未来・第238号


            未来第238号目次(2018年1月18日発行)

 1面  在沖米軍機
     相次ぐ事故に怒り爆発
     2月名護市長選 稲嶺市長三選へ

     主張
     “自衛隊明記”は戦争に直結
     9条改憲の正体 徹底暴露を

 2面  寄稿 高作正博(関西大学法学部)
     総選挙「後」の改憲論と阻止論

     改憲に向けた昨年の動き

 3面  国策とたたかう三里塚農民に聞く
     「私たちは絶対に負けない」
     三里塚芝山連合空港反対同盟 市東孝雄さん 萩原富夫さん

 4面  「障がい者・辺野古のつどい」に参加して(上)
     追い詰められているのは国だ
     滝 浩一

     東アジア共同体と友愛外交
     鳩山元首相の講演を聞く

 5面  ルポ
     陸自配備に反対する宮古島の住民運動
     座喜味盛純

 6面  寄稿 森松 明希子
     「平和に生き 暮らす権利がある」
     高線量地域へ帰還を強要する、この国の非道

     寄稿 「原爆も原発も 世界からなくせ」
     原発推進の安倍政権に痛打 伊方広島訴訟

 7面  寄稿 「明治百五十年」の真実を問う B 大庭 伸介
     沖縄の闘いに学び民衆支配の策略に打ち勝とう

 8面  尹奉吉義士殉国85周年日韓学術会議に参加して 須磨明
     「レジスタンスは義務」そして「侵略戦争を内戦に」

       

在沖米軍機
相次ぐ事故に怒り爆発
2月名護市長選 稲嶺市長三選へ

欠陥機オスプレイ墜落から1年!抗議集会(主催 辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議)に3000人が参加した(12月15日 名護市内)

沖縄の米軍機事故が止まらない。8日には読谷村に米軍普天間基地所属のAH1攻撃ヘリコプターが不時着した。昨年からの保育園や小学校への落下物事故、米軍大型輸送ヘリの炎上事故などが立て続けに発生していることに、沖縄の人びとは不安と怒りに震えている。名護市辺野古では1月5日から座り込み行動が始まった。今年こそ、新基地建設を中止に追い込もう。2月4日投開票の名護市長選で稲嶺進市長の三選を実現しよう。

昨年12月2日、キャンプ・シュワブゲート前で、3回目の「第1土曜大行動」がおこなわれた。雨のなか、1000人が参加。稲嶺進名護市長はじめ、国会議員、県議会議員、山城博治沖縄平和運動センター議長などがあいさつした。参加者はキャンプ・シュワブに向け「新基地建設反対」と声を上げた。
12月3日〜9日の「国際障害者週間」に合わせて7日、障がい者が中心となって米軍基地に反対を訴える「障がい者・辺野古のつどい」が、キャンプ・シュワブゲート前でおこなわれた。県内外から150人が参加。実行委員を務める成田正雄さんは「抗議運動への参加が困難な障がい者が集まって声を上げる。平和への願い、基地反対への思いは私たちも一緒、それ以上だ」と訴えた。

小学校に落下物

13日、午前10時すぎ、宜野湾市の普天間第二小学校運動場に米海兵隊普天間飛行場所属のCH53E大型ヘリコプターから、約90センチ四方で重さ7・7キロの窓が落下した。運動場では約60人の児童が体育の授業中であった。児童の1人は小石が腕に当たったが、幸いけがはなかった。今回、一歩まちがえば児童の死傷事故になっていたかもしれない。県民の怒りは爆発した。12月7日には、宜野湾市野嵩の保育園の屋根に同型機の部品とみられるプラスチック製の筒が落下した。
翁長雄志知事は「こうした事後が日常的に起こり得るということは、日本政府の当事者能力がたいへん弱いからだ。米軍も全く私たちの言うことに耳を貸していない」ときびしく批判した。この日の午後6時、宜野湾市役所前で緊急抗議集会が開かれ300人が参加。基地撤去に向け怒りの拳を突き上げた。

オスプレイ撤去を

12月15日には名護市の21世紀の森公園運動場で「欠陥機オスプレイ墜落から1年! 抗議集会」(主催 辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議)が開かれ県内外から3000人が参加。
県民の生命を脅かす米軍機の事故が絶えない現状に多くの市民が怒りの声を上げた。稲嶺名護市長は「オスプレイは安部に墜落してから8カ月の間に7回も事故を起こしている欠陥機だ。これからも起きるかもしれない」「普天間は閉鎖して県外、国外移設してもらう。辺野古には造らせない」と決意を述べた。集会は「欠陥機オスプレイの早急な撤去。辺野古新基地建設の断念、普天間基地の閉鎖・撤去。日米地位協定の抜本的改定」などを決議した。
同日午後、防衛局は本部港から石材を海上輸送する作業をおこなった。資材の海上輸送は、11月に奥港でおこなわれて以来2回目。防衛局は大型トラック120台以上の石材を台船に積み込んだ。台船は本島の南回りコースで辺野古をめざす。

海上輸送に抗議

16日、午前9時頃、本部港で石材を積んだ台船が辺野古沖に姿を見せた。海上行動隊は、抗議船4隻に乗り込み大浦湾に出撃し、「作業台船は帰れ」「海を壊すな」と怒りの声を上げた。台船は干潮のため「K9護岸」に直接接岸できず、小型の台船に石材を移動し、小型の台船が「K9護岸」に接岸し、陸上に石材を搬入した。煩雑な搬入の仕方に、市民からは「国は新基地建設の既成事実を造ることに必死だ」と怒りの声を上げた。ゲート前でも100人の市民が座り込んだ。(杉山)

主張
“自衛隊明記”は戦争に直結
9条改憲の正体 徹底暴露を

新年早々「安倍9条改憲NO!」を掲げておこなわれた大阪、御堂筋サウンドデモ(6日 大阪市内)

安倍首相は4日、伊勢神宮参拝後の年頭記者会見で、「今年こそ新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示する」と述べ、自民党総裁として改憲原案を早期に国会に提示するという強い意思を表明した。
会見冒頭で安倍が「北朝鮮の脅威に備える自衛隊の諸君の強い使命感、責任感に敬意を表したい。従来の延長線上ではなく、国民を守るために真に必要な防衛力の強化に取り組む」と語っているように、改憲の中心テーマは「9条への自衛隊明記」である。
すでに自民党憲法改正推進本部は、昨年12月20日発表した「憲法改正に関する論点取りまとめ」のなかで4つの改憲テーマのトップに「自衛隊」をあげた。2018年の最大の課題は、安倍9条改憲攻撃を完全に葬り去ることである。
安倍は新憲法を東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年に施行すると公言している。ここから逆算すると、国民投票が来年4月の統一地方選前におこなわれる可能性がある。その場合、改憲の発議は今年の通常国会の6月頃か秋の臨時国会になる。
これはいかにもタイトなスケジュールだが、むしろ安倍はそのことを自覚しているがゆえに、年頭から改憲への強い決意をにじませていると見てよい。安倍は教育基本法改悪、特定秘密保護法、戦争法(安全保障関連法)、共謀罪法という重要法案を拙速審議と強行採決という手法でごり押ししてきた。憲法軽視の安倍だからこそ同じような手法で強行突破をはかる可能性がある。そうなったときに安倍の暴走を止める力は今の国会にはない。それができるのは民衆のたたかいだけである。
「9条への自衛隊明記」の目的は、憲法違反である集団的自衛権の行使、すなわちアメリカの戦争へ日本が参戦することを合憲とするものである。政府はマスコミを使って、朝鮮民主主義人民共和国のミサイルが明日にも日本本土やアメリカ本土を攻撃するかのようなデマキャンペーンを繰り広げている。しかし、金正恩政権が他国にたいしてミサイル攻撃をおこなう可能性は100%ない。そのようなことをすれば壊滅的な報復攻撃によって政権が崩壊するからだ。それは日米両政府も十分承知している。
イラク戦争がそうであったように存在しない「脅威」を煽り立てて戦争をおこなうのはアメリカの常套手段だ。いま、世界で最も危険な国家はトランプ率いるアメリカである。このアメリカがおこなう戦争に日本社会をまるごと引きずり込もうとしているのが安倍政権だ。安倍による9条改悪を許してしまえば、戦争への歯止めが取り払われてしまう。
さまざまな集会や学習会を職場、地域、学園で網の目のように実施し、安倍改憲の目的を暴露しよう。集会、学習会の参加者から安倍9条改憲阻止3000万署名の担い手を生み出し、改憲阻止・安倍打倒の爆発的なうねりをつくりだそう。この1年のたたかいで9条改憲策動の息の根を止めよう。

2面

寄稿 高作正博(関西大学法学部)
総選挙「後」の改憲論と阻止論

序 ― 選挙の争点

今回の衆議院総選挙では、安倍政権にたいする評価が問われるはずであった。特に、改憲論については、「戦後レジームからの脱却」路線を表明して以降、「変えたい」だけの改憲論が目立つ有様であった(2012年自民党改憲草案における全面改憲、憲法第96条に限定した部分改憲、緊急事態条項の導入など)。改憲への支持を得られないと見るや、従来の解釈を変更しないという前提のもとで(実際には全く異なる解釈となる)9条3項加憲論を主張する。とにかく変えたいという身勝手な改憲論に、国民全員を巻き込む無責任な政治のあり方には、もっと怒りを表してもよいと思う。以下、改憲論の是非を考察する。

1 9条加憲論の背景

5月3日に安倍首相が突然言及した9条加憲論については、その発案者が誰か、また、公明党はどうするのかが焦点となった。まず、発案者は、日本会議常任理事で政策委員を務める伊藤哲夫氏とされている。伊藤氏の論稿である「『三分の二』獲得後の改憲戦略」(『明日への選択』2016年9月号〈日本政策研究センター〉)が直接のアイディアの提供元である。その趣旨は、「中国の脅威」の強調等により〈「反戦・平和」の抵抗運動〉を押さえ込むこと、「加憲」の狙いは「護憲派の分断」にあること、まずは加憲をし、その後に戦後民主主義の否定と復古的な臣民意識の確立をめざすことが主張されている。安倍首相も同様に、従来の第9条の解釈を変更せず、また第1項・第2項には手を付けないと述べてはいるが、その狙いは、2段階での9条全面廃棄にあることは明白である。
また、自民党と連立を組む公明党はどのようなスタンスをとるのであろうか。この点、公明党内部にも、第9条第1項・第2項には手をつけず、第3項に専守防衛や国際貢献など自衛隊の役割を書き込むという案は存在していたと指摘されている(中野潤「都議選での自公対立は、連立政権の終わりの始まりか(下)」『世界』897号(2017年7月)145頁)。次のようなやり取りがあったという。
もともと加憲論を主張してきた公明党の立場からすれば、今回の新3項を加えるという案は場合によっては受け入れ可能な提案かもしれない。ただ、それは、従来の解釈が変更されないという前提があってのものといい得る。それでは、新3項加憲案には問題はないのであろうか。

2 9条「新3項」の問題性

まず、第1の問題が、改憲は必要かを問う必要性の議論である。従来、政府見解は一貫して自衛隊を合憲とする立場を採用してきた。その観点からすれば、政府見解の一貫性・整合性を前提とする限り、改憲は不要と解される。また、政府による自衛権概念の広汎さ(自衛のための必要最小限度の範囲内であれば、核兵器の保有も使用も合憲!)からして、従来の解釈を維持したまま改憲へと進む根拠に乏しい。
第2の問題が、改憲の影響が本当にないのかを問う危険性の議論である。まず、重要な点は、今、憲法に書き込む自衛隊は、以前の自衛隊とは異なるという点である。安保法制により、集団的自衛権を行使できるようになった自衛隊を明文化することになるということを認識しなければならない。そうすると、従来、第1項・第2項の下で、自衛隊の活動範囲や兵器について、様々な制約が課されてきたこととの整合性が問題となる。
例えば、@武力行使の目的で武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣する「海外派兵」は違憲である(1954年6月2日、衆議院決議。1960年4月28日、岸信介首相)、A「日本は専守防衛の国である」(1960年2月20日、中曽根防衛庁長官)、B「性質上専ら他国の国土の潰滅的破壊のためにのみ用いられる兵器(例えばICBM、長距離戦略爆撃機等)」は、保持が許されない(1978年2月14日、衆議院予算委員会提出資料)などの政府見解が示されてきた。
また、自衛隊を軍隊ではないとしてきた点も、自衛隊にたいする制約として重要である。自衛隊は、「憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ないという制約を課せられている」ため、「いわゆる通常で言う軍隊とは異なる…。しかしながら、国際法上におきましては、自衛隊もジュネーブ四条約に言う軍隊に該当する」(1996年4月4日、衆議院・安全保障委員会における臼井日出男防衛庁長官答弁)。

全国から4万人が参加した、昨年11月3日の国会包囲大行動

3 第9条第1項・第2項の無効化

以上から、第1項・第2項と新3項とが矛盾することとなるが、その際、どちらが優先適用されるのか。この点については、法秩序の整合性を図るための3つの法原則がヒントを与える。
第1は、「上位法は下位法を破る」という原則である(日本国憲法第98条に明記されている)。ただ、第1項・第2項と新3項はいずれも憲法規範であり、上位法・下位法の関係ではないため、この原則は適用されない。
第2に、「特別法は一般法に優先する」という原則である。民法・商法のように一般法・特別法の関係にある法規範の間で矛盾・衝突がある場合には、特別法が優先されるという考え方である。ただ、これも、第1項・第2項と新3項の間で同様の関係が成立するとは考えがたく、第1の原則同様、適用されない。
第3に、「後法が前法を廃止する」という原則である。後から成立した法が先にある法を無効化するという考え方は、より新しい立法者意思を尊重すべしとする考え方に基づくものである。正に、この原則が新3項加憲論にも当てはまることとなり、新3項が第1項・第2項の制約を上書きし無効化することとなるのである。そのように考えるならば、自衛隊明記の加憲論は、従来の政府見解の変更をもたらす重大な提案となる。このような重大な変更を伴う提案を、あたかも変更がなされないものとして提案する点で、世論誘導的な許されない議論といいうるであろう。

結 ― 今後の運動のあり方

改憲論が本格化するにつれて登場するのは、その議論に乗った上で、よりよい改憲案を提出するべく議論に参画した方がよいのではないか、という意見である。確かに、議論に乗らなければ相手の思惑通りに進んでしまい、結果的には改憲論を利することにもなりかねない。しかし、民主主義が適正に運用されているとはいえない今の日本政治をみるにつけ、むしろ議論に巻き込まれてしまうことを危惧すべきではないか。ジーン・シャープも、「交渉から得られる合意は、両サイドの力関係に大きく影響を受ける」のであり、「交渉ではなく抵抗こそが変化をもたらすのに不可欠だ」と指摘する(瀧口範子訳『独裁体制から民主主義へ』〈ちくま学芸文庫、2012〉34、36頁)。「対案型」の政治手法には、それだけ大きな危険性が潜んでいるとみるべきであろう。私たちに必要なのは、国民投票を実施させないようにすることであり、改憲論を進めさせないように抵抗することではないだろうか。

改憲に向けた昨年の動き

昨年の安倍政権による改憲に向けた動きをまとめた。(本紙編集委員会)

2017年1月5日
安倍首相は党の仕事始めで「新しい時代にふさわしい憲法はどんな憲法 か。(中略)姿かたちを表していく年にしていきたい」と述べた。
1月20日 安倍首相は第193回国会の施政方針演説で、「(改憲)案を国民に提示するため、憲法審査会で具体的な議論を深めよう」と呼び掛けた。
3月15日 日本会議国会議員懇談会が2017年運動方針で、「憲法改正の優先課題」として、緊急事態条項と憲法への自衛隊の明記を掲げた。
5月3日 読売新聞が、2020年に改憲をめざす安倍首相のインタビューを掲載。
9条の1、2項は残したまま、自衛隊を憲法に明記する内容。
5月3日 安倍首相は日本会議系集会に前記と同様のビデオメッセージを寄す。公明・北川、維新・松井、経団連・榊原が安倍改憲に理解を示した。
5月3日 憲法集会が臨海公園で開かれ、5・5万人が参加、山城博治さんが共謀罪反対を訴えた。
5月12日 安倍首相は自民党憲法改正推進本部に改憲原案づくりを指示。
5月23日 河野克俊統合幕僚長は記者会見で、「自衛隊の根拠規定が憲法に明記されることになれば非常にありがたい」と発言。
5月24日 自民党憲法改正推進本部は安倍首相の指示に基づく改憲原案づくりに向け実質的な議論を開始。
6月15日 共謀罪が成立、委員会採決を省く「だまし討ち」。
6月23日 安倍首相は日本放送で、「自衛隊が違憲かどうかという議論に終止符を打つのは、われわれの世代の責任だ」と発言。
7月2日 都議選で自民党が57議席から23議席に転落。
9月8日 「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション」のキックオフ集会。18年5月3日までに3000万署名を集める目標。
10月22日 総選挙で、自公で改憲発議に必要な3分の2を確保、立憲民主党が野党第1党。公明・維新・希望など改憲派は退潮。
11月8日 自民党憲法改正推進本部は安倍直近の細田派で幹部を固め、年内にも自民党改憲素案をまとめることを決めた。
12月1日 政府は皇室会議を開き、現天皇の退位を19年4月30日と決めた。
12月13日 広島高裁が伊方原発3号機の運転停止命令。
12月13日 普天間第2小学校の校庭に普天間基地所属の米軍ヘリの窓が落下。
12月20日 自民党憲法改正推進本部は、「論点とりまとめ」を決めた。改憲4項目とも両論併記などで、「まとめ」にはなっておらず、年内に自民党としての改正案をまとめる計画が挫折したということ。

3面

国策とたたかう三里塚農民に聞く
「私たちは絶対に負けない」
三里塚芝山連合空港反対同盟 市東孝雄さん 萩原富夫さん

三里塚闘争は今年、市東さんの農地取り上げ攻撃をめぐって正念場を迎える。3月8日には強制執行の停止を求める5回目の請求異議裁判が千葉地裁で開かれる。早期結審をねらう裁判所とのあいだでギリギリの攻防が続いている。また、成田空港の第3滑走路建設をめぐって、周辺住民の反対運動が始まっている。三里塚芝山連合空港反対同盟の市東孝雄さんと萩原富夫さんに、これからのたたかいの展望について語ってもらった。(文責 本紙編集委員会)

「裁判はこちらが押している」(萩原)

萩原富夫さん

―一昨年10月25日の最高裁決定で市東さんの農地7300平方メートルの明け渡しを命じた東京高裁判決が確定したことにたいして、反対同盟は昨年1月、市東さんの農地の強制収用を阻止するために決戦本部を発足させました。同時に強制執行の停止を求めて千葉地裁で請求異議裁判をたたかっています。昨年2月14日の審尋では、一審判決までの執行を停止する決定を勝ち取りました

萩原 昨年11月6日、4回目の請求異議裁判では、反対同盟の弁護団が、立証計画とか証人申請の予定を提出しようとすると、いきなり高瀬裁判長が「萩原さんと市東さんのふたりだけ、1月に尋問したい」と突然言い出しました。「おい、何だこれ」って感じで、弁護団と傍聴席で激しくやりました。
市東 結局、次の弁論を3月まで押し込んでね。
萩原 よく押し込みましたよね。1月の弁論も飛ばして、3月8日にしちゃった。すごいですよね。
市東 空港会社は私から取り上げようとしている畑に何かをつくるわけじゃないんですよ。2月の審尋の時、裁判長が空港会社の代理人に「執行停止によって何か不都合があるんですか」と聞いたんですよ。そしたら向こうは何も言えないんですよ。それで裁判長から重ねて尋ねられて、初めて「予定はあります」とかね。
萩原 いまのところ裁判はこっちの方が押しているから、なかなか向こうのやりたいようにはやらせていません。こういう状況を作りだしているのは大変な勝利だと思います。そもそも請求異議裁判が1年もつなんて思っていませんでしたからね。ただ裁判長のようすを見て、これはまともに裁判をやるのかなと思いました。3月2日の第1回弁論が終わった後、署名運動をもう1回やることも決めました。また毎回の裁判では集会とデモをあわせてやってきました。

「地域全体から空港への怒りをまきおこす」(萩原)

萩原 それと裁判に勝つためにも、現地の空港機能強化にたいする反対運動を盛り上げていかなければいけないということで、そのために決戦本部中心に、第3滑走路の予定敷地に入っている人たちや、騒音下になる人たちにたいする働きかけを日常的にやるようにしてきました。そういうなかで、予定地の芝山町で昨年、「生活を守る会」とか、横芝光町という騒音下にある地域でも団体が立ち上がりました。それらは反対同盟の宣伝活動の成果でもあると思います。地域全体で成田空港にたいする怒りの声を起こしていくことが、市東さんにたいする不当な農地取り上げを許さないという力になると思います。
市東 反対同盟が一斉行動を始めて5年間くらいになるんですよ。その成果が出てきてるような感じですね。横芝光町の場合は第3滑走路ができても騒音しかないんですよ。それで佐藤町長は「住民が納得しなければ空港機能強化案の見直し案は受け入れられない」と言ってます。
萩原 横芝光町での「見直し案」の説明会では、批判の声が圧倒的なので、町長もそういう住民の立場に立たざるを得なくなっています。今後、4者協議会に向けて「見直し案も見直せ」と要求していくということが新聞記事に出ました。そういう動きになってます。

―国交省、成田空港会社、千葉県は、地元9市町を加えた4者協議会で、@A滑走路の1時間延長と便数制限の撤廃、AB滑走路の1000メートル北延伸、B第3滑走路建設など空港機能強化案の見直し案の承認を強行しようとしています。横芝光町などで反対の声が強いということですが、中心は農民ですか

市東 農民だけじゃないですね。
萩原 あそこは、横芝駅(総武本線)をふくむ町の中心が騒音地域に入る予定です。市街地の住民がみんな反対してるわけですよ。ですから反対同盟の宣伝カーが行ったら住民が手を振ってくれたり、「頑張ってくれ」と言われたとかね。
芝山町や多古町なんかでは、「こんなことなら反対しておけばよかった」という声もでてきています。
市東 芝山町では伊藤信晴さんの名前を出して「あれは中核だ」とかいう中傷ビラが新聞の折り込みでまかれましたね。「反対同盟が来るとメチャクチャになるぞ」「過激派が来るぞ」みたいな感情を住民に植えつけようとしてるんですね。

「地域住民を追い出して、町の発展はない」(市東)

市東孝雄さん

萩原 彼らの言い分は、「反対のために反対しているやつらなんだ」というだけですから。同盟の主張の批判にも何にもなっていないんですよ。こっちは住民のために、住民の健康を守るためにやってるんですから。騒音がよくないってことを訴えているわけですから。そうすると向こうは結局自分たちの利益しか考えてないってことが見えてきました。お金のことしか考えてないってことが。彼らが反対同盟の中傷をやればやる程、逆に空港拡張の悪宣伝をすることになってしまうと思いますね。
市東 第3滑走路なんて、地域住民を追いだしてつくるわけでしょう。芝山町長の相川は「新しい人を迎え入れる」なんて言ってますが、来るわけがないですよ。
萩原 相川は千代田にマンションを建てて、そこに新住民が来ると言うんですけどね。誰がそんな騒音がひどいところにわざわざ来るんだよって。
ようするに芝山町を廃村化するということは住民もわかっています。これを認めたら芝山はダメになるという雰囲気がつくられていますね。

「ここに住んで農業を続けることがたたかい」(市東)

―市東さんの農地取り上げをめぐって重大な局面を迎えています。今年はどのようなたたかいを考えていますか

市東 今までのたたかいを継続し、なおかつ広げていくことが私の農地を守ることになると思います。それが私の励みになるし、皆さんも「よし、やってやろうか」っていうような感じになればいいと思うんですよね。
萩原 毎年いろんなところにいって訴えてきたけども、それがベースになって昨年はさらにひとまわり大きくなったと思います。10月の現地集会には若狭の原発を考える会の木原さんや橋田さんが来てくれました。また関西地区生コン支部の西山さんが沖縄意見広告運動のキャラバン隊を引き連れて現地調査にきてくれました。現場を見てもらったら、「やっぱり、三里塚はすごいな」って思って帰られる。そういう関係が少しずつ実を結んできました。その上でこっちも出ていって新たなお付き合いをしていくというのを繰り返していくなかで、「三里塚の今がどうなっているのか」がたたかう人びとのなかに伝わってきたという実感があります。
市東 北原さんが言ったように「三里塚の反対同盟は健在だ」と今年も言い続けていく。
萩原 市東さんがここに住み、農業を続けている以上、向こうの攻撃は何の意味もないんですよ。そこが向こうの弱さです。弁護団の「計画も何もないんだ。すぐ農地を取り上げる必要はないんだ」という主張は、効いていると思います。こっちは生活がかかってるんだから。

―市東さんがここにいる限り、闘争の主導権は同盟が握っているわけですね

萩原 そう。絶対に負けないです。何があろうと絶対にうごかない。そうやって向こうを追い詰めていく。
市東 私がここにいることがたたかいなんですね。そんな力もないですけど、それが私の生き方ですし、それが当たり前だと思っているから。
萩原 だから何の不安もないというか。このまま、よし行くぞって感じですよね。まわりの人は心配して「いざ取られたらどうするのか」とか、「どういう風にたたかうのか」とか戦術的にものごとを考えがちなんですけれども。だけど私は最高裁の決定が出たときも、「慌てることない」とまわりに言ってました。私らは何があっても百姓ですから。市東さんの農地を取られることは本当に許せないことではあるけれども、全部取られるわけではない。家はそのまま残るわけだし、まずはここで生活していくことを基本にして、そのためにどうするかという考え方を持てば乗り越えていける。市東さんもそういう覚悟でおられると思うので。私らもそれを支えていくという観点から運動を考える。だから慌てることはない。できることをしっかりやっていけば、そのあとは何とかなる。なにより市東さんの気持ちは固いですから。
市東 来たときは来たときですよ。今からそうなったらどうしようなんて心配してもね。やるときはやりますから。
萩原 だから今は、私らのたたかいを知ってもらうことが大事だと思う。
市東 そう。だから粛々と農業をやって、そこで普通の生活をしていると。三里塚闘争が50年も続いているということは、そこに何かがあるということなんですね。国家権力をもってしてもつぶしきれない何かがね。

―今日のお話で市東さんの農地取り上げにたいしてどのようにたたかうべきか、よくわかりました。ありがとうございました

4面

「障がい者・辺野古のつどい」に参加して(上)
追い詰められているのは国だ
滝 浩一

12月7日、沖縄在住の「障害者」がよびかけた「障がい者・辺野古のつどい」がおこなわれた。わたしは東京から友人とともに参加した。キャンプ・シュワブゲート前の攻防にも参加した。
以下は、一連の行動を通じて知ったこと、体験したことの報告である。

沖縄在住の「障害者」が呼びかけ、キャンプ・シュワブゲート前で開かれた「障がい者・辺野古のつどい」(12月7日 名護市内)

新基地建設の現状

工事はほんの一部

まず、基地建設阻止のためにつくられている辺野古の浜のテントや、地元の人たちから聞いた話を紹介したい。

現在政府は辺野古の浜から辺野古崎をまわって北の大浦湾の奥にかけて、海岸沿いに飛行場と軍艦も接岸できる基地をつくろうとしている。辺野古新基地という言い方がされているが、実際には辺野古から大浦湾にかけての大工事だ。
この工事計画の指定区域の陸上部分が、キャンプ・シュワブである。200年使える基地をつくるという。
政府は、3カ所で埋め立て工事を開始し、既成事実化を進めているが、実際には工事全体のほんの一部に手をつけているにすぎない。
埋め立て工事がおこなわれているのは、K9(北端の場所)とK1(南端の場所)、そして、N5と呼ばれる海に仕切りをつくる工事である。
「K」とは「傾斜」のK。埋め立てによって海側に傾斜がついた壁を作ることからきているようだ。埋め立て工事全体を9カ所に分けて、K1からK9まで分けている。
「N」とは「中」のN。海にせりだす形で、仕切りをつくる工事の場所をさす。
1996年に、辺野古に新基地をつくることを決めてから21年が経つが、いまだにほんのわずかしか工事に着手できていない。

イメージづくり

辺野古の海は水深18メートルの浅瀬だが、大浦湾の水深は60メートルもあり、その海底には崖のような断層がある。これが活断層である可能性がある。
政府はボーリング調査を継続中で、十分に海底の地質・地形を把握していないようだ。そんななかで、2013年に仲井真知事時代に申請した工事計画を変更しなければならなくなっているという。その計画では、三重県でつくったコンクリートの箱を辺野古から大浦湾にかけて沈めるというものだったが、それではうまくいきそうもないというのだ。
工事計画の変更をするには、沖縄県の許可を得なければならないが、翁長知事は当然それを認めないだろう。
また現在埋め立てに使っている砕石は、国頭村など沖縄県内の採石場からもって来ているが、工事が本格化すると日本各地から砕石をもってこなければならない。予定されている採石場の地元では、「辺野古に新基地をつくらせてはならない」と砕石の搬出に反対している。
最初に工事に着手したK9では、砕石で埋め立てた場所を臨時で補強しているだけで、本来投下すべきコンクリートブロックもまだ敷設されていない。
K1とN5の工事では、キャンプ・シュワブ内に、コンクリートブロックを作る施設を作って投下している。
このように実際のところ、政府はかなり追い詰められた状況にある。現地の分析では、政府はとにかくできるところを埋め立てて、「反対してもムダ」というイメージ作りをねらっているということだ。そして、2018年2月の名護市長選、さらに、そのあとの沖縄県知事選で、政府に協力する市長や知事を作り出そうとしているのである。

ゲート前の攻防

キャンプ・シュワブのゲート前では、毎日座り込みがおこなわれている。機動隊がこれを排除して工事車両を基地内に入れている。12月7日の午前9時前後には、72台の工事車両が出入りした。数年前は十数台程度の出入りだったのに比べて、現在の威圧感はかなりのものだ。
この工事車両が入る間はキャンプ・シュワブ前の国道が渋滞する。また車両の出入りの際には、土ぼこりが舞い上がるため座り込みの参加者に、主催者がマスクを配っている。
車両の出入りは午前9時前後、午後1時前後、午後3時前後。7日の「障害者」の集会が開かれている間は、出入りがなかったが、終わった後に、50〜60台が出入りした。
工事車両が出入りする間、ゲート前から強制排除された人たちは、機動隊に包囲され身動きが取れない。ゲートの周辺では道路を挟んで両側からマイクで抗議が続けられ、拘束された人たちはこれに呼応してシュプレヒコールや抗議の声をあげた。

軍用機から落下物が

7日、「障害者」の集会のさなか、「宜野湾市の保育園にアメリカ軍ヘリコプターからの落下物が落ちて屋根に当たった」との連絡が入った。
宜野湾市長が抗議し、沖縄県としても飛行自粛を要請しているが、米軍は米軍ヘリからの落下物であることを認めていない。
「障害者」の集会で、オール沖縄会議の参加者が、「夕方からアメリカ軍への抗議行動をおこなう」と発言した。
また高江オスプレイパッドに反対している住民は「今年になって3組の家族が騒音に耐えられず、高江地区から引っ越した」と報告した。
嘉手納基地にはこの夏、F35ステルス戦闘機が配備され、騒音が一挙に激しくなったため、嘉手納町議会が全員一致で抗議決議をあげた。しかしアメリカ軍は、このF35を嘉手納基地に常駐させる計画をもっている。毎週金曜日には、嘉手納基地と普天間基地で抗議行動が実施されている。(つづく)

東アジア共同体と友愛外交
鳩山元首相の講演を聞く

昨年12月15日、関西・沖縄戦を考える会の主催で、鳩山友紀夫・元首相の講演会が開かれた。演題は「友愛の精神とアジアの未来〜普天間の挫折と東アジア共同体構想」である。
鳩山氏ははじめに、沖縄で相次ぐ米軍機による事故を弾劾した。また「普天間基地は県外・国外へ」と公約して首相になったにもかかわらず、結局「抑止力の維持のためには辺野古しかない」ということを承認したことにたいし、沖縄の人びとに心から謝罪したいと述べた。当時、「県外・国外」にたいして防衛省と外務省の官僚が頑強に抵抗し、「辺野古が唯一」という結論を誘導するための「米政府の抑止力に関する資料」と称するペーパーのねつ造までおこなった。鳩山氏がねつ造の事実を知ったのは首相を退任した後であった。

不戦共同体

鳩山氏が主唱する「東アジア共同体構想」とは、ASEAN+日中韓の10カ国を核として、インドやアメリカやロシアなどの参加も可能な、オープンでフレキシブルな共同体のことだ。それは「不戦」を基本とする共同体でる。その基礎の上で経済・貿易・金融・文化・スポーツ・教育・環境・エネルギー・医療・防災など、さまざまな分野で協力を進め、参加各国の利益と発展に寄与することをめざす。
不戦共同体としての東アジア共同体をつらぬく理念は〈友愛〉である。「友愛」とは自己の自由と尊厳を尊重する〈自立〉と、他者の自由と尊厳を尊重する〈共生〉から成り立っている。
互いに支え合い、活気ある社会めざす当事者たちの協働の場、それが〈友愛〉を理念とする共同体である。東アジア共同体を実現するためには、各国が互いの価値観の相違を容認しながら、さまざまな分野で共通の利益を見いだし、協力する友愛外交が必要となる。
日本の外交は、過去の侵略戦争にたいして相手が「もうよい」というまで謝罪の姿勢をとり続けなければならない。中国や朝鮮民主主義人民共和国の脅威を煽り、「普天間基地の辺野古への移設が唯一」とする日本政府の議論は、時代に逆行している。武力による抑止力では平和はつくれない。対話と協調による友愛外交こそ真の抑止力をつくりだす。

沖縄を平和の要に

たとえば「東アジア平和会議」を、朝鮮半島の南北統一の基点とするために済州島に設置するとか、沖縄を「軍事の要」ではなく、「平和の要」にするために努力すべきだ。かつての琉球王国が掲げた「万国津梁」という在り方を取り戻し、東アジアの中核として行動することこそ、沖縄の将来にふさわしい。東アジア共同体における沖縄の役割は大きい。
政府間の交流だけでなく民間の交流を深めながら、オープンな議論の舞台をつくる必要がある。それを「東アジア議会」として沖縄に設置することができれば、大変意義深いものとなるだろう。そこで、あらゆる分野について議論できれば、東アジアが抱えるさまざまな困難を取り除き、紛争を未然に防ぐことも可能になるだろう。
民間の交流をベースに、各国の首脳の協力関係が形成できれば、東アジア共同体は実現可能だ。友愛外交を基調とし、沖縄を要とした東アジア共同体構想の実現にむけて今後も活動していきたい。

以上が鳩山氏の講演の概略である。その問題点や限界を指摘することは可能だが、過渡的には重要な提起として受けとめた。今後の議論が沖縄闘争の発展にとって必要なことだと思う。(武島徹雄)

5面

ルポ
陸自配備に反対する宮古島の住民運動
座喜味盛純

さる11月20日、沖縄防衛局は地元住民が反対の声をあげるなか、宮古島の「旧千代田カントリークラブ」(ゴルフ場跡)で自衛隊員と家族の宿舎などの建設に本格着工した。下地?彦市長は水面下で陸上自衛隊の受け入れと利権を画策しながらも住民の根強い反対の声に押されて、いまだ受け入れを公式には表明していない。にもかかわらず沖縄防衛局は着工前日に形式的な「住民説明会」を開き、「宮古にこれ以上の自衛隊基地はいらない。絶対に造らないでほしい」という住民の切実な願いを踏みにじって、翌日即、工事を強行開始した。日本帝国主義・安倍政権=防衛省の、住民を圧殺し民主主義を破壊する暴挙を激しい怒りで弾劾し、絶対に打ち破っていかなければならない。
本稿は、11月10日〜13日に宮古島へ行き、陸上自衛隊の配備計画の内容とその建設予定地を視察しての、反対運動の住民の話をもとにした報告である。

宮古島への陸自配備計画の内容と経過

日本政府は2010年、防衛計画の大綱や中期防衛力整備計画に島しょ部(南西諸島)防衛を明記し、南西諸島に陸上自衛隊を配備するための予算を計上した。南西諸島への自衛隊配備は、与那国島・石垣島・宮古島の先島諸島および奄美が候補地となり、与那国島はすでに配備が完了した。
宮古島への自衛隊配備計画が本格化したのは、2015年5月、佐藤章防衛副大臣が宮古島市の下地敏彦市長を訪ね、配備計画の概要を示し受け入れを打診した時からである。計画は、陸上自衛隊駐屯地を造り、警備・地対空ミサイル・地対艦ミサイルの3部隊を中心に隊員700〜800人を配備するという内容である。場所は宮古島の北東部に位置する大福牧場一帯と中央部にある千代田カントリー地区の2カ所を示した。
下地市長は「自衛隊は賛成」「防衛は国の専権事項」などとして反対する市民の声をかわしながら、水面下では沖縄防衛局と配備を前提とした裏取り引きを画策してきた。そして市長の息のかかった地下水審議会を設置し、配備問題なしとの結論をもって公式の受け入れ表明を狙ったのである。ところが審議会は宮古の最大の水源地である大福牧場一帯で水質汚染の可能性があるため、「基地建設は不適切」との結論を出した。この結果、市長は大福牧場一帯での配備を不承認とせざるを得なくなり、千代田地区での配備を承認し、防衛省もやむなくそれを受け入れることを表明した。
これにたいして2016年3月、陸自ミサイル部隊配備の候補地とされた野原の自治会から「千代田ゴルフ場への陸自配備計画反対決議」があがった。復帰後に米軍のレーダー基地跡に空自のレーダー基地が設置され、その関係で保守傾向の強かった野原で住民が「陸自配備反対」を全会一致で決議したことに、沖縄防衛局は大打撃を受けた。 さらに8月2日、千代田自治会も「千代田カントリーへの自衛隊施設配備反対決議」をあげた。
地元中の地元である野原と千代田の住民をはじめとする宮古住民の意思を圧殺するものとして、11月20日の陸自宿舎建設工事が強行されたのだ。現在、地元は工事をめぐる攻防の真っただ中にあり、今後の全面化阻止に向けたたかいの強化が求められており、そのための条件も生み出されてきている。辺野古―高江のたたかいと一体のものとして、南西諸島への陸自配備反対運動への全国的な支援が要請されている。
なお、宮古の軍事態勢強化攻撃として、陸自の地下弾薬庫建設や下地島空港の軍事使用の問題にも注目しておく必要がある。

南西諸島防衛強化論の口実と本質

日帝・防衛省は中国脅威論や北朝鮮核暴走論を強調し、釣魚台(「尖閣諸島」)などの防衛のための抑止力と、島民の安全性確保のためと称して南西諸島への陸自配備の必要性を主張している。しかしこれは「ためにする口実」であって、実際には石原都政の「尖閣諸島」買い取り策動と、それを逆テコにして日帝が国家として所有宣言することなどによって中国を挑発しあおり立て、北東アジアに戦争的緊張状態を作り出しているのである。
その本質は、日米帝の北東アジア戦略を巡る共同と対抗のかけひきであり、具体的には東中国海における米軍のオフショア・コントロール戦略による局地戦を展開する基盤整備としてあるのだ。より根底的には、現代帝国主義の新自由主義政策の危機を打開するための、アジアにおける現段階の政治・経済・軍事的対応としてとらえかえすことが重要だろう。

反対運動の核心と勝利の展望

宮古に仮に陸自が配備されたならば問題は政治地図の激変などさまざまだが、核心的には戦争問題と水質汚染問題である。
戦争問題でいえば、陸自が駐屯することによって軍事的ターゲットとなり、戦場化する可能性が高まる。平たんな小群島である宮古島が戦場化すれば、住民が逃げる場所はない。沖縄戦の際の宮古島がそうだったように戦死と飢餓のるつぼと化すのは目に見えている。
また、水質汚染の問題は深刻だ。宮古島は隆起サンゴ礁の島であり地下水が豊富だ。沖縄本島の米軍基地の実態からもわかるように、軍事基地から汚染物質が流出する可能性は十分にありうる。そうなれば飲料水を含めて生活水が汚染されて使えなくなり、生活できなくなる。宮古の水源は琉球石灰岩層の地下水路でつながっており、汚染が全域に広がって宮古に住めなくなってしまう。
安倍内閣の戦争政治が現実化する中で、宮古の住民は陸自配備による惨禍の危機を実感しつつあり、反対運動に参加する人が増えてきている。しかし多くの住民は陸自配備に危機感を強めながらも、仕事や住民関係など生活環境に制約されていまだ主体的には決起しえていない。
にもかかわらず、沖縄防衛局の陸自配備のための工事強行への怒りがバネとなって、こうした現状を打ち破りつつあるように見える。
反対運動に立ち上がっている人たち以外に、友人や知人やさまざまな人と接して感じたことは、宮古人(ミャークピトゥ)の“アララガマ魂”(不屈に、あらゆる妨害を覆し打ち勝ってゆく精神)に火がついた時、陸自反対運動は宮古全体の運動となっていく可能性が十分にあるということだ。
2017年1月の宮古島市長選と10月の衆院選における反対運動の分裂と敗北を正しく克服しよう。人間的共同性の形成・強化・発展をベースとした運動とたたかいの展開と、全国―全世界の人民のたたかいとの連帯によって、勝利の展望を切り開いていくことができると確信する。

[付記] 宮古島には、日本軍「慰安婦」の慰霊祈念碑が、かつて「慰安婦」被害者たちが水くみの帰りに休憩していたという場所に建立されている。碑文が、日本・韓国・ベトナム・ミャンマー・フィリピン・タイ・チモール・オーストラリア・中国・台湾・グアム・インドネシア・マレーシアの各言語で刻まれている。毎年9月8日(沖縄戦が名実ともに最終的に終結した日)の前後に、慰霊碑の前で祈念イベントが開催されているとのことだった。碑文の前に立つと胸が詰まる思いがした。

6面

寄稿 森松 明希子
「平和に生き 暮らす権利がある」
高線量地域へ帰還を強要する、この国の非道

7年前の3・11東日本大震災が起きた時、私の子どもたちは0歳と3歳でした。そして東電福島第1原発による原子力災害を福島県で被災した私は、福島から大阪へ2人の子どもを連れ、母子避難を続けています。
多くの皆さんがこの7年間、全国に散らばる福島原発事故の避難者を受け入れ支えてくださり、各地で起こる原発の存在、再稼働についても、声を上げてくださいました。心から感謝を申し上げます。

この国は平和ですか

皆さん、今この国は「平和」であると世界に胸を張って言えるでしょうか? 福島に夫を残し、大阪で母子避難をし続けている私は、この7年間、平和のうちに生きていると実感したことは一度もありません。
この国が世界に誇る日本国憲法では、「全世界の国民は恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と前文で高らかにうたい、13条で個人の尊厳を規定しています。しかし、福島原発事故を経験してこの国は本当に「平和のうちに生存する権利」を最優先に、人の命や健康を最も大切にする社会という方向にかじを切って進めているでしょうか。
私は、そうは思いません。特に福島の子どもたちの小児甲状腺がんが多発しながら、なお子どもたちの命と健康を1番に考える方向にかじを切ることができないということが、それを証明し続けていると言って過言ではないと思います。

平和とは何か

「皆さん、平和ですか?」と尋ねました。皆さん、平和とは何でしょうか。私は、3・11以降、平和とは何かと問い続け、「平和とは日々の暮らしそのものだ」ということを、身をもって知りました。
72年前、戦争で逃げることが許されない、空襲に「逃げずに火を消せ」「お国のために」「大日本帝国万歳!」と、社会が全体主義的な思想に覆われ、異論を許さず自由な言論が封じられ、全国民に思考停止を強いることで判断能力を一切封じ込め、そして行き着いた戦争でした。
逃げずに「復興、がんばろう、絆」「オール福島・オール東北・オール日本」…。平和とは、戦争によってのみ脅かされるものではないことを知りました。
原子力発電所が事故を起こし、拡散し、ばらまくのは放射能です。第2次世界大戦の敗戦直前、広島と長崎に落とされた原爆でばらまかれたものが放射能です。この国は広島、長崎、そして福島を経験しているというのに、国民は黙ってなお「原子力」にしがみつきたいというのでしょうか。人の命・生存にとって脅威である核被害を広範にまき散らすものから手を離し、違う方向に進み出すのかは、私たち自身に問われている問題であると思うのです。

消される避難民

17年3月、自力避難を続けるいわゆる自主避難者(区域外避難者)への唯一の具体的支援であった住宅提供を、政府は一方的に打ち切りました。住宅は、生活・暮らしの基盤です。住まいを奪われるということは生活基盤を取り上げられること。経済的、物理的な条件が整えられなければ、避難生活を続けることは困難で立ち行かなくなり、避難元への強制送還に等しい所業です。すなわち、避難を続けたいと思う者の放射能被ばくからの自由を奪い取ることと同じです。
さらに、高線量の土地なのに空間線量だけの低減を喧伝し、住民がつぶさに調べ測ってほしいと懇願する土壌の汚染は緻密な調査をせず、元々あった法律の基準さえも緩め(引き上げ)ました。3・11以前には認められないほどの高線量の土地、そこを次々と避難解除しながら賠償金を打ち切り、一方的に帰還を誘う。
そもそも事故当初から避難を実際にしている人数も、その実態も把握されず、7年がたっても一体どれだけの人々が避難しているのか、どの機関も正確な人数を把握していません。いえ、意図的に無視することで実態をうやむやにし、原発国内避難民の存在をないことにされています(17年8月、復興庁は避難者数を88人としていた。その後、当事者からの指摘により約800人に上方修正/大阪府の例)。世界最悪レベルといわれた福島原発事故からもうすぐ7年。事故の徹底的な原因究明や反省もあいまいなまま、被害者の声がないがしろにされたまま、原発再稼働や避難者の帰還政策が推し進められています。

普通の人の手で

こうした事態に、福島県内外で「ふつうの人」たちが次々と立ち上がり、国・東電を被告とする裁判で声をあげてきました。その判決がようやく出され、明確に国と東電の責任を認めました(前橋判決・生業訴訟判決)。
「北朝鮮情勢の緊迫、核被害を危惧」する声が高まっています。そのような時、核兵器禁止条約の実現への貢献が高く評価され、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞しました。世界が非核への道を進む大きな第1歩となることでしょう。広島・長崎への原爆、そして福島での原発事故を経験し、教訓として、核なき世界の実現を呼びかけるべきは日本ではないでしょうか。核なき平和で安心できる暮らしを実現するために、今、私たちは何を考え行動するべきか、皆さんとともに考えたいと思うのです。
福島を経験し、「被ばく」と向き合うことから目をそらさず、「放射能からの自由」、被ばくの恐怖から免れ平和に生きる権利の確立を成し遂げることが、平和につながる道であると私は思うのです。

(森松明希子さんは2011年5月、福島県郡山市から2児とともに大阪へ自主避難。東日本大震災避難者の会Thanks & Dream代表)

寄稿 「原爆も原発も 世界からなくせ」
原発推進の安倍政権に痛打 伊方広島訴訟

伊方原発3号機の運転差止仮処分命令申立抗告審で2017年12月13日、広島高裁は「即時運転差止」を四国電力(以下、四電)に命じた。この決定は、原子力発電所を持つ全国の電力会社を震撼させた。

規制委の審査は不備

東日本大震災後、差し止めを認めた判決、決定(異議審を含む)は、関西電力高浜原発3、4号機(福井県、3号機は当時稼働中)を巡る16年3月の大津地裁の仮処分など4例で、いずれも地裁の判断だった。
今回の広島高裁は、「阿蘇カルデラが破局的噴火を起こす可能性を指摘、原発立地として不適当なだけでなく、十分な噴火対策を講じていないことは原子力規制委員会の審査上の不備」と断じ、「そのような審査をパスしても四電が同原発の安全性を証明したことにはならない」として、下級審の判断を覆した。決定は衝撃をもって受け止められた。原発推進にひた走る安倍政権への痛打となった。
伊方3号機は15年7月、規制委員会が東日本大震災後に策定した新基準による審査に「合格」し、16年8月に再稼働した。住民側は「四電の安全対策は不十分であり、事故が起こると住民の生命や生活に深刻な被害が生じる」などとして広島地裁に仮処分を申請した。地裁は昨年3月に申し立てを却下し、住民側は即時抗告していた。3号機は定期検査のため17年10月に停止しており、四電は今年2月の営業運転再開をめざしていたが、今回の差し止め決定で予定に深刻な影響が出ることは必至である。
12月20日、同じく伊方3号機運転差し止めを求める大分訴訟審尋がおこなわれ終結する予定であったが、広島高裁による「火砕流の危険性」について主張追加を求めた。地裁がこれを認め、3月、5月に審尋が予定される。四電は12月21日、決定の取り消しを求める保全異議と、仮処分執行停止申立を広島高裁におこなった。
高裁の審理では、基準地震動(想定する最大の揺れ)の妥当性や火山の危険性などが争点となった。野々上裁判長は、規制委員会が作成した安全審査の内規「火山ガイド」が火山の噴火規模が推定できない場合、過去最大の噴火を想定して評価すると定めていることを指摘。伊方原発から約130キロ離れた阿蘇山について「四電の地質調査やシミュレーションでは、過去最大の約9万年前の噴火で火砕流が原発敷地の場所に到達した可能性が十分小さいとは評価できない」などとし、原発の立地として不適との判断を示した。
さらに、四電による降下物の厚さや大気中濃度の想定は過小、と判断し、「住民らの生命身体に対する具体的危険が推定される」と述べた。運転差し止めの期限を巡っては、広島地裁で別途審理している差止訴訟の判決で「仮処分決定と異なる判断をする可能性もある」などと述べ、18年9月30日までとした。 一方、火山災害以外の地震対策などは、新規制基準の内容や規制委員会の判断、四電が設定した基準地震動などを「合理的」とした。

低線量被ばくの危険

今回の決定に全国で多くの人たちが歓喜し、一方で批判的な見解もある。しかし、繰り返し挫折を味わってきた脱原発運動を勇気づけたことは間違いない。それこそが、今回の最大の意義かもしれない。人々は連携して、必ず脱原発を実現していく。
今後さらに低線量被ばく被害が人体にどのような影響を与え人格権を侵害するのか、という低線量被ばくの危険性に本格的に踏み込み、原発裁判の争点とすることをめざしたい。広島、長崎の被爆者、被爆2世、3世とともに、福島原発事故後の低線量被ばく被害に苦しみ、慢性的な被ばく環境に住み続けることを強いられている多くの人びと、避難者、世界各地のヒバクシャとともにたたかっていきたい。
原発推進と核武装に突き進む安倍政権を倒し、脱原発を確実に実現しなければならない。それは、私たち自身のたたかいである。 この決定直後、河合弘之弁護団長は、原告や支援者の前で次のように述べた。「勝った。私たちの思いが通じた。瀬戸内海が守られる。ただし、とりあえず18年9月30日まで。本案判決もある。抗告人、支援のみなさんの頑張りだ。世界初の被爆地、広島の高裁で勝った。極めて重要な、歴史的な転換点と思う。被爆者、原爆・核兵器とたたかっている人たちとともに頑張りましょう」(伊方原発差止広島裁判原告団ホームページから引用)。
「伊方3号炉広島高裁仮処分決定について」(17年12月13日、伊方原発をとめる弁護団・伊方原発をとめる会声明)は次のように結んでいる。「四国電力は決定を真摯に受け止め、抗告申立等することなく、これに従うべきである。9月30日以降も、伊方3号炉を運転するべきではない」。(田島 宏)

7面

寄稿 「明治百五十年」の真実を問う B 大庭 伸介
沖縄の闘いに学び民衆支配の策略に打ち勝とう

明治政府は発足当初、軍資金の貯えが全くなかった。そこで、それまで幕府と組んでいた三井など京・大坂の大商人に献金を求めた。引き換えに旧幕府領の年貢徴収の特権を与えたが、その際特権商人たちは年貢半減令の取り消しを迫った。年貢半減令は、年貢米の取り扱いによる相場操作と譲渡で利益を得ている彼らに大損害をもたらすからである。
三井の手代は東山道軍の賄い方として随行していたが、沿道の住民から金穀を募ろうとしたところ、農民たちの抵抗にあった。赤報隊から年貢半減令を聞いていたからである。これが赤報隊の悲劇の元となった。
赤報隊が「偽官軍」として処刑されたのは全くの濡れ衣であったと、世の中に明らかにしたのは、長谷川伸のドキュメント『相楽総三とその同志』である。事件からなんと75年経った1943年のことである。

「明治百五十年」は侵略と民衆苦難の歴史

民衆を欺き特権大商人と結託した明治政府は、アイヌの生活圏を奪い、琉球国を武力で併合して植民地的差別政策を強制した。さらに台湾を侵略して植民地とし、朝鮮半島の支配をめぐって日清戦争を起こした。福沢諭吉はこれを「文明と野蛮の対立」と称し、日本の勝利を喜んだ。
日本は次に朝鮮・満州(中国東北部)を支配しようと、帝政ロシアに宣戦布告した。日露戦争に勝った日本は、アジアでただ一つの帝国主義国になった。この戦争は日本にとって初めての近代戦=消耗戦で、9万人近い戦死者と約3万人の「廃兵(ママ)」を生んだ。一家の働き手を失った家族は途方に暮れるばかりであった。年間予算の8倍にも上る戦費は増税となってはねかえり、民衆は塗炭の苦しみにあえいだ。
日清・日露の戦争で戦場にされた朝鮮や中国の民衆が多数死傷し、甚大な物的・精神的被害をこうむったことは言うまでもない。
「国民作家」司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、日露戦争をロシアの南下政策に対する防衛戦争と美化し、自民党の国会議員や大企業経営者がこぞって愛読書のトップに挙げている。
明治政府は「殖産興業」の名の下に、特権大商人や倒幕派武士出身の岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)らを厚く保護し、資本主義発展の基礎を築いた。彼らは戦争のたびに、兵員や物資の輸送を一手に引き受けて肥大化した。さらに鉱山など官有物の払い下げや政府事業の独占的請負で巨大化して財閥をなし、日本経済を支配するまでになっていった。
それは同時に、労働者が劣悪な環境のもと、低賃金で長時間働かされる徹底的な搾取を伴った。当時の産業の中心であった紡績工場の女性労働者の悲惨な状態を描いた細井和喜蔵の『女工哀史』は、涙なくして読むことができない。
一方、1882年には軍人勅諭が発布され、軍隊を政治や議会から切り離し、兵権を天皇に直属することが明示された(「皇軍」の誕生)。
1889年に大日本帝国憲法が公布され、天皇を〈統治権の総攬者〉とし、行政・軍事・外交にわたる広大な天皇大権を定めた。
1890年には教育勅語が発布された。愛国心と天皇に対する忠誠心を高め、国民を思想的に統一支配しようとするものであった。
軍人勅諭と教育勅語の排外主義的な忠君愛国思想は、人びとの日常生活の端々まで浸透し、日本社会全体を天皇制イデオロギー一色に染めていった。
1900年には治安警察法を公布して、労働組合の結成や争議のための勧誘・扇動を一切禁止したので、誕生して間もない労働組合運動は息の根を止められた。
韓国併合と同じ1910年には大逆事件をデッチあげて、無政府主義者・社会主義者を一斉に逮捕し、12人を処刑した。いったん〈天皇〉問題に触れたと疑われた者には、死をもって報いるという国家の意思が示されたのである。この事件によって、芽生えたばかりの社会主義運動は完全に窒息させられた。「共産主義者」を含むすべての反体制運動の指導者は、天皇制に対するトラウマに陥った。
治安警察法と大逆事件は、日本の反体制運動に「冬の時代」をもたらした。これが“輝ける明治”の真実の姿である。

米騒動で民衆は自らの力に目覚めた

1917年、ロシアに革命が起きた。社会主義を目指す労働者の国が生まれたことは、日本の労働者にも大きな驚きと感激を与えた。見も知らない労働者が路上で抱き合って喜ぶ光景が見られた程である。
その翌年、日本の近代史上最大の民衆蜂起「米騒動」が繰り広げられた。それは富山県魚津港の女性の沖仲仕が、県外に移出する米の積み込みを拒否したことから始まった。
明治維新以来、米の生産は耕地を持たない小作人が担っていた。小作人はいくら一生懸命に働いても、生産した米の半分を寄生地主に物納させられるため生産意欲がわかず、生産量は停滞していた。一方、工業の発展は人口の都市集中を伴い、米不足=米価の高騰は慢性化していた。そのうえ、シベリア出兵(ロシア革命への干渉戦争)が5年に及び、7万余の兵隊の米の消費は米価の急騰を招いた。
大勢の民衆が米商人や資産家・町村役場に米の安売りと生活困窮者の救助を求める行動は、またたく間に全国へ広がった。要求が入れられない場合は、打ち壊しや焼き打ち、米倉の襲撃による米の持ち出しに発展した。政府は鎮圧のため警察を出動させたが、逆に警察署や派出所が襲われた。ついに京都をはじめ全国120カ所で軍隊が出動して市街戦が闘われ、死傷者が続出した。数万人が検挙され、7776人が起訴された。死刑を宣告された者もいた。
関西地方では被差別部落民が先頭に立って闘い、犠牲者も彼らに集中した。
この民衆蜂起によって政府が打倒され、初の政党内閣が誕生した。しかし何よりも大きな成果は、民衆が自分たちの力に目覚めたことである。これを転機に、部落解放運動や労働運動・農民運動・学生運動、さらに普通選挙権獲得の運動などが一斉に開花した。
ただし、社会主義者たち(ほかの事件で逮捕・入獄中で大逆事件を免れた)は、ただ1人(山本懸蔵。日比谷公園で演説、群衆を指揮し逮捕・投獄)を除いて、誰も米騒動に主体的にかかわっていない。当時の社会主義運動がサークル主義的段階にとどまっていたからである。
1925年に男性に限り選挙権が与えられ、労働者・農民に議会参加の道が開かれ、同時に治安維持法が公布された。国体の変革(天皇制打倒)と私有財産制度の否認(社会主義)目的の結社およびそれへの加入を取り締まるものであった。最高10年の刑が科せられ、活動家の再生産に大きな打撃を与えた。
3年後には治安維持法に緊急勅令で死刑と目的遂行罪(協力者処罰)が導入された。その後次第に拡大解釈され、国家権力に危険とみなされた者すべてに適用されるようになった。併せて「特高」がすべての県に配置され、拷問を伴う弾圧が吹き荒れるようになった。 
とくに左翼に弾圧が集中し、思想的弱点を突かれた最高指導部を皮切りに転向者が相次いだ。総転向状況に陥った左翼は、1937年に日中全面戦争が開始されたときには壊滅していた。
1929年に始まった世界大恐慌の影響で、賃金不払いや失業が相次いだ30年代の初めには、争議の件数や参加人員が戦前のピークに達した。農村不況も深刻化し、小作争議が先鋭化して一部は武装闘争に発展した。しかし孤立分散した闘いはやがて沈静化し、戦争体制に飲み込まれていった。
1938年に国家総動員法が公布された。ヒト・モノ・カネ・情報のすべてが「聖戦」遂行のため、国家によって統制運用されるようになった。
かつてのプロレタリア文学の旗手も含むすべての作家・評論家が、わずか2人の例外を除いて日本文学報国会に参加した。彼らは戦地に赴いて「皇軍」兵士の奮闘を賛美するレポートを書いた。
市川房枝ら婦人運動のリーダーたちは、戦争を女性の社会進出の好機ととらえ、積極的に加担した。
彼ら彼女らは、1945年8月15日の敗戦を境に「民主主義者」に変身し、厳しい自己総括を欠いたまま再び指導者として民衆の前に登場した。
「青い山脈」的ムードが世の中を覆うなかで、アジアの民衆に対する加害責任は全く意識されなかった。
「獄中18年」をはじめとする出獄した共産党の幹部たちが、GHQに「解放軍万歳!」と叫んだのは有名な話だ。労働運動は高揚したが、「戦後革命」を担うべき主体は存在しなかった。
何よりも天皇は敗戦と同時に「平和主義者」に早変わりした。「皇軍」の最高指揮官として、ときに動揺する軍首脳部を叱咤激励し、自らの地位の安泰が確認されるまで戦争を継続した責任については、ほうかむりし通した。しかも極東軍事裁判に追訴されることから逃れるために、沖縄を半永久的にアメリカに売り渡すことを提言して、今なお沖縄の人々を苦しめ続けている。

沖縄の心を共有することが勝利への道

すでに天皇の代替わりと東京オリンピックに向けて、ナショナリズムをあおる動きが加速されている。NHKの解説者が「オリンピックの第一の意義は国威の発揚である」とテレビで公言してはばからない有様だ。今後、憲法改悪のために、あらゆる策略が張りめぐらされるだろう。
米軍占領下の沖縄では、憲法9条は「まるで荒波の向こうの灯台のように光り輝いていた」―90歳を超えるまで沖縄戦の実態を伝える「1フィート運動の会」の事務局長を務めた故・中村文子さんの言葉である。
新基地建設反対を訴える辺野古のテント村は5千日を超えた。沖縄のおじい、おばあの粘り強さを学び、その心を共有することが憲法闘争勝利の大前提だ。
「明治百五十年」は国家権力による民衆支配の策略の歴史だ。歴史を顧みて未来に生かそう。 (2018年1月13日記)

■参考文献 相楽総三とその同志/長谷川伸(中公文庫)
明治維新草奔運動史/木俊輔(勁草書房) 
西郷隆盛〈上・下〉/井上清(中公新書) 
沖縄の歩み/国場幸太郎(牧書店) 
レフト/大庭伸介(私家版)

8面

尹奉吉義士殉国85周年日韓学術会議に参加して 須磨明
「レジスタンスは義務」そして「侵略戦争を内戦に」

12月2・3日に金沢市内で「尹奉吉義士殉国85周年日韓共同学術会議」が開催された(写真下)。主催は5団体(韓国独立記念館、尹奉吉義士共の会、月進会日本支部、立命館大学コリア研究センター、一橋大学韓国学研究センター)。
テーマは「尹奉吉義挙と世界平和運動」で、1日目は「反戦平和運動の表象としての尹奉吉義挙」、2日目は「反戦平和運動の過去と現在そして課題」であった。
尹奉吉義挙とは、1932年4月29日、上海でおこなわれた戦勝祝賀会の壇上に爆弾を投げ、多数の日本軍将校らを殺傷し、朝鮮独立運動の根底的な転換点を形成した事件である。この事件から今日的課題を探るという学術会議が日韓人民によって開かれたということ自体が画期的である。
日本、韓国、アメリカの各地から、延べ250人(筆者推計)を超える人びとが集まり、用意したレポート(日韓両国語、293ページ)が足りなくなった。両日の学術会議は各5時間、合計10時間にわたって、8人が報告し、8人のコメンテーターが内容を精査し、各レポートの完成度を高めた。
すべてについて報告するにはあまりにも膨大な量と内容であり、かいつまんで報告することをお許しいただきたい。また、学術会議の前に、尹奉吉暗葬地(金沢市)と鶴彬生誕地(かほく市)のフィールドワークもおこなわれた。

レジスタンスは権利であり、義務である

トップバッターは「尹奉吉共の会」代表の田村光彰さんであり、レポートのテーマは「世界史的な抵抗運動からみた尹奉吉義挙」である。このレポートが2日間を通して最も重要な内容を提起した。
田村さんはドイツファシズムすなわちレジスタンスの研究者(著書『ナチス・ドイツの強制労働と戦後処理』など)であり、その視点から尹奉吉の行動をレジスタンスとして位置づけている。では、レジスタンスとは何か。
田村さんは、ドイツ基本法20条4項「すべてのドイツ人は、この秩序(憲法秩序)を除去しようと企てる何人に対しても、他の救済手段が存在しないときは、抵抗権を有する」(1968年改正)とブレーメン州憲法19条「人権が公権力により憲法に違反して侵害される場合は、各人の抵抗は権利であり義務である」を引用し、民衆が暴力的抵抗に訴えるかどうかは、公権力が他の救済手段を保障するか否かという条件にかかわる。暴力的抵抗それ自体を状況から切り離して論ずることはできないと提起し、1930年代の尹奉吉が置かれた時代的条件から判断すべきであると提起した。
すなわち、1930年代の日帝支配下の植民地朝鮮には憲法も議会もなく、朝鮮総督府の暴力(治安維持法など)が支配していた。田村さんはこのような条件下では、朝鮮人にとっては、「武力闘争を含む占領軍に打撃を与えそうなあらゆる活動」が権利であり、義務であるとし、尹奉吉のたたかいをレジスタンスとして全面的に支持した。
それは85年前の過去の話ではなく、現代に生きるわたしたちにとっても、憲法と議会を無視し、国民に批判と抵抗の余地を保障しない公権力にたいしては、レジスタンス=「あらゆる活動(ドイツ軍施設の破壊、列車の爆破、親独派へのたたかい、ストライキ、ナチス高級将校の暗殺など)」をやむを得ない方法としてではなく、正義と公正を実現するたたかいとして積極的に捉えるべきであると結論した。

日本人民の責任

2日目の最後は朴正煕政権下で獄中19年を強いられた徐勝さん(立命館大学名誉教授)が「東アジア平和運動と韓国民主化運動の現在と課題」で締めくくった。以下は徐勝さんの報告の要約である(文責 筆者)。
平和とは「すべての人が十全に生を全うすることである」「暴力と戦争がなく、人の生命と安全が守られている状態」であり、平和運動とは反戦と国家暴力反対運動に集約され、それは第1次世界大戦時に「侵略戦争を内戦に」のスローガンでたたかった反戦運動から始まった。
日本の平和運動は加害者(筆者注:日帝の)責任を追及しない運動であり、加害者が被害者であるかのごとき倒錯がおこなわれ、イノセント(無邪気)な戦後日本の平和運動が形成されたと、日本の平和運動の欠陥を指摘した。
西洋の平和運動は戦争の惨禍にたいする警鐘や博愛主義であるが、東アジアでは、「すべてが自主独立できることが平和である」と主張した安重根や、尹奉吉、義烈団、東方無産者同盟、抗日聯軍(満州)など朝鮮人、中国人、ベトナム人などの反帝民族解放闘争としてたたかわれた。それが、延安における日本人民反戦同盟のような侵略者の側からの反戦平和運動を引き出した。―この点が徐勝さんの日本人参加者に一番訴えたかったことではないだろうか。
1960年代から1980年光州虐殺事件までの総括として、韓国人民の流血を恐れない不屈のたたかい(反軍部、反国家権力、正義の回復)をとおして、金大中、盧武鉉の改革政権を誕生させ、南北和解・統一政策へとむかった。そして昨年延べ1700万市民が立ち上がり、政権交代を成し遂げたキャンドル行動は「キャンドル革命」と評価されている。
その核心は民主主義の根幹である国民主権ないしは主権意識が体験的に、思想的に確認され、参加者たちの内面的価値として定着したことにある。だが、政権についた文在寅は公約(高高度防衛ミサイル〔THAAD〕批判、ピョンヤン訪問など)を守らず、アメリカの圧力に屈している。
とはいえ、政権内部の文正仁大統領特別補佐官は「韓米同盟が壊れることがあっても、戦争はあってはならない」と発言しており、そもそも同盟とは敵の攻撃から安全を確保し平和を守るためのものであって、同盟自体が独り歩きし平和がそのために犠牲になるなら、目的と手段の倒錯ではないか。
いま、韓国政府のなすべきことは米日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)いじめに扈従することではなく、北朝鮮を同族として対し、米日による脅迫軍事訓練を即時中止させ、対話を開始することである。そこで生まれた北朝鮮との信頼関係を元手に本格的な交流・和解・協力のプロセスをすすめるべきである。
最後に徐勝さんは、「東アジアの平和の根本は帝国主義の排撃、帝国主義支配に起因するすべての負の遺産・負の記憶の清算にある。東アジア諸民族は近代史の原点に立ち返り、反帝国主義の平和連帯をすすめよう」と提起した。徐勝さんの視線は会場を埋めつくす日本人に向けられていた。そのメッセージは、日韓連帯の力で日本帝国主義を打倒することである。

鶴彬から何を学ぶのか

他の6人の報告も、例外なくわたしの心を揺さぶり、知的好奇心をくすぐった。
金沢での尹奉吉の行動は未解明な部分が多い。大阪から金沢への経路、処刑前日の拘禁場所、処刑地(三小牛山)、暗葬地(野田山墓地)、遺体発掘状況などの調査を進めてきた筆者にとって、金祥起さん(忠南大学教授)の発表は新たな調査の方向に示唆を与えてくれた。
今回の学術会議のもうひとつのテーマは鶴彬の「半島の生まれ」7句(「母国掠め盗った国の歴史を復習する大声」など)を媒介にして、尹奉吉との共通性を探ることであった。勝村誠さん(立命館大学)の報告は川柳の句評に重点が置かれていて、鶴彬の人生に迫ることが希薄であった。
すなわち、徴兵されるや、世界で最も凶暴な帝国主義軍隊のなかで、反軍工作に踏み込み、ついには獄中死を強制された鶴彬の知性と感性が川柳の根幹を成しているのであり、ここにこそ焦点をあてるべきだろう。単なる文芸作家ではなく、コムニストであるからこそ資本主義と侵略戦争を対象化できたのではないか。
尹奉吉と鶴彬の共通項に着目し、日韓人民は尹奉吉のように、鶴彬のように、今の時代の生き方を選択することが今学術会議の結論であり、次に問われていることは実践である。

わたしの決意

閉会後、5年ぶりに再会した金祥起さんに誘われて、食事会にも参加することができた。ふたりの間で未解決の「処刑前夜の拘禁場所(金沢城内)」についての打ち合わせが残っていたからだ。隣り合わせに席をとり、尹素英さん(韓国独立運動史研究所)の通訳で、食事をしながら、今後の調査課題を確認した。
食事会は、お酒がまわるにつれてにぎやかになり、立ち上がり、歌い、踊り、最後は1980年光州民衆蜂起をたたえる大合唱で幕を下ろした。わたしの間近には徐勝さんがおり、李佑宰さん(1979年から3年間獄中、その後国会議員)がおり、1972年アメリカに亡命した闘士がおり、韓国の民主化運動の息吹をじかに感じる場だった。
かつては書物を通してしか知ることができなかった人たちと、手を握り合って、未来に向かう意志を固める機会を与えられ、わたしの決意はさらに固くなっていった。