戦争法案
参院強行採決を許すな
安倍政権を打倒しよう
15回目となる戦争法案反対国会前集会。 2300人が参加(8月20日) |
戦争法案をめぐる情勢が緊迫している。安倍政権は今月11日までに参議院で法案の採決を強行する構えである。これに対して、法案に反対する声が全国からわき起っている。8月22日から23日にかけて朝日新聞がおこなった世論調査では、「今国会で法案を成立させる必要はない」という回答が65%で、「必要がある」と答えた20%を圧倒的に上回っている。
参議院の法案審議の中で、この法案のねらいが「自衛隊の海外における軍事行動への参加」であることが明らかになっている。集団的自衛権を行使する前提となる「存立危機事態」にかんする政府の説明は二転三転しており、まったく具体性を欠いている。裏を返して言えば、政府が恣意的に「存立危機事態」を認定することができるということだ。しかも政府が「緊急事態」と認定すれば、国会の事前承認なしに政府の判断だけで自衛隊を出動させることができるのである。まさに戦争に向けた歯止めを外すための法律なのだ。
すすむ日米軍事一体化
すでに日米の軍事一体化が急速に進行している。先月12日、沖縄県うるま市沖で対テロ戦訓練中に墜落した米軍特殊部隊のヘリに自衛隊員2人が搭乗していた。2人はテロやゲリラへの対処をになう陸上自衛隊の特殊作戦群に所属していた。自衛隊員が米軍の特別作戦用のヘリに同乗していたのは、集団的自衛権の行使を念頭に置いたものであることは間違いない。
安倍は参院特別委の答弁で「戦争に巻き込まれることは絶対にない」と発言しているが、それがまったくのウソであることが、今回の事件で暴露された。
また先月11日の参院特別委では、共産党の小池晃議員の質問で、自衛隊内で「8月中の法案成立、来年2月実施」を前提に、実施計画が立てられていたことが暴露された。これは防衛省統合幕僚監部の内部文書で、部隊の編成計画まで立てられていた。
この文書を作らせたのは中谷防衛大臣である。文書作成を指示したのは5月15日で、法案閣議決定の翌日であった。そして法案が衆院で審議入りした5月26日当日に、防衛省のビデオ会議で統幕がこの文書の説明をおこなっていたのだ。
政府はこの文書を「法案の内容についての分析、研究」と説明している。しかし、そこに列挙されている「主要検討事項」の内容は、南中国海への軍事的関与など、明らかに「研究・分析」の範囲を超えている。
「主要検討事項」の中でさらに注目すべきことは、4月に改定した日米防衛協力ための指針(ガイドライン)に盛り込まれた日米連携強化のための「同盟調整メカニズム」について「軍軍間の調整所の運用要領の検討」を挙げていることだ。自衛隊を軍と位置づけ、平時から米軍との一体化を進める内容である。まさに「軍部の独走」が進行している。
戦争法案を絶対に成立させてはならない。国会を民衆の怒りで包囲しよう。参院での強行採決を阻止し、安倍政権を打倒しよう。
戦争法案を廃案へ
学生がハンスト決起
8月27日、戦争法案に反対する大学生4人が参議院議員会館前で無期限のハンガーストライキに突入した。(写真)
大学生、高校生らが「安保関連法案制定を阻止し、安倍政権を打倒するための学生ハンスト実行委員会」を結成。「アメリカが主導する対テロ戦争に参戦する必要はない」とし、「直接行動は民主主義を機能させるうえで絶対に不可欠」とし、「殺すことの拒否、人殺しによる繁栄の拒否をハンストというかたちで示す」と訴える。
検証
戦後70年 安倍談話
侵略の歴史 正当化随所に
7月13日
8月14日、安倍内閣は臨時閣議で「戦後70年の談話」(安倍談話)を閣議決定した。「談話」には、当初から焦点となっていた「侵略」「植民地支配」「反省」「おわび」という4つのキーワードが盛り込まれたが、その内容は、日本がアジア諸国にたいしておこなった侵略戦争や植民地支配への反省や謝罪とはほど遠いものとなった。
謝罪を拒否
「談話」では肝心要の「誰が誰を侵略し、植民地支配したのか」、「誰が誰にたいして反省しお詫びするのか」ということについては、意識的に主語を欠落させあいまいにしている。
「侵略」という文言については、「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」というかたちで、「日本の侵略」については一言も語らなかった。日本が侵略したという事実を正面から認めようとせず、まるで他人事のような論述だ。
また「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」としているが、どのような「行い」をしたのかについての記述はない。これは歴史を主体的に総括し反省する態度ではない。
さらに、「これ以上謝罪しない」という態度を打ち出した。「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」。これが安倍の一番言いたかったことだ。
今生きている日本人は、明治以来の侵略と植民地支配の歴史の上に成り立っている日本という社会に生きており、この社会が生み出した歴史と現実を直視し向き合う責任がある。「なぜ戦争を知らない自分たちが謝罪しなければならないのか」という意見は、決して日本が行ってきた歴史と現実に向き合う姿勢とはいえない。そのような姿勢を日本人がとり続けるなら、かつて日本から侵略された国々の民衆が、「また同じことを繰り返すのではないのか」という不信を抱くのは当然のことである。
今に至るも被害者の側が日本にたいして謝罪を求めるのは、日本による侵略と植民地支配の歴史が正しく清算されておらず、被害者の痛みが癒されていないからである。
安倍は、「いつまで謝罪しなければならないのか」という排外主義的な感情を煽りながら、「謝罪の必要なし」という世論形成を図っているのだ。
侵略の歴史を居直り
安倍は記者会見で、「具体的にどのような行為が侵略にあたるかは歴史家の議論に委ねるべき」と語り、日本が行った侵略を事実として認めようとはしなかった。
そして、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と述べて、明治以来の日本帝国主義によるアジア侵略の歴史を、まるで欧米の植民地支配からアジアを解放するものであったかのようにねじ曲げたのである。
安倍は、さすがに真珠湾攻撃によって対米開戦に踏み切ったことを正当化できないため、「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んでいった」と反省めいたことを言わざるを得なかった。しかしその原因は、「欧米諸国によるアジアへの植民地化と経済ブロックの結果」と、「日本を追い詰めた欧米にこそ責任がある」と言わんばかりの内容になっているのだ。
「談話」の中では日本は戦争という手段で間違った解決の方法を取ったが、もともとは欧米のアジアへの植民地支配が原因で、日本はアジアの解放をめざしていた、という安倍の歴史認識が随所に散りばめられている。
「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」という一文は、けっして日本軍「慰安婦」問題への反省の姿勢を示したものではない。「慰安婦」問題への具体的な言及を避け、誰が女性の名誉と尊厳を傷つけたのかという主語が明らかになっていない。
このように安倍談話は、「侵略、植民地支配、痛切な反省、心からのお詫び」という文言こそ入っているが、そこに貫かれているのは、侵略と植民地支配の歴史の居直りであり、反省やお詫びの拒否である。(早川)
2面
アベ政治を許さない
兵庫の32市民団体が結集
8・23神 戸
若い世代がデモの先頭に |
8月23日、兵庫県内の反戦や脱原発を訴えてきた32の市民団体が呼びかける「アベ政治を許さない! 市民デモKOBE」が、兵庫県私学会館(神戸市中央区)で開かれ、320人が参加した。集会後のデモは、沿道からの飛び込みでふくらみ、最終的に400人が参加。この行動は、澤地久枝さんが呼びかけた7月18日の「アベ政治を許さない」全国一斉行動に応じた26団体が32団体にひろがり、第2弾として呼びかけたもの。9月12日(土)午後5時から、神戸市東遊園地で第3弾の行動がおこなわれる。
元自衛官の訴え
集会は姫路市在住の元自衛官、泥憲和さんがメインの講演。泥さんは『安倍首相から「日本」をとり戻せ!』という自著の内容を短時間にまとめ、戦争法案の危険性とアベ政治のデタラメさ・嘘八百を訴えた。映像を使った泥さんの巧みな話には、随所で笑いと拍手がおこった。
リレートークでは兵庫県選出の水岡俊一参議院議員が、民主党も廃案に向け奮闘していることや(前日東京で岡田党首も参加する連合の大集会が開かれた)、自身も国会で質問に立つという元気な発言に会場がわいた。学生の発言につづき、40歳代の「ママの会」の発言では、初めて地域で声をあげることのしんどさや呼応してくれる仲間の姿が生きいきと語られ、共感を呼んだ。
まもなく95歳になる山本善偉さんは、1943年、神戸市・東遊園地でおこなわれた学徒出陣壮行会で出陣学徒を代表して答辞を述べたことを悔い、戦後は戦争反対や人権尊重に生きてきたことを語った。資料に折り込まれた、当時のことを伝える神戸新聞の記事や答辞のコピーを熱心に読む人も多かった。
デモは元町商店街から三宮センター街と神戸の繁華街を元気よく行進。沿道の市民の多くが手を振って応えた。(伊藤)
今こそ謝罪賠償 真の解決を
「慰安婦」メモリアルデー
8・14大 阪
8月14日大阪市内で「8・14日本軍『慰安婦』メモリアル・デーを国連記念日に『今こそ謝罪 賠償 真の解決を』集会&デモ」がおこなわれた。主催は日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク。200人が扇町公園に集まった。
8月14日は、1991年、金学順さんが日本軍「慰安婦」問題の責任を認めようとしない日本政府に怒り、長い沈黙を破って名乗り出た日。この日を国連記念日にしようと各地で集会、デモがおこなわれた。24年経っても解決できないままハルモニ達が一人、また一人と亡くなっている。安倍はこの日に70年談話を発表。戦争法案強行成立を狙っている、そのただ中での集会であった。
プレ企画は「水曜デモの歌」とダンス「シャッフルアリラン」。主催者として発言した方清子さんは、「慰安婦」問題と向き合わず、反省・謝罪・解決を拒否する安倍談話を弾劾。沖縄から来阪中の「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表の高里鈴代さんは、金学順さんが被害者として名乗りでられた時のようすや、沖縄で一足先に被害を告発したペ・ポンギさんのことなどを話した。若者たちがサムルノリを演奏。スタッフによる寸劇では「金学順さん」といっしょに、参加者が謝罪・賠償・解決のボードを掲げて「安倍首相」に迫った。その後、梅田までデモ。残された時間はない。安倍政権に一刻も早い解決と戦争法案を撤回させる闘いを訴えた。(大阪N)
沖縄県議会議員 新里米吉さん
沖縄、闘いの今(上)
新基地阻止へ あらゆる手段を駆使する
8・15平和のための市民の集い=神戸市内=での講演から要旨をまとめた。講演内容の順序はテーマに沿って整理した(文責は本紙編集委員会)。
しんざと・よねきちさん(沖縄県議会議員、辺野古基金運営委員会・委員長、県政野党知事選候補者選考委員会・座長、参議院沖縄選挙区候補者選考委員会・座長)
全国に広がる関心
戦争法制にたいし、いま若い人、学生たちが立ち上がっている。非常に頼もしい。日本も、まだまだ捨てたものじゃない。沖縄、安保法制を含めやっていこう。
最近の沖縄の状況について伝えたい。県民世論は非常に高まっている。辺野古の座り込みは、もう1年以上。一口に1年といっても簡単なことじゃない。各市町村単位で「辺野古に基地を作らせない」という組織づくりが進んでいる。本島では2カ所を除く全部にできている。バスをチャーターし、持ち回りで座り込む。
前の知事のときは「辺野古に基地を作る」ことに、沖縄では反対が多数だが、沖縄以外の地域では賛成多数だった。それがいまは、『産経』調査でも反対が多いと報じている。『産経』は5・6ポイント、他紙は約10ポイント程度、反対が多くなっている。
沖縄県は予算を組みアメリカに駐在事務所を設置し、3人が活動している。辺野古基金を立ち上げ、いま4億円ほど集まっている。バスのチャーターなどに補助、現地サポートにも有効活用している。
例の「一時工事中断」が9日まで。8月30日から9月9日まで全国の地方紙、全国紙に辺野古について順次意見広告を出す。いっせいに出すと、いっぺんに(激励や問い合わせの)電話がかかってくるので対応できない。協力企業の本社総務が総がかりで対応してくれている。
外来生物の侵入規制
埋め立てには10トントラック350万台分が必要とされている。県外から大量の土砂が運び込まれる。沖縄には他にいない在来種が多く棲息している。県議会で環境保全、外来種による生態系を壊さないよう埋め立てに使う県外からの土砂搬入にたいする規制条例をつくった。
国も外来生物を規制する法律をつくっており、当然のこと。県が立ち入り検査できるようにした。罰則を設けるのは難しいこともあり、受け入れない業者には補償などをおこない業者側も不利にならないよう措置。簡単には工事が進められない状況が作られつつある。
アメリカ世論の形成
翁長知事が5月に訪米。しかし、その前に日米合意しており、前の知事の埋め立て承認もある。問題は簡単ではない。アメリカでは沖縄のことを知らない人が多い。沖縄に広大な基地があることを知らない。知っているのは1%か、ゼロに近い。そのことをアメリカの政治家や団体に周知していくことが大事。知事は訪米前に、外国特派員クラブで記者会見し問題を述べた。それがワシントン・ポストに掲載され、タクシーの運転手さんが「あの、政府とケンカしている知事さん」と言っていたそうだ。読んでいる人たちがいる。
承認取り消しへ
翁長知事は、前の知事の埋め立て承認について法的瑕疵(かし=法律上、なんらかの欠点や欠陥があること)があるかどうか検討する第3者委員会を立ち上げ、報告が出た。「瑕疵がある」という報告になった。「埋め立ての必要性に合理的な疑いがある」「審査に欠落があり不十分」「埋め立てで得る利益と不利益を比較すると合理的とは言えない」など。
知事は「第3者委員会の判断を尊重する」と言ってきたから、取り消しの可能性は高い。いまは9月9日までの「中断中」だから、その後の判断になるだろう。政府がどういう態度をとるか、何が起こるかは定かではない。沖縄では「中断している間がたたかいだ」と休戦状態の間も、座り込み闘争を続けている。意見広告も打つ。あらゆる手法を駆使して辺野古新基地建設をとめていく。
強引と「誠実」
7月24日、防衛局が護岸の設計図を県に提出した。ちょっと予想に反した。ボーリング調査は終わっていない。全部終了してから出すと思ったが、途中で出してきた。政府も焦っているんじゃないか、「あくまでやるぞ」という姿勢を見せようということかもしれない。いずれにしても常識的な行為でない。
翁長知事が当選したあと5カ月間、知事が政府、総理に面談を申し込んでも会おうとしなかった。圧勝し民意を代表する知事と会おうとしない。大田知事のときも同じ手を使った。「いまの知事は国と話もできない」という閉塞状態をねらい、孤立させようとした。しかし今回は逆でしたね。マスコミも含め、「政府は会うべきだ」という声が圧倒的だった。安倍首相は、政権の支持率が下がり安保法制への批判が高まるなか、沖縄とのケンカを中断し「誠意を持っている」ということを示そうとしたのだろう。
9月から本番
この間、県も政府も見解、立場を変えていないから9日以降が重要なたたかいになる。
辺野古基地は単なる普天間の代替施設ではない、新基地である。政府も自民党も盛んに、普天間の早期返還のためだと言う。
しかし辺野古の図面を見れば明らか。輸送艦が着岸できる。海兵隊を積み込む強襲揚陸艦で、最新の大型艦が着岸できるよう271メートルの岸壁ができる。強襲揚陸艦の母港は佐世保。いまは佐世保から揚陸艦を沖縄中部東海岸のホワイトビーチに着け、海兵隊を乗船させる。辺野古新基地になれば、直接キャンプ・シュワブから乗船できる。
これも国会で問題になった。「法律で300メートルないと接岸できないことになっているから、不可能」と答弁があった。米軍には国内法が適用されない。普天間飛行場は滑走路の制限区域に住宅があり、国内法が適用されたら使えない。しかし、使っているではないか。国会議員も、しっかりしてほしい。(つづく)
3面
ルポ
原発が大熊・双葉に来たとき
〜証言・半世紀前の真実(下)
請戸 耕一
原子力を受け入れたのか
福島原発事故後、最初の一時帰宅 (2011年7月) |
福島原発事故の被害について東京などで話題になると、「そうは言っても福島の人は原発を受け入れたんでしょう」という反応によく出会う。また福島県内でも、「大熊町、双葉町の人らはお金をもらって原発を受け入れたから」という声も少なくない。
たしかに、反対を押し切って土地が取り上げられたというわけではない。反対運動もなく、土地の買収も円滑に進んだとされている。
しかし、少なくとも、志賀さんの話からわかることは大熊町、双葉町の住民が、福島県や東京電力から、原子力発電について正面から提起され、それに納得して賛同したというわけでは全くなかったということだ。
原子力発電がどういうものかという知識を住民はほとんど持っていなかった。当時は茨城県東海原発が1960年1月に着工したばかりで、全国民の大半が、原子力発電に関する知識を持ちようがなかった。
そういう住民に対して福島県と東京電力がおこなった説明は、「オブラートに包んだような感じ」「原子という言葉は表現しなかった」「私の記憶では、原子力発電所らしいということは、地層調査が終わって、工事が始まって大型重機などが入ってきてから」というのだ。
もちろん、福島県や東京電力がその説明の中で、原子力発電について触れなかったということはないだろう。しかし用地交渉に当たった県職員の報告(注1)によれば、広島・長崎の原爆の記憶と原子力発電とが結びつくことに神経をとがらせつつ、「石炭、石油を燃やすのと同じように、核分裂によって発生するエネルギーを水に加えて、あとは、火力発電所と同じであるという説明をおこなった」とある。
原子力ということが、参加した住民の印象に極力残らないようにして、まさに「オブラートに包んだような感じ」で飲ませてしまうというやり方をしたということだ。
そして、そのオブラートというのが、「出稼ぎをしなくて済む」「町が潤う」「遊園地」「一大観光地」という甘言だった。
「死者720人超」の試算
では、原子力発電の危険性について、国、福島県、東京電力は、当時、どういう認識だったのだろうか。少なくとも、国、福島県、東京電力などの中枢レベルでは、原子力発電の危険性について相当厳しい認識を持っていた。
原子力発電を日本に導入するに当たって、原発事故が起こった場合の損害賠償に関する法律を制定する必要があった。その前提として、原発事故の被害がどれくらいになるのかという試算をおこなっていた。科学技術庁が日本原子力産業会議に委託しておこなった「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆被害に関する試算」(1960年4月、以下「試算」)(注2)。その試算は、いくつかの条件や仮定によって幅はあるが、最悪の場合、〈死者720人超、放射線障害5千人、永久立ち退き10万人、被害総額は最高で3兆7千億円〉に至るという衝撃的なものだった。
国は、原発推進のためにこの試算を機密扱いにし、40年後の1999年に公表されるまで、国は試算をおこなったことすら否定し続けた。と同時に、原子力損害賠償の仕組みの構築や立地地域の選定などの前提にこの試算があった。
1964年4月に原子力委員会が策定した「原子炉立地審査指針」(注3)はそのことをはっきりと示している。「原子炉は、どこに設置されるにしても、事故を起さないように設計、建設、運転及び保守をおこなわなければならないことは当然のことであるが、なお万一の事故に備え、公衆の安全を確保するためには、原則的に次のような立地条件が必要である」と述べた上で、「原子炉は、その安全防護施設との関連において十分に公衆から離れていること」「原子炉の周辺は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること」「原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること」としている。
つまり、試算のような重大事故を前提とし、それが最大の懸案だという認識なのだ。そして、そういう事故が東京のような大都市部で起こったら大変だから、僻地・過疎地に持っていけという考え方を提示した。そういう基準で、大熊町、双葉町が選定された。京浜工業地帯を中心とした高度経済成長を支えるための電力だが、重大事故による犠牲は、大熊町、双葉町の住民に押しつけるという判断がなされたということだ。
しかしこういう判断だということを国、福島県、東京電力も言えるはずもない。そこで当該の住民に対しておこなわれた説明は、「出稼ぎをしなくて済むし、町が潤うんだから、協力して下さい」。「発電所は寿命が20年間」「その後は撤去して遊園地に」「一大観光地にする」。こういう詐欺にも等しい行為が、立地の出発点においておこなわれていたということをわれわれは確認しておく必要があるだろう。
出稼ぎ問題の背景
さて、いまひとつ見ておきたいのは、「出稼ぎをしなくて済む」という言葉の持っている意味だ。出稼ぎの問題は、原発立地当時の問題に触れたとき住民から異口同音に語られる。実際、それは当時の大きな社会問題であり、切実な問題だったからだ。
出稼ぎとは、主に東北や九州の農村から、農閑期に数カ月にわたって東京などに出て、土木建設現場で働くこと。戦前からかなりあったが、戦後は高度経済成長の中で激増している。
1964年の東京オリンピックを契機とした地下鉄、高速道路、下水道工事などの非熟練労働に従事した。重層下請制度のもと、低賃金・長時間・無権利で労働災害が多かった。出稼ぎに出る者にとっても、残される家族にとっても辛い問題であった。(注4)
しかし、そういう思いまでしてなぜ出稼ぎに出る必要があったのか。「農業だけでは生活が苦しい」(1972年農林省の面接調査)。これが大きな理由だった。
では、どうして農業で生活できないのか。それは、高度経済成長という国策のために、政策的に仕向けられたというべきだろう。
ひとつは、高度経済成長を推し進めるためには鉱工業の輸出の促進が至上命題であり、そのために貿易自由化が進められた。その結果、農産物輸入が激増し農業に打撃を与えた。そのために農家は農業外に収入を求めざるを得なくなった。二つには、農業の生産性の向上を掲げて稲作を中心に機械化が促進された。機械化は労働時間の短縮には貢献したが、同時に機械の購入のためにまた農業外の収入に走らざるを得なくなった。
ここまでなら農政の失敗という話になるかもしれないが、そうではなかった。自由化や機械化を進めることで農業と農村を縮小合理化し、農業人口を都市部に引き出し、京浜工業地帯を中心とする労働力として投入する。そういう政策的な意図があった。だから農政でありながら農業と農村を破壊するということを意図的に進めた。その政策によって、都市近郊では兼業化が進むが、近郊に雇用がない地方では、出稼ぎや就職という形で、労働人口の流出となっていったのだ。(注5)(注6)
未来のための教訓
こうして見ると、「出稼ぎをしなくて済む」という言葉を、住民らがどういう思いで聞いたかがわかってくる。同時に、出稼ぎをせざるを得ない窮状が国策によってつくりだされたものだということに強い矛盾を感じる。さらに、そういう窮状に付け込む形で、原発の立地が進められたのだった。推進する側はその危険性をひた隠しにして、窮状にあえぐ地域に押しつけたのである。
原発の建設が始まると、一時的に雇用が急増した。しかし、建設ブームは一時的なものだった。「浜通りに産業の集積が進み、一大工業地帯になる」というのは全くの幻想であった。
出稼ぎは形の上ではなくなったが、それは形を変えて、定期検査時の作業に、重層下請制度の末端に動員されるものであった。福島の原発が稼働時は定期検査作業を求めて全国の原発を回った。それは形を変えた出稼ぎでもあった。そして、定期検査時の作業は被ばく労働であり、健康被害を不可避とするものであった。原発の危険性の説明もなく、原発が立地され、その原発に働きに行っていた住民が、被ばくによる健康被害で苦しみ、そのことを訴えることもできないまま亡くなっていった。
それを目の当たりにすることを通して、「これは怖いなとようやく分かってきたんだ。安全というのも神話なんだなって」と気づいていく。しかし、同時に、「そういうことが分かってきたときは、もうどうしようもなかったんだよね。だって町全体が原発に組み込まれてしまったようなもんだから」。
志賀さんの証言は、脱原発を進めるためには何が必要なのか。そして脱原発を訴える側は、どのような人びとと結びつかなければならないのか。どのような思いに応える必要があるのか。そのための重要な示唆を与えているように感じた。(了)
(注1)
横須賀正雄 「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」(『用地補償実務例(1)』1967年)
(注2)
今中哲二 「原発事故による放射能災害」参照 http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/genpatu/gunshuku9905.html
(注3)
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19640527001/t19640527001.html
(注4)林信彰 「農業政策の破綻と出稼ぎ」(1947年9月 横浜市「調査季報」43号 特集 出稼ぎ労働の問題点)http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/seisaku/chousa/kihou/43/kihou043-
012-019.pdf
(注5)飯島充男 「福島県農業の現状と展望」(1980年8月『福島県の産業と経済』山田舜編)
(注6)物質文明を拒否する立場から出稼ぎ拒否を論じた当時の論考に草野比佐男『わが攘夷』(1976年)がある。
4面
ロシア・中国・朝鮮半島にらむ
小松基地に仮想敵部隊配備
飛行教導群の小松移転
8月5日付北國新聞および8月6日付北陸中日新聞は、現在新田原基地(宮崎県)に配備されている飛行教導群(F15戦闘機10機)を来年、小松基地(石川県)に移転すると報道した。
飛行教導群とは戦闘機訓練時に敵機役になる部隊で、空中戦闘能力を高めるために1981年に発足。アグレッサー(仮想敵)部隊とも呼ばれている。
2013年12月の防衛計画大綱では、航空自衛隊の能力向上のために、訓練・演習の充実・強化が謳われているが、今回の飛行教導群の小松移転もその一環である。小松基地への移転の理由として、日本海に広大な訓練空域(G空域)があり、戦闘機戦闘訓練には最適であることと、中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にたいするスクランブル(緊急発進)体制の強化があげられている。
朝鮮半島に面する小松基地に先制攻撃部隊を集中し、新田原基地は兵站エリアにしようと考えているようだ。
スクランブルが増加
4月16日の新聞各紙は航空自衛隊による昨年度のスクランブルが943回であったことを大きく報道した。かつては北部航空方面隊(三沢、千歳)からのスクランブルが多かったが、一昨年以降、南西航空混成団(那覇)からのスクランブルが増えており、昨年度は468回で、北部航空方面隊の286回を大きく上回っている。中部航空方面隊(小松、百里)は102回、西部航空方面隊(築城、新田原)は87回だった。
もともと自衛隊のスクランブル対象機はロシアがほとんどであったが、ここ数年尖閣諸島(釣魚台)での海上保安庁による挑発によって、中国との緊張が高まり、沖縄周辺でのスクランブルが増加してきた。防衛省が発表した直近5年分(10〜14年)のスクランブルを合計すると、3131回(年平均626)にのぼる。対ロシア機が1573回(同315)、対中国機が1437回(同287)である。対北朝鮮機は直近6年間でわずか17回であった。
軍事挑発のおそれ
小松基地からのスクランブルについて1980年代は年平均151件。90年代になると32件、00年代は17件と激減している。2007年以降の8年分の数字は公表されていない。91年ソ連崩壊前後から、小松基地からのスクランブル発進は格段に減少し、今日に至っている。
自衛隊は北方重視から南西重視に転換してきたが、小松基地は対朝鮮半島シフトをとってきた。今回の飛行教導群の小松基地への移転によって北朝鮮に隣接するG空域で実戦さながらの訓練をおこなうことになれば、北朝鮮とのあいだで軍事的な緊張を高めるおそれがでてくる。また基地周辺住民に騒音と危険を強制するものであり許されない。(田端登美雄)
許せない、戦争動員
元自衛官・井筒高雄さんが訴え
7・26伊丹
衆議院での強行採決から10日あまり、怒りの声は拡大する一方で、7月26日伊丹では、阪神7市1町の26自治体議員主催の安保法案反対集会が、右翼の執拗な妨害をはねのけ、180人でおこなわれた。
集会は日教組出身の川上八郎伊丹市議の司会で、自衛隊の街=伊丹での「自衛隊を戦場に送らない」たたかいの意義が語られた。
レンジャー部隊化
つづいて元自衛隊レンジャー部隊の井筒高雄さんは、戦争に行くことのない安倍首相や政治家が自衛隊や戦争について無知なまま、政治の道具として自衛隊と自衛隊員の命を扱おうとしていることを弾劾した。途中右翼の妨害があったが、「ああいう連中が勇ましいことを言って戦争法案を推進しようとしているが、彼らも安倍首相と同様、戦場にいかないことを前提にものを言っている。自分はレンジャー部隊で遺書も書かされたが、いま自衛隊にはこのような訓練に耐えられる隊員は数千人しかいない。これからは全隊員がレンジャー部隊化するわけで、安倍政権の無責任な戦争動員に自衛隊員の命を任せるわけにはいかない」と、アベ政治を鋭く弾劾した。
誰が戦死を望む
その後10人の議員と2人の市民からアピールをうけデモ行進をおこなった(写真)。
伊丹市民は自衛隊派兵や自衛隊演習反対のデモは経験しているが、自衛隊員に向かって「自衛隊員が戦場で死ぬことを望みません」というデモは初めてで、集会に注目する自衛隊員もいた。
次の行動は呼びかけ議員が63人に増え、9月6日16時から、伊丹市三軒寺広場(阪急伊丹駅東3分、JR伊丹駅西7分)でおこなわれる。
読書
新右派連合の安倍政権を批判
『右傾化する日本政治』
(中野晃一著・岩波新書、780円+税
中野晃一上智大教授の『右傾化する日本政治』(岩波新書)が7月末に発行された。この本は日本における新自由主義が、旧来の自民党保守本流体制(吉田ドクトリン=軽武装・経済成長路線=開発主義・恩顧主義)を破壊して、戦後体制(レジーム)の骨格をなす憲法体系を破壊せんとする新右派転換が現在の安倍政権へと変転したことを解明している。
新自由主義安倍政権
バブル崩壊・ソ連崩壊以降の新自由主義攻撃に、日本の左翼は太刀打ちできなかった。新自由主義の階級権力形成の日本型形態である第二次安倍政権が、新保守主義(復古的国家主義と排外主義)をも全面展開しているとき、相変わらず「平和と民主主義を守れ」では、この攻撃に勝てるわけがない。
本書は90年を前後する戦後保守政治(自民党政治)の根底的転換を厳しく見すえ、これに変わるオルタナティブの模索としてある。後者はまだ十分展開されないが、中野自身はこの間の安保法制反対の行動にも積極的に加わり、民衆なき「民主革命」・「政権党交代」でしかなかった「民主党の成功と挫折」を克服する道を実践的に探っているとも思える。
なお2013年に中野晃一は、『戦後日本の国家保守主義―内務・自治官僚の系譜』(岩波書店)という著作も出している。これは戦前内務省という官僚の中の官僚が戦後も延命し政権中枢と密着しながらも(鈴木俊一元都知事、中曽根康弘元首相、後藤田正晴元官房長官ら)、新自由主義再編以降はかつてほどの要職を占めえない実証的研究である。
この研究の上に新自由主義権力の形成を、1990年以降の政治抗争が、旧来の保守本流=宏池会(池田・大平・宮沢)と佐藤・田中・小渕派を最終的に解体し、傍流の福田・清和会が森・小泉・安倍首相を生み、いかに新自由主義的に再編されていったかを解明している。
新右派連合の誕生
日本における初の新自由主義政権を中曽根政権に求める事には賛否両論がある。成立自身が田中角栄に支えられ田中曽根と言われ、また中曽根自身の復古的国家観もあり、新自由主義と規定するには難点がある。しかし中曽根は「戦後政治の総決算」のもと防衛力を強化し、労組破壊(国鉄分割・民営化=国労破壊・総評解体)を強行するが、日本経済はバブル期に上り詰める過程であった。他方では日米構造摩擦が激しくなり、通称「前川リポート」が答申され、旧右派の基盤をなした「開発主義=国家主導の経済成長路線と、恩顧主義=バラマキ」からの決別が必須と宣告されている。
そしてバブル崩壊と、自民党支配の行き詰まりを「政治改革」と称して乗り切りる過程(この頃から保守勢力が「改革」を叫ぶ)で、自民党は(竹下派は橋本派と小沢派に)分裂する。ここから2001年の小泉政権という本格的新自由主義政権の成立までが、新自由主義派と旧右派、さらには8党連立=細川政権、自社さ村山政権などの激しい政治抗争となり、最終的には旧右派の橋本が6大改革で新自由主義派に転換する。小渕首相の病没と宏池会の加藤の乱の鎮圧で保守本流は最終的に消滅する。そして森の混迷を経て「旧来の自民党をぶっ壊す」と言う小泉により、日本における本格的新自由主義政権が誕生する。
なお橋本の新自由主義転換の過程で、80年代の日米経済対立を再編して日米新ガイドラインが制定され新たな同盟関係に入る。2015年4月の安倍政権の新ガイドライン=今回の安保法制制定の動きは、米英同盟型の具体的に軍事力を行使する新たな同盟関係に他ならない。90年〜2000年過程の激しい政治的攻防の過程で、95年村山談話などに反発し登場した歴史修正主義の旗頭が安倍晋三で、安倍こそ新自由主義と国家主義の正統な体現者である。しかし新自由主義は格差・貧困の拡大、社会全体を破壊し、すべてを自己責任に帰す。そのため社会の荒廃は激しく進む。これを突いて「国民の生活が第一」として、民主党が「政権交代」を実現するが、それは民衆なき「政権党交代」でしかなかった。
オルタナティブの形成
中野自身は新自由主義に変わるオルタナティブの形成を求めている。それは小選挙区制の廃止、新自由主義との決別、同一性にもとづく団結から他者性を前提とした連帯へ、を基調とした政治・経済・社会の変革運動だろう。鋭い指摘だが、一点致命的な欠陥がある。それは、今日の「平和な日本」が9条の裏で沖縄米軍基地を提供する日米安保体制に支えられ、この日米関係が戦後政治を根本的に規定したことに深く論及していないことである。もちろん表題からしてそれは論究外なのだろうが、中野自身が現下の社会の変革にとりくむなら、この課題は避けて通れないと思う。
極めて優れた政治分析の書だが、さらに運動と一体となって、新たなオルタナティブの形成に向かってともに進むことを求めたい。(久保井)
5面
直撃インタビュー(第29弾)
宝塚市議会が
「ヘイトスピーチ規制の意見書」可決
宝塚市議会議員 大島淡紅子さんに聞く
昨年、朝日新聞が「吉田証言」掲載記事を取り消し謝罪したことに勢いを得たヘイト集団が、日本軍「慰安婦」とされた女性たちを中傷するニセ「慰安婦展」や排外主義的な言動を各地でくり返している。各自治体はこうしたヘイトスピーチに対してどう臨むのかが問われている。兵庫県宝塚市では2008年に日本軍「慰安婦」問題に対して、「政府の誠実な対応を求める意見書」を全国で初めて可決した。これにたいして、「在特会」らヘイト集団が執拗な攻撃を続け、昨年末には市議会で「意見書無効」の決議が可決された。しかし宝塚市民はこうした反動に負けることなく、反ヘイトの市民運動を継続した。そして6月29日、市議会で「ヘイトスピーチ対策について法整備を含む強化策を求める意見書」を全会一致で可決させた。この運動の渦中で奮闘する大島淡紅子宝塚市議会議員に聞いた。(文責・本紙編集委員会)
―宝塚市が08年意見書を提出した経緯を教えてください
宝塚市と言えば全国的に「歌劇のまち」でおしゃれというイメージが強いと思いますが、ほとんどは農村地帯です。戦後、宝塚町と良元村が合併して宝塚市となってまだ60年です。広大な北部農村地域と開発住宅地が併存し、沖縄出身者や在日外国人も多く住む多面的な顔をもつ、人口23万の都市です。そのため保守的な人もおり、2005年には、阻止したものの日本会議会員の市長による「つくる会」教科書採択の問題もありました。05年時の渡部市長と次の阪上市長が汚職事件で続けて逮捕され、2009年に元社民党国会議員だった中川智子さんが市長になります。
これと前後して、市の式典での朝鮮学校生徒さんへの差別発言があり、市民の中から差別や「慰安婦」問題を考える運動が起こり、2008年3月、全国で初めて「慰安婦問題に政府の誠実な対応を求める」意見書が可決されました。このころから「在特会」などの排外活動が始まります。この意見書の中心人物のひとりが私ということで、2010年秋から翌年春にかけて私の事務所のある阪急山本駅前に10〜20人ぐらいが押しかけ、誹謗中傷の街宣をおこない、事務所にたいして乱暴を働きました。ちょうど4月の市議選を控えていたからです。
―昨年9月議会で08年の意見書を無効とする決議が可決されます
私に対する嫌がらせは半年ほどでしたが、2011年4月の選挙で私が当選すると、しばらくはおとなしかったのです。ところが、昨年の朝日新聞の「慰安婦問題」に対する「吉田証言取り消し・謝罪」を機に彼らは復活し、全国初の宝塚の意見書を無効にしたいと、再度、宝塚攻撃をはじめました。この攻撃に宝塚市議会内の保守を含む良識派が呼応したのです。私たちも対案の決議案を出して懸命に反撃したのですが、前回賛成だった公明党が反対に回り、僅差で「意見書無効」が決議されます。本当に残念でした。
―今年3月から反ヘイト決議をめざす市民運動が始まります
「無効決議」は、その根拠となる事実が変わっていないのに、同じ議会で正反対の決議が可決されるという不条理なものでした。実際、議会としては一度提出された意見書を取り下げることはできないのです。
私としては差別容認と人権軽視のヘイトスピーチはジェノサイド(集団殺害)につながる大変危険な潮流と考え、9月議会で質問をしました。市民団体は4月の選挙もあり、次の6月議会に照準を当て街宣や署名活動など準備しました。
しかし8年前とは市議会の状況は大きく変わっていました。というのは、宝塚は元々保守的なまちでもあるのですが、自民党の中には歴史修正主義者や排外主義者はいませんでした。彼らは地域の世話役、企業家、名士という普通の保守的な人たちで、議長・副議長ポストや市長をねらい議会内で動く人物の方が、極右やヘイト的な主張よりも力を持っていました。
しかし自民党本部や県連の幹部からは、「全国初の意見書採択」をひどく怒られようで、その「トラウマ」で、次第に極右的になっていった議員もいます。
状況が変化したのは、選挙が近づき、支援者に議員が左右されたためと考えています。
―6月には元朝日新聞記者・植村隆さんの講演会が開かれます
6・6講演会にたいし、会場前におしかけ妨害をおこなう右翼。駅前では別の「在特会」系団体がビラまきで集会参加を妨害した。 |
5月になると連日、右翼団体が街宣車で押しかけ、最大時20数台も来ました。子どもたちの前でも騒音をまき散らし威嚇する。それに子どもがおびえてしまう。となると右翼団体は得意げに自分たちのブログで「おびえさせることが目的だ」とまで言い出す始末です。
特に住宅街にある会場の公民館に20台の街宣車を走らせると予告してきたため、当日は市民団体の公民館使用はすべてキャンセルになりました。これはもう言論・集会の自由を侵害するものであり、平和や人権を尊ぶ市政としても見過ごせないと、市当局も毅然たる態度をとることになりました。市主催の公民館事業は予定通りおこない、併設の図書館の平常運営をおこなうために警察官だけでなく、市職員も警備につきました。市をあげて言論の自由を守るためにたちあがったのです。
講演は朝日新聞元記者の植村隆さんにお願いしました。ヘイト集団は「植村さんは許せない」とボルテージが上がっていたようです。しかし彼らが騒げば騒ぐほど集会への関心は高まり、関西各地からヘイト集団と闘う人たちが参加し、会場の定員を超える250人が集まりました。
私も満員で中に入れず外の書籍売り場にいました。たしか2人ほど「抗議」にきたのですが、会場係に説得され退去しました。自民党の右派市議も参加して、「質問」などで植村さんにケチをつけようと考えていたようですが、大勢の参加者の中ではそれもできませんでした。
植村さんはこの種の攻撃には慣れてはいるものの、宝塚の会場にまでヘイト集団が押しかけることには少し驚いたようでした。しかしヘイトとの激しい攻防の中でこの講演会がおこなわれることの意義を理解していただき、当日は壇上から「私は捏造記者ではない。不当なバッシングは許さない」という力強い発言で参加者に勇気を与えてくれました。
―この後、反ヘイトの意見書採択へと向かいます
この過程の右翼とヘイト集団の乱暴狼藉ぶりに接した多くの市民が敏感に反応したと思います。植村さんの講演会にも、一般の市民がかなり参加していたように見えました。
しかし「法規制を求める」意見書となると「言論の自由」を前面に立ててくる議員も少なからずおり、簡単ではありませんでした。とくに宝塚の場合、「意見書」の可決は全会一致、「決議」は多数決です。そこで市民団体としては、可能性のある「決議」を、としたのですが、「国に対しヘイト規制を求める」わけですから、本来は市議会の態度表明である決議でなく意見書であるべきです。委員会審査で、公明党はこの矛盾を執拗に突いてきました。
公明党は「ヘイトを許さない。法的整備に向けて準備中」という立場なので、請願を無視にすることはできず、「気持ちは解る」という「趣旨採択」を打診してきました。こちらは公明党が独自の意見書を用意する意向があることをつかんでいたので、採決を望む請願団体を説得し、趣旨採択にかけていただきました。しかし、本当に意見書を出すのかどうか最後まで判らなかったので、こちらも独自に意見書案を作成し、提出期限まで持っていました。
結果、非常にゆるい意見書が出て、全会一致となりましたが、「憲法で保障された『表現の自由』を制限するという懸念もあります」を「意見もあります」に変えることには成功しました。前者は表現の自由への不安を主体的に述べていますが、後者にすれば一般論になります。
もう一つ4月選挙でダントツでトップ当選した自民の議員が「(支援条例が制定され)宝塚に同性愛者が集まり、HIV(エイズウイルス)感染の中心になったらどうするのかという議論が市民から出る」という差別発言をおこない、全国的に批判されたことも、追い風になったと考えられます(この発言は議員の個人ブログでの形式的なお詫びと議会での発言取消となった)。
―今回の意見書はどのような効果をもつのでしょうか
国に全会一致で意見書を出したからと言って、直ちに法的効果を持つものではありません。行政にも強制力はありません。しかしヘイトが許されないことは市民的な共通認識になったわけで、これをもとに地域住民と行政が一体となって、人権感覚を広げていくことが必要です。ニセ「慰安婦展」が公共施設を使って、昨年宝塚から始まり、高槻、西宮、尼崎、神戸などで攻防が続きました。バブル崩壊以降、都市中間層が右傾化していく要因に、この種の問題に対する取り組みが弱いことがあると思います。
私は労組出身でもなく地域活動や青少年育成の活動のなかで、お互いを認め合うまちづくりを訴えてきました。このかん「戦争法案にNO!」と表明する若いママやパパも増えてきました。今までビラさえも拒否していた人たちが、社会に目を向けることで、日本が大きく変わると信じています。そんな若い人たちのお手伝いが出来ればと活動する毎日です。(了)
おおしま・ときこ
1979年、関西学院大学社会学部卒業。スイスの商社に勤務ののち、知的障がい者居住施設ヘルパーなどをへて、2003年宝塚市議会議員に初当選。現在4期目。産業建設常任委員長、副議長などを歴任。2008年、「慰安婦問題に政府の誠実な対応を求める」意見書可決に奮闘。子どもたちとのかかわりが多い団体の役員などをつとめ、反戦・平和運動などの先頭にたつ。社民党所属。
6面
「核廃絶を、有期限の目標に」
8・6平和の夕べ 秋葉前広島市長
8月6日、広島で「ヒロシマの継承と連帯を考える」秋葉忠利・前広島市長(写真)の講演を聞いた。要旨を紹介し、感想をまとめた。
自身の宿題
「空襲を体験し、小学生のころ映画『原爆の子』『ひろしま』などを見た。そのころから、夢と描いてきたことがある。それから60年余。いろいろ総括すると、核廃絶は実現できない夢ではない」
秋葉さんは、高校生だった1959年に交換留学生としてアメリカに留学。「原爆投下は正当だった」「パールハーバーが先だった」と教える授業に、大きなショックを受けた。級友や教師に十分な説明、反論ができなかった。そのときから、被爆の実相と被爆者のメッセージを伝える、核兵器を廃絶することを自身の「宿題、目標」として課した。東京生まれ、千葉育ちで直接には被爆地、被爆者との縁がなかった秋葉さんの、核問題への出発点だった。
宿題をやりとげるために、さまざまなことにとりくむ。その一つが10年間にわたり毎年、海外のジャーナリストを日本に招きヒロシマ、ナガサキを取材してもらうアキバ・プロジェクト。帰ってから3本の記事を書くことが条件、内容は注文をつけない。彼らはその後、ヒロシマ、ナガサキに関する多くのすぐれた記事を発表した。
夢から目標へ
「アメリカでは『原爆投下が正しかった』と考える人々が1945年は90%、最近の調査では56%。高いともいえるが、56%に下がったとみれば希望はある。ホロコーストが正しかったという国、政治家はいない。原爆投下も、そのレベルまで引き上げる」「夢と目標の違い。期限がつかない目標は、夢に過ぎない。夢に期限をつけると目標になる。日本の外務省が(核不拡散問題などで)よく使う『究極的目標』などという用語は、条約を無力化しようとするもの」「被爆70年を考えるとき、大切なのは何よりも、その実相と被爆者のメッセージだ」
ヒバクシャの抑止力
1999年、広島市長に当選。非被爆者としての秋葉さんは次のような8月平和宣言を発表。
「生きることすら絶望的だった被爆者が生きてその体験を伝え、3度目の核兵器使用を防ぐ力になったこと。復讐や敵対ではなく『この体験を、他の誰にもさせてはならない』という哲学をつくり出したことに、感謝の念をもつ」「ヒバクシャの抑止力を劣化させない」
最初に”ヒロシマ”を発信したジョン・ハーシーは、「核を抑止する力を持っているのは、被爆者」と言った。しかし、体験を伝える被爆者は、年々少なくなっていく。
「被爆体験をデジタル化し、劣化させず伝達していくことが大事」
いわゆる「デジタルでの記録」というのではなく、知的にも情緒的にも整理し「本物と同じもの」「被爆体験者でなくても、同じレベルで伝えていくことができる」記録、内容を作ることだという。
ホロコーストと同じレベルでヒロシマ・ナガサキが理解されるのも、目標の一つ。「わが国の安全保障のためには、強制収容所を持つ」とは誰も言えない。核は、そうではない。ヒロシマ、ナガサキの後、米軍はプレス・コードにより報道を規制した。とくに最初の10年、原爆の惨状、被害、事実について日本国内はもとより、世界に知らせなかった。原水爆実験の一方で原子力の有用性(平和利用)などが宣伝された。事実を知らない、間違った認識が広がった。
秋葉さんは、学問的な整理と共通認識を学び継承する「広島・長崎講座」を、大学に働きかけ、協力する大学は現在国内で48、海外で17と増えているという。
核廃絶に期限を
「今年のNPT再検討会議について『最終文書が採択できなかった』『各国のリーダーに広島にきてもらう努力をしたが、実現できず』『前進がなかった』という報道だった。こういう報道では本質がわからない。1995年、核保有国は無期限延長で条約を無力化しようとした。しかし2000年には『核兵器廃絶はすべての国の明確な約束』という言葉で最終文書ができた。多くの人が期待したが、2005年、最終文書は採択できず。2010年に採択されたが、期限をつけない(究極目標とか)約束にごまかされた。今期は核廃絶を求める国や市民社会が、期限を入れるよう迫った。期限を求める人たちがいる、という程度は言及された。NPT再検討会議は『採択されても何も進まない』『問題点を明らかにする』という経緯が続いてきた。満場一致だから1国でも反対すれば採択できない。しかし、それは一握りの国。世界の圧倒的多数の国が核廃絶を強く求めている。イスラエル、アメリカの構造的問題が大きい。各国首脳を広島へ。『中国がブロックしたから』というのは、外務省のアリバイ作りに等しい」
ほんの一握りの国が核を保有し続けると言っている。世界規模での民主主義からほど遠いところにあるのが、いまの状況だということ。しかし、歴史を見るともっととんでもない政治がたくさんあった。そのひどい政治から、曲がりなりにも民主的といえる国が多数になってきている。世界の大多数が核兵器廃絶を求めているのだから、その意志にもとづく行動を世界的に作る。今回の不採択を、そのように受けとめようという秋葉さんの意見だった。
情けない日本政府
「この1年、さまざまな動きが進展している。マーシャル群島共和国が核保有国9カ国(米・ロ・英・仏・中・印・パ・イスラエル・北朝鮮)を、NPTを根拠に核廃絶へ交渉するよう国際司法裁判所に提訴。スコットランドの独立を問う国民投票。スコットランドはいまでも大きな自治権を持っている。投票は核兵器の廃絶という目標があった。スコットランドのファスレーンにイギリスの核原潜基地がある。『独立したらNATOに入らない、核兵器は破棄する』としていた。イギリスは他に基地を置くことはできない」
「情けないのは日本政府。2013年ニュージーランドが提案した核兵器不使用の共同声明に、あれこれ理由をつけ署名せず。厳しい批判にあい、その後ようやく署名した。2014年、オーストリアがニュージーランドよりも踏み込んだ提案。日本は、いまだ署名していない」「ヒロシマ、ナガサキの重みと歴史は、自民党政治よりも優先する」
イギリスの核兵器が置かれているスコットランドが、鍵を握っているのが分かった。国民投票で過半数を取ったら、実際にイギリスも非核保有国になる可能性がある。そういう重要な内容を国民投票によって決めるというところまで、核廃絶運動は成熟していると見るべきとのことだった。
沖縄、福島とともに
被爆70年、まだ道半ばとはいえ核廃絶に向けての歩みは決してとどまってはいないし、それは民主主義の実現とも重なり合っているということを、秋葉さんの講演から感じることができた。沖縄のたたかいの重要性や福島の問題についても話が及んだ。それぞれが、他の行動を支え影響を与える。そういう意識と視野を持つことが大事であると受けとめた。(中埜)
(カンパお礼)
夏期特別カンパへのご協力 ありがとうございました。
革共同再建協議会は、夏期特別カンパを6月から訴えてきましたが、皆さんのご協力により多額のカンパが寄せられました。ここに心よりお礼申し上げます。
戦争法案阻止・安倍政権打倒へ、ともにたたかいましょう。
2015年9月