未来・第206号


            未来第206号目次(2016年9月1日発行)

 1面  沖縄・高江 ヘリパッド
     工事車両の前に座り込み
     市民が懸命の抵抗

     伊方原発3号機
     住民見捨てる再稼働
     地元で連日の抗議行動

 2面  寄稿
     原子爆弾被爆者(電車内被爆者)米澤鐡志
     戦争責任を自覚し、核廃絶へ歩め
     オバマ広島訪問への憤り

     「TPPは幕末以来の危機」
     8月20日 東京 山田元農水相が講演

     猛暑の中〜戦争法廃止訴え
     9月に大集会と御堂筋デモ
     8月19日 大阪

 3面  検証
     軍学共同へ走る安倍政権
     軍事予算で大学の取り込み狙う
     津田 文章      

 4面  焦点
     伊方・川内原発の運転停止を
     差止仮処分でも勝利し、原発の運転を止めよう
     金子 鉄平

 5面  経産省前テント 強制撤去
     未明の急襲 8月21日      

     平和を求める具体的とりくみ
     8・5平和祈念のつどい・東大阪

     〈読者からの手紙〉
     森川数馬『21世紀の貧困と国家改造』を読んで
     (本紙199号〜200号に掲載)

     投稿
     核と戦争が凝縮する8月6日

     投稿
     「消された家族」の前で動けず

 6面  安倍政権を支える日本会議
     この間の出版物の紹介をかねて

       

沖縄・高江 ヘリパッド
工事車両の前に座り込み
市民が懸命の抵抗

警察車両の前にむしろ旗を立てて抗議する市民ら。
マイクを握っているのは山城博治・沖縄平和運動センター議長

8月5日 高江ヘリパッド工事はN1ゲート裏の攻防に入った。N1ゲート表からは7月25日以降、連日砂利を積載した10トントラックが10台ほどゲートに入る。10トントラックの前後を警察車両が護衛し、市民の抗議のスクラムを排除する。N1裏の市民テントと車両の強制撤去が6日以降狙われるなか、この日午後6時市民千人がN1ゲート裏に結集し集会をおこなった。集会後現場に残る人が500人に達した。車とN1ゲートにつながる道路にテントを張り泊まりこんだ。
6日 防衛局は、N1裏の市民のテントと車を撤去できなかった。市民はテントを強化した。テントは集会ができる広さに拡張された。屋根を補強し、コンクリートブロックと板で椅子を造った。200人が座り込め、板を並べるとベッドになり、多くの人が泊まり込める場所を確保した。

牛歩作戦

8日 工事阻止に燃える市民は、工事車両の前に車を並べ低速で走る「牛歩作戦」を展開。その後も連日「牛歩作戦」は続けられた。
10日 防衛局は、市民の抗議行動を警戒すると称して交通規制をした。朝の通勤時間帯に高江集落の進入路を30分間封鎖した。高江住民は村から出ることができなかった。市民と高江住民の分断を図る姑息なやり方だ。
11日 抗議行動の市民がこの間の攻防で初めて不当逮捕される。この日午前9時過ぎ「牛歩作戦」を展開していた市民を公務執行妨害で逮捕した。直ちに120人で名護署に抗議行動。市民の怒りの前に12日夜釈放した。15日から18日まで沖縄は旧盆のため作業を中断。
19日 盆明け、工事再開のこの日、私たちは午前5時に東村に結集、6時半過ぎに北部訓練場メインゲート前で集会。550人の市民が結集。工事阻止を訴えた。10時過ぎ早朝集会を終了した。
多くの市民は、この日午後那覇市でひらかれる「辺野古埋め立て取り消し」をめぐる裁判(注)に向かった。
午後の裁判には、市民千人が裁判所前の公園で集会。法廷に向かう翁長知事を激励した。裁判は5日の口頭弁論とこの日の2回ひらかれ、結審。判決は9月16日。

橋の上に座り込み

20日 工事車両がN1ゲートの南側から来る。(工事車両はその日によってN1ゲートの北か南からくる。両方もあり得る)市民は南からの搬入に備えて、N1ゲートに近い橋の上に阻止線を張った。橋の上は狭く、市民の車両と座り込みですぐに埋まった。機動隊は何事が起こったのかと右往左往。対応不能に陥った指揮官が集まり鳩首会談。やがてごぼう抜きが始まり激しい攻防が続く。1時間半に及び交通は止まる。この間市民は水さえ飲めず、トイレに行けず、警察車両の間の狭いところに押し込められた。取材のマスコミ陣も押し込められ取材ができなかった。

機動隊の暴力

21日 この日も橋の上で座り込み。機動隊の暴力は激しさを増し、2人が救急搬送された。80代のおばぁは指を怪我した。60代の男性は胸を押さえつけられ息ができなくなった。
22日 防衛局は、市民が橋の上で座り込むことを想定し、北側から工事車両を入れた。防衛局はあらゆる手を使い、機動隊の暴力で市民を押さえつけてくる。全国から高江に結集しよう。

(注)辺野古埋め立て承認取り消しの撤回を求める国の是正指示に、翁長知事が従わなかったのは違法だとして、国が起こした「不作為の違法確認訴訟」。福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)でおこなわれている。(杉山)

伊方原発3号機
住民見捨てる再稼働
地元で連日の抗議行動

地元住民を先頭に町役場周辺で抗議のデモ
(8月11日午後 愛媛県伊方町)

再稼働反対の声

8月12日、午前9時、「再稼働反対」の怒りの声に包囲される中で、伊方原発3号機が再稼働にむけて起動した。
早朝から、警察の厳戒体制をものともせず、全国から伊方原発ゲート前に人びとが集まった。
愛媛県警は香川、広島、兵庫からの応援を受けて、「大飯の乱を二度と許さない」という構えで、佐田岬に通じる国道から伊方原発に通じる道を封鎖した。送迎用として登録した車だけを通行させ、一台一台に白バイをつけるという不当な制限を加えた。海上では海上保安庁の巡視船数隻が警戒体制を取った。
午前6時前から伊方町総合運動公園駐車場に集まり、車に分乗して原発ゲート前に結集した。
7時から、原発を臨むゲート前で再稼働反対の行動が始まった。参加者のリレーアピールや「再稼働反対」のコールがこだまする。地元を始め、高知など四国各県、九州、中国、関西からの参加者が発言。前日11日に再稼働1年目のゲート前行動をやり抜いた、〈ストップ川内原発!3・11鹿児島実行委員会〉の10数人は、夜通し走行し、かけつけた。代表して向原祥隆さんが発言。
司会から3号機の状況について逐次報告され、再起動まじかという緊張感が高まる。集会中も、続々と人々が集まってくる。参加者は150人を超えた。規制のために設置されたバリケード前に、8時半頃から全員が布陣し「再稼働反対」の声をあげ続けるなか、9時再稼働(起動)のボタンが押された。直ちに「再稼働やめろ」「再稼働止めろ」と人々の怒りの声がとどろき渡った。伊方原発再稼働反対を最先頭でたたかってきた人々をはじめ、感極まって涙を流しながら、住民の反対の声を無視して再稼働を強行した四国電力を糾弾しつづけた。菅直人元首相や福島瑞穂参議院議員もかけつけ発言した。

前日に伊方町内デモ

前日の8月11日、午前10時から翌日に迫った再稼働に反対するゲート前行動がおこなわれ、100人が集まった。10数人が発言、それぞれ、伊方原発3号機の再稼働の策動を弾劾した。「12日は、来れる人は朝6時に結集点に集まる」という方針が確認された。
午後、伊方町内デモがたたかわれた。JA西宇和倉庫前から伊方町役場、そして再びJA倉庫前のコースでおこなわれ、60人が参加。「再稼働反対」を声の限り訴えた。
伊方町では、町民アンケートがおこなわれ、再稼働反対55%、賛成25%となり、再稼働に賛成の人でも大地震発生時に原発に不安を感じている。また、再稼働時に住民投票を求める署名運動も始まろうとしている。伊方原発から西、佐田岬半島に居住する約5000人の多くは「私等は見捨てられた。何かあった場合はみんなと一緒に死ぬしかない」と言っている。住民に、「見捨てられた」といわしめる原発再稼働は許されない。

伊方原発を廃炉へ

伊方原発反対闘争は半世紀の歴史をもっている。再稼働を許したのは残念だが、人々の「原発許さない」の思いは必ず実を結ぶ。当初、伊方原発が再稼働第一番手といわれてきた。それがここまで食い止めたことの意義は大きい。伊方原発の稼働を直ちにやめろの声をさらに大きくあげていこう。既に、愛媛、広島、大分で「伊方原発運転差し止め」を求める仮処分裁判がたたかわれており、年明けにかけて結論が出される。
「伊方原発を直ちに止めろ、伊方を廃炉へ」の声をあげよう。(4面に関連記事)

2面

寄稿
原子爆弾被爆者(電車内被爆者)米澤鐡志
戦争責任を自覚し、核廃絶へ歩め
オバマ広島訪問への憤り

5月27日、オバマ米大統領は広島を訪問し、平和祈念公園で演説をおこなった。これにたいして、広島被爆者であり、長年にわたって反核・平和運動をになってきた米澤鐡志さんが、全面的に批判する文章を公表した。本人の許可を得て全文を掲載する。(見出し、小見出しは本紙編集委員会)

私は8月5日、6日、今年も広島の地にいた。5月オバマ大統領の広島訪問に、あらためて強い憤りを覚えた。
オバマの被爆地広島訪問は、きれいごとですまされた。アジア侵略の歴史を否定する安倍とオバマ、日米の忌まわしい同盟が、日本の戦争責任やアメリカの人類に対する犯罪を歴史から葬り去ろうとする流れであり、許されない。マスコミは歓迎ムードを作り出した。安倍は失政を覆い隠すため、サミットと広島訪問を最大限に利用した。
残念ながら日本の戦争責任、とりわけアジア侵略を批判反省し、アメリカの原爆投下の誤りを指摘しながら反核運動の軸になり続けた、「核と人類は共存できない」と訴えてきた多くの人たちは鬼籍に入ってしまった。そのため、有名無名を問わず多くの被爆者がオバマの広島訪問を歓迎、ないし好意をもって対応した。報道によると、『はだしのゲン』の中沢啓治夫人は「中沢が生きていたらオバマ訪問を喜び、謝罪してほしいと思っただろう」と談話している。中沢は作品の中で「原爆投下はナチのホロコーストと同じ」と書いている。私は、中沢が生きていたらこのような訪問を喜びはしなかったと思う。
しかし、他の多くの被爆者や遺族はマスコミが作り出した、歓迎ムードの誘導に乗せられていた。式典の後の被爆者代表との握手も私には空々しく感じられた。抱擁し涙を流していたもう1人の人は、被爆死した米軍捕虜のことを調査してきたというが、それは一部の米空軍関係者にしか知られていなかった。当初は米軍捕虜を式典に招くという計画だったようだ。前記人物が被爆者であったことから、登場させられた。安倍の配慮かアメリカ側の要求かはわからない。謝罪を拒むアメリカ側を、どうしても広島に連れて行きたかった安倍の意向がうかがわれる。
私も複数のマスコミ取材を受け、次のようなことを述べた。
戦争終結のための原爆使用説は当時敗戦必至だった日本の状態を見れば、ウソであることは明らか。本当はトルーマン大統領の戦後政治を見据えた使用であった。「核」の管理が現在でもできないことを考えれば、明らかに人類や地球に対する犯罪であり、未来永劫批判されなければならない。その後「核」を持って世界支配を目論んだアメリカ政府の歴代の大統領も同罪に近い。オバマ大統領がプラハでおこなった核廃絶の声明を知ったとき、彼は歴代大統領と違い核廃絶に具体的に着手するのではと歓迎した。しかし、IAEAという五大核保有国を軸にしたダブルスタンダードの核廃絶の障害になる制度を支持した。それどころかイスラエルの核保有を黙認し、インド、パキスタンの核保有を認めてきた。

死者への冒とく

広島の土の下、とくに爆心近くには無数の骨肉が埋まっている。私が中学生時代、被爆2年後のころは、あの相生橋下の川の中に、まだ骨が散乱していた。米軍の最高司令官が、謝罪なしにそこを土足で歩いた。今回、岩国基地で米兵を激励し、オスプレイまで飛ばし広島に下り立ったことは、死者に対する冒とく以外のなにものでもない。
先日、ある広島の友人と話していたら「トルーマンは悪いが、オバマはその時はまだ生まれとらんのじゃけん、わしらに戦争責任を問うのと同じで納得できん」といった。日本人の感覚には、自分の父や親せき、兄が犯したアジアの人々に対する戦争犯罪を終わったことにしようとする風潮がある。それが、こうした考えや安倍を生み出し、ヘイトスピーチを生み出している。
ともあれオバマは米日政府の思惑どおり、日米同盟の強化とアベノミクスの失敗を糊塗するために来日したと考えて間違いないだろう。今回のオバマの日程を見ると基地岩国から広島に入った。慰霊碑に献花したのは外来者の儀礼的のものであり、マスコミや一部評論家がいう哀悼や謝罪ではない。その後、原爆資料館の視察はわずか10分。ジオラマの地図を見る時間もないくらい短時間だった。あの残酷と悲惨を見れば、どんな人でも核の恐ろしさがわかる、それを被爆者の多くが一番望んでいた。
被爆者との歓談とやらも屋外でハグし合う程度でまったく素通り状態であった。スピーチには具体的なものはなかった。彼自身が認めている「核のない世界の実現は、私の生きているうちは難しい」とは、私のように反核運動を65年以上続けた老人がいうならまだしも、世界最強の大国であり最初の原子爆弾を落とした国の、最高の権限を持つ人間の言葉とは思えない。「核廃絶の見込みはない」と正直に告白したとしか思えない。

謝罪はできたはず

謝罪なしはアメリカの世論を考慮したというが、先述したように彼らの犯罪を隠蔽したものである。それでも、最近の米世論は六分四分くらいになっている。アメリカン大学のピーター・カズニックのように、数10年前からトルーマンの犯罪を告発し、映画監督のオリバー・ストーンや多くの著名人がその意見を支持している。オバマ自身がその気になれば、謝罪できたことである。
核といえば、原発もそうである。かつてアメリカ大統領アイゼンハワーが「核の平和利用」を唱えた。それも、原発をはじめとする膨大な軍事産業を輸出させるための「核拡散」であった。
原爆も原発も人類破滅の恐ろしい凶器であり、最初に使用した道義的責任(私は、道義的問題とは思わないが)というなら、自ら率先し具体的に「核」完全廃棄をおこなうべきである。日本の平和憲法のように!
「空から死が降ってきた。世界が変わった。閃光と炎が、街を破壊し人類が自身を滅亡する手段を手に入れた」と、第三者のような空虚な言葉が並べられた。被爆者である私は、思わず叫ばざるを得なかった。折鶴のプレゼントなど「核廃絶」とは無縁なものを資料館に提供、それをマスコミが美談として後追いし、長崎まで持っていくという。「核廃絶」を虚構にし、それを受け入れる日本人の愚昧さ加減に言葉もない。

(筆者注)この稿は、カナダの著名な平和活動家・乗松聡子さんによりピーター・カズニック、オリバー・ストーンなど世界の運動家数百人に送信されている。

「TPPは幕末以来の危機」
8月20日 東京 山田元農水相が講演

8月20日、東京で「TPPを批准させない! 全国共同行動 8・20キックオフ集会」が開かれ、300人が参加した(写真)。この集会には生協、農協、労働組合など184団体が賛同に名を連ねた。
冒頭、司会から「秘密裏に勧められているTPPは市民生活に大きな悪影響を及ぼす。批准強行に待ったをかけなければならない」との訴えがあった。
メインの講演は山田正彦元農水大臣。「TPP協定で日本はどう変わるか」と題し、医療・食品・雇用などのさまざまな分野で市民生活が「資本の食い物」にされる構造が明らかにされた。また、ネットでベトナム産コシヒカリが5キロ50円で販売されていること、水道事業をフランス系企業に丸投げした松山市では水道料金が上昇中であること、MRI検査がニュージーランドでは7万円もすることなど具体例をあげて、TPPが実施されればこうした事態が全面化されると警鐘を鳴らした。
「まだ一般市民にはTPPは農業問題としか認識されていない」、「幕末以来の危機であり、秋の臨時国会が批准をめぐる攻防になる」と批准阻止へ奮起を呼びかけた。
行動提起では、TPP批准阻止へ世論を喚起するとともに、臨時国会にあわせた国会行動をおこない、地方議員や国会議員に圧力を加えること。「医療費高騰反対」などの具体的な課題で一点共闘を追求することなどが提案された。
最後に、TPP批准は公約違反であり国会決議にも反するとして安倍内閣を弾劾するアピールを採択し、この日の集会を終えた。

猛暑の中?戦争法廃止訴え
9月に大集会と御堂筋デモ
8月19日 大阪

8月19日、自民党が安保法制=戦争法を強行可決した日から11カ月目のこの日、大阪市内で、〈おおさか総がかり19行動@なんば高島屋前〉がおこなわれ、100人以上が参加した(写真)
大阪教職員組合の人は、11月に南スーダンに向けて自衛隊が「駆けつけ警護」で派遣されること、アメリカのように日本でも経済徴兵制社会になるのではないかとの懸念を訴えた。
〈大阪・戦争をさせない1000人委員会〉共同代表の山元一英さんは、日本ではマスコミや安倍内閣が尖閣諸島、北朝鮮のミサイル開発などを口実にして戦争の危機を煽っているが、韓国ではTHAADミサイル(終末高高度防衛ミサイル)配備が大問題になっている、韓国の人民は果敢なたたかいを展開している、東アジアの平和のためには、それぞれの国の中で戦争に反対するたたかいが重要だと訴えた。

9・19総がかり集会へ

安保破棄大阪実行委員会が沖縄の現状を訴え。続いて、〈「しないさせない! 戦争協力」関西ネットワーク〉中北龍太郎さんがマイクを握り、「戦争をしない国」をいつまでもと題したビラを受け取って読んでほしい、平和のための世論づくりに協力してくださいと訴えた。緊急事態条項について、何か事が起きた時には憲法を停止し、独裁政権ができると危険性を訴えた。9・19おおさか総がかり集会(うつぼ公園)への参加をよびかけた。
戦争あかん! ロックアクション共同代表の古かく荘八さんなどが、安倍政権を倒して戦争をとめよう、平和に生きていく権利が今侵されている、日本の社会は市民が作りだすものだ、一緒に考えようと語りかけた。

3面

検証
軍学共同へ走る安倍政権
軍事予算で大学の取り込み狙う
津田 文章

安倍政権下で進む武器の開発・輸出

安倍政権は「戦争をする国」へ転換を進めている。その一環として、武器の開発、輸出に力を入れている。第2次安倍政権発足以来の動きを簡単に確認しておこう。2013年12月、戦前の「大本営」にあたる、戦争を指揮する日本版NSC(国家安全保障会議)を設置し、「防衛計画の大綱」を決定した。2014年4月、安倍政権は武器輸出三原則を防衛装備移転三原則に言い換え、武器輸出を可能にした。2015年10月、武器などを一元的に取り扱う防衛装備庁が発足し、これまで武器を開発してきた防衛省技術研究本部もここに一体化された。
日本の製造業はすでにアジア諸国に生産拠点を移し、国内産業は空洞化している。得意としていた半導体製造に関しても、価格競争力でアジア諸国に太刀打ちできなくなった。日本の新たな輸出産業は原発、武器しかなくなっているというのが現状だ(注1)
昨年12月28日の日本軍「慰安婦」問題に関する日韓政府間合意を見るまでもなく、官僚体制のもつアジアにたいする優越感と差別主義は、戦前とはなにも変わっていない。これらが一体となって、事態は進行している。ふたたび挙国一致体制が作られようとしている。武器の生産は戦争を欲する。安倍政権の進める「戦争をする国」はこのようにして現実に戦争を求めていくのだ。
今日、武器の開発には最先端の科学技術が必要だ。そのために大学などの研究機関の協力が不可欠になっている。軍学一体化がますます進行し、科学者の軍事研究が現実に進行している。本稿では、この点について見ていきたい。

大学における軍事研究

昨年、防衛省は「安全保障技術研究推進制度」という競争的資金制度を作り、研究機関への研究委託という形で3億円の予算をつけた。指定した研究テーマにそって科学技術者を公募し、研究資金を提供する制度だ(注2)
この制度にたいして、2015年度には、109件(大学は58件)の応募があり9件(大学は4件)採用された。今年(2016年)度は、予算が6億円に増額された。しかし、応募は44件(大学23件)に減少したが、10件(大学は5件)採用された。昨年メディアなどで話題になったこともあり競争率は減少しているが、予算は倍増されている。東京新聞によれば、自民党の国防部会はこれを「100億円に増額せよ」と要請しているようだ。
大学や研究機関での軍事研究については、防衛庁技術研究本部(当時)との「国内技術交流」という名のもとに、すでに2004年から始まっている。防衛にも応用可能な民生技術を積極的に活用するためと称して、研究費を援助するという形で研究者を取り込もうとしてきた。この「国内技術交流制度」は2004年から2011年までは1件だったが、2012年2件、2013年5件、2014年11件と急増している。この「実績」のもとに、2015年から「安全保障技術研究推進制度」が新たに作られた。
「国内技術交流」では、資金的にも宇宙航空研究開発機構(JAXA)が突出していることを強調しておきたい。2008年に宇宙基本法ができ、そこに「安全保障に資する」という文言が入って以降、宇宙開発は軍事と完全に一体化している。日本の打ち上げる人工衛星は平和のためではなく、軍事開発の一環としておこなわれているのだ。

科学者たちの対応

いっぽう、科学技術者の対応はどうだろうか。この制度に応募した大学は、「兵器・軍事技術研究はしないが、今回の制度はそれにあたらない」と言っている。また、ほとんどの大学は研究者の判断にまかせるという形で、対応を放任している。
今年4月、日本学術会議の総会では「安全保障技術研究推進制度」の問題に関して紛糾した。5月20日、日本学術会議の中に「安全保障と軍事利用に関する検討委員会」が設置された。議論を積み重ねて、来年9月30日までに見解をまとめるという。ここでの焦点は、過去の〈声明〉を見直すかどうかだ。
日本学術会議は1949年1月の第1回総会において、「われわれは、これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである」と宣言した。これを受けて、1950年4月に次のように表明している。「われわれは、文化国家の建設者として、はたまた世界平和の使として、再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、さきの声明を実現し、科学者として節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。」
1966年、日本物理学会がおこなった半導体国際会議に米軍資金が使われていたことが問題になった。1967年10月、日本学術会議は2回目の声明を出した。「近時、米国陸軍極東研究開発局よりの半導体国際会議やその他の個別研究者に対する研究費の援助等の諸問題を契機として、われわれはこの点に深く思いを致し、決意を新たにしなければならない情勢に直面している。…戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する。」
戦争中、科学者は特権階級として戦争の恩恵を最大限にうけていた。まず、戦場に行く必要はなかった。挙国一致体制のもとで、科学研究費は大幅に増額された。1950年に日本学術会議(学問・思想の自由保障委員会)がおこなったアンケートでは、「戦争中はいちばん研究の自由があった」という回答がいちばん多かったという。ここにあるのは「たとえ軍からの資金であっても、自分の好きな研究ができればよい」という思想だ。
明治の近代化以来、科学と技術は一体のものとして受け入れられ、日本の科学技術は軍事偏重、権力の主導性のもとで推進されてきた。総力戦体制のなかで、研究体制の近代化・合理化が推し進められてきた。戦後、この科学者たちは「戦争のための科学」から「国民を豊かにする科学」に変わっただけで、平和国家の建設のために、高度成長経済に協力していった。科学技術の在り方に関する反省的な捉え返しはなく、「国家のために役立つ科学技術」という思想は戦前とまったく変わらなかった。
福島第一原発事故直後、山下俊一(当時、長崎大学教授)はある種の使命感をもって、「100ミリシーベルト以下は安全」と言っていた。このように「いかなる理由があっても、国が決めたことは正しい」という思想が、明治以来の科学者の存在基盤になっている。
1950年の声明は、「戦争はこりごり」という市民の反戦意識を受けて、科学者の戦争協力に関して反省したものだ。1967年の声明は、学園闘争の発端を切り開く、若き研究者のたたかいのなかでつくられた(注3)。このふたつの〈声明〉は、科学者個人の良心に依拠するのではなく、社会との結びつきのなかで出された。科学者にとっても社会から学ぶという謙虚な視点をもっていたのだ。
今回、「安全保障と軍事利用に関する検討委員会」が設置されたことにたいして、メディアは「軍事研究が容認される方に見直される」と危機感を持って報道している。この背景には、日本学術会議の大西隆会長(豊橋科学技術大学学長)が軍事研究容認で積極的に発言しているからだ。大西会長は「個別的自衛権の範囲であれば許される」と明言しており、何らかの形で〈声明〉を見直すべきという立場だ。安倍政権のやり方からすれば、トップダウンで〈声明〉を見直したいのだ。

研究者と市民が一体となって

2004年、大学は研究法人となった。新自由主義政策が導入され、大学どうし、研究者どうしが競争にさらされている。財界に「役立つ」分野には資金をぜいたくに投入するが、それからもれた分野の研究者は資金に苦しんでいる。競争的資金の導入で、研究者は自分で研究資金をつくるしかないのだ。研究者は「どんな金であっても、研究資金がほしい」という状況に追いやられている。
この過程で、産学協同がうたわれ、大学は財界のための大学に変質していった。さらには、豊富な軍事予算を使って研究者を取り込み、政府・文科省は軍部が喜ぶ軍学共同の大学へ変えようとしている。もともと建て前的ではあったにしろ、基本原理としてきた「大学の自治」や「学問の自由」さえも、大学自身が捨て去ろうとしている。
科学技術において、軍事利用と民生利用は区別できない。この〈科学と技術の両義性(デュアルユース)〉を軍事研究をする口実として持ちだしてきている。「科学技術を発展させるためであれば、いかなる資金であってもよいのではないか」「使い方の問題だから、科学者・技術者の責任ではない」という意見が研究者のなかには根強く存在している。しかし、軍からの資金でおこなわれる研究は、いかなる内容であれ軍事研究なのだ。軍事研究は内容で判断するのではなく、どこから資金がでているかを判断の基準とすべきだ。
今回、日本学術会議に設置された「安全保障と軍事利用に関する検討委員会」は市民に公開されている。この問題について、市民は積極的に発言していくことが必要だ。市民にとっては、科学者にまかせるのではなく社会問題としていくことだ。科学者にとっては市民との交流、市民の意見を取り入れることが重要だ。今こそ、研究者と市民が一体となって、軍事研究に反対していくたたかいを作り出していくことが求められている。

(注1)日本経団連「防衛産業政策の実行にむけた提言」(2015年9月15日付)
(注2)「安全保障技術研究推進制度」の批判的視点については、岩波新書『科学者と戦争』(池内了)を参照のこと。
(注3)1966年、日本物理学会が半導体国際学会を開催した。この会議に米極東研究開発局から資金援助をうけていたことが学会で問題になった。山本義隆、小出昭一郎、水戸巌、槌田敦などのたたかいによって、1967年に日本物理学会は「今後内外を問わず、一切の軍隊からの援助、その他一切の協力関係を持たない」(決議3)を決定した。

4面

焦点
伊方・川内原発の運転停止を
差止仮処分でも勝利し、原発の運転を止めよう
金子 鉄平

伊方原発3号機の再稼働に抗議する人びと
(8月12日 愛媛県伊方町)

8月12日、四国電力は伊方原発3号機再稼働(プルサーマル運転)を強行した(注1)
それは、中村時広愛媛県知事が、〈全ての住民を放射線被ばくから守り、命と暮らしを守る〉最低限の責務を放棄するなかではじめて可能となったのだ。 4月14日、発生した九州中部大地震(熊本地震)は、旧来の地震の常識を大きくくつがえした。「3・11」に続いて、再び「大地震と原発事故の複合災害」の現実性をあらためて鋭くつきだした。
震度7の2度の強震と頻発する大地の揺れ、多数の家屋倒壊、高速道路や幹線道路、生活道路の寸断、新幹線や在来線の寸断、被災のため使用不能となった避難所など、多数の被災住民が被災地に閉じ込められ長期間にわたる車中泊やテント泊を余儀なくされた。
今回の地震災害が、もし同時に川内原発事故を引き起こしていた場合、恐るべき事態になっていたであろう。
またこの地震で観測された地震動とその評価に基づく新たな知見は、基準地震動の過小評価の問題と、それがもたらす原発事故の危険性・現実性をも鋭くつきだすものとなった。
伊方原発30キロ圏内住民をはじめ、伊方原発直下の佐田岬半島住民から、次のような不安や疑問が多数なげかけられた。ひとつは避難計画の実効性にかかわる問題であり、いまひとつは伊方原発基準地震動の評価への不信や不安であった。これにたいして、本来なら中村愛媛県知事は再稼働の了承を最低でもいったん凍結し、避難計画の再検討と基準地震動の再検証をおこなうべきであった。しかし中村知事は黙殺し、国と四電の再稼働強行を許したのだ。

避難計画と基準地震動問題

「考えられる最高の安全対策が施されている。福島と同じことは起きない」(中村知事発言)、さらには「完璧な避難計画などない」(山本公一原子力防災担当相、中村知事発言)として住民の切実な疑問や不安を完全に黙殺したのだ。
避難計画の問題では、再稼働後の8月15日に「広域避難計画」の修正なるものを公表し、「避難計画の向上のためには絶えざる訓練が必要」との詭弁を弄している。それは地元住民に原発運転を強制するものだ。
基準地震動問題について、島崎邦彦前原子力規制委員長代理は、「大飯原発などの基準地震動は、実際より過小評価されている」と指摘し、7月15日の記者会見で「原発が大地震に見舞われた場合、実際の揺れは現在の基準地震動を上回る可能性が高い」との見解を明らかにした。
また国の地震調査研究本部・地震調査委員会は、九州中部大震災で実際に観測された地震動に基づく新たな評価のもと「震源断層を想定した地震動予測手法(修正レシピ)」を公表した(注2)。それをふまえた再計算の結果は従来の基準地震動を大幅に上回るものであった。多方面から基準地震動の審査の見直しの声が相次いだのだ。
しかし田中俊一原子力規制委員長は「大飯原発の基準地震動は見直さない」「熊本地震での知見が固まっておらず、島崎氏は一部の都合のよいデータを持ち出している」「新たな知見を採用しない」と黙殺したのである。
中村知事も、同様に、伊方原発基準地震動(650ガル)を妥当としたのだ。そもそも中村知事は、最低でも新たな知見での基準地震動の再検証までは、再稼働了承を一旦凍結しようとする考えなど微塵も持ち合わせてはいなかったのだ。それは原子力安全専門部会が、再稼働後の8月17日に開催されたこと。また「再稼働時期が直前まで分からず、結果的に再稼働後の開催となった」との菅原愛媛県原子力安全対策推進監(原子力規制庁から出向)の弁明を見れば明らかだ。

立地県知事による不同意が鍵

原発の再稼働は、地元県知事の同意によってはじめて可能となっている。だが川内原発の運転再開後、薩摩川内市住民はじめ鹿児島県住民の不屈のたたかいが、川内原発再稼働に同意した現職の伊藤祐一郎知事を落選させ、三反園訓新知事を誕生させた。その力は川内原発運転停止への展望をきりひらきつつある。 原発再稼働を止め、運転中の原発を止めるためには、原発立地県知事をして〈同意できない〉〈運転停止を求めざるをえない〉情勢や、これを拒否すれば〈選挙で落される〉情勢を地元住民がつくりだしていくことが必要だ。
さらに、3月9日の大津地裁仮処分決定で、関西電力高浜原発3・4号機運転停止がかちとられている。
「3・11」以降、福島における不屈のたたかい、原発立地住民の粘り強いたたかい、これに連帯した全国各地での反原発・脱原発の絶えることのないさまざまなたたかいが、この間の鹿児島でのたたかいの大きな前進や、原発訴訟をめぐってのあらたな変化の兆しをうみだしているのだ。

伊方原発3号機の仮処分勝利を

ここでこの間の原発運転差止仮処分訴訟をめぐる現状を見ておこう。
2014年5月21日、福井地裁・樋口英明裁判長による本訴での歴史的な判決(大飯)に続き、翌年4月14日、同地裁・樋口英明裁判長による高浜3・4号機運転差止仮処分決定。その反動的巻き返しとして12月24日の同地裁・林潤裁判長による仮処分決定取消に見られる逆流の中で、今年3月9日、大津地裁・山本善彦裁判長による仮処分決定は運転中の高浜3号機と再稼働の直後にトラブルで自動停止していた高浜4号機の運転禁止を命じたのである。司法の力で運転中の原発を初めて止めたのだ。関電による大津地裁決定にたいする異議申し立ても7月12日に退けられ、関電は高浜3・4号機の運転再開が見通せなくなり、高浜原発3・4号機からの核燃料の取り出しに追い込まれたのである。
大津地裁決定が、関電や各電力会社に与えた打撃の大きさは、3月18日の八木誠電事連会長(当時)が「上級審で逆勝訴した場合、申立人への損害賠償請求も検討の対象」と申立人への恫喝をおこなったことや、7月13日には森詳介関西経済連合会会長(前関電会長)の「司法リスクを小さくするため、原発運転差止仮処分は民事ではなく特別の裁判所でおこなうよう法改正を法務省に要望したい」との発言を見れば明らかである。
また、佐伯勇人四電社長は再稼働後、「司法リスクを考慮し、電気料金の引き下げは当面は見合わせる」との発言をおこなっている。
このような新たな地平を引継ぎ、伊方3号機運転差止仮処分申立と審尋が、3地裁で始まった。松山地裁では5月31日の申立てに続き、7月26日に第1回審尋がおこなわれ、第5回審尋(11月2日)までの日程が確定した。広島地裁では3月11日の申立に続き、第3回審尋(7月13日)まで進行し、第5回審尋(9月20日)以降には決定が下される見通しである。また大分地裁では7月4日の申立に続き、第2回審尋(8月10日)まで進行し、第4回審尋(11月17日)までの日程が確定している。
3地裁の各審尋での年度内決定をかちとるためには、年内に結審するかどうかが大きな鍵となる。また高浜原発3、4号機をめぐっては、大津地裁決定の取り消しを求めた保全抗告の第1回審尋が大阪高裁でも始まる。仮処分の勝利決定をめざし法廷内外でのたたかいを進めていこう。
そのためにも、この間の鹿児島地裁仮処分申立却下決定などでの「新規制基準は合理的であり、原発事故の危険性は社会通念上無視し得るものであり、人格権の侵害にあたらない」との非理論的かつ恣意的な〈司法判断〉の欺瞞性を大衆的に暴露していくことが重要だ(注3)

原発維持・運転再開路線を破綻に

三反園鹿児島県知事は8月19日、事故時の避難経路を視察し、県広域避難計画の再検討の必要性を明らかにし、8月26日、九州電力に「川内原発一時停止」の申し入れをおこなった。
運転中の原発を停止させる法的権限は、原子炉等規制法で原子力規制委員会にあるが、定期点検後の運転再開をめぐっては、三反園知事が「発電所周辺地域住民の安全確保および環境保全のための万全の措置を講じる」との九電との安全協定の内容に基づき、運転再開に同意しないと表明することは可能である。これにたいして九電が「安全協定には法的拘束力はない」と知事の不同意を無視して運転再開を強行すれば全県民的怒りが必ず爆発するだろう。
そもそも「3・11」以前においても、当時それが形式的であったにせよ、原発立地県知事の同意をぬきにして運転再開を強行した例は皆無である。
安倍政権や各電力会社は、鹿児島県知事選挙で示された「同意強行した現職知事の落選」や、大津地裁決定で示された「司法リスク」に新たに直面せざるをえなくなった。それゆえ、10月16日投票の新潟県知事選挙で、「福島原発事故の原因の検証ぬきに、柏崎刈羽原発の再稼働はそもそも議論しない」との立場を一貫して主張している泉田裕彦新潟県知事を引きずりおろそうと画策しているのだ。
これに呼応して、原子力規制委員会は、この間20年延長認可審査を優先し、中断していた柏崎刈羽原発6・7号機の新規制基準適合審査を再び優先審査し、年末には「合格」をだそうとしている。
新潟県知事選挙での泉田知事の再選を支持・支援し、国の目論見を頓挫させよう。原子力規制委員会にたいし、全原発の基準地震動の再検証と20年運転延長認可の撤回を求めてたたかおう。
安倍政権が強引に進める原発維持・運転再開路線に破綻を強制し、安倍政権打倒、全原発廃炉への道をきりひらこう。

(注1)MOX燃料16体装荷。MOX燃料は核分裂反応制御が非常に難しく不安定である。にもかかわらずプルサーマル運転は新規制基準の審査対象外であり、また使用済みMOX燃料再処理技術はいまだ解決されていない。
(注2)この手法で再計算した結果、各原発の基準地震動やクリフエッジ(原子炉圧力容器の破壊がさけられない地震動の限界値)を超えるとの結果が明らかとなっている。
(注3)法廷内で司法判断をめぐる具体的な論理的展開の内容については、伊方原発3号機運転差止仮処分申立「準備書面(一)」を参照。伊方原発をとめる会のHPからダウンロードできる。

5面

経産省前テント 強制撤去
未明の急襲 8月21日

テントのあった経済産業省の一角で抗議行動
(8月21日 午後)

7月末の最高裁不当判決以降、強制撤去近しの緊張感の中に経産省前テントはあった。8月21日、午前3時40分、多数の民間ガードマンを伴う総勢百人を超える執行部隊がテントを急襲。責任者や弁護士の立会いを認めることなく、その場に居合わせたメンバーを即座に排除した。そして約5年間首都・東京のど真ん中で反原発の砦として存在し続けたテントを奪取し去ったのだ。
この日の内に、〈経産省前テントひろば〉は記者会見を挟んで3回の抗議行動を、封鎖されたテント広場跡地前で展開し、のべ数百人が駆けつけた。この日の悔しさは全国に広がる原発への怒りを増しただけに終わるであろう。
9月11日には、「脱原発9・11怒りのフェスティバル 〜 テント設立5周年〜 経産省前テントひろば主催」が、経産省周囲一帯、経産省本館正門前周辺、経産省別館資源エネルギー庁前周辺でひらかれる。

平和を求める具体的とりくみ
8・5平和祈念のつどい・東大阪

8月5日、東大阪市役所と府立図書館の間にある平和祈念公園(春宮公園)で第1回平和祈念のつどい・東大阪がおこなわれた。
遠巻きではあるがじっと耳を傾ける若い人たちや、つどいの趣旨を知り、最後に平和の女神像前にキャンドルライトを置く行動があることを知ると、その時間帯に「友達を呼んでくる」という人もいた。参加した延べ人数は300人近かったのではないだろうか。

地域から声をあげる

今回のつどいは、戦争法の強行可決や国会で改憲勢力が3分の2を占めるなど、きなくさい社会状況が生まれてきている中で、自分たちの住んでいる東大阪でなんとかしたいと思っている人たちが立場の違いを超え、ひとつになって集まっていこうということで取り組まれた。
沖縄と福島に足を運んだ若い詩人、ハープのような楽器のライヤーを演奏する人、東大阪の民族教育の根幹を作った元教員の語る戦争体験、原爆詩の朗読、生野区からきた若いウクレレ奏者。第1部はこういう人たちでおこなわれた。

平和都市宣言の街

第2部は東大阪市の平和都市宣言の朗読から始まった。司会の在日の若い女性は、市民の手による、新たな東大阪の平和への取り組みをはじめようと提起した。
代表の胡桃沢さんは、自衛官を求めるテレビCMが始まったことを指摘し、戦争はいやだ、平和がいいということをなかなか言えなくなってきているときだからこそ、大きな声で戦争はいけないということを堂々と言えたほうがよいと提起した。

平和への思い

広島で被爆した84歳の東大阪国保と健康を守る会の会員から、原爆資料館の資料だけでは当時の状況をとても伝えられていない、あの恐ろしい体験をした者として自分が被爆体験を語らねばならないと強く思っていることが代読で伝えられた。
放射性物質に不安を抱く東大阪の女性は東北から避難してきたお母さんたちと学校給食の食材について行政と話をしているという。自然災害は止められないけれども、原発と戦争は止められると訴えた。
立場の違いを超えて集まっている在日青年によるサムルノリの後、日本軍「慰安婦」問題、ヘイトスピーチとのたたかいなどたくさんの企画がおこなわれ、イムジンガンが歌われた。
最後に「長崎の鐘」がエレクトーンで生演奏される中、キャンドルライトが次々と平和の女神像の前に置かれていった。私もキャンドルライトを置きながら、多くの参加者とともに平和への思いを重ねていった。(三船二郎)

〈読者からの手紙〉
森川数馬『21世紀の貧困と国家改造』を読んで
(本紙199号〜200号に掲載

この論文にかんする本筋的考察は、ぼくの任ではないので、ここではこの論文における「哲学」の用法について若干の異を唱えるにとどめたい。そしてその用法とは、新自由主義が哲学と位置づけられていること、さらにアメリカの最低賃金をめぐる新たな運動の内に新自由主義にかわる新たな哲学を見ようとしていることである。若干の異とは、これらの用法が完全に間違いであり、この問題がある種深刻な問題を含意しているということである。
新自由主義を唱える論者にとって、例えば新自由主義を正当化するための哲学といったものはあり得る。しかし新自由主義それ自体は、時間的にとらえれば世界秩序における一時代なのであり、構造的にとらえるならば、世界秩序における一体系なのである。またアメリカの新たな運動の内に見るべきものは、新たな哲学ではなく、新たな方法の体系なのである。この運動について、その哲学を語るのであれば、それは99%の自己解放の思想といえるのではないか。何故ならば、この視点からはじめて、この新たな方法の体系はその正当性を持ち得るからである。その意味で、この思想は労働者階級なるものの自己解放の思想であるいわゆる「マルクス主義」に通じるものであり、決して新しいものではないのである。
すなわち森川論文の「哲学」という語の使い方の誤りは、本来、正当化をはじめとするメタ次元での議論について使うべき「哲学」を、一つの時代、一つの体系、一つの方法体系という事実次元で用いている点にある。それは、カントの用語を用いれば、権利問題と事実問題の混同であり、ヒュームの用語を用いれば、イズ・オート・ファラシー(事実についての議論から「何々すべし」を導く誤り)である。
さて我々はかつて、対カクマル戦争を黒田哲学の論破でもって終えるという誤りをおかした。事実問題である対カクマル戦争は、物的実体としてのカクマルを打倒することなくして、その終結はあり得ない。にもかかわらず、カクマルの存在・運動を正当化する黒田哲学(これ自体いかさまだ)を論破(そもそも哲学に論破はあり得ない)したと称して(仲山論文のメチャクチャさを最初に指摘したのは故白井朗同志である)、事実問題としての対カクマル戦を終えたのであるから、正当化の文脈(すなわち権利問題)と事実の文脈(すなわち事実問題)の混同がなされている。すなわち、ここにも森川論文の誤りがあるのである。
対カクマル戦争終結における誤りの深刻な帰結を考える時、森川論文における同様の誤りをただ単なる語句の問題として看過できず、一文を書きました。(安孫子悟)

投稿
核と戦争が凝縮する8月6日

8月6日、11時過ぎに着き平和公園を回ると、高校生が被爆のもようを英語で演じていた。ベトナム帰還兵アレン・ネルソンさんのことを1人芝居する人、外国からの人々を案内する学生たち、慰霊碑を回る労働組合の青年部。学徒動員の碑、学校名をさすりながら涙を流す女性。沖縄を訴える女性たち。さまざまな人が、8月6日のヒロシマにいた。中曽根の句碑に抗議の川柳が何本もかけられている。
その後「平和の夕べ」に参加。12歳で被爆した池田精子さん。死の淵から抜け出した後、病気とケロイド、差別から自死へ追いつめられたが、両親の愛情に支えられ生きることができたと。訪米したとき、高校生たちが「原爆は戦争を終わらせるためと学んできた。何も知らなかった。私の国があなたたちを苦しめた。ごめんなさい」と抱きしめてくれた。何度も政府に足を運び、ビキニで被爆した久保山愛吉さんらとともに原水禁第1回世界大会にこぎつけたことなど、思いをこめて語った。福島から母子避難中の森松明希子さんは、「被爆者の体験、たたかいを聞き、あらためて福島の大事故、避難を考えていく」と話した。
翌日は30人余が参加し、勤労奉仕の兄を亡くした知人の案内でいくつかの慰霊碑、資料館にある黒焦げの弁当箱を見せてもらった。恥ずかしながらはじめて朝鮮人被爆者の碑を訪ね、峠三吉の碑や正確な「爆心地」とされる島病院、生き残ったアオギリの樹などを見ることができた。「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さき頭の骨あつまれり」と書かれた国民学校の碑に涙が出た。原爆を落とした国の大統領の広島訪問。側近が「核のボタンの鞄」を広島に持ち込む政治と、彼が折った鶴とは何か。
6日の夜は、灯籠流しに行った。組合の仲間は「いつも早朝出発、集会、深夜に帰るあわただしい日程でなく、ゆっくりヒロシマに接することができてよかった。来年も行きたいね」と。それまでに「3分の2」勢力をとった安倍の改憲策動を阻みたい。
(村田 誠)

投稿
「消された家族」の前で動けず

就任早々の稲田防衛相の「常時迎撃態勢に」発言やら高江工事の強行姿勢やらを重ねると、緊急事態条項の先取り既成事実化を思わされます。71年前の惨状が現実味を増し、戦慄を覚えていました。
参院選の結果とその後の事態が、日を追う毎にボディブローのように効いてくる感じをなかなか振り払えずにいましたが、9回目という「ヒロシマ平和の夕べ」に参加し、多くの皆さんに接することができてよかったです。その後の、寺町のお墓群の見学と交流会では秋田明大さんにお会いでき、川口まゆみさんの歌で昂揚してしまいました!
身近で見知った人に誘われたおかげで、これまでの「一般化されたヒロシマ」とは違う色あいを濃く感じることができ、新鮮でした。平和公園案内と「弁当箱」の直接のお話、広島2中慰霊碑、義勇隊の碑(名前は変えた方がいいのでは…)は、大きなインパクトでした。資料館で見た特別展「消された家族」写真の前で、しばらく動けませんでした。これらの「物」の意味合いは物にとどまらず、私たちに「人が社会化されることで分断された砂粒のようなモナド(単子)から脱し得る」ことを問うのか、思うところ大でした。(雑賀裕子)

6面

安倍政権を支える日本会議
この間の出版物の紹介をかねて

日本会議を公然と批判する本が相次いで出版されている。日本会議は、5月1日に菅野完の『日本会議の研究』(扶桑社新書)が出版されると、すぐに「事実誤認多数」と言いがかりを付けて、「出版差し止め」を求めた。しかしこの「出版妨害」がかえってこの本を世に知らしめることとなり、日本会議批判が「解禁」状態となったのは皮肉と言わざるをえない。

右翼学生運動が母体

菅野本の成功した点は、広範な宗教団体や保守系文化人を束ねる「日本最大の保守派組織」の全体像をとらえ、その中枢部が70年安保闘争を前後する時期、長崎大学で反全学連・反全共闘運動を担った「生長の家」の学生組織出身者であることを暴露したことだ。
菅野は日本会議の事務総長・椛島有三、安倍政権のブレーンである伊藤哲夫・日本政策研究センター代表、内閣補佐官・衛藤晟一参議院議員、百地章日本大教授、高橋史朗明星大教授らが、「生長の家」の初代総裁・谷口雅春を信奉するグループであることを明らかにした。彼はこれを「一群の人びと」と呼ぶ。

押しつけ憲法論

日本会議を以前から追い続けてきたのは、「つくる会」教科書の採択に反対してきた人々。その一人、上杉聡は5月15日に『日本会議とは何か―「憲法改正」に突き進むカルト集団』(合同出版)を出版した。同じく長い間教科書問題に取り組んできた俵義文も『日本会議の全貌』(花伝社)を発行した。
「つくる会」が分裂し、その一方の育鵬社版教科書を日本会議が支えたことから、日本会議を追い始める。上杉は日本会議が広範な宗教団体を糾合し、「押し付け憲法論」による憲法改正の主張と同じ論理で、育鵬社版教科書の採択運動をおこなってきたことを暴露している。ここから学び『展望』18号の三船二郎論文は執筆された。

草の根保守運動

新聞・雑誌での批判・検証は、15年末の東京新聞の記事にはじまる。その後、朝日新聞、『週刊朝日』、『週刊金曜日』などが断続的に取り上げた。この中で出色は朝日新聞社発行『ジャーナリズム』(2016年5月号)の特集『存在増す「日本会議」、組織、人脈、行動 右派運動ってなんだろう?」である。単発ながら極右運動を追い続けてきた研究家などが論陣を張っている。特に草の根保守運動として正体を隠しながら「男女共同参画」などに反対してきた人脈に迫る山口智美と斉藤正美の対談は、今日のジャーナリズムの問題性も浮かびあがらせている。
またフリージャーナリストの魚住昭は、日本会議が自民党政治家と接触する過程を描いている。「生長の家」は玉置和郎参議院議員を生み、その後継者として村上正邦を育てた。「生長の家」は83年に政治活動から撤退するが、村上はその後も右翼政治家として自民党内で影響力を維持し、「参議院のドン」と言われた。
村上と椛島らが95年村山内閣時代に「戦後50年談話」をめぐり暗躍した様子や、93年のNHK番組改変事件で中川昭一や安倍晋三ら若手の右派議員と相互浸透していくさまは一読の価値がある。

「生長の家」の現在

「生長の家」は、今年7月参議院選挙では「安倍政権を支持しない」という声明を出した。『週刊金曜日』8月5日号で3代総裁である谷口雅宣は日本会議の中枢を占める椛島有三や衛藤晟一らを「(東西冷戦をもって時代は変わったのに)変化についていけない人々」と評している。また安倍政権にたいしては「善悪の区別ができない」と批判。
『週刊金曜日』で日本会議を追い続けてきた成澤宗男らは、日本会議内の巨大運動体である神社本庁に焦点をあて、『日本会議と神社本庁』(金曜日)を出している。
安倍政権との関係や自民党への浸透・政策実現について暴露し、日本会議のめざすものが戦前回帰であるとしたのが山崎雅弘の『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)だ。青木理『日本会議の正体』(平凡社新書)では、防衛大臣に就任した稲田朋美が「生長の家」の初代総裁・谷口雅春の著作をぼろぼろになるまで読んだというエピソードも紹介されている。青木の取材に、実質的な最高責任者=事務総長の椛島有三は応じなかった。

日本会議の弱点

日本会議や日本青年協議会の発行の文献は一般書店では手に入りにくいが、日本会議の役員たち(右派文化人、宗教団体役員など)の言動は、産経新聞や『正論』などで目にすることができる。しかしその主張は、歴史修正主義と「押し付け憲法」のステレオタイプ主張で読むに値しない。
日本会議の中心人物である椛島有三らはインタビューに決して応じない。それは日本会議の出自が、70年安保闘争の高揚への対抗から出発した右翼学生集団であることを隠すためである。彼らの弱点は、このいかがわしい正体に光を当てられ、表に引き出され批判されることなのだ。(城戸雄二)