未来・第181号


            未来第181号目次(2015年8月6日発行)

 1面  戦争法案を廃案へ
     安倍独裁政治を倒せ

      ドキュメント 7・15 強行採決反対のたたかい
     10万人が国会を包囲した

 2面  川内再稼働はやめろ
     九電本店に抗議・申入れ
     7月13日

     原発のない街づくりへ
     福井県高浜町で「つどい」
     7・25

     安倍内閣の即時退陣を
     7月14日 2万人が国会デモ

     「あの戦争を再び許すな」
     7・10 大阪で緊急集会デモ

 3面  視座
     南沙諸島をめぐる対中国排外主義
     対中国包囲進める安倍政権      

 4面  正念場迎えた農地裁判
     東京高裁が控訴を棄却

     激甚騒音が住民を襲う
     成田空港 第3滑走路計画

     こんなに危険なマイナンバー
     共通番号制度は廃止へ

 5面  論考 ヒロシマ、ナガサキ、フクシマを結んで
     被爆70年を核なき明日の始まりに
     三木 俊二      

 6面  争点
     戦後70年談話と東京裁判史観
     天皇はなぜ訴追を免れたのか      

     米軍基地反対闘争弾圧
     大阪府警本部にデモ

     夏期特別カンパのお願い

       

戦争法案を廃案へ
安倍独裁政治を倒せ

強行採決弾劾

 国会前で怒りの声があがった(7月15日)

大阪市内(7月18日)

新宿駅地下(7月18日)

神戸市内(7月18日)

衆院で戦争法案を強行採決した安倍政権にたいする民衆の怒りが全国でわき起っている。
衆院特別委で採決を強行した7月15日には、夜遅くまで10万人をこえる人びとが国会を包囲して抗議行動を続けた。
闘いの流れを変えたのは、6月4日におこなわれた衆議院憲法審査会で、自民党推薦を含む3人の憲法学者が「集団的自衛権の行使は憲法違反」と明言したことだった。政府は「1959年の砂川事件最高裁判決で集団的自衛権は認められていた」と強弁していたが、それがまったくのデタラメであることが暴露されたのだ。
この日を境に、「憲法違反の法案は廃案へ」の声が一気に拡大した。6月、ノーベル賞学者・益川敏英さんらの呼びかけで発足した「安全保障関連法案に反対する学者の会」のアピールに、学者・研究者の賛同が1万2千人を超えた(7月29日現在)。戦争法案に怒りと危機感を抱く青年・学生の闘いはかつてない規模で前進している。
強行採決への怒りの声は「燎原の火」のように全国に広がっている。7月26日には長野県最北端の村・栄村で元村長が実行委員長となって「戦争法案反対! 憲法守れ!」を掲げて村内軽トラックデモがおこなわれた。

改憲クーデーター

安倍政権は、「衆議院で可決され参議院に送付された法案が60日以内に議決されない場合、衆議院は参議院が法案を否決したものとみなす」という「60日ルール」を使って、憲法違反の戦争法案を衆議院で再議決し、強行成立させようとしている。まさに「改憲クーデーター」ともいうべき暴挙を実行しようとしているのだ。
こうした「アベ政治」の本質を示したのが、礒崎陽輔首相補佐官が7月26日におこなった大分市内の講演。ここで礒崎は「考えないといけないのは、我が国を守るために必要な措置かどうかで、法的安定性は関係ない。政府の憲法解釈だから、時代が変われば必要に応じて変わる」と発言した。
「法的安定性は関係ない」とは「憲法違反でもかまわない」ということである。法治主義を否定する発言を安全保障担当の首相補佐官が平然とおこなっているのだ。
「アベ政治」とは日本を戦争国家に作りかえようとする独裁政治である。「60日ルール」による憲法9条破壊を許してはならない。
安倍政権の支持率は急落し、与党内にも動揺が広がっている。国会を包囲する巨万の民衆行動こそが戦争法案を廃案に追い込むことができる。

ドキュメント 7・15 強行採決反対のたたかい
10万人が国会を包囲した

7月15日12時半過ぎ、衆院安保法制特別委員会で大多数の反対の声を押し切って、法案採決が強行された。採決強行時、国会周辺では数千人が怒りの声を上げた。さらに、夜には10万人が結集し、抗議行動は深夜に及んだ。

小学生も戦争反対

戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会は、午前9時から国会正門前で座り込み、戦争法案を審議する特別委員会での強行採決を許さない行動を開始。炎天下のなか、約200人で始まった行動は、どんどん参加者が増えていく。「戦争法案廃案」、「強行採決を許さない」のコールが何度もおこなわれる。民主党の近藤昭一衆議院議員、吉田忠智社民党党首などが連帯のあいさつ。
福島県浪江町の「希望の牧場」の吉沢正巳さんが、原発建設を推し進め、事故が起きても責任を取らない自民党へ怒りの発言。
この日も国会には、小学生の社会科見学がおこなわれていた。吉沢さんが小学生たちに「君たちの時代には戦争に行かされることになるかもしれない」と声をかけると、小学生の中から「いやだ」の声が上がり、「戦争反対」のコールが返ってくる。子供たちも危機感をつのらせている。

強行採決糾弾

座り込み参加者の中では、「採決は午後か」との話が流れていた。12時からは昼の集会が予定されており、最初に、戦争をさせない1000人委員会の内田雅敏さんが発言。「強行採決は、議会多数派による憲法破壊のクーデターであり、絶対に認められない。特別委員会での強行採決がおこなわれても、参議院での審議があり、国会を通過しても、違憲訴訟をたたかう」と決意表明した。
内田さんの発言の途中で、採決がおこなわれるとの情報が入った。「強行採決許さない」のシュプレヒコール。採決されたとの情報の後には、「強行採決糾弾」の声があがった。憲法共同センター、解釈で憲法9条を壊すな! 実行委員会から、さらにたたかいを強める決意が表明された。
社民党の福島みずほ参議院議員は、今回の戦争法案は、ワイマール憲法下でナチスによって作られた「全権委任法」のようなものであるとして、安倍政権を退陣に追い込もうと発言。民主党の枝野幸男幹事長は怒りを込めて、「今日を安倍政権の終わりの始まりの日にしよう」と呼びかけた。

安倍の弱さともろさ

6時半からおこなわれた総がかり行動の抗議集会では、野党各党からの発言に続いて、政治学者の山口二郎さんが登壇。山口さんは「安保法制は9条を法律でもって組み替える許しがたいもの。しかし、それだけにとどまらない。自民党若手議員による沖縄蔑視、マスコミをコントロールしようとする発言。安保法制に反対する学者が邪魔でしょうがない。だから文科省は大学の人文社会系の学部をつぶせと言っている。今、日本の民主主義と自由が脅かされているのだという認識をもってたたかい続けたい。強行採決は、安倍晋三の弱さともろさの現れ。60年安保闘争で岸を打倒したように、孫の安倍を退陣に追い込もう」と訴えた。

9条を守ろう

続いて発言に立ったNGO非戦ネットの長谷部貴俊さんは「最近、イラクに行ってきた。イラク、シリアではイスラム国の影響で、1年間で200万人の難民がうまれている。この戦争を起こしたのはアメリカだ。日本もこの戦争にかかわってきた。その反省なしに安保法制に突き進むことは許されない。9条があるおかげで、どれだけ日本の評価が高いか。われわれはまだ踏みとどまれる。憲法を守ろう。安保法制を廃案にするまで、私たちNGOもたたかう。9条の立場にもとづいた国際貢献を私たちは非軍事の立場でやり続ける」と発言し、大きな拍手が送られた。
最後に、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)から引き続きおこなわれる抗議行動への参加が呼びかけられた。その後も、参加者が増え続け、国会は人民の海に取り囲まれた。

2面

川内再稼働はやめろ
九電本店に抗議・申入れ
7月13日


福島第一原発の過酷事故のあと、すべての原発が停止しているなか、九州電力は「原子力規制委員会の審査基準に適合した」ことを唯一の根拠にして、7月7日、川内原発1号機の燃料棒の装着を開始し、8月10日の再稼動を強行しようとしている。
この動きに抗議して、7月13日、九州電力本店(福岡市)で3回目の要請行動がおこなわれた(写真)。呼びかけは〈ストップ再稼動! 3・11鹿児島集会実行委員会〉。

前回は警察の導入も

5月27日におこなわれた2回目の交渉では100人の代表が臨み、@九電が再稼動の「正当性」を主張している当の規制委員会の田中委員長自身が「安全性を保証するものではない」と「自白」していること、A地震(活断層)、B火山(姶良カルデラの噴火)、C住民の避難計画、D使用済み核燃料問題など42項目の「公開質問状」を瓜生道明九電社長に突きつけて追及。
九電側から出席した広報担当者は、まともな「回答」ができず、「時間切れ」を口実に交渉を一方的に終了。最後は警察を導入して、住民代表の前から逃亡した。

スイッチを押させない

8月10日の再稼動(九電発表)が1カ月後という切迫したなかでの今回の要請行動に、九電側は「10人以下、2時間以内」という条件を一方的に通告。営業時間中に本店玄関のシャッターを閉め「問答無用」の態度で臨んできた。
再稼動反対の11万人の署名、10の自治体の「説明会開催」要求決議まで無視する九電にたいして、住民はすでに提出していた署名を返還させた。そして「住民に説明する社会的責務」を果たさず、再稼動にのめり込む九州電力を糾弾する抗議声明を手渡した。最後に、10日に川内原発再稼働のスイッチを押させない行動を呼びかけ、抗議行動をおわった。(I)

原発のない街づくりへ
福井県高浜町で「つどい」
7・25

7月25日、福井県高浜町で「原発のない街づくりを考える『若狭の未来を語るつどい』」が開催された。主催は若狭の原発を考える会。80人が参加した。
全体集会では、主催者として若狭の原発を考える会の木原壯林さんから、「本日の集会は、一つの結論を出すのではなく、『原発のない街づくり』をともに考える出発点としたいという思いから準備した。3つの分科会で、報告と討論をおこなうので活発な意見をお願いしたい」と提起があった。来賓として中嶌哲演さん(明通寺住職、写真中央)があいさつ。全体集会後、3つの分科会が開かれた。

原発を拒否した町

第一分科会のテーマは、「原発を拒否した町の運動と現状」。西尾智朗さん(白浜町議会議員)が和歌山・日置川原発について報告。
1976年2月、日置川町議会(現在日置川町は白浜町と合併)が町有地を関西電力に売却することを決議し、110万キロワット2基の原発建設計画が表面化した。それ以降30年間、原発をめぐって町内に深刻な対立と分断が生まれた。板ばさみになった地区長が自殺したこともあった。一時は、町議会が原発促進を決議し、日置漁協が76年の総会における反対決議を撤回したこともあったが、86年のチェルノブイリ原発事故で流れが変わった。88年7月、原発の是非を問う町長選挙で反対派の町長が当選。92年の選挙でも再選され、原発論争に終止符がうたれた。そして2005年2月、国の電源開発重要地点から解除された。白浜温泉を中心に観光産業を軸にした新たな街づくりを模索していることが報告された。
つづいて大湾宗則さん(京都沖縄県人会元会長)が「沖縄での基地に依存しない内発的経済発展」と題して、沖縄県名護市の取り組みを報告。
最後に高瀬元通さん(若狭の原発を考える会)が「原発を拒否した町の現状」と題して報告した。
全国で原発を拒否した町は50カ所以上(一説では80カ所以上)に上り、一度でも候補地に上がった地域を含めればもっと多い。現在、紀伊半島に原発は一基も存在しないが、実は紀伊半島の多くの地域で原発が計画されていた。それがすべて反対運動によって頓挫した。 高瀬さんは、三重県芦浜(中部電力)、和歌山県日高(関西電力)、高知県窪川(四国電力)の事例を報告。大飯、高浜と比較し、その後の人口推移、産業構造、予算などがどう変わったのかを報告した。
分科会終了後の全体集会では木原壯林さんが「エネルギー消費は削減できるか」と問題提起し、それが可能であることを明らかにした。その後、各分科会の報告と討論がおこなわれた。

川内原発再稼働阻止へ

「福島を忘れない」という労働者市民の思いが、13年9月に大飯原発が停止して以来「稼働している原発はゼロ」という状況を政府、電力会社に強制してきた。しかし、ここに来て原発の再稼働が現実の日程に上っている。8月10日には川内原発1号機が再稼働されようとしている。原子力規制委員会は、高浜原発3、4号機に続いて伊方原発3号機についても新基準に適合していると決定した。川内原発の再稼働を阻止することが、それに続く高浜、伊方の再稼働を阻止する道だ。現地に駆けつけ、労働者市民の力で川内原発の再稼働を阻止しよう。(OG)

安倍内閣の即時退陣を
7月14日 2万人が国会デモ

9条壊すな! 憲法破壊の安倍政権に怒りの声
(7月14日 都内)

戦争法案の委員会採決前日の7月14日。東京・日比谷野外音楽堂で戦争法案廃案! 強行採決反対! 7・14大集会&国会請願デモ(主催:戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会)が開かれた。
平和憲法が最終的に反故にされることに危機感と怒りを抱いて集まった人々は、会場定員をはるかに上まわり、2万人を越えた。そのため集会開始30分前には早々に入場打ち切りとなり、集会と並行する形で国会デモが開始された。
集会では、プレ企画を担当した制服向上委員会が、周囲からの圧力をはねのけて「諸悪の根源は自民党」「強行採決絶対反対」の立場を表明した。
本集会開始にあたって、まず主催者が「第2次大戦の死者は48%が一般人だった。現在では一般の死者が85%になり、戦争孤児が毎年200万人生まれている」と発言。戦争法案が市民生活に直結する問題であることを訴えた。また、自民党だけでなく「戦争の党になった公明党」の責任も重いと強調した。
続いて野党4党の議員が発言。「自分たちが担っている立法権の根拠は憲法にある」「憲法を憲法と思わない内閣には退陣してもらおう」など、それぞれ訴えた。ゲストスピーチでは、それぞれの地元で自民党を倒すたたかいに取り組む必要性が訴えられた。
最後の行動提起では、「内閣支持率を逆転させた運動に確信を持とう」と、「95日の延長は失敗だったと思わせる」ために、これからの連続闘争への取り組みが呼びかけられた。

「あの戦争を再び許すな」
7・10 大阪で緊急集会デモ

戦争法案の強行採決が目前に迫った7月10日、大阪市内で戦争法案廃案を掲げた集会とデモがおこなわれた(写真)
主催は「7・10戦争法案を廃案へ! 関西のつどい」実行委員会。呼びかけは、しないさせない戦争協力関西ネットワーク、南大阪平和人権連帯会議などの市民運動、労組団体。この呼びかけに危機感を共有する幅広い人々が参加した。
集会は大阪・扇町公園に勤務を終えた労働者などが続々と集まるなか、午後6時半から開始。実行委員会を代表して中北龍太郎さんは「憲法違反法案の採決の暴挙は許さない、怒りを大きくひろげよう」と訴えた。
呼びかけ団体の南大阪平和人権連帯会議を代表して全港湾大阪支部委員長の山元一英さんが戦争に参加した父を振りかえり「アジアの2千万人を虐殺し、日本人300万人も死亡したあの戦争。再び許してはいけない」、「市民・労働者一体となって廃案へ」と檄をとばした。大阪東南フォーラムの山田事務局長が地域に根づく反戦運動を訴えた。
その後、〈戦後70年東アジアの未来へ! 宣言する市民〉、〈秘密保護法廃止! ロックアクション〉、〈STOP! 辺野古新基地建設! 大阪アクション〉、〈とめよう改憲! おおさかネットワーク〉が発言。橋下の「都構想」を粉砕した住民の自主的決起を再び街角で実現しようとの発言や、安倍政治による「民主主義の危機」を訴え「米軍基地問題にトドメさすエンディングに参加し、未来を一緒に拓こう」という発言などがなされた。また安保法制廃案をめざす若者たちの発言に歓声がわいた。
集会決議を採択し、ただちに市内デモに出た。鼓笛部隊、メッセージボード、横断幕のにぎやかなデモは沿道の市民の注目を集め、「安倍はやめろ」「戦争法案廃案」の声が響きわたった。(労働者通信員 M)

3面

視座
南沙諸島をめぐる対中国排外主義
対中国包囲進める安倍政権

対中国排外主義の洪水

7月21日に閣議了承された2015年度版『防衛白書』は、中国に関し、「海洋進出『高圧的』」「7つの岩礁で急速かつ大規模な埋め立てを強行」などと、排外主義的な危機感を煽りたてている。今春以降、安倍政権と日本のメディアは南中国海、南沙諸島(注1)に、中国が一方的に侵出し、領土・領海を略奪しているかのようなキャンペーンを展開した。
4月27日に発表された日米防衛計画の指針(新ガイドライン)では、「海洋安全保障」、とくに「島嶼防衛」「島嶼奪回」のための「作戦」を強調している。明らかに、中国との関係で、釣魚諸島と南沙諸島を対象としている。 6月8日、主要7カ国首脳会議(G7サミット)の首脳宣言で、中国の南中国海での「大規模な埋め立てを含む現状の変更を試みるいかなる一方的行動にも強く反対」と明記した。安倍首相が強引に宣言に入れさせたと報じられた。
6月4、5日、安倍首相はフィリピンのアキノ大統領と会談し、南中国海で活動する場合を想定し、自衛隊がフィリピン軍の基地を使うことを認める「訪問軍協定」の締結に向けた議論を始める意向を示した。この後、6月21日からフィリピン海軍と日本の海上自衛隊が南沙諸島東の海上で共同演習をおこなった。

米中一触即発の危機?

5月末にはカーター米国防長官が、中国による南沙諸島埋め立ての即時中止を要求した。5月20日、米海軍の最新鋭P―8A哨戒機(VP―45ペリカン)が、中国が滑走路を建設している南沙諸島の水暑礁を偵察飛行中に、中国側から無線で「直ちに出ていけ」と8回も警告を受けたという。米CNNテレビが世界中に映像を公開し、「米中一触即発」の事態と一部米紙と日本のメディアが報じた。しかし米海軍の意図的リークがなければ、「軍事衝突」の映像などが公開されるはずがない。アメリカでも、米軍部と議会共和党の一部、また産軍複合体などの利権に動かされる米メディアが中国脅威論を煽りたてている。
しかしオバマ政権の対中国政策は分裂し動揺している。ケリー米国務長官は5月末の訪中で、「米国政府は、南中国海問題でどちらかの肩をもった立場をとらない。他の当事者に対しても同様に扱う」と述べた。6月1日、オバマ大統領も、「中国の南中国海での一連の主張は合法かもしれないが、国際メカニズムを通じて争いを解決するため、東南アジア諸国と中国が、南中国海行動準則で早急に合意するのを支援する」と発言している。
5月13日、米海軍当局の発表によると別の「米中衝突」の実相は次の通りである。米海軍の沿海戦闘艦(LCS)のフォート・ワースが南沙諸島周辺の海域で1週間にわたり偵察行動。その間に複数回、中国海軍の艦船と遭遇し、追尾され、「海上衝突回避」行動をとる緊迫情況に陥った。フォート・ワース沿海戦闘艦は、3000トン級の最新鋭戦闘艦とされるが、中国艦船を撃沈できる対艦ミサイルを搭載していない。武器はただ射程6・5キロの57ミリ単装砲1門に過ぎない。これにたいし追尾したとされる中国海軍の最新鋭主力護衛艦054A型ミサイル・フリゲートの「塩城」は、強力な対空ミサイルのほか、水上戦兵器として、射程200キロのYJ―83対艦ミサイル8発と射程11キロの76ミリ単装砲1門を積んでいる。米海軍は、中国による「埋め立て」「滑走路づくり」を本気で阻止するつもりはないのである。

南中国海の現実

国際海洋法条約で島とは、「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう」。さらに、「人間が居住又は独自の経済的生活を維持することができる」ことが条件となる。島の領有国は領海や接続水域、排他的経済水域および大陸棚などを設定できる。南沙諸島に12ある島を実効支配しているのは、ベトナム5、フィリピン5、台湾1、マレーシア1である。ベトナムとフィリピン、台湾、マレーシアは各1つずつ、滑走路を島に完成させている。中国は、島を1つも実効支配していない。
中国が、実効支配し、埋め立てや滑走路建設を行っているのは、南沙諸島に7ないし8つある岩礁と砂州(注2)のうちの1ないし2つ、南沙諸島内に7つある干出岩(暗礁)(注3)のうち5つである。中国が埋め立て、3千メートル級の滑走路を建設中と言われるのは、ほとんど干出岩(暗礁)に属する。南沙の争奪戦に出遅れた中国が、ベトナムやフィリピンの領海ギリギリまでの海域を囲い込む「9段線」なるものを設定し、領土・領海宣言をするのは、この埋め立てを国際法上正当化するためである。
中国が南沙諸島の領有権を主張し、埋め立てや滑走路を含む港湾・軍事施設を大規模にやり始めたのはこの1年半ほどのことである。強引に見える領土主張や工事の強行は東南アジア諸国に比べて中国が大幅に出遅れたからである。
その動機はひとつには石油資源開発のためである。東南アジア諸国が1000以上の油田を開発、ないし探索しているのにたいし、中国は非常に少ない。石油開発の焦りが中国の一見強引な「侵出」をもたらしているのである。
第2に、中国の目的は、シーレーン確保などの経済的利益を追求することである。南中国海は世界で取引される原油や天然ガス(LNG)の半分近くが通る世界経済の大動脈である。中国にとって南中国海の航行を妨げられたら、食料・資源危機に一挙に追い込まれる。中国の方が深刻な危機に陥るのである。
そのために、2013年7月に、習近平中国国家主席は、領有権をめぐる争いは棚上げし、南沙諸島で共同開発をおこなうことを提案している。

歴史的経緯と領有権

ベトナムは、フランス植民地当局が南沙を占領し、1933年にバリア省に編入したことを南沙諸島の領有権主張の根拠としている。1973年、米国との「和平協定」が成立するとともに南沙併合を宣言。70年代に計20カ所の埋め立て地で、港湾、滑走路、ミサイル基地やホテルなどを建設した。このとき米国をはじめとする西側諸国は、問題視することはなかった。
1938年に日本は、フランス軍やベトナム漁民を追い出し、南沙諸島を占領。「新南群島」と命名し、領有を宣言した。中国と台湾の領有権主張は1939年3月30日付の台湾総督府令第31号により、「新南群島」を大日本帝国の領土として、台湾高雄市に編入したことを根拠としている。
日本は1952年発効のサンフランシスコ条約により、「新南群島」および西沙諸島の今後の領有権に関する権利、権原および請求権の放棄を国際社会に向けて明言する。その後、中華民国(台湾)は、南中国海を「中華民国の領土」と位置づけ、軍用空港を有する南沙諸島最大の島、太平島と東沙諸島を実効支配する現状維持に徹して、新たな島の占領などはおこなっていない。
1953年、中国は中華民国の設定した「11段線」のうち、当時は友好関係があった北ベトナム付近の2線を削り、新たに「9段線」とする。1958年には「領海宣言」を出し、南中国海の島々を含めた海域の領有を宣言する。しかしその後の中国は、文化大革命、中ソ対立、対米抗争などで実効支配に踏み出す余裕がなく、ベトナム、フィリピンなどに大幅に立ち遅れた。
フィリピンはすでに1949年(中華人民共和国成立時)に南沙諸島の大部分の領有を宣言した。その後、埋め立て地で飛行場の修理と拡大を進め、弾道ミサイルを配備している。現在は200カイリのEEZ内だと主張している。マレーシアとブルネイは大陸棚延長に基づく領有権を主張し、3国ともに南沙諸島の一部のみを対象としている。

日本の戦争責任

世界危機の焦点の1つ、南中国海、南沙諸島問題の根源は、日本(およびフランス)の植民地支配と軍事占領にある。サンフランシスコ講和条約で、南沙諸島を放棄はしたが、どこに帰属するのかを不明のままにしたことが今日の領有権争いの原因である。それにもかかわらず日本政府は、中国にたいする排外主義的煽動の手段としてこの問題を利用している。米国を巻き込んで対中国包囲、対抗を軍事的にも開始しようとする安倍政権とその戦争法案への警鐘を乱打しなければならない。
(落合薫)

(注1)南中国海の島々の呼称は、漢字表記以外に、ベトナム語表記、英語表記、その他、マレー語表記、タガログ語表記などがあり、しかも漢字表記の場合も、中国大陸の現行簡体字によるもの、台湾・香港の繁体字によるもの、日本の植民地時代の音・訓読み漢字によるものなどがある。図を除く文中では漢字表記とした。現代日本で用いられる漢字を用いたが、これはどの国の領土主張にも加担するものではない
(注2)満潮時にも海面上に露出しているが、「人間の居住又は独自の生活を維持すること」ができず、国際海洋法条約によって、領海や接続水域を設定することができない
(注3)干潮時にのみ海面上に現れるものであり、国際海洋法条約上の領土とはならない。また排他的経済水域(EEZ)も設定できないが、自国のEEZ内であれば、その国が建造物を建造することができる

4面

正念場迎えた農地裁判
東京高裁が控訴を棄却

市東さんの訴えを却下

市東さんの農地裁判は、NAA(成田空港会社)が、耕作者(小作人)である市東さんの了解を求めるどころか知らせることもなく、元地主から耕作地を買収し、この事実を15年にもわたって隠し続けたうえ、突然NAAが市東さんに「農地を明け渡せ」としたことによって生起した裁判である。
しかも耕作権者の権利を守る農地法を根拠にして、その農地を奪おうというとんでもない攻撃である。NAAが耕作地の明け渡しを求め、また市東さんが千葉県(千葉県農業会議)の「買収・明け渡し決定」の違法を訴えている裁判だ。
東京高裁小林裁判長は、市東さんの訴えや控訴趣意書に何ひとつ向き合うこともなく、これを退けた。東京高裁は、「社会通念上相当の離作補償があるから農地を明け渡せ」と、土地収用法によっても取り上げることのできなかった農地の事実上の「強制収用」に手を貸しているのだ。この判決は、農地法の基本的考え方・精神(耕作者に権利あり)ばかりか、土に生きる農民の思い、生きがい、生きる権利さえ踏みにじったのである。
市東さんは直ちに最高裁に上告した。

南台畑地の現況図 A、C−1、C−2が市東さんの耕作地。A、Bが、農地法・行政訴訟の対象地。C1、C2が、耕作権裁判の対象地。Bは、誰も耕作していない土地

市東さんの農地裁判とは

市東さんの農地裁判は、この農地法・行政訴訟と耕作権裁判のふたつで争われている。市東さんの耕作地は、親子3代にわたって一貫して耕作されてきた畑地である。ところがNAAは南台の耕作地の一部を「不法耕作」として提訴した、これが耕作権裁判だ。またNAAは市東さんの耕作地でもない土地の明け渡しを求めている(以上、地形図参照)
耕作地の明け渡しを求めながら、耕作地を得手勝手に切り刻んだり、位置もろくに特定できないという点だけ見ても、NAAの違法・不法とデタラメさは明らかだ。

耕作権裁判が再開

耕作権裁判は農地法・行政訴訟と並行して千葉地裁で審理されていたが、市東さんの耕作地の位置特定をめぐり、「証拠書類」の偽造が明らかとなる。千葉地裁が、NAAに元地主からの耕作地の買収経過の関係文書・証拠の提出命令をおこなうも、NAAがこれを拒否。提出命令が東京高裁決定で確定するも、NAAは「文書はない」として、これを拒否。文書提出のないまま約2年間中断していた耕作権裁判が6月15日に再開された。
常識的にいえば、耕作地の位置特定もできない訴えは、明渡し訴訟の対象にもなりえず、即却下の決定が出てしかるべきものだ。農地法・行政訴訟においては千葉地裁・東京高裁ともこの問題を「不問」にした。「国策裁判」ゆえの理不尽ということだが、耕作権裁判ではここを何としても突破しなければならない。
市東さんの農地裁判は、ふたつの裁判(形式的には3つの裁判)という形をとっているが、一対のものだ。市東さんは農地法・行政訴訟の控訴審判決にたいし、「最高裁でこの判決をくつがえす」、また耕作権裁判の再開に際し、「不法耕作のデマをぬぐい去り、祖父の代から耕し続けてきた畑を守る」「『国策』を盾に農地を取り上げることを私は絶対に認めない」と堂々宣言した。
農地法・行政訴訟は直ちに上告された。現時点で上告審での事実審理が期待されないなかで、当面する耕作権裁判の行方は、市東さんの農地裁判全体を大きく突き動かす可能性をもっている。もちろん「国策」に真っ向から挑むたたかいであり、困難きわまるたたかいである。
正念場を迎えたこのたたかいを市東さん、反対同盟、弁護団、支援者が一体となってたたかいぬこう。

激甚騒音が住民を襲う
成田空港 第3滑走路計画

第3滑走路計画を暴露した反対同盟のビラ
(2014年6月)

成田空港の第3滑走路計画が明らかになってから1年。LCC(格安航空会社)と「爆買」ツアー、そして2020年の東京オリンピックと政府の「観光立国」化政策のなかで、日本の航空政策は大きく変化しようとしている。政府のこうした動きに歩調をあわせるかのように、成田近郊の経済団体などは第3滑走路計画の利権あさりに躍起となっている(第3滑走路計画は、今のところ滑走路の位置も含め未定とされている)。
昨年3月、多くの空港周辺地域住民の反対を押し切って、発着回数30万回/年に引き上げるなかで、周辺地域の激甚騒音問題は深刻化の一途をたどっている。将来的に50万回化といわれ、第3滑走路計画(2030年代)と重なり合って、成田空港の24時間化(夜間飛行制限時間の短縮)、激甚騒音の攻撃が襲いかかってくることは明らかだ(もちろん市東さん・萩原さんはじめ用地内・予定地農家からの農地強奪は最大の問題だ)。
「騒音&健康問題」は、日本では科学的学問的解明・検証が進んでおらず、行政的にも「気のせい」として放置されてきた。加害企業にとって、環境基準値はあっても「努力目標」に過ぎず、オーバーしていても何ひとつ制裁を受けることはなく、ほとんど野放しといっていい状態だ。たとえば成田空港内での離陸前、着陸後の自走機の騒音に規制はない。また全国各地の「爆音訴訟」で、最近になってやっと「爆音と健康の因果関係」が認められ、かろうじて損害賠償が認められるようになってきたというのが実情だ。
成田空港周辺地域住民の騒音にたいする怒りは、すでに我慢の限度を超えている。農地取り上げにたいする農民の怒り、そして周辺地域住民への騒音、生活・健康破壊、まさに地域社会の全面破壊にたいして、怒りをひとつにして、第3滑走路計画反対、新たな三里塚闘争の展望を切り開いていこう。
「国策裁判」と対決し市東さんの農地裁判(農地法・行政訴訟、耕作権裁判)勝利に全国の力を結集しよう。9・14耕作権裁判の傍聴闘争に参加しよう。第3滑走路計画、空港の24時間化をはじめ成田空港の拡張攻撃粉砕へ10・11三里塚現地全国闘争に結集しよう。

こんなに危険なマイナンバー
共通番号制度は廃止へ

6月30日、「こんなに危険なマイナンバー、あなたはそれでもいいですか」の集いが大阪市内でひらかれ、白石孝さん(共通番号いらないネット、プライバシー・アクション)が講演した(写真)。主催は、集会実行委員会。講演と会場で配布された資料をもとに、マイナンバー制度の危険な問題点についてまとめた。

あなたに番号が通知

今年10月、日本に住み住民票のある人には、住民票の所在地に共通番号(いわゆるマイナンバー。12桁)を記入した「通知」が送られてくる。その際、個人番号カードの申請書も同封されてくる。カードの取得は任意であるが、カードを持とうが持つまいが共通番号の付番からは逃れられない。安倍政権は、社員証、クレジットカード、キャッシュカード、健康保険証などをこの共通番号に統合して「ワンカード」化を狙っている。
ひとりの人間の個人情報は、現在は、あちこちでばらばらに記録・集積されているが、その情報に共通番号をふられると、国家権力が市民個人の情報をいとも簡単に一網打尽的に収集できるようになる。また、なりすまし、振り込め詐欺の格好の標的にもなる。
法人にも13桁の番号がつけられ、変更不可で公開される。小規模の個人営業者は法人番号がないため、個人番号がそのまま使用・公開される。

監視社会

秘密保護法制定、盗聴法の拡大、共謀罪の再浮上、戦争法制定の動きなど、相互監視・密告・物言えぬ社会がそこまできている。共通番号をマスターキーとして、あらゆる個人情報が国に一元管理される。これはプライバシー権の侵害であり、監視社会化である。国家権力による治安目的での使用が可能となる。ジョージオーウェル著『1984』で描かれた世界だ。

利用拡大法案を廃案に

住基ネットは「自治事務」であったから、国立市や福島県矢祭町の離脱が可能であった。しかし、共通番号制度は「法定受託事務」なので、自治体の独自判断で離脱はできない。文字通りの国策で、やがては、個人番号カードが身分証明書の代わりになり、所持の強制にいたる可能性もとりざたされている。
現在の法律では公的分野での使用が規定されているが、来年1月使用開始を前に、民間への拡大が狙われている。年金情報の大量漏洩事件の真相も被害の全貌も判明していない。その解明が先なのに、それを無視し、参議院では番号利用拡大法案が審議されている。廃案に追い込もう。
個人番号カード(マイナンバーカード)を持たなくても今は困らない。普及させないために、個人番号カードの申請をやめよう。官民分野での同一番号(共通番号)使用に反対しよう。利用範囲、利用分野を拡大させないようにしよう。(O)

5面

論考 ヒロシマ、ナガサキ、フクシマを結んで
被爆70年を核なき明日の始まりに
三木 俊二

「被爆70年」。原爆・核兵器そして原発。被爆と被曝、世界中のヒバクシャ。フクシマ以後、多様な運動の広がりと、同時にそれらを分断、圧殺する力が強まっている。原発再稼働の動き、核保有と開発も続く。広島に生まれ、微力ながら反核運動にかかわった。体験的に「70年」を振り返り、核と原発廃絶への希望、展望を考えてみたい。〔文中、敬称略〕

廃墟の広島・長崎

1945年7月のニューメキシコ州アラモゴード、広島、長崎の3発の原爆から始まった「核の時代」。人類初の核実験から21日後に広島に投下され、続いて長崎。上の兄2人(1人は被爆死)、父親・伯父(入市被曝)、叔母、親戚、周りに多くの被爆者がいた。9月生まれの私、当時10歳、7歳だった下の兄姉は広島市から北東30キロ離れた田舎で育った。その兄、姉はいずれも60代後半にガンを発症し、亡くなった。原爆後の放射性降下物、それが農食物などにどの程度影響したのかは分からない。
広島型は濃縮ウラン原爆。TNT火薬換算15キロトン。爆発効果が最も広範囲に波及するよう約580m上空で爆発させた。爆発中心部の温度100万℃、1秒後に直径280mの火球となる。原爆の直接的な被害は、@大量の放射線被曝、A熱線(爆心から500m以内で地表3千〜4千℃)、B爆風、衝撃波(同じく風速440〜280m)。広島市の当時の人口は約35万人。爆心から1・2キロ範囲では当日中に50%が死亡、同年12月までの死者は約14万人。プルトニウム型が投下された長崎市は人口約24万人、同年12月までに死者約7万4千人、負傷者7万人以上。
大量被曝、熱線による重度の火傷、爆風に同時に襲われた。500m以内は即死、即日死90%以上(同年12月までを含めると99%)、500m〜1キロ内で90%(同)である。1キロ以遠も「たまたま丈夫な壁や物陰におり、偶然の『幸運』が重なったのが生存者」(芦屋市原爆被害者の会・千葉孝子)。
生き残った被爆者も年内に次々に死亡。体調不良、病気に苦しみ白血病やガンが発生する。甚大な被害、家族の働き手を失った困窮。70年後の今日もなお、病気や認定却下に苦しむ。2世、3世、子や孫への心配も尽きない。

社会主義と原爆

これらを見聞きし育ち、原水協分裂大会(1963年)後の65年ころから原水禁運動に参加した。「ソ連の核実験は戦争勢力に対抗するもの」「いかなる国の核実験にも反対」と、学生運動や大衆運動の現場は混乱と激論が続いていた。「ソ連の原水爆は正しい」論に、原爆の惨状から人道的に反発したわけではない。社会主義・共産主義という将来に期待していた。しかし、「原水爆をもって帝国主義に対抗する」という意見には同調できなかった。その後も、8月広島集会等には何度も参加した。
スリーマイル、チェルノブイリ事故が起こった。チェルノブイリのとき(1986年)、「あの、ソ連の平和利用か」と不毛の論争を引きずっていた。
衝撃だったのは、東海村JCOの臨界事故(1999年)。核が根源的に人間に対立すると思い知らされた。そのころ阪神・淡路大震災後の多忙さが続き、有事立法やその後のイラク派兵に反対する運動に傾注していた。そして3・11である。もう1人の兄、原爆で重症を負い被爆後を生きながら原爆も反核も一切語らなかった兄が、3・11直後から連日「大変だ、あれは原爆と同じだ」とメールを送ってきた。

「安全ならば…」

『原子力発電』(武谷三男、1976年初版)や、東海村事故のリポートを読み直した。青白い閃光が一瞬JCO作業員大内久と篠原理人を襲い、強力な中性子線を浴びる。破壊された染色体、細胞は再生せず崩壊していく。大内が浴びた当初推定線量は8シーベルト〔Sv〕(最終判断は20Sv前後。1Sv=1000ミリSv)、篠原は6〜10Sv。いずれも致死量である(広島原爆500m地点でガンマ線28Sv、中性子線31・5Sv:広島放影研資料)。国際原子力機関(IAEA)の規準に照らしても8Sv以上の死亡率は100%だ。最新の医療を受けながら大内は83日、篠原は211日目に力尽きた。 武谷は、「原発のしくみ」「蓄積する死の灰」「(被曝は)許容量、比例値、しきい値ではなく『がまん量』である」「クローズド・システム(核燃料サイクル全体)は可能か」と、その危険性を指摘し原子力発電に反対する。しかし、序文では「原子力は、まだ人類の味方ではなく」「…平和利用も不用意にやれば人類を滅亡にまねく」と、あくまで「安全を求め、安全ならば」と述べている。
3・11の後(2011年12月)、「日本のマルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」という資料(加藤哲郎・早大客員教授)を読んだ。原水協分裂後の論争が、どのような政治イデオロギー構造のもとにあったのか。その後『日本の社会主義〜原爆反対・原発推進の論理』(岩波現代全書)として出版され、『展望』(15号)にも紹介された。
「ソ連邦が原子力を利用するのは原爆を蓄積するためではない。経済計画…平和建設に役立てる」(1949年、ソ連代表ヴィシンスキー国連演説)、「資本主義のもとでは核は爆弾としてしか使えない。(巨大な)原子力をエネルギー源とすると過剰生産、恐慌に突入するからだ。社会主義のソ連では平和産業が発展…、(原子力により)荒野が沃野に、生活物資も洪水のように」(同年、『原爆と世界恐慌』徳田球一)。この原子力賛美の主張は当時パンフレット化され、活動家に広く配布されたという。

無差別爆撃の歴史

ヒロシマ、ナガサキの前史には、日本の朝鮮、中国、アジア侵略という明治以降の国策があった。ゲルニカ(1937年4月)に続く、日本軍による1938年から200回をこえる重慶爆撃は、米(英)軍によるドイツと日本への無差別爆撃の先駆であった(『戦略爆撃の思想』前田哲男)。日本軍が開始したそれは、20万〜30万人の頭上に壊滅的な惨状を呈する原爆を平然と投下するに至る。世界はなお1万6千の核爆弾・弾頭を保有し、膨大な使用ずみ核燃料を無視する原発を維持する「無思想」が今日まで続く。
核兵器(原発)廃絶をめざすことは、日本(人)の過去、現在に至る反省をぬきには語ることはできない。高史明は「人類は理性と知性、科学と技術を発展させながら、他方で人間主体の否定と喪失を進行させた。列強がアジアに進出。遅れた日本。それは侵略と植民地支配という、近代を拓いた合理的理性の闇だった。ヒロシマ・ナガサキに至るおびただしい犠牲の歴史。近代合理主義は、原爆に行き着いた。日本人民がこれにどう向き合い、どういう態度をとったのか、これからどういう態度をとるのか」(2010年「8・6ヒロシマ平和の夕べ」)と、問いかけた。

核・原発廃絶の声・声…

以下いくつか意見、声を紹介し、核・原発廃絶への展望を考えたい。 「原子力はもともと軍事用。小さな量で巨大なエネルギー、爆発力となる。平和利用とは、その側面にすぎない。(福島の大事故は)化けの皮が剥がれ、ヒロシマ・ナガサキに戻った」(2011年6月、小林圭二)。
「国際放射線防護委員会(ICRP)は原子力開発を推進する米国の強い影響下にある。ヒバクを強制する側がされる側に受容すべきと思わせるため、科学的装いを凝らし作った社会的基準。政治的手段」(『増補 放射線被曝の歴史』中川保雄、明石書店)。
「原発の危険性を理解するのに必要なのは知識ではない。とり返しのつかない巨大な潜在的危険性に対して明確な論理を持たなくてはならない」「例えば原子炉には広島原爆1000発分もの死の灰が内蔵されている。事故が起きれば、どうなるのかということ」(水戸巌『原発は滅びゆく恐竜である』緑風出版)。
「ケロイドが酷く心にも深い傷を負った。死んだ方がよかったと親にあたり散らしたが、父親の深い愛を受け生きた。生きている間に核廃絶を。待っていても平和はこない」(2010年「8・6ヒロシマ平和の夕べ」広島被爆者・池田精子)。
「占領軍のプレスコード、空白の10年。被爆の実態、被爆者救援運動の報道は規制され、女性たちはアカといわれながら核兵器禁止、国家補償を訴えた」「被爆者にとって苦難の70年。その多くが核廃絶を見ないままに命を終えている。沖縄、福島と結び、アジアの民衆の犠牲を思い、核と戦争を終わらせる道を」(2015年、河野美代子、広島被爆2世・産婦人科医)。
「これまで50年以上、被爆体験を話してきた。しかし福島第一原発の事故。あらためて人類と核は共存できないと強く感じた。私の体験から、戦争と核を考えてほしい」(米澤鐵志『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』あとがき 小学館)。
「原発はなぜとめられなかったのか…問題の根は深い。事故は『核』の本質を露呈させた。歴史を振り返り事実を知るということ。いまやらなければならないこと。再稼働阻止へ。人々の共同行動や助け合いの拡大のなかに原発廃止と社会を変える希望がある」(園良太『ボクが東電前に立ったわけ』三一書房)。
「広島、長崎の被爆者の苦闘があったから、私たちはいま声をあげられる。福島の被曝は、同じ線上にある。放射線の恐怖から逃れ、命を守ることは当たり前の人権。福島の現実、いまの状況に向き合っていきたい」(2015年7月、福島から母子避難・森松明希子)。

戦争責任を問う

私たちはヒロシマ、ナガサキ、フクシマ後を生きることになった。脱原発、原発廃絶について多くの意見、運動が広がり交錯している。共同する再稼働阻止、核・原発廃絶、福島のたたかいもまた、直線には進まないだろう。
今期核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議は、核競争停止、縮小をめぐり最終合意案を採択できなかった。もとよりNPTにすべてを託すことはできないが、「時期尚早」「保有国と溝を作ることはしない」という日本政府、安倍(国会)答弁こそは最悪である。必要なのは私たちの論理、要求と行動だ。
「被爆70年」から「福島5年」をむかえる私たちは、ヒロシマ・ナガサキ、フクシマを結ぶ営為を弛(たゆ)まず続け、そこから展望を見出したい。
『広島県被団協の歩み』は、こう述べる。「原爆12年後の原爆医療法から被爆者援護法へ至る長い道。(不平等、在外被爆者等々)なお不備に満ちる。単に援護ではない。国の戦争責任を問い、原爆が再び繰り返されることのない保証を求めるのだ。被爆体験をつなぐ。平和利用とは何か。そして行動すること」。

6面

争点
戦後70年談話と東京裁判史観
天皇はなぜ訴追を免れたのか

70年談話をめぐって

戦後70年目の8・15が近づくにつれて、安倍首相の「談話」が取りざたされている。1993年には細川護煕首相は侵略戦争と認め、植民地支配を謝罪した。1995年の50年談話(村山富市)も2005年の60年談話(小泉純一郎)も、植民地支配と侵略を認め、「反省とお詫び」を発表した。それは閣議決定され、国会でも同様の内容で決議をおこない、共通認識になってきた。
4月22日のインドネシア・バンドン会議で、安倍首相がおこなった演説には「植民地統治と侵略についての謝罪」はなかった。4月29日の米連邦議会上下両院合同会議でも「痛切な反省」「アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない」などという虚言を並べているが、日本の責任を明示する植民地支配や「慰安婦」問題には触れようとしなかった。
戦後レジームからの脱却を掲げる安倍首相は「反省もお詫び」もない戦後70年談話を出そうとしているが、内外の世論はそれを許さず、追いつめられ、閣議決定も国会決議もない「私的談話」としてすり抜けようとしている。

東京裁判史観

2月26日、自民党の稲田朋美政調会長は極東国際軍事裁判(東京裁判)について「(平和にたいする罪は)事後法であるという批判が国際法の学会などから出ており、法律的には疑問がある」「(戦争)指導者個人の責任を問う法律は、当時ポツダム宣言を受諾した時点では国際法になかった」などと述べた(2月27日付『朝日新聞』)。
安倍首相は2013年2月12日衆院予算委員会で、「東京裁判という、言わば連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされた」と述べ、極右政治家はこぞって東京裁判について、公然と嫌悪感・拒否感を表明しはじめた。
秦郁彦によれば、「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めたのは1970年代である。その主要メンバーは渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳(文芸評論家)、小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった人物たちであり、「歴史の専門家」はいない。
1945年10月から「国際軍事裁判所憲章」にもとづいて「平和にたいする罪」「人道にたいする罪」などで、ニュルンベルク裁判が開廷され、東京裁判もその延長線上に設置された。ニュルンベルク裁判の先例があり、極東でも国際軍事裁判を開かざるを得なくなり、連合国(11カ国)は日本の戦争犯罪を裁くために、国際軍事裁判方式をとることで一致した。
連合国軍最高司令官マッカーサーはしぶしぶ受け入れたが、本心はマニラ軍事裁判(注)のようなアメリカによる対日復讐裁判・単独裁判を志向していたのである。東京裁判は1946年5月にはじまり、天皇を免責し、東条はじめ28人を「平和にたいする罪」「人道にたいする罪」などで起訴し、2年後の1948年11月に判決が出された。

天皇の免責

アメリカは日本の占領統治を円滑に進めるために天皇を免責する方針であり、オーストラリアは天皇訴追を要求したが、他の9カ国はアメリカに従い、容れられなかった(ソ連も当初天皇訴追の方針だったが、日本共産党の野坂参三による助言で転換した)。
この結論に至るまで、連合国の中では「天皇に戦争を終わらせる力があったのであれば、なぜ天皇は戦争開始の許可を下したのか」という問いが、いつも問題になった。9月18日の外国人記者会見で、真珠湾攻撃について問われた東久邇宮首相は「(天皇)側近の一部軍人によって計画された」と答えたが、「日本の制度として天皇が知ることなくして、戦争を始めることができるのか」とたたみこまれて、東久邇宮は沈黙した。
天皇独白録によれば、「立憲君主であったから政府決定を承認せざるを得なかった」、「主戦論を抑えたならば、クーデタが起こった」などと、天皇は自らの責任を回避することに終始し、天皇の大権行為はその補弼(ほひつ)機関である政府や統帥大権を捕翼(ほよく)する統帥部の責任であるとして、天皇に戦争責任はないとしたが、天皇制の実態とはかけ離れており説得力はなかった。
天皇に責任がないからではなく、占領統治を円滑に進めるために東京裁判は天皇訴追を見送ったのである。

国民意識の変化

東久邇宮は「今回の事態を招来せる責任者は軍官民共に之を担ふべし」と一億総懺悔論で、天皇と政府・軍部の責任を曖昧化しようとしたが、「最後まで国民をだましてきた指導部は万死に値する」、「従来の指導当局は国民が総懺悔する前に自ら責任を負うべき」と指導責任論が優勢になっていった。
また、日本側でも「自主裁判」で戦争犯罪人を裁こうという動きがあったが、「天皇の名で戦争を始め、天皇の名で戦犯を裁く」という自家撞着に陥り、これも破綻した。
政府は天皇と自らを守るために必死であがいていたが、国民の意識は徐々に天皇制の呪縛から解放され、天皇の戦争責任を語りはじめたが、未完に終わっている。

昭和天皇を法廷に

敗戦後、日本の労働者人民が自らの手で天皇と当時の支配階級の戦争責任を追及し、打倒することが出来なかったが故に、「勝者の裁き」がもたらされたのだ。稲田や安倍が「事後法の適用」とか、「勝者による裁判」を云々して、東京裁判を否定する目的は、数千万のアジア・太平洋地域の人々を殺戮した戦争犯罪をもみけし、聖戦として美化し、アジア・世界への再侵略のイデオロギーを構築することにある。
「東京裁判史観」などというインチキ至極な造語に惑わされることなく、アジアの人々とともに昭和天皇と支配階級を再審の法廷に引きずり出し、東京裁判に提出された膨大な供述書によって、日本の侵略戦争・戦争犯罪の実態(被害の実態)を明らかにし、歴史的な処断が必要だ。(須磨 明)

(注)マニラ軍事裁判は開廷から閉廷までわずか2カ月で、本間雅晴陸軍中将、山下奉文陸軍大将に死刑判決を出した
参考文献:粟屋憲太郎著『東京裁判への道(上・下)』

米軍基地反対闘争弾圧
大阪府警本部にデモ

京都府京丹後市に建設された米軍Xバンドレーダー基地に反対のため、昨年9月28日、現地集会に大阪からバスで参加したことを「無許可で営業行為をした」とデッチあげ、大阪府警が6月4日、3人を逮捕、同日から翌日にかけて全国17カ所の家宅捜索を強行した弾圧。
この弾圧にたいする反撃の集会とデモが7月19日、大阪市内でひらかれ120人が参加した。
逮捕された3人はすでに釈放され、7月17日には不起訴が決定。あらためてこの弾圧がデッチあげであることが明らかとなった。集会では、弁護団の永嶋靖久弁護士が「弾圧の経緯・目的・課題・対策」を報告。最後に集会決議を採択し、大阪府警本部へデモ行進した(写真)

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