伊方3号機に運転停止命令
被爆地広島が原発を止めた
12月13日 広島高裁
13日、四国電力伊方原発3号機(愛媛県伊方町)の運転差し止めを求めた仮処分申請の即時抗告審で、広島高裁(野々上友之裁判長)は広島地裁の決定を覆し、四国電力に原発の運転を禁じる決定を下した。火山の影響による危険性を認め「立地として不適」と断じ、重大事故が起きた場合「住民の生命、身体への具体的危険がある」と認め、高裁段階では初の画期的判断を示した。その歴史的な瞬間に立ち会えた。速報として報告する。
午後1時、「核と人類は共存できない」「被爆地ヒロシマが被曝を拒否する」と掲げ、被爆者を先頭にたたかっている伊方原発広島裁判原告団、弁護団、広島裁判応援の約100人が広島弁護士会館に集まった。「被爆地ヒロシマは原発を止める」と再確認して広島高裁へ向かった。
高裁前には多くの報道陣が待ち構えており、裁判への注目度の高さが伝わってきた。「必ず勝つ」と確信しながら弁護団を送り出し、寒風の中、固唾をのんで待ち受ける。「そろそろだな」と参加者の中から声が出た。その時、弁護団長の河合弘之弁護士が、自ら「勝負服」とするピンクのジャケット姿で駆け寄りながら、大声で「勝った、瀬戸内海が守られます」と叫んだ。「やった」という大きな歓声が沸き起こった。手を取り合い、涙を拭いながら飛び跳ねて喜びを分かち合った。
弁護団による記者会見が始まる。詰めかけた報道陣に決定要旨と弁護団声明が配布されると、奪い合うように手が伸びる。記者会見では、河合弁護団長が「火山の危険性を認めさせたことは、全国の原発に当てはまる。水平的な展開も可能になる」と。被爆者への質問には、原告団長の堀江壮さん(77)らが「身をもって放射線の怖さを知っている。今日で終わりではないが、感激している」などと答えていた。
被爆地で、高裁で、画期的な判決となった。詳細と意義は、次号に。(田島 宏)
1・20〜21 STOP! 伊方原発現地集会
1月20日(土)午後1時〜3時 道の駅きらら館前歩道でアピール
午後6時半〜8時半 八幡浜江戸岡公民館で講演会
1月21日(日)午前8時〜11時 伊方原発ゲート前にて抗議
午後1時〜3時 伊方町にてデモ行進
主催:伊方から原発をなくす会
ストップ! 伊方原発
香川県高松市 四国電力に500人で抗議
12月10日
12月10日、香川県高松市で「STOP!! 伊方原発高松集会」が開かれ、500人が参加した(写真)。主催は、四国の4団体(原発さよなら四国ネットワーク、グリーン市民ネットワーク高知、脱原発市民ネットワーク徳島、脱原発アクションin香川)。
JR高松駅前の広場で午後1時からライブとパフォーマンスが繰り広げられ、2時から本集会が始まった。八幡浜・原発から子どもを守る女の会・近藤享子さんが、アピールに立った。全国各地からの発言の後、司会の音頭で、参加者が、一斉に「STOP!伊方原発」のメッセージボードを掲げた。
集会後、四国電力本店前を通って、目抜き通りである丸亀町のアーケード街をデモ行進。四国電力前では、立ち止まって、ひときわ大きな声を上げ、商店街では買い物客の注目を浴びた。
大飯原発地元で全国集会
住民から再稼働反対の声
12月3日
「大飯原発を動かすな」全国集会終了後、参加者はおおい町をデモ行進(3日) |
12月3日、福井県おおい町で「12・3大飯原発うごかすな! 現地全国集会」がひらかれ、関西電力の原発が林立する地元である福井県若狭地方・京都府北部をはじめ、関西一円、全国から500人が集まった。3団体(原子力発電に反対する福井県民会議、ふるさとを守る高浜・おおいの会、若狭の原発を考える会)が呼びかけた。
全国各地から
集会の冒頭、主催者を代表して、〈若狭の原発を考える会〉木原壯林さんがあいさつした。
続いて〈サヨナラ原発福井ネットワーク〉山崎隆敏さんが発言。福島県大熊町の町議・木幡ますみさんは、避難所につれて行くことができなかったペットの話からはじまり、除染も進まない福島の状況を切々と訴えた。全国各地からは、〈なくそう原発・核燃、あおもりネットワーク〉、〈反原発市民の会・富山〉、〈再稼動阻止全国ネットワーク〉、〈浜岡原発を考える静岡ネットワーク〉、〈脱原発アクションin香川〉、〈ストップ再稼動! 3・11鹿児島集会実行委員会〉が発言。大飯原発差し止め訴訟の〈福井から原発を止める裁判の会〉島田広弁護団長がミニ講演をおこなった。島田弁護士は、11月に結審を強行した名古屋高裁金沢支部を弾劾し、パワーポイントを使って、関西電力の主張のでたらめさを説明。「この裁判はなんとしても勝ちたい。今後も全力でたたかう」と表明。
地元8市町から発言
地元・若狭湾沿岸、京都府北部の住民の方々が登壇。京都府北部からは〈原発ゼロ舞鶴実行委員会〉、〈原発なしでくらしたい宮津の会〉が取り組みを報告。原発立地地元である福井県高浜町からは〈ふるさとを守る高浜・おおいの会〉東山幸弘さん、おおい町からは同じく守る会の宮崎宗真さんが発言。原発設置反対小浜市民の会、若狭町・安全なふる里を大切にする会、森と暮らすどんぐり倶楽部(美浜町)、原発住民運動福井・嶺南センター(敦賀市)から発言があった。
最後に集会決議を採択し、原子力発電に反対する福井県民会議・宮下正一さんが閉会のあいさつをした。「大飯原発うごかすな!」のメッセージボードを参加者一同で、一斉に掲げ集会を終了した。
集会後、おおい町内をデモ行進。「原発反対、再稼動反対に立ち上がろう」という訴えに、沿道から住民の熱い反応が返ってきた。
解散地点で、木原さんが「本日のたたかいの成功を突破口に、再稼動反対の声を大きくしよう。来年には関電前1万人の集会を実現しよう」と訴えた。
11月27日、福井県の西川知事が大飯原発の再稼動に同意を表明した。しかし大飯原発でデータ偽造の神戸製鋼製の部品を使っていたことが判明。その検査のために3号機は3月半ば、4号機は5月に再稼働が延期に。さらに声を大きくして大飯原発再稼動を止めよう。
2018年1月の発行日変更のお知らせ
来年1月の『未来』発行日は1月18日(木)(第238号)のみとなります。第238号は8ページ400円です。2月以降は通常通り、第1、第3木曜日発行です。
2面
“憲法の大切さ 身近に話そう”
3千万の署名達成へ講演集会
12月11日 大阪
11日、「安倍9条改憲NO! 講演集会」が大阪市内で開かれた(写真下)。主催は実行委員会。
2012年に発表された自民党改憲草案の内容に危機感を持った若手の弁護士たちによって〈あすわか〉が結成された。そして30代や40代の子育て世代の母親をターゲットに現行憲法の大切さを伝えようと「憲法カフェ」という取り組みを始めた。
クイズ形式で進められる「憲法カフェ」では憲法の核心が、実は第13条の「個人の尊重」にあることをわかりやすく解説。憲法の3原則である「平和主義」「主権在民」「基本的人権の尊重」の要になっているのが「個人の尊重」なのである。
こうした「憲法カフェ」に参加した人が次は主催者となって次々と広がっていったことを話した。
次に10月衆院選に兵庫8区でミナセン尼崎として取り組んだ経験について語った。選挙を取り組むにあたって、「市民が望む政治、政策を政党にたいして提示する」という選挙運動の基本的なコンセプトを全体で確認した。「国の主人公は市民。市民と話し合い、市民の声が届く政治」を実行するように政党に求めた。政党のチラシやポスターづくりにも市民運動の意見を大きく取り入れた。「市民と野党の対話集会」「ハロウィーン桃太郎(仮装して練り歩き)」「シール投票」などさまざまな創意工夫をこらした運動が展開された。
選挙の結果は、与党候補に及ばず敗北したが、総括の視点を「市民がどこまで選挙にかかわることができたのか」においた。そして、「憲法、政治、経済が日常的に語られ、市民の間に情報があふれている」という状況を作り出すことが重要であることを強調した。
最後に「安倍9条改憲NO! 全国統一署名を、日本会議による国民投票運動の準備に対抗できる運動にしなければならない」と提案した。
集会では反戦・反貧困・反差別共同行動in京都代表世話人の仲尾宏さんが主催あいさつ。衆院選で自民党の絶対得票率が2割に満たないことを紹介した。「圧倒的多数が安倍政権に疑問を持っている。今後、アベノミクスのまやかしや朝鮮半島をめぐって戦争の危機をあおっているのは安倍やトランプであることを暴露することが大切だ」と発言した。
連帯のあいさつでは、戦争をさせない1000人委員会・大阪事務局長の山元一英さんが、「憲法9条に自衛隊を書き込むということは、集団的自衛権を合憲とすることであり、アメリカと日本がいっしょに戦争することを認めること。3000万署名を実現するために大阪で400万を集めよう」とげきを飛ばした。
“生涯 信念を貫いた”
三里塚反対同盟事務局長 北原鉱治さんを偲ぶ会
12月10日 成田市
参加者全員で反対同盟の歌を斉唱 (10日 成田市) |
今年8月9日亡くなられた三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長の北原鉱治さんを偲ぶ会が、10日、成田市内で開かれた。
司会は反対同盟の萩原富夫さん。多くの人たちから北原さんの思い出が語られ、信念を曲げず、成田空港反対闘争を貫いた北原さんの生涯に、参加者は思いをはせた。
関西実行委員会の安藤眞一さんは、永井満代表世話人と山本善偉世話人のメッセージを紹介。安藤さんは故戸村一作委員長が常に掲げていた「真理はあなた方を自由にする」という文言を墨書したたすきをかけて発言。安藤さんは高校生の頃、北総台地で命と人権と平和を守るためにたたかっていた戸村委員長の姿に啓発されて、「自分もそのように生きていこう」と心に決めたことを話した。そして聖書の「躓きの石」を引いて、三里塚闘争が全国のさまざまなたたかいの「救い主」という位置をもっていると話した。
最後に、家族の北原健一さんがお礼の言葉を次のように述べた。
「今日は、日本のたたかいを担っているそうそうたる方々に集まっていただきました。お集まりのみなさんが次の世代を生みだし、新しい世の中をつくってくれると確信しています。私もその一助になれればと決意を固めています。
おやじは酒を飲むとよく言っていました。『おれはみんなに育てられた』と。人はそれぞれ変わってはいきますが、その信条や信念を一生貫けたらその人は幸せだと思います。だからおやじは本当に幸せだったと思います。
どうか今のこの日本を、世界を、そして権力をふりかざした政治体制を変えるのは革命しかないです。そのあとに必ず理想とする人間社会が生みだされると思います。市東さんを、いまかけられている攻撃から、みんなで守ろう。そのために私たちは全力をつくしてたたかわなければなりません。私は素晴らしい三里塚闘争の一員として誇りをもっています。70歳になって涙もろくなりましたが、涙の後には大きな怒りがあります。みなさんと共に頑張っていきたいと思います」。
健一さんの力強い言葉に会場から大きな拍手が送られた。その後、参加者全員で反対同盟の歌を斉唱して散会した。
投稿
再稼働は“モウ”許さない
核禁条約参加訴え市民デモ
11月26日 東大阪
11月26日、東大阪市内で第2回目となる反原発集会とデモがおこなわれ、70人が参加した。デモは中小阪公園から小阪商店街、布施商店街を通って布施三ノ瀬公園までおこなわれた(写真)。
デモは商店街で注目され、コールに合わせて腕を振って応える中年の男性もいた。とくに今回は劇団が用意した張り子の「牛」と「怒 再稼働モウゆるさない!」と書かれたむしろ旗2本が登場し沿道でアピールした。この「牛」は演劇用に用意されたもので前後に人間が入って歩くものである。集会前の準備段階のときは本物そっくりと子どもたちが「牛」を触りにきた。「牛」だけでなく今回は手作りの大きな「鳩」も登場した。
デモ前の集会では、最初に「牛」が紹介された。6年前の3月11日、福島原発20キロ圏内には340頭の牛、31万匹の豚、63万羽の鶏が残された。牛たちは囲いに閉じ込められ、多くは水もエサも与えられずに殺処分され、飼い主の思いもむなしく死んでいった。ここに登場した張り子の「牛」は彼らの無念の思いを象徴するものとして今日のデモに参加すると表明した。
集会実行委員会のあいさつでは事故から7年近くたつにもかかわらず、事故は決して収束せず、子どもたちの甲状腺ガンが200人近くにもなっていること。事故の真相解明も被災者・避難者への補償もまともにおこなわれず、むしろ切り捨てにかかっていること。こういうなかで、九電川内1、2号、四電伊方3号、関電高浜3、4号の再稼働が次々と強行されていることに怒りが表明された。さらに東大阪では近畿大学に設置されている出力1ワットの原子炉が今年4月から再稼働していることについても怒りを込めて報告した。
福島からの避難者のメッセージ紹介や、なくせ原発! 河内長野デモ実行委員会からのアピール、地元でおこなわれる反原発映画上映会の呼びかけや「原発と核兵器にNO! いまこそ改憲阻止の力を」として改憲に反対する三千万人署名の提起がおこなわれた。
東大阪で始まっている草の根的市民運動は6年前の育鵬社教科書のクーデタ的採択に反対するところから開始された。この市民運動は多民族・多文化共生の街である東大阪という地盤を基礎としており、10月衆議院選挙に際しては、この市民運動が基盤になって東大阪での野党共闘・野党統一候補擁立を求めるところにまで成長している。今回の反原発集会はこの基礎の上におこなわれたものである。地域に基盤をもった草の根の市民運動をさらに広く大きくしていきたいと強く感じた集会だった。(三船二郎)
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3面
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普通の人のための経済政策
松尾匡さん(立命館大教授)の講演を聞いて
11月24日「何とかならんかこの日本!? 普通のひとびとのための経済政策 欧米反緊縮左派の主張から考える」という講演討論集会があり、立命館大学経済学部教授・松尾匡さんが講演した。以前から氏の主張に触れることがあり、一度は直接講演を聴いてみたいと思っていた。講演は1時間半豊富な資料を示しながらかなり早口で非常に濃いものであった。
一言でいえば、左派リベラルが選挙で勝てないのは、暮らしの苦しい大衆が見えていないからであり、経済政策が間違っているからだ、という主張である。
一部をかいつまんで紹介したい。
若者の右傾化?
安倍の目標は改憲に絞られている。アベノミクスもその手段にすぎない。しかしアベノミクスは失敗したと嘲笑していたら、足をすくわれることになる。
選挙後、内閣支持率は回復してきている。特に18歳〜20代では6割を超える。総選挙の投票先も10代20代では自民党が5割に近い。英国では若者が労働党を支持し、まったく逆になっている。だからといって日本の若者は右傾化しているのではない。9条改憲は必要ないというのが18歳〜20代では66%に上る。中国や韓国に親しみを感じるという人も若者の方が多い。
若者だけでなく、世論調査を見れば安倍政権のやっていることにはことごとく反対の人が多い。それでも安倍政権の支持率が高いのは、どうしてか。人々は決して安倍政権下で今の暮らしが楽だと感じているわけではない。民主党政権時代は収入が減って苦しかったが、安倍政権でそれがなくなったことを実感し、以前より景気がましだと思っている。
選挙向の景気拡大
日本に住む人のエネルギー摂取量やタンパク質摂取量は敗戦後すぐの時期の水準に戻っている。20代のエネルギー摂取量は失業率と逆相関している。このかんの長期デフレ不況によって、多くの人々が深刻な貧困のなかで、飢餓や健康リスクにさらされ、家庭や人生が崩壊し、希望や生命が失われた。日本は貧困が蔓延する国になってしまった。
人々は小泉改革で苦しんだ。だが、民主党政権は改善できなかった。多くの有権者、特にやっと職にありつけた若者が、安倍政権になってからの経済状況のいくぶんかの改善に安堵し、野党が勝ったらまたリストラや就職難が吹き荒れる不況時代に戻るのではないかと不安に思っている。だから安倍の経済政策にすがりついている。
安倍政権が「第一の矢」でやろうとしたのは、まさに量的緩和と財政出動の組み合わせだった。安倍政権に、野党はお株を奪われてしまったのだ。この2〜3年景気拡大は足踏みを続けていたが、財政支出が放たれなかったからだ。去年末から公共工事の受注額の増え方が大きくなっている。この効果が大きくなった9月に10月総選挙を決定した。左派は景気拡大作戦に負けたのだ。
左派の経済政策
それ以前に、日本の左派リベラルは、望ましい経済政策とはどのようなものかを見失っている。欧米の左派政党はこぞって「量的緩和」と「財政出動」を打ち出して躍進した。今年のイギリス総選挙では、保守党圧勝の前評判だったのに、労働党が反緊縮で保守党を過半数割れに追い込んだ。サンダースの公約の目玉は5年間で1兆ドルの公共投資による雇用拡大だった。人民のための財政拡大、量的緩和は当たり前の政策だ。財政危機を煽るのは財務省高官や新自由主義者のプロパガンダにすぎない。中央銀行が直接に財政資金をまかなえば良い。日銀の持っている国債は事実上返さなくていいものだ。
安倍は個々の政策が反対されていることは自覚している。それでも本気で改憲しようとしている。「安倍よりも良い景気を実現する」と訴えて安倍に変わる受け皿になろう。
左派、リベラルと自覚する人の間にはまだまだ反発も多く、松尾さんの提起は浸透していないように見えるが、正面から向き合い検討すべきものだと思う。(原沢経久)
差別と拘禁の医療観察法
障害者権利条約に違反
11月26日 全国集会
「なくそう! 差別と拘禁の医療観察法! 11・26全国集会」が東京都内で開かれ、88人が集まった。
主催者からの挨拶に続いて池原毅和弁護士の講演に移り、障害者権利条約と精神保健福祉法・医療観察法との関係を通して、強制入院制度や医療観察法の問題点が明らかにされた。池原さんは「権利条約14条1項bには『いかなる場合においても、自由の剥奪が障害の存在によって正当化されない』と規定している。措置入院制度も医療保護入院も『精神障害者であって…』というところから始まっており、権利条約に違反している。さらに、医療観察法では『対象行為を行った際の精神障害を改善し、これに伴って同様の行為を行うことなく…』と規定しており、『精神障害であること』が法適用の前提になっている。日本政府は、『自傷他害の恐れなどのほかの要素も規定しているから精神障害だけを要件とはしていない』と強弁しているが、国連の権利委員会のガイドラインでは、ほかの要件が加えられたとしても、障害を理由とした自由の剥奪を禁止している」と明快に指摘した。さらに「17条には、『その心身がそのままの状態で尊重される権利』が規定されている。そこから、『多数者支配的な心身規範に依拠した医学モデル』は否定され、多様性の尊重がこれに替わる」つまり、「障害や病気はそのあるがままで尊重されなければならないということ」として、この点からも、強制入院や医療観察法による強制収容はまったく相容れないことを強調した。
続いて、医療観察法に基づく鑑定入院強制にたいする国賠訴訟をたたかっている弁護団の内田明さんと原告の母親からアピールがおこなわれた。この裁判は、本人が受けた診断である精神遅滞・発達障害について、いわゆる治療可能性があったのかどうか?。二つ目に、「事件」が起こって2年もたってから鑑定入院とされたことが適法なのかどうかが主な争点になっている。その上で内田弁護士は「国は、反論において『心神喪失を理由に不起訴や無罪になったものが時間がたったからといって医療観察法の適用を免れていいのか』と述べている。これは、法の建前としての『本人の治療のため』『社会復帰の促進』をまったく無視して、むき出しの保安処分の主張をしている」と強く弾劾した。母親は「私たちの子どものような、本来国が支援すべき人間に逆に罰を下すとは、という思いで裁判を起こしました」と悔しさをにじませた。最後に「骨格提言」の完全実現を求める全国大フォーラム実行委員会、全国「精神病」者集団、大阪精神医療人権センターが発言、集会を終えた。(島田秀夫)
田園回帰で地域を創り直す
成長至上主義からの転換を
11月26日 宝塚市
住民自治と社会変革を掲げた「市民の力で社会を変えよう! 第6期連続市民講座」は、11月26日に今期講座の内容的な柱の「地元を創り直す時代〜田園回帰と持続可能な地域社会〜」を兵庫県宝塚市で開催した。講師は一般社団法人・持続可能な地域社会総合研究所所長の藤山浩さん。
藤山さんは開口一番に、人口減少時代にいまだに成長を求めてタワーマンションに住む在り方に警鐘を鳴らした。個々人にとって大切なことは、「家族が揃いおいしい夕食を食べること」とし、それが持続できる社会生活を求めるべきと、都市住民に苦言を呈した。
内容的にはここ数年、ショックドクトリン的に「地方消滅」が言われ、その脱出策として地方創生が叫ばれてきたが、安倍政権は「個々人の幸せ追求と社会の持続」とは真逆の「いまだに成長を求めている」と批判した。そうではなく人間自身も生態系の中で自分の位置を定め、1年1年無理なく自然と共生し、30年・60年で循環していく社会生活を送るべきとした。
実践的にも藤山さんは島根県の中山間地に生活し、過疎や人口減を逆手に取り、破たんした都市生活に見切りをつけた人々をひきつけ、地域の所得の1%をとり戻し、人口を1%増やしていく生活を実践している。島根県をはじめ日本列島の「端っこ」の地域で持続可能な生活が始まっている。島根県邑南町や北海道下川町、高知県梼原町などでは、@自らの暮らしを自ら選び取る意志を持った自己決定力、A地域の資源・特色に根ざした循環圏の創設、B新たな「生態系」の形成〜移住者と次世代で多様性を育てる事が軸に座っている。そこでは、林業を生かした木造の町役場や小学校、住民出資の集落活動センター(ガソリンスタンド&商店)、バイオマスを生かした熱供給システムなどが稼働している。この基礎の上に、そこに住み続ける女性たちが先祖以来の知恵で商品開発をおこない多様な収入源を得ている。都市生活に比し低収入でも生活は十分可能である。
逆に都市近郊で40〜50年前に造られたニュータウンが世代的に継承されず、空き家・空き室が激増し崩壊寸前になっている。その反省もないまま都心部のタワーマンションに若い世代が住み始めている。30年・50年単位で考えると、世代を経て継承されない都市生活がいかに無謀であるか。そうではなく地方で1%の収入増と1%の人口増を小さなコミュニティ単位で作り出していくとき、田園回帰が可能で、そこにこそ豊かな社会生活があるとした。
安倍政権も「人口減少社会」に危機感を持ち、総選挙ではこれを「国難」としたが、内容的にはいまだに経済成長を求めるものでしかない。これに対抗する石破茂は『日本列島創生論』を打ち出し「アベノミクスのままでは国が亡ぶ」と危機感を燃やすが、それは藤山さんが唱え実践する「住民自治による持続可能な社会の建設」ではない。アベノミクスの破綻の裏で、経済成長至上主義でない持続可能な地域社会づくりが可能なことを考えさせられる講演会であった。(波多 健)
4面
寄稿
「明治百五十年」の真実を問う A 大庭伸介
民衆の支持広げる草莽隊を抹殺
黒船来航で始まった幕末の動乱も大詰めを迎えた1867年10月13日、朝廷から薩摩藩主に「倒幕の密勅」が下った(長州藩主には翌14日)。天皇が裁可した記述や押印がなく、何の資格もない三人の公家が連署したもので、公家の岩倉具視が中心になってすすめた「偽勅」である。
それと差し違えるかのように15日、天皇は将軍徳川慶喜が願い出ていた「大政奉還」を勅許した。これは慶喜自身が統一新政権の首班に座る構想によるものであった。幕府は「大政奉還」後も、経済の実権と外交権を握っていた。
肩すかしをくった討幕派は12月9日、クーデターを起こして「王政復古」の大号令を発した(新政府誕生)。そして慶喜に内大臣の地位と所領約四百万石のうち二百万石を差し出すように迫った。これを不服とする旧幕府勢力は大坂城に立てこもって対抗した。双方のにらみ合いが続いたが、新政府内部の対立もあり、旧幕府側の優位を崩すのは困難であった。
西郷が挑発行動を画策して内戦へ
かねてから薩摩藩の西郷隆盛らは武力倒幕の方針を固めて、開戦の大義名分を得ようと挑発行動を画策していた。この年の9月末、西郷は京都三条の料亭に相楽総三を招いた。西郷に相楽を紹介した同藩の伊牟田尚平と益満休之助、少し遅れて大久保利通も同席した。
相楽は下総の裕福な郷士の四男。22歳で江戸に兵学と国学の私塾を開き、門弟は百人を超えた。彼の教えた国学は復古神道の系譜をひく国粋主義で、当時の規範と秩序を批判する尊皇攘夷運動の理論的支柱であった。また相楽は水戸藩天狗党の筑波山挙兵など関東一円の諸蜂起で重要な役割を果していた。
その席で西郷は、関東で騒乱を起こして、幕府の側から軍事行動に出ざるをえないように仕向けてほしいと依頼した。西郷はその実行部隊に相楽たち「草莽」の士を選んだのである。草莽とは武士身分以外の尊王攘夷派の志士を言う。この企てには岩倉も賛同していた。
以前から相楽が上州や信州・武州を歴訪して同志を募っていたので、五百人を超える草莽の士が江戸の薩摩藩邸に集まった。その前年関東一円で農民一揆が起こっていた。その地方の豪農を中心に関東の尊皇攘夷派が総結集したのである。その組織方法は同志的結合=個人的盟約を媒介とした。さらに遠方からの脱藩浪士も加わった。彼らは薩摩藩邸を根城に行動したが手弁当であった。相楽は父から二千両をもらって隊の資金に充てた。
相楽は総監として伊牟田や益満らと打合わせて、まず野州の出流山で挙兵した。広汎な一般農民層まで組織し、大量の犠牲者を出しつつ攪乱作戦をおこなった。さらに甲府や相州でも武装反乱を起こした。
11月中旬には江戸市中で行動を始めた。毎晩数十人で富豪宅の板戸を鉞でたたきこわして押し入り、「勤皇の御用金を出せ」と、多額の金や幕府に売り渡す武器弾薬を奪った。また関東取締出役の屋敷を襲って彼らを傷つけ、これ見よがしに薩摩藩邸に引き揚げた。
彼らは市中警戒の主力庄内藩の屯所にも小銃を撃ちこみ護衛兵を殺傷した。江戸城二の丸も焼失させた。手引きをしたのは13代将軍家定の正室篤姫の輿入れに付き添って、大奥に勤めていた薩摩藩出身の女性であった。江戸は完全に無警察状態に陥った。庄内藩は老中の命を仰いで12月25日、他藩の兵と三田の薩摩藩邸を包囲して焼き払った。相楽たちはいち早く、品川沖に停泊させておいた薩摩藩の軍艦に乗り移って京都に逃れた。
事件の知らせを受けた前将軍の慶喜は、旧幕兵や会津・桑名の藩兵らの激高した勢いに押されて「討薩」の命を下した。彼らは十分な戦闘隊形を整えないまま、大挙して京都に向かった。一方、薩摩・長州が主力の新政府軍は京都南郊の鳥羽・伏見に陣を構えて待ち受け、わずか一日の戦闘で圧勝した。1868年1月3日のことである。
西郷は京都にたどりついた相楽たちに、「藩邸焼討事件によって戦端が開かれた。鳥羽伏見の戦に勝利したのも諸兄の活躍の結果に他ならない」と、手をとり涙を流して感謝した。事実、江戸薩摩藩邸焼討事件は幕末政治史上、画期的な出来事であった。西郷ら倒幕派と慶喜たち旧幕府側とが置かれていた状況を、一気に逆転させたからである。
さらに西郷は相楽たちに、もう一度奮発して慶喜追討の先鋒隊に加わってほしいと頼んだ。すでに十分戦功を積んできた相楽たちを、再び最も危険な部署=死地に配置したのである。ここに利用できるものは何でも利用し、その成果を独り占めしようとする大藩出身の西郷のエゴイズムを見ることができる。
相楽は薩摩藩から金百両と小銃百丁・弾薬をもらい、近江の湖東三山の一つ金剛輪寺で赤報隊を立ち上げた。総勢約三百人の隊の構成は、相楽総裁以下ほとんど江戸の薩摩藩邸のときと同じだった。
新政府は慶喜追討のために臨時の総督府を設けた。赤報隊は1月10日、東山道鎮撫総督府の本隊より1カ月早く、東山道を江戸に向けて進発した。この方面は旧幕府側の諸藩が多かった。赤報隊の任務は各藩から勤皇の誓紙をとりつけ、情勢を探索し、それを総督府に報告することであった。
彼らは彦根藩から大砲三門、ミニエー銃50丁と弾薬、旧幕府若年寄永井尚志の家来から鉄砲35丁の献納を受け、美濃の旧幕府領を接収した。そして2月6日には信州の下諏訪に仮本陣を構え、ここからは小部隊編制をとった。すべてにおいて敏活な彼らの行動が、信州十藩の機先を制したのである。
さらに赤報隊は年貢半減令を布告した。旧幕府領や旗本の知行地の年貢を、前年の未納分も含めて半減する内容である。相楽が新政府に建白書を提出して裁可されたもので、1月14日、全道に布告された。赤報隊の宿営地には「年貢半減」の大きな高札が掲げられた。民心を旧幕府から引き離す名目であったが、相楽は新政府の許可した範囲を超えて、諸藩にまで及ぼそうとした。年貢半減は2年前全国各地で起きた農民一揆の要求項目に明示され、その成果を踏まえたもので、社会変革の原動力になっていた。
民衆は赤報隊を喜んで迎え、金や穀物類を差し出した。農民から新たに入隊する者もあり、それが隊の活動を励まし自信を与えた。赤報隊は新たに加わった者を同じ志によって結ばれた兄弟であるとし、旧来の身分にこだわらなかった。赤報隊は最大時、八百人を超えるまでになった。さらに彼らは各方面に繰り出し、落ち延びていく会津や桑名の藩兵から糧米などを没収して窮民に与えた。
ところが新政府は1月末、「赤報隊は偽官軍である」という噂を流し始めた。軍資金不足で悩む新政府の財政の増収を図るため、年貢半減令をわずか2週間で取消した(相楽がそれを知ったのはかなり後のことである)。そして年貢半減令が正式な命令ではなかったことにしようと、相楽たちに京都に引き返すことを命じた。2月10日には東山道総督府から「赤報隊は強盗無頼の偽官軍である。手当たり次第召捕れ」という通告が出された。
赤報隊の軍律は厳正で、民衆には親切丁寧に接した。地方的な記事を最も詳しく掲載している『復古記』(太政官編)にも、東山道の一般民衆が赤報隊の非道を訴えた件は全く見当たらない。そもそも「強盗無頼」というレッテルは、江戸時代に農民一揆の首謀者を処罰するときの決まり文句であった。
赤報隊は命令を無視して進軍し、先遣隊は上信国境の碓氷峠を占拠した。相楽は当初から東征軍の勝負は碓氷峠の攻略にかかっていると見ていたのである。彼らの一部は上州各藩にも工作の手を伸ばした。赤報隊はさらに「貧民改め」をおこなって救済の手を差し伸べた。
そのころ上州や信州北部では「世直し一揆」が燃え上がっていた。横浜の開港で物価が急騰して生きていけなくなった農民たちが、商人や高利貸・地主に質物や質地を返せと立ち上がった。さらに村役人の罷免や年貢の軽減を求めて打ち壊しに出たのである。
新政府軍は西国諸藩が主力で、関東の民情や地理に疎かった。赤報隊は関東の事情に詳しい自分たちが先駆けて旧幕府勢力の反撃に備えようと、使命感に燃えていた。
しかし信州各藩は総督府の通告を機に、それまでの日和見的態度から新政府側に転じるチャンスと見て、赤報隊に攻撃を仕掛けてきた。赤報隊は小部隊で各地に分散していたので抵抗できず、主力メンバーは囚われの身となり、脱走する者も相次いだ。
本営からは再三召喚命令が出ていたので、相楽は本営のある美濃の大垣に戻った。彼はそこで赤報隊結成の経過と軍令を無視した理由を大いに論じた。さらに今後は薩摩藩が先鋒を担うという主張を、自分たちこそ最もふさわしいと拒否した。これに怒った薩摩藩は総督府に赤報隊の討伐を迫った。
その結果、総督府は2月10日の討伐命令を取り消し、相楽たちに東山道軍ではない東海道軍中の「薩摩藩に委任」するという沙汰書を手交した。赤報隊の生殺与奪の権を薩摩藩に与えたのである。さらに今後は金穀を総督府が支給すると告げた(実際には支給されなかった)。しかし実はその2日前、総督府は信州各藩に相楽たちの捕縛命令を出していたのである。総督府は岩倉の二人の息子が正・副の総督で、薩摩藩の意のままになっていた。
相楽たちは総督府のお墨付きを得たと楽観して信州に戻った。間もなく、軍議を開くから総督府本営に即刻出頭せよという東山道軍の厳命が届いた。相楽たちは本営のある下諏訪に到着するや、いきなり取り押さえられ、一昼夜以上も寒雨のなかで木にくくりつけられたうえ、何の取り調べもなく3月3日、衆人環視のもとで処刑された。相楽たち8人の首は雪中にさらされた。残った隊員たちもすべて処罰されて赤報隊は壊滅した。
長州の奇兵隊をはじめ全国各地に輩出した草莽隊のなかで、赤報隊は最も農民に近接した存在であった。相楽たちの謀殺は彼らが新政府の意図をのりこえ、各地に広がる「世直し」の大蜂起と結びつくことを恐れた処置であった。赤報隊同様に全国各地の草莽隊は、いずれも利用され、弾圧され、抹殺された。物理的強制=暴力の正当性を独占しようとする国家意思に根差すものである。
後に島崎藤村の小説『夜明け前』の主人公青山半蔵(島崎正樹)は相楽たちの塚の前で、「御一新はこんなことでよかったのか」とつぶやいている。
相楽たちが謀殺されたとき、西郷は東征大総督府参謀として、2月12日京都を発ち東海道を江戸に向かって進軍中であった。「西郷はこの事実を知らなかったのかもしれないが、自分たちがさんざん利用した相楽を救うためにどんな手もうっていない」―これは西郷を「文句なしに最大最高の変革期の指導者」と評価する歴史家井上清の言である。
(つづく)
〔2017年12月16日 記〕
【訂正】
前号(236号)4面
●見出し
(誤)琉球を隠れミノとした密貿易と
(正)琉球を隠れミノにした密貿易と
●3段目1行目
(誤)新政府軍5千人
(正)新政府軍約5千人
●6段目6〜7行目
(誤)子どもがサトウキビを
(正)子どもが砂糖を
5面
沖縄問題はだれのものか?
大学生が沖縄集会を開催
12月3日 大阪
沖縄への基地押しつけと貧困社会を変えたいと、大学生が集会を企画運営 |
12月3日、大阪市内で「学生が出会った沖縄〜沖縄問題はだれのものか?〜」集会が開催され150人が参加した。主催は〈学生企画ネットワーク〉で、学生が中心となって企画運営。ストップ! 辺野古新基地建設! 大阪アクションが応援した。
冒頭の発言は関西大学の女子学生2人。1人目の学生は、はじめて訪れた辺野古座り込みを自ら撮影した新鮮な感性でとらえたビデオ『映像でとらえた沖縄2017』を上映しながら画面に合わせて発言。
2人目の学生は、沖縄への基地押しつけと学生の貧困をもたらす社会を変えたいというアピールをおこなった。(発言要旨は別掲)
沖縄から翁長久美子名護市議と安次富浩ヘリ基地反対協・共同代表が発言。
翁長さんは、「来年2月4日は名護市長選。稲嶺市長は基地再編交付金が打ち切られた状況でも、市職員とともにアイデアを出し工夫をして、予算を増やしてきた。名護市内の建設業者の仕事は以前より増えている。市長になる前からやっていた小学生の通学の見守り活動もずっと続けている素晴らしい人。しかし前回の衆議院選挙では、名護市を含む沖縄第三区でオール沖縄の玉城デニーさんは勝ちましたが、名護市内の票は稲嶺さんの前回市長選挙の獲得票より1500票減らしています。単純な比較はできませんが、政府はあらゆる手段で巻き返しに来ます。気を引き締めていかなければならない。明日は女性総決起集会をやります。みなさんどうか辺野古に、名護に来てください。ゲート前に座り込み、ポスティングを手伝ってください。やることはいくらでもあります」と市長選への応援が呼びかけられた。
安次富さんは「(沖縄の)現場報告は他の人が話すので」と断ったうえで、ショーン・マクブライド平和賞の授賞でスペインのバルセロナに招かれたことを報告した。
東京MXテレビの沖縄ヘイト番組に抗議し、毎月第2、第4木曜日にMXテレビへ抗議行動をしている東京の仲間がアピールした。
大阪から辺野古に移住した仲間が、辺野古の状況を報告。意気軒昂とたたかう辺野古の雰囲気がそのまま伝えられた。
関西大学・女子学生のアピール(要旨)
私は大学一年生の時『圧殺の海』という映画を見ました。こわくて、かわいそうで涙が止まりませんでした。カヌーで漕ぎ出したおじいさん、おばあさんがムキムキの海保の隊員に海に放り込まれ引きずりあげられる。高齢の人をいじめるこの社会はおかしい、かわいそうすぎる、と最初に感じました。それからなぜ、おじいちゃん、おばあちゃんたちは基地建設の工事に反対をしているのか知りたいと思いました。
生協の合宿で沖縄に行く機会があったので、私は参加しました。まずジェット機が墜落し、11人の小学生が犠牲になった宮森小学校の事故当時のお話を関係者から聞きました。また元沖縄県知事の大田昌秀さんのお話を聞きました。大田さんは沖縄戦の最大の教訓は、軍隊は国民を守らないこと。だから武力ではなく平和な関係を近隣諸国とつくっていかなければならないとお話されました。
こういうお話を聞くうちに、沖縄のおじいやおばあがどういう気持ちで基地反対の行動に参加しているかわかってきました。沖縄戦の苦しみは繰り返してはいけない、その強い気持ちから、おじいやおばあは行動に立ち上がっています。
そしてこれを踏みにじっているのが、日本政府であり、その政府を許している私たち本土の人たちの沖縄への無関心だと思いました。
沖縄は沖縄戦で捨石にされました。最初、私は「かわいそう」と思いました。しかし加害者は沖縄を今も捨石にする政府と、これを許し沖縄に無関心でいる自分だと思いました。「沖縄の基地は平和のために必要だ」などといって、沖縄の地獄が続いていいはずはありません。私は沖縄の人々の犠牲の上に生きるのは絶対に嫌です。
おじい、おばあの基地を許さない意思はとても強いものでした。そしてゲート前には、小さな子どものお母さんやお父さんも来ていました。若者も来ていました。みんなが「不屈。勝つ方法はあきらめないこと」と心を一つにしていました。
若者は保守化しているといわれます。今、若者は貧困にさらされ、社会のことを考える余裕がありません。私の友人には1杯230円の生協のうどんを食べず、1杯170円のカップめんで昼食、夕食を済ませている人がいます。明日は今日より良くなるという希望が持てず、社会に関心が持てず保守化してしまっています。
でも私は苦しんでいる学生の仲間とともに沖縄と貧困の問題を考えていきたい。どちらもつながっていることに気が付けば、この社会を変えることができると確信しています。
投稿
ソウル参与連帯を訪ねて
兵庫 江田 利朗
参与連帯の本部ビル(ソウル市) |
私がソウルにいきたいと思ったのは、パククネ大統領を打倒したろうそく革命について知りたかったからだ。
参与連帯のAさんの話。1987年の民主化闘争時、鉄パイプ、火炎瓶でたたかった学生たち(386世代)と市民が2008年のたたかいの失敗を乗り越えて2016年のろうそく革命をたたかいとったという話が最も印象深かった。386世代とは60年生まれ、80年代学生、90年代が30代という意味だ。Aさんもその世代だ。民主化闘争の後、それぞれ労働運動、市民運動に入っていった。
08年のろうそくデモの失敗とは、各党派・グループが「自らの正しさ」を示すために急進化したことにあるという。世の中を変えていくためには中道、保守をいかに獲得していくのかがカギになる。人民にたいする深い信頼がなければできないことだ。
「ムンジェイン政権を支える」ということを柱に、非正規雇用労働者の正規雇用化、長時間労働問題の短縮、最低賃金の引き上げ、THAAD配備反対のたたかいを推し進めている。
無論、政権の全てがOKという立場ではない。政権成立以後、民主化闘争、セウォル号、労災・環境問題の真相究明の動きが活発化してきている。北朝鮮のミサイル問題は韓国、アメリカ、日本の人民の交流・共同闘争の積み上げが大事だと思っていると語った。
ろうそく革命にふれて、日本においてどのようにたたかっていくのか。「オール沖縄」を守り発展にむけ共にたたかうこと。安倍自公政権がすすめる憲法改悪を阻止するために中間層などと共にたたかう体制、共闘をつくりだしていくこと。そして、民主党政権の崩壊を総括していくことが重要だと思う。
加害の歴史から戦争の真実を知る
「80年目の南京」 元日本兵の証言
11月26日、「80年目の南京」集会(主催:同実行委員会)が大阪市のドーンセンターでおこなわれた。集会には450人が参加し、会場はほぼ満杯。湯谷茂樹さん(毎日新聞編集委員)が「記者が報じた南京大虐殺」というテーマで講演した。また、三谷翔さん(元日本軍兵士、南京事件の体験者)の証言記録『元兵士が体験した南京大虐殺』、中国・江蘇電視台制作ドキュメンタリー『外国人が見た南京大虐殺』の第9編「被害者と長年歩んできた女性教師」が上映された。
1937年7月7日盧溝橋事件から12月にかけて、当時の新聞がこの過程をどのように報道したのか、湯谷さんは当時の新聞記事を示しつつ解説した。連日、新聞記事には「膺懲」(こらしめること)という言葉が躍っており、この戦争は「(日本人の)命と暮らしを守るための自衛戦」であると報じている。その行きつく先が、南京大虐殺であった。最後に、湯谷さんは「加害者は事実を忘れても、被害者はその事実を忘れない。加害の歴史を見ることなく、被害の歴史を語ることはできない」と述べた。
三谷さんの証言記録は、現場を見た者でなければわからない迫力があった。当時、三谷さんは海軍兵士として駆逐艦「海風」に乗っていた。海軍も南京入城式に参加するため、「海風」は揚子江をさかのぼって南京近くに停泊していた。12月17日から25日まで、三谷さんは甲板から虐殺の現場をつぶさに目撃した。「ダダダダダンという重機関銃の音を聞いた。河川敷を見ると、人の群れがバタバタと倒れていた。毎日、中国人がトラックで運ばれてきた」と三谷さんは語る。佐世保港に帰った時、上官から「南京で見たことは、いっさい口にするな」と口止めされた。
三谷さんは、この集会で自らの体験を証言するはずであった。しかし、今年9月9日に98歳で亡くなった。三谷さんはメディアの取材に応じてきた南京戦の経験者では最後の生存者だった。
中国・江蘇電視台制作、同タイトルのドキュメンタリーは10編のシリーズで制作されている。そのうち日本人としては、東史郎さん(元日本軍兵士)、松岡環さん(ジャーナリスト)、笠原十久司さん(歴史研究者)の3人が取り上げられている。今回上映された第9編『被害者と長年歩んできた女性教師』は、松岡環さんの活動に焦点をあてたもの。松岡さんは加害者の兵士と被害者の住民の双方から精力的に調査・取材し、著書や映画にまとめている。松岡さんの活動がよくわかる。
最近、日本では戦争被害だけが強調される傾向にある。加害の歴史を見つめなければ、戦争の真実を知ることができない。このことの大切さを痛感する集会となった。(津田)
6面
立ち上がる介護労働者
大阪初のデモに注目集まる
11月11日
11月11日、総がかり集中行動が大阪市内で実施された。写真は、JR京橋前の介護ウェーブ宣伝のようす |
疲弊する介護労働者
日夜、介護現場は火の車だ。労働者は極限的な人手不足の中で疲弊しきっている。つぶされるか、逃げ出すか。辞めれば残された者にさらに負担がのしかかる。
全産業の平均より月額10万円低いと言われる賃金。退職金・年金も含めた生涯賃金では数千万円の差だ。劣悪な労働条件と人手不足の悪循環を背景に増え続ける虐待。利用者が亡くなり「大事件」に至って初めて報じられる「百数十人の入所者を2人の夜勤者で見ていた」などの実態。
高額な入居費用をとっている施設でも例外ではない。どれほど過酷で非人間的な労働が強いられていたか。想像をはるかに超える現実がある。
家で暮らす高齢者を支える訪問介護やデイサービスの多くは中小零細事業所が担う。訪問介護に就くヘルパーは「登録型」の非正規職が圧倒的に多く、50代60代の女性が主力、70代も頑張っている。
介護をしている時間しか時間給が払われず、移動時間や記録をつける時間はただ働き同然(労基法違反)という事業所が多い。人手不足は深刻だ。募集しても募集してもヘルパーが来ず、閉鎖に追い込まれる事業所が増えている。
300万人いるヘルパー2級が介護の仕事に来ない、離れていく。介護労働安全センターの調査では「給料が安い」「仕事がきつい」「社会的評価が低い」が三大原因である。低賃金と劣悪な労働条件の要因は介護保険制度そのもの、低い介護報酬、そして国・自治体が「処遇改善」のために税金を使わないことだ。
労働者は叫ぶ!
国は、11月11日を「いい日、いい日、介護の日」とキャンペーンする。今年5月に立ちあがった〈介護・福祉総がかり行動〉は、この秋「2017秋の連続行動」に取り組み、この日を集中行動日としてデモ・講演会・駅頭宣伝活動をのべ500人の参加で展開した。
午後1時、介護労働者、労働組合を中心に医療関係者、高齢者や「障害者」が扇町公園に集まって集会を開いたあと、90人で街にくり出した。称して「『いい介護の日』? そりゃあゴカイ! 現場から叫ぶ! デモ」。そして叫んだ。「ヘルパー大事! ばあちゃん大事! じいちゃん大事! 介護の切り捨てあきません!」「『生活援助』は命綱! 生活できる給料が欲しい! 誇りをもって働きたい! 命が大事! 武器より介護! 戦争より福祉!」
介護労働者の初めてのデモは市民の注目と共感を集めた。
「要支援者切り」で犠牲者
2000年に始まった介護保険制度は2015年大改悪で大きな曲がり角を回った。一言で言って「保険料あって介護なし」へと突き進んでいる。制度設計をおこなった元厚生省の高官が「国家的詐欺」と怒りをあらわに非難する程である。
四大改悪がおこなわれたが、そのなかの一つが「要支援者」にたいする訪問介護(ホームヘルプ)とデイサービスを介護保険から切り離し市町村の総合事業へ移行させるものだ。本年度で全国すべての市町村で移行が完了する。生省の高官が「国家的詐欺」と怒りをあらわに非難する程である。
これは、今まで国の責任で、全国一律に保障してきたサービスを止め、市町村の任意事業に移すということである。任意とはやらなくてもいいということ。しかも事業にかける費用をそれまで以下にしなければならないとしている。国は「高齢者が増えて大変、各自治体が実情に応じて多様な担い手による介護事業を自前でやっていけ」と丸投げしたのだ。当然、そのしわ寄せは住民、介護事業者、介護労働者が受ける。今まで通りのサービスを継続した自治体もあるが、「無資格者による安上がり」サービスのみにしたところもある。さらに「卒業」と称してアメとムチで要支援者から冷酷にサービスを取り上げる自治体がある。「住民主体」の名のもとに全て利用者と住民の「自己責任」、行政は何の責任もとらない。冷酷に「要支援切り」にまい進する自治体を国はモデルとして全国化しようとしている。
最悪の例が大阪府大東市である。NHK「クローズアップ現代+」で「先進的取り組み例」として紹介されたが、実際にはサービス取り上げにより「要支援1」だった人が「要介護5」に重度化する事態も映し出され全国に知れ渡った。今、本人と主治医、住民団体などが市と国の責任追及に立ちあがっている。
2015年4月には介護報酬の大幅引き下げも強行され、在宅高齢者の暮らしと命を支えてきた介護事業所の倒産が過去最多を記録している。「施設から地域へ」の標語をかかげ、「住み慣れた地域で自分らしく生きる」「介護と医療が連携した地域包括ケアシステムの構築」とうたっているが、小規模事業所の倒産・閉鎖はよしとしているのだ。国は大資本が介護・医療一体で統合支配していくことを狙っている。
これ以上の介護報酬引き下げは断じて認められない。
「介護度改善」は目的ではない
今年5月には追い打ちをかける改悪案が国会を通過した。介護保険法の他30の法律改定をひとまとめにしたもので「地域包括ケア強化法」と呼ばれ、6月施行された。本格的改悪は来年度に始まる。同時に介護報酬改定がおこなわれ、現在、社会保障審議会介護給付費分科会で「給付削減ありき」の厚労省案が検討されている。
今回の法改悪は介護保険の「目的変更」という根幹に関わる大改悪を含んでいる。介護保険の目的を「介助サービスからの自立支援」と解釈変更したのだ。条文の「自立」という言葉を切り取り、「自立=介護を受けないこと」と解釈し、「介護サービスを使わないように支援するのが目的だ」としたのだ。そのために市町村ごとに自立の目標を立てさせ、結果の公表を義務化し、介護度の改善や認定率の低下、介護給付の削減成果に応じて交付金を出す「財政インセンティブ」が法に書きこまれた。何をもって、誰が成果を判定し、いくらの交付金を出すのかなど、現在検討中である。市町村に「介護度改善」や「認定率低下」を競わせることは必然的に地域包括ケアセンターや事業者を通じて利用者・高齢者・家族に「自立を強要」することにつながる。事故のリスク、「改善」が見込めない人の排除、家族関係の悪化など関係者が追い詰められる。
加齢と疾病、認知症などで「介護が必要」と判断された人が、人間らしく生活を継続できるようにするのが介護保険である。自立とは、どんな状態になっても自分らしい生活を自分自身で選択できることであり、「他人の介護を受けない状態」ではない。
「生活援助」を守ろう
現在、社会保障審議会介護給付費分科会の審議で大きな焦点になっているのが、調理や掃除など家事を中心とした訪問サービスである「生活援助」の切り下げである。介護報酬を大幅に減らし、ヘルパー2級でなくてもよいとする方向で検討を進めている。しかし「生活援助」は健康な人にたいする家事代行とは異なる。実際の訪問介護は「生活援助」と「身体介護」が一体的、総合的におこなわれており、それ故、在宅高齢者の「命綱」となってきた。救急車をよぶ事態、死亡、詐欺、家族の虐待などさまざまなケースにも出くわす。利用者との適切な関係性を築き、家事をしながら生活全般、健康状態を注意深く見守り、ケアマネジャーや医療関係者と連携してさまざまな危険や事故の回避、健康状態の悪化の防止、命を救うための対応まで求められるのが訪問ヘルパーなのだ。
「生活援助の報酬をさげるな!」「資格要件を緩和するな!」など生活援助切り捨て反対の切実な声が、全国から厚労省と社会保障審議会へ送られている。
先の「2017秋の連続行動」はこうした状況の中で展開されてきた。さまざまな立場で介護に関わってきた人々が「介護保険制度の解体を許すな」の共通の思いでつながり、コラボし、総がかり行動を広げている。来年4月大改悪を許さないためにさらに大きな力を結集しよう。(土田花子)