未来・第169号


            未来第169号目次(2014年2月5日発行)

 1面  米帝の空爆支える安倍外交
     「イスラム国」人質事件の原因

     沖縄の民意無視するな
     国会を人間の鎖で包囲
     1・25

     1月辺野古現地レポート
     工事許さぬ抗議行動     

 2面  沖縄現地に呼応して
     広がる大阪アクション

     超党派一〇〇人の議員
     シュワブ前の抗議に参加
     1・24

     守れ!経産省前テント シリーズN
     公園・広場は行動と表現の場

 3面  南相馬 避難地点解除・説明会(12月21日)
     「一方的にこんなやり方はないよ」(上)
     請戸 耕一      

 4面  シリーズ 新成長戦略批判〜D
     農業改革は必要か?(上)
     「自由競争」こえる協同

     (本の紹介)
     マネーに頼らぬエコ生活から
     『里山資本主義』
     藻谷浩介・NHK広島取材班

 5面   阪神大震災20年周集会
     “生きる権利・働く権利”      

     投稿
     朝日・「慰安婦」バッシング
     植村元記者迎え300の集会
     1・24

 6面  視座
     アラブの春と「イスラム国」(上)
     米帝の中東政策支える安倍
     速見 賢三      

             

米帝の空爆支える安倍外交
「イスラム国」人質事件の原因

中東のシリアとイラクにまたがる地域を制圧している「イスラム国」は、1月20日に後藤健二さんと湯川遙菜さんの日本人ふたりを人質にとって、日本政府に身代金2億ドル(約236億円)を要求する動画を公開した。24日には、湯川遥菜さんを殺害したとする写真をもつ後藤健二さんの映像を公開し、ヨルダン当局が収監しているサジダ・リシャウィ死刑囚の釈放を要求。27日には、リシャウィ死刑囚を24時間以内に釈放しなければ、後藤さんと「イスラム国」が拘束中のヨルダン軍パイロットを殺害すると通告した。
今回の日本人人質事件では、安倍政権に重大な責任がある。事件の直接のきっかけとなったのは、17日、安倍がエジプトで「イスラム国と闘う周辺各国」を支援するために、イラクやレバノンに2億ドルを拠出することを表明したことだ。今回の安倍の訪問先は、エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナであったが、ヨルダンは米軍とともに「イスラム国」空爆に参加している。日本政府があとづけ的に言う「人道支援」という説明はまったく説得力がない。
また安倍は、昨年5月の中東訪問で、イスラエルのネタニヤフ首相と共同声明を発表した。その内容は、「日本の国家安全保障局とイスラエルの国家安全保障会議間の意見交換」「サイバーセキュリティーに関する協力」「両国の防衛協力、防衛当局間の交流拡大」などであり、事実上の軍事協定ともいうべきものである。この2か月後、イスラエル軍はガザ地区に侵攻し、パレスチナ側の民間人1400人以上を殺害したのだ。こうしたアラブ・中東人民に対する敵対的な外交政策が今回の「イスラム国」による日本人人質事件を引き起こしたのだ。
22日、米国務長官ケリーがロンドンで「イスラム国に対する空爆で数千人を殺害した」とその「成果」を強調した。「数千人」の中には多くの民間人が含まれていると見て間違いない。この恐るべき「大量殺人」を全面的に支援していくのが安倍の唱える「積極的平和主義」の正体である。日本政府は中東人民を殺りくする米軍・有志連合への協力をやめよ。(6面関連論文)

沖縄の民意無視するな
国会を人間の鎖で包囲
1.25


1月25日午後2時から、「国会包囲ヒューマンチェーン 沖縄の民意を無視するな! 辺野古に基地は作らせない!」行動がおこなわれ、7000人が集まった。主催は実行委員会(写真)
はじめに、沖縄・辺野古現地から、山城博治さんが電話でアピール。「国会包囲行動に連帯して、キャンプシュワブ・ゲート前で座り込みを続けています。機動隊や海保の暴力と対決して頑張っています。民意を無視し、憲法も人権も破壊して戦争国家へ突き進む安倍政権を許さず、ともに闘いましょう」と力強い訴えがおこなわれた。
つづいて、昨年の衆院選で、沖縄の小選挙区すべてで自民党候補を破って当選した4人の国会議員が、辺野古新基地建設を許さない決意を表明した。
沖縄出身で関東在住の学生は「昨日まで現地にいました。連日激しい闘いが続いています。沖縄は戦後70年、基地はいらないと訴え続けてきました。本土の皆さんは、この訴えにどれだけ答えてきたのか? そのことが今、問われていると思います。今日のような行動をまたやりましょう。辺野古現地にも足を運んでください」と語った。
辺野古にカヌーを送る会は、「私たちは、カヌー9艇をはじめさまざまな物資を辺野古に送り続けてきました。沖縄戦で塗炭の苦しみを押しつけ、基地を押しつけ、基地反対闘争を押しつけてきたヤマトの歴史をひっくり返しましょう。オール沖縄の闘いに学びながら、力強い運動を作っていきましょう」。
ゆんたく高江は、「高江では、24時間の座り込み監視行動でヘリパッド工事を止めています。国は工事現場に続く道路の路肩を米軍の敷地にして、座り込みの排除を狙っています。各省庁に対する抗議・申し入れをおこないます。ともに闘いましょう」。
さらに、糸数慶子参議院議員、鎌田慧さん、米兵による暴行被害者のキャサリンさんなどのアピールが続いた。
3時15分と3時半の2回にわたってヒューマンチェーンがおこなわれ、国会と安倍政権を見事に包囲した。

1月辺野古現地レポート
工事許さぬ抗議行動

稲嶺進市長(写真中央)もキャンプシュワブゲート前の座り込みに参加(1月14日 名護市)

1月10日、工事再開をめぐる攻防が始まった。キャンプシュワブ・ゲート前にはテントが張られ24時間の監視体制が強化された。全国から多くの人が駆けつけ始めた。高校生・大学生はじめ多くの若者が泊まり込みに結集している。
15日から始まった海上作業に、海上抗議団は抗議船4隻、カヌー25艇で決起した。海上保安庁は巡視船13隻、ゴムボート30数艇、監視船10数隻を動員し、連日カヌー隊を拘束している。15日19人、16日21人、16日には暴行により肋骨骨折全治3週間のけがを負わせた。17日には午前、午後合わせて28人が拘束された。連日の拘束と暴行が続いている。19日には女性に1週間の打撲、20日には「圧殺の海」の監督が馬乗りにされカメラを奪われそうになった。
ゲート前では、連日の座り込みに機動隊の暴行が続いている。15日、80代の女性1人が頭部打撲で救急車搬送。21日、60代女性2人が頭部打撲で救急車搬送。
海上とゲート前で激しい攻防が続く中、「島ぐるみ会議」は那覇から連日のバス動員を決定。その他不定期で沖縄市、うるま市、名護市からもバス動員を決定。県選出の国会議員、県議会議員、市町村議会議員は22日50人、23日50人、24日100人が決起した。しかし、防衛局は工事をやめようとしない。

重機を搬入

23日、ゲート前での議員団の抗議が終了し、議員団が帰った11時ごろ、突然機動隊150人がゲート前の国道を封鎖した。抗議の市民は片隅に追いやられた。名護方面から重機を積んだトラック6台がゲートめがけて疾走してくる。市民は機動隊の壁を突き破りトラックの前に突入する。機動隊は一人に数人がかりで排除にかかる。市民は排除されてもまた突入する。周りは騒然とし怒号が飛び交う。交通はストップする。30分にわたり機動隊との激突が続く。トラックは1台また1台とゲートに入っていく。市民の怒りは頂点に。機動隊の壁に向かって、おじぃ、おばぁは怒りをぶつける。6台のトラックはゲートに入り封鎖は解除された。この攻防で打撲や擦り傷のけが人が多数出た。
ゲート前テントには、市民からの差し入れが連日続いている。
24日には女性や子どもたちがムーチーを作り座り込みの市民100人にふるまった。そして、女性たちはゲートのフェンスにムーチーをつるした縄を張って、鬼(沖縄に居座る軍事基地こそが鬼)払いの祈りをささげた。
25日、東京での辺野古新建設阻止「国会包囲ヒューマンチェーン」に合わせ、2時と3時にキャンプシュワブ・ゲート前で100人が人間の鎖をつなぎ新基地建設反対の連帯を確認した。

深場でのボーリング調査

26日、翁長知事は「第三者委員会」を設置した。防衛局に対し検証が終了するまで作業を中止するよう求めた。また、知事は沖縄県警、海上保安庁に、けが人が多数出ていることに対し注意を申し入れた。海上では立ち入り禁止区域(陸より2キロメートル)のフロートとオイルフェンスの設置が終了した。
27日、朝7時クレーンを備えた作業船2隻やコンクリートブロックなどの資材を積んだ船、あわせて5隻がフロートの中に現れた。前回のフロートは台風により流されている。今回は流されないように、フロートをコンクリートブロックで固定した。ブロックを一定の間隔で海底に沈め固定するのだが、それは珊瑚の破壊を意味する。その重さは全体で40〜50トンと言われている。そして、大型台船の導入により深場でのボーリング調査が始まろうとしている。
前日の翁長知事の申し入れをあざ笑うかのような工事の強行に、市民は心底から怒り、抗議に決起した。大浦湾の作業が見渡せる場所に結集し、怒りのシュプレヒコールを上げた。稲嶺市長は「国は沖縄県民の民意を全く無視して物事を進めているように思う」と怒りを表した。
安倍政権のなりふり構わぬやりかたに、沖縄県民はじめ全国からの怒りを結集し、辺野古新基地建設を阻止しよう。(2面に関連記事)

2面

沖縄現地に呼応して
広がる大阪アクション

西梅田までデモ(1月22日 大阪市内)

1月22日、午後6時30分より大阪中之島公園・水上ステージで「沖縄・辺野古の海を圧殺するな! 大阪アクション」が開催された。主催は「STOP! 辺野古新基地建設 大阪アクション」(呼びかけ団体12団体)。この日は、日中は本降りの雨、集会時には小雨模様という悪天候であったが250人の参加があった。
沖縄現地では工事再開をめぐって緊迫した状態が続いている。1月10日夜から11日未明にかけて工事資材搬入が強行され、「またも夜中に搬入か」と現場にかけつけた市民が抗議し警察と激しいもみ合いになった。また15日未明には「資材搬入か」と、かけつけゲート前に座り込んでいた市民に対して警察が暴力的にごぼう抜きにするという強硬手段に出た。
安倍首相や主要閣僚は、昨年11月県知事選以降、誰一人として翁長新知事と会おうとせず、さらに沖縄の意志が強く示された昨年総選挙で沖縄全選挙区での自民党敗北という「民意」を踏みつけにして新基地建設を強行している。しかも、翁長知事が「県の埋立承認」に関して検証委員会を設置し、その結果が出るまで新基地建設工事を中止するよう求めているにもかかわらずだ。絶対に許せない。
集会では、まず最初に〈辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動〉の仲間が発言、続いて〈ジュゴン保護キャンペーンセンター〉、〈辺野古の海に基地をつくらせない神戸行動〉、〈秘密保護法廃止! ロックアクション〉、〈釜ヶ崎日雇労働組合〉、〈沖縄意見広告運動・関西事務所〉、〈「しないさせない! 戦争協力」関西ネットワーク〉の各団体から力強いアピールが発せられた。
大阪行動の仲間は「明日、再度辺野古に向かう。前回、生まれて初めて沖縄を訪れ、辺野古の闘い参加し、知事選の勝利を確認してから帰って来た。ところが帰ってから海上保安庁や沖縄県警の弾圧が強まっている。悔しくてならない。残してきたものがあるので再度辺野古へ行く」と力強く決意を述べた。
今回、新たに呼びかけ団体に加わった神戸行動は6人が登壇し、今年から神戸の三宮で毎週土曜日に街頭宣伝をおこなっていると報告、ギター演奏を披露した。
沖縄意見広告運動からは、「2月21日予定の集会で、安次富浩ヘリ基地反対協共同代表の講演がある。辺野古現地に連帯ユニオンから組合員を交代で派遣している。ゲート前攻防や海上攻防での海保や県警との激突で当該組合員がケガを負ったらしいが、この組合員は交代を拒否して最後まで闘うと言ってきている」との報告があった。会場で呼びかけたカンパは7万3千円余りが集まった。
集会後、デモに出発。雨もあがり、大阪駅近くの西梅田公園まで「新基地建設絶対反対」「工事強行弾劾」の力強いシュプレヒコールを繰り返し、道行く人々に闘いを呼びかけた。

超党派一〇〇人の議員
シュワブ前の抗議に参加
1.24

「沖縄戦・被爆70年〜被爆ピアノ・コンサートin沖縄」に同行した。平和の礎、名護市、読谷でのコンサートの合間、わずか数時間だったがキャンプ・シュワブのゲート前座り込み行動に参加した。
名護市長選、市議選、県知事選、総選挙と沖縄の民意はすべて「新基地建設にノー」を示した。しかし周知のとおり安倍政権は、それをことごとく踏みにじり、建設にむけた工事を強行している。座り込みに参加し、あらためて沖縄の怒りの深さ、重さ、激しさを見る思いだった。何十年このような抗議・要求を続け、踏みにじられてきたのか。確かに政治の問題ではあるが、それを超える「人間として生きる」ことを根源から否定するものが、ここにある。
この日(1月24日)は、議員団総行動の3日目だった。前日の約50人に続き、朝8時から沖縄各地からの超党派市町村議員約100人が集まった。座り込む市民100人に加え、ゲート前は200人に膨れ上がった。1月15日以降、工事資材搬入などに対する阻止行動、海上カヌー隊に対する県警機動隊、海保の暴行が頻発している。「肋骨や指を骨折させた。絶対に許されない」「女性カメラマンに馬乗りになり暴行。それを海保11管区の次長は『最低限許される行為』という。こんなことが許されますか」という声。「きょう来ることができなかった者も、次は来ます」「もっと広げ、ローテーションを組む」など発言が相次いだ。8時から1時間の予定だった議員団集会は10時まで続いた(写真)
ついで沖縄市、那覇市からバス2台が到着。ゲート前は300人規模になった。日焼けしヒゲが伸び、声も嗄れている平和運動センター山城博治さんは、すさまじい気迫。「みなさん、どんどん広がっていますよ。私たちは負けることはない。このような行動は、長引けばいいというものじゃないが、どんなに長くなっても勝利する」。発言の間にカチャーシーを舞い、「沖縄を返せ」「一坪たりとも渡すまい」「月桃の花」と歌も続く。そして資材搬入口からゲート前を練り歩くデモへ。この日午後は、前の道路を駅伝競走が走るとのこと。「午前中を持ち堪えれば、資材搬入の大型車両は通行できない」という発表に、むしろ緊迫の毎日を思った。
昼前から陽射しが強くなり暑かったが、夜のテントは冷え込む。ストーブやカイロを差し入れる人。ずっと現場からトイレへの送迎をする何人かのドライバー。差し入れのクッキーを配る人。一人の女性は走る車に「NO! BASE」のボードをかかげ続ける。手を振る車があり、無視する車もある。ボードは車へのアピールだろうが、人と車の危険を避けるためにスピードを落とさせる行為でもあるようだ。それぞれの人々が自分で駆けつけ自分で行動している。半日の合流だったが、当たり前の行為に参加できた。フェンスに貼られた「以下の行為は、日本国の法律により罰せられる」という警告板が何になろうか。安倍政権と米軍は、この人々に心底畏怖するしかないだろう。 (武)

守れ!経産省前テント シリーズN
公園・広場は行動と表現の場

昨年12月3日の第9回口頭弁論で村上正敏裁判長は、弁護団からの証拠・証人調べを却下し、闇討ち的に結審を宣言した。弁護団は裁判官3名の忌避を申し立て、これにより裁判手続きは現在停止している。
弁護団は次回以降@インキャンプメント(主権者宿営権)論、A生存権論、B参政権・請願権論、C表現権論(パブリックフォーラム論等)、D抵抗権論、E訴権濫用・スラップ訴訟論、F組合論・訴訟形態論などの主張を展開する予定だった。このテントひろばが主張する公共空間「パブリックフォーラム」論は非常に重要な主張であり、2012年10月17日の「JR大阪駅前街宣弾圧」と同様、人民の闘う場所と権利を守りぬくための論理であり、より深化する必要がある。

公園とは

日本で公園が作られるのは江戸時代であるが、公園制度は1873年の「太政官布達第16号」に始まるとされる。とはいえ、当時の日本には公園でなくても至る所に緑地・広場があり、「公園」を対象化する必要もなく、官による「欧化政策」のひとつであった。
100年前に、幸田露伴は「公園は都市の肺臓であり、市民の精神の洗濯場、市街の空気の転換場だ」と書き、1930年代の公園の定義は「1日の生活に疲れた人々が休養し、明日の活動の力を蓄える場所のひとつ、また、新しい空気と輝いた日光を求めて訪れる場所であり、都市生活の大切な、健康に必要なもの」(内務省衛生局)とされた。
『公園づくりを考える』(1993年)の中で、進士五十八さんは「公園は適正な方法で囲繞感を与えて、人々の心に安定感を与える空間、都市の公園は安らぎとくつろぎの世界を作るのが主目的」と述べ、建築家キャサリン・E・フィンドレイは「ヨーロッパでは、公園は『都市の肺』といわれています。公園の緑は都市の大気を浄化するだけではなく、都市生活に疲れた人々の精神も癒やしてくれるからです」と主張している。

公園のもうひとつの顔

『近代日本公園の研究』(丸山宏著1994年)によれば、「近代日本において、公園とは国家あるいは民衆の意思表示の場である」「大正デモクラシー期の公園は政治性を帯び、公園なくして民衆のエネルギーのはけ口はなかった。大正デモクラシーは公園とともに成長した」と展開している。
具体的には、1905年日露戦争直後に、東京日比谷公園での「日露戦争講和反対国民大会」を皮切りに、中之島公園(大阪)でも、氷川公園(大宮市)でも同様の大会が開かれた。06年3月には日比谷公園で電車運賃値上げ反対集会が開かれ、08年には日比谷公園で普通選挙要求大会を開催しようとしたが、当局によって使用が禁止された。13年には憲政擁護大会が日比谷公園、中之島公園、円山公園(京都)で開かれ、14年山本内閣弾劾国民大会が開催された。
1918年富山県魚津から始まった米騒動は、各地の公園を拠点に急展開し、寺内内閣を打倒し政党内閣(原敬)を生み出した。翌19年には普選運動に発展し、ここでも日比谷公園は民衆の闘いの拠点になり、20年の第1回メーデーは上野公園で開かれ、22年普選を求めて数万の民衆が国会に押し寄せると、警察は日比谷公園を閉鎖した。民衆の闘いはうねりを増し、25年普選法を可決した。
公園は社会運動と深く結びついており、諸外国でも、1919年韓国のパゴダ公園(タプコル公園)は「3・1独立万歳運動」の拠点になった。最近では、エジプト・カイロのタハリール広場、トルコ・イスタンブールのゲジ公園、ニューヨークのズコティ・パーク(オキュパイ運動)に民衆が結集し、公園には社会変革のエネルギーが渦巻いた。広場や公園は日々の労働での疲れを癒やすための顔と、社会を変えるための結集の場というもうひとつの顔を持っている。

公園・広場を渡すな

パブリックフォーラムとは一般公衆が自由に出入りできる道路、公園、広場などの「表現のための場」として役立つ物理的な場所をさす。今回の経産省前テントひろば明け渡し裁判は、公園・広場利用の主体を民衆から奪い去ろうという邪な考えから発している。絶対に粉砕しなければならない。経産省前テントひろばは反原発の闘う拠点であり、福島原発事故で住むべき家を失った人々のよりどころである。原発被災者との連帯にかけてテントひろばを守りぬこう。       (S)

参考文献:『パブリックフォーラムって何? どこ?』(関西大弾圧救援会・がれき弾圧救援会 300円)

3面

南相馬 避難地点解除・説明会(12月21日)
「一方的にこんなやり方はないよ」(上)
請戸 耕一

「特定避難勧奨地点は、健康影響に配慮して、生活形態によって年間20ミリシーベルトを受けるおそれがある地点に注意喚起をおこなったものですが、市の除染等により大幅に線量が低下し、現状では健康影響の懸念は考えにくい状況となっていると考えております。
こうした事実は、逆に、内外にきちんと、線量が下がっているというところを伝えていかなければいけないと思います。それが南相馬、ひいては福島県全体の風評被害からの脱却、復興の本格化のためにたいへん重要であると考えております。
国としては、こうした状況を総合的に判断して、1週間後の12月28日に特定避難勧奨地点を解除することとさせていただきました」

高圧的な口調でと特定避難勧奨地点解除を通告する高木・内閣府原子力災害現地対策本部長
(12月21日)

昨年末の12月21日、「南相馬市の特定避難勧奨地点に関する住民説明会」が開催され、高木陽介・内閣府原子力災害現地対策本部長(経産副大臣、公明党、比例東京ブロック)は、このように切り出した。住民に向かって説明している高木本部長の態度は、きわめて高圧的であった。
国は当初、昨年10月中の解除を検討していた。しかし、住民の反対の声が強く、特定避難勧奨地点のある行政区の区長らも団結して動き、10月には東京で反対集会や記者会見、国への申し入れがおこなわれた。また、指定解除に反対する地域の署名が呼びかけられ、地域で1210筆も集まった。こうした力の前に、国はいったん解除決定の延期を余儀なくされた。
だから今回は、何がなんでも決定を押しつけるという姿勢で乗り込んできたわけだ。それが、高木本部長の態度にも表れているのだろう。
そもそも、この日は朝から異常だった。この住民説明会の開催が住民に通知された段階では、「解除」に関して何も触れられてはいなかった。ところが、説明会当日の朝、NHKのニュースが「12月28日に解除」と流す。住民にとっては寝耳に水だ。国が丁寧に説明し、住民がそれを受けて、納得を得たところで進めるという手続きを、いっさい放棄したやり方だ。頭ごなしに〈国が決めたことだから従え〉とやれば黙るだろうと考えたのだろう。
しかし、説明会の会場は反対一色で、たびたび騒然とした。以下、説明会での住民発言(一部・要旨)を掲載する。

なぜ報道ありきなのか 南相馬市議

われわれ全く理解できませんよ。なぜ朝のNHKで報道ありきなんですか。28日に解除するかどうかは、われわれにきちんと説明して、理解を得た上でやる話でしょ。まずは謝って下さいよ、本部長・・・(同調するヤジ、怒号)。撤回して、ゼロから始めて下さい(拍手)。

住民の理解は得られてない  原町区高倉住民

特定避難勧奨地点の解除にあたって、住民の理解が得られたというような報道がありますけど、はっきり申しますが、住民の理解は得られていません。われわれに真摯に向き合って、継続して理解を求める努力をしてください。
(解除に反対しないという声もあるとの国側の説明に)おっしゃったように、個々に事情が違うんですよ。解除に理解を示しているお宅があるということは、私も初めて知りました。だけど、これは個々の家、地点で違うんですよ。だから、解除するんであれば、そういう風に納得、理解を得られたところから解除していってくださいよ。

本当に情けない思い  原町区大谷住民

私たち、今日、喜んで出てきたわけではありません。でも何も言わないでいても前に進むことができないと思って参りました。
前回(10月の説明会)、私たちが、お願いしたことに対して、(国から)一切の返事はありませんでした。
私たちは、10月から東京や福島へと南相馬の署名を持参してまいりましたが、県の方ではなかなか受け取ってはいただけなかったんです。私たちは、今日の説明会をボイコットしてもいいかなあと思っていました。
今回の説明会の案内状にも納得はしておりません。最高責任者の名前はどこにもありませんでしたよね。私たちをバカにしているんですか。「この場をやり過ごせば、あいつらは何も言わない」と思っているのでしょうかね。本当に情けない思いです。
飯館村では向こうが透けて見えるような除染が行われているのに、私たちの周りは、木の葉をさらって上に土を被せただけというところも多くありました。これでは、除染をしていただいても、(線量が)下がることはないと思うんです。
たとえ解除になって子どもたちが戻ってきても、「道路の両端は線量が高いから真ん中を歩きなさい」って言っても、それは無理です。農地の除染だってまだ始まったばかりで、ほとんどまだされていません。農地や山林の除染が終わった時点で、南相馬の住民全員に被ばく手帳を渡してもいいのではないでしょうか。
私たちは、ただ待っているだけではないんです。一人ひとりができるだけ線量を下げようとしてやっているのに、いきなり、「12月28日で解除です」なんて…。

家の中の方が高いのに 原町区馬場住民

俺の家の周りは、前の家も西側の家も除染していない。東は畑、後ろは田圃。俺のところだけ除染してもだめでしょう。
線量が下がらないで解除するなんて絶対反対。周りの家の除染もやりなさいって、掛川君(原子力災害対策本部・住民支援班)に何度も言ったでしょ。それもしないで解除するなんて。
家の中の線量が高いんだよ。0・8マイクロシーベルトあるんだ。外は0・4マイクロシーベルトなのに。家の中の除染をしてないからだよ。このことも何回も言ってるんだ。これで解除するのかい?

健康影響に不安と嫌悪 原町区大原住民

市の広報に出ている数値でも、原町区大原の数値の方が、小高区の34カ所のモニタリング地点のいずれよりも高いんです。公会堂付近の11月の数字で0・608マイクロシーベルトあります。
家には小学生がいるんですが、大原の自宅には震災後、一度も寝泊まりしておりません。このような状態なのに、賠償では小高区とえらい差が開いております。解除の後3カ月と賠償の期限が決められていますが、どう考えてもおかしいんですよね。不公平です。先ほど国の方で公平にと言われていましたが。飯舘村とかと何が違うんでしょうか。
宅地の中だけ除染していただいていますが、隣接している農地と20メートルほど離れています。東工大の先生方がおっしゃるには、放射線は20メートルから80メートル飛びますと。だから、いくら除染をしていただいても、その農地からくる放射線で高いのかなと。室内で床上1センチを測ると確かに0・1から0・2マイクロシーベルトと低いんですが、50センチ、1メートルのところを測ると高いんですよね。室外と同等の箇所もあって。放射線が飛ぶからだと思うんですが。
10月の説明会で、線量を下げるための清掃・修繕をして構わないということだったので、東京電力さんの立会いのもと、ここまでは費用が出るというラインでやったんですが、領収書を東京電力さんの窓口に持っていったところ、2分の1、3分の1に減額されるんですよね。説明会の話がすでに食い違っています。
それから、子どもたちの健康被害について、確かに実質的な影響があるということは、疫学的にも、科学的にも証明されてないようですので、私たちは、そちらを信じるほかないですが、もしも、私たちの子どもや孫、ひ孫の代で、疫学的な証明をおこなうようなことになってしまうということが起こると考えると、すごい不安を覚えますし、嫌悪感を感じます。
ですので、事故当初から転地療養(保養)をしているんですけども、今後も続けたいと思います。高速道路の実質無料化というのは、特定避難勧奨地点で子どもを持つ家族としては今後とも続けてもらいたいという要望です。

人間としてよく考えてください 大谷行政区長

本部長ね、まだ市長と合意したわけじゃないでしょう。住民の説明もそう。結局、一方的な国の進め方だけで決めてしまうと。あなたたち、言っていることとやっていることが全然違う。住民の意見を聞きながら、市の意見を国に話して、こういうもとでやろうとしているのに、一方的に、こんなやり方はないよ。
再三、言っていることは、地域全体を安全な地域にして、年間1ミリシーベルトはなかなか難しいけれども、ある程度の値までは下げてくれと。せめて空間線量で2・6とか。そうなったら住民もわれわれもある程度リスクを背負いながら、妥協はするでしょうと。そのリスク分は、被ばく手帳を出せというと、被ばく手帳という名はリスクがあるから、それに替わる(健康被害が出たときに医療的な補償を受けられるように)健康手帳を発行して下さいよと。
国の一方的な考え。それもいいでしょ。中にはどうにもこうにもなんないときは決断するときもあるでしょ。ただし、みなさん、目の前にいる(国側の)人たちは人間でしょ。われわれと同じ人間でしょ。われわれの気持ちを読んでくれよ。
それから、いつまでも20ミリシーベルトって、緊急時の値を3年9カ月も過ぎても用いていくんですか。国際放射線防護委員会だって、緊急時は高いけれども、年々下げた値でやりなさいよって指導してるでしょ。それも全然無視。
これでは、住民の方々は、今日このままで強引に本部長の言っていることをやることは決して望んでおりません。あんたたち、人間としてよく考えて下さい。 (つづく)

4面

シリーズ 新成長戦略批判〜D
農業改革は必要か?(上)
「自由競争」こえる協同

大規模専業農家から潰れる

コメの生産と価格の安定のために、これまで様々な助成や交付金が支払われてきたが、現在は「コメの直接支払い交付金」として7500円/10アールが支払われている。恒常的な生産コスト割れ部分を補てんするという考えのもと、2009年に民主党政権時に導入された制度で、昨年までは15000円/10アールだった。「バラマキ」などの批判があったものの、特に大規模な農家にとっては安定した収入が見込めるということで現場に定着しつつあり、それを見越した設備投資を行った農家もたくさんあった。
それが今年になって半額に減額され、2018年には廃止されることになったのである。また同時に国による生産目標もなくして「農家自らの経営判断により生産を行え」ということになったのだ。つまり、これまで国がまがりなりにも再生産可能な収入が得られるよう措置してきたものを、2018年からはそうしたものを一切なくして、コメを完全な市場競争の中へ放り込もうとしているのである。

農家は生き残れない

それでは「農業改革」に従って、より規模を大きくすれば農家は生き残っていけるのであろうか。応えは否だ。コメの交付金が減らされたうえに、自由作付けでコメの大幅需給緩和が起こり、その結果価格が暴落して真っ先に潰れていくのは、これまでそれぞれの地域の土地条件や気象条件を克服し、必死の思いで規模拡大や低コスト生産を実践してきたコメの専業農家なのである。実際この米価暴落で「これ以上やっていけない」という切実な専業農家の声が全国各地で上がっている。
規模拡大や経営努力により農業で成功している例はたくさんあり、そうした経営を目指すことは重要なことだ。しかし、一部のそうした成功事例を挙げて、大半の小規模な農家を「非効率だ」と攻撃するのはとんでもないことである。農家は「農の家」と書くとおり昔からその地で家業として農業をしており、企業とは違って失敗したからと言って撤退することはできない。また、ヨーロッパやアメリカ、オーストラリアを引き合いに出して、「大規模化をすすめて生産コストを下げろ」、「企業的経営をやれ」と叫んでみても、中山間地域が7割を占める日本の土地事情からいっても、日本農業全体をそのように持っていくことは不可能なことである。
安倍政権のいう農業の成長とは、「自由競争の中で勝ち残った者だけでやればいいのであって、負けた者は撤退しなさい」というものだ。これにTPPによるコメなどの関税撤廃が加われば、結果は、ほんの一握りの、条件の良い農地における企業的経営のみが生き残り、農地の大部分、とりわけ中山間地域の農地は放置され、農村には誰も住まなくなる、そうした状況になることは間違いない。

農村コミュニティ

現在の農村社会には、市場原理主義の中で次々と失われていくコミュニティがまだまだ健在である。その根幹にあるのは、太古からのコメづくりを通じた農業の共同作業であり助け合いである。まだまだ農村でコメづくりを続けていくことができるのは、こうしたコミュニティがあるからなのだ。
農村に住み兼業で農業をやってきた人たちのほか、かつて農村を出て企業で働いていた人たちが定年を過ぎて出身集落へ帰り、農業を始める事例もたくさんある。そうした人たちの多くは小規模で、農業で大もうけしようとは思っておらず、「先祖代々の農地を守りたい、余生を故郷で過ごしたい」というものだ。そうした人たちの中には、集落ぐるみで共同で農業を行う「集落営農」を実践している事例もたくさんある。こうした集落や地域ぐるみの取り組みが地道に続けられ、そのことが結果として地域で農業を継続することとなるのである。逆に言えば、こうした農家の人たちの経営によって農村社会は支えられているのだ。
しかしこうした経営も、やればやるほど赤字になるようでは限界があり、実際多くの農家はこのギリギリの線で頑張っているのだ。安倍政権のやろうとしていることは、こうして地域で頑張っている農家と農村社会を潰すことに他ならない。

競争から協同へ

日本に限らず、東アジア、東南アジアのような高温多湿のモンスーン地域では、コメを中心に多様な作物を栽培する自給自足型の水田農業が発達し、それが農村社会を形成してきた。これらに共通しているのは、小規模な家族農業が経営の基本であり、そこには効率化とか合理化だけでは計り知れない、コミュニティという要素が色濃くあることだ。 効率一辺倒の競争社会により、一握りの成功者だけが得をするような社会にしてはならない。 競争ではなく協同なのである。 (斉藤 優)

(本の紹介)
マネーに頼らぬエコ生活から
『里山資本主義』
藻谷浩介・NHK広島取材班

経済アナリスト藻谷浩介とNHK広島取材班の共同作業で作られた『里山資本主義』(角川書店・新書)が、1年半前の発から20万部を超えるロングセラーとなっている。それは今日の日本社会が、「命よりも儲け」「経済成長・マネーがすべて」「アベノミクスの是非で総選挙」という迷路から抜け出せないことへのアンチテーゼであるかもしれない。またこの路線の修正に「地方創生」「農業特区」など2枚目・3枚目の表紙をさしかえ、つかの間の息継ぎを図ろうとする人々への、その陣地を内部から食い荒らす「陣地戦」でもあるかもしれない。
過日、著者の一人である井上恭介さん(著作時NHK広島取材班・現NHKチーフプロデューサー)の講演を聞く機会があった。それはまさに「里山資本主義」を地で行く実践講習会でもあった。と言っても資本=マネーに一切頼らない仙人のような生活を提唱しているのではなく、資本主義社会の中にあって、可能な限りマネーに頼らない陣地を拡大する実践の中に、人間的豊かさを取り戻そうという、誰でもできる試みであった。

オガクズを燃料に

この著作で知られたいくつかの実践をまず簡単に拾っておく。一つは岡山県真庭市という「平成の大合併」で生まれた(と言っても広大な市域に人口5万という過疎地に変わりはない)林業の町の銘建工業という製材業者の話である。これまでゴミとして処理していたオガクズを、バイオマス発電の燃料に使うというものだ。オガクズをペレットにして固形燃料で販売する。これを基礎に過疎地で200人を抱える企業を維持している。本書ではこれを国家レベルまで広げ、石油資源に頼らない国家運営をしているオーストリアの話が紹介されているが、こちらは本書を読んでほしい。
井上さんの話は誰でもできる実践の話から始まった。それは真庭市の少し西の広島県庄原市に住む和田芳治さんのエコストーブの話。ここも香川県の半分くらいの市域に4万人が住む過疎地だが、広大な山林を利用し次々とエコな暮らしを開発する。その典型が製作費5000円のエコストーブで、無料の薪を燃やし毎月2000円の電気代を節約。今は東京に住む井上さんも、週末には子どもたちと公園で薪を拾い、エコストーブでご飯を炊き美味しく食事。昨今は「かまど炊き」と銘打った炊飯器が5万円くらいするが、「エコストーブの純粋かまど炊き」の方がはるかに美味しいのは当たり前。和田さんはこれにとどまらず「里山を食い物にしよう」と、「表皮にメッセージを書き込んだカボチャ」や、燻製たくあんなどを「世界に一つしかない」中元・歳暮を贈り、喜ばれている。和田さんは「のう、なんかしよう」と工夫を凝らし、野草から始まるおかず・野菜もほぼ原価ゼロで、このような実践は確実にマネー世界を蝕んでいく。
しかしこれだけでマネー世界を打ち破れないのは当然だが、エコな実践は発明の母で、高層建築物は鉄筋コンクリート以外ないという近代西洋文明の呪縛を打ち破る実践が、木造高層建築としてこれまたオーストリアの片田舎から始り、日本でも企業化されつつある。このCLTパネルでの高層建築には「木造高層は危険」などという行政的規制が待ち受けるだろうが、考えてみれば法隆寺五重塔に始まる木造建築物は、高さも耐久性においても試練に堪えてきた。家屋や団地やマンションがCLTになるとき、「衰退する農林業」という概念は打ち破れるだろう。

「地方創生」を食いやぶる

アベノミクスの第一、第二の矢は終焉し、第三の矢=成長戦略の成否が「地方創生」にある。既に「農業などGDPの1%、トヨタの売上以下」として、その荒廃と再収奪を農業特区・「農協改革」として進めようとしている。しかしこの「地方創生」は、里山資本主義とは180度違う企業の論理の地方制圧でしかない。里山資本主義の実践が、この企業の論理を打ち破るとき、次の次元に進むと思う。過日の学習会でも、兵庫県養父市の中の農業特区構想と違う実践と、尼崎など都市部が繋がろうという方向性が示された。
かくいう評者も、すでに住む人のない田舎の実家と田畑・山林を、IターンUターンに低家賃で貸す「ふるさと振興事業」に登録し、道の駅の特産品開発にもコミットする。年間所得が80万円という超低所得地帯であるゆえ、「最初からマネーに依存できない生活」がある。井上さんも言っていたが、保育所と老人施設が隣にあり、ホームの老人が孫・曾孫の世話をすることが各地で始まっている。わが村でも最新施設は老人ホームだが、廃校小学校跡がCLTの老人ホームと保育所になり、道の駅を軸に観光客(リピーター)も含む人々が地域振興券(地域通貨)を使い、「豊かさ」をつかむことは、アベノミクスのトリクルダウンに頼らぬマネー資本主義の克服となる。
またこの実践が、今後われわれ世代が入居するだろう都市の老人ホームの在り方と繋がるとき、総体として「一つの革命」が始まるかもしれない。「21世紀の共産主義」はこの壮大な『里山資本主義』も含むと言ったら「初夢」の見すぎであろうか。初夢の続きは、ぜひこの本を手掛かりに深めてほしい。      (弘)

5面

阪神大震災20年周集会
“生きる権利・働く権利”


1月12日、神戸市長田区で「生きる権利を求めて助け合った20年・阪神大震災20周年集会」が、95人の参加で開かれた(写真)
集会に先だって、95年1月17日の阪神大震災以降の20年の闘いを振り返るスライドが上映された。20年前の「若かった」人が映し出されるたびに歓声がおこる。闘いと花見などのレクレーションで団結を固めてきた被災地の人々の躍動感あふれるスライドだった。
犠牲者への黙祷の後、主催者である被災地雇用と生活要求者組合の長谷川正夫代表があいさつ。「被災地運動で、生きる権利・働く権利というものを知った。今、政府がこれを奪おうとしている。これと闘っていかなければならない」。
つづいて、全国金属機械労働組合港合同が連帯のあいさつ。全日建運輸連帯労組関西地区生コン支部の参加が紹介された後、被災地雇用と生活要求者組合事務局が「被災地運動20年を振り返って」と題して20年間を総括する提起をおこなった。

雇用と生活のための闘い

「被災地に労働運動を作ろうと、勇んで乗り込んできたが、思うようにはいかなかった。まず食うこと、そして生活を再建しようとする被災した失業者と一緒になって、雇用保険の失業給付を求める闘いから、雇用と生活要求者組合へと発展させて、生活や雇用を守る運動を助け合ってやってきた。それが失業対策事業を求める闘いへとつながり、しごと開発事業を勝ち取った。そして今、ナースシューズを製造販売する労働者企業組合や230回を超えるミニデイサービス(NPO法人)となって、小さいながらも助け合い・団結の場を確保している。雇用や生活のための闘いを、皆で一緒に泣き笑いながらやってきた。それが被災地の運動ではないか」。
被災地の運動の主人公は被災失業者であり、その人たちの目線で考え、一緒に闘いつつサポートしながら共に生きてきた20年だったと思った。

阪神被災地の経験と力

神戸市議会議員の粟原富夫さんは、神戸市による神戸空港建設や新長田駅前開発の破産などから震災は社会の矛盾を鋭く可視化したこと、現在もアスベストによる被害や借り上げ住宅からの追い出しの問題が続いていることを訴えた。
今回のゲストは福島県から京都府に避難しているIさん。Iさんは、福島第一原発から30q圏内で被災し、3月12日の原発爆発直後に連れ合いと2歳と4歳の娘さん4人で、関西へ着の身着のまま避難してきた波乱の経緯を熱を込めて話した。それが20年前の阪神大震災とオーバーラップして参加者の胸に響いたと思う。Iさんは、演壇うしろにかけられた写真(96年労働省交渉)を指さして「これが、長谷川さんですよね」と言いながら、「今ようやく、私たち避難者が力を合わせていく段階にきた。そのときに阪神被災地の20年間の闘いが私たちの闘いに生かせると思う。阪神被災地の経験と力を借りたい」と話した。
西宮市芦原の住民が、住宅追い出し裁判・闘いのお礼を述べた。阪神被災地の運動がもとになって出発した宝塚保養キャンプは、「Iさんのお話に感動した、社会の宝である子どもたちの命と健康を守るためにキャンプを続けたい」と話した。労働者企業組合とミニデイの仲間は、この20年間助け合ってきた苦労をユーモア交えて発言した。
「浪速の歌う巨人」趙博さんが歌を披露。その歌に合わせて被災地女性陣が踊りのコラボ。最後に団結ガンバローで締めくくった。
20年間の闘いと団結形成を総括し、また第一歩を踏み出した被災地の運動を、これからも一緒に闘いつつ見守っていきたい。(通信員・A)

投稿
朝日・「慰安婦」バッシング
植村元記者迎え300の集会
1・24 大阪

1月24日、大阪市内で、元朝日新聞記者・植村隆さんを迎えて、言論弾圧と闘う集会が開かれた。
植村隆さんは、朝日新聞攻撃・「慰安婦問題捏造」攻撃の渦中にあり、勤務先の北星学園大や家族にまで脅迫が及んでいるジャーナリスト。このため植村さんはこの攻撃を扇動してきた文藝春秋社と西岡力(東京基督教大教授)を被告として、東京地裁に1650万円の支払いを求める名誉棄損訴訟を1月9日に提訴した。1月24日の集会は、この提訴・報告集会に続いて、かつて植村さんが勤務した大阪での支援集会。緊急ではあったが、植村さんの友人や朝日やTV局などの記者や、旧知の在日の人々など、会場あふれる300人を超える集会となった。
主催者あいさつ、経過報告などののち、植村さん本人が1時間にわたり、事実関係を詳細に説明した。なぜなら、『週刊文春』や西岡力は、事実に基づかず、アトランダムな事実を切り貼りし「捏造」に結び付け、反朝日・反「慰安婦」問題をあおり、これに扇動されたネット右翼などが脅迫を繰り返しているからである。臭いものを無くすには元を絶たねばならない。事実が確定すれば、不当なバッシングは打ち破れる。
まず、事件は『週刊文春』(2014年2月6日号)の、「慰安婦捏造記者が、お嬢様女子大教授に」という記事から始まった。新聞記者をやめ2014年春から神戸松蔭女子学院大の教授就任が決まっていた植村さんに対し、この週刊誌が発売されるや、同女子大には1週間に250の抗議・嫌がらせメール・電話が集中した。そのため大学側は教授就任辞退を求め、植村さんは「大学も被害者」として合意した。その後、昨年秋からは、非常勤講師として勤めている北星学園大学にも嫌がらせが相次ぎ、大学側は年度末で雇用停止に傾きかけたが、「がんばれ北星」「言論と学問の自由を守れ」の市民の声が大きく広がり、12月17日には大学側もこの声に押され、15年春からの再雇用を発表した。

ねつ造はデマ

植村「慰安婦」問題の事実はこうだ。まず朝日新聞は「慰安婦」問題での「吉田証言」(警察などによる強制連行)は捏造と認め、この記事を全面削除したが、この記事に植村さんは一切関与していない。植村さんが書いた記事は91年12月25日の「元従軍慰安婦・金学順さん」の記事だ。右翼のキャンペーンでは、@そこに書かれた「挺身隊」が誤報で捏造、A金学順さんが「妓生学校に行ったこと」を書いてない、B義母が「遺族会幹部」であることを「挺隊協幹部」と意識的に混同させ「便宜供与」があったかのように煽り、「捏造記者」と攻撃を続けている。
金学順さんは「慰安婦」問題で日本政府を初めて提訴した人で、当時韓国ではこの問題を「女子挺身隊問題」として扱い、団体名も「挺対協」で、「挺身隊」と書いたことに問題ない。「強制連行」とも書いていない。さらに西岡は金学順さんが妓生学校に通っていたことで売春婦のように印象付けてきたが、妓生は芸者・舞妓であって売春婦ではない。妓生学校に通っていたことを書かなくても「事実の隠ぺい」でも何でもない。金さんの証言は年齢もあり一部食い違いもあるが、一貫して言いたかった「意に反して慰安婦にさせられたこと」を植村記者は記事にしたわけで何の問題もない。「拉致問題」専門家の西岡こそ「意に反してさせられた」事実に向き合うべきなのだ。
集会は休憩をはさんで、朝日新聞現役記者や地方紙記者、元TV局員などが激励と今日のジャーナリズムの危機を訴えた。特に「植村さんは自分を普通の新聞記者と言っているが、弱い者に寄り添い金学順さんを記事にした素晴らしいジャーナリスト」との発言は大いに植村さんと参加者を勇気づけた。またジャーナリズムの危機を乗り越える道は、「商業主義のスクープねらい」を克服し、現場で苦闘している市民に寄り添う記事づくりの中にあることを確認した。そして、植村さんを支えることで、「民主主義を消滅させないための反転攻勢」(有田芳生参議院議員のメッセージ)を始めることを参加者は誓い合った。(M)

冬期特別カンパにご協力いただき
ありがとうございました

6面

視座
アラブの春と「イスラム国」(上)
米帝の中東政策支える安倍
速見 賢三

「イスラム国」による日本人人質事件は、アラブ人民、ムスリム人民に敵対する形で、日本が中東情勢に深々とかかわっていることを衝撃的に明らかにした。本稿ではまず、イスラム教系の武装勢力が伸長してきた歴史的経緯を明らかにしていきたい。そして「イスラム原理主義運動」が支持を拡大している社会的背景を考察する。

はじめに

アメリカがフセイン政権を武力で打倒して親米政権を打ち立てたイラクでは内戦が激化し、その中で「イスラム原理主義」を名乗る「イスラム国」が勢力を伸ばし、北部の油田地域から首都バクダッド近郊にまで迫っている。これにヨーロッパを中心にしてイスラム教徒のみならず、「イスラム国」に共鳴する多くの若者が「義勇兵」として加わっている。こうした事態に直面した欧米諸国は、「テロの脅威・恐怖」を煽り立て、激しい空爆を加えている。
さらに1月7日にはイスラム教を揶揄する風刺画をくりかえし掲載してきたシャルリー・エブドなどが襲撃を受け、17人が死亡する事件が起こり、11日にはフランスで約370万人が「表現の自由を守れ」と叫ぶデモをおこなった。フランス政府が「テロとの戦い」を打ち出すなかで、反イスラムデモ、移民排斥デモがくり広げられ、それに対抗するデモも頻発している。そしてモスクなどのイスラム系の人々への襲撃も相次ぎ、またユダヤ人への襲撃も相次いでいる。ついで1月20日、日本人が「イスラム国」の人質となり身代金が請求される事件が発生した。
「テロとの戦い」の名のもとに、「アルカイダ=イスラム原理主義=テロ組織=イスラム教徒はその温床」という図式が作りだされ、欧米諸国は「イスラム原理主義との戦争」のかけ声のもと、イスラム民衆との戦争につき進んでいる。
本稿では、欧米諸国は中東とイスラム民衆をどのように支配し抑圧を加えてきたのか。その中で、「イスラム原理主義」運動が何ゆえに生みだされ、力を持ち、膨大な武装をなしえたのか。そしてどのような経緯をたどって「イスラム国」は生まれたのか。今起こっている問題の本質は何であり、われわれはどのような態度と立場を取り、何が問われているのかを考えてみたい。

T 歴史的背景

ソ連のアフガン侵略

ソ連がアフガニスタンへの侵略戦争を開始したのは1979年。当時のアフガニスタンの親ソ連政府に対する民衆の抵抗運動が激化する中で、これを潰すためにソ連は軍事介入をおこなった。しかしそれはアフガニスタン民衆の抵抗運動をより激しくさせ、ムジャヒディン(ジハードを遂行する者)が生まれる。アメリカはソ連を包囲し影響力をそぎ落とすためにムジャヒディンを支援し、武器や資金を大量に援助した。この時に、アメリカの支援を受けてビンラディンなども参加している。戦争は89年まで続いたが、最終的にソ連は撤退を余儀なくされた。
しかし親ソ連政権に代わって新たな政府を樹立する基盤が存在せず、アメリカから供与された膨大な武器を持つグループの間で内戦が激化し、そして「イスラム原理主義」勢力のタリバンが全土の実効支配をおこなうようになったのが96年である。タリバンはビンラディンなどのアルカイダを受け入れ、タリバン政権が「イスラム原理主義」勢力の基盤となっていく。

イラン・イラク戦争

ソ連のアフガニスタン侵略と同じころ、79年にイランで親米政権を打倒するイスラム革命が起きた。欧米各国そしてソ連も、それが中東全域に波及することを恐れ、その圧殺のために動いた。隣国のイラクのフセイン政権に膨大な軍事援助をおこない、80年9月にフセイン政権はイランを急襲したが、イランの反撃にあい、戦争は88年まで続いた。しかしこの過程で欧米の軍事援助を受けたフセイン政権は中東の軍事大国に成長した。

湾岸戦争

8年も続いた対イラン戦争で、経済的にも疲弊したイラクのフセイン政権は、欧米の援助によって軍事大国化した軍事力を使ってクエートに侵攻し、併合することで、石油資源の確保に走った。しかしそれは、アメリカの中東支配を揺るがしかねないものであり、意に沿わないフセイン政権に対して、アメリカは多国籍軍を組織し、91年1月に湾岸戦争に踏み切り、クエートから撤退させ、フセイン政権に多額の賠償と経済制裁を負わせた。

「9・11」

アルカイダがおこなったといわれている2001年「9・11」。ハイジャックした航空機を使った世界貿易センター(ツインタワー)とペンタゴン(国防総省)突入の反米テロは、アメリカをはじめ西側諸国を恐怖にたたきこんだ。アメリカ・ブッシュ政権はその直後の10月、アルカイダの基地になっているとして、アフガニスタン戦争に突入し、タリバン政権を崩壊させた。しかし安定的な政権基盤はできず、いったんは追いやられたタリバン勢力も盛りかえしはじめ、ますます不安定になっている。

フセイン政権の打倒

さらにブッシュ政権は、「イラン・イラク・北朝鮮はテロ国家・悪の枢軸」と世界中に言い放ち、「イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を持っている」と一方的に決めつけて、2003年3月20日にイラク戦争を開始し、フセイン政権を崩壊させた。しかしその後、フセイン政権は大量破壊兵器など所持していなかったことが判明し、まさに戦争を仕掛けるためにこじつけた理由でしかなかったことが明らかになった。しかし、アメリカの庇護の下に形成されたマリキ政権は、フセイン政権の基盤であったバース党を追放し、シーア派重視の姿勢を取リ続けたため、スンニ派やクルド人などの反発は強く、安定した政権基盤を確立できなかった。そしてイラクを武力で制圧していた米軍が2011年12月にイラクから完全撤退するや急激に不安定に陥り、「イスラム国」の伸長が始まった。

「アラブの春」

さらに2010年12月にチュニジアからエジプト、リビア、シリアなどアラブ世界全体に波及した民主化を求める「アラブの春」にアメリカは介入した。リビアでは民主化勢力が弱いので、「アラブの春」に乗じて、反米のカダフィ政権を打倒するために、原理主義勢力に武器と資金を供与して打倒したが、その結果、いまや私兵化した勢力同士が抗争する無政府状態に陥っている。
またアメリカはシリアでも、アサド政権を「アラブの春」に乗じて打倒しようとした。だが西欧志向の民主化勢力といわれる「自由シリア軍」は勢力が弱く、アメリカは原理主義勢力に武器と資金を提供してアサド政権を攻撃させたが、民衆の無差別殺戮をもたらし、アサド政権、「自由シリア軍」、原理主義勢力の間の内戦に突入している。
アフガニスタンも、イラクも、リビアも、シリアも、一定の安定的な政権としてなりたっていたものを(もちろん各々の政権がどれだけ民主的であるのかどうかは問題があるとしても)、アメリカがさまざまな理由をこじつけて暴力的に打倒した結果、権力基盤が崩壊し空白となったなかで、イスラム原理主義勢力が伸長したのである。
こうして今や、中央アジアから中東全域、アフリカのナイジェリア・ケニアに至る広大な地域に、広範な「イスラム原理主義」運動のネットワークが形成され、その領土的基盤がシリアとイラクにまたがる地域を実効支配している「イスラム国」なのである。

U アメリカの中東政策と「イスラム原理主義」

原理主義の伸長

アメリカの中東支配は中東の石油支配を貫くということであった。そのくさび・拠点がイスラエルであった。パレスチナ民衆が生活する土地を暴力的に奪い取って建国したイスラエルは、イスラム民衆にとっては決して認めることはできないのであり、イスラム諸国は何度も戦争に打って出たが、アメリカの支援のもとにあるイスラエルに敗北し、エジプトのムバラク政権をはじめ中東の各国は和解の道に進み、パレスチナの孤立化が図られた。
もう一方でアメリカは、サウジアラビアなどの王族国家を支援し、親米に回らせ支配を固めていった。そして反米のイラン政権に対抗するために、イラクのフセイン政権も支援し、アメリカの中東支配体制を作っていった。この支配体制を維持するために、原理主義勢力にも武器や資金を提供し、意に従わない政権を攻撃させてきた。
このように、アメリカのいう「テロ勢力」とは、アメリカが中東支配のために、原理主義勢力に武器や資金を提供してきた結果として生みだされたのであり、アメリカの意に従わないとなれば、「テロ集団」と決めつけて、恐怖を煽って攻撃を正当化するという許しがたいものである。

民衆の支持

ではなぜ、多くの民衆が「イスラム国」や原理主義を支持するのか。
第1に、アメリカの石油支配、中東支配のために、イスラエルを徹底して擁護し、イスラエルに歯向かう政権には戦争で屈服させて、アメリカの意に従う政権を打ち立て、従わなければ理不尽な言いがかりをつけて戦争を仕掛けて打倒する。こうした民主主義も基本的人権も守らないやり方に怒りが蓄積している。
第2に、そのためには無差別の爆撃・攻撃を日常的に繰り広げ、膨大な一般市民を犠牲に晒してきた。何万、何十万、何百万もの人々が殺され、あるいは家も土地も奪われて難民となっている。
第3に、アメリカにたてつく人々を見つけだすために、理由なき連行と拷問・殺害をくり広げてきたことである。CIA(中央情報局)が12月9日に発表した拷問の実態報告書で明らかにされたように、ブッシュ大統領の命令のもとでアメリカ国家が、まさに中世を彷彿とさせるような行為をおこなっていたのだ。しかも訴追しないと決定した。
犯罪を犯しても裁かない国家は民主国家・法治国家ではない。最も裁かれるべきはブッシュであるが罪に問われないというのだ。拷問は世界中のアメリカの秘密施設でおこなわれ、この「拷問ビジネス」で100億円も稼いだ者がいる。武器・兵器・銃のビジネス、軍事顧問や傭兵ビジネスなど、無差別の人殺しで富を得ることが当たり前の社会とは異常である。アメリカこそが「テロ国家」なのである。(つづく)