未来・第182号


            未来第182号目次(2015年8月20日発行)

 1面  戦争法案を廃案に 8・30国会大行動へ

     川内原発 再稼働を強行
     地元住民先頭に連日抗議

     2万5千人が国会を包囲
     憲法を壊すな 安倍倒せ

     辺野古工事一時中止に
     歓喜の声と新たな決意

 2面  「繰り返すな」核・原発の廃絶へ
     被爆70年 8・6平和の夕べ

     大阪府下
     育鵬社採択に抗議
     戦争賛美の教科書許すな

 3面  ルポ
     原発が大熊・双葉に来たとき
     〜証言・半世紀前の真実 (上)
     請戸 耕一      

 4面  戦争する国は教育から
     都内で全国学習・交流集会
     8月2日

     宝塚でヘイト規制意見書
     6月議会全会一致で採択

     読書
     差別を考えられる日常文化の創造へ
     『差別の現在 ヘイトスピーチのある日常から考える 』
     

 5面   寄稿 戦後70年と〈天皇〉連載 C
     海外侵略の先兵たちに激励の「お言葉」をかける皇太子
     隠岐 芳樹      

 6面  (検証)
     東京裁判資料で見る
     南京占領軍幹部の責任逃れ      

     夏期特別カンパのお願い

       

戦争法案を廃案に 8・30国会大行動へ

川内原発 再稼働を強行
地元住民先頭に連日抗議

川内原発のゲート前で再稼働に抗議する市民たち
(8月10日 薩摩川内市)

九州電力・川内原発1号機の再稼働が11日、強行された。この日、早朝から原発の2つのゲート(正門、北門)につめかけた人々は400人。正面ゲート前では10時から抗議集会が始まった。集会途中の10時半、再稼働の一報が入り、怒りの声が広がった。
川内原発は、14日から発送電を開始、9月上旬にも営業運転に移行するとしている。さらに、2号機の10月中旬起動を狙っている。
原発ゲート前では、再稼働をさせないため、7日朝から11日夕方まで連日の抗議行動・集会が取り組まれた。主催は、ストップ再稼働! 3・11鹿児島集会実行委員会。
9日は、原発の裏側(海側)にある久見崎海岸で2千人を集めて抗議集会がひらかれ、集会後、原発正面ゲートまで2キロをデモ行進し、ゲート前で抗議行動をおこなった。

徹底した魂のたたかいを

午後1時から始まった集会で、冒頭、実行委員会を代表して向原祥隆さんが基調報告。「原発は普段でも、放射能をたれ流している。私たちは放射能の怖さを知らない無知蒙昧の民ではない。海、山、大地が壊されるのを黙って見ているような事なかれ主義者ではない。権力のおどしにたやすく屈服するような臆病者でもない。九電が再稼働するというなら、徹底して魂のたたかいをくりひろげよう」と訴えた。
原発立地の薩摩川内市に住む鳥原良子さんが発言。「川内原発は問題山積。住民説明会もおこなっていない。有力者、権力者への説明会はやっているが、多くの住民をあつめての説明会はしない」と九電を弾劾した。
10日は、早朝から夕方まで、正面ゲート前で抗議行動がくりひろげられた。午前中には参加者は500人となり、猛暑・炎天下でアスファルト上にすわりこんでのたたかいとなった。

無念、抗議、憤り

大量の機動隊が動員・配置され、抗議行動参加者を包囲するなかで、午前中の集会はひらかれた。再稼働を阻止しようと、福島、首都圏、関西をはじめ、全国から多くの人々が集まった。
地元の久見崎に生まれ育った人が「原発が建設される前、地元はこぞって反対だった。当時の方々は年齢的にもうほとんど亡くなっている。その人達の抗議、憤り、無念をこめて私が今日、ここに来た。安倍総理は『国民の生命、財産を守ります』なんて格好つけているが、もし本気でそう思うんなら再稼働はできないし、安保法案も強行採決できないはず。九電は、原子力ムラのために原発を動かすな」と怒りをあらわにした。

2万5千人が国会を包囲
憲法を壊すな 安倍倒せ

続々と国会前に押し寄せる包囲行動の参加者
(7月26日)

7月26日、国会を包囲する2回目の総がかり行動がおこなわれ、2万5千人が参加した。国会前は開始時刻がすぎても参加者が次々と押し寄せ途切れることはなかった。臨時に開放された国会正門向いの憲政記念公園も参加者で満杯になった。国会周辺は人、人、人、そして怒りであふれた。
国会前には小学生や中学生の子どもたちといっしょに参加している家族連れが目立った。この戦争法案は、これからの子どもたちの未来を左右する。そのことをみな感じている。

8・30大行動へ

今回の総がかり行動の特徴は母親や若い世代に怒りが広がっていることである。世論のうねりは確実に始まっている。
総がかり行動は、8月30日、国会10万人、全国100万人行動を呼びかけている。60日ルールを使った衆議院での再議決を許してはならない。一人ひとりが決断し、行動し、運動を作り、全国100万人行動にたちあがろう。

辺野古工事一時中止に
歓喜の声と新たな決意

工事一時中止の発表後、キャンプシュワブゲート前で
抗議行動を続ける(8月5日 名護市内)

8月4日、辺野古新基地建設工事について、政府と沖縄県は、8月10日から9月9日までの1カ月間、「移設計画」に関する一切の工事を停止し、「移設問題」について集中的に協議することで合意した。菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事がそれぞれ会見を開いて発表した。
キャンプ・シュワブゲート前には、午前11時半ころ、菅官房長官の会見発表が知らされた。座り込みの市民は「運動の成果だ」と歓喜の声を上げ、カチャーシーを踊り喜びを表した。

警戒の声

しかし、一方で警戒する声も上がっている。「工事が1カ月止まるのはうれしいが、1カ月といわず、ずっと止まってほしい、それまで頑張る」(80代女性)。「これまで台風で事実上作業は止まっている、沖縄との対話をアピールしているだけで、工事は進めるつもりだ」(60代男性)。「手放しには喜べない、内閣支持率が下がったから、県民と向き合っているというアリバイ作りだ」(60代女性)。「工事が止まると聞いて、島ぐるみのバスに乗るのをやめようと思ったけど、どうもあやしい。これからも何度も座り込む」(50代女性)。
実際、埋め立て海域では、台風や強風などの影響で、すでに7月1日以降1カ月以上、海上での工事はおこなわれていない。最後にボーリング調査が確認されたのは6月30日。それ以前にも5月は台風6号の影響で3週間も作業が停止した。今年1月から工事に影響を与えた台風は13号を含め4つあり、そのたびにボーリング調査は中止している。また8月、9月は台風の発生が多い月だ。

新たな決意

市民は、政府の発表に惑わされることなく、ゲート前や海上でも抗議行動を続けると新たな決意を固めた。
5日、午前6時半、議員や市民150人がゲート前に座り込み集会を開いた。この間、毎週水曜日「議員による座り込み」がおこなわれている。この日も県議をはじめ市町村議員が多数かけつけた。集会では、前日の工事作業が1カ月間中止になったことにふまえ、議員は「工事作業が中断することになったが、その間も手を緩めることなく新基地建設反対の声をあげていこう」と訴えた。その後、ゲート前でデモ行進。「工事を止めたぞ、最後までたたかうぞ」と声をあげた。

2面

「繰り返すな」核・原発の廃絶へ
被爆70年 8・6平和の夕べ

「原爆も原発も同じ、ともに廃絶へ」
(8月6日 広島市内)

「8・6ヒロシマ平和の夕べ」が6日、広島市内で開かれた。 沖縄戦・被爆70年の今年は、1月被爆ピアノ・平和を語る会 in沖縄からスタートした。
秋田明大さんが「父母は入市被爆。戦後70年の今年、沖縄とつながり、若者が希望をもてる世の中にしたい」と開会あいさつ。リレートークは米澤鐡志さん(広島電車内被爆者)、小林圭二さん(元京都大原子炉実験所講師)。

原爆も原発も同じ

米澤さんは「私の子どものころ、アジア侵略の戦争と差別の時代だった。いま同じような動きがある。福島の事故が起こり、原爆も原発も同じだということが明白になった。何百回も被爆体験を話してきたが、子どものころの記憶。本に書き間違いがあってはと躊躇してきた。しかし、福島の事態を見て私の体験が役に立てればと思った。同時に沖縄は戦争と、戦後もなお基地に苦しめられている。繰り返させてはならない」と話した。

現状に危機感

小林さんは「この70年間、被爆者の必死の訴えと行動により、原爆の惨状とばら撒かれる死の灰(放射性残留物)の被害と恐怖は広く知られてきた。しかし、核廃絶の状況はむしろ危機感を感じる。核兵器は、より高性能、小型化している。戦争を起こそうとすることと、核兵器を保有し続けたいというのは同根だ。私は勉強を始めたころ原子力の利用に希望を持っていたが、原発反対の住民運動に接し加わり、原爆も原発も同じであり核と人類は共存できないと確信を持った。福島の事故は、それを余すことなく明らかにした。一方でいまの安倍政権。もともと彼は核推進論者。反核・反安倍、二つの運動が手を携えて核廃絶に向かいたい」と訴えた。

沖縄、広島、長崎

河野美代子さん(産婦人科医・被爆二世)は、1月沖縄での被爆ピアノ・コンサート、知花昌一さんに案内されたチビチリガマのもよう、中沢啓治さんが復帰前の沖縄を訪問した際に「激戦地や巨大な基地を回り戦争の痛みに、ヒロシマの惨状がよみがえった」と書いていること、その作品を映像で示しながら漫画に込められた沖縄戦、広島、長崎と反戦・反核の思いについて話した。中沢さんの『オキナワ』は返還前のベトナム戦争真っ只中、1968年の沖縄が舞台。『はだしのゲン』は、1973年から連載された。『オキナワ』の方が先に描かれた。
オペラ『はだしのゲン』。「二度と再び、こんな姿にしないで」という藤田真弓さんの歌、松本寛美さんの被爆ピアノ演奏。福島出身、喜多方の仮設住宅支援などをおこなっている山本さとしさん(シンガー・ソングライター)が『ヒロシマの有る国で』を歌うと、会場からも「ともに戦の火種を消せ」の歌声と大きな拍手が。

原発のない未来を

第2部は沖縄からの被爆ピアノ演奏とトーク。津波勇雄、仲間直美、川崎盛徳さんらが『てぃんさぐぬ花』『にんげんをかえせ?原爆を許すまじ』など、沖縄と広島を結ぶ数曲を。川崎さんは「『三度許すまじ』と歌い継ぎながら、フクシマが起こってしまった。『白い花咲く…』という花は夾竹桃。夾竹桃は毒性がある。沖縄では嘉手納基地を囲んで咲いていますよ。そしていま、辺野古です」と話した。
ゲストとして井戸川克隆さん(福島県・前双葉町長)が参加。「広島、長崎、ビキニに続き福島となった。原発立地にはさまざまな問題が絡む。受けざるを得なかった面もあるが、少なくとも事故は絶対ダメだよといっていた。しかし地震、津波、事故。人為的に止められたものは一つもない。自らも反省しながら、核・原発はもう残さない未来を」と訴えた。

沖縄と広島の歌を被爆ピアノで演奏する川崎盛徳さん

核廃絶の実現へ

第3部、平和講演は秋葉忠利さん(前広島市長)の〜広島の継承と連帯を考える〜。秋葉さんは「未来を先取りし、いまを変えよう」と話した。「被爆者が苦難の人生を厭わず原爆の非人道、惨状を証言し続けた。その営為は三度目の核兵器使用を押しとどめてきた。被爆者の方々に感謝し、継承したい。それが私の、私たちの宿題だ」「核廃絶を夢にさせてはならない。保有国や日本の外務省は『究極的目標』という言葉で不拡散条約を骨抜きにしようとしている。無期限なら夢。目標を定めれば、夢ではなくなる。ヒロシマの重みと歴史に応えたい」と話した(次号につづく=要旨掲載)

「戦争法案、許すことはできない」

8月6日、広島・平和公園には5万5千人が参加。多くの人が自ら「平和と反戦・反核、その証と行動」を求めて集まった。安保法制を推進、非核3原則を無視した安倍首相の退場時に抗議の声があがった。中国新聞号外は「核廃絶の実現へ」「行動の時」とトップ見出し。9日、長崎では田上市長の安保法制批判に拍手が起こった。被爆者代表は、「この地は地獄だった」と原爆の惨状を語り、安倍戦争法案を「許すことはできない」と断じた。「被爆71年」に向かう広島・長崎は、そのような1日となった。(木田)

大阪府下
育鵬社採択に抗議
戦争賛美の教科書許すな

東大阪市役所前(7月27日)

来年4月から4年間使用される中学校教科書の採択が、この夏、全国でおこなわれている。まだ採択が終わっていないところもあるが、大阪府下の現状を紹介する。(8月13日現在)

東大阪市などで採択

4年前、大阪府下で初めて育鵬社の中学校教科書(公民)を採択した東大阪市教育委員会は7月27日、野田市長の圧力に屈服した教育委員長らの裏切りによって「現行(の育鵬社)を変える必要はない」として育鵬社(公民)を再び採択した。
「東大阪の公民教科書を読む会」(共同主催者:丁章、故鈴木良)(以下、読む会)に集う人たちは、これに激しい怒りを燃やし、「野田市長の暴政」とたたかい、野田政治によって「殺された」東大阪の教育をよみがえらせ、取り戻すことを決意している。
大阪府下では東大阪市以外にも育鵬社の教科書を採択する自治体が生まれてきている。河内長野市は7月27日、育鵬社の公民教科書を採択した。四条畷市は7月29日、公民、歴史ともに育鵬社を採択した。
大阪市は8月5日、公民、歴史ともに育鵬社を採択した。しかし、同市教育委員会は激しい抗議行動に押し込まれ、次点の教科書を副教材として使うといわざるをえなかった。運動は決して負けていない。
他方、柏原市の教育委員会の委員長は「教科書は左にも右にも偏っていないのがよい。育鵬社と自由社は国家と天皇が強く出ているので、あらかじめ審議の対象から外したい」と提案し、他の教育委員も了承するということもあった。教科書をめぐるたたかいはこれからさらに激化する。この攻防に勝ち抜こう。
4年前東大阪市では、学校現場から候補にすら上がっていなかった育鵬社の教科書(公民)を選定委員会の答申に押し込み、採択した。
4年前と違い今回、東大阪市の選定委員会は育鵬社を排除した。開示された議事録を見ると野田市長が送り込んだ育鵬社を支持する保護者4人全員が、育鵬社が除かれたことに抗議して、最後の選定委員会議を退席していたことがわかった。議事録には選定委員会の委員長が毅然として彼らの見解に反論している様子が記録に残されている。
維新系といわれる野田市長は、2014年6月に結成された全国組織「教育再生首長会議」(安倍政権に近い考え方を持つ)の幹事に就任している。今回の選定委員会には在特会に近いといわれる人物を保護者と称して送り込んでいる。
4月7日、文科省は教科書採択に関する通達を出した。それによると教科書は「これまでの慣例」で選んではならず、ましてや「教職員の投票によって決定されるようなこと」もあってはならず、「採択権限を有する者は教育委員会」なのだから教育委員会が責任をもって採択したのであれば選定委員会の答申を無視してもかまわないというとんでもない通達を出した。また「保護者の意見を踏まえる」ことも強調している。
大阪市教育委員会は採択の直前に「教科書の社会観に関する評価の観点」として「フランス革命の負の側面(大量処刑等の恐怖政治)についても触れているか」「共産主義について、ファシズムと並んで、20世紀の人類に惨禍をもたらした全体主義として捉えているか。また、共産党政権下の諸国で数え切れない人々の生命や自由が奪われた事実を明記しているか」などを基準とした。
これは戦後教育の根本的破壊である。

教え子を戦場に送るな

これまで政令指定都市で育鵬社の教科書を採択しているのは横浜市だけであったが、今回の大阪市の採択は非常に大きい。これまでの育鵬社のシェアは歴史3・9%(約4万7千冊)、公民4・2%(4万9千冊)であり、大阪市は約2万冊なのでシェアが伸びる。都立中高一貫校10校と都立特別支援学校22校、計32校でも採択されている。
子どもたちにあぶない教科書を渡さないため、多くの人たちが行動に決起した。「教え子を再び戦場に送らない」という原点が求められている。連帯を強めこの攻防に勝ち抜いていこう。

3面

ルポ
原発が大熊・双葉に来たとき
〜証言・半世紀前の真実 (上)
請戸 耕一

福島第一原発構内に立つ立ち入り禁止の看板
(2012年5月撮影)

中間貯蔵施設予定地の地権者である双葉町の志賀一雄さん(仮名)。前回のインタビュー(本紙173号、174号掲載)では、国の中間貯蔵施設の進め方に対して、「納得がいかない」という志賀さんの気持ちを語ってもらった。今回は、時を大きく遡って、原発の立地が大熊町、双葉町に決まっていった当時、志賀さんが実際に見聞きしたことをうかがった。

事故を起こした福島第一原発の立地が大熊町、双葉町に決まっていく経緯は今日でも不透明な部分が多い。記録に残る限りで最初に立地に関して言及したのは1957年1月、木村守江参議院議員(当時)が双葉町の後援会でおこなった「この土地を全部利用するには原子力発電所きりない」という演説だろう。その後、佐藤善一郎知事(当時)が「昭和33年(1958)当初から、ひそかに企画開発部に命じて、立地の適否について検討をさせ」、福島県庁を中心に極秘裡に進められた。その後、公式の動きとなるのは1960年5月、福島県が「大熊・双葉地点が最適である」と確認するところからであり、1961年6月、東京電力が同地点の土地取得を決定し、1964年7月には、福島県開発公社が地権者から用地取得の承諾を取り付けるという流れで運んでいる。「設置は比較的円滑におこなわれた」というのが公式の認識になっている。
しかしその進め方は実際のところどうだったのだろうか。
代々農業を営んでいた志賀さんの家は原発予定地ではなかったが、その予定地の隣の行政区に位置し、志賀さんは当時、行政区で開かれた「部落説明会」(注)に参加している。
志賀さんは、約50年前のことだが、東京電力などがおこなった説明の中身を今も覚えている。福島県と東京電力は、住民の知識や情報の不足、出稼ぎなどの労苦に付け込み、原子力という問題についての説明を極力あいまいにした上で、「発電所の寿命は20年。その後は一大観光地にする」という話をしたというのだ。
それから半世紀。大熊町、双葉町は「一大観光地」どころか、一帯が放射能で汚染され、すべての住民が先の見えない避難生活を余儀なくされている。半世紀後のこの苛酷な現実と、半世紀前、バラ色の未来を描いて見せた説明会。未来を考えるためにも、半世紀前の事実を検証し教訓にする必要があるだろう。

「出稼ぎしなくてすむ」

―原子力発電所の立地が決まっていった当時のお話を伺います

もう、50年も前のことだけどね。部落説明会があったんだ。こういうのは親父が出るはずなんだけど、ちょうど親戚の法事があってね、親父はそっちに行くってことで、説明会の方は私が代わりに行くってことになった。「どんな会社が来るのか、志賀家を代表して、よーく話を聞いてきてくれ」と親父に言われて。
当時、「どんな会社が来るのか」という感じで、原子力発電所なんてことは誰もわかってなかったね。
説明会に出ているのはだいたい父親らの世代で、私なんか一番若いんで、後ろの方の席で黙って聞いていた。県会議員の人とか、会社の人たちが前の方に座ってたね。
とにかく「大きな会社が来る」という話になっていた。原子力発電所とかいう話とは大分違うよ。「会社が来て、周辺の町村が潤って、生活も豊かになる」と。
その頃は、みんな出稼ぎをしてたからね。大事な息子が静岡まで行ったとか、トンネル工事の落盤で死んだとか、いろいろあったね。
だから、「出稼ぎをしなくて済むし、町が潤うんだから、協力して下さい」って説明されれば、みんな協力するよね。そんなにいい話ならね。

「将来は一大観光地」

―説明会の場では、原子力発電所についての説明はなかったのですか

全然出ていないね。「発電所」とは言ってたと思うけど。もっとも、あのとき原子力発電所と言われたとしても、どういう危険があるかなんてことは分からなかったと思う。原子力そのものが分かんないから。
だから水力とか、火力とか、そういう発電所なのかなあと思ってたね。
でも、会社側がこういうことは言ってたよ。「もし何か失敗した場合には、避難道を放射状に、扇の骨のように作るから、安心して下さい」と。それで私はね、会社が「事故が起きたときは逃げて下さい」と言ってるんだから、これは危険なものなのかなってことは考えたよ。だって、危険でないものに避難路はいらないわけだから。
だけど説明の中で、原子力の原子という言葉はあまりはっきりしてなかったね。そこをはっきり言っていたら反対という人が出て来るもの。広島・長崎に原子爆弾が投下されて、何十万人もの人が死んでいるんだから、それはだめだってことになるよ。だから、あのときはなんかこうオブラートに包んだような感じで、原子という言葉は表現しなかったと思うんだな。
それから、会社はこういうことも言ってたんだ。「発電所は寿命が20年間」だとね。そして20年経ったら、「全部取っ払って更地に戻して、今度は遊園地にする」、「大きな池をつくって、金魚を泳がせたり、お花畑にしたり、一大観光地にするんだ」と言ったんだよ。

―原子力発電だということがわかるのは

それはかなり後だね。工事に着工(1967年)してからだね。
情報の早い人と遅い人がいるからね。当時、私は、黙々と農業をやっていて、あんまり出歩かないから情報は遅いんだよ。だから、私の記憶では、原子力発電所らしいということは、地層調査が終わって、工事が始まって大型重機などが入ってきてからだね。
だから、もう反対とかという話にもならなかったわけよ。もう、どんどん工事が進んでいるんだから。

原発で働いて

―すると原発が危険なものだと思うようになったのは

原発で働くようになってからだね。
第一原発ができてから、来てくれって言われて、原発の警備の仕事をすることになったんだな。正門で一人ひとりIDカードを提示させて、ヨシってやるやつだ。それから、テレビモニターが6、7台並んでいる部屋でずっとにらんでいるとか。イギリスの船で核燃料が搬入されたときの警備もあったな。夜中に男がフェンスをよじ登ってきたということもあった。これは魚釣りをしたかっただけだったんだけど。それから、「ダイナマイトをしかけた」という電話が入ったっていう騒動もあったな。
そういう中でも、危険区域から出てくる作業員の管理だね、神経を尖らせるのは。責任があるから、もう一所懸命やったよ。
建屋の中に入った作業員が出て来たら計量器に乗ってもらう。足の形が書いてあるところに乗ってもらって、足に放射能がついていたら、ランプがピカピカ、ブザーもビービー。手の方も同じ。何もないときは、ランプつかないからハイ、ヨシって感じだけれど。建屋の中に入った作業員は、一発で出た人はほとんどいないね。どっかに放射能をつけて出て来る。で、ランプがついたら、そこに大きな流し台があって、工業用石鹸みたいなので、ガーって洗うわけ。早く帰りたいから、もう夢中になって。で、放射能がついていればまたビー、ハイもう一度って。ブザーがなるときは5回でも6回でも。上からの命令だからね。
こういう感じで12、13年やってたよ。なかなか農業だけでは食べられないからね。

―原発の現場を経験してどう感じましたか

工業用石鹸みたいなので、作業員に手足を洗らわせて、厳重にチェックするということをやっているうちに、これは恐ろしいもんだなと。
というのはね、そういう作業に入った人が、病気になったりして亡くなっているんだよ。うちの親戚でも、末家(ばっけ)の旦那が死んでるからね。原発で稼ごうってことでいろいろ資格を取って、危険区域に入って作業をやって、いい金取って他所さんの田圃も買って、地盛りして家を新築したんだ。10年以上勤めたかな。でもある時もう見る見る弱っちゃって、私よりはるかに若いのに、コロッと死んじゃった。病気は白血病。
もちろん、東電側では放射能で死んだなんてことは言わないよ。そんなの一人もいないということだから。絶対安全という安全神話がもう頭の中に叩き込まれているからね。われわれもそういう教育を受けているから。だから、作業員が死んでも、「放射能とは全然違うんですよ」とか、「持病ですよ」って、「放射能とは全然関係ないから」ということになるんだけど。
でも、白血病で死んでいる方は他にもいるよ。細谷のHさんというのがいて、この家の大事な旦那さんもやっぱり白血病で。普通、回りにそうそう白血病なんてないよね。
もちろん、私らもね、「放射能で死んだんだ」なんてことは一言も言ってないよ。医者じゃないし、東電がやっぱり怖いし。ただ聞かれれば「あの人は原発で働いていた」と。それから、「白血病で死んだ」と。これは言えるよね、事実だから。
親戚とか回りで、原発に行って稼いで、だけど白血病になって死んでしまうというのを見ていると、これは怖いなとようやく分かってきたんだ。安全というのも神話なんだなって。
でもそういうことが分かってきたときは、もうどうしようもなかったんだよね。だって町全体が原発に組み込まれてしまったようなもんだから。

―原発の立地が決まったころを振り返るとどんなお気持ちですか

あのときね、「20年で寿命だ。その後は遊園地だ」って言ってたけど、その後40年まで延ばして、挙句の果てにこのザマでしょ。遊園地どころの話じゃないでしょ。そういう説明をした人たちはどういうつもりだったんだい。みんなもう生きてないだろうけど。 だから、今の「中間貯蔵施設」の問題だって同じだよ。「30年以内」なんて話は全く信用できないよ。
たまたまね、父親の代りに部落説明会に出ることになったけど、そこに参加していた親父の世代の人たちはみんな亡くなっている。50年前だからね。この話はもう誰も語れないわな。だから、言っておかないとと思ってね。(つづく)

(注)『双葉町史』(双葉町1995年)、『原子力行政のあらまし』(福島県2010年)には地権者に対する説明会の記録はあるが、地権者以外の説明会の記録はない。1964年の用地買収と前後する時期に、双葉町郡山行政区の住民を対象に、福島県や東京電力が出席しておこなわれた説明会と思われる。

4面

戦争する国は教育から
都内で全国学習・交流集会
8月2日

日曜日の銀座をデモ行進(2日 都内)

2日、「全国から集う!全国で闘う! 第5回『日の丸・君が代』問題等全国学習・交流集会」が都内でひらかれ150人が集まった。集会は午前・午後とおこなわれ、集会終了後、会場の日比谷図書文化館から銀座デモに出た。

3つの成果

開会あいさつの後、経過報告がおこなわれ、「今、連日国会前を多くの人が囲んでいる。今日の私たちのデモは、この動きの一環である」と提起し、このかんの3つの成果が紹介された。@再雇用拒否撤回を求める第2次訴訟で、損害賠償を認める勝利判決(5月25日、東京地裁)、A河原井さんの停職3カ月、根津さんの停職6カ月の処分取消訴訟で、処分を取り消す逆転勝利判決(5月28日、東京高裁)、B自衛隊による防災訓練と称した高校生動員をやめさせる闘いで、いままでおこなわれていた駐屯地への高校生動員を今年は阻止した(学校での自衛官講演やDVD上映は今でもある)。

池田浩士さんが講演

池田浩士さん(ドイツ文学者、評論家、京都大学名誉教授)が「戦争する国は学校から―教育とファシズムを考える」と題して講演した。
私はドイツ文学を読みたくてドイツ語を学び始めたが、60年安保闘争で左に転向した。その後、ナチス時代の文化・文学を勉強してきたが、あのような時代が人類の歴史に、再び来るとはまったく思っていなかった。
ドイツでは、初等中等教育のナチス化は、最後までできなかった。30年代末にようやく「改革」に着手するという状況。しかし、大学の支配は早くに達成した。それに比して、日本では「明治維新」以降、いちはやく軍隊と教育を天皇制権力が掌握した。 ドイツの30年代は、ワイマール憲法(体制)のもとで、教育現場のたたかいがあり、ナチスは簡単には手をつけられなかったため、「ヒトラーユーゲント(青年団)」「アドルフ・ヒトラー学校」などをつくり、青年の組織化をはかった。
日本の天皇制権力は早くから教育を支配していたが、「労働奉仕」については、ナチスの手法をまねた。ドイツ語では「労働奉仕」であったが、日本に導入された際に「勤労奉仕」と訳を変えた。当時、「労働」という言葉は左翼言葉とされ、天皇制国家ではタブーだった。そこで「勤労」と訳された。「勤」とは「天皇に勤めをはたすこと」の意味だった。
戦前・戦中の日本では、子どもたちは農家の手伝い、神社の清掃などにかりだされ、それが「勤労動員」につながっていった。39年の夏休みには、工専、師範学校の学生2500人が中国大陸に「勤労報国隊」として1カ月間派遣され、侵略戦争(戦闘)後の復興活動につかされた。
今の学校学習にボランティア活動が導入されたのは、国旗・国歌法が成立した99年と同じ頃。戦争国家への道は、こうしたかたちで着々と準備されている。

各地から報告

報告Tとして、東京から田中聡史さん、根津公子さん、河原井純子さん、被処分者の会・近藤徹さんなど10人が発言。
昼食休憩をはさみ、午後は、ジョニーHさんのミニライブから始まった。続いて、報告U「大阪から」として、「日の丸・君が代」強制反対・不起立処分を撤回させる大阪ネットワーク、奥野泰孝さん、松田幹雄さんなど8人が発言。
報告Vは「首都圏・全国及び諸団体から」として、宮城、千葉、神奈川、愛知、兵庫、三重、福岡など各県の報告、自衛隊・教科書・道徳教育・大学の現状などの問題についての各報告、〈許すな!「日の丸・君が代」強制、止めよう! 安倍政権の改憲、教育破壊 全国ネットワーク〉など13人が発言した。北村小夜さんは「権力は教師の力を知っている。だからこそ攻撃してくる。彼らの怖れに見合うだけのことを教師はしているだろうか」と問いかけた。(坂本)

宝塚でヘイト規制意見書
6月議会全会一致で可決

兵庫県宝塚市議会は6月議会において、市民団体から出されたヘイトスピーチの規制を求める請願を受け、審議の結果、「ヘイトスピーチ対策について法整備を含む強化策を求める意見書」を全会一致で可決した。
宝塚市では、7年前に「慰安婦問題の解決を求める意見書」が市議会で可決されたことに対し、ヘイト集団による当該議員や議会に対する執拗な攻撃がおこなわれてきた。ヘイトスピーチについては、2014年12月9日、最高裁が、京都朝鮮第一初級学校にたいして聞くに耐えない差別扇動表現を大音量で連呼するなどのヘイトスピーチをおこなった在特会などの上告を退け、これらの行為を人種差別と認め、賠償の支払いと街頭活動の差し止めを命じた大阪高裁判決を確定した。この最高裁判決を踏まえて、今年5月25日、市民団体が、「特定の人種や民族に対する差別をあおる言葉の暴力は、憲法が保障する『集会結社の自由』や表現の自由と相いれません。(中略)宝塚市議会は、政府に対し『一日も早く、ヘイトスピーチに毅然とした立場で臨み、ヘイトスピーチ根絶のための法規制を進めることを求める』よう決議すること」という請願をおこなった。

反ヘイト集会が成功

つづいて元朝日新聞記者の植村隆さんを招く集会を6月6日に企画すると、右翼・ヘイト集団が連日の集会妨害行為に出てきた。これによって、宝塚市がヘイトスピーチにたいして毅然とした態度をとるのか、それともこれを容認するのかが、改めて焦点となった。集会当日は、ヘイト集団の妨害をはねのけて、会場からあふれる250人が参加。集会の成功によって、「ヘイト規制」決議を市議会に求める声が一段と大きくなった。
6月議会では「性同一性障害」をめぐる差別発言も取り上げ、差別と闘うことの意義が確認され、6月29日、ヘイト規制を求める意見書が全会派の一致で可決され、内閣総理大臣と法務大臣あてに提出した。

市民の粘り強い闘い

7年前の「慰安婦問題の解決を求める意見書」に対して、在特会などのヘイト集団がおこなった、市役所や議会、意見書提案の中心となった議員事務所などへ攻撃は関西のヘイト攻撃の先陣をなすものであった。昨年は、朝日新聞の「慰安婦報道の誤報問題」によって、この意見書を無効とする決議が市議会であがるという逆流も生じた。しかし市民はこうした反動に屈することなく、ヘイト集団とこれに呼応する一部の反動議員と粘り強く闘いを続けてきた。こうした地道な運動の積み重ねが今回の意見書可決へとつながったのだ。
関西では公共施設を使ったヘイト集団の活動にたいして、市民の怒りの声があがっている。伊丹市では、6月議会で市の施設の使用規制をおこなう答弁がなされている。闘いの成果を全国各地にひろげよう。(村木)

読書
差別を考えられる日常文化の創造へ
『差別の現在 ヘイトスピーチのある日常から考える 』
(好井裕明著・平凡社新書、840円+税)

差別は、差別された者の告発・糾弾があってはじめて顕在化する。差別はときに人の命を奪い、人を絶望の淵に追いやる。差別される側と差別する側の深淵は、時に絶望的に深い。
この本は、差別する側の人が差別する側の人々に対して、差別される人々への共感の回路をこじ開けようとする試みの本だ。だが、もう一方の軸足は、解放運動を必死でたたかう側の問題意識におかれている。このような本を、初めて読む。
「ヘイトスピーチを行なう者は、自分たちを『加害者』だとは少しも思っていない。圧倒的な『被害者』だと感じ、自己規定し、そこに自らの主張の『正当性』を見いだしている」「その行為の核心には、他者理解、他者への想像力の欠落、歪み、貧困が息づいている」。
著者は、差別を多様な差異を持つ他者と出会い、他者とともに生きていく上で回避しえないものとしてとらえ、単に倫理的に「なくすべきもの」として批判・非難するものだけであってはならないと言う。だから、「差別を考えることができる、しなやかでタフな日常的文化の創造」が必要と。「差別を考えることは、私が他者とどう生きるのかを考えることだ」。同時に、類的存在としての人間社会において、「差別は常に個人の実存を超えた『わたしたち』への攻撃なのだ」とも。
この本の本当に重要な提起は、「第5章 当事者『研究』の可能性」にあると思う。著者は、差別に対抗し超克する主体形成の当事者「運動」から、「弱く、脆い主体ではダメなのだろうか」と問い、解放運動の主体形成がさまざま内包する問題を明らかにし、より緻密で慎重な、さらなる主体形成の可能性を追求する(当事者「研究」の)必要があるのではないか、と問題提起する。必ずしもまとまっていないが、ここの提起は、解放運動をたたかう者にとって非常に、重要でナイーブなテーマの提起であると思う。
部落解放運動をはじめとする反差別のたたかいが力強くたたかわれた、かつての時代とは違い、「包摂型社会」から「排除型社会」(=新自由主義社会)へ移行しつつある今、在特会のような差別排外主義煽動が公然とおこなわれるなかで(安倍政権になって侵略戦争や日本軍「慰安婦」の歴史を居直る土壌の中で、間違いなく早生栽培されてきた)、あらためて差別の問題に、他者への共感・他者との共有という光をあてて考え直そうという著者の提起は、極めて重要であると思った。
差別を考える26本の映画を紹介し、差別の問題に多角的に光をあてており、刺激的な本だ。(田村)

5面

寄稿 戦後70年と〈天皇〉連載 C
海外侵略の先兵たちに激励の「お言葉」をかける皇太子
隠岐 芳樹

戦争法案の衆議院強行採決、そして辺野古基地建設の強引な準備作業と、安倍内閣は戦争体制確立にむかってひた走っている。
それにたいする危機感と憤りから、主婦や学生、学者、芸能人などが、それぞれの意思に基づいて行動に立ち上がっている。フェイスブックなどをつうじて多彩な広がりを示し、「60年安保」や「70年決戦」を超える草の根的な勢いで闘いが発展している。
安倍内閣の暴走にはつぎのような背景がある。今、政府と大資本は中国が主導するアジアインフラ開発銀行に対抗して、発展途上国に独自の勢力圏を作り上げようと必死になっている。最後の留金を外された原発と武器の輸出をテコにして、大資本の海外進出が強力にすすめられているのだ。
こうした情況のなかで、外務省が管轄するJICA(独立行政法人国際協力機構)の目玉事業である青年海外協力隊の活動が注目される。
青年海外協力隊は20歳から39歳までの若者で構成され、1965年から2013年7月までに3万8300人の隊員が、88カ国に派遣されている。派遣先はアジア、アフリカ、中近東、中南米、オセアニア、東ヨーロッパの諸国で、いずれも日本企業が進出している地域である。東欧の小国アルメニアのように資源が乏しく日本企業が進出していない地域には派遣されていない。
この事業は農業などの技術援助や教育・文化の普及向上を、その目的に謳っている。もちろん日本語教育もそのひとつだ。若者たちは純粋に国際貢献に役立ちたいと、主観的には善意の立場から参加している。しかし実際には、ODA(政府開発援助)とともに、カイライ政権の担い手を育成し、民族解放闘争の拠点の山村地域に入り込んで、その支持基盤を破壊する役割を果たしている。

「満州」侵略の訓練所で鍛えられる青年海外協力隊

外務省は1986年から、農業の分野で活躍することを志望する若者たちを、茨城県水戸市内原にある日本農業実践学園に送り込んでいる。訓練が終了すれば、全員が隊員に採用される。
この学校の前身は、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所である。戦時中、農本主義に基づく神がかり的な精神主義のスパルタ教育で悪名をとどろかせた内原訓練所だ。ここで若者たちは毎日、日の丸掲揚と君が代斉唱、「弥栄(いやさか)」三唱、神社参拝と教育勅語朗読を繰り返す生活を送る。アジア侵略を「聖戦」であったと教え込み、皇軍を賛美する教育がおこなわれているのだ。
1992年から、トヨタをはじめとする大企業が有給のボランティア休暇制度を導入するようになった。銀行業界で最も早くこの制度をとりいれた三井住友銀行の例を紹介しよう。
青年海外協力隊を社会貢献活動の最大のものと位置づけ/6カ月以上1年以内を原則とする休暇制度を、青年海外協力隊に限り2年4カ月もの長期にわたって認め(注)/休職中も支援金を給付して賃金や夏・冬の一時金の収入を保障し、その期間はすべて勤務したものとみなして勤続年数に算定する、という内容である。
(注)青年海外協力隊の任期は原則として2年間。但し本人が希望すれば延伸も可能である。 育児休暇や介護休暇の場合、賃金が大幅にカットされるなどハードルが高いのに比べて、格段に優遇されている。大企業の青年海外協力隊にかける期待の大きさがよくわかる。

帝王学をマスターした皇太子夫妻が「ご接見」

隊員の内訳についてみると、民間大企業の従業員についで教員や学生が多い。80年代末ごろから、女性が過半数を占めているのが特徴的である。
入隊志望者は一般的に、長野県駒ヶ根市と福島県二本松市にある2カ所の訓練所で、2カ月間訓練に励む。そこで派遣先の言葉や歴史・文化を学ぶとともに、テント生活で野外訓練をおこなう。ゲリラ部隊の襲撃に備えるためである。
訓練が終了したら出国前に、派遣先のグループごとに東宮御所に挨拶に赴き、皇太子夫妻に「ご接見」の栄を賜る。隊員たちがこもごも抱負を言上すると、皇太子が一人ひとりにたいして、その発言の内容に添った励ましの「お言葉」をかける。事前に発言内容を伝えていないにもかかわらず、的確で懇篤な「お言葉」に接して、大概の隊員は感激を味わう。
皇太子は帝王学を十分に身に着けていて、日本帝国主義の先兵たちに親しくはなむけの言葉を贈っているのである。
昭和天皇は大元帥陛下として戦争指導に当ったが、資本の海外進出に直接かかわることはなかった(朝鮮植民地支配の一翼を担った東洋拓殖株式会社の筆頭株主が皇室であったことを除いて)。それにひきかえ、現天皇は皇太子当時に美智子妃ともども、そして今その息子(現皇太子)夫妻が、日本帝国主義の海外進出にコミットする重要な役割を果たしているのだ。
天皇一家の「お世継ぎ」をめぐる内紛やトラブルなどがリークされて、女性週刊誌をにぎわすことが最近とみに目立つようなったのはなぜだろう。皇室が庶民に近い存在であるかのようなイメージを作り上げようとする作為が感じられる。それとあわせて、天皇一家が大資本の力強い味方として立ち働いてる「ご公務」を、庶民の目から覆い隠すためではないだろうか。

天皇の靖国神社不参拝は何を物語っているか

毎年8月15日の「終戦」記念日に前後して、首相の靖国神社参拝の是非がクローズアップされる。そしてそのたびに、A級戦犯の東条元首相らが合祀された1978年以降、天皇が参拝していない事実が報道される。その結果、天皇がA級戦犯の合祀に反対していると錯覚する人もいるようだ。
もともと靖国神社は戦死者を機械的に合祀してきた訳ではない。一人ひとりの「死にざま」が天皇から神として祀られるに値するかどうかの判断を個別におこなったうえで、祭神の追加名簿の案を作って天皇に報告し、天皇の裁可を得て霊爾簿(これが祭神である)に記入しなければならないことになっている。この際、「死にざま」というのは、天皇に忠義を尽くして死んだかどうかということである。A級戦犯の東条らは天皇に忠義の誠を捧げて死んだと天皇から認められたので祀られているのである。 1944年7月18日、東条は戦局悪化の責任を一身に負わされて、首相の座から引きずり降ろされた。天皇はその2日後、怨嗟の的になっている東条に「あなたは困難な戦局の下、私の戦争指導に加わり、十分にその職務を果たした。あなたの功績と勤労を思い、私の深い喜びとするところである。今後も私の信頼にこたえてくれるよう期待している」という趣旨の勅語を贈っている。まったく異例のことである。
そして1945年9月11日、拳銃で自殺をはかった東条は、未遂直後に「天皇陛下万歳! 七生報国の誠を祈念して止まない……」と、うめくように言葉をしぼりだした。2人の間の厚い信頼関係をよく示している。
昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなったのは、A級戦犯の合祀に反対だからではない。A級戦犯を祀る靖国神社への参拝が、敗戦直後の天皇制延命のための対米密約に反すると直感しての判断によるものだ。
現天皇もまた、昭和天皇の政治姿勢を踏襲する立場から、靖国神社に参拝していない。しかしそれによって、天皇と靖国神社の関係は基本的にいささかも変わることはない。

対テロ戦争の死者を 靖国に祀れば米国も

すでに安倍内閣はイスラエルに武器を売って、同盟関係にあることを公然と示している。すべてのムスリムを敵に回し、イスラム武装勢力を挑発しているのだ。戦争法案を成立させて、日米共同軍事行動による対テロ戦争で死者を出し、靖国神社に祀ればアメリカも靖国参拝にノーとは言えない―おそらく安倍首相はこう考えているのではないだろうか。そうなれば、天皇も晴れて靖国神社に参拝できるというものだ。
マスメディアは靖国問題をとりあげるとき、中国や韓国などの近隣諸国がどう反応するかという観点から、国際問題として論じる。しかし、〈靖国〉の本質は戦争のためのイデオロギー装置である。天皇を頂点にいただく支配階級と労働者人民、さらにアジアの民衆との対抗関係の中心軸としてとらえなければならない問題なのだ。(8・5記)

6面

(検証)
東京裁判資料で見る
南京占領軍幹部の責任逃れ

『日中戦争 南京大残虐事件資料集 極東国際軍事裁判関係資料編』(洞富雄編1985年)には、南京市民などの被害者の証言だけではなく、南京攻略時の中支那軍司令官・松井石根大将、参謀副長・武藤章など日本軍幹部の証言も多数収められている。
そこにかいま見ることができることは、あったことをなかったことにし、なかったことをあったかのように装って、自分(皇軍)を守ろうとする醜い姿である。それは1975年の天皇発言にも共通している。(「支那」は中国にたいする蔑称であるが、歴史文書としてそのまま使用する)

松井石根(中支那軍司令官)

中支那軍司令官として、南京に派遣された松井石根大将はその供述調書で大ウソをついている。彼は「戦時に於ける支那兵及一部不逞の民衆が、戦乱に乗じて常習的に、暴行・掠奪を行ふことは、周知の事実」「南京陥落当時に於ける暴行・掠奪も支那軍民の冒せるものも亦尠からざりしなり」「之を全部、日本軍将兵の責任に帰せんとするは事実を誣(し)ふるものなり。」と、1937年12月13日、南京に突入した皇軍がおこなった残虐行為を中国人民になすりつけているのである(「誣ふる」とは作りごとを言うの意)。
松井は、「(支那兵による)残虐行為の何件ぐらいがあなたに報告されたのですか」と問われると、「それは具体的に事実を聞いたのではありません。一般のただ風説を伝えて私に話したのであります。」と答えている。事実確認もしないで、中国人民のせいにしているのである。
しかも松井は、中支那軍司令官としての責任を問われると、「各軍隊の将兵の軍紀・風紀の直接責任者は、私ではない」、「私が受けておる権限は、両軍を作戦指導するという権限である」、「軍紀・風紀の問題に関しては、法規上いかに私の責任を糾すべきかは、これはかなりむずかしい問題」と答えて、責任逃れに終始している。
もしも松井に軍紀・風紀にかんする権限がないとすれば、「(南京)占領当時の倥偬(こうそう=忙しい)たる状勢に於ける興奮せる一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行ひたる者ありたるならむ」「17日南京入城後、初めて憲兵隊長より之を聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰をなさしめたり」と供述していることと矛盾している。
松井は南京での暴行・掠奪を「12月17日になって初めて知り、その後、調査と厳罰を指示した」と供述し、「軍紀・風紀にかんする権限」を自分が持っていたことを認めている。ところが、司令官としての責任を問われると、一転して「自分には権限がない」と卑劣な言い逃れをしているのである。

武藤章(中支那軍参謀副長)

武藤によれば、日本軍上層部は日本軍による残虐行為はシベリア出兵を画期として質的にも量的にも変化したと認識していた。訊問に答えて、武藤は「(シベリア出兵当時は)一少尉だったから、縦令(たとい)其のことを知ったにしても、何ともすることが出来ませんでした」、「陸軍中将になった後と雖も、私は師団長でなかったから、何もすることが出来ませんでした」、「軍務局長は単に陸軍大臣の一下僚に過ぎません。そして斯かる問題に付て命令を発する権能はありません」と答えている。
さいごに「若しも貴下が師団長であったと仮定し、…貴下は1915年以降承知しておられた此の弱点を改善強化するように…命令を発せられたことでせう」と、冷やかし半分に問われると、武藤は「はい」と答えながら苦笑いをしている。誰も武藤の言葉など信じてはいなかったのだ。
天皇の軍隊は「掠奪強姦勝手放題」とし、残虐行為を侵略・支配の手段として積極的に位置づけていた。それ故に「連戦連勝」によって中国をはじめとして、アジア全域で数千万の人々が虐殺されたのである。
8月5日付の「東京新聞」は、見開きで各戦局ごとの日本人の死者(ガダルカナル島=2万1千人、サイパン島=5万5千人、グアム島=2万人、東京大空襲=8万4千人、硫黄島=2万人、沖縄戦=18万8千人、広島=14万人、長崎=7万4千人、合計310万人)をイラストにして掲載した。
しかし、日本軍が中国や東南アジア、太平洋地域へ進軍する過程で、日本軍によって数千万人といわれる人びとが犠牲になった事実をこそ見るべきである。侵略された側(被害者)の視点を抜きにして、侵略戦争の不条理とその悲惨さを語ることはできない。
もう少し、東京裁判での証言を見ていこう。

中山寧人(支那方面軍情報参謀)

中山は南京での虐殺・強姦について、「婦女子に対するところの暴行でありますが、これは小範囲において、あるいはあったかもしれないと考えておる次第であります」と、被害をできるだけ小さく見せるように答えている。飯沼守(上海派遣軍参謀長)、小川関治郎(第10軍法務部長)、塚本浩次(上海派遣軍法務官)なども同列である。
そのうえで、中山参謀は「かくの如きことが、いかなる国においてもなからんことを世界平和のために、私は念願するものであります」などと答えている。
ここには2つの問題がはらまれている。ひとつは「掠奪・強姦はどこの国でもやっているじゃないか。なぜ日本だけが問題にされねばならないのか」という気持ちがにじみ出ている。もうひとつは自らが戦争の張本人の側にありながら、その責任を曖昧にするために「世界平和」を語るという欺瞞性である。

無責任の体系=天皇制

1975年10月31日、日本記者クラブ代表との会見で、戦争責任について問われた昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」と答えた。
また、広島・長崎への原爆投下についても、天皇は「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます」と答えた。 東京裁判での訴追を免れるために天皇や周辺は「補弼」「補翼」を云々し、数千万のアジア人民の死の責任をすべて東条以下(「1億総懺悔」)に転嫁して生き残ったのである。30年後に戦争責任を問われた天皇は「言葉のあや」「文学の問題」などと言ってはぐらかし、醜態をさらしたのである。それは、東京裁判における軍幹部たちと同質の無責任さである。
戦後70年を前にして、未だ昭和天皇の戦争責任は未決着である。その罪状を、日本とアジアの人民の前に詳らかにし、戦争(開戦・継戦)責任の所在を明らかにしなければならない。(須磨明)

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