未来・第132号


            未来第132号目次(2013年7月17日発行)

 1面  原発再稼働を許すな
     安倍・自公政権にNo!をつきつけよう      

     低賃金で被ばくを強制
     暴かれる除染労働の実態

     橋下市長 辞めてんか
     大阪市役所を“人間の鎖”で包囲

 2面  シリーズ 安倍政権批判(6)
     格差を拡大、軍事大国めざす

     書評
     「アラブの春」の正体 欧米とメディアに踊らされた民主化革命
     重信メイ著 角川oneテーマ21(新書)2012年10月刊

 3面  「大飯の乱」から一年
     再び大飯原発ゲート前へ
     6・27〜30 おおい町などで全国集会
     

     守れ!経産省前テント シリーズ
     猛暑と参院選の渦中で

     教科書と領土問題の関係
     高嶋伸欣さん(琉球大学名誉教授)招き学習会

     夏期特別カンパのお願い

 4面  原発事故―その時病院が直面した現実
     ある医療従事者の体験(最終回)

 5面  寄稿
     沖縄から日本を問う(2)
     〜沖縄、ヒロシマ・ナガサキ、福島〜
     知花 昌一      

     「沖縄の心」とは何か
     大田昌秀・元沖縄県知事が講演
     奈良

 6面  直撃インタビュー 第19弾
     「あのとき2歳だった。悔しいね」
     〈8・6ヒロシマ平和の夕べ 〉を呼びかける 久保田圭二さん      

             

原発再稼働を許すな
安倍・自公政権にNo!をつきつけよう

原発立地の地元からかけつけた人たちが原子力規制委員会の前で抗議の声をあげた(8日 都内)

8日、東京・六本木の原子力規制委員会の前で、「新規制基準の施行」と、原発再稼働申請に対する抗議闘争がおこなわれた。福島原発事故のもっとも重要な教訓は、核エネルギーを技術的に制御することは不可能であるということだ。参議院で過半数を制して、原発推進へと舵を切ろうとしている安倍・自公政権にストップをかけよう。
8日、再稼働を申請したのは、北海道電力の泊1〜3、関西電力の大飯3、4、高浜3、4(福井県)、四国電力の伊方3(愛媛県)、九州電力の川内1、2(鹿児島県)の計10基。
申請された原発のほとんどが新規制基準を満たしていない。「緊急時対策所(免震重要棟)」が完成しているのは、5原発のうち伊方原発のみである。また北海道の泊、福井県の大飯、高浜では防潮堤ができていない。
さらに南海トラフ地震の脅威が迫っている伊方原発は佐多岬半島の付け根にあるが、岬の先には5千人が暮らしている。事故が起きれば避難は極めて困難だ。
鹿児島県の川内原発の直近には巨大活断層があるが、九電はこれを無視して申請を強行した。規制委員会の前では、原発立地の地元から次々と抗議の声があがった。
自民党は参院選公約で「資源・エネルギー大国への挑戦」をうたい、「原子力技術の輸出」と「原発再稼働」をかかげた。安倍政権による「原発ゼロ政策」の全面放棄を許してはならない。

低賃金で被ばくを強制
暴かれる除染労働の実態

6日、被ばく労働を考えるネットワークが、「除染事業と除染労働の実態を問う7・6集会」を都内で開いた。

ウソの募集

集会では、現場で立ち上がった2人の労働者がその体験を語った。
「線量の低い安全な場所」という募集内容がすでに嘘だったというケース。危険手当の存在を知って交渉したところ一方的に給与体系を変更され、ほとんど賃金が増えなかったこと。8畳間に4人が詰め込まれた宿舎。重労働にもかかわらず、昼はおにぎり2コという貧しい食事(しかも250円徴収される)。声をあげなければマスクさえ支給されない現場もある。仕事を失う恐怖、仲間との分断など労働者をとりまくさまざま困難な状況が語られた。

国家ぐるみの犯罪

このような労働者の体をむしばむ低賃金・危険労働が国家ぐるみでおこなわれていることが露(あらわ)になった。「危険手当は給与ではないから関与しない」と言い放つ労基署。現場の劣悪な労働環境を目にしながら何の指導もしようとしない監督官庁。
最近では「除染労働は建築業ではない」と言い始め、さらなる「規制緩和」を探っている。 この現状を打破するためには、現場の労働者のたたかいへの支援を強化しなければならない。

橋下市長 辞めてんか
大阪市役所を“人間の鎖”で包囲

市役所包囲行動の前に集会。ライブ演奏とアピールが続いた(6月28日 大阪市内)

「橋下市長 辞めてんか! 6・28市役所包囲行動」がおこなわれ、330人が市役所を人間の鎖で包囲、「橋下市長〜、辞めろ〜」の声が轟いた。主催は、〈大阪を壊さんとって ストップハシズム! 大集合〉。
包囲行動に先立ち、夕方、市役所近くの中之島公園水上ステージで集会がひらかれた。
西谷文和さん(WTC住民訴訟の会)の司会で開会。冒頭、天真爛漫☆のライブ演奏があり、つづいて、橋下・維新の会とたたかう各団体からアピールがあった。
赤バス存続を求める市民の会、オスプレイ来るな八尾連絡会、「君が代」不起立で処分され処分撤回をたたかう方、大阪市思想調査をめぐる裁判をたたかっている方、「震災ガレキの絆」利権と題してmojimoji先生こと下地真樹さん。
〈こばやし・まりこ&わしお・ゆうじろう〉による痛烈な橋下批判ライブ演奏をはさみ、後半もアピールが続いた。

大阪都構想をつぶそう

入墨調査拒否で処分され処分撤回をたたかっている方、日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークなど。最後に「大阪都構想を撤回させよう」と藤永のぶよさん(WTC住民訴訟原告団長)が発言。
藤永さんは、「大阪都構想の中身は市民には知らされていない。にもかかわらず、橋下市長は来年7月に、住民投票で決めるつもりでいる。自治をつぶすような乱暴な都構想は、絶対つぶさんといけません」と訴えた。
そのほか、服部良一さん、笑福亭竹林(ちくりん)さんが連帯あいさつをした。

(注)大阪市営赤バス

一般の大型バス路線ではカバーしきれない、各区内の住宅地と病院・商店街・鉄道駅・区役所などの公共施設をきめ細かく結ぶ地域密着型公共交通サービスとして運行されてきた。料金は100円。橋下は、今年3月でこれを全廃し、老人、「障害者」の大切な移動手段を奪った。

2面

シリーズ 安倍政権批判(6)
格差を拡大、軍事大国めざす

7月21日投開票の参院選について、大方の予想は自民党の勝利である。自民党は、昨年末の総選挙につづいて6月の都議選においても「圧勝」した。自民党の「圧勝」はどのような政治構造によってうみだされたのだろうか。

自民の基盤は脆弱

12年末の総選挙における比例代表選挙の得票率や得票数を見ると、自民党は得票率でわずか0・89ポイント伸ばしただけである。得票数では219万票減らしている。それでは、自民の「圧勝」はどうして実現したのか。それは民主党が歴史的な大敗北を喫したことが最大の要因である。
民主党は比例代表選挙の得票率で実に16・4ポイントのマイナスである。得票数では2021万6100票も激減している。自民党の得票数が1660万票であったことを見れば、民主党大敗の規模の大きさがわかるであろう。

漸進路線への転換

しかし、自民の「圧勝」を民主の「大敗」だけで説明することはできない。どうして自民党が得票を維持することができたのか。そのポイントは、自民党が急進的な構造改革路線から漸進路線への転換を打ち出したことにある(渡辺治「安倍政権と日本政治の新段階」)。
自民党は「日本を、とり戻す。」をメインスローガンとした2012年の政権公約で、大幅金融緩和と公共事業を中心とする大規模な財政出動を打ち出した。いわゆる「アベノミクス」である。

日本を資本の天国に

さて自民党の参院選公約は政権公約を基本的に踏襲したものであるが、その特徴の第一は、アベノミクスの「第3の矢」である成長戦略を前面に押し出していることである。そこでかかげられているスローガンが「世界で一番企業が活動しやすい国」である。 その柱となるのが「法人税の大胆な引き下げ」と「失業なき労働移動」の二つだ。「失業なき労働移動」とは、大企業のリストラ・解雇を大規模に進めていこうとするものである。これは「整理解雇4要件」などの解雇規制を撤廃し、すべての労働者を不安定雇用にたたきこもうとするものだ。
また「国際先端テスト」の導入もかかげている。これは国内の「制度的障害」を国際比較した上で撤廃する基準をさすもので、際限なき規制緩和を進めていくための手段となる。
安倍政権の成長戦略とは、米系ファンドを中心とした直接投資を呼び込むために、日本のM&A市場を全面的に開放しようというものだ。これは日本社会に対する致命的な一撃となるであろう。

軍事大国路線

もうひとつは、軍事大国路線を集団的自衛権の行使容認から改憲へと突き進む道として打ち出したことである。公約では「資源・エネルギー大国への挑戦」として「自国経済水域内の天然ガス、メタンハイドレート、レアアース泥等の探査・技術開発・利用の促進」をかかげた。これは東中国海、南中国海における「海洋資源防衛」のための軍事力増強にストレートにつながっている。
そのために日米ガイドラインの見直し(集団的自衛権行使容認)、海外の邦人救出に陸自の出動、辺野古新基地建設などの日米軍事同盟強化をかかげている。
そのほか、原発再稼働、教育破壊などの反動攻勢を列挙している。
最初に述べたように、自民党の基盤はけっして盤石ではない。広範な民衆の怒りを結合することができる大衆運動の登場こそが課題である。

自民党参院選公約の主な項目

【経済】

・世界で一番企業が活動しやすい国
・高生産部門への失業なき労働移動/法人税の大胆な引き下げ
・安全と判断された原発の再稼働については、地元自治体の理解が得られるよう最大限の努力
・自国経済水域内の天然ガス、メタンハイドレート、レアアース泥等の探査・技術開発・利用の促進

【外交・防衛】

・南シナ海・東シナ海等(ママ)における「法の支配の一般原則」などの共通の価値に対する挑戦には
関係諸国とも協議した上で、秩序の維持に努める
・日米同盟の強化を進めるとともに、アジア太平洋地域の抑止力を高めるため、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を見直しつつ、同盟国・友好国との防衛協力を推進 ・普天間飛行場の名護市辺野古への移設を推進

【憲法】

・天皇陛下は元首/国旗・国歌・元号の規定
・自衛権を明記し、国防軍の設置、領土等の保全義務
・憲法改正の発議要件を「衆参それぞれの過半数」に緩和

書評 「アラブの春」の正体 欧米とメディアに踊らされた民主化革命
重信メイ著 角川oneテーマ21(新書)2012年10月刊 820円(税込)

今ふたたび、1年前にムバラクを打倒した人々がタハリール広場に結集し、ムルシ大統領は、軍の介入で解任された。2010年から始まった「アラブの春」は未完であり、これから本番を迎えようとしている。
「早くシリアに軍事介入してアサドを倒してほしい」という多くの日本人の感情を逆なでするような本が出版された。本書はチュニジアやエジプトは『革命』であり、リビアやシリアは『内戦』であるという結論と、なぜそうなのかについて詳細に論じている。

チュニジアとエジプト

チュニジアの運動は大学を卒業し、失業のために野菜売りをして家族を養っていた青年が、無許可営業を理由にその道も断たれ、2010年に自殺したことから始まった。根底には深刻な経済問題がある。左派とリベラル派は猛然とたたかい、ベンアリ大統領を打倒したが、選挙でイスラム原理主義に敗北し、苦い結末を招いた。
エジプトもチュニジア同様深刻な経済状態だった。エジプトでは2006年頃から工業都市(アルマヘッラ・アルコブラ)でストライキが多発していた。チュニジアとエジプトの共通点は失業と政府の腐敗である。
エジプトに対するアメリカからの経済援助20億ドルの大半は軍に流れていた。軍は大企業に投資して経済活動に深く関わっている。民衆のたたかいに直面した軍は経済的利益を守るために、ムバラクを見限り、アメリカもムバラクを見放した。ムバラク退陣後の大統領選挙では、「アラブの春」をたたかった左派・リベラル勢力は決戦投票に残ることができず、ムスリム同胞団のムルシ(右派)が大統領になった。
ムルシは軍に有利な憲法を無効にしたが、逆に権力を大統領に集中して、革命を台無しにしてしまった。ふたたび、タハリール広場に「ムルシ打倒」の声が響き渡った。左派・リベラル勢力はクーデターを決行した軍による「革命」の簒奪を許してしまうのだろうか。

リビア

リビアのカダフィは革命勢力や民主化運動を支え、パレスチナ解放運動を支持し、1980年代まで高い評価を得ていた。カダフィはエジプトのナセルを信奉し、政治と宗教を分離して統治するアラブナショナリズムの立場をとっていた。
リビアは産油国であり、経済的には安定した国で、大学までの教育費、医療費、電気代、水道代は無料である。ただし秘密警察を持つ独裁国家に対する批判がある。
リビアはアラブで4番目に広い国で、東部(キレナイカ)、西部(トリポリタニア)、南部(フェーザーン)に分かれており、対立してきた。1969年、カダフィ(西部)がクーデターをおこし、徐々に東部の不満が高まっていた。著者はキレナイカがチュニジアやエジプトの民衆運動の刺激を受けて、カダフィ打倒に決起したとみる。
そして最も重要なことはリビアの石油生産は国有企業なので、米欧の資本が入れない。東部の反政府派の決起に、欧米諸国が石油を狙って支援した。カダフィ打倒のあとに、中央銀行が結成されて、国営企業は民営化され海外資本が流入した。
「カダフィ=独裁者」という悪印象が広がっているのは、天然ガスをめぐってリビアと利害が対立する親米・親サウジアラビアのカタールが資金援助しているアルジャジーラの偏向報道に一因があると、著者は考える。

シリア

シリアは1946年にフランスから独立し、1970年にアサド(父)がクーデターを起こし、バアス党が統治している。政教分離・アラブナショナリズムの国家で、経済格差は小さく、貧困層には砂糖やお米などの現物支給をするなど一定の福祉政策をとっている。
2012年5月に109人(内女性49、子ども34)が死亡するという事件が起きた。メディアとアメリカは政府側の仕業と発表したが、しかし事件の場所がスンニ派の街であり、政府側の人物が容易に入り込めないこと、20人が砲弾で殺されたが、そのほかの女性・子どもは首を切られており、この方法はイスラム原理主義者のやり方なので、著者はメディア発表を疑問視する。
2006年にイスラエルがレバノンに侵攻したが、シーア派のヒズボラに阻止された。アメリカは対イラン政策として、シリアやレバノンのヒズボラを押さえこむために、反政府勢力を支援し、国民の要求が政治的に利用されて内戦化していると著者はみている。多数派のスンニ派(70%)の中間層は混乱を求めてはおらず、国内外の反政府勢力がアメリカなどにそそのかされて行動を起こしていると見ている。
以上のように、リビアやシリアの「内戦」がチュニジアやエジプトの「アラブの春」の延長線上にあるかのように考えることは、メディアやアメリカの情報を鵜呑みにすることから起きていると、著者は警鐘を鳴らしている。(S)

3面

「大飯の乱」から一年
再び大飯原発ゲート前へ
6・27〜30 おおい町などで全国集会

「ただちに稼働を停止せよ」大飯原発ゲート前に向かうデモ隊。先頭左から2人目は鎌田慧さん(6月30日 福井県おおい町)

高浜にMOX燃料搬入

昨年の大飯原発再稼働阻止闘争(「大飯の乱」)から一年、6月27日に、おおい町に隣接する高浜町に、フランスで製造されたMOX燃料が搬入された。
午前6時20分、フランスからの搬送船(イギリス船籍)を迎え撃つため、「大飯の乱」をたたかった仲間たちが、高浜原発対岸の音海(おとみ)地区防波堤広場に結集した。社民党、平和フォーラム、原子力資料情報室、反戦行動きょうと、美浜の会、グリーン・アクション、反戦老人クラブ滋賀、三里塚決戦勝利関西実行委員会、全港湾、日教組、緑の党などがそれぞれ旗を朝風になびかせて、抗議集会を開いた。
京都在住のフランス系の方は、入港してきたイギリス船をみやりながら、「アウシュビッツのような残虐なジェノサイドが敢行されているようだ」と慨嘆した。

若狭ゆずり木平和祭

小浜市で反原発活動を続けて40年になる中嶌哲演さんの明通寺で、29日、「若狭ゆずり木平和祭」が開かれた。企画はロックバンドの〈はちようび〉。
山門前のフリーステージ、さまざまな屋台。そして、不動明王が見そなわす明通寺内集会所では、福井県から福島被災地援助活動・取材をしてきた渡利さん、若泉さんが、小浜市の人たちや東京など各地から駆けつけた人たちとビデオ・フォーラムを催した。
劣化ウラン弾で被災した子供を救う活動をしている東京・たんぽぽ舎からの参加者は、この企画が「まだ積極的に反核運動に参加できていないひとたちに門戸を開いた」と評価していた。
また本堂下に建てられたティピ(アメリカ先住民の円錐形の移動用住居)のなかで関西の音楽家たちが熱演。
さらに、本堂前で東京から朴保さん、3人のアイヌ文化継承者の話やトンコリ、ムックリ(いずれもアイヌ民族の伝統的な楽器)の演奏、さらに民族固有の歌が披露された。
本堂では、中嶌哲演さんの反原発講話、木原壮林さん(プルトニウム研究家)の原子力マフィアの実態を暴く専門的な講義がおこなわれた。

大飯原発へデモ

翌30日は、おおい町の大島公民館で全国交流会と集会を開催。全国集会では鎌田慧さんが講演。関西地区生コン支部、関西合同労組なども参加。
集会後、450人の参加者全員が大飯原発ゲート前までデモ行進。関西電力に、即時稼働停止を申し入れた。(南方)

守れ!経産省前テント
  猛暑と参院選の渦中で

経産によるテント撤去攻撃に抗議の声が全国に広がっている(7月9日撮影)

7月7日午後2時、首相官邸前再稼働抗議七夕行動からひきあげてきた人々のある部分は、日比谷図書文化館4階小ホールへ向かった。経産省前テント創建666日目。気温は、35度。経産省が「土地明け渡し訴訟」の被告として9条改憲阻止の会・正清さん、経産省前テントひろば・淵上さんの2名を特定したことに抗議し、テント排除・退去への反対の意志を表明する当事者(=被告)に名乗りをあげた人々は330人を超えた。
この日、日比谷図書文化館で開かれた当事者集会には、スタッフを含めて150人が参加。フロアに座りこむ大集会となった。
はじめに、淵上さんより、全国から駆けつけてきてくれた「同志」に、熱い連帯のあいさつ。「意味もなく経済産業省の空き地にテントを建てるわけがない。福島原発事故がなければテントなどなかった。」と強調。この原因と結果の因果性のなかに、福島の人びとにたいする棄民政策に象徴される原発事業の深い闇が横たわっている。そのことを告発する使命がこのテントにある。淵上さんは、テントがもっている共同性と公共性を力説した。 さらに、一瀬、長谷川両弁護士が法廷闘争の特殊なしきたりを説明し、応援を約束した。弁護団は100人を超えている。
福島から7人の女性が参加。武藤類子さんは、東電を糾弾するたたかいや行政への訴追に対して、個々ばらばらにする分断攻撃がかけられていることを涙ながらに訴えた。会場から、傷害殺人を犯している可能性のあるものが、被害者に罪を着せるようなあり方を逆転させるために、あらゆる闘いを試み、ともにがんばろうという声も上がった。
今後もこの当事者募集を続行し、個々の当事者が陳述書を書くことが要請された。
22日に開かれる法廷では、傍聴者を500人に増強し、事件を「貸借関係」にわい小化しようとする権力を数の力で圧倒しようと呼びかけられた。裁判当事者への応募申し込みは、テントひろばまで。
さらに、応援団も、鎌田慧さんを団長として、強力に発展しつつある。参院選の動向、規制庁の安易な再稼働認定と危機は深まる一方だ。(Q)

経産省前テントひろば
http://tentohiroba.tumblr.com/

脱原発テントといのちを守る裁判
http://tentohiroba-saiban.info/

教科書と領土問題の関係
高嶋伸欣さん(琉球大学名誉教授)招き学習会

6月13日、「関西・沖縄戦を考える会」の第4回学習会が大阪市内で開かれた。
学習会のテーマは、「八重山の教科書と領土問題」である。講師は琉球大学・名誉教授の高嶋伸欣さん。高嶋さんは鋭い視点で文部科学省の教科書問題を批判してきた。

領土・防衛問題が核心

高嶋さんは、「八重山教科書問題の本質は、尖閣諸島などの領土問題と自衛隊による南西諸島の防衛問題である」とし、「それは改憲の動きと一体であり、日本が戦争を起こすことに繋がっていくものである」という。
「八重山教科書問題」とは、沖縄の八重山地区における中学生の公民教科書の採択と無償配布をめぐる問題である。
八重山教科書採択地区協議会は、石垣市・竹富町・与那国町の教育委員会で構成されている。石垣市と与那国町の教委が領土問題を前面に押し出している育鵬社版を採択したのに対し、竹富町教委は「戦争に繋がるような内容の教科書を生徒たちに使わせるわけにはいかない」ということで育鵬社版の採用に反対し、東京書籍版を採択した。

文科省のどうかつ

文科省は教科書無償措置法で同一採択地区内で同じ教科書を使うことを定めていることを根拠に石垣市と与那国町を無償配布とし、竹富町に対しては「違法」を理由に有償としている。
文科相政務官の“ヤンキー先生”こと義家弘介衆院議員は沖縄に出かけ、竹富町教育委員会と沖縄県教育委員会に対して文科省方針に従うよう恫喝した。これに対して竹富町教委は各自治体の教育委員会に採択権があるとする地方教育行政法を根拠に適法性を主張し、無償配布を要求している。
3市町の全教育委員による協議会は東京書籍版の採択を決定した。沖縄県教委は教育長の交代に動揺しながらもこれまで通り竹富町教委の立場を支持して文科省の指導に応じていない。

地域住民のたたかい

「子どもと教科書を考える地区住民の会」や「子どものための教科書を考える保護者の会」、「竹富町の子どもに真理を教える教科書採択を求める町民の会」の住民3団体は石垣市・竹富町・与那国町の各教育委員会に、改めて3市町の全教育委員による公開の協議により、調査員報告に基づき教科書を採択し直す
竹富町は無償配布を要求している立場から町が教よう要請書を提出。県教委には再度協議・採択するよう指導と助言を求めた。科書を買い上げて配布するわけにはいかず、「町民の会」の住民が東京書籍版を寄贈したほか、寄付などの支援の輪が広がっている。文科省はこれを容認せざるを得ない状況に追い込まれている。6月現在の状況では、県教委の指導の下で3市町の教委による再協議が開かれつつある。
以上が高嶋さんの講演の要旨である。

本土の課題として

高嶋さんの提起を聞いて、普天間・辺野古・高江―オスプレイなどの米軍基地問題と同時に、「尖閣」問題・先島への自衛隊配備問題や教科書問題(日本軍による住民に対する強制集団死の記述)など沖縄をめぐる今後の動向を注視しすべきであることを痛感した。(島袋純二)

夏期特別カンパにご協力をお願いします

『未来』読者のみなさん。支持者のみなさん。安倍・自民党は、7月21日投票の参院選挙の公約で、普天間基地の辺野古移設推進、原発再稼働、規制緩和そして憲法改悪をかかげて反動攻勢に打ってでています。
安倍は福島第一原発事故の収束の目処すら立っていないのに、原発の輸出と再稼働を強行しようとしています。
また安倍はTPPを推進し、農業を破壊する一方で、解雇を自由化するなど労働者の権利を根こそぎ奪い取って、「資本の天国」をつくり出そうとしています。新自由主義攻撃と闘う社会的労働運動を軸とした大衆運動を強力に展開しなければなりません。革共同再建協議会への夏期特別カンパをお願いします。

《カンパ送り先》

◎郵便振替
口座番号:00970−9−151298
加入者名:前進社関西支社
◎郵送 〒532―0002
大阪市淀川区東三国 6―23―16
前進社関西支社

4面

原発事故―その時病院が直面した現実
ある医療従事者の体験(最終回)

病院の敷地内に散乱するベッドや車イス。原発事故直後の避難時の修羅場が想起される(写真は双葉病院 2011年10月撮影)

福島原発事故当時、第一原発から9キロ、第二原発から3キロにある今村病院に勤務していた佐藤慎司さん(30代、仮名)の体験を紹介する。佐藤さんはその日も通常通り出勤して事故に遭遇。患者の避難に奮闘した。
事故からすでに2年が経過した。佐藤さんは当時の状況を振り返って、「原発事故の責任をいったい誰がとるのか」と、医療従事者として現体制への率直な疑問を語った。「人間は制御できないものをつくってしまった」のだと。

バスでとにかく山の方へ

―バスに乗った患者をどこに運ぶか、どこで受け入れてもらうかは?
そのときは、たぶん何も決まってないでしょう。何も決まっていないけどとにかく出ると。「どこどこに逃げてください」とか、「どこどこの病院に受け入れてもらえますから」なんて話はないから。ただ「逃げろ」という感じだったと思う。「とりあえず山の方に逃げろ」みたいな。富岡から言うと、山の方というのは川内とか郡山方面ということになる。 第一目的地としては川内となった。川内村に診療所があるんですよ。そこの施設にお願いする。もちろんナースも何人か残るということだったと思う。
川内あたりから通っているスタッフもいるし、たまたま結婚を機にウチの病院を辞めてその診療所に移った人がいたので、患者さんとか家族とか地域の人とつながりがあったから、比較的安心ということもあった。
軽度の方は川内で降りて、比較的症状の重い方はそれなりの管理された条件がないといけないということで、郡山の病院に連絡を取りながら。
ある程度引き取ってくれる病院で何人かをわたして、という作業をたぶん、12日の深夜までやっていたと思う。

―その過程で容態が悪くなることは?
そもそも重症の人たちではなかったから、すぐに症状が悪くなるという心配はなかった。逆にそういう心配のある人は動かさなかった、というか動かせなかった。
だから、郡山に着くまで容態の大きな変化はなかったと思う。病院に受け入れてもらってからの状況まで掌握できていないけど。とりあえず受け入れてもらうところまではそういうことだったと思う。

―受け入れが終わったらまた富岡に戻ると?
それがそうならなくなってしまった。どの時点だったかはっきりしないんだけど、郡山あたりで「自衛隊の部隊が、川内村あたりまで行って、また撤退した」という話が入ったわけ。
その時点で、これはほんとにやばいなと思った。
それで、まずは川内にいったん降ろした患者さんをもう一度乗せるために川内に戻ったんだ。
自衛隊が撤収するということは、「病院に残してきた人はどうなるのか」ということになる。
県の災害対策本部というところを中心に、われわれの動き方とか、避難所の情報をもらいながらやってたんですけど、その災対本部から「放射線量が高いので近づかない方がいい」と。それで「救出に関しては、自衛隊の方にお任せするしかないでしょう」と。 自衛隊の方でも、災対本部を経由して「できる限り努力はします」と。逆に言うと「運べないと判断したら、それを了承してください」というニュアンスだったと思う。 もうわれわれの手ではどうすることもできない。警察とか自衛隊に委ねるしかない。そういう事態だった。

郡山でサーベイ

―郡山に着いてからは?
薬とか点滴とか、いろんなものが足りなかったし、カルテも置いてきた。そんな状態で郡山に着いた。着いたらまず、スタッフ全員、患者さん全員、機械で放射能汚染の検査。「サーベイに引っかかった場合には、患者さんは引き受けません」と言うんだ。これはほんと深刻だなと思った。

―すぐに受け入れ先が決まらない患者さんは?
それは郡山高校の避難所に。ドクターとナースがついて。 僕らスタッフは郡山高校の患者さんが落ち着くまでついていて、最後は僕らの寝るスペースはないということなんで郡山北高校に移った。
翌朝からは、とにかく普段やっているケアをできる限りやるということだね。口から食べられる人だったら、出された食事を与える。胃瘻の患者さんだったら、それをやる。それを持ってきてやっていた。あとは、排泄から何から、なるべく普段通りに。
何とかその人たちを支えることができた。最悪の状態になった人はその時点ではいなかったと思う。その後、病院に移ってからのことは、今の時点ではわからない。

3人の方が死亡

―国会事故調では、3人の患者さんが亡くなったと報告されていますが?
自分が認識している範囲では、12日の段階で残った方がベッドの上で亡くなっている。 パーキンソン病で、嚥下性肺炎を起こして入院されていた70代の方。全く動けない状態。 コミュニケーションも取れない。酸素吸入や排尿の管が付けられている状態。そして最低2時間おきに吸引とかのケアが必要な患者さん。
だからもともと大変な容態だったことには違いない。だけど亡くなった原因としては、すごく難しい事態とか、病気そのものが悪化してということではなくてね・・・。
もちろん残った医師とナース、スタッフの態勢でできる限りのことはしただろうけど。ただ残念ながら・・・。
なぜその患者さんのことが印象に残っているかというと、この方のご家族が郡山の避難先に訪ねてこられてね。「うちの人がここに来ているはずなんですけど」と。ところが、その時点では亡くなっていたんだな。
それで「自衛隊の方々にも、手伝っていただいたんですが・・・、残念ながら」という話を病院の方からしたということがあったと思う。

―つらい話ですね…
たしかに患者さんの状態から言って、かなり厳しい状態であった。ただ人間の尊厳として、どういう人であれ一緒なんだから、こういう形で亡くなったことは本当につらいし悔しい。家族の方にたいして申し訳がないですよ。
地震と津波ではこういうことは起こらなかった。避難はないわけだから。「原発さえなければ・・・」ということだね。

制御できないものをつくった責任

避難者も死んでいる

―2年たって改めて感じることは?
2年がたってようやく少し話をする気持ちになったかなという感じ。
当時いっしょだった人たちとも会ってない。集まりましょうという話もあったけど。病院を再開するというなら行こうかと思ったけど、再開の見通しもなく、昨年1月にはわれわれスタッフは全員解雇になっている。
国会事故調の報告書の病院に関わるところは読ませてもらったけど、う〜ん、たったこれだけ?書いてあることは、間違ってはいないけど、大まかで人の動きが見えてこない。

―現場を体験したものとして言いたいことは?
誰が責任を取るんだということなんだよ。国なのか、県なのか、首長なのか、東電なのか。そこがまずはっきりしない。遺族にとってみたら、謝られて許すとか、認めるという問題じゃないだろうけど。
大きな意味で、国の体制みたいなものに疑問を感じる。国というのが、最終的には何もしてくれないというか、遺族にとっては納得するなんてことはあり得ないと思うんだよね。 医療に携わってきた人間として悔しい・・・。医療としてベストを尽くしても助けられないことはたくさんあるけど、今回は医療のベストを尽くせない状況に叩き込まれたわけだから。
本来、一番弱いものとか、そういう人を優先的に助けようということでしょ。それが、一番の症状の重い人たちの避難が結果的には後になってもっとも大変な状態になった。それはもう、大きな矛盾だよ。
だから制御できないものをつくった人間の責任なんだろうね。
われわれ医療の仕事というのは、患者さんに関わるとき、最悪の状況を想定した上で、関わるんですよ。でも、東電がやってきたことは、その逆だね。最悪の状況を想定外にしていたわけだから。

―原発の再稼働か否かということが議論になっていますが?
どう議論したって、結論は一緒になると思うよ。制御できないものをつくっちゃったわけなんだから。
「放射能で死んだ人間はいない」というけど、実際にはうちの病院をはじめ、たくさんの人が避難やその後の負担で亡くなっているわけだから。
病院関係だけでも避難で何十人と亡くなっている。避難ということ自体が、避難をせざるを得ないという事態が、このような死を強制するということだったんだ。そういうところに町があり、病院がある。というかそういうところに原発がある。
では、日本全国で原発から半径50キロには医療施設はつくらないということにしたら。だって、いざというときは避難できないわけだから。でも、それじゃあ、その範囲では生活できない、生活圏にならない。結局、そういうところは日本中どこにもない。 原発再稼働に賛成とか反対とか、安全基準だとか、いろいろ議論されているけど、「ひとつ原発事故が起こったら、こんなに犠牲が出るんですよ」「動かしてはいけない人を『逃げろ』という話にしてしまうんですよ」ということを考えてくれたら、結論はやっぱりはっきりしているんじゃないかと思うよ。(了)


5面

寄稿
沖縄から日本を問う(2)
〜沖縄、ヒロシマ・ナガサキ、福島〜
知花 昌一

「日の丸」を焼き捨て、三里塚闘争と固く連帯し、反戦・反基地をめざした。沖縄はもとより何度も何度も「本土」の集会にかけつけ、沖縄と「日本」の共同した基地撤去を訴え続けた。親鸞を学び、たたかいに新たな道を求める知花昌一さんから、「いま、沖縄から日本を問う」と寄稿をうけた。連載2回目では、知花さんは「いま第5の琉球処分が進行している」と問題を提起する。

三度、沖縄を切り捨て

第3の琉球処分は、1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約。日本は主権を認められ、沖縄は切り捨てられた。天皇は身を守り天皇制を維持するためにメッセージを出し、沖縄は基本的人権も自治もない状態におかれた。沖縄にとって4・28は、「屈辱の日」として多くの人たちに位置づけられている。
第4は1972年の「復帰」「沖縄返還」。アメリカによる屈辱的な支配から逃れるために、私たちが求めたのが日本だった。私たちは日本を「祖国」とさえ言って、それを求めた。そこに沖縄が解放される道があると。オール沖縄といわれる復帰運動を展開した。 69年佐藤―ニクソン会談で沖縄の本土復帰が決まる。嬉しかった。ところが実態は米軍基地が残る。何も変わらない。そういう返還協定に反対しようと、沖縄は「祖国復帰」から「反戦復帰、基地をなくせ」という運動に変わった。「基地・核付き返還」に反対し、沖縄でも本土でも多くの人たちが血を流してたたかった。沖縄は71年に2回のゼネストをやり、「こんな復帰は嫌だ」と強烈な表現をおこなった。本土の民衆、学生や労働者も、沖縄と呼応し「返還協定反対」へ激しい運動を展開した。5・15復帰、あれほど求めてきた「復帰」が、沖縄にとっては第4の琉球処分だった。

第5の琉球処分

そしていま、第5の琉球処分がおこなわれようとしている。
沖縄はこの10年余、4回もの10万人規模の県民大会を開いてきた。95年、少女暴行事件。10万人が決起した。07年には、沖縄の「集団自決」の記述をめぐって高校の教科書が改ざんされた。「日本軍による・・・」という記述が消された。この1行を戻すために10万人が集まった。でも、復元されていない。10年4月、普天間基地の辺野古移設に反対、読谷村で10万人集会。そして去年9月、オスプレイ配備に反対し10万人が集まった。
沖縄は人口140万人。10万人が1か所に集まるのは大変なことだ。お金を使い、時間、エネルギーを使って集まる。世界をみると、10万人の人が集まると静かには終わっていない。いろんなことが起こる。沖縄は4回の10万人集会で、民主的な手法で沖縄の意思表示をしてきた。
少女暴行事件のとき、日米地位協定の見直しを求めた。アメリカ兵を逮捕も裁判もできない、そういう協定のどこに主権があるのか。教科書の1行。辺野古に新基地建設。41市町村すべて、知事も含めて反対しているにもかかわらず、何も変わらない。

マグマは爆発する

私たちはこれ以上どうするのか。あと何回10万人集会をやれば変わるか。変わらないだろう。そうだったら、もう独立しかないじゃないか。独立すれば、すべて変わるのか。幻想はないが、それしか私たちは叫ぶことができなくなってきているのではないか。マグマが盛り上がってきている。いつ爆発するか分からない状況といえる。
1970年、コザ民衆蜂起が起こった。米軍のあまりの横暴に対し、がまんにがまんを重ねた沖縄の人たちが、米兵による交通事故、米軍が米兵を逃がそうとしたことを契機に、米ナンバー車両80台を焼打ちした。沖縄民衆蜂起。また、そういうことになるのか。そこまできている。
私たちが求めた本土復帰、日本といっしょになって平和に生きていきたい。しかし、いま沖縄の民衆は本土と別れたいという気持ちになりつつある。沖縄の側が悪いのか。 4・28に、なぜいまごろ戦後68年もたつのに、講和条約からこれだけの時がたったのに、主権回復の日という祝賀式典を考えたのか。憲法は1947年施行。講和条約より前だ。主権が承認されていないときに憲法・教育基本法はできた。「主権がないときつくられたから、無効だ」と言いたいのだろう。だから変えようとする。安倍政権はそのために、いまごろあえて「主権回復祝賀式典」を持ち出してきた。憲法96条を変え、9条を変える。沖縄にとっても重大だ。新しい基地建設にオール沖縄で反対している。憲法9条と沖縄は重大な関係にある。そういう意味では本土といっしょの闘いができれば、と思う。

核不使用共同声明に加わらない日本

4月、ジュネーブのNPT(核拡散防止条約)会議で、「核不使用の共同声明」に日本は加わらなかった。なぜ日本はそうなってしまったのか。広島・長崎で30万人が殺され、沖縄も20万人が殺された。いまフクシマで殺されようとしている。その体験をもった日本が、核兵器不使用の共同声明に加わらない。広島・長崎、沖縄の体験、その犠牲が無視、否定されている。足蹴にされているような状況にある。世界各国からすると「日本が真っ先にサインするべき」と思われて当然なのに、しない。
私たちの側からも、人間の感性である「想いをはせる」ということが、どんどん剥ぎとられていっているのではないか。人間のつながりは、相手に想いをはせることが基本だと思う。運動もそうだ。例えばハンセン病者の人権回復のたたかい、原発も、沖縄もそうだ。遠く離れて、見えないところに隠されている。私は福島がなかなか見えない。あなたも、沖縄は見えないはず。しかし、想いをはせることはできる。その感性を鈍らせてはならない。私たちはあの時代、大学、安保、沖縄闘争と、身を挺してやった。いまは、感性が鈍ってきているのか。それが、いまの状況を加速させてきているのではないか。

飼われる畜生になるな

資本主義の拝金主義とかに押されてきているだろう。自分の生活すら見えない状況に閉じ込められては、孤立化させられる一方だ。現実を見ると楽しいことはあまりない。沖縄で沖縄の現実を見れば見るほど苦しい。悩む。解決できる道を、自分は持っていない。悩みから、怒りが生まれてくる。宗教一般も仏教も、怒りは煩悩だからよくないものとされている。怒りを静めることが宗教者だといわれるが、私は親鸞を学び、怒りというのは慈悲の深い心から出る本質的な表現だと受けとめた。
福島にはいま、家族も離ればなれになり、地元に帰りたくても帰れない大勢の人たちがいる。私たちは沖縄で地獄、畜生道にある。先日対談した広島の僧侶・中村周六さんは牛飼いをしている。私たちは、誰に飼われているのか。国家、権力から、まっとうに物を見させないように飼われているのではないか。仏教は、「サイの角のように一人になれ」「みんなしていくな。一人で歩け」といわれるように、自立した一人になることを教えている。飼われる畜生になるなということである。(つづく)

「沖縄の心」とは何か
大田昌秀・元沖縄県知事が講演
奈良

「沖縄の真実を伝えたい」と語る大田さん(6月30日 奈良市内)

6月30日、「大田昌秀さんが語る『沖縄の心』」集会が奈良県人権センターでおこなわれた。この集会は16の団体が主催・賛同し、150人が参加した。大田さんの講演は、参加者に「沖縄の問題は自分たちの事」という認識をあらたにさせた。
以下、大田昌秀さんの講演内容を報告する。

真実を伝える

大田さんは、「本土の方々が聞きたくないような事を言わないわけにはいかない。誤解をあたえるよりは真実を伝えたい」と前置きをして話を始めた。講演は沖縄戦の様相、戦後から今日にいたる沖縄の米軍基地反対の歴史を実証的に掘り起こし、その真実を具体的に語った。
日本政府は事実を覆い隠し、国民にうそをついている。特に、安保・沖縄問題と原発問題では、国民はまったく真実を知らされていない。

平和への希求

大田さんにとって「沖縄の心」とはなにか。大田さんは次のように語る。 「@平和を希求する心がことさら強いこと、A自治を求める(自己決定権)気持ちが強いことだ」と。薩摩による琉球侵攻、「琉球処分」、沖縄戦、サンフランシスコ条約による米軍による分離支配、そして復帰。@、Aは、この苦い歴史の教訓から抽出されたものだ。

怒りは臨界点に

今、沖縄の民衆の中で議論されているのは「(イ)復帰とは何だったのか。何のために復帰したのか。(ロ)日本にとって沖縄とは何なのか。沖縄は日本なのか、日本ではないのか。」という事だ。
「今日、沖縄では怒りが臨界点に達している。コザのような事が沖縄県全域で起こりかねない、のっぴきならない様相にある。こんなことが起きたら、人命にかかわる事態になりかねない」と大田さんは語った。
最後に、大田さんは改憲の動きについて危機感を述べた。「戦後、沖縄では憲法がいっさい適用されない状況のなかで、自分たちの手で権利を一歩一歩勝ちとってきた。そういう思いがあって、平和憲法のもとへの復帰というスローガンが生まれた。自民党が言っているように改憲されれば、沖縄はどうなってしまうのか。」この言葉を重く受けとめたい。(奈良 T)

6面

直撃インタビュー 第19弾
「あのとき2歳だった。悔しいね」
〈8・6ヒロシマ平和の夕べ 〉を呼びかける 久保田圭二さん

くぼた けいじ さん

久保田圭二さんは広島で2歳のときに被爆し、両親を亡くし原爆孤児となった。おじさんの家に引きとられ、まったくの天涯孤独ではなかったが、中学校を出ると自立の道を選んだ。小学生の時から始めた新聞配達は、自力で高校を卒業するまで続けた。 被爆体験を「語り部」として語り継ぐ人がいる一方、「ありゃあ地獄だった」と一言だけ残した人、黙して語らず亡くなっていく被爆者も少なくない。久保田さんは、「前向き」に生きた人生を淡々と話した。しかし、2歳のときの記憶にない被爆、両親を語るとき声は途切れる。福島大事故にもかかわらず原発再稼働を推進し、なおNPTの核不使用声明に署名しない日本。つらい質問にも応じてもらったことに感謝したい。〔6月1日、広島市郊外で。聞き手=本紙編集委員会〕

父親は31歳、母親は26歳か

―ご両親、ご家族は8月6日、どうされていたのでしょうか。
戦前、父親は銀行員だった。母親も銀行に勤めており、結婚したらしい。1942年、徴兵で中国へ。足を負傷し帰ってきてから岩国の軍施設に勤めていた。あの前日8月5日、広島城にあった西練兵場に出張してきた。広島に戻ったのだから妻子に会って帰ろうと、泊まったのだろう。そして6日の朝を迎えた。爆心から500メートルくらいかね。ほとんどは即死。残った者も瀕死の状態。父親は軍のトラックで可部まで運ばれたが、着いたときには亡くなっていた。
後に、父の姉が兵隊から聞いた話では、死ぬ前に父親は「家は離れているから、母親は助かったろう。お母さんのいうことをよく聞くように、子どもたちに伝えてくれ」と言い残したという。
父親は31歳、母親は26歳か25歳。記録も燃えて、無いから、よう分からんのよね。姉が5歳、私が2歳。母親は船で似島に運ばれ、父親は6日に、母親は10日に似島で亡くなった。瀕死の状態でも、「お父さんは岩国に行っとるから大丈夫」「お母さんは、助かっているだろう」とお互いが子どものことを思ったようだ。

―2歳で被爆、両親とも同時に亡くされました。
私は、被爆のときのことは2歳だから記憶にないんよ。あとで姉に聞いた話。姉は5歳でしっかり憶えていた。家は市役所の近くだったが、市役所の防火体制のため近隣は家屋立退きになり、鷹野橋近くの離れを借りていた。爆心から約1キロ。おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、母親、姉と私が暮らしていた。
母親はその日は建物解体の作業で江波に勤労奉仕に出て、被爆した。私たちは2階におり、朝、私が階段のところでオシッコを漏らした。姉が「圭二がオシッコした」とおばあちゃんを呼んだとき、空に飛行機を見た。そのとき、ドーンときた。中心部に落下傘で原爆を投下し、全速力で逃げる飛行機を南側に見た。だから、家の壁に遮られながら閃光と爆風を背後から受けた。家は崩れ、下敷きに。おじいちゃんが、おばあちゃんと姉を助け出し、火の手が上がったので川の方へ逃げた。私は下宿していた学生さんに助けられたという。 夕方、火の手が弱まり姉たちが帰ってみると、顔中真っ黒、半身火傷の女の人が立っていた。姉が「おかーちゃん」というと、その女の人が「そうよ」と。母親だった。

自分で生きようと決めた

―その後の子ども時代。久保田さんにとっての被爆とは。
両親とも亡くなった。私と姉をどうするか、久保田と母親の実家にそれぞれ引きとられた。家は焼けたので、久保田家は安佐郡古市に移った。以来、姉と暮らしたことはなかった。お互い夏休みに会う程度だった。
私は、小学校3年生から高校を卒業するまでずっと新聞配達をしていた。中学校の修学旅行に友だちはカメラを持っていく。私も欲しかったが、おばあちゃんには言えない。近所のカメラ屋さんに「毎月払うから」と、確か1万円ちょっとのカメラに新聞配達の給料2000円くらいを全部、毎月持っていった。そうするとカメラ屋さんが、いくらか小遣いに返してくれたのよ。カメラは宝物だったね。
そういうこともあって「自分で生きていこう。やればできる」と思ったのは中学校くらいから。牛乳配達、プロパン配達など何でもやった。おじさんの家も生活が大変だったから、とにかく中学校を終わり「自立」しようと自動車修理の仕事に就き、夜間高校に通った。 だけどタバコ、酒を覚え1年で中退。近所の同級生たちから「久保田、お前は中卒のままか」と言われる。「こいつ、親のおるもんに負けられるか」と、親戚のおじさんが教頭をしている商業高校に、授業料なしで2年遅れで入った。朝は新聞配達、パン屋さんで食パンの耳を10円、マーガリンを10円で買い、七輪に火を起こし焼いて食べ、学校に行った。
高校を卒業したのは二十歳。「こいつ」と思った友だちが大手証券会社に行ったので、それより上を行くには銀行だ。しかし地方銀行でも「資産、両親あり、大卒」という条件。私は全部ない。信用金庫か信用組合ならと、おじさんに「どっちが支店長になれるかね」と聞いたら、「そりゃ信用組合よ」ということで信用組合を受けた。
面接のとき、「高校を2年も遅れとるし、両親もおらん。金融機関に受かると思うか」といわれた。私は、「ここでトップになるつもりで働く。資産や両親が働くんじゃない。私が働くんじゃ」というと、「うーん」といいながら採用してくれた。

やっぱり不安はあったよね

―被爆者という不安は・・・。ようやくお姉さんと、世界旅行の船旅をされたとか。
つれあいは尾道の近くの松永。結婚の申し込みをしたとき「放射能を浴びたんじゃろう」といわれ、かなり反対された。
子どもができたとき、やっぱり不安だったが元気に生まれ育ってくれた。当時にしては開けた先生で、立会い出産だった。あれやこれや、私は社会に育てられたと思っている。 姉とは、そういうわけで子どものころから別れ別れ。お互い60代になってから、いっぺんいっしょに旅行しようやとピース・ボートに乗った。そのとき船の講座で被爆体験を話した。
今回の南半球ツアーでは台湾で原発反対の運動している人と知り合いになった。台湾にも北部に原発がある。ブラジルは経済が発展しており原発を増設し、反対運動が起こっている。世界の人が福島事故に衝撃を受けている。タヒチでは水爆実験場にされた住民に放射能障害が多発。補償を求める運動がおこなわれているが、実験国のフランスは無視だ。

いまがすべて。そこに未来はあると思う

―平和の夕べに参加され、その後3・11福島の事態。いま何をお考えですか。
福島の事故。ああやっぱり、と思った。
原爆を開発した科学者は、人間に敵対するとてつもないエネルギーを持ったものをつくってしまった。制御できるのか。昨年も、平和の夕べで話してもらった京都大学の先生が、「手におえん」といっている。原爆、原発も同じ。政府は分かっているのか。電力会社は独占企業だ。「手におえん」ことは分かっているんじゃないか。
原発が停まっていても、過ごせている。それならやめた方がいい。「原発は廃炉にするにも膨大な費用がかかる。それなら続けよう」というのは筋が違う。
河野美代子さんに声をかけられ〈8・6ヒロシマ平和の夕べ〉に加わったのは、一昨年の中沢啓治さんのとき。中沢さんもお父さん、弟さん、お姉さんを亡くされたが、お母さんがおられた。それはやはり心の支えになったのだろう。私は3歳上の姉しかいなかった。学校の参観日に、年取ったおばあちゃんがくる。何とも言えなかった。
いま多くの人が癌になるが、被爆者は癌になったら「ああ、やっぱり」と思う。根底に、それはある。福島は、これからどうなっていくのか分からない。あと、どれくらいのことができるか。私は、いまがすべて。そこに未来はあると思っている。

くぼた けいじ さん

1943年3月、広島市国泰寺町生まれ。2歳のとき被爆、両親ともに失った。働きながら、2年遅れて高校を卒業。信用組合に勤務。60歳で退職後、65歳まで「レストラン・リゾート」を経営。2008年、12年にピース・ボートで世界を回り、船内で被爆体験を話す。〈8・6ヒロシマ平和の夕べ〉 呼びかけ人。

8・6ヒロシマ―平和の夕べ―
いかに核を廃絶するか

2013年「8・6ヒロシマ平和の夕べ」が呼びかけられている。
今年の平和講演は今中哲二さん(京都大学原子炉実験所助教)を招き、いかに核廃絶を実現するかを考え、行動する8・6ヒロシマをめざす。
今中さんは、何度もチェルノブイリ現地で調査と研究を重ねてきた。福島原発事故の後は、福島の放射線量調査を実施し、被曝線量の問題について発言してきた。
今中さんは、1950年、広島市生まれ。祖母が原爆投下後、10日ほどでなくなった。 大学進学当時は『夢のエネルギー』と素朴に信じていたという今中さんはその後の体験のなかで反原発に転じていく。
被爆ピアノを復元し全国、世界で演奏している矢川光則さん(広島被爆2世)が、「なぜ被爆ピアノか」について話し、三浦裕美さんが演奏する。被爆体験を紙芝居で子どもたちに伝えてきた宮崎謙一さん(長崎被爆者)が上演。
7日「被爆電車乗車と平和学習」、米澤鐵志さんが「原爆と原発」のテーマで被爆体験と原発反対運動について話す。

(要項)
8・6ヒロシマ ―平和の夕べ―
とき:8月6日(火) 午後3時半 開会
ところ:広島YMCA・国際文化ホール
講演:今中哲二さん(京大原子炉実験所助教)

被爆電車・平和学習会
とき:8月7日(水) 午前11時
ところ:JR広島駅南口噴水前集合
講師:米澤鐵志さん(電車内被爆者)