった。そこに多重の病魔が襲い、ついに回復を果たせなかった。
しかし差別にたいする、保安処分攻撃にたいする、怒りはすさまじかった。赤堀闘争のある集会で彼がアピールした時、そのあまりの迫力に手話通訳者が手を止めてしまったこともあった。
彼は真実、革命家だった。かけがえのない同志を失った。反戦平和と「病者」解放、保安処分粉砕をつらぬいたそのたたかいは、障がい者運動の広く力強い前進にいま引き継がれている。
沖縄、反核反原発のたたかいに勝利し、安倍を打ち倒そう。相模原障がい者虐殺事件が起き、優生攻撃がいっそう激しく吹き荒れている。
そのさなかに倒れた南徹夫同志! 君の無念に必ず報いることを誓います。
6面
シネマ案内
「明日が信じられる…たとえ、昨日がどんなでも」
鄭義信(チョンウィシン)監督『焼肉ドラゴン』
「わしは戦後、コヒャン…故郷、帰るつもりやったです…なかなか船が見つからんで…やっと見つけた船…。…そしたら全財産積んだ船がドボン…」
「いつか故郷、帰るため、働いた、働いた…働いたけど、チェジュドで事件があった…みんな、みんな、殺されてしもた…」
「…それから、朝鮮戦争があって…女房が死んで…娘二人抱えて、またわしは働いた、働いた…それから、あれ(現在の妻)と知り合うた…あれの村も焼かれて…必死で日本、逃げてきた…わしら二人とも、もう帰る村がない…わしはまた働いた、働いた、娘と息子のため、働いた…気づいたら、この年や…故郷は近い…けど、遠い…ものすごう遠い…。それがわしのインセン…人生…わしの運命…」(注1)
焼肉店の店主・龍吉が、自らの半生を、娘の結婚相手の日本人の男に向かって、淡々と語るシーン。圧巻の長台詞。龍吉は、日本の戦争に従軍させられて左腕を失い、戦後帰国しようとして家財を積んだ船が沈んですべて失い、四・三事件(1948年 済州島民の蜂起と虐殺)で故郷の家族・親戚をすべて失い、朝鮮戦争で前妻を失った。そして、民族差別に負けないようにと日本の学校に通わせていた末の息子を、差別といじめによる自殺で失った。
笑いと喧嘩と涙
焼肉店「ドラゴン」は、伊丹空港の敷地内の国有地にあるという設定。トタンをかき集めたような粗末なバラックが並ぶ。戦前の空港建設のために集められた朝鮮人の人びとが、その後も集落をつくって住み続けていた。伊丹市中村地区がモデルだった(注2)。焼肉店の小上がりに集う酔客と、龍吉一家らが織りなす笑いと喧嘩と涙の渦。時代は1970年前後、日本は朝鮮特需で復活し、戦争の責任と賠償を逃れ、再びアジアを踏み台にして、高度経済成長を謳歌していた。その象徴としての「大阪万博」。しかし龍吉一家や焼肉ドラゴンに集う人びとにはそれは別の世界だった。国と伊丹市は「不法占拠」だとして彼らの住む場所さえも奪いに来る。
立ち退きを通告に来た市職員に向かって、龍吉は激高し、叫んで、やがて嗚咽する。
「戦争に無理やり狩り出したんやないか!土地を奪うんやったら、…わしの腕を返せ! いますぐ返せ!…それから…わしの…息子…返せ…」
1971年春。立ち退きを余儀なくされて店を閉める。そして、龍吉の3人の娘はそれぞれ伴侶を得て旅立つ。長女夫婦は「帰国事業」で北へ、二女は韓国人と結婚し南へ、三女は日本人と結婚して在日として…。1970年代以降の朝鮮と日本の情勢と歴史を思えば、その後のそれぞれの人生がどうなっていっただろうかと、重い気持ちになった。
しかしまた、いま朝鮮半島情勢・東アジア情勢の大きな変化を目の当たりにしている。奇しくもそういう中でこの映画が上映されている。近くて遠い故郷に思いを馳せつつ、明日を信じて、働いて働いて懸命に生きてきた、無数の龍吉たちのような人たちが、そういう歴史を動かしてきたのだろうと思った。
ラストシーン。桜が静かに舞う中、家財道具をリアカーに積んだ龍吉はいう。
「えぇ心もちや…こんな日は、明日が信じられる…たとえ、昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる…」
中村地区を訪ねて
この映画を観てすぐ、伊丹市中村地区を訪ねた。そこにはもうバラックはなく、石碑があるだけ。国・市との長い交渉の末、2002年に合意し、地区の人びとは移転した。
在日朝鮮人の人たちが集まる近くの居酒屋を覗いた。映画を観て来ただけという訪問者を歓待してくれた。地区の人びとの暮らしや、映画の小さなシーンをめぐる話を聞かせてくれた。何よりも、年配のアボジ、オモニたちが、この映画に自分の人生を重ねて涙を流している、という話が心に浸みた。(請戸耕市)
(注1)台詞は『月刊シナリオ』2018年7月号より 以下同じ
(注2)中村地区の歴史と経緯については金菱 清著『生きられた法の社会学 伊丹空港「不法占拠」はなぜ補償されたのか』(2008)に詳しい。
本の紹介
『原爆の世紀を生きて〜爆心地からの出発』
〜核なき世界への直言、戦後社会運動の現場から〜
米澤鐡志・著(アジェンダプロジェクト発行)
数年前、米澤鐡志さんの前著『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』を読み、その被爆の凄まじさにあらためて原爆の恐ろしさを感じるとともに、被爆体験を若い世代に伝えようとする熱意に感動した。
今回の新著はその被爆体験に重ねながら、米澤さんが「物心ついてから平和に通じる一筋の道を歩いてきた」自伝≠ナある。社会変革を志し、一筋の道を歩いてきた人の記憶は、たとえそれが時代の制約によって多くの誤りや反省すべき点を持っていたとしても、同じように新しい道を歩こうとしている次世代の人間を励まし勇気づけてくれる。
自伝といえば有名なところではトロッキー『わが生涯』や荒畑寒村の『寒村自伝』があるが、市井の中で思想を担う責任と家族を支える生活との間で苦闘した多くの無名の活動家が、書きたいと思いながら書けなかった自伝≠ヘ、人の内面を動かす。本書は社会主義に夢と希望があった時代に、平和と社会主義にめざめた青年の生き様と戦後の社会主義運動の問題点が描かれ、惹きつけられる。
米澤さんの出発点の環境は、思想的には恵まれていたと思う。戦前から無産者運動にかかわっていた医者であるお父さんの影響で、少年時代から政治活動に参加し知識と経験を広げていった。ときにはアカの子どもと呼ばれ苦労もしたであろうが、先を歩くものの自信と誇りを持ち続けていた。後に政治路線を巡りお父さんと決別しながら、深いところで共通の地盤に立っていた、うらやましい環境である。私のオヤジなどは、私に「好きな道に進んでよいが、アカとヤクザと宗教団体には絶対に入るな」と繰り返し説教した。しかし、20歳のとき社会主義思想に出会って、目の前の霧がいっぺんにはれたような思いをして以降、私も一筋の道を歩いてきた。
米澤さんは学生運動以降も社会主義をめざし、一方で「真理と正義を独占している」と思い込んでいる前衛党との格闘も続く。やがてそれは社会主義への日本の道をめぐる理論闘争、新しい前衛党をつくる運動になる。
8、9歳ほど先輩に当たるが、本書を読むと同じ会合、大会、場所に当時の私もいたようである。その運動もさまざまな理由で消滅した。あの時代を知る人も少なくなったが、誰かが書き留めておく必要があろう。
病院事務長だった立場から見た京都の革新自治体についての言及、「医療汚職の伏魔殿、厚生省(当時)〜官・産・医の癒着が生み出す薬害」なども、考えさせる問題である。
84歳にして沖縄・辺野古、ヒロシマ、反核・反原発(キンカン行動)、Xバンド米軍レーダー基地抗議などの現場に立つ。その声を多くに届けたい。一読をすすめる。
(投稿 石束武史)
〈定価1400円+税、18年8月6日発刊〉
改憲阻止へ大衆討議 8月25日 神戸
改憲発議・国民投票見すえた戦線を
8月25日、「市民デモHYOGO」は、1年間の運動総括と憲法闘争の方針確立のために、「総会&交流会」を開催した。
第一部は、憲法改悪といのちとくらしを脅かす攻撃への毎月行動の総括を高橋秀典さんが提起した。昨年9月30日、総選挙前の中野晃一(上智大教授・市民連合)講演会は、安倍総翼賛攻撃を打ち破る拠点を兵庫で築いた。また連続するモリカケ追及と沖縄連帯行動は、アベ政治への広範な怒りを持続させた。「いのちとくらし」を守る取り組みも続いている。神戸一の繁華街入口での木曜行動は、1年間に50回の3000万人署名とシール投票をおこない、街頭を政治論議の場に変えている。シール投票の動向を「文書改ざん発覚後の3月15日が112票と最大で、市民の怒りが示されている」と、西信夫さんが報告した。
改憲国民投票に勝利するには保守の一部も含む有権者の過半数獲得が必要だ。兵庫の憲法闘争をリードしてきた羽柴修弁護士は、改憲阻止戦線の再構築を訴えた。
「連帯兵庫みなせん」の松本誠事務局長は、「19年参議院選過程と改憲攻撃は重なる。憲法闘争と野党統一候補擁立運動は一体」と、市民デモHYOGOへの期待を語った。(岸本耕志)