脱原発へ 首都に17万人
代々木公園一帯に17万人。 主催は「さようなら原発一千万人署名市民の会」。2つのステージなどで11時頃から歌やパフォーマンスが始まり、午後1時過ぎから呼びかけ人が次々発言。さらに大飯原発の現地・福井から中嶌哲演さん、福島現地からは武藤類子さんが発言。1時半ごろから3つのコースにわかれてパレードに出た。写真は、道一杯に広がるパレード(16日 原宿駅前) |
16日、代々木公園で開催された「さようなら原発10万人集会」には、全国から17万人が参加した。第1ステージでは鎌田慧さん、坂本龍一さん、大江健三郎さん、永六輔さん、瀬戸内寂聴さん、落合恵子さんらが発言。脱原発をあきらめない固い決意を、すべての参加者と確認した。17万のデモが街頭にあふれ出し、「再稼働反対」「原発やめろ」の叫びが首都をおおいつくした。
先月20日に成立した「原子力規制委員会設置法」はその附則の中で、原子力基本法の重大な改定をおこなった。
「原子力の研究、開発及び利用」の目的に「我が国の安全保障に資すること」という項目を新たにつけ加えたのである。
日本が原子力基本法に安全保障条項を入れたことは、東アジア諸国に対して衝撃を与えている。韓国の朝鮮日報は22日付1面に「日本、ついに核武装への道を開く」との見出しを掲げ、今回の法改定で「事実上、核の軍事的開発を可能にするのではないかとの憂慮が出ている」と指摘。東亜日報も1面で、「原子力の軍事的利用と核武装への道を開いた」との分析を伝えた。
また韓国の与党セヌリ党の元代表で、大統領選への立候補を表明している鄭夢準(チョン・モンジュン)氏は同月28日、ソウルでの討論会で、「(日本は)多くのプルトニウムを持ち、数千発の核弾頭を作ることができる。2週間で核武装できる」と警戒感をあらわにするとともに、朝鮮民主主義人民共和国の核開発を念頭に「韓国も核保有能力を持つべきだ」との見解を明らかにした。韓国では、「日本核武装化」への警戒感が、韓国の核保有論にその論拠を与えている。
ベトナムを訪問していた玄葉外相は7月14日、ハノイで開かれた日越協力委員会でベトナムへの原発輸出について「日本に対する信頼と期待に応えられるよう協力していきたい」と積極的に進めていく姿勢を示した。
いまだ福島原発事故の被災者救済は進まず、事故収束の目途すら立っていない。にもかかわらず国内の原発の再稼働を強行し、原発輸出と核武装に進む野田政権を民衆の力で打倒しよう。
13日 首相官邸前 抗議、抗議、また抗議。15 万人の市民が声をあげる |
高江ヘリパッド建設 工事再開を弾劾する 沖縄
10日、午後6時半ごろ沖縄防衛局は、警察官や作業員ら約50人で北部訓練場のN4ゲート前を強襲し、小型重機一台を訓練場内に搬入した。
沖縄では、オスプレイ配備を阻止するため、米軍普天間基地・大山ゲート前での座りこみテントが再開されたばかりであった。沖縄平和運動センターの山城博治さんは「県民がオスプレイ配備に反対しているなかで、裏をかくように工事を再開した」(11日付琉球新報)と防衛局を弾劾。
高江現地では10日夜から泊まり込みの監視を強化。11日は朝から北部訓練場ゲート前で抗議行動がおこなわれた〔写真〕。その後、N4ゲート前で連日の座り込みと監視行動が取り組まれている。
ヘリパッド建設に反対する市民団体「なはブロッコリー」の本永貴子代表は「高江のヘリパッドができるとオスプレイが使う。県民がこれだけ反対しているところでの工事再開は県民を愚弄する行為」(同前)と憤った。
工事再開に朝から抗議行動 (11日 沖縄・米軍北部訓練場ゲート前) |
第三誘導路の突貫工事ゆるすな
今こそ三里塚闘争の飛躍を
8日、成田市東峰で三里塚現地闘争がおこなわれ、245人が参加した。主催は三里塚芝山連合空港反対同盟。
成田空港会社は、来年3月31日の第3誘導路供用開始を至上命令として、危険な橋梁工事を強行している。第3誘導路ができると、市東さんの自宅と畑は完全に空港敷地内に囲い込まれてしまう。空港会社は、殺人的騒音と事故の危険と隣り合わせの空港敷地内に市東さんを閉じ込めることで、力ずくで屈服させようとしている。このような非人間的な攻撃を絶対に許すわけにはいかない。
集会では、反対同盟・萩原富夫さんが司会。開会のあいさつで北原鉱治事務局長は、三里塚闘争47年の歴史を振り返り、「市東さんを空港内に封じこめる攻撃を断じて許さない」と発言した。
民衆のたたかいの中に三里塚闘争を(8日 成田市東峰) |
三里塚の地に立とう
基調報告で萩原進事務局次長は、次のような提起をおこなった。
「敵は第3誘導路の来年3月供用開始をめざして、昼夜を問わず突貫工事をおこなっている。これは三里塚闘争そのものの封じ込めを狙う攻撃だ。」「いま原発再稼働、消費税増税、オスプレイ配備、TPPに対して、日本の民衆の怒りは頂点に達している。そういうときだからこそ三里塚闘争は、じっとしているわけにいかない。日本の民衆の闘いの中に三里塚闘争をしっかりと位置づける絶好のチャンスが到来した。三里塚の地から支配者に鉄槌を下そう」
「第一に、市東さんの農地裁判の勝利に向け、千葉地裁闘争を強化しよう。第二に、現地闘争を強化しよう。現地調査や援農など三里塚の地にひとりでも多くの人が立って欲しい。第三に千葉市内でも地熱を暖め、大きな大衆闘争を作ろう」
続いて発言に立った市東孝雄さんは「敵も相当焦りがある。(誘導路を)作ってしまえばなんとかなると思っているのだろう。国のやっていることはウソとデタラメばかり。三里塚でも同じだ。敵の攻撃にはできる限りの反撃をする」とゆるぎない決意を明らかにした。
集会後、市東さんの畑を往復するデモをおこない、10・7三里塚全国集会への総決起を参加者全員が誓った。
2面
ドキュメント 6/30〜7/2 “大飯の乱”かく闘う
6月30日午後3時半、大飯の原発道路が実力占拠された。6台の車をバリケードにし、チェーンとロープで関西電力・大飯原発正面ゲートを封鎖した。ピケット隊の気迫に圧倒された関電のガードマンは呆然と見守るだけだった。
参加者は700人を超えた。再稼働反対のシュプレヒコールが鳴りやまない。ジャンベとドラム。土砂降りの雨の中、闘いは一昼夜を越えて7月2日未明まで続いた。
「大飯の乱」は勝ち取られた。再稼働はされたが負けてはいない。35時間の解放区が実現された。「負けない、何故なら勝つまでやめないから」。絶対あきらめない反原発闘争が開始された。
6月30日(土)
午後3時30分
大飯原発ゲート前を、抗議する市民が複数台の車両とチェーンで封鎖。
抗議行動開始。スピーチとライブ演奏。「再稼働反対」のコールが続く。
突如あらわれた抗議の人びとを前に、関電ガードマンは、おろおろ。
身体を鎖でつないでゲートを封鎖(6月30日 午後3時半すぎ) |
午後4時30分
機動隊が介入。
午後9時
ゲート外側を機動隊が固め、抗議の人びとが、関電敷地内と敷地外に分断されていたが、その封鎖を機動隊が解き、内外の行き来が自由に。
午後11時
「ここから関西電力の敷地」という2枚の立て看板を持った関電の警備部隊が、PR館と詰め所の中央当たりまで突然駆け降りてくる。隊列をつくり、トラメガで「敷地から出てください」を繰り返す。抗議側は肉声での「再稼働反対」コールで対抗。
退去要請に出てきた関西電力職員(6月30日 午後11時頃) |
7月1日(日)
日付が変わるも、抗議のコールと演奏は、とぎれることなく続く。
午前1時30分すぎ
機動隊が介入し、警察と市民の激しい押し合いが始まる。
午前3時30分
夜半以降もドラムのテンポが上がり、勢いを保ったまま、明け方へ向かう。
激しい雨が降ったり止んだりする中で、交代で仮眠や食事をとり、抗議は12時間を越えた。
午前7時15分
抗議者の女性が、機動隊、警備員のポケットに花を一輪ずつ挿して回る。
午前8時前
近くの公園で抗議集会をした部隊100人が、デモで合流。
道路を阻止線で完全に封鎖した(1日 午前8時すぎ)〔撮影・提供 山田耕平〕 |
午前8時30分
申し入れを求めて、ひとりの男性が激しく抗議。それとともに全体で激しい押し合いに。
午前8時50分
福島の女性が街宣車のマイクで怒りの抗議。
午前9時20分
抗議側の一部から関西電力への抗議申し入れのアナウンスが始まる。
午前10時20分
黒いヘルメットに盾を持った機動隊員が増強され、駐車場に待機。
午後5時
愛知、富山、岐阜からの機動隊が増員され、3層ほどの壁を形成。
抗議側もスクラムを組み、何層にも壁を作る。
スクラムを組み幾重もの「人の壁」をつくる(1日 午後5時半頃)〔撮影・提供 山田耕平〕 |
午後5時30分
バリケード外側(一般道側)から機動隊による強制排除が始まる。
座り込みの壁から、一人ずつ引きはがされ、ごぼう抜きされていく。
女性も多数参加していたが、組んでいた腕や脚を無理矢理つかまれ、悲鳴を上げながら無理矢理運ばれていく。
圧力をかける機動隊に「非暴力」をアピールしながら抵抗を続ける(1日) |
午後5時40分
バリケード内側(関電敷地内)でも強制排除が始まる。抗議する側と機動隊とが激しいやりあい。掛け声や罵声が飛び交う。
警察官による強制排除(1日 午後6時半頃) 〔撮影・提供 山田耕平〕 |
午後7時30分
バリケード外側(一般道側)の強制排除がいったん終了。
午後9時
海側から船で大飯原発入りした八木(関西電力社長)と牧野(経済産業副大臣)が立ち合い、大飯原発3号機の起動を強行。制御棒を抜くスイッチが押される。
作業員も昼間、海側から船で原発入りしていたもよう。抗議行動が続く。
ゲート外側の警備が解かれゲート内外の市民が一気に合流(2日 午前0時頃) |
7月2日(月)
午前1時
抗議行動終了。逮捕者は、なし。
午前2時
バリケード撤去作業も終わり、全員が撤収。
3面
シリーズ 橋下改革を斬る(第4弾)
原発いらん! 橋下いらん!
大飯原発再稼働で馬脚
関西電力は7月1日、大飯原発3号機を起動した。福島第一原発事故は収束しようもなく、原因も明らかにならないまま、この再稼働が強行された。
大飯原発には重要免震棟がない。ベントもない。真下にある活断層の再調査も実施していない。なしくずし再稼働を急ぐ野田政権と関電に、最大の助け舟を出したのが橋下だ。
「脱原発の旗手」であるかのように、マスコミは橋下を描いてきた。再稼働問題についても、4月13日に枝野経産相が大飯原発3、4号機の再稼働妥当の判断を発表したときに、橋下は倒閣宣言をするなど注目を集めてきた。
ところが橋下は4月26日には関西広域連合の会合で「原発の再稼働を認めないのであれば、府県民は応分の負担がある」と節電税を負担させる提案をした。さらに5月19日の同会合で「夏限定の稼働」を提案。5月31日、読売新聞は「再稼働批判の急先鋒だった橋下市長が理解を示したことで、一気に再稼働容認への流れができた」と評した。5月30日、関西広域連合の首長9人による事実上の再稼働容認声明。6月16日、政府が再稼働決定。7月1日、大飯3号機起動へと事態は一気に進んだ。最大の「戦犯」が橋下だ。
「脱原発」は権力にぎるため
橋下の狙いは、個々の新自由主義政策だけでなく、むしろ新自由主義政策を有無を言わせず推し進める強力な支配体制作りにある。維新の「船中八策」などは小泉が打ち出した方針の焼き直しにすぎない。参議院廃止も、首相公選制も小泉が掲げていた。
橋下の「独自性」は、すでに新自由主義の矛盾が爆発し進まなくなった状況で、なおも新自由主義政策を強行しようということからくる。そのためには新自由主義の犠牲者である格差と貧困に苦しむ人々の「橋下こそ変革者」という幻想を作り出さなければならない。これは自民党にも民主党にもできない。橋下は自分だけがうまくやれると自負している。
強力な権力体制を作ったらやりたい放題。まず権力を握るためには選挙の票が必要だ。そのためには財界と表面的な対立が起きようと、「脱原発」の旗手というイメージを作り上げる。あくまでそれはイメージでしかない。橋下の「脱原発」は、民衆の「命が大事、子どもを守ろう」という思いとはまったく違うもの。
橋下が全国政治に打って出るなら、財界の支持は不可欠だ。野田では新自由主義はまったく進まない。追い詰められた支配階級内部から、橋下にかけてみようという動きが出始めた。かれらに「自分は全国政治にも責任をとります」というメッセージを橋下は発しなければならない。それが「再稼働容認」という大裏切りだ。
ライフラインの民営化
橋下は核武装論者であり、原発をなくすとは言わない。マスコミが「橋下 脱原発を公約に」と持ち上げた去年11月のダブル選(大阪府知事、市長選)のマニフェストを見てみよう。
「原発依存度を下げることを目標に、発送電分離などで新規事業参入を促し、真に強い電力供給体制を作り直します。
電力会社などが独占している権限を見直し、現在の電力供給体制を、住民視点から再構築します。」
ここにあるのは「新規事業参入、電力供給体制再構築」であり「脱原発」などではまったくない。
4月10日、府市統合本部エネルギー戦略会議が再稼働8条件をまとめた時も橋下は「電力自由化など、現在の電力供給体制を抜本的に見直す方向性が固まれば、再稼働に必ずしも反対しない」と発言している。
一貫しているのは福島第一原発事故を利用して、進まなかった日本の電力自由化をこの機会にやってしまうという、どす黒い狙いだ。新自由主義は電気・ガス・水道というライフラインまでも自由化・民営化し、市場に投げ出そうとする。「水は金のある方に流れる」と言われるように、貧しい者は生存すら脅かされる。
原発反対闘争での「命が大事」という叫びは、住民全体が平等に社会的インフラを受けられる制度を求める声ともつながっている。
支配階級内部の対抗と談合
府知事時代、もともとは自民、公明が与党だった。府庁舎WTC移転問題をきっかけに自民党を割り、さらに大阪維新の会結成に走った。だから橋下を支持していたのは支配階級のいわば非主流派。関経連会長(関電会長)森など財界主流は、アンチ橋下だった。橋下と関電の争いは、支配階級内部の対抗に過ぎない。だから重大事項を密談ですすめることも平気でやる。
6月18日付朝日新聞は、5月15日に橋下・松井が森関経連会長と会談し、大飯原発再稼働容認を決めたと報じている。ツイート政治をおこなう橋下が、再稼働容認発言をした5月19日から11日間もツイートをしなかった。裏事情が漏れるのを恐れたのだろう。
○参加者は「関経連会長森氏、大阪商工会議所会頭佐藤氏、関西経済同友会代表幹事の大林氏、鳥居氏(当時は代表幹事就任予定)と、松井知事、僕。それぞれの事務局と一社大手製造業の社長」
○会場は「お店」
○「当日お店に着いたら森会長が電力について説明させて欲しいと言ってきました」
○「1時間ほど電力需給のひっ迫性について議論」
○「隣の部屋に移って会食。お酒も飲みましたが、始めから終わりまでほぼ電力問題についての議論」
○「そして本当に電力が足りないのであれば、暫定的な安全基準であればその場しのぎで限定稼働というやり方もあるのではないかと提案しました」
○「森会長は(限定再稼働)即座に否定」
怒りなしには再現することもできない。「料亭政治」で未来を決めようというのか。この日以降は全く茶番の出来レースに過ぎない。橋本を打倒して、原発をとめよう。
「日の丸」条例を本会議で可決 尼崎市
6月26日、尼崎市議会本会議で「日の丸」強制条例が可決・成立した。
この条例は、市内の公共施設に日の丸を常時掲揚し、市式典でも掲揚するというもの。2月議会に突然出されたが、反対の声が短期間に大きく高まり、継続審議となっていた。
公明党が、「掲揚強制対象から学校をはずす」、「式典や行事を除外し建物だけ掲揚」という修正案を出していたが、6月18日の委員会審議では否決され、原案も否決。
委員会で否決された原案および公明党修正案が、なんと本会議に再提出され、公明党修正案が26日に可決・成立するという許しがたい結末を迎えた。
2月以来、反対運動をすすめてきた市民グループは、4月、中京大の大内裕和教授を招いての講演会に百人ちかくを集め、6月議会にあわせて、市役所に隣接する公園にテントを張り、条例成立阻止の大衆行動をねばり強く展開した。そして6月18日、総務消防委員会においては大量の傍聴・監視の中で、否決においこんだ。また、市民の〈条例制定反対の陳情〉が採択される事態となった。
各地で「日の丸条例」
このかん、大阪の橋下に続けとばかりに「日の丸」強制条例制定の攻撃が各地で強まっている。尼崎では公明党が助け船を出して成立させた。国会でも民主と自公が連携する大連立・翼賛政治が強まり、大阪市議会では維新と公明の連携が強まっている。
議会内取引を許さず大衆運動を強化し、来年6月の尼崎市議選で、保守・反動派を落選させ、大衆運動と連携する議員を作りだしていこう、という気運が強まっている。(M)
書評 佐藤昭夫著 国家的不当労働行為論U
―国鉄民営化による団結破壊との闘い
本書は、『国家的不当労働行為論U―国鉄民営化による団結破壊との闘い』として、この間の運動の総括を行ったものである。一読すればわかるが、本書の根底には国鉄闘争に一貫して関わってきた著者の熱い思いがある。
国鉄闘争は「初期の段階での組合間の対立があっただけではない。反対闘争継続をめぐって、国労自身も組織分裂に見舞われ」(同書「はじめに」)、さらに「闘争継続を選択した国労本部」自身が「闘争終結へと方針を転換し」、鉄建公団訴訟を提起した「闘う闘争団」への「統制処分や権力の弾圧」という信じがたいことも起こっていった。敵の激しい分断攻撃に対して、闘う側が如何に闘い、連帯できたのか、それを如何に克服するのかということが国鉄闘争に一貫して関わってきた著者の思いであると思う。
「闘いと連帯の基礎は何か」という問いに対する著者の答えは、同書の最後に述べられている。著者は「わたしはかつて、労働組合と政党との関係について―中略―政党の民主性が必要だと述べたことがある」が、それだけでは足りないということを今、実感しているという。それは「問題は政党側にあるだけでなく、政党員である組合員個人が自ら事実を知り、そして人間的信義を失わず、自主的判断をなしうるように育たなければ解決にならないだろうということを感じている」(同書365〜366ページ)という指摘である。
かつて指導的立場にいたが裏切りと転落を重ねた国労本部の指導部たち、また、中核派の分裂に起因する党派的介入を大衆闘争たる「5・27臨大闘争」裁判に持ち込んだ中核派指導部たちや「政党員である組合員」らはこの指摘をどのように受け止めるのだろうか。
中核派の誤り
本書は大和田幸治・港合同事務局長の通夜の翌日に郵送されてきた。私は「5・27臨大闘争」裁判の渦中にいた一人として、客観的にこの本を読むことは到底できなかった。この著書を読むと、「中核派の分裂と党派的介入に起因する困難」(同書「はじめに」)が裁判闘争と運動を、いかに致命的に阻害したのかをあらためて感じざるをえない。
この困難の中でもなおかつ闘いと連帯を貫いた著者や多くの人たちのことを考えると、私自身、中核派という党派の誤りから免れているわけではなく、一人の中核派として謝罪しなければならないと強く感じている。
本書はすべて事実に基づいて記載されている。本書の鋭さも説得力も事実に基づくものである。事実に基づく批判の大切さは、著者の師でもあり、日本の労働法の草分けでもある故野村平爾・早稲田大学教授の教えでもある。
本書に添付されている年表も重要である。通常、分割・民営化から始まる国鉄闘争は本書の年表では1983年の国鉄臨時雇用員解雇から始められている。
また、本書は新自由主義との闘いとして国鉄闘争を位置づけ、今後の新自由主義との闘いでも示唆を与えるものとなっている。この本に込められた著者の熱い思いをぜひ、多くの方々に受け止めていただければと思います。(米村泰輔)
〔悠々社 2012年3月刊 5000円+税〕
4面
直撃インタビュー(第16弾)
「あちこちに、ぶつかりながら生きてきた」
〈8・6ヒロシマ平和の夕べ〉を呼びかける
秋田明大(あけひろ)さん
「全共闘時代のことは、あまり話したくないよ。いまは自動車整備工、65歳のブルーカラーだから」という秋田明大さんにインタビューをお願いした。〔6月20日、広島県呉市音戸町にて。聞き手・『未来』編集委員会 M〕
秋田明大 (あきた・あけひろ) 1947年広島県音戸町(現・呉市音戸町)生まれ。現在、音戸町で自動車整備工。〈8・6ヒロシマ平和の夕べ〉呼びかけ人。本文にあるように、自身を「裏方ではなく脇役」と言う。1968年、日大闘争で日大全共闘議長。 |
――いまの暮らしのなかで思われていることを
東京から帰ってきて、大半を故郷の倉橋島で暮らしている。地域のつながり、自治というか、何かできないかなと考えたこともある。とは言っても、まず生活をどうするかが一番だったけど。
この辺りはミカン山もあるが、昔から海の民。近代になって九州の石炭を大阪、神戸に運ぶ中小型船に乗って働く人が多かった。柄はあまり良くなかったが、明るい人たちだった。いまのように新聞やテレビはなく、彼らがあちこちで見聞したことが地域にもたらされた。呼ばれ、寄り合い、もやいとか言われ闊達な会話があり、地域自治の元になるような意識がけっこうあった。意外とそれが「民主主義」だったのでは、と思う。いまはスーパーばかりで、井戸端会議もできない。
一昔前の田舎は、ある意味そういう自由があった。有力者が裏で決めても「気に入らん」と、けっきょく表に出てしまう。いまは行政が全部決めて降ろし、「はい、賛成の方は拍手」で決まってしまう。
そういう草の根の「民主主義」が長い間に疲弊し、「選挙で選ばれた者がやるのが民主主義だ」と、逆手に取られているのではないか。
島にいると、情報に閉ざされる。昔のように井戸端会議や寄り合い談義もない。一方で情報を握る者が支配し、巨大な利益をあげる。権力と資本に支配される巨大メディアに頼らず、自分たちの情報、人とのつながり、自から考えるということに戻らねばと思う。昔、鶴見俊輔さんが、そんなことを言っていたね。
私は、日大闘争でも上から目線でやってこなかったと思っている。しかし、いまの垂れ流しの情報に接していると、そういう目線に慣れて「上から」見てしまう恐ろしさを感じるよ。
――島へ帰る前は、どういうことを
68年に日大闘争、69年は拘置所にいた。そのあと、あまり何もできなかった。自分の限界を感じた。飯場を転々とし、仕事は左官のてご(手伝い=広島方言)だった。2年くらい、そんな生活。映画に出ろと誘われ、ストーリーも分からないアングラ映画にも出た。演技しろと言われてもね、何の素養もないんだ。
言い訳になるが、全共闘が終わってから、よく精神的にも追い込まれた。相談相手もいない。あちこちで飲んだくれ、食べる物もなくご飯に塩をかけて食べた。
全共闘から離れようとしたのとは違う気がする。むしろ引きずっていた。どんなに追い込まれても、その自分がいる。逃げたい、が、これだけは捨てられない。実体があるもんじゃないけど。そういう起伏のある状態が続いた。
それと現実との落差。一所懸命に自動車修理をやるんだけど、「ああ、これと日大闘争は全然つながらないな」と思ったり。負い目もあった。生活苦や精神的に追い込まれると、日大闘争が自分のなかに出てくるということは、いまもあるよ。
帰ってきたのは28歳のとき。親戚の小さな自動車修理工場を7、8年手伝い、船のエンジン修理を2年ほど。親父がミカン山に掘っ建て小屋を建ててくれ、自動車修理をやらんかと。二度結婚し、けっきょく二度とも別れた。いまは平凡というか、毎日の仕事、暮らしになっているけどね。
――「捨てられない」中味とは
私は、中味はあまりなかったね。暴力は許せない、不正、腐敗は許せないとか、そんなもの。しかし自分のすべてをかけた。私たちは戦争のあと学校時代を過ごした。高校時代もタバコは吸うわ、先生には怒られるわという悪がきだったが、「あの戦争は間違っていた。民主主義が大切だ。差別はいけない。人権は尊重されなければならない」という教育、時代だった。
ところが大学、日大に行ってみると、学生がちょっと自主的に映画会をやろうとかすると、もうめちゃくちゃな妨害というか弾圧というか。応援団、体育会が殴りこんでくる。殴られた方が処分される。これはいったい何だ、この大学は。中学、高校の方がよっぽどましだった。
人間が人間として生きようとすると、何かの力が襲いかかってくるように思った。当時は、「それは許せない」というだけだったが、いま思えば、人間として生かさせない何か見えない巨大な背景、闇があった。それは、いまも変わっていないなと思う。いまの社会、原発推進、あげくのはては取り返しのつかない大事故。それでも、まだ当たり前のようにやろうとする。当時よりも、もっと酷い面があるように思うよ。
――これからは
これからは、何にもないね。ひっかかっていることはあるが、まとまりがつかない。やったという事実はある。過去のことだけど。やったと言っても、まあ集会やデモくらいだけど。これから、蓄えもないし、65歳のブルーカラーとして生きていかなければならない。それが、いまの自分。
いまの世代を見ていると、例えは悪いがエリートにはなってほしくないな。みんな個性を持って生きてほしいね。
――「被爆2世だった」と聞きました
父親も母親も直接被爆ではないけど、祖父母が広島にいたから直後に安否を尋ねて入市した。しかし親父、お袋から聞いたことがない。話す人もいるが、あれだけの様子を見た人が言わないという気持ちは分かる気がする。
近くのおばあさんが20歳くらいのとき、原爆の直後に島から小舟で広島に行った。80歳になったころ、「死体を踏まずに歩くのがやっとだった」という地獄のような体験談を、地域の瓦版にびっしり書いた。ようやく話そうという気持ち、心の整理がついたのか。
それまでは一切語らず、最近亡くなった。その体験は、その人の人生観を変えたのではと思った。聞いてみたかったが、もう聞けない。
――〈8・6ヒロシマ平和の夕べ〉を呼びかけています
平凡な暮らしのなかでも、何かできることはしなければと思っていたら、河野美代子さんたちに誘われた。(呼びかけ人を50音順に掲載すると)私は「あ」だから一番目に「自動車整備工」と出てしまう。呼びかけ人のなかでは、私がいちばん不出来だね。
戦争にも核にも、もちろん反対だ。過去の名前を使われるのは嫌だけど、脇役としてできることはやる。5、6年前に、伯父さんが癌で死んだ。原爆と関係あるのかどうか、分からない。そう思うと被爆というのは悲しい、辛いことだ。
出来上がった運動よりも、不出来のものを拡げていきたい、それが「継承と連帯」をかかげる〈8・6平和の夕べ〉に、いま参加する私の思い…。
――「広島が原爆のことだけ言うのは、どうか」 と言われたことがありました
原爆は悪い。戦争は、もちろんよくない。しかし、どういう歴史があり日本がどういう道を辿って原爆が投下されたのか。日本が中国、朝鮮、アジアでおこなった戦争。それぬきに「原爆は恐ろしい」と言うのでは、けっきょく原爆をなくせないのではないか。
ベトナム戦争のときの枯葉剤や、イラクでの劣化ウラン弾、そういうことも広島・長崎が発信しなければならないのでは。
広島は戦後、「平和都市」と言われてきた。同時に広島の政治風土は、ずっと保守王国。呉は、広島との違和感がすごい。広島と呉はすぐ隣、電車で30分余り。JRのトンネルを抜けると風景は一変するでしょうが。すぐ目の前に戦艦大和をつくった造船所があり、大砲が展示された大和記念館までつくってしまった。居並ぶ軍艦、潜水艦、米軍埠頭もある。軍事都市そのものだ。米軍が戦後も軍港として使用するため、「呉には原爆を落とさなかった」という人もいるくらいよ。
――8・6呼びかけ人事務局が、伊方原発のフィールドワーク・集会に参加されました
いまの原発問題も原爆と同じだから、被爆と被曝の問題をもう一度、自分たちの問題として考えてみたい。
巨大な原発施設を見た。雇用もそれなりにあるということだった。しかし、道路や箱物は立派になっても、根本的に地域の将来には結びつかないように感じた。交付金財政でとりあえずは何とかなる、その繰り返しであっていいのかなあと。一部が潤い、大多数が救われないという、いまの日本の縮図というか原型を見たように思う。
原子炉、核燃料の危険と同時に、あれは巨大な配管の集合体だ、と説明を聞いた。何かあったときには、かならず壊れる、と。核と原子力は、人間がつくった「神」ではなくサタンだろう。放射能廃棄物も含め、到底人間が制御できない。
広島、長崎、ビキニを体験し、今回再び三度、どうしようもなく危険だということが分かった。やっぱり「やめる」という決断をしなければ。
私は、真面目にやったのは日大闘争だけ(笑い)。いまは、毎日の生活のなかから考えやっていくしかないけどね。
〔後記〕秋田さんは放浪時代、誘われてアングラ映画に出た。悠木千帆、鰐淵晴子らと共演。「鰐淵さんとラブシーンもあったらしいじゃないですか」と伺うと、「ない、ない、それは。共演はしたけど」と、日焼けした顔を赤らめた。
元日大全共闘議長というよりも、いま生きる秋田さんを聞きたかったと言いながら、それは地下水のように噴き出す。「あちこちぶつかりながら生きてきた」という45年。自身を「無思想だったね」と笑いながら朴訥に、しかし明確に語った。秋田さんらしい語感を、文字に表現できなかったことが残念。(M)
5面
「障害者総合支援法」成立
「決してあきらめない」闘いを
6月20日、参議院で「障害者総合支援法」(=「障害者自立支援法」の改定)が可決・成立した〔本紙前号既報〕。障がい者制度改革推進会議の総合福祉部会がまとめた「骨格提言」をことごとく無視し、自立支援法の問題点をそのままにしたものだ。自立支援法違憲訴訟で国が合意した約束(自立支援法の廃止)を反故にするもので、絶対に許せない。
ひどい委員会審議
6月19日、参院厚労委員会でこの法案の審議がおこなわれた。連日国会前に集まった多くの「障害者」が傍聴・抗議した。
この4月から改定された自立支援法に「一割負担」が残されている(今回の改定でもそのまま)ことへの運動からの批判について、民主党の大島は、一割負担は残っているけど、ちゃんと説明すればわかってもらえる、客観的に報道しないマスコミが悪い、といった趣旨の発言。これには傍聴席から多くの野次が飛んだ。
自民党の衛藤(11年7月の「障害者基本法」改定についての内閣委員会で、「障害者」が権利を主張することに疑問を呈した議員〔本紙87号で既報〕)は、「障害者政策委員会」(※「障がい者制度改革推進会議」は今年3月に終了し、この委員会に引き継がれた。改定「障害者基本法」に定められた委員会。)の人選について、委員の中に「障害者総合支援法」に公然と反対運動している人も多く含まれているから公正中立ではない、「障害者政策委員会」の下の差別禁止部会で差別禁止法について審議することはけしからん、といった暴論を展開。
また、民主・自民・公明の法案提出者にたいして、自立支援法違憲訴訟の「基本合意文書」(自立支援法の廃止を明記し、当時の長妻厚労相が署名捺印)と、昨年8月に出された(総合福祉法の)「骨格提言」についてどう受け止めているのかと、みんなの党の川田議員が質問した。これに自民党の田村は、「当事者じゃないものですから、お答えしようがない」と発言。そもそも違憲訴訟は、自立支援法をつくった自民党政権を相手取って始まった訴訟だ。それを「当事者でない」とはどういうことか。
今回の自立支援法改定には「3年後の見直し」規定があるが、前記の委員会審議を見ても、運動の力が弱ければ、政府・厚労省に押し切られてしまう。
法案成立後も、各地の自治体で「骨格提言」を反映した新制度を求める決議があがり、同趣旨の集会も、各地でよびかけられている。「決してあきらめない」、これが「障害者」を先頭とした人びとの思いだ。こうした運動のエネルギーを発展させ、自立支援法を廃止し、「障害者」が人間らしく生きられる新制度をかちとる大きな闘いを絶対につくりだそう。
投稿 「尊厳死」法制化をとめよう
7月3日、「高齢者やALS(筋萎縮性側索硬化症)患者が安心して日常生活を送るために」と題する「尊厳死」問題のシンポジウムが都内でひらかれた。東京弁護士会が主催。
基調講演をした橋本操さん(30代にALSとなり、人工呼吸器と経管栄養で20年以上元気に生活されている)の、次の言葉は衝撃的だった。「私は22年、『終末期』を生きています。経管栄養になってから21年です」。
「終末期」とは何なのか、これが後半のディスカッションでも大きなテーマとなった。
「尊厳死」法制化賛成の立場である日本尊厳死協会常務理事の長尾和宏医師は、「末期とは、死んでからはじめて、あの時が末期だったと判るものである」などと言い出し、会場がどよめいた。
これほど不明確な概念を法律に持ち込み、二人の医師に判断させようというのだ。医師の考え方で、大きな違いが出てくるし、「終末期」は医療を施さなくても良いという考え方が、法律の後ろ盾を持って横行する。
信頼関係で意識かわる
在宅医療をしている佐々木医師は、診療を進めていくと、人工呼吸器や経管栄養についての患者の受け入れの態度が変わることを指摘した。治療の初期に意見を聞いた時には、人工呼吸器や経管栄養を使わないと言っていた患者の中で、診療を進めていくと、人工呼吸器などを使うという意志を表明する人が増えてくる、というデータを出していた。医療者や介護関係者との信頼関係がこうした気持ちに大きな影響を与えると言う。
佐々木医師は、「尊厳死」法制化は必要ない、医師と家族、本人が話し合って決めていけばいい、という立場。そうしたやり方で「尊厳死」は実際に行われているし、いまさらなぜ法律を必要とするのか、と発言。もし法制化をするのであれば〈尊厳死法〉ではなくて、インフォームドコンセントを実効あるものにするための法律を作るべきだ、と主張した。
「死ぬべき命」つくる
これに対して、「尊厳死協会」の長尾医師は、「日本では医師が人口呼吸器などをつけなくてはいけない雰囲気があるから、やはり法律は必要だ」と発言。しかし、このような主張は、「日本尊厳死協会」以外から聞いたことはない。私自身の経験としても、どのような処置をするかについて、医師は患者や家族の意向を聞いていたし、拒否することも希望することもできたのが実際だった。
〈尊厳死法〉とは、いのちのきりすてを進め、「死ぬべき命」を作り出すものだ。
国会が延長された中で、「尊厳死」法制化の動きが進む可能性がでてきた。法案が提出されれば、可決成立する情勢だ。絶対に阻止していこう。(K)
投稿 福島の子らに負わさ
れた重荷を15万人でかついだ 6・29 首相官邸前
首相官邸へ押し寄せる(6月29日 野田雅也氏〔JVJA〕撮影) |
午後5時半、地下鉄霞ヶ関駅で降り、経産省前テントに寄ってから官邸前へ向かった。経産省前テントは撮影スッポトと化しており、何組ものカップルやグループがここで記念撮影をしてから官邸方向へ向かっていた。
霞ヶ関交差点まで来るとすでに長い行列ができており、誘導係ボランティアが「ここが最後尾です。ここより前からは入れません」と言っている。列に並んで待つことに。国会議事堂前駅方面からは、列の後ろにつくために途切れなく人が歩いてくる。最後尾は角を曲がって見えなくなった。上空では早くも取材ヘリが飛び交っている。
6時10分くらいに行列が動き出し、コールが始まった。国会議事堂前駅方面から来る人たちも「再稼働反対」と言いながら、私たちの列と交差する。すでに歩道は一杯で車道を歩いている。紫陽花の花で一杯のバスケットを頭の上に掲げた人もいるし、なぜか獅子舞までいる。車道の向こう側の国会前の歩道も人で一杯だ。みんなゆっくり歩いているのだが、人が多いので道全体がまるでフランスデモのように揺らいで見える。
こっちへ行く人、あっちへ行く人、立ち止まっている人、何万人いるのか見当もつかない人々が、声を上げている。ふと、保養キャンプで出逢った福島の子どもの顔が脳裏をよぎり、涙目になってしまった。あの子たちに背負わされた重荷は、ここにいるみんなでかついでいるのだ。団体の旗も、団結という言葉も、ここにはないし、腕を組んだりすることもない。けれど、もっと自由でもっと深い共感が「再稼働反対」の声に込められている。 「デモではないので前は詰まっています。ここで止まってください」と誘導係が言っているが、誰もが官邸前へ行きたい思いで自然と進んでいく。信号機に「総理官邸前」のプレートがかかっているが、人だらけで官邸は見えない。もう車道はすべて埋まってしまっている。警察の阻止を突破して車道へ出たとかいうのではなく、自然に人があふれていく。そもそも警官はほとんどいない。もう人が多くて、何が何だかわからない。花火大会のような混雑だが、暑苦しくはあっても押しつぶされるような恐怖は全くない。
予定より早く7時40分に終了のアナウンスが流れた。人が動き出してようやく最前列のあたりへ行けた。
名残惜しげな雰囲気のなか、皆ゆっくりと駅へ向かい、警官は遮断していた車道を開けて車を通しはじめた。
再稼働してもしなくても、また来週人々は集まるだろう。祭り=政(まつりごと)を自分たちの手でおこなうために。(宮崎あられ)
投稿 「成田のようになるな」から
「三里塚とともに闘おう」へ
三里塚沖縄集会(6月22日、那覇市内)に行ってきました。
私は三里塚の勝利を願う者として、そして沖縄に基地を押し付けているヤマトの一人として、一日も早い基地撤去を、という思いで参加しました。
「基地も原発も国の言うことはみんなウソだ。三里塚でも同じ」と、第3誘導路建設とペテン的な裁判への怒りと闘いを力強く報告した反対同盟・市東孝雄さんに応え、沖縄の運動を担っている人たちから熱い発言が続きました。
反対同盟・萩原富夫さんも、「三里塚を飛び出して沖縄の運動に触れ、刺激を受けた」と発言しました。
先日アメリカ本土でも事故を起こしたオスプレイ。「(オスプレイ配備は)普天間だけのことではない、沖縄全体にばらまかれる」という発言に、沖縄が強制されている現実の厳しさをひしひしと感じました。日米両政府に対する怒り、早く基地を撤去しなければという思いがふつふつと沸いてきました。
沖縄―福島―三里塚
集会のあと交流会に行く途中、10年余り大木よねさんのところで闘った沖縄の女性が、「これからは堂々と三里塚のことを言っても構わないね?」「そうさ」と集会の成功を確信したような言葉を聞き、「これまではなぜ堂々と言えなかったのかな」と疑問に思い尋ねてみました。聞いてみて、「オール沖縄で闘おう」という発言があったけど、簡単なことではないと思いました。
福島からも参加があり、メッセージも寄せられ、差別され理不尽を押し付けられている、怒りにうち震える沖縄―福島―三里塚が、社会を変えていく闘うラインがつながったと思いました。
沖縄で三里塚集会が開催されるということは、三里塚闘争が一歩広がったということで、すごく大切なことです。「成田のようになっていいのか」ではなく、「三里塚とともに闘おうよ」と、のろしが上がったのではないでしょうか。
高江の座り込みを訪ねて話を聞きました。その人は、「コザ暴動(1970年12月)のようなことしないと分からないのかね、と思う。そのうち日本でも起こりますよ」と言っていました。
辺野古の近くの民宿に泊まったのですが、朝8時すぎには裏山でひっきりなしにバラバラバラバラッと銃声がしていました。キャンプシュワブだそうです。これが沖縄なのだと痛感しました。(G)
6面
息子よ 原発作業員の母は訴える(上)
木田節子さん、58歳。
福島第二原発がある富岡町で暮らしていた。息子さんは原発作業員として働いている。第一原発事故後、警戒区域に指定されたため、家に帰ることができず、茨城県水戸市で避難生活を送る。
木田さんは、家と故郷を失ったショックと避難生活の中で、引きこもりになっていた。その木田さんが、ひとつの講演をきっかけに、「原発は間違い」と確信し、再稼働に反対する行動を始めた。つい5カ月ほど前のことだ。
帰れなくなっている故郷への強い思い、原発の是非をめぐって意見の合わない息子さんとの葛藤、いままで真実を知らされてこなかったことへの悔しさ。原発立地地域から、声をあげ始めた人の言葉は、聞く者の心を揺さぶる。【6月30日〜7月1日、いわき市内でおこなわれた「ふくしまフォーラム」での木田さんの発言と、木田さんへの取材でうかがったお話を、本紙の責任で整理・編集した】
家も故郷も失って
岩手から嫁に来ました。34年前です。最初は原町(現在の南相馬市原町区)に住みました。その後、夫の転勤でいわき市に移り、それから富岡に家を建てました。それが、20年前。20年間住んだ家は、いま警戒区域になっています。
夫の勤務が水戸で、夫と私と娘は、水戸に避難して、昨年4月から会社の社宅に入りました。息子は、富岡から、川内村、三春町、磐梯熱海、そして原発繋がりで柏崎まで避難しました。
震災のとき、私は東京にいた娘のアパートに来ていて、富岡の家にいませんでした。地震の後も風呂に入ったし、ご飯も普通に食べていました。だから、なんか自分ばかりが、安全なところにいて、避難場所を転々とした夫や息子に申し訳ない。「あのときになんで富岡にいなかったんだろう」と、ずっと後悔をしています。
岩手県の釜石に親戚がいますから、親戚もたくさん亡くなっているだろうと思いまし
「ああ、うちは家族4人、何とか命があるんだから、家はもうあきらめるしかないかな」とも思うようにしました。
夢の中で
それで、何とか前に進もうと思って、宮城県でガレキ撤去のボランティアに、夫と参加してみたり、いろいろなことに挑戦してみました。だけどやっぱり、何かね、できないんですよね。長続きしない。
夜、布団の中で目を閉じると、「ああ、家に帰りたいなあ」と思って、そのうち、妄想の中で、車を運転するんです。
避難している水戸から富岡までは遠いんです。いわき中央インターまで高速で行って、それから慣れ親しんだ6号線を走ると、四倉港が右手に見える。次に、お仲人さんが住んでいる久之浜の街。津波に流された光景が右手に見える。そして、広野から楢葉に向かう途中に焼き餅屋さんがあって、「お世話になったな」とか。それからトンネルと坂を越えて、富岡の街に入って、自分の家の玄関に着いた。
そしたら、鍵を忘れたことに気づくんですね。
でも、幽体離脱というか、入れるんじゃないかと思って、すっと入ったら、入れた。夢の中ですから。1階から2階と、グルグルとさまよい歩いて、息子の部屋を見て、「いま息子はどこにいるんだろうか」とか考えているうちに、ふと目を開けると、そこには、避難している水戸の家の天井がありました。
涙が出て仕方がありませんでした。そんなことが続いて、引きこもりになっていたんです。
反省と悔しさ
知らないことが多すぎたのです、本当に。都会の人も、原発のことを知らなかった。申し訳ありませんが、私も、富岡に20年住んでいて、知りませんでした。
バスガイドをしていましたので、東電の仕事でバスに乗務すれば、おべんちゃらもいいます。ただ、いろんな疑問は持ったりしていました。
六ヶ所村(青森県)にもガイドで行きました。先祖代々の土地を二束三文で売ってしまい、入ったお金も使ってしまって、最後は家族は離散。そういう人の話もあるんです。六ヶ所村の人たちがみんなものすごいお金持ちと思われていますが、そうとは限らない。ガイドでいったとき、乗客にそんな話もしてきました。
でも、自分が住んでいる富岡近辺の原発については、考えることはなかった。申し訳ないという気持ちです。
震災以降ずっと引きこもっていましたが、その間、広瀬隆さんや鎌田慧さんや小出助教の本などをたくさん読みました。
そんなとき、今年2月、避難先の水戸から16キロのところにある東海第二原発を再稼働させようという動きが始まっていたんですね。
娘が「行ってみたら」というので、2月12日、東海村の村長さんの講演を聴き、福島大学の先生のお話を聞きました。
それからです。「あなたは、あなたの大切な夫、息子に、原発で働けと言えますか。私は言えません。原発作業員の母より」と書いたプラカードを掲げて、デモに参加したりするようになりました。いまは、首相官邸前でマイクなんかもったりしています。大飯町(福井県)にも、福島の女性たちと訴えに行ってきました。
息子は原発作業員
私の息子は、いま30歳。原発の作業に入ったのは19歳から。もう10年です。息子は現在、福島第二原発の近くに事務所のある原発関連会社に勤めています。そこに勤めて2年です。
その前は、4次請けか5次請けの会社です。時々、息子の部屋の掃除をしているときに給料明細が出てきたんですけど、8年間勤めて、28歳なのに給料は17万円ぐらいでしたね。
その後、最初の会社を辞めてから、源泉徴収票が送られて来ました。それを見た息子が「俺、ボーナスなんかもらってないのに、ここに8万円って書いてある」って。そういうもんなんですね。
もう少し給料のいいところをということで、今の会社に移りました。その会社は、勤めて2か月で、ボーナス10万円をもらいました。給料も、そこそこになったのではないかなと思います。
やっと止まった
息子から、原発のことをいろいろ聞きました。
一昨年、「トラブル発生で、今日は帰れません」ってメールが来ました。翌日、帰ってきたとき、「どうしたの?」ってきいたら、「いやあ、危なかったよ。やっと止まった」って。原発が「危なかった」とか、「やっと止まった」ってどういうことですか。
それから、原子炉の中に、ペンチだとか、何かが落ちるそうですね。東電の社員に、「水の中にあんなにいろいろ落ちていて、いいんですか?」っていったら、「余計なことを言うな」って、怒られたそうです。
そして、そういった落ちたものを、人間が拾ってくるんですって。「どんな格好して入るの?」って聞いたら、「潜水夫みたいな恰好。一人では被れない鉛の帽子で。それから何十キロもある鉛のスーツを着て。そうやってあの高線量の(原子炉水の)中に入る」って。日本人は(線量が高すぎて、法律上)できないので、外国人が日本に来て、一回潜っただけで100万とか200万円とかと稼いでいくそうです。(つづく)
夏期特別カンパへのご協力をお願いします
野田政権は原発再稼働、消費増税など極反動の道を進んでいます。しかし彼らの支配体制は、二大政党(民主・自民)の支持率があわせても30%以下という危機に至っています。
いまや再稼働をめぐる問題は、全原発の廃炉=資本主義社会の打倒までつきすすむ課題となりました。私たちは、この闘いのなかで、新たな共産主義運動の展望をつくりだすべく奮闘しています。
夏期特別カンパをお願いします。
《カンパ送り先》
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