消費増税法の成立弾劾
反民主・反自民・反維新 野田政権打倒へ
消費増税関連8法案が10日夕の参院本会議で民主、自民、公明3党などの賛成多数で可決、成立した。税率は2014年4月に8%、15年10月に10%に引き上げられる。これによって、秋の解散総選挙をにらんで全政治勢力が動きはじめた。
財政危機のデマゴギー
政府・財務省は「財政健全化のためには消費税増税は不可欠」と強調してきた。その際、象徴的に取り上げられてきた数字が今年3月末で894兆円にのぼる「国と地方の膨大な借金」である。GDPの180%にまで膨らんだ借金を放置すれば、日本は「ギリシャの二の舞になる」とマスコミを上げて絶叫してきた。
ところがこの894兆円のなかの251兆円は建設国債で、実物資産創出のための借金だ。家計にたとえれば、家を建てるときにローンを組むのと同じ仕組みである。
また201兆円は地方自治体の借金で、これは厳格な審査基準が設定されており、一般には償還リスクは存在しない。本当に問題のある借金は赤字国債391兆円だ。
この借金に対して日本政府が保有している資産は2010年3月末で647兆円。うち金融資産が404兆円である。国債の問題が生じたら直ちに赤字国債を全額償還することも可能なのだ。
「日本がギリシャの二の舞になる」などというのはまったくのデマゴギーなのだ。
消費税は輸出補助金
消費税増税への慎重論のなかでは「デフレに苦しんでいる日本経済にダメージを与える」という論調が主流であるが、これは消費税の本質をとらえていない。
現行の消費税では、輸出企業が商品の仕入れのために支払ったとみなされる消費税額のほとんどが還付される仕組みなっている。トヨタ、ソニー、ホンダ、パナソニックなど主要な輸出企業10社が07年に受け取った還付金は総額で1兆1450億円だ。これは事実上の輸出補助金である。消費増税によって巨額の利益を受けるのはこうした大企業なのだ。
中小零細業者を淘汰
一方で下請けの中小零細業者は発注者である大企業との力関係で消費税額を価格に転嫁できない。そのためこれまでも数多くの零細業者が破産し、自営業者が自殺に追いこまれてきた。
今回の「法改正」では「取引上の優越的地位を利用して下請け業者からの転化要請を一方的に拒否するなど不公正な取引の取り締まりと監視の強化を行なう」という文言は入れられたが、具体的方策はすべて先送り。そもそも課税対象となる全産業にわたる「監視と取り締まり」など最初から不可能である。
総背番号制
さらに問題なのが、今国会で成立がねらわれている「マイナンバー(社会保障・税番号制度)」だ。これまで国の行政機関や地方自治体がそれぞれバラバラに分散管理していた年金、福祉、医療などの個人情報を統合し、個人に振り分けられた一つの番号で管理しようというものだ。これは国家と警察が市民一人一人の動向を完全に管理する恐るべき監視社会に直結する。
消費増税への怒りを爆発させよう。反民主・反自民・反維新、野田政権打倒をかかげてたたかおう。
67年目の“8・6”
ヒロシマ〜平和の夕べ〜
「核の平和利用」はありえない
壇上は「原発全廃は可能」と訴えるドイツ緑の党副代表ベーベル・ヘーンさん(6日 広島市内) |
人類がはじめて原爆投下による犠牲を受けた日から67年目の8月6日、広島市内で「ヒロシマ 平和の夕べ」(主催 ヒロシマ 平和の夕べ実行委員会)がおこなわれた。
河野美代子さんが開会あいさつ。三代目春駒さんの歌。つづいて、次の4人が講演した。
核と原子力
小出さんが指摘するように、「nuclear」の日本語訳は、「核」と「原子力」に使い分けられてきた。軍事利用では核と訳し、「平和」利用では原子力と訳す。このようにして、われわれの生活の中に両者を区別する思想が組み込まれてきた。為政者が意図的におこなってきたのだ。
同じ日、広島市長の「平和宣言」があった。この宣言では、「核の平和利用」の問題にはふれられておらず、「脱原発」に関しても政府の政策にお願いしているだけ。広島からアピールを発しようとはしていない。なぜ広島市長は、福島第一原発の事故から学ぼうとしないのだろうか。核の「平和利用」を維持したいからだ。
『はだしのゲン』
ドイツ緑の党・副代表=ベーベル・ヘーンさんは、ドイツでの反原発の闘いを紹介し、核と原発をなくす事は可能だとアピールした。ドイツでは、福島第一原発の事故後、いち早く「2022年までに原発を全廃する」ことを決定した。
自分のつらい体験はもう他の人にはさせてはならない。これが、近藤さんの行動を貫く精神だ。「原爆で、戦争で、いちばん被害をうけるのは子どもたち」と近藤さん。フク
講談師の神田香織さんは、講談『はだしのゲン』をつくるに至る話と、その講談を披露した。演じたのは、ゲンの父親と弟が原爆でこわれた家の下敷きになって死んでいく場面。講談のなかに音と光を効果的に用い、圧倒的な迫力だった。
神田さんは、福島県いわき市の出身。講談『チェルノブイリの祈り』もつくっており、「原爆と原発はおなじ」を芸術の面でつらぬいている。
ヒロシマの精神
福島第一原発事故から1年以上が経過し、「大飯原発の再稼動反対」「原発反対」の怒りが大きく湧き起こりつつあるなかで迎えた今年の8・6ヒロシマ。今、「核と人類は共存できない」というヒロシマの精神を貫くことが求められている。
このためには、核の「平和利用」のペテンを引き剥がし、「原爆と原発は一体」をわれわれの共通認識にしていくことだ。この思想と運動をますます強くしていかなければならない。
2面
反原発の広がりに希望
電車内被爆者 米澤鐵志さん
7日、広島市内で、「被爆電車」乗車と平和学習会がひらかれた。被爆し修復され、いまも動いている電車は2台。年々動態保存が難しくなっていると聞いた。約60人が参加。はじめて参加した人、女性の参加者が目立った。
広島駅前から市内にむけ出発。67年前、電車内で母親とともに被爆した米澤鐵志さんが、そのときのもようを電車内で語った。電車は10分余りで被爆地点、八丁堀の福屋デパート前へ。「私と母は満員電車の真ん中、ぎゅうぎゅう詰めの人に囲まれ、爆風・熱線と放射線の直撃がさえぎられた。1メートル先も見えない粉塵のなかを、ここから北へ白島の方へ逃げた」と話す。
電車はまもなく原爆ドーム前に到着。午後から平和記念資料館地下講習室で平和学習をおこなった。講師は米澤さん。
被爆電車に乗って米澤さんの話を聞く(7日 広島市内) |
原水禁運動の課題
米澤さんは、「戦後日本の進歩的と言われる学者も、原子力平和利用を言っていた。それは当時、平和運動の一つの軸にもなっていた。それから京大の原子炉実験所が宇治につくられようとし、反対運動が起こる。伊方原発訴訟に若手の研究者や学生が参加し支援した。そのころからようやく平和利用もだめだ、ということになってきた」と。
「原水爆禁止運動は1961年のソ連核実験再開をめぐって激しい論争が起こり、原水協中央の『ソ連核実験支持』『平和愛好国(「社会主義」)の核は支持する』に大衆運動は大きな打撃を受けた。原水禁・森滝市郎氏は『核と人類は共存できない』と、核にも原子力発電にも反対する立場を明確にした。しかし、その後の原水禁・原水協が形式的に統一される際に、『原子力発電』はなぜか棚上げにされた。被爆3県(広島、長崎、静岡)や新潟、沖縄は反対。世界大会は形式的に統一ということになった。反原発運動は継続され、伊方訴訟やスリーマイル、チェルノブイリ事故を経験し、その信念を貫いてきたつもりだったが、福島事故になってしまった」「私はいろいろやってきたつもりだったが、福島事故に直面した。これまで400回をこえる被爆体験の証言で、かならず原爆と原発に触れてきた。しかし、反核運動、被爆者として力及ばなかったことを思い知らされ、責任を感じる」。はじめにそう話し、被爆者としてあらためて「核と人類は共存できない」と強調した。「いま、反原発運動が大きく広がっていることに希望がある。2基の再稼働をさせてしまったが、夏を越したら絶対にとめさせよう」と訴えた。
悲惨きわまる被爆した人々。とくに白島近くの川べりで黒こげになり、ひどい火傷に膨れた身体で次々に川に流されていった女子学生たち。「爆風で目の玉が飛び出し、深い眼窩が開いていた。垂れ下がった目玉を頬のところで手に持っていた女性の姿は、地獄だった」と話した。
ようやく疎開先の田舎にたどりつき、お盆明けころから自分も母親も高熱を発し、髪の毛が一日で抜けたこと。母親は9月1日、身体中に紫斑を出して亡くなったこと。母親が被爆後、母乳を1週間ほど飲んだ当時1歳の妹も10月になって死亡。当時は栄養失調ではと言われたが、放射能によるものだっただろう、と話した。
在日朝鮮人の被爆
最後に強調したのは、朝鮮人被爆者の問題。米澤さんは小学校時代、朝鮮人の友だちも多かった。学童疎開のとき朝鮮人の子どもはいなかった。「朝鮮人は疎開させてもらえなかった」という。広島での朝鮮人被爆者は5万人と言われ、3万人以上が亡くなっている。当時、広島の人口約35万人のうち、被爆死者は約14万人。日本人の死者に比べると朝鮮人の死亡率は6割に達する。被爆後も避難できず、そのまま市内にとどまらざるを得なかった。戦後は被爆者手帳がもらえない。母国に帰った在外被爆者はもちろん給付されず。戦前、戦後、被爆前、被爆後、一貫して朝鮮人差別をおこなってきたのがこの国であり、私たちはその責任を免れないということをはっきりさせたい、と。
米澤さんの話は、原子力の平和利用の問題、その運動側の問題点、自分が体験した被爆の様相、戦前・戦後の日本、戦争責任など多岐にわたった。
3・11事故のあと関東にいた女性から、「妹さんが亡くなったことを、もう少し聞きたい。幼児、子どもは影響が大きいと言われる。お乳を飲んだための内部被爆では」という質問があった。米澤さんは、「当時、妹は疎開先にいて被爆していない。栄養失調と言われたが、私は母乳を飲んだためと思っている」と答えた。(M)
投稿 フクシマとチェルノブイリ
今中哲二さん(京大原子炉実験所)の話を聞く
今中哲二さん(京都大学原子炉実験所)の話を7月29日、西宮勤労会館で聞きました。以下は私の知ったことと雑感です。
京大原子炉実験所に1976年に入所された時、原子力は未来のエネルギーであり、平和利用を追求したい思いで一杯だった今中さんも、79年米国スリーマイル島原発事故、86年ソ連チェルノブイリ事故、99年東海村JCO臨界事故と悲劇が起こる中で、原子力の平和利用に疑問を持たれます。
しかし日本の原発は1970年頃から増え続け、2004年には全国に54基4958万キロワットの発電量となっていました。そして昨年、東日本大震災が発生し、今日の事態に至ったのです。
今中さんは各地の原発立地訴訟にも関わり、特に能登の志賀原発では原告団の一員として裁判にも関わられています。その正義感と勇気は見習うべきものと思います。損得勘定で生きている人の多い日本で、これは凄いことだと思うからです。もし日本が戦争の後始末もきちんとし、正しいことを世界に訴えることができる国であれば、原子力ムラも産学複合体の利権集団も今のような醜い状態には立ち至っていなかったことでしょう。もちろん日本に原子炉を売りつけた米国の問題やフクシマ後も原発を売りつけられようとしているアジアを中心とする国々の問題もあるのでしょうが…。
今中さんは、フクシマ原発事故で東京から北の本州太平洋側には無視できないレベルのセシウム汚染が生じ、そのため今後は晩発性放射線障害(細胞の突然変異により、後になってガン・白血病や遺伝的障害として現われる)が多発するだろうと予想された。今まで10回程、チェルノブイリへも行って現地の学者とも交流されているだけに、データも豊富です。
真剣に避難対策を取らないと、たいへんな事態になると思わざるをえません。
86年のチェルノブイリ事故による小児甲状腺ガンの増加は、年により増減はあるものの、90〜92年頃から増え始め、2004年には被ばく時年齢0―14歳で約300人、被ばく時年齢15―18歳で約100人となり、86〜04年では計3400人くらいに達したのです。
1964年の原子力委員会の原子炉立地審査指針では、「都合のわるいことは最初から考慮する必要はない。電源回復するので大丈夫」ということが記されたり、61年の原子力損害賠償法では電力会社の賠償準備金に上限を設け、後は国が面倒を見るということにしたりしており、原発事故はとんでもない規模になることは、はじめからわかっていたのですから、あきれ果てます。こんな国に生きていたのかと思うと戦慄が走ります。
そしてあの3・11後の原発爆発。大変な汚染のあることが分かっていながらなんの警告も出さず、多くの住民に大量の放射能汚染を強い、御用学者を使ってウソをばらまき、さらなる安全・安心を言いたて、かの「大日本帝国」を思いおこすようなこの国の現実。行動を起こす人たちが若者も含めて増加したのが、この国の唯一の救いかもしれません。でも大日本帝国ですら、空襲から子どもを守るために集団疎開させたのに。ソビエト連邦も、チェルノブイリ事故の際に、もっと広範囲に5日以内にバスで避難させたのに。
今中さんは動かない政府にあきれて、3・11直後の3月28日〜29日に飯舘村で線量調査され、30マイクロシーベルト/時を計測したそうです。京大原子炉は20マイクロシーベルト/時で立入禁止地域となりますからたいへんな線量だったわけです。
こんな報告を聞いていて私は妹夫婦のことを思いました。妹夫婦は栃木県那須で芸術家の仕事をしていたのですが、「アメリカ軍が80キロメートル圏外へ撤退」の情報をコンピューターでキャッチし、子どものいない身軽さもあって、実家のある岡山へと脱出したのです。もう那須へ戻ることはあきらめ岡山市内に住んでいます。彼らはほとほとこの国に絶望して両親がいなくなったら、海外移住も考えています。
私はこの国を変えねば未来はないと考え、いろんな講演会に参加したり、自分の住んでいる町の脱原発運動に関わったりしていますが、そんな中で出会う人たちは元気と希望を与えてくれ、連帯できる人たちでとてもうれしく楽しいことも多いのですが・・・。
今中さんの話から私が得たものは、日本には良心的な学者や政治家が少数とはいえまだいるので、それらの人たちとの連帯の中で、右傾化する日本を救っていきたいということです。
最後に、私たちの大切なものは金でも私的な発展でもなく、人類の幸福やそのための美しい環境であるということです。原発はそのどちらとも相容れない存在です。意識した私たちがともに協力し合い理想の社会をあきらめずに創っていきたいと思います。(Y・H)
2012年版防衛白書
海外での日米共同侵略態勢を強化
政府は7月31日、2012年版「防衛白書」を閣議で了承した。この白書で、「動的防衛協力」が初めて明記された。
2010年12月の新防衛大綱で、それまでの「専守防衛」を投げ捨て、むき出しの侵略型軍隊として開き直る「動的防衛力」なる軍事政策を打ち出したが、この照準は、北アフリカ周辺地域(ソマリア沖・ジブチ、南スーダン、ゴラン高原)と対中国の2正面に向けられたものだ。
白書でいう「動的防衛協力」は、この「動的防衛」なるものを日米軍事体制に適用するものであり、自衛隊が米軍とともに、海外で無制限の軍事侵略に突き進む宣言である。
3面
東西でオスプレイ配備にNo!
17日、米海兵隊は4月11日に起きたオスプレイ墜落事故の最終調査報告書を公表した。報告書では低空での強風と操縦士のマニュアル違反が原因とし、機体には問題はないとした。野田政権はこの報告を受けて、「オスプレイは安全」と強弁するつもりだが、低空飛行中に強風にあおられることによって墜落の可能性が高まることこそ、オスプレイの重大な欠陥として指摘されていることだ。5日、オスプレイ配備に反対する取り組みが各地で行なわれた。
米軍のオスプレイ沖縄配備に反対して「10万人沖縄県民大会に呼応する8・5首都圏集会」が5日、都内でおこなわれ千人が参加した。沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックなど首都圏の28市民団体・個人がよびかけ、開催された。
会場となった日本教育会館には、バンドや踊りのリハーサルの中を参加者が続々と入ってくる。入場者が途切れないため、主催者が開始を5分遅らせた。
集会では東京沖縄県人会の島袋徹事務局長がアピール文〔左に別掲〕を読み上げ「同じ意見を表明する諸団体の行動を支持する。一緒に頑張ろう」と強調した。
東京大学の高橋哲哉教授は「オスプレイの事故は中小を含めると58回。軍のもみ消しで人為的事故にされたケースもある。安全は二の次である、人の犠牲の上に利益を得る『犠牲のシステム』だ。米軍追従に利益を見出す者がいる。ヤマトは沖縄問題を他人事だと思っている。それが構造的差別であり植民地主義だ。加害者の側であり続けるのかが問われている。本土で大運動を」と問題提起した。
首都圏で東村(ひがしそん)高江区のヘリパッド建設反対運動を進めている「ゆんたく高江」の浦野薫さんは、オスプレイと同サイズ(幅25・8メートル、長さ17・5メートル)の布を客席に広げ、巨大さと危険性を訴えた。集会終了後、神保町付近をデモ行進し、オスプレイの配備を強行する日米両政府の姿勢を強く批判した。
デモで日米両政府に抗議の意志表示(5日 都内) |
会場に広げられたオスプレイと同サイズの布(5日 都内) |
米軍普天間飛行場の固定化と
オスプレイ配備に反対するアピール
1945年、沖縄戦の最中にアメリカ軍は宜野湾一帯を占領下におくと直ちに飛行場を建設しました。 それが米軍普天間飛行場で、戦後66年を経過した現在もアメリカ軍が占領してそのまま使い続けています。
普天間飛行場は宣野湾市の中心部に位置しており、宜野湾市民や近隣の自治体住民は早朝から深夜に及ぶ軍用機の爆音にあえぎ、ヘリコプターなどの墜落の危険にさらされています。
普天間飛行場の危険性を軽減するため日米両政府は協議を重ね、1996年SACO合意により普天間飛行場返還の方向性を進めることにしました。
しかし、返還条件として具体的に提案されたのが辺野古への県内移設で、これは到底受け入れることは出来ません。
沖縄を訪問したラムズフェルド米国務長官は「普天間飛行場は世界一危険な空港である」と述べましたが、2004年8月13日に米軍CH―53D大型輸送へりが沖縄国際大学へ墜落炎上する大事故が発生して米国務長官の言うとおりになってしまいました。
そのような中、米国防総省は垂直離着陸輸送機MV―22オスプレイを普天間飛行場に配備することを発表し、日本政府も受け入れようとしています。
オスプレイは開発段階で4回の墜落事故を起こして30名が死亡しています。 実戦配備されてからも2009年に米国で墜落、2010年にアフガニスタンで墜落して4名死亡、本年4月にモロッコで墜落して2名死亡、さらに6月には米国で墜落して5名が負傷しています。
このようにオスプレイは世界で一番危険な軍用機ですが、そのオプスレイを世界で一番危険な普天間飛行場に配備することは暴挙そのものであって、決して許されるものではありません。
沖縄では、仲井眞知事が反対を表明し、県内全ての41市町村議会が反対決議をしています。
東京沖縄県人会は悲修な沖縄戦の経験者を身内にもつ会員が大勢おり、平和と安全を強く願っております。
その立場から普天間飛行場が固定化されることとオスプレイの配備に強く反対することを表明します。
また、この問題に関して同旨の意見を表明している諸団体の行動を支持するものであります。
2012年8月1日 東京沖縄県人会
沖縄県民の闘いに連帯し大阪で集会・デモを開催
米総領事館へデモ(5日 大阪市内) |
台風直撃のため、オスプレイ配備反対の沖縄県民大会は延期されたが、これに連帯する関西の集会・デモが、5日、大阪市内でおこなわれた。
よびかけは〈沖縄とともに基地撤去をめざす関西連絡会〉と〈辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動〉の2団体。このよびかけに応えて連帯労組関西生コン支部などの労働組合や、市民団体・宗教者など37団体が賛同し、400をこす人々が集った。
集会では2団体のあいさつ・司会進行のもと、全港湾大阪支部の大野委員長、高槻医療福祉労組の吉岡委員長、関西合同労組の石田委員長や、沖縄意見広告運動の細野さん、とび入りの市民など約20人が、「オスプレイ配備反対、普天間基地撤去、高江ヘリパッド建設反対」などを訴えた。
衆院議員・服部良一さんは、この間の民主党政権の裏切りを弾劾。
集会決議が採択され、一斉に「怒」の赤い文字がひろげられた。最後に全港湾大阪支部・山元書記長がまとめと行動提起。
炎天下をデモに出発。色とりどりの横断幕、のぼり旗などを拡げた400を超すデモ隊は市民の注目の的となった。アメリカ総領事館前ではひときわ大きなシュプレヒコールをあびせ、中之島公園まで行進した。
延期となった沖縄県民大会は、来月9日開催と決まった。これにあわせて、さらに大きな集会・デモを実現し、オスプレイの沖縄配備を絶対に止めよう。
第3回「日の丸・君が代」裁判全国学習交流集会
思想統制教育との対決へ
11日、第3回「日の丸・君が代」裁判 全国学習・交流集会が都内でひらかれ、133人が参加。午前9時半から夕方まで、活発な意見交換がおこなわれた。
午前中は、報告を中心におこなわれた。
開会あいさつで永井栄俊さんは「この闘いは全国的につながっていることを確認しよう。誰かがやるのではなく、参加者ひとりひとりが中心になって闘おう」と提起した。
まず、前日48人でおこなわれた文部科学省交渉の報告。
次に、関東からの報告として、(1)最高裁判決を中心とした評価(現段階と見通し)、(2)神奈川の裁判・運動、(3)東京の、@都障労組・処分取消裁判、A「君が代」裁判、B河原井さん・根津さん停職処分取消裁判が報告された。
さらに全国からの報告として、@北海道、A宮城、B新潟、C静岡、D愛知、E三重、F大阪、G兵庫、H香川、I福岡、の10人が発言。
昼休みをはさんで、午後は討論がおこなわれた。
「討論のたたき台」提起に続き、(1)裁判闘争の課題と展望、(2)大阪の攻撃と課題、(3)今後の全国的な課題と取り組みについて討論がくりひろげられ37本の発言があった。
つづいて、東京都教育長ほか宛ての要求を「特別決議」として確認した。要求内容は、「3・8教育長通知(服務事故再発防止研修の実施について)を撤回し、併せて『君が代』不起立・不伴奏被処分者に対する服務事故再発防止研修の一切を止めること」「Tさんに対して予定している再発防止研修を中止すること」の2つ。
最後に8・31再発防止研修抗議行動(午前8時45分集合、JR水道橋駅前「都立工芸高校」隣の東京都教職員研修センター前)、10・20「学校に自由と人権を」集会が、よびかけられた。
発言は門真三中「君が代」処分取消裁判原告の川口さん(11日 都内) |
4面
故郷を返せ 原発ゼロを
福島で開かれた原発意見聴取会(上)
8月1日、福島市内で、政府の「エネルギー・環境の選択肢に関する福島県民の意見を聴く会」が開かれた。参加応募が216人、会場には約150人が参加。意見表明希望が95人、そのうちの30人が発言。「無作為抽出で選んだ」という。会場の前列に、細野剛志環境相ら政府・官僚らが並ぶ。その後ろに一般参加者。
発言者は、15人ずつにわけて登壇。発言時間は1人5分だったが、多くの発言が5分を超えた。発言者は、政府・官僚らを前に、自らが体験し感じていることを率直にぶつけた。それは、政府の「収束宣言」と大飯原発再稼働を厳しく批判するものとなった。政府が設定した議論の枠組み自体を批判し、30人中28人が「ただちに原発ゼロ」を要求。残る2人も段階的な廃止を求めた。発言者と会場の一般参加者は、一体となって拍手を送り、共感の声をあげ、政府・官僚に怒声を浴びせた。さながら、福島県民による「政府を糾弾する会」のようだった。
150人が参加し30人が発言した原発意見聴取会・福島会場(1日 福島市内) |
あの山、あの川、あの海・・・ 故郷を失った悔しさ、わかりますか
松田孝司さん 60歳
〔浪江町で専業農家。桑折町(こおりまち)の仮設住宅に避難〕
私は、原発から8キロ弱の浪江町で、専業農家として暮らしていました。現在は6カ所目の避難先、桑折町の仮設住宅で、浪江町民といっしょに頑張って、踏ん張って、暮らしています。
今回、発言の機会をいただき、本当にありがとうございます。浪江町民の一人として、桑折仮設住宅の代表として、口下手ですので、書いてきた文章を読ませていただきます。
東電に事業者の資格なし
今回、現実に原発事故が起き、国、政府、東電のお粗末な事故対応を十分に見させてもらいました。(事故調などの報告によれば)国、政府は、津波災害の可能性を知りながら、何の対策もしないで、東京電力の言うなりに任せ、事故が起きてしまいました。
自然災害に「想定外」はあり得ないと思います。東京電力は、自ら「想定外」と言っていましたが、「事故を想定しなかった」ということは、法律用語では「未必の故意」ですね。事業者として失格だと思います。自らの原子炉を制御できず、避難者にたいする対応も満足にできない様を見て、国、政府、東電には、原子力発電所を稼働する資格や能力はないと思います。
原発は即刻廃炉、これは当然だと思います。もう二度と、私たちのように、故郷を追われて、さまよう避難者を出さないで下さい。
私は、口下手でしゃべれないけど、こういう風にしゃべれるようになったのは、東電のせいかもしれませんけど、私たちの気持ちを理解して下さい。もし今度、同じような事故が起きたなら、もう、日本列島が終わりだと思います。
政治家も官僚もここで生活してみて下さい
私たち福島では、東京電力の電気を使っていないんです。
どうしても電気が足りないと言うならば、都会に原子力発電所をつくって、発電して下さい。周りの自然を壊して、私たちをいじめて、都会の人はぬくぬくと暮らしているって、おかしいと思いませんか。原発事故から1年5カ月近く経ってますけど、私はまだ、一歩も前に進んでません。
震災前は浪江町でお米を作りながら、東京電力じゃありませんけれども、安全で安心なうまいコメをつくって、全国に送っていました。儲からなかったけど、毎日毎日、汗水流して、農作業に明け暮れていたんです。
けれども、今度の原発事故で、浪江町では、もう農業はできません。あの山、あの川、あの海、あの土地、あの人たち、魚や山菜、新鮮な野菜など、すべてが味わえた浪江町。先祖代々の土地を守ってきた生き様。
後世に伝えるべき、過去や未来をすべて失い、先も見えず、町民も、みなバラバラになってしまいました。こんな、故郷を失った悔しさ、わかりますか。
元に戻して下さい。故郷を返してほしい。われわれ避難者の切なる願いです。放射能を議論しても無駄です。「放射能が何ベクレルなら住める」って、住めないじゃないですか。
官僚や政治家の人にお願いがあります。まさか、自分たちが住めないと思っているところを、避難解除にはしないと思いますので、今回、避難解除準備区域とした場所で、官僚の人たちも、仕事をし、家族といっしょに生活してみて下さい。 国会を避難解除準備区域でやって下さい。そうすれば、くだらない、国民不在の論争などしないで、速やかに審議が進むと思います。安全なところで、口先だけのことを言わないで下さい。
われわれを仮設住宅で殺すんですか
私たちは、国の命令で、避難したんですね。なぜ国は、もっと早く動いてくれないんですか。浪江、双葉、大熊、富岡。「仮の町」構想を言っても、国の動きは遅いです。
われわれを仮設住宅で殺すんですか。 私の家は、浪江では78坪なんですよ。仮設は6坪です。私の家の漬物小屋ですよ。何でそこで暮らさなきゃならないんですか。
何で今頃、「仮設住宅の改善」なんですか。1年5カ月も経って、何で仮設住宅を改善しなきゃならないんですか。
それだったら、復興住宅を早く進めて下さい。これを解決して、次に稼働とか、言うべきだと思うんですよ。われわれが浪江とか双葉郡に帰るまでは、国が責任を持ってちゃんと復興住宅を建てるのが先だと思うんですよ。もっと早く動いて下さい。よろしくお願いします。
「放射能で亡くなった人はいない」の発言に怒り
渡辺和則さん 38歳
〔富岡町で司法書士。両親はいわき市、妻子は埼玉に避難〕
住所は富岡町です。いまも警戒区域に指定されていますので、家にも、職場にも、故郷に帰ることもできないまま、避難生活を続けています。
どれほどの人が亡くなったか
私が、今回ここで意見表明をしたいと思ったきっかけは、先月、(名古屋の聴取会での)「福島原発事故の放射能の影響で亡くなった人は一人もいない」という発言をメディアで聞いて、怒りを覚えたからです。
私も、原発事故の避難者ですから、避難者の状況は、よく分かっているつもりです。どれほど多くの人が、避難中に亡くなったか、避難直後になくなったか、いまもばたばたと倒れて亡くなっているか。本当に、「あんなに元気な人が…」「あんなに笑顔だった人が…」という信じられないぐらい多くの人が亡くなったり、病に倒れたりしていると聞かされています。本当に悲しい思いを日々しています。 借り上げ住宅や仮設住宅で、そして、一時帰宅の際に、将来を悲観して、自ら命を絶つ人が跡を絶ちません。本来であれば失われなくてよかった命、もっともっと長く生きられた命が、失われているということを、まず申し上げたい。
無理もないと思います。原発避難者は、ある日突然、何の説明もなく避難させられ、故郷を追われ、「明日にでもすぐに帰れるだろう」と思って避難したんですね。ところが、いまだに故郷にも家にも帰れず、家族バラバラのまま。いつ帰れるかもわからない状況で過ごしています。
そういった状況が全然、届いていないというのが、本当に日々思うところでございます。
誰もが気づかされたはず
原発事故があって、(誰もが)「大変なことが起こってしまった」と思ったはずなんですね。
私も、避難所を転々として、関東の妹の小さなアパートに家族で避難して、肩を寄せ合いながら、テレビを見ていて、「大変なことが起こってしまった。もう、帰れないんじゃないか」と、もう、自分の人生をすべて否定されたような、そんな思いを抱きましたし、両親も泣いていました。
そして、「日本が終わってしまうんじゃないか」と思った方も多いと思います。また、これによって、「ここから、大きく日本は変わっていくだろう」「歴史の転換期になるんだろう」と、誰もが思ったはずなんですね。気づかされたはずなんです。
ところが、どうでしょうか。何事もなかったように、結論ありきで、すべてが進められているような気がします。原発避難者にたいしても、風化をさせられるような形で、進められています。ガレキの処理も決まっていないし、核燃料の処理の仕方も決まっていない。そして、原子炉建屋の内部の状況さえ、いまだ正確にわからない状況であるのに、結論ありきで、原発の再稼働がなされ、また、区域の再編がされています。
今回のエネルギー政策の聴取会についても、そういった「原発をなくせば、経済的にひっ迫してしまう」というような結論ありきで、進められているように感じました。原発事故の賠償の費用とか、除染の費用を考えれば、はるかに経済的負担を強いるのは原発推進のほうだと思います。
そして、核のゴミを10万年もの長い未来に残してしまう。一度、事故が起こってしまえば、福島原発事故を見ればわかるように、原状回復は、全くできない。福島全体を見てもらえば分かるように、みなさん、健康被害に怯え、家族もバラバラにされて、軋轢も生じています。「一度、事故が起こってしまえば、現状回復は不可能だ」ということがお分かりだと思います。
であるならば、「原発ゼロ」から議論を始めるべきではないでしょうか。そこから始めて、「そこに向かって何ができるか」「どういった方策があるか」ということを議論すべきではないでしょうか。これは世界中が注目している選択だと思いますし、歴史が注目している選択だと思います。 代替エネルギーの問題とか、雇用の問題とか、いくつもハードルはあると思いますけれども、われわれ日本人の科学・技術・英知を結集していけば、必ず成し遂げられると信じています。
今日は、私は原発避難者の一人として、福島県人の一人として、人類の歴史のほんの一部として発言させていただいたつもりです。(つづく)
5面
闘魂不滅
港合同・田中機械支部 大和田委員長 追悼会
全国から活動家らが集い 死を悼む
7月22日、大阪市内で大和田幸治委員長の追悼会が開かれた。
3月17日早朝の突然の逝去から4カ月。多くの人が、委員長の84年間の生涯を偲び、その業績に学ぼう、その闘いを引き継がなければという思いで集まり、12時半から始まった会は午後3時近くまで続いた。
会場には「闘魂不滅」の旗を前に演説する委員長の映像が映し出された。司会は港合同・中村副委員長。冒頭、田中機械支部を代表して玉置雅彦さんがあいさつにたち、「本日194人が出席し、103団体・個人の追悼文がよせられ、追悼集を上梓することができた」、さらに「委員長の闘う姿勢は、選ぶことのない公平な態度で、敵さえも頭を垂れた。その原点は戦争中の職場・地域での差別への怒りであり、団結権思想に結実した。彼の闘いの全てを導きとして闘いぬく」と決意を示した。参加者は委員長の闘う姿、言葉一つ一つを思い起こし、胸に刻んだ。
参加者を代表し、労働法の大家・佐藤昭夫早稲田大学名誉教授、田中機械弁護団から浦功弁護士、労働運動界から全国一般東京東部労組副委員長・石川源嗣さんの三氏が発言にたった。委員長の人柄、団結権・勝利への執念、自覚的団結など労働運動指導理念と大衆路線、党派問題など、委員長の闘いの思想がそれぞれの体験に触れながら語られた。
元総評港地区協議会議長・有元さんが献杯。
南大阪地域の労働運動から、連帯ユニオン関生支部・武委員長と、全港湾大阪支部の元委員長・加来さんが「大和田さんを引き継ぐ」と表明。
出席された親族3名を代表して、甥の大和田剛史さんが挨拶された。
各テーブルでは委員長に薫陶をうけた、新旧活動家らの貴重な交流がおこなわれた。参加者の発言が続き、全金労働組合出身の衆院議員服部良一さんのメッセージも紹介された。全金大阪地本の元書記長・要さんは、委員長の遺志を受けとめて、「バラバラではこまる」と述べ、労働運動前進のための示唆に富む話をした。
終盤、2007年団結もちつき大会での、気迫こもる委員長の演説がDVDで上映された。最後に田中機械支部の辻岡尚さんが、小泉構造改革と正面から闘った委員長の〈団結権思想〉と路線、12春闘を「資本主義の死」として闘おうと呼びかけた毅然たる遺志を伝え、この闘いを引き継ぎ「逃げることなく闘いぬく」とまとめ、参加者へのお礼を述べた。ひとりひとりに追悼集『団結こそ命、闘いこそ力』(三一書房刊)が配られた。
締めは、田中機械支部が闘争中から毎夕、占拠職場で歌い続けてきた「インターナショナル」。田中機械支部や21年間の南労会闘争を闘う組合員らが壇上に並び、参加者全員が肩や腕を組み、会場全体をゆるがす大合唱となった。
革共同の歴史の節目節目で、大和田委員長からいただいてきた貴重な叱咤と激励を忘れることはできません。革共同再建協議会は、それに応える闘いを、〈3・11〉後の新たな情勢の中でやり抜いていく決意です。委員長の民衆への熱い思い、心血を注いだ労働者解放・社会建設への思いを受け継いで闘います。(K)
発言は港合同・田中機械支部の辻岡さん(22日 大阪市内) |
70年安保闘争から救援運動43年
追悼 加P都貴子さん
5日、午前10時50分、神戸市民救援会議の加P都貴子さんが逝去された。88歳になられたところだった。
加Pさんは今年6月4日に肺がんの手術をし、22日に退院されたが29日再入院。7月6日に退院し自宅療養中だった。手術後はほとんど食事を摂ることができず、点滴のみで療養を続けられ、5日、静かに息を引き取られた。
加P都貴子さんは、1924年、北海道帯広市生まれ。女学校を卒業後、東京で陸軍省などで仕事をされ、戦後すぐ加P俊行さんと結婚。日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会などで活躍された。
その後、神戸に移り、1969年10月30日、自らが代表となって神戸市民救援会議を発足させた。ときあたかも70年安保闘争の最大の決戦となった11月佐藤訪米阻止闘争の直前であった。
加Pさんは神戸市民救援会議の準備会発足にあたって自らの立場を次のように述べている。
「私たち市民が、暴力学生キャンペーンに同調し、この裏で行なわれている前例のな
ありし日の加P都貴子さん |
また市民救援会議の機関紙『救援ニュース』の第1号では「大切なことは、何かをしなければと考えている人々が自分をきたえ、成長させていく努力ではないでしょうか」と記されている。
加Pさんは最後の瞬間までこの信念をつらぬいて生涯を閉じられた。心からご冥福をお祈りいたします。
医療観察法廃止にむけ集会
「どうなる どうする 障害者制度改革/障害者権利条約と医療観察法・総合支援法/7・29医療観察法廃止!集会」が、都内でひらかれ81人が参加した。心神喪失者等医療観察法をなくす会など4団体が主催。
医療観察法は、法に規定されていた施行5年後の見直しが空振りとなった。原因は運動が盛り上がらなかったことと総括し、障害者制度改革の運動との連携を模索してきた。
障害者政策委員会
政府の障がい者制度改革推進会議を改組した障害者政策委員会委員の大谷恭子弁護士が基調講演をおこない、以下のように語った。
「精神障害者」の状況を見ると、侵襲的医療がおこなわれている。その一つに、うつ病者に対する電磁波治療が計画されている(今でも電気ショックは盛んにおこなわれている)。患者の権利宣言がいまだに法律化されていない状況で、侵襲性のない、尊厳を守った医療をどう保障していくかが障害者政策委員会の仕事になる。しかし肝心の障害者差別禁止法の議論では、現行法と矛盾しない形でしか作れないとくぎを刺されている。現行法の見直しは絶対にしないというのだ。これでは、隙間産業のような形でそっと作るしかない。
政策委員会への移行に伴い委員長が交代したのは、推進会議の仕上げをするつもりがないからだ。批准すべき障害者権利条約に詳しい人が政策委員会に入っていない。委員会のメンバーを見て絶望的になった。障害者基本計画の策定には限られた条件の中で頑張るしかない。この2年間を「あだ花」にしないために頑張ると、民主党の政策変更の中での苦闘を語った。
11・24全国集会へ
次にカンパアピール。各地からの報告として関西の発言。5・20高槻集会の報告をおこない、医療崩壊が精神科にも及んでいる状況を厚労省が傍観しているのは、「精神障害者」に対する棄民政策であると断じた。
休憩をはさんで滋賀県家族会から報告。この家族会は、われわれとほぼ同じ理由で医療観察法施設に反対している。闘いの陣形を広げるには良い発言だった。
次に、全国の闘いの現場から5人の報告があった。大阪精神医療人権センターのAさんは、イタリアでは単科の精神病院はすでに廃止されているが、来年3月に巨大な司法精神病院が廃止される。20人規模の小さな病棟に移行するが、そういう形で残ることに対しても問題ありと闘っている人たちがいると報告した。
最後にまとめとして、11・24全国集会が訴えられた。障害者制度改革の運動とどう連携が可能なのか、模索は続く。
6面
9・10三里塚農地法裁判(千葉地裁)へ
市東孝雄さんの農地農業を守れ
9月、10月、三里塚闘争は重大な局面をむかえる。9月10日(千葉地裁・午後1時30分)農地法裁判がおこなわれる。国と空港会社(NAA)は、この裁判を通して市東孝雄さんが耕作する畑を、「農地を守るべき農地法」をタテに取り上げようとしている。
1988年に空港会社が畑をこっそり取得。その後、2006年になって「農地からの転用」を千葉県農業会議、堂本知事(当時)が決定。その際、境界認定などが不備、でたらめなまま申請された。これらをめぐり国・千葉県・空港会社は「市東さんの同意なしの無断売買、対象農地の誤認と空港会社による文書偽造、地代の騙し取り」など数々の違法行為をおこなってきた。
裁判はすでに2回の証人尋問を終えたが、戸井・空港会社用地部長、山崎・成田市農業委員会事務局長(当時)は、「(畑の位置を)調査しなかった」「前任者から引き継いだだけ」「調べていない」など、まったく無責任な証言に終始してきた。
ビデオリンク方式
9月10日は、(06年当時の)千葉県農地課長・渡辺清一証人の尋問。農業会議を主導し、知事決定に持ち込んだ張本人である。徹底的に追及しなければならない。
同時に、裁判所は10月15日、(06年当時)国交省成田空港課長・石指(いしざし)雅啓に対する証人尋問を、神戸地裁とビデオで結ぶ「ビデオリンク」方式でやろうと画策している。「現在、(海上保安庁第5管区=神戸)本部長の要職にあるから千葉地裁に出廷できない」とは、空港会社証人の擁護、事実隠し以外の何ものでもない。抗議の嵐を突きつけよう。
背景には、周知のように暫定滑走路完成を阻む「ヘ」の字誘導路がある。国と空港会社は昨年8月6日、闇討ちによって反対同盟現闘本部を強奪したものの、市東さんの畑がある限りいかんともし難い。
いま政府・国交省・NAAは、成田空港の自由化(オープンスカイ)のもと2014年に年間発着回数・30万回化を実現しようと、全力で三里塚の地に襲いかかっている。
ひとつは、第3誘導路の来春供用開始。もうひとつは、同時に農地法裁判を来春にも結審・判決に持ち込み、来年中に市東さんの農地を強奪。暫定滑走路の誘導路「へ」の字解消を画策する。あわよくば市東さんを追い出し三里塚闘争を解体し、成田空港完成への道をこじ開けようとしている。
裁判所の包囲を
三里塚をめぐる数々の裁判、伊方をはじめ原発訴訟でも裁判所は全面的に国に加担した。沖縄基地、米兵による事件をめぐる数々の不当判決もそうである。だからこそ裁判所を弾劾の声で取り囲み、法廷を民衆の怒りで埋めつくそう。
47年間、「国策」を掲げ、なお完成しない空港を押しつけてくる理不尽。親子3代、100年耕してきた一級農地を、偽証や違法を重ねて農地法で取り上げるなど、どうして看過できるだろうか。30万回化は空港の24時間化と、周辺地域住民への重大な生活破壊を引き起こす。
いまほど「人の命とくらしを踏みにじる国策」がまかり通っている事態はない。しかし沖縄、福島の怒り、官邸・国会へ「再稼動反対」に押しかける人の波、声。「脱原発・再稼働反対」「子どもたちを守ろう」という数万、数10万の熱気がある。「オスプレイ反対、新基地反対」に燃える沖縄の怒りと合流し、「反戦と平和の砦」「不屈の三里塚」を闘おう。
9月10日、10月15日の裁判傍聴、10・7三里塚全国総決起集会にかけつけよう。9・16「この国の農業と三里塚」の集い(関西)に集まろう。
三里塚現地集会で発言する市東さん(7月8日) |
9・16「この国の農業と三里塚」への
賛同と参加をお願いします
福島原発事故は、多くの農民から農地とくらしを「根こぎ」にしました。子どもたち、多くの人々が内部被曝の脅威にさらされています。事故の原因は何ひとつ明らかにされていません。野田政権は大飯原発の再稼働をすすめ、原発存続の核政策を継続しようとしています。
沖縄では普天間基地撤去・オスプレイ配備反対の、圧倒的な県民の声があがっています。政府はこれをまったく無視し、アメリカの言いなりに普天間配備を推進しようとしています。東村高江には、オスプレイ訓練基地であるヘリパッドを建設しています。「日米同盟」のもとに、住民の土地を奪い、在日米軍の74%を押しつけ、沖縄差別の「防衛」政策を続行しようというのです。
成田市・三里塚では、市東孝雄さんの農地を強奪しようとしています。首都圏の空港容量を拡大し、成田空港を自由化する国策をふりかざし、2014年度に年間発着回数・30万回化、24時間使用をねらっているのです。空港周辺住民のくらしと農業を破壊することは明らかです。その攻防が重要な局面を迎えています。
三里塚、沖縄、福島で進められる国策は、農民や私たちの切り捨てです。
7月、代々木公園に集まった反原発17万人。毎週金曜日の官邸前はじめとした各地の怒りのうねり。オスプレイ阻止の沖縄県民大会。私たちは「もう黙っておれない」と立ち上がる人々と連帯し、三里塚における「犯罪的な国策」をやめさせなければなりません。
47年間、国家権力を相手に非妥協に闘い続けてきた三里塚反対同盟農民の萩原進さん、福島・飯舘村で3・11に直面した農民の村上真平さん。二人のお話を聞き、考え、立ち上がろうではありませんか。
9月16日、「この国の農業と三里塚」の集いへの賛同と参加を呼びかけます。