民衆の力で改憲阻止へ
“安倍を倒せ” 各地で行動
11月3日
安倍首相は、今月5日から7日にかけて来日したトランプ米大統領との共同記者会見で、「朝鮮民主主義人民共和国にたいする圧力を最大限にまで高めることで一致した」とのべた。戦争の危機をあおる日米首脳に怒りの声が高まっている。11月3日には、安倍政権による憲法改悪に反対する行動が全国各地で取り組まれ、国会前には4万人が参加した。
11月3日、安倍政権の9条改憲を阻止するために発足した「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション」は、「戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会」と共催し、国会周辺で「11・3国会包囲大行動」を開催。約4万人が国会を包囲した。
集会では、ルポライターの鎌田慧さんが「国会では立憲野党は少数だが、デモや集会の力、市民の力で、改憲発議を阻止しよう」と呼びかけた。また、作家の落合恵子さんは「本当の安全保障とは、原発をなくし、米軍基地をなくし、憲法を守ることだ。諦めることなく前に進もう」と訴えた。
ピースボートの共同代表で〈核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)〉国際運営委員の川崎哲さんは「核兵器廃絶と憲法9条は、あの戦争からの教訓だ。9条をまもり、核兵器を世界からなくすことが、私たちの進むべき道だ」と、安倍政権をきびしく批判。韓国の朴大統領を倒した市民運動を担った金泳鎬さんは「日本の憲法9条はアジアの宝だ。9条改憲は戦前のファシズムへの復帰と新しい軍国主義への出発であり、周辺国の軍拡をまねく」と警鐘を鳴らした。続いて立憲民主党、日本共産党、社民党の各政党の代表が登壇。自由党はメッセージを寄せた。
多くの発言者が「改憲発議をさせてはならない」と訴えた。全国市民アクションが呼びかける9条改憲反対3000万署名を達成しよう。(2面に関連記事)
京都集会に2400人
野党各党が護憲アピール
11月3日、京都憲法集会が円山音楽堂でおこなわれた。今年は例年の憲法9条京都の会だけの主催ではなく、安倍9条改憲NO! 全国市民アクション・京都との共催でおこなわれ、2400人が参加した(写真)。政党あいさつは、共産党の穀田恵二衆議院議員はじめ社民党、新社会党、自由党、緑の党からあり、立憲民主党の福山参議院議員からのメッセージが読み上げられた。
講演を憲法学者の山内敏弘さんがおこなった。憲法アピールは、真宗大谷派の工藤美弥子さん、エキタス京都の橋口昌治さん、自由と平和を目指す京大有志の会の駒込武さん、安倍9条改憲NO! 全国市民アクション・京都の藤井悦子さんらがおこなった。駒込さんは、選挙で若者の投票が自民党に多いことについて、若者との対話を踏み込んでやろうと話し、藤井さんは、安倍改憲NO! 3000万署名を成功へ、京都で60万署名を実現しようと訴えた。集会後、市役所前までデモ行進をおこなった。
3千万署名を達成しよう
2万人が参加 おおさか行動
「憲法こわすな」「戦争アカン」と書かれたボテッカーを一斉に掲げてアピールする参加者たち(3日 大阪市内) |
3日、大阪市中央区の中之島公園で「9条改憲を許さない!11・3おおさか総がかり集会」が開かれ、2万人が参加した。主催は実行委員会。集会では安倍9条改憲NO! 全国市民アクションがよびかける9条改憲反対署名3000万目標の達成が呼びかけられた。
ゲストスピーカーとして、評論家の佐高信さんが発言。また日本共産党、社民党、自由党、立憲民主党の代表や国会議員が壇上に勢ぞろいしてあいさつし、市民と野党の結束をアピールした。各分野からの発言では、寝屋川市原爆被害者の会の山川美英さん、森友学園問題を考える会の木村真さん、辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動の陣内恒治さん、朝鮮学校への差別を許さない活動を続けている東大阪朝鮮中級学校オモニ会の申麗順さん、大阪朝鮮高級学校オモニ会の高己蓮さん、「大阪市を失くすな」と活動する市民会議の池田裕子さんが発言。最後に「憲法をこわす安倍政治を終わらせ、平和と命と人権を大切にする政治を求め、さらに運動を大きく前進させることを宣言します」との集会宣言を採択し、大阪城、扇町、西梅田に向け3コースに分かれてパレードした。
主な発言
大衆運動で憲法改悪は止められる
戦争をさせない1000人委員会・大阪共同代表 米田彰男さん
総選挙で私たちは野党共闘の力で改憲派3分の2を許さない共闘を模索してきたが、小池、前原、連合がもくろんだ政界再編の結果どうなったか。与党に3分の2を許してしまった。しかしこの選挙で私たちは3党の野党共闘を市民連合と共に取り組んだ。結果、野党共闘の多くの方が当選した。これによって次の選挙では絶対に阻止するという展望が見えたと思う。
改憲をめぐって非常に重要な局面を迎えている。3000万署名を実現しよう。日本会議も改憲賛成の署名活動をやって国民投票の準備をしている。これを上回る署名運動をやらなければならない。そのことを職場や地域で力説してほしい。最後にたしかに与党は3分の2を超えているが、大衆運動は国会の議席だけではない。私たちの運動がどのように盛り上がるかによって改憲は止められる。その固い決意をもって今日の集会を貫徹しよう。
安倍政権を下からひっくり返そう
ジャーナリスト 佐高信さん
アベノミクスと改憲とのつながりについて話したい。新自由主義とは会社にとっての自由主義で、働く者にとっては不自由主義だ。株価は上がっても私たちには豊かさはもたらされない。本当は私たちの購買力を高めなければならない。ところが会社にとっての自由の最たるものが派遣労働の解禁だ。若い人の5割以上が派遣。これでどうして子どもが産めるのか。竹中平蔵ら新自由主義者は見事に改憲論者だ。作家の城山三郎さんは「戦争はすべてを失わせる。戦争で得たものは憲法だけだ」と言った。彼は17歳で海軍に志願したが、それは国家や社会によって「志願を強制された」と言っている。いま安倍によって社会にそういう空気が作られている。私たちは改憲の問題も含めて安倍政権を下からひっくり返さなければならない。
2面
変えよう! 日本と世界 共同行動 in京都
新しい運動、政治勢力形成へ
10月29日、「第11回反戦・反貧困・反差別共同行動in京都 変えよう! 日本と世界」(主催は同実行委員会)が円山音楽堂で開催された。台風22号の激しい雨のなかで、伊藤公雄さん(京都大学名誉教授)と金城実さん(彫刻家)が講演。
集会は仲尾宏さん(集会実行委・代表世話人)のあいさつから始まった。仲尾さんは「衆議院選挙の結果は、世間では自民党の圧勝と言われているが、有権者の20%しか獲得していない」「世界では新しい運動の形が生まれつつある。安倍の改憲を阻止するために、新しい運動をおこそう。新しい政治勢力として登場しよう」と訴えた。
伊藤公雄さんは、「総選挙を受けて、戦争と戦後平和主義を問う」というテーマで講演し、次のように述べた。「安倍政権はあらゆる意味で危機的な状況に陥っている。選挙の結果、希望の党は増えず、公明党は減少、立憲民主党がふえた。この意味をしっかり押さえておくべきだ。今後、政治の流れは憲法9条・改憲問題がメルクマールになるだろう。いまや、われわれは官邸の独裁という全体主義化にどう対抗していくかにさしかかっている。この流れに歯止めをかけなければならない」と訴えた。
金城実さんは、沖縄の怒りを体現して、次のように訴えた。「沖縄では、木の幹である日本国憲法がくさり、枝葉の日米安保条約と日米地位協定がのさばっている。安倍政権は地位協定の一つも変える事ができていないのに、憲法を変えるというのはどういう事か」「瀬長亀次郎は、活動家とめしを食っただけで『共謀罪』(出入国管理令違反)で逮捕された。すでに辺野古では共謀罪が適用されている。この状況は沖縄から全国へと広がっていくだろう。権力者はいかに人民をだますかということだけを考えている。」「最近、沖縄独立とか革命の夢をみる。革命は民衆からおきる。やがて、沖縄と福島から革命がおきるだろう。立憲は革命のときに使う言葉だ。護憲はあかん、立憲がいい。革命の夢をもってたたかおう。」
服部良一さん(元・衆議院議員)が連帯のあいさつで、「今回の総選挙では野党共闘の統一候補として立候補した。残念ながら当選できなかったが、今後とも市民運動はがんばっていく。安倍政権がもくろむ9条改憲は絶対に許さない」と述べた。
川口真由美さんとおもちゃ楽団が集会をもりあげた。集会の締めくくりは、恒例となった「インターナショナル」を合唱。その後、京都市役所までデモ行進。参加者は「政治を私物化する安倍政権を倒そう」と訴えながら京都の中心街を歩いた(写真右上)。
総選挙 兵庫みなせんが討論集会
野党共闘の破壊許さず基盤拡大
11月5日午後、神戸市内で〈連帯兵庫みなせん〉の主催で、野党全政党と市民が参加して「選挙総括集会」が開かれた。開会はミナセン尼崎の弘川欣絵共同代表。弘川さんは兵庫県下で最初に生まれた「野党共闘推進市民団体」=「ミナセン(みんなで選挙)尼崎」の活動を振り返りながら、8区(尼崎)では共産党前職議員(比例)を「野党統一候補」として全野党と市民で応援し、公明党候補との一騎打ち選挙としてたたかった成果を報告した。
つづいて松本誠事務局長が総括を提起。主な論点は、@総選挙は小池新党の登場と民進党の合流による野党共闘の破壊、その結果の自公政権が3分の2議席を獲得した。Aしかし立憲民主党が登場し野党第1党となったことは「誤算」であった。B兵庫県下では〈連帯兵庫みなせん〉などの奮闘で「候補者1本化」が進んできたが、小池新党の登場で民進党予定候補者が1名を除いて希望と無所属で立候補。このため比例復活で立憲の1名が当選したが、12選挙区で全敗という厳しい結果となった。Cしかし比例で自民党は1855万、立憲民主だけで1108万ということは、「薄氷の勝利」でしかない。兵庫でも立憲が比例で38万5千、共産・社民で20万を獲得。これは今後につながる数字で、この2年のミナセンの運動は野党共闘の基盤を作った、とした。
続いて各政党から、それぞれ野党共闘の意義と選挙戦での奮闘と感謝の報告があった。
市民の奮闘
休憩をはさんで選挙戦を担った市民から奮戦記や政党への注文がなされた。7区(西宮・芦屋)は、野党共闘候補として協議を重ねて来た民進党元職が、「関西一番乗り」として希望の党に合流したが、小池失速を受け落選。みなせんでは上田幸子西宮市議(共産党)を応援し、これまでの共産党の票を2倍近くにする健闘となったと報告。
1区(神戸東)は自民党が弱く(前回比例復活)、安倍が直接応援に来た選挙区。ここでは民進党の現職議員(元々はみんなの党)が、支持者の半分は反対したが希望に移行し落選。「立憲でなら当選していた」の声は多く、今後も翻意を求めていくと発言。
6区(伊丹・川西・宝塚)は民進予定候補として活動してきた桜井周伊丹市議を、6区ミナセンが10月1日に囲む会を開き、「市議会での請願審議の際に、秘密保護法や安保関連法に反対投票をした。これを変えることはできない。無所属でも出る」との発言を受けて野党統一候補に決定。その後立憲民主党に合流し、伊丹の本部選対と宝塚の応援団(野党3党と市民)の二つの選挙事務所ができ、中川智子宝塚市長などの応援を受け、自民候補を激しく追い上げ比例復活にこぎつけたと報告。
ついで5区(丹波・但馬)からは、ここでも民進党元職を野党統一候補として支援するべく市民運動も共産党も積極的に活動してきた。しかし直前になって希望に移行し、ミナセンとしては動けなくなった。背後には「連合」の動きがあったと報告。
発言の最後に市民運動の先頭でがんばっている31歳の青年が、若い世代を獲得するため「一方的押し付け的なこれまでの運動を変革していこう」と提言した。
さいごに松本事務局長から、安倍改憲と2019年の参議院選挙へ向けてたたかう方針を打ち立てよう、とまとめが提起された。(耕)
破たんした原発政策と「福島の祈り」
第7回さようなら原発集会 いたみホール
10月29日、兵庫県伊丹市で「第7回さようなら原発1000人集会」が開かれた。集会準備期間は総選挙をたたかい、29日当日は台風襲来だったが、この企画を毎年担ってきた300人がいたみホールに集まった。
開会あいさつと司会は、地元で30年にわたり原発と立ち向かい、昨今は太陽光発電を運営している〈原発の危険性を考える宝塚の会〉田中章子さん。
「原発安い」はウソ
原発の経済的側面からの破綻性を指摘している大島堅一さん(龍谷大教授)が講演。大島さんは大きなスクリーンを使い、「原発は安全、原発は安い」などの原発推進の論拠を完膚なきまでに否定した。まず福島原発事故の費用は23兆円とし、事故対策費も入れると火力・水力よりも高コストを指摘。また原発ゼロでも電力の供給はできることを示したうえで、電力会社の言う「原発再稼働で料金値下げ」論を論破し、実践的には関西電力以外から電力を買おうと提起した。
続いてこの間、福島事故の責任を問い、再稼働に反対している福島原発告訴団、再稼働とたたかう若狭湾住民、反原発自治体議員・市民連盟から、それぞれ福島事故の責任を問い、再稼働を許さず、自治体議員が先頭になって発信していくという発言がなされた。
福島の祈り
休憩をはさんで後半は神田香織さんの講談『福島の祈り―ある母子避難の声』。神田さんは福島県いわき市の生まれ。高校時代に演劇を志した頃の思い出をユーモアを交えて語りながらも、舞台を暗転しての講談に入ると、その真剣な語り口に聴衆は圧倒された。物語は福島原発事故で故郷を離れざるをえなかった母子の物語で、原発事故に翻弄された人々の悲しみ、嘆き、怒り、悔しさを、講談として神田さんが伝える様子に参加者は引き込まれた。1時間余りの公演が終わると会場は大きな拍手に包まれた。
閉会あいさつに立った川上八郎伊丹市議は、選挙戦の先頭に立った疲れも見せず、神田さんの講談に深い感謝を表し、福島のことを忘れず、原発のない社会をめざして今後も取り組んでいくことを表明して集会を終えた。
広島
水島朝穂さん講演会
3日は街宣とデモ
安倍9条改憲NO!全国市民アクションに共同し、広島市内では11月2日、3日、連続行動があった。2日は午後6時から「2017憲法のつどい―安倍『9条加憲』を止める」が、ストップ! 戦争法ヒロシマ実行委員会の主催で開かれ、水島朝穂早大教授が講演した。
水島さんは「安倍政権は日本会議に乗っ取られた。権力者が暴走しないよう決めたものが憲法。独裁政権はメディアや司法に介入し、違憲判決を出させないようにする。そして教育に介入する」と話し、憲法を蔑視する安倍首相を批判した(写真右)。
実行委員会事務局長の難波健治さんは、実行委員会の名称を「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委会」と変更して組織を拡充し、憲法を生かす3000万署名を全県で推進しようと呼びかけた。
3面
投稿
50年目の羽田・弁天橋
あらためて反戦を誓う
市川 晋一
50年後の羽田・弁天橋に集まった「10・8山崎博昭プロジェクト」の発起人と参加者たち(2017年10月8日) |
2017年10月8日朝、私は弁天橋のたもとにいる。私の横には、あの日装甲車の上に乗り空港に向かって飛び降りたという人がいる。山ア君と一緒に機動隊の襲撃をはね返したという人がいる。橋の下に突き落とされたという人もいる。今その川で少年たちが釣りざおを並べている。見上げれば青空。当時の激突を伺わせるものは何も見えない。
50年前の1967年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナム訪問を実力で阻止するためたたかわれた第1次羽田闘争のなかで、弁天橋の上で機動隊とのたたかいの先頭に立った京大生・山ア博昭君が亡くなった。享年18歳。
それから50年目の今年10月8日、午前10時半から、80数人が参加し羽田・弁天橋の近くにある鳥居前の広場で献花・黙とうをおこなった。
羽田の記憶を残す
参加者全員の黙とうの後、10・8山ア博昭プロジェクトの発起人が次々とたって、当時の熱い思いを今も静かに燃やし続けている胸の内を語る。代表、山ア博昭君の兄・山ア建夫さんが、参加者や今日の企画を準備した人々への感謝とともに「50年です。50年は長いようで短いような気もします」と感慨深くあいさつ。
北本修二弁護士は、山ア君と大阪府立大手前高校の同期生で、京大生として50年前に共にたたかった。「50年前の今日、私たちはこの弁天橋のところで、佐藤首相のベトナム訪問阻止、戦争加担を阻止するためにたたかった。そのなかで、山ア君が、まだ18歳でその命を失われた。50年前と言っても、つい昨日のように思い出される。10・8羽田闘争の記憶、これを歴史に残すためにこういう活動を始めた。かつてベトナム戦争を阻止するために、ここで血を流した人たちがいたということはぜひ残していきたい」
ベトナムとの連帯
山本義隆さん(科学史家、元東大全共闘議長)は、今年の8月20日からベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館で開催されている「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展の監修者。「私は3年ほど前にこのプロジェクトに加わった。その目標である、記念誌を作る、記念碑を作る、ベトナムとの連帯を強化するという公約した三つのことを成し遂げることができた。博物館の館長さんから10月20日までの会期だったのを、11月15日まで延長したいと言ってこられた。ベトナム・ツアーに50人を超える参加者。今後もベトナムとの関わりは続くし、日本の反戦運動が改めて問われている」
さらに、故水戸巌さんとともに、「十・八羽田救援会」を立ち上げた水戸喜世子さん。「安倍政権の戦争政策の前で、今、私たちがこういう風に皆さんと集まって、原点に立ち返ることができた。私たちはまだまだ旬であると思います。5カ月間逮捕・勾留されていた沖縄の山城博治さんが“私たちが旬なんだ”と言ったその思いで、今日から出発したい」
第2ステージへ
続いて50周年記念誌『かつて10・8羽田闘争があった――山ア博昭追悼50周年記念[寄稿篇]』の編集人で大手前高校の同期の佐々木幹郎さん(詩人)。「ちょうど50年前の午前10時半から11時半までの間に、山ア君は弁天橋で斃れた。50年後の同じ時間、同じ場所に、わたしたちはいま集まっている。この3年間、われわれが目標として立てた三つの事業は、今日、全て完結した。今日から第2ステージへ向かおう」
最後に、今回の50周年集会に合わせて来日したベトナム・ホーチミン市の「ツーズー病院・平和村」のニー代表が日本語で訴えた。「ツーズー病院は、ベトナム戦争で使用された枯葉剤による、最も重症の『障害者』の子どもたちを介護しケアしている施設。応援よろしくお願いします」
五十周忌法要
献花・黙とうと発起人あいさつが終わり、私たちは徒歩で五十周忌法要をおこなう福泉寺に向かった。福泉寺(東京都大田区)は弁天橋への出撃場所となった大田区萩中公園に隣接している。私たちはあの日全学連が走り抜けた道を逆行して行った。福泉寺の墓地には、今年の6月にモニュメントとして「山ア博昭」の名を刻んだ墓石と、第1次羽田闘争と反戦平和を祈念する文章を刻んだ墓誌「反戦の碑」が建立された。本日が一般公開初日とされているが、6月以来花が絶えることがない。「反戦の碑」は以下のように記されている。
「反戦の碑」
一九六七年一〇月八日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本の首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学一回生山ア博昭が斃れる 享年一八歳 再び戦争の危機が高まる五〇年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山ア博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
二〇一七年一〇月八日
10・8山ア博昭プロジェクト
代表・兄山ア建夫建之
朝鮮学校
無償化求め全国集会
“貴重な勝訴 歴史的事態”
7月の大阪での勝利を挟んだとはいえ、同月の広島に続き、9月の東京地裁でも朝鮮学校高校無償化裁判は不当判決となった。
そのような状況のなかで、10月25日東京・代々木公園で「『高校無償化』裁判 全国集会」(実行委主催)が開かれた(写真)。
「不当判決でかえって団結は固まった。人権の最後の砦は司法ではなく我々自身だ」という司会の発言で集会が始まった。主催者あいさつでは、日韓の文化的交流を縄文時代からひも解き、「差別主義者が大手を振って政治の場に立ち、司法がこれに迎合する。もはや日本は無法地帯。日本人自身のために無償化は必要」と諌め、「大阪での喜びを東京でも、生徒に味あわせたいとの思いで、大勢の生徒を裁判所に向かわせたのに…」と無念を語った。
一方、弁護士からは「1勝2敗の2敗に目を向けるのではなく、貴重な1勝を評価しよう。真実に目を向けさせることができれば、勝利できることが大阪で明らかになった」と勝利を求める姿勢に本格的に立ち返るよう提起した。
他にも、「朝鮮学校が大阪で国に勝ったというのが、そもそも歴史的事態だった。まるで祖国解放のようだった」「分断は朝鮮半島だけではなかった」「生徒たちのありのままの姿を見て欲しい」などの発言があった。
「不当判決は権力に差別のお墨付きを与えるもの」と弾劾する集会アピール採択の後、渋谷に向けたデモ行進に移った。
米軍基地はいらない
京丹後市で抗議とフェスタ
11月5日
11月5日、「米軍基地いらんちゃフェスタin丹後2017」が京都府京丹後市内でおこなわれ、米軍基地前行動には200人、丹後文化会館での集会には650人が参加した(写真下)。主催は、米軍基地建設を憂う宇川有志の会、米軍基地建設反対丹後連絡会。
集会の前に、米軍Xバンドレーダー基地にたいして抗議行動。主催者を代表して宇川有志の会・永井友昭さんがあいさつ。200人がゲート前に陣取り、「基地を撤去せよ」と抗議の声を上げた。右翼が車両10台以上で妨害したため、騒然となった。
文化会館の集会では、沖縄国際大学の前泊博盛さんが講演。前泊さんは、朝鮮情勢について米軍主導の圧力強化だけでは危機が高まるだけで解決しない。対話が必要である。日米地位協定は、米軍は日本では自由に何をやってもよいというもので、問題だ。韓国でもドイツでも抗議の声をあげて協定内容を変えさせている。しかし日本政府はアメリカにそんたくして何も言わない、それが問題だと話した。
講演の後、〈米軍基地いらない京都府民の会〉梶川憲さん、〈近畿連絡会〉大湾宗則さん、倉林明子参議院議員が発言した。集会後市内をデモ行進した。(多賀)
4面
天皇による生前退位の意思表明について(下)
意思表示は明白に違憲
八代秀一
〔4〕憲法上の象徴概念と生前退位の意思表明の象徴概念
まず初めに、これまでの議論を整理する。結論は天皇明仁による生前退位の意思表明が日本国憲法第4条1項Aと相容れない、すなわち違憲行為であるということである。今我々はこのことを、声を大にして叫ばねばならないと。なぜならば、前章では不注意にも現時点では生前退位の具体的手続きは定かではないなどと書いてしまったが、今年6月9日に国会は「特例法」を制定し、それゆえに生前退位の意思表明の第4条1項Aとの抵触性は、あえて言えば可能的レヴェル(だからこそ高橋和之は、政治的効果を持つにとどまる、と主張した)から現実的レヴェルのものとなったからである。そして、これをうけて10月20日には明仁の妻美智子が、何の権利があってのことか、違憲の意思表明にもとづく「特例法」制定に感謝の意を、厚顔無恥にも表明したからである。ともに、憲法制定権者であり立法権者である我々を舐めきった行為と言わざるを得ない。
我々は断固として生前退位の意思表明の違憲性を主張し、天皇の意を「忖度」する国会と、政治的に突出する明仁、美智子の憲法破壊と対決しなければならない。憲法破壊を繰り返し続ける安倍政権ばかりが対決の対象ではないのである。
意思表明の象徴概念と憲法上の象徴概念
前書きが長くなったが本章では、象徴としての行為が負担であるがゆえに生前退位を望むという昨年の意思表明が前提とする象徴概念と、日本国憲法の象徴概念との関係を問題にしたい。すでに前章でも述べたように、日本国憲法上での象徴の地位は、その地位にある者のなんらかの主体的行為によって基礎付けられるものではない。その地位にある者がなんらかの行為をなせないことによって、その者がその地位を去らねばならないということには、憲法上はならないのである。
したがって、象徴としての行為が負担になったがゆえに生前退位をという希望は、憲法上の象徴概念に基礎付けることはできない。通説にしたがって象徴としての行為を認めようとも、非標準説にしたがって象徴としての行為を認めなくとも、この結論に変わりはない。
ここでこの憲法上の象徴概念と、生前退位の意思表明が前提する象徴概念とが整合的なのかどうか考えたい。後者は明らかに象徴である者の主体的行為が、とりわけ象徴としての行為が、象徴であることの必要条件をなしている。そうでなければ、主体的行為の困難性から退位が導き出せないからである。したがって、主体的行為から独立である憲法上の象徴概念と、生前退位の意思表明が前提としている象徴概念とは異なったものであり、両者の整合性を問うことは両者の関係を問う本章にとって重要な課題となる。
2つの概念の整合性証明とそれへの疑義
まず、象徴としての行為を認める通説に立って考えてみたい。自らは非標準説をとる高橋和之は、象徴としての行為を天皇の公務と位置付けることで通説の範囲内に、したがって憲法上の象徴概念の範囲内に、生前退位の意思表明の象徴概念をとり込むことができると議論している(注6)。すなわち、従来の通説では象徴としての行為を天皇の公務としてはとらえていなかったが、こうとらえることで(このこと自体は通説と無矛盾)象徴としての行為の困難性が生前退位を正当化するとしている。たしかに、通説にそれと独立の天皇の公務という概念を持ち込むことは、それ自体として矛盾を産むものではなかろう。この概念を含む通説を通説改訂版と呼ぶのであれば、この改訂版は無矛盾であろう。
しかし、すでに述べたように、通説それ自体の憲法との整合性に、そしてそれ自体の構成に問題を含んでいる以上、通説改訂版のこの無矛盾が即、憲法上の象徴概念と生前退位の意思表明における象徴概念との間の無矛盾性(整合性)を保証するとはいえないだろう。
2つの概念の非整合と生前退位の意思表明行為についてのその含意(非標準説の場合)
次に非標準説をとり、かつ高橋和之の「非国事行為=私的行為」(前章参照)をとらなかった場合について、2つの象徴概念の整合性について考えてみよう。この場合、生前退位の意思表明の象徴概念は、なんらかの種類の非国事行為を為すことにもとづいている。生前退位の意思表示行為そのものが、この種の非国事行為に属することは明らかであろう。すると、この行為は象徴の地位を構成保持するものとなる。他方でこの行為は、前章で明らかにしたように[第4条1項A]と矛盾している。
[第4条1項A]は、主体的行為からの独立性を中核とする憲法上の象徴概念の重要な構成要素である。だとすると、前者の象徴概念と後者の象徴概念とのどちらを前提するかによって、同じ生前退位意思の表明行為について、まったく逆の結論が出ることになる。すなわち、前者から象徴のなすべき行為、後者から象徴にはできない行為という結論が出ることになる。そしてこのことは、2つの象徴概念が整合的でないことしか意味しない。
さらに生前退位の意思表明行為について再度考えてみると、この行為は憲法上の象徴概念とは整合しない象徴概念を主張するものであり、その意味で前章に述べた憲法上禁止されている象徴と整合しない行為とも言えよう。
立憲主義の根本は憲法制定権者にある
日本国憲法には[第4条1項A]のように権力に縛りをかける要素が多く含まれ、その意味で日本国憲法は立憲主義にもとづいている。しかし、この縛りの要素を縛りとして機能させるのは我々憲法制定権者である。それを最後に強調しておきたい。(おわり)
(注6)『世界』16年12月号 高橋和之 201ページ。
医療・福祉が治安維持に
施設解体 虐待許すな
10月27日 東京
優生思想に断固反対! 医療・福祉を治安維持に使うな!「骨格提言」の完全実現を求める10・27大フォーラム〈私たち抜きに私たちのことを決めるな〉が日比谷公園大音楽堂でおこなわれ、その後厚生労働省前のアピール行動などに500人が参加した。(写真は厚労省前の行動)
『提言』の完全実現
今年の大フォーラムは、津久井やまゆり園事件を引き起こす社会を変革するために、「『骨格提言』(注)の完全実現」ということを切実に求める集会となった。「施設解体、虐待を許さない」ということが知的しょうがい者の当事者団体である「ピープルファースト」から先鋭的に突き出され、各アピールが地域で生きることでぶつかっている制度の壁、それを乗り越える運動について提起。施設解体と地域で生きることが一体で語られた。
「私たちは津久井やまゆり園事件を風化させない。」「『わが事丸ごと・地域共生社会』政策という、『自助、互助、共助』のみで『公助』は無しという政策が『社会連帯』『隣近所は助け合い』『公平な負担』の名の下に推し進められ、社会保障そのものが解体されようとしている。」「尊厳死法案、すなわち『しょうがい者は生きるな』と、死なせるための法律が準備されている。」「優生手術が強制されてきた。」「地域で生きるための介助補償をもとめ、地域で一人で暮らしたいという当たり前の要求のために家賃保障を。」「しょうがい者が声を上げれば世の中は変わる。」「生活保護を引き下げるな。垣根を越えて連帯し社会を変えよう。社会保障解体の突破口として生活保護引き下げがおこなわれている。955人の原告により裁判がおこなわれている。母子加算、障害者加算の削減を許さない。いのちのとりでを守ろう。」「難病問題を社会保障制度の谷間で自己責任にすり替える政府は、難病者の意見を聞かない。私の専門家は私であって医師は補助者だ。」などの声があった。
隔離施設化を許さぬ
もうひとつの柱が、精神保健福祉法改悪とのたたかいだ。国会議員や、ひょうせいれんの発言などで、「骨格提言」とは真逆の監視―監督がおこなわれようとしていることが明らかになった。地域の隔離施設化がおこなわれる。先行している兵庫方式では、任意入院も入院していなくても警察などの監視の対象だ。精神しょうがい者を犯罪予備軍として地域のなかで事実上の隔離・監督下に置くものだ。各発言を通して、精神保健福祉法改悪案再上程阻止の陣形が作られた。
市民としての生活を
集会宣言では「大人になったら家族から独立して一市民としてくらしたい。それが今の日本では難しい。公的支援を抑制しようとする国の動き。津久井やまゆり園事件にもかかわらず、小規模化という名のもとにまた入所施設を造ろうとしている。精神保健福祉法改悪により措置体験者を警察を含む監視下に置こうとする。『支援という名を借りた監視』は許されない。難病の人は支援を病名によって制限されている。行政は生活よりも医学を重視する。厚労省交渉で骨格提言を読んだことがないといった厚労省職員。骨格提言は、しょうがい、病気があっても地域で生活できる社会を描いている。『市民として生活したい』を深く追求し、強く訴え続けていく。」などと確認された。
連帯アピール
集会への連帯アピールは、国会議員として倉林明子(共産党)、福島みずほ(社民党)、金子恵美(無所属・福島県)、川田龍平(無所属)の各氏から発言があり、高橋千鶴子議員(共産党)からはメッセージが寄せられた(発言順)。「障害者自立支援法違憲訴訟団元原告」「障害者自立支援法訴訟の基本合意の完全実現をめざす会」「病棟転換型居住系施設について考える会」「日本障害者協議会(JD)」が連帯の発言。リレートークでは、「ピープルファースト」「人工呼吸器ユーザーネットワーク」「兵庫県精神障害者連絡会」「医療観察法国賠訴訟」代理人、認知症当事者、宇都宮健児反貧困ネットワーク代表世話人、「インスリンポンプの会」など多彩な発言があった。
集会に参加できなかった人も『生きている! 殺すな』(山吹書店刊)を読んでぜひイメージをつかんでほしい。また、多くの集会賛同により財政的に支えていただいた。この場を借りてお礼を申し上げます。(高見元博)
(注)骨格提言 「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言」2011年8月30日、しょうがい者と家族・関係者らが多数を占める内閣府障がい者制度改革推進会議総合福祉部会によって策定された。しょうがい者が一市民として生活するための方策が具体的に展開された画期的な文書。
5面
焦点
2017年日米安全保障協議会批判
グローバル軍事大国への道
剣持 勇
今年8月17日に開催された日米安全保障協議会(「2+2」)は、2015年の戦争法(安全保障関連法)の成立と、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)が18年ぶりに改定されたのを受けて初めて開かれた。安倍政権は、この「2+2」を、グローバル軍事大国化と9条改憲の足掛かりとすることを狙った。以下、9条改憲を阻止するために、「2+2」を批判する。
この「2+2」は、今次トランプ米大統領来日による日米首脳会談での確認事項である次の点を先取りしている。対北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)について、「戦略的忍耐の時期は終わった」論(つまり軍事的先制攻撃の可能性を探る段階)、日本による米製兵器の大量購入(武器商人と化したトランプが露骨に要求)、日本側から提案したという「インド太平洋戦略」の再確認(インドを対中国包囲網に巻き込む「戦略」)、である。
グローバル&シームレス
第2次安倍政権成立以降の日米軍事同盟関係の基礎となった15年新ガイドラインの「精神」がこの「2+2」でも貫かれている。
第一には、「グローバルな日米同盟」であり、「切れ目なき(シームレスな)日米同盟」である。日米軍事同盟の「守備範囲」を世界大に拡大し、いかなる場所、いかなる事態にも対処できることを大目的として据えている。
第二には、自衛隊幹部を含む「軍部」の中に、米軍不信さえあおり立てて、対中国軍事対峙に米帝・米軍を引きずり込もうとする傾向が基底に流れている。今まで陸上自衛隊の退役幹部がこのような言動を繰り返してきた(例えば『日本の国防』70号の用田和仁・元陸上自衛隊西部方面隊総監の論文、これへの批判は『展望』17号所収の剣持勇論文参照)が、今回は元海上自衛艦隊司令官の香田洋二が『朝日』8月23日付の「オピニオン&フォーラム」で、米軍は「尖閣列島を守るはずがない」と言いきった。
陸自元幹部に続いて海自元幹部のこの発言は重大である。新ガイドラインは、「対中抑止にアメリカを巻き込む」ために「日本側の主導で作成された」(『軍事研究』15年8月号の福好昌治論文)などという言辞に、軍部突出の一端がのぞいている。
第三には、それにもかかわらず今回の共同発表文では、日本側が脇を固めるような抑えた表現を取っている。例えば「グローバルな日米同盟」という表現は見られない。代わりに「ダイナミックなパートナーシップ」という表現が使われている。これはトランプ新政権の戦略的意図が不明確で、対中対峙に引きずり込もうにも、すぐには対応できないからであろう。他方で、日米共同作戦や演習、兵器の共同開発、沖縄新基地建設の再々確認など、戦争法を具体化する「協力」はどんどん進めている。
「2+2」の経緯
2010年代になってから「2+2」は、民主党政権下で次のような経緯をたどった。11年には、日米にとっての「共通の軍事的懸念」かつ「共通の戦略目標」として、北朝鮮の「核」「ミサイル」「拉致」問題を掲げた。東日本大震災と原発事故の真っ最中に「北朝鮮主敵論」を日米で確認した。12年には、米軍再編にともなう沖縄辺野古への新基地建設を「唯一の有効な解決策」として押し出した。以上は、日本の外務・防衛官僚と米帝・米軍が民主党の弱点を突いて「押しつけた」ものである。
13年の「2+2」は、第2次安倍政権の成立に伴い、「日米同盟の枠組みにおける日本の役割を拡大するため」のガイドラインの見直しを共通の大目的として掲げ、具体的には日本の安全保障政策として、次の項目を盛った。
(1) 国家安全保障会議(NSC)設置および国家安全保障戦略(NSS)の準備
(2) 集団的自衛権の行 使に関する事項を含 む安全保障の法的基盤の再検討
(3) 防衛予算の増額
(4) 防衛大綱の見直し
(5) ―略―
この段階で、秘密保護法から集団的自衛権行使の閣議決定、戦争法から共謀罪までを、すべて日米の「防衛」プランに組み込んだのである。秘密保護法と共謀罪は、日米協力の第10項として「情報保全:情報保全の法的枠組みの構築における日本の真剣な取り組みを歓迎」と記されている。
2015年が転換点
15年の「2+2」は、安倍政権が最も「いけ、いけ、どんどん」となっていた時で、「日米同盟のグローバルな課題」を打ち出した。戦争法の主要内容が、法成立以前にすでに盛り込まれたのである。
また「防衛装備移転三原則」と「特定秘密保護法」の意義を強調している。武器輸出をほぼ全面的に解禁する前者によって、最新兵器の日米共同開発と、米製兵器を大量に購入する道を開いた。
また重要なことは、防衛協力小委員会(SDC)にたいし、平時から利用可能な同盟調整メカニズムの設置および共同計画策定メカニズムを強化するよう指示している。同盟調整メカニズム(ACM)と共同計画策定委員会(BPC)はこの年の11月に設置また再編強化されている。自衛隊が世界展開する準備が動き出したのである。
対北朝鮮重圧に注力
今「2+2」のもっとも顕著な特徴は、対北朝鮮軍事重圧に日米が注力することを、全体を貫く基調として確認したことである。そのために、「朝鮮半島の非核化」を名目に、北朝鮮への圧力を強調する一方で、「日本の防衛のために」、米国が「核戦力を含むあらゆる種類の能力」を提供すると声明している。朝鮮半島と日本を核戦争の戦場にすることに、日米両政府が合意したと言える。
対中国包囲網
第一に、「尖閣列島」に日米安保条約が適用されると明言している。共同発表の正文である英語版でも、「the Senkaku Islands」と書き、本来の英語である「the Pinnacle Islands」と書かないのは、日本側にたいするリップサービスであろう。
第二に、南中国海については、中国(の名前は挙げず)に、海洋法を守れとわめいている。「海の憲法」と言われる国連海洋法条約(UNCLOS)は1994年に発効し、2013年現在、加盟国数は165を越えたが、米国は「先進国」で唯一加盟していない。他方で、中国とロシアは加盟している。自分が加盟もしていない国際条約を中国に守れと強要するのは、「盗っ人たけだけしい」。
第三に、「3カ国および多国間の協力」の項に、韓国、オーストラリアと並んでインドを初めて入れた。対中国包囲網にインドを加える思惑は、日本側の主導という。
戦争法の具体化
「2015年の『日米防衛協力のための指針』の実施を加速し、日本の平和安全法制の下でのさらなる協力の形態を追及する」という文言にすべてが尽くされている。今年5月には、「集団的自衛権の行使」の前提となる米艦防護を初めて実施し、8月には小野寺五典防衛相は、北朝鮮のグアム沖へのミサイル打ち上げ宣言にたいし、集団的自衛権の発動が可能となる「存立危機事態」宣言の可能性に言及した。
今回のトランプ訪日で打ち出された米製兵器の大量購入などの枠組みは当然の前提とされている。
辺野古新基地の強行
従来言われている「唯一の解決策」という文言に加えて、今回初めて「一層の遅延…の悪影響」にダメ押し的に言及している。ここには、日米両政府と軍部の焦りが表明されている。沖縄基地問題については、さらに結論の部分で、南西諸島への自衛隊配備の強化と基地・施設の「共同使用」の促進が明記された。共同使用の形を取って、ミサイル部隊や水陸機動団を配備し、日本の対中国、および南方進出拠点にしようとする意図が露骨だ。
戦争ができる「普通の国」への飛躍をかけた憲法9条改憲攻撃と沖縄への新基地建設阻止、米軍・自衛隊基地撤去のたたかいを今こそ日本の労働者人民のすべてのたたかいに。朝鮮・中国・アジア人民と連帯し、米軍基地撤去、日本の軍事大国化を阻止しぬこう。
投稿
誤発射された核ミサイル
NHKスペシャル 『沖縄と核』(9月10日放映)
9月10日にNHKスペシャルで放映されたスクープ・ドキュメント「沖縄と核」が評判になっている。このドキュメンタリーは次のような内容だ。
米国は、1953年から沖縄に核兵器を配備した。54年、ビキニ環礁水爆実験と第五福竜丸被爆にたいして反核運動が盛り上がり、日本「本土」への核配備計画が困難になった。米国は在日海兵隊を沖縄に移駐させた。その結果、沖縄本島の米軍基地面積が倍増し、本島の4分の1を占めることとなった(現在のキャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ等々)。
59年6月、那覇市に配備されていたナイキ・ハーキュリーズ(迎撃用核ミサイル)が誤発射されるという大事故がおきていた。発射訓練をしているときに、操作を誤りブースターが点火した。ナイキはそのまま水平に発射し、海に突っ込んだ。ナイキには核弾頭が装着されていた。幸いにも核爆発は起きなかったが、あわや那覇市が消滅する大惨事になる寸前であった。米軍はこの事故を隠蔽し、沖縄県民に知らせなかった。
60年安保改定の時に、日米両政府は「核密約」(核持ち込み事前協議制度には沖縄を含まない)を交わし、米国は沖縄の核基地を維持した。キューバ危機を頂点として、米ソの核戦争の危機が強まった。この時、沖縄には1300発の核兵器が存在しており、いつでも発射できる体制になっていた。「核戦争になれば、沖縄は消滅する危機にあった」と、元・海兵隊員が証言している。沖縄県民には一切知らされなかった。
核ミサイル・メースB配備に関する日米交渉で、当時外務大臣の小坂善太郎は「沖縄にメースBなどの武器を持ち込まれる際、事前にいちいち発表されるため議論がおきているが、これを事前に発表しないことはできないか」と発言している。(62年、メースBは沖縄に配備された。)
72年、「沖縄返還」の際にも「核密約」(嘉手納、那覇、辺野古の核弾薬庫を使用可能な状態で維持しておく)をした。元・米国防長官メルビン・レアードは「結局、日本は沖縄を選んだ。それが日本政府の立場だった」と証言している。今も、沖縄には核兵器が存在する。
このドキュメンタリーをみて認識を新たにした。日本政府はこれらの事実を隠蔽しつづけている。人民の力で事実を明らかにしよう。(津田)
6面
関東大震災で殺された朝鮮人
民間証言に見る虐殺の事実
11月6日
11月の戦争あかん!ロックアクションでは、〈関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・一般社団法人ほうせんか〉の西崎雅夫さんの講演がおこなわれた。そのあと、NPO法人多民族共生人権教育センターの文公輝さんの話を聞くことで、ヘイトスピーチの根底に戦争から続く民族差別意識があることがより鮮明になった(写真下)。
虐殺の証言
西崎さんは〈関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会〉(のちに「追悼する会」に改称)の発足当時から関わった人である。会では毎年9月第1土曜日に河川敷で追悼式をおこなっている。そこで証言を直接聞き、証言の重さを体感した。
朝鮮人虐殺に関していえば公的な記録がない。流言飛語に関しては当時の日本政府が直接関係しているのにもかかわらずだ。内務省警保局長が9月3日、「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し…」と全国に海軍無線送信所から送信している。
そして巡査や憲兵が、「朝鮮人が暴動を起こした」、「井戸などに毒物を入れた」と言って回っていたという民間の証言がある。それなのに、警視庁が震災後にまとめた「大正大震災火災」にはこうした事実については一言も書かれていない。
ただ、当時目撃した人たちはかなりの記録を残している。民間の証言をまとめることで当時何があったかということはある程度推測できる。そう思って本(『関東大震災朝鮮人虐殺の記録―東京地区別1100の証言―』西崎雅夫編著/現代書館)を作った。「国の記録のなさにたいする民衆の記録の集積」を西崎さんは強調した。
ヘイトと小池都知事
虐殺の事例を詳しく述べた後、西崎さんは今でも活動を続ける理由を二つあげた。一つは遺族から遺骨を探してくれと頼まれること。遺族にとって震災は終わっていないのである。もう一つはヘイトスピーチ。今でも街中で、「朝鮮人は皆殺しにしろ」と叫ぶ人がいる。絵空事ではない。94年前に実際に殺されている。知り合いの在日のおばさんが言う。「私がこんな運動をしているのは自分の子どもや孫が殺されないためだ。何かあったら自分の子や孫が日本人から殺されるかもしれない。いまだに日本人社会はそんな社会だ」
今年、小池都知事が慣例だった朝鮮人虐殺犠牲者への追悼文送付を拒否した。隅田区も追悼文を寄せなくなった。墨田区にある追悼碑は、虐殺を反省するために党派をこえてみんなで作ったものだ。そこに追悼文を寄せないということは、虐殺を反省しようという流れを否定することだ。西崎さんは「私の感覚で言えば小池さんがやっていることは、朝鮮人は殺してもいいという宣言です」と小池都知事を断罪した。
歴史を繰り返すのか
続いて登壇した文公輝さんは、大阪市ヘイトスピーチ対処条例制定までの過程と運用状況について話した。そのなかで、日本では公然と特定の民族にかかわる差別的な考えを表明しても、ほぼ、おとがめがない。その先はどこにいくのか。まさに94年前にもう一度向かうのかどうかという瀬戸際にきているのではないか、と私たちに問題を投げかけた。
書評
被爆者の思いを聞き取り
『この世界の片隅で』(岩波新書)が復刊
去年から今年にかけてアニメ映画『この世界の片隅に』(こうの史代原作)が大ヒットした。呉市のロケ地には多くの観光客が訪れた。『未来』でも「弱者の視点から、個々のエピソードのなかに戦争になびく社会にたいして静かな怒りを感じとる。『この世界の片隅で』生き、戦争する国に抗っている。生きざまは違うが、わたしたちも同じように、この時代を豊かに生きている。戦争が日常であった時代を振り返りつつ、再びこのような時代にさせないために、この映画をみてもらいたい」とおおむね好意的な評価がされている。
しかし被爆者運動、反核運動を担ってきた多くの人々から違和感が表明されている。峠三吉、山代巴、川手健たちは、一軒一軒声をあげられない被爆者の家を訪ね、その思いを詩や体験記にしてもらう活動をおこなった。それを受け継いだ「広島研究の会」の活動を山代巴が『この世界の片隅で』にまとめた。
映画の原作者こうの史代の漫画には『夕凪の町 桜の国』と題したものもある。広島の被爆者大田洋子は、占領軍の統制が厳しく命を奪われる危険があるなかで、原爆投下を弾劾する発信を続けた。そして、1953年10月に、『夕凪の街と人と』を出版。さらに、1940年に朝日新聞の懸賞で一等に入選した小説のタイトルが『桜の国』。2度続けば題名を剽窃したと言うべきだろう。しかも元の文章でもっとも伝えたかった地の底を這うような被爆者の生きざまがまったく描かれないでは、表現者としての姿勢にも疑問を投げざるを得ない。
山代巴編著の『この世界の片隅で』は1965年に岩波新書で発行され、今年3月に復刊された。
目次と各章の筆者は「相生通り」(文沢隆一)/「福島町」(多地映一)/「IN UTERO」(風早晃治)/「病理学者の怒り」(杉原芳夫)/「あすにむかって」(山口勇子)/「原爆の子から二十年」(小久保均)/「ひとつの母子像」(山代巴)/「沖縄の被爆者たち」(大牟田稔)。
はじめの章は原爆スラムとよばれた相生通りのこと。文沢隆一は、その相生通りに部屋を借りて住んで、まず隣家から訪問しながら、被爆者の話を聞いた。最初に出てくるのが在日朝鮮人被爆者。
福島町は、西日本有数の被差別部落。1964年6月の雨で、広島全市のうち、この町だけが床上浸水した。解放同盟の菊島章吾は言う。「“良いことは一番あと、悪いことは一番さき”というのが、ぼくらの置かれている立場です」(P39)。
「IN UTERO」は、胎内被爆児のことを伝える。妊娠中に被爆した母親から産まれた子どもに小頭症がみられた。孤立していた親たちが集まり、親の会(きのこ会)がうまれた。そして「この子たちに終身保障を」という運動が始められた。
「病理学者の怒り」で、杉原は原爆の遅発性障害を隠すABCCを弾劾する。「原爆症とは、被爆者の体内に生じた病的変化をすべて総称するものと仮定される」(P99)と定義づける。
「あすにむかって」「原爆の子から二十年」「ひとつの母子像」は、原爆孤児や、戦後を生きのびてきた母子の実状がさまざまに報告されている。それを食い物にして金儲けの手段にする者もいる。
最後の章は、米軍支配下の沖縄の被爆者のことが書かれる。そして29歳で自死した川手健の次の言葉で締められる。「(平和運動は)原爆被害者の団結と被害者の組織的な平和運動に対しては余り関心が払われはしなかった。被害者が苦しい中をどのように生き抜いていこうとしているのかについての関心さえ極めて薄かったと云える」。
編者の山代巴は1932年に日本共産党に入党。1945年5月に治安維持法違反で逮捕され、45年8月まで獄中にあった。夫は獄死した。68年まで共産党員。政治的立場からする言動や、家父長制にたいする態度など、その女性論にたいする批判も多い。しかし「一人で百の作品を書くよりも、百人が一つずつの作品が書ける仲間づくりの道」が山代巴の文学的立場であり、運動にもその姿勢が貫かれた。〈中央集権的な官僚国家ではなく、自主的に考え行動するとともにみずからの社会的責任を自覚する個人を基礎にした自治(自己決定)の社会〉としての社会主義をめざした。今日的にも学ぶ点は多い。
映画を見て涙した人にぜひこの本を読んでもらいたい。(剛田 力)
山代巴編 『この世界の片隅で』岩波新書2017年3月22日アンコール復刊 定価820円+税