戦争法案
強行採決を許すな
3万人が国会包囲
6月24日
連日、国会前では抗議行動が行われている。写真は7回目の「総がかり行動」による国会前集会(2日) |
「戦争法案反対!」国会前に3万人が詰めかけて、怒りの声をあげた(6月24日) |
6月24日午後6時30分から国会を包囲する総がかり行動がおこなわれ、3万人が参加した。国会正門前は身動きできないほどの人で埋まった。そのため、これ以上は無理と会場係が3人がかりで手をつなぎ、押し寄せる参加者の波を押しとどめる規制もおこなわれた。国会の裏手も、用意されていた衆議院第1会館、同第2会館、参議院会館前の歩道では入りきらず、参加者の隊列は国会図書館前まで延びた。戦争法案にたいする怒りは広がっている。
共同通信のアンケート調査によれば、わずか3週間で戦争法案反対の声が47%から58%に11ポイントも急増している。安倍の詐欺師まがいの不誠実な国会答弁が怒りに火をつけ、国会前や全国で取り組まれている連日の行動が世論を大きく動かしているのだ。
95日間の会期延長の中で、安倍は衆議院での強行採決を7月中にも目論むだろう。そのときはさらに怒りに火がつく。参議院で可決できず、衆議院での再議決の強行となれば怒りはさらに激しくなる。反対の声を7割、8割にして、世論と国会を取りまく怒りの波で祖父の岸信介のように安倍を退陣に追い込み、戦争法案を廃案にしよう。
死を強制する法整備
集会では雨宮処凛さんが怒りを込めて訴えた。
イラクに最初に派兵されたのは自衛隊の旭川の部隊だが、その近くの滝川出身の彼女には知り合いの自衛隊員が多くいるという。子どもがいる40歳代の自衛官が「自分が海外に派遣されて死んだら子どもが成人するまでどれくらいの補償が受けられるのか教えてほしい」という地元の新聞のインタビュー記事にショックを受けた。
「安倍政権は当事者の話を一切聞かない。今の労働者派遣法も生活保護費の引き下げも、安倍政権が始まって真っ先に手をつけたことだが、1人の当事者の話も聞いていない。今回の安保法制についても自衛官の話なんて聞いていない」「危険な所に行かない権力者たちから、死ねと言われるようなそんな法整備。人殺しをしてこい、お前も死んで来いということがまかり通ることは絶対に許されてはいけない」「イラク、アフガンに行って帰還した200万人の米兵のうち50万人がPTSDで苦しみ、毎年250人が自殺している」「アメリカの治療法は『お前がヒーローだ』と言い続けることだが、そんなことを言われて治るわけがない。だからどんどん自殺していき、社会全体が壊れていく。こんなおぞましいことがまかり通っていくことを絶対に許してはいけない」と訴えた。
国会前へ結集しよう
前日(6月23日)の国会前行動では、海外から急きょ帰国した若い女性も発言した。3カ月ほどニュージーランドへ行き、仕事も決まって2週間目だったが、日本で戦争法案が可決されそうだというニュースを聞いて、いても立ってもいられず帰国したという。
「この法案が通ったら日本が世界にいる私の友達や家族を傷つけるかもしれない」「なんであの時、反対してくれなかったのと言われたらと思うと耐えられず、すぐフライトチケットをとった」「私と同世代の人たちには、思っているだけでは賛成と同じ。動くことがすごく大事と言いたい」と訴えた。国会前に集まり、安倍政権打倒のために行動しよう。
現地ルポ
川内原発正門前で抗議
再稼働「不同意」住民デモ
再稼働のための燃料装荷に反対し、川内原発ゲート前で120人が抗議の声(7日 薩摩川内市内) |
6月28日、薩摩川内市久見崎公園に結集した人々は、川内原発ゲート前へ2・7キロのデモを敢行。到着した時、173人を数えた。
鹿児島市を中心にまかれ、薩摩川内市にポスティングされたチラシでは、100人の呼びかけ人が連名で、「市と県、たった2つの議会が勝手に決定した再稼働の同意判断。市民の真の声は反映されていない。『わたしは、不同意だ』の真の声をあげよう」という住民の固い意志を示していた。
住民説明会を開け
これまで3月と5月、2回にわたって九州電力本店交渉がおこなわれた。5月27日の2回目の交渉のときは、鹿児島市から福岡市にある九電本店前への10泊11日311キロのリレーデモを敢行した。この日は150人が交渉に詰めかけ、100人が交渉会場に入った。しかし、九電側は交渉を中途で打ち切ったあげく、社員たちの退出を阻止しようとする人びとに対して警察を導入した。やむなく会場を出た住民たちは、玄関前に座りこんで抗議した。次回交渉では、「交渉参加者10名、2時間以内」という制限を加えてきた。住民側は九電側の条件を拒否し、提出した「説明会の開催を求める署名」11万筆返却を求めた。
再稼働は無謀
九電は7月7日に川内原発1号機の燃料装荷を開始し、8月中旬に再稼働しようとしている。国内では新規制基準の下ではじめてのを原発再稼働となる。川内原発の再稼働がいかに無謀なものであるか、その主な論拠をあげておこう。
@口之永良部島の噴火に見られるように、「火山噴火の3カ月前予測が可能」とする九電の論拠が崩れていることである。大規模な火山噴火と原発事故が同時に発生すれば、住民の避難は不可能である。このことだけでも原発事業は直ちに中止しなければならない。
Aフィルター付ベント、コア・キャッチャー、重要免震棟などを完備しないまま再稼働を認めていることだ。
BECCS(緊急炉心冷却装置)の使用法や訓練状況などを九電が回答していないことだ。
C九電が、以上の課題をクリアするための人材、計器備品などを完備するためのコストについて公表できないことだ。
体をはりゲート前へ
6月28日の川内原発正門前でおこなわれた抗議集会で、3・11実行委事務局長の向原祥隆さんは、「エアコンの効いた屋内で、九電社員とお話ししようというたたかいは、もはや意味がない。体をはってゲート前に出よう!」と力強く呼びかけた。(Quema)
2面
被爆70年 8・6ヒロシマ平和の夕べ
ヒロシマとオキナワを結ぶ
米沢鐡志さん |
小林圭二さん |
秋葉忠利さん |
秋田明大さん |
被爆70年となる8月6日の前後、各種催しがおこなわれる。8・6ヒロシマ平和の夕べは、沖縄戦・被爆70年の今年、「反戦・反核の原点にかえり、核と戦争を廃絶する」方途を考える集まりとなる。
1月、大きな犠牲を強いられた沖縄と広島を結ぶ「被爆ピアノ・コンサート&平和を語る会in沖縄」からスタート。6月「被爆ピアノ・コンサートin広島別院」、「核兵器、原発、優性思想〜“生きる”を否定するものに反対」(川崎市)、7月「核兵器も、平和利用という欺瞞の原発も廃絶を」(神戸市)がプレ企画としておこなわれた。
8月6日、ヒロシマ平和の夕べは、午後3時から広島YMCA・国際文化ホール。沖縄から川崎盛徳さん(元読谷中学校校長)、津波勇雄さん(ピアニスト)、仲間直美さん(同)ほか、福島から山本さとしさん(シンガー・ソングライター)によるトークと被爆ピアノ演奏。
発言は米澤鐡志さん(広島電車内被爆者)、小林圭二さん(元京大原子炉実験所講師)、秋葉忠利さん(元広島市長)。小林圭二さんは福島原発の現状や川内、高浜再稼働反対について、秋葉忠利さんは世界各国で核廃絶にとりくむ人たちとの運動について話す。秋田明大さんが開会あいさつをおこなう。
呼びかけの趣旨
「沖縄の惨劇と被爆から70年。被爆者にとって消すことのできない心身の傷、記憶とともに、苦闘を強いられた70年でありました。また、今なお多くの米軍基地に囲まれ、辺野古には新基地建設が強行され、沖縄の人々の苦闘も延々と続いています。この日本を見るとアジアの国々との軋轢を増し、格差は拡がり、憲法も危ない状況となりました。そして福島は改善の兆しもありません。それでも原発が再稼働されようとしています。(中略)被爆70年の私たちは大きな節目として、この会を持ちます。オキナワ、ヒロシマ、フクシマを忘れない、これからもめげることなく歩んで行きましょう。」(要旨)
原発も核兵器も廃絶を
広島 福島から核を問う
7・4神戸
神戸 |
「『平和利用』という欺瞞の原発も、核兵器も廃絶を〜ヒロシマ・ナガサキ、フクシマから〜」をテーマに7月4日、8・6ヒロシマ平和の夕べプレ集会が神戸市で開かれた(写真)。会場では同時に「沖縄・辺野古の今」写真展がおこなわれ、大浦湾の豊かな自然や海上・キャンプシュワブ前の抗議のもよう、約100枚が展示された。
広島電車内被爆者の米澤鐡志さん、3歳のとき広島で被爆し反核運動に加わってきた千葉孝子さん、福島から関西へ「母子避難」し、福島の問題を訴えている森松明希子さんら3人が次のように話した。(要旨)
爆心750bで被爆
米澤鐵志さん
1945年11歳の夏、母親といっしょに疎開先から広島市内の自宅へ一時帰宅する途中の路面電車内で被爆。爆心から750メートル、逃げる途中に見た光景、周りは地獄絵図だった。3千度ともいわれた熱線に焼かれ衣服はなく、火傷の皮膚を手の指先まで垂らした女子学生。飛び出した目玉を手で掬っていた老女。
途中、母親もぼくも激しい嘔吐に襲われた。大量被爆による急性放射能症だった。疎開先へたどりついてからは、2人とも40度をこえる高熱で、髪の毛は全部抜けた。
9月1日、母親が死亡。1週間ほど母親のお乳を飲んだ1歳の妹も10月に亡くなる。当時は栄養失調とされたが、内部被曝だった。福島の子どもたちの命と健康を守らなければならない。
いまの安保法制。自分たちが子どもだった、戦争へと向かう時代と重なって見える。戦争と原爆は私の人生を変えた。80歳を超えたが、とくに3・11以降、戦争と核をなくすため証言、反戦・反核運動を続けていかなければと痛感する。
核廃絶あきらめず
千葉孝子さん
3歳で被爆したから被爆の記憶はくわしくないが、反核運動にかけた母親の人生を見ながら育った。原爆のせいだろう、私も弟も病弱だった。結婚の際、相手の親御さんから激しい反対にあう。結婚してからも、なかなか子どもができない。同時に、子どもを生んでいいのかと悩む。ようやく子どもができると流産。その後、子どもができたが、やはりよく病気になった。米澤さん、はだしのゲンの中沢さん、生きのびた被爆者は幸運が重なって生きることができた。それが原爆だ。
福島が「なかったかのように」されようとしているが、広島、長崎は占領軍のプレス・コードにより、国民にその実態は押し隠された。それから、あのものすごいエネルギーも「平和利用すれば、台所の火にもなる」などと正力松太郎らが言い、原発への途を求めていった。
広島、長崎、ビキニ、福島と続く日本。黙ってはおれない。被爆者は内部被曝していないはずがない。長崎大の研究で、被爆・被曝の影響でわかっていることは全体の数%、あと90数%はこれからだといわれている。放射線の被害は、いますぐやめても何百年、放射線によっては何万年も続く。どこまでもあきらめずに廃絶をめざす。
福島に向きあう
森松明希子さん
戦後・被爆70年の今年、大変な重い被爆後を背負ってこられた2人と、いっしょに福島を話すという大事な機会を得た。被爆者の方たちが苦闘されてきたことが、福島がたたかっていく大きな励みになる。広島、長崎の人たちの声があったから、私たちもいま声をあげられる。私は関西育ち、夫を福島に残し何とか避難できているが、多くの人は地元で暮らさざるを得ない。
あのとき、3歳児と5カ月の子どもをかかえ震災にあい、その直後に福島第1原発の大事故となった。あの日の2時46分を忘れることはない。日本人なら誰もが広島、長崎を知っていたのに本当はわかっていなかったのか。それが54基もの原発を許して、福島の大事故につながったのではないか。
広島、長崎の被爆、福島の被曝は同じ線上にある。世界が福島に注目しているのに、4年たっても政府は何も道筋を明らかにしない。放射線の恐怖から逃れ命を守ることは当たり前の人権。福島の現実、いまの状況に向き合っていきたい。
教科書で戦争美化
育鵬社採択許すな
東大阪
6月19日、「市民の声を上げよう! 東大阪にふさわしくない教科書を選ばないで!! 教科書のつどい」〈主催:「東大阪の公民教科書を読む会」市民有志一同〉がイコーラムホール(近鉄若江岩田駅前)で150人が集って開催された。
「東大阪の公民教科書を読む会」が昨年7月からはじめた育鵬社・自由社の教科書採択反対署名は5千筆を超えた。採択は7月27日。
集会では、〈子どもたちに渡すな! あぶない教科書大阪の会〉が育鵬社教科書について説明した。
「歴史」では過去の侵略戦争と植民地支配を正当化し、加害の事実をできるだけ教えず、太平洋戦争を大東亜戦争と呼び、アジア解放のための戦争だったとし、戦争を美しく感動的に描く。日本の歴史を天皇とその臣下の活躍の歴史として描き、日本の文化は世界一と教え、自己中心的な愛国心をすり込む。
「公民」では人権より義務が大切、国民の最大の義務は国防であると教え、領土問題では近隣諸国との対立をあおり、原発推進を教える。
中学生の言葉に衝撃
市民リレートークでは、小学3年生と幼稚園の子をもつ主婦からの発言が胸に突き刺さった。
彼女は東日本大震災の後から、政府の対応に不信感をもった。ニュースを見ていると「この社会がすごく怖い方向に向かっているような思い」が強くなった。
そういうときに東大阪の教科書問題を知った。教科書を実際に手にとってみて「漠然と怖いと感じていた方向にドンピシャで向いている」とすぐに感じ、「それが授業で使われることにすごくゾッとした」という。知り合いの中学生に「おばちゃんはあの教科書が、すごく気持ち悪かったんやけども」と言うと、「学校もおかみには逆らえないね」という反応にショックを受けた。
中学生が、その教科書は国が学校に押しつけたものと感じていたのだ。
彼女は「私たち大人がもっと声に出して、子どもたちを守りたいという思いを眼に見える形で表現する必要がある」と訴えた。(鈴木克美)
3紙に沖縄意見広告掲載
沖縄の民意踏みにじるな
沖縄現地の闘いを全国で支え広める第6期沖縄意見広告運動は、6月14日に朝日新聞、琉球新報、沖縄タイムスに全面広告を掲載した。また報告会を6月20日関西(大阪)、21日関東(東京)でおこなった。
この1年は昨年11月の翁長県知事の誕生と、あくまで辺野古新基地建設を進める安倍政権とのはげしい攻防であった。意見広告運動はこの沖縄の闘いと連携し、米紙ウエブ版への広告から始まり、オスプレイ配備反対キャラバンに取り組んだ。そして賛同者総数6823件で6月14日の意見広告掲載となった。
6月20日の関西報告集会は、沖縄から辺野古海上行動を闘う仲宗根和成さんと、連合沖縄会長・大城紀夫さんをむかえ200人が参加。主催者の武建一さんは、連帯する闘いの必要性を訴えた。第7期の方針を西山直洋さんが提起し、服部良一さんが安倍強権政治を許さない闘いをと結んだ。
3面
寄稿
安藤 眞一
(牧師・三里塚関西実行委員会事務局次長)
私の沖縄訪問記
平和をつくる人々と熱い交流
魂魄の塔での反戦集会、ゴスペルを歌う(6月23日) |
敗戦後70年を迎える日本、そして沖縄戦終結から70年を迎えた沖縄。いま戦争法案の成立を阻止する一翼を担う1人として、たたかいの原点でもある沖縄の皆さんと70年という節目に再会したいと願っていた。6月22日から24日まで沖縄に行ってきました。ご一緒したのは関実の永井満代表世話人。2人とも3日間、元気にスケジュールをこなしました。
訪問前の5月31日、大阪で開催された辛淑玉さん講演会に参加。講師の辛さんから「戦後70年は平和だったと思ってはダメ。沖縄はずっと戦時下にある」との指摘を受け、そのとおりだと思わず賛意を送りました。
私自身の沖縄訪問は40年前、読谷村青年団協議会との交流からはじまり、当時の山内徳信村長ともお知り合いになり、「日の丸」焼き捨ての知花昌一さんとの交流も積み重ねました。キリスト教会の牧師になってからは、辺野古との連帯も始まりました。
10年ぶりの読谷村
今回の沖縄訪問では、辺野古のキャンプシュワブのゲート前で機動隊と対峙しながら抗議のデモ行進を体験。関西からも多くの知人が参加していて、心強く感じました。1日目は読谷のホテルに宿泊。10年ぶりの読谷は懐かしく、キロロの親父とも知人なので寄りたいなあ…いやいや闘争に来ているのだから遠慮しよう…と思いながら、翌日は「やちむんの里」に寄って、摩文仁の丘の会場をめざしました。
6月23日は「慰霊の日」。沖縄県主催の式典に安倍が出席するということで会場周辺の道路は大渋滞、レンタカーを運転しながらやっとの思いで会場となる「魂魄の塔」に到着。すでにカトリック教会の人たちが平和行進をしながら会場に到着し、「祈念ミサ(礼拝)」を捧げているところでした。
12時45分、若い学生さんの司会で第32回国際反戦沖縄集会が開会されました。集会実行委員会を代表して比嘉宏さん(一坪反戦地主会)があいさつ。沖縄の北部やんばるの高江地区でヘリパッド建設を阻止するために座り込み、抗議を続ける女性グループが素晴らしいフラダンスを披露してくれました。その直後、病気闘病中の山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)が舞台にあがり「戦後70年の節目、じっとしていられず入院先から出てまいりました。治療はあと2カ月続きますが必ず戻ってきます。先ほど式典会場で安倍に対し県民から帰れコールが沸き起こった。戦争はさせない、平和を作り上げよう」との力強いアピール。参加者は拍手と歓声と指笛で応えました。
歌あり、踊りあり
この後、音楽家・海勢頭豊さんたちのミニコンサート。彫刻家の金城実さんがたたかいの踊りを披露して大いに盛り上がり、沖縄キリスト教短大生の活動報告、コーラスの披露が続きました。辺野古の海でカヌー隊としてたたかう辺野古ブルーのメンバーから「今日は朝から安倍への抗議行動をたたかい、この集会に参加した。毎日、海上とシュワブゲート前一体となってたたかっている。カヌー隊と抗議船団は海保の妨害をはねのけ、フロートを乗り越えてスパッド台船への抗議を続けている。大浦湾の豊かな自然、平和を守るためにたたかう。沖縄辺野古、三里塚、福島のたたかいを、連帯して取り組む」とアピール。
普天間基地の前でゴスペルを歌い続けているキリスト者、学生、自然を守るグループ、キムキガンさんのコンサートや発言が続き、福島浪江の牧畜農家からもアピールがありました。筆者がこの集会に久しぶりに参加して思ったことは、歌あり踊りあり、激烈なアピールあり、実に幅広い結集の中で勝利感に満ち溢れた集会であったという印象です。三里塚から市東孝雄さんも参加し、連帯の決意を固めました。
夜は那覇市内での交流会に永井代表、市東さんとも参加し、安次富浩さんや辺野古でたたかう皆さんと歓談。私はキリスト教グループとの交流会に参加(佐敷教会の金井牧師が抗議船の船長)し、2つのグループはともに「平和を作り出す決意」を打ち固めました。
『展望』第16号紹介
安倍打倒の道を探る
巻頭の落合薫「戦争と格差・貧困を世界にまき散らす安倍政権」と、八代秀一「日独比較にもとづく戦後70年論」、杉田四郎「新自由主義研究ノート」は、改めて安倍政権打倒の道を探る論稿である。
落合論文は、日帝・安倍政権が世界に格差・貧困と戦争をばらまく、世界最悪の政権であることを、政治・経済・軍事・思想の面から究明している。
八代論文は戦後日帝の復活と戦争への賠償・補償問題を日独で比較する注目すべき研究だ。ドイツは旧国籍者への保障をしているのに、日本は一方的に国籍を奪い、権利を剥奪した。
杉田論文は『展望』創刊以来の大きな課題である新自由主義批判の、『展望』諸論文の再検討と他の潮流も含めての新自由主義研究ノートである。
島袋論文と東江リポートは、翁長知事当選以降の新たな沖縄闘争の地平に肉薄するものである。島袋論文は、復帰協運動最後の世代として68年に沖縄から本土留学生となり、復帰協運動を乗り越えるたたかいをめざしてきた筆者の自己史でもある。
巻末は、関西における争議・弾圧弁護を担ってきた永嶋靖久弁護士からの寄稿である。特に昨今の弾圧は「経済的締め上げ」を切り口とするが、それは国内だけの動きではなくグローバルな流れである。年表はここ20年の治安弾圧を概括する。(Q)
伊丹第三師団に申し入れ
自衛隊は戦地に行くな
6月、7月
6月28日、とめよう戦争! 兵庫・阪神連絡会と元自衛官連絡会は、05年の伊丹から自衛隊イラク派兵以来、毎月実施している陸上自衛隊第三師団司令部への申し入れ行動をおこなった。兵庫・阪神連絡会の梶原義行さんが申し入れ書を読み上げた。「安保関連法案は違憲で、直ちに審議をやめよ。自衛隊員は憲法違反の派兵命令に応ずるな」との申し入れに、応対の折原一尉は「駐屯地司令に届けます」と返答。
続いて阪急伊丹駅前でマイクアピール・街頭宣伝行動。中川智子宝塚市長が「市民の生命を守るのが市長の仕事」と戦争法案反対を全国市長会で訴えたことや、尼崎市では「慎重審議」決議が上がっていることを訴えると、多くの市民が聞き入りビラを受け取った。
ついで7月4日には恒例の平和行進が、部落解放伊丹市民共闘会議の主催でおこなわれた(写真)。川上八郎伊丹市議が「毎年恒例の平和行進だが、今年自衛隊をいつでもどこへでも派兵する憲法違反の戦争法案が審議されている。私の教え子にも自衛隊員がいるが、『教え子を戦場に送るな!』の実践がいま問われている」と発言した。
第三師団正門でのシュプレヒコールのあと、解散地の伊丹市役所では、伊丹市長・市議会議長から「平和宣言都市として再び戦争をくり返さない施策に取り組む」とのメッセージがあった。
7月26日には、阪神7市1町26名の超党派議員(共産党を除く)呼びかけの集会・デモがおこなわれ(15時 伊丹市三軒寺広場 阪急「伊丹」東2分)、元自衛隊レンジャー部隊の井筒高雄さんも参加する。中部方面総監部(緑ヶ丘)と第三師団司令部(千僧)のある伊丹で、「戦争法案反対・自衛隊は戦場に行くな!」の声を大きくしよう。
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4面
精神科病棟転換型居住系施設
超長期入院の固定化にルポ
精神科病棟転換型居住系施設に反対する緊急集会に3200人が参加(昨年6月26日 東京・日比谷野外音楽堂) |
昨年来、厚労省は省令で精神科病棟転換型居住系施設建設策動を進めている。古くなった病棟を建て替えてグループホームに改造し、入院患者をそこに移してしまう。そこは病院ではないという建前なので、収容者は病院の敷地内から一歩も出ていないにもかかわらず、退院したことになってしまう。
日本の精神科病院の多くは漫然とした長期入院で経営を成り立たせてきた。ここ数年、厚労省が長期入院の保険点数を下げたことで、日本精神病院協会は経営が成り立たないと悲鳴を上げた。厚労省の施策は医療費削減のためだ。保険点数も安上がりの長期入院を目的としたものだ。経営危機の精神科病院を救うため病棟転換の話が出た。転換型施設は医療施設ではなく障がい者施設になり、安上がりなので厚労省にとっても都合がよい。長期入院への批判をかわすことができ一石三鳥だ。病院にとっては「財産」とみなしている患者を囲い込むことができる。
当然にも入院患者の多くはこの施策に反対している。昨年この話がもち上がるや6・26緊急抗議集会が日比谷野音を埋めつくす3200人の結集でおこなわれ、多くの長期入院の経験者が反対の声を上げた。「もう閉じ込めは止めてほしい」というのが多くの患者の声だ。
私たちの患者会の会員で、長い間悪い病院に強制入院させられていた人が、病棟転換施設に強く反対している。精神科病院の金儲けのため、精神科病院による患者の支配という権力関係を維持するための病棟転換に反対だという。別の私の友人は、30年前に悪い精神科病院に強制入院となった時の経験から、二度と入院は嫌だと言っている。いま家から出られないほど状態が悪いのに入院を拒否している。精神科病院で行われている、隔離・拘束などの虐待は治る病気も治らなくさせてしまっているのだ。電気ショックさえもいまだにおこなわれている。
地域生活の予算は5%
長期入院が続く原因として、一つには33万人もの入院体制を築いた厚労省の誘導がある。厚労省は精神科を特例として医者の数を他の科3分の1にし、看護師の数も少なくていいことにしている。戦後の高度成長期に労働強化などのために増え続ける精神障がい者を、社会治安維持の観点から収容するためだった。当時のマス・メディアは「危険な精神病者が野放しになっている」と書き立てた。この特例は、国公立病院建設の予算が不足していた国が、「金が儲かる」と誘導して、民間精神病院の建設を進める意図があった。このために精神科病院は医療の場ではなく収容の場であることが運命づけられた。
長期入院が続く原因はそればかりでなく、入院至上主義の裏返しとして地域福祉政策の貧困にある。地域に帰る場所がないのだ。家族の高齢化で引き取れなくなっていたり、嫌がり引き取らないこともある。生活保護利用でのアパートへの退院やグループホーム新設という方法があるのだが、それらの地域資源のための予算が少ない。精神保健福祉関係の予算は入院経費に全体の95%が出ているのに対し、地域生活のためにはたった5%しかない。
退院したくても方法がなくて長期入院になっている人が多いのだ。その結果20年以上の長期入院の人が4万人を超え、死亡退院、すなわち死ななければ精神科病院から出られない人が年間1万8千人もいる。
千葉で患者虐殺が発覚
7月8日に発覚した石郷岡病院における患者虐殺は氷山の一角だ。2012年1月に千葉市中央区にある精神科の石郷岡病院で、入院していた当時33歳の男性患者に当時の准看護師2人が首を骨折するけがを負わせ、2年後に死亡させた事件があったことが発覚した。家族が必死の告発をしていた。このような事件が露見することは珍しい。加害者の一人は「業務上の行為だった」と主張し、日常的に暴行を加えていたことに悪びれる様子もない。
精神障がい者には憲法にうたわれた基本的人権がまったく保障されていない。国家にとって精神障がい者は人権や福祉の対象者ではなく、治安維持・治安管理の対象者でしかないからだ。
一方、兵庫県や神戸市は地域主権改革法制に基づく特例として、厚労省の省令改悪に先立って、病棟転換施設を実施する条例を定めている。しかし、実際に建てているところは全国どこにもなく、闘いはこれからだ。
違いを越えた連帯と共闘で各地の集会がもたれている。私たちは長期入院者の利益のため、また精神障がい者が地域社会で当たり前に生きるために、兵庫集会をもつことにした。ぜひ多くの結集でこの集会を成功させたい。(高見 元博)
精神科病棟転換型居住系施設問題を考える兵庫集会
と き:7月25日(土) 午後1時半〜
ところ:神戸市立地域人材支援センター(JR・神戸市営地下鉄・新長田駅より徒歩13分)
主 催:精神科病棟転換型居住系施設問題を考える兵庫の会
冤罪の温床 司法取引制度
永嶋靖久弁護士が訴え
7月5日、大阪市内でひらかれた「秘密保護法廃止! ロックアクション」での永嶋靖久弁護士の発言を紹介する。(文責、見出しとも本紙編集委員会)
今の国会で「取り調べの可視化(録画・録音)」とワンセットで〈盗聴法の大改悪〉、〈司法取引の導入〉をねらう法律(「刑事訴訟法の一部改正案」)の審議がかなり進んでいる。7月2日の読売新聞に、1日の衆議院法務委員会のようすが報道されていた。その日は、司法取引についての参考人質疑があった。参考人として呼ばれた甲南大学の笹倉香奈さんは「これは愚の骨頂だ」と切って捨てた。笹倉さんはおそらく日本で司法取引に一番詳しい人で、6月中旬に大阪市内で勉強会をしてもらったが、その時の話を報告したい。
死刑冤罪の半数も
司法取引というのは、他人の罪を警察に密告して、その代わりに自分の罪を軽くしてもらうという制度だ。自分の罪を軽くしたいがために、他人を引っ張りこんでしまう制度である。また、警察が安直に証言を得るために捕まっている人たちの弱い立場を利用して冤罪を作る制度である。
アメリカではすでに長い間導入されており、この制度への検証が進んでいる。DNA鑑定が進歩してきたことによって、冤罪があったかどうかがわかりやすくなったが、最近あきらかにされていることによると、殺人事件で冤罪を被った人の半分近くはウソの情報提供(密告)が原因であった。冤罪の原因の第1位は、司法取引だった。
さらに怖いことは、死刑の冤罪である。アメリカで、死刑が確定して執行を待っている人のうち、百数十人もの人が冤罪だったことがDNAの鑑定で判明したという報道があった。またアメリカの死刑冤罪者のうちの半数近くが、「ウソの密告」「ウソの情報提供」が冤罪の原因だったという研究もある。実際に死刑執行されてしまった人のなかで、どれだけ冤罪があったかという報告はないが、「ウソの密告」で命を奪われた人がいることは想像がつく。
さらに驚いたのは、アメリカでは何度も司法取引する人がいるということだ。捕まるたびに、「同房者がこんなこと言っていた」「同じの房の誰それは犯罪を犯している」ということを警察に密告することによって自分の罪を逃れるということを繰り返す人がいるというのだ。司法取引をする人として多いのは、薬物中毒者、少年。つまり弱い立場の人間が司法取引をしてしまうと言われている。上記のようなことが明らかになってきたため、アメリカでは司法取引について、根本的な反省と制度の見直しが進んでいる。
チェックはできない
ところが今回の日本の司法取引の導入には、そういう反省が全くない。司法取引が冤罪を生み出すということにたいして、法務省は「日本の法律は、3つの条件があるから大丈夫」と言う。
@司法取引する被疑者・被告人の弁護人が関与する。「弁護士が一緒に書類を作るからチェックできる」というものだ。しかし、被疑者が本当のことを言っているかどうか弁護士が見分けることはできない。
A裁判所に司法取引した書類が出て来て、裁判官がその書類を見る。しかし、出てきた書類だけを見てもチェックにならないのは明らかだ。
Bウソで司法取引したら厳罰に処す。しかし、一度ウソついて司法取引してしまうと、後には引き返せなくなる。厳罰規定は、後から「実はウソでした」と言わせないためのものでしかない。冤罪の歯止めとしてはなんの役にも立たない。だからこそ多くの冤罪被害者が「こんな司法取引は冤罪を生むばかりで、冤罪は絶対に減りません」と反対の声をあげているのだ。
この法律が最初国会に出てきた時は、すっと通るのではないかと言われていた。しかし今、反対の声がどんどん拡がっている。6月30日には民主党が、「取り調べの可視化はもっと拡げなさい」、「司法取引は導入しない。盗聴法も拡大しない」という対案を出してきた。
さらに、当初この法案は一括審議と言われていたが、今は「録音・録画」、「司法取引」、「盗聴」について、それぞれ1週間ずつやりましょうということになって、先週、司法取引についての議論がおこなわれた。
これに対して自民党は「衆議院法務委員会筆頭理事が野党のペースに巻き込まれている」という声をあげて巻き返しを図り、自民党筆頭理事の首が飛んだ。更迭だ。戦争法案と同じで、時間をかければかけるほど反対の声が広がるから、7月中に「刑事訴訟法一部改正案」を衆院で強行可決しそうな情勢だ。
しかし、反対の声はどんどん拡がっている。衆参両院の法務委員会の議員の事務所に電話・FAXで、与党(自民、公明)には反対の声を、野党(民主党など)には「頑張れ。応援しています」という声を集中してほしい。
5面
直撃インタビュー(第28弾)
「憲法を守り、自衛隊は専守防衛を」
元自衛官・護憲派、泥憲和さんに聞く
集団的自衛権、戦争法制に不安と怒りが渦巻いている。国会前には毎日毎週、法案に抗議する人びとが詰めかけ、全国各地で行動が起きている。いまの状況にどう立ち向かうか、「安倍を倒せ、安倍首相から『日本』を取り戻せ」という元自衛官・泥憲和さんに聞いた。(6月26日、聞き手/本紙編集委員会)
―昨年7・1集団的自衛権の閣議決定に即座に行動を始められました
私の持論すら根こそぎにされる事態だ。居ても立ってもおられなかった。ネットを検索したら神戸・三宮でデモがある。行ってみると若者たちがアピールをしていた。率直に言って上手ではない、あまり伝わらない。うーん、みんなが求めているのは、そういう話ではないなー。「ちょっと貸して」とマイクを持ち、日ごろ思っていることを話した。
第1次安倍内閣のとき、兵庫県弁護士会が憲法作文を募集した。「泥さん、元自衛隊やろ。書いてみないか」と言われ、憲法を守りながら日本の安全保障をきちんとやろうと、「護憲的安全保障論」を書くと入選した。それらが、いまの行動の元に。その後前後して、非武装中立派がネトウヨ(ネット右翼)にむちゃくちゃにされているのを知る。ネトウヨの軍事知識・論たるや、それこそデタラメなのに。そこで軍事論の面で平和派を応援、ネトウヨ・バスターとして期待された(笑い)。
ヘイトに血が逆流
日本軍「慰安婦」の問題にずっとかかわっており、朝鮮学校襲撃事件のあと大阪・鶴橋に行った。ヘイト・デモ、スピーチはありもしない妄想、大東亜戦争史観による。在日コリアンにむけた下劣な罵倒を聞くと、怒りで血が逆流しそうになる。
―自衛隊に入隊、人一倍の「愛国心、国民防衛」の気持ちを持っていたとか
『戦史叢書』を読む
入隊したのはソ連脅威論が華やかだったころ、ソ連から日本を守るためにわざわざ北海道を志願したからね。
日本の戦争が侵略戦争だったことは、自衛隊でもはっきりしていた。部隊の休憩室に防衛庁が編纂した『戦史叢書』があった。『坂の上の雲』にあこがれていたから、それと比べながら読みふけった。そこの「大東亜戦争開戦経緯」に、満州事変以後の戦史が書いてある。生の資料が使ってあるから、日本軍がデタラメな謀略で中国を切り取っていったことが如実に分かる。
他にも例えば「ABCD(米英中蘭)包囲網に、やむなく自衛の戦争」というウソ。防衛庁編纂資料にはっきり出ている。中国は現に戦争をしかけている相手。その中国に敵対されるのは当たり前。イギリスとの貿易がピークだったのは1939年。そこから日本のGDPは下降、金がなければ「売ってくれない」。オランダとは日米開戦の41年4月まで貿易交渉が続けられ、物によっては日本が要求した以上に売ってくれていた。石油も別枠で200万トンくらい輸入していた。オランダはヨーロッパで戦争中、戦略物資のスズなどは要求の30%くらいしか出せない。それが気に入らんと、日本側から交渉を打ち切っている。そうしておいて「南部仏印(ベトナム南部)」に進駐。それをやるとアメリカは「石油を禁輸にする」と言っていた。分かってやったことだ。「包囲されたから」というのは、勝手な言い分だった。
防衛庁編纂資料に交渉経緯、数字も含め生で出ている。自衛隊におり、そういうことに触れる機会があった。事実、出所を知っているとネトウヨとの論争に便利だよ。
―安倍首相の米議会演説は、アジアに謝罪せずアメリカにおもねるものでした
歴史の事実を知らず、知ろうとせず、史実を捻じ曲げてはならない。中国が1ミリも日本の領土を侵したのではない。こちらが一方的に侵している。侵略戦争だったと認めるところから始めるのは当然だ。ネトウヨなどは南京事件と通州事件(注1)をすり替え一点突破、全面展開というやり方だ。
謝罪する相手が違う
アメリカの一方的正義の押し付けには疑問を感じる。原爆や空襲は明らかに戦争犯罪だ。それを「過ちを繰り返すまい」という哲学に昇華して、「やった、やられた」という限界を乗りこえてきた。それによってアメリカの戦争犯罪をあいまいにしてきた側面があるのは残念だ。
安倍さんは「中国、韓国、アジアに負けたのではない。アメリカに負けた」と考えている。アジアに対しては侵略戦争、アメリカとは「対等の立場からの戦争」であり、お互い強盗戦争だったのだからアメリカに謝ることはない。「ごめんなさい」を言う相手を間違っている。
―元自衛官として、いまの国会論戦をどう見ますか
大義なき戦争は無理
先日、渡邊隆・元陸将が、あるシンポジウムで「日本防衛のために(自衛隊員が)命をかけるのは当然」とおっしゃった。しかし、「他国のために死ぬことは」という質問には「納得できません」と答えた。自衛隊員の立場からは、それがいちばん共通する気持ち。
「リスクが増す」という反対論は通用しない。どんな場合もリスクはあるし、自衛隊員はみな「危険を顧みず」と宣誓している。自衛官は、そう教育され覚悟もある。命をかけるに値する大義と名誉があるのか。集団的自衛権では対テロ戦争に参加していくことになる。危険だから尻込みじゃなく、なぜ危険をおかさねばならないのか意味が分からない。むしろ日本国民をテロの危険に追いやることになる。隊員は命令には従う訓練、教育をされている。口では「行く」と言うだろうが、家族があり命がかかる。
命をかける価値観の源泉としては、天皇制に代わるとすれば自由とか民主主義か。しかし「憲法を変える」が党是である自民党政権に、自衛隊内の憲法教育はない。「国を守る」意味、なぜそれが崇高なのかもない。大義、使命感がなくて戦争はできない。「自由と民主主義」は侵略戦争にも使われるから、「国土防衛」がいちばん妥当ではないか。
米艦船を守るのが目的
集団的自衛権の問題点の一例。「避難してくる日本人を乗せたアメリカの艦船を防衛」という場合、守るべき対象は何なのか。乗っている日本人を守るという場合は海上警備行動、つまり警察行動あるいは個別的自衛権で、いまでも可能だ。アメリカの艦船を守るというなら、集団的自衛権になる。
安倍さんは「日本人の乗ったアメリカの艦船」と、2つの要素を混同させてごまかしてきた。法案が出てきて分かったのは守る対象は日本人ではなく「アメリカの艦船」だった。「自分の武器を守るための武器の使用」は、これまでも認められてきたが、今度は「米軍の武器を守る武器使用」が可能となる条文が作られた。「日本人が乗っている」という条件は存在しない。枕詞に過ぎなかった。
「他国に対する攻撃で自国の存立が脅かされる、そういう事例が国際社会でこれまでにあったか」という国会質問に、政府は答えられず「調査する」と答弁。調べた結果は1例もなかった。絵空事だ。
武力行使の新3要件はウエブスター基準(注2)で考えても、とんでもない。これまでの武力行使の3要件はその規準だった。それで防げた戦争は180年来、一度もない。その上、新要件は「攻撃されているのは他国」。さらに「波及してくるかもしれないおそれ」の段階で発動できる。攻撃されていないのに発動、先制攻撃だ。正当化する理屈は後からどうにでもなる。11法案が通れば「武力行使に限りなく近い武器使用」となる。
―「自衛隊は合憲」という泥さんの護憲論、戦争法案反対論とは?
憲法は全体として矛盾のない体系のはずだ。矛盾した体系・内容があってはならない。憲法9条と13条の国民の生命、財産権などを守る国の義務ということが相反するのならおかしい。9条が国、国民を防衛する権利を否定しているなら、国民の生命、財産権などの13条と矛盾する。9条は日本の防衛を認めているのか認めていないのか、私はそういう関係性で考える。
護憲派の自衛隊合憲論
非武装中立が正しいという人がいていい。しかし、これまで改憲派、護憲派双方から憲法が欠陥品であるかのようなイメージが広められてしまった。集団的自衛権はもとより、改憲国民投票まで持ち出されようとしている。改憲の動きに止(とど)めをさしたあと、じっくり丁寧に議論していこう。
本を出したのも改憲に突き進む動きに対抗するため。非武装中立派の人たちと論争するためではない。ある地方議員から「自衛隊は憲法違反だと思うが」と質問され、「護憲・合憲論」と答えた。「あなたがたが政権に就いたとき、自衛官に『きみたちは違憲。だけど日本が攻められたときは命をかけ戦え』と言うの」と尋ねたら、苦笑いしていたけどね。自衛隊員はやっていられないだろう。政権交代はあった方がいい。そのときどういう判断をするか。リアルに考えておかなければ。
私は専守防衛論。憲法9条が非武装中立か専守防衛かということは、現段階ではそんな大きな問題じゃない。いまは安倍さんの戦争法制、改憲を押し返すこと、安倍政権を倒すこと。大事なのはやっぱり「戦後70年の平和主義」です。その日本のありようが実際に世界に貢献できてきた。
例えば今年2月チュニジアで新政権が成立した。そのとき憲法制定、選挙の過程で日本が支援を要請された。日本だけで支援して欲しい、国際機関も、欧州諸国もいらないと。戦争に加担せず、紛争を平和に導き未然に防いだ戦後憲法のもとで培われた国風、作風。そこに信頼が得られている。どのような政権であれ、外交も憲法から逸脱して行動できない。いまの政権がどうであれ。それが日本国憲法の力。それをドブに捨てようというのが安倍政権じゃないか。日本だけじゃなく世界の平和と安定を台無しにしようという安倍政権。これは許せんですよ。
(注1)通州事件
1937年7月、中国・通州(北京の東、約12q)で中国人部隊が日本軍、居留民を襲撃。220人超が殺された。背景には盧溝橋事件や関東軍による中国軍爆撃などがあった。
(注2)ウエブスター基準
1837年に英米が小規模な武力紛争。その際、正当防衛=容認できる武力行使の要件、「急迫の侵害があり、武力行使による対抗しかない。しかし最小限でなければならない」と合意した。
どろ・のりかず
1954年、姫路市生まれ。中学校卒業後、陸上自衛隊少年工科学校へ入学。陸自に入隊、高射特科部隊でミサイルの整備を担当。1978年から会社経営など。安倍内閣による武器輸出3原則の撤廃、集団的自衛権の容認に対し「自衛隊に海を渡って戦争をさせてはならない」と、各地で集会やデモに参加している。著書『安倍首相から「日本」を取り戻せ』(かもがわ出版)。
6面
寄稿
戦後70年と〈天皇〉 連載 B
沖縄をアメリカに売った張本人
今その後継者が立ちはだかる
隠岐 芳樹
安倍首相は国会で「ポツダム宣言を読んでいるか」と質問されて、「つまびらかには読んでいない」と答えた。
ポツダム宣言とは第2次大戦の末期に、連合国が日本にたいして戦争終結の条件と戦後処理の方針を示し、無条件降伏を勧告した宣言である。1945年7月26日、ドイツのポツダムでトルーマン(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ連)の3首脳が会談してとりきめたものだ。
宣言の要旨は@日本軍国主義の駆逐、A「新秩序」が建設されるまで連合国が占領、B日本の主権を主として本州、九州、四国、北海道に制限、C戦争犯罪人の処罰と民主主義的傾向の復活強化、D再軍備の禁止、などである。
広島・長崎の悲劇は「国体護持」の犠牲
日本政府がポツダム宣言を受諾したのは、19日後の8月14日であった。それまでの間に、広島と長崎に核爆弾が投下された。沖縄では米軍の猛攻と「皇軍」による住民への集団「自決」の強制が続けられた。
ポツダム宣言が通告されたとき、すでに日本の敗戦は誰の目にも明らかであった。拡大の一途をたどった戦線では、「転進」(撤退)と「玉砕」が相次いでいた。1931年に始まった15年戦争の中心は日中戦争だが、そこでも5月末以降、「皇軍」の敗北は決定的になっていた。
国内では東京や横浜、名古屋、大阪、神戸をはじめほとんどの都市が、米軍の空襲で焼け野原と化していた。生産と流通は完全にマヒしていた。7月3日の「明治天皇祭」でさえ、国旗を掲げる家はなくなっていた。ポツダム宣言は、戦争継続能力を失っていた日本に、連合国がつきつけた最期の引導だったのである。
ではなぜ、天皇をはじめとする支配者たちはポツダム宣言の受諾を19日間も引延したのか。ポツダム宣言が天皇制を核とする国家体制(国体)について、全く触れていなかったからである。
支配者たちは天皇制の存続(国体護持)を、ポツダム宣言を受諾するうえで絶対的条件としていた。それをどのようにして連合国に認めてもらうかの一点をめぐり、天皇とその側近、首相や外務大臣、軍首脳らが延々と会議を重ね、いたずらに時間を費やした。国民は全く蚊帳の外におかれ、何も知らされていなかった。新聞各紙は政府の指示に従い、ポツダム宣言について目立たないように小さく伝え、論評も加えなかった。そうしている間にも、内外の民衆の一人ひとりの命が消えていったのである。
決定権を持っていたのは天皇である。ようやく、天皇の裁可を得て近衛文麿(公爵、元首相)が天皇の親書を携えてソ連に赴き、アメリカなどへの仲介を依頼するという方針が決まった。しかしソ連はすでにヤルタ会談(注)で、アメリカとイギリスに対日参戦を約束していた。
(注)1945年2月、クリミア半島のヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ3国首脳が、対独戦終結とソ連の対日参戦について秘密協定を結んだ会談。
この情報は日本に入っていなかった。しかし外務省はソ連の仲介に否定的で、陸軍はソ連の対日参戦は時間の問題と見ていた。それなのに、あえて対ソ交渉を選んだのは、何としてでも天皇制だけは守り通そうとしたからである。もちろん、ソ連は仲介を拒否した。
民衆の生命より国家が第一の棄民政策
この間、陸軍は本土での決戦を主張し続けた。そのため議論が空転し、支配層の意見がなかなかまとまらなかった。しかし「本土決戦」も天皇制を守るための手段であって、支配層内部の対立は本質的なものではなかった。彼らは、天皇制が崩れれば日本という国が保てなくなってしまうという共通の認識の上に立っていたのである。
この時期の天皇や側近、皇族、重臣、軍首脳らの発言や日記、メモなどのどこにも、広島、長崎、沖縄の惨状について触れているものが見当たらない。家を失い食を求めて生死の境をさまよう民衆の姿についても論じられていない。民衆に目を向けたのは、ようやく政府や軍部への不信や恨みが落書きや投書にあらわれるようになってから、それが治安の悪化に発展することを恐れた場合だけであった。
政府はさまざまなチャンネルで連合国側の意向をさぐった結果、アメリカが天皇制を存続させる方針であるという情報を得た。そこで政府はようやくポツダム宣言を受諾することを決め、8月14日、その旨を連合国側に伝えるに至った。
一方、依然として米軍の空襲が日本列島の各地で続いていた。8月14日、大阪は最後の猛空襲を受け、「東洋一の軍需工場」を誇る大阪砲兵工廠が壊滅した。この日、動員学徒による義勇戦闘隊の結団式が行われたが、彼らを含む1000人以上もの人びとがこの空襲で惨死した。広島、長崎、沖縄と同様に、支配階級が天皇制の存続にしがみついた「国体護持」の犠牲であった。ここに、自分たちの権力を維持するためには民衆の生命を全くかえりみない棄民政策がハッキリ示されている。
8月15日正午、天皇がラジオをとおして「終戦」の詔書を朗読した。この「玉音放送」のなかには、邪悪な侵略をしたことへの反省の言葉は一つもなかった。中国との戦争については一言半句も言及していない。依然として「神州不滅」を謳い、「国体」が護持されたから、新日本建設のために天皇に協力せよと、「臣民」に号令しているのである。
原発推進に引き継がれた責任回避の体系
ポツダム宣言の通告を受けてから受諾するまでの過程や「終戦」の詔書は、無責任の体系、責任放棄の論理で貫かれている。「国体護持」とは、天皇を頂点にいただく日本の支配階級の無責任、責任回避の体系を守ることを意味していた。
その無責任の体系は、現在にまで生き延びている。原発をめぐる政府や自治体(一部を除く)、電力資本、原子力規制委員会のタライ回し的な責任回避の言動に、見事なまでに引き継がれている。天皇や皇后の福島被災地の慰問セレモニーは、この無責任な支配構造を覆い隠すためのイチジクの葉にすぎない。
1947年9月、宮内庁御用掛の寺崎英成が連合国軍最高司令官マッカーサーの政治顧問シーボルトを訪ねた。沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるためである。そこで天皇は、「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。アメリカによる軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与をするという擬制の上になされるべきである」と表明している。
実はこの天皇メッセージの4カ月前の5月3日、天皇の政治関与を禁じる新憲法が施行されていたのだ。
このころ、極東国際軍事裁判(東京裁判)の審理が継続中であった。アメリカは占領政策をスムーズに実施していくために天皇を訴追しない方針であった。しかし天皇の戦争責任を問う国々は依然として存在し、天皇の地位は国際的に常に問題とされていた。そこで天皇は、米軍による半永久的な沖縄支配と交換に、自らの地位の安泰をはかったのである。これほどの悪質な棄民政策があるだろうか。
アメリカが沖縄を本土から切り離して長期にわたって軍事占領をすることができたのは、天皇の協力があったればこそである。現在もなお沖縄が米軍の最大の侵略拠点として機能し、県民にどれほどの苦痛を与えているかと考えたとき、天皇メッセージにたいする怒りがこみあげてくる。
一昨年の4月28日、沖縄のペテン的な本土復帰41周年を祝賀する式典が、多くの沖縄県民の反対を押し切って、東京の憲政記念館で開かれた。その席上、安倍首相は列席していた天皇・皇后に向かって「天皇陛下万歳!」を三唱した。この日沖縄では、宜野湾海浜公園で政府の式典に抗議する「屈辱の日」沖縄大会が、1万人の参加のもとに開催された。この事実は、天皇が沖縄を始めとする闘う民衆にとって、“バリケードの向こう側”の頂点に君臨する存在であることをハッキリと示している。
昭和天皇は明治天皇を範として、五カ条の誓文を民主主義の鏡とたたえた。それと同様に、現天皇は昭和天皇にたいする尊敬の念と、その政治姿勢に学ぶことをたびたび表明している。
革命家ゾルゲの言葉を深くかみしめよう
以上述べてきた歴史的事実は、本紙の読者にとって常識に類することかも知れない。しかし、辺野古新基地建設を阻止しようと頑張っている多くの仲間に、広く共有された認識となっているであろうか。
もとより、市民運動は具体的な一つの目標を実現するための大衆運動である。可能な限り多くの人びとを結集して、“敵”を社会的に包囲する行動が求められることは言うまでもない。しかしそれと同時に、問題の本質的な解決、究極の勝利のためには、その歴史的背景と、その闘いが階級闘争総体のなかでどのような位置を占めているかを、大衆的に明らかにすることが欠かせない。
ひるがえって1930年代初頭には、労働運動が戦前のピークを迎え、ストライキが続発した。農民は各地で武装して、地主や警察と激しく対決した。しかし次第に各個撃破されて、戦争体制にのみ込まれていった。
卓越した革命家でありオルガナイザー、学者でもあったリヒアルト・ゾルゲは、30年代の日本の農村をつぶさに現地調査して、日記につぎのような言葉を残している。「すぐれたプロパガンディスト(宣伝家)がいたら、今のように軍部が大きな顔をしてのさばってはいられないだろう」と。
〈沖縄〉や〈広島・長崎〉〈反原発〉の闘いのなかで、天皇(制)が果たしてきた、そして今も果たしている役割を、広く大衆に向けて、わかりやすく、ていねいに、繰り返し訴え、浸透させていくこと。そして、個別課題をめぐる一つひとつの闘いを横につなげていくことが重要ではないだろうか。社会を根本から変革しようとする者に、今、そのために努力することが求められている。