撤退するまでたたかう
10月3日 名護市
名護市役所の中庭に1000人をこえる市民が集まりオスプレイ配備に抗議(3日) |
3日午後6時、沖縄県・名護市役所の中庭で、「オスプレイ配備に反対する名護市民大会」が開かれた。主催はオスプレイ配備に反対する県民大会名護市民実行委員会。この日の大会は1日のオスプレイ沖縄配備強行後、初めて開かれた市町村大会で、千人以上の市民が参加した。事前に用意した決議案がなくなり手にできない人も多数いた。
実行委員長の稲嶺進・名護市長は、オスプレイの普天間基地への配備を弾劾し、「これからも島ぐるみの大きなたたかいを呼びかけ、オスプレイの撤退までたたかう」と決意を述べた。
大会では高校生と大学生が登壇して決意を表明。ひときわ大きな拍手がわき起こった。参加した市民の一人は、「普天間へのオスプレイ配備は本命の辺野古移設をねらったもの。名護市民がこれを止めなければならない」と語った。名護市民の固い決意を示す市民大会となった。
危険な訓練飛行させるな
岩国市役所前で抗議集会 9月30日
市役所前での集会で発言する広島沖縄県人会元会長の中村盛博さん(9月30日 岩国市内) |
岩国では「オスプレイの本土初飛行抗議 沖縄配備・低空飛行訓練反対9・30市民大集会」が市役所前の公園に1200人を集めてたたかわれた。
米軍が試験飛行を強行し、傍若無人な訓練が繰り返されている。「日米合意内容」は、はなから無視され、夜間や市街地上空をオスプレイが飛んでいる。開会あいさつで河井弘志実行委員長は「岩国は一時駐機だからと安心しているのではないか、と沖縄から批判されている」と反省の言葉を述べた。しかし岩国でも大川清牧師たちのハンストなど必死のたたかいが続けられている。
集会では「沖縄配備がまだできていないのは台風が来ているためと言われているが、普天間基地のゲートを封鎖している沖縄県民のたたかいが食い止めているのだ」という発言に「そうだ」の声があがった。
ところが集会の途中、オスプレイが翌1日午前5時に岩国を飛び立ち、8時には沖縄に到着という計画があきらかにされるとともに、普天間基地ゲート前の座り込みを機動隊が排除し始めたという報告が入り、会場は参加者の怒りでつつまれた。その場で明日早朝から岩国基地に押しかけ、沖縄配備をさせないたたかいに立ち上がることが確認された。
大学生の大川祈さんは「岩国の決意」として「オスプレイは戦争に使われる訓練機です。命が奪われるのはもうたくさんです。オスプレイの沖縄配備を今すぐ撤回してください」と訴えた。
集会後、参加者は新たな決意を胸に、岩国駅前までのデモをおこなった。
日米同盟との闘いを
沖縄県民大会事務局長・玉城さんが訴え
10月4日 京都
京都沖縄県人会の大湾会長が開会あいさつ(4日 京都市内) |
4日、京都市の円山野外音楽堂で「STOP!オスプレイ京都集会」が開かれた。沖縄では普天間基地ゲート前に座り込み、体を張った闘いが続いている。本土で何かをしなければ、という思いを持って、750人が参加した。主催は、〈STOP!オスプレイ京都実行委員会〉。
京都沖縄県人会会長・大湾宗則さんのあいさつにはじまり、社民党、新社会党、共産党の決意表明と続く。
沖縄県民大会実行委・事務局長の玉城義和さんが沖縄の思いと決意をこめ、次のように発言した。
「私たちの闘いによって辺野古新基地建設には杭一本打たせていない。ところがオスプレイ配備では、10万3千人が県民集会をおこない、条理をつくして訴えているのに、日本政府はオスプレイ配備について問い合わせると『はいそのようです』と、われ関せずという態度だ。県民のあいだには、やり場のない怒りが充満している」「私たちは昨日も名護市民集会をもった。これらの闘いの中で、安保条約も実践的な立場から見直していくことが必要だと考えている。これは沖縄だけの問題でなく日米同盟にかかわることであり、日本全体の問題である」。
玉城さんの訴えを聞き、集会参加者は、沖縄の闘いに連帯し、日米軍事同盟に対するたたかい、自分たちのたたかいとして取り組んでいくことを確認した。
集会後、「普天間基地にオスプレイを配備するな!」とコールしながら市役所前までデモをした。
大阪総領事館に抗議申入れ
大阪では、3日、午後6時から、〈しないさせない戦争協力関西ネットワーク〉と〈平和と生活をむすぶ会〉がよびかけ、米総領事館に対する抗議行動が取り組まれ150人が参加した。領事館前で抗議集会をおこない、最後に6団体による「抗議・申入れ書」を読み上げた。
関電本店前で1名逮捕
警察の不当弾圧許すな
仲間を返せ(5日 大阪府警・天満署) |
10月5日、毎週金曜日、関西電力本店前でおこなわれている「関電包囲行動」に大阪府警が介入し、「公務執行妨害・傷害」容疑をでっちあげて仲間を不当逮捕した。即日、仲間が勾留されている天満警察署に抗議行動が取り組まれた。翌日も70人の市民が天満警察に抗議に押しかけた。不当逮捕された仲間を、一日も早く奪還しよう。
大飯弾圧・Aさん起訴弾劾
10日、福井地検は逮捕・勾留中のAさんを器物損壊等で不当にも起訴した。原発再稼働阻止闘争への不当弾圧許さず、Aさんを奪還しよう。
2面
市東さん守れ 全国から結集
来年3月へ、闘いは正念場
10・7 三里塚
10月7日、三里塚全国総決起集会が開かれた。農地法裁判によって、市東(しとう)さんからの農地強奪が画策され、第3誘導路工事が強行されるなかでの現地闘争。沖縄から知花昌一さん、福島から椎名千恵子さんらがかけつけた。「不屈の三里塚は全国の闘いの要である」、「直面する市東さんの農地と生活をどう守りぬくか」。三里塚闘争にかかわるすべての人々にこの課題がつきつけられた。
会場直近を通過するジェット機をにらみながら全国集会(7日 成田市内) |
東峰十字路でバスを降り、集会場となる萩原進さんの畑に向かう。来るたびに風景が激変している。それだけ工事が強行されているのだ。まったく無駄につくられた東側誘導路をくぐるトンネルを通り、会場へ行く途中も鉄板の塀に囲まれ周りは何も見えない。数分おきの轟音
集会中、演壇上空を暫定滑走路(B滑走路)へ着陸機が轟音を振りまき通過する。午後1時から1時30分まで記録してみた。1時、4分、9分、11分、27分、30分と平均5分おきに、30分間で6機。大型機のときは、とくに騒音が激しい。大型機の場合は、着陸時の逆噴射音が鉄板壁の向こうから「ドドッー」と響いてくる。
デモの途中にある東峰部落。デモが通った3時半ころは、10分ほどの間にほぼ3分おきだった。「真上50メートルか」「いや30メートルだろう」という声。巨大な機体が迫る。立ち木を揺るがす轟音。
さといも畑が広がっていたが、居住どころか農作業にも破壊的な環境だ。3分おきというのは、東京山手線のラッシュ時並みではないか。これで年間発着数が27万回に増やされるなら、地域の騒音地獄はもとより、ひとつまちがえば大事故になる。
デモは東峰部落を回り旧小見川県道へ左折、市東さん宅前に出た。左右ほとんどが鉄板とコンクリートでかこまれた「通路」と化し、市東さん宅を見過ごすほどだった。道などというものではない。すぐにトンネルの地下道になり、上は第3誘導路の一部がすでにできている。3月とはまったく様子が変わっていた。
国策とのたたかい
集会は全国から970人が参加。司会は、萩原富夫さんと宮本麻子さん(ともに反対同盟員)。開会宣言をした反対同盟・森田恒一さんは「天神峰裁判をみてもわかる。市東さん農地法裁判は国策裁判そのものである。私たちは、農地とりあげ阻止あるのみ。闘いぬこう」と檄をとばした。
萩原進・事務局次長が風邪、発熱のため参加できず。北原鉱治・事務局長が主催者あいさつと基調報告を兼ねて「国家・国策と闘い続けてきた。大地に根ざし将来をめざし、責任をもって闘う。声ある者は声を出し、勇気ある者は勇気を出そう」と提起した。
特別報告は動労千葉、沖縄、関西住民団体から。田中康宏・動労千葉委員長は「検修外注化に抗し、10月1日から5日までのストライキを貫徹し駆けつけた。私たちは、この外注化をかならず粉砕してみせる。この20年、どれだけ多くの労働者が非正規化に追い込まれてきたか。市東さんの農地を奪う攻撃も同じだ。新自由主義の攻撃と闘いぬく」と報告した。
三里塚のように
オスプレイ配備阻止の激闘のさなか、沖縄から駆けつけた知花昌一さん(市東さんの農地を守る沖縄の会)は、「三里塚は日本の反戦・反核の砦だと言われ、私たちも言ってきた。真剣に、社会の国策の矛盾に向き合えば、三里塚のように闘わなければならない。私たちは世界一危険なオスプレイを、世界一危険な普天間に配備しようとすることに対し、何としても阻止したい。10万人規模の県民大会を4度やってきたが、何一つ変わらない。想定外のことをやる」と訴えた。
関西住民団体を代表し永井満さん、山本善偉さんが「昨日、あちこちを見て言葉を失った。市東さんのお宅、農地は孤島のように、どこを見回しても空港だ。私たちは、どんなことがあっても市東さんを守りぬく」「3月とはまるで違う三里塚だった。それほど攻撃を受けながら闘いぬいている。原発、沖縄…、政府はまったく国民の声を聞かない。しかし、手本は三里塚、そして沖縄だ」と、それぞれ話した。
農民の生きる権利
市東孝雄さんは「第3誘導路の工事に毎日、重機が動いている。工事認可そのものがでたらめ。裁判もまた裁判所ぐるみ。はらわたが煮えくり返る。黙って農業をやっている、どこに不当性があるのか。私は頑張る」と淡々と、しかし激しい怒りを語った。
〈市東さんの農地取り上げに反対する会〉から、「次は3月現地集会だと考えてはだめ。農地法裁判は、これから3月までが大詰めになる。裁判長は早期結審をもくろんでいる。3月ではなく、3月までが本当の闘いだ」と檄が発せられた。
福島からは、果樹農家の大内孝さん、〈子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク〉椎名千恵子さんらが発言。
反対同盟顧問弁護団から農地法裁判の現状が報告され、婦人行動隊の鈴木加代子さんがカンパアピールをおこなった。
「第3誘導路3月供用開始粉砕」などスローガンを採択。集会宣言をよみあげ、「心血を注いできた市東さんの農地を国家権力の強奪から守りぬく。農民の生きる権利を実力で守る闘いだ」と誓い、東峰、小見川県道を通り、南台にある市東さんの畑までデモ行進した。(俊)
発言要旨
国策裁判を許さない
市東 孝雄さん(三里塚芝山連合空港反対同盟)
いま第3誘導路の工事に毎日、重機が動いている。空港会社は、もう工事認可が取れているからいいんだ、と。しかし、工事認可そのものが法律的にはでたらめな申請。国策だからと全部ハンコをもらっている。一方で裁判にかけ、その裁判も裁判所ぐるみ。本当にはらわたが煮えくり返るような攻撃が、日々おこなわれている。
私は、あそこで先祖から培ってきた土地で営農しているだけだ。どこに私の不当性があるのか。あえて言いたい。いま国策ということが言われたが沖縄、そして福島、あれだけの民衆が集まっている。三里塚もいろんな人たちが集まってくれているが、さらに集まってでたらめな空港は完全につぶすんだ、そういうように私も頑張ってやっていく。
私の闘いではあるけど、同じものとして闘ってもらい、ご支援をお願いしたい。
大地に根ざし闘う
北原 鉱治さん(三里塚芝山連合空港反対同盟 事務局長)
今日の集会は、拙速判決を許さない市東孝雄同盟員の決起、意志を固める闘いだ。反対同盟は47年間、 国家権力、国策による空港建設に抵抗し、闘いぬいてきた。かつてもいまも国の姿勢はどうだ。彼らの頭には国民の命や生活はない。だから三里塚に集まった多くの労働者、青年、学生たちは、その不正に立ち向かい未来を展望してきた。
尖閣問題などが起こっている。武器で決着をつけてはならない。市東孝雄さんの家と暮らしを誘導路で囲い込む。いま三里塚闘争は、それを迎えている。TPPは国民の全国の生活を破壊する。
(今日は)福島の人たち、障害者の人びとも来てくれている。本当に生きられる社会をつくろう。他力本願ではだめだ。三里塚闘争は長い年月、山あり谷あり。命を奪われ、けがをした者、数千名の逮捕。だけど闘っている。声ある者は声を出し、勇気ある者は勇気を出そう。
想定外の闘いをやる
知花 昌一さん(市東さんの農地を守る沖縄の会)
昨日、市東さん宅に行き、物見台にのぼった。金城実さん(制作)の農民像がある横堀やぐらに昇り、そのあと東峰十字路、神社に行った。空港のど真ん中にクサビが打ち込まれ、いびつな空港に追い込んでいる。47年間、本当にすごい闘いをやってきたな、と実感した。
沖縄も今回、オスプレイを強行配備する状況が起きている。私たちは、世界一危険なオスプレイを世界一危険な普天間に配備しようとすることに対し、何としても阻止したいと9月27日から第3ゲートを封鎖。28日には第1ゲートを実力封鎖。第2ゲートも封鎖し、普天間基地の機能をマヒさせた。米軍は臨時ゲートを開けようとしたが、それも阻止した。
27日から29日にかけ、普天間基地は機能停止するような状態に陥った。車をゲートに突っ込み、その前に座り込んで阻止闘争を展開した。しかし30日、機動隊が座り込みをごぼう抜きにし、車をレッカー移動し排除した。そして残念ながらオスプレイは配備が強行され、昨日で12機となった。
オスプレイは、かならず墜ちる。堕ちたら、沖縄の私たちが死ぬんだ。そうさせてはならない。もう「想定外のことをやろう」と、いまあちこちで言っている。65歳以上は特別行動隊をつくり突入するんだ、と言う人が大勢いる。本当に三里塚のように実力でやるしかない、三里塚47年に学びながら、沖縄の米軍基地からの解放をかちとる。オスプレイが沖縄の人びとの上に堕ちる前に、阻止し返上していく。そういうことをやる。
三里塚の闘いこそ、私たちの先生だ。みなさんの不屈の闘いが、私たちに大きな勇気を与えてくれる。そういう沖縄の闘いを準備する。三里塚の想いをいっしょに、沖縄を闘ってほしい。
三里塚は命を守る闘い
椎名 千恵子さん(子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク)
<
3月の集会に参加し、いろんな意味で感慨をうけました。それで今回も誰に誘われることなく自ら来ました。命を守ろう、権力と闘いぬこう。そのために来ました。三里塚では大地を奪われ、沖縄ではオスプレイに空を奪われようとしています。福島では、小さな命が奪われようとしています。ともに闘いましょう。
3面
シリーズ 橋下改革を斬る(第6弾)
格差と貧困社会を促進
「維新八策」がめざすもの(下)
公務員は首長の下僕
3 公務員制度改革選挙捏造リストによる労組追及、思想調査強制アンケート、入れ墨調査、起立斉唱口元チェック、タバコ1本で停職1年、外勤時の10分休憩で懲戒、職員政治活動禁止(デモ・演劇・機関紙配布など十項目)、「目安箱」やメールによる密告の奨励、「市長の顔色をうかがわないで誰の顔色をうかがうのか。僕の顔色しっかりうかがってもらって、方針にそって組織を動かしてもらえばいい」、「みなさんは国民に命令する立場に立つんです」。これが大阪で橋下がおこなったり、言ったりしてきたことだ。
公務員は「全体の奉仕者」ではなく首長の顔色をうかがう下僕であり、国民に対しては命令者だという。「大阪府・市の公務員制度を国に広げる」とは、その全国化だ。
失敗した教育改革を全国に
4 教育改革「グローバル人材育成」、「自立する国家、自立する地域を担う自立する個人を育てる」など。典型的な新自由主義教育改革。自治体首長が直接政治介入できる「教育委員会制度の廃止」、各地で失敗し撤回された「公公間、公私間学校選択の保障」、「公立学校長の権限の拡大・強化、校長公募など、学校マネジメントの確立」など、「大阪府・市の教育関連条例をさらに発展、法制化」。大阪市民も62%が反対(賛成は24%)(小学校の学校選択性についてのアンケート調査)しているものを全国に広げる。
貧乏人は死ね
5 社会保障制度改革社会保障の対象は「真の弱者」に絞り込まれ、それ以外の市民は、「自立する個人を増やすことにより支える側を増やす」という。行政の責任は放棄され、「競争、自己責任」の世界に放り出される。
生活保護は、「有期制(一定期間で再審査)」「医療扶助の自己負担制の導入」「現役世代は就労支援を含む自立支援策の実践の義務化」「被保護者を担当する登録医制度」と給付制限策だらけ。現在でも利用率は、わずか1・6%。ドイツ9・7%、イギリス9・3%、フランス5・7%等と比して異常に低い。利用資格のある者のうち実際に利用している人は2〜3割程度で、フランス91・6%、イギリス90%、ドイツ65%等に比べてこれも異常に低く抑えられている。「維新八策」の抑制策が実行されれば、「困窮者は否応なく餓死、孤立死、自死、貧困ゆえの犯罪に追い込まれ、全国各地であまたの悲劇が生まれるであろう」(生活保護問題対策全国会議)。
医療保険では、「混合診療の完全解禁」が挙げられている。TPPの最大の焦点のひとつである、日本の「国民皆保険制度」解体に行き着く。「公的医療保険給付の重症患者への重点化(軽症患者の自己負担)」というから、風邪などの医療費は全額自己負担になるだろう。貧困層は診療自粛を余儀なくされる。「貧乏人は死ね」という野蛮な社会が到来する。
首切りと貧困層への大増税
6 経済政策・雇用政策・税制「グローバルな競争力を持つ経済を再構築する」「そのためには国民の総努力が必要」として、雇用政策では、「解雇規制の緩和を含む労働市場の流動化」と首切り自由を公然とうたった。
経済政策は「競争」また「競争」だ。「実経済政策は競争力強化」「国・自治体・都市の競争力強化」「競争力強化のためのインフラ整備」「産業の淘汰を真正面から受け止める産業構造の転換」「イノベーション(技術革新)促進のための徹底した規制改革」「供給サイドの競争力強化による質的向上」。そして「TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加、FTA(自由貿易協定)拡大」。
「億万長者を潤すために、国民全体が我慢している」(『税金は金持ちから取れ』武田知弘)現状はさらに進む。「2010年の税収は、消費税が導入される前の1988年よりGDPが25%増えているにもかかわらず、13兆円も少ない37兆円。猛烈な大企業・富裕層減税の結果だ。その穴埋めに消費税増税というのが民自公による今回の決定」(同上)。
2月の「維新八策・たたき台」に盛り込まれていた、預貯金や不動産などに対する新たな資産課税や「租税特別措置などは原則廃止」は「富裕層が(国外に)逃げる可能性がある」として削られてしまった。
その上に「超簡素な税制=フラットタックス化」。同じ所得税率にすれば、富裕層は大減税、貧困層は大増税となる。「国民総背番号制で所得・資産(フロー・ストック)を完全把握」され低所得者は徹底的に搾り取られる。
脱原発はどうした
原発については経済政策で「新エネルギー政策を含めた成熟した先進国経済モデルの向上」、「先進国をリードする脱原発依存体制の構築」としているだけ。脱原発は口先三寸、人気取りのパフォーマンスでしかない。
積極的な対米従属
7 外交・防衛「自立する国家」とは、国が国民生活に責任を取らないということだ。外交・防衛政策は「日米同盟基軸」論、そして「豪、韓国との関係強化」と集団的自衛権行使をもくろむ。「日本全体で沖縄負担の軽減を図る更なるロードマップの作成着手」は残しているが、3月の「維新八策・骨子」に書いていた「2006年在日米軍再編ロードマップの履行」「日米地位協定の改定=対等」などは削除している。アメリカに逆らうようなことはしませんということだ。最近では、オスプレイに言及せず、普天間基地の移設先は辺野古しかないと言い出している。
改憲へ
8 憲法改正破綻した新自由主義に回帰するには「決定でき、責任を負う民主主義」「決定でき、責任を負う統治機構」が不可欠だ。橋下による常套手段「民意による白紙委任」を統治機構として制度化する。
「首相公選制」「首相公選制と親和性のある議院制=参議院の廃止も視野に入れた抜本的改革・衆議院の優位性の強化」など改憲しなければできない。
「衆議院の議員数を240人に削減」が総選挙政策の目玉として新たに盛り込まれた。今ですら人口比にした日本の国会議員は少ない。日本より少ないのはアメリカくらいしか見当たらない。橋下=維新の会は大阪府でも大阪市でも議会の軽視、無視を繰り返した。議員定数削減は国会を弱体化し形骸化を一層進めるものだ。公選首相の独裁体制。
そのために「憲法改正発議要件(九六条)を3分の2から2分の1に」だ。安倍も改憲に執着しているから九六条改憲が政治日程に上る危険性がある。その先は、九条改憲。
「日本の一番情けないところは、単独で戦争ができないことだ。憲法を変えて、徴兵制もしいて、戦争できる国にしないから北朝鮮や中国のような国にバカにされる。軍備を増強し、核武装することだ」(テレビ番組での橋下発言)。(了)
「維新八策」最終案(抜粋)
序文(略)1.統治機構の作り直し 〜決定でき、責任を負う統治の仕組みへ〜(略)
2.財政・行政・政治改革〜スリムで機動的な政府へ〜(略)
3.公務員制度改革 〜官民を超えて活躍できる政策専門家へ〜
【理念・実現のための大きな枠組み】
・公務員を身分から職業へ
【基本方針】
・大阪府・市の公務員制度改革(頑張ったものは報われる、能力、実績主義、職位に見合った給料)を国に広げる
・大阪府・市職員基本条例をさらに発展、法制化
4.教育改革 〜世界水準の教育復活へ〜
【理念・実現のための大きな枠組み】
・自立する国家、自立する地域を担う自立する個人を育てる
・基礎学力を底上げしグローバル人材を育成
【基本方針】
・教育委員会制度の廃止(首長に権限と責任を持たせ、第三者機関で監視)、教育行政制度について自治体の選択制
・生徒・保護者による公公間、公私間学校選択の保障
・公立学校長の権限の拡大・強化、校長公募など、学校マネジメントの確立
・教育バウチャー(クーポン)制度の導入=教育機会を拡大するとともに教育機関の切磋琢磨を促す
5.社会保障制度改革 〜真の弱者支援に徹し持続可能な制度へ〜
【理念・実現のための大きな枠組み】
・真の弱者を徹底的に支援
【基本方針】
・自助、共助、公助の役割分担を明確化
・所得と資産の合算で最低生活保障
〔年金〕
・国民総背番号制で所得・資産(フロー・ストック)を完全把握
〔生活保護〕
・現物支給中心の生活保護費
・有期制(一定期間で再審査)
・医療扶助の自己負担制の導入
・被保護者を担当する登録医制度
・受給認定は国の責任で
〔医療保険・介護保険〕
・公的保険の範囲を見直し混合診療を完全解禁
・公的医療保険給付の重症患者への重点化(軽症患者の自己負担増)
6.経済政策・雇用政策・税制 〜未来への希望の再構築〜
〜経済政策〜
【理念、基本方針】
・競争力を重視する自由経済
・自由貿易圏の拡大
・新エネルギー政策を含めた成熟した先進国経済モデルの構築
・TPP参加、FTA拡大
・先進国をリードする脱原発依存体制の構築
〜雇用政策〜
【理念、基本方針】
・民民、官民人材の流動化の強化徹底した就労支援と解雇規制の緩和を含む労働市場の流動化(衰退産業から成長産業への人材移動を支援)
〜税制〜
【理念、基本方針】
・少子高齢化に対応→フロー課税だけでなく資産課税も重視
・負の所得税・ベーシックインカム的な考え方を導入
・超簡素な税制=フラットタックス化
7.外交・防衛 〜主権・平和・国益を守る万全の備えを〜
【理念、実現のための大きな枠組み】
・日米同盟を基軸とし、自由と民主主義を守る国々との連携を強化
【基本方針】
・日本全体で沖縄負担の軽減を図るさらなるロードマップの作成
・豪、韓国との関係強化
8.憲法改正 〜決定できる統治機構の本格的再構築〜
・憲法改正発議要件(96条)を3分の2から2分の1に
・憲法9条を変えるか否かの国民投票
4面
帰りたい 帰れない 帰らない
飯舘村民の苦悩(第2回)
ドン、水素爆発
去年の3月11日は、山の高いところにいたんですけど、これだけの地震が来たら、もうこれは完全に原発が事故をおこすと思いました。そう。すぐに原発事故に結びつきました。
だって、東電というのは、佐藤栄佐久さん(1988年ー2006年福島県知事)の頃から、《嘘をつく、隠す、脅す》というのを繰り返していましたから。自分たちは、前から言ってましたよ、「東電は、いずれ大きな事故を起こすよ」って。
家に帰って、すぐに水を確保しました。妹と猫と自分のと。
そして次の日、ドン。水素爆発。このときに一時的でもいいから、緊急避難させてくれていたら、これほど被ばくをしなくて済んだのに。
「避難しなくていい」
経済産業省が、ずっと、「飯舘は安全だから避難しなくていい」と言ってました。しかし、それに輪をかけて村長が、住民を飯舘に止めておいた。そこでまた被ばくをしているわけです。村長の悪口を言うんじゃないけど。
小高(南相馬市小高区)や原町(同、原町区)の人も、飯舘に避難してきました。それで自分らが炊き出しをしていたんです。放射能を浴びながら。
だけど村長は、線量が高いのを分かっていたはずですよ。村長は、飯舘に入ってきたジャーナリストや今中先生(京大原子炉実験所・助教)から、数字を聞いてたわけだから。今中先生は村長に、「避難した方がいい」という話をしたけど、村長は「マスコミには言わないでくれ」って、押さえようとしたんですよ。
本来なら、避難してきた人に、「飯舘は線量が高いから、別のところに行って下さい」と言うでしょう。
避難の人たちも、事態がだんだんわかってきたらびっくりして、違うところに避難していきました。2回、3回、4回と避難場所を転々とするようになってしまったのもこういう事情なのです。
「帰還困難区域」とされた飯舘村長泥地区は、7月17日、バリケードで封鎖された。長泥地区で除染作業を行う奥村組の作業員が、ゲート開閉のため配置されていた。線量計は毎時6・21マイクロシーベルトを示していた。 |
赤錆色の大気・黒い雪
自分の家は、飯舘村でもちょっと標高の高いところなんですよ。あのときは風がなくて、家から見ると、もう雲海みたいになって、大気が赤錆みたいな色をしていましたよ。そして、金属の焼けた臭いがして。
14日は家にいて3号機が爆発したのをテレビで見ていたんですけど、直に音が聞こえましたよ。ドーンと2回。かなり大きい音でしたよ。
それが15日の朝には、飯舘に黒い雪となって落ちてきました。薄っすら黒い色。自分だけじゃない、飯舘で気がついている人は見ていますよ。
だから、あのとき避難させていただければ、何も3号機の爆発の影響を体に受けなくても済んだわけです。
体調に異変が
自分は、3月29日から、相馬の方で、遺体捜索に行きました。2カ月間。
それで、朝6時から夕方6時まで家にいなかったから、ずっと飯舘にいた人よりは被ばくしていないかもしれない。24時間のうち、12時間は家にいなかったから。
実際、仕事にいって、帰ってくると腹の調子がいいの。で、一晩、家に泊まると、朝はもう腹が下る。また、向こうで仕事していると落ち着くの。その繰り返し。家の中で、4〜6マイクロシーベルト(毎時)、家の周りでは7マイクロシーベルト(毎時)ありましたから。
5月末で遺体捜索の仕事が終わって、6月26日にようやく自治研修センター(福島市内)に避難しました。
山下教授の罪
飯舘村は、まとまって避難ということはしなかったですね。その頃、まだまだ飯舘に残っている人はいましたよ。
それには、山下さん(現・福島医大副学長)の影響もありますよ。「100ミリシーベルトまで大丈夫ですよ」と宣伝して言ったわけですから。あのとき、そういう先生が、「飯舘は危険だから避難しなさい」と言ってくれていたら、飯舘住民は、ほとんど避難しましたよ。
「100ミリシーベルトまで大丈夫。戸を開けていいし、洗濯物も外に干していい。子どもを外で遊ばしてもいい」って。そのころ、本当に、子どもは外で遊んでいたんですよ。 だから、自分の口から言わせると、「自分たちを殺すのか」って。傷害罪ですよ。山下さんの影響が大きかったですよ。
国の方針として、「飯舘村は避難させない」というのがあったということでしょう。最終的には、IAEAから「ダメだ」と言われて、計画的避難区域になったけど、(もう)遅いです。だから、自分たちがいま話しているのは、「飯舘住民は、あの高放射線のところで、研究材料にされたんだ」って。そう言ってますよ。
ストレスで肝臓が
仮設に入ったのは、昨年の8月1日から。ここは、飯舘の13行政区(全部で20行政区)の人が、最後にバラバラと集まってきたところ。
家賃はありません。電気・ガス・水道は自分持ちです。
ただ、寝れない。寝れないのは、夜、パトロールやっていて、日中に寝ようとして、寝られなかった。それがずっと続いて。ちょっと寝て、目が覚めて、という感じ。それで、肝臓が要注意。酒も飲まないのに。たぶんストレスですよ。それに心臓がちょっと肥大。
パトロールは、車で自分の地区を回ります。1晩で2回、2人組で。1回まわるのに2時間半。それに、往復で各1時間。結局、7時間運転することになる。だから結構、へとへとになる。それを1日おき。30日あれば15日。
パトロールに1晩出て7千円。あと通勤費、あと自分は車をだしてますから、それが2千円。それが主な収入です。
塩かぶせてやっから
自分は、東電の慰謝料(月10万円)の同意書に、ハンコ押してないです。東電からは仮払金(105万円)だけ。後は皆さんからもらった義捐金。
それで役場から電話きたの。「安齋さん、(慰謝料の)同意書にハンコつきましたか?」。「何、語ってんの」って。「『賠償は個人でやれ』っていう役場の話だったのに、なんで役場が電話よこすの」。30分ぐらい話をしたかな。「貴重な話、ありがとうございます」だって。
東電の本店からも3回ぐらい電話きたよ。「同意書にハンコ押して下さい」。コテンコテンにやってやった。「東電は、頭からウソをついているんだから、ハンコつかない」と。「では、伺っていいですか」って、「来んなら来たらいいよ。頭から塩かぶせてやっから」って。村民の怒りを代弁しているから。
で、東電の人が3人きたの。「ハンコをついてほしい」と。「あんたら、全然、反省してないだろ」って。「すいません。すいません」て言うけど、「すいません」って言うだけでいいわけだから、あの人たちは。「今、ミサイル持ってたら、東電に全部、ぶち込んでやる」って。暴力はいけないけど、住民はそれくらい怒っているんだって。
モルモットでしょ
この間は、経産省の人にも、自分から聞いてみたの。
「飯舘の人間は日本人ですか?違いますよね。人間でもないですよね。自分たちは、経産省が『飯舘は安全だから避難しなくていい』って、それでずっといて。自分たちは、もう研究材料に売り飛ばされた人間だから、モルモットでしょ。人間じゃないでしょ」って。
経産省の人、黙ってた、下向いて。「そう言われてもしょうがない」という自覚があるんでしょう。
菅野村長は、もう
村長の悪口を言うんじゃないんですよ。ただ、原発事故の中で、住民の側を全然向いていないし、住民の意見も聞いてくれない。住民の意見は国には伝えないし、国の考えも自分らには届いていない。
菅野村長は今年で16年目ですけど、「14年間で、自分は村をこれだけにしてきた」ということが頭にあるわけ。それは自分たちも評価しているの。
今まであれだけの村にしてきたことは。出稼ぎはたしかに減りました。それは評価しているんです。
ただ、3月12日以降の村長は、もう住民の側にはいないと。
清水社長が飯舘に
事故の後、村長の周りに、経産省とかの役人が張り付いています。
経産省の人は、村長に「放射線が大変だ」とか余計なことを言わせないためにいるわけでしょう。自分たちはそうとっていますよ。いまも経産省の人間が張り付いていますよ。前の人と変わったけど。仮置き場の説明会のときも、ピタッと村長についていますから。
だから、説明会の場で、そのことを問題にした人がいます。「村長、こっち(住民の側の席に)に来なさい。何でそっちに(官僚といっしょに並んで)いるの?こっちに来なさい」って。でも、来ない。
村長は、飯舘の村長だけど、住民の村長じゃないんです。
清水社長が、飯舘に来たとき、ニコニコして迎えていた。「あの時点から変わりましたね」って言う人がいる。なんで加害者にニコニコするのか。そこが理解できない。普通ならこれだけの苦痛を住民に与えているわけだから、ノコノコやってきたら、突っぱねるのが村長と言うもんでしょ。逆に迎えに行っているんだから。理解できない。
何を守りたいのか
村長とその取り巻きの人びとの意見だけが通っている。住民の声は、村長が押さえてしまう。村の情報を出したくないの、村長は。それで、自分がそっちこっち行って発信していることがすべてにしたい。国にたいしていい子にしている。だから、その分、住民にはひどいの。自分みたいに外にしゃべる者は、村長にしてみれば許せないわけ。
村長は何を守りたいのかって。うーん、自分が仕切っている村を守りたいのであって、住民を守るのとは違いますね。村長は、自分がつくってきた村だという自負があります。自分がつくってきた村、その村のステータスを守りたい。そういうことでしょう。 (つづく)
5面
寺尾判決38年、石川一雄さん不当逮捕49年
全証拠を開示させ再審へ
この10月31日、狭山闘争は寺尾差別判決(控訴審有罪判決)から38年を迎える。狭山事件の発生、石川一雄さんの不当逮捕からすでに49年が経過した。今なお我々の目の前にある差別裁判に怒りを燃やして闘いぬこう。
三者協議
10月3日、狭山第三次再審請求審の第11回三者協議が開かれた。事件直後の捜査報告書1通とスコップ関係の3点が開示されたものの、検察は目撃証言や三大物証にかかわる捜査書類について「必要性がない」として開示を拒否し、領置番号が飛んでいる証拠の内容特定を求めた申立書に対しては、回答すらおこなわなかった。裁判所は「柔軟に対応するよう」検察官に促したという。
これに先立つ9月26日、弁護団は腕時計についての新証拠を高裁に提出した。時計修理歴44年の専門家によるバンド穴の使用状況についての報告書で、被害者や被害者の姉が使用するはずのない2番目のバンド穴の使用頻度が高いことを明らかにし、自白にもとづいて発見されたとされる時計が被害者のものではないことを改めて明らかにするものだ。
弁護団は、三者協議で新証拠について説明し、脅迫状の筆記インクの科学的検査や、事件当日「犯行現場」の隣で農作業をおこなっていたOさんの証人尋問を裁判所に求めた。来年春にかけて、検察官意見書に反論する法医学鑑定や取調べテープに関わる新証拠を提出する予定だ。
次回三者協議は来年1月下旬におこなわれる。弁護団は「来春以降は裁判所が事実調べをおこなうかどうか判断の時期になる」としている。
検察の腐敗
このかん、検察がおこなってきた〈証拠の隠蔽・ねつ造〉の一部が次々と暴露されている。足利事件におけるDNAのすり替え、厚生労働省事件におけるフロッピーディスクの改ざんを皮切りに、東電OL事件における証拠(唾液)隠し、袴田事件における証拠(犯人のものとされる着衣)のねつ造、小沢一郎事件における調書の偽造をはじめ、枚挙にいとまがない。
市民の批判が高まっただけではない。昨年3月に公表された検察内部のアンケートによれば、検察官1306人中、28%が「任意性に疑いのある取り調べがある」と答え、26%が「実際の供述と異なる調書作成を指示された」と回答した。これらは氷山の一角である。
日本の起訴事件の有罪率は99・9%とされ、権力は「世界一の治安」を誇ってきた。それは、検察のでっちあげと、それを追認する裁判官によって、幾多の冤罪被害者の犠牲の上に成立してきた虚構にすぎないのである。
新たな判例
あいつぐ冤罪事件の暴露、検察とのあまりのなれ合いに対する批判に押されて、この数年来、最高裁判決の傾向に変化が現れ、一部には「事実認定適正化の第二の波」とも言われている。大阪母子殺害放火事件の2010年4月27日付判決は、情況証拠の評価について新たな判例を示した。要約すれば、情況証拠のみで犯人性を認定するためには、
(1)被告人が犯人だとすればすべての情況証拠を矛盾なく説明できるだけでは足りず、
(2)被告人が犯人でないとすれば情況証拠を説明しえないことが必要であるというのである。
ところで、狭山事件の確定判決を思い起こして欲しい。そこでは、「血液型が石川さんと一致する」「死体を縛った手拭い、目隠しに使われたタオルを石川さんは入手できた」「石川さんはスコップを盗むことができた」等、石川さんが犯人であることの「可能性」が羅列されている。ところが、石川さんと犯行を結びつける直接的な証拠は何一つない。指紋ひとつすらない。三大物証は被害者のものですらない。似ても似つかない脅迫状の筆跡が「石川さんの筆跡と似ている」という驚くべきこじつけがあるだけだ。
狭山勢力の団結を
第三次再審請求から6年、門野裁判長による三者協議開始と証拠開示勧告からすでに3年が経過した。なぜ検察は執拗に証拠隠しを続けるのか。なぜ裁判所は事実調べを開始しないのか。
狭山裁判には他の冤罪事件とは異なる性格がある。狭山闘争が部落解放闘争として、国家権力による差別犯罪を糾弾する政治闘争として闘われてきたことである。権力は単に証拠のねつ造が暴露されることを恐れているのではない。国家権力が恐れるのは、石川さんの背後にいる部落民の底知れない力であり、それが解き放たれることだ。
しかし、単にそのことを確認するだけでは前進はない。我々自身が狭山闘争を「内向き」なものにしてこなかっただろうか。部落大衆をはじめ新しい社会の創造を求めるすべての人々に石川一雄さんと狭山事件の真相を知ってもらうことからはじめなくてはならない。
全国に散在する狭山闘争勢力は、石川一雄さんの再審・無罪にむかって共に闘いを広げよう。(池田哲朗)
原子力空母の配備撤回を
9・25横須賀で抗議集会
9月25日、「原子力空母ジョージ・ワシントン(G・W)横須賀母港化4周年抗議、原子力空母配備撤回を求める神奈川集会」が、横須賀市内で開かれた。主催は「神奈川平和運動センター」など。
沖縄に次いで全国第2の基地県である神奈川。基地闘争としては、横須賀、厚木、座間などで毎月行動がおこなわれている。沖縄に強行配備されたオスプレイが、全国で低空飛行訓練するときは、厚木をその基地にするのではないかという声もあって、緊張のなかで参加した。
雨模様のなか、また前日夜半に京急線が土砂崩れで脱線し、不通のままであったが、約1500人が参加。昨年は2000人参加であり、オスプレイの沖縄強行配備という重要な状況にしては、取り組みは充分とは言えなかったというべきであろう。電車不通のため道路の混雑がひどいということでデモは中止。それでも「G・Wの配備撤回」のほか、「39年に至る空母母港化の撤回、脱原発、オスプレイ配備阻止など」が意思統一された。
海に浮かぶ原発
2008年から横須賀基地に配備されている原子力空母G・Wは、熱出力60万キロワット×2基、福島第一原発1号炉と同じ規模の原子炉を積んでいる。原子力空母は、2基の原子炉を積み、核分裂反応による熱で作った水蒸気でタービンを回して航行するもので、原発の原子炉とは兄弟の関係だ。
そのため、三浦半島の活断層を震源とする直下型地震や相模湾や駿河湾沖を震源とするプレート型地震が起きれば原子炉の冷却装置がダメージを受け、原発と同様に、水素爆発やメルトダウンになる危険性があり、そうなれば多大な放射能が放出される。図のとおり、横須賀からわずか50キロの東京は「250ミリシーベルト・急性障害」の地域である。
つまり、現在日本全国で稼働している原子炉は、大飯原発(3・4号機)ともう一つ、米海軍横須賀基地を母港とする原子力空母G・Wとさらにたびたび寄港する原子力潜水艦であるということだ。
原発は一応、「安全審査」をすることになっているが、原子力空母はそれもできない。政府は「原子力空母は安全」としているが、その根拠は「アメリカが安全と言っているから」というもので、オスプレイと同じ言いぐさだ。原発事故以降も米政権は、原子炉の構造など技術的データは一切公表していない。こんな状況は直ちに打開しなければならない。(神奈川 F)
投稿
精神科在宅医療の試み
高木俊介さんの講演を聞いて
9月末、T市でおこなわれた精神科医・高木俊介さんの講演会に参加した。「こころの医療宅配便・精神科在宅医療の試み」という。「精神病者」の小さな患者会が呼びかけたにもかかわらず、44人の参加で盛況だった。
アクト
講演は、アクトという精神科で最先端とも言われている新たな医療の形態の話だった。アクトは、アウトリーチとも言うが、医療者が病院に入院か通院する患者を診るのではなく、医療者が患者のいる家まで行って治療するという試みだ。10人から15人の医療スタッフがチームを組み在宅訪問医療を行う。今までなら入院しなければならないと考えられたような重症の人が地域で暮らすことができるようになる。統合失調症では入院は症状悪化をもたらすので、できるだけ在宅で診るのが良いと考えられる。
それはアメリカのマジソン郡で始まった。アメリカでは70年代に、金がかかるという理由で巨大精神病院を解体し、後のケアをしなかったため、大量の「精神病者」がホームレスになった。その対策として「街全体を巨大な病院と考える」という取り組みがアクトだった。
入院偏重主義
日本の精神科は入院偏重主義で、32万人の「精神病者」が隔離されている。うち4万人は20年以上入院している。厚労省は少なめに7万人と言っているが、実際には32万人のほとんどが、病状からは退院できるが社会の側の制約で退院できないのだ。また、看護師が加害者となった不幸な死亡事件が後を絶たないように、入院環境は劣悪な病院が多い。アクトは、この日本で入院偏重主義を克服する手法になるのではと期待されている。
患者会が未発達
高木さん自身が「アクトはあだ花=実をつけることのない花」だと言っていたが、誰が主催するかということで大きく左右され、悪徳病院がやれば悪徳なアクトが生まれる。「鵜飼の鵜」のように、病院から紐をつけておき、地域で管理しようとする。さらに、地域全体に網をかぶせ地域から「病者」をあぶり出すように使うことも可能だ。
しかし「病者」寄りのものとして使えばきわめて有効でもある。アクトをどう生かすかは、「病者」解放運動とそれと共に闘う医療従事者、労働者にかかっているのではないか。高木さんは「地域の患者会に紹介したいが、まだまだ患者会が未発達だ」と言っていた。そこから始めるしかないのではないか。(兵庫K)
6面
寄稿
航空自由化と成田空港(上)
市東さんの農地強奪攻撃の本質
新空港反対東灘区住民の会事務局長 松原康彦
現在、千葉地裁で三里塚空港反対同盟の市東孝雄さんの農地裁判が進められている。裁判長は空港会社の違法な手続を不問に付し、問答無用で市東さんの農地を取り上げる判決を下そうとしている。この異常事態の本質を明らかにする論文を新空港反対東灘区住民の会事務局長・松原康彦さんから寄稿していただいた。なお本文は、住民の会発行の「お知らせ第88号(2012年9月22日)」に掲載された文章を、本紙編集委員会の責任で編集した。
はじめに
2010年10月、日米両国の間で懸案であった日米航空交渉が、1984年の交渉開始以来26年もかけて、「成田空港自由化」を柱に妥結し、協定が結ばれた。以降、この日米航空協定をモデルに、すでに19ヶ国との二国間協定が結ばれ、2013年の年間発着枠27万回化の実現を前提として決められた。
今、成田空港ではこの来年発着枠27万回化実現のためとして、第3誘導路の完成が、来春3月31日供用開始を目標に急がれている。
そして2014年発着枠30万回化(現在の1・5倍)の実現を国際公約として打ち出している。また、夏目誠成田空港会社社長は、飛行時間の延長について「国際競争力をつける上で大きな課題」と言明し成田空港の24時間運用への意図を隠そうともしていない(2012年9月25日、日本経済新聞)。
私たちは、この「成田空港自由化」がもつ重大性を見誤ってはならない。5000を超える国内空港をはじめ日本と比較にならない航空産業の巨大な力を背景に、アメリカは1984年の航空協定改訂交渉の開始以来、日本に航空自由化を求め続けてきた。これに対し、1952年になってようやく航空法を制定し、先進国諸国から10年近くも遅れて航空産業をスタートさせた日本は、運輸省(現在の国交省)によって徹底した保護主義を基本とする航空政策をとっていた。日本は、戦後の占領下で結ばれた日米航空協定の不平等性を改善したいと改訂交渉に臨んできた。たしかにアメリカの強い自由化要求によって、2000年の航空法改正で、羽田空港と成田空港を除くほとんどの空港の自由化を行なったものの、2007年初めまでは、頑強に「成田空港自由化」を拒んできた。その政府・国交省が、なぜ、2009年末に「成田空港自由化」の基本合意、2010年10月の協定締結へと急転回したのか。
成田完成へ方針転換
そのことを明らかにするためには、まず、三里塚反対同盟の農民たちを先頭とする成田空港反対闘争にふれておかなければならない。
三里塚の闘いは、1978年に暫定開港を許したものの、国・NAA(成田空港会社)を完全に追い詰め、1990年代はじめには土地収用法の失効、事業認定の取り下げを余儀なくさせた。その結果、羽田空港・成田空港の首都圏における空港容量の狭隘さはいかんともし難い事実として国・運輸省(国交省)に認知させるに至ったのだ。これが、後にも述べるが自由化をめぐる国内論議において運輸省(国交省)の否定的な立場を作る物質的基盤となった。そして運輸省は、航空需要の伸びへの対策として、全国で100もの空港建設、とりわけ関西空港と中部空港という巨大な国際空港の建設へ走る道筋を進めていった。
第3誘導路建設工事の様子(7日 成田市内) |
しかし、1994年開港した関西空港の破綻が、この国交省の思惑を吹き飛ばし、航空政策の基盤である空港政策を完全に行き詰まらせた。採算がとれないという理由で、国際空港として基盤であるはずの欧米便からJAL、ANAともに撤退させ、未だに就航できないでいるのだ。
このことは、首都圏の空港容量を増やすしかないという判断を国交省に迫った。首都圏第3空港や横田米軍基地の返還などが取り沙汰されたが、いずれも「空論」でしかないことが明らかにされた。また羽田空港の4本目の滑走路の建設が進んではいた。しかし国内線の最重要拠点である羽田空港では、どんなに工夫しても国際線に割り当てられるのは数万回の発着枠(現在では10万回まで拡大)しかなかった。
追い詰められた国交省が取れる道は、一度は断念した成田空港の拡張、完成への道しかなかったのだ。これが03年から始まる市東さんへの農地強奪に向けた攻撃だ。
しかし、民主党政権の登場とそのアメリカ追随と新自由主義へのめまぐるしい転換は、国交省を、03年や06年当時の判断とは質的にまったく異なる「成田空港自由化」のために、市東さんの農地の強奪―第3誘導路建設強行へと走らせている。その攻撃の質はかってなく凶暴であり、地域住民に何が起ころうが知ったものではないというものになっている。
2010年2月の千葉地裁・仲戸川裁判長による天神峰現闘本部裁判の反動判決、同3月の成田市による団結街道廃道化決議、市東さんを逮捕して強行された同6月未明の団結街道封鎖、市東さんの南台の農地をフェンスで囲い込み。11年5月、東京高裁井上裁判長の反動判決と裁判所内での反対同盟をはじめとする50名の不当逮捕。同年8月6日、天神峰現闘本部の夜陰に乗じた破壊・強制撤去。この一連の攻撃の異常さこそ、「成田空港自由化」にかけたアメリカの意志とそれを受けた国交省、民主党政権の在り方が示されている。シカゴ条約
戦後世界の航空体制は第2次世界大戦末期の1944年、アメリカが呼びかけたシカゴ会議で基本骨格が作られた。アメリカは、世界で唯一戦禍を受けず、無傷の数千の空港と、軍用機の生産で巨大化した航空産業を持っていた。その巨大な物質力を背景にアメリカは、各国に航空自由化を求めた。イギリスをはじめ国土が焦土と化していた各国はこのアメリカの要求を一致してはね返し、「領空主義を前提とした事前許可制を是とする国家介入の保護主義が色濃く導入された」シカゴ条約を、国際航空体制の基礎として取り決めた。
これが1980年代まで機能していたのである。
アメリカは、イギリスやフランスなど大国との自由化交渉をいったん諦め、貿易自由化に国の活路を求めていた小国との自由化交渉に全力を投入した。それがヨーロッパにおけるオランダとの自由化(1992年)、アジアにおけるシンガポールとの自由化(1997年)だった。この2つの小国は国の背後に生産拠点をほとんど持たず、世界貿易の中継地点として生き残ることを望んでいた。そしてこの2国間の自由化成功を通して、ヨーロッパ、アジアの自由化がこじ開けられていった。
国交省の抵抗
1981年からの鈴木・中曽根両内閣による行政改革の中で、航空行政を進める航空局については、航空輸送事業の特殊性から再編成は適当でないとして、ほとんど旧来のまま温存された。この判断を背景に、「航空憲法」と言われた「45・47年体制」を廃止(1985年)してもなお、その下で作られた「空港整備特別勘定」が今日まで残され、「国交省、航空業界がもつ巨大な利権をいかに守るか」を可能にした。
イギリスやアメリカ国内における航空自由化の流れの中で、運輸省は高官をアメリカに派遣し、アメリカの規制緩和の実態を半年にわたって調査した(1983年)。その結果、@事業者の収益悪化、A運賃の一部上昇、B主要空港の混雑、C辺地サービス低下などの問題を確認していた。そして84年段階では、「日本の空港容量は限界に近づいており、事業者が自由に新規路線に参入することは困難」と判断していた。 当時、運輸省は、関西空港(1994年開港)、中部空港(2005年開港)の巨大2空港の開港で問題は暫時解決するものと考えていた。そして航空業界の自由競争の促進ということについても、「空港能力の制約の下においては、その実施は極めて困難ではないか」との見解を表明していた(1986年 注1)。
とは言うものの、日米航空交渉におけるアメリカからの自由化圧力、そして政財界の「規制緩和・自由化」の大合唱の前に、2000年、新規参入の緩和と成田・羽田を除く国内空港への海外航空会社による自由化に踏み込まざるをえなかった。しかし、この時期、関西空港の破綻と続く中部空港の破綻の前に、国交省は、それまでの航空政策の全面的見直しを迫られた。首都圏第3空港論や横田米軍基地の返還論などに見込みがない中で、羽田・成田の首都圏空港の容量拡大しかないことは自明の理だった。
しかし、羽田の第4滑走路建設が行われても、羽田の国内航空路線を削ることはできない。必然的に、半ば諦めかけていた成田空港の拡張、完成へと進むしか道はなかったのだ。それが03年の市東さんへの農地明け渡しの要求であり、06年の耕作権解除申請、不法耕作の言いがかり的裁判へののめり込みであった。それでも、国交省は、07年初頭の日米航空交渉の中で国際線の「運賃自由化」拒否したように、アメリカの強い自由化要求に依然として応じようとしなかった。(つづく)
注1 『公共政策の変容と政策科学』2007年 有斐閣刊、秋吉貴雄著