未来・第117号


            未来第117号目次(2012年11月20発行)

 1面  汚染がれきを燃やすな
     抗議の4人を不当逮捕 大阪市説明会

     大飯原発をとめろ
     関電本店を千人超で包囲

     10万人が国会周辺を“占拠”
     再稼働阻止で全国ネット結成

 2面  大阪市役所前に監視テント
     原発再稼働・がれき焼却に反対

     ガレキ焼却反対 申し入れ
     近隣7府県住民が大阪市に

     オスプレイ配備反対
     全国集会に4千人参加

 3面  「君が代」不起立処分 損害賠償裁判
     河原井さんが勝訴 東京高裁

     減給・停職は違法
     戒告処分は容認

     沖縄で遺骨を収集すること
     ガマ・フヤー 具志堅さんの話を聞く

     小松基地爆音訴訟
     補償を値切る国の姑息さ

 4面  「仮の町」構想と民主主義の再生
     福島県・双葉町の試み

 5面  論考
     グローバリゼーションと現代帝国主義

     投稿
     「障害者」ら厚労省に申し入れ
     「障害者総合支援法」の廃止を

 6面  帰りたい 帰れない 帰らない
     飯舘村民の苦悩(第3回)

       

汚染がれきを燃やすな
抗議の4人を不当逮捕 大阪市説明会

13日、大阪市此花(このはな)区民ホールにおいて、放射能汚染がれきの広域焼却処分に反対する仲間4人が「建造物侵入、公務執行妨害」で、でっちあげ逮捕された。
大阪市はこの日、「11月試験焼却」を強行するために、単なる形式的な手続きとして住民説明会を開いた。さる8月30日の「放射能汚染がれき受け入れ」をめぐる説明会で橋下市長は、市民からの質問にまともに答えず、一方的に閉会を宣言して逃亡した。受け入れをめぐって市民は納得していないし、まともな説明も橋下市長はしていない。そういうなかで、がれきの搬入・焼却を強行するための説明会がおこなわれようとしていた。

会場の此花区民ホールを取りかこみ説明会強行に抗議(13日 大阪市内)

狙い撃ち逮捕

10月12日に大阪市役所前に設営された原発再稼働反対監視テント(以下、監視テント)に常駐していた仲間、関電・大阪市・警察への抗議行動を最先頭で闘い抜く仲間。警察から狙われた彼ら彼女ら4人が暴力的に奪い去られた。怒り、悔しさ。徹底的な糾弾を、警察権力と、それを呼び込んだ大阪市にたたきつけなければならない。
この予防拘禁によっても、がれき焼却を許さない行動、反核・反被曝の闘いは後退しない。さらに抗議行動は拡大し、この弾圧を打ち砕く。弾圧後の住民説明会に対する抗議行動、そして此花署への100人にものぼる深夜の抗議がそのことを示している。
この日まで連日、監視テントは「大阪 ど・フリー11・13行動」の呼びかけを発していた。連日、テントに集まる仲間との議論を中継し、全国に呼びかけていた。権力は恐怖したのだ。
不当逮捕後、大阪市は説明会の最中にも関わらず、「11月24日以降、試験焼却をはじめる」とマスコミにリーク、説明会の体もかなぐり捨てた。
私たちはあらためて起ち上がる。監視テントが連日呼びかけていた言葉を引き続き呼びかける。「行動が行動を呼ぶことに確信を持とう。怒りや悲しみ、さまざまな思いを、行動に転化させろ。想像力は、権力を超える」「集まれ集まれ集まれ」

大飯原発をとめろ
関電本店を千人超で包囲

原発の再稼働に反対するとともに、11月中に予定されている大阪市による汚染がれき「試験焼却」の阻止をよびかけることを目的として、「原発いらん!被曝させるな!11・11関電本店1万人大包囲」がたたかわれた。
午後2時から大阪・西梅田公園で700人が参加して集会がひらかれ、午後3時20分からは、関西電力本店前にさらに多くの人々が合流し、1100人で関電を包囲する大行動となった。
関電本店の西南角にステージを設け、阪南大学准教授の下地真樹さんと、〈大阪此花発!ストップがれき近畿ネットワーク〉〈STOP原子力★関電包囲行動〉のぱぉんさんが司会、呼びかけ人の小林圭二さん(元京大原子炉実験所講師)を筆頭に、様々な団体、個人から発言があった。(発言者名はブログ参照。「11・11関電本店1万人大包囲」で検索)
激しい雨は、反原発・反被曝の決意を固めた仲間たちを煽るような効果さえもたらし、ジェンベが鳴り響く中、時にはコールをあげ、それぞれが思い思いのアピールをおこなった。 終了後も多くの人びとが残り、〈ジェロニモレーベル〉、〈はちようび〉によるライブに体を揺らした。

関電包囲行動の前に西梅田公園で集会(11日 大阪市内)

首都の闘いに呼応

11・11関電本店1万人大包囲は、東京で同日おこなわれた反原発1000000人大占拠と呼応する闘いとして呼びかけられた。
反戦・反貧困・反差別共同行動(きょうと)、とめよう原発!!関西ネットワーク、さらに監視テントなど、さまざまな団体・個人が集まって10月初めに相談会がもたれ、その後、2回の実行委員会を経て実現に至った。

放射能拡散を許すな

最初の相談会が重要な議論の場となった。東京での行動に呼応するものであるが、それと同時に、大阪、関西の情勢に踏まえて取り組むべきという意見が出された。
いま全国で唯一動いているのは大飯3号機、4号機だ。これを止める。さらに大阪市が「汚染がれき焼却」強行するのを許すのかどうか。反原発運動にとっての一大転換点となっており、まさに大阪決戦とも言える情勢であること、そこをはっきりさせて取り組もうという議論がなされた。
汚染がれき広域処理反対は地域エゴではもちろんなく、放射能拡散を許すのかどうかということである。

福島との連帯

今、福島や関東では、すさまじいレベルで汚染されている地域があるにも関わらず、そこに人びとが住まわされている。県外での一時保養すら困難な状況に押し込められ、住まざるをえない状況を強いられている。そして現に住んでいるのだから安全とされ、「危険」などということは簡単には言えない状況にある。
反原発運動もこの被曝とのたたかい、反被曝ということでは、まだ力を出し切れていない。こうした状況を打ち破り、福島との本当の連帯がもとめられているのである。
さらに、この「がれき=放射能」拡散を通じて、今後、原発から排出する抱えきれないほどの量の低レベル放射性廃棄物をも全国に拡散させるもくろみが透けて見える。原発が稼働するかぎり被曝は避けられない。汚染がれき広域処理反対は原発再稼働反対と完全に重なるたたかいなのである。だからこそ関電本店を包囲するのである。
このような議論を経て作成された呼びかけに、短期間で多くの団体、個人が賛同を寄せ、11・11が実現したのであった。(浅田洋二)

10万人が国会周辺を“占拠”
再稼働阻止で全国ネット結成

国会周辺でさまざまな抗議行動が行われた(11日 都内)

11日、「11・11反原発1000000人大占拠」が東京で開催された。主催した首都圏反原発連合(反原連)は参加者10万人と発表した。
この日は、午後1時から日比谷公園を出発点とする国会と霞ヶ関周辺のデモが予定されていた。ところが、東京都が日比谷公園の一時使用を認めなかったため、反原連が裁判所に、使用許可を求めていた。東京高裁は5日、反原連の抗告を棄却し、11日のデモが申請できない状態にさせられた。都と裁判所が結託した「デモ禁止」に等しい。
こうした国家権力の妨害をはねのけて、11日の午後、国会周辺に続々と参加者が集まった。
国会正門前大集会をメインに、首相官邸前、東京電力本店前、厚生労働省前、経済産業省前、文部科学省前、財務省前、外務省前、Jパワー前の9カ所の抗議エリアで降りしきる雨をついて、行動がくりひろげられた。

市民団体が共闘

10日、東京・文京区民センターで「再稼働阻止全国ネットワーク」の結成集会がおこなわれた。「つながろう全国各地/止めよう原発再稼働」を合い言葉に、ネットワークに参加したのは全国各地から約50の市民団体。国内の原発立地地域全16カ所で活動する団体が加わって、再稼働に向けた電力会社や国の巻き返しを許さないたたかいを展開する。

2面

大阪市役所前に監視テント
原発再稼働・がれき焼却に反対

10月12日、大阪市役所前にテント6張が忽然と立った。
今春、関西電力・大飯原発3、4号機の再稼働を阻止するために、福井県おおい町内にテントを張り、監視行動をした〈原発再稼働反対監視テント〉の人たちが中心となって立てたもの。〈監視テント〉の大型1張を中心に、常駐メンバーの小テントがある。
大阪市・橋下徹市長がねらう大阪市での東日本震災ガレキ焼却に反対し、8月30日の住民説明会での抗議行動に続いて、11月試験焼却阻止に向けたたたかいを押し進める拠点として建設したという。その後、テントは続々と増え、11月16日現在、17張ある。 場所は好立地で、市役所や裁判所に来る人が必ず通るコースであり、付近にはオフィスビルが立ち並ぶ、大阪市内のオフィス街の中心だ。朝夕や昼休みには、通行する市民、労働者が歩道にあふれる。

監視テントにバナーがひるがえる(10月26日 大阪市役所前)

オキュパイ

このテントができてから、大飯原発再稼働に反対する人、大阪市の汚染ガレキ受け入れ・焼却を止めたいと思っている人が次々と訪れ、テントは、情報交換・交流の場となっている。周囲には、色とりどりのバナーやメッセージボードがはりめぐらされ、市民運動の解放区だ。〈監視テント〉の人たちは「オキュパイしている」と言う。ジェンベ(西アフリカの打楽器)ありギターありで、さまざまな人たちが、それぞれのやり方で表現している。
「私は泊まることはできないが、よくやってくれてました」と言って訪れる人も。さまざまな物的精神的支援が毎日届く。食糧も連日差し入れがあり、おかげで食べ物には困っておらず、夜は鍋を囲むという。

燃やすな

汚染ガレキの焼却は絶対やってはならない。大阪市だけでなく、全国どこでもやってはいけない。そもそも、ごみを焼却すること自体に問題があり、世界的には焼却しない処分方法がすすんでいる。
特に、今回の震災ガレキは、通常であれば産業廃棄物として処分されなければならない危険物がかなり混ざっている。燃やせば、アスベスト、六価クロム、水銀などが飛散する。こういうものが紛れ込んでいるゴミを燃やす行為は、毒物をばらまく危険行為なのだ。 日本では小学生が、授業の一環としてゴミ処理場に見学に行くということがおこなわれているが、こんな危険な場所に子どもをつれていくべきではないという批判が海外からもあがっている。今回は、そこへ放射能問題が加わっているのだ。放射能汚染を全国にひろげるという暴挙である。
被ばくを全国に拡散する政府の行為は、福島第一原発過酷事故を引き起こした日本政府の責任を曖昧にし、崩壊した「原発安全神話」に代わり、今度は「放射能安全神話」を流布させるものである。さらに、ガレキ処理にからむ利権政治を押し進め、復興のための資金を食いものにするばかりか、被ばく意識の低下(慣れさせること)を狙っているのだ。

放射能を全国に拡散

この「放射能安全神話」は、ずさんな放射線管理の下でおこなわれている福島第一原発収束に携わっている労働者を、さらに危険にさらすことになる。東北・関東から被ばくを避けるため、必死の思いで避難している人たちに追い打ちをかける。福島県でたたかわれている「被ばくから避難する権利」を求める運動をはずかしめるものである。「被災地との絆」の名目は真っ赤なウソだ。大阪市此花(このはな)区舞洲(まいしま)の焼却炉で11月下旬に試験焼却100トン、来年2月から再来年にかけて計3万6千トンを焼却しようとしている。48億円の利権だけが目当てである。こんな暴挙は許されない。
〈監視テント〉の仲間は、北九州市で9月12日から17日(本焼却開始)まで市役所前にテントを張り抗議闘争に参加した。北九州市でのガレキ6万トン本焼却の開始に悔しい思いをし、これ以上の放射能拡散を許さないために大阪市の攻防に参加した。北九州市の本焼却は日本政府の布石であり、くわえて大阪市のガレキ焼却が進めば、なし崩し的に全国でのガレキ焼却が進むのは、火を見るより明らかだ。

弾圧とのたたかい

反原発・関電前行動と連帯し、たたかいの強化をつくりだそう。〈監視テント〉のメンバーは11月13日の此花区の住民説明会抗議闘争の先頭に立った。関西の反原発の新しい行動的な活動家は、このテント設置を心から喜び、共にたたかおうとしている。多くの活動家がテントに集まり、たたかう意識を共有している。毎週金曜日の関電前行動、10・5弾圧での天満署抗議行動への出撃拠点でもある。
11月13日、大阪市が開催した「11月試験焼却にむけての住民説明会」での抗議行動で4人の仲間が不当逮捕された。テントは、この不当逮捕にたいする反撃・救援活動のネットワークの中心になっている。

橋下打倒へ

11月14日、橋下市長はテント撤去命令を出した。攻防が、連日続いている。テントを守り、たたかいを強化しよう。〈監視テント〉は不屈の精神でたたかうと表明している。(11月17日 記 Y)

ガレキ焼却反対 申し入れ
近隣7府県住民が大阪市に

7日、大阪市に対して、近隣7府県(大阪府、滋賀県、京都府、兵庫県、和歌山県、奈良県、三重県)住民による申入れ行動がおこなわれ、「大阪市の災害廃棄物受け入れに関し、住民が充分納得するまで決して試験焼却と本焼却を行わないことを求める要請書」を提出した。
申入れに先立ち、12時から市役所前でおこなわれたアクションには200人が参加し、市役所前遊歩道は「汚染ガレキ受け入れ・焼却反対」の声でつつまれた。
1時からの申入れ行動には100人が参加。会場の地階会議室に入りきれず、廊下にあふれた。対応した市政企画室秘書部の2人に対し、要請書を読み上げ、7日以内に文書をもって回答するよう求めた。
要請書は当初、近隣7府県住民を対象によびかけたが、全国から参加の声があがり、最終的には福島、東京、神奈川、静岡、愛知、徳島、鳥取、福岡からも多数の団体が名を連ね、学者など34人、145団体が要請人となった。

申し入れに先立ちピースフルアクションがにぎやかに(7日 大阪市役所前)

汚染をひろめないで

福島県いわき市〈いわき母笑みネットワーク〉千葉由美さんからメッセージが寄せられた。以下抜粋。「これ以上汚染を広めることはしてはいけません。どうか瓦礫の受け入れにはNo!と言って下さい。真実は後から知っては遅いのです。私たちの悲しみを無駄にしないでください。失ってから気づくことの多さに私たちは途方に暮れています。痛み分けなど、私たちは望んではいません。同じ思いをしてほしくはないのです。」「子どもを守るために苦労している、福島の母親たちからの祈るような思いが少しでも伝わりますように・・・。」
2時から、7府県代表の7人と、海老澤徹・元京大原子炉実験所助教授、阪南大学准教授・下地真樹さんなど11人が庁舎内で記者会見をおこなった。(大阪 N)

オスプレイ配備反対
全国集会に4千人参加

11月4日、東京・芝公園で「止めるぞ!オスプレイの沖縄配備 許すな!低空飛行訓練全国集会」が開かれ、首都圏を中心に全国から約4千人が集まった。
平和フォーラムと〈オスプレイの沖縄配備に反対する首都圏ネットワーク〉から主催者あいさつ。続いて沖縄平和運動センター事務局長の山城博治さん、〈普天間米軍基地から爆音をなくす訴訟団〉事務局次長で宜野湾市議の桃原(とうばる)功さんから発言。

沖縄の怒りは頂点に

山城さんは「10万人の県民大会を開き、県議会や市町村議会でのたびかさなる決議をあげても、一顧だにされず、オスプレイの配備が強行されました。沖縄の怒りは頂点に達しています。相次いで起こる(米兵による)凶悪事件に対しても官房長官は『身柄の引渡しは求めない』『地位協定は運用改善で充分だ』と言っています。運用の改善で解決するなら、67年間の沖縄の苦しみや怒り、女たちの悲しみはなんなのか」「こうしたことを続けるなら、沖縄は総決起して日米の野望を粉砕し、自らの手で命と生活を守り沖縄を再び戦場にはさせない」「12月中旬をめざして普天間での闘いを準備しています。そのときには全国からの結集をお願いします」と呼びかけた。

温度差、差別が

桃原さんは「2002年に普天間基地について国を相手に訴訟を起こしました。福岡高裁で賠償命令を勝ち取りましたが飛行差し止めは実現しませんでした。今、第二次の訴訟をおこなっています」「2004年の米軍ヘリ墜落事故以来、うるさいことに加えていつ落ちてくるかを心配しながら生活しています」「オスプレイの配備以来、朝から夕方まで、おじいおばあを含めて毎日抗議しています。そのさ中にあの婦女暴行事件が起きました。そしておととい(11月2日)中学生が家で寝ているところを米兵に襲われるという事件が起きました。沖縄県民は外も歩けないのか。家で寝ることもできないのか」「沖縄とヤマトの間にまだまだ温度差を感じます。私には差別のようにも感じます。本土の皆さんにもっともっと頑張っていただきたい。沖縄に来てください」と怒りを込めて発言した。 集会後、米大使館前を通り、六本木までデモ行進。米大使館前では激しいシュプレヒコールをおこなった。

3面

「君が代」不起立処分 損害賠償裁判
河原井さんが勝訴 東京高裁

最高裁の逆転勝訴をうけて発言する河原井純子さん(1月16日) 都内

今年1月、最高裁で「停職1カ月」の処分が取り消され、東京高裁に差し戻しとなっていた河原井純子さん(元都立特別支援学校教員)の損害賠償請求裁判の判決が7日にあった。
判決は「(停職1カ月は)裁量範囲を超えるものとして違法」「処分により・・・被った精神的苦痛にたいする慰謝料は、30万円とするのが相当」とした。

国会答弁に反する処分

さらに判決文では、「(99年、国旗国歌法制化時の)国会では、教員の職務上の責務については変更は加えられないこと、処分は、問題となる行為の性質、対応、結果、影響等を総合的に考慮し適切に判断すべきこと、処分は、万やむを得ないときに行われるべきことが答弁されていたのであるから、機械的、一律的な加重は慎重であることが要請されていたということができる。」「不起立行為に対して戒告、減給から停職処分へと機械的、一律的に加重していくことは、教員が2、3年間不起立をすることにより、それだけで停職処分を受けることとなるのであり、その結果、自己の歴史観ないし世界観に忠実な教員たちにとっては、不利益の増大を受任するか、自らの信条を捨てるかの選択を迫られる状況に追いやられることも考慮すべきである。」と指摘。

国家賠償法上も違法

また、「停職処分を選択した都教委の判断は、停職期間の長短にかかわらず、処分の選択が重きに失するものとして社会通念上著しく妥当性を欠き、上記停職処分は懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法である。この違法は、停職処分を取り消すべき違法であるのみならず不起立行為の性質、実質的影響、停職処分の不利益に対する考慮が尽くされていないという意味で職務上尽くすべき注意義務に違反しているというべきであり、国家賠償法上も違法である。」
「特に、養護学校では、教諭と児童生徒との人格的触れ合いが、教育活動に欠かすことのできないものであることを考慮すると、・・・財産的損害の回復のみによっては、控訴人(河原井さんのこと)の精神的損害が慰謝されるものではないことは明らかである」と、都教委による違法な処分を断罪。
今回の高裁判決は、このかんの最高裁判決〈戒告処分なら適法。根津さんへの停職処分は妥当〉を超えるものではないが、『日の丸・君が代』法制化時まで戻ったという意味で、03年以降の連綿たる闘いの成果でもある。
判決後、河原井さんは「今、教育の現場ではものをいう自由がなくなっている。今日の判決が、教員たちの背中を押すきっかけになれば」と語った。

減給・停職は違法
戒告処分は容認

「君が代」不起立で処分をうけた都立学校教職員64人が、処分取り消しを求めた控訴審で、東京高裁は10月31日、「戒告処分は適法」としつつ、減給・停職処分については、「裁量権逸脱・濫用にあたり違法である」として、21人・22件の減給・停職処分を取り消す判決を言い渡した。
この訴訟は、03年都教委による「10・23通達」以降、乱発が始まった「君が代」不起立での処分をめぐり、04年処分にかかわる第1次訴訟につぐもので、05年と06年に処分を受けた教職員が提訴していたもの(いわゆる第2次訴訟)。

処分乱発した石原

03年「10・23通達」と、これにもとずく職務命令により都教委は、卒業式・入学式等で「君が代」斉唱時の起立斉唱を教職員に義務付けた。命令に従わない教職員にたいし、1回目は戒告、2〜3回目は減給(1〜6カ月)、4回目以降は停職(1〜6カ月)と、回を重ねるごとに累積加重するシステムを強行してきた。
教職員を大量に処分し続け、教育現場に「日の丸・君が代」を強制してきた石原都知事。この判決と同時刻、都議会が都知事辞職に同意し、石原は都庁を去った。
今回の一部勝訴をうけて、原告団は〈戒告処分は適法であるとしたこと〉および〈10・23通達、職務命令、懲戒処分が、憲法19、20、23、26条および改悪前の教育基本法10条(不当な支配の禁止)に該当し違憲違法であるという原告側主張を認めなかったこと〉を不当とし、上告する意向を表明した。

沖縄で遺骨を収集すること
ガマ・フヤー 具志堅さんの話を聞く

10月12日、〈関西・沖縄戦を考える会〉講演・学習会が大阪市内で開かれた。同会は「大江―岩波裁判」の勝利の成果を継承し、沖縄戦のさまざまな教訓を学びながら、現在の沖縄戦をめぐる諸問題の解決のために生かしていこうという趣旨で新たに出発した組織。定期的な講演・学習会をベースにして活動を展開している。
今回の講演・学習会の講師は、ガマ・フヤー(沖縄の言葉で「洞を掘る人」という意味)こと具志堅隆松(ぐしけん たかまつ)さん。約30人が参加し、具志堅さんの体験談に真剣に耳を傾けた。
世話人・西浜楢和さんの司会で始まり、代表世話人の岩高澄さん(牧師)があいさつ。岩高さんは、あるきっかけで具志堅さんと知り合い、具志堅さんの遺骨収集の現場を見学させてもらい、具志堅さんがまるで遺骨と対話するようにしながら丁寧に収集している姿に感銘し、具志堅さんの話を多くの人に聞いてもらいたいということで今回の企画をしたと話した。

『精さんの帰郷』

次いで、『精さんの帰郷』というタイトルのDVDが上映された。これは、RBC(琉球放送テレビ)のニュース・スペシャルという番組で放映されたもの。ある遺骨と一緒に掘り出された遺品の万年筆に刻まれていた名前で、その方が千葉県出身の朽方精さん(享年37歳)ということがわかり、現在千葉県に在住している精さんの甥の元に還されるまでの感動的な内容。その並々ならぬ苦労の過程は本当に頭の下がる思いだ。このように身元が分かる例はめったになく、ほとんどの遺骨が身元不明だとのこと。

沖縄戦の実態

『精さんの帰郷』の内容を引き継ぐ形で、具志堅さんの講演が始まった。具志堅さんは、遺骨収集をするようになった経緯を話した上で、発掘された遺骨のさまざまな具体的な状態から、その方々の亡くなった時の情況を写真の投映で説明した。
例えば、母親が幼子を守るために覆いかぶさっているような状態など、いくつかの例を紹介したが、いずれの遺骨もその方の亡くなる際の悲惨な気持ちが具体的に伝わってくるようで、胸がつまる。具志堅さんは、「本来このような戦争犠牲者の遺骨収集は国が責任をもっておこなうべきものであるにもかかわらず、厚生省―厚生労働省は一貫して放置し、それどころかせっかく発掘した遺骨の身元判明のための資料などを提供せず隠し続けている」と、怒りと無念の思いを語った。
具志堅さんのトツトツと語るひたむきな話しぶりに、その誠実な人柄と芯の強さが感じられて、多くの感動と戦争に対する怒り、それと闘う勇気を与えられた。
具志堅さんは最後に、「沖縄戦の実態を知ることは、いのちを大切にすることだ」「なぜ、沖縄戦のような事態を生み出してしまったのか―日本のアジアに対する侵略戦争の歴史を反省する必要がある」「今、オスプレイが沖縄に強行配備されたが、このような戦争につながる動きを何としても食い止めていかなければならない」という内容で締めくくった。

構造的差別

沖縄戦は、アジアの権益をめぐる日本帝国主義とアメリカ帝国主義の侵略および帝国主義間の戦争の結果であった。
そして、沖縄戦は琉球処分以来の日本資本主義―帝国主義の沖縄に対する構造的差別が行き着いた地獄の極致であり、戦後の日米安保体制と米軍基地に象徴される今日の沖縄問題の出発点であった。この沖縄問題の歴史的現実をしっかりと見据え、沖縄現地の人びとと連帯して本土における沖縄の闘いを強力に展開し、拡大・発展させていく責任を痛感した講演・学習会だった。(島袋純二)

小松基地爆音訴訟
補償を値切る国の姑息さ

5日、小松基地爆音訴訟の口頭弁論が金沢地方裁判所でおこなわれた。
裁判後の、原告弁護団による説明では、10月16日に、国・防衛省が反論書を提出し、その中で「昼間W値論」を前面化してきたという。この主張は「騒音地域に住んでいる原告の中には、昼間、地域外に出ている住民がいるから、その分の補償をまけてくれ」というものだ。
この「昼間W値論」は他の基地騒音訴訟でも主張されており、重要な争点のひとつだ。過去にも、主張してきたが、その度に原告弁護団から反論され、判決でも取り入れられてこなかった。
弁護団が説明した後、裁判に参加した原告住民から「騒音は昼間だけじゃない。特に最近は、夕方のニュースの時間がうるさい」「夜間訓練も増えているじゃないか」「昼間、騒音区域内に来て仕事をしている原告への補償に反対してきたじゃないか」と、国・防衛省にたいする不満と批判が噴出した。
小松基地訴訟は、1975年の第一次提訴から38年、その間に4回の判決があり、その度に騒音源対策を命じられていながら、何十年間も放置してきたのだ。騒音源対策もしないで、住民への補償を1円でも値切ろうという魂胆だ。
この5日から日米共同統合演習が始まり、陸海空自衛隊3万7000人、在日米軍1万人が参加。日米統合演習は、朝鮮・中国を仮想敵とした侵略演習であり、小松基地は朝鮮半島への出撃基地としての役割をもって、主力として参加した。
小松基地からも140人の隊員とF15戦闘機が、新田原基地、那覇基地での演習に参加し、小松基地では空砲を使用して警備訓練がおこなわれた。期間中、夜間飛行訓練も増加した。 小松に平和で静かな空を!(竹内二郎)

4面

「仮の町」構想と民主主義の再生
福島県・双葉町の試み

福島原発事故以来、全住民が避難を余儀なくされている町の再建・復興をめぐって浪江町、双葉町、大熊町、富岡町では、「仮の町」という構想をめぐる議論が本格化してきている。本稿では、双葉町の取り組みを中心に見ていきたい。

「仮の町」とは

「仮の町」構想とは、福島第一原発事故によって高濃度の放射能に汚染され、長期にわたって帰還できない状態の自治体と住民が、集団で移転しようという構想。全域が避難区域となっている浪江町、双葉町、大熊町、富岡町が、「仮の町」構想を検討している。 住民の数は、浪江が2万1千人、双葉が7千人、大熊が1万1千人、富岡が1万6千人、合計で5万5千人にのぼる。なお、福島県民全体では、約16万人が依然として県内外で避難生活を余儀なくされている。
9月から協議会

「仮の町」という構想が最初に提起されたのは、昨年末、双葉町の井戸川克隆町長による。今年3月には、浪江町の復興検討委員会が「町外コミュニティ」を整備する案をまとめ、大熊町の復興計画検討委員会が「仮の町」の素案を町長に提出、双葉町が「仮の町」移転構想関連予算を可決と、自治体の側が、「仮の町」へ動き始めた。

「仮」なのか、恒久なのか

「仮の町」には、「あくまでも元の町に戻るまでの時限的な」という含意がある。しかし、「では、戻れるとすればいつなのか」という問題がある。それは、放射能汚染の現状と今後の推移をどう見るかということに関わる。
また、それに踏まえつつ、主体的な選択の問題として、「戻るのか、戻らないのか」という問題がある。これは、住民にとって、簡単に割り切れる問題ではない。
「牛、米、山菜、茸・・・。その宝の町から、原発事故によって一瞬にして追い出された。双葉町に戻ることはどうしても叶えたいが、放射能という悪魔が何十年と続くことを思うとすぐには帰れない」(「双葉町復興まちづくり委員会」に寄せられた委員の意見より) 断ちがたい故郷への思い、先行きの見えない不安、新しい生活に踏み出そうとする葛藤がある。また、高齢者と若者とでは、将来への思いや現実の受け止め方も違う。
こうした中で、双葉町では、町のアンケートによれば、住民の約半数が「仮の町は必要」と答えている。

150年かかる

10月16日、臨時町役場がある埼玉県加須(かぞ)市で開催された「双葉町復興まちづくり委員会」で、同委員でもある木村真三・独協医大准教授が、「チェルノブイリに学ぶ福島・双葉町の現状」と題する講演をおこなった。
木村氏は、チェルノブイリの実態調査に携わり、また福島原発事故直後から被災現地に入ってきた経験とデータに踏まえ、双葉町の放射能汚染の現状と見通しについて見解を示した。木村氏の報告は「戻れるまで150年はかかる」という辛い現実を突きつけるものだった。
この講演を聴いた町民のひとりは、「おおむね、その通りだと思う」と、静かに受けとめていた。

7千人の復興会議

双葉町は、約7千人の町民が県内外に避難している。県内に3600人、県外に3300人。県内では、いわき市に1300人、郡山市に700人など。県外では埼玉県に1100人のほか、北海道から沖縄まで各地に散らばっている。
役場機能は、震災以降、埼玉県加須市に臨時に移動しているが、10月に入って、いわき市南部の勿来(なこそ)地区に移ると発表された。
10月14日におこなわれた「7000人の復興会議・いわき市会議」の様子
町民自身による
双葉町の復興への取り組みは、以下のような形で進められている。
ひとつは、有識者と町内各団体の長などを中心とした「復興まちづくり委員会」。もうひとつは、「町民みんなが主体的に参加して復興まちづくりを考える」という「7000人の復興会議」。この二本立てで進められている。
この取り組み方はユニークだ。一般的には、町の有力者が中心になり、外部の機関に委託するなどで計画案を作成し、それができあがったところで町民に示し、承認を取り付けるというやり方になるだろう。ところが双葉町では、先に計画案を作成するという作業を、あえておこなっていない。
会議で様々な意見
10月14日、いわき市内で開かれた「7000人の復興会議・いわき市会議」を取材した。
避難先が全国に散らばっている中で、8月から、福島市、東京、新潟県柏崎市、埼玉県加須市と、避難している町民の多い地域を巡回して、会議が開催されてきた。その5回目。この日の会議への町民の参加者は約40人。いわき市内に避難している住民で、初めて参加する人たちばかり。
参加者は、5〜6人のグループに分かれてテーブルを囲んで座った。グループの討論では、つぎのような意見が出されていた。
「仮設住宅は、不便で狭く、家族が一緒に生活するのは困難。だんだん閉じこもりがちになり、落ちこんでいく」「高齢者はそんなに待てない。避難先で葬式はしたくない」「安住の地がほしい。先が見える場所を決めてほしい」
「仕事、教育などで、現在の居住地を継続したい。仮の町へ帰ることは考えつかない」 「仮の町でなく、真の町に。 日本に一つしかない双葉町ならではの町に。自慢、誇り、心のふるさとに」
「これから先、何年帰れないか不安。仮の町はどこにできるのか。病院通いのため、できれば孫たちと一緒の場所に住みたい」
「できれば双葉の人と一緒に集まって住みたい」
「『双葉町は帰宅困難である』とはっきりと言ってもらいたい」
さらにまた、以下のように、「仮の町」の是非以前に、この会議の形や進め方にたいする戸惑いや異論も出ていた。
「期待はずれだ。町長と話をしたかった」
「町は、どんな基本構想を持っているのか」
これも重要な意見だ。このことを含め以下で、もう少し検討したい。

「仮の町」をめぐる課題

主体は誰なのか
重要な課題を提起している意見が、双葉町出身の大学院生で、「復興まちづくり委員会」の委員になっている人から出されている。
「いくら便利で都市工学の視点から優れた町になったとしても、いままで積み重ねられてきた歴史や文化、人と人との繋がりを捨象した町では、双葉町を称する意味がないと思う。仮の町は、そこに生活する人の実態を無視した便乗型復興論ではなく、そこに生活する人々の実態と求めているものをくみ取った上で、現実と理想とを折衷して構想を立てていく必要がある」(「復興まちづくり委員会」に寄せられた委員の意見より)
「仮の町」は、規模からすれば1960年代に全国で進められたニュータウン開発のようなものとも言える。ディベロッパー、ゼネコン、コンサルタントなどが、とびつきそうな話だ。そもそも、政府の復興構想会議は、「創造的復興」と打ち出している。経済産業省などは、「ピンチをチャンスへ」を標語にした。要するに、ビジネスチャンスだと言うのだ。実際、宮城・岩手などの被災地域では、復興計画がコンサルタントなどの手によって次々と描かれている。有識者が集まり、自然エネルギー事業で雇用を生むだとか、観光で経済を活性化するなどといった夢物語を語っている。
しかし、そこには被災した住民の実情や思いが全く反映されていない。誰のための復興なのかという問題が抜けている。
その点で、双葉町の「7000人の復興会議」の取り組みからは、指摘されているような「便乗型復興計画」ではなく、住民が主人公となって進める「復興まちづくり」を目指そうという姿勢が伝わってくる。
原子力ムラの支配秩序
本当に住民が主人公になるためには、課題もまた大きいということも、現場の議論から気づかされる。
ひとつは、町長に出席してもらわないと話が進まないとする意見や、町の方からまとまった方針を示してほしいという意見が出されていることだ。
〈政策は誰かが上の方で作ってくれるもの〉という観念、あるいは〈どうせ上の方で決めてしまうもの〉という諦観が、ここにはある。
いまひとつは、会議など公の場で、堂々と持論を展開するのは、往々にして、地域や団体の役職についている有力者たち。そういう「声の大きい」人たちの意見が前面に出て、それをもって「住民の意志」とされてしまうという問題である。
この二つの事柄は表裏一体の関係をなしており、これまで長い間、東電を頂点にこの地域を支配する秩序、立地地域における原子力ムラの秩序をなしてきたものである。
さらにいえば、それは、福島に留まらず、われわれ全体が慣れ親しんできた「民主主義」の実態でもある。ただ、都市部では、後者すなわち地域の有力者支配が崩れてきたため、その代わりの仕組みとして、石原や橋下のようなポピュリズムが導入されている。しかし、本質的には何も変わっていない。
声にならない声に
一方で、まだまだ意見を言えない人たち、「声の小さい」人たちがたくさんいる。自分の意見を述べ、それを全体に反映させる機会を持っている人はまだ少ない。
たとえば、世帯ごとにアンケートをやれば、やはり「家長である旦那」の意見が反映される。地域で役職があるわけでもなく、家族の中でも「姑」との関係がある「嫁」は、言いたくても言いたいことは言えない。若者も、おやじ世代のやっていることに対して、いろいろ意見を持っていても、それを公に表明する機会はない。
そういう人たちが声を挙げ始めることで初めて、原子力ムラの支配秩序も突き崩されていくであろうし、双葉町の試みも、本当の意味で成功に向かうであろう。
だからこそ、声にならない声に、すべての人びとが耳を傾ける必要がある。そして、たとえその声が未だ声になっていないとしても、それを聞こうとし続ける姿勢が求められている。それは、また、都市に住む者が福島の声を聞く姿勢を持ち続ける必要があるということにも通じている。
このような課題に焦点を当てようとしているのが、「7000人の復興会議」だ。日本の民主主義の再生―いや「再生」というよりも、本当の意味で「新たに作り出す」といった方がいいだろう―をかけて、双葉町の住民たちが開始した試みに注目したい。(請戸耕市)

5面

論考
グローバリゼーションと現代帝国主義

今年は、日本政府による釣魚台(ティアオユイタイ)(日本名、尖閣諸島)国有化と中国における反日デモの爆発、独島(トクト)(日本名、竹島)の領有をめぐって、中国や韓国に対するすさまじい排外主義キャンペーンが吹き荒れた。
8月10日、韓国の李明博大統領は独島に上陸したが、この件を日本のナショナリズムを批判するのと同列にあつかって、ナショナリズムと危険視し批判する論調が存在する。はたして日本人に韓国の民族主義に対して発言するどのような権利があるというのだろうか。抵抗的な民族主義が支配的な民族主義に転化しうることは事実である。だからといって韓国の民族主義を日本(帝国主義)の民族主義と同列に扱ってよいということにはならない。 『展望』第6号に掲載された中沢慎一郎「『7・7思想』と入管闘争」では「在日朝鮮人・中国人を、これまでの民族の定義にもとづいて、『少数民族』規定するなどという考え方にとらわれずに、植民地支配と民族抑圧、戦後も帝国主義本国内における形を変えた植民地支配と民族抑圧の現実にふまえ、・・・ 『日帝との非和解的存在としての在日』という定義をおこなった」と述べている。ここでは戦後の日韓関係を〈帝国主義と新植民地主義(半植民地)〉〈抑圧民族と被抑圧民族〉として捉える、これまでの革共同の見解がそのまま踏襲されているが、21世紀における日韓関係の実態分析にふまえて、この見解を再検証する必要があるのではないだろうか。

〈新〉植民地

そこで西川長夫(立命館大名誉教授)によって提案されている「〈新〉植民地論(植民地主義→新植民地主義→〈新〉植民地主義)」を俎上に載せて、われわれの現代帝国主義(植民地)論を再検討してみたい。
西川は2006年に『〈新〉植民地主義論ーグローバル化時代の植民地主義を問う』を公刊し、07年に、「〈新〉植民地主義について」と「いまなぜ植民地主義が問われるのか―植民地主義論を深めるために」の二つの論文を発表している(立命館言語文化研究19巻1号)。
そこで西川は500年前の大航海時代から今日までの全体を「グローバリゼーションの時代」とし、その過程に4つの転機があるとする。
(1)国民国家の成立(フランスなど)によって植民地主義は国家・資本によって推進され、帝国主義の「正義」として領土拡大がおこなわれた。
(2)第1次世界大戦とロシア革命で「民族自決」の原理が確立し、植民地主義批判が定着し、帝国主義の植民地政策は欺瞞的な形態をとらざるをえなくなった。
(3)第2次世界大戦・戦後期に、植民地の解放・独立が相次ぎ、帝国主義は新植民地主義政策(植民地なき植民地主義)へと変更を余儀なくされた。
(4)1960年代以降のグローバリゼーションの時代で、国家間戦争、民族紛争・民族問題が消失し、「テロ」と「反テロ」に二極化した。
また、グローバル化時代の植民地主義を「新植民地主義」と区別して、「〈新〉植民地主義」と呼んでいる。その性格を次のように述べている。
@植民地の形態が変化し、領域的な支配(占領、入植)を必要としない。「市場」という形をとる(植民地なき植民地主義)。
Aグローバル化によって労働力移動と経済格差が激化し、世界的な規模での搾取の仕組みができあがった。
B政治と経済における二極化(中核と周辺)が進み、9・11後の民族紛争はすべてテロリズムと呼ばれる。
西川は「古典的な植民地主義の、宗主国側から見たキーワードは、領土、支配、国益、人種、文明化等々であるが、それに対抗する植民地の側では、民族、独立(自決)、主権、領土保全、収奪(搾取)、暴力、差別、貧困、人権、文化や伝統等々が問題になる。しかしながら、このような植民地主義の概念では、グローバル化の第4期、とりわけ9・11以後の顕著になった問題を十分に考えることができない。新しい植民地主義にとって国家主体によって規定される領土は必ずしも必要ではない。」という。
そして現代を「国家の役割は依然として重要であるが、市場価値が優先し国家主権や公共福祉的な価値が後退している」と述べ、国家の役割が後退しているとし、グローバリゼーションの時代の到来によって、国家間対立・民族対立の問題は解消され、結論として「地球的規模での都市と周辺」の問題に移行しているとする。

植民地と帝国主義

西川が「植民地主義の研究が帝国主義研究の付随物」として扱われてきたことに「抗議・批判」していることは評価できる。しかし、そうだからといって、帝国主義と切り離して、植民地主義を論じることが正しいといえるだろうか。植民地主義は帝国主義の属性(本質)である。西川のように植民地主義を帝国主義から独立して論じることには違和感を感じざるをえない。
さらに西川は「新しい植民地主義にとって、国家主体によって規定される領土は必ずしも必要ではない」という。しかしこれでは、今日なぜ、釣魚台(尖閣諸島)や独島(竹島)の「領有」をめぐる問題が発生しているのかを説明できない。帝国主義の問題を捨象しているからであろう。グローバル化した資本は国家なしに資本として存在することができる(自己増殖が可能)と考えているのだろうか。
「国家の後退」という主張も、9・11以後の「反テロ戦争=テロとの戦い」が、れっきとした国家=帝国主義諸国がアフガニスタン、イラク、イランなどにたいしてしかけた戦争だったのであり、それが依然として国家主権の発動としての戦争であったという事実と矛盾するのではないだろうか。

「国家の後退」か

「植民地主義に関する議論を資本と国家、階級と民族をめぐって複雑多様な理論が錯綜する迷路から救出するために、私は新しい植民地主義の暫定的な定義として、ここでとりあえず『中核による周辺の支配と収奪の一形態』というきわめて単純で抽象的な定義を提出」すると西川は言う。現代世界を構成する資本、国家、階級、民族を捨象して、現代世界を分析しようと試みているようだが、すでに述べた理由から、これが有効な方法論だとは思えない。
グローバリゼーションの時代といわれようとも、帝国主義による植民地支配(新植民地主義)は厳然と存在し、より深く進行している。にもかかわらず、西川は、植民地主義が帝国主義の属性(本質)である事を無視し、帝国主義から植民地主義を切り離し、「グローバルシティと国内植民地主義」「都市と周辺」「地球的規模での都市と周辺」という枠組みを提示し、前者による後者の支配というかたちで〈新〉植民地主義論を展開する。そこでは国家(帝国主義)の問題が分析視覚から追放されてしまっており、結果として帝国主義(国家)の責任を免罪することになっているのではないか。現代帝国主義論こそが必要とされている。(田端登美雄)

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「障害者」ら厚労省に申し入れ
「障害者総合支援法」の廃止を

厚労省前で怒りの声を上げる(10月31日)

10月31日、闘う「障害者」らは厚労省申し入れをおこなった。「障害者自立支援法」の継続法である「障害者総合支援法」の廃止を求め、車いすの「障害者」、「視覚障害者」、「精神障害者」、労働者・市民など70人以上が集まった。11時30分から厚労省前でビラまき街宣をおこない、「障害者」が交代でマイクを握り怒りの丈をぶつけた。午後からは申し入れをおこなった。
10月31日は、05年に「自立支援法」が成立した日だ。毎年この日前後におこなわれていた1万人集会は今年はない。いろいろと事情はあるようだが、集会をしない積極的な理由はあげられていない。昨年の集会を主催した日本障害フォーラムの中から、もともと「自立支援法」に賛成だった一団体に加えて、さらに一団体が「総合支援法」賛成に回ったのが大きな要因だと言われている。「怒りネット」(怒っているぞ!障害者切りすて・全国ネットワーク)の呼びかけにこたえて、この日に集まったのは、そういう事情を超えて、いま声をあげるべきだという「障害者」たちだ。

怒りの声あげる

厚労省前で、「障害者」たちは路上に集まり、厚労省の事務官に向かい、用意してきた文書をマイクで読み上げる形で申し入れた。
最初に怒りネットを代表して「視覚障害者」が申し入れた。
次に、怒りネット関西と兵庫県精神障害者連絡会の代表。「精神障害者」にとっても「総合支援法」はとんでもない法律だ。また生活保護の切り下げは「障害者」が生きていけない状態を作り出す。関西では10月14日に怒りネット関西がよびかけた実行委員会の主催で、86人が参加して集会をひらいた。
新潟の「障害者」は自立生活が脅かされている状況を糺した。
全国「精神病」者集団のYさんは会議にかける時間がなかったということで個人としての申し入れだ。「精神障害者」の具体的な問題を提案した。Yさんは骨格提言をまとめた障がい者制度改革推進会議総合福祉部会の一員だ。総合福祉部会のメンバーが申し入れをおこなわないといけないくらい、「総合支援法」はひどいということだ。
「知的障害者」団体の代表は、「あの55人の会議はなんだったのか」と糺した。この方も総合福祉部会のメンバーだ。怒りを込めて丁寧に問い糺したが、厚労省が答えることはなかった。申し入れを終わり厚労省に怒りのシュプレヒコールをあげた。
「障害者」大衆は怒っている。「自立支援法」継続法である「障害者総合支援法」に怒っている。その怒りを大手の団体はくみあげることを止めてしまった。どこに向かったらいいのか方向性の定まらない怒りに、一つの方向性を与えた行動だった。
次は年末へ向け、生活保護基準切り下げとの闘いへと「障害者」の闘いは続く。(TM)

6面

帰りたい 帰れない 帰らない
飯舘村民の苦悩(第3回)

福島第一原発事故によって深刻な放射線被害を被った福島県飯舘村。いま飯舘村の人びとは何を思い、何を望んでいるのだろうか。事故後、飯舘村から伊達市の仮設住宅に避難している安斎徹さん(65)に話を聞いた。連載3回目の今回は、「除染と帰村」について住民の立場から語ってもらった。

「2年で帰村」方針の是非

村長は、「除染して、2年で戻る」と言っています。実際はうまくいっていないんですけど。でも、この前の議会でも、「2年で戻す」と言っています。「国が帰村宣言を出さなくても、私は出します」とまで言ってます。そして、「復興住宅は福島市内には作りません」とも。
去年は、もう「戻らない者は面倒を見ない」とまで言っていたんですよ。今は、一応「戻りたくても戻れない人にも手は差し伸べます」と言ってますけど、またどう変わるかわからないですよ。
住民の不安
だから、住民がいま一番心配しているのは、2年後に、「除染をしました」と、それで帰れる状況になっていなくても、仮設とか借り上げが打ち切りにされるのではないかということなんです。
そうすると、子どもさんがいる人など、5万、6万といったお金は払えないから、泣く泣く帰るしかない。で、子どもを連れて帰れば、また被ばくする。だからとくに若い人は、帰る気になんない。
でも、こういうことをやられるんじゃないかって、それが頭にあるから、それがまたストレスになってしまうわけです。
この前、国の人が来ていたので言いました。「飯舘村は、5年10年では帰れません―国からそう話してもらえれば、住民はかなり楽になりますよ」って。自分たちとしては、30年なら30年、国に借り上げてもらうとして、飯舘をあれ以上かき回してほしくない。そのままそっとしておいてほしい。
でも村長は、もう「帰す、帰す」の一辺倒。 無理に帰せば、自分で命を絶つ人が出ますよ。そのとき誰が責任取るんですか。
住民アンケート
村(当局)のアンケートでは「帰村しない」が33%。この結果をもって、村は、「60%は帰村を求めている」という話にしている。このやり方は汚いな。
(住民有志の)「新天地を求める会」でやったアンケートでは、「帰村しない」が49%。それに「除染の結果を見て1ミリシーベルト以下になれば」を選択した人もいる。1ミリシーベルトには50年経ってもなんないから。だから結局、70%は「帰村しない」ということ。
飯舘村小宮地区でおこなわれている除染の実証実験
帰っても
自分は、「除染して帰る」という人には、「どんどん帰ったらいいよ」と言っている。ただ、「帰って半年で、賠償金も打ち切られて、家族を抱えて、あーって言っても遅いよ」って。「自分で首つって命絶つ人、どんどん増えていくよ」って。
いまはお金(慰謝料)もらっているからいいけど。帰ったら、それがなくなるの。家もダメだし。500万、600万もらっても家は直せない。
3224億円
それから、除染に3224億円ですよ。飯舘だけで。
それだけお金を使って除染しても効果はないし、ほとんどゼネコンに行ってしまう。ゼネコンも適当にやってますよ。
なら、飯舘は1700戸だから、1戸当たり5千万円になるけど、たとえば「国で代替地を見つけるから、その『新天地』で30年なら30年くらいやって下さい」という方がよっぽど現実的。
自分たちは、お金ほしいんでもなんでもない。除染だなんだとお金を垂れ流すくらいなら、その金で代替地をピチッとやってもらった方がいいと言っているのですよ。
飯舘には、1週間に1回、2回帰って、家の片づけするとか、それぐらいはできるわけだから。
そう、こういう意見はたくさんあるんだけれども、取り上げてくれない。村長は。ただただ「村に帰す」というだけ。
新天地の青写真
その「新天地」については、糸長先生らの提案(※)で、青写真もできていますよ。
例えば、100軒がまとまらなくてもいい。10軒でも、20軒でもまとまってそこに行きましょうという話になれば、ここに家を建てて、緑のある住宅にして、その辺に農地をつくってもらって。お年寄りには、そこで野菜を作ったり、田圃を作ったりしてもらって、そこで住民のつながりもできる。
それで少しでもお金になったら喜ぶよ。そういう風にやりたいの、本当は。新天地を求めて。
お金じゃなくて、農家の人は土を触りたいの。小さい子どもが外に出たときに、走り回って、転んでってするように、それと同じですよ。
だから、3200億円を除染にかけるんじゃなくて、「30年なら30年帰れないけど、飯舘の住民の皆さん、 これで『新天地』を作って下さい」ってやれば、それでかなり精神的苦痛は取れますよ。

区域再編・賠償・仮置き場

住民分断と棄民
国は、区域再編でも、いかに賠償金を少なくするか、払う期間を短くするかということばかり。国は、この事故から早く手を引こう、手を引こうとしている。
東電だって、「これくらいの金やるから、もう何も言いうな」と。そういう風にしか見えないんです。新聞によれば東電は、「帰宅困難区域をどんどんどんどん小さくしたんで、4千500億円ものお金が浮きました」って言っているそうですよ。
それで、「ちょっとくらいの被ばくは我慢しろ」と。捨てられたのと同じですね。国のやっていることは棄民という言葉そのもの。
同じ被害で賠償に差
賠償の話になると、帰還困難区域の長泥地区の場合は1千万円、自分たちの小宮地区は、居住制限区域で半分の5百万円、避難指示解除準備区域はその半分。
これは必ずもめ事起こりますよ。同じ被害なのに、3分割して賠償額で差をつけるというんだもの。居住制限区域の人も、帰還困難区域の人も、同じように1年以上避難しているんですよ。家が痛むのは同じですから。なんで飯舘、全部一律にしないの。
蕨平地区は、「帰還困難区域にして下さい」って言っていたのに、そうならなかった。結局、受け付けなかったのは誰かといえば、村長でしょ。
帰還困難区域を大きくすれば、それだけ帰る人が少なくなるという考え方。村長は、「帰還困難区域をできるだけ小さくしてほしい」と。そういう話です。
これは、もめ事起きるよ、「こういう風にしたのは誰だ?」って。
実証実験で出た放射性廃棄物がうず高く積み上げられた小宮地区の一般ごみ処理施設
小宮地区・仮置き場
飯舘村は、もともと行政区ごとのまとまりがあって、区長さんが頑張ってるところもあるけど、小宮地区の場合は、総会のときぐらいしか人が集まんない。隣の北前田地区は、どんどん話をやったりしているけど。
これから区域再編のこととか、除染の説明とかをしなければいけないよ。
仮置き場の設置については、小宮地区の人は、ほとんど賛成していないです。いえば5〜6人が同意しているぐらいです。
そもそも地区住民の声は全然聞いていないです。3回目の説明会のとき、「あとは議会で決めますから」って。住民への説明はアリバイ。それをいつの間にか「住民の同意を得ました。誰一人反対している人はいません」って。とんでもない話です。(つづく)

※糸長浩司さんは日大教授。自然と調和した暮らしを提言する環境建築家。「分村建設」を提案。「暮らしと生業の両立した、小さくてもよい、もう一つの飯舘分村(新村)を建設し長期的な避難生活を支えたい。集落単位での分村を数か所建設してもよい。共同の農場や工場、市場に、祭りの場や交流市場などがあると良い。除染しながらの居住は厳しい。村人は子どもたちの将来を考えて分村建設の法的整備を含めた『原発災害復興二拠点居住権』(仮)を獲得したい」