戦争国家へ進む安倍政権
9・4総がかり行動で反撃
日比谷野音 満杯で熱気あふれる総がかり行動(4日 東京) |
安倍改造内閣が発足した翌日の4日、都内で、集団的自衛権行使容認「7・1閣議決定」撤回などを求める「戦争させない・9条壊すな! 9・4総がかり行動」がおこなわれ、5500人が参加した。主催は、〈戦争をさせない1000人委員会〉と〈解釈で憲法9条を壊すな! 実行委員会〉。会場の日比谷野外音楽堂は午後6時には満杯になり、デモ出発迫る7時過ぎには場外にも人があふれた。
集会は神田香織さん(講談師)の司会で始まり、『はだしのゲン』の講談を始めた28年前よりもずっと戦争が近づいたと危機感を訴えた。
山口二郎さん(法政大学教授)は主催者あいさつで、「7月1日の閣議決定で、行使反対の闘いは始まったばかり。関連法案の審議まで1年にわたる闘いだが、今秋の福島・沖縄の知事選で安倍政治をストップさせよう。安倍は戦争をしようとは思っていないなど本質を見誤った意見もあるが、安倍の本質は自民党改憲案の中にある。経済も破綻し政治の潮目も変わった。疲れているわけにはいかない。この集会が出発点だ」と訴えた。
フォークシンガーの小室等さんは、詩人・黒田三郎さんの作詞による「道」を歌った。それはいくつもの道を一つにしようとする権力者への抵抗の詩だ。
雨宮処凛さん(作家・活動家)は、奨学金の問題と格差・貧困、経済徴兵制を語った。作詞家・なかにし礼さんの詩「平和の申し子たちよ」を司会が読み上げた。
ついで作家の落合恵子さんが怒りを元気に変えながら、沖縄での辺野古新基地工事強行を激しく弾劾し、「賢い不服従」を訴えた。れはいくつもの道を一つにしようとする権力者への抵抗の詩だ。
各政党からの発言のあと、沖縄から高良鉄美琉球大学教授と彫刻家の金城実さんが発言した。高良さんは、安倍の大叔父の佐藤栄作は「沖縄の祖国復帰がないと戦後は終わらない」と言ったが、今戦前に戻ろうとしている。憲法下で米軍が無くなると思ったのは、美しき誤解だった。辺野古新基地建設は恥ずかしい事ではないのかと訴えた。金城実さんは、自身の父親は靖国に祀られているが、それは「犬死」で、泣かない。沖縄を愚ろうすると権力が打倒されることになる、と訴えた。
さらに各地の1000人委員会などや、パレスチナ・ガザの報告があり、安倍政権をあらゆる角度から総がかりで批判・打倒しようという熱気あふれる集会となった。
9・4集会の発言から
●雨宮処凛さん
アジアの人々と仲良くしようと韓国の徴兵を拒否した人を呼ぶ。軍隊の中にもいじめはある。いじめという若者に関心のある問題からも、集団的自衛権に迫っていきたい。
●落合恵子さん
沖縄では知事選を前に問答無用の工事が始まり、海上保安庁の船は機関砲を国民に向けている。何が国民の命を守るだ! 彼らこそテロリズムではないか。女性政治家は必要だが、ヘイトスピーチとデモを同一視する好戦的な政治家はいらない。
先般は盲導犬が刺されるというひどいことが起きたが、盲導犬は危険を察知したら立ち止まる「賢い不服従」をおこなう。私たちも賢い不服従をおこなっていこう。
●金城実さん
私の父は熊本の連隊で「犬死」した。大方の日本人は靖国に祀られて「ありがとう」という。母は私に悲しくないかというが、私は泣かない。いま靖国(神社)が子や孫を待っている。小さな沖縄をいつまでも愚ろうすると権力は打倒されることを知るべきだ。がんばろう。(文責 編集部)
日印原子力協定に反対
8月29〜31日 京都で緊急行動
8月30日、インドのモディ首相が京都を訪れ、これを出迎えるために安倍首相がわざわざ京都まで来て、御所の迎賓館で夕食会をおこない、翌31日には京大iPS細胞研究所を訪問した。その後、東京へ行き、日印首脳会談をおこなった。これに対して、核保有国インドへの原発輸出に反対し、日印原子力協定に反対する京都市民有志は、29日、30日、31日の3日間の京都緊急アクションに立ちあがった。
そもそもモディ首相は、インド人民党というヒンドゥー主義の政党で、2002年グジャラード州の知事だった時、2000人のイスラム系住民が虐殺されたのを黙認した人物だ。そしてインドは、核不拡散条約(NPT)に加盟していないにもかかわらず、1974年と98年に核実験を行って世界中から経済制裁を受けた核保有国である。アメリカは2000年代にジュニアブッシュが米印原子力協定を結び、インドを核保有国として認めたが、インドが核兵器を独自に開発することは認めていない。そういう中でインドは日本に接近し、原発輸入を推進しようとしている。中国を牽制したい安倍はこれに応じてインドに接近している。
日印原子力協定は、日本が原発を輸出し、インドの核保有を認め、NPT条約を破壊しようとする、とんでもない協定である。今回のモディ来日で、協定の締結はなかったものの、協議は継続することになっており、締結しなかったのはアメリカからの牽制だと言われている。
今回、京都では、29日にキャンパスプラザで、関電前の「キンカン行動」のあと、ノーニュークス・アジアフォーラムの佐藤大介さんを招いて講演会をおこない、30日は18時から四条河原町マルイ前での街宣抗議行動(写真)、31日は京大iPS細胞研究所の前で、モディ首相と安倍首相の乗った車が出てくるところで直接抗議行動をおこなった。それぞれ直前の行動提起だったがのべ100人近くが参加し、京都での緊急アクションを貫徹した。
2面
市議選で稲嶺与党が勝利
「拘束」はねのけるカヌー隊
辺野古新基地建設阻止にむけ、沖縄県民と全国からの支援は、連日猛暑のなか果敢に闘っている。
台船に向かいフロートをのりこえるカヌー隊(8月30日) |
名護市議選で応援演説をおこなう稲嶺名護市長(右)と翁長那覇市長(左)(9月3日) |
カヌー隊、フロートを突破
8月30日、海上行動隊はカヌー隊を先頭にフロート(浮き具)の内側への突入行動に挑んだ。海上保安庁(海保)はフロートの内側と外側にゴムボートを配置し、カヌー隊が近づくと強制排除にかかる。この間、カヌー隊は何度も突破を試みたが海保に拘束され排除された。しかし、工事阻止に燃えるカヌー隊はフロート突破を決断し逮捕覚悟で決起した。カヌー20艇、30数人のカヌー隊の仲間がスパッド台船めがけて一斉に浜からカヌーを漕ぎ出す。浜では多くの市民が「カヌー隊がんばれー」とコールを送る。やがてフロートに到着したカヌー隊に海保のゴムボートが襲いかかる。カヌー隊は怯むことなくフロート突破を試みる、1艇のカヌーの舳先(へさき)がフロートをまたぎ中に突っ込んだ、その仲間はカヌーを揺らしフロートの中に入った、それを見ていたほかの仲間も、カヌーを揺らし次々とフロートを突破する、海保は海に飛び込みカヌー隊を捕まえようとする、カヌー隊はスパッド台船めがけ力強くカヌーを漕ぐ。カヌー隊の別の仲間はフロートの中に飛び込み海保に徹底抗戦。浜では「カヌー隊がんばれー」のコールが間断なく響き渡る。この攻防でカヌー隊20人が拘束されたが、数時間後、解放された。浜に帰ってきたカヌー隊の晴れ晴れとした顔を、浜の仲間が大きな拍手で迎えた。
翁長那覇市長が激励
8月31日、名護をはじめ沖縄の統一地方選挙の告示。名護では27議席に35人が立候補、激しい選挙戦が闘われた。選挙と辺野古での抗議行動との両立の中、稲嶺与党は16人の候補を擁立し全員当選・過半数維持をめざした。
9月3日、キャンプ・シュワブのゲート前座り込みに、翁長雄志那覇市長が激励に訪れた。新基地工事が本格化して以降、翁長氏が辺野古を訪れたのは初めて。稲嶺名護市長も同席し、翁長氏と握手を交わした。翁長氏は「辺野古には基地は絶対造らせない。力いっぱい頑張っていきたい」とあいさつした。翁長氏はその後、名護市内に移り、稲嶺市長とともに街頭演説にたった。稲嶺市長が稲嶺与党16人の名前を一人一人紹介すると、翁長氏はそれぞれに大きな拍手を送った。翁長氏の登壇は稲嶺与党に力強い援護を送った。参加した各陣営の支援者は大きな力をもらい勝利に向かい活気づいた。
稲嶺与党が勝利
9月5日、稲嶺与党16人の候補者と共に街頭にたっている稲嶺市長が、東恩納たくま候補の応援に駆け付けた。稲嶺市長は、「辺野古、大浦湾を抱える地元の『たくま』候補の当選が絶対必要です」と市民に訴えた。
9月7日、名護市議選開票結果、稲嶺与党は14人が当選し、定数27の過半数を維持した。辺野古新基地建設反対を掲げる中立2人を加えると基地反対派は16人となり、名護の民意は「新基地建設反対」を安倍政権に突きつけた。
9月8日、ゲート前に名護市議選で勝利した市議が次々と訪れ、お礼と闘いの決意を述べた。いっぽう市議選勝利に沸くカヌー隊は、スパッド台船めがけて果敢に抗議する。「名護の民意は新基地建設反対だ」「ただちに工事を中止しろ」、カヌー隊は拘束を恐れず闘い抜いている。
スパッド台船に迫る
9月9日、この日は大潮の日で、スパッド台船周辺は人が立てるほどの浅瀬になる。ゲート前の抗議と合わせ、海上抗議団はスパッド台船めがけ浜を出発した。カヌー隊はこの間最大のカヌー24艇に40数人が乗りこみ漕ぎ出した。浜では多くの市民が「カヌー隊がんばれー」のコールを響き渡らせた。カヌー隊はフロートをくぐり、台船に近づき海保との激しい攻防が繰り返される。この闘いで、この間最大の21人が一時拘束された。浜に帰ってきたどの顔も「やった」と笑顔がこぼれていた。
9月10日、那覇市議会で那覇市の翁長那覇市長は、11月に行われる沖縄県知事選挙について、「立候補を決意した、今後100年間置かれ続ける基地を絶対につくらせてはいけない」と述べ、辺野古新基地建設反対を訴え立候補することを表明した。沖縄県知事選は10月30日告示、11月16日投開票。
20日、辺野古で大集会
9月20日には辺野古浜にて、8・23県民大会規模の集会がとりくまれる。島ぐるみで決起する沖縄県民と連帯しよう。
米軍ヘリ参加の「防災訓練」
8月30日・31日 連日の抗議行動 兵庫・芦屋
8月31日、芦屋市でおこなわれた「防災訓練」(兵庫県と阪神8市町が主催)に、防災とは縁もゆかりもない米軍攻撃型ヘリコプター・ブラックホークが参加した。
知事が米軍参加要請
全国的に「防災訓練」と称して、米軍ヘリ・オスプレイを参加させることが次々とおこなわれているが、兵庫県では井戸知事が率先して米軍を参加させようとし、当初はオスプレイ参加をねらっていた。しかしこれには反発が多く、ともかく米軍参加の既成事実を作るため、攻撃型ヘリ・ブラックホークを参加させたのである。ブラックホークこそは、イラク・アフガニスタンなどで人民を殺戮し、ソマリアでは人民の怒りで撃墜されたことで知られる攻撃型ヘリで、世界の災害で、ブラックホークが出撃し人命を救った例はない。この事実を知った地元芦屋をはじめ県下の諸団体は、何回も井戸知事に撤回の申し入れをおこなったが、真面目な返答をせず、兵庫県と阪神各市町は8月31日に芦屋の最南部の埋立地で「防災訓練」を強行したのである。
30日、宮塚公園に350人が集まる |
31日、会場近く。米軍はNOの文字 |
黒々とした米軍ヘリ・ブラックホークと、訓練より見物の参加者 |
訓練前日に抗議集会
この暴挙に対し、8月30日夕方、芦屋・宮塚公園には地元の住民を先頭に、各地の労働組合などから350人が集まり、抗議集会・デモ行進をおこなった。集会は芦屋地労協などが主催で、尼崎地区労・武庫川ユニオン・全港湾・関西合同労組・県職労などの組合旗が林立し、また憲法団体・女性団体なども多数参加した。
発言はいずれも「『防災訓練』にかこつけて、日米共同訓練をおこなうもので、米軍基地と馴染みのない関西に米軍の存在を売り込むもので許せない。京丹後市に作られようとしているXバンドレーダー基地も含め日米安保の強化を目指すものだ。沖縄辺野古の闘いと連帯して闘おう」などの発言が続いた。
集会終了後、JR芦屋駅前までのデモ行進で、市民に「米軍参加反対」を訴えた。
早朝から抗議行動
翌31日は、午前10時半に南芦屋浜にブラックホークが着陸するというので、訓練会場に通じる道で朝9時から抗議行動をおこなった。芦屋市内で最も交通の便の悪い所にもかかわらず、関西各地から200人が集まり、訓練参加に向かう自治体職員・消防隊員・自衛隊・医師・看護師・学生らにビラをまき、米軍参加反対を訴えた。さらに、10月には和歌山の「防災訓練」にオスプレイが参加することや、9月28日の京丹後市でのXバンドレーダー反対全国集会への参加も訴えた。
10時半、訓練会場の対岸に移動し、「訓練」をおこなうブラックホークに「米軍参加の防災訓練反対」のシュプレヒコールをおこなった。しかし対岸の「訓練」は、わずか10人も乗れないヘリ1機に100人以上が集まり、それも参加者は笑顔で記念写真を撮るありさまで、「まじめに訓練するなら、記念写真を撮ってる場合か!」の怒りの声が飛んだ。
防災訓練に軍隊はいらない
実際広島の土砂災害はじめ災害が多発しているが、日頃からのコミュニティや救急消防の力以外、自衛隊の人海戦術も人命救助・災害救助に役立たないことは証明されている。ましてや関東の厚木基地から関西の災害現場に米軍ヘリが駆けつける意味はまったくない。それはただただ米軍を「オトモダチ」として認知させるだけのものだ。この日の訓練も米軍参加により、自主的防災訓練の使用敷地面積は昨年に比べ半減した。その上で、防災とは名ばかりの米軍ヘリ見学会でしかなかった。
引き続き、各地の米軍参加の「防災訓練」に反対していこう。京丹後市のXバンドレーダー基地、沖縄辺野古新基地建設を阻止しよう。(阪神 K)
辺野古基地反対の 各地の行動
県民大行動
と き:9月20日(土)午後2時
ところ:名護市辺野古の浜
主 催:実行委員会
「辺野古に基地は造らせない 東京から声を上げよう!」集会・デモ
と き:9月20日(土) 午後2時半
ところ:宮下公園〈JR山手線渋谷駅下車徒歩5分〉
よびかけ:沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックほか
大阪同時アクション
と き:9月20日(土) 午後2時
ところ:中之島公園・水上ステージ(予定)
3面
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福島の旅から @
教師たち、その苦闘の一端にふれた
東日本大震災、原発事故から3年余、ようやく福島を訪問することができた。貴重な体験がたくさんあったが、福島の教職員の方たちに会うことができ、お話を聞いたことに限定して書いてみる。
19年前の記憶から
私がいちばん知りたかったのは、地震・津波・原発事故にあった教職員が同じ体験をした生徒たちに、どのような気持ちで寄り添いながら語りかけてきたのかということだった。私自身、修学旅行先の長野で19年前の阪神淡路大震災を体験。400人の生徒とともに、被災した兵庫に戻るのに大変な苦労をした。戻った学校も校舎は半分以上が全壊、その後仮設校舎で2年間、教育活動をおこなった。自宅も全壊、1年ほど避難先から学校へ通った。あの時、私は生徒に何を語り、どのように生徒を励ましていたのか。記憶はどんどん薄れていくが、無我夢中の日々だったことだけは憶えている。
さて福島へ行き、どうすれば現場の教師たちに会えるのか、手がかりがない。けっきょく直接あたってみるしかない。雑誌『世界』4月号に載ったルポ「『復興』は子どもたちに向き合っているか―南相馬市立小高中学校・仮設校舎の教室から」を手がかりに、記事に登場する中学校の養護教諭の方に連絡を試みたが、3月に退職され、連絡がとれなかった。次に県教組に電話を入れ「兵庫の退職教員です。突然で申し訳ありません。現場の先生方とお会いしたいのですが」とお願いした。すると、「いま大会シーズンの真っ最中。だめかもしれないけど、やってみましょう」と言ってくださった。後で知ったことだが、県教組は「現地へ行きたい」というたくさんの学校関係者の要望に応えるため、夏休みに3回の被災地ツアーを計画していた。
それで紹介されたのが、相馬支部長でO中学校の国語のT先生だった。紹介の労をとっていただいたSさんご自身も、自宅のある浪江町を案内してくださることになった。
生徒たちの上履きが散らばったままだった(2014年6月 浪江中学) |
被災地の仮設中学校
南相馬市まで行き、震災直後から地元に入っている知人に案内してもらい、O中学校に向かう。途中、津波に襲われた農地をみる。破壊された防波堤がところどころ残っているだけの波打ち際まで、何もない広々したところを走る。この荒野はいつ農地にもどるのだろうか。中学校へ着くと、雨の日曜日にもかかわらずT先生が仮設校舎の鍵を開けて待っていてくださった。T先生は50歳過ぎのベテラン。早速、話を聞く。
―原発から半径20q内にあった中学校は震災以来、教室を転々とし、2011年に現在の半径30q少し外側にあるK小学校敷地内の仮設校舎に移転した。かつて340人いた生徒数は、震災から3年半たったいま、3分の1に減っている。通学している生徒の全員が被災しており、6割の生徒が仮設住宅に住む。残り4割もアパートや借り上げ住宅で暮らしている。通学エリアは南北30qにおよび、生徒はスクールバスで通学。もっとも遠い地域から通う生徒は、朝7時前にバスに乗らねばならない。下校もバスの時間に縛られる不便を強いられて、部活動も思うようにできない。
最初の年の3年生は、落ち着かなかった。同居している中学校間のトラブル、劣悪な学習環境からくるイライラ、家に帰れば「元のところに戻れるのか」と悩む親の姿。大人社会の醜さを、もろに見ることになってしまったからだろう。
心ない言葉も浴びせられたという。修学旅行で東京に行ったとき「福島からきた」というと、「あんなとこ、人間の住むところじゃないよ」。スポーツで好成績をあげたら、「放射能を浴びたから強くなったんだろう」とか…。
心の奥に悲しみをしまい込んだままの生徒に、寄り添うことの大切さを話してくれた。仮設校舎の中を案内してもらう。ほとんど実験設備のない理科室、やっとピアノが入った音楽室、工具や工作台も不十分な技術室。壁の薄い普通教室。19年前の、自分の学校を思い出す。T先生は「私たちは、この環境で生徒たちに十分な力をつけなければなりません」と自分に言い聞かせるように話した。南相馬市は2014年4月、小高区の避難指示を解除すると発表した。O中学校も元の場所に帰るのだ。しかし、生徒たち、親たちがどれだけ戻れるのか。その中で教育活動を進めていかなければならない。「私たちは、その覚悟で戻りますよ」と、T先生。
避難指示解除準備区域で
午後、S先生と待ち合わせ、車を乗り換え浪江町に連れていってもらう。浪江町は現在、避難指示解除準備区域。許可証を持った人だけが、昼間のみ立ち入ることができるところだ。許可証は、自宅がその区域にある人、復興の作業に従事している業者など一部の人だけしか持てない。S先生から線量計を借り、線量を計りながら浪江町をめざした。浪江町の駅前で車を降り無人の街を見た。写真やテレビで見てはいたが、その異様な雰囲気に呑まれてしまった。人が生活していた街、そこから人だけが消えてしまった街である。
線量計は、車の中ではたいした変化がなかったが、駅前では数値は大きく増えた。街中は出合う人も車もなく、ときおり巡回するパトカーが見られるだけ。Sさんのご自宅の庭は、人の背丈ほどの雑草が生い茂り、家の中は地震直後の壊れた食器の残骸などがそのまま。避難指示が出て慌しく出て行った様子が残っていた。3年も無人、ネズミもいるのだろう。Sさんは、「避難指示解除が出ても、もうここでは暮らせない。やっと決心がつきました」と話してくれた。
その後訪ねた浪江中学校の校庭で線量計の数値は、その日の最高値、9マイクロシーベルトを示した。生徒出入り口の床に散らばった上靴。慌ただしく学校を去ったことがうかがえる。Sさんの私たちへの実物教育は、原発事故の悲惨さ、理不尽さを一瞬にわからせてくれた。おふたりに心から感謝する。
福島とともに
福島の教職員のみなさんが大災害、原発事故に抗し、この3年間どのような心で生徒と接してきたのか、その一端がわかった。本当に教えられることの多い旅であった。教えられたことは、今後の私たちの活動に生かしていくことで返したい。
おふたりとも県教組の組合員、役員だったことが日教組OBの私には嬉しかった。教育と子どもの未来に責任をもつ、要のところに日教組の人たちが立っている。そんな当たり前のことが福島にあった。(健)
チェルノブイリ事故の衝撃から…
たんぽぽ舎 25周年のつどい
8月31日(日)霞ヶ関の経産省前テントひろばの座り込みに、久しぶりに参加した。やはり、核不拡散条約に未加入のインドと原子力協定などを締結しようという日本政府は、メチャメチャである。日章旗とインド国旗のぶっちがい(交差)が、道路の両脇に羅列しているのを眺めながら、どれほどの間、世も末と嘆かねばならないのか? 20世紀末の「カタストロフィー研究会」なるものの2039年人類破滅説の論理は、人口増加と食糧と資源払底の破綻だった。
これも、一種の環境の公分母上、日本の食糧自給率は、悲惨なまでに低い。大阪も、東京も1%を切っている。そして、水俣病、原発排水などの分子次元でも、東電福一事故以後、根底的な水と大気にまで、自然還元不能な毒物が混入している。こうして、分母と分子の境目のないカオス状況が身近なものになっている。インドとの核協定に関しては、たんぽぽ舎の山崎久隆さんが、9月4日付けの「地震と原発事故情報」で告発しているので、参照されたい。
満員の会場
いつもの水道橋会館に行ってみれば、満員すし詰めであった(写真)。スタッフが、たんぽぽ舎から、せっせと椅子を運んでいる。この光景は、あまりめずらしくない。日大法学部あたりのたんぽぽ舎から水道橋駅の向こう側へ補充の椅子を運んでいる。福島から駆けつけた女性のKさんが、「席がないのよ」と訴えられたのには驚いた。
この日は、薩摩川内の集会もあり、再稼働阻止ネットの有力メンバーであるたんぽぽ舎のひとびとは、この「つどい」に多くは集まらないというちょっと欝なムードに浸っていたのかもしれない。150人規模の会場に、250人以上は、押しかけてきたのであった。その理由は、簡単である。広瀬隆、アーサー・ビナードの講演に、原子力資料情報室の伴英幸、鎌田慧、浜岡の白鳥良香、佐野慶子、経産省前テントひろばの江田忠雄、福島の森園かずえ…などが「祝辞」を述べることになっていたからだ。鎌田は欠席し、かわりに、菅井がリリーフされた。(敬称は略させていただきます)
たんぽぽ舎の役割
たんぽぽ舎は1988年発足時は、鈴木千津子により、主に食品の放射能測定という仕事からはじまった。チェルノブイリ事故の衝撃から、するべきことはこれという彼女の営為はいまも続き、ますます、その意義は深まるばかり。そして、彼女の周辺に、槌田敦や広瀬隆、藤田祐幸、柳田真など、学者、ジャーナリスト、関心ある市民が集まってきた。
現在、@原発事故と日本の核武装批判研究会、Aエネルギーと環境を考える会、B環境と原発研究会(いろりばた会議)C地震がよく分かる会の4本柱を主軸に、ネットワークを張り巡らしている。廃原発ネットワーク、サクラと環境・原発調査ネットワーク、劣化ウラン禁止・市民ネットワーク、もんじゅ・西村裁判を応援する会、核開発に反対する会(槌田敦主宰)、ストップ原発&再処理・意見広告の会、そして、フォーラム会場として、「スペースたんぽぽ」が、緊急課題を知り、語り合う市民教室を常設開場している。
現在、大阪で集会などに参加する機会が多いが、関西にも、こうした事業というか、活動というか、必要だろう。専門と時給制にとじこめられた日常に、理解困難な科学技術的問題を公正に語り合い、いわば、既存の生活態度を根底的に反省し、前向きに、社会を変革するためのホーム・グラウンドが必要なのだ。とにかく、文科省はじめ、官僚/自民党体制が、悪化、劣化、凶暴化している今のような時代にこそ、そう痛感する。(Q)
4面
視座
監視社会にどう立ち向かうか
『暴露 スノーデンが私に託したファイル』を読む
5月13日に、『暴露 スノーデンが私に託したファイル』(グレン・グリーンウォルド著)が世界24カ国で一斉に発売された。
スノーデンはアメリカ合衆国国家安全保障局(NSA)元シニア・アドバイザー(会社員に偽装)/アメリカ合衆国中央情報局(CIA)元現場要員(外交官に偽装)/アメリカ合衆国国防情報局(DIA)元講師(会社員に偽装)として、アメリカ政府による情報収集活動に関わっていた。
昨年2013年6月に複数の新聞社の取材やインタビューを受け、NSAによる個人情報収集の実態を告発した。同年6月22日、米司法当局により逮捕命令が出され、8月1日にロシア移民局から1年間の滞在許可証が発給され、現在ロシアに滞在している。
NSAによる大量監視の狙い
例えば2013年3月8日からの1カ月間で、NSAのある部署が世界中のメール970億件、通話1240億件のデータを収集している。NSAはコンテンツとメタデータの2種類の情報を収集。
コンテンツとは文字通り人々の電話通話を聞くこと、閲覧履歴や検索履歴といった一般的なインターネット活動を含めて、メールやオンラインチャットを読むこと。
メタデータとはこれらの通信に付随して蓄積されるデータで、Eメールのメタデータにはメールの送受信者、件名、送信者の位置などの情報が記録され、電話のメタデータには発信者と受信者の身元、通話時間、位置情報、通信機器の種類などが含まれている。メタデータの監視によって、電話をかけた相手、電話をかけてきた人物、Eメールをやりとりする相手、送受信される場所、通話時間などを把握され、生活、交友関係、活動に関する最も繊細でプライベートな情報が筒抜けになる。
NSAの目的は、イラク占領時に全イラク国民の通信データを無差別に収集したように、世界中の電子通信プライバシーを完全に取り除くことを最終目標とするシステムを構築し、全世界の人々の間で交わされる電子通信の総てを収集・保管・監視・分析できるようにすることにある。
なぜ暴露したのか
スノーデンはなぜ自らの自由を犠牲にし、残りの人生のすべてをなげうってまで、内部告発に踏み切ったのか。著者の問に、スノーデンは「多くの若者たちにとって、インターネットは自己実現の場です。彼らはそこで自分が何者なのかを探り、何者になりたいのかを知ろうとする。しかしそれが可能になるのは、プライバシーと匿名性が確保される場合だけです」「彼ら(NSA)が築いているシステムの目的は、世界中のあらゆるプライバシーを消滅させることにあり、このままだと、どんな人もNSAによる収集、保存、分析なしに電子通信をおこなえなくなります」と答えている。
29歳のスノーデンの決断はインターネットの時代に生きている青年としての危機感からだ。
監視社会の危険
著者はなぜ、危険を犯してまで、スノーデンの内部告発に協力したのか? 著者は第3章で、スノーデンが暴露したNSA文書を逐一分析し、第4章で著者の問題意識を披瀝している。
著者は「プライバシーは人間が人間らしく生きるために不可欠なもの」「個人的な領域とは、他者の判断基準に左右されない場所だ。私達自らが行動し、考え、話し、試し、自分がどうあるべきかを決めることが出来る場所だ。プライバシー保護は、自由な人間として生きるために核となる条件だ」とプライバシーの本質を規定している。
さらに、たたみ込むように、「個人的な領域でこそ創造性が刺激され、反対運動が起こり、正当性への挑戦が生まれる。だとすれば、国の監視を誰もが恐れる社会―事実上、個人的領域が取り除かれた社会―では社会的及び個人的レベルで、それらの大切な要素が失われてしまう」「その結果、国による大量監視は本質的弾圧へとつながる。…監視は自由を制限する。それは監視という行為自体にそもそも備わっている作用だからだ」と、監視は人民への弾圧と同意語であると主張する。
したがって、圧政的な国家は大量監視活動こそが最も重要な支配ツールの一つだと考え、威嚇的な監視国家を形成し、人々は権力によって常に見られているという意識を植えつけられ、大量監視の恐怖によって、人々は自ら従うことを選択し、外部からの強制は不要となる。
環境保護主義者、反政府右翼団体、反戦活動家、パレスチナ解放運動家たちの罪は政府と異なる政治観を持っているだけなのに、反対活動や抵抗活動は不正行為あるいは脅威と同一視され、日常的にNSAとその関連組織による監視活動の標的にされている。
国家は「テロの脅威から肉体的な安全を図る」と理由づけて、NSAの監視プログラムを正当化しようとしているが、それは肉体的な安全以外の価値が、あたかも重要度の低いもののように扱われているからだ。しかし著者は「絶対的な身の安全を追求することだけが、社会の唯一かつ最重要の優先事項では断じてない」と主張する。
加えて、著者は「肉体的な安全より上位にある中心的な価値とは、国家をプライベートな領域―合衆国憲法で提議される身体、家屋、書類、個人資産―に関与させないことだ。それはこの領域が人生の質を左右する多くの特質―創造力、探求、親交といったもの―の坩堝のようなものだからだ。絶対的な肉体の安全を求め、プライバシーをないがしろにすることは、個人の健全な精神と生活に害を及ぼすだけでなく、健全な政治文化の弊害にもなる」と、NSAの大量監視を断罪している。
このような「恐怖を利用する戦術」は日本でも常に使われている。北朝鮮の瀬戸際政策や中国の釣魚諸島政策を針小棒大にあおりたて、人々の恐怖を煽り、自衛隊を増強し、集団的自衛権の閣議決定にまで突き進んできた。
このように、NSAの大量監視は人々の行動をますます把握できるようにする一方、市民は秘密の壁に遮られ、政府の行動をますます把握できなくなっている。
ジャーナリズムの使命
著者にはもうひとつ、ジャーナリズムの使命にかんする強烈な問題意識がある。
著者は「政治メディアは国家権力の濫用を監視・抑制することを本来の役割とする重要な機関のひとつだ。行政、立法、司法、報道の4権という考え方のもと、報道機関は政府の透明性を確保し、職権濫用を抑制する機能を持つべきである」「第4権力の理念は大いなる権力を持つ者に対して牙をむき、あくまでも透明性を求めるものだ。報道機関の使命とは権力者が保身のために必ずばらまくウソを見抜くことだ。そうしたジャーナリズムがなくなると、権力の乱用は避けられなくなってしまう。…報道の自由とはそれ(注:ジャーナリストによる権力美化)とは正反対のこともできることをジャーナリストに保障するためにこそ必要なものだ」と語っている。
アブグレイブ刑務所でのアメリカ軍の拷問スキャンダルを報じたシーモア・ハーシュも「アメリカのジャーナリストは臆病だ。だから嫌われ者になれず、ホワイトハウスにたたかいを挑むことも、真実を伝えることもできないでいるのだ」と話している。
私達も、特定秘密保護法や集団的自衛権の報道で、「報道は第4権力」、しかも「権力におもねる報道」を実感しているのではないだろうか。
残してくれたもの
著者はエピローグで、スノーデンの告発以降の状況について、以下のようにレポートを締めくくっている。
合衆国内では、政治思想やイデオロギーの垣根を越えた多様性のある連携が生まれ、監視活動における大きな改革を推し進める動きが強まった。…連邦議会のふたりの議員が起ち上がり、NSAの計画への予算取り消しを求める法案を共同で提出したのだ。…そんな彼らの提案に賛成した数十人の議員―最右翼から最左翼まで、ありとあらゆるイデオロギーを持った議員たち―もすぐに共同提案者に名を連ねた。…法案は廃案になったものの、賛成205票に対して反対217票の僅差だったのだ。
リチャード・レオン(連邦裁判所判事)はNSAのメタデータ収集は合衆国憲法修正第3条に違反する可能性が高いという判断を下した。…オバマ大統領が設置した諮問委員会の報告書もまた、大規模なスパイ活動を不可欠とするNSAの主張を明確に否定するものだった。…国連総会において、インターネット上のプライバシーを基本的人権と定義する決議が全会一致で採択されたのだ。
自分たちはどんな世界を生きたいのか、それを決めるのは人類全体であり、密やかに陰で働くひとにぎりのエリートではない。論理的にものを考えて、自ら意志を決定する人間の能力を育てることこそ、内部告発、社会運動、政治ジャーナリズムの使命だ。そして、それこそ今起きていることだ。そのすべてがエドワード・スノーデンの暴露から始まった。
日本の盗聴法
日本では、2000年8月に盗聴法(犯罪捜査の為の通信傍受に関する法律)が施行された。通信傍受の対象は銃器犯罪、薬物犯罪、集団密航、組織的殺人の4類型に限定されていて、毎年10件程度が国会に報告されている。しかし、現在新たに12類型を対象に加える改正案が検討されている。
また、改正案では@対象となる通信を警察署に伝送させ、立会人なしで傍受できるようにし、A事後的な通信傍受も可能にしようとしている。
Eメールの傍受については、2002年以降14都道府県警に配備されたと報道されているが、「通信を終了している」という解釈で、捜索・差し押さえや検証によって事実上無制限に取得されている。
4月24日の国会で警視庁は「Eメールを傍受する装置は2001年度に導入し、EメールやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)傍受が技術的に可能になるように努めている」と答弁した。日本も、アメリカ(NSA)並の監視社会に向かっており、盗聴法改正を絶対に止めなければならない。
原子力委員会
再稼働に向け審査書を了承
10日、原子力規制委員会は、川内原発1・2号機の新規制基準適合性審査において審査書を了承した。あとは、「工事計画」「保安規定変更」の認可が済めば、審査終了となる。その後は、使用前検査(1〜2ヶ月?)を経て、物理的にはいつでも稼働OKの状態に入る。いよいよ、地元説明会、地元(県と薩摩川内市)同意をめぐる攻防だ。
川内原発の再稼働は、全国での再稼働を許すかどうかの分かれ目だ。絶対阻止しよう。9・28全国集会(鹿児島市内)に集まろう。
5面
9・29 大阪
三里塚農地裁判学習会
遠藤弁護士 鎌倉孝夫さんが訴え
AとBが取り上げ対象とされた畑 |
市東さんの農地裁判(農地法・行政訴訟)控訴審の第3回目の口頭弁論が、10月8日に東京地裁で開かれる。前回裁判(6月25日)では、早期結審・審理打ち切りをねらった貝阿彌裁判長の訴訟指揮、国・空港会社、千葉県の不誠実きわまる陳述書と徹底対決し、市東さん、反対同盟、弁護団、傍聴者が一体となって、これをはねかえした。しかし控訴審における攻防の焦点は、依然として早期結審を許さず実質審理を実現することである。
7月25日、この裁判を担当する裁判長が交代。検事出向3回の経歴をもつ小林昭彦裁判官が、新たな裁判長に就いた。この突然の交代が何を意味するのかは現時点ではわからないが、10月8日の裁判は、通常なら仕切り直しとなり「更新意見陳述」がおこなわれることになる。市東さん、弁護団を先頭に改めて「農地明け渡し請求の棄却」を求め、徹底審理の必要性を訴えきることであり、何としても実質審理へ歩を進めねばならない。
この厳しい攻防がつづくなか、9月29日、三里塚決戦勝利関西実行委員会主催の学習会「三里塚農地裁判は、いま」が開かれる。市東さんの農地裁判で何が争われ、何が問われているのか、そして裁判の現状について、あらためて確認を深めよう。市東さんの思いとたたかいを共にし、支えぬこう。
学習会では、2つの講演と質疑応答が予定されている。
反対同盟顧問弁護団の遠藤憲一弁護士からは、農地裁判の現在の攻防の報告をはじめ、常識的には考えることもできない「農地と農民を守る農地法で農地を強制収用する」という、この裁判の核心、問題点が明らかにされる。
経済学者の鎌倉孝夫さんは、農業に生きる市東さんのいのちと暮らしの現場から、古くて新しいテーマである「公共性」の欺瞞をあばく。安倍政権の「成長戦略」のなかで、労働者人民の貧困と格差が拡大するとともに、とりわけ航空・空港分野の再編や農業破壊(TPP、農地法改悪=農業への企業参入)も劇的に進んでいる。
また「首都圏空港機能の強化」策として、成田空港の24時間化(深夜飛行禁止制限の撤廃)、東峰部落などの消滅を前提としたB滑走路の南側延伸(3500m化)、そして第3滑走路計画が進められようとしている(次号で詳報)。
まさに市東さんの農地をめぐるたたかいは、これらの攻撃と切り結び、三里塚闘争の新たな展望を切り開くたたかいである。市東さんの農地裁判勝利のための3万人署名を進め、10・8控訴審闘争に結集しよう。
9・29学習会への参加を呼びかける。
読者の声
格差・差別が軍隊を侵略へ
書評『皇軍兵士の日常生活』を読んで
書評『皇軍兵士の日常生活』、興味深く読ませていただきました。徴兵制・軍隊は格差をリセットしない、まさにその通りであると思いました。すなわち、それらは格差を、そこから権力によって形成された差別を前提としており、武力の行使によって、その格差・差別が極限化されることは、歴史の教えるところだからです。
その上で若干の違和感を持たざるを得なかった箇所と、そこについてのぼく自身の考えを述べたいと思います。
まず第1は、「旧日本軍と当時の社会研究であり、『侵略・加害』の問題はごく一部しか言及していない」という箇所です。この箇所の表現は、「社会研究」と「侵略・加害」問題とが独立のものであるかのような印象を与えますが、両者は独立したものではありません。なぜなら、軍隊・戦争の「侵略的・加害的」性格の「社会研究」的な表現こそ、それらが格差・差別を前提とし、極限化するということだからです。格差・差別こそ、軍隊・戦争を侵略的・加害的とする基本要因です。
兵士レベルで言えば、差別され極限までいためつけられた兵士が、敵を殺し敵から殺されても、自軍内で痛めつけられるよりマシだと思うことで、彼は「侵略者・加害者」と化すのです。今日、もはや隠蔽できなくなってきた自衛隊の「いじめ」問題も、この文脈で考えなければなりません(この問題については157号の小多基実夫「苦悩する自衛官と共に」が参考になります)。
違和感を持った第2の箇所は、「安倍とそのお友だちに読んでもらいたいが、彼らにはどうでもいい問題なのだろう」という部分です。たしかに、支配階級にとって軍隊・戦争の差別性は自明の理でしょう。しかし、この第2の箇所の表現では、軍隊・戦争が差別超越的であるという幻想が、彼らにとって極重要であるという点がスポイルされてしまいます。
蛇足ながら、この幻想の重要性について一言。この幻想なしには、支配階級は、格差・差別のまっただ中に生きている人民を、軍隊・戦争へと動員できません。今後も興味深い本の紹介をお願いします。(P・M)
黙っていると会社は身を守らない
連載第3回
中年派遣労働者日記
大浜 清
すでに毎日暑い日が続いている。5月は1年で紫外線がもっとも強いと言われている。同時に熱中症も多い。夏への危機感が薄く、対策を十分にとっていないからだ。特に毎日仕事場が変わる派遣労働者は要注意。そして体力の落ちる中高年は最高に要注意なのだ。筆者も昨年の5月、死にかけた。(神戸弁では「死によった」と表現)
ところは神戸の有馬。高速道路の壁面コンクリート工事のお手伝い。暑そうなのでペットボトルのお茶も持って行った。ところがそんなもの、すぐ無くなるくらい、暑い!ヘルメットも強制なのでますます暑い。仕事自体は重労働ではないが、とにかく炎天下。
もう20分もすれば1回目の休憩という時に突然それはやって来た。注入されたコンクリートに振動を与える機械を渡されていた私は、横へ移動しようとしたその瞬間、目の前が黄色と黄金色と白色が混ざった強烈な光に包まれるのを目撃した。前のめりに倒れようとするのを必死にこらえて、15メートルほど離れた木陰へ倒れこんだ。よくそのまま意識を失わなかったものだ。しかし、仰向けになった状態で動くのに困難を極めた。
しばらくして元請会社の監督さんが走ってきた。「大丈夫ですかっ!」。スポーツドリンク・アイスキャンデー・かち割り氷など色々な水分と塩を持ってきた。「しばらく休んでいてください。動かないで。それ以上苦しくなったらすぐ救急車を呼びますから」と言う。「前に目撃した人は、すぐ動き出して仕事を再開して、また倒れてそのまま痙攣して亡くなりましたから」。(ひえーーーっ)
10分ほどしてやって来た派遣会社のリーダーの若者は「おい、何してんねん!」。何という物言いか。しかし、もしもの事態になったらリーダーも元請も、大変なことになるんやで、と説教したいが体も口もよく動かないからあきらめた。
そのまま1時間水分補給を続け、派遣会社と元請の指示で帰宅することになった。ところが山の中で、タクシーすら通っていない。リーダーは迷惑そうな顔で「自力で駅まで行って帰って下さい」と言う。そうしようと歩き出したが、途中で元請会社の監督さんが追いかけてきて「車で送ります」とのこと。1時間ほどかかる山道を10分ほどで駅に着くことができた。元請には感謝。
問題は3時間だけ働いた分も給料を出せない、やたら高い神戸電鉄の電車代も出さないと派遣会社が言う。これは、黙っていたらいけない! そんな事ではもう働かれへんよ、出るところへ出るよ、とやさしくギャンギャン。1日考えますと答えた会社は結局、3時間分と電車代を出すと回答してきて一応決着。最初から出さんかい。黙っていたら出してくれないところやった。働く仲間の皆さん、お体大切に。(つづく)
9・6ロックアクション 秘密法施行をとめよう
毎月6日恒例の「秘密保護法廃止! ロックアクション」の集会・デモが、大阪市内で開かれ300人が参加した(写真)。主催は、同実行委員会。
特定秘密保護法の施行期限まであと3ヶ月と迫った。参加者は、どんなことがあっても必ず秘密保護法を廃止に追い込もうと誓い合った。主催者あいさつ、寸劇、エイサーの後、ガザ報告、沖縄からの報告がおこなわれた。つづいて1分間アピールでは9人が発言。最後に共同代表の服部良一さんが、まとめと行動提起。10月30日に大阪弁護士会がひらく秘密保護法廃止の大集会(中央公会堂大ホール)に合流しようとよびかけた。
6面
寄稿
歴史の真実を総括して次代に伝えよう 雑賀 一喜
なぜ普通の日本人が朝鮮人を大虐殺したのか(下)
『関東大震災・虐殺の記録』を読んで
以下は主要に、大虐殺の全体像とその背景を克明に分析した姜徳相(カン・ドクサン)『関東大震災・虐殺の記録』(青丘文化社/2700円)による。
戒厳令のために「朝鮮人暴動」をデッチ上げ
警視総監、赤池濃(あつし)は地震が起きるや宮中に馳せ参じて、摂政宮(後の昭和天皇)の無事な姿を拝して感激した後、内務大臣・水野錬太郎、警保局長・後藤文夫と協議に入った。ここで彼らは「不祥事変」を予見して、午後2時頃、とりあえず軍隊に出動を要請し、戒厳令を敷くことを申し合わせた。
戒厳令は1日夜半に布告された。しかし戒厳令は〈戦争〉または〈内乱〉を対象にした非常立法であり、〈臨戦〉または〈暴動〉の発生を認定しなければ適用できない。震災の被害がいかに甚大であっても、単なる自然災害にとどまる限り、戒厳令は施行できない。治安当局が戒厳令を発動させるためには、「朝鮮人暴動」が必要であった。
地震が起きてから間もなく民衆の間から発生した「朝鮮人が攻めてくる」という流言に対して、当初半信半疑であった治安当局は、それが事実であるか否かを確かめようとしないままに、「朝鮮人暴動を鎮圧する」ためと称して戒厳令を布告したのである。かくして、朝鮮人による放火、井戸への毒投げ入れ、強盗、集団襲撃などの流言が一気に勢いを得て、またたく間に全国に広がっていった。
軍隊が朝鮮人索敵討伐の任務帯びて出動
これより先に、軍事当局は1日午後1時10分、非常警戒令を発して、宮城、各離宮をはじめ、皇族、華族、さらに三井財閥総帥・団琢磨邸に兵隊を配置し、2日からは軍事参議官・大庭二郎大将邸に上等兵以下4人を派遣した。大庭は1920年、関東派遣軍総司令官として関東(中国東北部の朝鮮と接する一帯)地方の朝鮮独立運動を鎮圧し、3万人を虐殺した張本人であった。
戒厳令にもとづいて出動した軍隊は、明らかに朝鮮人索敵討伐の任務を帯びていた。戒厳警備の第一線で指揮をとった遠藤三郎大尉は後に、「当時の兵隊は朝鮮人を一人でも多く殺せば国のためになり勲章でももらえるつもりだった」と語っている。
軍支給の鉄砲・実弾で「大和魂」を発揮
民衆は戒厳軍兵士の凶行を目の当たりにして、虐殺のお墨付きを得た思いで「大和魂」を発揮し、「天下晴れての人殺し」をエスカレートさせた。9月2日夜から3日にかけて、戒厳軍が最も激しく展開していたとき、在郷軍人会(退役軍人団体。市町村単位および工場に分会)や青年団、自警団に対して、軍隊から鉄砲や実弾が支給された事実が確認されている。
軍隊は在郷軍人会を、警察は青年団を日常的に掌握していたが、それらを核として作られた自警団を指示通達によって操縦し民心を収攬していた。東京の1593をはじめ関東各県にわたって合計21689もつくられた自警団は、そのほとんどが戒厳令布告後、軍・警主導の下につくられたものであり、決して自然発生的な民衆の自衛組織ではなかった。家財を焼失し、飢餓に瀕した民衆の不満の矛先が国家権力に向けられることを恐れた官憲が、民衆の排外主義的心理を利用してジェノサイドに駆りたてるために組織した民間武装集団である。
朝鮮民衆の蜂起に対する潜在的恐怖
軍・警が主導し民衆が暴徒化して朝鮮人大虐殺を繰り広げた背景には何があったのか。
1910年、日本帝国主義はアジア侵略の拠点として朝鮮を植民地とした。「土地調査事業」と称するペテンによって土地を追われた朝鮮人は、生きる糧を求めて日本に渡った。日本の官憲は当初から、朝鮮人を「日常不穏の企図に出る恐れあり」と敵視し、監視の対象とした。とりわけ三・一運動(注)を画期として燃え上がった朝鮮人の民族独立運動に恐れをなした日帝権力は、朝鮮人を敵視するイデオロギー政策を日本人民衆のなかに浸透させていった。
(注)1919年3月1日から1年以上にわたって朝鮮全土で展開された民衆蜂起。200万人以上が参加し、7645人が日本軍に虐殺された。
内務大臣水野や警視総監赤池ら戒厳令発動を主導した治安当局者の多くは、かつて朝鮮総督府の中枢で朝鮮人弾圧の指揮に当った。彼らは東京が壊滅的な被害を受けた状況をまえにして、真っ先に朝鮮人による反政府暴動を警戒したのである。
そして民衆は、植民地本国の人間として朝鮮人蔑視の気持ちを抱く一方で、三・一運動以来、いつか彼らに復讐されるのではないかという恐怖心、警戒心を潜在させていた。それが震災によるパニック状態のなかで、朝鮮人を「非人間」化してとらえるまでになり、過剰な防衛意識に駆られて、サディスティックな暴力へと走ってしまったのである。
さらに三・一蜂起以来、日本の新聞には「不逞鮮人(ママ)が爆弾を投ず」などというどぎついデマ記事がはん濫するようになった。かくしてメディアは関東大震災のなかで、朝鮮人大虐殺の共犯者として振舞うにいたった。
社会主義者も自警団に加わっていた
大震災による混乱状況のなかで、社会主義者も官憲の標的にされた。3日、アナキストの朴烈と金子文子が検束された(爆発物取締罰則違反と大逆罪で起訴)。3日深更から4日かけて、当時最も戦闘的とみられていた南葛労働会(後の東京東部合同労組)の川合義虎(日本共産青年同盟委員長)ら9人と純労働者組合主事の平沢計七が亀戸署に連行され、要請を受けた軍隊によって署内で殺害された(亀戸事件)。16日にはアナキズムの巨頭大杉栄が妻の伊藤野枝、甥の橘宗一とともに憲兵隊に拘引され、いずれも殺害された。しかし、亀戸事件の川合、平沢を含む8人、さらには大杉は拘束されるまで自警団に加わっていた事実がある。彼らのうち何人かは、朝鮮人に対する民衆の暴行を抑えようとしたとも伝えられている。しかし、自警団が単なる夜警組織ではなく、しかも彼らがそのことに無自覚であったとは到底考えられない以上、自警団に参加したこと自体が社会主義者として問われなければならない。
なお、日本共産党は地震の3カ月前に一斉検挙され、翌年春に自ら「解党」を決議したが、現在にいたるまで、朝鮮人大虐殺について国家権力に対する糾弾を一貫して放棄している。
今、私たちにできること
朝鮮人大虐殺の先兵となった自警団に加わった民衆は、「普通の人」たちであった。そして今、ヘイトスピーチと、それに抗議して闘う人たちが対立して争う現場に居合わせた一般の人たちは、何が問題になっているのかわからない人がほとんどだという。闘う側にも関東大震災朝鮮人ジェノサイドを意識している人は少ないという。
9月1日を朝鮮人は防災の日とはみない。私たちは「在日」の人たちの受難をかみしめ、その背景にある植民地支配の歴史を総括し、「普通の人」にわかりやすく語りかけ、次の代に継承しなければならない。
ヘイトスピーチの後には必ずジェノサイドが待っている。
加藤の書(前号参照)は今も差別と蔑視のもとにおかれている朝鮮人の立場に寄り添い、連帯する視点から、わかりやすい言葉で語りかけている。
姜の書はこの問題の重要な論点を「在日」の立場から鋭く指摘していて、いずれも必読の文献である。なお、2003年に出版された姜の書は絶版になっているが、多くの図書館で閲覧可能。
また同書の元になっている同じ著者の『関東大震災』(中公新書/1975年)の古本は数百円で購入可能。(おわり)
夏期特別カンパへのご協力ありがとうございました
革共同再建協議会は、夏期特別カンパを6月から訴えてきましたが、皆さんのご協力により多額のカンパが寄せられました。ここに心よりお礼申し上げます。今秋闘争を安倍政権打倒へ、ともにたたかいましょう。 2014年9月