戦争法の発動を許さない
国会前に、3万7千人
3月29日
「戦争法を廃止へ」国会前で3万7千人が声をあげた(3月29日) |
「安倍政権の暴走を許すな」日比谷野音に5600人が集まった(3月19日) |
【3月29日 国会前】
戦争法が施行された3月29日、総がかり行動実行委員会主催による「戦争法発動反対! 戦争する国許さない 3・29閣議決定抗議! 国会正門前大集会」が開かれ、3万7千人が集まった。
発言に立った主催者や議員らは口々に戦争法を弾劾。施行されても諦めずに廃止までたたかい抜く方針が提起された。第1に大衆行動。2千万署名・大集会を軸に運動をより大きく広げていく。第2に法廷闘争。600人規模の弁護団が訴訟の準備をしており、自衛隊関係者も別個に賠償請求を準備中。第3に国会対策。難航していた野党共闘が市民のエネルギーにより順調に滑り出したが、これを更に進めて多数を取る。また、「自公VS野党」ではなく「安倍VS市民」の構図でたたかい、安倍政権打倒による問題解決が訴えられた。
石垣島・宮古島からは自衛隊配備をめぐる攻防が報告され、戦争法にたいする緊張感がより高まることとなった。
1時間以上にわたる行動を引き継いでSEALs+学者の会共催の第2部に移り、この時間になっても続々と結集してくる新たな参加者と共に引き続き抗議の声をあげた。
【3月19日 日比谷】
3月19日午後から、東京日比谷野外音楽堂で「戦争法廃止・安倍政権の暴走許さない3・19総がかり日比谷大集会」が開かれた。
5600人が小雨の降るなか集まり、参加者は会場から公園内にあふれた。本集会に先立っておこなわれたリレートークでは、みんなで選挙、NGO非戦ネット、安保関連法に反対するママの会、ティーンズソウルの女子高校生、日本基督教団エパタ教会から「戦争法廃止」「安倍政権退陣」の思いをこめた発言がおこなわれた。
東京で署名500万
集会のはじめに主催者挨拶に立った1000人委員会の福山真劫さんは、「(2000万署名が)東京で500万人を超えました。全国ではもっとたくさんの署名が集まっています」と報告。
つづいて「われわれは、戦争は人類最大の罪だと思っています。主権者は国民であって、安倍さんではありません。憲法改正などは止めてもらう。そんな気構えでがんばってまいります」(日本医師会元会長の原中勝征さん)。「(イラクでは)激しい空爆・掃討作戦の中で、人々が今も犠牲になり苦しんでいます。このような戦争をもたらしたのはアメリカです。そして、イスラム国を生み出したのはイラク戦争です。こうした反省もない安保法制や改憲など絶対に許してはなりません」(イラク戦争検証委員会・志葉玲さん)。
沖縄からの訴え
「沖縄県と国との和解によって、辺野古埋め立て工事は中止されました。私たちと全国の皆さんの力が国を追い詰めています。和解条件には、『裁判の結果には双方ともに従う』とあるため、沖縄県が負けたら抵抗できなくなるのでは?という声がありますが、翁長知事には埋め立てを阻止する手段がいくつも残っています。埋め立て本体工事に着手できない体制が整いつつあります。しかし油断はできません。全国の皆さんも、気を緩めることなくご支援をお願いします」(ヘリ基地反対協抗議船船長・北上田毅さん)などの発言が続いた。
集会後、参加者は東京駅までのデモ行進に移り、「安保法制反対」「改憲阻止」を道行く人たちに訴えた。
原発のない未来めざそう
参院選で安倍独裁倒せ
3月26日 東京
「原発のない未来へ」「つながろう福島」参加者が一斉にメッセージをかかげてアピール(3月26日都内) |
3月26日、東京・代々木公園において、「原発のない未来へ! つながろう福島! 守ろういのち! 3・26全国大集会」が、さよなら原発1000万人アクション、原発をなくす全国連絡会、首都圏反原発連合、反原発運動全国連絡会の4団体主催で、3万5千人を集めておこなわれた。
集会の冒頭、司会の木内みどりさんが「なんとしてもこの夏の参院選で独裁にくさびを打ち込もう」という落合恵子さんのメッセージを紹介。
次に首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフさんが発言。
「今年の3月11日を前に、高浜原発運転差し止めが大津地裁で決定された。そして初めて稼働中の原発が停められた。これは私たちの大きな希望になっている。原発を一部の利益のために推進している。私たちはそれに怯むことなく、これからも絶えず声を上げ続ける。この夏の参院選で脱原発を訴える政党にもっと頑張ってもらいたい。そして福島県の中の問題、避難者の問題、子どもの被曝の問題に取り組む政党に力を発揮してもらいたい」と述べた。
人を殺して儲けるのか
続いて、さよなら原発1000万人アクションから鎌田慧さんが「福島の故郷を追われた十数万人の人たちにたいして、どう責任をとるのか。甲状腺がんで苦しむ150人の子どもたちとその親たち、その人たちへの対応など、何も決まっていない。東電の社長は経営安定のために原発は必要だと言っている。そのためなら人間が死んでいいのか。人間を殺して儲けるのか原発をやめて私たちが健康に幸せに暮らしていくのか、どっちにするのかという決意を込めて、この集会を成功させたい」と述べた。
被災者に生きる権利を
次に澤地久枝さんが発言に立ち「アベ政治を許さない」ポスターを掲げようと呼び掛けた。福島原発告訴団の佐藤和良さんは「来年再来年には年間線量20ミリシーベルト以下のところには、とにかく帰してしまおう、オリンピックの前には、福島原発の事故など無かったことにしてしまおうというのが、今の安倍政権のやり方。こんなことを許していいのか。
被曝を避けて生きる権利はないのか。なんとしても被曝させようという政府の在り様を変えなくてはなりません。耐え忍んで5年間生きてきたけれども、ここであきらめるわけにはいかない。2017年3月の自主避難者の無償住宅提供打ち切りを許さず、2018年の賠償打ち切りを許さないたたかいをおこなっていきたい」と発言。つづいて愛媛、茨城、福井、そして沖縄から各地のたたかいが報告された。
最後に3月12日の福島県民大会からスタートし、反原発を訴えて東北・関東各県を回り、代々木公園まで2週間をかけて歩いて来た代表が発言した。
集会後、3つのコースに分かれてデモ行進をおこない、集会参加者によって反原発の思いを市民に訴えた。
2面
投稿
気持真っ白に 新たな闘いへ
3・27 三里塚集会に参加して
たたかう三里塚の伝統を大切にしつつ外へうってでることを宣言(3月27日成田市内) |
今年の三里塚全国総決起集会は、晴れたり曇ったりの中、720人の参加者で開催された。
成田ニュータウンでの三里塚集会。空港関連会社の住人が多数いる中での集会は意味深い。司会の木内さんが集会の初めに発言したことが、主催者あいさつで明確なものとなった。
北原さんが体調を崩しておられると聞き及び、心配していたところ、主催者あいさつは萩原富夫さん。
いつもの北原事務局長の力強いあいさつが聞けなかったのは残念だが、新しい息吹を感じる萩原さんのあいさつも素晴らしかった。
金もうけ第一で、武器や原発を売ろうとしている国家に、そして「成田は空港によって潤う」といって農地をつぶし、自然を破壊する空港会社にたいし、農地を命がけで守る三里塚農民。物や金でなく、ほんとうに大切なものを大切にできる新たな社会を展望しようと訴える萩原さん。そして、過去のたたかいの中で分裂し、「脱落派」と呼んできた熱田派にも声をかけたという。まさに激震。ああ、全てをかけてこれからの三里塚をたたかうという決意だった。
萩原富夫さんの発言
今までの三里塚集会では、多くのエネルギーをもらい、元気をもらってきたが、今回のように自分で考えることを強いられた集会は初めてだ。いろいろなことが頭の中をよぎる。
今まで自分がやってきたことを振り返ると、わかったような顔をし、上から目線で左翼の業界用語を恥ずかしげもなく並べ立て…。それで運動をやってきたつもりになっていたのだ。何と卑小であり、無駄な時間を過ごしてきたことか。「沖縄の島ぐるみの運動に学び」など、口では言うが、何も実行できないでいる自分自身に気づかされた。
昔はこうであったというたたかいの栄光をぐっと飲み込んで、今の三里塚の状態をまず知ってもらおう。しかも多くの人々に。知れば知るほど怒りがこみ上げるのは人間として必然だろう。そう、たたかう三里塚の偉大な歴史が光るのはまさにこの時。
たたかう三里塚を大切にし、このたたかいを大きく広げる課題に同盟自ら打って出る。萩原さんの決意とその提言に大きく感動、そして賛同。やっぱり参加してよかった。
畑の中で、頭上低く爆音とどろかせて発着する飛行機に怒りをぶつける集会、フェンスと機動隊に囲まれ、権力の圧力をじかに感じ、それをはねのける集会もそれでよかった。ただ、われわれの行動を訴えるべき大衆から、離れていることが大きな課題であったのだ。我々のたたかいを権力にのみぶつけるのではなく、ともにたたかってほしい大衆にこそむけるべき。まさにこの時を逸してはならない。
心を真っ白にして新たな三里塚闘争を切り開こう。萩原富夫さんの言葉が胸にしみた一日であった。(安芸一夫)
自衛隊〜大久保駐屯地を包囲
3月19日 京都で“総がかり行動”
駐屯地包囲に向けてデモ行進 |
3月19日、京都府宇治市にある自衛隊大久保駐屯地をヒューマンチェーンで包囲する行動に、京都の総がかりの体制で取り組み、1300人が参加した。駐屯地を包囲するために、デモは6つの挺団にわかれた。京都1000人委員会の隊列には200人が参加し、駐屯地包囲のときの独自集会では、元宇宙飛行士の秋山豊寛さんなどが発言した。
デモに出る前、近鉄大久保駅前では全体のリレートークがおこなわれ、京都選出の倉林明子参議院議員、1000人委員会の仲尾宏さん、京都総評の梶川憲議長、ママの会@宇治の中村あゆ美さんなどが発言した。
参加者は東京の集会に連帯して、戦争法に反対し京都から自衛隊を海外に出さないと訴えた。
明石市で集会とデモ
3・19 兵庫
【兵庫】戦争法強行後の「19日デモ」は10月19日から6回目。総がかり行動・明石、アベ政治を許さない市民デモKOBE(37団体)などの行動が明石市でおこなわれた。〈1000人委員会・ひょうご〉は明石駅前で2000万署名行動、アベKOBEデモの街頭署名も合流し57日目。署名行動はのべ参加者714人、累計6796筆に。3時からは総がかり行動・明石との集会・パレードに約250人が集まった。
集会では、あすわか(明日の自由を守る若手弁護士の会)の川元志穂さんがスピーチ。「安倍・自民党の改憲は本当に怖い。とくに内閣が法律・政令を施行する緊急事態条項の新設。自由と人権は剥奪される。ヒトラーのやった手法と同じ。いまなら間に合う。7月選挙で野党の勝利を」と訴えた。その後、市内デモに出た(写真)。
伊方原発を再稼働するな
南予で自動車パレード
愛媛
1万人の住民投票請求
自動車パレードは、2つの衝撃を超えて、成就された。
1つ目は、1月28日、1万筆をこえた愛媛県八幡浜市の住民投票請求の署名嘆願を、八幡浜市議会は、150人の傍聴希望者のつめかけるなか、6対9で否決却下してしまったことだった。情勢判断として、来年の市長選挙でくつがえす準備に立ち向かうことにしたそうだ。自民党系の市長は、この署名の束を見て「これは沖縄の辺野古のようになる」とふるえあがった。現在の反基地運動の原点が、名護市の署名活動にあったからである。
2つ目は、2月20日の午前3時ころ、この署名活動にうちこんだ反再稼働の拠点の一つと言われる「伊方の家」の八木健彦さんが、暴漢に襲われ、肋骨13カ所骨折という重傷(全治45日)を負っていたことだった。
反原発運動の新機軸
再稼働反対の運動が萎縮することをおそれ、宇和島、西予、八幡浜、南予、大洲などの反再稼働グループは、「自動車を並べて、街宣、びらまきなど、堂々とした行進をしなければ」と1月前から準備、八幡浜市議会、市長の再稼働許諾の意向を断固拒否しなければならなかった。歩いているだけでは、どうしても「規模の小さいあやしげな集団」とあしらう風潮が、金権派、推進派にはあると考えざるをえなかったということもあろう。3月20日「春の南予路縦断自動車パレード」(写真 STOP! 伊方原発南予連絡会)は、のべ参加者80人以上、参加した車両25台で、宇和島から、内子からの2方向から、街宣、ポスティングをしながら伊方町役場に集結した。
この伊方町役場の集会に、八木さんが現れ、主催者の開会宣言のあとに、堂々激をとばした。
四国・愛媛の原発立地で、新機軸となる自動車パレードから7月の再稼働阻止へ。(南方史郎)
広島・山口で反原発集会
3月12日広島市内 |
3月26日山口市内 |
【広島】
「フクシマを忘れない! さようなら原発〜島根も上関も伊方もいらない〜ヒロシマ集会」が3月12日、広島市中央公園で開かれた。広島県原水禁など実行委員会が主催し、約1000人が集まった(写真上)。
メインスピーカーの海渡雄一さん(脱原発弁護団全国連絡会)は「朗報が2つ。福島原発事故にかんし、東電幹部が強制起訴された。裁判によりさまざまなことが明らかになる。それから高浜原発運転差し止めの大津地裁仮処分決定。ただちに3号機はストップした」と、原発廃止をめざそうと話した。福島、伊方、中国地方の反原発団体からの発言の後、「ストップ! 原発再稼働」のメッセージ・ボードを掲げた。
【山口】
3月26日、「上関に原発を建てさせない山口県民大集会〜福島を忘れない、さようなら上関原発」が山口市内で開かれ、2千人が参加した(写真下)。福島県飯舘村の酪農家、長谷川健一さんが「放射能被害で家族も村もバラバラにされた。上関に絶対建てさせてはいけない」と。児童文学作家で上関に原発を建てさせない山口県民連絡会の那須正幹さんは、「山口でしつこく反対していきましょう」と呼びかけた。
3面
直撃インタビュー
第31弾
砂川闘争はいかに闘われたか
土屋源太郎さんに聞く(上)
砂川裁判再審請求棄却 東京地裁の3・8決定弾劾
東京地裁は3月8日、砂川事件の再審請求を棄却した。徹底弾劾する。改憲と戦争法の実動化とのたたかいのため、砂川闘争をいまこそよみがえらせよう。米軍基地を撤廃に追い込んだ砂川闘争。米軍基地に立ち入り逮捕された労働者学生にたいし、「駐留米軍は憲法違反」で無罪とした59年の東京地裁伊達判決。伊達判決を破棄して、差し戻した最高裁大法廷。2008年以降、発見された米公文書によれば、当時の米駐日大使マッカーサーが、田中耕太郎最高裁長官と密談を繰り返し、跳躍上告して、伊達判決を破棄することを確認している。この謀略を暴き、最高裁砂川判決をもって集団的自衛権行使の根拠とする安倍政権を打ちたおし、戦争法を撤廃させるため、土屋源太郎さんにうかがったインタビューを上・下2回に分けて掲載する。当時の学生運動や創成期の革命的左翼の状況、土屋さんの戦争体験などは、6月刊行予定の『展望』18号に掲載する予定である。
T 砂川闘争の始まり―1955年
―米軍の立川基地がなぜ問題になったのですか立川飛行場は、戦前は陸軍の航空飛行場だった。民間の飛行場を陸軍が強制収用したものだ。敗戦になって、そこを米軍が基地にして、滑走路が短いとして、一部約5万平米ぐらい拡張した。文字通り、銃剣とブルドーザーで強制したんだ。当時まだ占領下で、進駐軍が入ってきて、拡張したわけです。
戦後になって占領政策をめぐって、米・英・ソ連の間で対立が起こる。バルカン半島や東欧だとか、アジアについても、相互の支配権をめぐって対立する。アメリカが原爆を広島・長崎に投下したため、ソ連もイギリスも原爆を持つ。ドイツにおける占領政策などをめぐって冷戦が始まる。その背景にあったのが、いわゆる抑止力です。抑止の名目でAが軍備を拡大して、それにたいして今度はBが、さらに拡大しなきゃなんないから「抑止」というのは、軍拡競争なんだよ。それぞれが水爆実験まで始めた。
そうすると、当時は今みたいにミサイルじゃないから、爆撃機に水爆を搭載しなきゃならない。いままでの飛行機より大型で高速の航空機が必要になる。必然的に滑走路の延長が必要になってくるんだ。そのために1955年当時、立川と横田、それから小牧、東北の三沢、小松など、5、6か所の拡張計画が出たんだ。
出た計画の中でも立川が一番中心になった。15万平方メートル、約5万坪の土地収用を町議会に通達してくる。それにたいして町議会は反対決議をした。たまたま、当時の宮崎伝左衛門町長が小差で町長になった翌日かなんかですよ。その前の町長の時だったらわかんないよ。宮崎さんだったから、町議会にかけて反対決議をして、そこで同時に反対同盟が結成されるわけです。
1955年の場合、調達庁がやったことは予備測量といって、その15万平方メートルの対象地点を測量することです、杭を打って、位置を決める。基地をさらに15万平方メートル拡張することになると、農地もあれば、宅地もあれば、お墓もある。そのうえ砂川町のド真中にある広い五日市街道を分断する形で拡張計画が出たから、なおさら反対が出て、反対同盟ができた。予備測量にたいする反対運動がおこる。
55年と56年と57年とで、支援体制がそれぞれ違うんだよ。55年に支援したのは三多摩労組、三多摩労協だけなんだ。なぜかというと、反対同盟の中で、組合など参加されると過激になるから困るという意見があった。町議会の中にも微妙な空気があった。ましてや全学連は当時暴れん坊で通っていたからね。
もう一つは、共産党の問題があった。53―54年あたりから地下へ入ると同時に、徳球(徳田球一)が、共産党の書記長時代に毛沢東の路線を持ち込んで、所感派を中心にして、山村工作に入れた。立川・砂川でも地主にたいする攻撃をやった。反対運動の中心だった青木市五郎さんとか宮岡政雄さんは地主ですよ。その人々を、ある意味でやっつけてきたから、彼らからすれば共産党にたいする拒否反応もあるし、信用できないというのもあるから、共産党お断りってやつ。
だからわれわれ全学連も55年闘争は、正直いって知らなかった。ところがいま言ったような体制だったから、予備測量がほとんどに近い状態でやられちゃった。そこで例の有名な、「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」という標語が生まれた。
杭をうって地域が決まると、調達庁が、その範囲内の地主にたいしてものすごい勢いで買収工作をやった。金額を釣り上げるとか、南米に土地を用意するから移住しろとか、いろんなことをやる。それを受け容れる条件派がでてくる。
条件派が出したのは、時のお金で、坪4千円、一軒の謝礼が、確か50万円だったかな。ところが条件派が出したその条件が町議会で1票差で否決されるんだ。そのために条件派は、反対同盟から脱退して、別の、条件派の組織をつくる。普通は、それで分裂して運動は弱くなっちゃう。
ところが、砂川の反対同盟のすばらしいところは、それがあまり成功しなかった。むしろ逆に反対同盟の、ことに青木さんが行動隊長で、それから副行動隊長が宮岡さん。この2人がよかったな。核になって、それに町議会のなかの、けっこういい連中が集まって、結束した。そこで、われわれだけではだめだ。全国的に支援を呼びかけようということになった。それで全学連にも話が持ち込まれた。
当時、文化人の基地懇談会というのがあった。妙義山に山岳の基地をつくるとか、内灘射爆場など何カ所も基地拡張計画が、反対運動で全部つぶれて行くんだ。そのなかで、正確な名前は忘れたけれど、この基地問題懇談会が登場した。
あとではだめになるけれど、代表者は清水幾太郎さんだった。その清水幾太郎と青木市五郎さんと、それから当時の総評の事務局長を岩井章に負けて降りた高野実さんの3人が全学連に申し入れてきた。全学連はたまたま原水協だとかいろいろの平和運動への関わりの窓口に平和対策部長というのをつくっていた。それが森田実だった。
森田がその3人から状況を聞いた。われわれは55年のとき、ニュースではじめて砂川闘争を知ったので、反省もあった。こんなたたかいを、われわれは知らなかった。たたかいに参加できなかった。これはだめだったという思いがつよかったから、即答したよ。支援しますって。その時に、共産党をいれろとやった。
全体の運動にするには、政党も社会党、共産党、全部含めて呼びかけないとだめじゃないかと。それで、青木さんたちも、それじゃあ共産党も参加してもらおうとなった。
そこで初めて、全国で総評などを含めて21団体の支援協議会ができるんだ。それには、総評・地評、全学連・都学連はじめ、いろんな組合だとか、市民団体だとかが参加した。その経験が60年安保の安保改定阻止国民会議につながっていくんだ。55年と56年とはそれぐらい支援体制が違っていた。
U 第2次砂川闘争―1956年
―全学連はどういう形で砂川闘争に取り組んだのですか当時の学生組織は、わりあい民主的だったんだよ。全部クラス討議がベースなんだ。役員や代議員も、かならずクラスから選出する。クラス討議で、砂川闘争の支援要請があり、全学連もこれに取り組むことが決まったと報告する。
それで最初に、現地に見に行こうという運動をやった。いろんなクラスで何人かまとまる。それから社研などのクラブからも、10人とか15人とか集まって、立川駅までいった。あまり金がないから、バスにのらないで約1時間、砂利道を歩いて通った。それで砂川に行っては、現地の話を聞いたりした。
一番印象的だったのは、お母さんたちがね、私たちが反対してるのは、土地を買い取る値段を少しでも高くしたいとか、そういうためにやってるんじゃないんだと。戦争の前から、土地はどんどんとられる。それで兵隊に、軍にもってゆかれて、戦争に使われる。戦後もそうだと。そういう思いをしてきたから、私たちとしては、戦争をするための基地の拡張は認めないんですよ。こうはっきり、言うんですよ。これはわれわれにとっては大きかったね。印象深い。
それとね、砂川の中学校の講堂を解放して、全学連の学生さんたちはお金ないだろうからと、そこに泊るようにしてくれた。われわれはそこに、ムシロを敷いたり、古い毛布やなんかさしいれてもらったりして、ずーと交替で泊りこんだ。それと同時に、われわれも、地元に溶け込まなきゃいかんとなった。学生の中には農家出身の者がけっこういるから、農業の手伝いをやる。(つづく)
つちや・げんたろう
1934年8月、東京生まれ。53年、明治大学に入学。同年6月の民主化闘争全学ストで闘争委員に。
12月に日本共産党に入党。56年、明大自治会委員長。全学連中央執行委員。第2次砂川闘争に参加。57年都学連委員長。同年7月8日、米軍基地内に入ったことで刑事特別法違反で逮捕・起訴。59年3月、東京地裁(伊達秋雄裁判長)は無罪判決。検察は最高裁へ跳躍上告し、最高裁は同年12月、一審無罪判決を破棄し、東京地裁に差し戻し。61年3月、東京地裁は罰金2000円の有罪判決。
現在、伊達判決を生かす会共同代表。2014年6月、砂川事件の再審を請求。今年3月8日、東京地裁は請求棄却を決定した。
4面
辺野古新基地を完成させない
稲嶺名護市長らが大阪で訴え
説得力にあふれた稲嶺市長の訴え |
大阪に初めて稲嶺進名護市長を迎えて開かれた3・27「廃止しよう! 戦争法、とめよう! 辺野古新基地建設」関西集会は、中之島公会堂に1400人を集め大成功をおさめた。
開会あいさつは大阪平和人権センター理事長の田淵直さん。司会は自治労大阪の西川さんとSTOP! 辺野古新基地! 大阪アクションの平石さん。
集会の最初のハイライトは、辺野古現地で座り込み行動の先頭に立つヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さん。安次富さんは3月4日の沖縄県と国との「和解」について、「先方の意思は変わらないので、次には安倍に会わなくてもいいように、この過程で安倍を倒そう」と訴えた。
「戦前回帰」を許さず
ついで稲嶺進名護市長が講演。稲嶺さんの話は、おだやかな語り口ながら、内に秘めた信念の強さをうかがわせる内容だった。稲嶺さんは、歴代の自民党政権が「北部振興策」の名のもとに、名護市辺野古に巨大な新基地を建設しようしてきたことを、名護市行政の内部にいた者として熟知していた。その手口を具体的に暴露し、2010年、「辺野古の海にも陸にも新たな基地は造らせない」と訴えて勝利した市長選について詳しく報告した。
さらに地方自治体の頭越しに交付金をばらまくなどの昨今の国のやり方は、原発建設のやり方にも通じるもので、許されない。また安倍政権は戦争法の強行や憲法改悪をめざすなど「戦前回帰」をねらっている。沖縄戦の悲劇を体験した者、「銃剣とブルドーザ」で土地を奪われた者として絶対に認められないと訴えた。
つづいてジャーナリストの青木理さんは、2年前の4月28日に安倍が政府主催で「主権回復の日」の記念行事をおこなったことを、当時の翁長雄志那覇市長が激しく批判したことを紹介。沖縄にとって「屈辱の日」を何一つ理解もしようとしない安倍政権の根本姿勢を弾劾した。
照屋寛徳さん(左から2人目)安次富浩さん(3人目)を先頭にデモ行進 |
基地は完成しない
つづいて、稲嶺さんと青木さんが対談。青木さんはジャーナリストらしい的確な質問で現下の攻防の核心と勝利の展望をひき出した。今後も工事強行は不可避であるが、これにたいする知事や市長の許認可権は多数ある。翁長さんと稲嶺さんが知事であり市長であるかぎり、工事を強行しても完成はできないことが明らかにされた。
つづいて沖縄から駆けつけた照屋寛徳衆議院議員が熱い訴え。ついで集会実行委の呼びかけ団体を代表して、兵庫の北上哲仁さん(川西市議会議員)、奈良の崎浜盛喜さん(奈良―沖縄連帯委員会)、京都の仲尾宏さん(反戦・反貧困・反差別共同行動in京都)が、それぞれの立場と地域での戦争法と辺野古新基地建設に反対する決意を表明した。さらには夏の参議院選挙に立候補予定の伊波洋一さんへの支援の訴えが大城健裕さん(沖縄県人会兵庫県本部会長)からおこなわれた。最後に集会のまとめを集会実行委員会を代表して、中北龍太郎弁護士がおこなった。デモ出発前に、シュプレヒコールとデモ行進の注意をおおさかユニオンネットの垣沼陽輔さんがおこない、2時間半近くの充実した集会を終えた。
デモ行進は、西梅田公園までおこなわれ、大阪平和人権センター、市民団体・個人、ユニオンネットなどの4梯団に分かれ、それぞれが戦争法廃止、辺野古新基地反対を道行く人々に訴えた。
沖縄の闘いを「全国化」する
3月25日 高良鉄美さんが講演
大阪
3月25日、関西・沖縄戦を考える会の第13回講演・学習会が大阪市内で開かれ、50人が参加した。講師は琉球大学法科大学院教授の高良鉄美さんで、テーマは“再び沖縄を「捨て石」にする安保法制―政府の憲法改悪ベクトル”である。
高良さんはトレードマークの帽子をかぶって登場した。高良さんは室内であろうとどこであろうと、基本的に帽子をかぶっている。その理由について、高良さんは次のように語った。
“知る権利”
それは学生と県議会の傍聴に出かけた時のことである。高良さんは着帽が規則違反にあたるとして入場を拒否された。明治憲法下では、議会傍聴は「恩恵」であり、議会規則によって傍聴制限をおこなっていた。しかし今日、国民主権の日本国憲法下にあっては、人民の“知る権利”は保障されており、議事を妨害しない限り傍聴を制限することは許されないはずだ。にもかかわらず戦前からの傍聴規則を現憲法下でも適用しているのは違憲である。したがって、議事進行を妨げない着帽を理由に傍聴を禁止するのは“知る権利”の否定である。それに抗議する意味で、基本的にいつでもどこでも帽子をかぶっているとのことであった。
さすが憲法学者としての面目躍如である。憲法の条文をたんなる絵に画いた餅とせず、実践によって生かすとはこういうことなのだと改めて実感した。安倍内閣の戦争政治を許さない運動とたたかいは、日本国憲法下の人民の権利であると同時に義務でもある。何としても安倍首相を退陣させなければならないという思いを強くした。
「捨て石」にされた沖縄
高良さんの講演のキーワードは「捨て石」である。沖縄戦で天皇制=国体護持のため、「本土」防衛の楯として沖縄を「捨て石」にした。それにとどまらず、1872年の琉球併合から、戦前・戦中・戦後の「復帰」以来の今日まで沖縄は差別され、「捨て石」にされてきた。現在の辺野古新基地建設強行や高江ヘリパッド建設、南西諸島防衛強化を口実とした先島(八重山・宮古)への陸上自衛隊配備の攻撃なども、まさに沖縄を「捨て石」にすることだ。これは安倍内閣の安保法制の具体化の一環である。
それは沖縄に限らず「沖縄の本土化=本土の沖縄化」として全面化し民衆を犠牲にしていく。こうした安倍政治を打ち破るために、“オール沖縄”のように民衆の側から「沖縄の本土化=本土の沖縄化」をめざす運動とたたかいを大きくしていこう。
以上が高良さんの講演の主旨であった。講演後、質疑・応答がおこなわれ、主催者によるまとめでこの日の講演・学習会が締めくくられた。(武島徹雄)
元朝日新聞記者植村さん 韓国の教壇へ
排外論調に抗し「日韓の架け橋に」
元朝日新聞記者で、「慰安婦」問題で「ねつ造記者」のレッテルをはられ、右派勢力から激しいバッシングを受けた植村隆さんが、西岡力(東京基督教大教授)や文藝春秋を相手に、名誉回復を求める裁判を提訴して1年になる。この過程でも植村さんと勤務先である北星学園大にたいする攻撃は止まず、植村さんはこの3月から韓国カトリック大に勤務することになった。
植村さんの裁判と今後の韓国での勤務を励まそうと、大阪の旧友たちの手で「3・1大阪激励集会」が開かれた。
主催者としてあいさつした聖公会生野センター総主事の呉光現さんは、同じ会場でおこなわれた昨年の集会から1年、植村さんが駆け出し記者時代を過ごした大阪の地で再び集会を開いた経緯を話した。続いて日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク共同代表の方清子さんが、昨年末の日本軍「慰安婦」問題にかんする「日韓合意」の問題点を報告した。
事実の報告だった
植村隆さんは、「日韓の架け橋として―小さな大学の大きな勇気を忘れない」と題して、この1年の闘いを報告した。提訴以来、有名無名の多くの支援者に助けられながら、米国や韓国でも訴え続けたこと。その経過は『真実―私は「捏造記者」ではない』(岩波書店から2月26日刊行)に手記としてまとめられている。その中で植村さんは改めて、1991年2月6日に掲載された記事は「強制」という用語を使っておらず、取材にもとづいた事実の報告だったと語っている。むしろ当時の「産経新聞」や「読売新聞」こそ、角度をつけた記事で「強制」と書いていたことを明らかにした。後日、産経新聞の阿比留記者にそのことを問うと、「(強制と書いた事実は認めたうえで)あの記事は間違っている」と臆面もなく述べ、その後訂正記事を載せることはなかったという。
裁判では西岡力だけでなく、櫻井よしこも引き出し、彼らの反動的な立ち振る舞いを暴くことになる。
人間、到る所青山有り
3月から韓国で勤務することについては、高校生の時、土佐校の先輩にあたる槇村浩の『間島パルチザンの歌』を読み、新聞記者時代には間島=中国東北部延辺自治区を訪ねたことなど、朝鮮半島と自己の結びつきを回想し、「新たな気持ちで日韓の懸け橋になれたら」と語った。
一人の新聞記者が、取材した事実を記事にしたことが、その事実を無かったことにしたい歴史修正主義の右派論客により、20年を経て社会問題とされ「ねつ造記者」とされた。右派勢力と『週刊文春』の攻撃では、予定されていた神戸の大学の職を奪われ、その後得た札幌の北星学園大には類を見ない悪質な攻撃が続いた。しかし植村さんは北星学園大の対応を「小さな大学の大きな勇気」と称えた。そして今後の韓国での勤務に思いをはせながら、「人間、到る所青山有り」と結んだ。
著書に「恵存」とサインしてもらった私は、植村さんとのしばしの別れに、同郷の清酒の特別ブランド『自由は土佐の山野から』を贈り握手を交わした。
植村さんが「日韓の架け橋」になれるかは、私たちのたたかいにもかかっている。『真実―私は「ねつ造記者」ではない』の購読をすすめたい。(典)
5面
大阪市
不正は明白 採択撤回へ
育鵬社教科書採択の真相
大阪市の教科書採択に関する不正疑惑が社会問題になっている。このような状況のなかで、「大阪市育鵬社教科書採択のからくりを暴く! 3・21真相究明緊急集会」(主催:「戦争教科書」はいらない! 大阪連絡会)が、大阪市内でおこなわれた。会場には100人を超す人々が参加し、熱気につつまれた。
事務局の2人が真相究明に関する報告をおこない、つづいて上杉聰さん(子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会・共同代表)が基調講演、また高嶋伸欣さん(琉球大学名誉教授)からコメントがあった。
解明すべき核心点
育鵬社不正採択の核心点をまず確認しておきたい。昨年8月5日、教科書採択会議の冒頭で、教科書の評価は意図的に削除され、育鵬社のアンケートの賛否割合だけが報告された。このようなことは前例になく、極めて異例なこと。今年2月23日、大阪市教育子ども委員会での答弁で、加藤指導部長は「(教育)委員よりアンケート集約結果について報告するよう指示がございました」と述べている。これを指示した教育委員は誰なのか。また、大阪市がアンケートを重視すると決めたのは誰なのか。この点は、まだ解明されていない。
フジ住宅の今井会長は、全社員にたいして「大阪市については、大阪市内の教科書展示場にて数多く教科書アンケートを記入していただければ、育鵬社に採択される可能性が高くなるという貴重な情報をいただきました」(6月4日付内部文書)と指示した。今井会長に伝えた人物は、吉留哲也(育鵬社幹部)だ。いったい、だれが育鵬社にこれを伝えたのだろうか。まだ解明されていない。
アンケート分析
事務局からの報告は2部構成でおこなわれた。ひとつは、情報公開で開示されたアンケートの分析からわかったこと。アンケートには、1人で4枚以上書いているケースが28件以上、そのうち1人で10枚以上書いているのが7件、最大で24枚書いている人もいる。この事実を実証的に示した。もうひとつは、育鵬社とフジ住宅の結託について。フジ住宅内部資料を分析した結果、50人くらいの幹部社員が動いている実態が具体的に解明できた。アンケート用紙を持ち帰り、アンケートに記入した実態が明らかにされた。フジ住宅はこれらの行為を組織的に、業務活動としておこなった。
市民が声を上げよう
次に、上杉聰さんは基調講演で次のように述べた。「育鵬社版を採択するために教育委員の多数派工作をおこなっていた。これがうまくいかなかったから、5月段階で大阪市教委はアンケート重視に切り替えたのではないか」「採択に不正があったことは明白になった、これは違法行為だ。育鵬社教科書の採択撤回をあくまで要求していく。議会にまかせるのではなく、市民が声を上げることが大切だ」「ここまで不正が解明できたのは、フジ住宅の裁判がはたした役割は大きい。原告の女性は馘を覚悟して、資料を提供してくれた。戦争を賛美する育鵬社の教科書が使われることは、在日朝鮮人やアジアの人々にとっては耐えられないこと。彼女が自己の存在をかけて立ち上がらざるをえないところに追い込んでいるのは、日本人の側の責任だ。」
高嶋伸欣さんからはたたかい方へのコメントがあった。「教科書の採択会議で議長が恣意的にやったのは職権の乱用にあたる。」「教科書採択は一種の入札制度だから、大阪市の規則に違反していないかどうか。ここを調べるのもおもしろい」と語った(写真)。
なお、集会では各地のとりくみ報告もあり、東大阪市、吹田市、広島県呉市から報告された。教科書不正採択は、大阪市教育委員会と育鵬社とフジ住宅が結託しておこなわれた。教科書採択のやり直しを求め、大阪市教育委員会の責任を追及しよう。
書評
なぜ左翼はナチスに敗北したのか
池田浩士『ヴァイマル憲法とヒトラー』
(岩波現代全書 2015年刊)
「戦後レジームからの脱却」を唱える第二次安倍政権の成立(2012年12月)と、その別働隊の橋下・維新の登場にたいして、「彼らが何者であるのか」、「支配階級のいかなる危機を体現しているのか」を解明するために多くの人びとが格闘してきた。安倍首相の憲法改悪へのたび重なる言及、橋下の「改革者」を装った政治手法、そして麻生副総理の「ナチスの手口を学んだらどうか」という発言(13年7月)は、多くの人びとに1930年代のナチス・ヒトラーとの類似性を想起させた。
安倍政権の戦後民主主義の否定と、集団的自衛権の行使容認の踏み切りにたいして昨年、戦争法反対闘争が登場した。その最中の6月、池田浩士『ヴァイマル憲法とヒトラー ―戦後民主主義からファシズムへ―』(岩波現代全書)が刊行された。
著者は長く京大教授をつとめファシズム文化の研究をおこなってきたが、改めて今ナチスに言及するのは、ナチスを過去のものとしか見ない風潮があるからだろう。ナチスと言えばクーデターで権力奪取とされるが、ヒトラーの首相就任過程は合法的であった。この本は最も民主的と言われたヴァイマル憲法のもとで、「戦後民主主義からファシズムがなぜ生まれたのか」を、民衆の意識に沿い「なぜ彼らに人々が投票をしたのか」を今日的に解明している。
強いドイツを取り戻す
ナチスは、第一次大戦に敗北し膨大な賠償金を課せられたドイツに、「アーリア人の優秀性」と「アカとユダヤ人の排撃」を唱え、「強いドイツをとり戻す」現状変革運動として登場した。20年代ドイツは、最も民主主義的な選挙制度(徹底した比例代表制)のもとで、左派の社民党(SPD)や共産党(KPD)と、保守中道の中央党(カトリック政党)・民主党(DDP)が勢力を占め、「決められない政治」が続いた。転機は1929年世界恐慌がドイツを直撃し、完全失業率が44・4%になった時だ。ナチスはこの過程で中間連立政権や大統領内閣の無能さを攻撃し、30年の選挙では30程度の議席から100議席を突破し、32年7月選挙で第1党になる。33年1月30日にはヒンデンブルグ大統領(ブルジョアジーの「総意」の体現者)の指名でヒトラー内閣が誕生する。しかしこの時も少数内閣のヒトラーは、その正体をかくして、ブルジョアジーの多数を獲得するための工作をおこなう。
全権委任法の制定
ヒトラーが本性をむきだしにして独裁政治に進む決定的転機は、33年2月27日に発生した国会議事堂放火事件とその直後の全権委任法の制定である。これはナチスの謀略によるものというのが通説となっている。ヒトラーはこの事件を「ドイツ共産党の犯行」と断定し、共産党を禁止し、一斉弾圧をおこなう。そして全権委任法を制定(33年3月23日)、反政府的な文書の配布やゼネストの呼びかけを禁止した。社会民主党は解散させられ、他の政党もつぎつぎと「自主解散」した。7月の政党新設禁止法によって、ナチ党以外の政党は消滅した。11月の選挙では95%の投票率で、95%の支持を得て総統制を敷き、1945年のナチス・ドイツ崩壊まで独裁政治が続いた。
問題はこの過程の攻防をなぜ左派がたたかえなかったかである。「ならず者」への侮蔑はあっても、ナチスが人びとの心を捉えたことを分析して、ファシズムを迎え撃つ政治・経済・思想・文化上の対抗戦線を築けなかった。
「ナチスは失業をなくした」と言われるが実際は違う。ボランティア活動の日常化や徴兵制の復活で、統計上、失業が解消されたように見せかけていたのだ。ファシズムの「ファシ」は、「束」を意味するが、他方で「魅了」という意味もある。著者は、ナチスが人びとを捉えたものにあらゆるレベルから迫っている。これと対峙し、粘り強くたたかう勢力の形成抜きに、安倍や橋下の差別・排外主義や、憎悪扇動、反知性主義に勝つことはできない。(城戸)
6面
論考
被ばくとガン(第3回)(下)
請戸 耕一
「科学ではなく主観」
線量限度に関しては、〈この数字では高い〉が〈この数字なら妥当だ〉とする選択の基準は何なのかということが問題になる。
そこで1990年勧告は次のような議論を展開する。
まず、被ばく問題は「科学的判断」の問題ではなく、被ばくを〈受け入れるかどうか〉という「主観的な性格」(C)の問題とする。そして、その被ばくにたいする主観を〈受け入れられない〉、〈歓迎されないが合理的に耐えられる〉、〈受け入れられる〉の3つに分類し、〈受け入れられない〉と〈歓迎されないが合理的に耐えられる〉との間が線量限度になるというのである(C)。
〈受け入れられない〉と〈耐えられる〉の間が線量限度なのか。そのような曖昧なもので線量限度が決まっていいのか。
工事車両の放射線測定の様子(2011年5月) |
緩慢な死に「耐える」
まず、〈受け入れられない〉、〈耐えられる〉、〈受け入れられる〉という言葉自体に問題がある。
被ばくの問題は、繰り返すが、〈一定の割合で必ず起こる被ばくを原因とする死を受け入れる〉という問題なのだ。しかし、〈耐えられる〉〈受け入れられない〉という言葉から受けるニュアンスは、作業の長さや強度とか、熱さとか痛みといったことだ。
ここで扱っている低線量被ばくの場合、被ばくそれ自体には熱さや痛みなどの自覚症状はない。急性被ばくのように直ちに影響が出るわけではない。その限りでは〈耐えられない〉というような性質の問題ではない。しかし、将来における健康被害と死が確率的に訪れるのだ。そういうことが提示された上で、〈耐えられる〉とか〈受け入れられる〉と言っているのか。あるいは「将来における健康被害と死の確率」を提示すれば、〈耐えられる〉とか〈受け入れられる〉という選択を問うことが倫理的に許されるのか。
つまり〈受け入れられない〉か〈耐えられる〉かという形で進める議論の進め方は、職業被ばくが、それを原因とする「死」を織り込んだ問題であることを隠すものだ。
命を天秤にかける
さらに、Cの〈受け入れられない〉〈耐えられる〉という議論を支えているのが、人間の命や健康の問題を損得勘定に還元する功利主義の考え方であり、それに基づくリスク・ベネフィット論である(D)。
「リスクのない社会は理想郷である」(D)
「われわれは、現代社会の便益を享受するためには……リスクを容認しようとする……慣習がある」(D)
つまり、〈われわれは、行動や政策の選択において、つねに、リスク(確率的な危険性)とベネフィット(便益)を念頭に置き、両者を天秤にかけて、リスクに比べてベネフィットが大きい場合にその行動や政策を選択している〉という考え方だ。この考え方にもとづいて被ばくによる健康被害と死を受け入れさせようとしている。
この議論には次のような欺瞞とすり替えがある。
第一に、リスク(危険性)とベネフィット(便益)を比較するというが、リスクとベネフィットが質的に違っていれば、比較できるとは限らない。例えば、健康や命の問題を、他の便益と比較してどちらが得かという話にはならない。
第二に、比較できないものを比較しようとすることは、リスクもベネフィットもすべてを金銭価値に換算するということになる。リスクはマイナス、ベネフィットはプラスの価値として数値化され、差し引きプラスになれば有効な選択と評価される。
しかし、健康や命の問題は単に比較できないだけでなく、金銭価値に換算すること自体が飲み込めない話だ。ところが、実際にICRPの1977年勧告では、作業員の被ばくによる健康被害を金銭価値に換算する計算式を打ち出している。
第三に、なぜ物事を天秤にかけて比較しなければならないのか。その天秤(価値尺度)が社会通念上の了解事項のように言われているがそうなのかということだ。
あたかも天秤にかけなければ行動も政策も前に進まないかのように言われ、無自覚のうちにそういう選択をしているのだと決めつけられる。しかし、そうした狭い損得には還元できない多様な価値が世界には存在している。そうした多様性を排除し、すべてを損得による選択という方向に追い込んでいるのだ。
生命の歴史や人類の歴史、人間と自然との関係という視座からすれば、原子力=核エネルギーなどはおよそ負の産物でしかない。それを無理矢理、〈受け入れさせる〉論議が、このようなやり方でおこなわれてきたのである。
第四に、「われわれは〜……〜慣習がある」として社会一般を代表するように言っている点である。
実際のところは、社会全体が均等にリスクを取り、均等にベネフィットを受け取るわけではない。リスクが一定の階層や地域に集中され、またベネフィットも一定の階層や地域に偏在するということが往々にしてある。往々にしてベネフィットを受け取る人びとの声が大きく、リスクの集中を受ける人びとの声はかき消される。
原発を考えた場合、この偏りは顕著だ。作業員の被ばくにしても、事故の被害を見ても、社会全体が被害を受けるわけではない。被ばくを集中される人びとと社会全体との間には分断があり、犠牲を押しつける構造がある。社会全体の無関心によってこの構造が支えられている。
しかも、ICRPがあたかも社会一般を代表するかのように、「われわれ」を自称しているのは欺瞞にも程がある。
1990年勧告において〈被ばくを受け入れる〉かどうかと検討をしている者は被ばくはしない。被ばくするのは作業員である。その作業員は〈受け入れる〉かどうかの検討に全く関与していない。排除された人びとに犠牲が集中しているのだ。
〈耐えられる〉とか〈受け入れられる〉という話は、ICRPと各国の原子力機関、そして原子力事業者が、非対称的な力関係の中で、作業員にたいして〈死を受け入れさせる〉ということなのだ。
労働災害と被ばく
被ばくに関する功利主義的な考え方への批判に加えて、Dで「職業上の年死亡確率」との比較を挙げている点も問題にしておきたい。「職業上の」とは建設現場や工場などで発生する労働災害一般ということを指している。
Dでは、労働災害一般における労災死の確率と、被ばくを原因とする死の確率とを比較し、労災死と同程度にすれば、〈受け入れられる〉ではないかという議論を展開している。
しかし、労働災害一般と被ばくとを同列に扱うことができるだろうか。
まず、建設現場や工場作業などで発生する労働災害である。その発生の直接的原因は、現場の不安全状態や不安全行動であり、その背後にはその事業者の安全管理の欠陥や効率優先の経営姿勢といった問題がある。このようなリスクは取り除かれなければならないし、取り除くことができる性質の問題だ。
ところが、被ばくはどうか。「計画被ばく」というICRPの用語がある通り、原子力施設の操業が計画どおりおこなわれ、安全管理が徹底していても、作業に伴って計画どおり被ばくがあるのだ。この被ばくを取り除くことはできない。それが原子力という産業の宿命なのだ。
つまり、労働災害一般における労災死の確率がこの程度だから、被ばくを原因とする死の確率も同程度にすればいいというのは、同列に扱えないものを比較する暴論なのだ。
〈命を使い捨て〉にする思想
ICRPの1990年勧告は、被ばくは健康被害を確率的に不可避とし、原子力産業が一定の確率での健康被害と死を避けられないこと、健康被害を極力避けようとすれば、原子力が産業として成立しないということを完全に認識している。にもかかわらず、成り立たないものを成り立たせるために、功利主義的な考え方を導入し、〈この程度の人数は被ばくで死んだり病気になったりするけど、それくらいはいいんじゃないか〉と言っているのだ。科学的な装いをとっているが、〈命を使い捨てにしても構わない〉という反倫理的なイデオロギーだ。そういうイデオロギーに依拠しないと成り立たないのが原子力というものなのだ。
こうして見ると、最初で見た「防護基準を守っていても労災は起こる」という厚生労働省の発言は、法定の被ばく限度およびICRPの線量限度に孕まれる欺瞞性と非人間性を正直に吐露したものに他ならない。(つづく)
ICRP1990年勧告からの抜粋
(抜粋の【C】【D】の記号および下線は引用者が便宜上つけた)
【C】
委員会は、被ばく(あるいは、リスク)の耐容性の程度を示すため3つの言葉を用いることが有用であると考えた。それらは必然的に主観的な性格のものであり、考えている被ばくの形式と線源との関連において解釈されなければならない。第一の言葉は、“容認不可”であり、この言葉は、委員会の見解では、その使用が選択の対象であった任意の行為の通常の操業において、いかなる合理的な根拠に基づいても被ばくは受け入れることはできないであろうことを示すために用いられる。そのような被ばくは、事故時のような異常な状況では受け入れられなければならないかもしれない。さらに容認不可ではない被ばくは、歓迎されないが合理的に耐えられることを意味する“耐容可”の被ばくと、いっそうの改善なしに、すなわち防護が最適化されていたときに、受け入れられることを意味する“容認可”の被ばくに区分される。この枠組みにおいて、線量限度は、それを適用しようとする状況、すなわち行為の管理に対する“容認不可”と“耐容可”との間の領域における一つの選ばれた境界値を表している。(勧告本文)
【D】リスクのない社会は理想郷である。
われわれは、現代社会の便益を享受するためには、もしそのリスクが不必要なものではないか簡単に回避できないならば、あるレベルのリスクを容認しようとする、言葉では語れないような慣習があるようにみえる。明らかな疑問は、そのレベルはどの程度かということである。
英国学士院の研究グループの報告書(1983)は、百分の一という連続的な職業上の年死亡確率を課すことは容認できないと結論づけたが、しかし、千分の一の年死亡確率の場合には状況はそれほどはっきりしないことを見出した。… 委員会のPublication26(1977a)の中で勧告した線量限度は、容認できない範囲の境界は、最大に被ばくした個人に対して約10-3という職業上の年死亡確率であるとする、暗黙の仮定のもとに提案されたものである。(付属文書)