未来・第119号


            未来第119号目次(2012年12月18日発行)

 1面  新段階に入った沖縄の闘い
     奈良で山城博治さん(沖縄平和運動センター事務局長)が報告

     もんじゅは直ちに廃炉へ
     12・8 敦賀市

     抗議要請文

 2面  放射線は怖くない?!
     文科省『副読本』の撤回を

     子どもに誇れる裁判を
     プルサーマル運転差止め訴訟で陳述(佐賀地裁)

     「大飯の乱」の正義訴える
     大飯オキュパイ弾圧 初公判(福井地裁)

     大阪市職員の処分撤回もとめ
     「南大阪の会」が結成 

     精神保健福祉法改定と3%福祉
     心神喪失等医療観察法の廃止もとめ全国集会

 3面  21年間にわたる争議の勝利めざし
     南労会闘争が正念場

     検察は全証拠の開示を
     10・30狭山市民集会に3千人 東京

     「街頭宣伝」を口実に事後逮捕
     汚染ガレキ焼却反対つぶし許すな

     ヘイトクライムは取り締まれるか

 4面  論考
     IAEAと福島(第一回)

 5面  奥田満(吉岡史朗)同志、永井文弥同志の逝去を悼む
     二同志の遺志を継いでたたかう

     「さあ跳べ、ここがロドスだ」

 6面  被ばく地・フクシマで出会った人びとU(1)
     三里塚・秋の収穫祭・芋ほり大会
     

     冬期特別カンパのお願い

             

新段階に入った沖縄の闘い
奈良で山城博治さん(沖縄平和運動センター事務局長)が報告

高江・辺野古の闘いとつながろう(11月25日 奈良市内)

11月25日、「高江・辺野古につながれ!沖縄の課題を私たちの課題にする11・25奈良集会」が、奈良市の東人権文化センターでおこなわれた。参加者は100人。
山内徳信さん(基地の県内移設に反対する県民会議共同代表)から沖縄県読谷村(よみたんそん)の闘い、山城博治さん(沖縄平和運動センター事務局長)からこの間のオスプレイ配備反対の闘いの報告をうけた。
主催者の松田秀代さん(沖縄の高江・辺野古につながる奈良の会 代表)と、藤原好雄さん(憲法を生かす奈良県民の会 代表)から開会のあいさつ。

命がけのたたかいで

次に、山内徳信さんが、「立ちなはれ!護憲・民衆の総決起が今必要」というテーマで講演。山内さんは、読谷村の村長として読谷飛行場を取り戻す闘いを具体的に語った。「国が決めたことだから反対しても無理なのではない。人間が作った仕組みで、人間の真剣な命がけの闘いで解決できないものはない。」「基地問題は沖縄の問題ではない。沖縄に基地を押しつける政府がまちがっている。」
続いて、山城博治さんが「沖縄米軍・自衛隊基地問題の現状と県民の闘い」と題する報告をおこなった。まず冒頭で「大田昌秀さん、山内徳信さんとつらなる平和を守るための沖縄の一議席。政治をただすためにがんばりたい」と述べ、山内議員からバトンタッチし、来年の参議院選に出馬する決意を明らかにした。

一線をのりこえる

今日の沖縄の状況。オスプレイ配備と連続する米軍の凶悪犯罪。40年前にかえったような状況になっている、と山城さんは言う。この現実の中で、オスプレイがやってきた。山城さんは、「ゲート前の闘いは沖縄の戦後史の中で、時代を画する闘いになった。沖縄の闘いは一線をのりこえた」と語った。
「民主主義のなかでいっさいの抵抗をしてはならないという事ではない。やむにやまれずにやるのだ。読谷村の闘いなど、沖縄の闘いは直接行動。この闘いの経験があって今回の闘いがあった」「辺野古の新基地建設はありうる、止まっていない。そういう状況だ。全国に呼び掛けて、全国の仲間の力を借りて闘いたい。」
「国民をかえりみない政府。腹の底からの怒りをおぼえる。我々の政治を取り戻すために、体を張って、この政府と闘う」と今後の決意を明らかにした。
最後に、崎浜盛喜さん(奈良・沖縄連帯委員会 代表)が閉会のあいさつ。集会宣言があり、参加者一同闘う決意を固めた。

もんじゅは直ちに廃炉へ
12・8 敦賀市

高速増殖炉「もんじゅ」に向けシュプレヒコール(8日 敦賀市内)

1995年12月に起きた高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)のナトリウム漏えい事故から丸17年たった8日、もんじゅの廃炉を求める全国集会が敦賀市で開かれた。 日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」は、1995年12月8日のナトリウム漏えい事故によって運転を停止した。2010年5月6日、約14年半ぶりに運転を再開したものの、8月に炉内中継装置の落下事故を起こすなど相次ぐトラブルによって、再び運転停止に追い込まれた。停止中の現在もナトリウム漏えい警報の発令が繰り返されている。
福島第一原発事故にもかかわらず、政府は福井県大飯原発の再稼働を強行した。そして、この9 月の「革新的エネルギー・環境戦略」において、「もんじゅ」については、「高速増殖炉開発の成果の取りまとめ」や、「放射性廃棄物の減容および有害度の低減等をめざした研究」を口実に廃炉はしないとした。原子力機構は、2013年度末にも運転を再開する計画案を発表している。
この日の集会は原子力発電に反対する福井県民会議、原水禁、原子力資料情報室、ストップ・ザ・もんじゅ、反原発運動全国連絡会が呼びかけたもので、毎年12月に開かれている。

原子力機構に抗議

午前11時、もんじゅを望む白木海岸に約800人が集まった。原水爆禁止日本国民会議の道田哲朗副事務局長、松永寛治敦賀地区平和センター事務局長らが脱原発に向けたたかいの一層の強化を呼びかけた。集会では県民会議の事務局長としてこの運動を牽引し今年6月死去した小木曽美和子さんを追悼。みぞれまじりの寒風が吹きつける中、「もんじゅ継続反対」「廃炉に追い込むぞ」とシュプレヒコールを上げ、もんじゅのゲート前までデモ行進。原子力機構に抗議文〔別掲〕を手渡した。

「軍事利用」を警戒

この後、午後1時半からきらめき港館で屋内集会を行った。集会では、水上賢市さん(原子力発電に反対する福井県民会議)、佐原若子さん(青森県保険医協会理事、核燃料サイクル阻止1万人訴訟原告団)など4人が講演。水上さんは「6月の原子力基本法改定で、原子力の利用目的に『わが国の安全保障に資する』との文言が入ったが、これを削除させる取り組みも強めなければと思っている」と政府が原子力を軍事目的に利用する意図をあからさまにしだしたことに警戒を促した。佐原さんは「すでに2年近く経過してもなお大量の放射能を撒き散らし続けている福島第一原発の対策や被害をまともに受けている福島県民の救済を、ほとんど手つかずの状態で放置している政府と、それを黙認しているマスコミに本当に腹が立つ」「声を上げて脱原発の仲間を増やそう、怒りをぶつけよう」と結んだ。 来年こそは廃炉を実現し最後のもんじゅ闘争にしようと誓い敦賀市をあとにした。

日本原子力研究開発機構に対する抗議要請文

福島原発事故により、原子力安全委員会が設けた、旧来の安全基準そのものが完全に妥当性を失いました。脱原発の方向性が政策としてはっきり示されたいま、核燃料サイクルの中止は必至です。高速増殖炉開発の意義はなく、貴機構は速やかに高速増殖炉開発から撤退すべきです。
しかし、貴機構は、報道によれば「もんじゅ」の試運転を2013年末にも再開して10年間程度運転するとの計画を国に示しています。このために来年夏頃までに設備点検を済ませる計画です。原子力規制委員会は、来年7月までに新たな安全基準を設けて、それに基づいて再審査することとしています。貴機構にしても、この再審査を経なければ何も始まらないのは言うまでもありません。いうまでもなく、シビアアクシデント対策や防災計画の整備など、課題が山積みの状態です。にもかかわらず、福島原発事故の経験を何ら反省することなく、これまで通りの運転再開ありきの姿勢は、本末転倒と言わざるを得ません。
「もんじゅ」の耐震安全性は3・11を体験したいま、根底的に見直されなければなりません。その直下、しかも直近に白木―丹生断層が潜り込んでおり、さらにその下にC断層が潜り込むという全国でも例がない、極めて危険な地盤上に立地しています。そもそも高速増殖炉をこのような地に建てたことが間違いです。 さらに、今、大飯原発で問題になっているような破砕帯の真上に「もんじゅ」は建っています。しかも破砕帯は複数あります。これまで貴機構はこれら破砕帯が「正断層由来」を理由に「動かない」と説明してきましたが、東北地方を襲った3・11の地震によって、その根拠を失っています。これらが活断層である可能性もあります。また、活断層と連動してこれらの破砕帯が動き、地盤が変形すれば、それだけでも大事故につながります。
〔中略〕
ナトリウム火災事故以降、すでに17年間停止し、警報やトラブルから設備・機器類の劣化が進んでいることは明らかです。炉内中継装置の落下事故にも象徴されるように、メーカー丸投げで設計・製造された機器類が多数あり、いったいどこに設計ミスが潜んでるか、貴機構にはこれを発見する能力がありません。動かしてみて始めて不具合や設計ミスが分かる顛末をくり返してきた経緯を見ると、運転再開など言語道断です。
大事故の恐れを考えると、福井県民はもとより、近畿、中部、中国地方などの広範な周辺地域の住民の不安は計り知れません。「もんじゅ」を続ける意義も道理も何一つありません。止まっていても1日5500万円も浪費する「もんじゅ」は、無駄の象徴です。これ以上税金の無駄遣いは止めて下さい。私たちは1日も早い「もんじゅ」の廃炉を求めます。
'12もんじゅを廃炉へ 全国集会 参加者一同

2面

放射線は怖くない?!
文科省『副読本』の撤回を

いま、小・中・高の学校に『放射線副読本』が配られているのをご存じですか?
文部科学省ではその内容をホームページで公開しています。

2011年11月に文部科学大臣中川正春の名で、配布の意図を「東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故により、放射性物質が大量に発電所の外に放出されてしまいました。このような特別の状況に国民一人一人が適切に対処していくためには、まず、放射線等の基礎的な性質について理解を深めることが重要である」「特に、この困難な事態を克服し、日本の将来を担わなければならない子ども達においては、小学校・中学校・高等学校の各段階に応じて、放射線や放射能、放射性物質について学び、自ら考え、判断する力を育むことが大切であると考えます。」としています。そして「幼稚園やPTA関係団体、公民館や図書館への配布を行う」とも書いています。

署名が7万4千筆

福島県教組などが発行した冊子

しかし、その内容は欺瞞に満ちています。「水仙からも放射線は出ている」「光と同じようなもの、光と放射線の違いは、放射線が光より『もの』を通り抜ける働きが強いことです」と記述しています。これが小学生向けに書いてあるのです。これを読めば子どもは、放射線なんて怖くないと思うでしょう。
いち早く、「副読本」撤回に立ち上がった若狭連帯行動ネットワーク、地球救出アクション97、ヒバク反対キャンペーンの方々が署名を集め、その報告集会が12月2日にありました。「文科省の放射線『副読本』を撤回せよ!12・2署名集約集会」です。報告では署名が9カ月間で11月30日現在、7万4155筆集まったこと、文部科学省交渉は総選挙のために年明けになることが発表され、福島県から報告として國分俊樹さん(福島県教職員組合 書記次長)のお話がありました。  (N)

子どもに誇れる裁判を
プルサーマル運転差止め訴訟で陳述
佐賀地裁

11月30日、佐賀地方裁判所で第8回プルサーマル裁判(@)が開かれた。この裁判は、玄海原発3号機のプルサーマル運転差止めを求める裁判で、同時に、玄海2・3号機再稼動差止め仮処分(A)、玄海1〜4号機運転差止め裁判(B)がたたかわれ、同日法廷になっている。
@は、前回(8・17第7回)裁判長が交代し、新裁判長から、双方の専門家からの意見をきくことが提案されており、今回、原発の安全性についての踏み込んだ科学的審理にすすむかどうかが問われていた。裁判長が論点の整理をして、その点について専門家の意見を聞くとのあらたな提案があった。これについては弁護団から裁判所による論点整理と専門家の意見聞き取りの前に、九電が隠しているMOX燃料の危険性を証明するデータの提出と求釈明に対する回答をだすようにとの意見が出された。
Bの裁判では、出産をひかえ東京から福岡に避難して出産、生まれてきた子どもが希望を持って生きていくことのできる社会を残そうと、必死になってとりくんでいるSさんの意見陳述があった。
Sさんは最後に「裁判官のみなさん、お子さんがいらっしゃいますか?子どもさんが、幸せそうに笑いかけてくれる時の気持ちを思い出してみてください。そして希望を持って、いちばん、ご自身で納得のいく、子どもさんに誇れるご判断をお願いします」と呼びかけて締めくくった。
次回公判は来年3月1日、14時から。

「大飯の乱」の正義訴える
大飯オキュパイ弾圧 初公判
福井地裁

6月30日から7月2日にかけて、大飯原発再稼働に反対し、大飯原発のゲート前を実力封鎖した「大飯の乱」に対する事後弾圧で、不当にも逮捕・起訴されたKさんの初公判が、12月7日、福井地方裁判所でおこなわれた。関西を中心に、各地から30人近くの仲間が傍聴にかけつけた。
福井地裁は、金属探知機まで用意して構えていた。裁判長は、開廷前に「頭にまいたバンダナをとらない」ことを理由に、いきなり1人を退廷させるという暴挙。Kさんが法廷に現れ、傍聴の仲間と久々の再会。
冒頭、Kさんが「被告」席に机がなく、筆記できないことを抗議すると、裁判長は「膝の上で書けばいい」と暴言。

Kさんが意見陳述

公判手続が進み、最後にKさんが意見陳述。起訴状に記載してある事実は、5〜6分間のことだが、それは実際には36時間にわたるゲート前占拠の闘いと一体のこと。その闘いがあって、それを傷つけたいがために私を起訴した。私の起訴は、権力側の敗北感の吐露だ、と鮮明に訴えた。そして、大飯原発再稼働阻止のため多くの人びとが集まり、直接行動にうったえた闘いの意義を語った。
途中、裁判長は「本件と関係がない」などとケチつけし、陳述時間を10分に制限するという不当な訴訟指揮をおこなった。Kさんの意見陳述は、途中で中断させられたが、共にたたかった傍聴の仲間と熱く交歓した。
Kさんの裁判は、「大飯の乱」の正義性を真正面から掲げ、権力の弾圧を、そしていまだに原発を稼働させている政府を断罪する場だ。共に闘おう。Kさんを奪還しよう。次回公判は、1月10日、13時10分から。

大阪市職員の処分撤回もとめ
「南大阪の会」が結成

11月28日、大阪市がおこなった入れ墨調査を拒否して懲戒処分を受けた大阪市職員Tさんの処分撤回を求める「懲戒処分を許さない!南大阪の会」結成集会が港区田中機械ホールでおこなわれた。
入れ墨調査を拒否した労働者は6人。そのうちの1人が南大阪平和人権連帯会議でたたかうTさん。調査に応じなかった6人に8月26日戒告処分が出された。昇給3号給減、勤勉手当て0・3カ月減。この不利益は退職まで続く。
南大阪では「橋下のやりたい放題を許したら必ず民間労働者にも影響がでる」、「官民一体で勝ち抜こう」と集会を積み重ね反撃を開始している。
Tさんは処分を決めたとされる8月22日の人事監察委員会職員分限懲戒部会の内容を開示するよう、11月8日に公開請求申請をおこなった。今後、不服申し立てや裁判闘争を辞さずたたかい抜こうとしている。
今回結成された「南大阪の会」はそうした裁判闘争などに対する支援活動や市職員への団結破壊権利侵害に対する学習活動、官民連帯強化などを目的に結成された。代表は全港湾大阪支部執行委員長の山元一英さん。会費は個人年間千円、団体5千円。会の所在地は全国金属機械港合同内。賛同しともにたたかおう。(関西合同労組 K)

精神保健福祉法改定と3%福祉
心神喪失等医療観察法の廃止もとめ全国集会

11月24日、心神喪失等医療観察法の廃止を求める全国集会が都内でひらかれ、65人が参加した。「精神保健福祉法改正の動向と医療観察法の行方」という池原弁護士の講演があった。
「精神障害者」の入院形態などを定めた精神保健福祉法が改定され、「保護者」規定がなくなる。今は、入院・通院を区別せずに「保護者」を付けないといけない決まりになっている。「保護者」同意でおこなう医療保護入院という強制入院がなくなる。
しかしその結果、より強制度の強い入院形態になる。医者一人の診断で1年間の強制入院ができる。措置入院よりも緩い条件だ。その根拠は入院の必要があると医者が診断し、自発的に入院する意思がない場合、「入院の必要があるという事実を認識できない」とされる。なお、一般科では入院するかどうかは個人の判断に任せられている。
障害者権利条約では「判断能力」は誰にでも備わっているというのが基本的考え方になっている。権利条約に制約されない領域を確保しておこうという思惑が働いているのではないかということだった。
精神科訪問医療も厚労省側からの位置づけがある。アクトやアウトリーチが強制通院制度を強化するものとなる。地域に強制通院の網がかぶせられるのだ。
池原さんはさらに根本的な問題として、@強制力に依拠する医療を脱却できない。自発的に入院をさせるためには患者を説得しないといけないが、医者が強制入院に慣れてしまい、そういう基礎的な能力を失っている。A治療の主座に入院が置かれる構造を脱却できない。B3%福祉という極度の医療への傾斜を脱却しない。医療予算との比較で福祉予算は3%しかない。地域の貧困さを上塗りするように福祉予算がさらに削られていく。C予測と予防を飯のタネにする政・官・医の利権構造を脱却しない。この癒着構造のところにしか予算がつかないが、予算の役割は大きい、という点を挙げた。
池原さんは、障害者権利条約は人間(「障害者」)はあるがままに尊重されるべきだとしている。今まで散々、悪い体、悪い精神とされ矯正の対象とされてきた。自己決定権を踏みにじる精神科の医療介入には、差別的価値観が根底にある。精神医療で「精神病者」の問題を解決できるのかと述べた。
集会ではその他にJR西日本での「障害者」差別問題の報告、生活保護の問題の報告、障害者雇用促進法で雇用しながら解雇しようとしている大手コンビニチェーンの問題が報告された。
3%福祉という福祉の貧困さのなかで、政・官・医の利権構造を壊さないと、「精神病者」に生きる場はない。(TM)

3面

21年間にわたる争議の勝利めざし
南労会闘争が正念場

勝利の方針を提起(11月21日 大阪市内)

南大阪・港地区で「労働者診療所」=医療法人南労会による組合つぶしと闘いつづける南労会闘争が正念場を迎えている。11月21日、港合同・田中機械ホールで、21年争議の勝利をめざす重要な集会が開かれた。地元・南大阪地域と関西各地から労働者が結集し、ホールを埋め尽くした。

地域共闘一丸となって

司会は港合同副委員長の中村さん。主催者あいさつで、南大阪平和人権連帯会議・大野進議長が「全港湾では組合員カンパで労働者診療所建設をになった」「連帯会議はその伝統をかけて闘争勝利へ一丸となって先頭に立つ」とアピール。
スライドショー『かけ足でふり返る南労会闘争』が上映され、診療所建設、経営の変節と91年夜間診療廃止反対の争議突入、第二組合結成、その後の連続する懲戒解雇、白衣の就労闘争、スト、96年の刑事弾圧と反撃、01年の解雇者の「職場確保」ケアセンター建設と21年争議が感動的に映しだされた。

労働法の根幹かけ

南労会支部委員長代行の小松さんが、現在の攻防と勝利への方針を簡潔に提起。刑事罰問題にまで至った南労会経営の不当労働行為との闘い、特に34名の組合員が原告となった組合員差別の一時金13回未払い、5回の賃上げ未実施に対する6億6千万円損害賠償請求裁判が最終段階にきており、争議全体の勝利をかけて闘われている事も明らかにされた。
12名被解雇者を代表して元全港湾大阪支部書記の佐藤さんが、労災闘争から診療所建設運動の歴史にふれ、診療所の企業主義への変節を批判し、職場を守り抜く決意をかたった。組合差別の不当配転(通勤2時間超)と闘う組合員の決意、共に争議を支えるケアセンターの仲間から発言が続いた。

不当労働行為ゆるさず

南労会を労働犯罪として告発した佐藤昭夫弁護士(早稲田大学名誉教授・労働法)から「団結権保障と労働委員会命令履行義務、制裁規定」と題する講演がおこなわれた。「資本の団結破壊を排除してこそ団結権は保障される。本来、不当労働行為は刑事罰に値する行為」「しかし、制裁規定がないのは法の欠陥」と現状を断罪し、「多くの告訴・告発、運動の力で動かす」「不法行為なので損害賠償請求という方法も活用」と南労会闘争の意義をあきらかにした。また、大阪市長・橋下による組合破壊攻撃に言及し、「労働基本権」をかけた闘い、苦しくとも一人一人が原点に立ち返って闘おうと激励した。 裁判所と検察庁への要請文、支部書記長より「大衆的な闘いの力で解決をはかる」とお礼と当面の行動提起。
最後に全日建連帯近畿地本の垣沼委員長が25年ぶりに勝利解決した眞鍋闘争を紹介し、闘争勝利へ檄をとばし、団結がんばろうで締めくくった。

南労会闘争の位置

南労会闘争は、労働運動の拠点で建設された労働者診療所を悪質経営や権力弾圧と闘い、奪い返す闘いである。
また、刑事罰までに至った不当労働行為との闘いは、今日の団結権・労働法制・労働委員会命令破壊との最前線といえる。橋下維新政治と闘う拠点ともなる。
11・21集会は、故大和田委員長(全国金属機械労働組合田中機械支部委員長)ら先達が築いてきた南大阪の地域共闘の底力を示した。南労会闘争勝利へ、さらに支援連帯の輪を労働戦線に拡げよう。(労働者通信員 M)

検察は全証拠の開示を
10・30狭山市民集会に3千人
東京

来年こそは再審開始決定を(10月30日 都内)

10月30日、「狭山事件の再審を求める市民集会」が東京・日比谷野外音楽堂で全国から支援団体・個人3000人が参加し開催された。
集会は、沢知恵さんのピアノと歌によるミニコンサートから始まり、続いて部落解放同盟・組坂委員長の開会あいさつ、そして石川さん夫妻のアピール、弁護団報告、免田栄さん、各界からの連帯アピールなどがおこなわれた。集会後は日比谷野音から東京駅近くの常盤橋公園までデモがおこなわれた。
前日の29日には東電社員殺害事件で無期懲役が確定していたゴビンダさんの再審裁判の第1回公判があった。東京高裁第4刑事部・小川正持裁判長は即日結審した。この期に及んでも検察は「当時の捜査に問題はない、証拠隠しはしていない」と言い切り、反省するどころか、開き直っている。11月7日、無罪判決があり、無罪が確定した後でも「ゴビンダさんが犯人の可能性は消えていない」という立場を崩していない。
アメリカでは2007年に「誤判究明ユニット(CIU)」を検察内に設置し、検察官ら4人が受刑者からの「無実の訴え」を受け付ける態勢を整えた。またイギリスでは、冤罪救済の専門組織で、司法から独立した公的機関「刑事事件再審委員会」(1997年)がある。いずれも誤審や冤罪事件が相次いだことを受けてつくられた。そして冤罪被害者が何人も救済されたという。
ひるがえって日本はどうなのか。日本では、冤罪救済は、一部の熱心な弁護士や人権団体などに支えられているのが現実だ。ゴビンダさんの事件でも、足利事件でも、布川事件でもそうだった。それでもそれらは稀有の例だろう。冤罪で泣いている人はもっといる。

国家ぐるみの差別犯罪

では狭山事件はどうなのか。狭山事件はなによりも部落差別事件であり、冤罪事件一般で論じられるものではないが、その冤罪の解決への扉がいまだ開いていない。検察は有罪の維持に必死となっている。なぜなら狭山事件は、国家ぐるみの差別犯罪だからである。
裁判所、検察、弁護団による三者協議は11回目を終えた。検察は隠し持っている証拠を小出しにしているとはいえ、重要なものは開示していない。再審実現の鍵は石川さんの言うとおり「全証拠の開示」である。
狭山事件が起こってから来年で50年になる。石川一雄さんは「検察はまだ証拠隠しを続けている。裁判所、検察庁にみなさんの声を届けてほしい。来年こそは司法を動かし、再審開始決定をかちとりたい」と支援を訴えている。
この石川さんの声にこたえて、来る春に向かって私たちも全力でたたかおう。(OG)

「街頭宣伝」を口実に事後逮捕
汚染ガレキ焼却反対つぶし許すな

12月9日、大阪府警は「鉄道営業法違反」「威力業務妨害」「不退去」で2人を令状逮捕。11日、さらに同件で1人を逮捕した。
さる10月17日、午後5時からの「放射能汚染ガレキ/ストップ!11月試験焼却/大阪市役所包囲行動」にさきだち、午後3時から大阪駅・東北角の歩道上で街頭宣伝がおこなわれ、終了後、参加者は大阪市役所にむけて三三五五歩いて移動した。その際に、大阪駅構内の東側コンコースを北から南へ通り抜けたが、JRの管理職が多数動員され、移動を妨害した。駅構内を抜けた後、今度は大阪府警の私服部隊が移動を執拗に妨害してきた。
参加者は妨害にたいして抗議しながらも整然と大阪市役所に向かい、5時からの大阪市役所包囲行動に合流した。それを今頃になって、おどろおどろしく3つの罪名をかぶせて事後逮捕におよんだもの。
大阪市による汚染ガレキ焼却に反対する運動をすすめていた市民を、こういうかたちで不当逮捕し、反対運動をたたきつぶそうと狙っている。3人をただちに釈放せよ。

ヘイトクライムは取り締まれるか

ここ数年間、日本でも差別と排外主義によるヘイトクライム(嫌悪犯罪)事件がかつてないほどに発生している。にもかかわらず、これを取り締まる法律がない。ヘイトクライム規制は、憲法の「言論の自由」との関係で、どこまでが表現の自由で、どこからが脅迫なのか、判断は非常に難しい。しかしだからといって、ヘイトクライムが野放しにされていいはずがない。差別(ヘイトスピーチ)が刃物よりも鋭く人々を傷つけ、自殺に追い込んでいることからも、差別が犯罪であることは明らかだ。
1965年の人種差別撤廃条約第4条(a)では、「人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動…も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること」とし、同(b)で「人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他すべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること」として、差別扇動を犯罪と規定している。
しかし、日本政府は「人種差別表現を処罰することは憲法違反」とし、学者も同様の見解を唱えてきた。その理由は「差別表現は憲法第21条の表現の自由の保障の範囲内にあり、差別表現が表現にとどまる限り、刑罰法規で規制することは憲法21条に抵触する。@差別表現を規制する刑罰法規は言論表現を萎縮させ、どこまでが刑事規制の対象となるかを明確に規定できず、刑事法原則のひとつである明確性の原則に違反するから、憲法第31条に違反する」というものだ。
日本政府はこれらを根拠にして人種差別撤廃条約第4条(a)(b)の適用を留保し、同条約の趣旨を台無しにしている。政府は「人種差別扇動の処罰が言論表現の自由に抵触し、萎縮させる」と主張するが、むしろ、差別を野放しにすることによってマイノリティの表現の自由を抑圧し、萎縮させているのではないだろうか。実際に在特会は重大なヘイトクライムをおこないながら、単なる名誉毀損、器物損壊、威力業務妨害に問われているだけだ。日本は政府(憲法学者も)と差別集団が結びついて、階級支配を貫徹する構造を形成している「差別天国」になっている。この国のあり方そのものを変革することが問われている。 (S)

4面

論考
IAEAと福島(第一回)
請戸耕市

15日から17日、福島県郡山市において、「原子力安全に関する福島閣僚会議」が開催された。IAEAと日本政府の共催で、各国の閣僚、国際機関の関係者、原子力機関の関係者など約1千人が参加した。一方、 このIAEA福島会議にたいして、市民運動・住民団体の呼びかけで、カウンター・アクションがおこなわれた。原子力の推進か、脱原発の道か。IAEA福島会議の問題は、この大きな選択にとって、ある意味で総選挙の結果以上に重要である。「脱原発宣言」をしたはずの福島県当局は、このIAEA福島会議を歓迎し、IAEAとプロジェクトを推進しようとしている。福島県民にとって看過できない事態だ。本論考では、IAEAが福島で何をしようとしているのか、福島県は何を考えているのか、諸資料をもとに検討したい。

〔目次〕 1.IAEAが福島に拠点
2.原発再稼働とIAEA安全基準
3.除染ミッションの指摘
4.低線量被ばくとロシャール
5.IAEAが健康調査を支援
6.改めてIAEAとは
7.IAEAと福島県当局

IAEAが福島に拠点

(1)IAEA福島会議とプロジェクトの概要

会議の概要

IAEAの案内〔※1〕によれば、IAEA福島会議の目的は、「福島原発事故の知見と教訓を国際社会で共有することである」とされている。
12月16、17の両日に持たれた専門家会合のテーマは、「福島原発事故からの教訓」、「福島原発事故を受けての原子力安全の強化」、「人と環境の放射線からの防護」の3つであった。

IAEAと県が正式調印

また、IAEAは、福島県、福島県立医大と、除染や健康管理、放射性物質のモニタリングなどの共同研究プロジェクトを立ち上げる。これは、今年8月に佐藤雄平福島県知事がウィーンで天野IAEA事務局長と会談した際に要請したもの。福島閣僚会議の場で、正式に調印し、プロジェクトの内容を発表した。
具体的には、除染やモニタリングの研究拠点として、2014年度を目途に三春町と南相馬市に「県環境創造センター」を建設する計画を進め、IAEAが派遣する研究者の活動拠点とする。福島県は当初、IAEA福島事務所の設置を求めていたが、IAEAが予算上難色を示したため、県の施設として建設することになった。
さらに、県立医大では、放射線医療や健康管理調査の拠点として、「ふくしま国際医療科学センター」を11月20日に立ち上げた。県立医大では、昨秋、放射線生命科学講座、放射線健康管理講座を新設、今年4月には国際連携部門を新設し、IAEAから客員教授を招聘している。
福島県と県立医大が、原子力推進機関であるIAEAと積極的に組もうとしているようだ。

(2) 「国境を超える影響」「公衆の懸念」

ところで、IAEA福島会議に関する動きを理解する上で、その背景にある福島原発事故以降のIAEAの動向を見ておく必要がある。
福島原発事故から3カ月後の昨年6月にウィーンでIAEA閣僚会議が開催された。その「閣僚会議宣言」〔※2〕に次のような一節がある。
「原子力事故は国境を越える影響を有する可能性があり、原子力エネルギーの安全性ならびに人および環境への放射線の影響に関する公衆の懸念を呼び起こす可能性があることを認識する」
「国境を越える影響」と「公衆の懸念を呼び起こす可能性」。つまり、福島原発事故を目の当たりにして、当事国である日本はもちろん、国境を越えて世界中で、原子力発電と原子力産業にたいする民衆の側の拒否の動きが広がっていることに危機感を募らせている。 IAEAは、もしもここで日本政府が「公衆の懸念」に押されて、IAEA安全基準やICRP勧告よりも厳しい基準で対応したり、それに応じた賠償を行ったり、ましてや原発推進政策から撤退したりしたら、それがたちまち他国にも波及し、原子力政策全体が成り立たなくなるという強い危機感を抱いているのである。
実際、昨年と今年の9月にウィーンで開催されたIAEA総会の場でも、日本から出席した政府関係者に次々と危惧が寄せられている。
「ウルグアイのエネルギー大臣は、東電福島事故後の新興国における原子力発電計画が直面する課題は、原子力へのリスクプレミアム増加によって10―15%の年利を考えなくてはいけない可能性すら出てきて、これによる経済リスクは新規建設にブレーキを掛ける可能性を指摘」(IAEA55回総会に出席した尾本原子力委員会委員の帰国後の報告)〔※3〕
「現在、2基を除いて全ての原子力発電所が再稼働できないでいると聞いていたところに、日本の国民が安全性を理由に原子力発電所をもはや受け入れず、政府が脱原発を決定したように報道されている。もしそうであれば、これから日本の技術を活用する可能性を検討している側にとって影響は甚大である」(IAEA56回総会で近藤原子力委員会委員長が意見交換した外国閣僚の話。帰国後の報告)〔※4〕

原発再稼働とIAEA安全基準

(1) ピア・レビューの骨抜き

IAEAの場においても、福島原発事故の原因や安全対策の問題を問う声があがり論議になった。 「(欠陥のある)マークT型への改良を日本政府及び東京電力はどのように対応したのか」(IAEA安全基準委員会 2011年5月)〔※5〕、「地震が・・・津波以前に炉心損傷の原因になったのではないか」(IAEA55回総会 2011年9月)〔※6〕
たしかに事故原因の一端に触れる指摘だが、これを言っているのがフランスやロシア。アメリカ製・日本製の原発の問題を挙げて、自国の製品の売り込みを有利にしたいという思惑が働いている。
そして、この論議の流れから、2011年6月の「原子力安全に関する閣僚会議」の場で、「原子力安全に関する行動計画」〔※7〕が議論され、その目玉として、〈IAEA加盟国の多国籍の専門家チームが、各国の原発を、抜き打ちで強制力を持って安全評価をおこなう〉というピア・レビュー(仲間の間で吟味するの意)が提案された。
しかし、自国の原発政策の独立性を維持したいアメリカや、これから原発を増やしていきたいインドや中国などが反対。6月の会議では採決されず、結局、9月のIAEA総会では「自発的な受け入れが強く奨励される」という強制力のない文言に大幅後退して採択。2012年9月段階で、ピア・レビューの「自発的な受け入れ」を申し出た国はない。 にもかかわらず、IAEAの天野事務局長は、福島原発事故から1年後の2012年3月には「事故から各国が学び、世界の原発はより安全になった」と声明〔※8〕、11月には国連総会に同趣旨のIAEA年次報告書を提出している。

(2)何が何でも再稼働

ストレステスト

IAEAは、2012年1月下旬の約1週間、「日本のストレステスト(耐性評価)の評価手法の妥当性に関するレビュー・ミッション」のための調査団を派遣、大飯原発の視察などを行った。このミッションは、日本側の要請でおこなわれたという。
そして調査団は1月31日、「本レビューチームは、総合的安全性評価に関する原子力安全・保安院の指示及び審査プロセスは基本的にIAEAの安全基準と整合していると結論づける」とした「報告書・要旨」〔※9〕を原子力安全・保安院に提出。
ここでIAEAが言っているのは、あくでも、原子力安全・保安院のストレステストにたいする審査手法が、IAEA基準に適合しているという評価であって、大飯原発そのものの安全性評価ではない。
実際、1月31日にIAEAの報告書・要旨が提出されると、2月13日には原子力安全・保安院が、関西電力の提出した大飯原発3号機・4号機のストレステストについて、「妥当」とする審査書を発表。3月23日には、原子力安全委員会が、5分で原子力安全・保安院の審査書を「妥当」と確認。そして、その後の再稼働は政治判断となり、6月16日に政府が正式に大飯原発3・4号機の再稼働を決定した。

IAEAが促す

日本政府の側は、IAEAの権威を利用して再稼働にこぎつけようとした。また、IAEAの側も、再稼働を促す目的でこのミッションを送り込んだと思われる。
もっとも、IAEAは、日本の規制や安全の基準が、必ずしもIAEAの基準に適合しているとは思っていない。
福島原発事故以前に、再三、原子力安全・保安院の独立性の低さを指摘し勧告していた。また、今回のミッションでも、実は、1月31日の「報告書・要旨」とは別に3月27日に「報告書・全体版」〔※10〕が公表されているが、そこでは、「全電源喪失などのシビアアクシデント対策の具体性が欠如している」などの勧告を詳細におこなっている。しかし、ここで問題なのは、IAEAが、そういう点については承知の上で、「適合」という結論だけを押し出す形で1月に発表し、再稼働への道筋をつけようとしたということだ。 (つづく)

福島原発事故以降のIAEAの主な動き

2011年 5月 IAEA 福島原発事故調査団の訪日
6月 IAEA 原子力安全に関する閣僚会議
9月 IAEA 第55回総会 「原子力安全に関する行動計画」
10月 IAEA 除染ミッションの訪日
2012年
1月 IAEA ストレステスト・レビューミッションの訪日
3月 IAEA 天野事務局長、「世界の原発はより安全になった」と声明
9月 IAEA 第56回総会
12月 IAEA 日本政府 原子力安全に関する福島閣僚会議

【参照引用注】

〔※1〕IAEA ホームページ The Fukushima Ministerial Conference on Nuclear Safety Programme
〔※2〕外務省HP 2011年620〜24日 原子力安全に関するIAEA閣僚会議 宣言(和文仮訳)
〔※3※6〕内閣府原子力委員会HP 第37回原子力委員会定例会議(2011年9月27日)配布資料 「尾本原子力委員会委員の海外出張報告」
〔※4〕内閣府原子力委員会HP 第43回原子力委員会定例会議(2011年10月2日)配布資料近藤原子力委員会委員長の海外出張報告」
〔※5〕原子力規制委員会/原子力安全委員会HP 第43回 原子力安全委員会臨時会議(2011年6月16日)配布資料「第29回IAEA安全基準委員会について」
〔※7〕外務省HP 外務省国際原子力協力室
〔※8〕日本経済新聞2012年12月11日
〔※9※10〕経済産業省HP 「(仮訳)日本で実施される『既設の発電用原子炉施設の安全性に関する総合評価』についての原子力安全・保安院(NISA)のアプローチをレビューするIAEAミッション」

5面

奥田満(吉岡史朗)同志、永井文弥同志の逝去を悼む

12月3日と4日、われわれは二人のかけがえのない同志を失った。
3日逝去した永井文弥同志は、69年秋、金沢大学教養部封鎖闘争に参加し、74年から非公然・地下活動を開始。05年に闘病のため公然化するまで31年間、一貫して対権力・対反革命ゲリラ・パルチザン戦争の最前線にたち続けた。激務の中でも絶えず自然体を保ちたんたんと任務を貫徹する姿は同志たちに常に大きな安心感を与えた。彼の市民社会に溶け込む能力は群を抜いていた。
4日逝去した奥田満(吉岡史朗)同志は、67年に学生運動、全学連運動に参加してのち、69年、70年には、京大・立命館大学の全共闘のバリケード攻防に参加。74年1月から98年まで24年間非公然活動に従事、対カクマル戦争と三里塚・天皇決戦を先頭で闘った。3・11以降は倒れる直前まで、反原発闘争の先頭に立ち続けた。
われわれは深い悲しみを乗り越え、2同志の遺志を引き継いでプロレタリア世界革命の勝利を実現することを誓う。


奥田 満 同志

奥田満(吉岡史朗)同志 略歴

1949年3月14日、名古屋市に生まれる。
1967年、予備校生として立命館大学の学生運動に参加。
1974年1月から1998年まで24年間、非公然活動に入る。
2011年9月11日から12年11月20日まで、経産省前テントひろばを皮切りに、大飯原発再稼働反対監視テント、北九州ガレキ焼却反対闘争、ガレキ焼却反対大阪市役所前テントに参加し、反原発闘争の先頭に立ち続ける。
2012年11月27日、脳内出血で倒れる。12月4日、永眠。享年64。



永井文弥 同志

永井文弥同志 略歴

石川県辰口町(現能美市)出身。1962年、石川県立金沢泉丘高校入学。
1965年、金沢大学法文学部に入学。映画研究会に加入。
1969年秋、金沢大学教養部封鎖闘争に参加。以降、70年安保沖縄闘争へ
1974年 非公然・地下活動を開始。一貫して対権力・対反革命ゲリラ・パルチザン戦争の最前線にたち続ける。
2005年 直腸がんが見つかる。余命3年と宣告される。
2012年11月21日、自宅で倒れ緊急入院。12月3日永眠。享年66。

二同志の遺志を継いでたたかう
浅田 洋二

12月初め、二人の大事な同志がたてつづけに斃れた。あれから一週間以上経つが、まだ力が抜けそうになることがある。
二人の遺志を引き継ぐと簡単には言い切れないが、その決意をうち固めるためにも、自分なりの彼らへの思いをここに綴り、次へと進みたい。

執念の人

永井さんは隙のない人だった。情勢認識をはっきりさせるための情報などを、今みたいにネットがない中で、足と執念で集めていた。誰も知らないようなことを調べ上げていた。だから会う時は緊張感があった。話すとだんだん緊張も解けるが。そういう同志の力は日々の生活でも重要で、僕はその恩恵にあずかった。
健康の維持に人一倍努力を重ねていることも他の同志から聞いた。そんな彼が、皮肉にも同年代の同志たちの中で先に病魔にむしばまれてしまった。それでも一度は打ち勝ったのは、執念のなせる技だった。
数年前、最初の手術がうまくいかなくて容体がかなり悪いことを吉岡さんから聞き、すぐ見舞いに行った。本当に苦しそうで、もう次は会えないのではないかと思った。病院を出て涙が止まらなかった。しかしそこから奇跡的な生還を果たし、その後は重要な任務も果たしてきたのは、多くの同志が知るところだと思う。永井同志は闘病に勝利し、革命運動をやり抜いたのだった。

階級的裏切りへの怒り

史朗さん。僕たちは吉岡同志のことをこう呼んでいた。史朗さんとは、僕の運動への関わりの最初から今まで20年以上のつきあいだった。二人で居た時間も結構あった。市役所前のテントでは、いつでも会えたので、最期までずっと一緒にたたかい、一緒によく飲み、いろいろ教えてもらったように思う。
20代の頃、印象に残っているのは、裏切り、特に権力へ売ることが最も恥ずべき階級的犯罪であるということだった。当たり前のことだが、どこで話したことかも含めて強烈に残っている。
「岩波文庫の『エストニアの壺』というのを読んだらいい」と聞いた。早速探しに行くとそんな本はなく、「エトルリアの壺」だった。権力への売り渡しは親子の間であっても許すことができないという話だったと思う。こういう話を聞いたからということだけではなく、彼をはじめ僕の周りにいた同志のたたかいが、実践で階級的裏切りは許さないと教えてくれた。
第2の3・14直前、与田らが、史朗さんをスパイ呼ばわりして処分を企んだが、僕たちは一笑に付した。そういうことを言う者が権力に屈服しているのは当然のことだった。かくして3・14決起となった。その後、分裂過程で安田派は、彼の足を引っ張ることで団結破壊を試みたようだったが、全くの逆効果でしかなかった。

不機嫌になるな

史朗さんが不機嫌であったことは見たことがない。最後のテントで、ある青年に、在特会への怒りがないと激しく怒りをぶつけていたことがあった。半端ではない怒りの表現だった。誤解を恐れずいえば、在特会に対する怒りより激しかったのではないか。テントで闘おうとする者がそんなことでどうするのかとの怒りだったのではないかと思う。
ところで、ストレートに〈怒りを表現する〉のと〈不機嫌になる〉のは、全く違う。そこをとことん重視した人だった。
ある指導部が怒りのあと明らかに不機嫌になっていた。次の予定を「俺はもう行かない」と言った。史朗さんは厳しく注意した。「指導部が不機嫌になることは絶対許さん。そうなったらみんな何も言えなくなるんや。怒りはいい。でも不機嫌にはなるな」。これを実践的にというか自然に貫いている人だったので、誰もが何でも話せたのではないかと思う。
分裂前に杉並選挙でも、天田書記長に「仏頂面をするな」と言っているのも聞いた。天田氏は「にこにこしていられるか」と全くその趣旨を理解できなかった。

共産主義を体現

組織的力ということもよく話していた。1+1=2ではなく、3にも4にもなれるということを、わが党はまだ誰も実感できていないのではないかと。指導部が許せないということをバネに頑張ることがある。見返してやる、という思いで力を出しても、それは豊かな力ではない。継続しない。本当にみんなが力を出せるようなもの、実感できるたたかいを何とかやりたい。そう言っていた。目指す共産主義社会もそうしたものだと僕は感じた。
3・14の時も、その後の分裂の時も、大事な時は、会えば必ず「今度のこと一緒にがんばろうな」と声をかけてくれた。経産省前テントを訪ね泊まった時も、本当によくきてくれたと他の仲間に紹介してくれた。うれしかった。そう言ってくれる人がいるからたたかうのではないが素直に嬉しかった。大飯や市役所前でも、たたかうために来る者にはいつもそういう声をかけていたと思う。みんなに慕われていた理由の一つだ。
反革命カクマルとの戦争の先頭にたっていたからこそ、その重さが分かっていたのだと思う。それが優しさにつながっていると思う。
オキュパイ大飯の乱以降有名になった“ど・フリー”。たたかいの表現は何でもOK。互いを尊重する。足を引っ張るな。これまで彼が言っていたことがここにつながっていると思う。Oneness TVがYoutubeにアップしている11月19日の〈ど・フリー会議〉で、遺言のようにそのことが語られている。
同志たちと新しいテントの仲間たちは、ジェンベ、再稼働反対コールで踊りながら史朗さんを見送った。最高の送り方だった。
僕は吉岡同志のようには闘えないだろう。しかし僕なりに、と言ってもできる範囲でということではなく、全力を出し切って、闘っていきたい。

「さあ跳べ、ここがロドスだ」 松田耕典(大阪府警本部在監)

吉岡史朗さんは、1970年以来、くじけそうになった私をさまざまな場面でふるいたたせてくれた指導者であり、兄のような存在でした。幾多の場面が想い出されますが、近くは、06年3月14日の吉岡さんの姿は、私は生涯忘れる事はありません。
3・11以降の世界では、脱原発の闘いに全力を投じました。昨年9月には経産省前にテントがたち、10月末に私はそのテントに一泊し、語り合いました。
そして今年5〜6月の大飯の闘い=『オキュパイ大飯の乱』と、関電前、ガレキ反対・市役所前テントの闘いは、多くの若い世代にしたわれつつ、獅子奮迅する姿がありました。その闘いの渦中で無念の死。本当に残念でたまりません。
しかし、私は涙をぬぐって吉岡さんが語っていた「ある時は黒子になり、ある時は先頭にたつ」「脱原発の闘いを一回転させるのが今日のコミュニストの役割だ」を断固受け継ぎたいと思います。
時あたかも総選挙、最大のテーマは3・11以降1年9カ月、この社会をどう造り替えるか、脱原発へ階級闘争を一回転させるかだと思います。すべてのみなさんが、この共通の思いを胸に、当面の2013年8月(大飯3・4号機の点検・停止、参院選)までの過程を吉岡さんとともに闘いぬこうではありませんか。
心が千々に乱れ、十分意をつくしたメッセージにはなりませんが、私も革命家・吉岡史朗の「さあ跳べ、ここがロドスだ」の精神を受け継ぎ、がんばりたいと思います。 仲間のみなさん。ともに手をたずさえ、がんばりましょう。
吉岡史朗さん。最後まで私たちを見守っていて下さい。
2012年12月7日

6面

被ばく地・フクシマで出会った人びとU(1)
三里塚・秋の収穫祭・芋ほり大会
古河 潤一

萩原さん(手前左)、市東参(同右)の説明を聞く(10月21日)

10月21日、快晴。おだやかな風。福島からの参加は、仮設住宅から大人14人、子ども1人。会場は空港敷地内の清水の畑。畑わきの森にマイクロバスをとめる。
反対同盟のスタッフからの説明があって「芋ほりをはじめます」。皆が畑になだれこむ。畝をくずし、赤紫の芋を掘りだす。「今年は夏が暑かったので、芋があばれた」と、萩原さん。3〜4キロ級がゴロゴロでてくる。福島の人たちは皆、農婦、農夫のいでたち、手が早い。どんどん掘りだし、持参した袋につめこむ。私は昨夜、「君と僕、ともだちになろう」と約束した5歳の少年が掘りだした芋を袋におしこむ。
今回は参加者が多い。若い母、父、子どもが目だつ。反対同盟農家の方々、現闘スタッフ、東京から千葉からの参加者、ほとんどが産直野菜の会員さん。東京の友人、関西の友人、「全参加者150人」。
反対同盟農家とスタッフ全力準備のごちそうがならぶ。昼食後、トラクターバケット乗り、ジャグリング、宝さがし、綱引き、萩原進さん、市東孝雄さんが里いもの収穫後の処理の実演。植えつけ、水やり、草取りの話。皆がうなずく。
そして交流会。萩原進さん「国も、東電も責任をとらず、再稼働。補償は打ち切る。こんなことは許せない」「成田空港をつくるために多くの畑がつぶされた。膨大な面積。農地をよみがえらせ首都圏の食糧をまかなう。食糧を大事に大事につくっていく」。
市東孝雄さん「農民にとって農地は命。農地をとられたら死。皆さんとともに心をひとつにして農地を守る」。
福島の女性「仮設住宅から来ました。『帰宅困難地区』の皆さんとともに。いつも新鮮な野菜をとどけてもらっています。今日はたのしい。いただいた里芋で、帰ったら皆で芋煮会やります。私たちは助け合い、力をだしあって頑張ります」。
福島の男性「素手で芋をほりました。土がやわらかくあたたかい。福島ではできない。ごぼう、にんじん、里芋。いいできと聞きました」「この土地を、国が図面をもってきて、強制的に空港を造る。『立ち退け』。ひどい話」「私たちは、仮設生活余儀なくされている。辛さ。地元(30キロ圏内)では立木、売れない。野菜つくれない。政府、東電、『補償、今年8月で打ち切る』と一方的に言う。農家の心情、はげましあって、福島と成田、ともに頑張っていきましょう」。
今年は福島からの参加者は、芋ほりに先立ち、市東さん宅と畑の見学をした。市東さん宅の東西ふたつのやぐらに2班に分かれて交互にのぼった。それぞれ、萩原進さんと現地スタッフが説明して下さった。西のやぐらに上ると、眼下に第三誘導路工事。これができれば、市東さんの家、畑は空港内に孤立する。近くの畑に行くにも、トンネルを通り、大きく迂回しなければならない。福島の人びとはうごきまわるダンプカー、ショベルカー、作業員をにらむ。「ひどい」と言葉がもれた。

ここに『街』をつくる

今回は福島県内でマイクロバスを借りたので、一日の走行距離が昨年の半分、556キロ。それでも帰路、速度をあげる。となりでナビをやるのは昨年と同じ男性。
19時前に仮設にたどりつき、すぐにおみやげや野菜の分配。萩原さん、市東さん、鈴木さんの畑の野菜。「本当にいいでき」「さつまいも、ここ(田村市)ではつくってもおいしくない」「土がちがうのよ」。
今年1月にはじめて、この仮設をおとずれて以来、不当逮捕され留置場にいた3月をのぞいて、毎月、この仮設をたずねた。趙博さん、友人とともに。この仮設では、野菜は菜っ葉一枚、芋1個までが、全戸に平等に分けられる。仕分けが終わるとすぐに、戸口までとどける。「あそこは今日は留守。うちであずかる」。
「みんな仲いいでしょう」とほほえみ、「私たちはいろんなところから、死ぬ思いで逃げてきた」。原発直近の人、つれあいを亡くした人。この仮設では全てのことを『協議』する。テーブルがならべられ、『議長』の婦人が座る。横に『書記』の女性。そしていろんな意見が、案がでてくる。いつのまにか、結論がでる。横で、田村市のボランティアセンターの人が聞いている。議長の婦人が言う「この件は、このようにやりますのでよろしく」
先日、ある婦人が、私たちに言った「私たちは、ここに私たちの『街』をつくります。皆で生きていきます」。ある婦人は言った「私たちは、『まずしく』生きていきます」。

仮設住宅で野菜の仕分け作業(10月21日)

各地で除染作業

毎月のように仲間とともに福島に行き、三里塚の野菜をとどけた。歌をとどけ、フィルムで映画会をやり、「ともに生きよう」と手をにぎり合ってきた。私の逮捕も判決「懲役1年執行猶予3年」も、福島の人びとは笑いとばした。「またいっしょにやれるんだね」。
今年2月、川俣町で、農地と隣の山の斜面を削るショベルカーを見た。看板に「除染モデル作業中」下に「西松建設」。 6月、そこで工事車両が表土をはぎ、黒い袋に詰め込んでいく。白い防護服の作業員が畑、斜面で働く。仲間とふたりでそろそろとはいりこむ。白い服の人が言う、「マスクつけた方がいいですよ」。黒い袋には、0・22マイクロシーベルトと表記がある。どの袋もだいたい、それくらいの線量の放射能汚染の土が入っている。ずらっと、畑のわきにならぶ。バッグから線量計をとりだし、表土をはぎとられた赤土にかざす。0・20前後。まったく下がっていない。
一台の軽トラックが走って来て、白い服の男がとびだし、叫んだ。「出ていって下さい。道路まで出て下さい」
9月、飯舘村役場から1キロの地域で、農水省の職員が説明。「表土をはぎとったあと、よそから運んできた土で20〜30センチおおって作業は終了。もちろん農業できます。安全です」。除染前、このあたりの畑は毎時0・4〜0・6マイクロシーベルトをカウントしていた。
8月、飯舘村長泥のTさんから電話があった。「先日、区長から言われた。『よその人間を連れて、長泥に行くのはよくない』そう言われた」。いつになく沈んだ声。私、「じゃあ、外で会いましょう」。9月、飯野町で会って野菜を渡した。
11月、Tさん「仮設で会おう」。福島市松川町の大規模仮設に行く。仮設入口に大看板。「取材、チラシ、ボランティア立入禁止」。
仲間とともに野菜を下ろし、物置に入れる。
Tさん夫妻の家は、3畳ほどの台所と4畳半の部屋。つれあい、「ここにいると体がだるくなり、気が滅入って何もやる気がしなくなる」。うなずくTさん。私が「長泥では、何の農作業もやらない日でも、畑に行き作物の顔を見て、雨の日には用水路をみまわり、ついでに畑のきうり、なす摘んで、それを食べる。牛の世話、家のメンドウ、山菜とり・・・」というと一言ひとことにうなずく夫妻。
11月、田村市の仮設の人たちの多くが、除染作業に就いた。男性たちは白い防護服を着て田畑に行き、ある女性は臨時宿舎の食事づくりに行った。会いに行くと「またゆっくり、話聞いてね」
国と東電はあくまで原発推進。そのために福島では除染、福島県民に「ここで住め」。そして全国への汚染ガレキの拡散焼却。とびついた橋下。
今年にはいって、反原発、福島支援、ガレキ拡散・焼却反対をたたかう者が、12名もねらいうち逮捕、投獄されている。

若い母親の電話

先日、若い母親から電話。「下地さんまで逮捕されて、何で。戦争中と同じじゃないですか。こわいです。原発再稼働こわい。ガレキ焼却こわいんです。体がふるえるほどこわい・・・。だから、私、15日の集会、子どもつれて行きます」
12月20〜23日、仲間と私は、再び福島に行きます。13度目の「出会い」です。

冬期特別カンパへのご協力をお願いします

原発ゼロと沖縄の米軍基地撤去の実現のために民衆自身の直接行動を発展させましょう。わたしたちは、そのためにみなさんと共に奮闘します。ぜひ、革共同再建協議会へ冬期特別カンパを寄せて下さい。

カンパ送り先

郵便振替 口座番号:00970―9―151298 加入者名:前進社関西支社
郵送 〒532―0002 大阪市淀川区東三国 6―23―16 前進社関西支社

休刊のお知らせ

来年1月1日(火)発行号は、休刊します。 1月15日(火)発行号は、通常どおり発行します。