高速増殖炉 もんじゅを廃炉へ
核燃料サイクルからの撤退を
高速増殖炉もんじゅをのぞむ白木海岸でおこなわれた集会 |
12月3日、「もんじゅを廃炉へ! 全国集会」が開かれた。
午前11時から、高速増殖炉「もんじゅ」をのぞむ敦賀市白木海岸で現地抗議集会がおこなわれ、600人が参加した。集会では、「もんじゅ」を廃炉においやったことを確認し、「もんじゅ」の正門までデモ。正門で日本原子力機構にたいして、「機構自ら廃炉を決断し、直ちにその準備に着手すること」を申し入れた。
直ちに廃炉へ
午後1時から敦賀市内のプラザ万象で「もんじゅ廃炉を求める全国集会」が750人の参加で開かれた。
原水禁事務局長の藤本泰成さんが主催者あいさつ。現地報告を中嶌哲演さん。
もんじゅ裁判弁護団で、新もんじゅ訴訟の住民側弁護団の福武公子弁護士が「もんじゅを安全に運転することはできない」と題して「もんじゅ」の危険性を展開。「燃料棒の取り出し」と「ナトリウムの抜き取りを直ちにおこなえと要求しよう」と提起した。
続いて菅直人元首相が登壇。「もんじゅを廃炉に追い込んだ皆さまに敬意を表します」と述べ「福島原発事故の真実」と題して講演した。最後に「一切の核燃料サイクル政策を断念することを求める」決議を採択した。
実証炉建設ゆるすな
高速増殖炉「もんじゅ」について、9月21日、原子力関係閣僚会議は今年中に「廃炉を含めて抜本的な見直しを決定する」という方針を打ち出し、もんじゅ廃炉が現実のものになった。しかし、破産した核燃料サイクルをなおも進めるとともに「高速炉」の研究開発に取り組むことも確認。そのために経産大臣、文科大臣、日本原子力研究開発機構理事長、電気事業連合会会長、三菱重工社長をメンバーとする高速炉開発会議の設置を決めた。11月30日、高速炉開発会議は高速増殖炉(原型炉)もんじゅに変わり、高速炉(実証炉)を国内に建設するという方針の骨子を公表。2018年までに開発体制を決めるとした。
「核燃料サイクル推進」を維持するために、「もんじゅ」で破産しながら、より実用性の高い実証炉の開発を推し進めるというのである。絶対に許してはならない。もんじゅの廃炉に直ちに着手し、核燃料サイクルから撤退させよう。
川内原発を動かすな”
大阪・御堂筋でデモ
11月27日
「川内原発は二度と動かさない」雨の中、御堂筋をデモ(11月27日 大阪市内) |
11月27日、大阪市内で「川内原発は二度と動かさない! 御堂筋デモ」がおこなわれ100人が参加した。主催はとめよう原発!!関西ネットワーク。
九州電力の川内原発1号機は、定期検査のため停止しているが、九州電力は12月8日にも再稼働すると一方的に宣言している。
今回の御堂筋デモは、鹿児島県や九州の人々に連帯し、「川内原発うごかすな」の声を関西からあげようと開催された。
集会では、東大阪市民デモ実行委員会、若狭連帯行動ネットワークの久保良夫さん、釜ケ崎日雇労働組合の三浦俊一さん、ストップ・ザ・もんじゅの池島芙紀子さん、若狭の原発を考える会の木原壯林さんが発言。
若狭の3つの問題
木原壯林さんは「若狭には今、3つの大きな問題がある」と次のように訴えた。「ひとつめは、高浜原発3・4号機の再稼働問題。大阪高裁での仮処分抗告審が12月26日に審理終結となる。来年2月にも決定が出る。もし逆転決定となれば、2月にも再稼働の可能性がある」
「2つめは、世界的に見ても老朽な40年超え原発(高浜1・2号機、美浜3号機)の運転延長を原子力規制委員会が認可したこと」
「3つめは、もんじゅの廃炉問題。破綻したもんじゅだけを切り捨て、荒唐無稽な核燃料サイクルをさらに続け、すべての原発のプルサーマル化によって、プルトニウム利用に突っ走っている」
安倍政権の打倒へ
さらに木原さんは安倍政権のねらいを次のように話した。
「国民だましの政府、経産省、規制委員会、電力会社を許してはならない。安倍政権はなぜ原発に固執するのか。それは国民の犠牲のうえに、電力会社や大企業をもうけさせるため。原発輸出産業に暴利を与えるためであり、燃料の輸入がとだえた時の基盤電源を確保するため」
「原発の再稼働や核燃料サイクルの確立は巨大資本に奉仕する国づくり、戦争できる国作りの一環として、おこなわれている。この安倍政権の原発政策に反撃を。安倍政権打倒の世論を構築しよう」
最後に集会決議を確認し、ナンバに向けて御堂筋を縦断するデモ行進をおこなった。
「この農地 守り抜く」市東さん
12月4日 成田市天神峰で緊急闘争
現地集会で発言する市東孝雄さん (4日 成田市内) |
反撃は始まった
12月4日、千葉県成田市天神峰の市東孝雄さん宅近くで、緊急闘争がおこなわれた。これは、最高裁の上告棄却(10月25日付)=強制収用宣言に反撃するたたかいとして取り組まれた。
デモに先立って市東さんは、「最高裁への5万人署名にたくさん協力いただきましたが、残念な結果になりました。まったく許せない判決でした。しかしまだ終ったわけではありません」
「千葉地裁での耕作権裁判があります。空港会社が畑を閉ざしに、すぐに来るかはわかりません。しかしその時には身体を張ってたたかいます。あの農地で一日でも長く、農業をやっていきたいと思っています」と決意表明。
弁護団は、あらゆる法的手段はもちろん、実力闘争、体を張ったたたかいの呼びかけをおこなった。
反対同盟・萩原富夫さんが行動提起。集会後、デモに出発。途中、冬物野菜の育つ市東さんの畑では、反対同盟・伊藤信晴さんが「畑の解説」。何としてもこの農地を守り抜くとの参加者の思いがさらに強い決意となっていった。
強制執行阻止へ
この日の闘争に先立って、11月30日、市東さんと弁護団は記者会見。千葉地裁にたいして「請求異議の訴え」と「強制執行停止申立」の2つの訴えを起こしたことを明らかにした。
「請求異議の訴え」は、最高裁決定に基づく強制執行の違法を訴える裁判であり、第1回弁論期日が来年3月2日と決定した。
すでに成田空港会社は、市東さんにたいし事実上の「強制収用の通告」をおこなっており、予断を許さない状況にある。市東さん・反対同盟と弁護団、支援者の団結の力で、現地闘争と裁判闘争を一体でたたかい、強制収用を阻止しよう。(2、5面に関連記事)
2面
南西諸島が戦場”になる
伊波洋一参院議員 新基地建設の狙いを暴露
沖縄からの訴えを聞く参加者(2日 大阪市内) |
12月2日、「辺野古新基地建設、高江ヘリパッド建設の断念を求める12・2関西集会」(主催:沖縄意見広告運動、「しないさせない! 戦争協力」関西ネットワーク、STOP! 辺野古新基地建設! 大阪アクション、戦争をさせない1000人委員会・大阪)が、大阪市内で開催された(写真下)。この集会は、第8期沖縄意見広告運動の決起集会としておこなわれ、250人が参加した。
集会では、伊波洋一さん(参議院議員)と三上智恵さん(映画監督)が講演し、安次富浩さん(ヘリ基地反対協議会共同代表)が現地報告をした。
日米政府の主権侵害
伊波さんは、基地建設による環境破壊について具体的に暴露した。沖縄の人々には、海と山の自然があったからこそ、戦後ここまで生きのびることができたという強い思いがある。この事にたいして、伊波さんは「やんばるの森は、世界でも貴重な自然が残されている場所。ヘリパッド建設はアメリカの環境基準にも違反している。この事を知りながら、日本政府は米軍のために造ろうとしている」と述べ、日米両政府による主権侵害にたいして怒りを示した。また、米国が沖縄に新基地を造ろうとする目的について、「南西諸島を戦場にする計画が進められている。この計画では日本全体が戦場になる。日本政府がこれを推進している」と述べた。
三上さんは、新作映画「標的の島」についてのエピソードをまじえて、次のように語った。「大阪府警機動隊員による差別発言にたいして、大阪のメディアは差別を糾弾する立場にたっていない。多くのメディアは〈米国は基地を返還してあげると言っているのに、沖縄はどうして反対するのか〉という構図で、政府側の立場で報道している」と指摘した。また、専門の民俗学の立場から、「沖縄の人々は先祖とのつながりを大切にする。現実の勝ち負けではなく、自分が闘っているかどうか。この事実が重要なので、自分が死んだら終わりだとは思っていない。未来にむけて闘っている」と述べた。
沖縄の分断ねらう
安次富さんは、「沖縄の闘いは日本を変える闘い」として、その課題を次のように述べた。「日本政府はオスプレイ配備計画を14年間も隠してきた。沖縄県民だけではなく、日本人民にもうそをついてきた。主権者は誰なのか。沖縄は〈自分たちのことは自分たちで決める〉と言ってきた。今、日本でこのことが問われている」と述べた。「翁長知事にたいする批判があるが、政府がねらっているのはオール沖縄に分断を入れることだ。日本を変えなければ、沖縄も変わらない。本土の皆さんは自分の地元で闘う事が重要だ。この国を変えるためにともに闘おう」と熱烈に訴えた。
沖縄意見広告運動から、1万人の賛同を集めようという提起があった。
土に生きる思い”淡々と
11月20日 市東さんの会がシンポ
東京
11月20日、東京で市東さんの農地取り上げに反対する会主催のシンポジウムが開かれた(写真)。
メイン企画は、千葉県成田市の有機農法・専業農家=市東孝雄さんへのインタビュー。「百年を耕す/めげるヒマなし! ―三里塚・市東さんの農地闘争―」と題し、市東さん(市東家)の継承されてきた農家・農民としての100年、そして10月25日に下された農地法・行政訴訟の上告棄却にたいする思い、これを受けての決意などが、市東さんへの1時間40分に及ぶインタビューの形式で語られた。市東さんの「土に生きる」思いが淡々と語られたが、その決意に揺るぎはない。
市東さんの会、葉山弁護士はじめ4人の弁護団からは、憲法判断を回避したわずか数行の最高裁決定文=不当決定への厳しい批判と、「農地取り上げ強権発動に際しては、ただちに現地に駆けつけよう」との呼びかけがおこなわれた。
高江・辺野古のたたかいが続く沖縄から安次富浩さん(市東さんの農地を守る沖縄の会共同代表)が駆けつけ、連帯と共にたたかう決意が表明された。
日本の戦争政策を止める
12月3日 前綾部市長ら迎えシンポ
京都
3日、戦争をさせない京都1000人委員会が主催して、シンポジウム「戦争と平和 人権を考える」が京都市内でひらかれ120人が参加した(写真)。パネリストは、前綾部市長の四方八洲男さん、元逗子市長で福知山公立大学副学長の富野暉一郎さん、元京都府議会副議長の角替豊さん。これまでとは大きく違った人を招き、安倍政権による戦争政策を何としても止めようとの趣旨で開催された。
四方さんは60年安保闘争時に京大の学生として参加したことが原点。戦後の民主主義と自由、人権はこうしたたたかいをとおして定着した。当時5000人が参加したデモは、先頭が円山公園に着いても、最後尾はまだ京大正門を出てなかったと語った。綾部市長時代、自民党であったが、パレスチナとイスラエルの子ども達の交流事業を推進したことも語った。富野さんは60年と70年の間の世代で学生運動には関わっておらず、その後市民運動に関わった。
角替さんは70年安保闘争を同志社の学生としてたたかい、今は公明党だが、京都1000人委員会の運営委員をつとめる。毎年恒例の10・21円山公園集会に参加している。
安倍政権の戦争政策を何としても止めようという3人の訴えに、参加者はさらに運動を進めようと確認した。
(労働ニュース)
●給付型奨学金月3万円 18年度から
低所得世帯の学生らにたいする返済不要の給付型奨学金について、自公両党は11月22日、住民税非課税世帯の学生対象に、2018年度から3万円を基準に支給することで合意した。私大下宿生の経済的負担が重い学生は17年度から給付を先行実施する。大内裕和さんらの運動があってやっと重い腰を上げた。
●「原発作業で白血病」東電と九電に元作業員が賠償提訴
東電福島第一原発事故の廃炉作業などに従事し、白血病にかかり労災認定を受けた北九州市の元作業員の男性が、11月22日、東電と九電に約5900万円の損害賠償請求訴訟を起こした。「白血病の原因は放射線被曝労働の可能性が高い」として原子力損賠訴訟法に基づき慰謝料等を求めている。震災後、放射線被ばくによる労災認定された原発作業員による提訴は初めて。
●大企業にも長時間労働の実態
三菱電機の元社員(男性31)が精神疾患になったのは入社1年目の長時間労働が原因と、神奈川県藤沢労働基準監督署が11月24日付で労災を認定した。
厚労省の基準を大幅に上回る月100時間(過労死ラインは月80時間とされる)を超える残業があったという。14年2月には160時間の残業をしたが、59時間30分と過少申告させられた。電通に続き、大企業の長時間労働の実態が明らかに。
●「死亡直前の数日間は、昼夜を問わず働いていた」
陳列棚レンタル会社(東京)のアルバイトの男性が死亡(当時38)したのは過労が原因と遺族が同社に損害賠償を求めた訴訟判決で、11月25日、大阪地裁が4800万円の賠償を命じた。
死亡までの1カ月間に84時間以上の時間外労働があったと指摘。12年4月帰宅後、意識を失い、搬送先の病院で死亡。「死亡直前の数日間は、昼夜を問わず働いていた」と判断した。
(短信)
ベトナムが原発導入を白紙撤回
11月22日、ベトナム国会は同国南部での原発建設計画の中止(政府案)を承認した。計画ではニントゥアン省に発電能力400万キロワットの原発をつくるというもので、第一原発をロシアが、第二原発を日本(三菱重工、日立など)が請け負う予定だった。
ベトナムでの原発は東南アジア初となり、安倍内閣や日本の原発メーカーは、これを突破口に東南アジア諸国に原発輸出拡大を狙っていたが頓挫した。
台湾が原発全廃へ閣議決定
台湾政府は10月25日、「2025年に原発ゼロ」を含む電気事業法改正案を閣議決定した。改正案は立法院(国会)で審議に入り、年内可決をめざす方針。
現在、第一原発、第二原発、第三原発が稼働中。いずれも2025年までに稼働期間40年の満了となる。福島第一原発の事故以降、台湾でも反原発の声が高まり、今年5月に就任した蔡英文総統は「原発ゼロ」を公約している。
3面
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かつて公害の町、いまアスベスト被害
尼崎市の100年記念公害講座を聞いて
公害の町・尼崎
高度成長期に大気汚染・地盤沈下・水質汚染で「公害の町」といわれた兵庫県尼崎市は、このほど「尼崎の公害を学ぶ」全3回講座をおこなった。
第3回目では公害研究の第一人者で、尼崎の公害審議会にも深くかかわった宮本憲一大阪市大名誉教授の講演があった。
ねばり強いたたかい
宮本憲一さんは、日本の公害を世界に共通する3大社会問題である戦争、環境破壊、貧困のひとつであるとし、そのなかでも環境破壊の最たるものとして取り上げた。それは世界的に見れば産業革命以降の資本の野放図な収奪の問題であり、日本では明治期に足尾鉱毒事件などが発生した。今日的には1950年代から70年代の高度成長時代に大資本の利潤追求のなかで環境破壊が著しく進んだのが「日本における公害問題」であった。
それは京浜工業地帯の川崎、中京工業地帯の四日市、阪神工業地帯の尼崎―西淀川に典型の3大工業地帯でのすさまじい環境破壊と、水俣などの企業城下町や、鉱山周辺の河川での筆舌に尽くしがたい被害を周辺住民に強制した。
1955年を契機に尼崎でも、濃煙霧日数が飛躍的に増加する。尼崎市南部の工場から拡散する大気汚染はスモッグ・粉塵となって尼崎市南部・国道43号線周辺を激しく汚染した。
この公害にたいして、地域住民の阻止行動と地方自治体の施策(公害防止条例など)がおこなわれた。筆舌に尽くしがたい被害の中から、粘り強いたたかいがおこり、直接的被害賠償や大気や水質の汚染の規制へと進み、70年の公害国会から環境庁の発足へと進む。しかし企業と国は本質的な責任を回避し続け、公害源の撤去や企業活動の抜本的規制にはならなかった。
ECO未来都市か?
「公害の町―尼崎」のイメージは、阪神大震災のころから徐々に払拭され、昨今の尼崎市は「ECO未来都市・尼崎」をかかげるが、妥当であろうか。100年の歴史と公害は語られたが、公害源企業の問題は語られず、国道43号線の工事差し止めの座り込みがエピソード的に語られた。全市民的問題でありながら、当時の労働運動・革新政党が、公害源=巨大資本とのたたかいを全住民的になし得ず、90年代以降の構造的不況での大企業の撤収が「公害問題」を消滅させた。「尼崎の公害」と言えば「43号線座り込み小屋」にわい小化させてしまったのではないか。
アスベスト、放射能
宮本憲一さんは、「蓄積公害としてのアスベスト被害=2006年6月クボタショック」を語った。これは夫をアスベスト疾患で亡くし、隠されているアスベスト被害者の連帯を進めていた女性が、クボタ尼崎工場周辺住民に中皮腫の患者を見つけ、勇気ある3人の被害者とともにクボタを告発したことである。その後アスベスト被害は大阪湾岸一帯で100年にわたる被害が明るみとなった。政府は慌てて救済法を作りアスベストの輸入と使用を全面禁止する。労災と救済法で認定された犠牲者は2万人を超えている。アスベストは3000種類の商品に含まれ、今後15年から50年で発病する。堺市などを生活拠点としていた作家の藤本義一さんも中皮腫で亡くなり、今日も中皮腫に苦しむ人々のたたかいが尼崎などで続いている。
宮本さんは、放射能を公害源とする意見がありながら多数意見にならず放置され、数十年後に福島原発事故となったとも指摘した。
公害源撤去の運動が持続していたなら、蓄積された公害=アスベスト被害や福島原発事故を生むことはなかっただろう。この悪行は今日でも安倍政権の「汚染水はコントロールされている」という嘘八百に継承されている。(浜 健太郎)
自衛隊員の命と人権を守る京都の会 大伴一人
戦争できる軍隊へ総仕上げ
南スーダン派兵と駆け付け警護
安倍政権は10月25日、陸上自衛隊第九師団第五普通科連隊(青森駐屯地)の施設部隊350人と普通科(歩兵)即応対処チーム50人(合計400人)からなる第11次南ス―ダン派兵を閣議決定した。その目的は、安保法(戦争法)の新しい任務である「駆けつけ警護」「宿営地共同防護」を遂行することである。
決定前日の24日には、岩手県滝沢村で国連職員の救出演習をおこなっている。「駆けつけ警護」の演習である。
政府は、菅官房長官や稲田防衛大臣の国会答弁をもとに「マニュアル」を作り、自衛官に配布している。内容は、実情とは180度違うもので、「南スーダン共和国がPKO活動に同意し受け入れている状況だから武力紛争になることはない」などと言っている。
南スーダンの現場は
7月ジュバでは、政府軍は戦車や攻撃ヘリを出動させて反政府勢力を攻撃し、多数の死傷者を出した。このような本格的な戦闘は、キール大統領か軍の参謀総長の命令が必要である。つまり本格的な戦闘が始まったということである。
一方反政府勢力も戦車や攻撃ヘリを出して応戦した。マシャール前副大統領は、「政府軍が攻撃を続けるならば、われわれは反撃する力を持っている。政府との和平合意などできていない」と記者会見で言っている。このように南スーダンは内戦状態にあるということだ。
日本政府は「武力紛争」になることはないと言っているが、100%うそであり、戦争をやりたいという政府の意志をむりやり自衛隊員に実行させようとしている。自衛隊員にしてみれば、自分が殺されるかもしれない戦場に派遣されて南スーダンの人民を殺せと命令されるということだ。
隊員と家族は
実際に南スーダンから帰ってきた自衛隊員や家族は、どう思っているのか。帰還隊員は、「町のあちこちに生きているのか死んでいるのか分からない人が横たわっていて、誰も見向きもせず通りすぎて行く、もう2度と南スーダンには行きたくない」と話している。
また大半の派遣隊員が遺書を書いている。ある派遣隊員の母親は「自分は『行くな』と言ったが、息子から『戦地ではない』という言葉が返ってきて、息子が帰って来るまで眠れない日がつづきました」と話している。
政府の目的は
本当に南スーダンに自衛隊を派兵する必要があるのか。政府の真の目的は何か。この南スーダンの戦争には米軍や主要な欧州軍やロシア軍は参加していない。中国軍と国連の援助金目的の国が参加しているだけである。日本にとってはPKO参加5原則を完全に逸脱しており、自衛隊は撤収すべき時である。
政府の思惑には2つの理由がある。1つは、アフリカにおける中国との市場争闘戦に勝ち抜きたいということ。2つには、自衛隊が戦争するための軍制改革の総仕上げである。実戦を経験させ、自衛隊員自身を殺し殺されることに耐えうる軍人に仕立て上げていくということである。解りやすくいえば、旧帝国陸海軍のような帝国主義の侵略軍を作りたいということだ。
戦争のための軍制改革
戦争のための自衛隊の軍制改革は、どこまで来ているのか。かいつまんで簡単に言うと、北方重視(対ソ連)から西方重視(対中国・アジア)への転換をほぼ終わり、陸自では重装備を少なくし、軽武装で素早く戦場に行ける部隊を作ろうとしている。佐世保市相浦の「西部方面普通科連隊」はそのモデルであり、米海兵隊をめざしている。海自では、強襲揚陸艦「いずも型」4隻、潜水艦「そうりゅう型」、対潜哨戒機P1の配備、空自ではステルス戦闘機F35、輸送機C1そしてオスプレイやサードミサイル配備も計画している。
自衛隊の軍制改革は、ここ10年で装備や組織面でほぼ達成されつつあり、陸海空の統合作戦や、米韓オーストラリア軍との統合や共同作戦は強化されている。
今日自衛隊にとって克服しなければならないことは、2つあるが、これは日本の階級闘争を揺るがすような重要問題である。
1つは法律上の問題である。憲法や戦時国際法の問題があり、解釈改憲や今回のような事実上の戦争突入で解決する問題ではない。
2つ目は、自衛隊員はむりやり戦場に連れ出され、死を覚悟して人民を殺せと命令され、実行するかどうかが一人ひとりの自衛隊員には問われる。
京都の会の決意
このような安倍政権による自衛隊員や南スーダンの人民の生命を虫けらのようにしか思っていない悪魔のような戦争政策にたいして我々は断固として反対し、たたかいに立ち上がらなければならない。戦前日本の帝国陸海軍は、数千万人の中国やアジアの人民を虐殺したのだ。
自衛隊員の命と人権を守る京都の会は、全国各地の闘争と連帯して、自衛隊の南スーダン派兵阻止闘争をたたかう決意である。
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4面
ある元日本兵の証言から 須磨 明
占領下インドネシアにおける性暴力
2016年6月の地方紙に投書された「(翁長)知事厳しい顔 戦時中を連想」を読んで、投稿者Aさんに会いたいと思った。すでに92歳であり、この機会を逃せば、Aさんが知っている日本軍占領下の「女狩り」(強かん)や慰安所のことを聞けないと思ったからである。9月中旬に手紙を送り、22日に訪問し、2時間ほどお話をうかがい、自費出版本をいただいて、辞去した。その後、10月6日に再訪して、追加取材をおこなった。Aさんからの聞き取りと著書をもとに、インドネシア・スラバヤ周辺の性暴力(「女狩り」と慰安所)についてレポートする。
出征から敗戦まで
Aさんは1924(大13)年、金沢近郊の寒村に生まれた。1941(昭16)年、国民徴用令で名古屋陸軍造兵廠(陸軍造兵廠技能者養成所)に送られ、熱田製造所第4工場で曲射砲弾の研磨作業に従事した。1943(昭18)年7月に海軍に志願し合格した(19歳)。1944(昭19)年5月に海軍電測学校普通科練習生となり、12月卒業と同時に、ジャワ島の第21特別根拠地隊行きを命令された。(日本軍のジャワ島上陸は1942年3月1日)
1945(昭20)年1月(20歳)、呉軍港を出発し、3月にシンガポールに到着し、4月スラバヤ郊外の小高い丘にある第3補充部「シ○六」海軍見張り所に配属された。60人ぐらいの部隊で、任務は海峡を通過する米軍艦船をレーダーによって監視することだった。
6月から500トンぐらいの第4号駆潜艇のレーダー監視要員として乗船し、8月13日にセレベス島へ向かう輸送船に随伴航行しているとき、触雷沈没し、大けがを負ったが、かろうじて地元住民に助けられ、ダモイ第102海軍病院に入院した。
8月15日敗戦を迎え、ジャワ山中のプジョン海軍病院に移り、1946(昭21)年4月、レンバン島経由で、宇品に帰還した(22歳)。
「女狩り」について
Aさんの話がマドゥラ島での監視所適地調査に及んだとき、当時のインドネシアで横行していた「女狩り」について、どのように聞き、知っていたのか、もう少し具体的に話して欲しいと求めたが、自著(下記)に書かれていること以上の証言は得られなかった。
〈自著から引用〉
20年の4月に私たち8名の兵隊は、「シ〇六」より派遣されて、マドゥラ島へ新しい見張所を造る下見のため出向した。日本の佐渡が島の半分ぐらいの山中で、昼の1時間の休憩時間を利用して、四国のY兵長と2人して、部落のみすぼらしい人家へ入ってみた。
ジャワは治安の非常に良い所であり、日本軍に好意を持っている国情であったから、我々はそのとき、武装していなかったのである。2人の入って来たのを見て、彼ら4、5人の男女が必至になって、なにか急に、たきぎのような物を奥まった所へ積み上げているのである。最初は彼等のオドオドして恐れていることの意味が不明だったが、その理由がすぐ判明した。
たきぎの下に、かすかに若い女の子がいることに気付いたからである。占領している軍人と占領されている住民の立場が異なると、こんなにむずかしいものだと、はじめて気付いた。若い女の子を欲して来たのだと感違いしたらしい。他人の家へ勝手に入ってと反省しつつ、私と兵長は下手なインドネシア語と手ぶりで、そんなことでないことを説明して、彼等の好物のタバコを皆、渡して頭を何度も下げて飛び出て来たのであった。
中曽根の自慢話
日本軍による現地住民にたいする強かん事件は「女狩り」と呼ばれ、インドネシアでも住民から非常に恐れられていた。インドネシアの海軍設営部隊の主計長であった中曽根康弘の手記『終りなき海軍』に、「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と書かれている。これは1941〜2年のボルネオ島バリクパパンの話である。すなわち、インドネシア全域で現地住民にたいする「女狩り」(強かん)が常態化していたようである。
そして、マドゥラ島のような小さな島でも、「女狩り」が横行していたようで、日本軍を見ると、住民は若い女性を隠していたのである。この住民の様子を見て、Aさんはピンときたのである。自分達は「女狩りに来た」と思われていると。それほど「女狩り」(強かん)が日常化していたことを物語っている。
実際、日本軍占領下のインドネシアで性被害に遭った女性のうち、1万9573人の女性が兵補協会に名乗り出ている(1995年)。亡くなったり、事情があって名乗り出ることが出来なかった女性はその数倍はいたと推測出来る。
「恥ずかしい話や」
そして、Aさんは言いにくそうに、「あんたの熱心な顔を見て、はじめて話すんやが」と慰安所のことを話し始めた。〔以下要約、( )内は筆者〕
現地には慰安所というものがあって、あんたにこんなことを言うのは、恥ずかしいけれど、「シ○六」で働いていたとき、「A、男になってこい」と言われて―あんたの顔を見てはじめて、妻にも言うたことないけど、ワシは「ハイ」と言って、つまり、「慰安所へ行ってこい」という意味なんでしょうね。
それで、(慰安所に)いっぺん行ってみようかと思って、行ってみたんや。スラバヤにも海軍や陸軍が作った慰安所があって、懐に2円か3円か、受付でお金を払うて、慰安所に入ったときに、軍人が行列を作っとるんだね。順番を待っとってね、ワシの順番が来て、入ってみたら、(部屋は)これくらいよりもう少し狭かったかね、ベッドがあって、女がひとりグターとなって長なって(横たわって)いて、部屋の片隅にある便所にはサックがいっぱいあってね。つまり、順番に女を抱いて、サックを(便所で)外して、帰るんやね。
その女はぐったり寝とって、「いらっしゃいませ」と(弱々しい、疲れ切った声で)言うたけど、話し方から日本人じゃなくて、朝鮮人か現地の女だと思ったね。それを見たら、とってもじゃないが、ワシも初めての経験だから、こんなことやっておれんわと思って、すぐに出て来た。
女は「帰るのー」と言って、(ワシは)「帰ります」と言って、出て来たら、行列の人が「若いだけあって、早いなー」と言って、喜んで入っていった。みんな順番待っとるんだからね、こんなウソのような話やね。
あんたに初めて話したが、妻にも話したことがない。恥ずかしい話やもん。(慰安所に)行く事が、すでに恥ずかしいことなんやから。
Aさんは「恥ずかしい話や」「妻にも話したことがない」と言いながら、重い口を開き、70年前の苦い想いを話した。その決断を促したものは、安倍政権による戦争法強行と復古改憲なのではないかと思いながら、話を聞いた。
軍隊生活の総括
Aさんは自著のなかで、軍隊の不条理さをやくざと比較して述べている。「この種の人たちがいなければ、日本の町が平穏で住み良くなる」「アジアの多くの人々は、日本の軍隊がいなかったら、平和で安住できると思っただろう」「この両組織(軍隊もやくざも)は、…いつでも戦える準備をし、そのための武器をかくす(貯える)ことが好きである」「陸軍の場合、佐官は赤旗、将官は黄旗の軍用車で食事も給料もいいが、下は貧しい服装をし、無給に近く食事もそまつで、朝早くから働き通しである。…そして他をなぐることも平気で、口より先に手や物がとんで来る。必ず上が下を一方通行になぐるのである。上の命令で下が命を捨てることも平気なのである。上が下のために命を捨てることはまずない」と。
1993年訪中時には、Aさんたちは中国人家庭を訪問し、「戦争中、私をはじめ多くの日本人が、皆さんに大変な苦しみを与え、本当に申し訳ありませんでした」と挨拶し、生死をかけた4年間の軍隊生活を「謝罪」で総括している。駆潜艇が沈没し、重油の海であわや命を落とす寸前に、インドネシアの青年に助けられて、戦後を生きることが出来た軍国青年Aさんの心の底からの声なのだろう。
5面
主張
歴史を変える民衆決起
韓国の朴大統領打倒闘争
韓国における朴槿恵大統領の退陣を求める全民衆的決起は歴史的な大闘争として発展している。それは李承晩大統領を打倒した1960年4月革命、79年の維新体制打倒のたたかい、80年の光州蜂起、87年6月民主抗争に匹敵するものになるだろうと言われている。12月3日には韓国全土で232万人が参加し、首都ソウルでは170万人のデモが大統領府まであと100メートルにまで迫った。
大統領の弾劾をめぐって与野党の駆け引きが続いているが、全土を揺るがす情勢を生み出したのは韓国の労働者・民衆である。
朴槿恵とチェ・スンシルとの個人的癒着や政権の私物化の暴露に端を発した韓国民衆の怒りは、韓国社会における政治権力と財閥による支配体制への怒りからその変革への要求へと拡大し、あらゆる階層を巻き込んで闘争が発展している。そこでは「民主主義を守るのではなく、韓国の民主主義を今つくろうとしているのだ」という問題意識がはっきりと現れてきている。
日本政府を直撃
朴槿恵打倒闘争は、安倍政権をも直撃している。その理由の第1は、昨年12月28日の「日韓合意」が覆される可能性が高いことだ。
すでに「癒やし・和解財団」が発足しているとはいえ、韓国民の怒りは収まっていない。安倍が「謝罪の手紙など毛頭考えていない」と国会で発言したこともさらなる怒りをかった。また今回この「合意」の直前に韓国外相が大統領に3カ月の検討時間を求めたにもかかわらず、それが無視され「合意」が強行されたことも暴露された。いまや「平和像の撤去」どころか、全国で「平和像」の建設運動が拡がっている。朴槿恵が打倒されれば、「合意の見直し」にとどまらずその「破棄」さえ現実的になるだろう。
第2に、11月の日韓軍事情報提供協定の締結にたいする韓国民衆の怒りが噴き出していることだ。この軍事協定について日本ではさほど大きく扱われなかったが、韓国では「朴槿恵は父の祖国・日本に韓国を売った」という論調に象徴されるように、「日本への新たな軍事的屈服」という批判が展開されている。
韓国財閥の出自
韓国の代表的な財閥であるサムスン、ヒョンデ、浦項総合製鉄(現POSCO)、ロッテなどを生み出す契機となったのは1965年の日韓条約(経済協力協定)である。日韓条約とは日本から韓国への総額8億ドルの援助と引き換えに、韓国の日本にたいする賠償請求権を放棄させるものであった。日本からの莫大な経済援助によって朴正煕軍事独裁体制は「漢江の奇跡」といわれる高度経済成長政策をとることが可能となった。韓国の財閥は軍事政権下で無権利状態におかれていた韓国の労働者民衆の血と汗を搾り取って成長してきたのだ。
朴正煕は軍事独裁体制によって韓国の「近代化」をなしとげた。韓国では今でも朴正煕の人気は高く、彼の軍事独裁や維新体制の責任は政治的・社会的に問われていない。こうした朴正煕の人気の高さが朴槿恵の唯一の政治的財産だった。朴槿恵打倒闘争の進展は、財閥による韓国社会の支配を生み出した朴正煕の再評価を迫るものとなるだろう。
問われていること
それは私たちにとっては、かつて日本が朴正煕軍事政権を支え、韓国財閥を育成しながら韓国への新植民地主義的侵略をすすめ、韓国民衆を抑圧してきた責任をきびしく問い返すことである。
韓国民衆は、それぞれの時代を通して民主化のために血を流してたたかってきた。これから紆余曲折があったとしても、いままさに韓国の歴史を書き換えていることに間違いはない。
各家庭に直送
三里塚「団結野菜市」
今年で40年、40回目となる三里塚「団結野菜市」が始まる。三里塚闘争と「農地、農業、食を守る」農民を支援し、無農薬・有機の野菜を私たちの食卓に届けてもらってきた。
産直農家が丹精込めた野菜が、無事に届けられることは、国・空港会社による農地強奪、破壊、空港拡張を今年もはね返してきた「勝利の証」だ。
今回からやり方を変更。兵庫県明石教会での集積、仕分けをなくし、宅配便で各家庭・各グループに直送する。注文方法も変わる。
各地域の申し込み締め切りは12月19日。
〔問い合わせ〕
三里塚決戦勝利関西実行委員会
電話0799―72―5242
Eメール:kanjitu_mail@yahoo.co.jp
投稿
「日本版が大きな力になる」
チェルノブイリ法の条例化を
12月4日、関西の保養団体の主催で「チェルノブイリ法日本版条例化について」の学習会が開かれた(写真上)。講師は、この条例化運動を進めている「まつもと子ども留学プロジェクト」の柳原敏夫さん。柳原さんは福島原発事故「集団疎開裁判」の弁護人でもある。
2度目は世論操作
柳原さんは初めに「放射能災害は2度発生する」と話し始めた。「1度目は、自然と人間の関係。原子力発電所の中で科学技術の未熟さや見込み違いによって起こる。2度目は、人間と人間の関係で、それは政治・経済・文化(メディア)にもとづく総力戦とされる。事故というよりむしろ世論操作による事件と呼ぶのがふさわしい」という。
11月27日に千葉県松戸市で開かれた報告会では、郡山市の高校教師から原発事故後、この先生が在職する学校(生徒数1400人)で、「甲状腺がんの手術を受けた生徒が4人いる」と発言している。にもかかわらず世論は操作され、事実を隠蔽し、被害はないと発表される。これが2度目の事故(災害)だ。
リクビダートル
政府は、年間1ミリシーベルトという基準を20ミリシーベルトに引き上げたままである。郡山市はチェルノブイリ法の基準であれば、ほとんどが強制移住の対象地域となる。
チェルノブイリでは原子炉の爆発を防ぐために土台の下に液体窒素が注入された。そのためのトンネルを掘るのに、灼熱と高濃度の放射能地獄に送られた何万人もの炭鉱夫や消防士たち(リクビダートル=後始末をする人という意味)。その彼らに与えられたのは事故被害者から外され「存在しないもの」としての扱いだった。しかしチェルノブイリ法の成立を促したのは、その彼らの存在と訴えだったという。
日本政府は福島事故の当初はそこから「学び」自衛隊や消防や警察を投入したのに、その後は全員引きあげさせ民間業者に代替させている。
3・11前に戻せ
事故前なら放射線管理区域の中に1人でも置くことは違法として処罰された。労働基準法の放射能被曝の限界値は年間1ミリシーベルト。しかし事故後は、放射線管理区域の中にどれだけ人々を置いても処罰されない。さまざまな放射能に関する基準を、無条件で3・11以前に戻すことが必要だ。
原発事故の最大の被害者である放射能汚染地域の人々と、原発で被ばくしながら働く労働者を救済するには、放射能災害に関する世界最初の人権法・人権宣言であるチェルノブイリ法の日本版が大きな力となる。それを制定するためには、国のありようをひっくり返す意志が必要だ。憲法9条の解釈を変え、戦争法を成立させた安倍政権と激突するたたかいである。
各地の自治体で条例化の運動を広げ、何としてもチェルノブイリ法を成立させよう、と柳原さんは講演を結んだ。(河田)
6面
天皇と国民の共犯性
「生前退位」をどう考えるか
本紙210号に掲載された須磨明さんの「象徴天皇制は『メイドインUSA(押しつけ)』か」の中で、拙文(「象徴天皇制は『国民の総意』か」)にたいする批判的なご意見をいただきました。須磨さんの指摘は、象徴天皇制を「マッカーサーから押しつけられたもの」とすることは、押しつけ憲法論による改憲運動に棹さすことになるのではないか、ということでした。
わたしが言いたかったのは、戦後憲法の制定過程で「日本国民の中から天皇の訴追に反対し、天皇制の存続を求める広範な声が上がったのか」、すなわち天皇制の存否をめぐって「国民的な論議」がなされたのだろうかということです。その点で、須磨さんがとりあげた1946年5月27日付の毎日新聞のアンケート結果は大変興味深いものでした。
それは「象徴天皇制賛成85%、戦争放棄賛成70%、天皇制廃止11%」というアンケート結果です。「戦争放棄賛成」よりも「象徴天皇制賛成」の方がパーセンテージで上回っています。この数字を見れば当時の日本人が天皇制の存続を圧倒的に支持したことがわかります。
象徴天皇を熱烈歓迎
46年から始まった昭和天皇の「全国巡幸」が行く先々で大盛況だったことにもそれは示されています。戦後の日本人は象徴天皇制を熱烈に歓迎したのです。たしかに象徴天皇制は、「嫌がる人間に無理やり強制」したものではない。須磨さんのご指摘の通り、これを「押しつけ」というのは不適切かもしれません。
そこで私が改めて問いたいのは、このように象徴天皇を熱烈歓迎した当時の日本人の心情はいかなるものだったのかということです。これは私の想像にすぎませんが、おそらく当時の人びとは「敗戦国の国民として今後どのような報復が待ち受けているのか」と不安に感じていたのではないでしょうか。日本は無条件降伏したのですから、その生殺与奪の権は連合国軍最高司令官マッカーサーの手に握られていたのです。
そうして戦々恐々としているところに、日本軍の最高責任者であった天皇にたいして、「いっさいお咎めなし」とする憲法草案が発表されたわけです。これを例えて言うなら、「下手すれば死刑になるかもしれない」と覚悟していた被告人に、いきなり無罪判決がだされたようなものです。これに喜んで飛びつかないはずがない。
大日本帝国の大元帥であり軍国日本の象徴であった天皇が、平和国家日本の象徴にそのまま横滑りするとともに、大日本帝国の臣民だった日本の民衆も平和国家日本の国民へとそのまま横滑りしたのです。わたしはこの時点で昭和天皇と国民との間に「共犯関係」が生れたのではないかと思うのです。それは明治維新以来、日本が沖縄、北海道、台湾、朝鮮、中国、東南アジア、南洋諸島でおこなってきた侵略の歴史について、お互いに不問に付すということです。
この敗戦直後に形成された共犯関係が象徴天皇制を支持する重要な基盤の一つだったのではないでしょうか。しかし、戦争経験者はいずれこの世を去ってしまいます。それは天皇制の重要な支持基盤の喪失でもあります。アキヒトが危惧しているのはここにあるのではないでしょうか。即位から今日までのアキヒトの振る舞いは、その「欠落を埋め合わせる」という意味合いが強かったのではないでしょうか。
天皇制と沖縄差別
さて私がアキヒトのメッセージに接して強い違和感を覚えたのは、彼が「象徴」という単語を異様に強調していたことです。象徴とは国家の象徴であるとともに、国民統合の象徴ということですが、その「国民統合」はいま重大な曲がり角に来ています。
それは言うまでもなく沖縄の基地問題です。辺野古新基地建設をめぐって、沖縄と日本との関係に抜き差しならぬ亀裂が生じています。先日、沖縄県東村高江でヘリパッド建設に反対する住民たちを強制排除していた大阪府警の機動隊員が、「土人」「シナ人」という差別暴言を住民に浴びせかけ大問題となりました。これは日本国家に根深く存在する沖縄差別を象徴する出来事でした。
こうした差別構造を生み出した張本人の一人が昭和天皇ヒロヒトでした。その経緯については本紙207号の拙文を参照していただきたいのですが、一言でいえば安保体制の確立と天皇制の護持とは一体であり、沖縄の現状を生み出した重大な責任が昭和天皇にあったということです。
沖縄は1972年の「返還」まで、米軍政の下にあり日本国憲法の埒外におかれてきましたが、その状態はいまも続いています。これは「国内植民地」といってもいい。天皇が象徴する「国民統合」とは、沖縄を植民地として日本国家と日米安保体制の下への統合を強制し続けることなのではないでしょうか。日本の民衆はその「共犯者」になるのか。そのことこそ、アキヒトの「生前退位」のメッセージにたいして私たちが語るべきことだろうと思います。(汐崎恭介)
(シネマ案内)
戦争なびく社会に静かな怒り
『この世界の片隅に』
(監督 片渕須直 アニメ映画 2016年・126分 日本)
この作品は、こうの史代の漫画をそのまま映画化したもので、物語は原作どおりになっている。主人公は浦野すず。1925年、広島市江波町に生まれる。小さい頃、人さらいおばけにさらわれかけたり、座敷童子(わらし)に出くわしたり、ふしぎな体験をしている。すずは、夢想的でおっとり型、自己主張も控えめ、絵を描くのが好きな女性だ。子ども時代をおくる広島での生活は、ほのぼのとした牧歌的な情景で描かれる。
1944年、すずは18歳で呉市の北條周作のもとに嫁ぐ。呉での生活は、日常のなかに戦争がある時代へと変わっていく。ここには大きな海軍工廠がある。1945年1月、呉でも空襲が始まり、戦争の足跡はすずの身近にも迫ってくる。兄の戦死、空襲で義父が負傷。地雷弾(時限爆弾)が爆発し、すずは、右手首を失う。8月6日、広島市に原爆が投下される。すずは鉢巻山のかなたに、不気味なきのこ雲をみる。8月15日、敗戦。男たちは設計図や軍事機密書類を燃やしている、かたや女たちは米を炊いている。10月、占領軍が呉にやってくる。海軍工廠は解体されていく。1946年1月、すずは広島の実家に帰る。母は原爆で即死、父も亡くなったことを知る。妹のすみは原爆症で苦しんでいる。
すずはこの時代を生きた。海軍基地のある町で、その取り巻く人々を通じて、戦時下の生活が私小説風に語られていく。戦争を翼賛するのでもなく、反対するのでもない。不自由な生活に不満をいだきつつも、つつましく、たくましく生きる。
生活では、衣食住がリアルにえがかれている。生活物資が不足する時代に、材料を工夫しながら食事をつくる。できたものがまずい時は、「まずい」と不満を言う。質素な生活のなかに、生きることの喜びが伝わってくる。
時代の語り口として、女性の視点が重視される。遊郭で働く白木りんという女性。戦後、焼け野原の広島で出くわした原爆孤児ヨーコ。弱者の視点から、個々のエピソードのなかに戦争になびく社会にたいして静かな怒りを感じとる。
すずの生きた時代は今日の情勢にも重なる。自衛隊が戦争をするために海外に行き、再び軍靴の響きが聞こえる。すずは、今日のわれわれでもある。本紙の読者は「この世界の片隅で」生き、戦争する国に抗っている。生きざまは違うが、わたしたちも同じように、この時代を豊かに生きている。戦争が日常であった時代を振り返りつつ、再びこのような時代にさせないために、この映画をみてもらいたい。(津田)
(冬期カンパのお願い)
冬期特別カンパにご協力をお願いします
私たちはいま、40年来拡大を続けてきた新自由主義グローバリゼーションからの転換期に直面しています。 イギリスのEU離脱やアメリカ大統領選挙でのトランプの勝利は、新自由主義グローバリゼーションに対する民衆の強い危機感の現れです。それはかつてない広さと深さをもって地球上に拡大している民衆の防衛的なグローバル資本市場への対抗運動の世界的なうねりが始まっていることを衝撃的に告げ知らせています。窮地に陥っている安倍政権を打倒するたたかいを推し進めましょう。新自由主義グローバリゼーションに終止符をうち、すべての人々が人間らしく生きていくことのできる世界を切り拓きましょう。この事業のための資金カンパをお願いします。
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