伊方原発
再稼働の流れ止めろ
松山市で全国集会4千人
「新基地建設やめて!」防衛省に抗議(2日・2面に記事) |
10月26日、愛媛県・中村時広知事は、再稼働反対の住民の声を無視して、伊方原発3号機の再稼働に同意した。この県知事の同意で、いわゆる「地元手続き」はクリアーしたとして、四国電力は年明けにも伊方原発3号機の再稼働を狙っている。
この緊迫した状況の中で、11月1日松山市内・城山公園やすらぎ広場で「STOP伊方原発再稼働!11・1全国集会in松山」がひらかれ、地元愛媛・松山をはじめ四国各県や全国から4000人があつまった。
集会は伊方原発をとめる会・草薙順一さんの開会あいさつにつづいて、吉本の芸人で原発事故の報告活動をおこなっている「おしどりマコ&ケン」さんのトークライブがおこなわれた。おしどりマコ&ケンさんは引きつづいて司会をつとめ、軽妙な語りとアドリブで集会全体をもり上げた。
ウソとペテンで圧殺
集会協賛団体である、さようなら原発1000万人アクション、原発をなくす全国連絡会、首都圏反原発連合、再稼働阻止全国ネットワークが発言。1000万人アクションの鎌田慧さんは、伊方原発建設に反対するたたかいが「東の柏崎刈羽、西の伊方」といわれたようなはげしい闘争が展開された歴史にふれ、地元住民のたたかいを圧殺しウソとペテンで騙し、住民を自殺においやって建設されたものであり、先人のたたかを引き継いで伊方原発の再稼働を絶対にとめようと訴えた。
カンパアピールをはさみ、集会参加者が「原発再稼働ゆるさん」の呼びかけに応え「ゆるさん」と黄色いメッセージボードを一斉に掲げた。
参加者が一斉に「ゆるさん」のボードを掲げた。後ろは愛媛県庁(11月1日 松山市) |
日常生活を奪われた
福島から避難した人は、「どうか皆様は日常生活を続けてください。私たちは3・11でその日常生活は奪われました」と語りかけた。
伊方原発運転差止訴訟弁護団・中川創太弁護士は運転差止訴訟が結審に向かって論点整理に入っていることを報告、なんとしても差止め決定を勝ち取る決意を表明した。
南予連絡会から二人の方が発言。伊方原発反対運動を40年にわたって先頭でたたかい抜き、先日亡くなられた近藤誠さんの遺影を胸に抱いて登壇した斎間淳子さんは、「近藤さんが今際の際に私の手を握り、『斎間さん、黙ったら認めたことになる。黙ったらあかん。声を出し続けること』といった。これからも声を出し続けていく」と語った。遠藤綾さんは、「八幡浜市長は周辺自治体のトップをきって再稼働に同意したが住民は再稼働に同意していない。住民投票をやる。市議や元市議会議長などが呼びかけ受任者も40人ほどできた。協力をお願いします」と報告した。
菅直人元首相はじめ、国会議員の発言、集会実行委員会からの提起をうけ、松山市中心部をめぐる2方向のデモに出発。県庁前では、中村知事弾劾の怒りのシュプレヒコールをたたきつけた。
重大な岐路
伊方原発の再稼働をめぐる情勢はまったなしの局面に突入している。川内原発1、2号機が地元住民を先頭にした労働者・市民の大きな反対の声を踏みにじって再稼働されたうえで、このまま「福島原発事故」がなかったかのように次々と再稼働をゆるすのか、それとも再稼働の流れをここでくい止めるのか、重大な岐路にある。伊方原発の再稼働をなんとしても阻止しよう。〔6面に関連記事〕
大阪ダブル選
おおさか維新を落せ
安倍政権と太いパイプ
反維新を掲げた市民集会(10月30日 大阪市内) |
安倍の改憲シナリオ
安倍と橋下・松井との間のパイプは極めて太い。今年6月14日夜安倍首相、菅官房長官、橋下大阪市長、松井府知事は、維新の党を「安倍補完勢力」にひきこむため都内ホテルで3時間にわたり会談した。だが、松野代表らの反対で維新の党を安保法案賛成側に引き寄せられなかった。8月25日、東京・赤坂のホテルで菅・松井会談がおこなわれ、そこで作戦が練られた。8月27日、橋下・松井だけが維新の党を離党すると表明し、翌28日には一転して大阪系議員と新党をつくる方針を表明した。そして、今度は大阪ダブル選を目前にして「これ見よがし」の菅・松井会談が10月28日に首相官邸でおこなわれた。
安倍は、悲願の明文改憲に向け着実に手を打ってきている。その大きな一つが、橋下の抱き込み。安倍は改憲に関しては連立を組む公明党を信用できない。橋下新党を取り込み、来年の参院選で3分の2をなんとしても確保したい。橋下も、改憲に全面協力すると公言してはばからない。
橋下の野望
今年5月時点で、「大阪都構想」は終わった、橋下・維新の命運は尽きたと思われた。住民投票後に橋下は突如「引退」表明した。住民投票で否決された「大阪都構想」をいったん手仕舞いして矛を収め、批判をかわし、敗北の鎮静化を図った。それから半年も経ていない10月31日、新党「おおさか維新の会」の結党大会を開いた。大会で橋下は「6人の大阪府議からスタートし、5年でここまで来た。次の5年以内には必ず国会で過半数を取れる」と豪語した。橋下は、「12月18日の大阪市長任期満了で政界引退する」と表明しているにもかかわらず新党代表になった。
国政政党を目指すと言いながら、橋下らは「日本維新の会」(2012年9月結党)、「維新の党」(2014年9月結党)の国政政党化にことごとく失敗し、あげくの果てにたどり着いたのが今回の「おおさか維新の会」だった。全国的に見れば、維新の党はもはや「泡沫政党」のレベルにまで落ち込んでいる。毎月おこなわれているNHKの「政治意識月例調査」でも、最新の10月調査では1%を割った。
なんとしても11月22日投開票の府市ダブル選で2連勝する。そして政界引退撤回は民衆の声だとキャンペーンし、橋下自身が国政に打って出るというのが彼らの描いているシナリオだ。片山虎之助は安倍の後は橋下首相とまでうそぶいている。
弱者の身を切る「改革」
橋下・維新による8年間の大阪府・市政は対立と混乱の連続だった。府債残高は急増、経済は全国以上の落ち込み。市職員の思想調査や組合攻撃。解雇自由特区計画。教育や中小企業への支援を削減。特別養護老人ホーム建設補助の廃止など福祉・医療の切り捨て。
「身を切る改革」を売り物にするが、その実態は、発行していないチラシの配布代金詐取など政務活動費の不正使用。松井などは知事退職金を無くしたと宣伝しつつ毎月の報酬に退職金を分割上乗せし手取りで350万円近く増やした。維新の党元国対部長馬場が月300万円で銀座赤坂を豪遊していることも報道された。
橋下は、自らの野望のためには手段を選ばない。人間の劣情を煽って支持を獲得する、稀代の謀略宣伝家だ。「維新政治」を今こそ終わらせなければならない。
維新の候補者を、落選させよう。
2面
新基地建設やめろ
防衛省に抗議・申し入れ
11月2日
11月2日夕方、防衛省正門前(東京・市ケ谷)で毎月第1月曜日に開催されている辺野古埋め立てに反対する抗議・申し入れ行動がおこなわれた。主催は辺野古への基地建設を許さない実行委員会(写真1面)。
直前の10月29日、防衛省は辺野古埋め立て「本体工事」と称する工事に着手するとともに、「佐賀空港での米軍のオスプレイ訓練を取り下げ」と発表した。
防衛省が移転中止の理由を「地元の反対」と発表したことにたいし、沖縄タイムスは「佐賀に配慮、沖縄は強行」と報じ、「他の都道府県では知事や市長が反対しただけで引いてしまう。沖縄では全市町村長、議会の反対を無視して強行配備した。佐賀との対応の違いを見ると、国は沖縄を植民地以前の人権もないような地域だと考えている」と怒りの声を伝えた。
沖縄の闘いに結合して、前日の1日には新宿に700人が結集して抗議行動がとりくまれ、2日連続の抗議となった。
6時半には百数十人の参加者によって「辺野古に基地を造るな! 沖縄の民意に従え! 普天間基地を撤去せよ! 埋め立て反対!」と防衛省にシュプレヒコールが叩きつけられた。
主催者、総がかり行動、辺野古カヌー隊、韓国の闘う仲間など、多くの発言を受けたあと、参加者を代表して、主催者の辺野古実からピースサイクルの仲間が防衛大臣宛の「要請書」を読み上げて提出した。
最後に、11月29日に日比谷野外音楽堂で開催される大集会への取り組みと総結集を確認して行動を終えた。
辺野古埋立てに抗議
大阪で緊急行動
11月8日
11月8日「辺野古の海を埋め立てるな!」の声が大阪で響きわたった。この日、関西18市民団体で構成する〈STOP! 辺野古新基地建設! 大阪アクション〉は、緊急大阪アクションを開催し150人で御堂筋を難波までデモ行進した(写真)。
小雨の中、集会では、海上保安庁に対する抗議行動、埋め立て工事を請け負う大成建設や中央開発に対する抗議行動の報告、同日東京でおこなわれている警視庁機動隊派遣に対する抗議行動とのエール交換などがおこなわれた。また各発言者は、沖縄県知事の「埋立承認取り消し」の重大な決断に対する、安倍政権の「効力停止」、「工事再開」という暴挙に対して沖縄とともに怒りの声を上げようと訴えた。
なお11月3日には、神戸でも緊急抗議行動が100人でおこなわれた。
米軍レーダー
基地の撤去を
10月31日
京丹後市
10月31日、京都府京丹後市で「米軍基地いらんちゃフェスタin丹後2015」が開かれ700人が集った。
それに先立ち、米軍Xバンドレーダー基地反対・京都連絡会と近畿連絡会は、米軍Xバンドレーダー基地に向かい、抗議行動をおこなった。抗議行動は京都、大阪、奈良、兵庫など関西一円からの参加者が150人を超えた。
「いらんちゃフェスタ」では、主催者あいさつを〈米軍基地建設を憂う宇川有志の会〉代表の三野みつるさん、沖縄のたたかいの報告をオール沖縄の会を代表して衆議院議員の赤嶺政賢さんがおこなった。
現地報告は、宇川有志の会・永井事務局長。京丹後市議会の田中邦生議員が市議会報告。地元からは網野町島津の住民と元宇川連合区長の坂本さんが発言した。集会後、網野町の中心街をデモ行進(写真)。
そのあと、近畿連絡会の仲間は、米軍軍属住宅の建設が進む網野町島津を訪れ、建設現場で抗議行動をおこなった。
辺野古座り込み
凶暴化する警察機動隊
市民を鉄柵の中に拘束
キャンプシュワブのゲート前で抗議行動を展開する市民たち(11月9日 名護市内) |
シュワブゲート前
10月30日、キャンプ・シュワブゲート前には早朝より市民が結集した。29日からの本体工事は、重機による辺野古崎の作業ヤード整地から始まった。この作業を続けるため連日、作業車両や作業員がゲートから入る。市民は工事阻止に向け連日の座り込みに決起している。
この日も午前7時頃、車両5台が入った。市民は車両の前に座り込んで阻止。すぐに機動隊が排除にかかる。排除時、市民1人に機動隊員4〜5人で襲いかかる。市民は排除されてもすぐに、車両の前に立ちはだかる。何度となく繰り返される激突で、1人が機動隊に押さえつけられ負傷し、救急搬送された。怒った市民は国道の真ん中に座り込む。ゲートの中にいた機動隊も出てきて総数200人が市民100人の排除にかかる。機動隊は市民をテントに押し込め、テントの前に横1列に並びテントを包囲する。その間、ゲートに海上保安官の車両や米軍の車両が入っていく。
ゲート前集会では、機動隊の暴挙が激しさを増していること、権力の弾圧の強化に更なる結束をすることを確認した。海上では、抗議船4隻とカヌー15艇でフロートの設置に抗議行動。
警視庁機動隊を投入
31日政府は、辺野古ゲート前の警備に警視庁機動隊百数十人の投入を決定したと発表。この日も工事車両5台がゲートから入った。市民80人が阻止行動に決起。2人がケガをし搬送された。ゲート前では抗議行動が間断なくおこなわれ、最大150人が座り込んだ。
11月2日、早朝より抗議行動、車両数台が入った。最大300人が抗議の声をあげた。3日、車両十数台が入った。作業ヤードの整地は続けられているが、海上ではスパット台船の搬入はまだない。ゲート前では最大150人が結集。
4日、警視庁機動隊130人がゲート前に投入された。機動隊の総数が300人近くになった。市民は早朝より結集し、作業車両の阻止行動を開始。増強した機動隊の容赦ない排除が繰り返される。この攻防で1人が不当逮捕される(6日に釈放)。ケガをした1人が緊急搬送された。怒った市民は国道の中央に座り込む。ただちに機動隊が排除にかかる。このときの排除が今までになく凶暴化している。有無を言わさぬ形で拘束する。テントの前に排除し、テント前に横1列に並び市民を一歩も出さない包囲を敷く。機動隊はこれまでより増強したので、テント側から基地が見えないくらい密集して包囲する。
全国から応援
5日、6日と連日の作業車両の阻止行動に決起。機動隊の排除が厳しくなると同時に、排除後の市民を鉄柵で包囲しだした。まるで羊を囲うような柵で、市民を柵の中に押し込める。作業車がゲートに入ってしまうまで鉄柵の包囲は続く。市民の抗議の声に一切耳を貸さない。
この日、翁長知事は国土交通省の「承認取り消し」の是正勧告を拒否した。
7日、市民80人が阻止行動に決起、作業員の車両3台が入る。全国からの応援で最大200人が抗議の座り込み。
9日、ゲート前には連日80〜100人が作業車両の阻止行動に決起し、機動隊と激突している。海上では、フロートとオイルフェンスの設置がほぼ完了。スパット台船が午後5時頃大浦湾近くに錨をおろした。
辺野古ブルーの仲間
10日午前6時半、スパット台船が辺野古のフロート内に入る。スパット台船搬入阻止に燃える辺野古ブルーの仲間たちは、午前6時過ぎ抗議船5隻、カヌー14艇で決起。スパット台船めざして漕ぎ出す。海上には巡視艇1隻がフロート近くで弾圧のすきをうかがっている。抗議団はスパット台船に近づき抗議の声をあげる。
ゲート前では、雨をものともせず、早朝より抗議行動。工事関係車両が入るたび、立ちはだかり徹底した抗議の声をあげる。スパット台船の搬入に更なる怒りの声が沸き起こる。
ボーリング調査は24カ所中、19カ所が終了し、残りの5カ所を1カ月以内に強行する予定だ。ゲート前のたたかいと海上でのたたかいはこれから激しさを増す。全力でたたかおう。
3面
ルポ
「子どもたちを被ばくさせるしかないのか」
南相馬市206世帯が提訴(上)
請戸 耕一
年間20ミリシーベルト基準による特定避難勧奨地点の指定解除は違法であるとして、南相馬市の住民206世帯808人が国を訴えている。その第1回口頭弁論が9月28日、東京地裁で開かれた。この日、南相馬市から33人の原告住民がバスや車で駆けつけた。裁判が始まる前、ビラの配布やマイクでの訴えをおこなった。福島県内や首都圏からこの裁判を支援する人びとも加わり、原発行政を取り仕切る経済産業省に向かって抗議の声をあげた。
経済産業省前で抗議の声をあげる南相馬の原告住民(9月28日) |
開廷は14時。傍聴希望者多数で事前に抽選が行われた。約100席の傍聴席は満杯になった。
原告側の席には33人の原告と6人の原告代理人の弁護士。福田健治弁護士、2人の原告住民が意見陳述をおこなった。
高倉区長の菅野秀一さんは、「生活圏には無数のマイクロホットスポットがある。子どもや孫が低線量被ばくを半ば強要され、将来に健康被害が出るというような禍根を残すべきではない。原発事故対応の悪しき先例を、世界の基準として残してはならない」。
また30代の母親は、「これから未来ある子どもたちを安々と被ばくさせるしかないのでしょうか。いつのまにか20ミリシーベルトに引上げられていました。私は、国による一方的な解除にとても納得がいきません」。
国は門前払い主張
一方、被告側の席には、法務省の訟務検事と内閣府原子力災害対策本部の職員など9人。訟務検事とは法務省に所属し、国が当事者となった民事訴訟や行政訴訟を担当する検事。また、原子力災害対策本部の職員の中には、南相馬市の住民対策で動いている職員の顔もあった。
被告側の陳述はおこなわなかったが、書面で提出された答弁書で、「特定避難勧奨地点の設定は、住民への通知又は情報提供という事実上の行為であり…何らの法的効果を持たない」「解除も、何らの法的効果を持たない」「設定・解除は、国民の権利義務ないし法律上の地位に直接具体的な影響を及ぼすものではない」とし、原告住民が訴える利益はなく、門前払いにすべきと主張した。
地域が一体となって
訴えを起こした住民らが暮らしていたのは、南相馬市原町区の片倉、馬場、押釜、高倉、大谷(おおがい)、大原、同市鹿島区の橲原(じさばら)、上栃窪(かみとちくぼ)の8行政区。阿武隈山地の東の麓、飯舘村に隣接している。
飯舘村のように、地域全体を避難区域に指定すべき放射能汚染のレベルがある。ところが国は、約850世帯中152世帯に限定し、しかも「避難勧奨」という曖昧な文言で指定をおこなった。実際には指定されなかった世帯も含め住民の多くが避難している。
ところが、昨夏から国は南相馬市の特定避難勧奨地点の指定解除に動いた。住民の大多数は、年間20ミリシーベルト基準による指定解除に疑問や反対を表明していた。昨年12月21日に開催された住民説明会でも、高木経産副大臣の説明にたいして住民から批判や抗議が噴出し、国は住民を説得することができなかった。
にもかかわらず、国は、「年間20ミリシーベルトを下回ることは確実である」という判断で、南相馬市の特定避難勧奨地点152世帯の指定解除を決定。指定世帯にたいする賠償や支援を打ち切り、依然として線量の高い自宅・地域への帰還を促している。
このような国のやり方にたいして、住民は諦めなかった。206世帯808人という原告の数は、8行政区の全世帯数約850世帯の約4分の1に当たる。特定避難勧奨地点の指定世帯152世帯の6割以上が原告に加わった。また8行政区の区長も全員が原告となった。指定世帯と非指定世帯との分断を乗り越えて、地域が一体となって国にたいして訴えを起こすに至った。
20ミリシーベルト基準
原告住民らが訴える論点は、住民・弁護士の陳述、発言などによれば、以下のようにまとめられるだろう。
@年間20ミリシーベルトという指定解除の基準はあまりに高すぎる。それは放射線管理区域の設定基準のおよそ4倍。厳重な放射線防護対策や入退域管理がおこなわれてしかるべき環境だ。そのような苛酷な環境の中で、子どもたちを含めて生活しろということは到底承服できない。
A年間20ミリシーベルト基準は、国際基準上も国内法令上も違法である。原発事故以前から一般公衆の被ばく限度は年間1ミリシーベルト。国は、人びとの健康な生活を確保する義務を負っている。20ミリシーベルト基準はその義務に違反するものだ。
B何よりも自分たちの子どもや孫らの健康を守りたい。数ミリシーベルトという低線量の被ばくでも、健康への影響の増大が報告されている。子や孫がそういう環境の中での生活を強いられ、将来に禍根を残すということがあってはならない。
C20ミリシーベルト基準を今後の被ばく問題の基準にさせてはならない。南相馬市と福島でおこなわれている20ミリシーベルト基準の避難解除を認めたら、これから先、全国の原発の避難政策の基準となり、世界の基準になってしまう。だから、20ミリシーベルト基準を正面から問わなければならない。
〔以下、今号では高倉区長の菅野秀一さんの意見陳述の要約を紹介します。次号では30代母親の意見陳述と福田弁護士の報告集会での発言を掲載します。文責・見出しは筆者〕
東京地裁前でビラまきやマイク宣伝をおこなう原告たち(9月28日 都内) |
20ミリを世界基準にさせない 孫子の代に禍根残さぬために
高倉区長・菅野秀一さんの意見陳述
私は、地区長として、高倉地区74世帯の住民のお世話をしています。南相馬市・福島県・国の機関などにたいして数々の要請をしてきましたが、その内容についてほとんど受け入れられることなく、ずっと放射能から住民を守りきれずにおりました。8地区が一丸となって、子どもも含めた年間20ミリシーベルトというあまりにも高い基準での特定避難勧奨地点の解除に異議を唱えるに至りました。しかし国は、平成26年12月28日に住民の意向をまったく無視して指定解除を強行しました。
地域の実情がどうなっているのかをご説明申し上げます。
無数のホットスポット
放射能による被ばくの影響はよくわかりません。国は、「年間20ミリシーベルト以下での健康被害は考えにくい」としていますが、福島県内での小児甲状腺がんが多発しております。また、チェルノブイリ原発事故における低線量下の健康影響の報告もあります。これらのことを考えると、子育て世帯が避難をするのは当然のことだと思われ、私が避難を止めることや避難先からの帰還を勧めることはありえないことだと考えています。
高倉地区では、特定避難勧奨地点が解除されても、若い人は誰一人戻ってきません。子どもは一人もいません。
若い世帯が戻らないのは、宅地の除染が済んでも、生活圏には無数のマイクロホットスポットがあることを知っているからです。除染でも放射線量は3割程度しか下がらず、そこで子育てをすることは無理だと考えているからです。
コミュニティが崩壊
約6割の高齢者は帰ってきましたが、いま住んでいるのは70歳を超えた人たちばかりです。人がいないので、コミュニティは完全に崩壊しています。若妻会、子供を守る会、消防団、婦人会、老人会は全て解散しています。学区内の小学校や中学校は何とか開校しておりますが、幼稚園は閉鎖されたままです。
市街地に目を向けると、総合病院は隣町に移転しました。スーパーや小児科病院が閉鎖されたままです。職員不足で老人福祉施設が縮小されました。わずかに賑わっているのは除染作業員が立ち寄るコンビニや宿泊業などです。
体の不調を訴える人たちもいます。放射能で汚染された田畑で作物を作れない、人がいなくてお祭りができないことなどが原因かもしれませんが、免疫力の低下によって、原爆ブラブラ病のように、とにかく疲れる、いくら寝ても寝た気がしない、目がかすんだりしょぼしょぼする、鼻血、うつ病などの症状をよく耳にします。平和な山里の暮らしが一変し、身の回りの健康被害がこの先ずっと続くのかと思うとすごく不安になります。
生態系の異常も目にします。モリアオガエルの個体数が激減しています。原発事故以前と比べると鳥類や昆虫類も少なくなっています。
かたや、イノシシ・サル・タヌキ・ハクビシンなどの野生動物にとっては楽園となっています。これらは、放射能の影響とはいい難いかもしれませんが、環境の変化は肌で感じ取ることができます。
現在調査中の土壌の汚染が深刻なようです。今後は、西側に隣接し全村避難中の飯舘村からの放射能が再浮遊し、偏西風による地域再汚染も懸念しています。
被害者を切り捨てるな
以上から年間20ミリシーベルト基準で特定避難勧奨地点を解除するという愚行は承服することができません。年間20ミリシーベルトというのは放射線業務従事者の基準であり、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告による公衆の被ばく限度の世界基準は年間1ミリシーベルトで、国内法でもこれを取り入れてきました。日本が法治国家であるのなら、この基準を厳守すべきであり、住民の生存権を最大限に考えるべきです。
この夏、広島の原爆投下70年式典に足を運びました。そこで、70年後のいまも原爆症の認定を求めている方にお会いしました。低線量被ばくの環境に身を委ねることを半ば強要されている私たちの子どもや孫が、70年後に同じことを繰り返さなければならないような禍根を残すべきではないと考えています。
経済性を優先して放射能汚染の被害者を切り捨てることがあってはならないと、司法が判断されることを望みます。原発事故対応の悪しき先例を世界の基準として残さないためにも、避難の放射線量基準は年間1ミリシーベルトとすべきです。(つづく)
4面
社会保障解体を許さない
10・29「骨格提言」完全実現大フォーラム
日比谷野音での集会終了後、厚生労働省前で抗議行動(10月29日) |
10月29日正午から、骨格提言」の完全実現をめざす10・29大フォーラムが、東京・日比谷野外音楽堂で開かれた。
この集会は2005年10月31日に「障害者自立支援法」が強行可決されたことに抗議して、毎年大規模な集会としておこなわれてきた。しかし、2011年を境に、統一集会は開催されなくなった。これに危機感を募らせた「障害者」の有志が実行委員会を結成し毎年続けてきた。今年はその3回目の集会だ。
「役立たないものは死ね」
はじめに、開会宣言を横山実行委員長がおこない「障害者権利条約の批准や差別解消法による合理的配慮など、一方でいいことを言いながら、他方で生活保護・年金などの切り下げ、障害者虐待問題も後を絶ちません」「出生前診断の拡大や『尊厳死』法制化推進など、障害者を抹殺するような動きもみられます。戦争法案が強行採決され、戦争への道をまっしぐらに進んでいる。その中で、国に役に立たないものは死んでくれと言わんばかり、優生思想そのものです。」「こういう動きにたいして、怒りの声を上げていかなければなりません。その声を国会や議員にぶつけていきましょう。継続は力なり。この集まりを拡大して、日比谷公園を埋め尽くし、国会を包囲していきましょう」と訴えた。
生きる権利を
経過報告をはさんで連帯挨拶がおこなわれ、弁護士の藤岡毅さん、DPI(障害者インターナショナル)常任委員の金子和弘さんが発言した。また、参議院議員の山本太郎さんから発言があった。カンパアピールに続いて、リレートーク、地域からの発言が続いた。
「(下関の大藤園虐待事件について)施設の中のことは当事者にしかわかりません。被害を受けるのも当事者です。保護者の意見が強いままでは改善されません。今の虐待防止法は不十分です」(「知的障害者」当事者団体のピープルファースト・ジャパン)。
「都内のある病院グループでは、いくつかの福祉事務所と結託して生活保護費を受給者本人ではなく、病院に渡している実態が明らかになっています」「こうした福祉行政のずさんさには、厳しくメスを入れていきたいと思います」(〈このまますすむと困っちゃう人々の会〉の大河内さん)。
「病名ではなく誰に生活支援が必要なのかを基準に、福祉サービスを受けられるよう抜本的な制度改革をしてほしい」(難病の会の篠原さん)。
「障害があるからといって治療を拒否されているのはおかしい。私は重い障害でも楽しんでいます。『尊厳死』法ができると、楽しみを見つける前に死んでしまう人がいると思います。だから反対です」(〈NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会〉の酒井さん)。
「生きる権利の保証がない中で、死ぬ権利だけが認められる? おかしいと思いませんか? 出生前診断・着床前診断は、可能性を奪ってしまいます。あるがままに、私たちらしく生きていく社会を作るために声を上げていきたいと思います」(神経筋疾患ネットワークの見型さん)。
「福島原発事故でばら撒かれた放射性物質は、広島原爆の183倍とも言われています。福島県は、放射線量がまだ高い地域に帰還を促しています。これから、病弱の子ども・『障害児』も生まれてくることが考えられます。これらの子どもたちが生きる尊厳が守られ地域の人たちと触れ合いながら生きていける社会を作り出すために、全国の原発の再稼動を許さず平和な社会を作っていくために、運動していきましょう」(あいえるの会=福島県郡山=の橋本さん)など、それぞれの怒りと思いが語られた。
ほかに、全国「精神病」者集団、心神喪失者等医療観察法(予防拘禁法)を許すな! ネットワーク、兵庫県精神障害者連絡会、沼尻さん(茨城)、全国障害学生支援センター、全国青い芝の会、地域でくらすための東京ネットワークからも発言がおこなわれた。また、警視庁による不当捜索を受けた介護事業所の〈あい・あんど・ゆう救援会〉からアピールがよせられた。
集会後、厚生労働省前に移動して抗議のアピール行動をおこない、5時前に終了した。
見直しに身構えて
安倍政権は、戦争法を強行する一方で、「障害者」福祉をはじめとする社会保障解体の動きを加速している。財政制度審議会や経済財政諮問会議などでは、社会保障費の大幅な削減が叫ばれている。介護保険の利用料負担を現行の1割から2割に引き上げようとしている。「障害者」制度も、激しい抗議の中でいったん断念した応益負担の導入の意図を隠そうともしていない。
来年は、「障害者総合支援法」の「見直し」が迫っている。ここで、「障害者」運動がどれだけたたかうのかによって、社会保障解体の動きをどれだけくいとめられるのかが決まるといっても過言ではない。この日の行動は、こうした思いを共有し、たたかう決意を確かめあう場となった。(藤崎博史)
「働かない」デマ宣伝を粉砕
生存権裁判・大阪 10・19 第3回
裁判所近くで街頭宣伝する原告たち(10月19日) |
10月19日、生活保護基準引き下げ違憲訴訟(生存権裁判)の第3回口頭弁論が大阪地裁大法廷でおこなわれ、前回に引き続き法廷は満杯になった。
画期的な準備書面
保護基準引き下げによる権利侵害の実態を明らかにしていくことが今後の重要な課題になるが、その手始めとして大阪の弁護団が全国に先駆けて取り組んだ内容が準備書面として発表された。
これは弁護団が厚労省等のぼう大な資料を分析したものである。とりわけ生活保護バッシングの材料にされ、保護基準引き下げの根拠の一つとされた「その他世帯」の分析は圧巻だった。
「その他世帯」の分析
生活保護世帯は4つの類型に分かれている。「その他世帯」とは「高齢者世帯」、「障害者・傷病者世帯」、「母子世帯」のいずれにも属さない世帯である。
「その他世帯」は「生活保護利用者数・世帯数ともに過去最少であった1995年に6・9%まで低下し、その後の生活保護利用者数の増加と比例して構成比が上がり、直近の2014年には17・4%と上昇したために、『働かずに生活保護を受給している』という論調が強まり、生活保護制度や利用者に対するバッシングに発展し、今般の生活保護基準引下げへの政治的な動きが形成されたという経緯がある」(準備書面)。
しかし、今回の分析によって「その他世帯」に属する人たちは国やマスコミがいうように必ずしも“稼働可能な人たち”だけで構成されていないことが明らかにされた。
「その他世帯」には就労困難な人たち、すなわち高齢者や障害・傷病を有する人たちが相当数含まれている。さらに、年齢分布を見てみると「その他世帯」には60歳以上の人や未成年者が49%も含まれている。また、就労に至るまでに年齢上の不利を負っている50代以上を含めると「その他世帯」の実に73%が就労に困難を抱えている層といえる。
他方、「その他世帯」のうち「稼働世帯」、すなわち、現に就労している人たちの割合は、2014年12月の速報値で39・35%となっていることを考えると、「その他世帯」に属する人たちの中で、働くことができる人はすでに働いているということだ。
準備書面は生活保護基準引下げの原動力となった「働けるのに働かず、安易に生活保護を利用する者が増えた」という実態はないと指摘した。
第4回口頭弁論は来年2月19日(金)午後3時から大阪地裁大法廷で。今回は大阪府立大学のゼミの学生も参加した。多くの人に傍聴してほしい。(Y)
憲法25条=生存権を守れ
10・28 生活保護アクション・日比谷
「生きさせろ!」「25条を守れ!」の叫びが日比谷野音から首都圏―全国へととどろいた。「人間らしくいきたい 守ろう憲法25条 10・28生活保護アクション・イン・日比谷―25条大集会」は予定の3千人をはるかに超える4千人が全国から参加した(写真)。会場を埋めつくす人びとの怒りと熱気。そしてパレードは先頭が解散地点の鍛冶橋に到着したときでも、まだ日比谷野音には出発を待つ人たちが残っていた。
集会のすべての発言が心の底にずっしりと重く響く。「食費を削って腹が減ってもガマンするのが人間らしい生活と言えるのか」「貧困者が急増しているなかで、最後のセーフティネットである生活保護が破られたら貧困=死だ」「弱者は死んでも構わないという政治を許すな」「平和がおびやかされるとき、生活もおびやかされる―25条と9条を破壊する安倍政権を一日も早くやめさせよう」「生きるためには闘っていかなければならない、権利は闘ってこそ守られる」。
そうだ。安倍の巧言令色にだまされないようにしよう。戦前の歴史が示すように、権力者の嘘にだまされると自分自身の首を絞めることになる。沖縄や反原発や差別と闘う人びとと手をつなぎ、「生活保護引き下げを許さない」運動と闘いを大きく発展させよう。
この日は勝利を確信させる一日だった。(島田)
5面
直撃インタビュー(第30弾)
社会は変えられる
「薬害を、なくしたい」
兵庫県スモンの会会長 春本幸子さんに聞く
はるもと・さちこ 1933年、神戸市生まれ。神戸市職員、ケース・ワーカーとして福祉、生活保護などを担当。1968年スモン発症、入院。兵庫県スモンの会結成を呼びかける。以来今日まで兵庫県スモンの会会長を務める。[写真は本人提供] |
「もう、誰も自殺者を出したくない」。兵庫県スモンの会は、春本幸子さんの呼びかけで1969年に結成された。薬害企業、薬事行政への抗議、糾弾闘争の最前線に立った。病院にかかれない被害者の自主検診、訪問診療をすすめ、提訴・裁判闘争296人の原告「全員和解」をかちとった。「1人も切り捨てない」という会の原点が、そこにある。82歳になる今も会員相互の交流、医療機関への働きかけを続けている。裁判が終わっても身体はよくはならない。『悲しみ、怒り、そしていま〜兵庫スモンたたかいの記録』(1989年刊)には、「薬害、差別をなくし、福祉を充実させ医療を変え、支援していただいたみなさんにお返ししたい」と記される。阪神淡路大震災から21年。80歳をこえる人たちが「借り上げ復興住宅」から追い出されている。そして福島・東北の事態である。「1人も…」は、今の言葉としてある。春本さんはいう。「薬害をなくしたい」。(聞き手=本紙編集委員会、10月24日、神戸市内)
―スモン、兵庫県スモンの会のことからお聞きします
1964年にはじめてスモン(注)という病気がわかり、70年にやっとキノホルムとの関係が明らかになりました。被害者は厚生省(当時)の推定で全国に約3万人、医療機関の届出は約1万1千人です。そのうち訴訟可能だったのは約6千6百人。投薬を証明できなかった人が半数近くありました。市販薬を服用した場合は立証が難しく、ほとんどあきらめざるをえませんでした。今年4月の生存者は、約1500人です。
他の薬害に比べ桁違いに多いのがスモンでした。「消化器感染症によく効く」とキノホルム剤が頻繁に使われました。お腹が悪いと、どんどん。よく知られていたのは武田・エンテロビオフォルム、メキサフォルム、田辺・エマフォルムなど。ほとんどが医師、医療機関での処方です。市販では征(正)露丸などにも入っていました。
キノホルムは消毒薬として1932年に開発され、欧米列強が植民地でアメーバ赤痢感染症に使用し、34年に日本にも輸入されました。侵略戦争の「お供」として、南方に行く兵隊さんが持たされた薬です。戦後は医療用、配置薬用になりました。
薬害、副作用は常に発生しますが、確率は千分の1程度です。だけど当れば必中。日本で3万人もの被害者が出たということは、それだけたくさんの薬が使われたということです。欧米では使用を限定していましたが、日本では下痢や腹痛に効くと多くの薬に入れていましたから。「スモンに効く」といっていた医師、研究者は糾弾されなければなりません。
―春本さんご自身は、どういうことから使うことに
1968年、市役所でケース・ワーカーとして生活保護を担当していました。69年の夏前、お腹をこわし仕事を休んで迷惑をかけられないと受診し薬をもらいました。それで体調を崩し、1年半ほど入院。その間も、その薬を飲み続けました。
―69年に兵庫県スモンの会を結成されました、全国でも早かったのですね
入院中に「スモン患者自殺」という新聞記事を読み、「1人の自殺者も出してはいけない」という思いで呼びかけました。69年9月に兵庫、11月に全国の会が結成されます。
公害や薬害は、最初は原因が分からず症状などから感染するという風評や差別が起こります。生活を守るとか補償というよりも、差別から身を守るということが根底でした。差別は命にかかわります。隔離され、離婚され、職場を失った人たちも多かったのです。生きていく希望を失います。これは捨てておけないという気持ちでした。
70年に薬害であることがわかり、薬害根絶運動に発展していきます。大阪、道修町の製薬会社に抗議に行き、座り込みました。車椅子の被害者たちは警備員、警官隊にごぼう抜きにされました。裁判闘争の根底にも、差別糾弾がありましたね。だけど、民事訴訟しかできないのが日本の法律です。「和解」で終わらざるをえませんでした。
―「薬害企業糾弾」「1人も切り捨てない」という全員和解、春本さんとみなさんの揺るぎない心棒でしたね
田辺製薬にキノホルム剤を突きつけ詰め寄る春本さん(1973年3月16日『毎日』夕刊、水間典昭さん撮影) |
―福島原発の大事故が続いています。阪神大震災、福島・東北、「1人ひとりを大切にする復興を」ということを、これだけ経験してもいわなければならない現実です
そのとおりですね。福島の人たちも。科学の発達によって人類は大きな恩恵をうけてきましたが、「科学そのものの副作用」ということを考えなければ。社会の歪みは、自然科学をも歪めます。薬害も、その一つですね。「儲かりさえすれば、便利であれば」という社会でよいわけはありません。携わる人たち、システム自体に悪意はないのですが、それが普通というのがたまりません。
若いころ、私も「人民がそれを変えなければ」と思いました。社会主義国の今日をみると、失望です。2009年に一度交代した政権は評判を落としましたが、「コンクリートから人へ」という経済構造の変革は可能だと思います。チャンスだったのに残念。人件費を削り消費も落ち込む、儲かるのは大企業だけという社会では。人にお金が渡れば、地域のお店や経済も潤うのですから。北欧3国は、やっていますよ。
―スモンとは直接には結びつかない三里塚に、何度か行かれました
スモンの会の運動は弁護士、医師、多くの市民、運動団体の応援があって勝利できました。自分たちだけの被害、問題ではありません。連帯するという視点がなければ、運動のなかでも弱い立場の人を切り捨ててしまうかも知れません。
神戸でも空港反対の活動をしてきました。あの状況のもとで農業を続ける三里塚の人たちを尊敬しています。みなさんにお会いし学べるのが楽しく嬉しく、現地にも行きました。今は行けなくなりましたが、お祈りを続けます。
―薬に悩む人たちが大勢います
薬害は、今も続いています。薬はできるだけ使わない方がいいけど、まったく飲まないというわけにはいきません。病気になったとき、どういう治療を受けているのか、何の薬が使われ作用、副作用はどうなのか知ることが大切です。
スモン裁判でわかったのは、当時の薬事2法には薬の安全性や副作用についてまったく抜けていたということ。薬は薬剤師か医師が扱うということと、品質が届出に合致しているかどうかだけ。驚きました。多くの医師が臨床薬理学を学ばずに処方していました。薬剤師は医師に従属し、処方の薬を出すだけ。
全国の被害者の運動で薬事2法を改正させ、医薬品医療機器機構ができました。今は薬をもらうとき作用、副作用が説明され、飲み合わせを聞かれたりしますね。薬剤師さんの責任が重くなっています。
みなさんに訴えたいのは、薬害の変化です。スモンのように会社や行政に一方的な責任があるというのではなく、副作用が公表され危険を承知の上で選択するという、医師や患者に責任を転嫁するかたちに変わってきました。その典型が抗がん剤イレッサです。薬害は抗インフルエンザ薬タミフル、最近では子宮頚がんH・P・Vワクチンと、あとを絶ちません。
専門家には科学的にしっかりやってもらい、私たちは疑問点をできるだけ質問することが大切ですね。
―「大棄老時代」「私は虚弱老人になった」と
福祉や医療はできるだけ切り捨てる。やっかいな老人はなるべく早く死んでほしい。それが今の為政者の考え方でしょう。政府は健康寿命を延ばすといっていますが、寝たきりになったら全面的にお世話になるのは短期間です。
にもかかわらず「老人が医療や福祉を食い潰して国を倒産させる」という宣伝がおこなわれています。「大棄老時代」というのは私の造語ですけど、そういう時代であってはいけません。
―戦争法といわれる安保法制が強行されました
国会前へ行きたかったのですが、ごめんなさい。虚弱老人には無理でした。敗戦のとき12歳。戦争は、殺し殺され、怖く悲惨なことばかり。何もよいことはありません。残るのは悲しみ、苦しみだけです。強行され、ほんとうに残念。安倍首相は戦争に力を入れているようですが、その力を老人や「障害者」に向けていただきたい。
老若男女が久しぶりに立ち上がったことは、希望ですね。
―最良の理解者、支援者だったのが水間さんでした
私の人生は、ラブですね。水間典昭は仕事をやめ、事務局を献身的に支えてくれました。いっしょに薬害・医療情報センターを立ち上げましたが、40代後半から若年性アルツハイマーを発症。天に召されるまでの20年間、私が支えながらのラブ人生でした。
結婚すると冷めるといわれますが、私たちは冷めませんでしたよ(…)。
(注) スモン=SMON=亜急性、脊髄、視神経、神経症の英語名頭文字。原因不明、ウイルス感染といわれたが、1970年「キノホルム服用との因果関係」が指摘された。
〔後記〕 春本さんからお聞きしたいことは山ほどあったが、紙面の制約からスモンに限定せざるをえなかった。「私は虚弱老人になった」(月刊『むすぶ』=ロシナンテ社=に連載中)、『くすりの害にあうということ』(共著、NPO医薬ビジランスセンター刊)、『あなたが選ぶ乳がん医療』(春本幸子著、エピック刊)などを参照してほしい。
6面
福井高浜から関電へ リレーデモ
20日には関電本店を包囲
高浜原発正門で「再稼働するな」と抗議行動(8日 高浜町) |
福井県の高浜原発から大阪・関電本店まで200qを、高浜原発再稼働反対を掲げてつなぐリレーデモがはじまった。
高浜原発からスタート
11月8日、高浜原発直近の展望台を会場にして、高浜原発?大阪・関電本店前リレーデモのキックオフ集会が地元若狭・福井をはじ関西各地などから100人が参加して開かれた。会場の展望台からは高浜原発が一望できる。
司会はこのリレーデモを呼びかけた「若狭の原発を考える会」の新開純也さん。最初にリレーデモ実行委員会を代表して木原壯林さんがあいさつした。
地元福井から3人の方がリレーデモを歓迎する発言。最初に小浜市明通寺住職・中嶌哲演さんが、70年代なかばに起こった高浜原発3、4号機の増設反対のたたかいにふれ、地元高浜をはじめ福井・若狭のたたかいを述べ、そのたたかいの中で作られた詩の中から二人の高浜在住の女性の詩を紹介した。高浜町在住の東山幸弘さんは、高浜原発の抱える問題点について述べた。嶺北(福井県北部)からは、毎週金曜日福井県庁前で反原発の声をあげている若泉政人さんが発言。13日におこなわれる高浜原発稼働差止決定に対する関電による異議申立ての第4回異議審に注目することを訴えた。
鹿児島・川内から、「川内の家」岩下雅裕さんが発言。岩下さんは鹿児島から福岡・九電本店前リレーデモ(311q)を中心になってたたかった経験を述べ、このリレーデモで高浜原発再稼働反対の声を大きく作り出すことを訴えた。
日本最初の宇宙飛行士で福島県から京都に避難した秋山豊寛さん、労働運動から全日建連帯労組関西生コン支部が発言した。 最後に高浜原発にむかってシュプレヒコールをあげ、元気よく関電本店まで200qのデモの一歩を踏み出した。
高浜原発に申し入れ
まず高浜原発北門に向かい、「再稼働するな」の申し入れ。続いて原発正門に移動し、抗議行動。そこから、町内に向かって山道を下っていった。初日は高浜町役場まで8・5qをデモ。海岸に沿った山道に高浜原発再稼働反対の声がひびいた。住宅地域に入ると、家の中からデモ隊に手を振る人も多くみられた。
高浜町役場前で到着集会。滋賀、京都、高槻、大阪の実行委員会と兵庫県から参加した人が発言した。
9日は高浜町、おおい町に申し入れをおこない、JR小浜駅までデモをした。10日は小浜市にたいし申し入れをおこない、熊川宿(福井県若狭町)まで。11日は、いよいよ滋賀県に入り、高島市内を行進、JR近江今津駅まで歩いた。
高浜原発〜大阪・関電本店前リレーデモの呼びかけは大きな渦を作り出している。呼び掛けに応えて、デモコース上の福井、滋賀、京都、高槻、大阪で広範な再稼働に反対する人々や団体が集まり実行委員会がたちあげられ、それぞれの地で歓迎集会や交流会が準備されている。
再稼働反対の意思を具体的な行動で示そう。それぞれのスケジュールにあわせ、可能な時間、体力に合わせリレーデモに参加しよう。
リレーデモ隊は20日夕方には、大阪・関電本店前に到着する。午後6時半からは関電本店包囲大集会がひらかれる。再稼働反対の声をたたきつけよう。(G 11月11日記)
《読者からの手紙》
「対テロ戦争」という用語について
ちょっと違和感が
『未来』185号(2015・10・1)の1面論文「日米軍事一体化で戦争―安倍打倒まで闘いは続く」のなかに、「この経済システム(投稿者注:グローバリゼーション=地球規模の市場統合)への統合を拒否する国家(政権)や運動(勢力)の軍事的な粉砕を目的として遂行されているのが『対テロ戦争』である。アフガニスタン戦争(01年)やイラク戦争(03年)、最近ではリビア内戦やシリア内戦への軍事介入などはすべて、中東、北アフリカ地域でのグローバリゼーションの暴力的推進をその本質としている」と書かれています。
整理すると、〈グローバリゼーションへの統合を拒否する国家や運動の軍事的粉砕=「対テロ戦争」=アフガニスタン戦争、イラク戦争、リビア内戦やシリア内戦への介入〉とイコールで結ばれています。
「グローバリゼーションへの統合を拒否する国家や運動の軍事的粉砕」とは、ひとことで言えばこれまでの侵略戦争のことです。これを侵略戦争と言わずに、「対テロ戦争」と呼ぶことに違和感を感じました。
「正義の戦争」を偽装
今日、帝国主義者は「反テロ」「対テロ戦争」という言葉を好んで使っています。その意図は自国の侵略戦争を「正義の戦争」として押し出すための偽装にあります。「大東亜共栄圏」を掲げたアジア・太平洋地域への侵略戦争を「事変」「大東亜戦争」と呼んでいたのと同じ手法です。だから、私たちは決して「大東亜戦争」とは呼ばず、十五年戦争とかアジア・太平洋戦争と呼んできました。
アメリカ・ブッシュ大統領はイラン、イラク、朝鮮人民民主主義共和国(北朝鮮)を「悪の枢軸」と呼び、テロ支援国家・ならず者国家とみなして、戦争をしかけ、商業新聞やマスコミもこれに唱和して、「テロ=悪」のイメージが形成され、イスラム国を攻撃している帝国主義を批判しにくい雰囲気が生まれています。それは「対テロ戦争」という呼び方で正当化されており、『未来』までが、「対テロ戦争」という言葉を安易に使ってよいのかということです。
具体的に言えば、アフガニスタン戦争とはアルカーイダの引き渡しに応じなかったタリバーン政権にたいし、アメリカ(有志連合諸国)が北部同盟を前面に立てておこなった侵略戦争でした。イラク戦争は「大量破壊兵器の保有」を口実に、イラク・フセイン政権を打倒した侵略戦争でした。リビア内戦やシリア内戦への軍事介入、イスラム国への攻撃もアメリカの中東支配を再確立するための侵略戦争です。いずれも「対テロ戦争」を正義の御旗にしています。
レジスタンスなども
独裁政治や侵略にたいする抵抗や反発から、歴史的にさまざまな性格のテロリズムが発生しており、それぞれの内容・性格を厳密に語る必要があります。フランスレジスタンスやヒットラー暗殺計画・未遂事件(42件)、日本の侵略や抑圧に抗議する尹奉吉(上海爆弾事件)や李奉昌(桜田門事件)のたたかいもありました。「テロリズム=悪」を基準にして、独裁や侵略と対決するテロリズムまでをも一律に否定してよいはずがありません。
『未来』は帝国主義による中東、北アフリカにたいする侵略戦争を批判する立場から、両者について語る必要があると思います。やむを得ず使わねばならないこともあると思いますが、その場合は、ちょっと煩雑ですが、「対テロ戦争(侵略戦争)」とか、侵略戦争(「対テロ戦争」)とか、「対テロ戦争と呼ばれる侵略戦争」などを含めて、用語・用法を検討してほしいと思います。(読者S)
投稿
「自衛官は捕虜にならない」
岸田外相答弁は、戦死の強要
成立した戦争法が南スーダンPKOを突破口に適用されて、自衛隊が「駆けつけ警護」「治安任務」という「占領軍」任務につくと言われていますが、これは自衛隊と「戦後」日本社会の全面的かつ根底からの変質に直結する事態です。
現職の幹部自衛官であるS氏は、今回の国会論争を振り返って「憲法9条第2項の交戦権否認について、国際法上の交戦資格との関係が明らかにされていない。外務大臣が『自衛官は捕虜にならない』と明言したことは特に問題だ。ノモンハン事件の際、『帝國軍人に捕虜になるような者はいない』という発言のために、数千名の国軍兵士が帰国できなくなった。その二の舞になるのでは」と危惧しています。
S氏が言うのは、7月1日の衆議院で民主党の辻元議員への答弁で「自衛官はジュネーブ条約(注)上の捕虜にならない」という岸田外務大臣の発言です。
この国会答弁が安倍首相の強調する「自衛官は、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって国民の負託に応える」との言葉のもとで言われていることに身震いします。同日参考人として意見を述べた伊勢崎賢治氏の陳述とともにしっかり考える必要があります。
つまり、そもそも有無を言わせぬ命令によって、米軍等への兵站活動(後方支援)やPKOなどで、占領活動に戦地派兵しておきながら、その自衛官が「拘束された場合はジュネーブ条約での保護を求めない」、さらに「任務中の自衛官が過失で民間人等を誤射した場合は『国際人道法違反の個人犯罪』として切り捨てる」と宣言しているに等しいのです。
そういう意味では「生きて虜囚の辱めを受けず」と言われ、自決や玉砕を強要された旧日本軍兵士を超える兵士の窮状を想起してしまいます。
戦争法適用下の自衛隊を海外派兵させないことが、自公政府の戦争政策の犠牲から自衛官を守り、戦争を阻止する唯一の方法であり、今日の最大の課題だと思います。
(注)捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第三条約)(捕虜条約)
反戦自衛官 小多基実夫
冬期特別カンパにご協力をお願いします
『未来』読者のみなさん。支持者のみなさん。 2015年安保闘争は、60年安保、70年安保・沖縄闘争以来の数十万の人々が立ち上がりました。あらゆる社会層の決起で安倍政権を追いつめました。法案は成立しましたが闘いは継続しています。安倍政権は「1億総活躍」をテーマに、民衆の戦争動員へ進もうとしています。 これにたいして、沖縄の島ぐるみの闘い、原発の再稼働や自衛隊派兵を許さない闘いを発展させ、来年参議院選挙では自・公を過半数割れに追い込まなければなりません。 「アベ政治を許さない」闘いの発展の中に民衆の未来があります。そのためには闘争資金が必要です。読者・支持者のみなさんのカンパをお願いします。
郵便振替 口座番号 00970―9―151298
加入者名 前進社関西支社
郵送 532―0002 大阪市淀川区東三国 6―23―16
前進社関西支社