未来・第189号


            未来第189号目次(2015年12月3日発行)

 1面  関電は原発再稼働やめろ
     高浜―大阪 リレーデモ
     全原発の廃炉訴え200キロ

     あきらめない 戦争法廃止
     国会包囲に9千人が参加
     11月19日

     市民の自主的運動が課題
     大阪ダブル選が示すもの

 2面  新基地建設 止められると確信
     辺野古現地レポート(11.11〜20)

     警視庁機動隊でケガ人続出
     三上智恵・山城博治さんが講演
     11・21 京都

     読書
     『沖縄の自己決定権』から学ぶ
     (新垣毅著・琉球新報社 2015年6月刊 1620円税込)

 3面  緊急インタビュー
     辺野古の闘いと沖縄の未来
     ヘリ基地反対協共同代表 安次富浩さんに聞く(上)      

 4面  大衆運動家で優れた理論家
     松田勲同志を悼む
     東山 松舟

     ヘイトスピーチを越えるため
     差別・排外主義に反対する連絡会が集会

     居住地や国籍で差別せず援護を
     在韓被爆者医療費裁判が勝訴

 5面  ルポ
     「子どもたちを被ばくさせるしかないのか」
     南相馬市206世帯が提訴(下)
     請戸 耕一      

 6面  検証
     釣魚台(尖閣諸島)と在沖米軍基地
     ロバート・D・エルドリッヂ『尖閣問題の起源』を読む(上)      

     冬期特別カンパのお願い

       

関電は原発再稼働やめろ
高浜―大阪 リレーデモ
全原発の廃炉訴え200キロ

大阪市内にはいり、手をふる市民に応えて進むリレーデモ(11月20日)

「高浜―関電本店リレーデモ」が最終日の11月20日、関電本店前に到着。午後6時半から「関電包囲大集会」がひらかれ、一千人が集まった。
主催者あいさつで小林圭二さん(リレーデモ大阪実行委員会呼びかけ人)は、「このリレーデモは画期的な試みであった。これまで点でしかなかった声を線につなげ、地域地域での交流を深めることによって、点が面にひろがるという展望を持った一大運動となった」と振り返った。つづいて、リレーデモを各地で準備した5つの実行委員会(福井、滋賀、京都、高槻、大阪)から、それぞれ報告。さらに、5月に九州で「川内原発再稼働反対」の九州縦断デモをおこなった〈川内の家〉岩下雅裕さんが発言。

電力消費地から声を

中嶌哲演さん(原子力発電に反対する福井県民会議代表委員)は「電力消費地・関西1500万人の声なくして、原発の息の根を止めることはできない」と消費地住民の奮起を訴えた。
宮下正一さん(同・事務局長)は、「まわりに輝く電気(の光)を見て下さい。しかし今、関西電力の原発は1つも動いていない。これが事実なんです。原発がなくても電気は確保できる、経済は確保できる、これが今証明されている。原発の安全は、動かさないことが一番安全だ。高浜原発仮処分異議審での勝利をもぎとり、再稼働を止めよう。もんじゅを廃炉に、高浜を廃炉に、12月5日、全国集会(於:福井市内)に集まって下さい」と呼びかけた。
最後にまとめをリレーデモ呼びかけ人の木原壯林さんがおこない、「リレーデモで点から線になった。この線を燎原の炎のごとく拡大し、電力会社、財界、安倍政権を震撼せしめ、彼らの原発への野望を根絶したい。原発は人間が動かしている。自然災害とは異なる。自然災害を止めることはできないが、原発は人間の意思で止められる。事故がおこってからでは遅い。全原発の即時廃炉をたたかいとろう」とアピールした。

高浜町から大阪市まで

11月8日に関電高浜原発(福井県高浜町)を出発した「高浜―関電本店リレーデモ」は、再稼働反対を訴えながら200qの道のりを13日間かけて歩きとおし、20日、関電本店前に到着した。
リレーデモは、行く先々で予想外の歓迎を受け、玄関や軒先から手を振る住民、カンパを持って追いかけてくる方々、差し入れなどがあった。また、そのまま行進に参加し、一定区間同行した人たちもいた。再稼働に不安をもち、反対している人があちこちにいることがわかった。
リレーデモ実行委員会によれば、賛同は個人295、団体59。参加者は13日間でのべ900人ちかく。全行程歩き通した人2人、1日だけ休んだ人3人。申し入れた沿道の自治体は17に及んだ。若狭から大阪まで、点であった原発反対運動を細いながらも線で結ぶことができた。この線は努力次第でどんど太くできるとことを実感した取り組みであった。

あきらめない 戦争法廃止
国会包囲に9千人が参加
11月19日


戦争法強行採決から2カ月目の11月19日、「私たちはあきらめない! 戦争法廃止! 安倍内閣退陣! 国会正門前集会」がひらかれ、9千人が集まった。呼びかけは戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会(写真)
集会は、野党各党の国会議員の発言から始まり、戦争法違憲訴訟を準備する弁護士などが発言。

ファシストと闘おう

〈インド核軍縮と平和のための連合〉クマール・スンダラムさんがアピールに立ち、「私は、日印原子力協定に反対するために日本に来た。日本は武器輸出のできる国になっている。その初めての輸出先がインド。私はとても恥ずかしい。インドの首相は安倍政権と兄弟のようだ。安倍は教科書や歴史を書きかえようとしているが、インドでも、同じことが起きている。力を合わせてファシスト、軍事大国化に反対していこう」と日本の闘いにエールを送った。

新たな殺りく許すな

シカゴ大学名誉教授のノーマ・フィールドさんは「日本社会は、いくら形骸化したとはいえ憲法9条というかけがえのないものを守り抜いてきた。これを一度手放してしまったら絶対に取り戻すことはできない。アメリカは、核大国であるとともに被曝大国でもある。核兵器を作り続ける中で、たくさんの被曝労働者が生まれている。ドローン爆撃機の操縦者の自殺が増えている。人間は決して楽に人殺しはできない。パリの『テロ』でアメリカやその同盟国がまた、新たな殺戮に走るのではないかと多くのアメリカ人も恐れている。許してはいけない」と訴えた。

29日、日比谷野音へ

止めよう! 辺野古埋立て国会包囲実行委員会の野平晋作さんは「一昨日、政府は翁長知事の埋め立て承認取り消しを撤回する代執行を求めて高裁に提訴した。地元の了解が得られないことを理由にオスプレイ訓練拠点の佐賀空港移転構想を撤回したが、沖縄では民意を無視している。これは沖縄差別だ。沖縄ではさまざまな手段を尽くしてたたかっている。私たちもあらゆる手段を駆使して新基地建設を阻止しよう」と11月29日の日比谷野音への結集を訴えた。
最後に、「戦争法絶対廃止」のコールをおこない、この日の行動を終えた。(向井)

市民の自主的運動が課題
大阪ダブル選が示すもの

11月22日に投開票がおこなわれた大阪のダブル選挙は、府知事選で現職の松井一郎が約200万票、市長選は新人の吉村洋文が約60万票を獲得し、大阪維新の会の勝利となった。
大阪市長選で見ると、「維新」対「反維新」の対決となった前々回の市長選挙や住民投票と比べると維新は票を減らしているものの60万票近く獲得している。これにたいし反維新の柳本顕(無所属・自民推薦)に投じられたのは住民投票での反対票よりも30万票も少ない41万票であった(前回市長選では橋下75万―平松52万、住民投票では賛成69万―反対71万)。
多くの市民が「維新打倒」の連携を求めたのにたいし、自民党大阪府連は連携を否定する対応に終始した。また左翼的・良心的な人びとの間でも戦争法を強行可決した安倍政権にたいする怒りが大きく、自民党の候補者に投票することにも大きな抵抗があった。自民支持層の票は維新に流れ、住民投票で反対の人が棄権した。
対決軸は安倍・橋下による格差・分断・差別、対立、戦争、強制の新自由主義政治か、それとは対極の生活・命、連帯・協同、自治・自決の政治かにあった。しかし反対派はこれを簡潔なスローガンに煮詰めて住民に提起することに成功しなかった。公職選挙法の縛りがあるとはいえ、住民投票に見られた市民のわきあがるような自主的・自発的な運動は弱かった。
一方の維新は「維新の選挙戦術の集大成」といわれるように、空中戦だけではなく、ネットの駆使、ポスティング、電話かけ、つじ立ちなどを総力でおこない、地域制圧をめざす組織戦を展開した。60万票のかなりの部分は「ふわっとした民意」ではなく、固い基礎票になったと見るべきだ。
ダブル選の結果を受けて、松井・吉村の「維新コンビ」が新自由主義的施策を強行すれば、大阪の地盤沈下はいっそう進むだろう。格差と貧困の拡大も避けられない。安倍は明文改憲の策動を強める。原発再稼働反対、辺野古新基地建設阻止、戦争法廃止などを軸に安倍―橋下を倒す運動のうねりを実現することが急務だ。
来年の参議院選挙に向かって野党統一候補の気運が高まっているが、それが単なる政党の「野合」にとどまるなら、安倍政治に勝てないだろう。「市民革命」といわれる市民のわきあがる自主的・自発的たたかいのなかでこそ、参院選の勝利もある。それが今回の大阪ダブル選挙の教訓であろう。(剛田力)

2面

新基地建設 止められると確信
辺野古現地レポート(11.11〜20)

11月10日、大浦湾に入ったスパット台船

やったぜ!スクラム

11月11日、議員総行動のこの日、行動の呼びかけにこたえ、午前6時より市民が続々とシュワブ・ゲート前に結集した。その数500人。市民は第1ゲートを占拠した。密集し腕を組み座り込む。さらに第2ゲート前にも車両の走行を止めるため立ちふさがる。機動隊は警備を2分され慌てふためく。これまでは市民を1カ所に閉じ込め、作業車両をゲートから入れていたが、市民側の分断作戦に対応できない。
機動隊は午前6時50分国道をふさいだ。作業車両と作業員を載せた車両11台がゲートめがけて疾走してくる。市民はさらに密集してスクラムを組みダイイン。危機にかられた機動隊が排除に襲いかかる。市民の多さになかなかスクラムを崩すことができない。交通は完全にストップ。市民は排除されてもすぐに隊列を整え、機動隊をおしかえす。攻防は1時間半にわたって続いた。機動隊はへとへとになり汗だらけだ。市民は意気揚々と何度も機動隊を押しまくった。
この攻防で2人が救急搬送されたが逮捕者はいなかった。どの顔にも「やった」と勝利感があふれていた。山城博治さんは「今日のたたかいで、新基地建設を止められる確信を持った。多くの県民が集まれば、政府に立ち向かえる」と勝利の拳を振りかざし、18日には1000人規模の動員をめざすと宣言した。

4カ月ぶりの掘削工事

12日、海上では、ボーリング調査が始まり、4カ月ぶりの掘削を再開。陸上と海上で工事が再開された。海上では、抗議船団とカヌー隊が拘束されながらも、果敢に決起した。ゲート前では150人の市民が抗議の声をあげた。その後も連日の工事に、海上とゲート前で激しいたたかいが続けられた。怒りに満ちた県民は、18日1000人の総行動決起に決意を固めた。
18日午前6時、キャンプ・シュワブゲート前に市民が続々と集まってくる。第1ゲート前の国道を挟んで両側の歩道がぎっしりと人々で埋まっていく。第2ゲートまでも人の波が連なる。午前7時、いつもなら作業車両と作業員を乗せた車10台ぐらいが連なって来る時間だ。機動隊も作業車両を入れるために、座り込む市民の排除にかかる時間だ。しかし作業車両は現れず、機動隊はゲートの中から市民の行動をうかがっているだけだ。
第1ゲート前は人々が埋め尽くしているため手が出せない。国会議員、県議、市町村議員、そして辺野古区民はじめ沖縄県民の総結集だ。新ゲート前では、米軍車両の間に立ちはだかって徹底した抗議の声をあげる。第1ゲート前からは1台の車も入れない。完勝だ。スクラムを組んだ市民は顔をほころばせ「辺野古ダンス」を踊りだす。8時45分、参加者が1200人に達した。

海保、機動隊が暴行

海上では、ボーリング調査がおこなわれている。抗議船4隻とカヌー14艇で抗議。たちまち海保による拘束が始まる。午後2時ころ、海保4人が1隻の抗議船に乗り込み、船長1人にたいし3人がかりで押さえ込んだ。船長は意識を失ったが、海保は救急車を呼ばず、抗議船の航行を妨害した。
ただちにテント村本部に詳細が届けられ、本部から第11管区海上保安本部に抗議と緊急要請をおこなった。午後3時ころ、船長は汀間漁港から救急搬送された。過呼吸症候群と足挫傷で全治1週間のけが。その日のうちに退院した。
20日、ゲート前でけが人が救急搬送された。工事強行の政府の暴力は海でも陸でも止まらない。しかし、沖縄県民はじめ全国から結集した市民は、連日のはげしいたたかいに決起している。多くの人が集まれば工事を止めることができる。全国から辺野古にかけつけ、新基地建設を阻止しよう。

警視庁機動隊でケガ人続出
三上智恵・山城博治さんが講演
11・21 京都


11月21日午後、『戦場ぬ止み』上映と三上智恵監督の講演(ピースムービーメント主催)、夜は沖縄平和運動センター議長・山城博治さん講演会(写真上)(No Base! 沖縄とつながる京都の会主催)が、京都市内でひらかれ、それぞれ300人が参加した。
山城さんも三上監督も、現在の辺野古での攻防をリアルに話し、共通して語ったことは、11月4日に警視庁の機動隊が辺野古に来てから、キャンプシュワブ・ゲート前での攻防でけが人が続出し始めたこと、沖縄県警と警視庁は違うということ。
山城さんは、「警視庁は沖縄県警の監視に来ている。現在ゲート前で、『沖縄県警は安倍の傭兵に指揮権を取られるな。沖縄県警がんばれ』と毎日叫んでいる」と語った。 三上さんは、山城さんが4月にゲート前で悪性リンパ腫を公表し、闘病に入ることを宣言し、翌日お別れに来た時、高江の攻防以来の関係である名護署の幹部が3人来て、山城さんに「元気で帰ってきてくれ」と言って握手をしたエピソードを紹介。

12月14日にオール沖縄県民会議を結成

山城さんは、現在32自治体に結成されている島ぐるみ会議をさらに発展させ、オール沖縄県民会議の結成大会を12月14日におこなう。ゲート前の座り込みで、水曜行動での11月11日と18日はそれぞれ、500人と1000人が結集し、その力で機動隊がごぼう抜きができず、搬入を阻止した。こうした闘いを週に1回でなくもっとできるように、オール沖縄県民会議で動員の調整をしていけるようにするつもりだと語った。さらに京都からはすでに辺野古に多くの人が来ているが、これからもっと多くの人に辺野古に来てもらいたいと語った。
三上さんは、米軍のエアシーバトル構想について説明。米軍は台湾を包囲する中国艦艇に宮古島や、与那国島の自衛隊からミサイルを撃たそうとしていること、そのために集団的自衛権を日本に飲ませた。米軍は後方へ引いたうえで、自衛隊が与那国島や宮古島に上陸した中国軍を想定し、「離島奪還訓練」をしている。国会答弁で中谷防衛大臣が、自衛隊がF35や空対地ミサイルを導入するのは、「国土が占拠された場合を想定」と言っているのはこのことであると説明。週刊金曜日の10月30日号で このことを三上さんと伊波洋一さんが説明しているコピーを配布した。

読書
『沖縄の自己決定権』から学ぶ
(新垣毅著・琉球新報社 2015年6月刊 1620円税込)

この間の沖縄にたいする政府の態度は、琉球併合(沖縄処分)を彷彿とさせる。琉球併合は1872年から79年にかけて、琉球の意志を踏みにじっておこなわれた。台湾併合(1895年)、朝鮮併合(1910年)がそれに続いた。

領土拡張主義

1871年宮古住民の船が台風で流され台湾に漂着、乗組員69人中54人が殺害されるという事件が起きた。清国(中国)との間ではすでに決着していたが、この事件を口実に、明治政府は台湾出兵を閣議決定し(1874年)、3600人の兵を台湾南端に送り占領した。目的は「台湾は無主の島」と主張し、台湾を奪うためであった。小笠原諸島の領有を狙っての英国公使パークスと寺島外務卿との会話を見ると、そこには「ほしいからとる」「必要だからとる」という強盗の論理しかない。

強制収用と軍隊の派遣

1876年5月、陸軍省は那覇港の近くの真和志間切古波蔵村に、鎮台兵営を設置するために、地主の耕作を禁じ、目印の杭を打った。沖縄における強制的土地収用のはじまりである。9月、琉球における最初の「外国軍(日本軍)」基地(鎮台分営)が完成し、25人の兵士が派遣された。
1879年3月27日、松田道之処分官は随行官9人、内務省官員32人、武装警官160人余、熊本鎮台兵約400人を伴って、首里城に入り、「31日正午までに首里城を立ち退き、熊本鎮台分遣隊に明け渡せ。藩王は東京に移住せよ」という「廃琉(藩)置県」の通達を読み上げた。
尚泰王が東京に連行されたが、琉球政府の指導層は「新県政に勤め、給与を得たら、斬首する。反抗し命を落としたら、家族を養う援助をする」という血判誓約書がつくられ、抵抗運動が全島に広がった。明治政府は大弾圧に乗り出し、両手を縛り、梁に吊し、棒で殴るなど100人余を拷問にかけた。この抵抗は1894年日清戦争の時まで続いたがねじ伏せられた。

国際法上不正

著者は1879年の「琉球処分」は国際法上不正だったとしている。その理由は、琉球はもともと独立した国家であり、米国などと条約を結んでおり、国際法上の主体であり、日本の一部ではなかったからだ。
1880年に発効した「ウィーン条約法条約」(日本加入1881年)の第51条には「国の代表者への脅迫や強制行為の結果結ばれた条約は無効」と規定されている。1879年の琉球併合時には、この条約は国際慣習法として成立していた。植村英明・恵泉女学院大学教授は「琉球処分」は国内問題ではなく、国際問題であり、琉球の植民地化だったとし、阿部浩巳・神奈川大学教授は「自国の一部ではなかった琉球王国を強制的に併合した。松田道之の行為は国際法上不正であった」としている。1962年のダーバン宣言では、「植民地支配の責任を追及し、過去の不正義を是正しなければ未来はない」と明記している。宣言によって、過去の不正義を糺す潮流がうまれ、侵略国が不正義の事実を認め、謝罪する動きが加速した。
2010年、国連人種差別撤廃委員会は琉球人を先住民族、独自の民族と認め、「米軍基地の押しつけは人種差別」と勧告したが、日本政府は琉球王国やアイヌモシリ(人間の静かなる大地=北海道)について、「植民地」と認めたことはない。
このように、日本政府は沖縄(琉球)を暴力的に併合したが、謝罪もなく、今もなお日本国の利害にもとづき、米軍基地を押しつけ、不当な差別をしている。沖縄の人々とともに、辺野古新基地建設を許さないたたかいにとり組もう。(田端登美雄)

3面

緊急インタビュー
辺野古の闘いと沖縄の未来
ヘリ基地反対協共同代表 安次富浩さんに聞く(上)

キャンプシュワブ・ゲート前で工事強行に抗議する市民たち(11月9日 名護市内)

10月27日、政府は翁長知事が「辺野古埋め立て承認」を取り消したことにたいして、「代執行」の手続きを取ると発表。国交省が「取り消し」を「一時停止」した。そして10月29日、沖縄防衛局は沿岸部で埋め立て工事に着手した。工事再開の初日に、辺野古浜の座り込みテントで、ヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さんに話を聞いた。(10月29日取材 文責 本紙編集委員会)

―翁長知事による埋め立て承認取り消し後の情勢についてお聞きします

翁長知事が10月13日の取り消しに至る過程において、政府と沖縄県との協議もあったわけですが、その協議の内容は、「辺野古が唯一の解決策」という話だけなんです。
普天間基地の危険性を除去するために、辺野古新基地を受け入れなければ、普天間基地はそのまま固定化するぞという恫喝まがいのことが延々と続いているんです。
いわゆる第三者委員会の結論をふまえて、仲井真前知事が埋め立てを承認したことには瑕疵があったということで、翁長知事は埋め立て承認を取り消したけど、翌日、沖縄防衛局は、行政不服審査法にもとづいて審査のやり直しと、翁長知事の処分の失効・無効を求めて、国土交通省に不服申し立てをおこないました。
同じ頃に、内閣改造があって、われわれからすれば沖縄の裏切り者筆頭の島尻安伊子という参議院議員を沖縄北方担当大臣に就任させました。これは私たちへの見せしめでしょうね。さらに久辺3区、久志・辺野古・豊原、キャンプシュワブが所在する行政地域にですね、ここに補助金を出すという話がまた浮上してきており、アメとムチの政策が連続して出てきています。

―お話に出てきた島尻議員とはどんな人ですか

島尻議員は、今年の初めに、「ボーリング調査に抵抗する者は刑事特別法ですぐに逮捕しろ」と国会で質問した人です。じつは彼女は5年前の参議院選挙の時に「県外移設」をいっていたわけで、彼女自身も「県外移設が有権者の支持を得て当選した」といっていました。こういうコメントを残しておきながら自民党の中央の圧力に真っ先に屈して「県内へ」という立場にすり替わったんです。
沖縄の民意は「もう自民党は許さん」という大きな力になっています。去年11月の県知事選挙では、10万票差で翁長さんが勝利し、12月の衆議院選挙では、沖縄選挙区の4つとも自民党は落選しましたね。そういう「自民党は許せない」という声が強まっているなかで、島尻議員を沖縄北方担当大臣に据える意図は「ヒラでは負けるけど、大臣だったら勝てる」ということでしょ。そうすれば、翁長さんを支えている経済界に亀裂を入れ、あるいは地域に亀裂を入れることができると思っているのでしょう。まあ、予算がほしかったら「沖縄担当大臣の言うことを聞け」ですよね。旧態依然だけど、自民党の得意のやりかたで沖縄に襲いかかってきたということです。

―沖縄と政府はまっこう勝負です

いま言ったような流れが背景にあって、日本政府と沖縄がもう真っ向からの対決という状況に入っています。政治的な妥協の余地は向こうにもなければ、こっちもないという状況に入ってきましたね。
だから、とんでもないことが起きています。一方では、防衛省は「私人」の立場で、身内の国交省に不服申し立てをおこない、他方では、国交省は知事の処分取り消しの効力を停止しようと動きだしました。その国交担当大臣は公明党ですよね。沖縄の創価学会も公明党も辺野古移設反対だから、そういう形で圧力をかけています。
身内同士で公平な審理なんてできるわけがないということで、行政法の学者94人からも声明がでていますが、それでもそれをやりぬくという。ここに安倍政権のファシズム性が如実に現われています。
さらに、仲井真前知事が埋め立て承認の条件とした埋め立てに関わる環境などを監視する委員会を立ち上げました。しかし、ほとんど秘密の会議で、議事録すら残っていません。しかも、その委員の大半が国が作った辺野古移設のアセスの作成委員だったわけですね。さらにその作成委員のなかに、辺野古建設に関わる企業から献金を受けているひとがいます。
ここに公平性なんてありますか。仲井真県政はこういうことを平然とおこなって、辺野古新基地建設に反対する者は何が何でも潰そうとしてきたのです。これが今の安倍政権のファシズムの本質だと思います。

―翁長さんを支えていくには

一つは県外の皆さんに訴えていくことが重要だと思っています。すでに辺野古基金が4億6千万円も全国から集まっています。3分の2は県外です。
辺野古基金の代表にアニメ作家の宮崎駿さん、あるいは俳優で、去年私たちに熱烈な応援メッセージを送ってくれた菅原文太さん(故人)のお連れあい、あるいは鳥越俊太郎さんなど、そうそうたるメンバーが共同代表になって私たちを支えてくれているし、全国から辺野古の現場に数多くの人が座り込みに参加してくれています。そういう人たちとの結びつきが大事だと思っています。
なぜなら、今の安倍政権は積極的平和主義という名の下で、戦争のできる国づくりにまい進しているわけで、それが特定秘密保護法であり、今回の戦争法であるわけですよ。私たちはそれらに反対する人びととの連携を密にしないといけないと思いますね。
このかん、政治に無関心であった若者層がシールズという形で登場してきています。さらに、自分の子供を戦場に送りたくないということで、多くのママさんたちも立ち上がりました。これは今までの流れからすると大きな変化であり、民主的な社会をつくっていこうと、立ちあがった人たちと結びつくことが非常に大事だということが見えてきました。

―もうひとつの方向とは

もうひとつは、川内原発1号機(8月11日)と2号機(10月15日)が再稼働し、他の原発も再稼働させようという動きがありますね。福島の原発事故のあと、「もう原発がなくったって生活できるじゃないか」「なんで、あえて原発を再稼働させるんか」と、ものすごい反発があるにもかかわらず、その声も聞かずにやっていく。
TPPにしても農民の声を聞かず、アメリカと妥協し、追随する安倍政権を変えていかなくちゃならない。だから農民とか、反原発・脱原発で行動している市民運動の人たち、そして戦争法に反対している幅広い国民層ね、学者も含めて、そういう人たちと結びついて、この国を変えていかなくちゃならない。
「法案が通ったから、もうだめだ」とあきらめるんじゃなくて、むしろこれからが正念場でしょう。次の参議院選挙で、沖縄みたいに統一候補を立てる努力をしてほしいですね。細かいことを出しあったら話にならんから、大きな枠で、まずは戦争法をつぶす、原発は止める、辺野古の新基地は止めるというように、大同団結をするべきではないかと思います。

―辺野古のたたかいは厳しい段階に入りました

ヤマトと沖縄の連携と同時に、私たちには法廷闘争が控えています。法廷闘争は厳しいと思います。なぜ厳しいかというと、今の日本の司法は3権分立じゃないからです。3権分立をダメにしたのは最高裁の田中耕太郎でしょう。彼は「日米安保条約、在日米軍の存在は日本国憲法違反だ」といった伊達判決を覆して、その後「司法は政治に関わらない」ことになりました。
しかもその時に田中耕太郎がアメリカの大使と秘密に面談し、意見交換をしているということからしても、日本における司法の独立なんてのは、もともとないわけです。そういう流れのなかで、法廷闘争は非常に厳しさもあるけれども、そういう枠のなかで翁長知事が法廷で国と争うことになりました。
私たちはそれだけじゃなくて現場でしっかりと作業車を止め、あるいはボーリング調査を止め、埋め立てを止めることによって、抵抗を示し、日本が民主的な社会でないということを、国際社会にアピールしていきたいと思います。
海上でいえば海上保安庁が総がかりだし、ゲート前ではヤマトから機動隊を送ってでも、私たちの抵抗運動をつぶそうとしています。現地のたたかいは実体的に厳しいけれども、ここで私たちがたたかいの旗を降ろしてしまったら、もう相手の思うつぼです。要は厳しければ厳しい時の知恵を働かしてどう抵抗していくかだと思います。
現在の焦点は辺野古だけれど、嘉手納以南は使わないというんだから、「使わないところは返せ」という運動をつくりあげる。もう読谷はいらないから、トリイ(米陸軍通信施設)は「出て行け」と、あちこちでのろしを上げ、炎を燃やすということがこれから必要になってきます。そうしなきゃ、日本政府もアメリカ政府もビビらんですね。そういうたたかいが必要になってきます。
今日、米軍車両をしばらく止めたという。あちこちでそういうふうになってきたら、米軍自身が沖縄県民を恐怖するようになり、我々の運動で脅かすということが必要だと思うわけです。
今は辺野古・普天間問題だけど、根底にあるのは沖縄の全ての基地、米軍基地も自衛隊基地も沖縄から追いだして、遠い昔の軍事基地がなかった沖縄のように、そういう地域社会をつくりあげたいと思っています。
それでアジアとの交友関係、外交関係、経済関係がいっそう発展できるんだと思います。それが私たちの沖縄の未来の社会の姿だと思うので、翁長さんを支える経済界も含めて、そういう社会をめざして、日本政府と対決していきたいと思っています。(つづく)

4面

大衆運動家で優れた理論家
松田勲同志を悼む
東山 松舟

私が松田勲先生と特に親しくさせていただいたのは、党が分裂してまもなくからでした。
その当時の先生の言葉を今でもよく覚えているのですが、先生は「家族問題の革命的解決なんていうのは嘘っぱち。むしろそういうことをしてはならない。人間の最初の大衆像は親を見て形成される」と言ったのです。これは以前の革共同がカクマルとの「内ゲバ」に組織全体を収斂していく過程で、組織固めをするために編み出した思想ですが、それを痛烈に批判するものでした。またそれに無自覚であった私を批判するものでもあったのです。
さらに分裂を引き起こした革共同中央派の安田―大原が部落解放運動を破壊する挙に出たことに対し、先生は私を伴って、この問題を東大阪の故・F氏に釈明に伺いました。F氏は先生の説明を聞いて「それは共産党が起こした矢田事件とまったく同じことですね。」と理解されました。松田先生はF氏に三里塚闘争その他、様々な問題についても説明をし「私は人生を賭けたとまでは言わないが、少なくとも職は賭けました」と三里塚への思いを込め、自らの実践として三里塚闘争を語っていたのを覚えています。
先生は根っからの大衆運動家でした。2008年から「戦争と平和を考える集い実行委員会」という大衆運動を創りあげたのもその一例です。その運動は2010年まで続きましたが、先生は、私の記憶では2009年にALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されていたのです。
先生は同時に優れた理論家でもありました。党の分裂の直後から「レーニンがあの時代に『帝国主義論』を打ち出したことは画歴史的なことだった。しかし現代のグローバリゼーション、新自由主義を解明しようとする場合、レーニン帝国主義論を媒介せず、マルクスの『資本論』で分析するほうがよりすっきりする面がある」と言い、一から再び『資本論』を研究する作業を開始したのです。「そもそも階級闘争という概念が現代に通用するのか」と、何もかもア・プリオリにせずそれをおこないました。そしてそれは病魔との命を賭けた競争だったのです。
そのプロセスで先生は「革共同はこれまで戦後民主主義を蛇蝎のごとく嫌っていた。しかし戦後の日本の人民の民主主義に対する思いはそんなに軽くない。むしろ徹底した民主主義を貫徹する闘争の向こうにプロレタリア革命を展望しなければならない。」という趣旨の試論を出していました。私が「それは永続革命論じゃないか」とつぶやいたところ、先生は「そう言われるなら光栄だ」とニヤッとしていました。
さらに部落解放理論を再構築するために島田論文の批判から始めたり、理論闘争においては何物をも前提にせず、マルクスを批判するためにルソーを読み込むなど、私などからすれば、とんでもない作業をおこなっていたのです。ALSのためにそれらは未完に終わらざるを得ませんでした。さぞかし無念だったことでしょう、先生!
先生はゴキブリを殺すことも「生きているものは殺したらあかん」と言って、嫌っていました。日本の捕鯨にも反対していました。人に対しては、どんなにろくでもないことをしている人間でも、見捨てることをしませんでした。
「京都の舞妓と和歌山の芸者とどっちが格が上か」と私は先生に雑談を吹っかけたことがあります。答えは聞かずとも明らかでしたが。あらゆる人間がありのままで肯定され解き放たれる、松田勲同志はそういう思想を全人生において体現された方でした。 7年もの闘病、お疲れさまでした。

ヘイトスピーチを越えるため
差別・排外主義に反対する連絡会が集会

11月に都内で、差別・排外主義に反対する連絡会主催の「差別・排外主義にNO! 11・21講演集会」が開かれた。
まず司会から次のような現状認識が示された。
「ヘイトは沈静化しておらず、先日は同じ日に首都圏3カ所でヘイトデモが強行された。ヘイトを生む土壌が一定根付いてしまった。現政権は安倍を筆頭としたヘイト勢力。何かの契機で大規模なヘイトが勃興する危機がある」。
次に、「ヘイトスピーチを越えて」と題した崔真碩(チェジンソク)さんによる講演。
崔さんは韓国生まれの東京育ち。現在は広島大学准教授。昨年、授業で日本軍「慰安婦」を扱った映画を題材としたことを、学生が産経新聞に投稿したことがきっかけで、激しいバッシングを受けた。
「自分は腹をくくって慰安婦問題を題材としてきた。学生が実名で投稿したことにも驚いたが、講師も学校も飛び越えてマスコミにという事例は教育史上前代未聞ではないか。記事の掲載については前日に記者から通告があった。波及の重大性について検討するよう求めると、自分のコメントを載せることにはなった。その記者には、組合もないスクープに飢えた新聞社の中で自分を壊しながら仕事をしているという印象を持った。学生も記者も、『ネット右翼』『産経新聞』とくくらずに一人の人間として向き合っていきたい。小さな事件を大きく拡大する役割で、権力に利用されている存在だ。この件について多くの人が沈黙を保ったという状況が怖い。大学も組合も動かなかった。ねばり強く闘う授業を続け、職場関係も作り直していきたい」。
「ヘイトが発生する根拠として、日本経済の落ち込みによる『不安』がある。そのはけ口としてヘイトがある。『不安』と向き合えない部分がこれに乗る。劣悪な労働環境・国家ぐるみの年金詐欺・経済的徴兵制など。原発事故が決定的で、権力者は対策を取らない道を選択した。これまでとはレベルの違う『不安』で、はけ口の必要性はさらに高まった。しかし、ソ連がチェルノブイリ事故の5年後に崩壊したことを想起すべきだ。『不安』を冷静に分析して言葉にする必要がある。国家や排外主義に絡め取られる『国民』であってはならない。そこからはじかれる人びとも同じ『不安』を抱えていることに思いを馳せねばならない」。最後に「現在の惨状は何よりも戦争責任を取らずに存続した天皇制に根拠を置いている」と締めくくった。
講演と質疑応答でヘイトスピーチへの取り組みの重要性を再認識する場となった。(斉木政史)

居住地や国籍で差別せず援護を
在韓被爆者医療費裁判が勝訴

在韓被爆者医療費訴訟が、9月8日に最高裁で勝利したことの報告集会が、11月15日、大阪市内でひらかれ60人が参加した(写真)。主催は、〈韓国の原爆被害者を救援する市民の会〉。 市民の会・大阪支部長の重さんは、在外被爆者に対する援護法適用をめぐる裁判の歴史について説明。1972年に孫振斗さんが福岡地裁に提訴して以降の40年を超える長い闘いを語った。最高裁判決についての解説を、永嶋靖久弁護士がおこなった。
9月11日におこなわれた厚労省交渉の報告を市民の会・松田素二さんがおこない、韓国原爆被害者協会の闘いについて 、市民の会会長・市場淳子さんが説明した。最後に永嶋弁護士から今後の課題について説明があった。
74年の孫振斗さんの手帳交付裁判での福岡地裁勝訴の直後に国は402号通達を出し、出国すれば手帳が失効し手当も打ち切られるようにした。これを郭貴勲さんが、大阪地裁提訴(98年)から大阪高裁勝利判決(02年)で打ち破った。その後も2008年に国外からの手帳申請を認めさせる裁判に勝ち、今回の医療費裁判勝訴で、国外で支払った医療費の申請を国外からできるようになった。
被爆者を居住地や国籍で差別せず、等しく援護を与えるという、被爆者援護法の趣旨であり、当たり前のことを実現するのに、40年以上の歳月が費やされた。
医療費裁判について、大阪地裁、大阪高裁と勝っていたが、広島地裁と長崎地裁では負けていて、今回最高裁で勝って確定したことについて、広島から来た足立修一弁護士は、「今回の教訓は裁判官には当たり外れがあるということ。長崎地裁でとんでもない判決を出した裁判官は今、大阪高裁にいる」と話した。
永嶋弁護士は、「法律に正義があるわけではないし、まして裁判は正義とは何の関係もない。そんなことを考えていたら勝てません。こんな裁判に40年以上かかっているということがとんでもないことです。それでも我々は闘い続けねばなりません。」と集会を締めくくった。(多賀)

5面

ルポ
「子どもたちを被ばくさせるしかないのか」
南相馬市206世帯が提訴(下)
請戸 耕一

年間20ミリシーベルト基準による特定避難勧奨地点の指定解除は違法であるとして、南相馬市の住民206世帯808人が国を訴えている。その第1回口頭弁論が9月28日、東京地裁で開かれた。この日、南相馬市から33人の原告住民がバスや車で駆けつけた。今回は30代母親の意見陳述と福田弁護士の報告集会での発言(要約)を紹介する。

経産省前で抗議の声をあげる
(9月28日 都内)

未来ある子どもたちを被ばくさせるしかないのでしょうか?

30代母親の意見陳述

私は原発事故当時、両親と夫と子ども3人の7人家族でした。子どもは3人とも男の子で、長男と次男は小学生、三男は生後11カ月でした。
3月12日、原発が爆発したとニュースで知り、南相馬市から福島市の姉の家に避難しました。
福島市は断水していて、給水所まで交替で水を貰いに行ったり、三男をおんぶしながら1時間以上並んで買い物をしたりと大変でした。今考えると、あのとき屋外にいたことで初期被ばくの影響を受けていないか心配です。
新学期が始まり落ち着いてきた頃、福島市もある程度放射線量が高いと知り、ハイハイをしている三男のことを考えて知人のいる猪苗代町の磐梯青少年の家に避難することにしました。しかし、仮設住宅の申請や手続きなどの情報を入手するのが困難だったため、両親は南相馬市の自宅に戻ることにしました。その後、父がくも膜下出血で倒れ緊急手術をすることになりました。両親が大変な時に一緒にいてあげたかったのですが、子ども達を避難所にいる知人にお願いしてきたため、休暇を取ってきた姉に母や父をお願いして、私は(猪苗代町の)避難所に戻りました。事故後の南相馬市の自宅での母の生活は、事故前と違って何をするにも大変だったと思います。
7月に入ると、避難所になっていた青少年の家が通常営業を始めました。だんだんと一般の利用者が多くなって、避難者の居場所が狭くなり、早く出て行かなければと思わせるような雰囲気になっていました。

原因不明の鼻血

親戚が山形の借上住宅にいたので、それを頼りに何度も山形に通い、8月から私たちも山形に借上住宅を借りることができました。夫は仕事のために南相馬市に戻らなければならず、私と子どもたちだけの避難生活が始まりました。子ども達が何度も原因不明の鼻血を出したり、風邪を引いたりしたので病院に頻繁に通いました。南相馬市には小児科がなくなっていたのですが、山形市では病院や買い物などで困ることがなかったので、助かりました。しかし、夫は可愛い盛りの三男と一緒に暮らすことができず、仕事で疲れているにもかかわらず2時間以上かけて車で山形まで来てようやく子どもたちに会える状態だったので可哀想でしたし、苦労させたと思います。
翌年の2学期から長男が学校に行きたくないと言い始めました。すんなり行くこともあったのですが、部屋から出なかったり、1時間以上も玄関にいたり、車で送って行っても学校に入らず歩いて帰ってきたりということが何度もありました。担任に相談し、本人とも話し合いをしましたが、その状態がずるずると続き、息子も私もストレスが貯まり限界がきていました。
長男のこと、病気の父のこと、家のことをすべて任せきりにしてきた母のこと、高齢になった夫の両親のこと。夫といろいろ相談し、一昨年の1月、南相馬市に戻ることにしました。
特定避難勧奨地点にあった自宅は放射線量が高かったため、私たちは自宅ではなく、市内の仮設住宅に戻りました。地元の中学校に編入すると、長男に笑顔が戻りました。楽しく通学している姿を見て、この点だけを考えると戻ってきて良かったと思いました。
自宅は仮設住宅と同じ原町区にありますが、2度の除染をしても線量が高く、ほんの数キロしか離れていないのにもかかわらず、南相馬市に戻った後もなかなか子どもたちを連れて行くことができません。子どもたちは何度も家に帰りたいと言いますが、お墓参りのときなど滅多なことがない限り自宅には連れて行きません。
三男は事故当時生後11か月でしたが、今は5歳半です。来年小学生です。ずいぶん成長しました。でも、落ちている木の枝や花や石など何でも拾い集めます。外に出ちゃダメと言っても出て行きます。自宅に来たときは外に出ちゃダメ、触っちゃダメ、仮設ではドタバタしてはダメ。ダメダメダメ。理由を言っても5歳児には分かりません。

口頭弁論後の報告集会で原告住民が次々と思いを語った(9月28日 都内)

除染しても4マイクロ

そんな中、国は去年の12月28日に年間20ミリシーベルトという高い基準で特定避難勧奨地点を解除しました。2度の除染をしても雨樋や側溝付近では未だに毎時約4マイクロシーベルトの高線量が出ます。国は、ずっとその近くにいるわけじゃないから大丈夫といいます。確かにそうかもしれませんが、除染したのは宅地のみ。未だ田んぼや畑、原野や農道はすべての除染を完了していません。
原発事故の前、長男と次男は小学生でした。学校へは徒歩や自転車で通い、帰宅すれば近所の子どもたちと広場でキャッチボールをしたり、川でカニ捕りをしたり、夏はカブトムシやクワガタ捕りをしていました。解除しても三男にはお兄ちゃんたちと同じことをやらせてあげられません。そこで育った私としてはとても悲しいです。
将来被ばくによる何らかの影響は出ないのでしょうか。誰も、何もない大丈夫!と断言する人はいません。解除されたからといって簡単に「はい、戻ります」というわけにはいきません。私たちは、仮設住宅の期限が切れたら行くあてがありません。今の南相馬市には空き家や空アパートがありません。復興団地に入る権利のない私たち家族には、自宅に戻るしか道がないのでしょうか。これから未来ある子どもたちを易々と被ばくさせるしかないのでしょうか。
事故前は米や野菜は両親が作り、水は井戸水を飲んでいたので食費はそんなにかかりませんでした。今は、仮設住宅三軒分と、たまに行く自宅の四軒分の光熱費を支払っています。東電からの補償金は事故後全く住まなかった自宅のローンに消えました。解除で補償が打ち切られるなか、余計な出費が大変です。
チェルノブイリでは、年間1ミリシーベルト以上で補償付の避難など補償を受ける権利があるとされました。日本でも事故以前は年間1ミリシーベルトが国民の被ばくの限度とされていましたが、いつのまにか20ミリシーベルトに引上げられていました。
私は、国による一方的な解除には、とても納得がいきません。
現段階での解除は一度白紙に戻した上で、私たちの声を聞き、私たちに寄り添い、何か良い対策・補償を考えてはくれないでしょうか。

被告・国の主張はおかしい

福田弁護士の報告集会での発言

被告である国から、答弁書という書面が出ています。
被告の答弁書は20ミリシーベルト基準についてはほとんど何も言っておりません。
被告の答弁書は、今回の私たちの請求のうち、「解除を取り消せ、解除を取り消して元通りにしろ」という部分について、「そもそもこういう裁判はできないはずだ。だから却下してほしい」という僕らの世界でいう本案前の主張、中身に入らず門前払いの主張だけをしています。
「今回の指定や解除は住民への情報提供に過ぎない。住民に『避難をしてもいいですよ』という情報提供しただけ。指定や解除によって何らかの権利が与えられたり、奪われたりという関係にはない。だからこういう裁判はできない」というのが被告の言わんとするところです。
この話自体はおかしい。実際みなさん、NHKの受信料免除が打ち切られるとか、指定世帯への賠償が3カ月で打ち切られている。等々いろんなことが起こっているので、それについては今後反論していくということになります。

法律の準備がなかった

しかし、たしかにこれには理由がなくはないのです。私たちは、原発を50何基も動かしてきたわけですが、事故が起きたときにどういう対応をするのかということについては、極めて漠然とした法律しかなかったわけです。「原子力災害対策本部というのをつくって必要なことをやって下さい」ということしか法律にはなかったわけです。
今回いろいろな避難区域が指定されました。警戒区域、計画的避難区域、緊急時避難準備区域・・・。そのうち法律で根拠があるのは警戒区域だけです。事前準備されていたのは。それ以外はすべて事故が起きてから、政府が改めて発明した制度です。
そういう意味では、たしかに、法律上もともと予定されていなかったものなので、法的に争いにくいという側面があるというのは事実です。
しかし実際には、避難に対する支援の打ち切りがおこなわれているわけで、われわれとしてはその点に反応していくということになります。
門前払いにするから中身ついては何もやらないというわけではなく、次回までに被告が主張をします。問題は、その主張を整えて裁判所に提出するのに、今年の12月まで3カ月もかかるということです。
これは極めて不思議な話です。彼らが解除を決めたのは昨年の12月です。その段階で、なぜ正当かということについてきちんと説明できてしかるべきです。「今から省庁間の調整が必要です」(裁判での被告側の答弁)ということ自体、昨年12月の解除が全然理由のない、きちんと検討しないままにやったものだということを示していると思います。(おわり)

6面

検証
釣魚台(尖閣諸島)と在沖米軍基地
ロバート・D・エルドリッヂ『尖閣問題の起源』を読む(上)

今年4月、名古屋大学出版会より、ロバート・D・エルドリッヂ著『尖閣問題の起源』の翻訳が出版された。著者エルドリッヂの結論はアメリカの尖閣政策は誤りであり、釣魚台(尖閣諸島)は日本の領土であるというものだが、この本の中では、アメリカ、日本、台湾の尖閣政策を検証するための数々の有用な情報が示されている。そうした情報を参照しながら、釣魚台と在日米軍の関係を考えてみたい。

米軍と釣魚台

1946年1月29日、連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)677号の発令によって、日本の領土を「日本の4主要島嶼と対馬諸島、北緯30度以北の琉球諸島を含む1000の隣接小島嶼」と定義した。
48年4月16日、米軍は黄尾嶼(久場島)とその周辺海域は米空軍の射撃訓練に使用すると発表し、5月から黄尾嶼(久場島)の周辺5海里を立入禁止にし、55年まで空対地射爆訓練場として使い、その後米海軍は赤尾嶼(大正島、久米赤島)を使用した。
51年9月8日に調印されたサンフランシスコ平和条約第2条(a)は「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とした。そして同第3条は「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)、孀婦(そふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」とした。
サンフランシスコ条約では南西諸島をアメリカの軍政下に置くがその範囲に釣魚台が含まれるのかどうかについては明確にしていない。ところが53年12月、釣魚台をその境界内に含むことを明記した琉球列島米国民政府布告第27号「琉球列島の地理的境界琉球列島 住民に告ぐ」が発表された。これにたいして、講和会議に招請されなかった中華民国は異議を唱えうる立場にはなかった。
このように米軍は、釣魚台をめぐって日台間に領土問題があることを認識しながら、一方的に釣魚台を自らの軍政下に置いたのである。

日台漁民共通の漁場

68年、「(台湾船の)不法入域」に関する日本政府の報告(ナガトレポート)が出された。これにゲイダック米国民政府渉外局次長は「台湾人の侵入は長年にわたり季節毎に生じてきた慢性的な問題」(68年)であるとし、アンダーソン同公安局長は「400年の間台湾の人々と八重山の人々は友好関係。ナガトレポートの数字は重複。5千隻は不正確」と発言した。
また70年、クラーク同渉外局長は「沖縄の人たちの尖閣周辺での漁は散発的であり、1年の間で沖縄の船よりも台湾の船の方が多く尖閣地域へ行く」として、尖閣諸島(釣魚島)周辺海域は歴史的に両国漁民の共通の漁場であることを認めていた。
68年にはパナマ船籍の解体作業の労働者45人が釣魚台の南小島に上陸して問題になったが、台湾のアメリカ総領事は「尖閣への渡航・作業には許可は不要」という立場をとっていた。
以上からあきらかなように、アメリカは釣魚台とその海域が日台漁民が共通の漁場にしていることを認識していたのである。

占領後期の方針転換

1960年代半ば頃までアメリカの立場は、台湾漁民の釣魚台周辺での操業が多少増えたとしても、米軍のプレゼンスの障害にならなければ、また日本(琉球)との間で問題にならなければ容認というものだった。
しかし台湾漁民の釣魚島への入域が増加し、米軍の占領・統治政策、とりわけ黄尾嶼(久場島)、赤尾嶼(大正島)など射爆訓練地の使用が脅かされる過程で方針を転換し、「不法入域」として問題にしはじめたのである。
68年、カーペンター琉球列島高等弁務官は「軍用機による不定期の哨戒」を提案した。さらに「不法入域の問題を全て解決するわけではないが、…不法を知らずにアメリカの統治下にある海域や尖閣諸島に入ったり、上陸したりしている者への警告として機能する」として警告板設置を提案したが、米国民政府内では「行き過ぎ論」も出た。
69年9月、米国民政府公安局長のシモンズは「米国民政府はアメリカの利益に悪影響を与えると考えられる行動(筆者注:台湾漁民の入域のこと)を回避したいと考えている」と高等弁務官に相談の手紙を送った。渉外局長のスナイダーから「尖閣列島に関するアメリカの政策は明確である。つまりアメリカは一貫して、尖閣列島はアメリカの統治と琉球政府の管轄の下にある琉球諸島の一部だと断言してきた」とし、「警告板を遅滞なく建設することの必要性」を公安局に助言した。
70年7月、米国民政府の負担で日英中3カ国語で書かれた「警告板」を作成し、琉球政府の出入管理庁によって釣魚台に設置された。
こうしてアメリカは沖縄でのプレゼンス(駐留)を確保するために、台湾、琉球漁民による共同使用の歴史を無視して、釣魚台の領有権は日本にあるという立場に転換していった。

沖縄返還と釣魚台問題

石油資源をめぐる紛争

61年、新野弘が釣魚台周辺に石油・天然ガスの埋蔵に関する論文を発表したことを契機に、釣魚台とその周辺海域の領有権問題がクローズアップされはじめた。
69年2月、大見謝恒寿が釣魚台周辺の採掘を申請し、70年には「沖縄の繁栄と住民福祉に寄与したいという信念と使命感をもって、沖縄、先島、尖閣諸島に跨がる石油・天然ガス資源の開発」という内容の冊子を発行し、沖縄県市長会、市議会議長会、婦連、教職員会の呼びかけで46団体によって、「沖縄県尖閣列島石油資源等開発促進協議会」が設立された。また、琉球政府は「尖閣油田開発株式会社」設立を打ち上げたが、実現しなかった。
他方、70年8月、蒋介石は「尖閣諸島の領有権問題に関して、わが国はその領有権を放棄していない」、「第2次世界大戦の終結時において日本は外郭の島嶼を全て放棄したことがすでに確認された」、「ここ400年の歴史をふまえ、中国政府はこれらの諸島が日本の主権下にあるとみることはできない」とし、58年の大陸棚条約に依拠して、釣魚台とその大陸棚の領有を主張した。
71年の沖縄返還協定(72年返還)を目前にして、釣魚台が中国、台湾、日本、琉球をめぐる国際問題に発展した。米国民政府は沖縄返還後のプレゼンス(駐留)を視野に入れながら、米中、米台、米日関係の安定化を探った。70年9月2日の台湾漁民の釣魚台上陸・台湾国旗掲揚にたいしても、アメリカは自らの手を汚さずに、琉球警察に撤去させ、保管させた。このように領土問題に直接かかわらないことによって、米台関係を破壊せずに沖縄駐留の実をもぎ取った。
「沖縄返還」を前にして、領土問題に加えて石油資源問題が浮上し、日・台・中間の領土問題がより深刻・複雑になっていったのである。

「返還」時の米の立場

米軍による沖縄軍政は、沖縄人民の決起によって統治困難となっていた。アメリカは「沖縄返還」にその解決策を求めたのである。ただし「沖縄返還」は、それに伴う「釣魚台の領有権」という国際問題の緊張激化をはらむものであった。
沖縄返還時、アメリカが釣魚台についてどのような立場をとっていたのかについて、エルドリッヂはつぎのように述べている。
「71年6月17日の沖縄返還協定と合意された議事録によって、尖閣諸島が日本に施政権を返還する地域の一部であることを認めた」。
「尖閣諸島は日本の施政下にあるが、その領有権についてはなおも争いがあるというのが、アメリカのとった政策上の立場だった」。
アメリカのジャーナリスト、ニコラス・クリストフの評価なども、「尖閣諸島は日本の施政下にあるが、その領有権についてはなおも争いがあるというのが、アメリカのとった政策上の立場だった」という点は共通している。
沖縄返還(72年)後も、安保条約及び地位協定にもとづいて、日本政府は米海軍に釣魚台の訓練空域を提供し、黄尾嶼(久場島)はW―175、赤尾嶼(大正島)はW―182と識別されている。79年以降は、米国務省の指示によってこれらの訓練空域は使用されていない。

虎の威を借る狐=日本

70年8月19日、米国務省は「尖閣諸島に対する日本の領有権に疑義を呈するつもりはないが、・・・尖閣諸島の領有権をめぐる係争が生じた場合、対日講和条約や沖縄返還協定はいずれも当事国の権利要求に決着をつける判断根拠にはならない」とし、あくまでも日台間で決着をつけるべき問題だという中立的立場をとっていた。
しかし日本は米国民政府布告第27号「琉球列島の地理的な境界」(53年12月25日)の発表に中華民国が異議を唱えなかったことを「黙認の証拠」とし、このようなアメリカの中立政策を覆そうと食い下がっていた。だが、53年当時の台湾はアメリカに異議を唱えることができる状況になかった。
71年2月の協議では、日本側は「沖縄返還協定に尖閣に関する明確な言葉を入れたい」と主張したが、アメリカ側は「講和条約第3条で定められた領土の返還」という文言を提示し、愛知外相は「尖閣諸島の地位については不明確」として不満を述べた。
3月初旬、アメリカはしぶしぶ日本の主張を受け入れ、アメリカが統治している地域を6点の座標点で明示し、沖縄返還の範囲内に釣魚台を含めることに成功した。
このようにアメリカの軍事的プレゼンスと後ろ盾がなければ、日本は釣魚台の領有を主張できなかったのである。(須磨 明)(つづく)

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