未来・第122号


            未来第122号目次(2013年2月19日発行)

  1面 県民の声を無視するな
    安倍訪沖に抗議の嵐
    2月2日 沖縄     

    反原発への大弾圧許すな
    大阪城公園に1200人集まる

 2面 除染の現場から(上)
    ーある親方の証言

 3面 橋下独裁とのたたかいを
    労働組合の壁をこえて結集      

     最高裁に上告しました
    「君が代」処分とたたかう門真三中元教員 川口精吾さん

     貧困と過酷労働をなくせ
    関西合同労組が春闘討論集会ひらく

     傍聴人が抗議しただけで5日間の監置処分

 4面 論考
    IAEAと福島(第三回)
    請戸耕市

 5面 社会保障を切りすて 生活保護を切り下げる
    安倍政権の大改悪に反対行動を      

     「食をまかなうことこそ国策」
    反対同盟・萩原進さんが証言

 6面 直撃インタビュー(第17弾)
    3・11をなかったことにさせてはならない
    子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク・世話人
    椎名千恵子さん      

             

県民の声を無視するな
安倍訪沖に抗議の嵐
2月2日 沖縄

安倍の来沖に抗議し、県庁前でシュプレヒコールをあげる(2日 那覇市内)

2日正午過ぎ、安倍首相の沖縄訪問に抗議して「基地の県内移設に反対する県民会議」は那覇市の県庁前広場で緊急アピール集会を開いた。 集会には、市民団体、労組など300人が集まり、安倍の来県をはげしく糾弾した。 この日、安倍は仲井真知事と昼食をはさんで会談をおこなった。これまで沖縄を訪問した歴代の首相のような県庁内での公開会談はおこなわなかった。

県民の怒りにおそれをなす

沖縄県民の来県反対の抗議行動に恐れをなして、県庁での公開会談をおこなうことができなかったのである。沖縄県民の声に耳を傾けようともしない安倍にたいして、緊急アピール集会は嵐のような抗議集会となった。 「いったい何のために沖縄に来たのか」「県民の声を無視するな」「アメリカへの手土産を許さないぞ」などの発言がつづき、各団体の代表者たちから、安倍に対する怒 りの声がたたきつけられた。 安倍首相は仲井真知事との会談後、普天間基地を見下ろすことができる嘉数(かかず)高台公園を訪れた。そこでも、県庁前につづいて結集してきた市民団体や労働組合が抗議行動を展開した。なかまたちは安倍が乗っている車にたいして、「安倍帰れ!」と怒りのこぶしを突き上げた。 安倍首相は沖縄県民のはげしい怒りをまのあたりにして、憔悴しきった姿でその 日のうちに沖縄を後にした。

反原発への大弾圧許すな
大阪城公園に1200人集まる

正午からのプレ企画。多彩な演奏で盛り上がる(3日 大阪市内)

「なんで逮捕やねん?ほんまのこと言うたらアカンのか! 関西大弾圧はねかえそう! 2・3全国集会」が、大阪城公園音楽堂でひらかれ1200人が参加した。
12時からプレ企画があり、演奏、歌、福島から被曝労働者、門真市議・戸田さん、ぱぉんさん(11・13弾圧当該)救出チームなどからアピールがおこなわれた。

分断攻撃

「放射能に反対する市民を支援する会」の長谷川羽衣子さんと「反弾圧ネットワーク/連帯労組関西生コン支部」の西山直洋さんの司会でT部が始まった。
永嶋靖久弁護士は、この弾圧はなぜおこっているのかと問い、原発を動かすことで利益誘導を図っている勢力の強い圧力が働いている。これ以上反原発運動が盛り上がることを強く恐れている。分断攻撃に負けず、一致団結して取り組むことが必要だと訴えた。
鵜飼哲さん(一橋大学/「街頭行動の自由を考える」実行委員会/関西大弾圧救援会・東京の会)は、関西で起こっている弾圧に驚き、関東でも何かできないかと考え、街頭行動の自由を! の討論集会をもった。院内集会や法務省への申し入れなどに取り組んできた。下地さん逮捕に、大学側は、なすすべもなかったという学問の自由の危機についても警鐘を鳴らした。弾圧は統一を破壊しようとしてくるが、乗り越えた時、闘いは大きく前進する、その力で、獄の扉を開けようと訴えた。
下地真樹さん(阪南大学教員)は、自らの弾圧体験をもとに、警察権力はデタラメな組織運営で弾圧をしてきている。私たちには嫌なものを嫌だという権利と責任があると訴えた。 石川裕一郎さん(聖学院大学)は、意見を封殺することに対する怒りを語り、民主主義は少数意見について討議するということがなければならないと訴えた。
石埼学さん(龍谷大学)は、「10・17大阪駅前街宣」弾圧に対して憲法研究者声明を出したが、Hさんの再逮捕にあたって、第2弾の声明を出したこと、原発問題はこれまでの公害問題と通じるものがあると訴えた。
太田健義弁護士は、警察権力の問題性もさることながら、裁判所が警察・検察の意を受けて訴訟指揮をおこなっている問題点を述べた。
俳優の山本太郎さんは、関西で11人も逮捕は許せない。放射能ガレキ焼却がされるなどということは、ありえないことだと訴えた。
集会U部では、趙博さんと「はちようび」によるバンド演奏で集会が盛り上げられ、前衆院議員の服部良一さんがアピール。

東京の会がアピール

集会V部では、「竪川弾圧当該、関西大弾圧救援会・東京の会」の園良太さんが特別アピールをおこなった。
つづいて、これまで弾圧を受けてきた釜ヶ崎の労働者、関西生コン支部など労働組合から弾圧に対する怒りの報告、朝鮮学校保護者の発言があった。
さらに、この間の反原発、ガレキ焼却反対の闘いに対する弾圧の救援にとりくんできた各救援関係者、関西大弾圧救援会・福井の会、Uさん(11・13弾圧当該)家族などが 被弾圧者の近況報告と救援に対する感謝、これからの闘いへの協力を訴えた。
決議文採択の後、大阪府警を通り、市役所前までデモ行進した。
反原発・ガレキ反対の市民運動と関西の戦闘的労働運動勢力が合流した2・3大集会は、これからの運動の方向と威力を示す闘いとなった。6人の仲間を一刻も早く取り戻し、裁判無罪を勝ち取ろう。

2面

除染の現場から(上)
ーある親方の証言

「除染作業中」ののぼりが道路わきに(12年12月19日 飯舘村)


福島県飯舘村で実施されている除染作業の実態を、地元の建設会社社長の鈴木さん(仮名)に伺った。鈴木さんは親方として、仲間を率いて一所懸命に除染作業に取り組んでいる。
「手抜き除染」という問題が大きく報道されている。が、これとは対照的に、鈴木さんらの仕事ぶりは、職人の誇りにかけていっさい手を抜かないものだ。むしろそうであるがゆえに、除染にたいする見方は厳しく、その矛盾を指摘している。今回は、鈴木さんが事故前に携わった原発内作業の実態について掲載する。〔取材は昨年12月から今年1月にかけておこなった〕

1.原発での仕事

――原発の仕事は長かったのですか


地元の職人は、どっちかに分かれるんだね。原発に行くか、火力に行くか。
自分は、なるべく区域(原発内の放射線管理区域)には入りたくないと思ってたから、火力に行ったり、一般の道路工事をしたり、原発でも外の仕事をしたり。
で、たまたま震災の3、4カ月前に1F4号機(東電福島第一原発4号機、当 時定期点検中)に入ったわけ。

――原発の中の仕事には関わらないようにしてきました


そうね、やっぱり。
作業は、一般の現場より楽よ。線量を浴びる分、作業時間が短いとか。一般の現場なら1人で持ち上げるところを原発だったら3人でやるとか。やっぱり安全面でそうするわけ。
でもやっぱり線量を浴びる。だから、絶対にいやだっていう者は行かない。進んで行くのは自分の周りにはいないね。
自分が原発に行ったのは、先輩の会社に頼まれたから。「人が足りないから、ちょっと応援してくれ」みたいな話で。お金がいいとかの話じゃなくて、それをやらないと仕事がない時期だったんでね。
この辺の職人は、火力の定検(定期点検)が終わったら、次はこっちの定検という具合に、原発や火力をグルグル回っているわけ。仕事がないときは柏崎(東電柏崎刈羽原発)に出張に行ったり。

――4号機での仕事は


シュラウド(原子炉の圧力容器の中にある、炉心を囲む構造物)の交換がらみの仕事。
ものすごく分厚いタンクみたいなものの中に入っていくんだけど、「あ〜ここが心臓部なんだな」と。自分の作業は、原子炉の水を全部抜いて、そこを拭く仕事だったけどね。
それから、シュラウドの蓋を開けるためにボルトを抜くんだけど、そのボルトをプールの中から揚げて切断する仕事とか。

――かなり被ばく線量の高い作業です


そう。身体汚染しないように管理されて、フードマスクを被ったりしながら作業したね。その場には5分ぐらいしかいられなかった気がする。
蓋を開ける係とか、それからそこを拭いてくる係とか、そういう工程表があって、役割分担がしてあるんだよ。で蓋を開ける人は、開けたらサッと帰ってくる。
だから普通なら1人2人でできるような作業でも、安全面を考えて、10人ぐらいでやる感じ。

――危ないと感じた経験は


ひどく怒られたことはあるね。
4号機の中で、他の業者が切った高線量の配管をさらに細かく切って、ドラム缶に入れる仕事で。
一番、線量をくらう仕事で、アノラックを着てやるんだけど、直接触ったりすると、どっかの隙間から(放射性物質が)入る。それでサーベイ(放射線測定)を受けると、ものすごい数字が出ちゃう。決められたルールを守っても、身体汚染をしちゃうということが2回ぐらい続いた。それで、ものすごく怒られた。まあそのくらいシビアだっただろうなと。親会社の方から言われる。「どういう管理をしてんだ」って。基本的に、電力の人は、自分らには柔らかい口調で言ってくるんだけど、やっぱり親会社の監督さんなんかは、プレッシャーがあるんじゃないかな。

――鈴木さんは何次請け


たぶん6次か7次ぐらい。
俺らは、仕事がどっからどう来ているとかは、正直わかんない。
「今度、ちょっと人足りないから」と言われたら行くという関係。契約関係とかはほとんどない。ある程度のラインまでしかない。実際、そうじゃないと人は集まんないんでね。

――危険な作業で、当然、特別な手当てが


出ているのかどうかわかんないけど、俺らはもらえない。
当時、もらっていたのが一人1日1万3千円ぐらい。この辺だと、道路工事などの日当が大体1万円ぐらいだから、それより2、3千円高いというぐらい。
たぶん、電力なり元請なりが出している金額とは全然違うと思うけど、もうそれで我慢するしかない。お金を頂けるだけ、仕事があるだけありがたいという感じだよ。

お寺門前道の植込みの表土を削り砂をかける(12年12月19日 飯舘村)

2.原発建屋の中で「3・11」


――3月11日、地震当日は


あのときは、4号機の建屋の中で足場を組んでいたね。最初に組んだところがダメで、作業を中断してちょうどみんな足場から降りてきたときに地震になっちゃったんだ。足場に乗っていたら大変なことになっていたね。
ものすごい揺れで、自分なんか、変な話だけど、「隕石でも落ちたんじゃねえか」ぐらいに、もう何がどうなっているんだか、わかんなかった。船に乗っているぐらい揺れてた。全員立ってらんなかったね。あせっちゃったよ。
で、照明が落ちちゃった。非常口の表示だけが点(つ)いていて、あと警報が鳴りっぱなし。 もうトラウマになってるね。ヤバかったよ。

――まず、考えたことは


とりあえず外に出ようと。ヘルメットにライトつけている人もいたんで、それを頼りに外に出てきた。
自分らは入り口に近い方だったんで、着替えとかもキチッとやってきたけど。サーベイは足だけしてもらって。
別の建屋なんかでは、配管か何かの水を浴びちゃって、でもそのまま出てきてしまったり。みんなもうパニック。俺らのところは割と冷静だったけど、よその建屋では、「早く出せー」って感じで、着替えもサーベイもなしで、一斉に出てきてしまったらしい。

――津波のことは考えましたか


いや、建屋から出てきたものの、何がどうなっているかが理解できない。道路もこんなにグチャグチャになっているし、1号機なんか角の方が落っこちてたりしたんで。 とにかく避難場所(原発サイトの南端にある見学用の高台)があるんで、そこにみんなで行って、安否確認をした。
そのうち吹雪いてきたんで、しばらくみんなを落ち着かせて、それから、「じゃあ、各自帰れ」となった。津波は、たぶん高台で安否確認しているときに来ていたんだと思う。あそこから海は見えないから。大変なことになっていたんだけど、誰もわから なかった。もし、安否確認してすぐに帰っていたら、たぶん津波にあって死んでたのかなと思う。浜街道を通っていくから。
みんなで車で浜街道を走ってたら、道がないんだよ。俺は、「パイプラインかなんかが破断して水が溢れてんだな」ぐらいにしか考えなかった。
でもそのうちに津波だということがわかって。ちょうど家族とかと電話がつながり始めて、「家が流された」とか、そんな感じだったね。

――原発が危険に


3月11日の2日前に岩手で地震があったけど、あのときにいつものメンバーで飲みながら、「そろそろ地震が来るんじゃないか」といった話を冗談半分でしてた。で、もし地震がきたら、「原発が危ないから、福島市に逃げよう」と、みんなで打ち合わせしてたんだ。そしたら、本当にあの地震が来ちゃった。
だから、原発が危ないという情報が入る前に、そのまま福島市とか新潟にばんばん行っちゃった。もうどうせ、みんな家も流されているし。
俺の家は、津波では大丈夫だったんで、避難所にいる仲間に「とりあえず逃げなさい」って言って、ガソリンとか、子どものおむつを届けて、自分も翌日に避難した。

――原発の爆発を知ったときは


「ああ、基本、帰れないんだべな」と。
あの後、何日後かに、みんなのところに、(上の方の会社から)ガンガン電話がきて、「1Fに戻れないか」とか「決死で来てくれないか」とか言われた。普段は電話なんか来ないような何とか部長とかから。でも、みんな「それどころじゃねえ」って。
自分は、事故以降、原発に戻ることはなかったね。
でも、3月20日ごろにはこっちに戻ってきて、「ああこの先どうしようかな」とか考えてたよ。(つづく)

3面

橋下独裁とのたたかいを
労働組合の壁をこえて結集
大阪

2013年は橋下・維新とのたたかいの正念場だ(1月30日 大阪市内)

橋下に大阪から反撃

1月30日、大阪市中央区のエルおおさか南館ホールで「組合つぶし、教育、福祉切り捨て、原発推進、憲法改正を許さない! 橋下・維新に大阪から反撃する講演集会」が開かれ、200人が参加した。
主催は大阪全労協。「橋下独裁に反対する在阪7労組」が協賛。昨年来、労働組合の壁をこえて橋下政治とのたたかいに取り組んできた共闘陣形による集会だ。

なんでもあり労組敵視

主催者の大阪全労協・石田議長は「橋下・安倍コンビは危ない。憲法改悪、最低賃金制度廃止など組合敵視のなんでもありの状態だ。これに反撃する集会にしたい」とあいさつ。
協賛団体の「橋下独裁に反対する在阪7労組」を代表して全労連から、労働者の権利侵害と闘う会の田所さんが13春闘と一体のものとして、@協議拒否の組合事務所撤去の業務命令、便宜供与ゼロの攻撃にたいして組合事務所にとどまった労働委員会闘争 A組合つぶしのための思想アンケート強要問題裁判闘争のふたつのたたかいを報告。

多様性と包摂性

浜矩子・同志社大学教授が「世界経済危機と保守回帰」と題して講演。浜さんは「グローバル時代と危機のなかで、不安につけ入り、民衆のなげきを代表しているかに装う過激な保守・国家主義が台頭している」とアメリカの反動的な市民運動「ティーパーティー」を紹介。日本の橋下・安倍の最悪コンビは同じだと喝破。
アベノミクスによる「行き過ぎた市場対話」や「デフレ下のバブル経済」は資産バルブ、賃金デフレを引き起こすと批判し、これを正面から叩きつぶすたたかいの必要性を訴えた。
これからのたたかいは橋下・維新政治とはちがう「別の世界にたどりつくための到達点=多様性と包摂性が出会う場所」を示すことであると講演を結んだ。

不当労働行為自治体

現場の報告は、次の3人から。大阪教育合同労組の竹林隆書記長は「ブラック自治体・大阪府」。大阪労働者弁護団の藤原航弁護士は「権利侵害都市・大阪市」。阪南大准教授の下地真樹さんは「反原発・反被曝・反弾圧」。
竹林さんは「大阪府下には8000人をこえる非常勤講師がいる。雇用の継続を求めて闘ってきたが、2010年、11年とその団体交渉を拒否してきた。不当労働行為として争い昨年121月に勝利。大阪はまさに不当労働行為自治体。2月府議会での労使条例とたたかう」と報告。

公務員の「兵隊化」

藤原さんは市労連の弁護士として7件の裁判をたたかっており、「公務員労働者を『兵隊』のようにする攻撃は許されない。労働組合を『無力化』する便宜供与廃止や思想アンケートなどは民間にも波及する大問題」と訴えた。

市民への弾圧

下地さんは、大阪市による汚染ガレキの広域処理の受入れが子どもたちに深刻な被曝を強いることを明らかにした。
そして市の検討会議が環境省のいいなりという「異様な光景」であったことや汚染ガレキ焼却の危険を訴えた市民の行動を警察が弾圧し、これを裁判所が後押ししていると怒りをこめて報告した。

13年が正念場

13年は橋下・維新政治との正念場である。橋下は大阪市立桜宮高校の「体罰による自殺」問題を「チャンス」とばかりに教育現場を支配し、組合敵視政策にドライブをかけようとしている。
在阪の労働組合が、ナショナルセンターの壁をこえて、同じたたかいのステージに立てなければ、取り返しのつかないことになる。この日の集会は、そうした危機感を共有し、13年をたたかう道をしめした。(労働者通信員 M)

最高裁に上告しました
「君が代」処分とたたかう門真
三中元教員 川口精吾さん

いつもご支援ありがとうございます。昨年10月31日、私は「君が代」訓告処分の撤回をもとめて、最高裁に上告をしました。昨年10月18日の大阪高裁における控訴審判決に納得がいかなかったからです。私は、1審・2審を通して「君が代」の教育現場への導入の危険性を訴えてきました。そして、多くの人たちが私を支援し、ともに声を上げてくださいました。戦前、戦争教育に利用されてきた「君が代」を教育現場に導入することの危険性を訴える私たちに対し、判決文は、次のようにいっています。
「こうした指摘は、『君が代』が我が国において過去に果たした役割に関する控訴人自身の歴史観ないし世界観およびこれに由来する教育上の信念等に当たり、これに同調する人々の間で共有されているということができるにとどまり・・・」(「控訴審判決文」より)。
この判決文は、「君が代」の教育現場への導入に反対する私たちの考えを否定しています。それは、一部の人間の間で共有されている歴史観・世界観・信念でしかないと言っているのです。ここには、大きな間違いがあります。ここで問題なのは、私たちの考えが一部の人間の考えであるのか、多くの人間の考えであるのかといったことが問題なのではないのです。問題なのは、そのような考え方をする人間の数ではなく、考え方そのものです。「『君が代』の教育現場への導入は、戦争へとつながっていく危険性がある」という私たちの訴えがまちがいであれば、その理由を明確にして「まちがいである」と言えばいいのです。しかし、そこにはまったく触れず、「それは、一部の人間の考えである」という判決文は、明らかに間違っています。教育現場への「君が代」導入の危険性については、これからも訴え続けていかなくてはいけないと思います。それは決して一部の人間の問題ではなく、すべての人間の問題だと思うからです。

貧困と過酷労働をなくせ
関西合同労組が春闘討論集会ひらく

賃上げ、要求実現を(1月27日 尼崎市内)

1月27日、関西合同労働組合の旗開き・春闘集会が尼崎市内(兵庫県)で開催され、組合員40人が参加した。
和田たかおさん(大阪府高槻市会議員、関西合同労組顧問)からメッセージ。司会は滋賀県人権センターの仲間。
関西合同労組・石田委員長は、安倍政権の登場、反原発運動のうねり、経団連の経労委報告、そして労働者の置かれている厳しい状況を「貧困、格差、過酷労働」から明らかにし、関西合同労組の今春闘の闘う姿勢と考え方を提起した。
永嶋里枝弁護士(大阪労働者弁護団)が記念講演。テーマは、「有期労働法制を通して考える」。法改正の目的は「労使紛争の予防」にあり、労働者に「更新の期待を持たせない、あきらめさせる」ことにある、と。改正のポイントは「無期契約への転換(18条)、雇止め法理の法定化(19条)、不合理な労働条件の禁止(20条)」の3点 。しかし、「期間満了時に更新拒絶」「更新回数の上限の設定」「契約内容を後退させて辞めさせる」「空白期間(クーリング)を置く」等の事態が予測され、「不合理であると声を上げ、組合として闘うことが大切」と強調した。有期雇用契約の当該から質問があり、質疑応答になった。

ストライキを背景に

佐々木副委員長が、春闘スローガン案・統一要求書案・行動方針・スケジュールを提案。メインスローガンは「職場に団結、地域に連帯を!」「職場・地域に闘うユニオンの旗を!」「貧困・格差・過酷労働なくせ!」「生きていける賃金を!」「13春闘勝利!」。
討論で「狭山再審闘争と部落解放運動を共に闘う」スローガンの加筆が提案され、「ストライキを背景に賃上げ・諸要求を闘おう」と全体で承認された。
中島商運はじめ各分会から報告があった。午後からは港合同南労会支部の大野さんから、『駆け足で振り返る南労会闘争』のDVDを見ながら、報告がされた。南労会闘争の映像は、あらためて労働者の団結のすばらしさを視覚に訴えるものだった。
懇親会に移り、まだ発言がなかった参加者全員が発言。「関西大弾圧はねかえそう! 2・3全国集会」と「さよなら原発3・10関西2万人行動」への結集の訴えとまとめが提起された。最後に「団結がんばろう」を三唱し、今後の春闘行動の決意を固めた。13春闘を全力で闘おう。(通信員 TK)

傍聴人が抗議しただけで5日間の監置処分

昨年の11・13弾圧(大阪市がれき試験焼却説明会)にかかわるPさんの勾留理由開示公判が1月25日、大阪地裁でひらかれた。
その公判の終了時、裁判長が「閉廷」を宣言した後に、抗議の声を二言三言発した傍聴者1人が裁判長の命令のもと、廷吏によって身体を拘束され、直後の即決裁判で「5日間の監置処分」を下された。
拘束されたMUさんは、大阪拘置所に連行され、その日から1月30日の朝、解放されるまで大阪拘置所に監禁された。
「監置」とは、法律上は「逮捕・勾留」ではないものの物理的には全く同じで、禁固刑のようなもの。これが裁判長の一存で執行できる、とんでもない「処分」だ。
この裁判長は、大阪地裁刑事10部の小野寺健太。昨年秋以降の一連の大阪府警による、反原発運動、汚染がれき焼却反対運動での大量逮捕に際して、勾留状を乱発した悪名高い裁判官だ。
警察権力・司法権力一体となった弾圧エスカレートを許すな。

                                                       

4面

論考
IAEAと福島(第三回)
請戸耕市

12月15日から17日、福島県郡山市において、「原子力安全に関する福島閣僚会議」(以下、IAEA福島会議)が開催された。
本論考では、IAEAが福島で何をしようとしているのか、福島県は何を考えているのか、諸資料をもとに検討したい。

〔目次〕

T.IAEAが福島に拠点
U.原発再稼働とIAEA安全基準
V.除染ミッションの指摘
W.低線量被ばくとロシャール
X.IAEAが健康調査を支援
Y.改めてIAEAとは
Z.IAEAと福島県当局

(以下、今号の本文)

W.低線量被ばくとロシャール

1.「後退(譲歩)は阻止すべき」

この福島の現状を見て、IAEAが抱いている最大の問題意識も、低線量被ばくの領域で後退(住民への譲歩)を許さないということだろう。
IAEAが、住民対策で手を焼く当時のソ連政府の要請を受けて、1990年にチェルノブイリの現地に入って作成されたレポートに、以下のようなくだりがある。
「(放射線防護の基準に関して)ある国で取られた判断が、他の国の判断に大きな影響を及ぼすということを認識する必要がある。ある場合、国の当局は、隣国の基準に合わせることで、公共の安全が保たれると考える。しかし往々にして、各国は、社会的政治的な圧力を受け、国民の信頼を得ようとして、互いに、他の国より低い基準を採用しようとする。しかし、それは、互いに低い基準を採用し合う悪循環となり、究極的には国民の信頼を喪失することになる。したがってそれは阻止されるべきである」(IAEA国際チェルノブイリ・プロジェクト テクニカルレポート 〔※17〕)
これは、そのまま、今の日本にあてはまる。政府が後退すれば、それは他国に波及し、原子力産業にブレーキとなるから、断固として阻止しなければならないということになる。
ICRP
冒頭でも紹介したように、IAEA福島会議の第3セッションでは、ICRPからクレメントとロシャールという二人が基調報告をおこなう。
だがそのまえに、ICRP(国際放射線防護委員会)とは何かということと、基調報告者のクレメントとロシャールについて先に説明しておく。
ICRPは、世界に250人ほどの委員がいる非政府の組織。ICRPが出す勧告は、国際的な権威とされ、IAEAの安全基準、各国の放射線防護に関する法令の基礎にされている。
ICRPの前身は1928年に作られ、1950年に現在の名称になっている。その際、原爆製造のマンハッタン計画にかかわった米国の物理学者らが中心となった。
財政は、WHO、IAEA、OECD原子力機関および、米、加、英、仏、日などの国内機関からの拠出によって成り立っている。
クリストファー・クレメント
ICRP科学事務局長。カナダ人でオタワ在住。ICRPの専従はクレメントとその助手の2人だけで、各国250人の専門家のネットワークを仕切っている。
ジャック・ロシャール
ICRP主委員会委員、第四委員会(勧告の適用)委員長。フランス人。放射線防護が専門で経済学者でもある。フランス放射線防護協会の会長を務めた。放射線防護の基準に、リスクと利益を比較する考え方を持ち込んだ。1990〜91年のIAEA国際チェルノブイリ・プロジェクトに参加。

2.「誤解が蔓延している」

ロシャールは、福島原発事故以降、いわき市や伊達市などで住民との対話集会をおこなうなど、福島に深く関わり始めている。
2011年11月末に開催された「第5回 低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」で、クレメントとロシャールは報告をしている。〔※18〕
このワーキンググループは、政府・官僚や有識者が集まって、毎回、内外の専門家に報告をしてもらい、低線量被ばくに関する理論や対策を研究しようというもの。2011年11月から12月にかけて、6回にわたって開催されている。
ここでは、クレメントとロシャールがおこなった報告について、以下で立ち入って検討したい。
というのも、クレメントが、ICRPの問題意識を次のように述べているからだ。
「ICRPとしては、〈(福島の)親御さんたちは子どもたちの防護が十分ではないと感じている〉という感触を得ている。線量ということに関して誤解が蔓延している。防護システムに関して、十分に理解されていない。問題点を洗い出して、それを解決していこうということだ」〔※19〕
これがIAEA福島会議での報告の原形をなしていると見て間違いない。
5年後に5ミリシーベルト
ロシャールは、厳しい線量基準を取ることを戒めて、チェルノブイリの事故の際の例を示している。
「(チェルノブイリ事故の被災地域で採用された避難基準の)年間5ミリシーベルトということに関して、事故から5年近く経ってから採択されたということをまず念頭に置いていただきたい。
初年度(1986年)にソ連で採択された基準は100ミリシーベルト。2年目は30ミリシーベルト。3年目に25ミリシーベルト、4年目も同じ。
それから選択が迫られた。『5ミリシーベルトはかなり野心的だ』と言われる一方で、『いや、1ミリシーベルトにすべきだ』という意見もあった。かなり時間がかかった。そして、歩み寄りがあって、91年初頭、ソ連が崩壊しつの共和国になって同じアプローチが採択されて、『長期的には5ミリシーベルトまで下げていく。それが可能でないならば退去された方がいい』となった」〔※20〕
日本政府に、ソ連の例を引き合いに、〈1年目は100ミリシーベルト。5年目でも5ミリシーベルト。だから日本政府も、1ミリシーベルトという要求に屈してはならない〉と叱咤しているのだ。
抗議の圧殺
ところで、チェルノブイリ事故後の避難基準の変遷は、結論だけを見ればロシャールの言っていることで誤りではないが、その結論に至るプロセスはかなり違う。
チェルノブイリ事故後、次第に、事故原因の解明、汚染対策、責任の追及などを求める運動がソ連の各地で広がっていた。汚染地域である白ロシア(のちに独立してベラルーシ)やウクライナの共和国政府もそれに突き動かされて、ソ連中央政府に対策を求めた。窮地に陥ったソ連中央政府がIAEAに助けを求めた。
そこで実施されたのが、IAEA「国際チェルノブイリ・プロジェクト」という調査。その委員長は当時、放影研理事長の重松逸造。91年5月に提出されたその報告書は、上でも述べたように、「他国より低い線量レベルを導入(するのは)、断固として阻止すべき」とした上で、「放射線への被ばくと関係するいかなる健康被害も認められなかった」と結論づけた。
この結論に対して、このプロジェクトに参加した白ロシアやウクライナの専門家たちが、「ウクライナや白ロシアの健康機関は・・・甲状腺がん、循環器系、呼吸器系、消化器系の病気、さまざまな炎症、生殖機能障害、免疫系機能低下、染色体異常の増加などについて、十分に信頼できるデータを得ている」「(報告書の)結論には、われわれは到底同意できない」という抗議声明を出している〔※21〕。しかしIAEAはこの抗議を全く無視した。
その間にソ連の崩壊(1991年12月)が進行し、各共和国が独立していく。だが、独立によって財政危機がいっそう深刻化し、各共和国は移住や補償の費用を用意できない。そういう事情を背景に、5ミリシーベルトという基準が受けいれられていくことになる。 ロシャールの説明では、あたかも多様な意見が戦わされ、議論の末に歩み寄ったかのように聞こえるが、事実は、抗議を圧殺し、窮状に付け込んで押し付けたということだ。 日本においても、同じやり方がなされようとしている。

3.放射能と共存する文化

さらに、ワーキンググループ報告でクレメントとロシャールは、厳しい基準を阻止するための論理と戦術を提起している。
科学ではなく価値判断
「放射線の影響を科学的に理解するのも重要だが、価値観ということが重要だ。科学だけでは答えることができない。放射線防護の科学というのは一部に過ぎない。環境的な要因、経済的、社会的、心理的、文化的、政治的、そして倫理的なこともある」(クレメント)〔※22〕
放射能汚染を原因として健康被害が発生している。これは科学的に解明されている問題だ。ところが、クレメントは、それを否定しないが、相対化する。
たとえば、〈健康被害の原因は放射能だけではない〉〈線量が高いからと、汚染を問題にする住民がいるが、そこに科学的な根拠はない。経済的社会的な要求だ〉と。
こういう風に焦点を放射能以外の問題にずらしながら、汚染地域にだって、住民の価値観次第では生活できるのだという方向に導いている。
「ニコニコしている人には放射能は来ません」という山下発言。エキセントリックだが、れっきとしたICRPの考え方なのだ。
リスクとプラスのバランス
クレメントは、次に「防護戦略を最適化する」ということを提起する。
まず、放射線のリスクと健康被害を問題にすることを「圧力」として扱い、厄介なもの、不当なものとして見ている。
そして、そういう「圧力」に対して、「除染のコスト」「戻りたいという希望」「経済の正常化」などをメリットとして対立させる。たしかにどれも一概に否定はできない事柄だ。住民の要求という面もある。
だが、このように問題を対立させたとき、どういうことが起こるか。住民同士の対立である。地域間、業種間、世代間、家族内の果てしない対立だ。これは、福島において、1年9カ月の間、いやというほど経験してきたことだ。  (つづく)

【参照引用注】

〔※17〕 IAEAホームページ
The International Chernobyl Project. Technical Report.(国際チェルノブイリ・プロジェクト テクニカルレポート)
〔※18〕 内閣官房HP 低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ
〔※19〕〔※20〕〔※22〕 内閣官房HP 低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ 第5回会合(2011年11月28日) 議事録(※引用部分は要約)
〔※21〕 原子力安全研究グループHP 「IAEA報告への反論」今中哲二・訳 『技術と人間』1992年9月号

【注】

IAEA 国際原子力機関(International Atomic Energy Agency)
ICRP 国際放射線防護委員会(International Commission on Radiological Protection)

5面

社会保障を切りすて 生活保護を切り下げる
安倍政権の大改悪に反対行動を

1月29日、自公政府は2013年度予算案を閣議決定した。生活扶助費を3年間で総額740億円削減。削減幅は7・3%であり、世帯により最大10%となる。受給額が減る世帯は96%におよぶ。同時に、「就労支援の強化、医療費扶助の適正化、扶養義務の強化」など「生活保護制度の見直し」によって450億円、合計1190億円の削減を決めた。

1章 生活保護めぐるこの間の流れ

1950年に現行の生活保護制度ができた。
2003年に0・9%減と初めて削減され、04年は0・2%減となった。
11年2月に、厚生労働省社会保障審議会に生活保護基準部会設置(5年ごとに設置)。12年4月社会保障審議会に「生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会」設置。ここの報告が、450億円削減の根拠とされている。
8月10日、社会保障制度改革推進法が成立。「税と社会保障の一体改革」の一つの柱。この中で生活保護の削減に言及した。8月17日、民主党政権下で、13年度予算の概算要求基準が閣議決定され、生活保護予算削減を明記した。12月16日、総選挙。生活保護給付水準の10%引き下げを公約とした自民党が勝利。

2章 自民党公約のための恣意的操作

(1) 580億円は「デフレの影響」

突然の「デフレ論」
生活扶助基準の見直しのうち、580億円は「デフレの影響」とされた。しかし、専門部会として設けられた社会保障審議会生活保護基準部会における検証結果によるとされる削減は90億円にすぎない。基準部会報告書は、第1・十分位(国民を所得別
下位10%には、35%の生活保護以下の収入の人が含まれると厚労省が認めている。マスコミは生活保護もらい過ぎキャンペーンをおこなった。しかし、基準部会は安易な引き下げをすべきではないとしていた。厚労省官僚は自民党の10%削減の公約を実現するために「デフレの影響」を思いついたというのが真相だ。
なぜ物価が高騰した08年と比較するのか
予算案は比較対象を08年と11年の物価として「デフレだ」と言っている。08年は消費者物価指数が突出して高騰した年だ。原油高の影響である。なぜその年を比較したのか? 比較するなら、前回引き下げの2004年を基準にすべきだが、それだと物価はさほど下がっていない。「デフレ」と強弁するために、恣意的に、物価の高かった08年と比較したのだ。
 

家電などは値下がり、生活費値上がり
 表を見てもらいたい。2004年と比較して、家具等(22・5ポイント下落。電化製品など)と教養娯楽(14・3ポイント下落。テレビ・パソコンが含まれる)が大きく下落し、消費者物価指数を押し下げている。食料(2ポイント上昇)、水道光熱費(14ポイント上昇)、被服・履物(0・2ポイント上昇)などの生活費はかえって上昇している。低所得者は電化製品やパソコンをめったに買わない。比較すべき対象が間違っている。

(2) 貧困の連鎖

夫婦と子1人の世帯(都市部)で17・2万円から15・6万円に1・6万円減少。夫婦と子2人の世帯(同上)で22・2万円から20・2万円に2万円減少。母と子1人の世帯(同上)で15万円から14・1万円に0・9万円減少。このように、子育て世帯への影響が大きい。貧困家庭の子どもは学費がないがために学歴形成ができない人が多く「貧困の連鎖」が指摘されている。それを強めるものだ。

(3) 生活保護利用者以外の低所得者に波及

最低賃金、就学援助・地方税非課税・介護保険料減免、医療費自己負担の上限、障害者介助制度の自己負担等の基準が生活保護費と連動しており、低所得者層の多くが負担増となる。214万人の生活保護を利用している人だけでなく、2000万人の相対的貧困層、3100万人の地方税非課税世帯に大きな影響を与えるものだ。

3章 制度見直しによる450億円削減

社会保障審議会の「生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会」がとりまとめた報告書に基づくもので、法や制度の改悪などが今後行われる。就労支援の強化、医療費の削減、扶養義務の強化等の生活保護制度の見直しによって、450億円の保護費を削減するというもの。
例えば、3か月経過しても希望の職に就職できない者に対して、転居して就職活動をするよう指導指示をし、これに従わないことを理由に指導指示違反で保護を廃止するという、形式的かつ厳格な運用が可能になる。
また医療費削減のために後発薬(ジェネリック/特許切れの薬を安価で製造したもの。微妙に含有成分が違い、効き目も違うので好まない人も多い)の使用が事実上強制されて合わない薬を強制される。親族が扶養できないことを、申告から説明義務に変更。障害者が地域自立生活をする場合、生活保護で自立することが多いが、それが阻まれ、家族のもとに縛り付けられる。
数値目標の設定によって、厚生労働省や会計検査院による監査が強化される。かつて「厚生労働省の直轄地」「保護行政の優等生」と言われた北九州市で、「闇の北九州方式」と呼ばれ、餓死・自殺の多発を招いたのが数値目標だった。

4章 「不正受給」は多いのか

生活保護が、えてして貧困層から非難を浴びている。不正というキャンペーンがはびこっているのも一因だ。生活保護の不正受給は2010年、件数で1・8%、金額にして0・4%にすぎない。それも、高校生のアルバイトが申告漏れだったというようなケースが多い。意図した不正もあるが、まれなケースだ。
また、働ける人が生活保護で怠けているというキャンペーンは本当か? これは本当の意味での不正ではないが、不正受給のように言われている。稼働年齢で重度の「障害者」でも、母子家庭でもない人が非難の対象となっている。その中には中・低度の「障害者」が含まれる。健康であっても低賃金で貯蓄できない非正規雇用だと、失業したらホームレスか生活保護しか選択肢はない。それが不正と言えるのか。
日本の生活保護利用率は国民の1・6%、捕捉率は約20%だ。捕捉率というのは、収入が生活保護以下の人たちのなかで、生活保護を受けていない人が80%いるという意味だ。800万人が生活保護基準以下で生活している。先に述べた基準部会報告はこの層と生活保護を比較して、もらい過ぎだと言っているのだ。保護費のGDPに占める割合は0・5%で、0ECD加盟国平均の7分の1。1995年から2010年までの統計のある餓死者は累計1084人にのぼる。

5章 闘い

生活保護が社会保障改革の1丁目1番地だ。「STOP! 生活保護基準引き下げアクション」が集めた署名は14万筆以上にのぼる。
2月1日の院内集会には、多数の当事者など約300人が参加した。
19日にも院内集会が持たれる。国会内外の闘い、ロビー活動、記者会見、共同声明など創意工夫を凝らした闘いが繰り広げられている。民主党も反対に回っている。私たちも参加している怒りネット関西はビラまきをおこなっている。
大衆的統一戦線が形成されている。「もやい」・雨宮かりんに象徴される、若い層が牽引しているのも特徴だ。また「精神障害者」も多い。就労支援で追い出しにかかられる層だ。 他方で、年金引下げも激しく、年金は消費税に比例して上がらないため、全体では15%近い引き下げとなる。生活保護が引き下げられたら、さらにここへもしわ寄せがくる。いま食い止めなくては。社会的弱者が弱者を叩いて鬱憤を晴らす風潮がある。そんな安倍政権の扇動に乗ってはならない。「私たち抜きに私たちのことを決めるな!」は民主主義の大原則だ。(高見元博)

「食をまかなうことこそ国策」
反対同盟・萩原進さんが証言員

東峰部落の頭上40mを旅客機が飛ぶ(2012年10月)

2月4日、千葉地裁で開かれた市東孝雄さんの農地裁判(農地法・行政訴訟併合)は、前回に続いて萩原進・反対同盟事務局次長が法廷に立ち、「農地法による農地取り上げ」策動に語気を強め、国・NAA(成田空港会社)、千葉県と、成田市農業委員会を弾劾する証言をおこなった。
萩原さんは、はじめに「暫定滑走路の北延伸と東側誘導路により東峰が分断され、上空40メートル飛行により住民への威嚇、そこにいること自体が苦痛を強いられる」と発言。空港建設の暴挙と農民・住民への暴圧、農地法による市東さん農地強奪の違法、不法を明らかにした。「現地調査もまともにやらず、(成田市農業委員会は)雨の日に見渡しただけで立ち去った。市東さんがそこにいたのに、聞こうともしなかった」。「市東東市さん(孝雄さんの父)が同意書にサインすることなどあり得ない」と、NAAの書面偽造を弾劾。奪おうとしている農地は約9300平米。71年に大木よねさんから強奪したときより5倍近い。「農民を踏みにじり、死ねということだ。許せない」と怒りを込めて証言。「裁判長、人間として向き合え」と迫った。「空港が国策なら、農業は何か。食をまかなうことこそ国策ではないのか」と三里塚空港建設強行の暴挙、愚策を農の根本から明らかにした。
萩原さんの証言に圧倒され、無視するようにNAA側の反対尋問はなし。閉廷しようとしたところへ市東さんが立ち、「土地を買収しながら、秘密にし、私を一方的に悪者扱いで報道させた。許せない。私は生きる権利をかけて闘う」と意見をのべ、この日の法廷を締めくくった。
裁判に先立ち、千葉市中央公園に150人が結集し決起集会。北原事務局長が「三里塚闘争で日本の未来を変えよう」と訴えた。動労千葉、三里塚決戦勝利関西実行委員会ほかから発言があった。(F・Y)

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6面

直撃インタビュー(第17弾)
3・11をなかったことにさせてはならない
子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク・世話人  椎名千恵子さん

3・11から2年。椎名千恵子さんに「福島から見えてくること」を聞いた。椎名さんは、演劇や文化活動に携わり、里山での自給生活で生き、暮らしてきた。それが震災と原発事故で根底から壊された。いま、あらためて人と自然を想い「子どもたちを放射能から守らなければ」と、福島の声を全国に届けている。〔1月15日 神戸市内。2月13日補足校了。聞き手・文責 本紙編集委員会〕

――東北福島大震災、原発事故にお見舞い申し上げます。震災の前のことからお聞きします


福島県最北端の梁川町に生まれ、都会に出たり隣の宮城県に戻ったり、いろいろでした。若いころから「跳んでる」というか、夢を追っていました。梁川は明治期に養蚕で栄え、町には木造の立派な劇場、芝居小屋がありました。「都会に芝居を見にいかなくても、つくればいい」という反骨精神も旺盛だったようです。「地域の文化を」と思ってかかわったけど、けっきょく箱物ではない内容、私のイメージとしては維持できなくなって。
そのあと機会があり自前のホール兼自宅をつくり、横尾忠則さんや唐十郎さんを呼んだことも…。そこへ人が集まりワイワイ。そういう人なんです、私。お金だけじゃなく、文化を紡ぎたい。演劇や子どもたちのための読書会、出前講座などやってきました。

――私たちは、いわゆる「物の時代」を生きましたが、里山で自給的生活をされていたと


こうありたい、こう生きたいという思い入れがすごく強いんですよ。それから離れられない。
芝居小屋も、ホールも演劇も「地域文化は、こうあるべき」じゃなく、「耕すこと、学ぶこと」なんです。それからどうするの、ということへつなげたい。学び合う。せばめ合うんじゃなく広がっていく、感動というつながり合い。そうすると「あ、校舎のない学校っていいな」とふっと浮かんで。学校教育は嫌いでしたから「校舎のない学校」というのを始めました。
そのころ友人から「炭焼きやってみない」と誘われ、山のおじいさんのところへ。教わって、木を切り石窯に火を入れ、炭、白炭をつくった。そのとき「あ、何だ。生きるって木と作物があれば生きられるんだ」と思い、お金、規範規制、社会に翻弄され絡めとられたことから、すっと抜けた自分に気がつきました。それから、米作りの勉強もしました。 それやこれやで震災のときは梁川町の隣、宮城県の里山で自給自足生活でした。宮沢賢治じゃありませんが、人間、味噌とお米があればけっこう生きていけますよ。

――それは協同社会、やや教科書的な言葉なら「共産主義社会」…


いまの社会は、それが息苦しいほど通用しませんね。生きていくため少しはお金も必要ですが、本来はゆたかな人間関係が根源にある。それが、まったく分断させられていますよね。
なにせ私は、高校生のころ「真、善、美とは何か」なんて書いたり、若いころから魯迅が大好きでしたから。共産主義というとちょっとイメージが難しい。育て合える、生かし合える、変わり合える、本来の人間関係ということでは…。

――ある意味うらやましいですね。革新とか左翼世界にも既成の枠が染みついています。想像力は大事ですね


阪神大震災もそうですけど、今回の東北、福島。暮らしが根底から崩される、非日常というか、そういうときこそ学び合うつながり、想像、創造という営みが生き生きとなければ…。それは、誰かを当てにして、誰かに頼んでやることじゃないんですよ。
夢、イマジネーションと現実に直面したとき、後ずさりすれば整うのに、それができない。いま3・11後の事態、変革の時代ですね。「ああ、もう本当のことを言っても、やってもいいんだ」という、ある意味で私にぴったり。それまで、いろいろやってようやく里山に落ち着き、米、麹からお酒を造り、自分のなかの余分なものは「アース」って電流を大地に戻すような生活をしているところを、原発事故で追われてしまいました。木を燃やせばセシウムが灰に濃縮され飛び散る、私が生きていくこと自体が、そういう行為になる。それは、諦めざるを得ません。
かっこつければ「存在はカオス」。世の中、人間、輪切りにすればいろいろあって当然。震災、原発事故の最初、「ああ、これは不条理の問題になる」と思いました。いま、私は私、あなたはあなた。でもいっしょにやりましょうというのが人間、生きることじゃないでしょうか。

――3・11のときは、どうされていましたか


冬、里山の暮らしは雪に閉ざされますから、「仕事」として演劇巡業をやっていました。途中、たまたま横浜の娘のところに。福島へのアクセスが途絶し2、3週間は報道を見ながら焦るばかりでした。チエルノブィリの後、広瀬隆さんの本を読んだりしており、大変だという思いはありました。
そのころから「中通りは危ない」と言われていましたから、事故後はしばらく娘たちと滋賀へ避難しました。いまは、また福島に戻り東京のテント村や全国との往復生活のような…。
だけど、すぐに「原発問題だ」と動けたわけではありません。いろいろ講演を聞き勉強会に出るうちに、子どもたちを守るために何かしなければと、仲間たちと「子ども福島ネット」、そのあと「未来を孕むとつきとおか」を立ち上げ参加しました。

――阪神大震災もそうですが、「復興」という名のもとに別のことが


そうですね。復興予算といっても資本、大企業が潤う利権とか東北、福島でも同じ。避難については、いろんな考え方や事情があり一律に言えません。除染も意見が様々、家や周囲をやれば線量が一時は下がるということはあります。しかし、行政や企業がやっていることはちょっと別ですよね。作業員の被曝問題は置き去り、手当てはピンハネ。お金はけっきょく大企業、東電に吸い上げられる。復興ビジネスです。
それが原発推進側によっておこなわれ、「放射能問題は解決します」というような嘘の構造になっている。とても危険です。暮らしを戻すんじゃなくて事故、原発をまた同じ道に戻していっている。
放射能の問題に解決はないですよね。いったん出たものは消せない。核の「ゴミ」はどうするのか、見通しはない。だから、これ以上は出さない、増やさない。はっきりさせないと。
核も戦争も、その方向へ世の中がすすむということに対して、もっともっといのちを見極めていかなければ。
3・11、それまで「はまっていた」ジグソーパズルが壊れた。四角いタイルを貼るようには直せない。それぞれ様々ないのち、声、色、形、変わっていくピースをつなぐ作業じゃないでしょうか。変わり得る、変わるということそのものが生きること。里山にいたとき、トンボが生まれそれを蛙が食べ、その過程が生きるっていうことだと実感しました。

――「福島のいま」に、何が求められるでしょうか


いのちよりお金、利権という動きが一方にあります。私がこれまで生きてきた物差しでは計れない状況です。私が生きてたどり着いたのは、人間として生き物として生きようとでも表現できるでしょうか。なるべくお金や物にとらわれないように、と。しかし、それも「放射能」という見えないものに、ドーンとひっくり返された。
原発問題も「前の野田、いま安倍政権、東電を追及すればできる」という、「いや、人間のあり方、存在の矛盾に問題がある」という、様々な違いがある。向こう側は「推進ありき」というシンプルな構造です。「福島をなかったことにしよう」と。だから彼らは、タッグを組んでIAEAを引っ張ってきたりする。
「あっちは、こっちは」と言っていられない状況ですけど、ときには見方の違いが否定的に現れたり…。それを乗り越えるのは、容易じゃないけど。私たちは生き物として、変わる。変革とは誰かに依存するのではなく、私たち自身が人と人と、そのようにつながっていくことではないでしょうか。

――「希望。難しいですね」とも言われていました。診療所の運営に力を傾注されています


長い闘いになりますね。具体的に「健康手帳」などをつくっていくことは、とても大事だと思います。診療所が「山下体制」と対峙するものになり、みんながいつでも集まって相談できたり話し合える場にしたいですね。いますぐにやらなければならないことも、いっぱいあります。ヒロシマ、ナガサキが8・6、8・9の声を決してやめないように、「3・11をなかったことにさせてはならない」と思います。
3月11日には、「再稼働阻止、未来のために、3・11反原発福島行動」をおこないます。

椎名千恵子さん
1946年福島県生まれ。劇団・文化運動、「言葉の種屋」「校舎のない学校」などをおこないながら里山で自給生活。
3・11原発事故後立ち上げた、〈子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク〉世話人、〈未来を孕むとつきとおかのテントひろば行動〉世話人。〈福島診療所建設委員会〉呼びかけ人。福島市在住。

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