辺野古新基地工事差し止め
沖縄県が国を提訴
7月25日 “海上座り込み”にカヌー70艇
辺野古に集まって気勢を上げる会場抗議団とゲート前座り込みの市民たち(7月25日 名護市内) |
7月24日沖縄県は、国が岩礁破砕許可を得ずに辺野古新基地建設工事を強行していることを違法として、国を相手取った岩礁破砕の差し止め訴訟を那覇地裁に提起した。これに先立つ22日、2千人の市民がキャンプ・シュワブを人間の鎖で包囲。また25日には、最大規模の海上抗議行動がおこなわれた。工事中止へ、沖縄県民とともにたたかおう。
7月11日 高江新ヘリパッド、N1地区とH地区のオスプレイ運用が始まった。昨年ヘリパッドが「完成」してから初めての訓練。未完成のままの運用に「県民の命を軽視している」「赤ちゃんがぐずっている。ここでは育てられないのではないか」と、住民からは怒りの声が上がった。 14日 沖縄県議会6月定例会最終本会議で、名護市辺野古の新基地建設工事による岩礁破砕の差し止め訴訟の「訴えの提起」と提訴費用を盛り込んだ補正予算を与党の賛成多数で可決した。
人間の鎖で基地包囲
上 海上座り込みのカヌー隊(7月25日)下 キャンプ・シュワブを包囲(7月22日)いずれも名護市内 |
22日 辺野古キャンプ・シュワブゲート前で「辺野古・大浦湾の埋め立てを止めよう!人間の鎖大行動」がおこなわれた。県内外から2千人の市民が手をつなぎ「人間の鎖」で四つのゲートを封鎖した。市民は1・2キロにわたって基地を包囲した。キャンプ・シュワブ基地を包囲するのは初めて。
午後2時、集会は、オール沖縄会議共同代表の玉城愛さんの司会で始まった。最初に安次富浩ヘリ基地反対協共同代表が「たくさんの人が集まり、21年間たたかい続ける名護市民にとって印象に残る日になった。あきらめず最後までたたかおう」とあいさつ。そして、溶ける素材を使った風船1千個に「新基地建設を絶対許さない」という強い気持ちを込めて、一斉に大空に飛ばした。
稲嶺進名護市長は「この新基地を止めるために翁長知事が県民の先頭で頑張っている。名護市民、県民の思い、願いは必ずかなう。今日の行動を新基地建設ストップのエネルギーに変えていこう」とげきをとばした。参加者は基地に向かって手をつなぎ「新基地建設反対」「美ら海を壊すな」とシュプレヒコールを上げた。「人間の鎖」は3度完成し、県民の力強い抗議の意思を示した。
国の強権姿勢糾す
24日 午後、県は国が岩礁破砕許可を得ずに工事を進めるのは違法だとして、国を相手に岩礁破砕の差し止め訴訟を那覇地裁に提起した。併せて判決が出るまで工事を止めるよう求める仮処分も申し立てた。新基地建設を巡り、国と県は5度目の法廷闘争に入る。
翁長雄志知事は、記者会見で「(今回の裁判は)新基地建設の是非そのものを問うものではないが、県民の思いを置き去りにしたまま基地建設に突き進む国の姿勢が問われる」と述べ、裁判を通して国の強権的な姿勢を浮かび上がらせることができると、訴訟の意義を強調した。
「海を壊すな」
25日 沖縄防衛局が護岸工事に着手してから3カ月になるこの日、キャンプ・シュワブ沿岸で「海上座り込み大行動」がおこなわれた。海上では、カヌー71艇(これまでで最大)抗議船9隻で工事中止を訴えた。県内外から150人を超える市民が参加した。シュワブゲート前でも50人が座り込み、工事車両搬入阻止をたたかった。
午前10時、カヌーと抗議船は工事が強行されている「K1護岸」フロートの前に結集。「海を壊すな」「違法工事をやめろ」と声を上げた。
午後1時、辺野古の浜に、海上抗議団とゲート前座り込みの市民など250人が結集。「これからもたたかうぞ」と海と陸とでたたかう連帯の声を上げた。
この日、防衛局は「K9護岸」「K1護岸」につづき「N5護岸」付近に網袋入り砕石を設置した。(杉山)
正念場、粘り強く あきらめず
沖縄平和運動センター議長 山城博治さん
7月16日 奈良市
7月16日、映画『標的の島〜風かたか』の上映と山城博治・沖縄平和運動センター議長(写真左)の講演会が奈良市の奈良県人権センターで開かれ200人が参加した。主催は〈奈良―沖縄連帯委員会〉と〈沖縄の高江・辺野古につながる奈良の会〉。
山城さんの講演の要旨は次のとおり。
戦争への道を止める
安倍内閣の5年間は、戦争への道を突き進んできた。政府は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の脅威や中国の脅威を流している。戦争は政府によってつくられる。こんな政府は許さない。戦争の道を止める、そのための基地建設を止める、これが沖縄県民の思いだ。
わたしの父親は沖縄戦を戦った。おやじは爆弾を持って戦車に突入する自爆隊の少年兵だった。その後、南部戦線に撤退するなかで負傷した。この時、おやじは同僚の兵隊たちに見捨てられて、そのまま放置された。おやじは米軍の捕虜となり、ハワイに送られた。ここで生きながらえて、2年後に帰ってきた。おやじは「日本軍は鬼よりこわかった、それにくらべて米軍は立派だった」「日本に復帰したら、また地獄を見る」といって、復帰運動に反対した。平和運動にも懐疑的だった。沖縄戦の体験者でも一筋縄ではいかない。
楽しく、したたかに
現場はきびしいなかでも、したたかに、しなやかにたたかっている。座り込みのなかで、歌をうたい、カチャーシーを踊っている。参加者は活動家以外が大半だから、楽しくないといけない。誰かの指導・指示にたよっていたらだめ。みんないっしょにやっている。
2015年11月、東京から警視庁の機動隊がきて、状況はさま変わりした。わたしは16年10月に逮捕され、5カ月間勾留された。取り調べのなかで、刑事が言ったのは「罪を認めろ」だけ。検察は共謀共同正犯をねらっていたが、だれも供述しなかったので、そのもくろみは粉砕された。裁判に勝って、はやく現場に復帰したい。
名護市長選勝利へ
3月末に、岩礁破砕許可の期限が切れた。防衛局は「漁業権が放棄されたから、許可はいらない」と言っているが、とんでもないペテンだ。知事が反対している限り、工事はできない。これからも、あきらめないで、ねばり強くたたかう。これが沖縄県民の思いだ。このことをぜひとも理解していただきたい。
日本の政治を変える必要がある。このことによって、沖縄の状況も変わるだろう。沖縄では、来年1月には名護市長選挙があり、11月には県知事選挙がある。正念場だ。負けるわけにはいかない。
2面
若狭の原発を止めよう
自治体議員と市民が連携
7月23日 大阪
関西各地の自治体議員らが一同に(7月23日大阪府高槻市) |
7月23日、大阪府高槻市内で反原発自治体議員・市民連盟「関西ブロック」発足のつどいがひらかれた。同連盟は2011年1月に準備会を発足。5月の結成に向け活動を進めていた最中に「3・11」が起きた。原発の廃止をめざし、福島の実態に学び、原発を推進する国政を変えるため、地方自治体から声をあげ続けてきた。佐藤英行・北海道岩内町議、福士敬子・元都議ら4人が共同代表。
今春、関西電力が相次いで高浜原発4号機、3号機を再稼働させるなかで、取り組みを強めた同連盟は、関西の自治体議員と市民との広範な連携を図り、原発立地自治体議員と結んで、若狭の原発を止めるための取り組みを決定。この日の「関西ブロック」発足にいたった。
集会では、同連盟から2本の報告「原発再稼働をめぐる状況と取り組み」「当面の(関西ブロック)活動方針について」があり、記念講演『なぜ「原発で若狭の振興」は失敗したのか』を元越前市議の山崎隆敏さんがおこなった。
『福島第1原発事故と大熊町の被害の実態』報告をおこなった同町議の木幡ますみさんは「再稼働を許したら、明日はわが身ですよ」と強調した。
「原発立地・周辺自治体」議員・市民からは、福井県敦賀市議の今大地晴美さん、若狭の原発を考える会、自宅が大飯原発から28qの地点にあるという滋賀県高島市議の是永宙さんが報告した。
原発のないまち創りへ
山崎隆敏さんが講演
京都
7月16日、シンポジウム「原発のないまち創り」〜なぜ、「原発で若狭の振興」は失敗したのか〜 が京都市内でひらかれ120人が参加した。講演は、サヨナラ原発福井ネットワーク代表の山崎隆敏さん(写真左上)で、コメンテーターを福井県民会議代表委員の中嶌哲演さんと反戦共同きょうとの新開純也さんがつとめた。会場から〈若狭の原発を考える会〉木原壯林さんや〈使い捨て時代を考える会〉槌田劭さんが発言し、原発がいかに破産したもので、原発のない社会をどうつくっていくのか、踏み込んだ議論が交わされた。
共謀罪廃止へ
京都で400人がデモ
7月19日
7月19日、毎月19日の京都総がかり行動がおこなわれた(写真)。これは京都1000人委員会、京都共同センター、市民アクションin きょうとの3団体が呼びかけて取り組まれている。今回の主催は市民アクションin きょうと。400人が参加した。
市役所前でのリレートークは、最初に野党4党があいさつ。続いて呼びかけ3団体が発言した。日本共産党の倉林明子参議院議員は、選挙前に安倍政権を退陣に追い込もうと訴えた。民進党の泉健太衆議院議員からメッセージ。1000人委員会から仲尾宏さんが発言。「毎月19日の行動を続け、改憲阻止、戦争法廃止、共謀罪法廃止、安倍内閣を打倒しよう」と訴えた。集会後、繁華街の河原町通をデモ行進した。
生活保護
引き下げアカン! 関西集会
利用者はもっと要求を
7月15日、大阪府保険医協同組合会館で第2回引き下げアカン!関西交流集会が開かれた(写真)。裁判の原告でもある生活保護利用者を中心に150人が参加した。
開会のあいさつの後、大谷大学文学部社会学科助教の志賀信夫さんが「貧困とは何か〜食えればいいってわけじゃない〜」と題して講演した。
「人間」を前面に
志賀さんは冒頭、自分の家族のことを話した。貧困の中で大切な家族を失うというショッキングな体験をし、「本当にこれが日本なのか」と感じたという。
高校を卒業しても仕事がなく父親のツテをたよって建設現場で働いていたが、そこで自分と同年代の現場監督から父親がしかられる場面に遭遇した。こうして「貧困とは何か」を強く意識するようになり、一念発起して大学に進学したという。
現在35歳の志賀さんは「人間」を前面に出した新たな提案をしている。安倍内閣の「一億総活躍社会」を批判し、「強い経済の実現という目的のために人間が手段となるような社会は逆転している」という。だから、人間のための「福祉」、人間のための「教育」、人間のための「経済」ということになる。
市民的生存
その著書『貧困理論の再検討』(法律文化社16年4月)で彼は「新しい貧困に対応する貧困理論が論じているのは市民的生存である」という。市民的生存とはマルクスのいう「類的存在としての人間としての生存、つまり疎外されざる人間的本質をそのうちに取り戻した生き方のことである」。つまり、社会保障とは「疎外されている人間的本質を取りもどしていく過程の一部」なのだ。
もともと生活保護基準が低いにもかかわらず、「高すぎる」として引き下げが強行されている。その中で「食事の質を落とした」「食事の回数を減らした」「社会的つきあいができなくなった」ということが起こっている。これは「節約」ではなく、「自由」に生きることにたいする「抑圧」ではないかという。
「食えればいいじゃないか」という国の考え方は「人間」であるべき生活保護利用者にたいしてエサでがまんしろというのと同じである。人間は社会的存在なのだ。市民社会は自分だけでなく他者の自由も認めあうものである。他者のためにも生活保護利用者はもっと要求していいという。
最後にあらためて「一億総活躍社会」の根底にある「経済発展の手段として人間を位置づける」という非人間的な価値観を批判し、相互の「自由」「権利」を拡大・保障するために連帯していく必要があると結んだ。
「人間的本質」を取りもどすというマルクスの指摘を根底においた「貧困理論」には荒削りではあるが、新鮮な思いを強くした。
休憩後、原告の生活保護利用者を中心にグループ討論。「これまでケースワーカーにおどおどしていたが、原告になってからは自信が持てるようになり、自分の意見もいえるようになった」という感想が述べられた。(矢田肇)
海南島で日本軍は何をしたか
現地調査で明らかになった真実
7月18日、第16回世直し研究会で斉藤日出治さん(元・大阪産業大学教授)が〈国家犯罪の否認を構造化する「戦後」日本とその危機〉というテーマで講演した。講演の要旨は以下の通り(見出しは本紙編集委員会)。
今日の日本社会をどのようにとらえるか。この問題意識のもとに、植民地主義とは何だったのか、アジアで日本は何をしたのかをとらえ返したい。
1989年、わたしたち(紀州鉱山の真実を明らかにする会)は、海南島を初めて訪問した。07年8月には海南島現代史研究会が発足し、今日まで現地調査を30回続けてきている。
1937年7・7盧溝橋事件から2年後の39年2月、日本軍は中国・海南島を占領した。海南島は日本軍の南進政策の拠点だった。日本の占領下で何がおこなわれたかは、ほとんどわかっていない。中国の内戦により、事実の究明がおくれてしまったこともあるが、何よりも日本の側からの証言や文書はまったく存在しない。
われわれの聞き取り調査で、次のような事実がわかってきた。
@住民虐殺。日本軍は村人を集め、家の中にまとめて押し込め、家ごと焼き殺した。このようにして村全体を破壊した。わたしたちは約4千人の犠牲者を確認しているが、おそらく7万人くらい殺されているだろう(当時、海南島の人口は約200万人)。日本軍は1945年7月まで、継続的に住民虐殺をおこなってきた。抗日闘争がさかんで、海南島の統治ができていなかったからだ。
A略奪。日本軍は村の食糧、家畜、家具・調度品などあらゆるものを略奪した。
B強制労働。日本軍は住民に1軒から1人の労働要員を出すように強制。彼らを軍用道路やトンネルの建設、鉱山採掘に動員した。
C島外からの強制連行。日本軍は朝鮮、台湾、中国大陸から労働者を強制連行し、鉱山や飛行場建設などで働かせた。敗戦直後、強制連行された朝鮮人約1千人が日本軍によって皆殺しにされた。彼らの名前はひとりもわかっていない。親族は海南島で亡くなったことを知らない。
D「慰安婦」制度。01年、海南島8人の女性(当時14〜19歳)が、日本政府に謝罪と名誉回復を求めて裁判(海南島戦時性暴力裁判)をおこしている。裁判所は事実認定をしたが、日中共同声明により「裁判上訴追する権能」は放棄されているとして、これを棄却。
このような事実にたいし、日本の国と民衆はどのように向き合ってきたのだろうか。(津田)
3面
ソウルから学ぶ大阪の未来
“都構想つぶせ” 市民が学習会
7月13日
7月13日、どないする大阪の未来ネット(どないネット)主催で、「韓国ソウル市から学ぼう! 大阪のあり方を問う学習集会」が大阪市内でひらかれた。大阪の未来を考えるにあたって、ソウル市の朴元淳市長が進めている施策は参考にすべき点が多い。
集会では最初に、どないネットの馬場徳夫さんが5月大阪市会と法定協議会第1回会議を報告した。
「来年秋に住民投票という方針を維新は変えていない。大阪市が大阪府を背負うというが大阪市は人口比で30%で、これでは大阪市がつぶれてしまう。特別区と総合区という真逆の提案を大阪府の議員が入った中で議論するのはおかしい。総合区を決めた時点で、24区のままでいいという多数意見が抹殺されることになる。」
「都構想は大阪市の金を吸い上げて、万博・IR・カジノなどの大規模開発につぎ込むもの。絶対につぶさなければならない」と提起した。
続いて、9月におこなわれる大阪府堺市長選挙について報告があった。「維新の全体会で永藤英機府議=堺市堺区選出の擁立が決まった。当初予定していた元読売テレビアナウンサーの清水健には断られた。永藤府議は、『仮に勝っても4年間は都構想の議論はしない』とはじめから争点隠しで腰は引けているが、われわれは絶対に勝たなければならない。堺を守るたたかいにぜひ参加してほしい」
さらに在日韓国研究所代表・金光男さんが「朴元淳ソウル市長が進める地方自治」と題して講演した(要旨を左に掲載)。
質疑のあと、大阪市による「入れ墨調査」を拒否したとして戒告処分を受けた竹下さんが、人事委員会で処分容認裁決が出されたが裁判でたたかう。これからが本番」と決意表明、集会を終了した。
【講演要旨】
朴元淳市長のソウル市改革 在日韓国研究所代表 金 光男さん朴市長が就任以降の5年間で達成した成果はまず、情報公開。2014年3月には、インターネットに「透明な都市ソウル情報疎通広場」が開設され、課長級以上の起案文書を含む決裁文書を公開するようになった。日本からでも公文書を簡単に見ることができる。自宅のパソコンや携帯で「透明な都市ソウル情報疎通広場」のサイトに入ると、決裁文書があればすべて見ることができる。
さらに、情報公開の請求者が質問や意見を書き込んだりできる機能が付いている。画期的な双方向情報公開システムとなっている。
ソウル市の労働哲学
11年10月26日に、ソウル市長補欠選挙が実施され、朴元淳市長が当選した。朴元淳はもともと人権派弁護士で、「参与連帯」の創立者の1人だった。
朴市長と橋下元大阪市長には、いくつかの共通した背景や類似性がある。同時期に実施された市長選挙で当選したこと、2人とも弁護士であること、そして既成政党にたいする市民の不満を吸収して当選したことなどである。
しかし、市長に当選した2人は、180度違う市政の方向を持っている。橋下は、労働組合との対決姿勢を強めた。一方、朴市長は全く違う。それは、労働組合もソウル市政を担う一つだという考えだった。
非正規職の撤廃
ソウル市は「労働尊重都市」を宣言し、非正規職の正規職転換に取り組んだ。これによって、いまでは職員の5%だけが非正規職というところまできた。この政策は、3段階にわたって実施された。
第1段階では、12年3月22日に「公共部門非正規職の正規職転換計画」(第1次)が発表され、期間制の直接雇用非正規職のうち2年以上常時勤務し、持続的業務に就いている者が正規職に転換された。また、転換対象から外された者の待遇改善がおこなわれた。
第2段階としては、12年12月5日に「第2次非正規職雇用改善対策」が発表され、清掃・施設管理・警備など、人材派遣会社から派遣されている間接雇用労働者(5953人)の直接雇用・正規職転換をおこなった。正規職転換がおこなわれれば、人件費がアップして財政を圧迫するというのが「通説」だが、ソウル市では、7千人以上を正規職に転換したにもかかわらず、人件費は圧縮された。確かに人件費は16%増えたが、それまで派遣会社に支払っていた経費より31%減少させることができた。64億ウォンの予算節減効果が発生した。
朴市長は、人間らしい生活が基本であり、人間らしい労働の常識を取り戻すのがソウル市の労働哲学だと明らかにした。
3段階目の正規職転換。16年5月28日、ソウル地下鉄の駅ホームで安全ドアの作業中だった派遣会社職員が、列車とホームドアに挟まって死亡するという衝撃的な事件が起こった。この事故を調べると、ソウル地下鉄公社が子会社を作って、故障発生時に業務を派遣会社に依頼していた。子会社は、地下鉄公社幹部の天下り先。市長は謝罪するとともに子会社の解散と安全業務に携わる職員を全て正規職に転換するように命じた。
ソウル市は、16年8月11日に「ソウル特別市労働革新総合計画」を発表した。@非正規職比率(現在は5・4%)を18年までに3% 以下に削減する、 A常時持続業務や生命・安全と直結するすべての業務を正規職化する、B「非正規職採用三大原則(2年以下の短期+例外的+最小化)」を徹底的に適用する、C民間委託の正規職化拡大である。すでに、水道の検針員を直接雇用に転換した。
ソウル市政の特徴
朴元淳は、市長選の三大核心選挙公約@ 環境に優しい無償給食、Aソウル市立大学の授業料半額、B非正規職の正規職化をすでにすべて達成した。
当選後、直ちに「市民とともに作る希望ソウル市政運営計画」を発表し、この中で次の五大市政目標をかかげた。@堂々と享受できる福祉、A共に豊かになる経済、B共に創造する文化、C安全で持続可能な都市、D市民が主体になる市政。
特に「堂々と享受できる福祉」の具体的な政策としては、社会福祉予算を4兆ウォンから8兆ウォンに増やした。また、障がい者雇用の法定雇用率は3%だが、2012年度からソウル市では職員採用の10%にしている。
韓国では、青年の中で3放(恋愛・結婚・出産を諦める)、5放(さらに就職・マイホームも諦める)が広がっている。青年(15歳〜29歳)失業率は統計庁2017年5月雇用動向によれば9・32%となっている。ソウル居住20代青年に限ると、34・9%が未就業、求職状態、超短時間のアルバイトである。
アルバイトに追われて就職活動をする時間がないという青年に対して、青年活動支援費(青年手当)支給も始めている。2017年には200億ウォンで、5千名×50万ウォン×6カ月支給する。アルバイトを休んで就職活動をしたり、スキルアップのために専門学校に行ったりできるようにしようというのである。
住民参与自治
2012年に、原発1基分(100万キロワット)削減総合対策「太陽光都市ソウル」が発表された。2014年6月までの市長任期内に、原発1基が生産する電力量(200万TOE=石油換算トン)をエネルギー節減と新再生エネルギー生産によって代替する計画。すでに目標を超過達成、原発1・8基分相当の削減に成功した。市は、福祉パラダイムを「訪ねて行く福祉」に転換すると発表した(2015・7・22)。市民が行政に来るのを待つのではなく、行政が市民のもとに訪ねていく福祉への転換。市は、住民参与自治をすすめるために、ソウル地域共同体事業をおこなっている。
ソウル市の改革は、統治機構変更なしに達成されたものである。統治機構ではなく、知事・市長の哲学こそが問われる。
朴元淳は、突然候補者に選ばれた訳ではない。野党の候補者との選挙協力についても、当時の第1野党・第2野党の候補者と公開の予備選挙で争って、その結果野党統一候補に選ばれた。韓国の選挙文化は、公開的で透明化されたシステムをもっている。日本の選挙文化の改革も訴えたい。
(文責 本紙編集委員会)
“しょうがい者を殺すな”
相模原事件から一年 神戸でデモ
昨年7月26日の相模原事件で殺された19人を追悼し、傷つけられた26人に連帯し、忘れないぞ、しょうがい者を殺すなというデモが7月23日、神戸市内でおこなわれた。
〈リメンバー7・26神戸アクション〉が呼びかけ、関西一円、遠くは富山県、愛知県などから160人を超える人々が参加した。デモは、西元町から元町を経て、三宮までの兵庫県随一の繁華街であるアーケード街を約1時間かけて歩いた。
「施設に入れるな」「精神病院に入れるな」というデモコールが参加者の気持ちにぴったりきた。「分けるな」という単純なことが、いろいろ理屈をつけて否定されるのが今の社会だ。「しょうがい者は生きている価値がない」というU被告の言葉が形を変えて、「しょうがい者は一人前の人間ではない」「しょうがい者は生きていること自体が不幸だ」という価値観となって強制されてくる。
「しょうがい者は不幸じゃない」とデモをして叫ばなければならない社会の方から制限が加えられてくる。それにたいして、幾人かの個人の呼びかけに応えて、160人以上ものしょうがい者、「健常者」が集まったことは、参加者の大きな自信になった。「仲間がいる」「孤立しているんじゃない」という確かな印だったから。呼びかけて、準備をしてくれたメンバーに感謝している。
毎月の街頭での追悼行動は8月以降も続く。次回、第13回「リメンバー7・26 神戸アクション」は、8月20日(日)午後4時から6時、神戸マルイ前。雨天決行。(加島忠行)
4面
大伴一人さんの意見(本紙226号)を読んで
その通り、サバルタンは全世界を解放する
見 元博
グラムシのサバルタン論
大伴さんの意見は、@グラムシは正しいという前提の上で Aサバルタン論の提起をしたことは正しい Bグラムシの議論全体を把握しているのか疑問だC労働者人民への不信があるのではないか D自然発生性への拝跪がある E革命党不要論になっている F全世界の解放から離れた個別的(ちっぽけな・みすぼらしい)運動論になっている G人類生存への危機感が感じられない、という趣旨かと思います。全面的に答える紙数はないので、核心点について答えたいと思います。
「陣地戦」について
私は陣地戦というのはサバルタンによる「ヘゲモニー(知的モラル的指導)の確立」のことであり、それが今日の革命運動の核心であるとする松田博(日本のグラムシ研究者)の論は正しいと思います。その脈絡で「サバルタンについての論」を書きました。
サバルタンの定義のずれ(混乱)があるのではないかと感じました。私は労働者を含めた被支配者総体という意味でサバルタン=「従属的社会集団」を理解しています。スピヴァグやグハ(いずれも被差別民族のインテリゲンチア)は被差別者という意味で使っているし、松田博もそれを支持しています。
しかしそれだとグラムシがイタリアの階級闘争を分析して、北部に属する支配者にたいして南部の被支配者(農民などを中心とした国内植民地人民)という意味合いでサバルタンという言葉を使っていることが浮かんできません。植民地にいる労働者もサバルタンです。グラムシは帝国主義国であるイタリアで労働者を含む意味でサバルタン規定を使っているのですから、「労働者とサバルタン」と並列するのではなく、「サバルタンの中の労働者と被差別民衆」ということになると思うのです。
“問い”の相手は革命党
「不信」を感じ取ったのだとしたら、それはそうなのかもしれないとも思います。もしそうだとしても、私の「不信」の相手は「労働者人民」ではなく革命党である「革共同・再建協(以下単に再建協という)」なのではないでしょうか。私は再建協に「被差別人民のたたかいに応える革命的理論をもち、実践をしているか」と問うています。「再建協の『7・7自己批判』は上から目線で問題がある」とも言っています。
私の実践は『未来』紙上に発表している通り、今は精神保健福祉法改悪と激しくたたかっています。再建協・関西地方委員会はそれに応えられているのでしょうか。「あなたたちは信じるにたるのか」と問われて「不信だ」と言い返しているのでは、「7・7」で「出ていったらいいじゃないか」と言った人とどこが違うか分かりません。
労働者が被差別民衆の「ただ生存だけを目的にしたたたかい」に学ぶことで実現できる真の連帯は重要です。私はパンフレットを多く作っていますが、実態を知られていない「精神病者」との生きた連帯という契機を目的としています。私は「共産主義論を媒介にしないと農民や被差別民衆の自己解放の論理が位置づかない」という「旧来の再建協の在り様」を批判しました。「『未来』218号掲載の2月12日の三里塚50年集会報告の中で、筆者の安芸さんが『共産主義論を問い返さねばならない』という趣旨を書いているが、その問題意識こそ私の立場だ」と書きました。
また「『7・7自己批判』では、共産主義論(単一のプロレタリア革命)を媒介にしないと農民や被差別民衆は革命論の中に位置づかないと主張されている。『プロレタリア独裁の下での労農連帯論』は、『革命の主人公はプロレタリアだ。農民・被抑圧人民はそれに連帯する(される)第2次的存在だ。その自己解放性を突き詰めても革命はできず、プロレタリア革命を支持し合流することによらなければ革命を実現できない』とする理論だ。サバルタン論はその『レーニン主義』に内在する農民や被差別民衆にたいする差別的・抑圧的立場を超える論理だ。『労働者、農民、被差別・被抑圧人民などのサバルタンを主人公とした革命(=ヘゲモニー(知的モラル的指導)の確立)』というグラムシの理論は、『農民や被差別民衆がとことん自己主張をすることで革命を実現できる』ことを立証した。ついに見つけた『7・7自己批判』の限界性を超える理論だ」という趣旨を書きました。その核心についてはどうなのでしょうか。
グラムシにとっての「革命党」
グラムシを読む上で、彼が帝国主義とたたかったのみならず、スターリンとのたたかい、「スターリンによってレーニン主義と名付けられたもの」にたいするたたかいを二重にたたかっていたことは重要です(しかもスターリンに妻を人質に取られながら)。スターリンの下で革命を捨てた、唯一の革命党とされたコミンテルンと対峙して、真に世界共産主義革命を実現する道筋を示したことが、グラムシの最大の成果だと思います。「いかにして『レーニン主義』の限界性を超えるか」という言葉として読むべきなのではないでしょうか。単層的な「革命党賛美」などではないのです。
旧革共同指導部は支配の術や政治技術において優れてはいても、民衆はもちろん党員大衆とさえ信頼関係を築けませんでした。「知的モラル的指導」とはほど遠かったのです。現実世界で私は絶えず直接サバルタン民衆に語り掛け、彼ら彼女らに信頼されないことを何よりも恐れています。私自身はどこに身を置いているか。「再建協は革命的たりえているのか」という問いに答えるべき共産主義者の側に身を置いて、この問いを発しています。
奥野さんの「君が代」裁判上告棄却
負けない、あきらめない
7月7日、大阪市内で奥野さんの「君が代」裁判報告集会が開かれた(写真)。集会では、大阪府立学校教員・奥野泰孝さんにたいする減給処分の取消訴訟で最高裁が今年3月上告を棄却したことを弾劾し、今後のたたかいが議論された。
はじめに「君が代」不起立による12年戒告処分、13年減給処分、15年戒告処分、これら3つの処分にたいするたたかいをつらぬく思いを奥野さんが語った。
同和推進校のA高校で黒田伊彦先生と出会い、自分がキリスト者として教会へ行くことと人権教育がつながった。信仰では不起立、子どもに寄り添う仕事を続けたいという思いで不起立。障がいを持った子供を守るために式場に入って座ったのにどうして処分を出すのか。遠藤比呂通弁護士の信仰の自由論文、元最高裁判事の信教の自由と君が代強制の論文をもとに、この国の「君が代」強制のおかしさをあきらめずに明らかにしていくと語った。
〈「日の丸・君が代」強制反対・不起立処分を撤回させる大阪ネットワーク〉代表の黒田伊彦さんと奥野さんの対談の中で次の点が明らかにされた。
奥野さんの3つの裁判における共通したものは @大阪府の国旗国歌条例は憲法違反である。最高裁の言う慣例的儀礼的所作を越えて国家意識の高揚を図るという教育内容のために、式に教職員を起立斉唱させるという方法を用いた教育内容への介入である。だから間接的制約でなく直接的制約としてある。 A「君が代」は国家神道の天皇を神とする考え方を引きずったひとつの宗教的空間として儀式性がある。キリスト教の偶像崇拝と対立するもの。単なる思想良心の自由の19条だけでなく信教の自由20条違反であるということをはっきりさせた。 B生徒の自主的、自律的な思考を保障する学習権を保障するためには教師に教育の自由を保障しなければいけない。
そして終戦(敗戦)の条件が国体の護持だったので天皇制を利用して統治するとなった。天皇制を支えたものが教育勅語と軍人勅諭。靖国神社も国営陸軍海軍共同の経営を廃止して一つの宗教法人にした。教育勅語や国家の持っている絶対的な「正義性」を体の皮膚感覚としてしみこませていく儀式としての教育制度を残していった。儀式を通じて同じ鋳型に一つの考え方に入れていく。一人ひとり自由にさせない。皮膚感覚でしみこませていく。
また障がい児にたいする合理的配慮は自然にあるがままにふるまう状況を保障するためのもの。いつ発作が起きるかわからない。だから式場に入ってそばに座った。それを悪意のある確信犯だとして減給処分とした。これを強く批判していく。
キリスト者の古?壮八さんは、「1967年に戦争責任告白をキリスト教団議長名で出した。天皇制廃止でないと国民主権は確立できないだろう。祭りは皮膚感覚として怖いと感じる。同調圧力を感じる。神社と祭りと天皇がつながっている。日本人の心の中にあるのではないか」と提起した。最後に、これからの(13年減給処分人事委員会)公開審理で、憲法20条「信仰の自由」を前面に出していくことを確認した。(佐野裕子)
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5面
論考
ロシア革命100年
山田 一郎
“レーニンのボルシェビキ”は正しかったのか
2017年はロシア10月革命(1917年)から100年に当たっており、各方面でロシア革命の特集が組まれ、ロシア革命にかんする出版も続いている。そのなかの一つに【新書版】「『中核』〜ロシア革命100年」(マルクス主義学生同盟・中核派)(以下「中核」)がある。
そこで論じられているロシア革命論は、「10月」が中心である。しかし、その後の苛烈きわまる国内戦については触れられていない。1917年10月25日で終わっている。
ロシア革命というとジョン・リード『世界を揺るがした10日間』、トロツキー『ロシア革命史』などが引き合いに出される。しかし、これらはあくまでボルシェビキの公式な歴史にすぎない。「10月」は確かに、重要な結節点ではあった。しかし、その後80万人ともいわれる犠牲者を出した苛烈な国内戦は、ロシア革命が生き残るための死活の問題であったはずだ。また、チェカ(注1)による赤色テロルの問題も、議論されるべき重大な問題であるはずだ。
ボルシェビキの公式な歴史によれば、クロンシュタットの水兵(注2)やウクライナの農民(注3)蜂起は、帝国主義者に後押しされた反革命だという。しかし、これらについて、アナーキストや社会革命党のわずかな生き残りが書き残した記録からすると、革命の理想を裏切ったのはボルシェビキであり、レーニン、トロツキーはボルシェビキの党派的利害を維持するために、ボルシェビキを批判するすべての意見に反革命の烙印を押して暴力的に抹殺しようとしたという。
これらの批判に対して、「中核」は一切触れていない。ウクライナの飢餓と農民反乱、クロンシュタットの反乱等の歴史的事件に向き合うことができないのだ。このような歴史観を彼らは現在においても死守しようとしている。しかしこの傾向は、われわれを含む多くの左翼諸潮流が共有してきたものである。諸情報が公開され真相が明らかになっている今日、これらの偏向を乗り越えねばならないのは明らかだ。
トロツキーの汚点
これらの歴史的事件こそは、ボルシェビキが10月蜂起で権力を握って以来おこなってきたこと、一切のボルシェビキの方針にたいする批判を許さない、という行為を象徴的に表している。そして、トロツキー、トハチェフスキー(注4)らがスターリンの大粛清の犠牲になる要因につながっていく。クロンシュタットの反乱鎮圧には、スターリンは関与せず、レーニン、トロツキーそして実行部隊の指揮官はトハチェフスキーであった。
国内戦では、確かに数々の輝かしい功績をあげたトロツキー、トハチェフスキーではあったが、その一方で、拭いがたい汚点を後世まで引きずっている。「彼らこそが革命の理想の裏切り者である」という、大衆的な非難を浴びるに十分な根拠があった。
スターリンが権力闘争で優位に立てた大きな要因は、ボルシェビキ、レーニン、トロツキーの「一切の批判は許さない」という方針にあったのではないだろうか。スターリンはレーニンを神格化して、自分の権力の強化に利用した。スターリン主義が単なる「一国社会主義論」にのみ基づいた問題であるのか、もう一度検討する必要がある。
後世に残すべき記録
アナーキストや社会革命党などの残した記録は、過去には鹿砦社、現代思潮社などから出版されていた。しかし、多くは絶版となり現在入手は難しい。しかし、ロシア革命とは何であったのかを知るために貴重なものであるので、ぜひ読んでいただきたい。また、後世に残さなければならない貴重な財産であり、ぜひとも何らかの形で再版されるよう希望する。末尾に主なものを示す。
これら、アナーキストや社会革命党などの残した記録を簡潔にまとめたものとして、高本茂『忘れられた革命―1917年』(幻冬舎ルネサンス)、があり、これは入手が容易である。
同書のあとがきで高本は、次のように述べている。
「闘争の渦中で死んでいった者たちは何のために死んでいったのか。 … ロシア10月革命が、当初から裏切られ変質させられていたのだとすれば、自らの生死を賭けた闘争は、人間の解放と輝かしい理想社会のためではなく、世界全体を強制収容所や暗黒の監獄国家と化し、全人類を奴隷化するための運動だったということになり、無謀な侵略戦争の中で戦死した無数の兵士たちと同様に、全くの無駄死、犬死にだったということになるのではあるまいか。」
されど、私は高本がそのように考えているとは思わない。「はしがき」では彼は次のように述べているではないか。,br> 「革命の創始者の裏切りと変質にもかかわらず1917年の当初のロシア10月革命には一片の真実があったのだ。1917年10月の革命は疑いもなく世界中の人々に生きる勇気と力を与えたのだ。」
レーニンは何を恐れたのか?
同書の21ページでは、レーニンの中央委員会への手紙から次のような引用がある。
「同志諸君! 私は24日の夕刻、この手紙を書いている。状況は、かつてないほどの危険だ。はっきりしていることの中で、もっともはっきりしていることは、たった今、蜂起をためらうことは、死ぬのと同じだということだ。 … ぐずぐずしていてはだめだ! 全てを失うぞ! … 歴史は今日なら勝てたのに(きっと勝てる)明日になって多くを失い、いや、すべてを失った革命家の逡巡をゆるさないであろう。」
だが、これは本当か? 当時のケレンスキー政権は風前のともしびであり、「たった今、蜂起をためらうことは、死ぬのと同じだ」というのは極端な誇張にすぎない。レーニンは本当は何を恐れていたのか? 権力を奪取することは「腐った木戸を蹴破るほどたやすい」ことだった。10月蜂起ではほとんどなんの流血もなかった。それは「暴力革命」とは程遠いものだった。
10月に先立つ革命
ロシア10月革命は、ボルシェビキの「10月蜂起」という政治革命によって初めて可能になったのではなく、10月蜂起にせんだって進行していた体制変革を追認したにすぎない。都市の工場では工場占拠や自主管理が実施されており、多くの農村では10月蜂起の前の夏から秋にかけて、地主の所有地が土地委員会に没収され農民に分配されていた。権力奪取はボルシェビキがおこなったが、それに先立つ社会革命は無名の無数の大衆がおこなった。
権力を取ったボルシェビキは、ペトログラードの旧ノーベル製油所で労働者が自主操業を始めた時、これを禁止した。クロンシュタットのソビエト家屋委員会が住居および住宅の管理の社会化と公正な再配分を進めようとした時、ボルシェビキはソビエト家屋委員会を破壊し、その管理を政府の土地・建物センターに移した。ボルシェビキは、革命によって何をめざそうとしていたのか。(以上、高本)
私は、アナーキストや社会革命党などの主張のすべてが正しいとは思わない。確かに、ロシア革命が苛烈な国内戦を勝ち抜く過程において、よく組織されたボルシェビキ、とりわけトロツキーやジェルジンスキーの功績には偉大なものがあったと考える。パリ・コミューンのように、帝国主義者の包囲により圧殺されるかの如く考えられていたロシア革命に奇跡が起こった。しかしそれは、ボルシェビキだけの功績ではなく、アナーキスト黒軍や、ムスリム赤軍などの貢献の成果でもあろう。しかし、ボルシェビキの公式な歴史では、それら民衆の戦いは、単なる匪賊や反革命の手先として歪曲された。これらを、辛うじて伝えているのが、アナーキスト、社会革命党などが残した記録である。
われわれの課題
革共同は、反スターリン主義という理念で一つの時代を切り開いた。しかし、それはまだ歴史の真実に十分には届いていないと考える。ロシア革命史をさらに検討する中から、私たちに今、どんな思想が必要なのかを検討すべきなのではないだろうか。「社会主義」が世界中の民衆の希望を裏切ってきたなかで、世界の多くの国々ではイスラム教などがそれに変わる位置を占めているように思える。
しかし、10月革命において示された社会主義思想は、本来はもっと輝かしい世界を実現する可能性も秘めていたのだと思う。前衛党の神格化、民主主義の否定、批判の自由の抑圧、暴力による支配にこそ、腐敗の根拠があると考える。それを克服しながらもなお、組織化された民衆の世界を作り上げる、そうでなければ勝利することもできない、という矛盾を克服することがわれわれに課せられた課題であると考える。
(注1)チェカ 1917年12月、ソヴィエト政権を反革命から守るために設置された「反革命・サボタージュおよび投機取り締まり全ロシア非常委員会」の略称。議長はジェルジンスキー。
(注2)クロンシュタットの反乱 内戦中の1921年、労働者の飢餓が進み、モスクワ、ペトログラードで大規模な騒乱が広まった。ボルシェビキは戒厳令を出し、集会の禁止、スト参加者の逮捕と軍隊で弾圧した。これにたいして、クロンシュタットでは臨時革命委員会が結成され、次の綱領が決議された。「現在のソビエトは、もはや労働者農民の意思を代表していない。」
(注3)ウクライナの農民反乱
1920年1〜2月サマラ県、カザン県、ウファー県での大規模な農民反乱。8月タンポフ県で農民反乱「アントーノフの乱」、9月西シベリアで農民反乱始まる。
1921年6〜8月、ボルシェビキ、赤軍が農民反乱を鎮圧。反乱に参加したものの多くは、赤軍に虐殺された。アントーノフは射殺され、マフノはドイツへ亡命した。
(注4)ミハエル・トハチェフスキー ソ連赤軍の最高指導者・元帥。1937年スターリンによって粛清。
【参考文献】
ヴォーリン『1917年・裏切られた革命』現代評論社
同右『知られざる革命―クロンシュタット反乱とマフノ運動』国書刊行会
アルシーノフ『マフノ反乱軍史―ロシア革命と農民革命』鹿砦社
イダ・メット他『クロンシュッタット反乱』鹿砦社
アヴェリッチ『クロンシュタット1921』現代思潮社
スタインベルグ『左翼社会革命党―1917―1921』鹿砦社
同右『左翼エスエル戦闘史―マリア・スピリドーノワ1905―1932』鹿砦社
山内昌之『神軍 緑軍 赤軍』ちくま学芸文庫
6面
追悼 宗像啓介同志
闘病10年、現役をつらぬく
南 陽一/伊東浩三
宗像啓介同志が2017年3月13日深夜、東大阪市の病院において永眠しました。享年81。がんと10年もたたかいながら、死の直前まで革命的共産主義者同盟再建協議会と行動を共にし、さまざまなたたかいに取り組んでいました。
がんとのたたかい
2008年、甲状腺がんが発見され、そこから彼のがんとの壮絶なたたかいが始まりました。まず左の甲状腺の切除手術。その後脳への転移が判明し切除。 さらに、肺への転移が見つかり放射線による治療のため健康な右の甲状腺を取りました。その時に声帯の神経を損傷して、ほとんど声を失いました。それでも彼は党員と論議し、闘争を進めるためにねばり強く会議を主宰し、意見を発表していました。肺がん手術の直前のコンピューター断層撮影(CT)検査で両肺に転移が見つかり手術は中止されました。「これなら手術を進めなければよかった」と声を失ったことを悔やんでいました。 そして2012年、大阪成人病センターの医師からは「これ以上私たちがやれる治療はないので終末期医療を考えてください」といわれたのです。
自然治癒力を高める
しかし、彼はあきらめませんでした。それはなんとしても「自分の生あるうちに必ず革命をやるのだ」という故本多延嘉書記長以来の共産主義者としての強い意志によるものでした。そして、これまでの自分のがん治療を総括し、人の持つ自然治癒力を高めてがんを消滅させることは可能だという考えにたどりついたのです。 食事を徹底的に改善し、漢方や自然由来のがん治療の薬剤を取り入れ、治癒力を極限まで高めて、がんを治すという食事療法を始めたのです。 温泉による湯治、岩盤浴も取り入れました。80キロ以上あった体重を60キロ以下に減らし、糖分を極力取らずに玄米食を中心に根菜類の摂取と無農薬野菜。肉は食べず、魚は白身や青魚に限る。水でも石で浄化してミネラル水を作って使用するなど、徹底した食事療法を実践しました。これこそ、宗像同志の革共同、革命家としての強烈な生きざまでした。
その理論的成果
宗像同志が部落解放同盟全国連合会の理論センター時代に発表した『水平社創立前史(一)近代の部落政策の確立と水平社』(『部落解放闘争』36号04年8月)、と『部落民的自覚とは何か―その歴史的形成と水平社』(同39号05年12月)の2論文は秀逸です。
彼は、明治政府によって意識的におこなわれた「《特殊部落》の差別賤称は、政府権力者による身分的差別の扇動の本格的開始であり、近代における部落の起源」(前掲36号88ページ)であることを明らかにしました。
彼は、内務省資料を丹念に読み込み、明治政府のいう《特殊部落》とは何を意味するのかを明らかにしたのです。
内務省資料〈「我邦に於ける特種救済事業」、『斯民』1909年〉の中で「嘱託として内務省の意を受けて部落問題に専門的にかかわった留岡幸助(内務省の貧民研究会メンバー)が「特殊部落民というものは一体何であるかというと、旧穢多と云っておったのであります」と断言していることを明らかにしました。
「当時の貧民部落は(中略)、被差別部落民と被差別部落をたより集まってきた貧民が混住していました。そこから被差別部落民だけを洗い出して、貧民部落の貧民から区別して特殊部落民として『旧穢多』とみなした者だけを特化して部落差別を現在的場所的に再生産していくこと」(同87ページ)が強行されていったのです。
こうして宗像同志は、日本帝国主義の形成過程で明治政府によって新しい部落差別が形づけられたこと、したがって部落差別は封建遺制などと位置づけられるものではないことを内務省資料で明らかにし、現在の部落差別の本質を示したのです。
この斬新な問題提起は、新たな解放運動の可能性を示唆した宗像同志のすばらしい理論的成果です。
また東大阪の地で住民運動、市民運動と結びついた運動を展開するうえで、宗像同志の助言が大きな力となりました。このたたかいは革共同が住民運動、市民運動と合流できる可能性に挑戦するもので、さらに大きな広がりをもったものへと着実に発展しつつあります。
宗像同志の人となり
宗像同志が亡くなってから、彼を知る人たちから連絡があり、その話を聞くうちに彼の人となりが見えてきました。
「彼は寡黙で、黙々と仕事をするタイプ。一言でいえばボルシェビキ」「埼玉大の革共同を創立したメンバーのひとり」「障がい者解放闘争にも関わっていた」「まだ現役でたたかっていたのか。すごい人だ」などです。
これらを送る言葉として、宗像同志の冥福を祈りたいと思います。
宗像啓介同志略歴
1936年生れ
56年 埼玉大学教育学部入学
58年 革命的共産主義者同盟に加盟。勤評闘争の組織化に当る
59年 革共同第2次分裂。全国委員会に結集
60年安保闘争時、埼玉大学は学生大会で民青に勝利。ストライキに突入し国会デモに決起。
60年 出版社に入社、武井健人編著『安保闘争』、『トロツキー選集』などを編集
70年代前半 革命的共産主義者同盟出版部で活動
76年 京都府委員会に移籍 労働者の解雇撤回闘争や、「障害者」解放闘争にかかわる
92年 部落解放戦線に移籍 部落解放同盟全国連合会の理論センター事務局長
06年 「3・14決起」に参加。
07年 革共同盟再建協議会に結集 以降、再建協議会と部落解放戦線の最古参の同志として、終生現役を貫く
本の紹介
“子ども殺し”と闘う母親たち
『3・11後の子どもと健康』
著・大谷尚子ほか 岩波ブックレット2017年労働ニュース
福島の子どもたちの甲状腺がん公表数が、191人になっているのに、政府や福島県は、いまだに福島第一原発事故が原因であることを認めない。そればかりか、甲状腺検査の縮小などにより、37万人の子どもたちの命と健康を顧みない犯罪的姿勢を重ねている。
2013年に国連人権理事会が日本政府にたいし、福島では「健康を享受する権利が侵害されている」とし、「年間1ミリシーベルト以上の被ばくは許されない」「甲状腺の検査に限らず、血液や尿の検査を含めすべての健康影響の調査を拡大するべき」と勧告している。それなのに、何の根拠もなく勧告を否定し、帰還政策をごり押しし、帰還政策と真っ向からぶつかる健康問題を抹殺しているのが日本政府だ。
放射能による健康被害があってはならないという当たり前のことを、自由に話すことすらできないという異常事態を引き起こしている。それは『フクシマ6年後の消されゆく被害』(日野行介・尾松亮)や『福島原発事故、県民健康管理調査の闇』 (岩波新書)などで明らかにされている。
このブックレットは、権力による《子ども殺し》にたいする母親たちの必死のたたかいが、地域の行政をも巻き込み動き始めていることを明らかにする。政府・福島県の犯罪的な政策の破たんが、福島の中やその周辺から出てきていることに注目したい。
「関東子ども健康調査支援基金」や「いわき放射能市民測定室たらちね」は市民のカンパを募り、300万円の超音波測定器やホールボディカウンターを購入し、甲状腺検査や内部被曝計測をおこなってきた。3年半で7000人を検査した。「我孫子市子どもたちを放射能汚染から守る会」は、何度も市へ働きかけ、特別な費用をかけずに、学校検診のなかにすべての子どもの甲状腺視診と触診を導入させた。
すでに独自に甲状腺検査を実施する自治体は5県、21市町におよぶという。その結果、丸森町(宮城県)で2人が、北茨城市で3人が甲状腺がんと診断され、公表されている。
福島県浪江町では、独自に「放射線健康管理手帳」を交付した。町長は広島被団協や広島市長に協力を求め、実現にこぎつけた。原爆被爆者と同様、医療費全額免除を目的に国・東電に費用負担を求め、損害賠償請求訴訟の証拠にするためだ。
子どもの命と健康を守るために、全国の市民団体が懸命に保養キャンプの取り組みをおこなっている。ウクライナやベラルーシでは、30年以上も政府が保養キャンプを続けている。全国の母親たちや市民らの努力が、政府行政の犯罪的無策を崩していくものとなるだろう。母親たちの願いと運動に学び、未来を開こう。(村野)