未来・第254号


            未来第254号目次(2018年9月20日発行)

 1面  沖縄知事選
     夢と誇りある沖縄を共に

     関生支部に大弾圧 4人逮捕
     政府が主導し労組つぶし

 2面  焦点
     安倍首相の「正論」懇話会講演
     落合薫

     投稿
     名護市議選を応援して
     新基地反対は市民の願い
     神戸市 江崎 順

 3面  オール沖縄で必ず勝つ
     ヘリ基地反対協共同代表 安次富 浩さん      

     原発も核も持ってはいけない
     8・6ヒロシマ平和の夕べ 小出裕章さんの平和講演     

 4面  論考 第5次エネルギー基本計画批判 津田保夫
     日本の核政策と反原発・反被ばく運動

 5面  日韓民主労働連帯・中村猛さんに聞く
     受け継がれる全泰壱精神(上)

     投稿
     第14回ピースフェスタ明石
     「原爆の図」3部を展示
     兵庫県 江戸信夫

     9・6ロックアクション
     東アジアの平和の流れに

 6面  (シネマ案内)
     「恵庭闘争」が与えた衝撃
     映画「憲法を武器として 恵庭事件 知られざる50年目の真実」
     (稲塚秀孝監督 2017年

       

沖縄知事選
夢と誇りある沖縄を共に

告示日当日、名護市入りし市民に訴える玉城デニー候補(9月13日 名護市)

30日に投開票がおこなわれる沖縄県知事選は、翁長雄志県知事の遺志を継ぎ、「辺野古新基地建設絶対反対」を掲げる玉城デニー候補と、事実上「新基地賛成」の佐喜真淳候補の一騎打ちとなった。玉城さんは、「基地賛成か反対かで沖縄振興を増減させ、基地を押しつける国のやり方は、地方自治の権限を毀損するもの」ときびしく批判し、自立した誇りある豊かな沖縄をめざす。(2、3面に関連記事)

キャンプシュワブゲート前の集会で「新基地阻止を貫徹する」と表明する玉城さん(9月1日)

埋め立て承認を撤回

8月31日 名護市辺野古の新基地建設をめぐり、富川盛武、謝花喜一郎両副知事は、県庁で記者会見を開き、仲井真弘多前知事による辺野古の公有水面埋め立て承認を撤回したと発表した。国は新基地建設を進める法的根拠を失い、海上の工事は中断する。謝花副知事は「辺野古に新基地は造らせないという翁長知事の思いをしっかりと受け止めた上で、公有水面埋立法に基づき適正に判断した」と述べた。
沖縄防衛局が予定していた土砂投入は当面不可能になる。政府は、撤回の効力を止める執行停止などを裁判所に求める法的な対抗措置を検討している。国と県の対立は、辺野古新基地建設をめぐって再び法廷闘争に入る。8月8日の翁長知事急逝により、知事選が9月30日に前倒しになり、9月上旬から名護市議選を含む統一地方選挙が続く。選挙戦の大きな争点になる。

玉城さん、辺野古に

9月1日 名護市辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、毎月第1土曜集中行動がおこなわれ800人が参加。県の埋め立て承認撤回から一夜あけ、待ち望んでいた「撤回」を改めて祝った。市民は「翁長知事の遺志を受け継ぐ。新基地建設断念を実現させる」と誓い合った。
集会では、間近に迫った統一地方選の候補者や国会議員などが発言。玉城デニー知事候補は「翁長雄志知事の遺志にのっとり、埋め立てを撤回したことを重く受け止めたい。辺野古新基地建設阻止を貫徹する。翁長知事がつくろうとした夢ある沖縄、誇りある沖縄を、自分の信念であるぶれない姿勢を、翁長知事から受け取った信念を作り上げる」と訴えると、市民から「デニー」コールが響き渡った。
オール沖縄会議の稲嶺進共同代表は「県民が待ちわびた県の承認撤回がやっと実現した。新基地建設阻止に向けてさらに勢いが増す。今後の選挙に向けても良い影響がでるはずだ」と述べた。

名護、反対派多数に

2日 統一地方選挙の5市議選が告示された。名護市議選は定数26人(前回より1人減)に32人が立候補。与党18人、野党14人。野党候補は全員当選の必勝態勢で臨んだ。知事選の前哨戦としての選挙に、与野党の白熱した攻防が展開された。私たちは「翁長知事の遺志を引き継ごう」のノボリを立て街頭に立った。
名護市内では、告示後初めての街頭での手ふり行動に、市民の反応は非常によく、ノボリを見ると多くの市民が手を振った。翁長知事の遺志を受け継ぐ野党候補は各地で歓迎された。与党候補は私たちの街頭行動に激しく反応し、妨害を繰り返した。私たちに近づくとマイクの音量を大きくして通過したり、街宣車を近くに止めて演説を始めた。(街宣車が優先)私たちは排除された。私たちは、そのような妨害にも負けず、街頭での宣伝戦をやりぬいた。
9日 5市議選や町村選が投開票された。名護市議選は、与党13人、野党13人の結果となった。野党候補が1議席減らした。しかし、与党が議長を出すと、与党の議会運営が厳しくなる。また、基地建設に対し、反対する議員は過半数を占めた。翁長県政継承を目指す県政与党にとっての弾みがついた。

関生支部に大弾圧 4人逮捕
政府が主導し労組つぶし

滋賀県警大津署前で抗議行動(9月8日)

滋賀県警刑事部組織犯罪対策課は8月9日と28日、連帯ユニオン関西地区生コン支部へ連続した弾圧をおこなった。28日には武建一執行委員長と支部役員2人を逮捕。8月9日に逮捕した支部役員1人をふくめて計4人を不当逮捕した。また大阪市内の関西地区生コン支部事務所など多数の家宅捜索をおこなった。その中には事件とは無関係な所も含まれている。捜索のやりかたもきわめて暴力的で違法なものであった。いまも大阪府警など関西の各県警は弾圧の拡大に動いている。
この弾圧は労働組合の活動を「恐喝未遂」とするものである。警察権力は共謀罪などの適用をほのめかしている。組合活動や争議行為は刑事責任を免除され、不利益扱いが禁止されるなどの法的保護が与えられている。今回の弾圧は労働組合活動を刑事罰の対象とするものであり、断じて許されない。これを許すなら憲法28条(団結権・団体交渉権・団体行動権)が否定されることになる。敵のねらいは、資本専制支配によって社会全体を覆い尽くすことである。
今回の弾圧の特徴は刑事部組織犯罪対策課が中心となっていることだ。彼らはこの弾圧を「警察庁の指示」といっている。これは政府が主導する新たな労働組合つぶしの開始である。
連帯ユニオン関西地区生コン支部は、生コン業界をはじめとして本格的な産業別職種別の労働運動をめざして、たび重なる弾圧や妨害を原則的にのりこえてたたかってきた労働組合である。滋賀県警は、業者に対しては「関生とは手を切れ」と強要し、組合員に対して「組合加入の動機は何か」と不当な介入をしている。
警察権力の目的は関西地区生コン支部が進めてきた産業別中小企業労働運動の破壊である。この弾圧はすべての労働組合にたいする攻撃でもある。また「共謀罪」の適用拡大のねらいを断じて許すわけにはいかない。
大企業の収奪、辺野古新基地建設、原発再稼働、憲法改悪など安倍政権とたたかうすべての勢力が力を合わせて、この弾圧を粉砕しよう。滋賀県警へ抗議を集中しよう。

抗議電話先
滋賀県警本部
077・522・1231(代)
大津市打出浜1-10 ※毎週土曜日午後3時半から滋賀県警大津署前で抗議行動がおこなわれています。

労働組合つぶしの大弾圧に抗議する9・22緊急集会

とき:9月22日(土) 午後6時
ところ:エルおおさか南ホール
主催:9・22実行委員会
連絡先:全港湾関西地本大阪支部



2面

焦点
安倍首相の「正論」懇話会講演
落合薫

命運かけ 改憲時期を明示

産経「正論」懇話会とは

安倍首相は8月12日、長州「正論」懇話会で講演し、今秋国会で改憲発議に持ち込むと宣言した。「正論」懇話会とは、安倍政権を後押しする産経新聞の主張に賛同する任意団体で、日本会議系を中核にした復古的反動の結集体である。
自民党総裁選挙と改憲に向けてまず自らの足元を固めようとして、この講演では、「長州が維新の大業を成し遂げた」と長州を持ちあげる。また「150年前、明治日本は急速な近代化」を遂げたと言う。しかし明治国家が資本の本源的蓄積過程で労働者農民への過酷な収奪をおこない、初期から朝鮮・アジアへの侵略、沖縄・アイヌへの差別的「編入」を強行したことへの言及はない。

安倍政権の腐敗・破産

安倍は神妙ぶって自らの「不祥事」について触れる。しかし、モリ・カケ・日報・セクハラなどについて、自らと連れ合いの昭恵の「事件」への関わりについては逃げまくり、「再発防止」をひとごとのように繰り返すだけである。
安倍は次に、第1次安倍政権の破産に言及する。しかし第1次政権の時は「国民の審判を得て総理大臣になったのではなかったが、今度は選挙に勝った上で総理大臣になった」と、5回の国政選挙で「勝利」したことを誇示する。
安倍は他方で「党内で徹底的に議論した」ことを長期政権の要因として挙げる。安倍にとって、財界や官僚機構、メディア支配すら副次的であって、国政選挙での勝利と党内締め付けによる支配が重要であることを示す。

アベノミクスの破産を隠蔽

「成果」の最初に、昨年度から給付型奨学金制度を導入したことを挙げる。これは実は「成果」などと言えるものではない。
世界的には「奨学金」とは給付型のもののみを言い、貸与型は「教育ローン」と呼ぶ。本来の公的奨学金制度がなかったことが問題である。給付の月額が2〜4万円と極めて貧弱で、国立大学の授業料が53万5800円の時代に、これでは学業を継続できない。対象者数も限定され、予算は、60万人いる進学者のうち2万人分にすぎない。しかも成績が悪いと返済を求められる。
次に、安倍政権になって子どもの貧困率が2%も下がったことをアベノミクスの「最大の成果」としている。貧困率とは相対的なもので、全国民の所得の「中央値」の2分の1で線を引き(=貧困線)、それ以下の所得の人が占める割合を示す。貧困線は国民全体の所得が下がれば当然下がるから、安倍政権になって所得が劇的に下がったから貧困率が下がったにすぎない(総貧困化)。
労働者1人あたりの実質賃金は安倍政権の5年余りで年7・5万円も下落している。不安定、低賃金の非正規雇用が劇的に増えたことには弁解もできない。

トランプと一体化が外交の成果?

安倍外交の「成果」と押し出しているのは、環太平洋連携協定(TPP)の協定作り、欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)の締結、先進7カ国(G7)を「まとめた」ことなど、すべてトランプの米国を抜きにしている。安倍はそれでもトランプとの「親密性」を誇示せざるをえない。7回の首脳会談、20回の電話会談、3回のゴルフなどを外交的成果として掲げる。「アメリカは、日本が攻撃されたとき共に戦ってくれる唯一の同盟国」と言いつつ、それは「平和安全法制が成立したことが大きい」として、米艦防護など集団的自衛権の行使が「可能」になったことを挙げる。
安倍が混迷をあらわにするのは米朝会談によって、対北朝鮮の「圧力一辺倒」の外交が破産した結果である。軍事攻撃であれ、外交対話であれ、トランプのやることはすべて支持しながら、「拉致」問題の解決のために「金正恩氏と直接向き合う」と言わざるをえない。どう喝と軍事攻撃支持を重ねながら、都合よく「向き合う」ことなどできはしない。
「戦後日本外交の総決算」は日中関係が第一としながら、外交の基軸を、「自由で開かれたインド太平洋戦略」という対中国包囲に置く。混乱の極みである。

農業・中小企業・被災対策

新自由主義攻撃とアベノミクスの被害をもっとも受ける農林水産業には、「農業の展望」を語ると称して、日本で1万円台のコメを中国に持っていって売れば9万円台で売れると2度も繰り返している。中国の一部(と言っても日本の総人口ほどいる)の富裕層に日本産のコメを一時的に高く売りつけたからと言って、それが何の展望や保障になるのか。
「中小・小規模事業者」の「人手不足」対策として「外国人材の受け入れ」を声高に語る。製造業を中心に生産・労働と能力養成の場を奪い、非正規雇用の安い労働力で置き換えるか、生産拠点の対外移転で済ましてきた結果の弥縫策である。しかも「移民政策」ではないと断って、在留期間の上限設定や家族の帯同を認めないことを強調する。アジア人民の抗議に見舞われるであろう。
安倍にとって、被災対策とは、自衛隊の「活躍」の伏線として挙げるにすぎない。7月豪雨を挙げるだけで、地震・高波、そして原発事故と沖縄の基地被害(どちらも安倍による人災だ!)については何も言及しない。

復古的反動を総結集

講演の最終章の見出しに言う。「自民党としての憲法改正案を次の国会に提出できるよう、とりまとめを加速すべき」。そして、麻生派からの政策提言の形で、「来年夏の参院選挙前に憲法改正の国民投票を実施する」方針を出させた。安倍は、被災地救援のために働く自衛隊を引き合いに、「国民を守るために命を懸けている」「自衛官が誇りをもって任務を全うできる」ために「憲法の中に、自衛隊を明記する」と言う。それによって実は、集団的自衛権の行使や海外派兵などをおこなう自衛隊を全面的に合憲化しようというのだ。
自民党内論議すらいまだに「たたき台素案」しかまとまっていないことにたいする焦りと、総裁選の対立候補である石破つぶしの意図が露骨である。来年の一連の天皇行事、20カ国・地域首脳会合(G20)、東京オリンピック・パラリンピックを理由に反対運動の封じ込めを狙う一方、「政治は結果だ」として、いかなる強硬策を取っても、国会と国民投票で形式「多数」を占めれば勝ちだという思惑を示す。政権の危機を、改憲を掲げて乗り切ること、新自由主義政策の破産の結果としての吸引力の低下を復古的反動の中核部分を総結集して突破しようとしているのである。

改憲粉砕・安倍政権打倒へ

論点は出た。改憲勢力の実体も暴露された。敵のスケジュールも明らかになった。9条改憲阻止と安倍政権打倒が一体的に問われている。歴史的な政治決戦を迎え撃とう。安倍改憲阻止をたたかう以下の方針を確立しよう。
@街頭闘争・国会包囲闘争。60年、70年を超える人々の結集を実現しよう。
A沖縄・原発・社会保障のたたかい。改憲阻止と一体で、現場から草の根的決起を実現しよう。
B3000万人署名運動(現在1850万筆、9月末第4次集約)をさらに拡大しよう。
C選挙闘争に勝利しよう。沖縄知事選挙、来年統一地方選挙、参院選挙を野党共闘強化でたたかいぬこう。
D地域・戦線・労組・自治体での根を張ったたたかいをつくりだそう。

投稿
名護市議選を応援して
新基地反対は市民の願い
神戸市 江崎 順

翁長知事の遺志継承を訴えるキャンプ・シュワブゲート前の横断幕(9月7日)

9月2日から9日にかけて、名護市辺野古に行きました。沖縄県が埋め立て承認を撤回をしたため工事は中断されていました。焦点は9月30日に投開票される沖縄知事選挙です。2日から、その前哨戦である統一地方選挙が始まりました。名護市でも市会議員選挙。基地容認の市長派陣営と、翁長知事の遺志を引き継ぐ陣営に分かれて争われました。
私は朝、浜のテント設営を手伝い、キャンプ・シュワブの工事車両搬入ゲート前座り込みに参加。休憩をはさんで名護市議選を応援しました。6日にはカヌー隊の講習に参加して海に漕ぎ出しました。 浜のテントも、ゲート前の座り込みも、多くの県民、市民団体、個人が詰めかけています。大学で法律や報道を学ぶゼミの学生が70人ほど来ていました。

基地をつくらせない

今回の知事選挙は、翁長知事の遺志を引き継いで辺野古新基地工事を撤回させる重要な選挙。玉城デニーという候補を得て、アメリカでも注目されている。あえていえば、「安保容認」。「現にある米軍基地の撤去を求めなくてもいい」。しかし、「辺野古新基地だけはつくらせない」という一点で団結して選挙をたたかう。
佐喜真候補は、辺野古のへの字も言わない。また、日本会議に入っていることを公言している。日本会議は、憲法改悪を安倍総理とめざしているヘイト集団だ。「普天間基地は危険であるから、小学校の上を飛ぶな」とアメリカ軍に抗議することすらできない。「小学校に避難所をつくれ」と言っている。

名護市民の願いは

辺野古埋め立て地に川が流れている。この川の水路変更は、名護市長の権限事項。市議選で過半数を取れば変更できない。こういった事案が数多くある。市長派は、「市議会がばらばらでは交付金が貰えない。交付金で学校の授業料が無料になる」と言っている。
私は「知事の遺志を継ごう」「ふるさとは宝」というオレンジの旗を持ち街頭で手を振りました。自動車の中から、歩道から、数多くの市民が手を振って通って行きました。辺野古新基地建設を許さないというのは、多くの市民の願いだと強く思いました。

海外識者の声明

9月8日、沖縄の新聞は一面で、海外識者133人の「辺野古承認撤回を支持する」声明と、国内識者の「辺野古新基地計画撤回を求める」共同声明の全文を載せていますが、本土ではどれだけ報道されているでしょうか。この温度差、無関心を乗り越えていかなければならないと思いました。沖縄と本土の両方のたたかいが重要です。

3面

オール沖縄で必ず勝つ
ヘリ基地反対協共同代表 安次富 浩さん

30日投開票の沖縄県知事選と辺野古新基地をめぐる最近の状況について、ヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さんに話を聞いた。(見出し・文責/本紙編集委員会)
翁長知事が「埋め立て承認撤回」表明の記者会見をした直後に急逝された。本当に残念だ。私たちは9月30日投票の知事選勝利に全力をあげる。翁長さんは、「日本政府は、沖縄への抑圧を続けている。沖縄はずっと苦労させられてきた。振興策もらって基地を預かれ。そんなことを子や孫の世代に残せない。とうてい容認できない」と言い残した。沖縄と基地に無関心な日本の人びとこそ、いま考えてほしい。
私たちは新基地建設をはね返す。安倍政権は争点化を避けるため、姑息にもいったん工事を止めた。命を削った翁長さんが、中断させている。彼が残した「沖縄は日本とアジアを結ぶ平和の架け橋になる」という理念。それは夢物語ではない。保革を超える沖縄の思想とアイデンティティー、そこに沖縄の未来がある。オール沖縄で必ず知事選に勝利し、翁長さんの遺志を引き継ぐ。
7月27日の記者会見で、翁長知事は撤回理由として、@埋め立て承認の「留意事項」にある沖縄県と国の環境保全策などの事前協議がおこなわれていないこと、A大浦湾側の軟弱地盤や活断層の存在、B新基地が建設された場合、周囲の建物が米国防総省の軍用機の高さ制限に抵触すること、C稲田朋美元防衛相の「固定翼機が新基地を利用するには滑走路が短いため、別の民間空港などの使用の日米協議が調わなければ普天間飛行場が返還されない」との発言を問題視した。この稲田発言は米国政府会計検査院報告の「緊急対応時における滑走路が短い」を裏付けるものである。

活断層と軟弱地盤

埋め立て予定地の大浦湾側には辺野古断層と楚久断層が交差しており、しかも活断層であることが判明している。2000年に当時の防衛庁が「代替施設建設協議会」へ提出した「海底断面図」でも50メートル沈下した部分を「断層によると考えられる」と記載されている。沖縄防衛局の昨年2月〜4月にかけておこなわれた地質調査結果報告書にも「活断層の疑いがある線構造に分類される」と明記している。多目的作業船ポセイドンを投入してV字滑走路予定地先端部分の120カ所も探査調査したことも裏付けるものだ。
また、14年〜16年にかけておこなったボーリング調査や磁気探査などの情報公開を市民活動家らが沖縄防衛局に求めた結果、広範囲にわたる軟弱地盤の存在が判明した。

「制限表面」問題

日本政府の辺野古新基地建設計画に新たな困難状況が発生した。これは沖縄タイムスの調査から判明した。同紙によれば、航空機の安全な離着陸のため、どの飛行場周辺にも「制限表面」と呼ばれる仮想の面が複数設定される。それより上には構造物が飛び出してはいけない。そのうち、小型機が旋回する空間を確保するため、飛行場を包むように設定されているのが水平表面。国防総省策定の統一施設基準書では辺野古新基地の水平表面は滑走路の周囲2286メートル、高さ54・52メートルとなる。
政府はこれを今まで隠してきた。近くの高台にある沖縄高専や住宅は、この高さ制限を超えているので移転の対象となる。ところが政府は、高専や住宅の移転には高額の費用がかかるため、制限の適用除外にした。その一方で、制限を超えていた沖縄電力の送電鉄塔12基や送電線などは国費で移転していた。
沖縄高専の学生数は815人。教職員は106人。学生寮には552人が生活している。その安全が無視されていることに学長は「非常に困惑にしている」とコメントした。

負の現実のりこえる

安倍政権は森友学園問題や加計学園問題、および自衛隊の日報隠し問題、財務省のセクハラ問題に発する麻生財務相発言などで支持率が急落している。沖縄のたたかいと連動した安倍政権打倒の全国的なたたかいが求められている。岩国基地主催の「フレンドシップデー」(5月5日)にF35Bの空中停止ショーの見学に21万5千人が集まる市民感覚に驚きと怒りを感じる。翁長知事は「国民が違和感なく、沖縄に造るのは当たり前だと思っていることに憤りを持っている」と発言したが同じ思いだ。この現実を乗り越える反戦・平和闘争の大衆的な再構築が求められている。
朝鮮半島では核なしの平和協議が始まっている。東アジアの平和を創出するために、在沖米軍のみならず、アジアに展開するすべての米軍基地を撤去させるアジア民衆との連帯運動が必要である。沖縄の自己解放、すなわち日米植民地体制からの脱却に向けたたたかいはアジア民衆との絆を結ぶ必要がある。安倍政権打倒をめざす、反・脱原発闘争や反戦・反基地闘争のヤマトの民衆との共同・統一闘争で、日本の変革に向け共にたたかおう。

原発も核も持ってはいけない
8・6ヒロシマ平和の夕べ 小出裕章さんの平和講演

平和講演をおこなう小出裕章さん
(8月6日 広島)

歴史に学ぶこと

平和公園、資料館に行き、忘れてはいけない思いをもってここへ来ました。
原爆は大変恐ろしい。その力を人類平和のために使いたいと思い込み、原子力発電をやりたいと大学へ。人生の最大の誤りでした。大きな事故が起きる前に原子力発電を止めようとしてきましたが、できませんでした。福島原発事故。たくさん人たちが生活を根こそぎ破壊されている。日本は原子力の平和利用をかかげ、核兵器保有力を持つことをやってきた。(戦争はしないという)憲法はあるが、ないがしろにされ戦争に向かっている。神経を研ぎすませ歴史に学び、戦争の道を止めなければならない。
8月15日、日本では終戦記念日ですが、正しくは敗戦記念日。韓国では光復節。朝鮮では祖国解放記念日。植民地支配、侵略戦争から解放された日です。アジアの人々を何千万人も殺し、日本人も300万人が死にながら戦争を続け、徹底的に負け無条件降伏した。敗戦後は一転して米国の民主主義が賛美された。強いものに従っただけ。「終戦」という歴史の総括はありえない。日本は戦争責任をいまだに考えずにきている。

そして原子力発電

1954年7月2日の毎日新聞。「(原子力の)エネルギーのもつ威力は人類生存に不可欠といってよい。…電気料は2千分の1になる」「原子力発電は大工場を必要としない。…山間へき地を選ぶこともない。ビルの地下室が発電所ということになる」。他の新聞も大同小異。しかし、原子力発電には膨大な危険が潜んでいるとわかっていたから、都会には建設されなかった。
福島原発事故が起きた。1、2、3号機が運転中。地震と津波によって全電源を喪失、核燃料が溶け落ち、停止中だった4号機からも膨大な汚染が放出された。7年5カ月たった今も、どうなっているかわからない。どれだけ汚染されたか、IAEA=国際原子力機関(私は悪の親玉と思いますが)に報告した日本政府の資料があります。広島・長崎の原爆は恐ろしい放射能を撒き散らしたが、福島事故で大気中に放出されたセシウム137の量は、広島原爆の168発分。今も汚染した水を海に流している。
私は京大原子炉実験所で放射線業務従事者でした。放射線を扱う建屋は放射線管理区域とされ、従事者以外は入ることを法律で禁じている。そこは水を飲んでも、食べても、寝てもいけない。トイレはなく排泄もできない。つまり生きることができない場所です。
政府は事故当日に「原子力緊急事態宣言」を発令し、今も続いています。いわば放射線管理区域に多く人々を住まわせている。法律では一般人は1年間に1ミリシーベルト以上被曝させてはいけないとされている。それを全部放棄してしまった。100年たっても解決しない。セシウム137は100年たっても10分の1にしかならない。放射線管理区域は膨大に残ります。原発事故は破局的事態を生じさせている。即刻全部やめるというのが、私の得た教訓です。

事故の責任は誰に

私は、事故の責任を明確にすることがとても大事なことだと思っています。日本では、これまで57基の原子力発電所が、自民党政権が「安全性は確認した」として建てられた。電力会社、原子力産業、ゼネコンをはじめ学会、裁判所、マスコミいっしょになって原子力を進めてきた。そして事故が起きた。原子力マフィアには重大な責任があるが、誰1人として責任を取っていない。日本が法治国家というのであれば、徹底的に処罰する必要がある。
国連の常任理事国のアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5カ国は核保有国です。5カ国が核兵器製造の中心3技術、ウラン濃縮、原子炉、再処理をすべて保有している。そして核不拡散条約と国際原子力機関(IAEA)を作って核を独占しようとした。しかしインド、パキスタン、イスラエルが独力で核兵器開発を進めてきました。核兵器保有国ではなく中心3技術をすべて保有している国が世界に一つだけある。日本です。
今、大きな問題となっている朝鮮半島情勢。朝鮮戦争は、いまだ休戦状態、65年間続いています。朝鮮が核兵器を作ったという。核兵器を作るためにはプルトニウム、原子炉が必要です。原子炉というのは発電の道具でもあるがプルトニウム、原爆の材料を作るためのものです。京大実験所の原子炉が5メガワット。日本は平和利用と言いながらプルトニウムを作ってきた。
他人に核兵器を持ってはいけないと言うのであれば、自分も持ってはいけない。核の傘に依ってもいけない。強いものに媚び、弱いものに徹底的に居丈高になる国、日本。本来なら朝鮮半島の南北分断に最大の責任がある日本は、朝鮮戦争の終結のために誰よりも努力するべきです。本当に情けない国です。

憲法9条は宝

日本には憲法9条があり、宝だと思います。その憲法があっても戦後日本は、日米安保条約と地位協定に縛られ、一貫して米国の支配下にあります。安倍さん率いる自民党は特定秘密保護法をつくり、武器輸出禁止3原則を撤廃、集団的自衛権を容認、共謀罪を創設、辺野古新基地を強行し、そして憲法改悪と戦争の道を進めている。原子力基本法も改定され、「安全保障に寄与する」と。核兵器をつくるために原子力をやる。そういう時代です。
ヒロシマ・ナガサキを継承し、沖縄と朝鮮を犠牲にする歴史をやめなければならない。今、声をあげなければ。一人ひとりが考え、行動する。皆さんも、そう思っていただければ。(8月6日の広島市内の講演から要約。見出し・文責/本紙編集委員会)。

4面

論考 第5次エネルギー基本計画批判 津田保夫
日本の核政策と反原発・反被ばく運動

廃炉が決まった高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)

福島第一原発事故後の原子力政策

経済産業省は一貫して原子力発電を推進してきた。福島原発事故後の対応においても、経産省は「原子力推進は国策」方針を変えていない。事故直後、福島では原発被害者が避難をはじめているなかで、経産省は原発を再稼働させようとしていた(朝日新聞「平成経済」2018年3月18日付)。
2003年以降、日本の原子力発電は「エネルギー基本計画」にのっとり推進されてきた。原子力は地球温暖化対策の面で優れたエネルギーであるとして、「原子力発電を基幹電源として推進」する方針をうちだした。民主党政権においても、「第3次エネルギー基本計画」のもとで、原子力発電を積極的に推進してきた。
福島第一原発事故を受けて、2012年9月に民主党(野田)政権は「革新的エネルギー・環境戦略」を決定した。「2030年代に原発ゼロを可能にするよう」という曖昧な表現ながら、「原発ゼロ」を打ち出した。これは、経済界などから猛反発をうけた。「エネルギー基本計画」は経産省にある総合資源エネルギー調査会基本政策分科会で審議されている。いっぽう、「革新的エネルギー・環境戦略」は内閣府国家戦略室に設置された「エネルギー・環境会議」(安倍政権になって廃止)で審議された。この委員会は、経産省のヘゲモニーをなくすため、民主党政権の肝いりでつくられた。
安倍政権が最初におこなったことは、「原発ゼロ」方針を変更することだった。2014年4月、安倍政権は「第4次エネルギー基本計画」を閣議決定した。ここで「原発をベースロード電源とし、原発を維持する」方針を打ち出した。

原発推進政策を踏襲

今年(2018年)7月、「第5次エネルギー基本計画」(資源エネルギー庁)が閣議決定された。これは安倍政権になって2度目のエネルギー基本計画だ。内容は「第4次エネルギー基本計画」を踏襲している。福島原発事故の反省を述べるが、今までの原発推進政策についてはまったく反省していない。ここでは原発推進が前提になっているのだ。原子力政策に関して、「第5次エネルギー政策」の特徴をみていく。
第1に、再生可能エネルギーを「主力電源化」したことだ。再生可能エネルギーは国産エネルギー、原子力発電は準国産エネルギーといい、この二つを自給可能なエネルギーとして推進することを強調している。
ここで注意しておきたいのは、「福島を再生エネルギーの拠点にする」と言い、福島全県を未来の新エネ社会のモデル地域にしようとしていることだ。環境保護派の人々を取り込もうとしている。
第2に、福島原発事故を経験しても、経産省官僚は原子力発電を「準国産エネルギー」(原発からプルトニウムを取り出すこと)と言い、原発を「ゼロ・エミッション電源」(環境汚染をおこさないクリーンな電源)に含めている。これらは原発事故についてまったく反省していないことを示している。
第3に、今までの「原発はベースロード電源」を維持し、2030年には発電比率で原発20〜22%を確認している。この数字は原発数を事故前のレベルで維持することを示している。これはどんどん原発を再稼働すると述べているに等しい。また、経産省は「原発の新増設の必要性」の記述を求めたが、官邸から退けられた。
第4に、原発再稼働とともに「再処理とプルサーマル等を推進する」と言っている。原発を動かしたうえで、プルトニウムを削減するためにプルサーマル発電をもちだしている。原発を動かすから、プルトニウムが生まれるのではないのか。
第5に、原発立地自治体にたいして、「新たな産業・雇用創出も含め、地域の実態に即した立地地域支援を進める」と述べている。今まで以上に補助金をばらまくということだ。
第6に、エネルギーの自立を強調している。中国、インドが原発を増やしていることに対する対抗から、原発は必要だと言っている。この点から、原発輸出を述べている。
福島原発事故を「教訓化」して、原子力発電を推進する。原子力政策に対する根本的な反省はまったく見られない。これが、政府の方針なのだ。

日本独自の核燃料サイクル政策

核燃料サイクルは、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す(再処理)ために存在する。日本の原子力政策は、原発と再処理を一体で推進してきた。日本政府は、核燃料サイクルの意義として、表向きには@ウラン、プルトニウムの有効利用とA高レベル放射性廃棄物の減容等を言っている。しかし、廃棄処分にした方が経済的には安くつく。また、再処理した方が高レベル放射性廃棄物はかえって増加するのだ。
ここで核燃料サイクルをめぐる日米関係の歴史をみておく。68年、日米原子力協定が締結された。これによって、アメリカ由来の使用済み燃料は、アメリカの同意があれば、日本国内で再処理できるようになった。
戦後、日本の支配者は独自の技術で濃縮・再処理できることを願望してきた。日本の再処理に関する日米交渉は、1982年から始まった。5年間16回におよぶ協議をつみかさねて合意し、1988年に日米原子力協定が改定された。この改定の大きなポイントは、日本独自で再処理が可能になったことだ。政府は、核兵器非保有国の中で「我が国だけが濃縮・再処理技術を含むフルセットの核燃料サイクルを保有した」と誇らしげに語っている。
日本は、すでに国内に10トン、英仏に37トン、合計で47トンにおよぶプルトニウムを保有している。アメリカは「日本が呼び水になって、韓国やサウジアラビアなどにプルトニウム利用が広がるのではないか」という懸念をもっており、「プルトニウム保有量を削減せよ」という圧力をかけ続けている。
今年(2018年)7月17日に、日米原子力協定が延長された。その結果、協定の期限が不安定になり、日米いずれかが通告すれば6カ月後に終了できるようになった。このような事情により、内閣府の原子力委員会はプルトニウムの保有量に上限を設ける新方針を出した(7月31日)。政府はプルトニウムの保有をプルサーマル発電によって減らすといっている。しかし、原発を動かせば、プルトニウムはますます増える。
日本がプルトニウムを保有することにたいして、国際社会は懸念している。その理由は軍事利用という側面だ。ここに核問題の本質が存在する。

原発のない社会とは

日本の反核運動は、広島・長崎の被爆からはじまった。しかし、支配者はヒロシマ・ナガサキにいたる原因をかえりみることなく、核武装を追求してきた。1969年9月に作られた「我が国の外交政策大綱」では、「当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」と明記している。だから、政府は「核兵器禁止条約」に反対しているのだ。
核武装への道は、「核の平和利用」を推進することだった。1954年、2億3500万円の原子力予算が政治的に決定された。日本の核政策は原子力発電を通して推進されてきた。原子力の平和利用を前面に押し出し、核の軍事利用を覆い隠してきた。このようにして、原子力政策はエネルギー戦略の中に位置づけられてきた。
「原子力開発利用長期計画」(1956年)には、「核燃料サイクルを確立するため、増殖炉、燃料要素再処理等の技術の向上を図る」と述べられている。何よりも高速増殖炉の開発が主要な目的であった。この当時、政策決定者は将来的にはウランよりもプルトニウム発電を構想していた。初めから、原子力発電と再処理(プルトニウム)はワンセットであったのだ。
原子力発電がエネルギー問題として語られるのは、石油危機以降のことだ。エネルギー危機が叫ばれ、原子力発電は化石燃料に対する代替エネルギーとして取り上げられた。2003年以降では地球温暖化問題に乗り移り、今でも「原子力発電は(発電時に)CO2を出さないクリーンなエネルギー」とキャンペーンしている。
広島と長崎、ビキニ環礁水爆実験、福島原発事故において、日本政府は内部被ばくを意図的に過小評価している。放射線は人体に深刻な被害をおよぼす。政府は被ばく問題を隠蔽してきた。
反核、反原発、反被ばく、これらの領域で粘り強い民衆運動がたたかわれている。このたたかいは、たがいに結びついている。これらを一つの政治闘争に集約することが求められている。日米安保条約と同じように、原発推進政策は国の基本政策をなしている。この点からも、福島のたたかいと沖縄の闘いは一体なのだ。
われわれは原発のない社会をめざしている。このためには、社会システムについて根本的な転換が必要だ。政治・経済・文化などあらゆる領域で、人民のたたかいによる革命が求められている。道は困難でも、未来社会にたいする展望をもとう。
安倍政権の原子力(核)政策は、「戦争をする国」創りと一体である。安倍政権を打倒するたたかいは、反原発のたたかいでもある。人民の力で、安倍政権を打倒しよう。

5面

日韓民主労働連帯・中村猛さんに聞く
受け継がれる全泰壱精神(上)

本紙第247号、248号で中村猛さんに、韓国ろうそく革命以降の動きと南北朝鮮情勢の展開について話を聞いた。今回は、全泰壱氏の母堂である李小仙オモニとの交流の話、さらに今日の労働運動・社会運動の中に脈打つ全泰壱精神について話してもらった。

左から中村猛さん、イスホ全泰壱財団理事長、パクケヒョン同事務総長(2017年10月14日 韓国・ソウル市内)

僕がアジアスワニーの人たち(注1)にお願いしたのは、「今の韓国労働運動と日本の労働運動をつないでもらいたい。もうひとつは清渓被服労組との関係をつくりたい」ということだった。91年に最初に韓国に行った時から、そのことをお願いしていた。

清渓被服労組

清渓被服労組とは、あの清渓川を中心にしてつくられた地域業種別労組。地域一般労組ではなくて業種別労組で、業種は縫製業。当時、法律上、企業内組合しか作れなかった。当時の朴正煕政権が、企業を越えた労働組合は政権にとって危ないということがよくわかっていたから、法律で企業内の組合しかみとめてなかった。 そこに、地域、職種別の労組、企業の壁を越えた労働組合を非合法に作った。全泰壱さんが亡くなって(70年11月13日)、直後に清渓被服労組を旗揚げした。当局が解散を求めてくるが、事務所に籠城して労働組合を守るというたたかいをやった。 最初に行ったときは、僕は言葉も全然わからない。アニョンハシムニカしかできない状態で、清渓被服労組の事務所に、アジアスワニーのヤン・ヒスク委員長(当時)が連れて行ってくれた。清渓被服労組のファン・ミョンジン組織部長(当時)と会った。 まだ、平和市場には、「中二階」の被服工場が残っていて、作業がおこなわれていた。これくらいの部屋(10坪ぐらい)が一つの会社。作業台の前に座ってミシンをかけているけど、その上に中二階(ひとつの部屋をさらに上下二段に区切って階をつくったもの)があるから立てない。その中二階では裁断士が裁断をしている。で、窓には鉄格子が入っている。火事になったらどうするのか。半地下みたいなところでもミシンをかけている。暗い電球がある。『全泰壱評伝』(注2)に出てくる現場そのものだった。 「いろいろな国から韓国労働運動を知りたいと清渓被服労組を訪ねてくるが、日本から来たのはあなたたちが初めてだ」といわれた。当時、日韓連帯をやっていた労組の幹部たちは、ゴルフに来ていた。大きい労組のトップ同士が話をして、いいところで飯を食って…。日本の労働運動って何しているんだと思った。僕には、まず清渓被服労組だろうという思いがあったからね。

李小仙オモニ

その翌年、李小仙オモニと初めて会った。全国民族民主遺家族協議会(注3)というのがあって「その建物で待っているよ」と言われて行った。壁にずらっと遺影が100人ぐらい。そこでオモニが出迎えてくれた。一見、小柄な、普通のおばちゃん。 オモニが、僕に最初に訊いたのは「日本の労働者は幸せかい?」僕は、「韓国になくて、日本にある言葉で、『過労死』というのがあります」と答えた。当時まだ「過労死」という言葉は一般的ではなかった。「それ、なんだ?」というから、「要するに働きすぎて死ぬことです」という話をすると、オモニは「アイゴー、日本の労働者はかわいそうだ」って。 それがオモニとの最初だった。僕が全泰壱さんの4つ年上。オモニは、「テイルが生きていたらお前ぐらいの歳か。そうかあれから20年か、お前みたいになっているんだなあ」と。 それから少しずつ韓国語ができるようになって、2回か3回目の訪問のときに、「中村、お前は韓国語ができるんだから、あたしの前で一切、日本語をしゃべってはいかん。下手でもいいから韓国語をしゃべれ。私は日本語が大嫌いや。聞きたくない」と。 あるとき、「いまでも、私は教科書、空で言える」と言って、ススメ、ススメ、ヘイタイススメ≠ゥらずっとしゃべりだした。しばらく聞いて、「もう、わかったから、やめてください」とお願いすると、オモニは、「いまお前は『やめろ』といっているけど、当時の日本人はやめたら、どついたんだ」。 オモニのお父さんは抗日独立運動の活動家だった。日本の警察に殺されている。そういう意味で、日本人がオモニにお会いするのはちょっと厳しい関係だったけど、でも、オモニは、労働者が好きだった。だから本当によくしてくれた。

草パン精神

ある日、「オモニ、全泰壱精神ってなんですか?」と聞いたことがある。そうしたらオモニは、「お前が思っていることを言ってみろ」と。 全泰壱さんの享年は22歳。何か完成された哲学をもって、それが発露されて、ということではないだろう。とすると、全泰壱精神というのは、実はオモニの思想じゃないのか。全泰壱さんが「僕の死を無駄にするな」と言い残し、その約束を一生かけて果そうとした人がオモニ。そういう意味では、「全泰壱精神とはオモニの考えでは?」と言ったら、「違う」と。「テイルが何を考えていたのか、自分なりにテイルの考えを実現しようとしただけだ」。 その後、オモニとお付き合いをするためにも全泰壱さんを勉強して、一言でいえば、「『自分がどんなにしんどくても、自分よりつらい人を見たら、そのとき自分ができるすべてのことをする』―これが全泰壱精神かなと思っています」。 『全泰壱評伝』の中に草パンの話が出てくる。職場の清渓までのバス代を節約して、昼食を抜いて働く10代のシタ(職階の最下層に位置する見習工で多くが10代の女性。「下働き」を意味する日本語から転じた)たちにパンを買ってやり、自分は、2〜3時間、歩いて通勤していた。要するに、自分もつらいけど、自分よりつらい人がいたら、今できることを全部やる。「草パン精神」と言ったりするが。 そういう話をオモニにしたら、「あ、それ、正しい」って言われた。 オモニに言わせると、何でも正しい。「これが全泰壱精神でしょ」っていったら、「それが正しい」。要するに、全泰壱というのは一人ひとりの心の中にあるんだ。 だから韓国には、100万人、200万人の全泰壱がいる。その労働者がひとつになったとき、全泰壱精神が世の中を変え、全泰壱が望んだような世の中ができる。一人一人の心の中に全泰壱がいればいい。凄くいい言葉だった。
「これが全泰壱精神」で、それに対して「ここが違う」とか、「ここが弱い」とか、そういうことを言いたがる人がいるが、そうではないんだよということだ。(つづく)

(注1)アジアスワニーは、香川県に本社を置く手袋メーカー。韓国・全羅北道裡里(現在の益山)市に工場を作り、女性労働者を多く働かせていたが、労働組合が結成されたため、1989年、FAX1枚で230名全員を解雇、より低賃金の中国に工場移転を図る。当時20歳過ぎの5人の女性労働者が90日間日本遠征闘争を挙行。解雇は撤回できなかったものの、謝罪と補償をさせ、事実上の勝利を勝ち取った。
(注2)趙英来著/改訂版 03年柘植書房新社刊。
(注3)軍事独裁政権下で、民主化運動・労働運動に取り組み犠牲になった人びとの遺家族が、故人の意志を称え、名誉を回復する目的で結成された人権運動の団体。

【解説】李小仙オモニ(1929〜2011)は、全泰壱氏の母堂。1970年11月13日、全泰壱氏が過酷な労働環境の改善を求め焼身抗議した。李小仙オモニは息子の遺志を引き継ぎ、清渓被服労組の結成をはじめ、労働者の闘いの中にあって叱咤し続けてきた。「韓国労働者のオモニ」と呼ばれ、人びとの精神的支柱であった。

投稿 第14回ピースフェスタ明石 「原爆の図」3部を展示 兵庫県 江戸信夫

今年で14回目となる夏の平和イベント・ピースフェスタ明石が明石市内で8月8日から12日まで開かれ、ギャラリー展示に延べ900人、講演会に250人が参加した。明石市・市教委と4新聞社が後援。丸木美術館、日本弁護士連合会、広島、長崎の平和資料館の協力を得た。
ギャラリーの中心は、丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」。全15部のうち3部を丸木美術館から借りて展示。本当に圧倒される迫力であった(写真上)
展示会場では、「あすわか」(明日の自由を守る若手弁護士の会)兵庫のメンバーによる活動紹介コーナー。その隣には高校生のイラスト入りパネルなど。
11日は「市民による戦争体験談の集い」。最終日はジャーナリストの前泊博盛さんが「沖縄から見える私たちの未来」と題して記念講演。具体的な根拠を示して世間で言われているウソを暴いていく前泊さんの話は、「とても分かりやすかった」と参加者に好評だった。

9・6ロックアクション
東アジアの平和の流れに

9月6日、台風の爪痕も生々しい大阪で、戦争あかん! ロックアクションの集会とデモがおこなわれた(写真)
主催者あいさつの服部良一さんは、「災害が続く日本で軍事費が過去最高になろうとしている。平和の動きがあるのに軍事費を上げる必要はない」。来年通常国会前に改憲発議をする可能性に触れ、「油断をせずに憲法改悪を阻止し、東アジアの平和の流れと連帯をしていこう」と結んだ。
釜ケ崎日雇労働組合の三浦俊一さんは沖縄辺野古新基地建設とのたたかいについて話した。大阪維新・吉村文洋市長の「学力テストの結果を教員給与に反映」という暴言を大阪市の教員が批判。
集会後、参加者で御堂筋をデモ行進した。(池内慶子)

6面

(シネマ案内)
「恵庭闘争」が与えた衝撃
映画「憲法を武器として 恵庭事件 知られざる50年目の真実」
(稲塚秀孝監督 2017年)投稿

1962年12月、北海道恵庭町(現・恵庭市)の自衛隊島松演習場近くで酪農を営む野崎健美・美晴兄弟が、自衛隊の通信線を切断した「恵庭事件」。演習による騒音被害に苦しみ、やむにやまれぬ実力行使だった。兄弟は、刑法ではなく、より重い自衛隊法で起訴された。裁判は、自衛隊の違憲性を争う一大裁判に発展した。しかし67年3月の判決は憲法判断を回避して無罪を言い渡した。
その後の「恵庭事件」の扱われ方は、例えば、憲法判断を回避した「肩すかし判決」として「憲法判例」に紹介されるか、あるいは逆に「自衛隊・違憲合法論」の論拠に使われる、といったものだった。
映画は、このような扱われ方の延長で「恵庭事件」を解説するものではない。むしろ、こういう扱われ方にたいして、声高ではないが静かに批判をしている。苫小牧出身の稲塚監督は、高校生時代、67年3月の判決に報道で接し、「なぜ自衛隊の憲法判断は下されなかったのか」という疑問を抱き、夏休みに野崎兄弟を訪ねていた。
「恵庭事件」とは、野崎兄弟と家族が、日本政治と日米安保・自衛隊の是非を、生活をかけて正面から問い、政府・司法権力を揺るがした「恵庭闘争」であった。その問いとたたかいが、その後の自衛隊の公然たる「軍隊化」を長く阻みつづけたのではないだろうか。そのことが、この映画によって、「50年目の真実」として蘇った。蘇った「恵庭闘争」の真実は、今、安保と改憲を根底から問い、沖縄のたたかいに引き継がれていく。

異例の展開

自衛隊法が、民間人に適用された初の事件であり、4年間に300回の公判過程で自衛隊(法)の合憲・違憲が争われた。 そもそも、捜査段階での罪状は、刑法の「器物損壊罪」だったのに、起訴時は、より重罪の自衛隊法121条の「防衛の用に供する物の損壊」罪。それは、政府・防衛庁(当時)が正面から自衛隊合憲を裁判に求めたものだったといえる。
被告・弁護側は、裁判で憲法学者2名を特別弁護士として認めさせ、公判でのテープレコーダー使用も実現。全国各地から無報酬で300名の弁護団が作られ、自衛隊違憲論をもって全力で国側と対決した。初めての自衛隊憲法判断かと注目された。
しかし67年3月札幌地方裁判所は、検事側論告求刑を拒否決定(歴代初めて!)、判決過程も変転(後述)したうえで、「切断された通信線は、自衛隊法にいうその他の防衛の用に供する物にあたらない」「憲法判断をするまでもなく」被告2人は無罪。世にいう「憲法判断肩すかし」の判決を下した。検事側が控訴を放棄して無罪が確定した。
裁判においても、野崎一家の生きるためのたたかいの絶対的正義性を問う必要があったのではないか。映画の公判過程を見てそういう思いを強くした。

事件の前史

ところで、この恵庭事件には前史があった。映画はそこをしっかりととらえていた。
1941年から野崎一家はこの地で酪農を営んできた。島松演習場は、旧陸軍の演習場であったが、その後、米軍に接収されて55年以来ジェット機の射撃訓練がおこなわれてきた。牧場から1キロ地点に標的を置き、サイロを目標に急降下、30メートルの高さで攻撃。そういう演習を毎日1000〜1500機が行う。それが2年間続いた。大砲実弾演習も行われた。
酪農家の被害は甚大であった。牛の錯乱死、早流産、受胎率の低下、乳量の減少など。野崎家では減収が70%(約1000万円)を越した。また農民は難聴などの健康被害に苦しんだ。
町役場や自衛隊などに抗議するも、相手にされなかった。
そこでやむにやまれず、野崎一家は、大砲や戦車の前に座り込んだ。街頭署名運動もおこなった。これが世論を動かし、57年、在日司令官との直接交渉を実現、最終的には米軍撤退を実現した。 このたたかいの中で、両親は病苦に倒れ、その後、裁判過程で母親が亡くなった。
しかし米軍が撤退したと思ったら、今度は自衛隊だった。
「メチャクチャな話だと標的を取り壊した。米軍さえ止めたところを自衛隊機が飛ぶなんて…。被害があることが見え見えでも飛ぶ。その横柄さに驚いた」(野崎健美)。
野崎兄弟の抗議に自衛隊の古賀群指令は、「三沢の米軍空軍の指揮下にある。飛べといわれれば住民被害があっても飛ぶ」と開き直った。

ついに非常手段

牧場地区の人びとの抗議で、演習の制限や事前連絡、音量測定が約束されたが、ことごとく無視されて演習は強行・激化した。
1962年12月11日、155ミリ・カノン砲2門の砲撃が連絡なしに始められた。抗議したが無視された。美晴と妹・和子が大砲の前に座り込む。しかし40人以上の自衛隊員によって排除。
そこで、自衛隊員の目の前で、美晴は、演習場の砲座と着弾地の間に架設されている通信線をペンチで切った。2か所切った。それは約束を反故にしたことへの強い抗議だった。
これを見た現場司令官は、「今日は撃たないから」と。しかし、翌日には演習が再開。
兄弟は、今度は、朝日新聞記者をつれて演習場に入り、再び通信線を切断した。
映画は、この過程の思いを克明に描いている。やむにやまれぬ民衆のたたかいが感動的である。

裁判所の動揺

裁判では、「三矢作戦計画」が正面にのぼった。これは、63年に自衛隊内で極秘に行われた〈朝鮮有事に対応した日米共同作戦〉の大規模な図上演習。65年に国会で暴露された。
その図上演習の責任者で統幕事務局長だった田中義男が、裁判の証人として呼ばれた。研究内容と作戦体制を露骨に語り、「自衛隊は軍隊」、憲法改正が必要かの問いには「そうです」と。それは衝撃の事実だった。まさに「恵庭事件」の背景が明らかにされた。 この証言が、裁判長をして「新憲法下の裁判官として、違憲法令審査権を発令して被告の救済に当たるのはやぶさかでない」との発言を引出した。「自衛隊法で裁判をつづけることが、憲法上許されるのか」(野崎兄弟)。まさに裁判を揺るがす事態になっていた。 40名以上の証人のうち、田中証人の一人をもって証拠調べを終了した。自衛隊法の違憲が明らかになることへの裁判所の動揺であった。さらに検事の論告求刑が、裁判所によって拒否されるという異例の事態になった。
そして判決日が決まり、「判決文は一時間をこえるという予定」ということが裁判所からも伝えられ、自衛隊の違憲性に触れる判決文が予想された。
ところが…。「主文、無罪」「理由、犯罪構成要件に該当しない。憲法問題については判断する必要がない」。
なぜこうなったのか。その真実が50年目にして明かされた。稲塚監督は、判決文を書いた辻・元裁判長の次女を取材している。
「最高裁から憲法判断を回避せよとのお達しがあった」。―元裁判長が亡くなる10年前に、次女にこのように話していたという。つまり、自衛隊違憲の判決文を書いていたが、最高裁の介入によって、「憲法判断はしない」判決文に書き換えられたのだった。
ナレーターを務める俳優の仲代達矢さん「ドラマ部分のセリフのために全ての公判記録を調べ尽くし、膨大なインタビューの末、核心に迫る重大証言を得ている。『恵庭事件』という戦後の一場面の意味を今に問う力のある映画に仕上がった」 憲法学者の水島朝穂さんは言う。 「無罪判決なのに検察官は大喜びで、控訴もしない。半世紀の時を越えて日本国憲法の歴史的意義を問い直す映画が生まれた」

私の安保闘争

私はこの「恵庭事件」には特別の思いがある。67年、中国地方の田舎から、高卒で就職した会社の新入社員・特別恒例研修が、自衛隊姫路駐屯地の兵舎でおこなわれた。東京支社勤務となる大卒者の仲間から、「自衛隊が、こんな事件で裁判になっている」と知らされた。それが「恵庭事件」だった。判決の直前だった。
遠く北海道の農民が、単独で自衛隊を問い、たたかいに立ち上がっている。それは衝撃だった。今思えば、それが、私の70年安保闘争の始まりだった。「恵庭闘争」は、当時の青年世代に、少なからぬ衝撃を与えた。その後、それがどこまで深められたのか、反省の多いところではないかと、今ふり返る。
なお、映画は、「恵庭闘争」を蘇らせているのに、題名で「憲法を武器に」としたのは、疑問として残った。(黒山一鉄)

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