未来・第112号


            未来第112号目次(2012年9月4日発行)

 1面  市民の怒り 橋下を直撃
     大阪市ガレキ説明会で「橋下やめろ」の大コール

     森本防衛相に怒りの声響く オスプレイ沖縄配備

 2面  独島、釣魚台と戦争責任で噴出する排外主義と対決を

 3面  社会保障制度改革推進法
     消費増税と一体の社会保障解体

 4面  故郷を返せ 原発ゼロを
     福島で開かれた原発意見聴取会(下)

 5面  伊方原発の再稼働阻止
     大飯3・4号機は直ちに停止へ 松山

     全国金属機械港合同執行委員 辻岡尚さんの逝去を悼む

     投稿 山口県・上関原発の建設を阻む祝島を訪ねて

 6面  ホンキの謝罪を求めて
     世界同時水曜行動in関西

     日本軍「慰安婦」被害者 宋神道さんを迎えて 東京

     市東さんの農地を守れ 第3誘導路の建設阻止
     9・16「この国の農業と三里塚」の集いへ

     投稿 藤村官房長官の地元で「原発ゼロ」を叫ぶ

       

市民の怒り 橋下を直撃
大阪市ガレキ説明会で 「橋下やめろ」の大コール

8月30日、大阪市・中之島中央公会堂で、「東日本大震災により生じた廃棄物の広域処理に関する説明会」がおこなわれた。大阪市は、この住民説明会への参加資格を大阪市民に限定し、じっさいに被害がおよぶ可能性がある近隣市町の住民を不当に排除した。
大阪市旭区でひらかれた区主催の市民祭で、地元住民が、市発行の説明会案内ビラを印刷して配布しようとしたところ、区の職員が「市長の命令で、ビラをまかないように指示されている」といってこれを妨害した。また、ある区役所で住民が、「説明会のビラがほとんど配布されていないが、なぜ全戸に送付しないのか」と窓口で聞くと、「紙代がもったいないから」と回答した。橋下市長は今回の説明会への市民参加を極力少なくしてお茶を濁し、11月放射能ガレキ試験焼却、来年2月本焼却開始に進もうとしていたのだ。
ところがそうした思惑をくつがえして、約500人の大阪市民が説明会に詰めかけた。

嵐のような怒号
午後7時過ぎから始まった説明会では府市側から主要に「ガレキの安全性」にかんする説明がおこなわれ、質疑応答となった。
発言した市民は全員が「ガレキの焼却処分反対」を訴えた。答弁に立った橋下は「今日はみなさんの質問に答える会であり、みなさんの意見を聞いてそれを政策に反映させるつもりはない。ガレキ受け入れは市議会でもう決めたし、今後の政策も市議会で決めるので、みなさんの意見は聞きません」と発言。これに会場からは、嵐のような怒号がわき起こった。
橋下は「日頃自然界からたくさん放射能を浴びているから問題ない」「食品や日用品からさまざまな有害物質を摂取している」「全国で助け合い、痛みを分かち合うのは当然」と、肝心の「ガレキ焼却の危険性」について論点をそらし続けたが、参加者の怒りと追及はおさまらない。
とうとう橋下は「ここにいるのは大阪府民か大阪市民か知りませんが、会場の外にはガレキ焼却賛成の人が大勢いる」と暴言を吐く始末。

機動隊を導入
大学教員の大阪市民が最後に発言し、理路整然とした全面的な反論がなされると、橋下は環境省に答弁させ、勝手に「終了宣言」をし、ほうほうの体で会場から退散した。
「終了」を聞いた外の市民も会場になだれ込み、公会堂ホールは「橋下やめろ」の大コールが鳴り響いた。一方的な打ち切りに抗議した市民が会場内に籠城し、もう一度、説明会をやるよう要求。しかし、午後11時35分、市当局は機動隊を導入し、市民40人を暴力的に排除した。

母親たちも抗議
この日は午後3時から大阪市役所南側で、母親たちのために「お母さんの部」がもたれた。子どもたち多数が市役所内外を行き来する中で、俳優の山本太郎さんも駆けつけ、300人余でコンサートやスピーチを交えた集会がおこなわれた。
午後5時半からは場所を中央公会堂の前に移して、会場前での抗議行動が始まった。

会場内外が一体に
続々と来場する市民に「ちょっと待って!放射能ガレキ 関西ネット」から質問マニュアルのビラが手渡される。「がんばって手を上げて質問してね」という激励の声も。被災地から母子で避難してきた人は、「せっかく放射線濃度の低い関西に逃れてきたのに、ガレキ焼却で放射線がばら撒かれたら、住む所がなくなる」と訴えた。

次は1万人で包囲を
橋下にとって、会場内外7百人の市民や大勢のマスコミの前で、弾劾の嵐を突きつけられたのは、今回が初めてのことだ。
会場内のライブ映像を外で見ていた山本太郎さんは、「今日は皆さんが圧倒してましたね。しかしあの人はこんなことではこたえません。次は1万人で包囲しましょう」とコメントした。
いまや「橋下を許すな」の声は、原発再稼働やオスプレイ配備・沖縄基地強化に反対する多くの市民に共通するものとなってきている。
大阪市での放射能ガレキ焼却・埋立を許さないたたかいは、橋下に対する最も鋭い切っ先となっている。さらにたたかう仲間の輪を広げよう。万単位の市民の決起で橋下を包囲し、放射能ガレキの搬入、焼却、埋立をやめさせよう。

説明会が打ち切られ退場してきた大阪市民と会場外で抗議行動していた200人が合流(20:50)

退場してきた人たちを迎えて会場前で報告会(21:19)〔写真はいずれも8月30日 大阪市内〕

森本防衛相に怒りの声響く オスプレイ沖縄配備

オスプレイ配備を許さないぞ(8月29日 沖縄県庁前)

8月29日、森本防衛相は沖縄を訪問し、仲井真知事、佐喜真・普天間市長と会談した。目的は、MV―22オスプレイの沖縄配備の同意を強制するためである。
これに対して、急遽「オスプレイ配備を押しつける森本防衛大臣来県に反対する8・29緊急集会」が県庁前交差点でおこなわれた。緊急のよびかけにもかかわらず200人が参加し、森本に怒りの声をたたきつけた。
森本防衛相は午後6時10分に県庁に入り、出てきたのは予定を30分オーバーする午後7時。予定時間を超えて、仲井真知事への「説得」を試みたが、結果は不調に終わった。「事故は人為的ミスが原因」という米軍報告書を鵜呑みにした説明を繰り返す森本の姿に沖縄の怒りは高まる一方だ。
来たる9日に開催される沖縄県民大会の成功を勝ちとろう。県民大会と連帯して、全国各地からオスプレイ配備反対の声をあげよう。

京都市内で集会とデモ

8月26日、「オスプレイ配備反対!8・26京都行動」がおこなわれ、約250人が参加した。主催は、「STOP!オスプレイ京都実行委員会」で、この実行委は、5月13日に京都で沖縄連帯集会を行った一日共闘の実行委を担った人たちが、オスプレイの配備に反対する恒常的な組織を作ろうとして、7月に立ち上げたもの。5・13集会の実行委結成を呼び掛けた京都沖縄県人会を中心に、〈反戦・反貧困・反差別共同行動in京都〉や〈守ろう憲法と平和きょうとネット〉の人たちが参加している幅広い京都のネットワークだ。
この日は午後2時30分から、三条河原町での街頭署名宣伝、4時から三条河川敷でアピール、その後、市内中心部のデモがおこなわれた。
アピール行動では、主催者を代表して、京都沖縄県人会の大湾宗則会長が、「沖縄戦から67年が過ぎても、国策による沖縄差別は変わっていない」「9月9日に行われる沖縄県民大会に連帯し、全国の人々と手を結んでオスプレイ配備阻止に頑張ろう」と訴えた。反戦・反貧困・反差別共同行動in京都世話人の野坂昭生さんは、「10月下旬から11月上旬に滋賀県の饗庭野演習場で行われる米陸軍と陸上自衛隊との日米合同演習にオスプレイも参加しようとしている。この演習に反対して闘おう」と訴えた。他にも、アジア共同行動京都、安保破棄京都実行委、京都共同センター、新婦人京都府本部、辺野古京都行動からアピールがあった。

京都 三条河原からデモに出発(8月26日)

2面

独島(トクト)、釣魚台(ティアオユイタイ)と
戦争責任で噴出する排外主義と対決を

独島(日本名「竹島」)、釣魚台(日本名「尖閣諸島」)の「領土問題」、日本軍「慰安婦」問題や天皇の戦争責任問題をめぐって、日本政府・マスコミをあげて激しい排外主義と反韓国・反中国の憎悪が掻き立てられている。「不法占拠」「許しがたい日本への侮辱」「韓国・中国の挑発行為」「中国や韓国になめられるな」など、国家と社会をあげての憎悪の扇動とレイシズム(人種差別主義)の組織化が繰り広げられている。この許しがたい政府・マスコミの排外主義扇動に対して、怒りと危機感を持って立ち上がろう。

8月10日、韓国の李明博大統領が独島を訪問した。
14日、李大統領が、教員を対象としたセミナーで「(日本は)加害者と被害者の立場をよく理解していない」「(天皇も)韓国を訪問したいならば、独立運動をして亡くなられた方々のもとを訪ね、心から謝罪すればいい」と発言。
15日には、「日本軍『慰安婦』被害者の問題は、二国間の次元を超えた戦時の女性人権問題であり、人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為。日本に責任ある措置を求める」と発言した。
同日、香港から抗議船で出発した14人のうち7人が釣魚台に上陸。沖縄県警と海上保安庁は14人全員を逮捕(17日に強制送還)。
こうした一連の事態に対して、日本政府とマスコミは、日本には何の落ち度もないにもかかわらず、韓国や中国が突然不当な要求を掲げ、不法な手段に出てきた≠ゥのようなキャンペーンを張り巡らせている。しかし、これはとんでもないデマである。

石原の挑発が引き金
まず第一に、「領土問題」に火をつけたのは石原である。
石原都知事が、「東京都が尖閣諸島を買い上げる」と突然打ち出してきた。それにあわてた野田政権が「国が買い上げる」として、釣魚台の実効支配をエスカレートさせようとしたことが発端である。それは中国・台湾民衆の怒りを買い、同じく独島をめぐって「領土問題」で日本と対立している韓国政府が危機感を抱き、対立が火を噴いたのである。
3・11以降、原発を許してきた社会と自らのあり方を反省的に振り返り、社会を変革しようとする数万数十万の人びとが立ち上がり始めた。これに危機感を持った石原は、ナショナリズムと排外主義で韓国・中国への憎悪をかき立て、今の政治と政府と社会への憤りをねじ曲げ、目をそらさせ、民衆の闘いを叩き潰すことを狙っている。原発や消費税や沖縄基地や貧富の拡大と格差といった問題ではなく、「尖閣問題こそ最大の政治課題」とあおっている。
挑発したのは石原であり、それに棹さしたのが日本政府である。

侵略と植民地支配の歴史
第二に、独島問題も釣魚台問題も、「領土問題」一般ではなく、日本帝国主義の侵略と植民地支配の歴史そのものだということである。朝鮮・中国民衆は、石原や日本政府の「領土問題」でのエスカレートは、侵略と植民地支配への居直りと正当化だと捉えているのである。
日本政府は、釣魚台を1895年1月14日に日本に編入したとしている。この時期は、日清戦争の決着がほぼ明らかになりつつある時期だった。
日清戦争は、朝鮮半島の支配権をめぐって1894年の夏に勃発し、95年の春に日本の勝利で終結した。この戦争の結果、95年4月17日に下関条約で日本は台湾を植民地とすることを認めさせたが、この戦争の勝利がほぼ見えてきた渦中で釣魚台の領有を宣言したのである。以後、釣魚台に日本人を入植させ実効支配を強めたのだ(その後、再び無人島となる)。
独島は、1905年1月28日の閣議決定で日本に編入したとしている。この時期は、日本が朝鮮半島に進出し、朝鮮半島の支配権をめぐって中国やロシアと争い、それに打ち勝って1910年に韓国を併合して植民地として支配していく時期であった。
日本は1875年に江華島事件を引き起こし、76年に不平等な日朝修好条規を認めさせて朝鮮支配を強め、日清戦争で中国を破り、次にロシアと戦争を引き起こし、かろうじて勝利した。日露戦争は1904年2月8日から1905年9月5日まで続いたが、この戦争の渦中の1904年に第一次日韓協約を締結させて韓国の外交権・財産権への関与を認めさせ、日露戦争の勝利の後の1905年11月17日には第二次日韓協約(乙巳条約)で韓国の外交権を奪い取り、1910年に韓国を併合した。
独島の「領有権宣言」とは、中国・ロシアとの戦争で勝利した日本が、その武力で朝鮮を屈服させて支配し、植民地にしていく過程でおこなわれたのだ。
したがって、独島問題、釣魚台問題とは「領土問題」一般ではなく、日本の侵略戦争と植民地支配の問題と密接不可分であり、この問題の根本的清算抜きに、「領土問題」だけ切り離して解決することなど、ありえないのである。

「慰安婦」問題の居直り
今回、李明博大統領が、独島訪問とともに、天皇の戦争責任問題と日本軍「慰安婦」問題の解決に触れたのも、「領土問題」が戦争責任問題と切り離せないからである。
日本政府は、日本軍「慰安婦」被害者をはじめとする侵略戦争と植民地支配の被害者の痛切な訴えに一切応じようとせず、「日韓条約で解決済み」と居直りを繰り返してきた。
日本軍「慰安婦」問題をめぐっては、国連やILOなどで何度も勧告や決議があげられ、アメリカやヨーロッパ各国の議会でも同様の決議があげられてきた。しかし日本政府はそれらを一切、無視・抹殺し続けてきた。
日韓条約では、協定の解釈をめぐる紛争においては仲裁委員を任命し、その協議で決定し、その決定に服すると明文化されているにもかかわらず、一切協議に応じようとはしてこなかった。それどころか、日本軍「慰安婦」問題などを教科書から抹殺し、「南京大虐殺はデッチあげ」などの暴言を繰り返してきた。
こうした戦争責任への無反省と居直りの上に、「領土問題」での実効支配を強めようとする石原と野田政権の挑発への憤りが、火を噴いたのである。

国際司法裁判所
日本政府は、独島問題を国際司法裁判所に提訴し、「それに韓国は応じよ」と要求している。ところが、日本軍「慰安婦」問題については、国連などの勧告にも仲裁協議にも応じず、釣魚台については日本が実効支配している結果、「領土問題は存在しない」と一方的に主張して、国際司法裁判所に提訴しようともしていない。
日本政府による独島問題でのこうした要求自身が、一方的で身勝手な要求にほかならない。

領土や国境線とは
国家が生まれた古代・中世の時代から、領土支配がおこなわれ国境線が引かれてきた。しかしそれは国家の盛衰によって絶えず変化してきた。
資本主義社会に進み、民族国家が形成される中で、そこに居住し生活する人びとの帰属する共同体の地域を国家が支配する領土としてきた。しかし人びとが居住せず、さしたる資源もない島などは、無人島として世界中に多数存在している。
資本主義社会になるまでは、多くの国家がそうした無人島を自国の領土として積極的に領有権を主張してこなかった。せいぜい、周辺で漁を営む漁民が、台風の際の避難先に利用したり、航海の目印にする程度であった。そのような記述を古文書の中から探し出して、「自分たちが先に発見した」と言ってみても、領有の根拠にはならない。そうした島は本来どこかの国家の領土などというものではないのだ。
しかし資本主義社会の発展の中で、それまで利用価値がなかった無人島も、市場と資源と勢力圏を確保するために、19世紀に入って欧米列強は、太平洋やインド洋などの無人島や岩礁を次々と「自国の領土」と宣言し、領有を競い合った。領土の確保が、領海の確保とその地下資源の独占、そして排他的経済水域の確保となるため、これまで無視してきた無人島や岩礁を、次々と「領土」として「領有権」を宣言するにいたったのである。

帝国主義の「領有宣言」
たとえば現在、日本の「領土」とされている南鳥島は、1864年にアメリカ人が「発見」し「マーカス島」と命名するが、1896年に日本人が入植し「南鳥島」と命名して1898年に日本に編入した。しかしアメリカは「自国の領土」と主張して1902年に軍艦を派遣し、日本も軍艦を派遣して武力衝突を起こしている(その後、アメリカが撤退し日本領となる)。現在、世界中の無人島や岩礁は、すべていずれかの国の「領土」とされてしまっている。
こうした列強の競い合った「領有宣言」は、それまで無人島や周辺の海域で自由に漁業に従事してきた人びとを排除するものとなり、対立を生み出す事態をもたらしている。釣魚台周辺では沖縄、中国、台湾の漁民が、独島周辺では日本と朝鮮の漁民が漁場とし、台風などの際の避難先としていたが、侵略戦争と植民地支配の中で一方的に「領有宣言」したのである。決して「日本固有の領土」などではない。

偏狭なナショナリズム
今回の日本政府とマスコミあげての激しい排外主義キャンペーンは、中国や韓国への憎悪を扇動・組織しようとする国家あげてのレイシズムである。
在特会は、日本経済と社会の停滞と没落の中で、未来に希望が持てず、いいようのない閉塞感にさらされている人びとに向かって、中国や韓国への憎悪を駆り立てて、ぶつけることで憂さを晴らさせ、不満を「解消」させ、本来の敵である政府や資本家との闘いを封殺することを目的として暴力的活動を繰り広げてきた。こうした在特会がやっていることを今、政府・マスコミあげておこなっているのである。
石原や橋下はその急先鋒にたっている。橋下は、「慰安婦が強制連行された証拠はない、証拠があれば韓国が出せ」などとうそぶき、石原は、「日本軍が強制して売春させた証拠がどこにある」と罵っている。社会と政治に不満を抱き、現状変革を求める人びとに、中国や韓国への憎悪を煽ることで支持を取り付け、排外的で偏狭なナショナリズムへと推し進める道筋をつくろうとしている。
日本は今や、世界第2の経済大国でも、「アジアの盟主」でもなくなった。経済の低迷と混迷の中で、中国や韓国に追いつかれ追い抜かれようとしている。
「戦後の平和と民主主義」の社会になっても戦争責任を明確化してこなかったことの結果として、日本の民衆の中で、戦前と変わらぬアジアへの「優越感」を失いたくないと感じている部分にとって、それが屈辱と写っている。その上に、今回の中国や韓国の行動に「なめられてたまるか」という反発を、政府、マスコミ、石原、橋下が激しく煽ることで、反原発運動を通した社会変革への民衆の運動を曇らせ、排外主義と国家主義に絡めとろうとしているのだ。

アメリカには卑屈
政府やマスコミ、そして多くの日本の民衆も、中国や韓国の日本への「強硬姿勢」には反発し憎悪するが、アメリカの「強硬姿勢」には卑屈に屈服し追随する。沖縄基地の固定化や辺野古への新基地建設の強行、危険なオスプレイの配備、「思いやり予算」など、「植民地」にでもされているかのようなアメリカの横暴や「なめた態度」には抗議ひとつできず、「なめられた」とすら感じない。
こうした、アメリカには卑屈だがアジアには横柄な態度をとる日本と日本民衆のあり様は、アジアの民衆からは、「アメリカに追従する『トラの威を借る狐』」としか見られていないことを、日本の民衆は肝に銘じなければならない。排外主義と対決する中で、日本の民衆が自らの「民衆意識」を根本的に変革すること抜きに、日本の民衆の人間としての解放もないし、アジアの民衆と共に生きる社会を作り出すこともできないであろう。

排外主義との闘いを
日本社会と日本の民衆の意識の前に、日米安保体制の根本問題、戦争責任を曖昧にしてきたことの根本問題、戦後の平和と民主主義の根本問題が横たわっている。
原発を許し、3・11以降も再稼動させて、今まで通りの社会に戻そうとする動きに、日本の民衆は、数万数十万の反原発のうねりを拡大させている。「反原発」の一点で
一致し、運動の裾野を限りなく広げていくことはきわめて重要である。しかし、日本の民衆の「弱点」である排外主義を、政府、マスコミは総力をあげて扇動し、反原発をはじめとする運動を押しつぶそうとしていることを厳しく自覚し、「領土問題」と戦争責任の問題をめぐる排外主義と闘わねばならない。
(中沢慎一郎)

3面

社会保障制度改革推進法
消費増税と一体の社会保障解体

8月10日、民主、自民、公明3党は、参議院において消費税関連8法案の採決を強行した。逆進性をその本質とする消費税が貧困層をますます苦しめ、トヨタなど輸出関連企業からは全く徴収しないとんでもないものである。
さらに絶対に許せないことは、8法案の一つとして「社会保障制度改革推進法」(以下、推進法)を成立させ、社会保障制度の解体ともいう事態を作り出そうとしていることである。
ここでは、推進法の内容を明らかにし、市民の生活破壊を進める民主党とその政府、自民、公明勢力との全面対決を訴えたい。

社会保障を槍玉に
推進法では、「国及び地方公共団体の財政状況が社会保障制度に係る負担の増大により悪化している」と規定している。こんなことが法律に書き込まれたのは初めてではないだろうか。財政悪化は、公共事業への大規模な支出や高額所得者や法人税減税によってもたらされているのだが、そんなことはまったく不問に付している。
こうして社会保障を槍玉に挙げて、財源と給付に枠をはめる。社会保障のための税源は、消費税とされている。ほかの税源は当てないということだ。しかし、消費税がすべて社会保障に充てられるとの規定はない。
その上で、「年金、医療及び介護においては、社会保険制度を基本」として、その保険料負担が適正になるように税源を支出するとしている。したがって、市民は保険料を徴収された上で、その給付はあくまで保険制度に規定された枠内でしか受け取ることができない。ここでは、「障害者」の制度を介護保険の中に統合することも意図しているものと思われる。
さらに、「給付の重点化」が唱えられ、医療保険の対象となる療養の範囲の見直しが掲げられ、介護保険では「介護サービスの効率化及び重点化」が掲げられている。厚生労働省内では、介護保険についてすでに、要介護2程度までの「軽度」の人は、介護保険給付の対象から外すことが検討されている。
そして、憲法二十五条で規定されている国の責任としての「健康で文化的な最低限度の生活の保障」や「福祉の増進」はかなぐり捨てられ、変わりに「家族相互及び国民相互の助け合いの仕組み」が強調される。まさに社会保障に関する改憲攻撃であり、新自由主義の凶暴な姿があらわれている。

出生前診断の推進も
公的年金制度については、「社会保障番号制度の早期の導入」が掲げられている。医療保険制度については、医療費抑制の手段として、「疾病の予防及び早期発見等を積極的に促進」することが述べられているが、ここには出生前診断の推進が念頭にあるものと思われる。
そして、具体的な制度改革については、この1年をかけて、新たに設置される「社会保障制度改革国民会議」で検討するとしている。ここには総理大臣が任命する20人の委員が参加するのだが、上述した内容で検討するのであり、とんでもない制度改悪案が出てくることは間違いない。

生活保護制度の改悪
これとは別個に、付則部分において生活保護制度の改悪を進めることが示されている。「国民会議」の議論など待たずに一方的に進めるということだ。
ここでは、「不正な手段により保護を受けた者等への厳格な対処」や就労指導の強化とともに、「生活扶助、医療扶助等の給付水準の適正化」が掲げられている。自民党は、保護者の生活実態など全く考慮せずに生活扶助の10%削減を打ち出している。ここに民主党も追随しようとしている。
厚労省は、この秋にも生活保護制度改悪の方針を打ち出そうとしている。そして、この1年が社会保障改悪との全面的な闘いとなる。
毎週水曜日夕方に取り組まれている首相官邸前での社会保障解体と闘う「このまますすむと困っちゃう人々の会」の行動とも連帯し、全国的な反撃を作り出そう。

4面

故郷を返せ 原発ゼロを
福島で開かれた原発意見聴取会(下)

8月1日、福島市内で政府の「エネルギー・環境の選択肢に関する福島県民の意見を聴く会」が開かれた。この日の発言者30人中28人が「ただちに原発ゼロ」を要求した。この日の意見聴取会は、福島県民による「政府を糾弾する会」という様相を呈した。
前号に続いて、発言の一部を紹介する。

原発事故の体験者として「原発ゼロ」以外選択肢ない
Nさん(福島市・渡利地区在住。大学生の子どもが2人)

福島市の渡利に住んでいます。渡利は花見山などで有名な自然の美しい地域です。しかし、この地域が放射線量の高い地域として、有名にされてしまったことに強い憤りと悔しさを感じています。

取り返しのつかない事態
私の選択は、「ゼロシナリオ」としました。しかし、今回示された「ゼロシナリオ」を支持しているわけではありません。私の意見は、「原発ゼロを直ちに決断すべきだ」という意見です。
原発事故を体験しているものとして、原発ゼロ以外の選択肢はあり得ないのです。理由は様々ありますが、最大の理由は、原発事故が取り返しのつかない事態をもたらしているからです。原発と生命は共存できません。
私は、二人の大学生を育てています。子どもたちは多くは語りませんが、「生まれ育った福島に、このまま住んでいいのか」「福島で結婚をし、子育てをしていっていいのか」、そういう深いところで悩んでいます。喜ぶべき人生の節目において、未来を担う若者たちに、こうした不安や苦しみを抱かせてしまっている。こういう政治や社会でよいのかということが、正面から問われていると思っています。
私の周りにも、子どもさんの寝顔を見ながら、「本当に福島で育ててよいのか」と、涙を流すお父さん、お母さんがたくさんいらっしゃいます。子どもを守るためとして自主避難をし、離れ離れに暮らす家族も限界を迎えています。
先日、仮設住宅に行きました。「すぐに避難しなければならなかったので、救える命も救えなかった」と自分を責め立てる方。避難先で夫をなくされ、「原発事故さえなければ、もっと長生きしていたはず」と涙ぐむ方。荒地を開墾し、苦労して子どもを育て、ようやく楽ができると思ったら、そのすべてを一瞬でなくされてしまった無念さを語る方など、たくさんの方に出会いました。
私は、こうした話を聞くたびに、「原発事故は、人間が人間らしく生きることを否定するもの。一人ひとりの当たり前の生活、そして人生を破壊してしまうもの」だと強く感じています。人間の尊厳、人間らしく生きるということは、どんな理由があっても侵してはならないし、最優先で守られなければならないのではないでしょうか。
こうした県民の思いや苦しみを背景に、福島県は「原子力に依存しない脱原発の県土づくり」を進める福島県復興計画を決定します。また、福島県議会が、福島県内の原発10基すべての廃炉を求める決議を、全会一致で採択しています。「脱原発、原発ゼロ」は、福島県民の総意となっています。そして、この方向は単に、福島県の将来というだけではなく、原発事故による数々の犠牲の上に、福島県民が全国に発信をした、日本の進むべき道といってもいいのではないかと思っています。
今日は、細野大臣も見えています。福島県民の総意は明らかなんです。この福島県民の意思を、是非、重く受け止めていただいて、原発ゼロの決断を直ちに進めていただきたいと強く求めるものです。

福島県民を傷つけている
私たちには今、希望が必要です。安心して子どもを産み育て、安心して暮らし、安心して働ける、そんな当たり前の生活を一日も早く取り戻すための希望です。
その最低限の前提は、現在の福島原発事故を、本当の意味で収束させること、そして、原発をなくし、事故の不安から解放することだと思っています。
昨年12月の「福島原発事故は終わった」という野田首相の「事故収束宣言」、今年6月の「福島と同じような地震津波が襲っても、安全は確保される」と断言した野田首相の大飯原発再稼働発言。また、先の意見聴取会での「福島原発事故で亡くなった人は一人もいなかった」などの発言のひとつひとつが、私たち福島県民を深く傷つけています。希望を萎えさせています。
それは、福島県民の実感や思いと全くかけ離れているからです。
福島原発事故の原因を人災と認め、安全神話と根本から決別し、「原発ゼロ」の決断をおこなうことを重ねて求めて、意見表明にしたいと思います。



フクシマの現実の中から

福島県民は、「自分は口下手」と思っている人が多い。この日の発言者たちも、そう自嘲しながら、政府のやり方に鋭く論駁し、事故を深く総括し、それを超えて日本が進むべき方向を語っていた。
それは、フクシマという現場に生き、向き合う以外ないことがそうさせているのだろう。
30人の意見表明の中で主張されていた特徴的な論点を以下に列挙してみた。

●事故が起きて、いままで無関心で来た人も、運動にかかわってきた人も、自らのあり方を反省している。ところが 政府・東電は「想定外」と。もっとも反省すべき人が反省していない。事故の責任を誰も取っていない。なのに、どうして再稼働なのか。

●収束宣言も再稼働もありえない。福島の犠牲の上の安全ではないか。福島県民は国民ではないのか。
再稼働は、福島県民を傷つけている。福島に対して失礼だ。再稼働よりも、毎日、苦しんでいる国民への対応が最優先ではないのか。
再稼働の際、首相は「国民の生活を守るために」と言ったが、では、福島県民は、国民ではないというのか。政府による棄民と言わざるを得ない。

●7月、名古屋の聴取会で、中部電力社員が、「放射能で亡くなった人はいない」と発言した。怒りを覚える。福島県民を傷つけている。

●原発の廃棄物処理は行き詰まっている。なし崩しに稼働するのは許せない。核廃棄物をこれ以上、増やしてはならない。再稼働は間違いだ。

●作業員は日々、被ばくしている。これ以上、原発を稼働させることはさらに被ばくする作業員を増やすということだ。
原発は、事故が起こらなくたって、稼働しているだけで、作業員は被ばくしている。被ばくなしに成り立たないエネルギーなんてあり得るのか。

●政府の示した「ゼロ」「15%」「20〜25%」というシナリオを議論するという設定自体がおかしい。検証もしていないのに選択をしてしまうのか。
意見を言う機会があるのはいいが、「福島の意見も聞いた」というアリバイづくりにされるだけではないか。意見を言わせておいて、あとはどうするのか。

細野環境相を取り囲む
政府・官僚たちは、ある者は下を向き、ある者は顔を強張らせ、4時間半をただただ我慢している様子だった。
30人の意見表明後に発言に立った細野環境相は、「福島の皆さんの気持ちを受け止め、福島を再生エネルギーの拠点に・・・」と発言。これには会場から間髪を入れず、「違うだろう。話をそらすな」。
「原発を直ちにやめるべき」と切実に訴えたこの日の大多数の意見を踏みにじる発言に、多くの参加者は声を荒げて批判した。会場から退場しようとする細野環境相や官僚たちを取り囲み、激しく迫った。
この場は、あくまでも政府が設定したもの。そういう場ではあるが、被災した福島県民の思いや憤りが、政府にたいして突きつけられた。しかし、政府の側は、これを受けとめることも、抑え込むこともできない。
同日、福島・東京・金沢の各地検が、東電幹部・政府関係者に対する告訴・告発を受理した。毎週金曜日、首相官邸を数万の人びとが包囲する行動、大飯現地での阻止行動をはじめ、民衆の側の力が、少しずつだが、政府・東電を追い詰めている。(了)

黙って座る官僚たちに「顔を見せろ、名を名乗れ」とヤジ。しぶしぶ向きをかえて一礼。(8月1日 福島市内)

昨年、住民の自主規制で20.74マイクロシーベルト/時を記録した渡利小学校の倉庫

会場を出ようとする細野環境相に
詰め寄る参加者(8月1日 福島市内)

5面

伊方原発の再稼働阻止
大飯3・4号機は直ちに停止へ 松山

「ストップ伊方原発再稼働、とめよう大飯原発」を掲げて、8月19日愛媛県松山市に全国から500人をこす人々が集まった。「伊方原発の再稼働を許さない市民ネットワーク☆8・19松山行動in愛媛」が主催。四国各県、瀬戸内海沿岸各地、関西・北陸・首都圏・北海道から参加。
午前中の交流会・ビデオ鑑賞などにつづき、集会は午後1時から松山城下の広い堀之内公園の一角で始まった。
司会の松尾さんが「俳句の町から廃炉の一歩を」と8・19にかけてユーモアたっぷりの開会のあいさつ。市民ネットワーク・小倉さんから、官邸前行動など全国と連帯したこの日までのとり組みの経過が語られた。
最初の訴えは福島の5人の女性たち。黒田節子さんは「私たちはいま現在も被曝を強制されている。一体何人死ねばよいのか」と弾劾した。福島の現状報告のあと、「福島原発告訴団の動きが1300人になった、これを広げて欲しい」と訴えた。また木田節子さんや各地に避難している人からも、故郷を返せと、発言がなされた。
4〜7月に福井県おおい町(関電大飯原発地元)でテントを張り、6・30〜7・2「オキュパイ大飯の乱」を闘いぬいた臼田敦伸さんは、「再稼働はされたが、だれ一人負けたとは思っていない」と訴えた。
続いて、伊方原発反対闘争に当初からかかわってきた京大原子炉実験所元講師の小林圭二さんが発言。「大飯原発も伊方原発も加圧水型で、沸騰水型の福島よりはるかに危険」と警告した。
地元の〈八幡浜・原発から子どもを守る女の会〉斉間淳子さんは、「今日の雷雨は、四電が伊方の祠を移動させ原発を造ったことへの、龍神様の怒りだ」と弾劾し、「伊方原発の下には、中央構造線の断層がある。(伊方原発から)10キロの八幡浜に住んでいて、事故が起これば故郷を失う。何としても止め続けよう」と訴えた。
1分間スピーチでは、九州・山口・広島・尾道・徳島・富山・大阪・東海村など全国各地で原発と闘う人びとの発言が続いた。
集会後はデモ行進。県庁前では、再稼働を狙う張本人で、大阪維新の会・橋下と連携する中村知事に怒りのシュプレヒコールが続けられた。

福島の女性たちが訴え(8月19日 松山市内)

全国金属機械港合同執行委員
辻岡尚(たかし)さんの逝去を悼む

大和田委員長追悼会で発言する
辻岡さん(7月22日)

去る8月18日、全国金属機械港合同の執行委員であり、同田中機械支部の闘争委員であった辻岡尚さんが逝去された。3年前、癌が発見され闘病を続けてきたが、満61歳になったばかりの若さで帰らぬ人となった。7月22日、故大和田幸治委員長追悼会で、200人ちかい参加者を前に、闘志みなぎるまとめの挨拶を行った姿を見たばかりの者には信じられない急逝である。無念の死に心から哀悼の意を表します。
辻岡さんは高校生の頃から反戦運動などに参加し、1971年田中機械に入社後は組合の青年部活動、争議支部のオルグ団活動などに熱心に取り組んできた。1978年、全国の労働運動の戦闘的拠点であった全金田中機械支部を潰すために仕掛けられた会社丸ごとの倒産攻撃に対し、辻岡さんは「田中機械自己破産突破闘争」の先頭にたって闘いぬいた。「抜擢された6人の法対部のメンバーの一員となり、大和田委員長の片腕として、調査活動や教宣活動、労働委員会の最終陳述書の執筆などで奔走」。
「(争議の勝利後も)大和田委員長の一番の側近として、地域の争議指導の最前線を担い、右傾化する司法・行政の中でも、労働委員会闘争を救済申立から、審問、最終陳述書まで自前でやり抜き、争議の解決にいたるまで責任をもって担える貴重な人材」(田中機械支部の挨拶文より)であった。
田中機械支部の仲間は、弔辞で「君が強烈に経験した三里塚現地でトンネルに何日も潜り込んだ話を徹夜で聞きましたね」と語りかけた。若き日、燃える想いで三理塚闘争に身を投じた姿が浮かびあがる。
今年3月、大和田委員長逝去後も、病状に挫けることなく闘う姿勢を示した。最後の大仕事が田中機械支部として書き上げた長文の大和田委員長追悼文である(追悼集『団結こそ命、闘争こそ力』に収録)。病苦と闘いながら、命を削り注ぎ込んだ追悼文は、港合同と田中機械支部の50年近い闘いの通史でもある。
死の前日、組合の今後のあり方と「送られ方」まで伝えたという。通夜には300人を超える人が参列。遺言どおり、上寿司と純米酒がふるまわれた。家族を愛し、愛され、最後まで周りを笑わせて逝った辻岡さん。悲しみは尽きず、失ったものは大きいが、残された者は笑い泣きしながら闘いを貫いた生涯をたたえ、その遺志を引き継ぐことを誓う。
どうぞ大和田委員長と杯を酌み交わし、ゆっくりと語りあって下さい。

投稿 山口県・上関原発の
建設を阻む祝島(いわいしま)を訪ねて

美しい島
8・6ヒロシマの前日に原水爆禁止山口県民会議が主催する「上関・祝島現地交流ツアー」があるのを知り、どうしても参加したくなった。
全国から集まった人たちで大型観光バスはいっぱいだ。祝島に到着した後はみんなで漁船に分乗して魚釣りの予定だったが、参加者全員が分乗できる漁船数の確保が難しかったため、私を含め魚釣りに参加しない人たちは軽トラの荷台に分乗して島めぐりをした。
案内をしてくれたのは「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の人たち。最初に行ったのは定期船の着く波止場のすぐ側で、対岸の長島の先端がすぐに見える場所だ。それが田ノ浦、原発建設予定地だ。目の前に見える緑の山をガーっと削って原発を建てるという。言葉に表しきれない酷さを感じる。大量の電力消費とは無縁な生活が島にはある。電力会社が言うように原発が作り出すエネルギーが必要であるならば、最大の電力消費地の東京や大阪に原発を作ればいい。テレビや自動車、その他諸々、これでもかこれでもかと消費を煽り、大きな工場を建て、過剰に物を生産し、売れなくなったら操業を停止し、多くの不安定雇用労働者の首を切る。そんなことのためのエネルギーなんていらない。原発はいらない。

北野貯水池
作家の石牟礼道子は『常世の樹』という作品の中で北野貯水池のことを「それはまことに感動的な手造りの貯水池だった。一段々々の田にゆく綿密な放水口は、湖水の水位をそのまま示す仕掛けとなっていて、島の頂きの広大な台地から、天水は洩れなく集められるとの事だった。みすみす海に流れ落ちてしまう水を眺めていた長い歴史があって、北野協同組合五十戸と云われる水田開発者たちが、約十年がかりで仕上げたと云うこの水は、大正五年、最初の田に給水されたと聞く」と書いていた。その貯水池を見てみたかった。島の自治会が運営しているレンタサイクルで自転車を借りて、貯水池を目指した。
山の坂道を自転車を押しながら登って行くと、枇杷の木の剪定作業をしている老夫婦に出会った。
「この辺に貯水池はありますか」
「あーこの上にある」
「ここ登って行けますか」
「その横を登って行くのが近い。まむしに気をつけてな」
「えーどうやって気をつけるの……」
「この杖を持っていくといい。これで足元の道をたたきながら行くといい」
ということで、自転車を置き、借りた杖を振り回しながら行くと、教えられた道はすぐに終わり後は、いつまむしが出てきてもおかしくない薮や葛に覆われた土手だった。貯水池の水はかなり減っているようにも見えた。貯水池ができて九十六年、どうしても水が染み出ていくという。現在、島の稲作農家は二軒になったと聞く。この貯水池の近くにも稲作地は残っていないが、島のいたる所で枇杷の木が栽培され育っている。枇杷は果実も葉っぱも、この島の特産で、貯水池は今でも現役だ。

平さんの棚田
島は、その地形からして平地がほとんど無いように見受けられた。耕作地はおのずと、段々畑や棚田になる。山の斜面を開拓し、石を積み重ねて農地を造っていく。その先人の苦労はいかばかりのものだったろうか。海沿いの平な道から見上げても、山道を自転車を押しながら回りを見渡しても、あちこちに石積みが見られる。
そして、目指すは「平さんの棚田」。島の観光スポットの一つになっており、集落からは、なだらかな坂道を四`程行った先にある。この四`の行程は実に美しく、楽しいものだった。道は進むに連れて高所となり、遥かなる海とそこに浮かぶ島々が見渡せる。前方の海の上に低い雲がかかり、雨が降っているのが見える。後ろを振り返れば、これまた雨雲が追いかけて来る。追い抜かれた後に、海を見下ろせば小さな虹がかかっている。「美しい〜」を独り連発しながら自転車を押し進んでいると、トラクターを脇に止めたおじいさんに出会う。平さんだった。道の横、山の斜面にはえてる木に蜜のようなもの(聞いたけど、わからなかった)を塗りカブトムシをおびき寄せている最中だった。夏休みに帰って来る孫のためだと言う。
「棚田に行くのか」
「うん」
「もう少し早ければ小屋を開けておいたのに。閉めてきたとこじゃ」
「まだ先ですか」
「あと少しじゃ。気をつけて行けぇ」
その言葉のとおり、しばらく行くと道の右手に迫っていた樹木が生い茂る山の斜面が突如なくなり、高く積み上げられた石垣が目の前に現れた。思わず出た「ウォ〜」という声と足音に驚いたのか、大きな赤いハサミを持ったカニたちが石垣の中に隠れていく。雨が上がった後で夕暮れも間近、あたりは凛とした空気に包まれている。荘厳という言葉がこれほど当てはまる風景を私は見たことがない。この棚田を造り守り続けている平さんに、さっき会った時にもっと敬意を表しておくべきだったと後悔してしまう。
「美しい」何回目だろうか、この言葉を口にするのは。高く石積みされた棚田のあぜ道を歩く。稲は緑。そして、海が広がる。(T)

瀬戸内海にうかぶ祝島の全景
(山口県のホームページより)

6面

ホンキの謝罪を求めて 世界同時水曜行動in関西

8月8日(水)、ソウルの日本大使館前の水曜デモに呼応した、世界同時水曜行動in KANSAIが行われた(よびかけ 日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク)。「日本軍『慰安婦』被害者に正義を〜ホンキの謝罪が未来をつくる」と題されたこの行動は、戦後67年、未だに「日韓条約で解決済み」と事実に反する言い訳で被害者の訴えを踏みにじっている日本政府への怒りを突きつけるものとなった。
午後6時半、大阪市中之島公園で始まった集会にはおよそ250人が参加。主催者はあいさつの中で、「日本政府が解決のための努力を放棄しているばかりか、ソウルで5月にオープンした『戦争と女性の人権博物館』の展示が反日的だと抗議し、アメリカ国内の『慰安婦』の追悼碑の撤去を求めるなど、反省の姿勢をまったくみせていない」と野田政権をきびしく批判した。そして「これからの子どもたちに二度と自分たちのような目に遭わせたくない。そのために過去の過ちの反省と平和な社会をつくることが願いだと、被害女性たちは言っている。この言葉を胸に刻んで、政府にホンキの謝罪を求めていこう。もうまったなしだ」と述べた。
その後、次々と連帯のアピール。朝鮮高校の無償化問題、教科書問題、部落解放運動、さらにいま激しく燃え上がっている反原発運動など。直接とりくむ課題はちがっても、戦争と差別、抑圧とたたかう人々が、「慰安婦」問題を自分の課題としてとらえ、共同のたたかいをつくりだそうという意気込みにあふれていた。最後は20代の女性と、韓国からの留学生が発言。若い世代に運動が広がっている。
この日は、数ヶ月姿を見せなかった在特会20人ほどが会場近くで罵声を張り上げていたが、参加者は動じることなく、元気にコールを響かせて大阪駅前までデモ行進した。

さぁデモに出発(8月8日 大阪市内)

日本軍「慰安婦」被害者
宋神道(ソン・シンド)さんを迎えて 東京

8月15日、韓国水曜デモに連帯する世界同時アクションとして、東京では日本軍「慰安婦」被害者の宋神道さんを迎えて日比谷図書文化館で集会がおこなわれた。
集会後、右翼の妨害をはねのけて銀座への「ちょうちんデモ」がおこなわれ、宋神道さんが終始デモの先頭にたって行進した。
沿道の人々には「『慰安婦』被害者に謝罪と賠償を」と記された「うちわ」が手渡され、多くの注目を集めた。参加者350人。(O)

亡くなられた被害者の名前を書いたちょうちんを持ってデモ(8月15日 都内)

市東さんの農地を守れ 第3誘導路の建設阻止
9・16「この国の農業と三里塚」の集いへ

9月16日、「市東さんの農地を守ろう、第3誘導路建設反対、TPP反対、10・7三里塚現地へ」〜この国の農業と三里塚の集い〜が開かれる。10・7三里塚全国闘争にむけた決起集会、成田空港完成にむけ国策と暴力で農民を追い出そうとする国家権力・国策会社NAAを撃つ集会である。主催は、三里塚決戦勝利関西実行委員会と三里塚芝山連合空港反対同盟。
反対同盟から萩原進さん(事務局次長)が参加。47年間、「反戦、全人民の闘いの砦」として不屈非妥協に国家的暴力と対決し、農地と農業を死守してきた闘いを訴える。いま再び三度、国と空港会社は、「発着枠30万回化」をかかげ、本来は農地を守るべき農地法によって、あろうことか市東孝雄さんの農地を強奪しようとしている。空港会社こそが農地法を侵し、当該農地の図面を偽造するなど不当、不法に「取得」しようとしていることが裁判を通して暴露されてきた。国交省・空港会社、裁判所は、それを押し切ろうとしているのだ。これらを徹底的に明らかにし、10・7三里塚全国闘争と秋の裁判闘争を準備しよう。
もう1人のお話は、村上真平さん。村上さんは福島県田村市出身。有機・自然農法を学び、約20年間アジア、アフリカで農業支援をおこなってきた。アジアの農村や自然を「先進国」が、いかに破壊し収奪してきたかをつぶさに見てきた。帰国後、「自然を収奪しない農のあり方、第3世界の人々を搾取しない生き方」をしようと、福島県飯舘村に農園を開いた。チェルノブイリ事故前から脱原発運動にとりくんでいた。農園を始めて10年、ようやく軌道に乗り始めていたとき3・11福島第一原発の事故。「二度と飯舘には帰れなくなった」。ここでも、原発という国策が農業と農民を破壊している。
2人の話を聞き、意見交換・討論を通して「国策」「農業と民衆の暮らし破壊」と闘う、立ちあがる集いとしよう。

投稿 藤村官房長官の地元で「原発ゼロ」を叫ぶ

大飯原発再稼働を決めた4閣僚(野田、枝野、細野、藤村)のなかで、比較的地味で影が薄い藤村官房長官は、実はゴリゴリの原発推進派だ。そこで思いっきり「藤村官房長官の地元(大阪府吹田市)で、原発ゼロを叫ぼう」と企画されたのが、8月の3回にわたる吹田行動だ。主催は、脱原発!吹田・摂津市民の会。
3回目の8月19日は、集会を開き、藤村事務所に向かう商店街パレードをおこなった。商店街で賛同のチラシを貼ってくれる所も増え、集会参加者は100人ほど。よく集まってくれたと主催者も、うれし顔。パレードはJR吹田駅近くの公園から藤村事務所へ。事務所は、市民の怒りに怖じ気づいたか、人影がない。
傑作だったのは旭通り商店街でのパレード。ここは10数軒の商店がチラシを貼ってくれた。パレードはそれぞれの店の前で「○○食品さんありがとうございます」「肉の△△屋さんありがとうございます」と声をかけていく。まるで商店からの寄付にお礼を言いながらすすむ秋祭りの御輿行列のようだ。機知に富んだ演出に思わず笑いがこぼれる。
いよいよ解散・総選挙も間近のようである。喜怒哀楽を表情には出さないが、淡々と公約破棄をすすめてきた内閣の悪番頭。地元の脱原発の声で落選となれば、大飯再稼働は間違いだったことが改めて証明される。9月から総選挙まで、藤村官房長官の地元で原発ゼロを叫び続けよう。(松尾小太郎)

藤村事務所前(8月19日)




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