高校無償化裁判で完全勝利
国の朝鮮学校外しは違法
大阪朝鮮高級学校の「高校無償化裁判」は2013年1月24日に提訴し、4年6カ月、16回の口頭弁論を経て7月28日判決を迎えたが、大阪地方裁判所第2民事部(西田隆裕裁判長)は原告・学校法人大阪朝鮮学園の請求をすべて認める勝利判決を言い渡した。
チマチョゴリを着た女生徒をはじめ、傍聴席を埋め尽くした父母・支援者は、判決が言いわたされるや歓声を上げ、涙を流し、抱き合って喜んだ。
判決日の夜、大阪市内で報告集会がひらかれた。会場は喜びに満ちて、裁判勝利の意義を確認しあった。朝鮮高級学校の生徒による歌と舞踊が、満面の笑顔で披露された。
国の違法行為に断
まず弁護団が判決内容を報告し解説。
無償化は国の負担で教育を実施することが教育の機会を均等に保つ見地から妥当と認められる各種学校の確定を文科省に委任した。にもかかわらず、13年当時の下村博文文科相は朝鮮学校に無償化を適用することは朝鮮民主々義人民共和国(北朝鮮)との拉致問題を解決する妨げになり、国民の理解を得られないという、教育の機会均等とは無関係な外交的・政治的意見に基づき朝鮮高級学校を無償化法の対象から外すために規定を削除した。このことは、委任の趣旨を逸脱し違法、無効である。
また国側は、新聞報道(主に産経)などをもとに朝鮮学校にたいする北朝鮮や朝鮮総連の影響力を否定できず、就学支援金が授業料に充てられない恐れがあると主張していた。しかし、大阪朝鮮高級学校が大阪府から行政処分を受けたことはなく適合性に疑念を生じさせる特段の事情があるとは言えないので指定基準に適合している。
在日朝鮮人の民族教育をおこなう朝鮮高級学校に在日朝鮮人の団体である朝鮮総連などが一定の援助をすること自体が不自然であるとは言えない。これをもって適性を欠くとは言えない。不当な支配の判断についても文科大臣に裁量権はない。
さらに大阪朝鮮高級学校を就学支援金支給対象の学校として指定することも認めて、「文科大臣は指定せよ」と義務づけまでした(完全勝利)。
無念晴らす「吉報」
つづいて大阪朝鮮学園の理事長が同学園の声明文を読み上げた。「司法が強大な行政権力の意向を忖度せず正当な判決を下した。悔しさを胸に巣立っていった卒業生や生徒たちの無念を晴らす何よりもの『吉報』である」。
さらにオモニ会の会長は、「子どもたちの学ぶ権利は当然受け入れられるべき権利。つらくて長い戦いだったが、(1948年の)4・24教育闘争から、その魂を受け継ぎたたかってきた。子どもたちの笑顔と未来のため、人としての尊厳を守るため、これからも希望と信念を持ってウリハッキョ(私達の学校)と民族教育を守っていこう」と訴えた。
東京はじめ広島・愛知・福岡からのアピールの後、チマチョゴリを着て登壇した大阪朝鮮高級学校の在校生は、「今、私たちはチマチョゴリを着て通学できない。私たちが朝鮮人として堂々と生きていくのがこんなにも難しいことなのかと不安だったが、今日の判決を聞いて、やっとこの社会で生きていていいと言われた気がした。ウリハッキョに通う在日コリアンが、本名で堂々と生きていける。いろんな人が助け合って生きる社会へ架け橋になる。」と発言。
韓国から〈ウリハッキョと子どもたちを守る市民の会〉代表が、「日本の司法当局が良心と普遍的人権基準に相応しい判決を下すよう強く求める」という声明文を読み上げた。
主催者の〈朝鮮高級学校無償化を求める連絡会・大阪〉の伊地知紀子共同代表は声明文を読み上げ、「日本政府は直ちに高校無償化を全国の朝鮮高級学校に適用すること。合わせて地方自治体への補助金交付見直しを求めた2016年3月29日の文科省通知を撤回すること、大阪府・市は速やかに補助金交付を再開するように」と呼びかけた。
歴史を正当に判断
最後に丹羽雅雄弁護団長が「第2次世界大戦後のわが国における在日朝鮮人の自主民族教育がさまざまな困難に遭遇するなかで、在日朝鮮人の民族教育実施を目的の一つとして朝鮮総連が結成されて、朝鮮学校の建設、学校認可の手続きなどしてきた。朝鮮学校は朝鮮総連の協力のもと、発展してきたのであると、この戦後の歴史をきちんと判断してるのが素晴らしい。次に補助金裁判控訴審があるが、まっとうに法律を解釈すると勝てる。裁判所は多数者から少数者を守るために毅然とした判断をしなければならない。補助金裁判も勝てる。頑張ろう」と訴えた。
これまで250回を超える大阪府庁前での火曜日行動(毎週)の参加者も「あきらめないでたたかおうと頑張ってきてほんとによかった」と勝利を確認しあった。
(佐野裕子)
原発に頼らない街づくりへ
核燃サイクルの破綻明らか
福井県高浜町
「なぜ若狭に原発が集中したのか」を語る 山崎隆敏さん(4日 福井県高浜町) |
8月4日、「講演・討論会in若狭〜原発に頼らない町づくりを目指して」が福井県高浜町でひらかれ、60人が参加した。主催は、若狭の原発を考える会。福井県越前市の山崎隆敏さんが「原発に頼らない町づくりを目指して」と題して講演した。
山崎さんは「核燃サイクル政策は破綻した。原発で若狭の振興は失敗した。崖っぷちに追い詰められているのは原発推進勢力である」「福井県『原子力の三原則』@安全の確保、A地域住民の理解と同意、B立地地域の恒久的福祉(地域振興)は、『地域の恒久的福祉(地域振興)』が完全に破産している」
「なぜ若狭一体に14基もの原発が集中したのか。それは原発推進勢力側の暴力とカネ、都市と地方の差別・分断攻撃に屈したことも一因である。同時に『原発で地域振興ができる』という夢を見たことも、若狭に14基もの原発が集中した背景である」と話した。
韓国の脱核運動
つづいて韓国で反原発運動をたたかう若者3人が「韓国の脱核運動」を報告。韓国では核から脱していこうという意味で「脱核運動」と表現されている。
「韓国には25基(古里1号機がこの6月永久停止し、現在は24基)の原発があり、大半は東海岸にある。そのうち50%以上が釜山、蔚山、慶州の近郊に密集している。韓国は地震と無縁といわれてきたが、昨年9月慶州でマグニチュード5・8の地震が発生。ロウソク市民革命で誕生した文在寅大統領は、脱核を公約に掲げ、韓国で一番古い原発である古里1号機の永久停止を宣言したが、建設中の新古里5、6号機については、国民世論を見極めて結論を出すとした。また原発ゼロを2079年としたように、脱核の姿勢が後退している。脱核運動の力が問われている。韓国の原発は事故が頻発しているが当事者は責任を問われない。今後も連帯して脱核に向け進もう」と訴えた。
大飯再稼働阻止へ
その後、参加者が意見表明。高浜町の東山幸弘さん、おおい町の宮崎慈空さん、小浜市からは福井県民会議代表委員・中嶌哲演さん、若狭町議会議員・北原武道さん、美浜町議会議員・河本猛さん、敦賀市議会議員・今大地晴美さんが発言。
最後に若狭の原発を考える会が「若狭で原発に頼らない町作りをともに考えていこう、そのためにも迫り来る大飯原発3、4号機再稼働を何としても止めよう」と訴えた。
(仰木 明)
2面
被爆72年 8・6ヒロシマ平和の夕べ
被爆の継承と、核なき世界へ
満席となった会場で講演に熱心に耳を傾ける参加者たち(6日 広島市内) |
8月6日、ヒロシマの被爆を継承し、核なき世界への道を考える「8・6ヒロシマ平和の夕べ」が開かれた。会場は広島YMCA国際文化ホール。240人が参加した。
被爆72年の今年、安倍政権の日本は核兵器禁止条約会議への参加を拒否した。東京電力福島第一原発の過酷事故から6年余。被災地の避難解除を強行し、原発事故を「なかった」ことにしようとしている。また共謀罪を成立させ、明文改憲へ踏み出そうとしている。被爆72年、8月6日の広島。早朝から多くの人々が集まり、静かに平和公園を埋め尽くした。
「ヒロシマ平和の夕べ」の平和講演は、『ヒロシマを伝える〜詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』の著者・永田浩三さん。母親は八丁堀付近で被爆したが、偶然一命を取りとめた。後に生を受けた被爆2世である永田さんは、「私の宿題だった」と昨年この本をまとめた。(講演要旨を左に掲載)
被爆証言をおこなった小野瑛子さんは当時6歳だった。広島市西部の高須にあった自宅で被爆。母と避難中に「黒い雨」を浴び急性放射能症を発症した。その後も甲状腺障害などに苦しんだ。現在、肺がんで闘病中。
大塚愛さんは99年、農業研修のため福島県に移住。福島原発事故の後、郷里の岡山に避難し避難者支援、保養受け入れなどに奔走している。
シンガー・ソングライターの川口真由美さん、沖縄から泰真実さんが参加した。川口さんは「悲しみから生まれた平和への道」ほかを歌った。まとめを米澤鐡志さんがおこなった。
参加した人たちから、「密度の濃い集まりだった」「若い人たちと参加、次に引き継ぐ」などの声が寄せられた。小野さん、大塚さん、川口さん、米澤さんの発言を次号に紹介する。(村瀬)
憲法カフェで楽しく学ぼう
市民の“不断の努力”が大事
尼崎市
「ききたい つなげたい8・6ヒロシマを」実行委員会は、毎年おこなっている「8・6ヒロシマ」のプレ企画として、7月23日、憲法カフェを兵庫県尼崎市内でひらいた。ゲストは〈明日の自由を守る若手弁護士の会〉の弘川欣絵さん。
「憲法を学ぶ、というか楽しんでいただきたいと思います」と、これまで70回以上、30代、40代の子育て世代のお母さんたちと憲法カフェを開催し、全国的に広がっていることを紹介した。
まず参加者に「日本国憲法には愛という文字があるか?」と○×形式のクイズ。ここから「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三原則、13条「すべて国民は、個人として尊重される」、14条「法の下の平等」、24条「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」などの話に。明治憲法(大日本帝国憲法)のもと、天皇が国を統治し、「家」「戸主」を中心として、特に女性は無権利状態だった戦前とも比較しながら解説した。
さらに、憲法の条文に記載されていないプライバシー権、知る権利、環境権などは憲法を改正しなくても保障されている。憲法改正の手続きに関して、96条では「過半数の賛成が必要」とされているが、どの過半数かは書かれていない。それを、「国民投票法」は「投票総数の過半数」に変えてしまった。
また、現行憲法の99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とされているものが、自民党改憲草案では「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」となっている。「国民が国に守らせる」はずの憲法が「国が国民に守らせる」ものに変えられようとしている。いま立憲主義そのものが危機にあると話した。
最後にわたしたちが守らなければならないのは第12条「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」。この「不断の努力」を強調して話を締めくくった。
弘川さんは、安倍政権が私たちが住むこの国を「戦争をする国」に作り変えようと暴走を続けるなか、今わたしたちは何をするべきなのか、ということを示した。
全員が発言でき、元気な子どもたちの参加もあり、楽しく憲法を学べる企画になった。(佐々木伸良)
被爆者の声を届けた表現者たち
元NHKプロデューサー 永田浩三さん
今年の7月7日、前文に「広島、長崎の被爆者、核実験の被害者を含むヒバクシャの苦しみに心をとめる」と書かれた、核兵器禁止条約が国連で採択された。日本政府はこの会合に不参加を表明した。必要悪とも言われてきた核兵器が、「絶対悪であり、人道に対する重大な罪である」と明記された。その意味で、今年の夏は特別な夏になった。
ヒロシマ、さらにナガサキへの原爆投下は、何を目的におこなったのか。昨年ヒロシマを訪問したオバマ大統領は「死が空から降ってきた」と言ったが、原爆は偶然ではなく人為的に投下された。アメリカは、どうしても原爆を落としたかったのである。ソ連の参戦、日本降伏のぎりぎりのはざまである8月6日、9日という、その時がそれを示していると言える。
しかしもろもろのことは、いまだはっきりとはわかっていない。人々が、子どもたちも多く街に出ている、あの時間の投下は人体実験そのものではないか、ということも状況的には言い得るが、明確な事実は今も見つけられてはいない。それらの解明と、核廃絶のためには原爆、被爆のことを命がけで告発してきた先人たちの努力から、私たちは学び引き継いでいかなければならない。
オバマ大統領の広島訪問で、最初に抱擁を交わした日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の坪井直さんは、原爆投下からビキニ環礁での水爆実験、第1回原水禁世界大会が開かれ、核兵器廃絶の声が大きくなる1955年までを「空白の10年」と言う。しかし、それは事実と異なる。確かに、被爆者の声が占領軍などにより封殺される状況はあった。が、そのもとで弾圧を恐れず、文字通り命がけで原爆のすさまじさ、悲惨さをさまざまな表現を通して明らかにし、2度と核兵器を使わせないたたかいがあった。
「死刑になっても」
投下直後、『讀賣報知新聞』は「原子爆弾」という用語を使い、連載を組んだ。その後、当局から発禁処分を受けるが、当時190万部の発行部数を持つ大新聞の気骨を示した。9月5日には英紙『デイリー・エクスプレス』が「原爆の疫病」と題する特集記事を掲載。この時、妨害をはねのけてきた特派員に、現地を案内したのは同盟通信の記者、中村敏である。この記事が、原爆投下と急性放射線障害の恐怖を世界に発信した。20世紀世界の最大のスクープとされている。
その後、占領軍によって検閲がおこなわれ、プレスコードが発表され、従わないものは発行停止・業務停止とされる。こうして組織ジャーナリストがほとんど屈服するなかでも、広島の作家たちは発信を続けた。
知られているのは大田洋子。1945年8月30日、朝日新聞に原爆の悲惨さを文学者として初めて書いた。11月までに小説『屍の街』を完成。48年に一部削除したものを、50年には完全版を出版した。原爆を題材にした小説としては、井伏鱒二『黒い雨』が有名であるが、そのはるか前のことだった。原民喜、栗原貞子、正田篠枝、峠三吉らが、次々に原爆、被爆を主題に作品を発表。「軍法会議にかける」というどう喝に屈せず、「死刑になってもよいという覚悟…」(正田)と、それぞれの表現で原爆投下を告発した。
朝鮮戦争と被爆者
1949年6月に始まった日鋼広島争議が活動家を結びつけ、ヒロシマを伝えることに大きな役割を果たすことになった。大幅な合理化、解雇の中で、支援や取材に集まった四國五郎、峠三吉、山代巴、川手健、赤松俊子(丸木俊)らが結びつく。
峠三吉は、この争議に関わったことで「やれそうだ! なにかやれそうだ! 生きていてよかったと言えそうな何か…」と記している。争議では、それほどの機運が盛り上がった。結果として負けるが、1949年10月2日、歴史的な「平和擁護広島大会」が開かれ、初めて「原子兵器禁止」の決議があげられる。この大会会場には、朝鮮人女性が半数を占めた。当時、朝鮮学校への弾圧、朝鮮人連盟に解散命令が出されるなか、たたかう朝鮮人との連帯を作っていく。
50年6月25日、朝鮮戦争が始まった。2度と原爆を使わせることがあってはならない、ヒロシマを繰り返させるなと、たたかいは活発化する。「辻詩」という、絵の上に詩、言葉があるポスターのようなもので訴え、八丁堀の福屋百貨店屋上からゲリラ的に大量のビラがまかれた。
バトンを引き継ぐ
峠三吉、山代巴、川手健らにより、声をあげられない被爆者を訪ね、その思いを詩や文章にしてもらう活動がおこなわれた。まだ被爆者と呼ばれなかったころ、これこそが被爆者運動の原点であった。しかし、それらは簡単には、被爆者が置かれている困難な状況の改善にはならない。峠三吉は亡くなり、川手健は自死した。家族、住む家を失い、医療費がかさむ。貧困と差別のもと、当事者自身が運動を広げていくことは本当に厳しく、傷つき倒れていった。
「空白の10年」と言われるが、決してそうではなく格闘の10年であった。声をあげられない人々の声を拾い、言葉や絵でそうした声と、その思いを表現した。「この世界で何が起きたのか」、その輪郭を彼らは与えてくれた。このバトンを引き継ぐ努力を、私たちは忘れてはならない。
(文責、見出しとも本紙編集委員会)
3面
岩国基地
極東最大の軍事基地に
厚木から米艦載機移駐で
7月28日、「異議あり! 基地との共存」岩国連帯集会が大阪市内でひらかれた(写真上)。60人が参加、主催は2017岩国労働者反戦交流集会実行委員会。
実行委員会代表の垣沼陽輔さんが主催者あいさつ。「猿田弁護士によれば、日本政府が金を出してアメリカでロビー活動をおこない、その結果アーミテージの発言が日本の新聞に大きく載り、日本での米軍再編がアメリカの戦略として大きく報じられるが、アメリカではアーミテージのことは誰も知らないし、日本に関心もない。要するに日本政府の思惑である」と断言した。
岩国現地から、愛宕山を守る市民連絡協議会の岡村寛さんが来阪し講演した。岡村さんは、「今年は岩国の米軍再編が完了する年で、厚木基地から空母艦載機が61機と米軍人軍属家族3800人がやって来る、米軍機は120機態勢になり、104機の嘉手納を上回り極東最大の航空基地になる。米軍人軍属家族は1万人を超え、岩国では10人に1人がアメリカ人になる。愛宕山地区の米軍将校用住宅262戸には核シェルターが1戸1億円で設置され、日本人にはJアラートで頭を低くしてかがむように言っているのとえらい違いだ。7月10日の夜、F35Bの夜間飛行訓練が岩国市上空でおこなわれ、過去20年で最大の155件のクレームが市役所にあった。その翌11日に山口県知事や岩国市長が国に移駐容認を報告した。本来なら秋の岩国行動のスケジュールが決まっている時期だが、米軍移駐スケジュールが公表されていないので、決まっていない。米軍移駐スケジュールに合わせて、これまでにない大規模な岩国行動を提起したい」と話した。
アジア共同行動が、今年は韓米合同軍事演習にたいして、韓国の若者の呼びかけに応えて、韓日合同の抗議行動を佐世保基地と岩国基地でおこなったと報告し、今後も合同軍事演習にたいして、人民の側も共同で抗議行動をおこなおうと訴えた。
集会参加者は、今年の岩国行動や今後の韓米合同軍事演習にたいして、たたかおうと確認した。
国家のテロこそ問題だ
小倉利丸さんが大阪で講演
7月24日、大阪市内で「ぶっ飛ばせ!! 共謀罪―小倉利丸講演会」が開かれた。主催は〈共謀罪あかんやろ! オール大阪〉。120人が参加した。
小倉利丸さん(写真)は経済学者。講演では「共謀罪の真の目的は、広範な反政府運動の弾圧にあるというのはその通りだが、共謀罪は広範な反政府運動をテロリズムと再定義して弾圧することを正当化するようになる。重要なことは、私たちが自分自身をどのように認識しているかではなく、政府が私たちをどのようなカテゴリーに分類しようとしているかにある」と指摘。
「こうした政府によるレッテル貼りを『間違いだ』と主張することは大切だが、テロを否定的な概念としてしか思えないのであれば、それは、植民地独立運動への歴史認識が問われる」と問いを投げかけ、「重要なのは国家テロリズムにたいする認識である。反政府運動を国家が暴力的な威嚇を用いて萎縮させる行為が不当に軽視あるいは正当化されている」と話した。
講演の後、永嶋靖久弁護士が共謀罪にたいする対処法について「完全黙秘以外にはない」と自身が弁護した30年前の事件の経験を例にあげて話した。
主張
憲法に自衛隊を書き込めば
集団的自衛権で先制攻撃も
安倍首相は、5月3日の読売インタビューで、「(憲法9条の)1項、2項をそのまま残し、その上で自衛隊の記述を書き加える」と述べた。6月24日の神戸「正論」懇話会の講演では、「現在の9条1項、2項は、そのまま残しながら、現在ある自衛隊の意義と役割を憲法に書き込む」と述べた。より踏み込んだ表現となったことが何をもたらすかを、以下で検討する。
9条は死文化する
9条に自衛隊を書き込めば、「後法優先原則」により、現憲法9条の1、2項は死文化する。
同じランクにある法律の条文で互いに矛盾する、あるいは対立する条文がある場合、後にできた条文が優先するという法律上の大原則がある。これにより、1項の戦争放棄、2項の軍隊の不保持、交戦権の否認は全部無効化できる。9条に3項を加えるか、9条の2を新設するかは問題ではない。
つぎに重大なことは核兵器の保有が可能になることが憲法上確定することだ。
政府の解釈は、自衛隊は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であり、2項の戦力には当たらないとし、自衛のためであれば核兵器を保有することも合憲としてきた。したがって「自衛のため」と宣言すれば自衛隊が核兵器を装備することも憲法上可能になる。現に政府は、7月7日に国連で採択された核兵器禁止条約に参加せず、非核3原則も空洞化させている。自衛隊の明記は「現状維持」に決してとどまらない。
先制攻撃も可能
集団的自衛権を発動して「先制攻撃」も可能になる。
戦争法により「自衛権」の一部に集団的自衛権の一部が含まれることになった。これにより、米国が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)や中国に攻撃された(と認識した)場合、日本は攻撃されていないにも関わらず、北朝鮮や中国を攻撃することが可能になる。これは相手側からすれば「先制攻撃」以外のなにものでもない。現に自民党は、「敵基地攻撃」を検討している。
また 「自衛」の拡大解釈を防ぐ手立てがなくなる。
従来の政府解釈は、「わが国に対する急迫不正の侵害がある」ことが条件であった。しかし「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」を理由にした解釈変更により、この条件による歯止めがなくなった。同じ理由で「新9条」の「自衛」の範囲も拡大解釈される危険性がある。
各省庁や警察、海上保安庁、消防庁は憲法上の機関ではない。憲法上明記されている国家機関は国会、内閣、裁判所、会計検査院だけである。自衛隊が憲法上明記されれば、第5番目の国家機関となる。自衛隊および自衛隊員に特別の権威が与えられる。政治的軍人が跋扈し、軍事が市民社会の中で大きな位置を占めるようになる。
それでも自衛隊の違憲性、非合法性は解消しないのだ。
9条1、2項を死文化しても、前文の平和的生存権や国際主義、人権条項との矛盾は解消しない。自衛隊は相変わらず違憲の存在にとどまる。安倍首相の自衛隊明記論の根拠自体が矛盾と破綻、ウソと欺瞞の塊である。
憲法遵守を宣誓
安倍首相が挙げる「今や自衛隊にたいする国民の信頼は9割を超え」ているという点について。安倍首相自身が「正論」懇話会の講演で述べているように、それは災害派遣などでの隊員の献身的な活動にたいするものであって、自衛隊の本務とされる対外武力行使や国内治安出動にたいする支持ではない。災害派遣は自衛隊法で言えば83条に規定される副次的任務に過ぎない。
安倍首相は自衛隊員の服務の宣誓で、「ことに臨んでは、危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います」に「感激」し、このような隊員を違憲の存在にとどめてはならないと言う。しかし安倍首相が引用した服務の宣誓には、この語句の前に次のような言葉がある。「私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行にあたり」。「憲法遵守」や「政治的活動に関与せず」がキモである。憲法遵守を誓っている隊員に違憲の活動をやらせようとすること自体、自ら憲法遵守義務を侵す以上に犯罪的である。
(落合薫)
本文執筆に当って『週刊金曜日』8月4日・11日合併号の水島朝穂「安倍流9条加憲は『憲法条文内クーデター』/明記しても自衛隊の違憲性は問われ続ける」を参考にした。
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海上座り込みに参加して
カヌーと抗議船で工事止めた
7月24日から3日間沖縄に行ってきた。那覇空港に昼過ぎ着いて昼食の後、近くの豊見城市にある旧海軍司令部壕に行った。ここは日本軍の本拠地で、貴重な写真や資料が展示されていた。地下司令室には自決した時の手榴弾の跡が生々しく付いていてショックを受けた。
翌25日は天候もよく絶好のカヌー行動日になった。9時過ぎ抗議船に乗り込み海上集会場に着いた。88人が乗る71隻のカヌー隊は既に到着していた。50人が分乗した8隻の抗議船と合流して「海上座り込み大行動」が始まった。「これ以上海を汚すな」「違法工事をやめろ」と声を上げた。「NO BASE」と書かれた横断幕の船を中心に、「工事は岩礁破砕許可が切れて違法だ」と訴えた。
午後1時から辺野古の海岸に250人が集まり、決起集会がおこなわれた。みんなは、工事をストップさせた勝利感で一杯だった。海保は何も手出しできなかった。またアメリカ・フランス・スペイン・韓国・台湾など世界中から寄せられたメッセージが英語で読み上げられた。初めての試みだったが大成功だった。またやりましょうと皆で誓いあった。次回は10月25日頃を予定している。
夕方6時からは近くの店で交流会。自己紹介で、若い保育士の女性2人の「子どもたちにこのきれいな海を残したい。子どもたちを戦争に行かせたくない」の発言に感動した。(大林寛治)
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4面
寄稿
「開発、発展、世界で1番」に未来はあるか(上)
神戸市に見る 開発行政の行き詰まり
粟原富夫(神戸市議会議員・新社会党)
「日本を、東京を世界一に」「この道を前へ」「○○ファースト」が大はやりだ。かつて「株式会社神戸市」「山、海へ動く」という開発手法が注目された。バブル崩壊から大震災の直後「空港建設は復興の希望」と開発続行に走り、今その矛盾と破綻が見えている。新自由主義の野放図な展開が続くなか、次の社会、地域、暮らしをどう考えるか。成長の陰りが始まった80年代から市議を務め、市民とともに空港反対運動などにかかわってきた粟原富夫さんに寄稿してもらった。(本紙編集委員会)
「株式会社神戸市」を振り返る
「株式会社神戸市」のルーツは、戦災復興から始まる。さかのぼれば明治開港いらいの開発、企業誘致による急速な都市づくりを推進してきた。福原遷都や兵庫津の開削などがあっても、開港までは神戸村。都市基盤はなかった。長い歴史がある京都、それとともに商業が形成されてきた大阪に比べ、神戸は国家・行政、官が主導して作った街といえる。
戦後から70年代、高度経済成長からバブルまで経済は右肩上がり。誰も下がるということを考えていなかった。為替も円高、ドル安で推移した。それを積極的に活用する。ぼくが市議に初当選した87年ころが、その最後の様相だった。
当時の市長は「神戸は京都の1・5倍の仕事をしている」といっていた。起債し資金、予算を前倒し投入する。国の補助金、借金で予算規模を拡大する。外国債を発行し、10年後の返済は円高や経済成長により半額ですむ。出来上がった造成地、埋め立て地を売却して償還する。「山、海へ行く」という手法だ。同じ仕事をしても1・5倍の仕事ができるという発想と仕組みだった。
神戸は造船や製鉄、電機など重厚長大産業と、取りまく下請け中小零細という構造と歴史。商工会議所よりも行政が経済、開発を先導した。大阪と違い、経済活性化を行政に求める、またそうしなければ動かない歴史的、社会的構造があったと思う。「株式会社」といわれるゆえんだろう。
「山、海へ行く」という六甲山麓、山間地を宅地造成し、その土でポートアイランド(以下ポーアイと略)を埋め立てる。造成地を売り、ポーアイを売る。お金を借りて事業推進、安く返すという起債主義、公共デベロッパー方式という行政手法だった。
同様に「港」に固執した港湾造成があった。阪神淡路大震災が低落に拍車をかけたが、もともと需要を大きく上回るバースや港湾設備を作ってしまった。根元は「発展」、右肩上がり、バブル経済が続くという期待に依拠していた。
右肩上がり時代には通用したことが、これからの社会を考えると、そうはできない。新しいファッション産業や医療産業都市構想も、気がつけば重厚長大は撤退につぐ撤退で後がない状態になっている。もちろん私たちにも、その責任はあるだろう。だからこそ、これからもそれを追い求める経済、社会にストップをかけ、違う未来、社会に転換する責務がある。住民、市民のために向けられるなら有能な行政テクノクラートは必要だ。しかし方向を誤ると修正できなくなる。そこに問われるのは、やはり民主主義だ。
市営空港は「希望」だったか
市営神戸空港は、阪神淡路大震災の直後に多くの市民の反対を押し切って無理やり作られた。明らかに失敗、破綻している。地方空港として、ある程度の乗客数を確保しているが、国際空港にはできない。年間利用者430万人計画は、250万人前後で推移。着陸料収入も16億程度ないといけないが、7億しかない。いろいろ削っても毎年1億、2億の赤字が出る。結局関西、大阪両空港を運営する関西エアポートに191億円で運営権を売却した。大規模メンテナンスの時期もくる。神戸経済をけん引する空港という振れこみだったが、どう考えても失敗だ。埋め立てた空港用地の売却も当初予定の10%ほど。まったく売れていない。赤字は新都市整備特別会計から補填している。ポーアイ2期と空港周辺の土地が売れない限り解消できない。
ポーアイ2期も売れておらず借金が残り、10年単位などの賃貸地が多い。上物が建っても借地料を安くしている。東側と六甲アイランドに外国航路バースを作ったが、船は少ない。ほんらいバースを作る予定だった所は大学などに安く売却した。中心地の三宮から遠い所を高く、近い所を安くした。普通の土地は需要と供給によるが、埋め立ては沖合(遠く不便)ほど製造費が高くつく。会計上、造成した土地を安く売ることはできない。後になるほど造成費が高くなった上に、バブルが崩壊してしまった。神戸空港は2000億の借金で作り、約80ヘクタールを売却して返済に充てる予定だった。売れていない。ポーアイ1期は一応成功だろうが、後はそういう連鎖になった。成功分の基金である「貯金」があったのを会計に戻し入れし、毎年借金を返している。全部使っても1000億くらいの赤字になる。神戸空港を作らなかったら、その2000億は市民のために使えたお金だ。
震災のときにやめる決断、バブルが崩壊した時点で発想を変えるべきだった。神戸市だけの問題ではなく、いまの社会全体に考えられることではないか。(つづく)
とことん追及!! 森友事件
安倍昭恵の国会喚問を
8月4日 豊中市
森友学園問題を考える会が結成されて1年。8月4日、豊中市内で「とことん追及!! 森友学園問題」集会がひらかれ600人が参加した(写真)。
『日本会議の研究』の著者菅野完さんは、「籠池さんが逮捕されたが、証拠も証言も否定する安倍内閣。籠池夫妻が財務省と価格交渉したことは明らかで、タダ同然で売却されたのは安倍晋三の威力が背後にあったから。安倍首相らが属する『日本会議』は愛国団体ではなく『反左翼連合』。そんなものがいつまでも通用するはずがない。籠池逮捕後は誰もが『財務省・近畿財務局こそ本筋』と言っている。大阪地検特捜部に『籠池さんだけでなく、財務省を調べろ』と声をあげよう」。
民進党の杉尾秀哉参議院議員は「行政の公明性・公正性が保たれていないことが明らかになったのが『モリカケ問題』。日本の民主主義の根幹が問われている。園児たちの映像を通じ、教育勅語を体現している政権の思想が一気に噴き出した。安倍首相退陣まで迫れてないのは民進党の足元がグラグラしているのも要因。ここであきらめず、野党と市民一人ひとりが手をつなぎ、安倍を倒すまで力を合わせて頑張ろう。」
社民党の福島みずほ参議院議員は「豊中で市議や市民が頑張っていることで問題が大きくなった。『瑞穂の國記念小學院』は彼らの希望でありモデル校。安倍首相の『今年1月20日まで加計学園の獣医学部開設計画を知らなかった』は誰も信じていない。安倍政権は『オレさまのオレさまによるオレさまのための政治』。安倍昭恵と加計孝太郎の証人喚問を」。
日本共産党の宮本岳志衆議院議員は「国会で森友問題を追及してきた野党がここに顔をそろえている。国民と野党共闘の勝利の流れを大事にしたい。全容は明らかだが、逃げ回っているのが安倍内閣。また『認可適当』とし森友を応援してきた維新の責任追及も必要。籠池さんは悪い人だが証人喚問にも応じた。加計問題では『教育勅語を教科書に使うこともありうる』と言っていた前川さんが変わった。真実追求が安倍らを追い詰めている」。
4人の意見を受けてコーディネーターの木村真豊中市議は、「『安倍一強』の空気のもとで『政治の私物化』が極限まで進もうとしたのを、森友学園事件を契機に安倍政権批判が一気に高まった。この流れを強めよう」とまとめた。(野田章)
“20_シーベルト引上げは誤り”
滋賀で再稼働反対集会
8月6日
8月6日、「高浜原発の再稼働には同意できません!8・6滋賀県民集会」が米原市内でひらかれ165人が参加した。主催は〈市民の会しが〉(写真)。
講演で井戸謙一弁護士が、原発をめぐる国の政策を全面的に批判。
つづいて井戸弁護士、〈菜の花プロジェクト〉の藤井絢子さん、〈市民の会しが〉副代表の西村しずえさんによるシンポジウムがおこなわれた。井戸さんは、なぜ多くの原発裁判に弁護団長として関わっているかについて、「もともと志賀原発の裁判に裁判長として関わり勉強していた。福島事故のあと放射線の許容範囲を年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトにあげたのを見て、官僚はここまで劣化しているのかと驚き、これとたたかおうと決断した。放射線から人類を守るための1ミリシーベルト基準。チェルノブイリ事故のときソ連もこれを守ろうとした。日本が20ミリシーベルトまで上げるのは、世界の人類の問題。認めることはできない」と詳しく説明した。
集会には、地元米原市長をはじめ、大津市長など県内自治体首長からの連帯メッセージが寄せられ、政党からは民進党、共産党、社民党、新社会党があいさつした。
5面
韓国市民革命の現場から
当事者が語るキャンドル集会
8月6日 大阪
8月6日、大阪市内で韓国の朴槿恵大統領を退陣に追い込んだキャンドル市民集会の当事者で朴槿恵政権退陣国民非常行動スポークスマン兼常任運営委員の安珍傑さんの講演会が開かれた(左に講演要旨)。主催は〈戦争あかん! ロックアクション〉と日朝日韓連帯大阪連絡会議。
安珍傑さんは参与連帯の事務処長でもある。参与連帯は94年9月10日に「参与民主社会と人権のための市民連帯」として発足。朴元淳ソウル市長は創立者の1人。
95年3月、現在の「参与連帯」に改称。参与連帯は募金によって建てられた自前のビル(地上5階地下1階)をソウル鐘路区に持っている。韓国の権力機関を監視し、韓国の市民の声を権力側に伝えるために青瓦台から500メートルの所に建てられている。政府と大企業からは1円も受け取らず、大半が会費によって運営されている。常任活動家は60人。司法監視センター、議政監視センター、行政監視センター、公益通報支援センターなど15の部署がある。
主な活動に00年、04年、総選挙の落選運動、06〜11年、韓米自由貿易協定(FTA)拙速交渉阻止運動、03〜08年米国のイラク侵攻と韓国軍のイラク・アフガニスタン派兵反対集中行動、11年〜済州海軍基地建設阻止運動、14年〜セウォル号惨事の真相究明活動、16〜17年、朴槿恵即刻退陣のための非常国民行動がある。
市民による権力
安珍傑さんの話の前に、この日通訳を担当した在日韓国研究所所長金光男さんが事前解説をおこなった。
昨年10月から開催されたキャンドル集会の参加人数は公式発表で1700万。負傷者や逮捕者を1人も出さなかった。市民の平和的な力で政権を退陣させたことは世界史に記憶されるだろう。
このキャンドル集会で韓国では司法立法行政に加え新たに市民による権力が生まれた。朴槿恵前大統領は拘束・起訴され、現在、裁判中だ。韓国の特別検事は、朴槿恵前大統領の犯罪の核心として、「国家権力を私利私欲のために乱用した国政支配」と「韓国社会の腐敗の根源である政権と財閥の癒着」の2点を指摘した。
金光男さんは市民革命の背景に、韓国の闘争の歴史が国民の中に継承されていることを強調した。(池内慶子)
(講演要旨)
韓米日の市民社会の連帯を
韓国参与連帯事務処長 安 珍傑さん
怒りの背景
キャンドル集会の直接の契機は朴槿恵―崔順実ゲートだ。韓国の国民は李明博、朴槿恵と続いた保守10年政権のもとで人権の後退、民主主義の後退、生活苦を味わって来た。韓国では“ヘル(地獄)朝鮮”という単語が作られるほど格差が拡大し、民主主義が後退している。
財閥中心の極めて少数の既得権力者のための政治にたいする国民の怒りが朴槿恵―崔順実ゲートの真相追及、と同時に彼らを追い出さなければならない、これ以上我慢できないという域にまで達したのだ。
たとえ一部であっても過激な行動は必ず弾圧の口実になるということを、私たちは経験的に知っている。想像を超える規模の市民たちが家族や友人、同窓会として参加したために、彼らにたいして恥ずかしいキャンドル集会であってはならないとも考えた。
また、韓国に留学していた各国の学生たちも参加し、世界各地から激励が届けられた。
文在寅政権への期待
政権交代を実現したとはいえ社会格差はそのままだし、南北間の問題は解決していない。韓国は自殺世界1位、出産率は世界最低、そして労働時間は世界最長だ。この最大の原因は韓国だけに存在する財閥による支配である。サムスンの皇太子と呼ばれた李在鎔が拘束され裁判を受けているが、これはキャンドル市民革命の大きな成果である。
今回の出来事は韓国の市民の力だけではなく、普遍的に民主主義、正義あるいは格差反対を求めている世界市民の応援によって実現したと言える。
それでは文在寅政権は何をしなければならないのか。韓国社会の格差を解消するために、財閥中心の経済ではなく庶民や中小商工人のため、そして国民のために分配されるような経済政策である。文在寅政権が登場することによって、前年比15%最低賃金が引き上げられた。日本、韓国、アメリカにおいても最低賃金問題、非正規職問題解決は共通した課題である。
複雑な南北問題
南北の和解、高高度防衛ミサイル(THAAD)反対がなぜ複雑なのか。それは、市民たちは朴槿恵政権の退陣には合意するが、南北の和解、THAAD配備反対については異なる意見を持っているからだ。
もう一つの理由は、韓国はアメリカの強い影響を受けていることだ。非常に残念だが、文在寅政権が出帆するや否や北朝鮮は弾道ミサイルの試射を続けている。
文在寅政府は南北関係改善の努力を重ねているが、北朝鮮は米国との直接会談を望んでいる。南北の交流は遅れるのではないか。そして北朝鮮が大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験をしたことを契機に、文在寅政権はTHAAD発射台の追加配備を決定した。これについては文在寅政権を支持する市民団体や文在寅政権の成功を期待する市民団体のなかから非難する声があがっている。
なぜこうした政策をとらざるをえなかったか。日本に安倍右翼勢力が存在するように韓国にも極右勢力が存在しているからだ。文政権を激しく非難していた右翼勢力が、この決定だけは歓迎した。
今日(8月6日)は広島に原爆が落とされた日だ。福島第一原発事故を契機に韓国では脱核つまり反原発運動が一挙に盛り上がっている。文在寅大統領は古い原発の稼働停止を命じ、現在建設工事が進んでいる新古里5・6号機の工事を中断するように命じた。もちろん賛成する人も反対する人もいる。
アジアの平和の実現と反原発問題を考え、各国の燃料問題なども考えるとき、平和のために戦争に反対するというだけではなく、原発にも反対しなければならない。
市民革命はつづく
私たちは政権交代を実現した。文在寅政権の支持率は非常に高い。しかしキャンドル市民革命はまだ終わっていない。依然として財閥の力は強大であり、韓国の賃金労働者の半分は非正規職だ。労働時間は世界最長、労働災害事故も世界最多である。文在寅政権はこれらの問題を解決するために総力を傾けなければならない。
困難であっても、現在のように支持率が非常に高いときに、これらの課題にたいして精力的に取り組むべきだ。もしも文在寅政権がこれらをおろそかにするなら、私たちが実現した政権とはいえ、この政権と再びたたかわなければならない。
日本と同じように韓国においても過労死が深刻な社会問題となっている。日本と韓国の労働時間を削減し、人間らしい生活をともにめざしていかなければならない。
南北問題とTHAAD配備問題についても考えなければならない。もしも文在寅政権がこれらの問題を通して過去の李明博、朴槿恵政権と同じような冷戦政策、あるいは、北朝鮮との対決政策をとるならば私たちはこの政府と争わなければならない。
私は金大中、廬武鉉政権を継承している文在寅政権がこれらのことをするとは思わないが、韓国の市民社会にTHAAD追加配備決定は衝撃を与えている。韓国の市民社会団体は北朝鮮を祖国と考えており、当然祖国にたいする軍事訓練の展開に反対する。私たちは朝鮮半島の非核化の実現とアメリカの介入を減らすという二つの要求を掲げている。
南北問題、THAAD問題は韓国内部だけでなく、周辺4カ国と関連した複雑な問題だ。韓国、アメリカ、日本の市民社会との連帯が必要ではないか。
労働運動の強化を
残念なことだが韓国の労働組合の組織率は10%でしかない。80年代、90年代の主役であった学生運動も退潮している。したがって、そのすき間を韓国においては市民運動が埋めている。しかし労働運動のない民主主義はもろい。国民の70%が賃金労働者という現実を考えた時に、市民運動だけで問題を解決することはできない。(文責・見出しとも本紙編集委員会)
6面
職場の支配権をわが手に
『鎔鉱炉の火は消えたり』(浅原健三)から学ぶ
労働運動の再生をめざして
浅原健三『鎔鉱炉の火は消えたり』は1930年に刊行された。昭和初期の大ベストセラーで、標題以外に11作品が収録されている。浅原は1920年、23歳で、八幡製鉄所の大労働争議を指導し、治安警察法(1900年成立)違反で逮捕された。29年の帝国議会では、山本宣治への追悼演説をおこなっているが、後年石原完爾らと相通じ、侵略戦争に加担していく。
最大のテーマは8時間労働の実現であった(後述)。安倍政権は連合を取り込んで、8時間労働制を解体(高度プロフェッショナル制度)しようとしているが、100年以前に巻き戻そうとする攻撃を阻止するために、八幡製鉄所大争議から学びたい。
八幡製鉄所とは
1894年日清戦争に勝利した日本は、95年(明治28年)に製鉄事業調査会を設置し、翌96年に公布された製鉄所官制に基づいて、福岡県八幡町(現北九州市)に官営の製鉄所として、八幡製鉄所が設置された。1901年に第一高炉の火入れがおこなわれた。建設費は、日清戦争でぶんどった賠償金で賄われた。
第1次世界大戦を経て、八幡製鉄所はどんどん増築され、ストライキがおこなわれた1920年には2万5千人の労働者(職員1400、職工1万7千、臨時職員7千)を擁する巨大企業に成長していた。
労働者の不満が蓄積
20年(大正9年)2月5日、2万5千人の労働者が大ストライキ(罷工)に決起したが、それ以前から、労働者の不満と怒りは蓄積していた。18年には西田健太郎らのよびかけで、1万人がサボタージュをおこなった。19年1月24日に、溶鉱炉鉱石運搬作業の朝鮮人82人が待遇改善を要求して2日間のストライキ、また同年8月24日にも工事現場の臨時職員33人がストライキを起こした。
浅原健三は19年8月30日に八幡市内で「労働問題公開演説会」を計画したが、警察によって禁止命令が出された。10月16日に、八幡製鉄所、旭ガラス、安川電気、安田製釘など八幡町近辺の大工場を網羅する鉄工場労働者600人が結集し、日本労友会の発会式が開かれた。企業内組合ではなく、八幡地区のさまざまな職種の労働者を組織した。戦時手当の本給繰り入れによる賃金の値上、8時間労働制の実施などが中心的要求だった。
翌年2月12日の給料日の翌日ストライキ突入をめざして、たたかう体制を構築し始めたが、労働者は早期の決起を望み、2月5日の突入がきまった。
要求は、下記の5点とした。@臨時手当及臨時加給を本給に直して支給されたき事、A割増金は従来3日以上の欠勤者に対しては附加せざりしが、之れを廃し、日割を以て平等に支給されたき事、B勤務時間を短縮せられたき事、C住宅料を家族を有する者には4円、独身者には2円を支給せられたき事、D職夫の現在賃金3割を加給せられたき事。
8時間労働制を要求
1850年代以降、ヨーロッパやアメリカの労働者は、8時間労働制を求めてたたかっていた。1917年のロシア革命は全労働者を対象にした8時間労働制を宣言(布告「8時間労働日について」)し、19年に創設された国際労働機関(ILO)の第1号条約が結ばれ、「8時間労働制」が確立した。
白仁製鉄所長官との会話のなかでは、
(浅原)「時間短縮、賃金値上げ、其他二三項です。」
(白仁)「八時間労働にしろといふのかね。」
(浅原)「さうです。」
(白仁)「でも、八時間制は無茶だ。官設工場で実施しているところはまだ一つもない。」
浅原健三の脳裏には、ヨーロッパの動向、特にロシア革命で確立された8時間労働制が確固としてあったはずだ。
朝鮮人労働者と共に
八幡製鉄所ではかなり早い時期から、朝鮮人労働者が働いていた。この小説のなかに、2月5日のストライキ(罷工)突入を知らせる場面が描かれている。
「『成功は確実だ。』今度は鳴り熄まぬ。最高潮の強音は、強く、鋭く、長く、全八幡の空に、ビュー、ビューと鳴り響く、突き破る勝利の雄叫が鳴る。
聞けば、朝鮮人の金泳文が非常汽笛を鳴らし始めた、と見た十数人の守衛が一気に押寄せ、金君を追ひのけて其場を守備した。その時中絶したのである。それを観た百余の職工は、ドツと殺到、守衛連を突き落して汽笛台を××(奪還)した、金泳文は再び引綱を掴んだ。乱れた髪、喰ひしばつた歯、蒼白の顔、ランランたる目、彼は四十年の恨を二本の手に託して、死んでも放さない」
また、とあるブログによれば、次のように書かれている。
「八幡製鉄所構内では、大正9年2月の大争議の前の大正8年1月24日に、溶鉱炉鉱石運搬作業の朝鮮人82名が待遇改善を要求して、2日間ストライキをした」
このように、日本の朝鮮侵略・植民地化で、土地を奪われ、追いつめられた朝鮮人が続々と渡日し、内務省警保局の全国調査によれば、1920年にはすでに3万149人の朝鮮人が各地で働いていた。八幡製鉄所でも多数働いており、浅原はこの現実を決して見失わず、植民地支配のなかで苦闘する朝鮮人労働者と一体感をもって、ともにたたかっていたのである。
ここで言う「四十年の恨」とは、1875年江華島事件から始まる朝鮮侵略と植民地化にたいする朝鮮人民の根底的な怒りである。「日露戦争後の×××××××××××の青年」の、伏せられた11文字は、今となっては正確に知ることはできないが、浅原はくり返し「朝鮮人青年」の怒りを共有している。
浅原の感性は、今の日本の労働者人民に、最も必要としている人間的感性である。極右勢力や保守政治家(例えば谷本石川県知事の「北朝鮮人民を餓死させよ」発言)によるヘイトスピーチ(排外主義)とたたかうための原点があると考える。われわれは70年7・7で、ようやく排外主義とのたたかいを対象化したが、浅原はその50年前、今から97年前に意識的に語っていたのである。
溶鉱炉の火が消えた
2月5日にストライキ(罷工)に突入した。1901年以来19年間燃え続け、労働者を支配してきた溶鉱炉の火は消えた。八幡製鉄所の主人公が誰なのかを明確にした瞬間だった。
しかし、浅原を始め、中心メンバーの検束(逮捕)が相継ぎ、指導部を失った労友会は急速に力を失っていく。ストライキ(罷工)6日目には大半の職工が「極度に憤懣を抱きながら、不承無精」に職場復帰した。
しかし、労働者は諦めなかった。2月23日には、労友会は「満場一致で再罷工を議決した」。小説は次のように描いている。
「二十四日、飛雪霏々(ひひ=降りしきる)。朝の交替時間、予定どほり、第一中型で喊声が揚つた。雪崩出た職工は、順次に、各工場に××、××― ××する者、××する者は××××××××。××××は容赦なく××××。その度毎、ドツと喊声、歓呼。駆り立てられ、追い立てられた群衆は、一群、又一群、通用門に集合。やがて、東門、南門から堰を切って落とした様に流れ出る」
「一万五千の大群は、遂ひに、警戒線を突破して、市内に溢れ出た。井上、加藤(義)は先頭に立つて、春ノ町の購買組合事務所に群集を導く。見渡すかぎりは人の波。商店は戸を閉ざし、幾十台の電車が立往生だ」
製鉄所は、3月1日まで休業(ロックアウト)を宣告し、労働者は再び地にねじ伏せられ、3月2日には大半が就業した。
弾圧と犠牲と勝利
小説には、「前後二回の罷工のために工場を追はるゝ者三百余、投獄せらるゝ者七十三名。」というすさまじい弾圧の記述がある。製鉄所当局と警察の暴力で、指導部と労働者を分断し、労働者の怒りとたたかいを、ひとまず沈黙させたが、ストライキ(罷工)の威力を自覚した2万5千の労働者がここにおり、製鉄所も警察も枕を高くして寝ることはできない。
1度ならず、2度までもストライキに決起(職場支配権の確立)した労働者の底力を恐れた製鉄所は、4月上旬、「優遇案」を発表した。浅原は「二交代十二時間労働は三交代八時間労働制となり、労働賃金率は職工の要求に近く改定せられ、我等が要求条項の本体は、殆んど完全に獲得せられた」と勝利宣言を発している。
最後のページで、浅原は次のように総括している。「××(労働)者は必ず××(勝つ)! 敗くるは××(戦わ)ないからである。××(戦い)のある所、そこには必ず××(勝利)がある」。そして、「三百の首なき屍よ! 七十四名の囚徒よ! 彼等の犠牲の×(血)は、涙は、十年の今日まで、否、×××××(労働者階級)解放の日まで、脈々として生き続ける」と。
学ぶべきこと
今、政府と連合がなれ合って、「高度プロフェッショナル制度」を導入しようとしている。8時間労働制死守の先頭に立つべき再建協議会が「職場における労働者と使用者の対立という単純な構図」(『未来』227号)などと言いなして、あらかじめ職場支配権への執着を放擲している。
職場の労働条件は、法律だけではなく資本と労働者の力関係を反映する。「労働者階級の職場支配」を軽視して、労働者のプライドも、権利もあったものではない。100年前の八幡製鉄所の労働者のように、尊厳をかけて、失敗を恐れず、弾圧を恐れず、職場支配をめぐって、資本とくりかえしたたかおうと呼びかけねばならないのではないか。(田端冨美雄)
八幡製鉄大ストライキ前後の歴史
1894年〜95年 日清戦争
1897年 官営八幡製鉄所設立告示
1901年 八幡製鉄所操業開始
1904年〜05年 日露戦争
1910年 朝鮮併合
1914年〜18年 第一次世界大戦
1917年 ロシア革命
1918年 中秋の頃―職工1万人のサボタージュ(西田健太郎)
1919年1月24日 溶鉱炉鉱石運搬作業の朝鮮人82名が待遇改善要求、スト
1919年3月1日 三・一独立運動
1919年8月24日 工事現場臨時職夫33人がストライキ
19191年8月30日 労働問題公開演説会
(八幡市)―禁止命令
1919年10月16日 日本労友会の発会式
1920年2月5日 八幡製鉄所大ストライキ
1920年2月24日 第2波ストライキ
1920年4月上旬 優遇案8時間労働に
1923年9月1日 関東大震災
三里塚反対同盟事務局長
北原鉱治さん 逝去
三里塚芝山連合空反対同盟事務局長の北原鉱治さんが9日午後1時45分ごろ、老衰のため逝去された。享年95。
北原さんは反対同盟結成とともに事務局長に就任。故戸村一作委員長とともに三里塚闘争をリードした。75年から成田市議を4期務めるかたわら、全国を回って各地のたたかいと三里塚を結びつけるために尽力した。90歳をこえても闘争の第一線に立ち続けるその姿に多くの人びとが感銘を受けた。北原さんの不屈の闘魂を引き継ぎ、三里塚闘争の勝利を誓う。