新基地阻止へ 伊波さん大勝利
参院選沖縄県 島尻候補に10万票超の大差
2面に「主張 参院選は何を示したか」
新基地は断念せよ名護市内で市民に訴える伊波洋一さん(中央)左は稲嶺名護市長(6月29日) |
参議院選挙沖縄北部での取り組みは、県議選の影響で地域にばらつきがあった。国頭選挙区では、県議選の勝利の勢いで、県議選後すぐに取り組まれた。名護選挙区は県議選が無投票であったので遅れた。勝手連も告示前の6月21日に名護市内のど真ん中に事務所(稲嶺選挙と同じ)を構えた。
22日の告示日から街頭に立った。数人で朝立ちから始めた。初日であるのに市民の反応が非常にいい。手を振る人、クラクションを鳴らす人。市民のイハさんに期待する力を感じた。
イハ候補は、那覇市内で出発式をおこない、街頭での第1声はキャンプ・シュワブのゲート前でおこなった。ゲート前には座り込みの市民200人が「イハ」コールで迎えた。イハさんは「辺野古新基地建設阻止」を力強く訴えた。
その後、名護市役所前に移動。名護市民100人が集まりイハさんとがっちりと握手を交わした。イハさんはその後、北部の各地を回った。
29日、名護市内での街頭演説会には200人の市民が集まった。市民の関心は徐々に高まってくる。
勝手連は、朝立ちと夕立ち、その間は名護市内を銀輪隊で走り回った。日中の気温33度という日が続いたが、手を振ってくれる人に勇気をもらい走り回った。海上行動隊やゲート前座り込みの仲間がそれぞれの行動に参加してくれた。事務所での休憩時には、市民の反応に花が咲き、真っ黒に日焼けした顔に笑顔がはじけた。
事務所には市民が駆けつけた。米軍属に殺害された女性の遺族も訪れた。「彼女は今年成人式を迎えた。本当の大人の一歩は選挙で投票することと言っていた。今度の参議院選を楽しみにしていた。」「遺族はいま動けないが頑張ってほしい。できることはしたい」と言って名刺100枚を持って帰った。選挙戦中盤、入り口でVサインをする60代の男性がいたので「お互いに頑張りましょう」と声をかけると「2票入れてきましたよ」と笑顔いっぱいで応えた。また、70代の男性はこれから期日前投票に行ってきますと投票所入場券を見せ「今回は勝ちますよ」と拳を握りしめた。
福島瑞穂さんがキャンプ・シュワブと名護市役所前で、イハ候補の勝利と比例で自らの勝利を訴えた。
相手候補は宣伝カー10台を用意。北部地域をくまなく回る。名護市内でもやかましいくらいに走り回っていた。私たちが手振り行動をしていても、音量を落とすことなく、逆に音を大きくした。何人かの市民は「やかましい、何度も来てうるさい」「金があるので、性能のいいマイクを使って隅々まで響き渡る」と逆効果になっていると言っていた。
選挙戦終盤には、稲嶺後援会の女性部が、勝手連と一緒に行動した。7月3日、日曜日の攻防に若者も参加した。名桜大の若者は、玉城愛さんを中心に朝立ちや、名護市内の道ジュネ(練り歩き)をおこなった。三線を弾き、イハさんの顔のパネルを掲げて練り歩いた。
打ち上げ式は名護市内の青山交差点で。沖縄特有のスコールに300人の市民はずぶ濡れになりながらもイハさん勝利に向け最後の訴えをおこなった。
10日の投開票日、それぞれの場所で結果を待った。投票締め切り後、午後8時過ぎにイハさんの勝利が報道された。直ちに電話やメールで関係者に知らせた。島尻氏に10万6400票の大差をつける勝利だった。(杉山)
三里塚闘争50周年 7・3東京集会
農地死守 新たな闘いへ
50周年を記念し、会場に630人がつめかけた (7月3日都内) |
7月3日、都内で「―三里塚闘争50周年! これからも闘うぞ― 農地を守り、沖縄・福島と結ぶ7・3東京集会」がおこなわれ、630人が参加した。
成田空港建設に反対する三里塚闘争が、今年で50年目を迎える。1966年7月4日、当時の佐藤栄作内閣は新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚とすることを閣議決定した。三里塚と芝山町の農民たちは、ただちに三里塚芝山連合空港反対同盟を結成して空港建設反対運動を開始した。
買収に応じない農民にたいして警察・機動隊の暴力で襲いかかる政府・空港公団にたいして実力闘争で抵抗する反対同盟農民の姿は、日本中に衝撃をもたらすとともに、たたかう農民への広範な共感を呼び起こした。60年代末から70年代にかけて、三里塚闘争は国家権力の横暴に立ちはだかる人民の砦となった。
成田空港は、1978年、滑走路1本のみで開港を強行するが、空港の完成は阻まれてきた。ところが、2000年代に入って政府と成田空港会社は、空港敷地内で営農をつづける市東孝雄さんの農地の強奪に乗り出してきた。その背景にはグローバリゼーションの進展のなかで日本経済の浮沈をかけた巨大プロジェクトとして「成田空港の完成」を位置づけたのはまちがいない。同時に、それはTPPに見られる日本農業の切り捨てと表裏一体のものであることを市東さんにたいする農地強奪攻撃ははっきりと示した。
1971年、第一次強制代執行を迎え撃った三里塚農民は、その拠点となった農民放送塔に「日本農民の名において収用を拒否する」というスローガンを大書して掲げた。今回の50周年集会で、反対同盟は沖縄と福島との連帯を強くアピールした。それは「日本農民の存亡をかけたたたかい」としての三里塚闘争の新たな出発を印象づけた。
集会は前半の司会が反対同盟の萩原富夫さん。後半が、同じく木内敦子さん。北原鉱治反対同盟事務局長のメッセージが読み上げられた。ゲスト・スピーカーとして新崎盛吾さん(共同通信記者)と天笠啓祐さん(環境ジャーナリスト)が講演。労働組合から動労千葉、連帯労組関西地区生コン支部。沖縄からヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さん、福島からは佐藤幸子さんなどが発言した。
農地は命、耕す者に権利あり
三里塚芝山連合空港反対同盟 市東孝雄さん
「沖縄・福島と結ぶ三里塚闘争50年」。あらためて50年ということを考えてみますと、反対同盟の「農地死守」「軍事空港反対」は諸先輩の偉大なたたかいだとあらためて思っています。
私はまだ3分の1くらいしか携わっていませんけれども、この10年、私の農地問題でほんとうに皆様にお世話になっています。
あらためて言うのもなんですが、私は農業が好きです。誰にも文句も言われず100年やってきた土地です。それを「空港をつくるからどけ」という攻撃がかかってきたわけですが、やっぱりそれは絶対に譲れない。農地は命だ、耕す者に権利あり、そのことを改めて問いたいと思います。
これからも天神峰で、出来るだけ長く農業をし、空港反対もたたかい、今の安倍政権をひっくり返すようなたたかいを三里塚現地からあげていきたいと思います。みなさま、これからもよろしくお願いいたします。
2面
主張
参院選は何を示したか
安倍政治との闘いの展望
7月10日投開票がおこなわれた第24回参議院選挙によって、自民党、公明党、おおさか維新の会、日本のこころを大切にする党の改憲4党の議席が161議席となった。これに無所属で改憲に積極的な姿勢を示している井上義行(比例区)、松沢成文(神奈川選挙区)、渡辺美知太郎(比例区)などを加えれば、憲法改正発議に必要な3分の2議席(162議席)を上回る。
戦後、改憲勢力が衆参両院で3分の2以上を占めるのは初めてのことであり、今回の参院選はきわめてきびしい結果に終わったと言わなければならない。自民党は比例区で2011万票を獲得し、「小泉旋風」が吹き荒れた01年以来となる2千万票超えとなった。
しかしこれをもって、単純に安倍政権への支持が高まったと言うことはできない。確かに自民党の比例区の絶対得票率(全有権者に占める割合)は、前回(13年)の18%から19%へと1ポイント上昇しているが、改選議席の占有率は、前回の54%から46%へと8ポイントも低下している。それは野党共闘と自民党との一騎打ちがいかに激しいたたかいであったのかを物語っている。
東北の「反乱」
民進党、共産党、社民党、生活の党と山本太郎となかまたちの野党4党は、改憲勢力3分の2を阻止するために32の1人区すべてで野党統一候補を押し立ててたたかった。結果11の選挙区で野党共闘は勝利をかちとった。前回(13年)選挙の1人区では自民党が29勝2敗と圧勝していたことや、今回自民党と激戦になるのは12選挙区と予想されていたことなどを考えると、野党共闘の成果は十分に発揮されたといっていい。
とくに沖縄と福島で現職閣僚を落選させたことは重要な意義を持っている。与党が選挙の争点化から逃げ回っていた新基地建設問題と原発事故問題で、住民は明確に安倍政権を否認したのである。
また今回の注目すべきは、北海道・東北の選挙結果である。北海道では3議席中、2議席が民進で、自民が獲得したのは1議席のみだった。東北では青森、岩手、宮城、山形、福島の5つの選挙区で野党共闘が勝利。自民は辛うじて秋田で1議席を確保したのにとどまった。なかでも自民の牙城といわれていた青森の「陥落」は衝撃的な事態である。
「地殻変動」
これ以外に大激戦となったのが新潟選挙区である。安倍は選挙期間中、3度も新潟入りして現職の自民候補を応援した。与党の異例ともいえる力の入れようにもかかわらず、わずか2279票差で接戦を制したのは、市民グループと野党共闘が推した森裕子氏だった。
この選挙戦について新潟日報のインタビューに答えた越智敏夫新潟国際情報大教授は、「自民党の選挙とは思えない負け方が印象的だった」と語り、「(自民党の)地方組織の変質が起きているのではないか」と指摘している。
東日本大震災の甚大な被害を受けた各県では、安倍政権の被災地切り捨て政策への怒りが渦巻いていることがはっきりと示された。さらにTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)による農産物自由化によって農業(酪農)を軸とした地域の経済・社会が破壊されることにたいする強い危機感が噴出した。
自民党は参院選のスローガンに「この道を。力強く、前へ。」を掲げたが、北海道や東北は、それをきっぱりと拒否したのである。沖縄では「保守対革新」という従来の枠組みから「オール沖縄 対 安倍政権」へとその政治構図が大きく変動した。これと同様の政治的な地殻変動が進行していると見てよい。
また同日おこなわれた鹿児島県知事選挙で、候補の一本化によって、川内原発の停止を掲げた三反園訓氏が現職を8万票以上の大差で破って当選したことも特筆すべきであろう。
限界を超えた怒り
安倍は選挙後、早くも憲法審査会を動かして、改憲に向けて踏みだすことを公言している。「緊急事態条項」が焦点となるのはまちがいないだろう。
さらに重大なのは現在、自衛隊をPKO派兵している南スーダンで大統領派と副大統領派の内戦が激化していることである。首都ジュバなどで激しい戦闘がおこなわれ、多くの死者が出ているにもかかわらず、政府は「武力紛争ではない」とうそぶいて、自衛隊派兵を継続している。白を黒と言いくるめて、なし崩しで自衛隊の武力行使に踏み込もうとしているのは明らかだ。
内政においても問題は山積している。安倍政権は、選挙過程では封印してきた社会保障の大幅な縮小に着手しようとしている。TPP交渉によって、医療保険や医薬品などで米系資本に都合のよいルールが導入されることになれば、日本の医療制度と国民健康保険制度が崩壊に向かいかねない。
また労働にかんする規制緩和も重大問題である。安倍政権は労働基準法を改悪して、「残業代ゼロ」を導入しようとしている。過労死地獄に拍車をかける最悪の施策である。
まさに安倍のかかげる「この道」の行き着く先は、そこに生きる人びとが耐えることができない生活を強制される社会であることはまちがいない。
6月19日におこなわれた沖縄県民大会で「怒りは限界を超えた」というスローガンが掲げられたのはまさにそのことをさしている。参院選では北海道や東北でも住民の我慢が限界に達していることが示された。「もうこれ以上安倍の好き勝手にはさせない」という人びとの思いを政治的に結集する枠組みが生みだされたのである。
これからの課題
もちろん、野党共闘の「改憲3分の2阻止」という最大の目標が達成できなかったことはきびしく総括しなければならない。とくに関西の2府4県においては、京都で民進党が1議席を確保したが、残る11議席は改憲政党に奪われた。大阪や兵庫では現状に不満を持つ人びとの支持がおおさか維新に流れた。単純に共闘で票を足し算すれば勝てるというものではないことが突き付けられた。安倍政権の「この道」に代わる社会をどのようにして作っていくのかということが問われている。
こうした点を踏まえた上で、昨年の戦争法反対闘争をたたかった市民運動が、野党共闘を成立させたことは決定的な意義があった。その全国的な枠組みが成立したことによって、安保、憲法、原発、TPP、社会保障、農業問題などさまざまな課題に取り組んできた人びとが合流し、政治的な内容が豊富化された。既成政党と市民・住民が共同して新たな政治を作り出す取り組みが始まった。自民党は野党共闘を「野合」と批判したが、的外れである。選挙戦の主役は政党ではなく、市民・住民たちと、その運動である。(汐崎恭介)
憲法に「停止ボタン」をつける
永嶋靖久弁護士 緊急事態条項の意味
7月6日、大阪市内でひらかれた「戦争あかん! ロックアクション」での永嶋靖久弁護士の発言を紹介する。(文責、見出し本紙編集委員会。写真は5月21日、大阪市内の集会で)
憲法に「停止ボタン」をつける、それが緊急事態条項の意味です。それを押すと、憲法が音を立てて止まってしまう。安倍晋三は、いつでもその停止ボタンを押せるものだと考えて下さい。
4年前に自民党が発表した『日本国憲法改正草案』(以下、改憲草案)には、今の憲法にない緊急事態条項というのがあります。一定の場合に、内閣総理大臣は緊急事態を宣言できる。
緊急事態を宣言するとどうなるか。内閣は、国会がつくった法律と同じ効力を持つ「政令=政府の命令」をつくることができるようになります。内閣は財政上の支出、その他必要な処分をおこない、地方自治体の長に必要な指示を出すことができる。何人もだれでも皆、国あるいは公共機関、市役所だとか消防だとか警察の指示に従わなければならない。
政府が法律を無視する
今の憲法では、一番上に憲法があって、憲法に違反しないように法律を国会がつくって、その法律に違反しないように内閣は政府の命令をつくって行政をおこなうとなっています。
では、内閣が、「法律と同じ効力を持つ、政府の命令」を作るとはどういうことか。それは政府が今まで作られた法律を無視してもよいということ。法律に従うことなく行政をおこなうことができる。
戦争法や盗聴法改悪は、あのような国会でも通すのに政府は大変苦労しました。今後は緊急事態を宣言してしまえば、そんな苦労は一切なくなる。共謀罪も、法律を作らなくても、国会で議論しなくても、政府の命令で作ってしまうことができる。それが「緊急事態」です。
憲法の停止
改憲草案には「緊急事態の政府の命令は国民の基本的人権を尊重しないといけない」、そういうふうにわざわざ書いてあります。まさに基本的人権を侵害するからです。
緊急事態を宣言すると、国民の人権を市民の人権を侵害しているかどうか、安倍晋三が判断する。まさに「憲法の停止」と言うしかない。
では、どんな時に憲法の停止ボタンを押せるのか。改憲草案では「外国からの武力攻撃、内乱など社会秩序の混乱、大地震など大規模な自然災害、その他法律が定める場合に緊急事態を宣言する」となっています。戦争、内乱、災害、その他法律で決める場合、国会で、去年戦争法を決めたみたいにどつきあいをして、たとえば日本海にミサイルが飛んだ、地下鉄でサリンがまかれた、ストライキやデモやインフルエンザ、そういうときに憲法を停止できる、そう決めることが可能になります。
そもそも今はもう、日本という国では日本版NSC(国家安全保障会議)が密室のなかで、どういう理由でなのか誰にも明らかにしないまま戦争を始めることができるわけです。
戦争を始めてしまえば、憲法の停止ボタンを押せる、そういうふうに憲法を変えようとしている。
いかに憲法を壊すか
熊本地震の時に菅官房長官が緊急事態条項の話をしました。しかし、憲法が大規模な災害の対策に邪魔ですか? 東北大震災の時のようなことが起これば、憲法を停止しないといけないのでしょうか。そんなことは絶対にないと思います。
4年前、(選挙で)自民党が勝ったときに、まず最初に96条改憲というのを持ち出しました。これは改憲の手続きを、今だと国会の3分の2が必要だけれどもそれを2分の1にして、もっと簡単に憲法を変えましょうと、そういう提案をした。これが、めちゃくちゃ評判悪いからいつのまにか消えてしまって、次にしたのは、閣議で憲法の解釈を変えて戦争法をつくる。これもめちゃくちゃ評判が悪くて、10何万人もが国会を取り囲んだ。
それで出てきたのが「憲法の停止」だったんです。結局この議論は、どこからどうやってこの憲法を壊してしまうか、そういう議論でしかないということをはっきり頭に入れておかないといけない。
3面
ドキュメント自衛隊裁判 反戦自衛官 小多基実夫
陸自・島田一尉の不屈のたたかい(下)
陸上自衛隊で「藍綬褒章叙勲」をめぐる不正業務を拒否しその改善のために尽力したことを理由に懲戒処分を受け、その処分取り消しと真相解明を求めて裁判闘争にたちあがった島田雄一・一等陸尉(44歳)。その不屈のたたかいを反戦自衛官・小多基実夫さんが、『反軍通信』でレポートした。その記事を前号に続いて掲載する。
12・17東京高裁の「結審」弾劾!自衛隊の意を汲んだ「審理拒否=門前払い」を許さないぞ! 島田一尉 褒章制度裁判
『反軍通信』299号 2015年1月
12月17日(水)15:00東京高裁民事20部(山田俊雄 裁判長)は、島田一尉の「褒章制度不正裁判」控訴審の第一回口頭弁論において、一切の審理を拒否して早々と結審し、1月28日(水)13:30の判決を指定した。
同裁判は、9月11日に東京地裁で一審判決が出たばかり【298号既報】であり、まず公益通報に対する弾圧の実態解明こそが第一の攻防であった。
控訴人(原告・島田一尉側)が申立てた『文書提出命令』と『調査嘱託』はいずれも真相解明には不可欠な証拠である。
防衛省は、これらの却下を求めて「意見書」を出したが、その内容たるや、一審で自らが有利になるものを選んで何通かを証拠として提出しているにも関わらず、今回申請されたものについては「作成されていたとしても既に保存期間が過ぎており、申し立て文書はいずれも存在が確認できない」という無責任な主張であった。
「存在したか否か」という事実は、『破棄簿』を見れば一目瞭然であるにも関わらず「確認できない」と言い張る防衛省の姿は、「たちかぜ裁判」で証拠を破棄したと嘘の証言を繰り返して敗訴し、幕僚長の公式謝罪にまで追い込まれた自衛隊が、結局何の反省もできずに同じ犯罪を繰り返すという自浄作用のなさを浮き彫りにした。
このような自衛隊に対し高裁は、防衛省の言うままに『文書提出命令』『調査嘱託』のいずれも「その必要性を認めない」と却下し、即結審したのである。
自衛隊も高裁も逃げるな
1月28日判決へ!
そもそも島田一尉が部隊及び上官の不正に対して公然と抵抗を宣言して実力行使を開始したのは07年9月からであるが、自衛隊は配置転換など嫌がらせを繰り返すものの正式な処分の検討は09年8月まで着手すらされず、2年間にわたって放置されてきた。
否、公式に問題になることから逃げ回っていたのである。
なぜか? 自衛隊に染み込んだ「隠蔽体質」と「ことなかれ主義」だけが理由ではない。
一自衛官が自衛隊という組織を裁判所に引っ張り出して公開の場で問題にすることからの逃亡である。自民党改憲案が国防軍への審判所(軍法会議)の設置を求める理由の一つも同じである。しかも相手は自衛隊の実情を知り尽くしている幹部自衛官の一尉(一般にいう大尉)である。
さらに、事は天皇に関わる「褒章制度」の不正運用をめぐる問題である。
集団的自衛権の行使として自衛隊の戦地派兵が迫ってきている今日、褒章制度は自衛官の戦死とその行為を称える弔慰の問題という形で「国家と兵士の戦死」「人民と天皇と戦死」という問題を白日のもとにさらすことになり、当然これは自衛官と家族の関心を大いに集めることとなる。
裁判という公開の場での論争から逃亡を決め込む自衛隊と裁判所が共に最も恐れているのは、この問題への人民と自衛官による審判なのである。
門前払いの本質は、「このような裁判は直視できない。一刻も早く無くしたい。」という小官僚の悲鳴なのである。
判決に結集して、島田一尉、弁護団と共に闘おう。
島田裁判に控訴審判決 「公益通報」への報復を追認
1月28日 東京高裁
『反軍通信』300号 2015年4月
東京高裁民事20部(山田俊雄 裁判長)は、たった1度の法廷だけで何ひとつ審理も行わず、「請求には理由がない」と島田一尉の請求を棄却した。
処分の不当性を立証する「文書提出命令」の申し立てをすべて却下し、一審判決を丸呑みしただけの無責任極まる判決である。
安倍政権による戦争国家化への堰を切った攻撃の中で闘われている本裁判の意義(特徴)は、@天皇の藍綬褒章叙勲に関することで、Aこの制度の自衛隊による活用実態とその不正運用が法廷で暴かれ、しかも内部告発した主体が現職幹部自衛官、Bその報復処分に対し、撤回と賠償を求める裁判である。(自衛隊の一方的な主張を追認しただけの一審判決及び控訴審について298―299号で既報) 裁判所はこの裁判の重さの前に屈服―加担しているのかもしれないが、そうであればなおさら許されない。島田一尉はただちに最高裁へ上告した。上告審へさらなるご支援をお願いします。
最高裁が島田一尉の上告を棄却
『反軍通信』304号 2016年4月
2月26日、最高裁は上告から1年1ヶ月の間、一切審理することなく放置しておいた島田一尉の上告に対し突然「棄却」を言い渡してきた。1936年の『2・26事件』からちょうど80年目のこの日に合わせたことからも極めて政治的意味を持たせた判決であると言える。
島田一尉の内部告発は、本紙(『反軍通信』※編集部注)298〜300号にあるように、自衛隊の不正腐敗を糺そうと「意見具申」「公益通報」等定められたあらゆる部内手続きを踏んで改善を訴えたものであるが、これを理由に自衛隊法46条違反(上官への反抗不服従)として停職6日の重懲戒処分の弾圧を加えられたのである。
公益通報により不正を指摘された当該組織が自ら「事実調査」を行い、不正を実行していると指摘された部署の幹部によって通報者が懲戒処分を受ける、という一連の経過を一審から最高裁までが全く審理をせず、ひたすら追認したものでもはや裁判の体をなしていない。「軍部の弾圧を追認するだけ」という軍法会議に先鞭をつけるものとして弾劾せねばならない。
公益通報できぬ自衛隊に警鐘鳴らす島田一尉
事実上「公益通報制度」を徹底的に無内容化したこの決定(判決)に対し、島田一尉は「国軍の暴走による第2の満州事変が起きた場合、どのようにして防ぐのか?」「集団的自衛権が施行される中、『飛んで来ていないミサイルを飛んで来た』と言い、『照射されてもいないレーダーを照射された』と言って開戦の口実にされた場合、公益通報なしで国民はどのように事実を掴むのか」、と不安を語る。
ベトナム戦争における「トンキン湾事件」、1990年湾岸戦争のきっかけとなった米下院公聴会での「少女の証言」、2003年イラク戦争での「大量破壊兵器」問題、これら米政府が世論を煽った開戦の理由はいずれも100%のデッチ上げであった。この情報操作で何万人が殺害されたことか。
一方、イラク戦争を例に取ってもアルグレイブ収容所での虐待事件、民間人・戦闘不能になった戦闘員への攻撃など、映像が軍隊内部から提供されたことで戦争の真相が一定程度明らかになったことは誰もが認めるところである。
告発した島田一尉を守り抜こう!
戦争体制へ突進する安倍政権の下で、「秘密保護法」に続いて「放送法問題」が取りざたされ、さらに情報統制の極限とも言うべき「国家緊急権」=憲法廃止を意味する非常事態法成立へと突き進んでいる。島田一尉の「警鐘乱打」は極めて重要である。
たとえ政府・自衛隊が開き直ろうと、たとえ裁判所が公益通報を踏みにじって弾圧を擁護しようとも、裁判は島田一尉の内部告発によって明らかになった自衛隊の不正・腐敗という事実そのものを1ミリも否定することができなかったのである。この意義は大きい。
更に、戦争国家に突き進む今日、島田一尉の渾身の決起を真に受けとめ、弾圧から守りぬくことによって「民衆の側に立って内部告発に立ち上がる兵士の道」が踏み固められるのである。戦争に駆り出される隊内兵士の危機感と生の声を広めていこう。(おわり)
関電 八木社長に申し入れ
原発はただちにやめて
6・26 高槻
6月26日、関西電力の八木社長(注)が住む大阪府高槻市上牧で「関電八木さん原発やめて 上牧パレード」がおこなわれ、地元の住民をはじめ、福井、滋賀、京都、兵庫、大阪府下などから45人が参加。
夏日を思わせる強い日差しの中、八木社長宅から歩いて2〜3分のところにある公園で集会は2時に始まった。最初に主催3団体からあいさつ。原発ゼロ上牧行動、とめよう原発!! 関西ネットワーク、脱原発高槻アクションの順で発言。
「関電八木社長への申し入れ書」を、地元の原発ゼロ上牧行動メンバーが読み上げ、代表2人が八木社長宅に向かう。全員が拍手で送りだした。
その間も集会は続き、関電株主総会に向けてのアピール、若狭連帯行動ネットワーク・久保良夫さん、脱原発! 金曜関電京都支店前(キンカン)抗議行動に参加している人、福井県から松田正さん、茨木金曜日行動の山下けいきさん(茨木市議)、地元の本澄寺住職が発言した。本澄寺では食品の放射線測定をしているという。最後に申し入れの報告。「チャイムを鳴らしたが出てこないので郵便受けに投函した」とのことだった。
パレードは、JR島本駅前(隣町・島本町)まで「地震は人にはとめられない 原発だったらとめられる」など原発反対を訴えて行進した(写真)。住宅街の中を通るので注目度は抜群。玄関先まで出てきて見ている人や、手を振る子どもたちも。
余談だが解散地点の公園は楠正成父子の別れにちなんだ像や碑が多く建てられていて、その像の台座に「滅私奉公」と大書されていた。なんで今、こんなものが残っているのかとびっくりした。再びこんな時代にしてはならない。(N)
(注)八木社長は、6月28日に開かれた株主総会で、社長を退き会長への就任が決まった。
4面
ルポ 南阿蘇でボランティア
求められる持続的な関係
職場の仲間と熊本へ
熊本地震発生から2カ月たった6月中頃の一週間、職場の仲間とともに、兵庫のボランティアグループに参加して熊本の被災地を訪ねた。そのボランティアグループは阪神大震災で活動をはじめ、東日本大震災の時も、東北の被災地で炊き出しなどの活動を何度もおこなってきたそうである。
今回のボランティア活動の日程は、夏休み前の梅雨時期、ボランティアが最も少なくなることが予想される時期ということで設定されていた。事前に、すでに現地入りして活動を続けているボランティア仲間(これまでの活動を通じて一定のネットワークが形成されているとのこと)からの情報を共有しつつ、また、被災地各地に立ち上がっているボランティアセンターとも連絡を取りながら計画された活動であった。
崩落し通行止めになった阿蘇大橋 |
南阿蘇村で活動
おもな活動地域は南阿蘇村。行政ともつながりながら独自の活動をしている復興支援センターを拠点に動いた。毎朝夕、損壊家屋、がれきの片付けなどの予定が張り出されたボードを確認しながらミーティング。その後それぞれの配置へ。
私たちは途中参加も含めて総勢15人のグループで、炊き出しやリラクゼーションなど独自にできる準備をしていたため、要請にしたがって、連日、避難所にもなっている温泉宿泊施設や、公民館などでそうした活動をおこなった。リラクゼーションは主に足のマッサージで、事前に講習を受けていた。現地で温泉を調達して足湯とセットでのマッサージは、心身ともに疲れている避難者の人々から好評を得て、その中でいろいろ話を聞かせてもらうことができた。
地震の恐怖を実感
もともと山歩きのガイドをやっていたという女性は、山があちこち崩落して今は立ち入ることができないことや、根子岳という山は形も変わっているように見えると言っていた。
晴れた時に見える阿蘇の山並みはすばらしい景観だったが、山肌が所々むきだしになっており、それが崩落の跡だと気づき、すさまじい規模の地震だったことをあらためて感じた。
山を崩し、形を変える。このような自然の力を直に見せつけられても、止まらなかったから止める必要ないと、川内原発を動かし続ける愚かさにも怒りを覚えた。
山の崩落は、その後予想される大雨で、地震では何とか持ちこたえた家屋も押し流す危険性があるため、そういう地域の人たちも避難を余儀なくされているとのことであった。
阿蘇大橋や、長陽大橋などが崩れたことも住民には大きな負担をかけているようだった。震災前は職場に通うのに車で20分だったところが、迂回のため山越えの道を走行しなければならなくなり、距離も時間も大幅に増え疲労度も一気に増したそうである。南阿蘇村からの買い物などは、大津町にいく機会が多く、これらの橋の再建の目途がたたないことで、今後もまだかなりの不便を強いられるようであった。
4月14日の前震から6月13日午後5時まで、震度1以上の地震を計1733回観測しているなか、そのように長く続く余震の恐怖を語る人も多くいた。熊本市内の避難所となっている小学校でも1日活動したが、そこには30世帯ぐらいが避難していた。
そこの避難者でボランティアもやっている女性は、家屋にそれほどの被害がなく、帰ることができる人たちでも、余震の恐怖に耐えきれず避難所にとどまっている人が少なくないことを話してくれた。前震から本震直後に味わった恐怖を、何度も繰り返し興奮気味に語る被災者もいた。
行政の対応に違和感
南阿蘇村のある地域の公民館での活動は、終日住民が絶えることなく訪ねてくれて、普段なかなか顔を合わすこともないのか、住民同士が和気藹々と近況を伝え合う交流の場になっていた。
私たちは、最初に書いたように炊き出しの準備もしていた。避難所では弁当が配られるが、温かい食事も求められているということを聞いていたからであった。
しかし5月に避難所で食中毒を出したことによるものと思われるが、避難所での炊き出しがほぼ禁止されているとのことで、その提供は結局できなかった。被災者が弁当以外の温かい食事を求めているのに、行政が硬直的に炊き出しを禁止することを批判するボランティアの声も聞いた。
私が直接見たことでは、熊本市内の避難所で夕食の弁当を配る際、行政の係と思われる者が、避難者一人一人にIDカードを示させて弁当を渡していて、避難者を管理対象にしているのではないかと違和感を持った。
継続的な支援へ
震度7を記録した本震から2カ月、6月14日付け熊本日日新聞は、その時点で、なお避難所での生活を余儀なくされている人は6400人と一面トップで報じていた。
現地では、屋根にブルーシートをかけた家があちこちにあり、被災直後のまま手つかずの倒壊家屋や、崩落したままの阿蘇大橋など、激しい被災状況が生々しさをとどめていた。被災者自身からも困難な状況をいくつも聞いた。
しかし地元以外では、熊本地震はもう過ぎ去ったような扱いになりつつあると思う。7月11日付け同じく熊本日日新聞には、ピーク時18万人に及んだ避難者は、5000人を下回ったとあった。仮設住宅への入居も順次始まっているようである。それはしかし逆にまだ5000人近い人が避難所生活を続けているし、仮設への入居も始まったばかりということである。ようやく再建の緒に着いた被災地との関係を引き続き持ちたいと思う。(影山正)
朝鮮高校の無償化を求めて
200回迎えた大阪府庁前行動
暑い日も、寒い日も
朝鮮高校への高校授業料無償化適用、大阪府・市の補助金支給の再開を求めて、毎週火曜日、夏の太陽が照りつける暑い日も、冬の凍える寒い日も、大阪府庁前に立ち続け、訴え続けたのはたった一つのこと。「等しく学ぶ権利をすべての子どもたちに」。
〈朝鮮高級学校無償化を求める連絡会・大阪〉の主催で、毎週火曜日、各ハッキョ(学校)を支える会や保護者、卒業生などが、府庁の昼休み時間12時から1時間、府の職員や道行く人々に、訴え続けています。2012年4月17日に始まった「火曜日行動」が6月21日、200回目を迎えました。この日は、大阪城公園教育塔前広場でアピール集会をおこない、大阪府庁周辺をミニパレードしました。
司会の「連絡会・大阪」の長崎由美子事務局長のあいさつで、「200回は記念すべきことではないが、あきらめないという気持ちで。明日は参院選の公示日、日本の政治が変わらないといけないという思いも込めてパレードします」と宣言して集会が始まりました。
弁護士会会長声明
火曜日行動とともに国・大阪府・市にたいして裁判を起こしています。弁護団を代表して木下裕一弁護士から、「外交問題を理由に自民党が朝鮮学校への補助金全面停止を指導するように求めていることにたいして、馳文科大臣に通達を出さないように、通達を受けても地方自治体はそれによって朝鮮学校への補助金をカットしないように求める弁護士会会長声明を大阪が最初に出しました。弁護士会の会長声明を全国に広げていきます。また日本弁護士連合会の会長声明を出させる方向で頑張っています。普段在日コリアンの問題を取り組まない弁護士も子どもの権利を守るということで補助金カットの動きに反対をするようがんばっています」と報告しました。
昼休み時間帯に府庁を一周するデモ行進 (6月21日 大阪市内) |
母親の怒り
続いて中大阪初中級学校のオモニは、「一世の思いとともにここに立っています。戦後70年、変わらぬ朝鮮韓国への植民地支配と、今もなおウリハッキョの子どもたちへの日本政府のいじめとも思える差別に、母親として子宮で怒っています。弁護団の先生はじめ日本のたくさんの有志の方々には頭が下がります。私たちはあまりにも差別されることに慣れすぎていたと思います。どんな小さな声も拾い上げてくれる政治家が出てくることを願ってあきらめずにいたい。自らヘイトをしておきながらヘイトスピーチ条例を施行している日本政府と大阪府・大阪市にたいして今日も大阪のおばちゃんらしく声をあげます。『気いつけや あんたのことやで その差別』。一日も早く火曜日行動を終わらせましょう」と訴えました。
日本国民に責任
生野初級学校のオモニは、「無念の気持ちで抗議行動に赴いています。いつまで続けていかなければならないのでしょうか。補助金の支給は地方自治にゆだねられています。日朝関係の悪化を背景に日本政府は、無償化から排除し、一部地方自治体の補助金も打ち切りや減額を誘発しています。そしてついには地方公共団体の補助金交付に直接介入してきました。これはまさに朝鮮学校で学ぶ子どもたちにたいする人権侵害であり民族差別です。人の心があれば常識的判断ができるのではないでしょうか。もう終わりにしませんか。お互い手を取り合って尊重しあいましょう。恨みを抱いていくよりも希望を見出していきませんか。子どもたちの学ぶ権利を守るのは私たちの責任です。主権者である日本国民こそ責任を果たさなければなりません。重い荷物を未来の子どもたちに託してはいけません。子どもたちに笑顔が戻らない限り、この行動を続け、支持者を増やし続けていきます。」と声をあげました。
アピール集会の後、300人の参加者は思いのこもったのぼりや横断幕、ゼッケンをつけて、「子どもたちの笑顔を守ろう」「無償化をすぐに適用せよ」「補助金カットを復活せよ」と声をあげて府庁周辺をデモ行進しました。
一日も早く火曜日行動を終わらせるのは、日本人の責任だと痛感しました。
(森山京子)
5面
被爆71年、8・6ヒロシマ平和の夕べ
8月6日(土)15時 本願寺広島別院・共命ホール(広島市中区寺町1―19)
平和講演―『絵で読む広島の原爆』那須正幹さん
被爆者運動―池田精子さん 福島5年―森松明希子さん
被爆71年「8・6ヒロシマ平和の夕べ」が開かれる。今年は広島・長崎71年、チェルノブイリ30年、福島5年の年。一方で広島、長崎の被爆者は多くが高齢となり、年々証言も難しくなっている。今年も、被爆証言を大切にする集まりになる。
会場になる本願寺広島別院・共命ホールは、爆心から約1キロ、寺町というお寺が集まった地区。あのときは死屍累々の町となった。そしていまは、それぞれのお寺の墓所に「8月6日没」の墓標、墓標、墓標が並ぶところである。
抑止力は幻想
平和講演は、那須正幹さん。那須さんは3歳のとき広島市内の自宅で被爆した。『ズッコケ三人組』シリーズの作者、児童文学作家として知られ、上関原発建設反対運動や「戦争をさせない・9条壊すな! 総がかり行動山口」の代表でもある。新聞のインタビューに「言論の自由が脅かされるような時代には、彼ら(ズッコケ三人組)が活躍する余地はないと思う」という。1996年には『絵で読む広島の原爆』を出版。今年上梓された『少年たちの戦場』について、「抑止力としての軍備は幻想。身近なものがすべて戦争に巻き込まれる」と話している。被爆体験とその継承、いま「戦争法」の時代に立ち向かう講演になるだろう。
被爆者運動の体験
もう一つのメインテーマは池田精子さんの証言と、福島から関西へ母子避難中の森松明希子さんの訴え。池田さんは6年前の「平和の夕べ」で、凄絶な被爆証言を語った。今回は戦後(被爆後)、占領軍による原爆報道への規制と被爆者運動への弾圧のもと、何度も夜行列車で上京し「被爆者援護」を求め官邸、厚生省(当時)、国会へ押しかけた、その被爆者運動の体験を聞く。初めて原爆被害者大会が開かれたのは1956年、被爆から11年後のこと。池田さんは、「きのうのように憶えている。それまで原爆という言葉はタブーだった。結婚しても非難される。手をとりあって泣きましたね。国会へ請願に行こう。白いタスキに着物、下駄、夜行列車で鳩山首相を訪ねた。この灼かれた姿を見ちゃってください、と。(10年が過ぎ、ようやく)集まらねばと被団協結成となった。『池田さんはアカじゃけぇ』という陰口、それでつぶされたことも少なくなかったと思いますよ」(『広島県被団協の歩み』)と、被爆者救援と核廃絶にむけた被爆後の運動を語っている。
福島の現実
森松明希子さんは福島から関西に母子避難、仕事と子育て中。原発賠償関西訴訟原告団の代表を務める。ネット上では「自分の子どもだけ避難させるのか」「そんなに金がほしいのか」などと、酷い言葉が飛び交っている。福島の被災者は避難しない、できない人、避難している人たちがそれぞれに、あってはならない苦難を再び三度強いられている。
森松さんは「広島、長崎の被爆者の苦闘があって、私たちはいま声をあげている。広島・長崎と福島の被曝は同じ線上にある。放射線の恐怖から逃れ、命を守ることは当たり前の人権。福島の現実、いまの状況に向き合っていく」という。同じ線上…。それは、1945年7月のニューメキシコ州アラモゴード、8月広島、長崎への3発の原爆から始まった。世界中を汚染させた核実験、保有国による2万発の核兵器、そして500基をこえる原発が建設された。被爆者・被曝者、ヒバクシャは世界中に広がる。広島、長崎、ビキニは、チェルノブイリ、フクシマの惨禍に至った。広島・長崎、福島の現在が核時代の同じ事態であれば、広島・長崎と福島は結び合い核被害に立ち向かい、核廃絶を共有しなければならないだろう。
核廃絶めざして
5月、オバマ大統領が現職の米大統領として初めてヒロシマを訪問した。被爆者の期待と失望、賛否、評価の声はさまざまあった。もとより被爆国日本(人)の侵略・植民地支配、韓国、アジアの被爆者がおかれた歴史と現実、その意識を振り返らずには語れない。
スピーチ冒頭の主語は、「死」。「死が、空から降ってきた」。30万人が生きる街に平然と原爆を投下した事実と責任は語らない。地上にどのような事態が出現するかを知りながら投下したのだ。朝鮮人被爆者に言及した部分は「10万人をこえる日本人、多数の朝鮮人、12人のアメリカ人捕虜」と並ぶ。人々にとっては突然に、それぞれに不条理の死がもたらされたことを、むしろあいまいにする。プラハ演説からもはるかに後退した。
オバマ訪問によって平和公園、資料館を訪れる高校生など若い人たちが増えているという。被爆から71年、短くはない年月。いまも核廃絶への道は定まらない。オバマ広島訪問をも、核・原発の廃絶を有期限の目標とする、具体化する力に―その課題を「被爆71年と、これから」は、私たちに示している。被爆者たちの苦難の歩みを継承し、核廃絶へ近づける8・6、8・9でありたい。
今年は土曜日。広島には、平和公園には、資料館には何度も行ったという人も、広島の暑い8月6日に身をおいてほしい。(三木)
投稿
県民大会 哀悼の意深く
6・18〜20 沖縄現地を訪れて
6月18〜20日の三日間、地域の仲間のIさんと二人で沖縄に行ってきました。
18日13時すぎに那覇空港到着。ゆいレール(モノレール)に乗って首里城見学。1872年に薩摩藩に侵略されるまで500年間琉球王国の城としてあったものが沖縄戦でほとんどが焼失し、1992年に復元されたそうです。琉球王国時代の清国(中国)との深い関係(国王も清国皇帝が任命していた)を窺わせるものが多数展示されています。なお、首里城公園の見学のしおりからは記述が削除されていますが(現地の案内板には場所が示してある)、ここには第32軍司令部壕跡もあります。日本軍は米軍の上陸に備え、ここに数千メートルにわたる壕を掘り司令部を置いたのです。
陸軍病院南風原壕
19日は午前中時間があったので、レンタカーを借り、沖縄陸軍病院南風原壕群20号へ。ここは、負傷兵の看護に動員された沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)が壕を掘り、看護の仕事から、切り落とした手足や排泄物の処理、また「飯あげ」といって、砲弾飛び交う中炊事場(かなり離れている)から壕まで食事を運んだりしていた所です。見学には予約が必要ですがたまたま飛び入りで見学できました。ガイドの女性(県民大会に参加すると言っていた)から丁寧な説明を受け、「平和の鐘」を鳴らして次はひめゆりの塔見学。資料館には生存者の証言、生徒と引率した教師一人ひとりの顔写真と名前、特徴が展示されていてとても短時間では見きれません。今回も一時間しか時間が取れず残念に思いました。
胸を刺す言葉
昼食後、県民大会会場の奥武山公園陸上競技場へ。
直前の自公の不参加決定にもかかわらず6万5千人の人々が大結集しました。カンカン照りの中、被害者への弔意・悲しみを示し、多くの人々が黒い服装で参加しました。午前中被害者の遺体が発見された、恩納村安冨祖を訪れ献花してから参加した人も多くいました(写真)。
大会では、辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議共同代表でシールズ琉球の玉城愛さんの「本土にお住まいの皆さん、事件の第2の加害者はあなたたちだ」との発言は胸に突き刺さりました。翁長雄志知事は「グスーヨー、マケテーナイビランドー ワッターウチナーンチュヌ、クワッウマガ、マムティイチャビラ、チバラナヤーサイ(皆さん負けてはならない、わたしたちウチナーンチュは子や孫を守るため、頑張ろう)!」と発言を締めくくられました。沖縄の怒りと、被害者への哀悼の思いを痛いほど感じた大会でした。
嘉手納から辺野古へ
大会後に嘉手納基地横の「道の駅かでな」へ。「安保の見える丘」は現在立ち入り禁止となっているようですが、ここの展望台から基地全体が見渡せます。基地の現実を目に焼き付けてきました。
翌20日には、辺野古キャンプ・シュワブ前のテントに参加しました。現地在住の人から「今年3月から工事は止まっているが、埋め立てのための作業ヤードを造ろうとしている。辺野古漁港周辺の埋め立てを稲嶺市長が許可しないから、基地沿岸にケーソンを積んで造ろうとしている。これとの攻防が続いている。」と説明を受けました。
テント内集会では、大阪から参加の三重県出身の人から「作業ヤードに使われるケーソンが三重で作られようとしている、何としてでも止める!」と涙ながらの力強い発言がありました。
私は県民大会の感想を述べ、Iさんは「安里屋ユンタ」を三線の演奏とともに歌いました。事前に彼曰く「初心者です」と。でもなかなかどうして演奏が始まると指笛が鳴り響き「サーユイユイ」の掛け声、拍手喝采でテント内は大盛り上がりでした。最後に沖縄本島随一の絶景スポットと言われる古宇利島を回って那覇空港へと向かいました。
今回の沖縄行きは4月24日に尼崎市立女性センター・トレピエで開催された『戦場ぬ止み』(三上智恵監督)上映実行委からの派遣団として、2人が行かせてもらったものです。実行委のみなさんに感謝します。(佐々木伸良)
6面
経済的徴兵のアメリカ
堤未果講演会に1060人
6月19日 神戸
6月19日は堤美果講演会、沖縄連帯デモ、市民と野党の共同アピールが一体で開かれた(神戸) |
6月19日、神戸市の神戸芸術センターで「堤未果講演会〜戦争はつくられている〜」がおこなわれ、会場一杯の1060人が参加した。
『沈みゆく大国アメリカ〈逃げ切れ! 日本の医療〉』、『政府は必ず嘘をつく』などの著者、堤未果さんは「世界中で私たちの知りたい真実ではなくちがう真実、ちがう未来が選ばされている。メディアがそろって同じニュースを流すときは要注意。いまアメリカではジャーナリストの逮捕が過去最高となっている」と話を始めた。
恐怖と戦争モード
2001年9・11のとき、貿易センタービル隣のビルで仕事をしていた堤さんは、命からがら非常階段を駆け下りた。その翌12日から、アメリカ社会全体が一気に恐怖と戦争モードに変わったと克明に話す。
「テロリストが次に現れるのは、ここかもしれない」「今度は生物兵器かもわからない」と、テレビは不安と恐怖を毎日あおり、低価格の銃がスーパーで飛ぶように売れる。アメリカでは、議員の政策担当スタッフは44人(日本は3人)もいるのに、600ページもある愛国者法が選択の余地なく成立させられ、たった1週間で2000台もの監視カメラが設置される。
何の悪いことをした記憶もない憲法学者がブラックリストに乗り、飛行機の搭乗を拒否される。「落ちこぼれゼロ法」が施行され、平均点の悪い学校には援助がなくなる。テスト、テストで音楽、絵の授業が消えた。「落ちこぼれ」生徒の携帯に米軍リクルートから直接電話が入り、学校正門に軍用車が迎えに来る。軍のリクルートは、誰も聞いてくれない「君の夢は何?」というマジックワードで子どもたちの心をとらえ、「誰かの役に立てるよ」「コックになりたければ、兵士のためにコックになれよ」「リストラはないし、テロとの戦争の英雄になれるよ」と。そして、イラク戦争に動員された。
運よく生き残った帰還兵の多くが劣化ウラン弾による「ブラブラ病」に。病院行きたくても1年待ちは、ざら。自宅に帰って物音がすれば、妻や子どもに銃を向けてしまう。それらの兵士のほとんどはホームレスに。帰還兵の自殺は、毎日平均18人 …。
戦争の入口は教育
堤さんは「戦争への入り口は、教育にある」という。学資ローンは消費者ローンから外され、自己破産はできない。軍から戦争ビジネス派遣会社から電話がかかる。保険制度のないアメリカでは、家族に1人がん患者がでると一家は破産。
186万人が戦争ビジネスでイラクへ行った。防弾チョッキも自己負担だ。堤さんがインタビューしたイラク帰還兵の若者2人は、憲法で戦争放棄をうたった国が世界で2カ国(コスタリカと日本)あると知り、帰還するとき「1カ所だけ経由できるので日本に寄った」と話した。曰く、9条があっても、それだけではいけないのだ。
アメリカでは教育が受けられない、医療が受けられない、正社員につけないというなか、救いの手を差し出してくれるのが軍隊だった。格差が経済的徴兵制をつくる。日本の子どもたちも、法律が変わる前に選択肢を少しずつ奪われていく。
25条の生存権が大切である、と。アメリカには「生存権がない」。言論の自由から、小さなところが少しずついじられていく。「そこを阻止してほしい。そうでなければ、ぼくらのように戦争に行くと思う」という元兵士たち。
違和感を大切に
堤さんは、戦争をつくるステップとして@情報統制、A言論統制、B法改正、C教育・医療・福祉切り捨て、そして「生活のために戦争へ!」であるという。そして、戦争をつくらせない5点を@日米の過去を見ること、Aお金の流れを見ること、B法律を見ること(とく選挙の後が大切)、Cテレビ・新聞を鵜呑みにしない、D政治家から目を離さない(国政もだが、身近の地方議会を見ること)とまとめた。
18歳選挙権でいろいろ聞かれる。直感を鈍らせないように。「何かおかしいな!」という違和感を大切にする。いちばん大きな敵は「無知・無関心・無力感の3つの無だ」と。経済的徴兵制を機能させてはいけない。まだまだ、やれる。「いっしょに、頑張りましょう!」と力強く語りかけた。
イラク戦争で息子を亡くした母親の詩で締めくくった。最後のフレーズは、「今この瞬間にも死に続けている。死なずにすむ可能性のために、私たちは進む」だった。1000人が2時間、静まり返って本当に一生懸命聞いていた。ズシンとくる内容だった。行動提起がはっきりとした講演だった。
講演後、大学生、安保関連法に反対するママと有志の会、参議院議員候補のみずおか俊一さん、金田峰生さん、生協コープ自然派兵庫、ろっこう医療生協から発言があった。参議院選挙で何としても社会を変えたいという思いも伝わってきた。
集会終了後は、アベ政治を許さない市民デモKOBEによる「19日デモ」。同日沖縄で開かれている「海兵隊は撤退・普天間基地返還・辺野古新基地建設反対」の県民大会に連帯し、360人が三宮までパレード。マルイ前では市民と野党(5党)の共同アピールに合流した。兵庫・神戸での素晴らしい、充実した行動となった。また新たなたたかいが開始されたと感じた。(山村)
伊方再稼働阻止
7・24 全国集会へ
四国電力は今月26日にも伊方原発3号機を再稼働させようとしている。伊方原発は、熊本大地震で動いた中央構造線の上にある。
また海上保安庁などの研究チームは英科学誌「ネイチャー」で南海トラフ地震を引き起こすひずみが、四国沖および東海沖に多くたまっていることを発表している。この状況で、再稼働を強行するのは、人命軽視もはなはだしい。
24日には地元の伊方町で「みんなで止めよう伊方原発7・24全国集会」が開かれる。全国から駆けつけよう。
みんなでとめよう伊方原発!7・24全国集会
と き:7月24日(日) 午後1時半
ところ:伊方ビジターズハウス前(集会後、原発ゲート前に移動)
主 催:伊方原発再稼働阻止実行委員会
連絡先:伊方の家(090―1791―1105 八木)
関電の異議退ける
7月12日 大津地裁
関西電力高浜原発3・4号機(福井県高浜町)の運転差し止めの仮処分決定にたいして、関電は異議を申し立てていたが、大津地裁(山本善彦裁判長)は12日、関電の異議を退け、再び3・4号機の運転を認めない決定を下した。この日、裁判所前には約100人が集まった(写真)。
夏期特別カンパにご協力をお願いします
7月参院選では、改憲勢力が改憲発議可能な3分の2議席を得ました。しかし市民と野党の共同行動は、沖縄・東北などで勝利し、今後の安倍政権との闘いの道を示しました。今ほど私たちの奮起が求められている時はありません。そのためには闘争資金が必要です。『未来』読者のみなさんにカンパを心から訴えます。
郵便振替 口座番号 00970―9―151298
加入者名 前進社関西支社
郵 送 〒532―0002 大阪市淀川区東三国 6―23―16
前進社関西支社